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アリビア帝国編 Ⅱ
ちんちんは国家なり
しおりを挟む『骸の家』と言えば、誰もが震え上がるような、かなり悪質な海賊団らしい。
リンファオは海のことには疎いので知らなかったが、アリビア帝国の領海内で商船を襲うあたり、相当ふてぶてしい連中なのだろうと思う。
この近海の商船は武装商船だったり、水軍の護衛艦隊つきだったりするからだ。
皇帝はこれに怒り狂い、海賊討伐には官民問わず、莫大な懸賞金を約束している。
「相手の居所が分かっていれば、うぬを派遣するんだがな」
久々に顔を合わせた皇帝は、忌々しそうに吐き捨てた。
近海で暴れられたのが相当気に入らないらしい。
ここ数年一人歩きしてしまって鼻についてはいるが、皇帝自らが作り上げた自慢の常備艦隊を、まるきり恐れてない所業だからだ。
「せっかく英雄殿が帰還するというのに、ご褒美を渡してやることも出来なくなった」
リンファオは跪いて頭を下げていたが、彼の言葉の意味が分からず顔を上げた。
「ご褒美、ですか?」
「あの女のことよ。アーヴァイン・ヘルツが愛してやまなかった、妻のナターリア。あの男の唯一の弱みだ」
そう、あの美しく気高いナターリアは、外輪客船での周遊中、海賊団に襲われて海の藻屑となった。
『骸の家』は、襲った船の乗組員を皆殺しにすることで有名だ。
「あの女に、余の黄金の血を持つ子を授けてやった。それに気づいた時の、英雄の顔を見てみたかったものよのう」
リンファオは愕然とした。理解できない。
皇族の黄金の血など、誰がありがたがるのか。本気でそう思っているならメンヘラ、嫌がらせなら、鬼畜の所業である。
暴君を通り越している……。
潔癖で効率を重んじる名君のはすが、まるで精神異常者だ。
「アーヴァイン・ヘルツをどうしたいのですか? 殺して欲しくて私を呼んだのですか?」
リンファオはドン引きしながらも、平静を装って尋ねた。
そこまでのことをするからには、よほどその男を嫌いなのだろう。
人質をとっていたということは、力を恐れているということだ。
だがその人質がいなくなった今、彼を制御するのは難しい。解き放たれた虎、ということになる。
だから、刺客である自分の出番なのだろう。そう思ったのだ。
「まあ待て。あの男の出方によるな。殺す口実が欲しかったというよりは、余に敵対する者かどうか見極めたかった。末恐ろしい男だが、殺すのは惜しい。たかが女一人の恨みが勝って、神である余を排除しようとするなら、その時は
、うぬに始末させる」
リンファオはキリッと唇を噛んだ。
愛妻をひどい目に遭わせれば、そこに叛意が生まれるではないか。なぜわざと煽ろうとするのだろう。
水軍の謀反を警戒するなら、敢えて揺さぶりをかける真似をしなければいいのに。
陸軍の士官に襲われたとき、助けてくれたのは水軍だったというではないか。
(もしかして……それが屈辱だったのだろうか)
しかしそれでは個人を攻撃する理由にはならない。邪魔なら殺せばいい。わざわざいたぶるなんて……。
その残虐な行為のせいで、親族や取り巻きの貴族たちですら、ニコロスを憎悪し始めている。
自分の立場を危うくしているのは、ほかならぬ皇帝自身だ。
この男が、自滅の道を選んでいるように見えた。
リンファオの包帯の中身が、困惑と嫌悪に歪んでいることを知ってか知らずか、ニコロスは軽い調子で言った。
「余は神であり、国家そのもの」
海神には金の血が流れているらしい。だから自分にも流れている、ニコロスはよくそう宣う。リンファオのような化け物でも、血は赤いというのに。
「……はい」
「過去、北方の大陸で迫害されたフラウェールの民を、ミハイロヴィッチの祖がここに先導した。民族の大移動により、この大陸になりそこねた巨大な島を手に入れたのだ」
「土蜘蛛と……似ていますね」
「うぬらがあの島に住んでおられるのは、歴代の皇帝の温情からよ」
リンファオの包帯で覆われた顔を、じっと見つめる。ケロイドが消えていることに気づかれないか、冷や冷やした。
「余の為すことは、自然災害と同じであるのよ。余は神ぞ。神の起こす禍を憂い、神に唾棄すべき臣民など余はいらぬ」
リンファオはごくっと唾を飲み込んだ。完全にイっちゃってる。
内心そう思ったが、悟られないように深く頭を垂れる。
災厄の権現のような者が、権力を持っている。
破壊神? 暗黒大魔人?
