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第15話 彼女のお誘い
しおりを挟む今日は花の金曜日。
かといって僕に予定があるわけでもない。
定時ぴったりに退社し、繁華街へと向かうスーツ姿のサラリーマンたちとは反対の方向へ歩いて帰宅した。
急いでシャワーを済ませ、普段よりも速いスピードでページを捲っていたのだが、19時を回ったところで悪魔のインターホンが鳴り響いた。
「やっ、お疲れ!」
ため息をつこうとして、呑み込む。
奥村さんとのやり取りを思い起こし、心を落ち着かせる。
彼女が「入っていーい?」と笑顔で聞いてくる。
僕は無言の頷きを返した。
自主的に彼女を招き入れるのは、初めてではないだろうか。
もちろん心から歓迎しているわけではないため、いつもの仏頂面は平常運転である。
僕がすんなり通したためか、彼女は数字が揃うともう一つジュースが貰える自動販売機で当ったような顔をした。
「おっ? なになに、今日は珍しく素直じゃん」
「君のような人間には抗うより、そのまま身を任せて嵐が過ぎ去るのを待つほうが良いって学んだんだ」
というふうに適当に理由をつけておく。
彼女に昼間の話はしなかった。
説明も面倒だし、今後僕がどうしても彼女に抗わなければならない事態になった時、それを引き合いに出されるのは都合が悪い。
「そっかそっかー! 君も少しずつ、私を受け入れ始めてくれたんだね、嬉しい!」
「どこをどう解釈すればそんな感想が出てくるの」
「違うの?」
問いかけに、僕は答えなかった。
ざんねーんと言う割には彼女に残念がった様子は見られず、なんならちょっと笑っていた。
僕は結局、溜めていた息を吐き出した。
今日の彼女はスーパーのレジ袋では無く、鍋を持参してきていた。
曰く、朝のうちに作っておいたらしい。
中身について尋ねたが、できてからのお楽しみとのことで回答を拒否された。
とはいえ鍋から漂う匂いであらかた予想はついてしまったけど。
制服の上に薄桃色の可愛らしいエプロン。
タイトさと家庭っぽさが組み合わさった可愛らしい格好の彼女が、鍋をIHにかけ、昨日残した野菜を取り出してきてサラダを作り始める。
テキパキとした動作は、自分の家かと疑うくらい手際が良かった。
なんならキッチン周りに関しては僕よりも理解が深いかもしれない。
僕は邪魔しないよう空気となってキッチンからフェードアウトし、リビングで読書を再開することにした。
キッチンから聞こえてくる上機嫌な鼻唄をBGMに活字の世界を冒険する。
だいぶ集中できるようになったものの、やはり読書は一人の空間で堪能するに限る。
自分はやはり一人の方が向いている性格のようだと再認識した。
しばらくして、嗅覚がスパイシーな香りを捉えた。
予想通り、今宵の献立はカレーのようだ。
8時間ぶりに食の気配を感じ取った胃袋がぶるぶると震える。
カレーは大好物のハンバーグに続き、それと肩を並べるくらいの好物度を誇る。
表には出さないものの、僕のテンションは微かな上昇に転じた。
決して表には出さないけれど。
◇◇◇
「美味しい」
「良かった!!」
今朝作られたカレーは、僕が外で活動してる間にしっかりと旨味を凝縮してくれていた。
とろみと深いコクのあるカレーは食材の甘みを感じつつも、ピリッと後を引く辛さがあって食欲を増進させる。
家で作ったはずなのに、専門店で食べるそれと遜色ないレベルだと思った。
少し硬めのライスと組み合わさると、もうスプーンが止まらない。
オニオンフライがたっぷり乗っかった付け合わせのサラダも、濃いめのカレーとの相性抜群であった。
「料理、どこで習ったの?」
半分くらい食べ進めた辺りで僕は彼女に問いかけた。
彼女個人について尋ねるのは初めてかもしれない。
ばくばくと相変わらず豪快な食べっぷりを見せていた彼女の動きがぴたりと止まる。
喉をごくりと鳴らした後、幼稚園のお遊戯会で演技を披露する子供みたいな笑顔を浮かべる彼女。
「習ってないよー」
「え、全部独学?」
「うん!」
