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外伝 悪と中立の狭間で

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※注意※
 この話には、いじめ描写・性暴力表現が含まれます。苦手な方は閲覧をお控えください。

  *  *  *

 これはまだ、カーリが人であった頃。否、人として生きていた頃の話である。
 当時の彼女は、カーリという名ではなかった。
 山崎海理。
 それが、日本という国で育った彼女の識別記号だ。
 実家があったのは、都会に程近い郊外地区。郊外といえども、車がなくては暮らせない、不便な土地だった。両親は共働きで、昼夜問わず仕事に明け暮れる生活を送っていた。だから幸いなことに、一人娘の海理が金銭的な苦労をした経験はあまりない。けれども、全く問題のない人生かと聞かれれば、答えは否だった。
 彼女はどこか、周囲の人間たちとは違っていた。異なる個性、異なる思考。周りの人間たちが興じていることに、のめり込めないでいた。むしろ、下らないことで熱狂し、愚かな振る舞いをする彼らを、心の底で軽蔑すらしていた。
 今となっては、当たり前のことだと分かる。彼女は、悪魔だ。姿形は人間と変わらなくとも、その精神や思想は、当然彼らとは違う。相容れないのも無理はない。犬がどれほど努力して、猫の習性や行動を学習しても、完全に猫と同一化することは不可能であるのと同じことだ。
 だが無論、人間たちは悪魔という生き物のことも、魔界の存在も知らない。彼らが海理の正体に気が付くことは決してなかった。それは、海理自身も含めてだ。おかげで、義務教育の恩恵を受けていた時分には、随分と苦労を強いられたものである。友達と呼べる相手がいたことなど、一度としてない。代わりに彼女が得たものといえば、いじめという名の、容赦ない迫害だけだった。他と異なる存在を排撃する、人間たちの愚かな習性の産物だ。海理はあっという間に、同級生あるいは上級生からの嫌がらせ、暴力、陰口の対象となった。生徒を守る立場にある教師ですら、彼女を忌み嫌い、邪険にした。心を込めて書いた作文を、クラスメイト全員の前でビリビリに引き裂かれたこともある。食べきれない量の給食を盛り付けられ、嘔吐するまで腹に詰め込まされたことも。
 己の正体に気付けた今も、大人の女性の大きな声は苦手だ。当時の担任に、金切り声で叱責されたことを思い出すから。
 中学校を卒業し、高校に進学してからも、状況は一切改善しなかった。些細な違いはあれど、同じいじめには変わりなし。助けを求められる相手も、まるでいなかった。唯一、信じられると思った副担任は、我が身可愛さに彼女を見捨てた。トラブルを避けるために、いじめの訴えをなかったことにしたのだ。
 その時から海理は、他人を信じることを止めた。
 裏切られて傷付いたのではない。誰かを信用し期待した、自分が悪いのだと思い込むようにした。何もかも自分が悪いのだと、愚かな己に対する罰なのだと、自らを無理矢理納得させた。納得しているふりをした。そうでなければ、耐えられなかった。未熟な彼女には、自分を否定する以外、苦痛を受け入れる方法がなかった。やり場のない怒りという、最も厄介なものに飲まれることだけは嫌だった。
 両親は、そうやって少しずつ、着実に壊れていく海理を、まるで見ようともしなかった。愛情がないわけではなかったのだろう。記憶にある限り、虐待をされたことも、人格を否定するような酷い言葉を吐かれたこともない。けれども、彼らは決して良き親ではなかった。彼らはやや、夢見がちなところがあった。彼らが見ていたのは彼女ではなく、自分たちの頭の中にある、理想の娘だった。だから理想と実像が重ならないと、極端な拒否反応を示した。それはまるで、この世に存在しない誰かのために、仕立てられた服を着せられるようなもの。ヒステリックに叫ぶ母、大声で恫喝する父とに挟まれて、海理の心は急速に干からびていった。彼らが愛しているのは、自分であって、自分ではない。その苦痛が、彼女をどうしようもなく歪ませた。だが当時の彼女は、親の庇護がなければ生きていけない、か弱い子供。黙って従うしかなかった。彼らの理想を演じる他になかった。いつか、大人になって自由を手に入れられれば、誰の目も気にすることなく好きに生きていける。そればかりを考えて。

  *  *  *

 トワイライトと出会ったのは、そんな生き方も馴染み始めた大学生の頃だった。
 見事、都内の大学に合格した彼女は、一人暮らしを始めていた。物理的に距離を置いたことで、両親からの束縛は大分減り、快適な気持ちを感じていた。
 とはいえ、順風満帆な生活というわけでもなかった。相変わらず友人は出来なかったし、バイト先の店舗でも嫌味を言われる日々が続いていた。
 しかして、生活費を稼がなければならないのは確か。海理は今日も陰鬱な気持ちで、大学からの帰路を歩いていた。
 その途中。反対方向から、いかにもチャラついた様子の男性三人組が歩いてくる。海理のような地味な女性など、視界にも入らないらしい。すれ違おうとした瞬間、ふざけ合って小突き合っていた彼らの内の一人がよろけ、海理に衝突した。
「ひゃ……っ!」
 大した力は入っていない。かすかに肘が当たった程度だ。悪意があったわけでもない。だがそれは、彼女にとっては致命的な威力を持つ。うっかり蹴飛ばした石が、濡れた岩盤に張り付くトカゲを殺してしまうようなものだ。細身の彼女はあっさり突き飛ばされて、倒れそうになる。不幸にも、海理がいたのは、太い国道のそばの歩道。少しでも車道にはみ出れば、高速で行き過ぎる車と接触してしまう位置だ。
 ゆっくりと傾いでいく自分を、しかし海理にはどうすることも出来ない。白い大きな車が、凄いスピードで近付いてくる。
(ぶつかる……!!)
 恐怖して、目を瞑った。その時。
「おっと。大丈夫かい?」
 強い力で、ぐいっと腕を引かれた。引き戻されて、ふらついたところを誰かに支えられる。
「え……っあ!」
 一瞬、何が起きたのか分からなかった。だが、即座に気が付く。自分を引き留める、がっしりとした男の腕に。
「す、すみませんっ!!」
 慌てて頭を下げた。学校とバイト先の人間以外と喋るのが久しぶりで、上手く声が出ない。緊張からか身体が硬直して、冷や汗が出てきた。
「こちらこそ。咄嗟のこととはいえ、失礼をしたね」
 男はパッと手を離すと、朗らかな顔で微笑みかけてくる。個性的なスーツを着た、中年の男。普段あまり関わらない種類の相手に、心臓がどきりと跳ねる。同時に、他人に触れられたという事実が蘇ってきて、恐怖と嫌悪が湧いてきた。男の、生ぬるい手の感触が、腕に残っている気がした。
『山崎海里って女さ、キモくね?』
『あー、ね。何て言うかさ、アレだよな』
『女として見れない!』
『それなー!』
『ギャハハ!』
 脳裏に、高校時代のクラスメイトたちの声が蘇る。
 あれは、端的に言って、衝撃だった。
 男子高校生という生き物は、いやそもそも男というものは、視界に入る女を片端から選別しているのか。それが女であるという理由だけで、無条件かつ無差別に、性欲処理装置として使用出来るかどうか、判別している。
 そう思うと、虫唾が走った。
 元々、恋愛感情や性欲という、当たり前の衝動への執着が薄かった体だ。それが自分、そして自分のセクシャリティーだと分かっていて、受け入れていた。しかし、これは違った。
 あの男たちは、自分のことを性欲の対象として見た。異性として、組み伏せ絡み合うことの出来る相手かどうか、想像したということだ。つまり彼らの中にはイメージがあるということ。屈服し、甘んじて支配を受け入れ、剰え善がる自分のイメージが。
 あるのだ。
 あんな相手の大して体積のない脳みその中に。
 無理矢理本能を押し付けられ、強引に生殖相手としての役割を求められる自分。あるいは単に欲の捌け口として、快楽のための道具として扱われる自分が。
 悍ましかった。
 生理的嫌悪と呼ぶべき感情。吐き気を催すほどの嫌悪。生理的とも呼べるもの。
 これが、自分が直面すべき現実なのかと、絶望すらした。
 何と醜く、薄汚いエゴ。他人に何かを期待し、要求し、利用し、搾取する。人間という生き物の、心底嫌いな部分。自分の欲望を身勝手に押し付け、自分の都合に他人を付き合わせ、相手の持ち物を全て、ありとあらゆるものに至るまで奪い尽くす。自分もそんな連中の一人であることが、心の底から嫌だった。
「すまない。怖がらせてしまったかな?」
 じっと黙っている海理を訝しんだのか、男がやや困ったように眉尻を下げて、申し訳なさそうな顔をした。
「い、いえッ!」
 咄嗟に背筋を伸ばして、海理は返事する。心の中で、失礼な態度を取った自分を殴り付けたくなった。何故、もっと上手く自分の感情と行動とを切り離せないのだろう。いくら嫌悪を覚えたからといって、助けてくれた相手にそれをぶつけるのは間違っている。何故、もう少し自然に振る舞えないのかと。
「あ、あの……っ!た、助けていただいて、どうもありがとうございました……じゃ、じゃあ、私はこれで……」
 気まずさから、逃げるように立ち去ろうとしてしまう。軽く頭を下げてから、早足で踏み出した直後、男からの声がかかった。
「山崎海理さん、だね?」
「っ!!」
 名前を呼ばれて、思わずびくりと肩が震える。
「ど……どうして私の名前を……?」
 振り返り、問いかけた。語尾が若干揺れてしまうのが分かる。
 どうして初対面のはずのこの男が、海理の名前を知っているのか。
 もしや、新手の詐欺や宗教勧誘なのではないだろうか。あるいは、ストーカー?偶然を装って出会っただけで、本当は彼女のことをずっと監視していたのでは?
 脳内の警戒レベルを一気に引き上げながら、そっとカバンの中身を探る。スマートフォンのつるつるした液晶が、指に触れた。彼がもしも脅したり、追いかけたりしてくれば、即座に通報してやる。そう意気込みながら、彼を見つめる。
「無理を言っているのは承知している。しかし、少しの間だけだが、話を聞いてはもらえないだろうか」
 男は相変わらず、礼儀正しい態度を崩さない。まるで、恥ずべきことなど何もないと言わんばかりの沈着ぶりで、彼女に近付いてきた。
「……な、何ですか」
「少しだけでいいんだ。私に時間をくれないかい?」
 牽制しようとして、思ったより硬質な声が出た。しかし男は、先ほど言った言葉を繰り返すだけだ。ちっとも話を進めようとしない。
「……い、嫌です」
 優しげな声音に絆されてしまいそうになったが、鋼の意志で拒絶した。男の片眉が、ピクリと上がる。
「あ、あなたが何者かも分からないのに、ホイホイついていくわけにはいきません。こ、これで失礼しますっ」
 怒声を浴びせられることを覚悟しながら、海理は一息に言い切った。怖かったのだ。何故名前を知っているのか、問い詰めたい気持ちもあったが、やはり怖かった。怪しいことには関わらない方がいいだろうと、直感的に思った。
「私が何者か、名乗ればいいのかい?」
「!」
 だが男は退かなかった。試すような口調で、尋ねかけてくる。海理を論破しようという魂胆が、透けて見える気がした。
「……教えて、くれるんですか」
 ここで何か言い返す頭脳や話す力があればよかった。そんなもののない海理は、ただ相手の話に耳を傾けるしか出来ない。
「もちろんだ。別段、隠し立てするほどのことでもないしね」
 男はニッコリと笑って、海理を安心させるように一つ頷く。そして、おもむろに懐へと手を伸ばした。
「しかし、君は聡明だね。正体の分からぬ相手に、ついていかないだけの警戒心がある。好奇心を抑える、自制心もね」
「別に……当たり前のことだと思いますけど」
 間を持たせるように振られた世間話に、随分と冷淡に応じてしまった。
「ははっ、そうだね」
 無礼を働かれて、男が怒り出すかとも思ったが、その心配は杞憂に終わった。彼は笑みをこぼしながら、懐からカード入れを取り出し、名刺を差し出す。
「ト、トワイライト……さん……」
 辿々しい手つきで受け取って、海理は記された名前をぼんやりと読み上げた。どうやらこの男は、外国人らしい。顔つきはどうにも、そうは思えない雰囲気をしているが。アジアの他の国の者だろうか。
「刑事さん……?」
 続けて、肩書きの欄を見る。警察部門。いわゆる、警察官らしい。”部門”だなんて、普通と違う書き方だと思ったが、よく分からなかった。
「お話、聞かせてくれる?」
 海理に向かって、男は微笑む。
「わっ、私、何もやってません!犯罪とか、そういうの……っ」
 何だかそのまま任意同行されそうになって、反射的に叫んだ。本当に心当たりはないから、疑われても心配はないはずなのだが、本物の警察官を目の前にして、足が竦んだのだ。
「違う。違うよ。少し話を聞きたいだけだと言ったろう」
 トワイライトは慌てたように手を振って、海理の早とちりを否定した。彼女の過剰反応がよほど面白かったのか、くつくつと喉を鳴らして笑っている。海理は恥ずかしくなって、頬を紅潮させた。
「す、すみません……っ」
 勝手に勘違いした挙句、相手を非難するような態度を取った。大変に失礼なことをしたと、申し訳なく思う。ところがトワイライトは、気にする素振りも見せない。
「気にしないでくれ。こちらも、かなり手順を省いたやり方を取ってしまったからね。焦っていたとはいえ、申し訳ないことをした」
 それどころか、柔和な表情で、軽く頭を下げてくる。言い訳めいたことを口にしていても、見苦しく感じられないのは、彼が器用だからだろうか。そんなことばかり考えてしまうから、謝罪への返答を言いそびれた。海理はまた、頭の中で自分を殴る。
「ここで立ち話出来る内容じゃないし、一緒に来てくれると助かるんだがね?」
「は、はい……っ、もちろんですっ!」
 焦りと罪悪感からか、男の希うような言葉に、食い気味で了承を返してしまった。気合いが入っていると思われただろうか。警察の捜査ならば、喜んで協力すべきだと思ったが、『もちろん』は変だっただろうか。まるで、こうなることを望んでいたみたいで。
 ぐるぐると考えながら、トワイライトの後についていく。
 道中で、ふと疑問を思い出した。警察官なら名刺じゃなくて、警察手帳を見せるはずだ。少なくとも、ドラマの中ではそうだった。現実は違うのだろうか。他国の警察だからいいのか?そもそも、何故外国の警察機構が、こんな平凡の小娘に接触するのか。
 分からない。
 かすかな違和感が、小骨のように刺さっていた。

