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第5章
アニス、奮闘する①
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二一一三年 九月某日 王の日記より
最近、彼女はわたしを避けているようだ。贈ったペンダントも返されてしまった。
元老院を初め、みなが世継ぎをとうるさい。妃候補を次々と連れて来ては、もう誰でもいいから選べと言う。
これまで、周りを失望させないためだけに生きて来たが、誰でもいいということは、それは誰でもない。
試行錯誤をくり返し、ようやく試作品を持って割烹着姿のアニスがよろよろと工場から出て来たのは、会議から三日目のことだった。
「こちら、固めたものです。まだ熟成前ですが、香りだけなら確認できます」
早速、わらわらと作業員が集まって来る。アオイも、牛乳パックで固めた石けんに興味深げに手を出した。
「あっ、アオイ。水酸化ナトリウムが残ってるから、まだ触っちゃダメよ」
水酸化ナトリウムとは石けんの材料のひとつで、取り扱いには注意が必要とされる劇薬である。
サンプルを囲む全員に手袋が配られ、みな牛乳パックに顔を近づける。始めに声をあげたのはアオイだった。
「……いい匂い! これ、オレンジの香りだ!」
「清々しいな! これならフロで使えるぜ」
ほかの社員も感動したように、口々に石けんをほめ讃えた。同時に、不思議そうに香りを確かめる。
「油くささが消えてるな。いったいどうやったんだ?」
「鹸化率を高めに設定し、ミニオレンジの皮を擦ったものと、乾燥させたもので香りづけしました。アロマオイルや香料を使うよりは安価ですみます」
感嘆の声があがる中、アカザが試すような口調で尋ねる。
「ほう、だが使い心地はどうかな。溶けやすいままでは今までと変わらんだろう」
「熟成が終わり、実際使用するまではなんとも言えませんが、廃油を減らし代わりに牛脂をブレンドすることで、溶けにくい効果が期待できます。牛脂は、近くの食品工場でただでもらえます」
「いやはやアカザさま、この子は事務より現場向きですよ」
感心するヒノキに、さすがのアカザも言葉を呑む。
「……ふん、まあいい。とりあえず休め。ロクに三日寝てないだろうが」
その言葉を合図に、アニスはにっこり笑みを浮かべたまま、ふらっと横倒しに傾いた。
「わあっ、アニス!」
「……っとぉ」
間一髪でアカザが支え、アオイはほっと胸をなで下ろした。
「──っとにしょうがねえなあ」
そのまま、ひょいと抱き上げ別館へ向かう。アカザの後を、アオイが仔犬のように追いかけた。
「どこへ連れて行くの?」
「寝室に決まってんだろうが」
「アニスに何もしない?」
「何するんだよ」
「アカザさまがお店の女の子にするようなこと」
アオイが不機嫌につぶやくと、アカザは呆れたようにため息をついた。
「阿呆、こんなガキに手え出すか」
「──ガ、ガキじゃないもん!」
痛みを溜めた目で見返され、アカザが思わず立ち止まる。
「いや、お前のことじゃないだろ」
「アカザさまの馬鹿! わあぁぁぁん!」
廊下を走り去るアオイの声は、フロア全体に響いた。
「なんなんだ、いったい……アイツも難しい年頃だからなあ……」
右脚で左脚のふくらはぎをぼりぼりとかきながらふり返ると、今度は点滴スタンドにゼェゼェとしがみつくツバキの姿。
「……アオイのやつが騒ぐから、めんどくせえやつが起きて来たじゃねえか」
アカザがふうとまたため息をつくそばから、殺気を醸しながらツバキが唸る。
「アニス博士に何してる……!」
「おっ、随分回復したじゃねえか。若いと治りも早えな」
「ごまかすな、そいつをどうするつもりだ!」
「どうするって、見りゃわかるだろ。ベッドに連れて行くんだよ」
「てっめェ……!」
包帯に巻かれた腕でパンチをくり出すが、アカザは簡単にすいと避ける。勢い込んだものの二発目はさらにへろへろと力が入らないうえ、アカザに足を引っかけられ、ツバキは点滴スタンドごと転倒した。
「あーらら。今ので退院がのびたかもな」
アカザがアニスをかかえたまま、ツバキの頭を踏みつける。
「ぐっ……」
「負傷しているとはいえ、非力だねえ。つらいか? 悔しかったら、さっさと立ち上がって強くなるこった。こっちはてめえらガキと遊んでるほど、ヒマじゃねえんだよ」
アカザが去って行く長靴の音を聞きながら、四苦八苦した後、ツバキはよろよろと起き上がった。
「くっそ……」
アカザの言うことは何も間違っていない。それがさらに腹立たしかった。
