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悪役令息は失意に暮れる(2)

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……ジワリと浮かぶ涙をどうにかしたい。誰もいないところを探して学園の裏手に走った。

植え込みを見つけてそこにうずくまると、涙があふれた。それを拭いて手を見るとまるまるとしている。食堂からここまで来るのにも息切れがした。

「ふぐっ……」

おなかがつっかえて地べたに座るのもつらかった。僕はどうしてこうなってしまったんだろう。

「ふっ…ふぐっ…」

気道が苦しくてうまく泣けない。そう言えばいつから殿下は僕のことを子豚と呼ぶようになったんだろう。昔はケトラと名前を呼んでくれていたのに。

「ふぐっ…」

僕がこれまで頑張れたのはオーブリー殿下が大好きだったから。それが今すべて壊れたのだ。

「ふぐっ…」

婚約破棄をしたいとはっきり言われてしまった。

「ふがっ…ふがっ」

情けなくて涙が止まらない。


そこへ黒い影が立った。見上げると騎士科の制服のズボンだけはいている背の高い人が立っていた。黒い瞳が僕をじっと見ている。なんでこの人上裸なんだ? 彼は僕を見て首に掛けていた手拭いを丸めて差し出してくる。


僕はそれを受け取って顔に近づけた。

……汗くっさ!

だけど、彼の親切心からの行動だ。端っこを使って形だけでも涙を拭いて見せた。ふらふらと立ち上がってその手拭いを彼に返す。

「ありがとう」

おなかをつっかえさせながらお辞儀をした。立ち去るかと思った彼は、じっと僕を見ている。


「お前うまそうだな」


肉付きの良い僕の体を上から下まで見て脇腹をガッと掴まれた。そのままふにふにと揉まれる。


「ひぃ」


情けない声が漏れた。


「俺は騎士科5年 クレインだ。君は?」


クレイン……確か。馬術と剣技の実技で学年1位を取っている奨学生の生徒だ。5年生にしてすでに近衛騎士団と辺境騎士団から誘いが来ていると噂もある。それだけじゃない。座学の方も上位10位にはかならず入っていて優秀だと噂の人だ。昼休みなのに演習場にいるという事はここで鍛錬していたのかと感心した。


「法務科5年 ケトラです」


クレインはハッとした顔をして僕を見る。


「第三王子の婚約者で座学1位のケトラ殿か」


にっかり笑いながら俺の脇腹をなおも揉み続けている。


「…はい」


「前回はどうして1位を取らなかった」


僕は肉を揉まれてくねくねしながら思い返す。前回はオーブリー殿下が1位になるなと命令してきたのだ。言われた通り全教科きっちり95点を取って、ずっと取り続けていた1位の記録を途絶えさせた。僕はうつむいてまた涙をぽたぽたとこぼした。その結果、父様と王妃様には怒られ。同級生と先生には手加減したことを罵倒された。涙が僕の出っ張ったおなかに落ちてシミをつくる。

クレインはまた汗臭い手拭いで僕の涙を拭いてくれる。

彼はなかなか気遣いのできる良い人らしい。手拭いは汗くさいけど撫でる手がやさしくなった。僕はうっかり殿下の指示だったことを口に出していた。


「なるほど、あの高慢王子のせいか」


僕は目を見開いて彼を見つめた。


「あ…あの…殿下の悪口を言えば就職先を失くしますよ」


殿下は王家だ、この国の就職先最王手だ。クレインは大きな手で俺の頭を撫でた。


「心配してくれるのか。ありがとう。この国に就職するならそうかもしれないが、俺はそもそも冒険者になる予定だ。だから、この国の就職先には未練なんてないよ。それより何で泣いてたんだ?」


僕は目を見開いてそれを聞いた。王家にしがらみのない人が学園にいるなんて思ってもみなかったことだ。それならば僕もこの心に溜まった澱を彼に吐き出しても良いんじゃないかと思った。


「聞いてもらっても良いですか?」


クレインはにっこりとうなずいてくれた。そして、今までのことを少しずつ吐き出した。彼はなかなかの聞き上手で、おなかを揉むのをやめてくれたらもっと良かった。それでも、おかげで気持ちの整理ができてスッキリした。彼を見上げると彼は眉間にしわを寄せた険しい顔をしていた。


「高慢王子を好きになる理由が分からない」


「だから、顔がすこぶるいいじゃないですか」


クレインは僕をじっと見て。


「今はその顔を見るのも嫌なら、婚約破棄は大歓迎じゃないか」


僕はハッとして彼を見上げた。


「そっか! そうですね」


僕は殿下の婚約者だからと言う理由でいろんなことを諦めてきた。魔術の授業。剣術の授業。乗馬の授業。どれも危ないからダメだと言われた。それもこれも全部オーブリー殿下の婚約者だったからだ。婚約者でなくなれば、やりたいことを諦める必要がなくなる。



気付けば涙も乾いていた。


「クレインさん、ありがとう」


僕はクレインの手を取ってぶんぶんと振った。


「クレインと呼べ。なんかかわいいな。ケトラは」


そう言って遠慮なく僕のおなか周りの肉をつまみクレインが微笑んだ。少しドキッとしたのは内緒だ。



僕は初めて午後の授業をさぼって、家に帰った。

僕が早退したことを聞いて父様も早く帰ってきた。帰宅後すぐに僕の部屋を訪い、抱きしめてくれた。今日あった出来事を説明すると、やっぱり、少し感傷的になって涙がにじむ。


