77 / 98
アリビア帝国編 Ⅱ
ニコロス
しおりを挟む耳元で、誰かが大騒ぎしている。
ぎゃあぎゃあうるさいな。リンファオは思った。
まだ寝ていたいのだ。出来るなら、このままずっと。
「マンマ、マンマ」
リンファオはぱっちりと目を覚ました。授乳期間で培われた技。シャオリーの泣き声には敏感に反応する。
ガバッと起き上が──れなかった。
身体が硬直している。どうやら頭のてっぺんからつま先まで、包帯でぐるぐる巻にされているのだ。まるでミイラだ。
「シャ、シャオリー」
「ああ、気づかれましたかのう」
白衣の老人が椅子から立ち上がる。ベッドの端にしがみついているシャオリーをひょいと抱いて、リンファオから見える位置においてくれた。
「全身火傷で、ずっと意識が無かったんですよ。まさか助かるとはね」
「夫は!?」
リンファオは全てを思い出して叫んだが、喉が焼けるように痛み、咳でうまく声が出なかった。それでもしゃがれ声を振り絞る。
「ヘンリーは!?」
「無事ですよ」
どうやらこの老人は医者らしい。ラムリム市の医者と雰囲気はだいぶ違うが、消毒の匂いが染み付いている。
「でっかい番犬があなたたち二人を担いで、火事場から出てきたそうです」
「怪我は──」
「君が一番酷かったみたいだよ。もう一人の若者は多少火傷してたようだけど、痕にもならない程度だそうだ。担当医が首をかしげとったがの」
外気功が間に合ったんだ! リンファオはほっとした。
「あの事故の日は風が強くて、開発棟や医療施設にまで飛び火したようだ。重症者は街の医院で応急処置だけされて、設備の整えられた帝都病院に搬送された──あ、ちょっと待って」
医者はノックの音を聞いて、シャオリーを抱っこしたまま扉に向かった。
そこでリンファオは、自分がものすごく豪華な部屋に寝かされていることに気づいた。
四柱式ベッドもやたらでかいし──四人くらい寝られそう──どうやら羽毛の布団だ。
天井には美しい装飾が施されている。
ふと窓を見ると、見たこともないほど薄いガラスが貼られていた。
調度類は縁に金が施された白い家具で統一されている。
あきらかに、病院では無い──いや、病院って行ったことない。これが普通なのか?
「これは、陛下」
医者の狼狽した声。リンファオは一瞬聞き間違えたかと思った。
「子供を連れて下がれ。誰も近づけるなよ」
ぞくりと背中を這う、聞き覚えのある声。リンファオは震えあがりながら、目だけ声の主に向けた。
ああ、見間違うはずがない。短期間だが、警護対象だったのだから。
(なぜ、彼が……)
ニコロス四世が一人でいるのを初めて見た。いつも周囲にかしずかれ──そうだ、土蜘蛛は!? リンファオは恐怖に固まり、周囲を探った。
気配が分からない。これほどの怪我をしているのだから、気力がにぶっているのだろうか。
「安心しろ。おまえの一族の者たちは、一時的に琥珀宮に残してきた。ここは後宮の別館。うぬだけ病院から移動させた」
リンファオはビクッとなる。え? 正体がバレている? ニコロスは笑った。
「その反応か。やはりおまえが、死んだとされていた土蜘蛛なのだな」
かまをかけられた。凍りついたまま、どうすることもできずに様子を伺う。
