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第九章

断罪と処刑

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 革命の知らせを聞き、期待と不安で盛り上がっていた甲板が、水を打ったように静まり返った。

 ジョルジェは、あんぐりと口を開け、アルフォンソが取り出した短銃を見つめる。

 その銃口は、ピタリとマリアの胸に向けられていた。


 気が付くと、ジョルジェは獣のような唸り声をあげながら艦尾階段を登り、マリアの前面に飛び出していた。

「冗談じゃねーぜ! あんたら自分たちが何をしているか分かってるのか? この人は上官だろ? あんたらを命をかけて助けた、最高の司令官だろ?」
「確かに……だけど今は国家の罪人だ」

 カイトがポツリと呟く。

 リッツがホルスターから短銃を抜き、どけとばかりに銃身をちょいと振る。

「ランバルト曹長、君の出る幕じゃない、下がるんだ」

 ウォルト・マリアッチが真っ青になって、ジョルジェを連れ戻そうとする。

「撃ち殺されます。下がって、分隊長」

 祈るように胸の前で手を握り合わせ、目に涙を浮かべているアンリエッタ。

 命令違反の下士官の命など、軍では簡単に消される。

 他の兵士たちも固唾を呑んで見守っていた。

 しかしジョルジェはウォルトの手を振り払い、リッツに向かって言った。

「命令がなんだよ。あんたらは、自分の目で司令官の行いを見てきただろ? この人が皇帝を、皇家全体をどう思っているか、その心の叫びを聞いただろうがよ! それを聞かなかったことにして、この人が一番憎んでいた人間たちと同じ扱いにするなんて、おかしいだろ。どう考えてもおかしいだろ!」
「ランバルト曹長、下がれ」

 再びそう言ったのは他でもない、ジョルジェが庇っていた背後の人物だった。

 マリアはジョルジェを押し退けると、アルフォンソの銃口の前に自らをさらした。

「おいっ!」

 焦るジョルジェに、マリアは厳しい目を向ける。

「これは私の問題だ。下がっていろ」

 ぴしゃりと叱咤され、ジョルジェは何も言えなくなった。

「貴方もだ、ナーフィウ王子。それを降ろしなさい」

 驚いたようにジョルジェたちが背後を振り返る。

 異国の少年が、いつの間にか武器庫から持ち出した弩を構えて、北風の艦長に狙いを定めていた。

「降ろせ、と言ったぞ。これは私の国の問題だ。あなたは部外者だ。おとなしくしてもらおうか」

 マリアの厳しい声に、ようやくナーフィウが弓を下ろした。

 それを見ていたカイトは、マリアがこの短期間の任務で実に多くの人間を魅了していたことに気づいた。

 海の男は行動力のある人間を愛する。

 彼も懐柔されかかった一人だから、その気持ちがよく分かったのだ。

 何よりも、周囲の兵士たちの間に流れる動揺が、一番それを物語っていた。

 カイトは唇をかみ締めた。

 都でのクーデターの計画は、出航前から分かっていた。

 彼ら治安警備艦隊を帝都から引き離したのは、武装帆船を個人的に持っている王党派の勢力を、油断させるため。

 そして、うまくルチニアという資源大国を味方につけて戻れば、反勢力にさらなる脅威と打撃を与えることができただろう。

 今回の任務の裏には、そんな目論みがあった。

 カイトは自分の不手際の尻拭いをしてくれたマリアが、革命が成功した暁にどうなるか、ずっと気がかりだったのだ。

(こうなることは分かっていたじゃないか)

 カイトは暗い眼差しでマリアを見守った。

 しかし当のマリアは、実に落ち着いていた。

 大きく息をつくと、静かに口を開く。

「今後、皇帝を崇拝する残党にとって、皇家の出は不安要素となる」

 周囲を睥睨し、冷ややかな声で宣言する。

「一人も生かしておいてはならない。樹立されたばかりの暫定政府の力は、軍部の結束にかかっている。本部の命令に背くな。新政府の定めた刑は、直ちに執行されるべきだ」
「何言ってるんだよっ!」

