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第4章

アニス、労働する②

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 怒涛の午前を終え、アニスがぐったりと机にうつ伏せていると、血相を変えた社員がひとり飛び込んで来た。
「ハレルヤマーケットの納品手配したの、誰?」
「おれだけど」
 ひとりの社員が立ち上がる。
「なんか、Sー2に商品変更したのに違うって」
「変更なんて聞いてねえけど──」
 ヒノキを初め、みなの目がいっせいにアニスへ集まる。アニスは、はっと青くなった。
(しまった──変更の電話、受けたんだった!)

「ハレルヤマーケットは、明日がオープンだぞ!」
「在庫は!?」
 ヒノキの言葉に、動揺とざわめきがが走る。
「Sー2はここにはねえ。でも旧市街の倉庫にならある!」
「わっ、わたし、取って来ます!」
「あっ、ちょっと待たんか!」
 ヒノキが止めるのも聞かず、アニスはゴーグルとマスクをつかむと、弾かれたように工場を飛び出した。
 
 旧市街の倉庫──偽のハイイロウサギに襲われた、あのビルのことだ。
 だが外は灰が幾千もの針になり、ブリザードのように吹雪いていた。
 しばらく行くと刺すような痛みに襲われ、アニスは思わず立ちすくんだ。ゴーグルをつけていても、ろくに前が見えない。ひどい砂嵐のせいか、出歩く者はおろか、車両さえ見かけなかった。店舗もシャッターを閉め、営業している様子はない。
 
 ふと、灰色の砂塵の中、アニスは店の軒先に小さな人影を見咎めた。
 急いで近づくと、ひとりの少年が防具もなしにうずくまっている。うっかり、忘れて出て来たのだろうか。
 だが、この天候でそれはない。
 少年は、躰のあちこちに傷跡が窺えた。襲われ、防具を奪われたのだと気づき、アニスは血の気が引いた。アオイが言っていた。上等な防具は、狩られてしまう危険性があると。
 少年は砂粒で表皮が固められ、息ができているかも怪しい状態だった。
「大変、早くどこかで診てもらわなきゃ……!」
 
 アニスは、少年の頬を覆う細かい粒子を払い、自分のマスクを彼へとつけ替えた。薄く目を開けた少年のかすかな呼吸を確認すると、自分とさほど変わらない背丈を背負い、急いで病院を探し始める。
「待ってて、もう少しがまんしてね」
 だが通りをいくらも進まないうちに、アニスは灰で滑って転倒した。はずみで、ゴーグルが飛んでいく。
(……!)
 そうなるともう、目を開けていられなかった。
 倒れた躰にも容赦なく灰がふきつけ、少年を背負ったまま、立ち上がることもままならない。ふきすさぶ灰が顔にはりつき、自分の呼吸すら危うくなった頃、急停止したサンドバイクから聞いたことのある声が降ってきた。

「こんな天気に出かけるとは、お前もあいつに劣らず馬鹿だな」
 涙でぼやけた視界に、迷彩のジャンプスーツを着た完全防備の男が、アニスの腕をつかんでいる。ガスマスクで声がくぐもってはいるが、アカザだとわかった。
 アニスは少年をかかえ、アカザに懇願した。
「あの、この子をすぐ病院に!」
「ああ、わかっている──おい!」
 バイクの後ろに控えていた車を呼ぶ。社員が運転する車に、無事少年が乗せてもらうのを見ると、アニスは安心して改めてアカザを見上げた。

「あ、あの、すみません……注文変更の電話、わたしのせいです」
 アカザはこちらも見ずに、おもしろくなさそうに答える。
「下のヘマはトップの責任だ」
 顔が見えないのでわからないが、怒っているようだ。だがアカザは、アニスを風の当たらない建物の軒下へ連れて行くと、淡々と述べた。
「天候の脅威について予め説明しなかったのは、こちらのミスだ。まあ、まさか知らんとは思わなかったがな。ただの台風でも灰都では砂嵐。長時間屋外にいれば、さっきの子のように命にも関わる。倉庫へは車を出すつもりだった」
 
 やがてヒノキを初め、アオイたち社員の乗ったトラックが駆けつけた。
「あっ、みなさん、すみま──」
「アニス、外に出たって聞いて心配したんだよ!」
 謝罪も言い終わらないうちにアオイに抱きつかれ、アニスは動揺してまわりを見た。ヒノキはやはり睨みを利かせているが、ほっとしたように額をぬぐっている。
「さあ、急いで商品を運ぶぞ」
 アカザの一声に、アニスもトラックに同乗し倉庫へ向かった。マーケットへ無事納品が済んだ頃、ヒノキにはくどくどと一時間にわたり説教をされたが、誰もアニスを責める者はいなかった。
 場末のこの工場に潔さと正しさを垣間見たアニスは、いつしか仕事への接し方が変わってきた。