ニコロスもじっと黙っている。ひたとミイラ姿の患者を見据えたまま。
やっと口を開いたときは、どこかぼんやりした口調になっていた。
「開発特区の事故は、当初、どこぞの工作員の仕業かと思われた。まあ、けっきょく不幸な事故だったわけだが」
リンファオに聞かせると言うより、独り言のように呟き続ける。
「事故調査委員会の報告書で、ひとつ不審な点を見つけた。あの特区は完全に身元が分かるものしか住めない。移民も認めていない。研究施設関係者に至っては、護衛から下働きまで、もちろん、研究員──帝都大学の学生たちすら、厳選された者しか送られない」
ニコロスは、額にかかるサラッとした赤毛をうしろに撫で付け、言葉に少し力を込めた。
「なのに変なのだよ。ひとり、身元の知れぬ者が働いていた。しかもアターソングループの総帥という立場の、ヘンリー・アターソンの配偶者としてな」
リンファオは黙したままだった。次に何を言われるのか分からず、相づちすら打てなかった。
今や皇帝は、明らかにリンファオに話しかけている。
「おまえ、余の護衛だった土蜘蛛だな?」
ニコロスは、ミイラ体が返事をしないことには気にもとめず、確定しているかのように話し続けた。質問ではなく、確認なのだ。
「あの頃は、やけに小さいのが一匹いると思っていたが。女だったとは珍しい」
ニコロスはミイラに手を伸ばした。包帯でぐるぐる巻きになった顎に手をかけ、自分の方に首を向かせた。
皮膚が引きつって痛み、顔をしかめる。
しかしニコロスの情には何も訴えかけなかったようだ。しげしげ見つめながら、ポツリと言う。
「前に、皇女が世話になった」
リンファオは顔を背けた。
ニコロスは深い息をつき、包帯だらけの顔から手を離した。
「ふむ。絶世の美女とかいう土蜘蛛の里の女を見る、またとない機会だったのに。その火傷では無理か」
リンファオは怯えた。この男に正体を知られているということは、どうなるのだろう?
「違う、私は土蜘蛛では──」
「若きアターソンの当主からおまえのことを聞きだした。ああ、軽い尋問だ。酷いことはしていない。怪我人だしな」
リンファオが狼狽えたのが分かり、皇帝は畳みこむように言葉を被せた。その整った眉を軽くしかめる。
「しかし、どうも話がずれていてな。おまえを、余が遣わした護衛だと言っている」
「え?」
「あの男は頭を打った。記憶が逆行しているわけではないようだが──おまえを配偶者として認識しておらん」
皇帝は、土蜘蛛の反応を楽しんでいるかのように、いったん言葉を切った。リンファオは絶句していた。
「記憶喪失、いや記憶混濁とういやつだ。──技術開発部の者たちの聴取でも、おまえは若き当主アターソンの妻ということになっている。彼だけがおかしなことを口走ってることになる」
理解力が追い付かず、リンファオは彼の言葉を頭の中で反芻した。記憶混濁?
「施設の者たちの話を聞く限りだと、ヘンリー・アターソンは、子供の父親と言うわけではなさそうだ。ただし本人は、赤子に関しては、本当に自分の子供だと思いこんでいるようだが……」
やっとゆるゆるショックの波が襲ってきた。目眩と吐き気という形で。頭を打った──記憶がおかしくなっている?