 ジョルジェは喚いた。

 自分の命だと言うのに、まるで他人事だ。

 これまでも感じてきた苛立ちが、再び沸き起こる。

 ジョルジェはマリアを揺すぶってやりたかった。

 例え、マリアを祭り上げて、ミハイロヴィッチ家による帝政を復活させようと謀る輩が居たとしても、マリア自身がそれを承諾するはずがない。

 それなのにマリアは、自分を皇族の一員として排除させようとしているのだ。

「あんたはそんなことしないだろ。誰よりも、あの血族を憎悪していたあんたが……」

 マリアは銃口などみじんも恐れていないようだった。

 いつも通り背筋を伸ばし、凛とした態度でジョルジェと、それから艦長たちを見渡す。

「私が公的に生かされてしまったら、私の意志など関係なく、無意味な争いが起こる。軍事政府を快く思ってない一部の貴族どもにとって、私は格好の駒なのだ。……私は誰が何と言おうと、ニコロス四世の血を分けた娘なのだから」

 きっぱりと、力強くそう断言した。

 オフィリアは、不倫などしていない。

 ならば、マリアは紛れもなく皇族なのだ。

「出来上がったばかりの政府は、わずかな乱れが命取りになる。ルチニアに宣戦布告されていることを忘れたのか? 軍部は……、おまえたちは、微塵も揺らいではならないのだ」

 マリアの言葉に、全員が目を見張る。

 誰も何も言えなかった。

「それに――」

 マリアは口元を寂しげにほころばせて続けた。

「私には、もうやることが無い」

 ジョルジェは絶句した。

 マリアは肩を竦めると、アルフォンソ・ヴァンダーノに告げた。

「さあ、やるがいい。軍人として為すべきことを為せ」

 アルフォンソは撃鉄を起こして、引き金に手をやった。

 その手は震えている。マリアは厳しい眼差しで彼を睨んで言った。

「迷うな。帝政は――利権を貪り悪政で民を虐げてきた権力者たちは、民衆から憎まれて消え去る。その筋書きを変えてはならない」

 アルフォンソの肩が大きく揺れた。

 マリアは、彼の心の揺らぎを感じ取っていたのだ。

(なんて女だ)

 アルフォンソの胸に、何とも言えない感動が起こる。

「撃て」

 マリアはそれだけ言うと、固く目をつぶった。

 レオナールがゆっくり離れるのが気配で分かった。

 不思議と、怖くは無かった。

 あの男――皇帝ニコロスが生きていれば、岩にかじりついてでも生きただろう。

 しかし、彼は処刑された。

 ずっと望んでいたことが現実になった。

 自分自身の手で復讐できなかったことだけが心残りだが、彼女が夢を託した男がそれをやってくれたのだ。

(ヘルツ中将、ありがとうございます)

 マリアはほほ笑んだ。

 その耳に、アルフォンソの声が響く。

「フランソル、リッツ、カイト、本当にいいんだな?」

 手すりにもたれるようにして、一言も口を開かずに事態を傍観していたフランソルが、やっと身を起こした。

「どうぞ」

 アルフォンソは息をつくと、引き金を引いた。

 ジョルジェの言葉にならない絶望の叫び声は、銃声にかき消された。





※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 乾いた空気に響きわたった、やけに白々しく安っぽい銃声の後、甲板に火薬の匂いが充満する。

 マリアは一瞬身を竦ませ、やがてゆっくりと目を開いた。

 胸元に目をやる。

 傷は無い。

 怪訝そうにアルフォンソを見やると、彼は銃口を空に向けていた。

「何をやっている?」

 マリアが眉を吊り上げる。

「我らが海の英雄、アーヴァイン・ヘルツに倣ったまで」

 アルフォンソがにんまり笑った。

「そうだな? リッケンベルヘ大尉」

 レオナールが頷く。

「ええ。あの人は私に艦のことを任せきりで、とんでもないことをやらかした」

 マリアはきょとんとした。

 レオナールは柔らかく微笑する。

「前回の任務で、せっかく捕獲した海賊の首領二人を、逃がしたんですよ。本部には海上で処刑した、と報告したようですがね。実際にはこんなふうに、空に向かって撃っただけ」
「確かに、貴女に生きていられたら困る」

 フランソルは短剣を取り出すと、まだ状況を掴めてないマリアに近づく。

 そして金の美しい髪をひと房すくい、それを鋭い刃で切り落とした。

「公的には……ね」

 マリアはその腕をつかむ。

 彼らが何をやろうとしているか、やっと分かったからだ。

「待て。さっき私が言ったことを聞いて無かったのか? そんな物が何の役に立つ? 周りを見てみろ」

 怒ったように、甲板を見渡す。

「証人が多すぎる。それに、ヘルツ中将とおまえたちは違う。もしばれたら、おまえたちはただではすまないぞ? 中将は甘い人では無い。と……言うか、自分に甘く他人に厳しい」