  *  *  *

 トワイライトと共に、近くの喫茶店に入る。彼と向かい合う形で、膝を揃えてちょこんと座った。湯気を立てるホットコーヒーが二つ、テーブルに運ばれてくる。口をつけないのは失礼かと、下手なりに気を回して手を伸ばした。冷えた指先に、陶器越しの熱が伝わる。一口含むと、芳しい香りが鼻腔を和ませた。
 これ以上飲むのは飢えているみたいに見えるだろうか、どうだろうか。海理はとにかく、相手からの視線が怖くて、仕方なかった。
 人間という生き物は何しろ、自身の感情と行動とを分離させることが、非常に難しい存在だ。少しでも相手に悪印象を抱けば、無視をしたり嫌がらせをしたりと、攻撃的な手段に出る。そんな下らないことでしか、日々の鬱憤を晴らせない、つまらぬ連中だ。海理はそんな彼らを軽蔑すれども、対抗する術を有していなかった。だからこうして、出来るだけ小さくなって気配を消して、相手のご機嫌を損ねぬよう、恐々としていなければならない。でなければ、傷付けられ、痛ぶられ、苦しめられるだけなのだ。尤も、その恐怖が、更なる叱責や憎悪をも呼び起こしてしまうこともあるのだけれど。
 海理は汗をかきながら、身を縮こめて相手の様子を窺う。こんな時、どうしたらいいのだろうか。あまり親しくない相手と、喫茶店にいる場合の相応しい振る舞いを、海理は知らない。ちらりと、テーブルに置いたスマートフォンを見遣る。バイト先に欠勤の連絡を入れるために、さっき使ったものだ。後で嫌味を言われるだろうが、もはやそれはどうでもいい。今は、この男が危ない相手だと分かった際の、武器となれば十分だ。
 トワイライトは一言も発さない。話を聞きたいと言ってきたのは彼の方なのに、コーヒーを飲むばかりでちっとも口を開かなかった。海理は不審に思って、そっと彼を観察する。
 見れば見るほど、不思議な男だった。肌の様子を見る限りは立派な中年だが、どこか溌剌とした活力を感じさせる。落ち着いた振る舞いから生み出される間、というか雰囲気、というのか。それは人間離れしていて不気味さすらある。しかしながら海理は、自分の心がどこかで強く彼に惹かれているのを悟っていた。いわゆる、シンパシーというやつだ。
 一体彼のどこに、そんなものを覚えるのだろう。自分と彼とでは、莫大な差があるはずなのに。
「ん?」
 急に、彼が顔を上げた。海理はビクリとして、体を強張らせる。まさか、じっと見ていたことに気付かれたか。何か言わなくては。無礼を責められる前に、早く。話題を転換しよう。
「あ、あの……っ!」
 意を決して、声を発する。張り切り過ぎて、若干裏返ってしまった。やってしまったと、顔にカァッと血が上る。けれど、話を始めてしまったからには、何でもないとは誤魔化せない。
「?」
「えと……は、話って……?」
 訝しげに眉を寄せて、こちらを見遣る男に再び声をかける。今度は、適正な声量を出せた。控え目で、礼節を守っているはずだ。ちょっと言葉足らずなのは、失礼かも知れないが。
「……ふっ」
 心なしか上目遣いで、じっと彼の顔を見つめる。トワイライトが、軽く息を吐く音が聞こえた。あるいは、失笑したのかも知れないが。
「そうだね……あまり気を持たせ過ぎるのは、かえって無粋だね」
「は……はぁ……」
 コーヒーカップをソーサーに戻しながら、男は話し始める。何だか本の文章を読み上げているような台詞だ。戸惑いから、身の入らない相槌をしてしまった。けれども本音を言えば、彼の話に興味を持っていたのも事実だ。彼が何故、自分の名前を知っていたのか。何の話をしたいのか。その疑問は未だ尽きずに残っている。
「では、早速だが本題に入ろう。少し、衝撃的な内容かも知れない。しかし……落ち着いて聞いてほしい」
 トワイライトの静かな声に、ふんふんと尤もらしく頷く。真摯な対応に、張り詰めていた警戒心が少し緩む気がした。
 彼の態度はまるで、海理のことを、自分と対等な大人だと見做してくれているようなものだ。他人行儀とも取れるけれど、海理にとっては心地いい。未熟な弱者と見下され、搾取されるよりは、よほどマシだった。
 しかし、彼は中々口を開かない。組み合わせた自分の両手を見つめて、何事か迷っている。言うべきか言うまいか、葛藤しているような顔色だ。先を急かしたくなるも、失礼は厳禁だと、海理は懸命に待つ。
 やがて、ようやく顔を上げた。
「単刀直入に言う……山崎海理さん。君は、人間じゃない」
 非常に言いにくそうに、苦々しい声音で告げられる言葉。これを言ったら相手にどう思われるかと、悩んだ末の結果だろう。ちょっとした親近感を覚えるも、しかし今はそれどころではない。
 さっき言われた言葉だけが、何度も海理の頭の中をリフレインしていた。
 人間じゃない。
 君は。
 ニンゲンジャナイ。
 ……人間じゃない?
「君は……悪魔だ」
 悪魔?
 あくま。
 アクマ。
 悪魔悪魔悪魔悪魔。
 聖書に出てくる、あれか?人間を惑わし、罪を犯させる悪しき存在。
 それが、自分?
「すぐに理解するのは、大変に難しいことだろう。だが、どうか信じてほしい。君は本当に……すまない!大丈夫か!?」
 トワイライトが途中で言葉を切って、海理に問いかけてくる。尋ねられて初めて、彼女は、自分が涙を流しているということに気が付いた。
「え……?あ、あれっ?うわ、ちょっと、どうして……あ、はは、すみません。私ちょっと、びっくりしちゃったみたいで……え、えへへへ」
 困惑しながら、ハンカチでそれを拭う。しかし、拭えども拭えども、中々止まらない。次から次へと、ボロボロボロボロ溢れてきて、彼女の服を濡らした。
「え、えっと、ご、ごめんなさい。こんな、急に……っ、失礼ですよねっ」
 涙声になるのを堪えながら、辿々しく謝罪する。情けない顔を見られたくなくて、頭を下げるようにして顔を伏せた。
「いや、謝るべきはこちらの方だ……すまなかった。君のことを悪く言うつもりはなかった。しかし、失言だったな。君にとっては、いきなり見ず知らずの男に、暴言を吐かれたも同然だ」
 必死に落涙を止めようとする海理の耳に、低い声が届く。彼は先ほどと同様の、いやそれ以上の、苦い顔をして、海理に向かって頭を下げてきた。
「いやッ、そんな!違うんです!」
 海理は驚いて、反射的に彼を止める。
 彼に謝られる理由などなかった。悪いのは、全て自分だ。
「私はっ、私は、悲しくて、泣いてるんじゃないんです……っ!じ、自分でも、よく分かりません。な、なんていうか……っ、腑に落ちたって感じで!何でか、嬉しかったんです、その……と、トワイライトさんに言われたことが、嬉しくて……っ!!」
 彼に謝られる理由などない。悪いのは全て自分であって、彼に責任はないのだと、懸命に伝えようとする。しかし、自分の要領の悪い頭では、上手く説明出来なかった。支離滅裂だと思いながら、何とか言葉を絞り出す。
「私、ずっと疑問だったんです。自分が、どこかおかしいんじゃないかって……」
 語るのは、これまでの人生で自分が、感じてきたことの全て。人間たちと上手くやっていけないこと。どこに行ってもいじめられ、攻撃されること。それによって受ける、苦痛。苦痛によって歪む、心。
 こんな風に、誰かに自分自身のことを語るのは、初めてだった。今までは、誰かに本心を晒せば、そこを突かれて傷付けられると、恐れてきたから。でも彼ならば、彼女がいくら下らないことを言おうが、嘲笑せずに耳を傾けてくれる気がした。簡単に言うならば、彼を、信じてみたくなったのだ。たとえ裏切られ、踏み付けられても、自分を責めれば済む話だと、覚悟して。
「こんなこと、変だって自分でも思います。でもっ、これで、納得出来るような気がするんです。私は人間じゃない、だから……っ、上手く生きていけないのも、苦しいのも、当たり前なんだなって」
 今までは、理不尽な仕打ちを受けても、目を瞑って容認するしかなかった。誰かを責めるなんて不毛なことだ。何の解決策にもなりはしない。けれども、何の理由もなく苦痛を受け止めることも叶わなかった。だから彼女は、その原因を、自分自身に求めた。自分が駄目だから。馬鹿で愚図だから。だから苦しむのだと、自分で自分を否定した。そうやって、彼女はどんどん歪んだ。自分で自分を殺し、憎み、軽蔑して。
 それが、当然のものだと分かった。だから、泣いているのだ。自分は、人間ではないのだ。悪魔なのだ。他の人間とは違うのだ。普通の人間より苦痛を受けるのは当たり前。普通の人間に混じって、普通の生活が出来るだけ、感謝すべきことなのだ。虐げられる原因が分かって、良かったじゃないか。これで、少しは楽に生きていける。
「……違う」
 間違ったポジティブ思考を転がしている海理の耳に、トワイライトの苦い声が届いた。
「違うんだよ、海理さん……」
 彼はまるで血を吐くような調子で、辛そうに首を振る。何故そんな顔をするのか、海理には分からない。悪いのは、海理だ。今日出会ったばかりの、この男が責任を感じるべきことではない。そのはずだった。
「君には本来、幸せな人生が約束されているはずだった。それを壊したのは、我々だ……」
 言いながら、彼は自分で自分の言葉に、体内を切り裂かれているようだった。けれども決して口をつぐむことなく、渋面を浮かべながら、語り続けている。どれほどの苦痛でも、甘んじて受け入れるべきだと、受け入れねばならないと、そんな強迫観念に取り憑かれているようでもあった。
「どうか、聞いてほしい……今のは、例え話なんかじゃないんだよ」
「え……っ?」
 彼の態度には、息を飲むほどの気迫があった。海理は訳が分からなくなって、困惑した声を発する。
「信じられないかも知れないが、君は本当に悪魔なんだよ。姿は似ているが、人間とは決定的に異なる種族……魔界に生きる、悪魔なんだ」
 海理の反応から、彼女がまるで話を理解していないことを悟ったのだろう。トワイライトは諭すような口調で、言い聞かせてくる。海理はやっぱり理解出来なくて、軽く首を傾げることで疑問を示した。耳元で、長い黒髪がさらりと揺れる。
「……君に、見せたいものがある」
 トワイライトはしばらく思い悩んでから、やがて重そうな口を開いた。見せたいものとは何なのかと、今すぐこの場で問いたくなったが、海理は思い直した。
 彼には、既に自分の何もかもを知られてしまっている。今更、何を怖がる必要があるというのだろう。もう嫌われないよう努めることも、警戒心を抱くことも、無意味だ。彼は全てを知悉した後でも、彼女と対等に話をしてくれている。それで十分ではないか。今までの人生で、彼のように接してくれる者はいなかった。それが、答えだ。
 だから、彼の話に付き合おうと決めた。たとえどんなに与太話でも、妄想や幻覚の類だとしても、真摯に耳を傾けよう。せめて愚痴を聞いてもらった分くらいは、恩を返したい。
 海理は涙を拭き、トワイライトと共に席を立った。テーブルの上に出しっぱなしだったスマートフォンを、忘れずに握り締める。一応、何かあったら即座に通報出来るように。

  *  *  *

 店を出てしばらく歩くと、人気のない路地裏に辿り着いた。薄暗く不気味な様子に、再び警戒心が込み上げてくる。
「こっちだ」
 少し先に立つトワイライトが、振り向いて呼びかけてきた。その時初めて、海理は彼の瞳を見た。普段は、自分の行動に対する相手の反応を知るのが怖くて、また、下らない話ばかりする相手の、汚らしい顔面を視界に入れたくなくて、俯いてしまうから。
 ようやく直視したトワイライトの瞳は、まるで黒曜石のように美しかった。光の乏しい路地裏で、一層暗く、深く輝いている。闇が光を発しているなんて、考えたこともなかった。矛盾しているとも思う。しかし、彼の目はまさに、そんな美しさを湛えていた。
 中学校の時、理科の授業で見たブラックホールの画像を思い出す。海理はあれが怖くて怖くて、仕方なかった。一切の光を発さない、無限の闇。まるで空間に穴が空いたようなそれが、心底恐ろしかった。以来、ブラックホールを思わせるような穴全般が、怖くなった。
 しかし今思えば、惹かれていたのかも知れない。究極の闇の持つ強大な重力に、引き寄せられそうになっていたのかも。
「わー!ホントにいた!!人間だった悪魔なんて!」
「ッ!!」
 突然、背後から誰かに肩を叩かれた。海理はビクッとして、後退りする。そこにいたのは、まだ齢16に満たないような、少女だった。派手な金髪と、露出の高い服装を見て、ギャルだと直感する。海理のような者には縁のない人種だ。脳内警戒レベルが、一気に最大まで引き上がる。
「あの……?」
「アハハ、そんっな堅っ苦しくなくていいからー!気ぃ遣わないでよ」
 ギャルらしい軽薄な話し方で、女は笑う。流石だ、と思った。こちらが距離を取ろうとしていても、お構いなしに接近出来る傍若無人さ。そしてそれが許される、明るい人柄と魅力。海理にはないものばかりだ。思わずどす黒い感情が滲み出しそうになってしまう。
「おい、失礼だろ、レディ」
 間一髪、新たな人物が登場してくれたおかげで、これ以上自分を嫌いにならなくて済んだ。ほっと一息つきつつ、海理は声のした方を見遣る。
「馴れ馴れしくされんのが好きじゃない奴もいるんだ。俺みたいに」
「えー?」
 声の低さから分かっていたが、相手は男だった。高校時代の一件から、男性にやや苦手意識のある海理は、気分が塞ぐ。しかも、よりによってこんな、高圧的で粗忽そうな男だなんて。余計に落ち込む。
 この男には、トワイライトのような優しさや、紳士的な振る舞いは期待出来そうにない。フレームレスの眼鏡をかけて、眦を勝気に吊り上げている姿は気取っていて、いかにもな自称”勝ち組”みたいだ。
 勝手過ぎるイメージだとは分かっているが、警戒と嫌厭が止まらない。どうしてあのギャルは、平然と会話出来ているのだろうと、疑問に思う。やはり、ギャルだからだろうか。
「君たち、まだ出てくるなと言っただろう」
 攻撃性を孕んだ、じっとりと湿度のある視線を送っていると、トワイライトの不満げな声が聞こえてきた。
「申し訳ありません。レディこいつの操縦に失敗しまして」
 眼鏡の男が、意外にも殊勝に頭を下げている。レディ、と呼ばれたギャルは、やっぱりギャルらしく、悪びれもしない。
「だってぇ~、気になっちゃったんだもーんっ。人間として生きてきた悪魔ってぇ、どんななのかなって!」
 海理のことを指しているのだと、すぐに分かった。海理の胸に、どろどろとした感情が渦巻く。自分は見せ物ではないのだ。それなのに、まるで娯楽のように消費しようとしやがって。
「レディ」
 失礼極まりない態度を取る彼女を、眼鏡がじろりと睨み付ける。プライドばっかり高そうなインテリの見た目をして、案外中身は良識派なのかも知れない。まだまだ、信用には値しないが。
「海理さん、怖がらせてすまなかった。こちらは、エンヴィスくんと、レディくんだ」
 黙っている海理に、トワイライトが優しげな声で話しかけてくる。彼には、海理の気持ちが分かっていたみたいだ。彼への信頼度が、少しだけ上昇する。
「エンヴィスだ」
 トワイライトに紹介された、眼鏡の男が話しかけてきた。海理は一瞬身を硬くするが、エンヴィスの次の言葉を聞いて、思わず驚いてしまう。
「悪かったな、こいつが急に話しかけちまって。俺のミスだ」
 心底申し訳ないと言いたげな表情に、再び意外性を感じる。
「え!?アタシのせいなの!?」
 彼に指差されたレディの方は、大袈裟に驚いて、エンヴィスに抗議していた。
「当たり前だ!お前が無神経に話しかけるから、海理さんをビビらせちまったんだろうが。全く、全悪魔の心臓に、お前みたいな剛毛が生えてるわけじゃねぇんだぞ」
 『さん』付けで呼ばれて、海理は更に驚愕する。彼に対して心を開きたくなる気持ちが強まって、途中で気が付いた。これはまさに、強面の不良が犬を助けているのを見た時に覚える感情と同じだ。いわゆる、ギャップというやつだろう。信用の根拠とするには不十分だ。気を付けなければ。
「???どゆ意味?ムシンケーって何かの虫?」
「っっっはぁ~~~……」
 どこまでもギャルらしく、お馬鹿な言動をするレディに、エンヴィスは疲れ切った様子で溜め息をつく。段々、悪い人たちではないのじゃないかと思えてきた。まだ10代の少女と、30は超えていそうな社会人。歳は離れているが、二人のやり取りはまるで兄妹のようだ。
 今し方信じないと判断したばかりなのに、早くも微笑ましく思ってしまう。移ろいやすい己の心を、海理は自己嫌悪した。
「彼らは二人とも、私の部下だ。つまり、君の味方だよ」
 そこへ、穏やかな調子で、トワイライトが歩み寄る。部下という言葉を聞いて、納得した。確かに彼はちょうど、あの二人の上司くらいの年齢に思える。
「あの……それで、私は、これから……どうなるんでしょう」
 だが、そんなことを考えている場合ではない。海理はおずおずと、遠慮がちに問いかけた。
「あぁ、そうだよね。気になるのは当然だ」
 トワイライトは柔和な笑顔で頷いて、海理を促す。
「それじゃあ、こちらに来てもらえるかな?」
 心なしか話し方が、先ほどより砕けたものになっていた。普段であれば、まだ会って間もない相手からこんな喋り方をされたら、まず間違いなく気分を害している。しかし、今回は違った。彼の口から発せられる言葉に対しては、決して不快感など抱かない。彼の中には、ないからだろう。無理に親しみを持ってもらおうとする策略も、明け透けに相手を侮っている悪意も。
 導かれるままに、裏路地を奥へと入っていく。立ち並ぶビルとビルの隙間を、三軒分ほど通り過ぎた頃だった。
「ここだ」
 トワイライトが立ち止まる。彼が傍に退いたことで、海理にもその先の光景が見えた。
「わ……!」
 思わず、変な声が出てしまう。だが、それも無理からぬことだった。
 海理の目の前、トワイライトの靴先がある辺りから数メートル向こうまで、アスファルトで舗装された道路に、落書きがされていた。落書きといっても、ストリートアートや若者の非行とは比べ物にならない。アーティストが描き残したようなクオリティだ。蛍光塗料が用いられているのか、わずかに発光する青い線で、奇妙な図形が形作られている。
 歪みのない、見事な円。素人目にも、完璧と分かる。それが何重かに重ねられ、中には奇妙な文字列らしきものが書き込まれていた。決して意味は分からない。
 一体誰が何のために、こんなものを残したのだろう。ここは人通りも少なく、作品を見てもらうにしては不向きな場所だ。それに、トワイライトたちは一体何のために、彼女にこれを見せたのか。
 海理は訳も分からず、トワイライトの顔を見遣る。その時だった。
「ハイハイっ!早く入ってー」
「あっ、ちょっと!」
「おい、レディ」
 後ろにいたギャルが、海理の背中を押す。華奢な体型のくせに、かなりの力だ。海理は押されるまま、地面に描かれた図形の中に踏み入ってしまった。
「まぁ……いいじゃないか。物は試しだ」
 レディを窘めようとするエンヴィスを、トワイライトは何食わぬ声で宥める。だが、流石に上司の言葉といえど、こればかりは頷けない。エンヴィスは顔色を変えて、トワイライトの腕を掴んだ。
「トワイライトさん……!」
 二人に声の聞こえない位置まで彼を引っ張っていってから、抗議する。
「いくらなんでも、強引過ぎやしませんか?彼女はまだ、我々の話を全て信じたわけではないんでしょう?」
「あぁ。だが、そもそも我々の話を信じさせることなど不可能だ。彼女は人間として育った。人間がどういう常識の中で生きているか、君も知っているだろう?」
 憤りの色を含んだ、鋭い視線を注がれても、トワイライトは動じない。落ち着き払った態度で、エンヴィスの瞳を見返す。正論を言い返されたエンヴィスは、焦った様子で首を振った。
「仰りたいことは分かります。実際に体験する以外に、理解をする方法がないってことも」
「だろう?」
「ですが、やはり荒療治過ぎますよ……!」
 被せ気味に問いかけてくるトワイライトに、どうしても納得出来ないと食い下がる。
「彼女の人格が崩壊したら、どうするんです」
 トワイライトの目の色が、変わった。否、実際は漆黒のままなのだが、変わったように見えた。
「……エンヴィスくん。ひょっとして、怖いのか?」
「っ……嫌な、ところを突いてきますね。相変わらず」
 エンヴィスの眉がピクリと震える。一瞬苦笑が浮かんだかと思えば、すぐにそれは渋面へと移った。
「これが私だ。君も知っているだろう」
 トワイライトは若干諧謔を含んだ調子で、皮肉げに両手を広げる。自分をひけらかすような仕草をする彼を見て、エンヴィスは呆れたように溜め息を吐いた。
「ハァ……そうですよ。怖いですよ。誰だってそうでしょう」
「ほう」
 早口で白状してくる彼の言葉を、トワイライトはフクロウの鳴き声のような相槌で聞き入れる。平然としているトワイライトとは対照的に、エンヴィスは暗い顔つきで続けた。
「自分が、悪魔じゃなくて、人間だったなんて知ったら。そんなの、今まで自分してきたことが、全部嘘だって言われるようなものだ。常識も、知識も、何もかもひっくり返されて、積み上げてきたもの全部が崩れ去る。これから彼女は、そういう思いを味わうんだ……正直俺は、覚悟出来ていません。直視して、耐えられるかどうか……」
 彼にしては珍しく、弱気になっているようだ。いつも自信たっぷりで、負けん気の強い”エンヴィス”の姿は影も形もない。
 しかしこれもまた、至極当然のことだと言えよう。誰が、自らのアイデンティティー崩壊の危機を、喜ぶだろうか。これから海理に訪れようとしているのは、まさにそれなのだ。人間としての自分は無意味なものとなり、全く新しい悪魔の社会で、生きていくことを余儀なくされる。そこに彼女の意思はない。ただ、禁忌を犯さず決められた運命に従えという、理不尽のみに指図される。その苦痛はいかほどのものか、想像することさえ出来ない。もしも自分が彼女の立場だったら、と考えるだけでも、戦慄してしまう。ましてや、彼らはこれから、彼女がそのような苦痛を受け悶絶する様を、間近で目撃することになるのだ。あんな、まだうら若い、女性が。
 平常心を保てないのも、当たり前のことだ。
「……分かっている」
 トワイライトはゆっくりと、首を一回縦に振って、共感を示す。
「彼女はあの若さにして、多くのものを背負い過ぎている。これから更なる重荷を課すことになるのだから、心穏やかではいられないさ……」
「トワイライトさんもですか」
 意外そうな顔をしてエンヴィスが問うてきた。トワイライトはまた一つ、コックリと頷く。
「無論だ。だが、だからこそ彼女には、導き、護る役が必要になると思うんだ。そして我々が、その一端でも担えるのならば、喜んで引き受けようとね」
 齢3ケタをゆうに超えている彼らからしてみれば、たった20年しか生きていない海理のことなど、ほとんど幼女と変わりないように見える。世間の荒波に揉まれるには幼過ぎるほど、幼い彼女。それなのに、既に常人の数倍以上の、傷と闇とを抱えている。情報分析部が上げてきた資料にも記されていたし、何より話してみて分かった。彼女ほど心から血を流している者は、魔界にもそうはいない。一体どんな目に遭えば、ああも淀んだ瞳になるのだろう。憐憫を抱かないわけがなかった。
「同情などと言われるのは不本意だが……どうしても、見過ごせないからな」
「ねーねー、エンちゃんにトワさん。何話してんのー?」
 ひそひそと、抑えた声で告げる。トワイライトの言葉を遮るように、レディのあっけらかんとした音吐が響いた。
「あいつ……!分かりました。私も、微力ながら手伝わせていただきます」
 一瞬彼女の方を振り返って眉を顰めたエンヴィスが、すぐに真面目な顔に戻って応じる。
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
 恭しさすら漂わせて、了承の返事を寄越す彼に、トワイライトも作り慣れた笑みで答えた。
「はーやーくー!」
「わぁかったってレディ!ちゃんと名前で呼べ!」
 再びレディに急かされ、呆れ返りながらもエンヴィスが歩き出す。トワイライトも、彼のすぐ後を追った。
「トワイライトさん……?」
 戻ってきたトワイライトのことを、海理はじっと見上げる。彼らが話していたのは、何となく自分の話題だろうと思って、確認したかったのだ。
「何でもないよ。さぁ、早速始めよう」
 だがトワイライトは、にこやかな笑みを浮かべると、海理の追求をかわしてしまう。そして、スマートフォンを取り出した。
 彼が画面をタップした途端、足元から謎の光が発生する。海理は驚いて、我が目を疑った。
「えぇっ!?何ですかこれ!?」
 海理の立っている場所。地面に記された図形が、煌々と光を発し始めている。周囲を見渡せども、光源らしきものは見当たらない。目視する限りでも、インクそれ自体が光っているようにしか思えなかった。
「動いてはいけない。体が分断されるかも知れないぞ」
 動揺して、足踏みをする彼女を、トワイライトが制する。さらりと告げられた恐ろしいワードに、海理は更に戦慄した。
 だが、驚くのはまだ早い。そう思い知ったのは、次の瞬間のことだった。
 突如、目の前が揺らぐ。
 視界に映る、路地裏の光景。特に何てことのない、むしろありふれているはずのその景色が、突然ボヤボヤと霞み始めたのだ。まるでカメラのピントをあえてぶれさせるように、蜃気楼が立ち消えていくように。
 海理はまたもや驚いて、自分の目を軽くこする。数回瞬きをするだけの、たった一秒程度の時間。その間に、彼女を取り囲む環境は、すっかり様変わりしていた。
 まず目に入るのは、青色。先ほどのインクの色が、四方の壁と天井を照らしている。
 そう、壁と天井だ。
「え!?」
 ごく当たり前のように理解してから、気が付いた。海理はさっきまで、屋外にいたはずだ。薄汚れて、寂れた路地裏に。それなのに、ここは一体どこなのか。
 コンクリートが打ちっぱなしになった壁。足元を這い回る無数のケーブルコード。周囲には、ラックに乗ったパソコンやら、様々な電子機器が乱雑に置かれている。それらの操作をしているのは、白衣を着た男。天井から垂れ下がるビニールカーテンの向こうにも、似たような格好の誰かが立っていることが分かる。
 何もかも、先刻とはまるで違う。唯一同じなのは、床に描かれた落書きだ。何を示しているのか、全く理解出来ない代物。
「なっ、何で?え?どうしてっ!?」
 訳も分からず喋り続けてしまうのも、仕方ないだろう。人間として生きてきた海理には、魔法に関する知識などない。いきなり体験させられたところで、頭の追いつかない現象に、困惑し混乱してしまうだけだ。
「な、ななな、何なんですかここ!ねぇ!どこなんですか!?」
 気が付けば、トワイライトに詰め寄り、彼の腕を強く掴んでいた。自分でも信じられない行動に出たと思うが、今はそれどころではない。相手からの心象云々など、未知の出来事に比べたら、瑣末な問題だ。
「っ、落ち着いてくれ、海理さん……」
 ギリ、と音が鳴るほど力を込められて、トワイライトはかすかに顔を歪める。どうにか落ち着かせようと声をかけるものの、効果はない。
「ねぇ、ここ、どこなんですか!?教えてください!帰して!ねぇ!!」
 海理は完全にパニックに陥っていた。突然見知らぬ場所に連れてこられたのだから、当たり前と言えば当たり前の反応なのだが。
「ちょ、ちょっと。落ち着きなよ……大丈夫だって」
 誰かがここまで取り乱す様を見るのは初めてなのだろう。レディが若干引き気味に、それでも何とか宥めようと、彼女の肩を叩く。だが、海理はそれも振り払った。
「触らないでっ!」
「っ!」
 せっかく優しくしてあげたのに。無碍に扱われて、レディの心がささくれ立つ。しかし海理には、彼女に気遣う余裕などない。自制心を失い、視界に入るもの全てに攻撃性を剥き出していた。
「待ったっ!」
 このままでは危ないと、エンヴィスが手を伸ばし、背後から海理の腕を掴む。そのまま、後ろ手に拘束した。
 幸いなことに、相手は女性。いくら暴れていても、男で、しかも戦闘員のエンヴィスの力なら、容易く押さえ込める。むしろ、普段相手している悪魔たちより簡単なくらいだった。海理には体術の心得がなく、筋力もないからだろう。
「どうどう。いーから、ちょっと落ち着けよ。な?暴力はよくないぜ?」
「嫌っ!離してっ!離してよっ!」
「いてっ。いててっ」
 ところが、男性嫌いのカーリは、苛烈に反応する。意外に強い抵抗に遭って、エンヴィスは呻いた。清純そうで大人しそうな見た目だから、侮っていた。まさか、ここまで激しい感情を秘めているとは、思わなかったのだ。
「何だよ、お前意外にでかい声出るじゃねぇか……いって!」
 感心したような声を発するエンヴィスだったが、次の瞬間、海理に手の甲で強く鼻っ柱を叩かれた。軽く仰け反ったために、後頭部に生えた角が、ガツッと壁に当たる。それでも、彼女を押さえる手を離そうとしないのは、流石揉み合いに慣れている警察部門職員だからだろうか。
「嫌だ!触らないでっ!!触るなっ!触らないでぇっ!!」
 海理は訳も分からずに、頭に浮かんだ言葉を、衝動的に口走り続ける。自分の行動を、自覚してもいない。ただ彼女の中にあるのは、恐怖と、不安と、嫌悪だけだった。見知らぬ場所で、見知らぬ他人に囲まれて。自分だけが何も分からないまま。主導権を完全に相手に渡してしまっている。それが、何よりも彼女を恐慌させた。
「海理さん」
 見苦しい争いをこれ以上続けさせるわけにはいかない。越境審査部の悪魔たちにも迷惑だ。トワイライトは懐から銃を取り出すと、海理の肩に銃口を押し当て、素早く引き金を引いた。即座に海理の体から力が抜け、ガクッと頭が落ちる。
「エッ!?いや……何も、殺さなくたっていーじゃん」
 まさか、銃で撃つとは思っていなかったのだろう。レディが呆然と呟く。エンヴィスも口を開けて、ポカンとしていた。
「安心したまえ。麻酔銃だよ。これしか持っていなくてね」
 別に射殺したわけではないと、トワイライトは銃を振ってアピールする。彼女を鎮静させるには、眠らせてしまうのが一番だと思ったのだが、催眠魔法の使えるアイテムを他に持っていなかったのだ。
「驚かせないでくださいよ。銃だなんて、心臓に悪い……」
「すまなかったって……」
 眠りに落ちた海理を支えながら、エンヴィスが不満げにぼやいた。非難めいた眼差しを向けられ、トワイライトは気まずそうに苦笑する。その時、ビニールカーテンが引かれ、数人の悪魔たちが現れた。騒ぎを不審に思って、駆け付けてきたのだろう。トワイライトはにこやかな笑顔で謝罪を告げながら、上司にどう報告をすべきか、熟考していた。