「私のことは……覚えてないと?」
「土蜘蛛の護衛として来たうぬのことなら、覚えているようだ。だが妻など知らぬと言っている」
「医者はなんと? あの老人は貴方の侍医でしょう? 国家最高の医師のはずだ」
勢いこんで喋り、リンファオは再び激しくむせた。火事で気道まで焼けたらしい。それでもガラガラ声を振り絞る。
「一時的なものなのですよね? 治せますよね?」
ニコロスは乾いた笑みを浮かべた。
「国家最高の医師は、患者自身。ヘンリー・アターソンぞ。余は知らぬ」
「でも宮廷医師ならきっと──」
「供に搬送されてきたアターソンの助手たちの方が、我が侍医の腕よりはるか上だ。もちろん、彼らの見解も一緒よ。いつ治るか分からぬ、とのことだ。……まあ、そんなことどうでもよい」
そしておもむろに、ベッドの下から何か取り出した。
「不死鳥」
リンファオは呟いた。ニコロスは、すこし煤けたそれをリンファオに押し付けた。
「重要なのは、余が国家の宝を失ったかもしれぬこと。そして、代わりに違う宝を手に入れたと言うことだ」
それまでどこか楽しげだったニコロスが、真顔になった。
「それと、おまえの弱身を握っているという事実」
ドクンと心臓がなった。ニコロスは少し残念そうに付け足す。
「それほど醜く焼けただれていなければ、極秘に囲い、直々に寵を与えても良かったのだが。……もったいない」
リンファオは震え上がった。ケロイド万歳だ。
癒しの能力は巫女が得意とする物で、使えない剣士もいる。だから、雇い主には伝えていない。
リンファオは今、火傷でドロドロだし、女として何かされることはないはず。
しかしニコロスは、リンファオの目をじっと見据えたままだ。金にも見える琥珀の瞳。
この男は空虚でありながらも、何もかも見通しているような目をする。
それが、逆らう者をねじ伏せる力となっているのだろうか。
カリスマという言葉は浮かばなかったが、只者では無いのだ、と認識させられた。
ニコロスは身を乗り出して顔を近づけた。リンファオは思わずのけぞった。
この男は怖い。
「安心しろ。女として役に立たんでも使い途はいろいろある──例えばな、余はずっと土蜘蛛を、護衛としてだけではなく、刺客として雇いたかった」
この男は、何を言おうとしているのだろう。
「なに、余とて、アターソンの記憶が正常に戻ることを期待している。国の宝だからな。──殺したくはない」
殺すって……。リンファオは息を呑んだ。
「あの子供の命はどうでも良いが、うぬの一族にとってあの子供は、存在してはならない者らしいな」
シャオリーの、ことだ。
「余がどれほど土蜘蛛の巫女とやらを所望しても、けして叶わなかった。それほどあの一族は女子が外に出ることを恐れていた。外で生んだ違う種族との子供は、守ってきた純粋な力の流出となる。里長はそう言っておったな」
リンファオは大きく震え出した。マンマと叫ぶあの子を、自分の子ではないと言い張るには遅すぎる。
ニコロスは、己の言葉の一つ一つが、相手に与える影響を確かめながら伝えた。
「余が琥珀宮の護衛たちに、うぬの存在を知らせるか知らせないかは、まあ、おまえ次第だ。もちろん子供の命だけではない。ヘンリー・アターソンの命も、握っている。うぬの返答次第だ。分かるな?」
0
お気に入りに追加
66
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
再会した彼は予想外のポジションへ登りつめていた【完結済】
高瀬 八鳳
恋愛
お読み下さりありがとうございます。本編10話、外伝7話で完結しました。頂いた感想、本当に嬉しく拝見しました。本当に有難うございます。どうぞ宜しくお願いいたします。
死ぬ間際、サラディナーサの目の前にあらわれた可愛らしい少年。ひとりぼっちで死にたくない彼女は、少年にしばらく一緒にいてほしいと頼んだ。彼との穏やかな時間に癒されながらも、最後まで自身の理不尽な人生に怒りを捨てきれなかったサラディナーサ。
気がつくと赤児として生まれ変わっていた。彼女は、前世での悔恨を払拭しようと、勉学に励み、女性の地位向上に励む。
そして、とある会場で出会った一人の男性。彼は、前世で私の最後の時に付き添ってくれたあの天使かもしれない。そうだとすれば、私は彼にどうやって恩を返せばいいのかしら……。
彼は、予想外に変容していた。
※ 重く悲しい描写や残酷な表現が出てくるかもしれません。辛い気持ちの描写等が苦手な方にはおすすめできませんのでご注意ください。女性にとって不快な場面もあります。
小説家になろう さん、カクヨム さん等他サイトにも重複投稿しております。
この作品にはもしかしたら一部、15歳未満の方に不適切な描写が含まれる、かもしれません。
表紙画のみAIで生成したものを使っています。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~
ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。
2021/3/10
しおりを挟んでくださっている皆様へ。
こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。
しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗)
楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。
申しわけありません。
新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。
修正していないのと、若かりし頃の作品のため、
甘めに見てくださいm(__)m
とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる