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拾九 Kyrie(主よ)
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1.
Kyrie eleison,
Christe eleison,
Kyrie eleison.
礼拝における重要な祈りの一つであり、「主よ、あわれみたまえ」という言葉で始まるとても有名で、とても短い聖歌が頭の中に鳴り響く。真由の頭の中は混乱と怒りと哀しみでグチャグチャになっていた。
もう既に終わった事であり、彼女が与り知らぬ話なのに何でこんなに悔しいのかわからない。敦が彼の友人達とどの様な交友があろうと、それはあくまでも敦の問題である。友人との間に殴り合いの喧嘩があろうと、なかろうと、それに関して真由が口を挟む権利など無い事も頭ではわかっている。しかし、友人の為に自分で自分の腕を切り落とそうとするなんて正気の沙汰とは思えない。なぜ自分を大切にしないのだろう?
「寝起きが悪いから、無理に起こすと機嫌が悪いぞ。やめとけ」
その様に岸本から助言されたが、真由は我慢できなかった。飲み屋から出ると、その足で表通りからタクシーに乗った。敦のアパートへ向かう道すがら、聖歌を繰り返し頭の中で再生して自分の波立った心を鎮めようとしたが、それは上手く成功している様には思えなかった。
(ひどい、敦さん。ひどい……)
敦を傷つける権利なんて、敦自身も持ち得ないものだと真由は信じる。何らかの問題を解決したくて考えに考え抜いた後でさえ受け入れがたいのに、敦は発作的にそれを行おうとしたらしい。彼のところに押しかけて何をしたいのか自分でもわかっていない。彼をなじりたいのだろうか?
「すみません。そこの信号の手前でお願いします」
「そこの角ですね」
「はい」
歩こうと思えば歩ける距離だったが、気が急いていたし暗くなっていた。タクシーの運転手に料金を支払って車外に出ると、仏頂面の敦がアパート前に座り込んでいた。以前、バイクの整備の為に作業していた場所だった。
「敦さん、こんばんは。どうして……」
「岸本からの電話で叩き起こされた。ったく、勘弁してよ。明日の朝早いし、超疲れてっからさっき寝たばっかだったんだよ」
見るからに機嫌が悪い。真由は躊躇して少し離れた場所から敦を見つめた。なぜ、部屋ではなくここで待ってたのだろう。部屋に入れたくないのだろうか。このまま追い返したいのだろうか。どうやって、切り出したいのか真由自身もわかっていない。先日会った時になぜ話してくれなかったのだろうか。いや、実際には何も起きなかったのだから話す必要はないのだろう。なぜ自分を大切にしないのだろうか。
数々の質問が真由の心に浮かんでは消えていった。敦は座ったまま真由の様子を見ていたが、いつまで経っても動き出さない彼女に痺れを切らしたらしく、上げた掌を自分の方に向かって振る動作で真由を手招いた。
「マユ、こっちに」
黙ったまま近寄ってきた女の手を握ると強く引っ張った。
「きゃっ」
「さみー。さすがに夜は冷えるね」
いつぞやのくたびれたスエット上下を着ている敦は引き寄せた真由を自分の膝の上に座らせると横抱きにした。
「あったけー。マユで暖を取ろう」
半ば呟く様に言葉を漏らしながら、髭が伸びた頬を真由の頬に擦り付けて来た。その痛い頬擦りに真由は思わず破顔した。
「痛い。敦さん。痛いです」
「うっせー。俺の安眠の邪魔したんだ。これぐらい我慢しろ。いー匂い」
頬擦りをしながら、真由の首筋につけられた淡いオードトワレの匂いに気付くとクンクンと犬の様に匂いを嗅ぐ。そのユーモラスな動きに小さく真由が笑うと、鼻先で彼女の耳の後ろをくすぐる。
ひとしきり、戸外でじゃれ合うと彼はそのまま真由を抱えながら立ち上がり、階段を上り始めた。
「敦さん。自分で歩けます」
「マユは何をするのかわかんねーから、安心できん。落っことしたら嫌だから、大人しくしといて」
落とされるのは嫌かもしれない。大人しくなった真由を荷物の様に抱えて、楽々と階段を上っていく。
「私、重いですから……恥ずかしいです」
「あ? 軽いよ。マユはもうちょっと食べた方がいいかも」
抱えながら真由の身体のあちこちを触ってくる。あまりのくすぐったさに悲鳴を上げそうになった真由が「やめないと仕返ししますわよ」と低く恫喝すると、鼻で笑われた。「よろしい。お望みならば」と、手を伸ばして敦の脇腹をくすぐると、彼は目を細めて嘲笑うようにほざいた。
「マユって時々、すっげーバカだよね。その時の状況を頭に置いて行動しましょうね」
「え? きゃっ!」
真由を抱えている腕を階段の手すりの外に突き出しながら敦が笑う。
「くすぐったいからマユを投げちゃおうかな?」
「やめて! お願い。ごめんなさい、もうくすぐらない! 敦さん」
敦の首に手を伸ばした真由の必死の表情を見て、敦が堪え切れないように笑い出す。涙目の真由は大層可愛く、幼く見えた。自分の首に腕を廻してかじりついて来た真由の耳に唇を落とす。
「ひゃっ!」
予期していなかった真由が驚いて小さく叫ぶと、彼の低い囁きが耳に流し込まれる。
「ひでー女だ、マユは。疲れた俺のエネルギーを最後の一滴まで搾り取るつもりだな」
「敦さん、戸外での卑猥な物言いはおやめください」
「どこが卑猥? まあ、いいや。飛んで火に入る夏の虫って冬にもいるんだね。俺と卑猥な事しよーね」
「敦さん? 明日早いと……」
「俺ってばさ、脇腹くすぐられると燃える性質なんだ」
「ええ?」
ニヤニヤ笑った敦は自分の部屋のドアを開けながら、彼女に耳打ちする。
「今週末は諦めてたから、すっげラッキーな気分」
2人を飲み込んだドアが閉まった。
2.