  *  *  *

「……それで?例の……棄児はどうなったのかね」
 魔界府中央庁舎。漆黒で塗り潰された、威圧感のある建物の、右側を飾り立てる尖塔。その中層階に、彼の部屋はあった。警察部門脱界者取締部部長・ユリウス。世界の禁忌を犯す者を取り締まるため、昼夜奔走している脱界者取締部の、トップたる存在だ。
「はい。現在は、警察病院に入院中。健康状態などのチェックを受けています」
 彼の問いに答えるのは、トワイライト。単独脱界者対策室の室長の彼にとって、つまりユリウスは、上司のそのまた上司となる。インペラトルである彼は、本来気軽に会うことの出来ない悪魔だ。それでもこうして対面しているのには、もちろん理由がある。
 ヤマザキカイリ。人間として育った悪魔の存在だ。
 彼女の扱いについては、世界の牽引者インペラトルたちをもってしても、容易に答えの出せない難問となった。無論、前例などない事態だ。一体どう体処すべきか、誰もが頭を悩ませた。そして、何はともあれまずは、彼女と直接接触した人物から、話を聞こうということになったのだ。その意見を参考として、全てを決めようと。要は、ただ問題の解決を先送りしたに過ぎない。けれども決定は決定だ。任された以上は、役目をきっちり果たさねばならない。だからユリウスは、自らの執務室で、彼と向かい合っていた。
「君の評判は耳に届いているよ。何でも、周囲に妬まれるくらい優秀な男だとか……」
「恐縮です」
 否定しないのか。軽く頭を下げる男を、ユリウスはじっと観察する。なるほど、確かに聞きしに勝る腹黒ぶりだ。話す言葉は最小限で、意味の解釈を全て聞き手に委ねる。どう捉えるかは相手の自由だが、場合によってはその返答を言質に取ることも可能。器用なものだ。そしてその器用な言葉を、状況に応じて瞬時に選択し、何事もないような顔で告げることが出来るのだから、狡猾というより他にはないだろう。彼の腹の内はきっと、その瞳と同じく真っ黒なのだ。
 そんなことを考えながら、手で椅子を勧める。トワイライトは黙礼し、腰を下ろした。向かい側に、ユリウスも座る。かけていた眼鏡を外し、レンズを拭いた。それをかけ直し、左耳の際に生える角の根本を指で擦る。考え事をしている時の彼の癖だ。
「正直、彼女の処遇を如何にすべきか、我々も決めかねていてね……」
 優しそうな、穏やかな声が、トワイライトの耳を打つ。彼は頭痛を堪えているような表情で、こめかみを揉んでいた。心底頭を悩ませていると言いたげな、大仰な仕草だ。内心はさほど、苦心してなどいないだろう。尤も、簡単に解決出来るとも思っていないだろうが。
「答えを出すために、実際の彼女を知る悪魔から話を聞く必要があると?」
「勘違いしないでくれ。私は別に、この問題に関して、何か具体的な結論を出したいわけじゃない」
 トワイライトの問いかけを、ユリウスはあっさりと否定した。
 その様子を見ていると、トワイライトの脳内に、自ずとシュハウゼンの顔が浮かんでくる。同じ部長職であるはずの彼らだが、醸し出す雰囲気は大きく異なっていた。
「では、どのような目的で、私をここに?」
 言いながら、静かに相手の様子を探る。先ほどは、ユリウスがこちらを窺っていたようだが、反対のことだって出来て当然だ。
 シュハウゼンには、まさに出世に必要な要素、欲望と野心とが満ち満ちていた。だが、ユリウスは違う。彼からは、あまりギラギラした雰囲気が感じられない。むしろ逆だ。
 標準的な身長。標準的な体格。白髪混じりの髪と、目元にわずかに寄った皺は、いかにもその歳の悪魔らしい姿だ。尤も、悪魔の外見は、年齢に依らないものの代表格であるのだが。
 顔立ちも同じ。目尻が垂れ下がり、唇の端が上がっているから、常に笑っているように見えて柔和な印象を受ける。服装も、別段特徴の見られないグレーのスーツ。黒縁の眼鏡も、どこにでも売っていそうなありきたりなデザインだった。ポケットからはみ出している懐中時計のチェーンだけが、かろうじて高級品だ。純銀製だと、錬金術に明るいトワイライトには分かる。
 それ以外は特に個性のない、至って普通の、平凡な男性悪魔。都会の雑踏に紛れ込めば、すぐに見失ってしまうような凡庸さだ。静寂と穏和。そんな凪いだ気配が漂っている。
 唯一人目を引くのは、悪魔の力の象徴、両耳の後ろから三本ずつ伸びた、赤い角だろうか。それぞれ長さが違って、顔に近い方が一番長く、後ろにいくほど短くなっている。赤色の角皮にはところどころ濃淡があり、マダラ模様を描いている。まるでパイプオルガンを彷彿とさせるような形だ。あるいは、蝶の羽のような。
「君の話を参考にしたい。ここでの会話を記録し、次の会議の場で報告する。それによって、決定を導きたいのだよ」
 トワイライトの視線に気が付いているのかいないのか、ユリウスは表情一つ変えぬまま、淡々と答えた。その返答は、予想通りのものだ。
 別に、自ら解決策を見つけ出そうとは思っていない。決断を、他のインペラトルに委ねようとしている。それは、責任逃れでもあるだろう。しかし見方を変えれば、舵を取っているのは彼だということにもなるのだ。全てを支配し、己の好きな方向に進ませる。トワイライトの言葉も、それに利用するつもりなのだろう。
 やはり、シュハウゼンとは違う。姿形だけでなく、内面もやり口も。彼はどちらかと言うと、自分が一番喋ることで、皆を制圧するタイプだ。巧言令色で相手を丸め込み、我を通す。議論の最中に自らの言い分を捻じ込む技術においては、彼の右に出る者はいないだろう。
「お言葉ですが、ユリウス部長ご自身が、意見を仰るつもりはないんですか?」
「私はただの調整役バランサーだからね」
 幸か不幸か、トワイライトはシュハウゼンの手口を意図せずして継承していた。慇懃さを保ったまま、皮肉げに問いかければ、ユリウスは平然と首肯する。
「皆の声に耳を傾け、それぞれの勢力を分散させる……どうでもいい役回りかも知れないが、私がいなければ成り立たない。集団というのは、誰かが注意して面倒を見てやらなければ、すぐに均衡を崩してしまう。面倒なものだよ」
 自分が骨を折らなければ成立しないのだと、大袈裟に労苦を誇っている。表向きは愚痴をこぼしながらも、その顔はどこか嬉しげだ。彼は自らの腕と立場を、唯一無二として捉え驕っているようだった。自分にはそれだけの価値があるのだと、心から信じて疑っていない。
 この手の輩には関わらぬ方がいい。トワイライトの直感が、そう告げていた。彼らは総じて、よく嘯くのだ。『仕方ないな』『自分がやるしかない』と。喜色満面の笑顔を浮かべながら。
「左様ですか……」
 あまり身の入らぬ、茫漠とした相槌を打ち、先を促す。ユリウスとて、自慢話に花を咲かせるほど愚かではないし、時間を持て余しているわけでもない。
「それで、君はどう思うんだ?」
 即座に話題を切り替えると、トワイライトに話を振ってきた。ここからが、本題というわけだ。トワイライトは気を引き締め直し、わずかに身を乗り出すようにして、姿勢を正す。
「今回の一件、どう落着させるべきか……どうすれば皆の納得いく、かつ穏便な方法で、解決出来ると思う?」
 ユリウスの視線。スーツと同じ、それよりやや薄いくらいのグレーの瞳が、トワイライトを見据える。求めているのは、皆の合意と、穏便。いかにも、彼らしい注文だと、ぼんやり思考した。だが、そんなことを考えている場合ではなかった。これは、間違ったトピックだからだ。
「……と仰られましても、私は一介の室長職。解決策を提示出来るような身分には、ないと思いますが」
 トワイライトが提供するのは、決定を促すための詳細情報のみ。あくまで決断を下すのは、上層部の悪魔たちである。彼自身は決して、問題それ自体に対して意見を述べられる立場はないのだ。答えれば、明らかな越権行為となる。
 かつて軍政部門にいたトワイライトにとっては、見え透いた罠だ。魔界で最も縦割り構造が厳しく、分を弁えねば、過ちの代償を命で支払わされる組織。彼がいたのは、そういう世界だった。ユリウスも、彼の経歴は知っているはずだ。それなのに何故、この程度の浅い落とし穴を講じたのか。獲物がかかるわけはないと、分かっていただろうに。
「いやいや、これはただの雑談だよ。私個人として、君の意見を聞いているだけさ」
 警戒した目つきを向けられたユリウスは、屈託のない笑顔を浮かべ、首を横に振った。その言葉を、どこまで信じるべきか、トワイライトは一瞬迷う。しかし、ここは答えておくことにした。ユリウスともあろうものが、一度見破られた罠を強引に貫き通すはずがない。それに、この場でトワイライトを嵌めることに、何らかの意味や利益があるとも思えなかった。
「では……一つ、よろしいでしょうか」
「何だね?」
 おもむろに話し始めてから、途中でそれを取り止める。もったいつけた調子に、否が応でも好奇心をそそられ、ユリウスは尋ねかけていた。
 食いついた。トワイライトは心の内で小さく喜ぶ。特に彼を陥れる気はなかったが、いつまでも相手のペースに乗せられているつもりもなかった。これで主導権は自らの手にあるのと同じ。トワイライトが糸を引くままに、ユリウスは口から情報を吐き出し続けるだけの存在となる。
「先の質問には、些か答えにくい点がございます」
 歓喜を胸の奥に押し殺して、トワイライトは真剣な表情を保った。
 意味を理解しかねて、ユリウスが胡乱げな目を向ける。それを確認してから、トワイライトは言葉を次いだ。
「どうすべき、とは……つまり、どういう意味でしょう。もう少し範囲を絞っていただかねば、難しいかと」
 ユリウスは答えない。だが、これでもう分かったはずだ。トワイライトが何を望んでいるのかを。
「彼女を、脱界者と見做し検挙するのか。それとも、彼女に咎などないと考えていらっしゃるのか……どちらです?」
 仕方がない、出血大サービスだと、わざわざ音にして聞かせてやる。インペラトルたちが悩んでいる、まさにその点をズバリと突いた。
「……君が聞いているのは、私個人の意見か?」
 ユリウスが、深く息を吐く。それと同時に、体勢を変え、足を組み直した。ソファの肘掛けに肘をついて、丸めた指の背を唇に当てる。迷っていることが明白な様子だ。
「あるいは」
「お聞きになっているのは、私の個人的見解でしょう?」
 彼の言葉を遮って、トワイライトは問いかける。ユリウスの眉間に、かすかな皺が寄った。いかにも、嫌厭していると言いたげな顔だ。チャンスを感じたトワイライトは、ぐっと身を乗り出してユリウスを見つめた。それはまさに、弱点を晒した獲物にとどめの一撃を叩き込むような、悪辣で獰猛な視線だ。
「でしたらば、ユリウス部長も同じく、思いのままをお答えいただければと……」
 昂る精神とは裏腹に、落ち着いた低い声で言い募る。詰め寄られたユリウスは、とうとう根負けして、口を開いた。
「……それこそ、答えにくい質問だ」
 苦虫を大量に噛み潰したような表情。か細い声色でボソボソと答える。歯切れが悪いことが自覚しているが、彼からしてみれば、己の躊躇は当たり前のものだった。
 それほどまでに、今回の事件が含んでいる問題は、大きい。
 脱界した両親によって、こっそりと産み落とされた赤子。人間の子供とすり替えられ、人として生きてきた彼女は、今までずっと世界の禁忌を犯してきた。魔界に暮らす悪魔でありながら、他の世界<人間界>で、かなりの長い年月を過ごしてきたのだ。彼女の存在は、一体どれほど地球の運命を歪めただろう。犯した罪の重さは如何ほどか、想像することも叶わない。
 だが彼女には悪意などなかった。それどころか、自らの正体すら理解してなかった。人として育った彼女には、自覚出来ぬことだった。己の存在それ自体が、この星を滅亡に導いているなんてことを。
 国を滅ぼすミサイル発射装置を、そうとは知らずに押したようなものだ。彼女という悪魔の存在は、魔界府にとってもインペラトルたちにとっても、完全なるイレギュラーなのだ。
 果たして、罪に問うべきか、否か。インペラトルたちは、この問題を巡ってキッパリと二つに分かれてしまった。迂闊に自身の見解を述べれば、すかさずどちらかの派閥に吸収され、醜い争いに巻き込まれることとなる。自らを調整役と名乗るユリウスにとっては、非常に厄介極まりない状況だ。
 どちらとも明言したくない。ユリウスは苦しげな表情で、返答に窮する。だが、トワイライトが容赦などしてくれるはずがないだろう。彼は、ユリウスの苦心を見抜いているのだ。見抜いていて、喋らせようとしている。彼を陥れたいわけではない。それが、相手の弱みだと理解している故の行為だろう。あのシュハウゼンの元部下らしい振る舞いだ。あの男の、嫌な部分のみを凝縮して受け継いでいる。
「どちらにせよ……事実をありのままに公表することだけは、避けなくてはならないだろう……」
 結局、悩んだ結果ユリウスは、少しだけ論点をずらした回答を告げることにした。
 本来であれば、これは大掛かりな裁判を通して結論を下すべき一件だ。いくつもいくつも審議を重ね、慎重に検討せねばならぬ問題である。しかし、事を大きくすれば、当然マスメディアの標的にもされやすくなることも確実。魔界のあちこちで、彼女の処遇が騒がれることになるのだ。そしてそれは、魔界全体に混乱を広めることとなる。
 いつの時代も曖昧な話題というのは、得てして激論を生み出すものだ。きっと彼女の件に便乗した、政治団体やらカルトやら、他にも正体不明の怪しげな集団が、無数に乱立することだろう。問題解決能力を疑われ、インペラトルたちの地位や権威まで失墜する恐れもある。そうなれば、一体誰が魔界を導くというのか。混沌の未来を避けるためには、絶対にこのことを公にするわけにはいかない。内々でひそかに処理してしまおうというのが、ユリウスの考えだった。
「はい。私も、その点には賛成です」
 こんなもので誤魔化せるだろうか。内心恐々としながら、彼は話す。ところが意外にもトワイライトは、歯切れのいい物言いで、同意を示した。不満を表してこなかったことに呆気に取られ、ユリウスは言葉の意味を理解するのに、やや時間を要してしまう。
「何故だね?」
「こういう時代です。デジタルタトゥーほど、厄介な烙印もありますまい」
 出来るだけ平静を装った調子で尋ねてみたが、上手くいったかどうかは分からない。不安に駆られるユリウスに、彼は気が付いていない様子で答える。彼の言わんとしているところを察し、ユリウスは軽く目を見開いた。
「彼女のプライバシーを守りたいということか。それはつまり……」
「はい。私は、彼女には一般の悪魔と同じ生活をさせるべきだと考えています」
 トワイライトは続きを引き取って、明瞭な口調で淡々と話し出す。
「彼女に罪などない。よしんばあるにしても、既にご両親によって贖われています。命という、最も重い償いによってね……」
 ユリウスは黙って、彼の声に耳を傾けていた。どのような理由があって、彼がその結論に行き着いたのか、興味があったのだ。
「彼女は自身の罪を自覚していなかった。それどころか、今までずっと、自分を人間だと思って生きてきたのです。そんな相手に刑罰を科すというのは、屁理屈というものでしょう。生きていたということ、命それ自体を罪とするおつもりですか?」 
「だが、世界の禁忌を犯し、”星の異常”に加担したことも事実。咎めなしというのでは、納得しない者も現れる」
 トワイライトの言い分にも、ユリウスの言い分にも、どちらも十分な説得力があった。だが、だからこそ、容易に決められない難題となっているのだ。
「それに、民間人として生きれば、危険な目に遭うかも知れないぞ?」
 彼女の存在が、この星の平和を乱す一因になった可能性は、否定出来ない。そのことで彼女を恨む者は、必ず現れるだろう。公的な罰則が与えられないのであればと、私刑を企てる者も出てくるかも知れない。そうなった時、魔界府が迅速に彼女を守れるのかと問われると、答えは否だ。警察部門内部にも、彼女を快く思わぬ悪魔がいる可能性だってある。しかし、それでは困るのだ。インペラトルの権力の象徴として、悪魔たちを守るために作られたこの機関が、若い女一人助けられないなどというのは許されない。ましてや、いかにも狙われていそうな、危うい立場の悪魔さえも取りこぼしたら。笑いものになるどころでは済まないだろう。警察部門、ひいては魔界府そのものの威信に関わりかねない。
 無罪を認めたところで、これまた別の問題にぶち当たるというわけだ。インペラトルたちが苦悩するのも、当然だろう。
「確かに、そうでしょう。彼女を完全に自由の身として解放してしまうのは、些か問題を伴う行為です。知識面でのサポートも入り用でしょうしね」
 ユリウスの懸念を、トワイライトは首を振って肯定した。しかし無論、ここで引き下がるわけはない。彼は指を一本立てて、おもむろに提案してきた。
「ですので、こういうのはどうです?彼女に、制限付きの自由を与えるというのは」
「……監視するということか」
 明るげな調子で、誇るような名案ではない。ユリウスは眉根を寄せて、苦い顔を浮かべる。
「しかし、それも立派なグレーゾーンだぞ」
 現行の法律では、基本的に市民の監視は、違法行為とされている。尤も魔界府は既に、その莫大な力を傘に着て、法の抜け道を突破することに成功しているのだが。かといって、容易に超えていい壁ではない。少なくとも、ユリウスの権限の届く範囲だけで済むことではなかった。まだ、無理矢理に罪状を宛ててしまった方が簡単なくらいだ。
「公安部に大きな借りを作ることになる……」
 監視や諜報、その他いわゆる裏工作と呼ばれる活動を、一手に引き受けているのが、警察部門公安部だ。サイバー犯罪対策や鑑識、他の部署への捜査協力を主な業務とする情報分析部と違って、彼らは現地における密偵や尾行、場合によっては暗殺に近い行為も許可される。彼ら公安部であれば、カイリの情報を秘匿したまま、監視し続けることが可能だろう。しかし彼らは限りなく暗部に近い存在。全容も不透明で、どんな手を使ってくるか、全く予想のつかない相手である。そんな連中に借りを作るなど、権力者であれば誰でも躊躇って当然のことだ。
「いやいや、そんなことをする必要はありませんよ。ほら、あるではないですか、例の法令」
 だがトワイライトは、満面の笑顔で手を振り、ユリウスの不安を杞憂として吹き飛ばした。身を乗り出し、足の上に乗せた両手を組んで、意味ありげな視線を送る。
「業務のサポートとして、民間人の協力者を非正規で雇うことが出来る。改正によって、我々公職にも適応されるようになりましたよね?あれを使えば、外部の介入など許さずに済みます」
「まさか……」
「その、まさかです」
 ユリウスは、直感した。今度こそ、目を大きく見開き、驚愕を露わにする。一つ、思い当たる節があったためだ。彼の反応を見て取ったトワイライトの笑みが、一層深まる。
「彼女の身柄は、我々単独脱界者対策室が預かります。非正規雇用職員という形にして、監視下に置く。我々は人手不足を解消出来て一石二鳥。尤も、彼女の心身の健康回復が最優先ですけどね」
 平然とした態度で、彼は自信たっぷりに宣言した。最後に、わずかな含み笑いを漏らすタイミングまで完璧だ。そこまで鬼畜ではないと、寛大さを示しているつもりなのだろう。だがユリウスには、感心している暇などなかった。
「どうしてそんなことを……これで、二人目だぞ」
 以前にも彼は、この法令を使って女を部下にしていた。あのレディという少女は、自らの身の上についてほとんど語らないという。しかも、彼女の行動には不謹慎と言える要素が多分に含まれていた。そんな怪しげな人物を、何故手元に置きたがるのだろう。目的は一体何なのか。
 一度目は、試しだった。改正されたばかり法律の、試験的運用のため。万が一失敗した際は、彼に責任を押し付けてしまえばいいと思っていたのだ。
 だが、まさかもう一人追加したいなどと頼まれるとは、夢にも思わなかった。彼の性格を考えれば、つけ上がっているという線はすぐに否定出来る。しかし、では何が狙いなのかというと、ユリウスにはさっぱり理解出来なかった。
「……せめて、理由を聞かせてくれないか?個人的感情に流されているというわけでもないんだろう?」
 困惑のあまりやや呆然としながらも、問いかける。許可を出してやるのは自分なのだから、質問に答えろ。そんな強要めいた色すら、かすかに漂わせて迫る。
「理由、と言われましても……」
 しかしトワイライトもまた、彼の意見に対して戸惑いを抱いているようだった。あるいは、慣れないことをするユリウスを、侮ってはぐらかそうとしているのか。だが何となくだが、彼は本当に、心の底から困っているように感じられた。
「必要だから、としか、今は答えようがございません」
 彼はそう答えると、静かに退出していった。礼儀正しく一礼する姿が、ドアの向こうに消えていく。
 結局、彼の真意は分からないままだった。どこまでが本心で、どこまでが策略なのか、ユリウスに区別する術はなかった。彼にあるのは静寂と、それに包まれた豪華な執務室だけであった。