「独学でこのレベルまで到達できると知って、僕も少し希望が持てたよ」
「お、褒められたっ、嬉しい! でも君は自炊を始めても、メニューが偏っちゃいそうだよね」
「人間が摂取する上で必要な栄養素を考慮したら鍋が最適らしいよ」
「お鍋美味しいけど、毎日はやだなー」
「いつから料理を?」
「んーと、幼稚園の頃からちょこちょこやってたけど、本格的にし始めたのは5年前からかな?」
一拍おいて、彼女は続きを口にする。
「ちょっと事情があって、お母さんが料理できなくなっちゃってさ。代わりに私がするしかなかったの」
お父さんは? と自然に湧いた疑問を喉のあたりで飲み込んだ。
母親が料理ができなくなるという部分で、何かしら良からぬ伏線になっているのではないかという勘が働いたのだ。
それとあと、ほんの少しだけ、彼女の明るい表情の中に、小さな暗がりを感じたような気がした。
「なるほど」
僕は短く答えた。
話を切るときによく使う便利な切り返し。
尋ねられなかったのはきっと、他者にどれだけ踏み込んで良いのか分からなかったからだ。
彼女は一瞬、目を丸めた後に小さく笑って、先ほどの違和感が幻だったのではと思うほどスッキリした表情で身を乗り出してきた。
「ねぇねぇそれよりさ! 今日すごく面白い出来事があったの、聞いてくれない?」
僕の心境を察して慮ってくれたのか、彼女自身これ以上広げたくない話題だったのか、どちらかはわからない。
兎にも角にも彼女は自らハードルを上げてまで聞いてほしい事があるようなので、僕は一言「なに」とだけ返す。
「今日コンビニでさ、108円のお茶を買ったの」
「それで?」
「110円出してさ、2円が返ってきた」
「うん、そりゃね」
「そしたらさ、お金、ちゃんと減ったんだなーって、改めて実感してね、すっごく面白かった!」
「ごめん、何を言っているのかさっぱりわからない」
おそらく100人この話を聞いたら98人が同じ反応を示す自信があるのに、彼女は「ええーっ」と抗議の声をあげた。
むしろさっきの説明で伝わると思ったのか。
僕が抗議したいくらいだ。
「どこに面白さを感じたのかを説明してほしい」
胸の中に生じたもやもやの受け皿くらいは用意して欲しかった。
彼女は「しょうがないなぁ~」となんとも腹の立つ笑みを浮かべた後、腕を組んでう~っと唸り始めた。
僕と逆で、彼女は言語化が得意じゃないらしい。
しばらくしてぴこんと、頭上に豆電球を光らせた彼女が得意げに解説を始める。
「いつもの買い物だとさ、1000円札を出したら小銭がじゃらじゃら返ってくるでしょ? そのとき思わない? 逆に増えてないのかって」
「1000円札に対する価値の思い入れの強さにもよるけど、言いたいことはわからないでもない」
「でしょっ? 薄っぺらい紙切れ一枚を渡したら厚みのある硬貨が何枚も返ってくるのって、感覚的に紛らわしいからやめてほしいんだよねー」
「通貨システムに対して抗議があるのなら、そういう政党でも作って立候補すればいいよ。ほら、最近は国営放送局に抗議する政党とかあるくらいだし」
「あっ、それいいかも。貨幣制度を、ぶっこわーす!」
「ぶっ壊したらだめでしょ」
僕の返しに、彼女は「そうだねぇ」とくすくす笑った。
「それで、続きは?」
「えっと、今回私は100円玉と10円玉を出して1円玉2枚が返ってきた。大きい硬貨を2枚出して、小さい硬貨が2枚帰ってきたの。それを見てすっごく腑に落ちたというか、納得した! ちゃんと減ったんだな~って!」
「ああ……つまり、売買をした際に生じる自分の感覚と、硬貨のやり取りの結果が一致したって話?」
「そう、そういうこと! あったまいいー!」
「理屈は理解できたけど」
それを面白いと感じる感覚はやっぱり理解できなかった。
やはり彼女と僕とでは、感受性が違うらしい。
知ってたけど。
「お金の話してて思い出したんだけど」
彼女がまた別の切り口から話を始める。
くるくると話題が変わる彼女についていくのも一苦労だ。
「私、自分が「これは価値がある!」って思ったものにお金と時間をかけたい人なんだよね」
「またいきなり話が飛んだね」
