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土蜘蛛の里編

番人

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 リンファオは、何かをふっきるかのように頭を振り、いきなりその場に結跏趺坐した。

 何度目かの丹田呼吸のあと、目を瞑り、身の内を無にする。

 そして──気配をさぐった。

 気配を感じるのは上手いほうだ。

 巧妙に消された気配でも、不思議とリンファオにはすぐ分かってしまう。

 呼吸を森の気に合わせればいい。

 森の草木と同じ呼吸をし、同じ存在になれば、自分は森そのものになれる。

 植物の──自然界の──声を聞くとは、実際に声が聞こえるわけではないと修行の中で分かるようになった。

 空気に溶け込み、感覚を周囲に伸ばす。

 
 ややして、その目が見開いた。

 と、その時だ。

 頭上から白刃を振り上げた男が飛び降りてきた。

 待ち伏せしていたのだ。

 刃が地面に埋まる。

 リンファオは、既に走り出していたのだ。

 必殺の一撃をかわされた面の男は、目を見張り、慌ててその背を追った。




(剣を抜かないだって!?)

 リンファオは歯軋りした。やはりこれは修了試験などではない。

 掟を破ったものに対する、処刑と同じ。

 狩りなのだ。


 一方、襲ってきた男は、子供の足の速さに驚愕していた。

 追いつけない。

 番人を引き離すほどの俊足を持っているなんて──!!

 次の瞬間、稚児は横に転がっていた。

 別の場所から刀を薙いだ男が、愕然と立ちすくむ。

 確実に、しとめたと思ったのに。

「速いぞ、そっちだ!」

 最初に襲ってきた男が仲間に叫ぶ声を聞き、リンファオはすぐに木々の間に隠れた。

 息はまったく乱れていない。

(何人いるんだっけ?)

 とにかく彼らから逃げよう。

 すうっと肝が据わった。

 リンファオは息を吸うと、全速力で走り出した。

 森の全てが彼女の味方だった。

 木々や岩が道を開けてくれているような錯覚。

 行ける。

 この森を抜けることができる。

 前から違う番人が走ってくる。

 その男は小さな影を認めると、走りながら背中の剣を抜いた。

 雲が晴れ、月光が覗く。

 刃先が光った。

 シャンッという空気を切る音。

 ──が、またしても男の振るった刃は何も捉えなかった。

 男はトンッと頭を足で蹴られる。

 振り仰ぐと、子供は宙をかけるように跳んでいた。

「くそっ、チョロチョロと」

 踏み台にされたと気づいた男が、背後で毒づく声。

 だがリンファオにはかまっていられなかった。

 どれだけ走らされようと、息はもつ。

 森が味方してくれる。

 ただ、この薄桃色の稚児衣装は目立ちすぎるのだ。

 舌打ちしたとき、突然、足に何か絡まった。

 転びそうになったが、片手をついて宙返りとともに着地する。

 見下ろすと、錘のついたロープが両足を戒めていた。


「この体重を感じさせない動きは──」
「既に軽身功を身につけていたのか。……見込みはあったわけだ」

 番人が二人近づいてきた。

 いや、両脇からも……。

 次々と男たちが現れ、リンファオの額にじんわりと冷や汗が浮かぶ。

「だが、逃げるだけでは限界があるぞ」

 男の一人がそう言い、リンファオの後ろを指差した。

「その背中の神剣を抜いたらどうだ? 死にたくなければ、戦え!」

 男たちは、いっせいに抜刀した。

 さっきから必死でやっているが、足の戒めが取れない。

 男の一人がすぐに斬りかかってきた。

 あんなこと言っておきながら、向こうには切り結んで戦う気などないようだ。

──ただ処刑あるのみ。

 リンファオは上体を大きく反らし、背後に転じながらそれを避ける。

 その軽業師のような身のこなしに、番人たちは驚きを隠せなかった。

 しかし攻撃を続ける男の剣は速い。

 二撃三撃も後方回転で避けるが、ついに刃先が目前に迫る。

「なにっ」

 稚児は着地した瞬間、両手を打ち合わせて刃先を止めていた。

 番人たちは息を呑んだ。

 刃の動きを見極めなければ、挟んで防ぐなんて芸当は出来ない。

 ただの巫女見習いは、軽身功どころか、剣士としての動体視力まで備えているということだ。

 しかし──。

「あきらめろ」

 別の男が、違う角度から剣を振るった。

 手が塞がったリンファオには、どうしようもなかった。

 刀は、子供の細い首を両断するかに思われた。

 ただ痛みを予測して身体を強張らせ、目をぎゅっと瞑るしかなかったのだ。

──死ぬのか、こんなところで。

 メイルンの言う通りだ。

 もっと色々経験したかった。

 恋をしたかった。

 死んだら終わりなのに。

 死にたくない。

 ……死にたくないっ!

