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ラムリム市編
最後の聖域
しおりを挟むつんざくような音が、ラムリム市の海に面した砦に響き渡った。
砲撃の音だ。
砲手のドージェは的に当てそこねたことに腹を立て、下品な罵り声をあげた。
アリビア軍の艦隊は今日も脅すように、このミケーレ諸島では最後となった、天教の聖地にその姿を現していた。
「この距離で届くわけ無いだろう? 火薬の無駄遣いはやめろよ」
ドージェの横で、銀の髪の少年が呆れたように言う。
「いいから早く、中のカスを掻き出せっ」
怒鳴られて他の四人と顔を見合わせる。
誰かがため息をつき、それを合図に渋々砲身を引っ張って下げた。
少年はスポンジ棒を入れて中を掃除しながら、ふと隣の砲架台チームを見る。
担当の男たちは既に撃つのをやめている。
座り込んで砲架にもたれ、ダイスを転がしている男たちに、ドージェも気づいた。
「何やってんだこの罰当たりども――」
「ドージェ、もうやめよう」
同じ砲架についていたトゥルナンが、装填棒を肩に担いで海を指さす。
冷やかすように砦の前を行ったり来たりしていた三隻の船は、彼らを挑発することに飽きたかのように、遠ざかっていく。
「くそっ」
「いてっ」
ドージェは八つ当たりのようにモップを持った少年にケリを入れ、文句を言おうとする彼に、十二門の砲を指さして命じた。
「ゲルク、日暮れまでにちゃんとそいつを磨いておけよ」
今日も本気で攻めては来なかった。
銀髪の少年ゲルクは、油でピカピカになった大砲の列を見渡してから、茜色に染まってきた海に目をやった。
煤で汚れた額に、汗が浮かんでいる。
自警団の大人たちは、彼をいいようにこき使う。
しかし、ラムリム市の外のゴミ捨て場で育ったゲルクにとって、この雑用の仕事もそれほど辛くはないのだ。
小遣いも稼げることだし、食料の配給だってもらえる。
何よりも、ここからの海の眺めは最高だからだ。
彼は、この夕暮れの海が大好きだった。
いつか自分の船を手に入れて、この大海原に出ていきたい。
それがゲルクの夢だった。
ふと、港から離れた砂浜に流れ着いたものに気づく。
この近海がほぼ帝国に吸収されつくしたこの頃は、アリビア本土最南端のラムリム市の海岸に遺体が流れ着いてくることも珍しい。
興味を惹かれて、塔の階段を町に向かって降りていった。
帝国軍の船が見えなくなったので、砦の門は開かれている。
門番は船さえ無ければ、この城塞都市を落とすことが容易ではないと分かっているのだ。
海と反対の方は切り立った岩山になっており、陸からの攻撃に対して堅固な、自然の要塞になっている。
少年は人気のない入江に向かって、岩の階段を下っていく。
夕方から夜の漁に出る若者たちとすれ違っただけで、今から外に出てくる市民はもういなかった。
ガランとした漁港を通り抜けてから、砂浜に降りる。
既に腐乱してガスで膨らんだ遺体を見に行くなんて、自分も物好きだ。そう思った。
だが、予想に反して遺体は傷んで無かった。新しい。
いや、それどころか……。
「俺は夢を見てるのかな」
ゲルクはまだすべすべのほっぺをつねった。
水死体は、ゲルクより少し上くらいの少女だった。
今死んだばかりのように、血色が良い。
白い着物ははだけて、まろやかな乳房が溢れている。
波に洗われた少女は、自然の浄化作用を受けたかのように美しかった。あまりに美しく、現実離れしていた。
やがてハッと我に返ると、赤面しながら着物を直し、遺体の胸を隠してやる。その時に──いや、わざとではないが──少しだけ肌に触れた。
瞬間、ゲルクは声を上げていた。
「温かいっ!」
では、この少女はまだ生きているのだ!
