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ラムリム市編
おめでとう
しおりを挟む老医師は満面の笑みで、ゲルクの肩を叩いた。
「おめでとう、ご懐妊だ」
愕然としたのはゲルクとテレーザだけではない。
リンファオ本人もだ。
何せ、ゲルクとそんな風になった覚えが無いのだから。
「ガキんちょのくせに、やることやるんだからなぁ、まったく、最近の子は。ちょっと体が細すぎるのが心配だ。なぁに、お産にはちゃんとわしが立ち会うからなんとかなるじゃろ。安定期に入るまで、無理せずにすごすがよい」
パクパク口を開け閉めするゲルクの横で、テレーザが卒倒しそうになっているのが分かる。
「お、おまえって子は」
「俺じゃねーって! ほんとだって、俺チェリーだって! はっ」
恥を晒してから、赤くなる養母と笑い転げる老医者を睨みつけると、
「リンファオ、ちょっと」
医院の外に連れ出した。少女を岩の上に座らせる。ゲルクもその横に座った。
吐き気は今は収まっているようだ。
「たぶん、それは無理やり作らされた子供なんだろう?」
リンファオは頷いた。思い出したくもないが、記憶はそう簡単には消せない。
ゲルクはリンファオの細い身体を、心配そうに見守った。
「あの爺さんのところに、堕ろす毒草も置いてあると思うよ」
びくっと、少女が顔をあげた。
「堕ろさない」
やけにきっぱりと言ったリンファオに、びっくりした。だって、憎いやつの子供じゃないか。
「子供は宝なのよ。堕ろすのは罪」
そう教えられてきた。
(私たちはどんどん妊娠しにくくなってきている。このまま滅びの一途をたどるかもしれない。絶対におろせない)
そう強く思ってから、はたと目を見開く。
(私たちって……)
リンファオは茫然となった。
やはり自分の根っこは土蜘蛛なのだろうか。
この思考は、捨てようと思っても捨てられない。
ここのところずっと胸が張って痛かった。
避妊薬が切れて、月のものが来るせいだと思っていたけれど、そういえば、あの薬の効果はとっくに切れていたんだ。
リンファオは蛟のケンの微笑を思い出して歯ぎしりした。月経すら、食物を絶たれた状態では生体活動に使われてしまうらしい。
でも、生理はいつの間にか始まっていたんだ。
ならば、あの男の子に間違いはない。
妙な術をかけて、身動き取れないリンファオを無理やり犯した男。
だけど他の男たちは、手を出すことが出来なかった。
だから父親はケンなのだ。
(シショウなら良かったのに)
リンファオは悔しかった。
こんなことなら、あんな薬飲まずに、シショウの子を身ごもっていたらよかった。
もし彼の種だったら、里に戻ることもできたかもしれない。
リンファオが厄の子だろうが、お腹の子は土蜘蛛の子ということになるのだから。
この子は、血を薄めてしまった忌まれた子なのだ。
見つかったら殺される。
リンファオは青ざめた顔で、お腹を抱え込んだ。
「守らなきゃ」
※ ※ ※ ※ ※ ※
リンファオのつわりは、それほど長引かなかった。
それから二、三ヶ月はさすがにつらかったけれど。
ただでさえ少食なのに、さらに食欲が無くなってガリガリになったのだ。
せっかく年齢相応の膨らみが出来てきていたのに、また棒きれのようになってしまった。
しかし、それも最初のうち。
吐き気がおさまり始めてから、リンファオの体調は目に見えて良くなってきたのが分かる。
げっそりと痩せたのも一時的で、今はあちこちに女らしい膨らみが目立ってきた。
同じ年頃の娘より発育が悪かったリンファオだが、母親になる準備で肉がついてきたのだ。
テレーザはあまり重いものを持たせないようにした。
リンファオは畑を手伝わず、食事当番や機織りばかりやっていた。
下腹部でチョロチョロと動きを感じるのが、くすぐったくて心地よい。
部屋をざっと掃除し、溜まった洗濯物を洗いに水場に行こうとしたとき、家のドアがノックされた。
ゲルクかテレーザが忘れ物でもして帰ってきたのかと思った。
扉を開けると、顔が隠れるほど大きな笠を被った大柄な男が立っていた。
黒い道服を来て、手に輪のついた杖のような物を持っている。
天教の僧だ。