 よく考えたら最低である。

「『月光』のカティラは元気ですかな? とでも言えば口を噤みますよ。あなたの副官が情報を提供してくれて助かった」

 リッツはレオナールに視線をやってから、マリアに顔を向け、ウィンクして見せた。

「昨夜、我々が大佐をどうやって逃がそうか話し合っている時、旗艦で起こったことを話してくれたのです」

 レオナールはマリアの問いかけるような顔に、苦笑しながら応えた。

「あの人は軍人としては立派ですが、目を離すとろくなことをしない。私の知らないところで当時の士官たちと、捕らえた女海賊をさんざん暴行したあげく、逆に骨抜きにされて逃がしたんです。そんなことが本部のお偉方にばれれば、ケッヘル少尉への私刑よりもよほど問題だ」
「そういうことですから、脅しは有効。それに大佐をここで処刑したら、暴動が起きますよ。あなたこそ周囲を見てください」

 フランソルがジョルジェを始め、甲板に集まっている兵士たちの形相を見渡して言った。

 手に、メインマストの下から引き抜いたビレイピンを持っている海兵もいる。

「せっかくルチニアから脱出できたというのに、反乱を起こされては敵わない。貴女はこちらの港町に残していきます」

 フランソルはてきぱきと指示する。

 ルチニアから追われている上に、国内は不安定だ。ゆっくりしてはいられない。

 しかしマリアは自分の銃を手に取ると、こめかみに押し当てた。

「おいっ!」

 ジョルジェがそれに気づき銃を叩き落すと同時に、破裂音が鳴る。銃弾が甲板の床を弾いた。

 唖然とする部下たちに、マリアはぼんやりとした顔を向けた。

 病的に血の気の失せた顔色。

「気持ちはありがたいが、私は……。私は――どうやって生きていったらいいのか分からないんだ。することもないのに放り出されて、何をしろと言うのだ?」

 それを聞いていたナーフィウには、マリアの不安が少しだけ分かった。

 一つの生き方しか与えられなかった人間が、今まで自由を手に入れたことの無い人間が、突然全ての枷から解放され、見知らぬ世界で生きろと言われる。

 その戸惑いは、自ら檻を作ってしまっているマリアの方が、虜囚であることを強制されていたナーフィウより、ずっと大きいに違いない。

「あんたに死なれたら、僕が困る」

 ナーフィウは気がつくとそう口にしていた。

「この世の中に、すべき事があって生きている人間なんてどれほどいるんだ? だいいち人間は、目的を持って生きていくわけじゃない。生きていく過程で、目的が生まれるだけなんだ。ただ生きて行くだけで何が悪い? 苦しみから抜け出して、平穏に生きることこそが、理想の生だと思えないの? それに、あんたほどの女なら、この先いくらでも生きがいを見つけられる」

 驚くマリアに、ナーフィウは続けた。

「僕は、生きがいをつい最近見つけた。マリア・ヴェルヘルム、あんたさ。女の概念を覆したあんたに、僕はついていく」

 マリアは目を見開いた。

 それを聞いて黙っていなかったのはジョルジェだ。

 突然横からしゃしゃり出てきた敵国の小僧に、惚れた女をかっさらわれるなんて、許せるはずが無い。

「俺もだ、大佐。俺と長く居てみろよ、世界が変わるぜ? 大佐は自分が幸せになることを見つけるために、生きればいい。俺が支えるから。あんた自身が幸せになるのが、俺の喜びなんだ。だから俺のために生きてくれよ。絶望なんてしないでくれ。あんたは軍部に居なくても、皇族でなくても、存在するだけで価値のある人間なんだ」

