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第五章
火船
しおりを挟む船尾船底から窓を突き破って上がった炎は、火の粉と煙を撒き散らしながら、砲甲板まで上がってくる。
「総員退避! 急げっ、火の回りが早い」
マリアは周囲を走り回る兵たちに厳しい声で命じると、ふと、船内に戻ろうとする主計長と司厨長、そして何人かの下男を見つけて、眉をひそめた。
「おまえたちまだ居たのか? 早くボートに――」
「金庫や祭儀用の七面鳥、酒は運び出したんですが、黒石が――貴重な黒石が厨房に残っているんです。燃料として使われる以外でやっと許可が降りた、竈用の大事な物なんですっ。あれを置いていくわけには――」
黒石は貴重だ。樽いっぱいで、水夫一年分の給料が払える。主計長は兵士たちの給料や船の備蓄品、食料全てを管理する職にある。
武器や船体の部材、艤装は除いて、船の備蓄品は残れば残るほど、主計長の給料となって還元される。黒石に対するこの執念は、ある意味職業病と言えた。
マリアはこめかみがブチッと音をたてるのを聞いた。
今の彼女にとって、己の部下たちの命より大切なものなど無い。
ホルスターから銃を抜いて彼らに銃口を向けた。そして意図したよりずっと厳しい声をあげる。
「命令違反で射殺されたいのか? そんな物をボートに乗せたらお前たちが乗れなくなるだろ。これ以上一人として死なせるものかっ!! 早くいけっ!」
矛盾した言葉だが、効果はあった。
小娘とは言え司令官のその剣幕は、いい齢した男たちを震え上がらせた。
彼らは慌ててボートの方へ走っていった。
避難誘導員以外は全員乗ったようだ。
主計長たちが最後に降ろしたボートに乗り込むのを見て、ジョルジェがマリアを振り返る。
「あんたが早く乗ってくれないと、俺も乗れないんだけど?」
苛立った部下の顔を見ているうちに、ある考えが浮かんだ。マリアは身を翻した。
「おいおい、ちょっとあんた! 何処に行くんだっ!?」
青ざめるジョルジェに、マリアは振り返って素早く命じる。
「最後のボートも早く出せっ。間もなくこの船は火達磨になるぞ」
「こらこらっあんたは!?」
「私にはまだやることがある。終わったら海に飛び込むから、回収を頼む」
ジョルジェは仰天して、自分でも意味不明な怒鳴り声をあげたが、マリアはそのまま艦内に消えていった。
「くそっ、あの女頭おかしいんじゃねーか?」
ジョルジェは忌々しげに吐き捨てると、部下たちに先に行くように指示した。
「俺は提督を探しに行く。おまえらは乗ってきた偵察艦に助けを求めろ。一隻は『東風』から距離を置きつつ待機。急げ、爆発するぞっ」
※ ※ ※ ※ ※ ※
船内は煙が充満していた。
厨房に入ると、パンや生肉を焼くための大竈に走った。
黒石の置いてある巨大な樽を見つけ、全体重をかけて横に倒した。
そして、傾斜のついた床を転がす。
充満する煙の中、咳き込みながら狭い通路をごろごろと転がしていく途中、再び火薬庫の樽の一つが爆発したようだった。
大きく船が傾くと同時に、マリアはバランスを崩して通路の柱に叩き付けられる。
そのまま転がってきた樽の下敷きになりそうになったところを、あわや、ごつい軍支給ブーツの足が伸びて止める。
「あっぶね、あんたこんなデカくて重いもの、一人で運ぼうとしてたのか?」
ジョルジェは袖で口を覆いながらも、咎めるようにマリアに言った。
「司令官の自覚が無いんじゃねーの? 何やってんです? こんなところで」
マリアは激しく打った腕を押さえて、すぐに起き上がる。しびれていて、これ以上黒石を運べそうに無い。
「分隊長、すまない、手を貸してくれ」
「バカ言うなよっ! あんたいいから甲板に早く来いよっ」
マリアを連れて通路を戻ろうとするジョルジェに、
「頼むっ、戻ったらいくらでも礼をしよう。尉官に昇進できるように、上に口を利いてやってもいい。どんな無理な願いでも聞くから、頼むっ」
マリアが必死にすがりつく。
ジョルジェは驚いて、司令官の顔を見つめた。
煙のせいで真っ赤になった涙目に、煤で汚れた頬。それが、彼女の顔を幼く、そして儚く見せた。
「ちっ、分かったよ。煙に巻かれておっ死んでも知らねーぞ。で、何処に運ぶんです?」
マリアは破顔した。
そんな笑顔を見たのは初めてで、ジョルジェは思わず見とれてしまった。
「機関室へ。動力を動かす」
すぐに冷たい声で命じたマリアに、ジョルジェは一瞬の幻だったことを知り、落胆した。
マリアは大きな二重の舵輪にしがみつくと、渾身の力をこめた。
ついには全体重を乗せ、取り舵にいっぱいに回し、ロープで固定する。
煙でほとんど前が見えない。
濡らしたタオルも呼吸を助ける役には立たず、自分が何をしているのかさえも、ぼうっとして分からなくなってくる。
船底から咳き込みながら戻ってきたジョルジェを見て、ほっと息をつく。