リンファオは戸惑ったように、男を見上げた。
「托鉢ですか?」
路上を歩いているのはよく見かけるが、家を訪ねてくることもあるんだ、そう思って、慌てて台所に行こうとした。
ラムリム市ではアリビアの貨幣ではなく、自由都市連盟の通貨が流通しているようだけれど、どちらにしても持ち合わせはない。
何か、食べ物を入れようと思ったのだ。
「いや、托鉢の時は錫杖を鳴らす。今日は様子を見て来いと言われただけだ」
僧侶は渋い声で告げた。
「私は天教本山救世寺の僧兵長、ムソウと申す」
リンファオは、凍りついたように僧を見つめた。
様子を見に来られるようなことは、何もしてない。
しかし、彼は笠をちょっと持ち上げ、現れた鋭い目で少女を観察する。
「教祖は、あんたが厄をもたらすのではないかと疑っておられる」
リンファオは縮みあがった。
(厄の子)
そう、彼女は故郷でそう呼ばれていたのだ。厄の子は、別の土地でも厄の子なのだろうか。
「だが……」
僧はリンファオのお腹に目線を下げた。
まだ分かりづらいが、かすかに膨らんできている。
「ふむ、子を孕んでいるというのは本当か?」
「は、はい」
僧の鋭い視線が柔らかくなった気がした。
環のついた杖をシャランと振ると、手を前にして目をつぶった。祈っているようだ。
(お払いでもしているのだろうか)
ややして僧侶は目を開けた。
「ではお前は悪魔では無いな」
あっさり言われて喜ぶよりも、信じられない気がした。なんで? なんでそうなる?
「悪魔は子供を産めぬ。女の悪魔……魔女もいるが、男を誘惑しその命を吸い取ることはしても、新しい命を孕むことができないと言われている」
そしてくるりと背を向けた。
「教祖と市長には、そうお伝えしよう」
何もしてないことで疎まれたり、何もしてないことで許されたり。
どうにも納得できない。
憮然としているリンファオに、その時突然、殺気が襲った。
僧侶が方向を転じ、振り向きざまリンファオを錫杖でなぎ払ったのである。
まったく身動きしなかった少女の顎スレスレのところで、杖は止まっていた。
よく見ると、錫杖に何個か付けられた遊環は鋭い刃物になっているのだ。
リンファオは、自分よりずっと大きな僧侶を見上げると、睨みつけた。
「危ないじゃないですか」
「私の動きが読めなかったのか、殺気を偽りと見抜いたか……どちらだ?」
「何のことですか?」
リンファオは硬い表情で問いかけた。
ムソウと名乗った僧侶は、不思議そうな表情を浮かべると、
「できる娘だと思ったのだが、気のせいか」
そう小さくつぶやき、今度こそ、その場を去っていった。
僧が出て行くと、リンファオは腰砕けになったように床に座り込んだ。
相手がどういうつもりか分からないが、あの攻撃を避けたら、変な疑いを持たれていただろう。
かなりの槍術の達人で、しかも殺気もこもっていた。
避けるか避けないかの判断は、微妙だった。
(なんなんだ、あの人は)
なんだか知らないが、勝手に疑って、勝手に疑いを晴らして帰っていった。
ほっとすると同時に、腹が立ってくる。
「何を根拠に、人間を害があるものと、無いものに分けているんだ」
それは自分を阻害した里の掟、里長や同族たちに向けた怒りと混ざっていた。
どうして、神の経典に書かれた物や言い伝えを信じ、目の前の人間の行動を自分で見ようとしないのだろう。
リンファオはおかしなことをしていない。
ここでは誰も傷つけていないし、かといって、今は無害でも、実は妊婦ながらに大量殺人鬼になるかもしれないのだ。
何もしてない人間に、烙印を押す人々は大嫌いだった。
予言や掟で縛られるのは、もうごめんだ。
しかもそれは、見たこともない神様の言葉によるものなのだ。
リンファオには──神剣には悪いが──鉄の神も、天教の神も、もちろんリーヴァイアンも、どうでもよかった。
鬼畜の行いだとは思うが、むしろ権力集中のために自分を神格化しようとする、アリビア皇帝の新教の方が理解できるくらいだ。
人を格付けできるのは、人の行動だけだと思っている。
憤りを沈めるように、お腹をさすった。
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