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ラムリム市編
リンファオわくわくする
しおりを挟む騒がしい怒鳴り声とともに、家の外を多くの男たちが走っていくのが窓から見えた。
ゲルクも慌てて飛び出していく。こんな早朝からかよ、と毒づきながら。
リンファオが驚いてベッドから出ようとするのを、テレーザが止めた。
「大丈夫、いつものことよ。帝国の艦隊がね、暇つぶしに砦に大砲を撃ち込んでくるから」
「包囲されているんですか?」
ぎょっとしてリンファオが周囲を見渡した。しかし戦場という雰囲気ではない。
テレーザは弱々しい笑みを浮かべる。
「それほど差し迫ってはいないのよ。籠城しているわけではないから。帝国軍は国土を広げるのに忙しくて、領土内のしなびた異教徒を排する仕事はお座なりなの」
小一時間ほど経ってから少年が戻ってきた。顔が黒い煤で汚れている。それに煙臭い。
「だ、大丈夫?」
「ああ、でも汚れた。そういやあんた、どこも怪我してないんだろ? 起きれるなら、体洗いに行こうぜ」
ゲルクが顔をしかめながら、自分の服の袖を嗅いでいる。
リンファオは首を傾げた。海で洗うのだろうか。しばらく海には近づきたくないけど……。
「自然のお湯が湧き出て溜まる岩棚があるんだ。少し遠いけど、うちにはロバがいるから乗せていってやるぜ」
潮でべとべとになったリンファオには、この誘いは魅力的だった。
まだフラフラする体を少年に支えられ、家から出た。
そこでふと背後を振り返り、ポカンと口を開ける。
(家、だって?)
今まで自分が閉じ込められていた牢の壁に、どことなく似ているな、とは思っていたが……。
厚手の敷物やクッションが、温かみのある室内の演出に成功していただけだ。
(建物っていうか、もう岩じゃん)
ニョッキリ建った奇岩の中から、たった今自分は出てきたのだ。
キノコのような形の岩をくり抜いた家……おとぎ話に出てきそうだ。
そんな不思議な石の家が立ち並ぶ通りを、ゲルクはロバに乗った少女に気を遣いながら進んでいった。
ところどころ崩れ、雑草の生えた古い石畳をゆっくりすすむ。
里にいた頃、物語で聞いた古都とはこういう雰囲気なのだろうか。
カポカポというひづめの音が、心地よく耳に響く。
「海側の砦のすぐ下は、旧市街って呼ばれてる。奥の方はこんな家じゃないんだよ」
ゲルクは説明してくれた。市というだけあって、村は他にもあるようだった。
リンファオは自分の里を思い出し、規模的に少し似ているかな、と思った。
砦を出て、果樹園や何かの畑を越えていくと、確かに木造やレンガ造りの家も目立ってきた。
帝都とも、その外れの研究特区の町ともぜんぜん違う。
リンファオは、この異国情緒溢れる街並みに夢中になった。
狭い坂を登ると、雪が積もっているような白い崖が、村の向こう側に広がっているのが見えた。
ゲルクはそこに向かっていた。
(雪が降るような気温じゃないだろ)
怪訝に思うリンファオ。その麓にたどり着くと、霧でも吹き出しているかのように、煙で覆われていることに気づく。
こぼれ落ちそうに目を見開き、絶句している少女。
ゲルクは思わず笑ってしまった。
「あれだ。棚田に、温かい温泉が溜まってるんだよ。上の方が女湯だから行っておいで」
巨大露天風呂は、快適を通り越して極楽だった。時間が時間なだけに他に人影はなく、貸し切り状態である。浅く、広く、寝そべって入れる。
さらに、テレーザの持たせてくれた香りのいい石鹸や、着替えのおかげで清潔に戻り、生き返ったような気持ちになったのだ。
ホカホカと温まった身体とともに、心にも余裕が生まれた。
改めて、自分のいる場所に興味を覚えた。
不思議な地形だった。
この大きな白い岩山が、聖地を陸からの侵入から守っているのだ。
言わば、自然に出来た城壁と言うやつである。
しかし、完全に陸地から隔離されているわけではないようだ。
「行商人が来ている時間だ。崖の向こう側に回る小道があるから、ついでに行ってこようぜ」
元気な少年は柔らかい綿布で髪を拭きながら、湯の溜まっていない白い棚田をさらに登っていく。両端は通路として皆が利用するようで、人工的に、階段のように加工されているのだ。
