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ラムリム市編

洗礼名

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 リンファオの子供は、人間で言えば確かに早産だった。

 しかし母子ともに異常はない。

 むしろ、子供は小さいながらも元気そのもので、周囲を安心させた。

 生まれたての子供はヒヒ猿だと聞いたことがある。

 ゲルクはこの世に生を受けたばかりの小さな命を抱きながら、ヒヒザルとはとうてい言えない赤子を見つめていた。

 柔かい金髪と、ブルーグレイの眼。

 リンファオの色素は受け継いでいないが、父と母のいいところがうまく混じりあったような、まるで天使のような顔立ちだ。

 新生児でこれほど整った顔をしている子が、他にどこにいるんだ?

 ゲルクはごくりと唾を飲み込んだ。

 もしかしてこの子は、本当に天使なのかもしれない。

 近づいてくる男、全て殺さなければ。

 ──親バカな父性を発動しているが、本人は気づいていない。

「黒い色素の方が、強く出ると思ったんだけどなぁ」

 リンファオはそうつぶやいたけれど、やはり嬉しそうだった。

 無事に子供が生まれたことももちろんだが、ゲルクが少しずつ元気になってきたからだ。

 ただ、もう前の無邪気な少年では無くなっている。

 リンファオはゲルクの顔色を気にしながら、何気なく呟いた。

「女の子だから、あんなにゴツくはならないと思うんだ」

 ゲルクの胸が痛んだ。

 リンファオを乱暴した相手の血が入っているのだ。

 その特徴をはっきり表した子を見て、心中を察するにやまない。

 本人は特に気にしていないかのように、その金髪に愛おしそうに頬ずりした。

「金の髪は私の一族にもいる。何よりもこの子は私の子だから」

 気がかりだった土蜘蛛の気配は、この小さな塊からは感じない。

 リンファオはほっとした。

 力の強い剣士や巫女は、生まれた瞬間にある程度分かると、乳母小屋の巫女から聞いたことがある。

 もちろん初めはゼロで、成長の過程でどんどん気が漲ってくる者もいるので、一概には言えないのだが。




 ゲルクは新しく誕生したホヤホヤの命を見つめながら、じっと何か考えてこんでいた。

 リンファオは悔しかった。

 生まれてくるのを楽しみにしていたテレーザに、ひと目見せてやりたかった。

 あんなならず者たちに、奪われていい命ではなかった。

 もちろん、ゲルクのことを考えて口に出しては言わないけれど。


 僧兵長のムソウが子供を見に来た。

「天教徒の聖地で生まれたのだから、洗礼を施しに来た」

 リンファオは首をかしげた。

「洗礼って?」
「生まれたばかりの子供は可愛いので、悪魔にさらわれやすい。だから、悪魔が寄り付かない洗礼名を付ける。東部の古語でな。十歳になったら変えていい。改宗する場合も遡って幼名をもらえる。君にもつけてやろう」

 リンファオはゲルクを振り返った。

「あなたも洗礼名があったの?」

 リンファオに無垢な目を向けられ、ゲルクは視線をそらした。

「うん」
「なんて名前?」
「……パギャー」

 ムソウは笑った。

「牛の糞という意味だ」
「洗礼名はけっこうです」

 リンファオは即座に断った。ムソウの目が釣り上がる。

「天教徒の聖地にずっと住むなら、改宗しなきゃならんぞ」

 うわー、めんどくせ。リンファオは思った。だけど、あれ? と引っかかった。

「ここにずっと住んでもいいのですか?」

 僧兵長は頷いた。

「教祖から許可をいただいてある。だが異教のままなら取り消されるかもな」

 異教徒というほどには、鉄の神はどうでもいいのだが──。

 ゲルクが目配せした。

 そう言えば、信仰色のいっさい無さげなゲルクも、天教徒を名乗っている。週一で、寺の坐禅会に参加しているし……。

「なります、なります。わたし天教徒になりますぅ」

 表面だけ、適当に天教徒になったふりをしておこう。

 信仰心熱いテレーザのような人間なら、改宗か死か、と言われたら死を選ぶだろう。

 心の中で嘘をつくことすら拒むからだ。

 だけど自分は違う。巫女見習いの時から、信仰心は皆無だった。

「よし、この子の名前はリンガだ」

 なんだ、とリンファオは思った。可愛い名前じゃないか。

「ちなみに意味は?」
「腐れチンコだ。まあ、やくたたずのチンコって意味だ」
「……この子女の子なんです」

 ムソウは当然、と言ったように頷いた。

「これほど可愛い子は、せめて男だと思わせておいた方がいい。でないと淫魔にさらわれる」

 腐れチンコ。リンファオはため息をついた。腐れはいらなくない?