ゲルクは年齢の割には背が高い方だが、つい数年前まで食生活に恵まれていなかったため、かなりの細身だった。
一人で運べるだろうか。
砦に戻って大人を呼んだところで、行き倒れの子供を運び入れることに同意してくれるとも思えない。
仕方なく、ゲルクは少女を波打ち際から引っ張り上げた。
今度はその軽さに驚く。
見た目よりずっと軽いのだ。異常なくらい。
難なく肩に担ぎ上げることができた。
ゲルクは柔らかい体を意識しつつ、砦の門に向かった。
※ ※ ※ ※ ※
リンファオが目覚めたのは、匂いのせいだ。
美味しそうな食べ物の匂い。
グツグツと何かを煮ているような音も聞こえる。
起きなきゃ。目を開けなきゃ。これは……。これは──。
(クリームシチュウだ)
意識がハッキリして、パチッと目を見開いた。
銀の髪が目に入る。その持ち主と、まじまじ
と見つめ合ってしまった。
銀の髪の少年は、目を逸らさずにそのまま叫んだ。
「おばさん、この子目覚ましたぜ!」
リンファオは柔らかいベッドに寝かされているのを知った。
羽根布団なんて久方ぶりだ。
興味深げな少年の視線に応えようと、とりあえず身を起こそうとする。
「れれ」
目が回る。ぐるぐると部屋が回転し、またパタンと倒れこんだ。
「急に起きるなよ。あんたさっきまで水死体だったんだぜ?」
少年は呆れたように言った。
奥から、初老の女が何か運んできた。
白髪まじりの髪の毛が顔半分を隠しているが、優しそうな笑顔を浮かべている。
「あらあら、まだ何か食べるのは無理かしら」
リンファオは彼女の持った鍋を見ると、目を光らせた。
「クリームシチュウだ」
「え、ええそうよ。北の商人から買う、塩鱈のシチュウ──」
リンファオは最後まで聞かずに、再びガバッと起き上がっていた。
帝都仕えの時に賄いでよく出たメニューだ。大好物だった。
「くださいっ!」
ガツガツとまるで野良犬のように鍋ごとシチュウを平らげる少女を見て、ゲルクは唖然としていた。
これが本当に海から流されてきた、半死人だろうか。
鍋にはゲルクと養母の食べる分も入っているのだが、どうやら残りそうも無い。
「火傷しない?」
養母は苦笑しながら、取り分け用の皿を下げた。
初めてそれに気づいたのか、少女の顔が突然青ざめる。
「あああ、わたし、わたしとしたことがっ!」
ほとんど空になった鍋をのぞき、信じられない、と言ったように二人を交互に眺めた。
「もう何日も食べてなくて、とと、止まらなくて、すみません!」
まるで土下座するように頭を下げる。
顔を上げたその口元には、シチュウの白いのがくっついている。
「なんか、俺よりガキみてぇ」
少年は銀の頭の後ろに腕を組み、呆れたように言った。
「私はテレーザ。この子はゲルクよ。お嬢ちゃんは何処から来たの?」
尋ねながら、温かいミルクを手渡してくれる。リンファオはそれもゴキュッと一瞬で飲み干した。
五感に染み渡るような食事だった。
リンファオは自分の身体がどれだけ食べ物を欲していたか、改めて気づかされたのだ。
そしてただそれだけの食事で、どれほど体力が回復したか実感していた。あっという間に、象牙色の肌がバラ色にそまる。
「私は、リンファオと言います」
それから少し躊躇った。
何処から来た、と言えばいいのだろう。
土蜘蛛の里と言えばいいのか、蛟のアジトと言えば良いのか。
(どちらも、言ったら怖がられそうだ)
それに、自分が土蜘蛛だということがバレてはならない。
顔を見られているのだし、第一、もしあいつに居場所がばれたら……。
「悪いやつに攫われて、逃げてきたんです」
テレーザとゲルクは顔を見合わせた。
よくある話だ。
幼さの残る十四、五の娘だが、これだけ美しければ、即、売ったり買ったりの対象になるだろう。
「奴隷商人に捕まったのかしら。珍しい髪と瞳をしているし。……海神リーヴァイアンを信仰しているわけではないのね?」
リンファオは曖昧に頷いた。
ここが何処だか分からないから、うっかり自分の敬っている神の名を言うことも出来ない。
もっとも、リンファオにとってはあまり信仰は重要ではないのだが。
そこでふと、自分の刀の存在を思い出した。
神剣を手元から離してしまった。
あの剣に感じる力が鉄の神なのかは分からないが、彼女にとって唯一の畏怖の対象なのだ。
神剣がない。
蛟の隠れ家に拉致された時から取り上げられていたが、それでも身近に感じていた。
今、彼女はあの神剣から遠く離れている。それが分かる。
丸腰でいるという心もとない感覚に慣れるには、少し時間がかかりそうだ。
「あの、ここは何処ですか?」
リンファオはごつごつした冷たい石壁の室内を見渡して、そこに妙な模様のタペストリーがあるのを見つけた。
いくつもの複雑な図形と、さまざまな色が組み合わさった一枚の大きな布だ。
「見たことある? 曼荼羅」
ゲルクと呼ばれた少年が、面白そうに尋ねる。
まだつるつるの頬をしているが、表情は大人びている。
リンファオは少しためらいがちに言った。
「聞いたことがあります。東の大陸が発祥の……天教」
「ええ。ここはアリビア帝国内に唯一残っている天教の聖地、ラムリム市よ」
テレーザは哀れな子犬でも見るかのような表情で、リンファオの反応をうかがっている。
見たところこの少女、東人の移民のようだ。
東の大陸でも、神界の序列を絵で表し、中心に星の世界──天──を配する天教は、異教とされ、根絶されたと聞く。
「可哀想に、こんなところにたどり着いて。今私たちは帝国からも攻撃されているの」
その言葉の直後に、明らかな爆発音が石の家の中にも響いてきた。
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