「どう?」
(何で今更感想を訊くのだろう?)
最初は激しかった口付けは、いつの間にかゆっくりとした優しいものに変わっていた。敦は敷きっ放しの寝具の上で真由の唇を貪っている。結局、ここに来た目的に触れる事も叶わず、なし崩し的に服を剥ぎ取られていた。
敦は当然の様な顔で真由の股間を弄ってくる。彼の大きな手で行われる手淫は予想外に繊細で、的確な刺激を与えられた真由は容易く快楽の渦に巻き込まれてしまった。
「すっげーベトベト。指だけでいってみる?」
返事も出来ないでいる真由は達する直前に指を抜かれ、不満そうに唸った。
「怒んなよ。やっぱ、俺も最初から飛ばすことにしたわ」
すぐさま亀頭が挿し込まれようとしたが、思いの外きつくて途中で一度止められた。
「濡れてんのに、きついね。俺、がっつきすぎ?」
指先で露出したクリトリスを潰すとあまりの刺激に真由の身体が大きく跳ねようとする。それを自分の身体で抑えながら、止まったペニスの挿入を再開する。
「敦さん……くるし…」
「痛くないだろ? 滑りが良くなってきた」
自分の上で真由を見つめる彼の目とペニスに同時に刺し貫かれ、真由は死にそうに喘いでいる。抜かれ、そして完全に外に出る前に押し込まれる事を繰返される。その度に真由は引き攣った軽い痛みと、擦られる膣壁のゾクゾクする戦慄を同時に感じる。乱暴に出し入れされている様で、実は細かい微調整がなされているその動きに翻弄され、半泣きで呻き続ける。
「あっ!」
高い嬌声が飛び出ると、勘のいい敦は狙った様にその箇所を集中的に突いて来る。
「いや、いや。そこだめ。止めて」
「弄って欲しいところを何で嫌って言うのか……本当、女ってわかんねー」
そう言いながら、敦は交わっている箇所を見ながら笑う。
「いい眺め。出たり入ったり。見てみる?」
「いや……あっ」
摘まれた乳首が引っ張られる。腰の動きが早くなってきた。吸って、吐いて、真由の呼吸が快感に追いつかない。心臓が止まりそうな苦しさなのに、気持ちいいのはなぜだろう。身体と身体がぶつかり合う音と自分の喘ぎ声、そして動物の様な荒い息が部屋の中を支配している。達した真由の叫びは敦の口の中へ呑み込まれた。
疲れた真由がうつ伏せに伸びている。
「飲む?」
キッチンから戻った敦がペットボトルで彼女の肩先をくすぐった。
「冷たいですわ」
飛び上がりもせずに口先で文句を言った彼女は「何ですか?」と質問を続ける。
「水。日本産」
「頂きますわ」
「んじゃ、起き上がりな」
「起こして下さいませ」
「仰せのままに。お嬢様」
笑いながら敦はペットボトルを近くに置くと、両腕を使って真由を仰向けにすると、腕を掴んで上半身を起き上がらせた。起き上がった真由の背後に座り、彼女を自分に寄り掛からせると、近くに置いたペットボトルを拾って彼女に持たせる。
「ありがとうございます」
自分で蓋を取り、二口ほど飲むとやっと人心地がついた。礼を言いながら、ペットボトルを床に置くと真由は自分の背後に居る敦の左腕に触った。これを切り落とそうとするなんて、信じられない。黙ったままその腕を撫でていると、その腕が真由の身体に巻きついてきた。
「岸本のお喋りめ」
背後からボソッと声が聞こえた。
「ひどいです。敦さん」
「はい、はい。反省してますよ。確かに考えなしだったね」
「本当です……」
真由はやはり敦相手だと雄弁になれない。言いたい事は沢山ある筈なのに思いつかない。
「でも、切らなかったよ」
「それは周りの方が止めて下さったからでしょう?」
「うーん……」
確かにその通りなので敦は反論出来ない。合口を蹴り上げたあの田舎ヤクザの兄ちゃんはかなりの「てだれ」だった。自分は充分にその気になっていたし、躊躇しなかった。周りの人間は誰も間に合う「間合い」に居なかった。それなのにあいつは間に合った。
素早く近寄られた事さえも自分に気取らせなかった。ある程度の格闘術をマスターしている敦さえも驚く早業だったのだ。
(業腹だが、次にあいつに会う機会があれば礼を言うべきだろうな……)と敦は考える。とにかく、今も問題なく生活でき、女を抱けるのもあいつが蹴り上げてくれたせいだろう。利き腕じゃないからいいかと何であの時思ったのか不思議だ。腕一本無くなれば、生活はまるっきり変わってしまう。
「もう終わった事とは言え、伺った時は寿命が縮みました」
真由は振り向いて敦の顔を眺めた。怯えた目付きだった。
「マユは大袈裟だな」
「ご自身を傷つける行為はなるべく控えてくださいませ」
「はい、はい」
「はいは一回で宜しいですわ」
「はい」
