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第一章
南から来た少女
しおりを挟むマリアは舵輪の前の椅子に腰掛け、出港直前に手に入れた日報に目を通している。
アリビア新政府とルチニア王国間での戦争が、意外にもまったく始まりそうにない。
むしろ北方のラストビア大陸諸国だ。
ところが、きな臭くなってきているわりに、こちらもまだ直接やりあってはいない。
アリビアには、封鎖艦隊に貿易航路を潰されて、資源等輸入品が入らなくなってきているという。生産が落ち込み、いつかのように再び物価が高騰しそうだ。
だが、大手をふるって意気揚々と継承権をふりかざし、それを侵攻理由にしていたブルゴドルラードは、王太子妃とその王子を亡くし、ただの侵略戦争の様相になってきている。
それにより、国交断交措置を一時的にとっていた東の大陸サイは、アリビアとの交易を再開した。
「サイからの原料が手に入るなら、東の生産地帯は回りそうだな」
活字を読みふけりながらポツリと呟くマリアに、声がかけられる。
「港で聞いたけど、ルチニア王は気がふれてるって噂だ」
ナーフィウが日報を覗き込んでそう言った。
彼の双子の兄タンマームはルチニア王国の王太子だった。兄のみ溺愛していた父王は後継を失い、もう何もかもどうでもよくなったのかもしれない。
「都の軍港を破壊していったのも、一役かっているかもな。アリビアはじりじりと、やつらが攻めてくるのを待っているだろうに」
「ねぇ、大佐。俺……いつか、様子を見に行っていいかな?」
捨てたはずの故郷がどうなっているか、こんなに気になるなんて……。ナーフィウは唇を噛む。
マリアは優しい眼差しでそんな少年を見つめた。
「好きにしろ。おまえは自由なんだか──って近いっ近いっ近いっ」
フラフラッとナーフィウは、マリアの桜色の唇に吸い付いていた。
「おうっ」
例外無く腹を殴られる。マリアはプンプン怒りながら船首に向かう。この王子の口づけなど子犬に舐められた程度にしか思えないが、侮られるのには我慢ならない。
「どいつもこいつも私が船長であることを忘れている」
「何だよ、減るもんじゃないのに」
ナーフィウはせっせとマリアを追いかけた。その時、鋭い視線を感じた。
(え?)
驚いたようにこちらを見ている女がいる。もちろん、ウラジーミルの連れてきた女の一人だ。
この辺りは雨も少なくカラリとして気候がいい。なのに、大きなフード付きの外套を頭から被っている。顔は見えないが、凍りついたように固まってこちらを見ているその様から、女が明らかに自分を見てショックを受けているのが分かった。
「なんだよ?」
「殿下?」
ナーフィウはその言葉にぎょっとなり、マリアがすごい勢いでサーベルを抜き、少年の前に出た。
「何者だ? うちの船員と知り合いか?」
サーベルの先を外套にひっかけ、身を覆うそれを剥ぎ取る。
すると、中から浅黒い肌の少女が出てきた。十六、七の若い娘だ。若くて美しいはずなのに、その表情は疲れきっていた。
「タンマーム殿下ではないのですか?」
少女は怯え、震える声でそう言った。マリアとナーフィウは顔を見合わせた。
※ ※ ※ ※ ※ ※
天気は快晴で、波は穏やかだった。
ゆるい向かい風のなか、詰め開きでのろのろ進ませてはいるが、穏やかな内海だ。速度は遅い。
白い帆を張った『白波』は多少斜めになりながら、それでも順調に進んでいる。
手が空いているものは、順番に甲板で食事を取っていた。
マリアとナーフィウ、そして積み荷の女たちは、肌の浅黒い少女の身の上話を聞きだしている。
「へぇ、あんた、ルチニアから逃げ出してきたのかい」
一番年上のヘレンという女が、少女ファトマをしげしげと眺め、感心したように言った。
「遠かっただろうに。いったいどうやって?」
ナーフィウは、一刻も早くあの後のルチニアの情勢を知りたかった。仕入れたばかりの新鮮なパンを口いっぱいに頬張りながら、ファトマが口を開くのを待った。
「私たちは、後宮仕えの奴隷として宮殿で働いていました」
ファトマは一度、奴隷を検分する王太子の顔を見ていた。ファトマはちらりとナーフィウの顔を見る。