 そう思ったのは、刃が首に届くまでの、本当に一瞬の間。

 キィンという音とともに、刃が弾かれる。

 まるで鋼鉄を斬ったような音。

 リンファオがおそるおそる目を開けると、衝撃で二三歩下がった男の面と目が合う。

 土蜘蛛の面の下の表情は読み取れないが、驚愕の気配を感じた。

「硬気功も使えるのか!?」

 何のことだか分からなかった。

 巫女は神や精霊の憑坐よりましに過ぎない。

 気功の基礎や精神論は教わったけれど、攻撃や防御に使うような大層なものは、女子には教えてもらえない。

 そう、何も戦う術を知らないのに、こんなところに放り込まれたのだ。

……怒りが、ふつふつと湧き上がってくる。

 リンファオはすーっと息を吐いた。

「神剣を抜いて、戦います。だから少し待って」

 そう言うと、取った刀の刃先を利用して足に絡みついた紐を切る。

 それから少し下がると、こんなことになった原因である、背中の神剣を抜き放った。

──ドクン──

 脈を打っているかのような力を感じる。

 ただの得物のくせに、まるで生きているようだ。

(目を瞑って、呼吸を整えて)

──舞が導くままに、身体を動かせ──

 思い出そう。

 シショウの剣技を思い出すんだ。

 踊るように美しいあの剣術を。

 巫女の舞とは明らかに勢いが違うけれど、同じ型は踊れる。

 リンファオは、記憶の中のシショウを見るために、半眼を閉じた。

 憮然と見守る番人たちの前で少女は、神剣に操られているかのように、ゆっくりとリズムを刻み揺れだした。

 これはツルギの舞で使用する刃先を潰した剣ではない。

 ましてや榊でも扇でもないのに。

 それよりもずっと軽く感じる。

 突然ゆっくりと踊りだした子供に、男たちは身構えた。

 楽の音が聞こえてくるような気がした。

 舞はあまりに美しく、痩せた小さな女児が踊っているとは思えない。

 見習いのはずなのに、既に完成した巫女舞だった。

 そして、その舞の中には、まったく隙がうかがえなかった。

「どうなってる」

 ただの子供。

 惑わされるな、隙が無いわけがない。

 男たちは自分に言い聞かせた。

 だが──。

「歌が、聞こえてくるようだ。こやつ妖術使いか」

 そもそも土蜘蛛一族が、外部の人間からそう呼ばれていることなど無視して、男たちはこの子供を恐れた。

 リンファオの舞いは、どんどん速くなっていく。

 あまりに見事で、美しすぎて、目を奪われる。

 いままで見たどの巫女よりも、素晴らしい演舞だった。

 魂を吸い取られてしまいそうだ。

「やめろっ、やめろっ、やめろぉぉおおお」

 番人の一人が恐怖に耐え切れず、斬りかかっていった。

 シャンッと鉄のぶつかる音。

 跳ね返されたのだ。

「おのれ」

 全員我に返る。

 頭を振ると、いっせいに子供に打ちかかった。

 血しぶきが舞う。

 六人の男たちが、腹や腕を押さえて蹲る。

 斬られたのだ。

「いつの間に」

 浅くはあるが、確実に剣で斬られた。

 ぞくっと寒気が背を這う。

 この子供──。

 神剣遣いの中でも腕利きの剣士で形成される番人。

 彼らをただの子供が斬ったのだ。

 呆然と傷を押さえて下がった男たちの前で、今まで陶酔したかのように踊り狂っていた子供は、ふいにピタリとその動きを止めた。

 彼らの傷を見て真っ青になっている。

 血の色に怯んだのだ。

 演舞を止めると、ものすごい勢いでまた逃げ出した。




 リンファオは走りながら考えた。

 一度に何人もの男たちを負傷させるなんて。

 自分でも信じられなかった。

 しばらくしてやっと立ち止まり、血に染まった刀身を見つめた。

 禍々しい。

 だけど扱い方は身体が知っていた。

 あの演舞のせいだろうか、それともこれが神剣だからだろうか。

 剣を抜いた瞬間、何かが身体の中を満たした。

 あれが神の力と言うなら、自分に鉄の神が降りたことになる。

 巫女舞を極めると神が降りる、そう姐たちの一人から聞いたことがあるが……。

 自分はもう巫女なのだろうか。

──まさか、ね。あり得ない。

 けれど……

──この剣があれば、あの男たち全員を殺せる──

 ぶるっ、と身体を震わせ血の露を払うと、剣を背中の鞘に収めた。

 鞘に収まることをよしとせず、剣が逃げるのではないかと思ったが、一発で入った。

 血を求めて暴れまわる魔剣ではないらしい。

 その時、ぐるぐる、という唸り声が聞こえた。

 ギクッと身体を硬直させる。

 声のした方を探ると、青い毛並みが見えた。

「青虎……」

 リンフォアは息を呑む。

 そして絶望し、力を抜いた。


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