素直に言い直した敦を見つめる彼女の目付きが優しく和む。女は不思議だ。年端も行かない幼女でさえも、強く母性を感じさせる瞬間が確実にある。今の真由もそれに当て嵌まる。そんな女に接すると、自分の様にひねた男でさえも素直になる。そう考えながら、敦は真由の顔に唇を寄せて彼女の上唇を挟んで愛撫した。
「ふふ……」
笑った真由が敦の唇に愛撫を返す。
「敦さんの唇も柔らかいのですね」
「……?」
何かが引っ掛かって敦は唇による愛撫を中断した。眉を顰めて彼女の顔を眺めると、彼女は「あっ!」と言いたそうな表情を作り彼を見つめ返した。
「どういう意味? まるで他を知っているような口ぶりだけど?」
一瞬逸らされた視線にピンときた敦は真由の後頭部を掴み、固定した。視線を合わせると、首を傾げながら囁いた。
「俺に何か言いたい事ない?」
合わせた彼女の視線が揺れる。自分の迂闊さを呪っているのだろうか。
「当ててやろうか?」
「いえ、クイズをしているわけではございません。真澄さんと一度だけという事で接吻致しました。それだけです」
「ふーん?」
投げやりに相槌を打ちながら、敦は真由の髪の毛を握って強く引いた。
「いたっ。敦さん?」
握られた髪を思いっきり後ろに引っ張られたので、真由の頭がガクッと仰け反った。敦の目の前に彼女の無防備な喉元が現れ、彼はそれに遠慮なく唇を付ける。
「やっ! 止めてください、敦さ……っ!」
彼の意図を悟った真由が逃げようとするが、がっちり掴まれているので身動きさえもままならない。鋭い痛みが彼に吸い付かれた箇所から伝わってくる。痛いのに、背筋がゾクゾクとし、快感が小さく炸裂する。少し口を外して彼女の肌を確認すると、敦は上書きするように同じ箇所にもう一度吸い付いた。
「……お止めください」
「俺も舐められたもんだな? 女にこんな風に手玉に取られるのは久々だわ」
喉に吸い付く合間にくぐもった様に聞こえる敦の声が聞いた事もない冷気を帯びている。
「マユを誰かと共有するつもりはないって、俺言ったよね?」
「敦さん」
真由の髪の毛を放し、敦は顔を上げた。腕を開き、真由から離れていく。真由は視線を上げて、敦を見上げた。底冷えがする絶望感が彼女を包みそうになる。彼は無表情に真由を眺めていた。
「敦さん、私は決して……」
「わりーけど、帰ってくれないかな?」
敦は少し歩き、あちこちに散らばっている真由が纏っていた衣服を拾い上げて彼女の目の前に落とした。
「それ着て。送るのは勘弁ね。ここからタクシーだとこれで足りるかな?」
自分の財布から取り出した紙幣を真由の目の前に落とす。
「手持ちがそれだけなんだわ。足りんかったら次にでも請求して」
「敦さん」
「とりあえず、顔見たくないから頼むわ」
「敦さん……」
「さっさと服着て帰れって言ってんだよ!」
いきなり怒鳴りつけられ、真由は身を竦ませた。他人どころか家族からもこの様に怒鳴られた経験がない彼女である。あまりの驚きに涙腺が緩んだが、必死で堪えた。泣いて何とかなるわけではないと思った。
「敦さんのお言葉を軽く受け止めていたのは申し訳ありませんでした。でも、」
「マユ」
「……はい」
見上げると、敦の冷たい目と視線が合った。この人はこの様な目付きで人を見る事もできるのかとせつなくなる。
「俺は帰れって言ってるの。喋れでも、言い訳をしろでもなく、か・え・れ」
それは冷たい言葉だった。怯みそうになる自分を励ましても反論するには多大な気力が必要だった。
「嫌です」
「は?」
「こんな気分で帰りたくありません。嫌です」
見上げると苦々しい表情で真由を睨む敦と目が合った。
「そか。じゃ、俺が出て行くわ」
敦はあっさりと穿いていたスエットパンツを脱ぐと近くの椅子に掛かっていたジーンズに足を通した。上半身にはそのままTシャツを着ると近くにあった本革のジャケットに手を伸ばす。真由は慌てた。思わず、飛びついて彼にジャケットを羽織らせない様に邪魔をする。
「やだ、お待ちください。なぜ敦さんが出て行くのですか? ここは敦さんのお家です。私が出て行きますから、お待ちください」
涙が出そうだ。でも、メソメソしている余裕は無い。真由は手早く衣服を纏い、浴室に駆け込んで髪の毛だけでも少し整えた。上着を羽織ると、キッチンテーブルの椅子に座ったまま頬杖をついている男に頭を下げた。
「それでは私はこれでお暇致します。夜分遅く失礼致しました」
部屋の中を一瞥して忘れ物が無いか確認する。勿論、忘れ物はある。敦の心を置いていくのだ。なぜこの様な事になったのか、本当にわからない。自分はどこで間違えてしまったのだろう?
