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第四章

マリアの功罪

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「出来ない」

 マリアはフランソルに即答していた。

「そんなことして、後でバレたら私は殺される」

 皆が去ったあと、フランソルはマリアだけベッドの脇に残らせた。

 傷が痛むのか、彼の顔色はさきほどよりずっと青ざめている。

 話すのも辛そうだ。

「私の身体は思ったように動かない。骨が繋がるまでしばらくかかるでしょう。本当ならすぐにでも閣下を艦にお連れしたい。ですが、この祭りに各地から名医が招かれていたのも事実です。せめて、もう少しヘルツ元帥の目の様子が分かるまで──大佐、お願いです」
「声でバレるに決まっている」
「煙で喉がやられてしまったことにすればいい。私だってまだしゃがれていますよ。あなたも、たまに咳き込んでいるじゃないですか。悪化してまったく声が出なくなった、とでも言えば大丈夫です」

 複雑そうな表情に気づき、フランソルは紫色になっている口元に微笑を浮かべた。

「彼はさきほど、あなたを間違って抱きよせたのに、気づかなかった。あなたとあの女海賊は体型が似ているのです。失礼ながら、身長も体重もスリーサイズも、ほぼ同じなのではないでしょうか?」
「わ、分からない」

 すっかり動揺して涙目になっている元上官を見て、フランソルはちょっといじめすぎかな、と反省した。

 だが、彼は得体の知れない女海賊にアーヴァイン・ヘルツを任せる気にはならないし、あの女も殺されたって従わないだろう。

 かと言って、オルセーヌ伯の見繕った護衛や世話係などとんでもない。

「あなたがやってくれれば、召使いに扮した敵に毒を入れられることもないし、護衛も兼ねる事が出来る」
「肝心なことを忘れているぞ」

 マリアはイライラと部屋の中を歩き回った。

「中将、いや元帥は、カティラに夜の相手をさせようとしている」
「いいじゃないですか。あなたにとっての見返りはそれです」

 マリアは目を剥いて怪我人を振り返った。

 これほど冷静さを無くしているマリアを見るのは初めてで、フランソルは笑いたくなるのを堪えた。

 笑ったら、七転八倒することになる。

「アーヴァイン・ヘルツに抱かれた夢をみたことがあるはず」

 マリアはぐっとつまった。何故それを知っているのだろう。欲求不満女みたいで恥ずかしくなり、慌てて否定した。

「彼はそんな不埒な対象ではない」
「たった一度の機会です。このチャンスを逃したら、触れることもできませんよ。しかも相手には気づかれない」
「気づかれたら?」

 フランソルはため息をついた。

「私も貴女も殺されるでしょうね」
「細切れにされてね」

 マリアはフランソルより青ざめた顔に、微笑を浮かべた。

「私の父親が彼に何をしたか、情報部なら知っているのだろう?」

 フランソルは、苦しそうなマリアの言葉に頷いた。

「ニコロス四世は、ヘルツ元帥の奥方に自分の子を孕ませた」

 ニコロスは、頭角を現しそうな大貴族や軍人に対してのみ、その家族を一人、王宮の近くに留めおく規則を作った。

 アリビア本島全土統一の立役者であるアーヴァイン・ヘルツにも、同じことをしたのである。

 アーヴァイン・ヘルツの妻は人質に取られたようなものだった。

 王の政に批判的だった五大貴族の当主ベルナルダン・ボー、陸戦部隊の将軍ジークヴァルト・リクスナー、騎兵軍長アンドレイ・ガソット、水軍の元帥マルセル・ブイストロフ、マルグリット・ストールノ──皆それなりの地位や財産、階級を持っていた年配の男たちで、その妻もそこそこいい年齢をしていた。