  *  *  *

 それから二週間後のことだ。
 山崎海理は、カーリと名を改め、病院に入院していた。
 名前を変えたのは、この世界に少しでも早く馴染むためだ。この世界の言語は、人間界の英語をベースに作られている。また、苗字を持つ習慣がないために、山崎海理の名では色々と不便が生じる可能性があったのだ。だから、カーリという親しみやすく呼びやすい名へと変更した。
 別に、抵抗はなかった。元々両親への愛着は薄かったし、発音もさほど変わらないことから、特に困り事はないと思っていた。ところが、実際は意外に苦労をしていて、自分が案外名に拘っていたことを知った。
 馴染めないのは、この世界それ自体に対しても、同様である。
 ここは<魔界>。遥か地底の奥深くに広がる、広大な洞窟で出来た世界。そこには悪魔という、魔法の力と邪悪な精神、冷徹な思考回路を有した生き物が暮らしている。
 何だかまるで、ファンタジー映画の設定のようだ。 
 だが驚くべきことに、これは現実。魔界も悪魔も、実在するのである。だからこそ噂が流れ出て、人間の世界で創作物になった。そしてカーリも、その実在した架空の一人だというのだ。
 カーリの両親、実の親たちは”脱界者”だった。人間界へと許可なく渡航し、生活を試みる犯罪者。カーリは彼らの子供で、色々と問題があった挙句に人間の家族に預けられた。つまり山崎家の二人は、育ての親ということだ。彼らは、彼女が自分たちの娘ではないことを知らなかった。それどころか、種族さえも異なる存在であることさえ知らなかったのだ。心の底から、彼女を人間だと思って養育していたのである。
 いかにもあの愚かしい男女のしがちなことだが、納得などしている場合ではなかった。
 カーリは本当に、人間ではなかった。魔界の住人、悪魔で、本来はこの世界で生きるべきだった。長い間見落とされてきた彼女の存在が、ようやく発見され、元の居場所に連れ戻されたというわけだ。
 無論、はじめの内はそんなこと、全く信じられなかった。
 だって何しろ、あまりにファンタジック過ぎるからだ。人間たちの知らない別世界があって、彼らはずっと人間界を、隣人と思って見守ってきただなんて。自分がその一員だったなんて。
 こうしてベッドに座っている今でさえ、夢ではないかと思えるほどだった。
 実際、何度も疑った。自分は限りなく現実に近い夢を見ていて、本当の肉体はどこか別の場所で眠っているんじゃないかとか。無理矢理に何らかの装置をつけられ、非常にリアルな仮想現実を体験させられているんじゃないかとか。
 頭の中で空想を並べ立てるのは容易だった。だがそのどれもについて、確度を持って真実だと言い切ることは出来なかったし、この現実を否定する術もなかった。それにここでは、睡眠を取ることも出来るし、食事など今までにないほど美味しく感じられる。病院食という、本来さほど美味くもないはずの食べ物であってもだ。これが夢であるなどと、あり得ないだろう。体感という、根拠など何もない直感的なものに基づいた考えだったが、カーリ自身が納得するには十分だった。次第に彼女は、突きつけられた現実を、受け取るしかなくなっていった。
 けれど、受け入れたところで、どうするのだろう。ここが今までと全く違う新しい世界なのだとして、その中で自分はどのようにして生きていけばいいのか。彼女には結局、何も分からないのであった。
 例えば、金や何らかの仕事の能力があれば、役に立ったかも知れない。だが、まだ学生だった海理には、どちらもなかった。頼れる相手もいない。人間界にいる家族や友人とは、恐らく今後一生、二度と連絡を取り合うことは出来ないと、事前に伝えられていた。別に、寂しさは覚えない。しかしながら、やはり彼らのことを、困った時の最後の砦と思ってきたことも事実だ。それが失われる不安が、ないと言えば嘘になろう。つまりカーリには、拠り所となるものが何もないということなのだから。
 加えて、この環境。
 カーリは自分のいる、病室の中を見回す。
 彼女が入院しているのは、一般病棟でなく、精神科の閉鎖病棟だった。
 室内にあるのは、電動で昇降するベッドと椅子、長机、それから小さなキャビネットだけ。壁も天井も真っ白で、窓はついていない。スライド式のドアの向こうには、警官が一人、一日に四回交代で待機している。
 そうやって逃亡や自殺を図らぬよう監視されながら、断続的に訪れる取り調べ官の質問と、医師たちの検診に応じるだけの日々が続いている。
 まるで、精神病の疑いがある殺人犯の如き扱いだ。
 実際、取り調べに来た人物の何人かは、彼女をあたかも殺人犯のように憎み、嫌っているらしき者もいた。
 犯罪者の子は犯罪者。
 要するに、そういうことなのだろう。
 人間界に許可なく滞在することが罪ならば、確かに彼女も同じ罪を犯していると言える。魔界の存在も、自身の正体も知らず、のうのうと生き続けたのだから。
(私……犯罪者なのかな)
 本当にその通りなのか、否か。
 カーリには、何も分からない。
(もう……一生ここで匿ってもらった方が、生きやすいのかも)
 逃避を始めた思考が、そんな結論に辿り着くのも、致し方のないことであった。この病院にいれば、誰からもいじめられず、傷つけられず、将来の不安に悩まされることもない。トイレやシャワーの度に、警官らしき人物がついてくるのは嫌だけれど。ここを追い出されるよりはマシだろう。何しろ、彼女には他に行くところがないのだから。
「!」
 数人の男女が何か言い合うのが、ドアを通して聞こえてきた。
 外に誰かいる。
 カーリはハッとして、音のした方を見遣った。聞こえてくるのは、甲高い女と、それを窘めるような男の声の二つ。どちらも、聞き覚えがある声だ。もう一人は、待機している警官のものだろう。中に入る許可を得たのか、スライドドアが勢いよく開いた。
「あーカーリだ~~~!!」
 声音からも話し方からも、すぐに誰だか分かった。ぴょこぴょこと揺れるハーフツインテールが、視界に飛び込んでくる。
「レディちゃん」
 彼女が開けたドアは、勢いが強過ぎたのか、一度ドア枠にぶつかると跳ね返ってきた。そこそこのスピードで閉じかけたそれを、背後にいた男が掴んで止める。
「危ねっ……おいレディ、もうちょっと力加減をだな」
 不満げな口調で文句を言いながら、エンヴィスが溜め息を吐いた。髪を短く整えた頭には、オレンジ色をした長い角が生えている。初対面の時はなかったそれが、彼らがこの世界の住人であるという証明。悪魔の証である。
「久しぶりじゃん!元気してたぁ?」
 彼の言葉を聞くこともなく、レディは満面の笑みで話しかけてくる。パーソナルスペースをぐいぐいと侵食されて、海理は軽く仰け反った。
「あ……えっと」
「止めろ、レディ。カーリさんが困ってんだろうが」
「え~?」
 カーリの困惑を察したのか、エンヴィスが少し強めにレディを抑える。だが、彼女は表情一つ変えなかった。太陽のような、天真爛漫な笑顔で誤魔化している。早速いつもの光景だ。
 ここに来てからというもの、彼女はほぼ毎日のように、カーリのもとへ見舞いに訪れていた。といっても、ほとんど遊びに来ているようなものだが。そして時々、誰もが目を剥くような奇行に出るのだ。例えば、巨大なラジカセのようなもので、メタルを爆音で流したり。大量のドーナツを持ち込んで、糖尿病患者にも分け隔てなく与えたり。悪気がないことは、すぐに言動から理解出来た。カーリも少しずつ彼女を受け入れ、今ではただのギャルだと思ってはいない。しかしながら、彼女の悪戯を止めることは出来なかった。その結果、とうとう病院側からクレームが入ったらしく、お目付役としてエンヴィスが同行するようになったのだった。
 だが、どれだけ叱責されても、レディが態度を改めることは決してない。まさに、持って生まれた者の特権だ。でなければ、傍若無人で、しかもそれを公然と許されるだなんて、あり得ないだろう。カーリのような、最下層で押し潰されている人間とは違う。それを思い知ってしまうから、正直言って、カーリは彼女が苦手だった。
「あのねあのね!今日はこれ持ってきたんだ!じゃじゃん!人間の世界のガイドブックだよ!カーリが今までどんなとこ住んでたのか、コレ見ながらお話しよっ!」
 そんな彼女の内心など微塵も気にかけない様子で、レディは明るく話しかけてくる。そして、手に持っていた大判の本を、オーバーテーブルの上に広げてみせた。キリンの写真が載った表紙に『丸わかりガイド ~タンザニア編~』という題が記されている。日本出身のカーリには、タンザニアについて話せることなど何もない。レディは一体、どんなつもりでこの本を持ってきたのだろうか。
「お前これ……タンザニアって、どこだよ」
「アメリカだよ。エンちゃん知らないの?エッフェル塔だよ」
「アメリカにエッフェル塔はねぇよ……タンザニアも!」
 呆れた声で質問するエンヴィスに、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、拳を握る。しかし、言っていることは支離滅裂だ。エンヴィスの呆れ顔が、一層強まる。
 何だか漫才のような、軽快なやり取り。カーリは口を挟むタイミングを掴めずにいた。しかし、何か話さなくては。せっかく自分のために来てくれている相手に、失礼なことは出来ない。何より彼ら以外に、現状頼れる相手はいないのだ。愛想良くしておかなければと、焦燥が募るほどに、上手く頭が働かなくなる。尤も、それまでずっと孤独の中で生きてきたのだから、いきなり喧騒に放り込まれても、適応出来るはずがなくて当然なのだが。
「カーリ?どしたの?」
「っ……ううん、何でもない。ちょっとぼうっとしてただけ……」
「ホントに~?何か隠してなーい~?」
「ほ、ほんとだよ……大丈夫」
 突然顔を覗き込まれて、一瞬怯む。慌てて取り繕ったが、レディは疑い深げに、こちらを凝視していた。だがふと思い出したように、話題を変える。
「……そいえばさ、カーリって、何でアタシにタメなの?エンちゃんにはケーゴなのに」
「えっ?」
 唐突な質問に、カーリは呆気に取られ、彼女の方を見遣る。それによって、また知らない内に、相手の目を見ないで話していたようだと分かった。
「だって、ケーゴって年上に使うもんなんだよね?」
 彼女の内心には気が付かない様子で、レディはきょとんと首を傾げている。あっけらかんと尋ねられて、カーリは更に困惑した。
「あの……もしかしてレディちゃんって、私より年上なの?」
「うん、そうだよー」
 おずおずと尋ねると、彼女はコックリと頷いた。
「今年で68」
「ろっ、68!?」
 さも当然とばかりに放たれた言葉に、カーリは飛び上がらんばかりの勢いで驚く。68歳といえば、人間では十分老女と言える年齢だ。もちろんレディは、そんな風に見えない。
「じょ、冗談だよね!?」
「冗談じゃないよー」
 思わず声を大きくして詰め寄ったが、レディはへらへらと笑うだけで、取り合ってくれなかった。何だか、冗談ではないような口ぶりだ。カーリは訳が分からなくなって、目を回した。
「あー……あのな」
 見かねたエンヴィスが、気まずげな調子で口を挟む。続いて告げられた言葉を聞いて、カーリは再び驚愕した。
「俺たち悪魔の寿命は、人間よりも長いんだ……大体、3倍くらいかな」
「3倍!?じゃあ、300歳くらいまで生きるってことですか!?」
「そうだ。ちなみに俺は、138だぞ」
「ひゃく……さんじゅうはち」
 もはや嘘みたいな数字だ。見た目は30そこそこのサラリーマンが、実際は100年以上生きている長寿だなんて。到底信じられることではない。つまり彼が生まれた頃というのは、日本で言えば明治時代。中国とフランスが、東南アジアで戦争をしていた時代とも重なるはずだ。他には……歴史に疎いカーリには分からないけれど。
「魔界と人間界じゃ、時間の流れが違うんだ」
 カーリの考えていることを読んだのか、エンヴィスが補足した。
「つまり、人間たちの時間の流れは、俺らにとっちゃ遅いってことになるな……多分」
「はぁ……私も、それくらい生きるのでしょうか……?」
 カーリにはよく分からない話だ。試しに質問を投げかけてみると、エンヴィスは難しい顔をして、腕を組んだ。
「ん~、どうだろなぁ~……悪魔の寿命は魔力量に比例するからな。今のお前じゃ、人間と大して変わらないんじゃないかな」
 頑張っても100歳程度までということだろうか。別に、さして長生きに拘りがあるわけではないので構わない。だが、寿命が短いということは、自分には魔力がないということなのだろうかと、疑問には思った。
「年上にはケーゴだよ!!って、エンちゃん言ってたもん!」
 そこへ、レディが割って入ってくる。ビシリと指を突きつけられ、カーリは気圧された。エンヴィスは彼女の隣で、またもや呆れ顔を浮かべている。
「何言ってんだ。敬語なんか使われたくないくせに」
「そりゃそうだよ。あんなの使われたって、イヤ~な気持ちになるだけだもん。なんかヨソヨソしくってさ!」
「え……っ」
 当然だと言うように答えたレディを見て、カーリは思わず、声にならない呻きをこぼしてしまう。使われたいわけでないのなら、何故年上には敬語などという話題を持ち出したのか。彼女の意図が、カーリには分からなかった。
「こういう奴なんだよ……悪いな、カーリさん」
「はぁ……」
 こうなることを見越していたのか、エンヴィスが苦虫を噛み潰したような表情で、申し訳なさそうに謝罪する。
「でも、悪魔って、色々違うんですね」
 何だか彼が可哀想に見えたので、カーリは無理矢理に言葉を絞り出すことにした。
「年齢のこともそうだし、角、とか……」
「あぁ、これか?」
 控え目に指を差せば、エンヴィスは何気ない調子で答える。スツールを近くに寄せ、腰を下ろすと、くるりと体を回しカーリに背を向けた。そうすると、頭に生えた角がよく見える。およそ、30センチくらいはあるだろうか。暗いオレンジ色をしたそれは、彼の後頭部から斜め上へ向かって、わずかに左右に開きながら伸びている。よく見ると表面には、クレーターのような形のへこみが、無数についていた。
「皆に、あるってわけじゃないんですよね?レディちゃんにはないし……」
 この”角”が、悪魔であることの証明であり誇りなのだと、以前看護師の誰かから聞いた。だが、角は生える者と生えない者がいる、とも。実際、エンヴィスやトワイライトには角があるが、レディや病院の者たちにはない。後者には他に特徴があるわけでもないから、彼らと人間とを並べたら、きっとカーリには見分けがつかないだろう。率直に言えば、悪魔であることの証明としての役割は、あまり持っていないような気がしていた。しかしそれならば、どうして角があるのか。有無の違いは何なのか。
 触りたいという衝動を堪えながら、平然とした声音を装って問いかける。その場しのぎにしては、自らの好奇心も満たせる、上手い質問を選んだものだ。カーリは心の中で自画自賛する。
「アタシはあんなのいらないよー。エンちゃんだって、普通のベッドじゃ寝られないんだよ?カワイソーじゃん」
 引き合いに出されたレディが、辟易した声音で呻いた。それを聞いて、カーリも疑問に思う。確かに、彼の角はいかにも寝にくそうだ。というよりも、まず仰向けに寝転がることは不可能だろう。角が引っかかって、あるいは体重に負けてへし折れてしまうかも知れない。
「じゃあ、どうやって寝てるんです?」
「これだよ」
 話の流れを察していたらしく、エンヴィスは用意が良かった。くるっとまた体を回して、カーリの方に向き直る。そして手にしていたスマートフォンを差し出してくる。画面に映るネットショッピングのサイトには、青色のクッションらしき商品が表示されていた。下に書かれた商品名は『スライム粘体使用 ビーズソファ 特大サイズ』。いわゆる、人をダメにするクッションだ。しかしこの”スライム”という言葉はどういう意味だろうと思っていると、彼の指がどこか別の箇所をタップする。すると、エンヴィスに似た長い角を持つ男が、大きなビーズソファにダイブする、短い映像が流れ出した。鋭い角の先端は、クッション布を引き裂いてしまいそうだが、そんなことは起こらない。ソファは柔らかく、まるでスライムのように流動的で、尖った角も難なく包み込んでいた。にも関わらず体や頭部はしっかり支えているのだから、不思議なものである。
「これ……凄いですね。何というか……人間の世界には、なかったです」
 まさに未知の技術。目新し過ぎて理解が追いつかない。呆然とするカーリだったが、またもや別の疑問が、ふと湧いてきた。
「あれ……?でも、最初に会った時は、なかったですよね?」
 あれば、絶対に気付いたはずだ。しかしあの時の彼は、まるで普通の人間と変わりない見た目をしていた。どういうことなのだろうかと、カーリは首を傾げて、エンヴィスを見遣る。
「あぁ、そうだな。人間に見られるかも知れない場所で、角なんか生やしてちゃ、『いかにも悪魔でございます』って感じだからな」
 彼はそう言って、胸に手を当ておどけた仕草でお辞儀してみせた。
「だからこうやって、隠してるんだよ。魔法でな。そうすりゃ普通のベッドでも寝られる」
 ふと気が付くと、彼の頭部からは角が消えていた。短く整えられた濃茶の髪が、芝生のように生えているだけだ。まるで手品のような出来事に、カーリは呆気に取られてしまう。
「まほう……」
「ん?魔法ってものについては、知ってるよな?」
 思わず独り言を漏らすと、耳聡く聞きつけたエンヴィスが、怪訝な顔をした。確認するように尋ねられて、カーリは慌てて首を振る。
「は、はい。ある程度は……話としては、聞きました」
 魔法。