堪えきれずに泣きそうになったので、靴を履くと無言で頭を下げて外に歩き出た。世界の終わりの様な気分だ。自分は明日の朝、目覚める事が出来るのだろうか?
3.
外からドアが丁寧に閉じられた。この様な場面でも、上品で礼儀正しい娘だ。頭にきてムカついているのに敦は思わず苦笑した。苦笑して、急に寂しくなった部屋を見回す。
何でこんなにムカついているのだろう。この程度の事はよくある話だ。他の女が相手だと、問題ないとして許すレベルだろう。場合によっては、相手の不実に気付いても、わざと気付かない振りをする時さえもあった。
(わかっている)
それは相手に真剣ではないからだ。相手を信用していないせいだ。信用していないから裏切られようが無い。真剣ではないから、何があっても気にならない。ウザくなれば、切り捨てればいいだけの話だ。
真由が行った行為は小さな裏切りだ。たぶん、彼女は裏切りとも思っていないだろう。後輩にせがまれた小さな悪戯。研究熱心な人間が時折り行き過ぎた実験をするように、学習能力の高い彼女の事だから、敦以外の人間にも同じように感じるのか試してみたかったのかもしれない。
一度きりだからと後輩と自分自身に言い訳をしながら行っただろう。少しの罪悪感。でも接吻一つだけだからと自分に言い聞かせている彼女の様子さえも目に浮かぶようだ。
「くそっ!」
誰も聞かない部屋の中で敦は鋭く自分を罵る。荒ぶった自分自身が怖かった。つい先刻はあの華奢な喉に吸い付きながら、歯を立てたい凶暴な衝動と闘っていた。吸い付いた部位もまずかった。人間の急所の一つなので、心底やばいと考えた。
真由は間違っても暴力を振るう対象ではない。吹けば飛びそうなあの娘に怒りで振り回した拳など絶対に当てられない。そう考えたら、家に帰すのが一番だと思ったのだ。しかし、言い方が乱暴すぎたかもしれない。いや、かなり乱暴だった。
珍しく頭を抱え込んだ敦が苦悩する。この姿を岸本や吉川あたりが目にしたら、間違いなく面白がって撮影モードにしたスマホを向ける事だろう。
ふと奥の部屋を見ると紙幣が寝具の上に散らばっている。真由はそれらは持っていかなかったのだ。1万円札が3枚。現在の敦の財布に入っていた全てだ。
(タクシーちゃんと乗れたかな?)
金銭面ではあまり心配していない。学生だという事実を差し引いても、多分、彼女は彼より遥かに金持ちだろう。
しかし、あの娘は妙なところで抜けている。それと何故か邪な人間に目をつけられやすい。邪な人間の筆頭である敦は苦々しげに眉を寄せた。突然、不安になったのだ。
今夜、岸本はしっかりしていた。彼は飲み屋の近くで彼女をタクシーに乗せると、そのタクシーのナンバープレートを撮影し、それを添付したメールを敦に寄越した。その上で、電話で敦を叩き起こしたのだ。タクシーに乗せた時間を知ってるので大体の到着時間もわかる。敦が外で待っていたのは偶然ではない。心配だから外まで出ていたのだ。万が一、到着しない場合はすぐにアクションを取れるようにである。
怒りに支配されていたとはいえ、自分はそこのところの気配りが出来てない。敦は慌てて立ち上がった。いつ出て行った?
バイクの鍵とヘルメットを手に、ドアの外に出た。アパートに鍵を掛けて、階段を降りると気が抜けた。固まったような後姿がアパートの前に座っている。真由を待っている時に敦が座っていた場所だ。
そっと近づき後ろから覗き込むと、彼女の前のアスファルト上に水が落ちている。後ろから近づいてきた人間に気がついている真由は肩を震わせながらも黙っている。出ようとする嗚咽を堪えているのだろう。何でこんなに可愛いのか本当にわからない。けれどこれは凶悪レベルと断言できる。
「マユ、ごめん」
隣に座ってヘルメットを地面に転がすと、真由の顔を覗き込もうとしたが、彼女は反対側を向いた。
「マユ?」
「ご覧に……ならないで…くださ。……みっとも…ないです」
「マユはみっともなくない」
無理矢理に真由の顔をこちらに向かせると彼女の頭ごと抱え込んだ。冷えた細い肩が痛々しい。
「ヒステリー出した俺のほうがみっともない。ごめん」
その言葉を聞いた真由の肩が大きく揺れ、堰を切ったように泣き出した。彼女の涙を吸った自分のTシャツが温かく濡れてくる。
「マユ、おいで。ここは寒い。部屋で話そう」
敦は泣き止まない娘を抱き上げて、もう一度階段を上っていった。
Kyrie eleison,
Christe eleison,
Kyrie eleison.