 なぜ、たかが将官の青二才の妻が指名されたのか、当時は誰も分からなかった。

 少しばかり人気のある軍艦乗りの妻を、拘束する必要があったのか、と。

 やがて自分を滅ぼすことになる彼の才覚と豪胆さ、そして人脈を見出していたとすれば、ニコロスには予知に近い先見の明があったと言える。

「奥方が若くて美人だったのが、悲劇の始まりでした」

 フランソルの呟きに、マリアは目を伏せた。

 基本的に人質には敬意を払い、何不自由なく宮廷生活を楽しませていたのだ。

 しかしアーヴァインとナターリアには違った。

 戦功をたてても、なかなか帝都に戻れない北の海の警護が任され──事実上左遷である──意図的に引き離されていたという噂だ。

 皇帝は、仲のいい夫婦を憎悪するきらいがあったのだ。

「私が産まれなければ、全ての悲劇は避けられたかもしれないな」

 ぽつりと呟いたマリアに、フランソルは気遣わしげな視線を投げる。

 マリアは彼の視線に気づくと、立ち上がって彼の裸の肩に手を当てた。

 ドキッとなって声が上ずる。

「な、なんですか?」
「冷えている」

 そして羽根布団を肩までかけてやる。

 こんな身体でなければ、ベッドの傍にマリアが居ることは拷問だったに違いない。

 おそらく、普通に押し倒していただろう。

「気をつけて。下半身はつぶれてませんからね」

 冗談ぽく言ったのに、マリアは聞いてなかった。

「どうして、皇帝ニコロスは……父は、あそこまでやったのだろう。憎まれて敵を作ることは得策とは言えない。皇帝は、唯一アーヴァイン・ヘルツを縛るものを、自ら潰してしまった」
「潰すつもりは無かったのでしょう。あれはニコロスにも予想外だった。まさかあんな沿岸に、海賊が出るとは思わなかったでしょうからね。殺されるのを予想して、無理やり乗せた訳ではありません。むしろ、妊娠してふさぎ込んでいた奥さんを元気付けるために、同じく人質になった要人の妻たちが外輪船周遊に誘ったと聞きましたよ。ただ──彼女は死んだも同然だった、と生き残った人たちは話しています。救助の船に乗ろうとはせず、沈み行く外輪船に自ら残った、と」
「皇帝は……一度お腹の子を殺しているのだろう? もう六ヶ月くらいになっていた胎児を、無理やり堕胎させたとか。その……一部の者の噂としてだが、密やかに囁かれていた。噂でなく、おそらくは事実──違うか?」

 本物のアーヴァイン・ヘルツの子供。ナターリアとの、最初で最後の……。

 ニコロスはそれを無情にも奪い取り、自分の子を植えつけた。

 フランソルは、その時の彼の様子を思い出して身震いした。

 氷の浮かぶ北の海にまで派遣されていた彼は、都でそんなことが起こっていたなどと知らなかったのだ。

 ニコロスはわざとアーヴァイン・ヘルツを本土から遠ざけていた。

 たまの休暇にしか帰れず、やっと出来た二人の子供だったのだろう。

 第一子を楽しみに帰国した彼が見たのは……。

 出迎えてくれるはずだった妻と子は無く、代わりに彼が対面したのは、明らかに自分の子では無い胎児を腹に入れ、防腐剤で固められた妻の水死体だったのだ。

 フランソルの沈黙は肯定だった。

 マリアは目を閉じた。

「どうしてそこまで出来たのだろう」

 マリアはその時の上官の絶望を思い、白い頬に一筋涙をこぼした。

 皇帝と同じ血なのだから分かるだろう、と前のフランソルなら罵っていただろう。貴様に、彼のために泣く資格などない、と。

 だが娘である彼女と、ニコロスは別の人間だ。同じ思考を持っていない。

「二人が愛し合っていたからですよ。誰の目から見ても。それが、皇帝には許せなかった。自分が最愛の妻に裏切られたと、思い込んでいたから」

 どんどん出世していく、敬愛する友人でもあるアーヴァイン・ヘルツに対して行われた仕打ちを、彼の周囲の人間は我がことのように感じた。

 それほど二人の夫婦は理想的だったのだ。

 一夜限りの女などは、数多くいたかもしれない。

 しかし、あの英雄が唯一縛られていたのは、ナターリア一人だったことを、皆知っている。

「遠洋から帰り、妻に起こったことを知った元帥が取った行動は、賞賛されるものでした」

 彼は悲しみに打ちひしがれるよりも、自分に出来ることを瞬時に考えたのだ。

 皇帝を潰すこと。

 だが表面的な怒りは、妻を乗せた船を襲った海賊への復讐として周囲に見せた。

 そして、遠洋航海で妻に対する執着を既に失っていたように、周囲を欺いたのである。

 アーヴァイン・ヘルツの女遊びがひどくなったのはその頃からだ。

 本当は絶望し、気が狂いそうになっていただろう。

 だが彼はそれを隠して、皇帝への反意を、国家転覆への計画に注ぎ込んでいったのだ。

「尊敬すべき人だな。私には出来ない」

 マリアはため息をついた。

 彼の心の中は、皇帝への怒りでマグマのように焼け爛れていた。

 それを隠して、ひたすら復讐するための爪を研ぎ澄ます。

 飛び掛る瞬間を、虎視眈々と窺いながら。

 アーヴァインは、妻に起こったことを詳しく知ると、フランソルだけに呟いた。

 皇族を根絶やしにしてやる、と。

 二コロスの子らを、同じように地獄に落とすと誓っていた。

 妻子に対する愛情もあったのだろうが、元々アーヴァイン・ヘルツは、奪われた自分の権利に対しては、とことん執念深くなる。

「あなたは絶対に、彼とは結ばれません」

 フランソルの静かな声が、マリアの心に落ちた。

 そんなことは知っている。

 皇族を全て淘汰する、と言うのもあるだろう。だが、本当に彼が一番憎んでいるのは、マリアなのだ。

 ニコロスの血が流れているくせに、あの男の色素を受け継げなかったマリアの功罪。

 父を狂わせたのは、自分のこの青い瞳と金髪だと知っている。

 不貞の象徴として産まれたマリアという娘の存在が無ければ、初期には若き賢帝と言われたニコロスが狂うこともなく、母やレオナール・リッケンベルヘの父親が処刑されることも無く、ヘルツ夫妻がとばっちりを受けることも無かった。

 生まれたことが間違いだった。

「最後に一度だけ、彼に触れてみたくありませんか?」

 フランソルは、冷たいとさえ言えるようなそっけない口調で言った。

 実はこれを提案するのは、少なからず痛みを伴っていた。

 本当は、この不幸な女性を自分のものにしたかった。

 けれど、これほど気持ちがほかに向いた人間には出会ったことが無い。

 落とせない女はいない、と豪語してきたフランソルにも、ついに無理だと判断させた女が彼女だった。

 この元上官は、元帥を愛しすぎている。

「違う人間に成り代わるチャンスです。これを逃せば、あなたは二度とアーヴァイン・ヘルツに触れることは出来ない」
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