 それはつまり、未知のエネルギーを活用する術のことだ。魔界にのみ流れ込む、正体不明の謎の力。悪魔たちはそこに、何らかの体系を見出し、コントロールする方法を考え付いた。そして、魔法という名をつけたのだ。トワイライトたちがカーリと会話出来ていたのも、今現在カーリが悪魔たちと喋れるのも、魔法の力によるものだという。ところが、その詳しい仕組みは、未だ解明されていないらしい。
 悪魔たちにも分かっていないものを、カーリが理解出来ているはずがなかった。一体どういうことなのか、実際に体験していても困惑してしまう。やはり、”慣れ”が必要なのだろう。
「まだよく分からないか?……そうだな。例えば、こういうことだ」
 彼女の疑念を察したのか、エンヴィスが一つ頷き、何事かを呟いた。彼が右手をパチリと鳴らした途端のことだ。
 彼の人差し指、その先端に、ライターの火と同じくらいのサイズの、小さな炎が灯る。
「わっ!」
「へへっ、驚いただろ?これが俺たち、悪魔の力だよ」
 カーリは驚いて、声を上げた。その反応に気をよくしたのか、エンヴィスは胸を張って誇らしげにしている。そして、炎の載った人差し指をくるくると回してみせた。
 回転と共に、炎は少しずつ拡大していく。手をかざすとかすかに熱を感じるから、錯覚や映像だとは思えない。間違いなく炎だ。細かな火の粉を振り撒きながら大きくなったそれを、エンヴィスはフッと吹き消した。蝋燭の火を消すような、無造作な動作だ。
「わぁ……っ!!」
 一筋の煙を残してかき消えた炎を見て、カーリはまた歓声を上げる。エンヴィスの指先には、火傷跡も煤汚れもついていない。もちろん、何か火種になるようなものがあるわけでもない。それなのに、彼は何もないところから炎を生み出し、自在に操ってみせた。
 これが、魔法か。
 何だか奇跡のようだった。不可思議で、神秘の力と言われても全く違和感を覚えない。まさに映画のような光景を目の当たりにすることが出来て、カーリは興奮していた。
「わ、私にも出来ますかっ?」
「え!?あー、そうだな……」
 いつか自分にも使える日が来るのだろうかと、目を輝かせてエンヴィスを見上げる。キラキラとした瞳で見つめられて、エンヴィスは当惑した。
 今使ってみせたのは、彼が得意とする炎属性魔法の、最初歩の技術だ。魔力がある者なら誰だって、簡単に出来るはずのもの。しかしながら、現在のカーリの体には、魔力が宿っていない。長年魔力の枯渇した人間界で暮らす内に、体が魔力のない状態に慣れ、魔力を取り込む機能を手放してしまったのだ。その体質が変わらない限り、彼女に魔法は使えないだろう。しかし、今更変えられるのだろうか。
 エンヴィスには分からない。だからどう伝えるべきか迷って、口篭っていた。
 その時ふと、ドアが開いて、ワゴンを押した看護師が現れる。いかにもな、中年らしい雰囲気の女性だ。化粧では隠しきれない、クマのある疲れた顔。背は低いものの体はやや太めで、肌にはシミが浮きシワが刻まれている。ミドルショートの髪の毛は、手入れが雑なのかバサバサしていた。
 彼女の顔を見るなり、カーリの心から一気に熱が引いていく。代わりに襲ってきた緊張によって、頬がわずかに強張った。しかしエンヴィスたちに心配をかけまいと、精一杯平気なふりを装う。
「どいていただけますか?」
 近付いてきた彼女は、丁寧ながらも、どこか高圧的な声でぴしゃりと言い放った。押し除けられたレディが、不満げに眉を寄せる。しかし、言い返す術が思い浮かばなかったのか、渋々と従った。そんな彼女を、看護師は剣呑な目付きで見遣り、それからカーリのこともじろりと睨みつけた。
「検温です」
「は、はい。ありがとうございます……」
 ぶっきらぼうに差し出された体温計を、カーリは軽く会釈してから受け取る。声色が硬くなっているのが、自分でも分かった。
 自分の担当らしいこの女性看護師のことが、カーリは苦手だった。元々、見知らぬ他人と言葉を交わすことは不得手な性分だけれど、彼女のような人物が相手の時は、更にその傾向が強まってしまう。中年女性という要素が、かつてのトラウマを想起させるからかも知れない。だがそれ以上に、彼女から伝えられる、敵意とも悪意ともつかないギスギスした感情が、カーリを疲弊させていた。
 別に、何か酷いことを言われたり、されたりしたわけではない。しかしながら、言動の端々が物語っている。彼女はカーリのことを、殺意に近いほどの憎悪を持った目で見ているということを。彼女のことを、犯罪者の子供として認識し、嫌悪していることを。
 無論、心の中で何を考えていようと、本人の自由だ。だが、実際にその思いをぶつけられるとなると、話は変わってくる。カーリはいつしか、この女性に対して、恐怖ともつかぬ怯えた感情を抱くようになった。そしてその気持ちが、態度となって表れ、彼女からのヘイトを余計に買う羽目になっている。まさに悪循環だ。
 誰かに相談出来たら、少しは楽になったかも知れない。抗議を入れて、担当看護師を変えさせることの出来る力を持つ者がいれば尚更だ。けれどもカーリにはそんな相手などいなかった。レディやエンヴィスとは、多少打ち解けて話せるようになってきているものの、残念ながら悩みを曝け出せるまでにはなっていない。ずっと他人を信じずに生きてきた彼女には、誰かに頼るということが出来なくなってしまっているのだ。
 下手なことを言えば、せっかく築き上げた関係が無に帰すかも知れない。そう考えると怖かった。繊細過ぎるとか、面倒な奴だとか、被害妄想だとか。そんな風に思われるのは嫌だった。けれども、完全に本心を押し殺して、平気なふりして笑うことも出来なかった。そんな自分が嫌いだった。
 考え込んでいる内に、脇の下で電子音が鳴る。カーリは思考を停止し、急いで体温計を取り出した。慌てていたからか、若干もたついた動作になってしまう。それを見て、看護師が疲れたような息を吐いた。カーリの鈍臭さに、呆れ返っているようだ。そのまま、引ったくるようにして体温計を奪うと、ワゴンの中のパソコンに何かを記入していく。そして、冷たい冷たい声を発した。
「どうですか?体調とか」
「あ……は、はい。大丈夫です……」
「問題ないということですか?」
 辿々しく答えるカーリに、ぐいと顔を近付けてくる。至近距離から不機嫌そうな眼差しを向けられて、冷や汗が噴き出した。
「そ、そうですっ」
 コクコクと、首を何度も縦に振る。喉がひりつき、咳をしたいような衝動に駆られた。
「はぁっ……」
 女性はまたもや溜め息をつくと、パソコンを閉じワゴンに手をかける。カーリたちに背を向けかけて、ふと立ち止まった。
「皆さん、大変ですね」
「は……っ?」
 一同をぐるりと見回し、一人一人の顔を確認しながら、告げる。嘲笑混じりの声音に、エンヴィスが気分を害したような反応を示した。カーリも、彼女の言葉の意味がよく分からずに、困惑した顔をしてしまう。しかし看護師は、それ以上補足したりはしない。再びワゴンを押し、踵を返すと去っていった。
 少々乱暴に閉められたスライドドアが、バタンと音を立てる。すりガラス越しに、彼女が歩いていくのを見送ってから、レディが不満げに叫んだ。
「なんっなのあの女!カンジ悪っ!」
「まぁまぁ、レディちゃん……」
 テーブルをどんと叩く彼女を、カーリは必死で窘めた。誰かの耳に届いていたら、彼女の心象が更に悪くなりかねない。ただでさえ、数々の奇行のせいで、出禁寸前なのに。
「確かに、とても褒められた態度とは言えねぇらしいな……」
 だが彼女の横では、エンヴィスもまた、腕を組んで不服そうな表情を浮かべていた。彼らに不快感を与えてしまったことを、カーリは反省する。
「すみません……私のせいで」
 ベッドに座って、深々と頭を下げる。誠心誠意謝罪する彼女に、レディが怪訝そうな声を返した。
「カーリは何もしてないじゃん」
「でも……私が、歓迎されないのは事実だから」
「どうして?カーリは何も悪いことしてないのに」
 正面切って尋ねられて、カーリは答えに窮してしまう。
「そうだ。お前は、自らの意思で脱界をしていたわけじゃない。そこが決め手で、無罪判決が出たんだ」
 レディの意見に同意しながら、エンヴィスも口を開いた。
 カーリに対して無罪判決が下されたのは、ほんの数日前のことである。
 ”脱界者”であった両親が、密かに産み落としていた赤子。その存在を気付かれぬまま、彼女は20年もの長い月日を人間界で過ごした。それによって世界の運命が歪み、”星の異常”が進行したと考えられることも確か。しかしながら、あくまで可能性は可能性に過ぎない。そういう見方もあると、片付けられる程度だ。また、彼女は己の種族も知らなかった。自らの正体も知らぬ者が、存在すら理解していない世界の法律や決まりを守ることなど不可能。違反を犯していても仕方のないことだ。よって、彼女が受けるべき咎はない。もしも彼女の存在によって、世界の危機が加速していたのだとしても、それは彼女の責任ではなく、彼女を発見し損ねた、当時の警察部門の落ち度である。
 というのが、インペラトルたちの出した結論だった。いくつかの専門用語は分からなかったけれど、大体の話は理解出来るものだ。つまりカーリは、法律という観点で見れば、全くの潔白ということ。後ろめたいことなど皆無なのである。一般の人々と、何ら変わりのない普通の生活を、送ることが出来るということだ。
「偉い人たちがそう決めても、一般の人たちは納得してくれませんよ……人間たちも、そうですから。一緒にするのは、失礼かも知れないけど」
 だが、だからといって簡単に割り切れないのが、人というもの。きっと悪魔であっても、同じことだろう。カーリが、その存在によって、世界を危険に晒していたと捉えることも可能なのだ。だから、あの女性看護師のような者も現れる。一体何故、自分が生きていたことが問題となってしまうのか、詳細はよく分からないけれど。
「私のしたことは、間違いなく、悪いことでした。いくら私自身が知らなかったこととはいえ、やったことが消えるわけじゃない。そう思う人は、確実にいますよ。今自分たちが辛い思いをしているのは、こいつのせい。こいつが悪いんだ。こいつがいなければって。そうやって、誰かを責めなきゃ、生きていけない人だっています。仕方のないことなんです……」
 責任転嫁、あるいは現実逃避をすることでしか、生きていられない生物はいる。それは人間であれ、悪魔であれ同じことだろう。そして彼らが標的に選ぶのは、カーリのように問題を抱えた、弱者だけだ。選ばれた者は、なす術なく、蹂躙される他ないのである。全ては、抗う力を持たず、分かりやすい弱点ばかり持っている自分が悪いのだと、自己に言い聞かせながら。
「カーリ……」
 ぼそぼそと呟くカーリのことを、レディは憂いを含んだ目で見つめていた。
 カーリは、彼女にとって未だ会ったことのない、未知の悪魔だった。憎まれることを是とするなんて、反撃しないなんて、これまでの彼女には考えられなかった。彼女は、攻撃をしてくる相手にはきっちりと反撃していたし、またそれによって、向けられた敵意を跳ね返すことにも成功していた。だから、カーリの取る態度が、信じられないもののように思えていたのだ。どうして、仕方ないなんて言えるのだろう。どうして、恨まれ、嫌われ、傷付けられても、それを当たり前のことだと受け入れられるのだろう。
「……ふざけるな」
 呆然とする彼女の耳に、低い声が飛び込んでくる。
「えっ?」
「エンちゃん?」
 明らかに怒りの滲んだ声音に、カーリが驚いて顔を上げた。レディもつられて、声のした方を見遣る。エンヴィスの鋭い眼光がキッと、カーリを睨み付けた。
「何が『仕方ない』だ……!全然仕方なくねぇじゃねぇか!ふざけんなっ!」
 彼の口から、荒々しい怒号が迸った。激怒で口調が弾んでいる。
 どうやら完全に激昂しているようだ。レディはまずいと直感した。
「お前は何も罪を犯しちゃいない!不可抗力だったんだ!!それなのに……っ、一部の外野連中が、我が物顔してあーだこーだと喚きやがって!あいつらに、一体何が分かるってんだ!」
 彼が大声で捲し立てる度に、カーリの背筋がビクリと引き攣っている。
「ちょ、ちょっとエンちゃん。急におっきな声出さないでよ……カーリが怖がってるじゃん」
「うるせぇ!俺はただ、弱い者いじめが気に食わねぇだけだっ」
 レディはカーリの肩を抱き、彼女を庇いながら、エンヴィスを非難した。しかし彼は、反省の色一つ見せない。拗ねたようにそっぽを向いて、スツールにどっかりと座っていた。
「……や、やめてください……」
 何とか場を収めなければと、カーリは掠れる声を絞り出す。これ以上、自分なんかのために彼らが争う様子を、見ていたくなかった。
「あの方のような人がいるのも、私は分かりますから……別に、何か困ることが起きてるわけじゃないし、大丈夫ですから……」
「……っだから!何でそんなこと簡単に言えるんだって言ってんだよ俺は!」
 小さな声で、途切れ途切れに訴えかける。それを、エンヴィスは容赦なく叩き切った。
「お前は被害者だ。責められる謂れなんか何もねぇ。なのに何で……っ、お前が攻撃されて、剰えお前がそれを我慢しなくちゃなんねぇんだ?おかしいだろ?全くもって理不尽だ!俺は絶対認めねぇぞ……!!」
「で、でも……」
「でももだってもヘチマもねぇだろ!!ぐだぐだ言い訳してんじゃねぇ!」
 カーリの意見になど、まるで聞く耳を持たない。彼の怒りはどんどんヒートアップして、手のつけられない状態になっていた。
(どうしよう……!!)
 このままでは、カーリが怖がって心を閉ざしてしまう。その前に、エンヴィスを殴り飛ばすべきだろうか。だが、火に油を注ぐだけで終わらないだろうか。
「諦めんな!戦えよ、カーリ!!」
 レディが躊躇っている間に、エンヴィスは立ち上がっていた。カーリの両肩をがっしり掴み、挑発的に詰め寄っている。
「……ッ」
 怒られることに加え、接触までされて、カーリの精神は限界寸前だった。心臓がドクドクと早鐘を打ち、心の芯がスゥッと冷えていくのを感じる。感情が急激に死に絶え、代わりに身体が作り替えられていく。襲いくる理不尽と不条理に、ただじっと、黙って耐えていくように。
「ああいう奴らは、一度ガツンと分からせてやらねぇと、どこまでもつけ上がるんだ!要は舐められてるってこったよ……!」
「エンちゃん」
「こいつは弱いから、何をやっても抗えねぇって、高を括ってやがんだ!」
「エンちゃん!」
 苛立ちの宿る声で、喋り続けるエンヴィス。どれだけ制止しても振り払われて、レディの顔が焦ったものへと変わっていく。
 カーリは既に、己の殻に完全に閉じこもってしまっていた。耳の中には音として入ってくる言葉だが、決して心には届かない。そうやって、全てを遮断して生きてきたのだ。感情を殺して、自分を殺して。どんな衝撃を受けても、沈黙して大人しく従っている。
「お前は、それでいいのか?見下されて、侮られて。それでもいいってのか?ん?」
 馬鹿にされても、コケにされても、カーリが何かを思うことはない。彼女の世界は、自らの内側だけで完結しているのだ。そう出来るように、自分を変えた。彼女が自身の意思で、選んだことだ。そうやって、自分を守ってきた。そうしなければ、自分を守れなかった。外の世界と、自分とを完璧に切り離して、心を分厚くて強固な殻で覆った。でなければ、外界からの暴力と悪意の圧力に、押し潰されてしまうから。
「このまま放っといたらお前……奴らの食いモンにされて、殺されちまうだけだぞ!!」
 エンヴィスはまだ、言い募るのを止めようとしない。終いには、カーリに指を突きつけて、脅すような声をかけてきた。カーリの手が、知らずにベッドのシーツを握り締める。関節が白くなるほど、力強く。
「エンちゃん!!いい加減にして!!」
 とうとう我慢出来なくなって、レディが金切り声で叫ぶ。彼女は片手を振り上げ、エンヴィスの頬に全力で叩き付けようとした。
「君たち、うるさいぞ。静かにしたまえ」
 彼女の平手打ちが、今にもエンヴィスの顔面に炸裂しようとした時。
 ガラリとドアを開けて、トワイライトが現れる。上司の登場によって、我に返ったエンヴィスが、ハッと口をつぐんだ。レディも目を見開き、すんでのところで手を止める。
「全く……他の患者さんの迷惑になるだろう。エンヴィスくん、君という者がついていながら、何をやっているんだね」
「もっ、申し訳、ありません……」
 クレームを入れられぬために投入した人材が、新たなトラブルを起こしたというのでは、洒落にもならない。若干眉を寄せて不機嫌そうに呻くトワイライトに、エンヴィスは萎縮して謝罪した。
「まぁいい。さて、カーリさん。調子はいかがですかな?」
 彼はパッと表情を切り替えると、笑顔を浮かべてカーリに近付いてきた。まるで作り上げたような、わざとらしい笑みだ。
「あなたの処遇が決まりました。つきましてはそのことに関して、少々お時間をいただきたく……ん?」
 話半分に聞き流しながら、カーリは立ち上がった。俯いて、異変を感じ取られないように注意しながら、すたすたと歩いていく。どこへ行くのかと、訝しげに首を傾げたトワイライトに、ボソボソと告げた。
「……すみません。お手洗いに……」
「あぁ、これは失敬。どうぞどうぞ?」
 優しい彼は、わざわざドアのところまで戻って、何も言わずに送り出してくれた。にこやかな笑みを浮かべたまま、ドアノブを押さえ、通るよう促す。カーリは、彼の横をすり抜けるようにして足早に通り過ぎた。表情を隠そうと俯いていたから、気が付かなかった。
 あの鴉のような黒い瞳が、彼女の様子をじっと観察していたことに。
「さて……話してもらおうか。君たち、彼女に一体何をした?」
 カーリが出て行った後、バタムと音を立てて閉まるドアを、トワイライトはしばし無言で見つめていた。それから、ゆっくりと口を開く。いつになく冷徹な瞳に睨まれ、レディとエンヴィスが身を硬くした。

