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【第2章】赤い薔薇と白い薔薇

その30 ✤百年戦争---前半(第1期と第2期)

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※こちらは「百年戦争」の相関図になります。イングランド王にはライオンマーク、フランス王には百合マークを付けました。 


 1455年に勃発した「第一次セント・オールバーンズ(ロンドン北方の街)の戦い」はイングランド国内においてはもちろん大きな局面となった戦いだったが、そもそもイングランドは1453年まで、既に長らく百年戦争に明け暮れていた末の状態だった。

 有名な「薔薇戦争」が始まったのは1455年だが、その前にまずはこの「薔薇戦争」のきっかけとなったその前の「百年戦争」について簡単に説明させていただく。
 
 時は14世紀前半のこと、イングランドの国王ヘンリー3世と、フランスのブルボン家出身の王フィリップ6世の諍いから始まった。

 340年あまり続いたカペー朝国王シャルル4世が、1328年に子のないまま崩御したことによって、次の王が誰になるかということは大きな問題だった。

 シャルル4世の父王フィリップ4世には3人の息子達(ルイ10世、フィリップ5世、シャルル4世)がいて、全員フランス王にもなったのだが、その3人が3人共、ただの一人も男子後継者を残すことができずに崩御してしまったことが原因だった。

 (男子もそれぞれ数名生まれたが全員死亡。例えば、ルイ10世の息子ジャン1世も王位を継いだが、父王の死から5ヶ月後に生まれ、彼自身は4日間しか王ではなかった。生後わずか4日で亡くなったからだ)


 そこに名乗りを上げたのが、200年続いたイングランドのプランタジネット朝国王ヘンリー3世。

 ヘンリー3世の母イザベルはフランス王家のシャルル4世の妹だったため、跡継ぎが断絶したカペー家においてはヘンリー3世のフランス王即位という話は荒唐無稽な話ではなかった。なぜならフランス国王だったフィリップ4世も母イザベルの父ということで、ヘンリー3世には祖父に当たり、その息子達である前述の3人の王は母の兄達で、ヘンリー3世にとっては伯父達でもあった。そう考えるとヘンリー3世は確かにかなりフランス王位から近い場所にいたということが理解できる。

 そういうわけで、まさにあと少しでイングランド・フランス両国を統治する「二大国国王ヘンリー3世にしてアンリ2世の誕生」という時だったのだが、しかしもちろん、そう簡単に事は進まなかった。
まだフランスにはカペー朝の傍流であるヴァロア家が残っていたから……。

 そしてついでに付け足すなら、ヘンリー3世の妻フィリッパ・オブ・エノーはフィリップ6世の1歳年下の妹ジャンヌ・ド・ヴァロアの娘でもあった。この争いを始めたフィリップ6世とヘンリー3世は義理の伯父と甥という関係でもあったのだ。

 見事に親戚中での戦いということに、驚かざるを得ないが、それほどに当時中世の時には既にヨーロッパの王室はほぼ全員が親族同士だった、ということなのだろう。
 

ここからは年代順に整理する。

〈1328年〉
シャルル4世の従兄弟にあたるブルボン家(こちらはフィリップ4世の弟のヴァロア家の祖シャルルの息子)のフィリップがシャルル4世崩御の後、フィリップ6世として即位。
この時はイングランド王エドワード3世もフィリップ6世の王位継承を渋々ながらも認める。
 
〈1337年〉
スコットランドへのフランスの支援や、亡命貴族の取り扱いの相違から、フランスがイギリス領アキテーヌ公領(フランス語ではギエンヌ、フランス南西部、ガロンヌ川中・下流域を中心とした地方ボルドーを中心都市とする地方名・旧州名)を没収宣言したために関係が悪化。

10月7日、エドワード3世は自身のフランス王位継承権を主張し、ついに11月1日、フィリップ6世に挑戦状を叩きつける。
 
 【第1期  1337年-1360年】
 
〈1337年〉11月1日
ここに百年戦争始まる
 
〈1339年〉
9月イングランドがフランスに侵攻
 
〈1340年〉1月26日 
エドワード3世は自身のフランス王を宣言。
ライオンの描かれた自分の紋章に、フランスの象徴である百合のマークも入れ始める。
 
〈1340年〉6月24日 スロイスの海戦
海戦によって、フランス海軍はほぼ壊滅
 
〈1346年〉8月26日 クレシーの戦い
この頃からプリンス・オブ・ウェールズとなったエドワード3世の16歳の長男エドワード黒太子も参戦し、イングランド勝利が続く。
 
〈1347年〉
黒死病(ペスト)がヨーロッパ中で大流行、推定死亡者は40万人から50万人。
1347年から1351年のペスト大流行によって、イギリスの人口は20%から33%が、フランスでは約半分の人口が失われた。
 
〈1350年〉
フランス 1350年にフィリップ6世が亡くなり、息子のジャン2世が即位。
 
〈1356年〉9月19日 ポアティエの戦い
イングランドの大勝。
エドワード黒太子の活躍により、フランス国王ジャン2世は捕虜となる。
息子シャルル王太子は摂政に。
 
〈1357年〉第1回休戦協定
ボルドー休戦協定(12年間)
 
〈1360年〉
有能だったシャルル王太子はイングランドと新たにブレティニ・カレー条約を結ぶことに成功。
 
〈1364年〉
ジャン2世は捕虜のまま、ロンドンにて死亡。
フランスはジャン2世崩御により、シャルル5世が即位
(シャルル5世はブルゴーニュ公フィリップ豪胆公の兄)
 
長きにわたり劣勢だったフランスだが、シャルル5世の統治したこの頃から形勢を持ち直す。
 
 
第2期 (1269年-1380年)
 
〈1377年〉
イングランド エドワード3世、64歳で崩御
 
エドワード3世の長男エドワード黒太子(1376年6月に45歳で赤痢あるいはペストにより病死)も既に亡くなっていたことから、エドワード黒太子の息子である10歳のリチャ-ド2世が即位。
 
〈1380年〉
フランス シャルル5世崩御により、11歳のシャルル6世が即位。
しかし1392年頃からシャルル6世の遺伝性疾患が発症。彼の母であるジャンヌ・ド・ブルボンは精神病を患っていた。そして彼女の曾孫---後の薔薇戦争の主役である---イングランド王ヘンリー6世もまたその精神疾患の血を受け継ぐことになる。
 
疫病、農民一揆、長い戦闘での両国の疲労、フランス王の精神錯乱、そういった様々な理由も重なり、イングランドとフランスは約30年間の休戦協定を結ぶことに。
 
〈1396年〉第2回休戦協定
3月11日にはパリにおいて、イングランド王リチャード2世とフランス王シャルル6世との間で 2度目の休戦協定(1426年までの28年間)が結ばれる。
 

 しかしこの頃には百年戦争はイングランド対フランスの戦いのみならず、同時にイングランドの内紛と、既にフランス国内の混乱も始まっていた。
 
 1350年にフィリップ6世が、1377年にはエドワード3世の当事者2人が崩御したというのにも拘わらず、百年戦争はイングランドとフランス国内の内紛とともに、ますます混乱を極めることとなる。

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