もう、どう表現したらいいか分からないが、この男は、もう死ぬべきだ……。
今、この男を殺せないか?
土蜘蛛の護衛はいないし、皇帝はリンファオの間合いに入っている。
神剣を一閃させ、シャオリーたちを連れて逃げれば──。
皇帝は、まるで心の中まで見透かすように琥珀の瞳を光らせ、しばらく黙ってリンファオを見ていた。
「余がどんな形であれ害されることがあれば、うぬの家族のことは護衛と里に知らされる」
心を読んでいるのではないだろうな? つつ、と冷や汗が首筋を伝った。
まあ、それくらいの保険はかけてるだろうと踏んではいたが。
「余が病で倒れようと、だ。せいぜい、余の息災を祈っておれ」
リンファオは頭を垂れたまま、身動き出来なかった。ニコロスの口調が変わった。
「そうそう、面白いものを見せてやろう」
皇帝は立ち上がって、リンファオを促す。
そのまま、翡翠館の裏庭に連れて行った。ちらと振り返ったその目が笑っている。残酷な色を浮かべたまま。
リンファオは不安に苛まれた。
「余は、ここでの出来事は逐一報告を受けておる。その中に、うぬの興味を引きそうな話があったのだ。いつもこのくらいの時間らしいのだが。……ほら、出てきたぞ」
ニコロスが指を指すと、夫ヘンリーとロクサーヌだ。
ヘンリーは毛布を担ぎ、ロクサーヌは銀のお盆に湯気の立つポットとカップを並べたものを両手で持っている。
おそらく、シャオリーが昼寝に入ったので、二人でお茶をしに出てきたのだろう。
もうすぐ五歳になるシャオリーだが、未だにお昼寝が大好きだとロクサーヌから聞いた。
二人は木陰に座り込むとお茶を飲み、しばらく見つめ合って話をしていた。
嫌な予感とともに見守る。
ニコロスは従者が何事か耳打ちすると、その場を去っていった。
基本忙しい身の上なので、何か目的が無い限り、自分で翡翠宮を訪れることはない。
政務を執る琥珀宮からも、寝起きする後宮からもこの宮殿は距離がある。しかも土蜘蛛の護衛無しでの移動となると、騎士団を引き連れての厳重警備を必要とし、めんどうなことになる。
古代の騎士たちのガチャンガチャンという騒音に囲まれながら帰っていくニコロス。その後ろ姿を見ながら眉を顰めた。
殺しを命じるわけでもないのに……。
もしかして、この場を見せるためにわざわざ訪れたのだろうか。
リンファオの不安は的中した。
突然、二人は口づけを始めたではないか。
しかも濃厚なやつだ。
なるほど。誰から聞いたのか知らないが、あの男は二人がこうなっていることを既に知っていた。
それでリンファオに見せつけたかったのだ。
アーヴァイン・ヘルツのことだってそう。皇帝は、仲のいい夫婦を引き裂くのが趣味に違いない。
呆然と見守るリンファオの前で、ついには抱き合い木陰に倒れこむ。このまま、おっぱじめる気らしい。
頭が真っ白になった。こんなの見たくない。
思わず飛び出していた。
突然人の気配がしたので、二人はパッと離れた。
ロクサーヌの肩は半分むき出しである。ヘンリーの服を脱がす手際がよくなっていることに、ショックを受けた。あの童貞オタクが!!
