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研究特区編
ヘンリー気づく
しおりを挟むリンファオが戻ってきていないことに気づいたのは、だいぶ時間が経ってからだ。
ヘンリーは、猛禽から受け取った伝言を何度も読み返し、すっかり晴れた空を見上げた。
戻って来たなら、何かしら声をかけてくるはずだ。
それに青虎の護衛も、自分につけたままだし。
表向き、アターソンの護衛は不要と判断されて、何かの任務を言いつけられたのだろうか。
エドワードの作った設計書は他の海軍工廠にもあるわけだし、アターソンの運営する会社は各地方都市に一つはある。
守るべきモノも人も、この研究特区だけではない。
──もしかしたら国の都合で、急に担当を外されたのかもしれない。
そう考えただけで、鳩尾の辺りが痛くなった。
(どうして帰ってこない、リンファオ)
青虎が上着のポケットから少しだけ顔を出し、ずっと森の方を見ている。
本当は主人のもとに行きたいのだ。だが彼の護衛を命じられている。
ヘンリーは唇を噛んだ。やはりおかしい。
エドワードの用事を頼まれていたなら、絶対に一度戻ってくるはずだ。リンファオは変に律儀なところがあるから。
里に呼び戻されたなら、そのこともちゃんと報告してくるはず。
ずっと傍にいると、そんなに話さなくてもその行動パターンから、いつの間にか相手の性格が分かってしまう。
リンファオはこの一年、空気のようにいつも傍らにいたのだ。
(だけど、土蜘蛛のことをよく知っているわけではない。何か極秘の任務とかあるのかも……)
リンファオには監視……みたいな謎の男、ロウコもいるし、きっと大丈夫。
しかし翌日も、また翌日も、彼女の姿を見かけなかった。
「せっかく町まで来てくれたのに、さっきから上の空だわ、ヘンリー」
念願かなってデートしていた相手に、肘で小突かれる。
アンはリンゴのように赤いホッペを膨らませてヘンリーを睨んだ。
「ごご、ご、ごめんよ」
ヘンリーは慌ててポケットの猫、いや虎を押し込めた。
アンはすぐに機嫌を直した。
「雨が止んで良かったわね。大学の分校以外特に何もない小さな街だけど、ここの豊穣祭は結構有名だもの。遠方から大貴族が見に来るくらいだわ」
ヘンリーは、野外に設置されたステージを見上げる。
へたくそな音楽に合わせて、これまた下手くそなダンスを楽しんでいる町の人々に苦笑した。
小さな舞台。ちゃちな飾りつけ。出店は子供だまし。見渡した限りでは見所は何一つ無い。
遠方からの客が楽しみにしているのは、夜間の部の花火だけだ。
都の祭典で使う花火の数には劣るが、慢性的に火薬の原料不足であるこの国にしては、珍しく盛大である。
この町には、優秀な花火職人が多く在籍しているからだ。
その花火も過去、彼の一族の一人が戯れに考え付いたものである。
やはり例に漏れずこだわりが過ぎて、やたら手の混んだ技法を次々に考え出し、この街の職人に託した。本人は火薬の引火で爆死したらしい。
しかも今回の花火は、ウィリアム・アターソンの魂を天に送るための鎮魂の意図もあり、いつもより打ち上げ数が多いと聞く。
「友達にあなたを紹介するわ」
アンはご機嫌な笑顔で、ヘンリーを引っ張りまわした。
丸木で出来たテーブルを囲む若者たちに近づく。あまりガラがいいとは言えない集団に、ヘンリーは怯んだ。
「天才発明家アターソン博士の息子だもの。私が友達だなんて知ったら、皆びっくりするわよ」
見世物じゃないんだけど……。そう言いたかったが、気の弱いヘンリーは心の中で呟くに止めた。
アンの友達はやはり同世代で、物珍しそうに白衣のヘンリーを眺め回した。
ヘンリーは服に無頓着な自分を呪った。
せめて私服で来れば良かった。持ってないけど。
「あんたも何か発明したりするのか?」
大柄な少年が、じろじろとヘンリーを見下ろす。
その腰巾着のようなにきび面の少年が、アンと繋いだ手を見て鼻を鳴らした。
「なれなれしいな。アンはこのヴァッチオ村の村人たち全員の妹なんだぞ」
なにその国民の妹みたいなノリ……。ヘンリーは引いた。