礼拝における重要な祈りの一つであり、「主よ、あわれみたまえ」という言葉で始まるとても有名で、とても短い聖歌が頭の中に鳴り響く。真由の頭の中は混乱と怒りと哀しみでグチャグチャになっていた。
もう既に終わった事であり、彼女が与り知らぬ話なのに何でこんなに悔しいのかわからない。敦が彼の友人達とどの様な交友があろうと、それはあくまでも敦の問題である。友人との間に殴り合いの喧嘩があろうと、なかろうと、それに関して真由が口を挟む権利など無い事も頭ではわかっている。しかし、友人の為に自分で自分の腕を切り落とそうとするなんて正気の沙汰とは思えない。なぜ自分を大切にしないのだろう?
「寝起きが悪いから、無理に起こすと機嫌が悪いぞ。やめとけ」
その様に岸本から助言されたが、真由は我慢できなかった。飲み屋から出ると、その足で表通りからタクシーに乗った。敦のアパートへ向かう道すがら、聖歌を繰り返し頭の中で再生して自分の波立った心を鎮めようとしたが、それは上手く成功している様には思えなかった。
(ひどい、敦さん。ひどい……)
敦を傷つける権利なんて、敦自身も持ち得ないものだと真由は信じる。何らかの問題を解決したくて考えに考え抜いた後でさえ受け入れがたいのに、敦は発作的にそれを行おうとしたらしい。彼のところに押しかけて何をしたいのか自分でもわかっていない。彼をなじりたいのだろうか?
「すみません。そこの信号の手前でお願いします」
「そこの角ですね」
「はい」
歩こうと思えば歩ける距離だったが、気が急いていたし暗くなっていた。タクシーの運転手に料金を支払って車外に出ると、仏頂面の敦がアパート前に座り込んでいた。以前、バイクの整備の為に作業していた場所だった。
「敦さん、こんばんは。どうして……」
「岸本からの電話で叩き起こされた。ったく、勘弁してよ。明日の朝早いし、超疲れてっからさっき寝たばっかだったんだよ」
見るからに機嫌が悪い。真由は躊躇して少し離れた場所から敦を見つめた。なぜ、部屋ではなくここで待ってたのだろう。部屋に入れたくないのだろうか。このまま追い返したいのだろうか。どうやって、切り出したいのか真由自身もわかっていない。先日会った時になぜ話してくれなかったのだろうか。いや、実際には何も起きなかったのだから話す必要はないのだろう。なぜ自分を大切にしないのだろうか。
数々の質問が真由の心に浮かんでは消えていった。敦は座ったまま真由の様子を見ていたが、いつまで経っても動き出さない彼女に痺れを切らしたらしく、上げた掌を自分の方に向かって振る動作で真由を手招いた。
「マユ、こっちに」
黙ったまま近寄ってきた女の手を握ると強く引っ張った。
「きゃっ」
「さみー。さすがに夜は冷えるね」
いつぞやのくたびれたスエット上下を着ている敦は引き寄せた真由を自分の膝の上に座らせると横抱きにした。
「あったけー。マユで暖を取ろう」
半ば呟く様に言葉を漏らしながら、髭が伸びた頬を真由の頬に擦り付けて来た。その痛い頬擦りに真由は思わず破顔した。
「痛い。敦さん。痛いです」
「うっせー。俺の安眠の邪魔したんだ。これぐらい我慢しろ。いー匂い」
頬擦りをしながら、真由の首筋につけられた淡いオードトワレの匂いに気付くとクンクンと犬の様に匂いを嗅ぐ。そのユーモラスな動きに小さく真由が笑うと、鼻先で彼女の耳の後ろをくすぐる。
ひとしきり、戸外でじゃれ合うと彼はそのまま真由を抱えながら立ち上がり、階段を上り始めた。
「敦さん。自分で歩けます」
「マユは何をするのかわかんねーから、安心できん。落っことしたら嫌だから、大人しくしといて」
落とされるのは嫌かもしれない。大人しくなった真由を荷物の様に抱えて、楽々と階段を上っていく。
「私、重いですから……恥ずかしいです」
「あ? 軽いよ。マユはもうちょっと食べた方がいいかも」
抱えながら真由の身体のあちこちを触ってくる。あまりのくすぐったさに悲鳴を上げそうになった真由が「やめないと仕返ししますわよ」と低く恫喝すると、鼻で笑われた。「よろしい。お望みならば」と、手を伸ばして敦の脇腹をくすぐると、彼は目を細めて嘲笑うようにほざいた。
「マユって時々、すっげーバカだよね。その時の状況を頭に置いて行動しましょうね」
「え? きゃっ!」
真由を抱えている腕を階段の手すりの外に突き出しながら敦が笑う。
「くすぐったいからマユを投げちゃおうかな?」
「やめて! お願い。ごめんなさい、もうくすぐらない! 敦さん」
敦の首に手を伸ばした真由の必死の表情を見て、敦が堪え切れないように笑い出す。涙目の真由は大層可愛く、幼く見えた。自分の首に腕を廻してかじりついて来た真由の耳に唇を落とす。
「ひゃっ!」
予期していなかった真由が驚いて小さく叫ぶと、彼の低い囁きが耳に流し込まれる。
「ひでー女だ、マユは。疲れた俺のエネルギーを最後の一滴まで搾り取るつもりだな」
「敦さん、戸外での卑猥な物言いはおやめください」
「どこが卑猥? まあ、いいや。飛んで火に入る夏の虫って冬にもいるんだね。俺と卑猥な事しよーね」
「敦さん? 明日早いと……」
「俺ってばさ、脇腹くすぐられると燃える性質なんだ」
「ええ?」
ニヤニヤ笑った敦は自分の部屋のドアを開けながら、彼女に耳打ちする。
「今週末は諦めてたから、すっげラッキーな気分」
2人を飲み込んだドアが閉まった。
2.