ひと暴れしたせいで、また肋骨の辺りが痛み出す。
それが怪我のせいなのかなんなのかわからずに、ツバキはぐっと胸をおさえた。
最近、彼女はわたしを避けているようだ。贈ったペンダントも返されてしまった。
元老院を初め、みなが世継ぎをとうるさい。妃候補を次々と連れて来ては、もう誰でもいいから選べと言う。
これまで、周りを失望させないためだけに生きて来たが、誰でもいいということは、それは誰でもない。
試行錯誤をくり返し、ようやく試作品を持って割烹着姿のアニスがよろよろと工場から出て来たのは、会議から三日目のことだった。
「こちら、固めたものです。まだ熟成前ですが、香りだけなら確認できます」
早速、わらわらと作業員が集まって来る。アオイも、牛乳パックで固めた石けんに興味深げに手を出した。
「あっ、アオイ。水酸化ナトリウムが残ってるから、まだ触っちゃダメよ」
水酸化ナトリウムとは石けんの材料のひとつで、取り扱いには注意が必要とされる劇薬である。
サンプルを囲む全員に手袋が配られ、みな牛乳パックに顔を近づける。始めに声をあげたのはアオイだった。
「……いい匂い! これ、オレンジの香りだ!」
「清々しいな! これならフロで使えるぜ」
ほかの社員も感動したように、口々に石けんをほめ讃えた。同時に、不思議そうに香りを確かめる。
「油くささが消えてるな。いったいどうやったんだ?」
「鹸化率を高めに設定し、ミニオレンジの皮を擦ったものと、乾燥させたもので香りづけしました。アロマオイルや香料を使うよりは安価ですみます」
感嘆の声があがる中、アカザが試すような口調で尋ねる。
「ほう、だが使い心地はどうかな。溶けやすいままでは今までと変わらんだろう」
「熟成が終わり、実際使用するまではなんとも言えませんが、廃油を減らし代わりに牛脂をブレンドすることで、溶けにくい効果が期待できます。牛脂は、近くの食品工場でただでもらえます」
「いやはやアカザさま、この子は事務より現場向きですよ」
感心するヒノキに、さすがのアカザも言葉を呑む。
「……ふん、まあいい。とりあえず休め。ロクに三日寝てないだろうが」
その言葉を合図に、アニスはにっこり笑みを浮かべたまま、ふらっと横倒しに傾いた。
「わあっ、アニス!」
「……っとぉ」
間一髪でアカザが支え、アオイはほっと胸をなで下ろした。
「──っとにしょうがねえなあ」
そのまま、ひょいと抱き上げ別館へ向かう。アカザの後を、アオイが仔犬のように追いかけた。
「どこへ連れて行くの?」
「寝室に決まってんだろうが」
「アニスに何もしない?」
「何するんだよ」
「アカザさまがお店の女の子にするようなこと」
アオイが不機嫌につぶやくと、アカザは呆れたようにため息をついた。
「阿呆、こんなガキに手え出すか」
「──ガ、ガキじゃないもん!」
痛みを溜めた目で見返され、アカザが思わず立ち止まる。
「いや、お前のことじゃないだろ」
「アカザさまの馬鹿! わあぁぁぁん!」
廊下を走り去るアオイの声は、フロア全体に響いた。
「なんなんだ、いったい……アイツも難しい年頃だからなあ……」
右脚で左脚のふくらはぎをぼりぼりとかきながらふり返ると、今度は点滴スタンドにゼェゼェとしがみつくツバキの姿。
「……アオイのやつが騒ぐから、めんどくせえやつが起きて来たじゃねえか」
アカザがふうとまたため息をつくそばから、殺気を醸しながらツバキが唸る。
「アニス博士に何してる……!」
「おっ、随分回復したじゃねえか。若いと治りも早えな」
「ごまかすな、そいつをどうするつもりだ!」
「どうするって、見りゃわかるだろ。ベッドに連れて行くんだよ」
「てっめェ……!」
包帯に巻かれた腕でパンチをくり出すが、アカザは簡単にすいと避ける。勢い込んだものの二発目はさらにへろへろと力が入らないうえ、アカザに足を引っかけられ、ツバキは点滴スタンドごと転倒した。
「あーらら。今ので退院がのびたかもな」
アカザがアニスをかかえたまま、ツバキの頭を踏みつける。
「ぐっ……」
「負傷しているとはいえ、非力だねえ。つらいか? 悔しかったら、さっさと立ち上がって強くなるこった。こっちはてめえらガキと遊んでるほど、ヒマじゃねえんだよ」
アカザが去って行く長靴の音を聞きながら、四苦八苦した後、ツバキはよろよろと起き上がった。
「くっそ……」
アカザの言うことは何も間違っていない。それがさらに腹立たしかった。
ひと暴れしたせいで、また肋骨の辺りが痛み出す。
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