父様もオーブリー殿下のわがままには気付いていたが僕が殿下を慕っていたから、口出しはせず見守ってくれていたそうだ。


父様は眉間にしわを寄せて唸った。すごく怒っているのを感じる。

「どうやら、オーブリーは我がハイド公爵家を軽く見ているな」

そう、僕の家はおばあさまが先代の王様の妹君に当たるために公爵の位を賜っている。つまり誰もが一目置く家柄なのだ。こんな風に虚仮にされて良い訳ないのだ。僕は父様に申し訳なくて丸い体をさらに丸くさせてかしこまった。ぐるぐる悩んでいると本当に目が回ってきた。



その日から3日間高熱を出した僕はそのまま家に引きこもった。


友だちが一人もいないと言われている僕にも一つだけお見舞いが来た。くれたのはクレインだった。悲しいことにオーブリー殿下からは見舞いも手紙も来なかった。王妃様からは頂いたけど。


それから翌週、僕は思い切って父様に婚約破棄のことを切り出した。

「僕は婚約破棄をしても良いと思っています。というかしたいです」


父様は眉を下げて僕の手を取る。そして、優しい目をした。


「ケティ、すまん。婚約と言うのは家同士の契約なんだ。不備があるならまず歩み寄らなければいけない。それでもダメだった時が婚約破棄だ。だから、もう少し耐えて欲しい」


父様はうつむいて僕の手を擦った。

「だが、ケティ後期まで休学する手続きをした。新学期からは騎士科に転科する。お互い距離を取った方が良いからね。それまで騎士科の勉強について行けるように家庭教師をつけるから、それまではゆっくりしたらいい。王族教育もいったん休みだ」


転科すれば殿下たちと校舎は完全に分かれる。もう廊下や教室で会う偶然も少なくなる。それだけでも少しだけ心が軽くなる。僕はコクコクとうなずいた。

父様は自分が卒業した法務学科を僕にも卒業して欲しがっていた。だけどそれを曲げてまで、僕に学園での居場所を作ってくれていたみたいだ。嬉しくて申し訳なくてうつむいた。



「それにケティを守ってくれる子も見つけたよ。お見舞いをくれたクレイン君が引き受けてくれた。良い友だちを持ったな」


いや、偶然出会って肉を揉まれただけの仲ですとは言いだしにくい。


「ありがとうございます」


父様はにっこりと笑うと小さな子供を褒めるみたいに頭を撫でた。


「ケティの目が覚めてホッとしたよ。でもこんな真っ白になるまで心を痛めていたなんて親失格だな」

父様は僕の髪を指で掬ってすまなそうに笑顔を浮かべる。高熱のあと、目が覚めたら父様に似た僕のこげ茶色の髪は真っ白になった。これには僕自身もびっくりだ。


「大丈夫です。父様、ここまでしてくださって感謝しています。転科に向けて頑張ります」


僕は父様の手をとり頬を寄せた。法務大臣の仕事で忙しくしていた父様が僕のためにここまで時間と心を砕いてくれていることがうれしかった。

新学期までの2カ月。僕はしっかり元気になってみせる。


そこへコンコンと来客を告げるノック音が響いた。部屋に入ってきた家令の後ろにはクレインが立っていた。クレインは僕と目が合うと口角を上げた。父様が手招きするとクレインは僕の前に立ってお辞儀をした。


「騎士科と馬術のことは彼が詳しいだろうと思ってね。ケティに親切な友だちがいて良かった」


僕は下衣をぎゅっと握って曖昧に笑った。父様は嬉しそうに笑うが、彼は友だちじゃない。彼はなんでこんな面倒なことを引き受けてくれたのだろう。でも、僕が縋れるのは今彼しかいないのが現実だ。

クレインを見ると真面目な顔をしてこちらを見ていた。なんだか急に恥ずかしくなってしまった。

父様は友だち同士話すこともあるだろうからと、僕の頭を撫でて部屋を出て行った。



クレインはうつむく僕を見ている。


「なんだよ、笑ったらいいよ。僕には友だちがいないんだ。今回だってお見舞いをくれたのは君だけだった。だから、父様は君が友だちだと勘違いしたんだ」


とにかくみじめだが、父様を悲しませたくない。僕は深く腰を折ってお辞儀した。


「ねぇ、お願い。友だちってことにして。父様を悲しませたくないんだ」


僕がお辞儀をしてぎゅっと目をつぶっている間にクレインはずいぶん近くまで来ていた。そして、僕の頭を動物を撫でるみたいに両手でわしゃわしゃと撫でた。


「どうしたこの髪」


僕はその手を握って止めさせようともがいた。


「お医者様は精神的なものだって、みっともないよね」


手の動きが労わるような手つき変わる。僕はもがくのを諦めてうつむいた。


「お願い、父様には友だちだって言って。お金で解決できるならお小遣いから出すから」


「ケティ、いやもう友だちだろ?」


僕が見上げるとクレインは優しく笑っていた。ケティなんてあだ名で呼ぶのは今はもう父様しかしない。それが仲良くなった証拠みたいで頬が熱い。ちいさくありがとうとつぶやくと、また僕のおなかを揉み始めた。僕はくねくねしてよがりながらくすぐったくて笑った。


「この腹肉の感触は素晴らしいな。友だちなら揉み放題だろ?」


なんてことだ、それが目的だったのか!? こいつ変な奴だ。だけどできたばかりの友達が嬉しくて。久しぶりに笑っている気がする。やり返そうとクレインのおなかを摘まんだらすごく硬くて負けた気がした。
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