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第51話 彼女と温泉にやってきたわけだけど
しおりを挟む箱根温泉は、関東でもメジャーな温泉地のひとつ。
新宿から織田急線で一本。
2時間足らずで行けるアクセスの良さから、都民にとって身近な憩いの場としての存在を確立していた。
12月7日の土曜日。
快速急行で小田原まで出た後、箱根登山線に乗り換え電車に揺られる事15分。
昼過ぎに、僕と彼女は箱根湯本駅のホームに降り立った。
「思ったより近かったねー!」
んんーーっと、天に向かって腕を伸ばす彼女が弾んだ声で言う。
彼女の吐く息は白い。
山に近いということもあってか、都内よりも温度はぐっと低いように感じた。
「まあ、あれだけ喋ってりゃね」
「久々の遠出にテンション上がっちゃって!」
冬の弱まった太陽に勝ってるんじゃないかと思うほどの笑顔を浮かべて、胸の前で両手をにぎにぎする彼女。
今日も今日とて平常運転である。
僕のほうは珍しく、気分は降水確率30%くらいの晴れ模様だった。
温泉という肉体的にも精神的にも癒しをもたらす催しに、それなりの期待を抱いているのだろう。
この寒ささえなければ、降水確率は10%くらいだったかもしれない。
「まずは腹ごしらえだね!」
生命感の満ち溢れた声で言って、駅前通りを大股で歩く彼女の後ろを付いていく。
電車の中でお店の目星はつけているので、彼女の歩みに迷いはなかった。
「あった!」
お目当の店は5分ほどで到着した。
京都の老舗旅館のような佇まいのお店は、この辺でも有名な蕎麦屋さん。
電車の中でお店を選んでいる際、近くのステーキ屋を提案した彼女に対し、温泉に入る前は軽いものを食べたほうが良いという僕の説得が功を奏した形である。
土曜日の昼過ぎということで行列を心配したが、幸いにも外待ちは一人も見当たらなかった。
「私のおかげだね!」
彼女が豪語する。
最初、ステーキ屋に行こうとしてなかったっけ。
僕が指摘すると、彼女は腰に手を当て胸を張り、さも当然という風に言った。
「その提案をしたからこそ、最終的にこのお店に決まったんじゃない」
これ以上の追求は諦めた。
理解の及ばない価値観に対し意地を張るのは利口じゃない。
店に入るなり、彼女はテンションをハイにした。
木目を基調としたレトロな内装がたいそうお気に召したらしい。
席につき、彼女を落ち着かせ、名物の山かけ蕎麦を注文する。
珍しく、彼女は僕と同じものを頼んでいた。
「てっきり、限定のいちごカレーそばを頼むものかと」
「すっっごく迷ったけど、苦渋の決断で山かけかな」
「君がオーソドックスなメニューを頼むなんて珍しいね」
言うと、彼女は空から神様でも降ってきたみたいにハッとして、前のめりに迫ってきた。
「もしかして、君の影響かなっ?」
端正な顔立ちが急に迫ってきたので、わずかに身を後ろに下げ顔を逸らす。
「知らない」
「あれ、もしかして……照れちゃってる?」
「これを照れと言うのなら、誰もピーマンで宇宙を耕そうとは思わないだろうね」
「どういう意味?」
「特に意味はないよ。適当に言っただけ」
言うと、彼女はぷははっと腹を抱えて笑った。
これはこれで返しとしては正解なのだろうかと、僕は少し得意になる。
ちょうどそのタイミングで蕎麦がやってきた。
店員さんは大笑いする彼女と無表情の僕をちらりと見やった後、微笑ましいものを見たような顔をして奥に引っ込んだ。
蕎麦はとても美味しそうで、いざ口にしてもその評価が覆ることはなかった。
彼女も終始蕎麦を賞賛していて、自分のチョイスは間違っていなかったと大満足のようだった。
ステーキ屋の件に関してはもう突っ込まない。