「別人だとおっしゃいますが、これほど似ているなんて。……下級層で広がっていた噂は、本当だったのでしょうか」
「噂?」
「殿下が二人居ると言う、噂でございます」
ナーフィウが俯く。ファトマはそれに気づきながら、さらに続けた。
「タンマーム殿下が帝国軍に殺害され──」
マリアは居心地悪そうに身じろぎした。正確には王太子を殺したのはマリアだ。
「都の最大の軍港を破壊された後、陛下の挙動はおかしくなりました」
国王サフワ・ウル・ハーキムは、その後から完全に狂気に取り付かれた。奇声を放ちながら神の名を連呼し、忠実な家臣たち、それに自分の妻たちを殺害しはじめたのだ。
「王宮は血の海になりました。陛下を取り押さえようとした者たちは、皆斬り殺されました。陛下は南の大陸アカリアに何度も遠征している武人──」
ファトマは息をつくと、自分の身体を抱きしめた。思い出したくない。神の代理でもある王に抵抗するものは、信心深い王宮にはいない。
抵抗できない者たちを、サフワは細切れにしていったのだ。
「自分に神が降りていると喚き散らしていました。全て神がやらせていると。やがて宦官長の判断と命令で、王室の警備兵たちが王を取り押さえました。が、ほとんどの家臣はもう息がありませんでした。陛下は拘束具をつけられ、王宮の地下に閉じ込められています」
ナーフィウは黙りこくってしまった。
「私は騒ぎに紛れて逃げ出しました。あんな中、奴隷が一人逃げようと誰もかまっていなかったから──ただ……」
ファトマの目から涙が零れ落ちる。
「あの後、残っていた権力者たちが争いだしました。宮中の、力のある宦官たちもです。それに各地を治めるそれぞれの部族の長が反乱を起こして──もうめちゃくちゃです。陛下の代理を務めルチニアの権力を握るため、内乱になってしまった」
マリアは納得した。
では、王国もまたアリビアと同じように内政が荒れているわけだ。復讐でも目論んで、すぐさま攻めてくるものと思っていたが。
王サフワは折れてしまったらしい。ポキッと。
「都の大臣たちは市民を徴兵し、各地の部族と戦わせています。傷ついているのは罪も無い人間。戦いたくも無いのに、同じ国の人間が殺しあっている。荒れ果てた港から逃げ出すものが、後を絶ちませんでした。私もそこに紛れて……」
ナーフィウは立ち上がった。
どこまでもくだらない国だ。あんなどうしようもない国家は滅びてしまうほうがいい。
「だったら、アリビアがとっとと国を纏めて遠征したらいいのさ。資源と安い労働力の奴隷がわんさかいる、南の大陸への足がかりにもなる」
「そんな!」
ファトマは驚いたようにナーフィウを見上げた。
「他国の人間が介入したら、アカリア人たちだけではない。私たちルチニア人も全員奴隷にされてしまう。故郷が亡くなってしまうなんて。あなたは、それでいいんですか? これから行くレトローシアは、そんな風にアリビア帝国に蹂躙された土地だと聞きました。そんな風になってもいいんですか?」
ファトマはこのタンマームにそっくりな少年が、ルチニア出身だと疑わなかった。
「あなたは何者なのです? なぜそれほどまでにあの方に似ておられるのですか? もしかして殿下の双──」
「しょんべん」
ものすごく不自然なのは重々承知。ナーフィウはすっとぼけながら舳先のトイレへと向かった。
二つしかない個室トイレの前に、女たちが行列を作っている。
「くそっ、女多すぎだろこれ」
女たちの一人が文句を言う。
「月のものになってないだけマシでしょ」
「そーよそーよ。男なんて、トイレ掃除だってまともにできやしないくせに」
「だいたいあんた何なのよ、まだオムツも取れてない年齢なんじゃないの? 坊や」
あの女司令官といい、ルチニアに居た頃は女がこんな恐ろしい生き物だなんて思わなかった。
ナーフィウは低俗な女どもに傷つけられ、クスンッと鼻をすすりながら舷縁に立った。
立ちションは男の特権。
ナーフィウが世界一大きな水洗トイレに向かって放尿しているとき、風向かいから順走して来た漁船が帆の向きを変え、こちらに向かってくることに気づいた。
女たちもそれに気づき、声をあげる。
「あの船、ずいぶん近いんじゃない?」
「あら、手を振っているわ」