他にも岩棚の下に馬や荷馬車を止め、ゲルクたちと同じ方向に登っていく村人たちが大勢いた。
途中、小さな門扉があった。
そこから出ると、目の前は平地になっていて、ズラッと屋台が連なっている。
こぶりな市場だ。
リンファオはその光景も、故郷の土蜘蛛の里に似ていると思った。
土蜘蛛も高原特有の農作物を育てたり、谷川の魚、野山の獣で自給自足していたが、足りないものは、港町の行商人が直接出入口近くまで売りに来ていた。
麓の街の市場に土蜘蛛が行けば、少なからず嫌な雰囲気になるからだ。
「商人ってすごいよな。異教徒の住む土地で、皇帝から睨まれていようが、儲けを逃さない。この市が包囲されて、完全に城壁の中に籠城するしか無くならない限りは、売りに来るだろうな。隠れ天教徒はラムリム市の外にもたくさんいるんだ。もう少し涼しくなってきたら、この街道は聖地まで来る巡礼者で溢れる」
野菜や果物、この辺で採れない獣の干し肉を買い込むと、ピンクがかったオレンジをリンファオに渡す。
「今日給料が出たからおごりだ」
「ちゃんと働いてるのね」
そういえば、テレーザは血のつながりが無さそうな顔立ちだ。もっと南方の、地黒に近い肌色からして、親子じゃないのは一発で見て取れる。
ゲルクはまだあどけなさの残る顔に、複雑そうな微笑を浮かべた。
「ま、パシリだけど。俺みたいなもうデカくなっちまった孤児は、寺院からも追い出されるんだ」
孤児と聞いて、リンファオは驚いた。
天教の寺院が運営する孤児院は、十歳で出される。後は自分で生きていくしかない。
乞食に逆戻り状態で過ごしていたが、運良くテレーザに拾ってもらうことが出来たのだ。
ゲルクはいかに彼女が自分を大事にしてくれているか、誇らしげに話して聞かせた。
ほんとうの親でも無いのに、あんなに優しい目で少年を見ていたテレーザという老女に、リンファオは渇望するほど惹かれた。
里では人同士は共同体で、母性というものに触れたことがない。
母親の愛を直に感じる機会は、土蜘蛛に無いものなのだ。
リンファオにとって血の繋がりは、外の世界で一番美しいと思うものだった。
人手が増えてきた市内をあちこち案内してくれながら、
「ほんというと、俺、神とか信仰とかどうでもいいんだ」
共犯者めいたささやき声でそう白状した。
リンファオが、天教徒ではなさそうだからだろう。
「だけどさ、テレーザが信心深くてね。俺のすさんだ魂を救済するんだって、毎日寺院に連れて行くのさ」
テレーザがもしいなければ、この市を捨てて、気ままな旅にでも出ていただろう、と少年は話す。
今の彼にはテレーザが全てで、それ以上に大事なものはないようだ。
ところで、行くところがないリンファオである。
市の共同耕作地でテレーザの畑仕事を手伝いながら、しばらく置いてもらうことにした。
テレーザは迷惑そうなそぶり一つ見せず、一つ一つ仕事を教えてくれた。
白髪混じりの髪の毛で隠した顔半分は、目が潰れ、醜くい傷だらけであることに気づいたが、それを感じさせないほど穏やかな表情をした人だった。
リンファオは、すぐにこの女性を好きになった。
ラムリム市の砦の下に広がる街は、見るものすべてが面白かった。
まずは旧市街の家だ。
テレーザと同じく、皆ニョキニョキと生えて見える奇岩の中に住んでいる。
大昔、近くの山が噴火して火山灰が堆積し、その上をさらに溶岩が流れて、いくつもの地層を形成した。
それが風化してこんな妙なものが出来たという。
噴火した近くの山とやらが思ったよりずっと近く、リンファオはまた噴火するんじゃないだろうか、とビクビクしてしまった。
遠くに見える白い石灰棚は、彼女が連れて行ってもらった温泉である。
広大で、雪の積もったお茶の畑を思わせる。
(メイルンにも見せたい)
土蜘蛛の女は、里の外に出られない。絵でしか、こんな景色を知らない。リンファオは罪の意識を感じた。
背中に担いだ葡萄の入った籠を降ろし、少女は息をつく。
この辺の陸の特産は葡萄と杏とワインだそうで、それ以外の仕事と言えばもっぱら海、ほとんどの男たちが漁師だそうだ。