「アオイ、こんな重いもの、そんな小さい躰でよく持てるわね」
 いつもの灰袋運びで、アニスが感心したように息をつく。今ではアニスも、一日三十袋のノルマをこなせるようになっていた。
「小さい、は余計だよ。これでもアニスとふたつしか変わんないんだからね、ぼく」
 アオイが得意げに腕をまくって見せると、きれいに陽灼けした二の腕がしなやかに袖からのびている。
「ここにいると、自然と鍛えられるんだよ。でもぼく、本当は絵を描く仕事につきたいんだ」
 そう言うとアオイは、積もった灰をキャンバスに、落ちていた枝でがりがりと線を描いていった。
「見て見て、これアカザさま。それでもってこれがリクドウでえ……こっちがアニス!」
 うれしそうに指さした地面には、三人の生き生きとした顔がこちらを見ていた。
 偉そうなアカザ、むくれているツバキ、笑顔の自分に、アニスは思わず感嘆の声が出る。
「まあ、そっくり」
 アオイの画力は、マツリカ女学院の誰よりも群を抜いていた。

「へえ、あのチビ、上手いもんだな」
 改めて紙に描いてもらった似顔絵をわたすと、ツバキはアニスのぶんも病室の壁にピンで留め、興味深げに眺めた。
「こっちはもう、ヒマでしょうがねェよ」
 言った後で、失言とばかりに急いで謝る。
「い、いや、すまん。アニス博士ばかり働かせちまって……」
「気にしないで下さい。リクドウさんは命の恩人ですから」
 にっこりと笑うアニスに、ツバキはわずかに動揺する。よくよく見れば、仕事明けなのだろう、アニスはそこはかとなく薄汚れていた。

「なんかあんた……こき使われてんじゃねェのか?」
「こき使われてますけど、平気ですよ」
 あっけらかんと笑って答えるアニスが、ツバキは不思議でならなかった。
 明らかに、コミューンを出た頃のおどおどとした感じが消えている。むしろ灰都に来てからのほうが、はつらつとして見えた。
(男子三日会わざればうんぬん──なんて言うが、女だってそうだ)
 青白かった肌は健康的にうっすらと陽に灼け、血色もいい。ふらふらとやせっぽちで頼りなげだった体幹も、今やしっかりと地に足がついている感じがする。
 自分が負傷している間に何か置いて行かれた気がして、ツバキは焦りを感じた。
(なんでだ、アニス博士がどう変わろうと、おれには関係ない。おれの仕事は、彼女が王女だと証明すればいいだけだ──)
 
 もんもんと自分に言い聞かせていた口上が、突然当のアニスによって遮断される。
「あっ、もう行かなきゃ。今から会議なんです」
「会議? なんの!?」
「どうやったら商品が売れるかの、作戦会議だそうです。この工場、結構な負債額があるらしくって」
「……な、なんでそんな大事な会議に、アニス博士が出るんだよ」
 思いもよらない展開に、頭がついていかない。
「アカザさんが、素人の意見も聞きたいって言うんです。また来ますね、お大事に」
「あの、ちょ……!」
 身動きが取れないとはいえ、完全に蚊帳の外である。激しく疎外感を覚え、ツバキは肩を落とした。
 アカザが病室のドアの隙間から、ニヤニヤと小馬鹿にした笑みをもらす。ツバキは力任せに、枕を閉じられたドアに投げつけた。

 会議はいつもの食堂で行われた。下はアオイから上は七十代の老人まで、あらゆる世代が参加している。
「さて、知っての通りウチは今、危機的状況にある。この現状を打破しないことには、工場に未来はない。そこで、みなの意見を募る」
 議長を務めるアカザが、食べ終わったキャンディの棒をぽいと投げ捨て、立ち上がる。
「ブレインストーミングといこうじゃないか。なんでも発言してくれ」

「はい! この石けん、すぐ溶けちゃって使いにくいんだ」
 早々に手を挙げたアオイの意見を、書記役のカシが太い指で黙々と打ち込む。躰が大きいので、普通のノートパソコンが単行本のようだ。すぐにひとりの社員も挙手した。
「おれ、匂いがあまり好きじゃないんスよね。廃油そのままで油くさいっていうか」
「フロ用じゃねーんだよな、台所用で」
 別の作業員も賛同してくる。ヒノキがサンプルの石けんのひとつを取って、くんくんと鼻に近づけた。
「スタンダードのHSハイトソープはともかく、Sー2タイプはいちおう香料を入れてるが」
「Sー2は安っぽい香水でカラダ洗ってる感じだよ。この桃みてえな匂いがあまったるくてなあ、もっと一般受けする匂いのほうがいいんじゃねえかな」
「む……だが高価な香料は使えんぞ」
 ヒノキの指摘に、一同はしばらく考え込んだ。
 アニスも思案を巡らせる。
 安価で大衆性のある香りは限られているうえ、アロマオイルは大量には使えない。
 
 そのときふと、コミューンのサービスエリアでツバキが買ってくれた、ソフトクリームを思い出した。
「あの、この辺、オレンジが特産だって聞いたんですけど」
「ああ、あけノ島で採れるミニオレンジね。小さいけど、あまみがあってうまいんだよ」
 ヒノキがおやつカゴの中から、ひとつを取ってわたす。アニスは卵ほどの小ぶりのオレンジをしげしげと見つめ、独り言のようにつぶやいた。
「これなら……」
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