しばらくすすっていると、彼女が藪から棒にぶっこんできた。
「私たちさ、周りから見るとカップルに見えているのかな?」
鼻から蕎麦が飛び出るかと思った。
「いきなりなに言い出すの」
「特に意味はないよ。適当に言っただけ!」
彼女はにんやりと、悪戯が成功した子供みたいに笑った。
僕が顔をしかめても、彼女は笑顔のままだった。
彼女の意図はわからない。
普段なら無視して昼食を再開するのだが、彼女の視線にはスルーを許さない強制力のようなものを感じた。
ため息をつき、あくまでも個人的な見解を述べてやる。
「男女の関係には疎いからわからないけど、オブジェとして見るなら、そう思われる可能性もあるんじゃない」
「オブジェって」
彼女が身体を仰け反らせて笑う。
響きが変なツボに入ったらしい。
自分としては特に狙って言っているつもりはないので、抱いた感情としては『無』だった。
「そっかそっかー、オブジェで見るならかー」
ひとしきり笑い終えた彼女はほんの数秒だけ、今まで見たことのない種類の思案顔をしたかと思うと、何もなかったかのように蕎麦をすすり始めた。
単なる悪ふざけに違いないが、だとしたら心臓に悪すぎる。
僕にしては珍しく、やきもきした。
ふと、身体の温度が上がっていることに気づく。
きっと店内の暖房が効きすぎているのと、彼女の放つ熱気のせいに違いない。
食べ終えて、会計を済まし、温泉に行くぞと張り切る彼女に付き従って駅に戻った。
箱根湯本駅から各温泉に直接向かうバス目当てだった。
戻る途中、前方から3台のバスが颯爽と走り去って行った。
嫌な予感がして、それは的中した。
「バス、さっき出ちゃったみたいだね」
どうやら間が悪かったらしい。
乗り換えアプリで調べて見ると、次のバスは15分後の出発になるようだ。
しかし、土曜日ということでバス停は長蛇の列が形成されており、次の番で乗れるかも微妙な気がした。
今日も今日とて凍えるとまでは言わないが、じっとしているとなると中々に厳しい温度感であるし、かといってどこかのカフェで時間を潰すような余裕もない。
「どうする?」
聞くと、彼女は予め用意していたかのような間の速さで答えた。
「せっかくだから、歩こ!」
歩き、と聞いてあの悪夢が脳裏にフラッシュバックする。
ここは箱根だと言い聞かせ、心を落ち着かせてから尋ねた。
「行く温泉は決めてるの?」
「もちろん!」
「歩きだと、どれくらい?」
「んーと、30分くらいかな?」
結構かかるな、と思った。
普段全くと言っていいほど外に出ない身からすると、歩きで30分というのはそれなりにハードルの高い距離である。
「大丈夫! 今回は平坦な道のりだし、ゆっくり風景を楽しみながら行こうよ」
どうやら、徒歩で行くことに後ろ向きなのが見抜かれたらしい。
「それに、少し運動したほうが、温泉に入る時の気持ち良さが倍増すると思うの」
もっともらしい言葉を重ねる彼女。
なんとなく、彼女の腹づもりを察した。
「つまり君は、バスじゃなくて歩きで行きたいんだね?」
「あは、バレた?」
あっさりと白状した彼女は、悪びれた様子もなく色の良い舌を出した。
アクティブで好奇心旺盛な彼女のことだから、滅多に訪れる事のない地の風景をゆっくり堪能したいと考えてるのだろう。
まあ、いいか。
ここでぼーっとするのも時間が勿体無いし、彼女の言う「ちょっと身体を動かしたほうが温泉気持ちいいんじゃないか説」も一理あると思った。
「いいよ、歩こう」
僕が折れてやると、彼女はまるで喜びの感情しか持たず生まれてきたような笑顔を咲かせて、大きく頷いた。
この時折れてしまった事を、10分後の僕は心底後悔することになる。
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