ヘンリーもロクサーヌも顔が真っ赤になっている。包帯だらけの奇妙な格好の少女に、必死に言い訳をする。
「いや、子供がね、ちょうど昼寝をしてね。中で愛の営みをするとほら、起きちゃうかもしれないじゃないか。ロクサーヌは声が大きいから」
「ヘンリー!」
ロクサーヌは真っ赤になって、ヘンリーの口を塞ぐ。
気まずそうにリンファオを見た。
「リンファオさん、ちょっとよろしいかしら」
リンファオは青い顔でついていった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ヘンリーを責めないでください。あの方は、シャオリーの母親を、私だと思い込んでいます。私は妻であり、シャオリーの母。やっていることに罪の意識など無いのです」
「分かって……います」
ロクサーヌの言葉にうなだれる。
きっと悪鬼の形相をしていたのだろう。包帯で隠れていて良かった。
ロクサーヌは、おずおずとその顔を覗き込む。
あの皇帝の瞳の色と同じなのに、顔立ちは平凡だし態度は怯えたネズミのようだ。
ヘンリーはこんな女でもいいのか。
ほとんどの女が、自分より醜い顔をしているのは知っている。だって私は永遠の美少女だもの。
少しでもニコロスに似ていたら、少しは綺麗だったんじゃない? そう言ってやりたかった。
そう思ってから罪の意識にとらわれる。
ヘンリーは……エドワードは、美醜で自分を選んだわけではない。いや、もしかして美醜だったのかな?
よく考えたら、ほかに取り柄とか無いし。こんな母性溢れるロクサーヌみたいな──。
「あなたが良き妻、良き母を務めてくれていることは忘れていません」
そう告げたリンファオの肩は震えている。
理性では分かっているのに、感情が許せない。ロクサーヌに触って欲しくない。自分だけを愛して欲しい。
ヘンリーもシャオリーも、私だけのものなのに。
「覚えてないのです」
ロクサーヌは辛抱強く言った。優しげな瞳でリンファオを見る。そして少し躊躇ってから、もう一度言う。
「覚えてないのですよ、あなたのことを。シャオリーも、私を母だと思っています」
口調の変化に気づき、リンファオは顔を上げた。ロクサーヌの目にあるのは、苛立たしげな光。
「あなたは陛下に囚われた。もう、ヘンリーの妻に、シャオリーの母に、戻ることはできないのです。だから──」
ロクサーヌの瞳が揺れる。
「あなたももう、お忘れなさい」
リンファオは驚いて、まじまじとロクサーヌを見つめた。
ロクサーヌの琥珀の瞳の奥にあるのは、明らかな嫉妬だった。
必死で抑えようとしているが、憎しみすら吹き出している。
「あなたは……」
かすれた声で、リンファオが問いかける。ロクサーヌは横を向いた。
「そうよ、私も、彼を……愛してしまった。あんなに優しい人はいない。わたくしは、ヘンリーとシャオリーの本当の家族になりたい。だから、陛下にお願いしました。正式に籍を入れたいと」
言葉に詰まって、何も言えない。
「リンファオさんは既に死亡しているのです。そもそも偽名で入れた籍。無かったも同然です。それに私のほうが、あなたたちの結婚生活よりも長く彼の傍にいる」
最後の方は、吐き捨てるような口調になっていた。
そうだ、何年もこの人はヘンリーの妻の代わりをしてきた。
皇帝の命令だったとは言え、好きになってもおかしくない。
「お願い、あなたは……諦めてください」
「だけどシャオリーだって──」
「シャオリーも、私のほうが長く育てていますっ!」
リンファオの、血を吐くような叫びをロクサーヌは遮った。
「あなたが顔を見せたら、混乱する。もう近づかないで。あなたはあの二人の命を守ることだけ、お考えなさいっ」
そう言うと、リンファオの手を見下ろした。おぞましい物を見るような目で。
「陛下の刺客をしているそうね」
ロクサーヌの言葉にリンファオはビクッとなった。
そんな極秘情報まで知ってるのか、この人は。リンファオは黙っていた。
ロクサーヌの言葉がその耳に響く。
「その人殺しの手で、シャオリーを抱けると思っているの?」
ロクサーヌは吐き捨てると顔を背け、ヘンリーの元に走っていった。
あとには、途方にくれたリンファオがポツンと残された。
両手を広げ、見下ろした。
──その手は確かに、血に染まっているように見えた。
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