「どう?」
(何で今更感想を訊くのだろう?)
最初は激しかった口付けは、いつの間にかゆっくりとした優しいものに変わっていた。敦は敷きっ放しの寝具の上で真由の唇を貪っている。結局、ここに来た目的に触れる事も叶わず、なし崩し的に服を剥ぎ取られていた。
敦は当然の様な顔で真由の股間を弄ってくる。彼の大きな手で行われる手淫は予想外に繊細で、的確な刺激を与えられた真由は容易く快楽の渦に巻き込まれてしまった。
「すっげーベトベト。指だけでいってみる?」
返事も出来ないでいる真由は達する直前に指を抜かれ、不満そうに唸った。
「怒んなよ。やっぱ、俺も最初から飛ばすことにしたわ」
すぐさま亀頭が挿し込まれようとしたが、思いの外きつくて途中で一度止められた。
「濡れてんのに、きついね。俺、がっつきすぎ?」
指先で露出したクリトリスを潰すとあまりの刺激に真由の身体が大きく跳ねようとする。それを自分の身体で抑えながら、止まったペニスの挿入を再開する。
「敦さん……くるし…」
「痛くないだろ? 滑りが良くなってきた」
自分の上で真由を見つめる彼の目とペニスに同時に刺し貫かれ、真由は死にそうに喘いでいる。抜かれ、そして完全に外に出る前に押し込まれる事を繰返される。その度に真由は引き攣った軽い痛みと、擦られる膣壁のゾクゾクする戦慄を同時に感じる。乱暴に出し入れされている様で、実は細かい微調整がなされているその動きに翻弄され、半泣きで呻き続ける。
「あっ!」
高い嬌声が飛び出ると、勘のいい敦は狙った様にその箇所を集中的に突いて来る。
「いや、いや。そこだめ。止めて」
「弄って欲しいところを何で嫌って言うのか……本当、女ってわかんねー」
そう言いながら、敦は交わっている箇所を見ながら笑う。
「いい眺め。出たり入ったり。見てみる?」
「いや……あっ」
摘まれた乳首が引っ張られる。腰の動きが早くなってきた。吸って、吐いて、真由の呼吸が快感に追いつかない。心臓が止まりそうな苦しさなのに、気持ちいいのはなぜだろう。身体と身体がぶつかり合う音と自分の喘ぎ声、そして動物の様な荒い息が部屋の中を支配している。達した真由の叫びは敦の口の中へ呑み込まれた。
疲れた真由がうつ伏せに伸びている。
「飲む?」
キッチンから戻った敦がペットボトルで彼女の肩先をくすぐった。
「冷たいですわ」
飛び上がりもせずに口先で文句を言った彼女は「何ですか?」と質問を続ける。
「水。日本産」
「頂きますわ」
「んじゃ、起き上がりな」
「起こして下さいませ」
「仰せのままに。お嬢様」
笑いながら敦はペットボトルを近くに置くと、両腕を使って真由を仰向けにすると、腕を掴んで上半身を起き上がらせた。起き上がった真由の背後に座り、彼女を自分に寄り掛からせると、近くに置いたペットボトルを拾って彼女に持たせる。
「ありがとうございます」
自分で蓋を取り、二口ほど飲むとやっと人心地がついた。礼を言いながら、ペットボトルを床に置くと真由は自分の背後に居る敦の左腕に触った。これを切り落とそうとするなんて、信じられない。黙ったままその腕を撫でていると、その腕が真由の身体に巻きついてきた。
「岸本のお喋りめ」
背後からボソッと声が聞こえた。
「ひどいです。敦さん」
「はい、はい。反省してますよ。確かに考えなしだったね」
「本当です……」
真由はやはり敦相手だと雄弁になれない。言いたい事は沢山ある筈なのに思いつかない。
「でも、切らなかったよ」
「それは周りの方が止めて下さったからでしょう?」
「うーん……」
確かにその通りなので敦は反論出来ない。合口を蹴り上げたあの田舎ヤクザの兄ちゃんはかなりの「てだれ」だった。自分は充分にその気になっていたし、躊躇しなかった。周りの人間は誰も間に合う「間合い」に居なかった。それなのにあいつは間に合った。
素早く近寄られた事さえも自分に気取らせなかった。ある程度の格闘術をマスターしている敦さえも驚く早業だったのだ。
(業腹だが、次にあいつに会う機会があれば礼を言うべきだろうな……)と敦は考える。とにかく、今も問題なく生活でき、女を抱けるのもあいつが蹴り上げてくれたせいだろう。利き腕じゃないからいいかと何であの時思ったのか不思議だ。腕一本無くなれば、生活はまるっきり変わってしまう。
「もう終わった事とは言え、伺った時は寿命が縮みました」
真由は振り向いて敦の顔を眺めた。怯えた目付きだった。
「マユは大袈裟だな」
「ご自身を傷つける行為はなるべく控えてくださいませ」
「はい、はい」
「はいは一回で宜しいですわ」
「はい」
