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土蜘蛛の里編
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しおりを挟む気候の穏やかなアリビア本土や南に広がる領海の島々と違い、里のあるモス島の山岳地帯では、山頂に雪が降る時もある。
リンファオは目をすがめて、頂の白い粉を見つめた。黒い外套をしっかりと羽織りなおす。
人前に出るのが少し怖い。生まれた村の人たちは、リンファオが戻ることを許してくれるだろうか。
黒い頭巾で頭部を覆い、指定された面をつけた。目をつぶってほっと短く息を吐ききり、やっと瞼を上げた。
腹は決まった。
「リンファオ!? 修行が終わったのね、リンファオ!」
育った村の集会所に着いた時、メイルンがまっさきに気づいて駆けて来た。
十五歳のメイルンはもう立派な巫女だ。
長い金髪を結い上げ、小袖の白衣と濃い紫色の袴を履いている。
神楽時に上から羽織る、透けるほど薄い絹の千早や裳は今は身につけていないが、代わりである防寒用の羽織でも充分に美しい。
「メイルン、綺麗」
「ありがと……。あんたは──面をしてるから分からないわね。急いで剣技を身につけなくちゃならないからって、ずっと修行だったんでしょう?」
この村から通わせればいいのに、それどころか、二年の間、一度も帰らせてもらえないなんて。
「寂しかったわ……。二年ぶりのあんたの顔、見たいんだけど」
リンファオは戸惑う。
「老師たちから、私の場合は里人の前でも面を取らない方がいい、って忠告されているんだ」
メイルンはびっくりした。
「里長やあの気味悪い番人の連中でもあるまいし……何でよ? 例の厄の子とかいう中傷から逃れるため? どっちにしろ、あんたみたいにナリの小さい剣士なんていないんだから、顔隠したってバレるわよ」
リンファオは少しもじもじしながら呟く。
「そうなんだけど、私の顔は災いを呼ぶ顔をしてるんだって」
メイルンは唸り声をあげた。どうやら怒っているらしい。
「あたしはあんたの顔が好きなのよ! 里長の絶対命令じゃないんでしょ? 私にだけは見せないさいっ」
リンファオは渋々頭巾をとり、さらに土蜘蛛の面を外した。
「うっそ、何その青あざ!?」
「レン老師の修行が厳しくて──。今朝も修行だったから、治す時間もなくて……」
メイルンは怒りを感じた。
リンファオの整った顔に、顔半分もあるような痣をつけるなんて。
女の子にこんなひどい修行をつけるレン老師は、きっと鬼だ。
「二年前までのガキっぽさが消えているのは分かるけどね、アザが酷くてあたしみたいな妖艶美女になってきたかすら分からないわよ。表情も暗い!」
リンファオはしょんぼりと俯いた。
「座って」
メイルンはリンファオを集会場の椅子に座らせると、痣の上に手をかざして、ゆっくりと気を注ぎ始める。
同じ世帯の巫女たちが遠巻きに見守っているのが見えた。
リンファオは疲れきった表情で目を瞑り、体内に秘める力を顔に集めた。
「あんた、身体は発育悪かったけど、顔は特別に綺麗だった。姐さんたちも言ってたのよ。あたし、顔見るの楽しみにしてたの。あたしがメンクイだって知ってるでしょ?」
声のトーンを下げるメイルン。
「──修行中はいつもそんな怪我だらけだったの?」
その語尾が震えた。
(心配してくれてる)
暖かい治癒の光が、リンファオの冷え切った心までも溶かしていくのを感じた。
心地いい。
巫女は剣士たちより内気功の術に優れている。
傷ついて任務を降り、戻ってきた剣士を癒すのも、巫女の大事な勤めだからだ。
二年前、瀕死のリンファオを救ったのもこの力だった。
「修行がきつくて……。いつも疲れてたんだ。よほど酷い傷の時だけ、内気功で癒してたよ」
リンファオは神剣に選ばれてからというもの、中州の島から出してもらえなかった。
森を管理する小さな小屋で寝泊りし、ひたすら武術や気功術の師から、剣士になるための業を注ぎ込まれた。
なにせ、既に神剣に選ばれてしまったリンファオだ。剣に振り回されないように、遣い手として早急に成長させる必要があった。
「その綺麗な顔だけは、傷つかないよう気をつけてよ? あと、髪。ちゃんと手入れしてた? あんたのは、シショウのくらい珍しいんだから」
メイルンはとにかく見た目にこだわる。
一族の者は外の基準からすると、気持ち悪がられるぐらい美しい顔をしているという。だが、リンファオにはよく分からない。
里の中に居る限り、全員が人ならざる美を持っているのだから、それが標準なのである。
ただメイルンは、その美形大会を催したような里の中で、さらに美醜を気にする性質なのだ。
もしメイルンが外の世界で暮らすことになったら、その見苦しさに耐えかね、三日で死んでしまうかもしれない。
リンファオは、長老の一人から聞いたことを思い出した。
「そうだ、今日遠征組が帰ってくるんでしょう? 北に赴任していた剣士が何人か死んだから、編成しなおすって。シショウも来るね」
面食いのメイルンにとって、一番気になる相手のはずだ。
「そうなのよ~。十六歳のシショウって、どれだけ格好良くなってるかしらね」
それから艶っぽく笑って囁く。
「私、今日は確実に選ばれる自信があるわよ」
リンファオは息を呑んだ。
そうか、そういう訳か。
だから、わくわくして、おしゃべりが止まらないんだ。
──あ、いや、メイルンはいつもおしゃべりだった。