船内の煙はもっと密度が濃い。よくやってくれた、と思わないではいられない。
「動かせたか?」
「一応訓練船で、一通り習ってるからな」
ジョルジェが指を差すと、煙突から煙が出てくるところだった。
「司令官閣下のご命令通り、出力は最大にしてきた。高速で動き出す前に飛び込まなきゃ、推進に巻き込まれるぞ。それに黒石って、あんなに一気に入れたらまずいんだろ? 耐圧の限界とかで、燃焼室だか復水器だか知らんが、どっかが爆発するかもしれねえんだよな?」
「好都合だ」
敵の船はとっくに拿捕を諦め『東風』を放棄していた。繋がっていた何本もの鎖綱を断ち切り、この燃え盛る船から逃れようと必死だ。
敵の船体から突き出た何本もの櫂が、いっせいに動いているのが目に入る。風向きが変わり、帆が役に立たなくなったのだ。
しかし動力で動き始めた『東風』は、それを追うように走り出していた。
風上に向かって走行するなら、今の『東風』の追尾は帆船にだって勝る。
戦列艦は、みるみる三隻の帆船に近づいていった。
「速度が上がる前、過負荷で爆発する前、という問題ではないぞ」
マリアは煙を吸いすぎてぼんやりとした頭を振ると、懐中時計を取り出した。
目が痛くてまともに文字板が見えない。
「まずい、時間だっ」
「え?」
マリアはジョルジェの腕を、動く方の腕で引っ張って走り出した。
「段階的に火が着くように火薬樽に細工した。間もなく大爆発が起こる。引火するぞっ」
直後、船が盛大に揺れた。その揺れは今までの比ではない。
身体がバラバラになるような衝撃を感じ、ジョルジェは咄嗟にマリアを小脇に抱えあげた。
「飛び込むぞっ!」
舷縁に足をかけた途端、背後で噴火のような爆発が起こった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
帝国の艦を奪われるわけにはいかない。
『東風』の兵士たちを救出し、斉射の準備をしていた武装補助艇と、それが戦列に戻るのを待っていた主力艦隊も、自分たちの砲撃が必要なかったことを知った。
最後に激しく上った火柱は、初め、艦を奪われないためのものだと思った。
目論見どおり、三隻の海賊船はすぐに『東風』を捨て、逃走に入った。
ところが、燃え盛る戦列艦はスピードを増して、敵の船を追う。
そして今、帝国の艦隊の目前で敵の帆船に突っ込んで行ったのだ。
「すごいな。ただ沈めるだけに留めなかったか」
フランソルは段索を足場に、自ら檣楼に上り『東風』を観察していた。
右舷側の海賊船の軍団があらかた片付いてくると、彼の興味は左舷側にすっかり移っていたのだ。
マリア・ヴェルヘルムは『東風』の奪還には失敗した。
しかし今、彼の目の前で、左舷側にいた二隻の大型櫂帆船は爆発に巻き込まれ、沈んでいくではないか。
戦列艦を曳航するために、この二隻同士も近い距離に居たのがあだになった。
唯一幽霊船に偽装されていた帆船だけが、難を逃れた。
ボロボロとは言え、全ての帆が張ってあったからだ。
唐突に風向きが変わり、しかもそれが強い風だったため、そのままうまく潮流に乗る。
幽霊船は煙の中を抜け出して逃走した。
『両舷の敵ともに追撃不要。各自被害状況を調べよ』
『北風』のメインマストに信号旗があがる。
フランソルはそれには注目せず、胸騒ぎとともに、巡洋艦を見守った。
焼き討ち船戦法は、逃げるタイミングが難しい。
あんなに見事に敵の船を沈ませたのは、誰なのだろう。
まさか、マリア自らが指揮したのでは、という不吉な思いが、フランソルの脳裏をかすめる。
(補助艇に乗っているさ)
間もなくその希望は裏切られた。戦列に戻った快速帆船に、司令官の姿は無かった。
「待機してしていた艦載ボートで救助しようとしたんです」
事情説明に来た、マリアッチ伍長ーー『東風』に同行した師団の分隊の一人――はそう弁明した。
「もう少しでランバルト曹長の手を掴めたんですが……」
そのジョルジェはマリアの腕を捕まえていたが、鎖帷子を着たままだったマリアの身体は、『東風』の推進に巻き込まれるように深海に沈んでいった。
白兵師団に配給されている沼ワニの鎧だったらむしろ水に浮く。しかし、絶滅の危機にある動物を使用したその鎧は、実働部隊にしか与えられないのだ。
それは司令官でも例外ではなかった。
ジョルジェは、マリアが肩を痛めていたことを知っていたので、強く引っ張りあげることが出来なかった。
白兵師団の旗艦分隊長でもあるジョルジェは、ボートの部下たちに向かって、すまんっ! と謝ると、マリアッチ伍長の手を放し、自らマリアの後を追って海中に消えていったのである。
治安警備艦隊『神風』は、ルチニア王国を訪問する前に、司令官と大使を一度に失った。
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