彼女の脳みそは何個も分かれていて、それぞれが気まぐれで主張をしているのかもしれない。
なんて事を考えていると、彼女がよからぬ事を思いついた例の顔になっていた。
その場から逃げようとも考えたが遅かった。
「望月くん、明日ヒマでしょ?」
「暇じゃないと言ったら?」
「私、見たい映画があるの!」
「人の話聞いてる?」
きっと聞いちゃいない。
彼女は取り出したスマホをポチポチしたあと、僕に見せつけてきた。
「ああ、これ」
「そう! ケーキの子!」
前作「君の鼻」でメガヒットを飛ばし、日本のトップクリエイターの一人となった深海嘘子監督の最新作。
ゴシップに疎い僕でも、新宿駅構内のあらゆるディスプレイで予告編が流されているため嫌でも認知している。
映像美と感動的なストーリーラインに定評があり、今作も興行収入100億超えは間違いないだろうと言われているらしい。
瞳に期待を潤ませわくわくしている彼女に、尋ねる。
「一緒に行きたいと?」
ぶんぶん。
犬の尻尾みたいに、彼女の首が縦に揺れる。
僕はため息をついてから、率直な意見を具申した。
「こういうのは仲の良い友達と行ったほうが良い。僕なんかと行っても、つまらないだけだよ」
「望月くんとはもう、仲の良い友達じゃん」
「色々と突っ込みたいところはあるけどまず、君はこの作品に価値があると判断したから見に行きたいんでしょ? 僕みたいなのと一緒に行ったら、価値が半減するよ」
視聴後に手を取り合って共感しあえるような人と行ったほうが、彼女としても満足度は高いだろう。
そういう意味合いで助言したつもりだったのに、
「違うよ」
彼女は優しい声色で、僕の言葉を否定した。
何度説明しても理解してくれない教え子に根気強く付き添う家庭教師みたいな表情を、彼女は浮かべていた。
「私は、君と映画を観に行くことに価値があるって思ったの」
言われて最初の数秒間、彼女の発言の意味がわからなかった。
理解が追いついて、なんで? という疑問が湧いた時には、彼女は言の葉を続けていた。
「それに、美味しいお店にも連れていってもらわなきゃだし!」
今度はすぐに理解できた。
というよりこっちがメインか、と判断する。
「ウィンウィンがどうとか言ってたやつ?」
「そー!」
彼女の提案を全面的に了承した覚えはないけど、今それを議論しても仕方がない。
ただ事実として、彼女にはこの3日間、素晴らしい食生活を提供してもらった。
その対価はきちんと支払わなければならない。
息をついて、口を開く。
「わかった、付き合うよ」
僕の返答に、彼女はアイスクリームを一段おまけされた子供のような笑顔を弾かせた。
「やった! じゃあ、明日の10時にピンポン鳴らすね!」
「早い、眠い。できれば午後にしてほしい」
「寝坊助さんだなぁ。そんなんじゃ生活習慣病で死んじゃうぞー」
「君と違って、僕は仕事疲れという慢性的な疲労が溜まっているんだ。午前はその帳消しに充てたい」
「そっか! それは確かにだね。それじゃあ」
ぽちぽちと、彼女は再びスマホを弄る。
午後の上映時間を調べているのだろう。
「あった! じゃあ、16時でどう? 昼食直後だと眠くなるから、終わってからちょうど夕食になる時間で!」
「君にしては合理的な判断だね」
「でしょでしょっ? 望月君を見習って考えてみたの」
「僕を本当に参考にするなら、休みの日は家から出ずに部屋でゆっくりするのが最適解だよ」
「もう約束しちゃいましたー! 撤回はナシね」
「心配せずとも、僕は一度した約束を反故にしない主義だ。どんなに不本意な事でも」
後半部分を強調して皮肉を言ったつもりが、彼女は「えらいっ」と感心するばかりだった。
幸せな性格だと思う。
「夕食のリクエストは?」
「ボリューム満点なところで!」
善処する旨を伝えると、彼女はより上機嫌にカレーを頬張り始めた。
僕も若干冷めてしまったカレーを口に運ぶ。
こうして僕は、異性と映画に見に行くという人生初イベントに突入することとなった。
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