「君はどうする? ヴァッギーナと言うのはどうだ?」
「既に卑猥ですが!?」

 リンファオは、ブンブン首をふって幼名を辞退した。


 僧兵長は、首の据わってない赤ん坊をしきりに抱きたがった。

 この無骨な僧侶の、こんなにデレデレした顔を見られることはもうないだろう。

 僧は結婚出来ない。

 つまり子供も持てないから、子供好きの僧侶は、自らが洗礼した子供を自分の子のように扱う。

 捨てられた赤ん坊を寺で洗礼し、十歳になって寺から出すとき、陰で泣きくれる僧侶もいるらしい。

 だが寺以外に養護施設に相当するものがない。あとは善意で養ってくれる里親を探すか、仕事を見つけ自力で生きていくしかないのだ。

 赤子が腹を空かして泣き始め、リンファオが乳をあげようとすると、僧兵長は顔を真っ赤にして、転がるように家から出て帰っていった。

 ゲルクはポツリとリンファオに言った。


「俺にも、こいつくらいの時には親が居たんだよな」

 ちょっと触っただけで、皮がむけそうなもろい生き物を、不思議そうに見ている。

 母親が乳を与えなければ、すぐに死んでしまうだろう。

 それどころか、乳房に埋もれて窒息して死んでしまいそうだった。

 それほど小さな口と鼻腔だった。

「だろうね。今生きてるってことは」

 リンファオが囁くように言う。赤子が乳を吸いながら、眠りそうだったからだ。

「物心ついたとき──俺の記憶がある頃からだから、たぶん四歳とか、五歳かな。俺、城壁の外にあるゴミ捨て場に捨てられてたんだ。ラムリム市の人間が産み捨てたのではないと思う。ここは大きな都市国家とは違うからな。こんな城壁に囲まれた市内で、腹がでかいやつがある日スッキリしていたら、どっかに子供を捨てたってばれちまうだろ。だから、荒野の向こうのやつらが捨てたと思うんだ。帝国軍が荒野の向こうの、自由な民を弾圧しだしてる頃だったから。ゴミ捨て場は、行軍の犠牲になった孤児が多かった。今は砦の外は、全部帝国領におさまって戦闘はないけどさ」

 リンファオは黙って聞いていた。

「つまりな、城壁外の遊牧民か何かの孤児だと思うんだ。でも、まず寺が一番小さい俺を可哀想に思って引き取ってくれた。で、十歳になるまで寺で面倒見てもらえて、規則で出された後、またゴミ捨て場に戻ったんだよ。売れそうなものとか落ちてるから。でも、そこには今度は帝国領の捨て子や、遊牧民の孤児や、浮浪者がいて……縄張り争いしていた」

 リンファオは話を聞きながら、寝てしまった赤子を揺り篭に移した。そしてゲルクの前に座り、話の続きを待った。

「そこに居たガキは、大人の浮浪者にいいものを全部とられていた。俺より下のガキもたくさんいたよ。だから俺はガキどもと結託した。それで大人たちに逆らうようにしたんだ。ある日──」

 辛そうに目を伏せる。

「漁港で何か手に入らないかウロウロして、それでゴミ捨て場に帰ると──ガキはみんな殺されてた」

 血だらけのゴミ捨て場を思い出して、震え上がる。

「俺は一本の棒を見つけた。折れた天教僧の錫杖だ。それで――奴らを皆殺しにしたんだ」

 罪を告白しているんだ。リンファオは意外に思った。この少年は自分のやったことを後悔するタイプではないと、勝手に思っていた。

「天教の祭日に、城壁の奴らが施しを持ってやってきた。それで、俺は寺の僧に見つかった。洗礼してくれた老僧だ。その僧は、臭う遺体のゴミの中で蹲っている俺を見て、俺が全部やったんじゃないかと疑った。それで俺が──」