リンファオはすっかり膨らんだメイルンの胸を見つめた。
初潮があり、十四歳になっていれば繁殖の儀式に出られる。
今日、各国へ派遣する剣士たちの再編成が行われるという。
無敵を誇る武術集団土蜘蛛でも、もちろん任務中に命を落とすことがある。
その補充が必要な場合もかねて、大祭や神事以外でも剣士たちが呼び戻されることがある。
二名ひと組が最小単位のため、各々の力の均衡を測るための試験も行われる。
それでも、任期中の剣士たちが里に帰る機会はめったにない。雇い主が嫌がるからだ。
したがって、里の滞在期間はごくわずか。
再び任務を受け旅立つ前に、巫女の中から番う女を選び、繁殖の義務を果たさなければならないのである。
シショウは北の商業都市国家の市長の護衛についていた。
小さな自警団しかないその自治国は、絶えず隣国の王権やならず者の集団に狙われている。
シショウの初任務だったが、今回死んだり怪我したりという噂は聞いていない。
「腕も身体も成長してるわよね、きっと」
メイルンが言い終わらないうちに、背後から声がかけられた。
「久しぶり」
振り返ると、土蜘蛛の面を被った剣士が立っていた。
メイルンとリンファオはその剣士を見上げたあと、顔を見合わせた。
こんなに背の高い剣士はこの村の出身者にはいない。
「だれ?」
思わず呟いたリンファオに、その剣士は面を外してみせる。
「ひどいぞ。一応、同じ村の出身なんだから、覚えていても良さそうじゃないか」
と、苦笑するシショウ。
あの繊細で優しげな細面の美形は、少しいかつく、力強くなっていた。
だが、まぎれもなくシショウだ。
里のある谷に入るときまで、面はつけていなければならない。
陽気のいい日だったので、汗こそ出ていないが、ほんのり赤くなっている。
シショウは面で自分の顔を仰いだ。
「いい男になったと思わない?」
いたずらっぽく言われ、メイルンはぶんぶん頷いた。
一方リンファオは、眩しそうに彼を眺めて自分の顔を隠すように俯いた。
「もちろん覚えてるわよ。一集落に三十人くらいしか住んでないんだもの。……大人になったわねー。男の子の成長ってすごいわ」
はしゃぐメイルンの横で、シショウはリンファオの顔の痣に気付く。眉を潜めた。
「訓練で?」
リンファオは慌てて面をつける。それからしばらくじっと二人を見つめ、ほーっと息をついた。
「久々に老師以外の人と話をした」
メイルンが首をかしげる。シショウが気の毒そうに頷いた。
「修行中はあまり馴れ合わないからね。剣士同士の打ち込みで、死人だって出るくらいだ」
「うん……というよりも、青虎の島から出ちゃいけなかったんだ。修行は私しかいなかったし。老師たちはみんな寡黙な人だしね。夜中に修行の一貫として、番人がよく襲ってきたけど、あいつらしゃべんないし」
本気で殺しに来てるし。
シショウはポツリポツリと語られる内容に仰天して、リンファオの面を見つめている。
「修了試験をやる中州にずっといたのか? だって青虎は?」
(仲良くなったって言ったら、気味悪がられるかな?)
リンファオは言葉を濁す。
「何で他の剣士たちと修行場所を分けたんだろう。神剣に選ばれた者を一から鍛えるなんてこと無かったからかな?」
シショウが訝しげに言うと、剣士の生活をよく知らないメイルンも尋ねる。
「この村に戻されなかったのは、剣士候補と生活していたからじゃないの?」
女子だとやはり、男たちと一緒に生活は出来ないからだろうか。
メイルンは話に加わりながらも、面の上から治療を続けてくれている。
リンファオは少し迷ってから言った。
「そうじゃなくて……」
懐から何かを取り出す。
「ん? 虫? ねずみ?」
メイルンが警戒して離れる。手の中には小さな生き物。
「何これ?」
「うそだろ?」
シショウが思わずのけぞった。
ネズミというよりは、猫のように丸まった青い毛並み。
──青虎だ。
「この一匹がどうしても離れないんだ。レン老師が里長に許可をもらってくれた。私が飼い慣らしていいことになったんだ」
「飼い慣らす? 青虎を!?」
シショウがごくりと喉を鳴らして、リンファオのペットを見つめた。……人食いの猛獣なのだ。
メイルンが、興味深げに覗きこんだ。
「ていうか、青虎って初めてみたわ。こんなにちっちゃいものなの!?」
「まさか。訓練中の剣士たちを飲み込む凶暴な獣だぞ。こいつから逃げられなければ、神剣の候補にはなれない」
命がけの訓練を思い出して、シショウが身震いする。
しかしこの獣、もはや神獣の面影も無い。手乗り文鳥並みだ。
「肉眼で見えないくらい、小さくなることもできるんだって」
「誰が言ったの?」
「青虎」
「あんたこの獣としゃべれんの!?」
目を剥くメイルンに、苦笑いしてみせる。
十二歳の女児が神剣を手にするなんて、過去には無いことが起きた。里人たちにとってはそれだけでも気味悪いのに、さらに神獣の言葉まで理解するようになったリンファオを、怖がるのは当然だ。
結果、誰も寄って来なくなった。
鍛錬が終わっても、そのまま青虎の島で寝泊りしなければならなくなったのは、里人たちの訴えのせいだ。
もちろん鍛練も、他の剣士候補たちに反対され、一緒には行えなかった。
こうやって何の警戒も無く話してくれる人と会うのは久しぶりで、リンファオはやっと人間に戻った気がした。
そう──。
付きまとうあの気配と視線にも、ほんの少しだけ悩まされずにすんだ瞬間だった。
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