  *  *  *

 病室を出たカーリは、廊下の端にあるトイレに向かって歩いていく。ドア横に待機していた見張りの警官が、静かに後をついてきた。それが彼の仕事とはいえ、監視されているようで落ち着かない。追いつかれぬよう、カーリは少々早足で目的地を目指す。人間の世界でも見慣れた、ピンク色の女性マークが見えてきた。中が見えぬよう、曲がり角の作られた、細い廊下に素早く飛び込む。そして、一番近くにあった個室に、ドアの隙間に体を捩じ込むようにして滑り込んだ。別に尿意に駆られているわけではないから、便座の蓋は上げない。そのままどさっと、蓋の上に座り込んだ。両手で顔を覆って、深く深く息を吐く。
「はぁー……っっっ」
 一人になった途端、堪えていた涙が湧き出した。掌を濡らす涙滴を、必死に拭って誤魔化す。自分が泣いているという事実を、受け入れたくなかった。
『おかしいだろ!』

『戦えよ、カーリ!!』
 脳内に、エンヴィスの言葉がリフレインする。カーリは思わず、唇をぐっと噛み締めた。
(やめて……)
『ああいう奴らは、一度ガツンと分からせてやらねぇと』
『こいつは弱いから、何をやっても抗えねぇって』
『お前は、それでいいのか?』
(やめて、やめて……!!)
 何度も何度も。
 彼の声が木霊する。
 カーリは首を振って、拒絶を示した。
『放っといたらお前』
『食いモンにされて』
『いびり殺されちまうんだぞ!!』
(もうやめてっ!!!)
 最後には、頭を抱えて、悶えてしまう。嗚咽と啜り泣きとが、自分の口から漏れていた。
「うぅ……ひっく……ぐすっ」
 体が震えるほどの慟哭を、無理矢理抑え付ける。こんな泣き顔を、トワイライトたちに知られたら、何を言われるか分からない。彼らにまた、心配をかけるようなことだけは考えられなかった。だって、悪いのは自分なのだから。
 そう、カーリが悪いのだ。
 彼女が。
 自分が。
 お前が悪い。
 お前が。
 オマエが。 
 おまえがおまえがおまえが。
「ッ!!」
 ビクッと、体が跳ね上がる。
 突然、意識の中の自分と、自分自身の肉体とが重なる感覚。それによって、気付く。脳内に響く無数の声に飲み込まれて、我を失いそうになっていたことを。
 そろそろ戻らないといけないかも知れない。
 冷静になった頭が、そんな思考を思い付く。
 あまり長い時間ここにいたら、きっと怪しまれる。様子を見に来られるかも知れない。そうなったら、何もかも終わりだ。彼らに根掘り葉掘り聞かれるようなことだけは、絶対に避けなければ。
 そう考えて、慌てて涙を拭う。
 そっと鍵を外して、ドアを数センチ開けると、隙間から様子を窺った。そこには何も異常は見られない。どうやらまだ誰も、カーリのことを不審に思ってはいないらしい。それとも、彼女のことなど気に留めさえしないのか。どうでもいいが、幸運だ。
 一抹の安堵と寂寥を覚えながら、ドアを開け放ち個室を出る。手を洗いながら、ふと鏡を見ると、目の前には酷くやつれた姿の自分がいた。長い黒髪は乱れて絡まり、目の下には濃いクマ。その黒とも茶色ともつかぬ色に、ふと、小学校の頃の担任教師を思い出す。彼女は、同僚や保護者から心配されたいがために、アイシャドウでクマを書いていた。子供心に、異常者だと思ったものだ。それを口にすれば、今以上にきつく叱られると分かっていたから、黙っていたけれど。
 病院から与えられた入院着も、サイズが合っていないのかブカブカしている。明らかに、見栄えのしない外見だ。あの看護師のことを、悪く言えないほど。これでは、多くの者に嫌われて当然だろう。誰だって、見た目の美しくない相手のことを、好ましく思ったりしない。努力不足だと罵るだろう。当然だ。だが、どうしようもない。知識も、金も、住居すらないカーリには、努力をするための元手もないのだ。
(どうしようもないよね……これじゃ)
 乾いた笑顔が自然と浮かんでくる。カーリは半ば諦めかけながらも、せめて服装だけは直そうかと、緩みかけた紐をきつく結び直した。そして、もう一度手を洗い、ペーパータオルを取って水滴を拭き取る。
 その途中のことだった。
「!!」
 鏡越しに、何かが動いた。
 カーリの背後に、女が立っている。
 ミドルショートの、疲れた様子の女。カーリの担当の、あの看護師だ。
「どっ、どうしてここに……!?」
 カーリは思わず飛び退いて、彼女の顔を凝視してしまった。じろじろ見られたことが不快だったのか、彼女は眉根を寄せてカーリを睨み返す。
「看護師がトイレを使っちゃいけないのかしら?」
「いえ、そんなことは……っ」
 彼女の声音は低く、挑戦的だった。当たり前のことを尋ねたカーリを、心底馬鹿にしているようだ。カーリは萎縮し、浅はかな己をただ恥じる。
「どいて」
 看護師はそんな彼女を肘で押しやると、洗面台の前に立つ。胸元のネームホルダーに、目が留まった。ダチュラ。それが彼女の名前らしい。
「いいご身分ねぇ……一般人のくせに、護衛役ボディーガードなんかつけちゃって」
 わざとらしい口調で吐き出されたのは、強烈な毒だった。あからさまな嫌味に、カーリはビクリと肩を跳ねさせる。
「ボ、ボディーガードじゃないです……警察の方で」
「そんなの分かってるわよ」
「あ……」
 ぴしゃりと言い切られて、言葉をなくす。次に何を言うべきか、緊張の張り詰めた頭は、中々いい答えを見つけてくれなかった。
「ど、どうしても、必要だからって……」
「ハァ……」
 何とか、必死に声を振り絞るが、ダチュラは取り合おうとしない。
「何それ、どういう意味?」
 険のある甲高い声色には、明確な敵意と、悪意とが込められていた。
「望んだことじゃないって言うの?誰かに勝手にされたことで、自分は悪くないって?」
「え……っ」
 突然問いかけられたことの意味が理解出来なくて、カーリは呆けた表情をしてしまう。だが、それが良くなかった。
「あなたさぁ……いっつもいっつもそればっかり言ってるけどさぁ!」
 ダチュラの声が、段々と大きくなっていく。音の苦手なカーリは、たちまち竦み上がった。
「それはちょっと虫が良過ぎるんじゃないの?自分の言ってる意味分かってる!?」
 相手の怯えを分かっているだろうに、ダチュラは容赦しない。カーリに詰め寄り、一方的に捲し立ててきた。
「そうやって、犯罪行為も自分の意思じゃないって、言い訳して逃げたじゃない」
「ち……違います。私は、別に、逃げたわけじゃ……」
「逃げたでしょ!!」
 必死に否定しても、話を聞く様子もなかった。カーリの言い分を遮って、自分勝手な文句を連ね続ける。
「罪を犯したら罰を受ける。自分のしたことを、しっかり償う。そんなの、子供でも分かること。なのにあなたは、『私のせいじゃない~』って泣きついて。逃げたじゃないの、罰を受けることから!あんたは逃げたのよ!!」
 これはまずい。
 流石のカーリも、これ以上彼女に付き合ってはいられないと判断出来るほどの、賢さと冷静さは持ち合わせていた。ダチュラはもはや、会話をする気などない。そもそも、論理的に話すことすら出来ていない状態だ。
 こんな相手と、まともに対峙するだけ無駄だ。それどころか、身の危険すら発生し得るだろう。
「……し、失礼しますっ」
 カーリはさっさと、退散することに決めた。形ばかりのわずかな挨拶を告げ、すっと素早く彼女の横を通り過ぎようとする。しかし。
「ちょっと。どこ行くのよ」
 すれ違おうとした瞬間、ダチュラの手が伸びてくる。カーリは咄嗟に腕を引いたが、場所が狭かったために、避けきれなかった。
「待ちなさいよ。どうして逃げるの?」
「!」
 乾燥した肉厚な掌の感触が、カーリの細腕をがっしりと包み込んで握り締める。
 遅かった。
 カーリは内心で、動作の緩慢な己を悔い、情けなく思った。
「どうして逃げるの?逃げるなって言ったわよね、今」
 ダチュラはカーリを引き留めたまま、先ほどと同じ問いを同じ口調で投げかけてきた。その顔には、悪びれている様子が一切ない。まるで、自分は非難を受ける謂れなど何一つないと確信しているかのようだ。
 まずい。まずいまずい。
 カーリの脳が、全力で警鐘を鳴らす。
 このままでは、何か良からぬことに巻き込まれてしまう。20年生きてきた自分の勘が、そう訴えていた。
「ねぇ、どうして?ど、う、し、て!?」
 相手が沈黙したままでいることに、焦れたらしいダチュラが、更に声の調子を荒げる。
「答えなさいよっ!!」
 ぐいっと腕を引っ張られ、カーリは恐怖に戦慄いた。看護師としての重労働で鍛えられてでもいるのか、ダチュラの力は強い。カーリがどんなに腕を引こうとしても、彼女を振り払うことは決して出来なかった。
「や、やめて……っ」
(怖い……!)
 カーリの心が、一瞬にして恐怖に包み込まれる。本能的に漏れ出た、悲鳴のようなか細い声を、しかしダチュラは不機嫌そうに聞き返した。
「やめて……?違うでしょ、やめてくださいでしょっ!!」
「あぅっ!!」
 力づくで振り回され、壁に叩き付けられる。何とか手をついて衝撃を緩和したものの、頭がガツッと音を立ててぶつかった。頭蓋の中身がぐわりとかき混ぜられたような感覚がして、足から力が抜けそうになる。
「ぁ……あ……」
 意識は飛ばなかったものの、凄まじいほどの恐怖に、体が動かなくなった。開いた喉から、母音のみが勝手にこぼれ落ちてしまう。呆然とする彼女の背中を、ダチュラは何度も手で叩いた。
「ほら、言って!言いなさいよ!言いなさいったら!!言えよこのクソアマァ!!」
 肩甲骨の辺りにバンバンと、痛みが襲いかかってくる。衝撃から身を守ろうと、カーリは咄嗟に体を丸め込んだ。
 頭の中で、無数の混乱が音を立てて渦巻く。
 何で、こんなことをされなくてはならないのか。 
 自分が一体何をしたのか。
 困惑するカーリに、ダチュラは更なる追い打ちをかけようと、足を振るい蹴りを加えてきた。カーリの膝の裏辺りを、スニーカーの踵が勢いよく打ち据える。彼女は思わず、バランスを崩しそうになった。壁に手をついて何とか体制を立て直し、ダチュラの方へと向き直る。
「も、もうやめてください……!」
 カーリに出来ることは、これしか残っていなかった。痛む体に鞭を打ち、精一杯真摯な態度を取り続ける。そうやって、ダチュラから許してもらうのを、待つしかなかった。
「ふんっ、ちょっと叱られたからって、簡単に掌を返すのね。調子のいいこと……」
 ダチュラは若干息を切らせながら、不服そうに鼻を鳴らした。提示した要求は満たされたというのに、カーリを許すつもりなどないらしい。
 今まで何度も、こんな相手に虐げられてきた。カーリの脳内に、嫌な記憶がちらつく。
 服従を強要する割に、いざ相手が従うと、骨のない奴だと非難する。結局この手の輩には、相手を貶め、嘲笑うことしか脳がないのだ。
 カーリの心が、ズクンと重たく沈んだ。
「そんなんだから嫌われるのよ!」
『要は舐められてるってこったよ……!』
 ダチュラのお喋りと、先ほどのエンヴィスの言葉が重なる。
 でも、内容がさっぱり頭に入ってこない。
「オドオド他人の顔色ばっかり窺って、いい顔してるだけじゃない!』
『ああいう奴らは、一度ガツンと分からせてやらねぇと』
 何を、言っているんだろう。
 彼らは一体、どんな言葉を話しているのか。
「自分の芯ってものはないの?あなたに中身はないの?」
『放っといたらいびり殺されちまうんだぞ!!』
 分からない。
 分からない分からない分からない。
 分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない。
 彼らが自分に何を求めているのかも。自分はどうすればいいのかも。
 カーリには何も、分からないままだった。
 それが、どうしようもない恐怖となって、彼女に押し寄せていた。
「いい加減答えなさいよこの極悪性悪女クソビッチ!!」
 バチッ!!と酷い音が鳴る。乾いた肌と肌が勢いよく衝突したような、破裂音が。
「いっ……!」
 カーリは顔を背けて、小さく息を飲んだ。
 頬がじんじんと熱を持っている。そっと唇に触れると、ピリリとした痛みが走って、指先に少量の血が付着した。
 叩かれた。
 ただただその衝撃が、カーリの中を満たす。
 あまりの事態に脳の働きが追いつかない。
 彼女は黙ってじっと、ダチュラを見つめているしか出来なかった。
 だが、それがよくなかったのだろう。
「……何よ、アンタ。あたしに何か文句でもあるわけ?」
 従順さを見せないカーリに不快感を募らせたのか、彼女の眉間の皺が、一層深く刻み込まれる。
「言いたいことがあるなら言いなさいよ。ねぇ!言いなさいよっ!!」
「っ!」
 再び、飛んできた平手がカーリの頬を打った。髪が流れ、血の垂れる口元に張り付いた。
「いい加減にしなさいよアンタ……!」
 ダチュラの声が震えている。よほど強い怒りの感情を覚えているようだ。
「どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのよっ!!」
「痛っ!」
 憤りのままに、カーリの額を掴み、後ろの壁に打ち付ける。身長はカーリの方があるものの、力では劣っているし、何より完全に不意を突かれた。カーリはなす術なく、またも頭部を打ち付けてしまう。
「う……っ」
 目の前に星が散り、思考がどろりと淀んでいく。今度こそ、立つ力を失い、壁伝いにずるずると座り込んでしまった。
「あぁ汚らしい悍ましい!!あんたみたいなのに触ったから、バイ菌が伝染っちゃったじゃない!!どうしてくれるのよ、ねぇ!!」
 ダチュラは、カーリに触れた手を服でこすりながら、彼女を見下ろしている。心底憎々しげな声を発しながら、彼女の腹めがけて足を振り下ろしてきた。
「痛いっ!やめてっ!」
「あたしの指が腐ったらどうするの!?ねぇ、責任取れるの!?何とか言ってみなさいよ!!ねぇ!!謝りなさいよ!!ほらっ!!」
「ぐぅうっ!」
 無慈悲な蹴りが、何度も何度も落ちてくる。体重の乗った一撃は重く、ふとすると息が詰まりそうだ。座ったままだった彼女は、とうとう体勢を崩して、床に倒れ込んでしまった。
「ゲホッ!ゴホ……ッ、たすけ……!誰か、助けて……っ」
 咳き込みながら、床を這いずり手を伸ばす。もう、無我夢中だった。とにかくこの、己を襲う苦痛から解放されたかった。何の痛みも、苦しみもない世界に、行きたかった。
「無駄よ、助けなんか求めたって!」
「あぁああ!!」
 だがその手を、ダチュラはどしんと踏み付けた。手の甲をスニーカーの爪先でぐりぐりと踏み躙られ、カーリは喉から迸るような悲鳴を上げる。骨がゴリゴリと音を立てて、折れてしまうのではないかと思った。
「ねぇ……これ分かる?」
 苦しむ彼女を無視して、ダチュラは身を屈めると、カーリに顔を近付けてくる。そして、ポケットから一本のボールペンを取り出した。
「これはねぇ、消音の魔法が込められたアイテムよ!」
 提示されたペンを、カーリは涙を堪えながら一瞥した。
 別段、特筆すべきことのない、普通のボールペンだ。だが、ノックの部分にランプがついていて、そこから赤い光が明滅しているのが見えた。これが、魔法とやらを使っている証拠なのだろう。
「これを使えば、室内で発生した全ての音を消せるの。流石にバカなアンタでも、どういうことか分かるでしょ?」
 そんな聞き方をされずとも、分かる。
 カーリは全て察していた。だから、唇を戦慄かせて、今にも泣きそうな顔をしているのだ。
「ねぇ、今どんな気持ち?『助けて』って、言っても意味ないって分かった時って?どんな気持ちがするのかしら?」
「っ……うぅっ」
 彼女の黒い瞳から、ついに、我慢していた涙がこぼれ落ちる。助けなんか、決してこないと理解して。
 全ては、敵の手の内だったのだ。何もかもが、あらかじめ計画されていた。彼女はずっと前から、こうするつもりだったに違いない。そしてそれには、この場所こそが最適だ。
 いくら見張りのためとはいえ、流石に男性の警官はトイレにまでは入れない。そしてトイレは、その性質上、一目では内部を全て覗ききれない場所。外部の者が異常を検知するには、聴力に頼る他ない。つまり、音さえ封じてしまえば。誰も、何にも、気が付きはしないのだ。たとえ中で何が起こっていようとも。彼らの耳に届くのは、ただ平穏を象徴する、静寂だけとなる。
 カーリは、信じていた。これだけ大きな声で喚く者がいれば、きっと、すぐに様子を見にきてもらえると。あるいは、期待していた。危険を叫びさえすれば、駆けつけてもらえると。でも。
 そんな救いは、なかった。否、初めから存在しなかった。希望の光などは、ハナから差し込んでいなかったのだ。カーリにはもはや、なす術もない。いや、全ては最初から、奪われていたのだ。何も、なかったのだ。自分には。
「アンタって、お幸せな女よねぇ……助けを求めさえすれば、本当にそれが与えられると思ってるんだから」
 涙を流すカーリの顎を、ダチュラはぐいと掴んで持ち上げる。彼女の目は、凶悪な殺意に支配され、ギラギラと常軌を逸した眼光を放っていた。
「泣きつけば、心配してもらえると思った?助けてもらえると思った?残念ね!!」
 こんな相手に、勝てるはずがない。
 カーリの胸に、絶望が広がる。
 彼女は、この女は、ダチュラは、明らかに異常者だ。彼女はカーリの体を傷付け、命を奪うことに対して、何の躊躇も呵責も抱いていない。むしろ、魅了されているように感じた。自分が、自分の憎む他人を、思いのままに操っているという状況に。そしてそのことで、日々の鬱憤を晴らしているのだ。とても正気とは思えない。何らかの精神的な異常を抱えているとしか考えられないだろう。だが、カーリには彼女を止めることも、治療してやることも出来ない。向けられた殺意と悪意と暴力とをひたすら、恐怖と絶望に塗れた顔をして、受け止めるしかないのである。
「ねぇ、どう?苦しい?ねぇ……答えなさいよ。どうなのよ!!」
「うっ!」
 ダチュラの足が、カーリの横腹を蹴り上げる。体重の軽いカーリは、呆気なくひっくり返って仰向けになってしまった。縛り直したはずの入院着の紐が、緩んで解けかけている。ダチュラはそれを見ると思い切り目を輝かせ、紐を掴んで引っ張った。
「嫌……っ!」
 当然カーリは抗おうとしたが、ダチュラの力には敵わない。押さえ付けられ、蹴倒されて、無理矢理に服を剥がれてしまう。その下には当然、下着があるのみだ。局部を隠しただけの、あられもない姿。それが敵である彼女の前で、惜しむことなく晒される。
「ひっ……」
 カーリは焦って、体を縮こまらせ自らの肢体を隠そうとした。だがダチュラはその腕を掴むと、無慈悲にもどかしてしまった。そして、彼女の体を隅々まで、舐め回すようにじっくりと観察する。
「あら嫌だ……未発達な体。生っ白くて、不健康そうね。アンタこれで本当に、成長期後なの?」
 ニタニタと、下世話な笑顔で嘲笑され、体がびくりと勝手に震えた。ダチュラの侮辱が、どこを見て放たれたものなのか、分かったからだ。
「こんなの、女とも言えないわ。ただ若いってだけじゃない。男共って、こんな乳臭いガキがお好みなのかしら……あぁ、あんたはろくに乳も持ってないんだったわね。くすくすくすっ」