 一気に言い終わると、ジョルジェはナーフィウに、どうだ、という勝ち誇った視線を投げた。

 睨みあっている二人には気づかず、マリアは呆然とつぶやく。

「私は、ただ生きていてもいいのか?」

 フランソルはその呟きを聞いて、マリアを心の底から憐れんだ。

 育ってきた環境という闇が、これほどまで彼女の心を蝕んでいたとは。

「ずいぶん込み入った話をしてますなぁ」

 突然割り込んできた声に、兵士たちが剣を構える。

 梯子を上りきったあたりの手摺の上に、いつの間にか海賊のハサンが腰掛けていた。

「そのお姉さんに相談があって来たんですけどね。どうも大変なことになってるようだ」
「下がっていろ。おまえのようなやつが、入り込んでいい場所じゃないんだ」

 近くに居た兵士の一人が、蝿を追い払うかのように剣で脅す。

「だって、金の話をしたいんだ。船を一隻買い取ってもらおうと思ってね。そちらのお姉さんになら、無料で差し上げますけど?」

 ハサンはにんまり笑って見せた。

「帝国の兵隊さんたちに、仲間を減らされたんでね。少人数では扱いにくいったらねーや。いい船なんだが、この辺りであんな無骨なキャラック船、二束三文にしかならねーしな。そのお姉さんには悪いことしたと思ってるんだ。ぜひ、貰ってやっちゃあくれませんかね?」

 どうしていいか分からず黙り込んでいるマリアに代わって、レオナールが言った。

「ちょうどいい。ランバルト曹長、大佐とその船で逃げるといい。万が一にでも追っ手を差し向けられないように、なるべくアリビアから離れるのです」
「僕も行くよ」

 ナーフィウがきっぱり告げた。何か言おうとしたアルフォンソの肩に、フランソルが手を置く。

「もともと居ない者と思えばいい。ルチニアには王子は一人しか居なかった。そうでしょう?」

 アルフォンソはため息とともに頷いた。

「あたしも行く!」

 突然アンリエッタ・ミトラが飛び出し、ジョルジェの腕にしがみついた。

「技術士はもちろんのこと、大佐には女の世話役が必要でしょ。皇女様なんてやってたんだから、その辺りに放り出したら生きていけないわよ」
「じ、自分も行きます!」

 ウォルト・マリアッチ伍長が、ジョルジェの反対側の腕にしがみつく。

「やだぁ、ストーカー」
「バ、ババ、バカヤロウ、俺はただ分隊長にどこまでもついていくと決めてただけでけしておまえバカヤロコノヤロ」
「おまえたち……」

 マリアは絶句した。

「戦死扱いにしておきましょう」

 レオナールは、名乗り出た者たちから認識票を受け取った。

 あっさりと認めた副官に仰天し、マリアは慌てて二人に言った。

「もう、国には戻れなくなるのだぞ?」
「皆、孤児だし」

 ウォルトとアンリエッタが、顔を見合わせて笑った。

 徴兵されたわけではない一兵卒には、そういう者が多いのだ。

 国立の兵士の養成学校に入れば衣食住に困らない。

「開戦を控えた今、曹長たちに軍を抜けられるのは痛いですがね」

 レオナールは呟くと、今度はマリアに近づいた。

「大佐の認識票もいただいておきますよ。後のことは私に任せてください。……そんな顔しないで。実のところ貴女が居ないほうが、私も出世しやすいんですから」

 冗談ぽく言うと、マリアの首にかかった金属製の小さな板を手に取る。

 その時、彼はマリアの耳に口を近づけてそっと囁いた。

「あなたが、皇家にどっぷりと浸かってなくて助かりました。私の妹になったかもしれない人が、憎んでも憎みきれない皇帝を崇拝していては、死んだ父も浮かばれないですからね」
「おまえ……?」

 マリアはまじまじと副官を見つめた。

「私も大佐と同じです。父は疑いをかけられてすぐ、私を叔母の養子にしました。私の元の名は、レオナール・ドートリッシュ。王室侍従長フェリプス・ドートリッシュのひとり息子です」

 マリアは息を呑んだ。最初から含みのある態度には気になっていたが、まさかオフィリアと共に処刑された侍従長の息子だったとは。

 レオナールはマリアに微笑んでみせた。

「ご安心ください。父と王妃の間に、皆が疑うような関係はありませんでした――二人はあくまでも清い関係でいたのです。……もちろん、プラトニックな恋愛を不貞ととるなら別ですが」
「では、侍従長は……」
「愛していない人のために命をかけられますか? 勘違いしないでくださいね。あくまでも、私の父の片思いです。母を早くに亡くし、ずっとオフィリア様のファンだったようです。王妃は、皇帝を裏切っていませんでしたよ」

 当時幼すぎて分からなかった、宮廷での細やかな感情の行き来が、今になって垣間見えた気がした。

 マリアの頬に涙の雫が落ちる。

「ありがとう」

 マリアは呟くとそっと彼に背を向けた。

 過去の清算が、きちんと出来た気がした。

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