「何か言ってみろ」
十六、七の少年とは言え、皆力仕事をしているようで、かなり筋骨しっかりしている。
そういえばこの特区の覆面的な主要産業は林業だ。
植林を義務づけつつ、研究練の無い森林で適度な伐採を行っている。
彼らは木こりなのだろうか。ヘンリーはアンの手を放して後ずさりした。
「はは、アンは可愛いから、やっぱりファンが多いなあ」
唾を飲み込みながらそう言うと、アンがどや顔で頷いた。
「そうね、でも安心して。私は誰のものにもならない。アイドルってそういうものなの。私十七歳になったら都に進出するわ」
ああ、そう。ヘンリーはしょんぼり下を向いた。
素朴な田舎風のアンに安らぎを見出していたけれど、どうも一面しか見ていなかったようだ。
アンの野望は果てしなく大きい。
「そういうことだ。アンをモノに出来ると思うなよ?」
アンの男友達の一人がニヤニヤしている。
「そんなつもりは……。だけど友達になれたらと──」
「ふん、下心あってのことだろう」
まーそうだけど。ヘンリーは真っ赤になった。エドワードの言うことは正しい。健全な十七歳の少年なのだ。
「あら、いいわよ別に。ヘンリーなら」
アンの言葉に、その場にいた全員がぎょっとなった。
アンは、無垢な大きな目をヘンリーに向けて、提案する。
「ウィリアム・アターソン様は豊胸手術っていう新しい美容方法を考え付いていたって、噂で聞いたわ。あなたが後を受け継いで、無料でやってくれるなら、処女をささげてもいいわ」
百年の恋が冷める、という瞬間を初めて体験したヘンリーだった。
夜も更けて、それなりに花火を堪能したあと、森の奥にある大学施設に戻った。
護衛の兵士たちが困惑した表情でヘンリーを出迎えた。
研究員たちもどことなく浮ついている。
「何かあったの?」
ヘンリーが第一施設の研究室の方へ向かうと、黒衣の男が立ち尽くしている。
面はリンファオのそれと似ているが、口の周りの牙の部分が赤く縁取られている。
自分は会ったことがあるし、他の人間も存在は知っていただろうけれど、これほど人の目を気にせず姿をさらしていることは珍しい。
ヘンリーは、その不吉な土蜘蛛に近づいた。
「あなたは、確かロウコとかいう……いったいどうし──」
「リンファオはいつから戻っていない?」
ヘンリーの顔が青ざめた。この男が行き先を気にするということは、土蜘蛛の幹部や国の中枢の都合で姿を消したわけではないのだ。
──リンファオの身に、何かが起こった。
その場に座り込みそうになるのを堪え、土蜘蛛の仮面をしっかり見据えた。
「三日ほど前、エドワードの研究に必要な材料を採取しに行ってから、会っていません」
ロウコは身を翻した。
「待って! 貴方は何処にいたんですか? ずっとリンファオを監視していたのではないのですか?」
何も答えずに姿を消した土蜘蛛を見送ると、ヘンリーはガクッと膝を突いた。
もし、リンファオを失ったら……。
そう考えた途端、恐ろしいほどの喪失感に襲われたのだ。
かつて経験したことの無いような不安。
まさに、鳩尾に大砲で穴を開けられたような感覚だ。
ヘンリーはその感覚に戸惑った。
父ウィリアムを失った時の比ではない。
ずっと傍で身を守っていてくれた、異民族の少女。
身を守るだけではない。
同世代の友人もろくに居ない、オタクな自分の話し相手もしてくれた。
いつの間にこれほどまで、彼女の存在が大きくなっていたのだろうか。
「どうしよう」
あの子に二度と会えないなんて、考えてもみなかった。
「僕は……」
ヘンリーは顔をあげた。目を見開いて固まる。
エドワードと仲良くしてほしくなかった。
シショウとかいうあいつだって、なんか嫌だった。なんでだろうって、もやもやしていた。
理詰めで考えるヘンリーには分からなかったのだ。
全身が震えだす。
あの子に何かあったら正気でいられる自信が無い。
今……分かった。
空気みたいな存在の大切さに。
「僕はあの子が、好きだったんだ」
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