 ため息とともに呟く。

「悪魔なんじゃないかって」

 リンファオは目を見開いた。年寄り連中は迷信深い。

 その後、教祖を始め、老齢の僧たちは、この銀髪の子供を殺すべきだと主張したと言う。

 天教のマンダラにも、悪魔の姿は描かれている。

「身を投げ出すようにして俺をかばってくれたのが、テレーザだった。あの人も大変な目にあって、この城壁都市に逃げてきたくちなんだ。だから、俺を放っておけなかったんだって」

 テレーザは、ミケーレ諸島のもっと南の出身だった。もともと海神の信者だったのだ。

 南の大国であるルチニア王国よりも、厳格な民間信仰の村で生まれた。

 十二歳の時、その村の金持ちの男に犯されて
、運悪く孕んだ。

 その村が出した結論は、被害者であるテレーザを罰することだった。

「結婚もしてない娘が男と姦通した罪は、死罪だったんだ」
「姦通? 強姦されたんでしょう? その金持ちの男はどうして……」
「男には何の咎めも無いんだってさ。馬鹿な話だろ? 男の方は誘惑されたって言い張るわけよ。──十二歳の処女にだぜ?」

 ゲルクは拳を握った。理不尽に対する怒りだ。

「そこの村では、姦通罪は死ぬまで石を投げつけられるっていう罰だった」

 奇妙な里の生まれのリンファオにさえ、尊厳を無視した処刑法だと思った。

 少なくとも土蜘蛛の試練の島は表面的には、戦って勝つか、逃げきったりすればその罪を許されることになっていたのだから。

「テレーザは石礫の下で死にきれずに、生きていたんだ。だから皆が死んだと思っている隙に、こっそり逃げ出した。運良く島をでる船に隠れて乗ることができたみたいだけど、暖かい南の海の船旅で、傷が膿んであんな顔になっちまったのさ」

 子供が大人たちからいびり殺されるのは、耐えられなかったのだろう。

 テレーザは、もしこの子が悪魔の子だったなら、必ず自分の手で殺すから、と市長や教祖、そして村人たちを説得したという。

「だけど結局、俺は悪魔だったのかもしれない」

 ゲルクが思いつめたように吐き出した。

 リンファオは驚いて、あどけない顔を苦しげに歪める少年を見つめた。

「なんで?」

 ゲルクは、壁に立てかけてある剣に目をやった。

 それは、海賊の血を吸って真っ赤に染まっていたものだ。

 持ち主の番兵が死んでしまったので、そのまま持ってきてしまった。

 綺麗に洗って乾かしてあるが、まだ臭いが漂ってくるような気がする。

「テレーザの亡骸を見たとき、俺、何かが壊れた気がしたんだ。正直に言うと、人を殺すのが楽しかったんだよ」

 養母が死んだからじゃない。

 この少年から無邪気さが無くなったのは、数年前のすさんだ心が蘇ったからだ。

「じゃー私は魔王かな」

 リンファオは笑った。ゲルクが驚いたように少女を見つめる。

「お腹に新しい命がいたのに、奴らを切り刻んだ。そして、罪悪感のかけらも浮かばない」

 人を殺さねば成り立たない商売をしていた。それが一族の生業。刺客業から足を洗ったとは言え、土蜘蛛は、あくまでも剣客なのだ。

「ゲルクは、テレーザを殺した奴らを斬ったくらいで、自分を悪魔だと言うの? あなたが殺さなければ、この城壁の中の人間はもっと死んでいたよ」

 命の重さを感じているからこそ、人を殺したあとの自分に悩む。

 そんな人間が悪魔であるはずがない。

 少なくとも、土蜘蛛にくらべたらそれこそ天使だ。

 ゲルクは、少女の紫の瞳をしばらく凝視していたが、やがて礼のつもりか頭を深々と下げた。
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