頭巾を目深に被って、顔を半分隠すリンファオ。きょろきょろ周りを見ないように、気をつけた。
目立たないようにしているのが精一杯だ。
ゲルクが言うには、こんな髪の毛の人間はラムリムの市内には居ないと言う。
帝都にも特区にも居なかった。
そりゃあそうだ、黒に金のメッシュなんて、土蜘蛛でも珍しいくらいだ。こんな顔を見られたら、さらに訝しむだろう。
市内の信仰は東の地発祥のものだが、ここにいる者たちはアリビア人か、テレーザのようにもっと南の血が入っていそうな顔立ちなのだ。
特にリンファオの瞳の色は東人とも違い、アメジストを思わせる紫。見せないに越したことはない。
それにしても、とリンファオは困りきっていた。田舎の方は皆フレンドリーである。
さっきから見知らぬ村人たちに肩を叩かれ、
「よっ、ゲルクの彼女か? どこで知り合ったんだ?」
「押しかけ女房とはやるなぁ。お前らまだ、ガキのくせに」
「ひゅーひゅー」
というふうに、気さくに声をかけられる。
みんなこの顔を見て最初はぎょっとするけれど、すぐに綺麗だの可愛いだの、誉めそやしてくれた。
忌み嫌われる顔のはずなのだが。
ずっと、畏れられてきた。見せてはいけないと言われてきたのだ。
なぜ、ここの人たちは普通に接するのだろう。
気持ち悪くないのだろうか?
ゲルクも自警団のバイトをしていない時は漁や、畑を手伝った。
汗だくの彼は、休憩を取るつもりでブドウ畑から戻ってきた。
重労働にも関わらず、あまり汗をかいてないリンファオに気づく。
しかしほんの数日前は水死体同然だったのだ。
無理をさせないように、背中のカゴを降ろさせる。
そして、遠いところにある穴だらけの岩の塊を指した。
「あの野鳩の家に肥料を取りに行ってくるから、リンファオは先に帰ってな。ついでに床屋のローデン爺さんのところに寄るよ」
リンファオの頭巾に包まれた頭をしげしげと見つめる。
「たぶん、染め粉がいるだろう。顔と、その宝石みたいな瞳はどうしようもないけど」
ゲルクは、子供ながらに勘がいい。すぐに、この少女が追われているか、身を隠そうとしているかのどちらかだと確信していた。
アリビアの畜生どもは、人種や宗教の違う人間を奴隷にすることができる。組織的な売買は禁止されているが、個人所有は許されているため、違法業者はあとを絶たない。
東の大陸の肌と、どこにも属さない色素を持つこの少女は、何処かの領主の奴隷だったのかもしれない。
こんな綺麗な少女が逃げ出せば、血まなこになって探すだろう。
ゲルクはこの少女を、完璧に匿ってやるつもりでいた。
「あと、近所のおやじさんが、羊肉を分けてくれるって。テレーザに頼んで、またシチュウ作ってもらおうよ」
リンファオの顔がパッと輝いた。
焦げ茶色になった髪を見ながら、リンファオはここに残るか、出て行くべきか、判断しかねていた。
たしかに助かるけれど、人の優しさにつけ入るのは抵抗があった。
既に孤児を一人抱えている、見るからに貧しいテレーザのご厄介になってもいいのだろうか。
と、言うこともあるが……。
それよりも、普通の人間に紛れて生活するのには、限界があると感じていたのだ。
髪を染めたくらいでは駄目だろう。顔はこのままなのだから。
(でも行くあてがない……)
リンファオは唇を噛む。正直、もっとここに居たい。こんな雄大な景色の村に居られるのは嬉しい。
キノコ型の岩の家の中は、テーブルや椅子まで岩を削ってできているのだ。なにもかもが、おとぎの世界みたいで素敵だ。
遠征組から聞く旅の噂でも、こんな岩だらけの荒涼とした場所の話は無かった。
あんな岩棚の温泉なんて、聞いたことも無い。
(遠征組)
リンファオは、シショウを思い出して震えた。胸の奥がきゅっとなる。
会いたい。
もしかすると、すぐに里に戻れば何の咎めもないかもしれない。
自分はただ誘拐されただけで、逃げ出したわけではないのだから。
そりゃまあ、顔を見られたし、好き放題されたけれど、自分がそう望んだわけではない。
それにもう、蛟の手から逃れている。
(そうよ、ロウコがどう思おうと、私は貴重な土蜘蛛の女なんだもの)
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