素直に言い直した敦を見つめる彼女の目付きが優しく和む。女は不思議だ。年端も行かない幼女でさえも、強く母性を感じさせる瞬間が確実にある。今の真由もそれに当て嵌まる。そんな女に接すると、自分の様にひねた男でさえも素直になる。そう考えながら、敦は真由の顔に唇を寄せて彼女の上唇を挟んで愛撫した。
「ふふ……」
笑った真由が敦の唇に愛撫を返す。
「敦さんの唇も柔らかいのですね」
「……?」
何かが引っ掛かって敦は唇による愛撫を中断した。眉を顰めて彼女の顔を眺めると、彼女は「あっ!」と言いたそうな表情を作り彼を見つめ返した。
「どういう意味? まるで他を知っているような口ぶりだけど?」
一瞬逸らされた視線にピンときた敦は真由の後頭部を掴み、固定した。視線を合わせると、首を傾げながら囁いた。
「俺に何か言いたい事ない?」
合わせた彼女の視線が揺れる。自分の迂闊さを呪っているのだろうか。
「当ててやろうか?」
「いえ、クイズをしているわけではございません。真澄さんと一度だけという事で接吻致しました。それだけです」
「ふーん?」
投げやりに相槌を打ちながら、敦は真由の髪の毛を握って強く引いた。
「いたっ。敦さん?」
握られた髪を思いっきり後ろに引っ張られたので、真由の頭がガクッと仰け反った。敦の目の前に彼女の無防備な喉元が現れ、彼はそれに遠慮なく唇を付ける。
「やっ! 止めてください、敦さ……っ!」
彼の意図を悟った真由が逃げようとするが、がっちり掴まれているので身動きさえもままならない。鋭い痛みが彼に吸い付かれた箇所から伝わってくる。痛いのに、背筋がゾクゾクとし、快感が小さく炸裂する。少し口を外して彼女の肌を確認すると、敦は上書きするように同じ箇所にもう一度吸い付いた。
「……お止めください」
「俺も舐められたもんだな? 女にこんな風に手玉に取られるのは久々だわ」
喉に吸い付く合間にくぐもった様に聞こえる敦の声が聞いた事もない冷気を帯びている。
「マユを誰かと共有するつもりはないって、俺言ったよね?」
「敦さん」
真由の髪の毛を放し、敦は顔を上げた。腕を開き、真由から離れていく。真由は視線を上げて、敦を見上げた。底冷えがする絶望感が彼女を包みそうになる。彼は無表情に真由を眺めていた。
「敦さん、私は決して……」
「わりーけど、帰ってくれないかな?」
敦は少し歩き、あちこちに散らばっている真由が纏っていた衣服を拾い上げて彼女の目の前に落とした。
「それ着て。送るのは勘弁ね。ここからタクシーだとこれで足りるかな?」
自分の財布から取り出した紙幣を真由の目の前に落とす。
「手持ちがそれだけなんだわ。足りんかったら次にでも請求して」
「敦さん」
「とりあえず、顔見たくないから頼むわ」
「敦さん……」
「さっさと服着て帰れって言ってんだよ!」
いきなり怒鳴りつけられ、真由は身を竦ませた。他人どころか家族からもこの様に怒鳴られた経験がない彼女である。あまりの驚きに涙腺が緩んだが、必死で堪えた。泣いて何とかなるわけではないと思った。
「敦さんのお言葉を軽く受け止めていたのは申し訳ありませんでした。でも、」
「マユ」
「……はい」
見上げると、敦の冷たい目と視線が合った。この人はこの様な目付きで人を見る事もできるのかとせつなくなる。
「俺は帰れって言ってるの。喋れでも、言い訳をしろでもなく、か・え・れ」
それは冷たい言葉だった。怯みそうになる自分を励ましても反論するには多大な気力が必要だった。
「嫌です」
「は?」
「こんな気分で帰りたくありません。嫌です」
見上げると苦々しい表情で真由を睨む敦と目が合った。
「そか。じゃ、俺が出て行くわ」
敦はあっさりと穿いていたスエットパンツを脱ぐと近くの椅子に掛かっていたジーンズに足を通した。上半身にはそのままTシャツを着ると近くにあった本革のジャケットに手を伸ばす。真由は慌てた。思わず、飛びついて彼にジャケットを羽織らせない様に邪魔をする。
「やだ、お待ちください。なぜ敦さんが出て行くのですか? ここは敦さんのお家です。私が出て行きますから、お待ちください」
涙が出そうだ。でも、メソメソしている余裕は無い。真由は手早く衣服を纏い、浴室に駆け込んで髪の毛だけでも少し整えた。上着を羽織ると、キッチンテーブルの椅子に座ったまま頬杖をついている男に頭を下げた。
「それでは私はこれでお暇致します。夜分遅く失礼致しました」
部屋の中を一瞥して忘れ物が無いか確認する。勿論、忘れ物はある。敦の心を置いていくのだ。なぜこの様な事になったのか、本当にわからない。自分はどこで間違えてしまったのだろう?