ナーフィウは女たちを振り返り、ほーっとため息をついた。
ジェシカが飛んできて無邪気に手を振り返す。
「顔が見えるほど近くを、他の船が通るのって初めてね。あら? 誰か怪我でもしているのかしら。救難信号みたいな煙の筒振っているわ」
ナーフィウは息子をしまうと、ピョンと甲板に降りた。トップ台を見上げると、げえっと声をあげる。
雇った傭兵二人が乳繰り合っているではないか。見張りになってない。
「ちゃんと仕事しろよ」
ブツブツ言いながら、マリアを呼ぶ。
「大佐、漁船が来たよ。なにか不測の事態に陥って、俺たちに助けてもらいたいみたい──な感じを装っている不審船。ちなみに風上をとられてる」
マリアは再び舵輪の前に戻り、海図を広げてアンリエッタと何か話をしているところだった。煩そうに片手を振る。
「旋回砲用意。二、三発撃ち込んでおけ」
一杯開きでのんびりしていたジョルジェとウォルトが、仕方なしに立ち上がる。
えぇぇえっ!? 女たちがざわめく。ヘレンは訳が分からない、というように首を振る。
「ケガ人が出たみたいじゃないか。何で大砲なんだい?」
ナーフィウが面倒そうに答えた。
「だって、あっちが風上だから、逃げたって追いつかれちゃうよ」
「逃げる? 海賊が近づいてくるわけじゃあるまいし」
ナーフィウが汚いものでも見るかのように、女たちを見渡した。
「だからさー、海賊だけが海賊行為をするわけじゃないでしょ?」
そしてジョルジェとウォルトを手伝いに、砲門の方へ向かおうとした。ジェシカが怒ったようにナーフィウの前に仁王立ちする。
「やめてよ、助けてあげてよ。本当に困っているかもしれないじゃない」
「どいてろ小娘」
ナーフィウは腹がたった。二本のマストに縦帆のケッチ型。漁船とは言え、大型だ。けっこうな数の漁師が乗っている。大砲で追い払う方が楽なのだ。
しかしジェシカは、目に涙をいっぱいためている。
「話を聞くだけ聞いたらいいじゃない」
「そうよ、船体に穴が開いているのかもしれないわ」
他の女たちがジェシカの味方をした。流し網漁法で魚を捕る彼らは、漁村出身者にとって同郷の匂いがする仲間のようなものだ。
マリアは意にも介さなかった。まるきり無視だ。しかし──
「あり?」
ジョルジェは硬直した。ウォルトもだ。
「大砲ってどれくらい撃ってないっけ?」
二人とも、白兵師団に入団してから撃ってない。それに戦列艦には砲兵員にもなる水兵がたくさん居るから……。いや、もちろん誰か砲撃で欠けたら代わるけれど、ここのところ平和だったし──押し付けてごっついサボっていた二人だ。
「おまけに型が古いぞ」
スポンジ棒を持って呆然としている。装薬が先だっけ? 弾が先だっけ? それとも金玉でしょうか?
「何をやってるんだ」
マリアが立ち上がる。急いで砲門に向かおうとするところを、女たちがずらりと囲む。
「ねぇちょっとお嬢さん。貴女には分からないだろうけど、あの漁師たちには帰りを待つ家族がいるかもしれない。ここで見捨てたら、あの人たち里に帰れないかもしれないのよ」
「この広い海で、ずっと助けを待っていたのよ。それを大砲で蹴散らそうなんて、あなたそれでも女なの?」
「そうそう、にこりともしないしねぇ。思いやりを忘れたらフェロモンも無くなるわよ」
「男の格好しちゃって、女らしさのかけらもないわ」
「そのうち髭が生えてくるわ」
うわぁ、さすが漁村の女たち。自分たちの村に残してきた男たちを思い出したのねぇ、とアンリエッタは能天気に思った。そして憮然としているマリアのほっぺを、後ろから掴み、ぐいっと伸ばす。
「らにほふる」
「そうなのよ、大佐って顔面神経痛だし不感症だし、私なんかと比べるとぜんっぜん色気なんてないけどぉ」
「をい」
青筋を立てて静かに怒っている上官は無視して、アンリエッタはさらに続けた。
「でも、船乗りとしては出来すぎてるのよ。だから──」
アンリエッタの声に迫力がこもり、驚く女たちを人が変わったような顔で睨みつける。
「ただの商品が、この人の邪魔するんじゃないわよ?」
女たちが怯えた瞬間、船に衝撃が走った。
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