 カーリは気恥ずかしくなって、身を丸め込み、出来るだけ彼女の視線から逃れようとする。
 まさかこんな、レイプまがいの視姦行為をされるとは、思ってもみなかった。しかも、よりによって同性にされるとは。
 確かに、自分の体に魅力がないことは自覚している。別にそのことを、辛く思ったことはない。何しろ自分は、性的欲求に繋がる要素が抱けぬ身だ。女らしさのない肉体だったとしても、心は微塵も動かない。だけれども、だからといって。このようなことをされても黙って受け入られるほど、カーリは優しくも愚かでもなかった。
「アンタもしかして、自分なら男を落として、従えられるって思ってたのかしら?こ~んな、魅力のない体で?プフフッ」
 しかしどんな感情を抱けど、ダチュラの揶揄いに、カーリが反駁することはない。もしも言い返したら、それ以上の暴力で蹂躙されるだけだからだ。今の彼女は、セリグマンの犬よろしく、じっと身を丸めて嵐が過ぎ去るのを待っているしか出来なかった。
「『可愛くてか弱いわたしだったら、困っててもきっと誰かに助けてもらえるハズ~』って!本気で思ってたのぉ!?あ~ヤダヤダ。気色悪い気色悪い!!」
 何も反論されないのをいいことに、ダチュラは好き勝手に罵詈雑言を叫び続ける。両手を握り合わせて声音を変えて、カーリの真似らしき行為をして、彼女を愚弄していた。
「助けてなんかもらえるわけないでしょ!アンタみたいなクソ女!」
 かと思えば、再び激情に身を任せて、彼女の体を踏み付けている。何がきっかけで噴き出すか分からない、不規則な怒りの爆発は、まるで火山噴火のようだった。
「誰が心配するっていうのよ!!他人に泣きついて、助けてもらえるのを待ってるしか出来ないゴミクズのくせに!!」
 服を剥ぎ取られ、無防備な状態になったカーリのもとに、ダチュラからの容赦ない攻撃が襲いかかる。背中を踏みつけられ、腹を蹴られ。股や胸など、女性としての大事な部分を特に重点的に、憎しみを持って痛めつけられる。カーリはどうにか、腕を胴に巻き付け、痛みの強い箇所を庇おうとした。無意識にもそのポーズは、恥部のみを隠した、卑猥なもののようになってしまう。まるで異性を誘惑しているかのような姿を見て、ダチュラは更に不快感を強くした。込み上げる嫌悪と嫉妬のままに、再び彼女の横腹を足蹴にする。
「……っ、ゴホッ!!」
 とうとう、内臓のどこかが損傷でもしたのか、カーリが咳き込むと真っ赤な血の飛沫が出てきた。ダチュラはそんな彼女の髪を掴み、耳元で大きな怒鳴り声を浴びせてくる。
「いい!?アンタなんかにねぇ、そんな価値ないの!!見捨てられて当然なの!!いるだけ邪魔な存在なのよ!!」
 カーリはもはや、ろくに声を上げることも出来なかった。涙を流して、嗚咽を漏らさぬよう唇を噛み締めて、耐えているのみだ。まともに抵抗もしてこない、非力な様を見て、ダチュラの背筋が一層粟立つ。いかにも弱々しくて、誰かの助けを待っていることしか出来ない。そんな儚い女のカーリのことが、憎々しくて堪らなかった。
「アンタなんか、生きてるだけ資源と酸素の無駄遣いなのよ!!地球の害悪!!さっさと消えろ!消えなさいよ!!」
 頭にふと思い浮かんだ言葉を、衝動的に吐き出す。
 だが実際、音にして聞いてみると、それは実にいい名案のような気がしてきた。
「そうよ……!消えればいいのよ!!死ねばいいんだわ!!」
 パチンと手を打ち合わせ、自分自身の優れた頭脳を祝福する。そして、ナース服のポケットから、カッターナイフを取り出した。本来ナースステーションに保管されているはずのそれを、どうして彼女が個人的に持っているのかというと、理由は簡単だ。以前、一々借りるのが面倒だからと、こっそり一本くすねていたのである。それがこんなところで役に立つとは。やはり彼女は罰すべき存在ということだろう。
「ほら、それ使えば?」
 カッターを、カーリの足元に放り投げ、彼女を見下ろす。
「手首でも切れば、死ねるでしょ。ちゃんと水道のところでやってね、掃除が面倒だから」
 冷酷な声音で告げられて、カーリはいよいよ戦慄した。暴力や暴言、それに加えて、相手に自殺を強要するなんて。まるで、良心などというものは何一つ持ち合わせていないかのようだ。これが、悪魔なのだろうか。闇を好み、悪に生きる、彼らの本性なのか。
(だとしたらトワイライトさんたちも……!)
「ねぇほら、死ねよさっさと。死になさいよ。死になさいって。死ねって言ってんだろ聞こえねぇのかこのドクズが!!」
「ぐっ……うぅ」
 畳み掛けるように死を強制されて、愕然とするカーリ。大きく見開いた目から、ボタボタと涙が落ちていく。食いしばった歯の間から、嗚咽に似た呻きがこぼれた。
 自傷行為なんて、今の今までしたことなど決してない。どんなに追い詰められた状況でも、依存してしまうのが怖くて、手を出せずにいたのだ。それを、今まさにこの場で、やってみせろというのか。自分に暴言を吐き、暴力を振るった女の前で。リストカットショーを演じろとでもいうのだろうか。
「何もたついてんの?さっさとしろよ!ほらこうやってさぁ!!手首を切るんだよバカが!!何でそんなことも分かんないわけ!?あんた脳みそ詰まってないの!?ほんっと最近の女ってのは、男に股を開くばっかりで、それ以外のこと何にも知らないんだから!!」
 いつまでも煮え切らない彼女の態度に苛立ったらしいダチュラが、声を荒げて覆い被さってくる。カッターナイフを乱暴に掴み、チキチキチキっと勢いよく刃を出した。そして、カーリの細く白い手首を掴み、そこに押し当ててくる。
「あぁ……っ!」
 皮膚が切れ、傷付けられた組織から、赤い血が溢れ出した。ダチュラはそれを見ると、パッと手を離し、汚れから身を守った。
「ギャハハ!死ーね!死ーねっ!!あぁ~いい気味!無様だわぁ本当に!!いーいザマじゃないの!アンタみたいなクズの命でも、少しは世間様の役に立つのねー!」
 赤く濡れたカーリの手首を眺めながら、下卑たけたたましい笑い声を発する。ジャングルに住むカラフルな鳥だって、もう少し美しく鳴けるだろうに。
「クソみたいなくだらないワイドショーだって、アンタの自殺を報道したら、ちょっとは面白くなるってもんよ!あたしの人生だって、きっと一変するに違いないわ!!法の穴をすり抜けたゴミクソ女に、市民代表として怒りの鉄槌を下してやった英雄よ!!ギャハハハ!!」
 彼女のお喋りは、まさに独善的。暴力的なまでに身勝手だ。
「ひぐっ……う、うぅっ!」
 カーリは涙を流しながら、自らの手首を必死に押さえていた。一体今どれだけの血が、自分の体から出ていったのだろうか。致死量の出血とは、どのくらいだっただろうか。自分は、大丈夫だろうか。このままここで死んでしまいはしないだろうか。
 種々の不安が脳内を駆け巡り、生み出された恐怖が体を硬直させていく。だが、ふと思い立ってしまった。
(私が生きてたって、何になるんだろう……これからもずっと、皆に憎まれて、恨まれて。いずれ殺されるかも知れない。そんな人生に……何の意味が?)
 どうせ、味方なんかいないのだ。人間だった時も、家族にすら心を開けなかった。助けてもらえなかった。それは本当は、種族が違ったからだと思っていた。けれど、本当は、違うのではないか?たとえ同族の悪魔だったとしても、こんな風に、彼女を嫌い傷付ける。長いこと戻ってこなくても、様子を見にきてすらもらえない。トワイライトたちだって、本心ではダチュラのように、自分のことを憎み嫌い、始末したがっているのではないか?
 結局自分はどちら側にも、誰にも受け入れられない、異質な存在なのだ。
 どっちつかずの半端者。
(この先一生、私は一人ぼっち……それだけじゃない)
 今までは、孤独に苦しむだけで済んだ。それだって死ぬほど辛かったけれど、でもこれからは、もっと多くのものに傷付けられることとなる。殺意、悪意、暴力、暴言。大勢の人が、カーリを憎悪し、殺害を企てるだろう。今日みたいに、いや今日よりずっと酷い目に、遭わされることもあるかも知れない。これから先ずっと、そんな恐怖と痛みに、耐えていかねばならないのだとしたら。
(そんな人生……長く生きていたくない)
 人間は誰しも、容赦がなくて、冷酷で、無惨で、無慈悲だ。無自覚の内に、他人の命を奪うことだって出来る。悪魔とて、きっと同じことだろう。彼らの世界にいたら、カーリはいつか必ず、殺される。いつかは分からないその時に、怯える日々を送ることになる。
 そんなの。
 そんな生活。
 そんな命。
 ない方がいい。
 絶対にマシだ。
 死んだ方が。
 カーリは手を伸ばし、ダチュラが落としたカッターを掴む。自身の血で汚れた刃を、今度は自分の手で、自らの手首に当てた。その時だ。
「何やってるんだ!!」
 数人の男たちが、一斉に飛び込んでくる。荒々しく踏み入ってきた彼らを見て、ダチュラが当惑した声を上げた。
「何っ!?何なのアンタたち!ちょっとやめてよ!!」
「いいから、こっちに来い!」
 喚き立てる彼女を、制服を着た警官が拘束する。確か、今日の監視役の男だ。他にも数人の男たちが、ダチュラのことを取り押さえる。彼女は何か抵抗しようとしたようだが、警官たちに引き立てられ、あっという間に姿を消した。
 入れ替わるようにして、トワイライトが現れる。
「カーリさんっ!」
 こちらを見下ろす彼と、はっきり目が合った。カーリが手に持っているものに気付くと、ハッと顔色を変じさせる。直後、カーリの手の甲に軽い衝撃が走った。
「!」
 驚く間もなく、咄嗟に手を離してしまう。蹴飛ばされたカッターが、壁にぶつかり、クルクル回転しながら床を滑る。トワイライトはそれを最後まで見ることなく、カーリに駆け寄ってきた。
「近付かないでっ!」
 だがカーリは、受け入れなかった。横向きに倒れたまま、勢いよく身を翻し、壁に向かって蹲る。そして、悲鳴じみた叫びを発した。
「もう放っておいてよ!私のことなんて!!」
 震えていると、自分でも分かる声。それでも、言わずにはいられなかった。怖かったのだ。これ以上誰かに傷付けられることが。追い詰められ、逼迫した精神に、更なる負荷をかけられることが。
「助けてほしいなんて言ってない!出て行って!今すぐここから出て行け!!」
 そう言って相手を突き放す。もう彼からの心象など、どうでもよかった。
 好きにすればいい。幻滅するならすればいい。当然のことだ。
 わざわざ助けてやった相手に、感謝どころか拒絶をされて。信用してもらえず非難される。そんなことをされたら、誰だって呆れて当然だ。それでいいのだ。カーリのことなど、疑心暗鬼まみれの捻くれた女くらいに思って、見捨てればいいのだ。そうしたら、一人でいられる。もう傷付かないで済む。誰かと一緒にいれば、その誰かに傷付けられる可能性も生まれてしまうから。
 両手を、胸の前でギュッと握り締める。胸が閉塞感で潰れそうだった。ダチュラに嘲笑われた胸が。
 こんな風に、彼のことを罵倒するつもりはなかった。でも、こうしないと自分を守れないと思った。それが今まで、カーリを助けてきた唯一無二の策だったし、他の方法を知らなかった。
「……ふぅ」
 トワイライトの、疲れたような吐息が、かすかに聞こえる。ワガママな彼女に、呆れたのだろうか。憎々しいと思ったか。どっちでもいい。早く自分のことなど嫌いになって、出て行けばいい。
「……一人にして」
 啜り泣くような声で、懇願する。知らない内に、涙声になってしまっている自分が、心底腹立たしかった。いかにも傷付いたアピールをしているみたいだし、同情を誘っているみたいだ。
「お願いだから、一人にしてください……」
 もうそれでもいい。何だっていいから、とにかく一人になりたかった。一人になって、気の済むまで泣いて。自分の心を殺したかった。こんな風に、辛い思いや痛い思いをするのは、もう嫌だった。
「そういうわけにはいかない」
 だが、意外なことにトワイライトは、出て行かなかった。
「止血しないと。このままでは危険だ」
 カーリの手首をぐっと掴み、自分の方へと引き寄せようとする。無遠慮な仕草に、反射的に恐怖が湧いた。
「ひっ……!」
 サッと腕を引っ込め、握られた箇所を反対の手でさする。奥歯が、カタカタと音を立てていた。
「失礼……私ではなく、女性医師を呼ぶべきだな」
 心底申し訳なさそうな、低い声が耳を打つ。カーリは焦った。
「ま、待って!」
 今ここで、また別の相手を呼ばれるなんて、絶対に嫌だった。自分は、一人になりたいのに。
「なら、私がここにいることを許してくれるかい?それと、君の傷を手当てすることも」
 トワイライトの声は、優しかったがやや高圧的だった。というよりも、有無を言わせぬ調子だ。もちろん、カーリを怯えさせないように手加減はされているのだろうけれど。彼女を放置してはおけないという、強い意志を感じさせた。
 カーリは黙っていた。彼の提案を、拒絶するわけにはいかなかったからだ。かといって、肯定もしたくない。彼女の望みは、一人になることなのだから。
 結局無言を貫く彼女をどう捉えたのか、トワイライトはおもむろに、床にあぐらをかいて座った。カーリの背中に、バサッと何かがかけられる。
「その状態の君を私が直視するのは、些か問題だからね」
 その言葉で、そういえば、まだ下着姿のままだったとカーリは思い出した。込み上げてくる気恥ずかしさに、頬が赤く染まる。だが、今更だ。既にそこそこの時間、醜態を晒していたというのに、何をまだ一丁前に羞恥心など抱いているのか。自分の愚かしさ加減に、本当に腹が立つ。
 しかし、それとは別に、安らぎを得ている自分もいた。
「手を」
 言われるままに、おずおずと差し出す。カッターで切り付けられた、左腕を。
 トワイライトは何も答えず、カーリの手を取った。傷口の様子を確かめながら、素早く応急処置をしてくれる。途中で何か消毒液のようなものをかけられたが、背中を向けていたので分からなかった。
 気が付けば、辺りはすっかり静かになっている。あの女の、怒鳴り声も聞こえない。いつも通り、いやいつも以上に、物音がしない。トワイライトが上手く追い払ってくれたのだろうか。
 肩を覆うジャケットの、厚い生地の感触と、残る温もりが素肌に伝わってくる。他人の体温なんてそんなもの、普段は気色悪いとしか思わないはずなのに、どうしてか今は手放せなかった。冷え切っていた肌が徐々に温まり始める。外気が遮断され、熱に触れたからだろう。にも関わらず何故か、心は寒いままだった。
「……どう、して……っ」
 そのせいか、目の前がじんわりと霞んでくる。
 ポロリと、涙がこぼれ落ちた。
「どうして私が、こんな目に遭わなくちゃいけないのっ?」
 か細くて、今にも消え入ってしまいそうなほどの、小さな音吐が口をつく。
「私はっ!何も悪くないのに!!」
 こんなことを言っても、意味がないことは分かっている。過ぎたことは取り戻せないし、怪我が治るわけでもない。子供の癇癪と同じことだ。それでも。
 一度溢れ出したら、止まらなかった。
「どうして……っ!!」
 止められなかった。
 今まで何度も何度も、殺してはなかったことにしていた、感情。押さえつけて、見て見ぬふりをして、心の奥底に沈めていた本当の自分。
「どうして、殴られなきゃいけないの……っ?私が何をしたの!!」
 怒り。嘆き。悲しみ。寂しさ。苦痛。
 色々な感情が、溢れては溢れては目の縁から流れ出していく。
 こんな風に、なるつもりはなかった。誰かに、本当の自分を打ち明けるなんて。他人に、泣いているところを見せるなんて。
 弱さを見せれば、つけ込まれると思っていた。開いた心の傷口に、更に深くナイフを突き刺される。そんな痛みは味わいたくなかった。だから、隠していた。絶対に見られぬよう、徹底して秘匿するつもりだった。それなのに。
「うぅ……っく!ひく……っ、ぐすっ」
 込み上げる嗚咽を、抑えきれない。迸る言葉を、留めておけない。
「何でっ!何でぇ……っ」
 子供のように、泣きじゃくってひたすら繰り返す。衝動的に、目の前にあった壁を殴り付けようとした。だが。
「やめろ」
 パシッと、軽快な音を立ててそれは防がれる。カーリの拳は、トワイライトの掌によってしっかり受け止められていた。
「そんなことしても、君が傷付くだけだ」
「あ……」
 諭すような声をかけられ、カーリは呆然とする。気付いてしまったのだ。自分に触れる、彼の手の厚みや力強さ。背中を覆う、ジャケットの大きさも。細身の自分を、すっぽり包み込めるほどの、それ。
(これ、じゃ……まるで、大人と子供だ……)
 体格差。一言で言えば、それだけだろう。だがその一言が、今の自分たちを顕著に表していると思った。
 細いだけの自分と、がっしりした体付きの彼。
 どちらが上か、考えるまでもない。
 弱いのはカーリで、強いのは彼だ。
 当たり前のことでもある。男女に体格的な差異があるのは、ごくごく普通のことだ。確かにそうなのだが、そうではなかった。自分と彼の関係性は、もっとそれ以前の、簡単で単純なことにように思えたのだ。
(私、は……現実を受け止めきれなくて、絶望してる……愚かな、子供で。トワイライトさんは……全部知ってて、受け入れられる、大人……)
 彼の強さを知れば知るほど、自身の弱さを思い知る。
 理不尽な暴力に抗うことも。新たな世界に適合することも。自分には何一つ出来てはいない。今の自分は、まさに子供だ。何もなくて、守ってもらうしか出来ない、無力で脆弱な子供。そのくせ一端に、虚勢を張ったり怒ってみたりする。なんと幼稚で、未熟なことか。カーリはもう、絶望するしかなかった。
「どうすれば……いいの……?」
 ポツリと、言葉が勝手にこぼれ落ちる。トワイライトが怪訝そうな目で、こちらを見遣るのが分かった。カーリは答えずに、自分の膝を抱え込む。
 一体どうやったら、彼のような大人になれたのだろうか。強くて、余裕たっぷりで、何が起きても平然としていられる、彼のように。
 自分なりに、頑張ってきたつもりだった。正解なんて分からなかったけれど、分からないなりに、一生懸命努力してきたつもりだった。試行錯誤を重ねて、必死になって、成長しようとした。それなのに、結局自分は、無力なまま。向けられる悪意と殺意に、蹂躙されるしかない。自らの力では、何一つ成し遂げられない。
 無駄だったのだ。これまで費やしてきた、20年もの歳月。それらは全部無駄遣いだった。悪魔の平均寿命からしたら大した時間ではないのかも知れないが、しかし本人にとっては長過ぎるほどの年月だ。その間に身につけたのは、自分を殺し、心を殺す方法だけ。押し寄せる不条理を、納得したふりして受け入れることのみだ。それさえもまともに完遂出来ず、メソメソ泣いてばかりいる。もしかしたらもう、遅いのかも知れない。今更、大人になんてなれないのかも。自分はこの先も一生、愚かしくて無様な、子供のままで。
「もう……無理。私もう、頑張れない……!」
 仮にチャンスがあるとしてももう、彼女に気力はなかった。限界だったのだ。張り詰めていた心が、プッツンと音を立てて切れてしまった。
 目の前が、ぐるぐると回る。意識が泥沼に引き摺り込まれる感覚がして、体から力が抜けた。
「カーリさん、カーリさん!」
 トワイライトの声が、段々遠のいていく。カーリはそのまま、彼に身を委ねるしかなかった。