堪えきれずに泣きそうになったので、靴を履くと無言で頭を下げて外に歩き出た。世界の終わりの様な気分だ。自分は明日の朝、目覚める事が出来るのだろうか?
3.
外からドアが丁寧に閉じられた。この様な場面でも、上品で礼儀正しい娘だ。頭にきてムカついているのに敦は思わず苦笑した。苦笑して、急に寂しくなった部屋を見回す。
何でこんなにムカついているのだろう。この程度の事はよくある話だ。他の女が相手だと、問題ないとして許すレベルだろう。場合によっては、相手の不実に気付いても、わざと気付かない振りをする時さえもあった。
(わかっている)
それは相手に真剣ではないからだ。相手を信用していないせいだ。信用していないから裏切られようが無い。真剣ではないから、何があっても気にならない。ウザくなれば、切り捨てればいいだけの話だ。
真由が行った行為は小さな裏切りだ。たぶん、彼女は裏切りとも思っていないだろう。後輩にせがまれた小さな悪戯。研究熱心な人間が時折り行き過ぎた実験をするように、学習能力の高い彼女の事だから、敦以外の人間にも同じように感じるのか試してみたかったのかもしれない。
一度きりだからと後輩と自分自身に言い訳をしながら行っただろう。少しの罪悪感。でも接吻一つだけだからと自分に言い聞かせている彼女の様子さえも目に浮かぶようだ。
「くそっ!」
誰も聞かない部屋の中で敦は鋭く自分を罵る。荒ぶった自分自身が怖かった。つい先刻はあの華奢な喉に吸い付きながら、歯を立てたい凶暴な衝動と闘っていた。吸い付いた部位もまずかった。人間の急所の一つなので、心底やばいと考えた。
真由は間違っても暴力を振るう対象ではない。吹けば飛びそうなあの娘に怒りで振り回した拳など絶対に当てられない。そう考えたら、家に帰すのが一番だと思ったのだ。しかし、言い方が乱暴すぎたかもしれない。いや、かなり乱暴だった。
珍しく頭を抱え込んだ敦が苦悩する。この姿を岸本や吉川あたりが目にしたら、間違いなく面白がって撮影モードにしたスマホを向ける事だろう。
ふと奥の部屋を見ると紙幣が寝具の上に散らばっている。真由はそれらは持っていかなかったのだ。1万円札が3枚。現在の敦の財布に入っていた全てだ。
(タクシーちゃんと乗れたかな?)
金銭面ではあまり心配していない。学生だという事実を差し引いても、多分、彼女は彼より遥かに金持ちだろう。
しかし、あの娘は妙なところで抜けている。それと何故か邪な人間に目をつけられやすい。邪な人間の筆頭である敦は苦々しげに眉を寄せた。突然、不安になったのだ。
今夜、岸本はしっかりしていた。彼は飲み屋の近くで彼女をタクシーに乗せると、そのタクシーのナンバープレートを撮影し、それを添付したメールを敦に寄越した。その上で、電話で敦を叩き起こしたのだ。タクシーに乗せた時間を知ってるので大体の到着時間もわかる。敦が外で待っていたのは偶然ではない。心配だから外まで出ていたのだ。万が一、到着しない場合はすぐにアクションを取れるようにである。
怒りに支配されていたとはいえ、自分はそこのところの気配りが出来てない。敦は慌てて立ち上がった。いつ出て行った?
バイクの鍵とヘルメットを手に、ドアの外に出た。アパートに鍵を掛けて、階段を降りると気が抜けた。固まったような後姿がアパートの前に座っている。真由を待っている時に敦が座っていた場所だ。
そっと近づき後ろから覗き込むと、彼女の前のアスファルト上に水が落ちている。後ろから近づいてきた人間に気がついている真由は肩を震わせながらも黙っている。出ようとする嗚咽を堪えているのだろう。何でこんなに可愛いのか本当にわからない。けれどこれは凶悪レベルと断言できる。
「マユ、ごめん」
隣に座ってヘルメットを地面に転がすと、真由の顔を覗き込もうとしたが、彼女は反対側を向いた。
「マユ?」
「ご覧に……ならないで…くださ。……みっとも…ないです」
「マユはみっともなくない」
無理矢理に真由の顔をこちらに向かせると彼女の頭ごと抱え込んだ。冷えた細い肩が痛々しい。
「ヒステリー出した俺のほうがみっともない。ごめん」
その言葉を聞いた真由の肩が大きく揺れ、堰を切ったように泣き出した。彼女の涙を吸った自分のTシャツが温かく濡れてくる。
「マユ、おいで。ここは寒い。部屋で話そう」
敦は泣き止まない娘を抱き上げて、もう一度階段を上っていった。
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