  *  *  *

「カーリさんっ!」
 ガクッと崩れ落ちる肢体を、トワイライトは慌てて受け止める。彼女の体を揺さぶり、何度か名前を呼んだが、閉じられた目が開くことはなかった。
「ッ、コホッ!カハ……ッ」
 眠ったまま、力なく咳き込む彼女の口から、少量の血がこぼれた。トワイライトは驚いて、目を見開く。
「カーリさん、失礼するよ」
 意識がないとは分かっていても、一応礼儀的に声をかけ、それからそっと上着を捲る。彼女の姿は、言うまでもなく、酷い有様だった。
 白い肌には赤黒くなるまで殴られたような箇所が無数にあり、軽く擦り剥けているところもある。切り傷は手首のそれだけだったが、腹の辺りには、靴で踏まれたような痕がくっきりと残っていた。
 これが、出血の原因だろう。蹴られたことで、内蔵が損傷したのかも知れない。早く処置をしなければ。
「すまない」
 素早く背中と膝の裏に手を回し、彼女の体を横抱きに持ち上げ、そして驚愕した。
 軽い。
 あまりにも軽い。
 痩せているとか、細身なんてどころではない軽さだ。160センチ近くある身長に、全く釣り合っていない。これではただの不健康である。女性の体重など気にかけるべきではないと分かっていても、それでも不安を禁じ得ないレベルだった。
 こんな体で、彼女は生きていたのか。これほどやつれるまで、ストレスを受けていたのだろうか。
 罪悪感が、チクチクと胸を刺す。男である自分が、彼女の剥き出しの足に触れてしまっているからではない。それもそうなのだが、もっと色々複雑なものが、トワイライトの胸を締め付け重くさせていた。
 とはいえ、今は緊急事態だ。接触も仕方のないことだと、言い訳をして足を踏み出す。
「離してよ!離しなさいよ!あたしは何もやってない!!あの女が勝手にやったのよ!あたしは被害者よ!嵌められたのよ!!くそっ!!」
 そのまま急いでトイレを出ると、廊下の端に数人の悪魔たちが集まっているのが見えた。彼らに取り押さえられたダチュラが、悔しそうに喚いている。
「てめぇ……!被害者ヅラすんのもいい加減にしろよ」
 苛立った様子のエンヴィスが、額に青筋を浮かべて、ダチュラを睨み付けていた。だが恐らくは、いくら恫喝したところで、効果などないのではないかと思われた。ダチュラはもはや完全に、正常な判断力を失っている状態だ。自らの境遇を憂い、嘆き、そのフラストレーションを、暴力によってしか吐き出せない。その被害妄想と執着は凄まじく、一度敵と定めた相手のことは、二度と容赦せずに死ぬまで追い詰め続ける。それを、異常と呼ばずして何と呼称するのだろうか。
「あっ、トワさん!」
 エンヴィスの隣に立っていたレディが、トワイライトの気配を察知して振り返る。そして、彼が抱えている人物を認識すると、一層高い声を上げた。
「カーリっ!!」
 彼女の様子を一目見るなり、レディはすぐさま顔色を変え、駆け寄ってくる。エンヴィスも後に続き、怪我をしたカーリの姿を見て、心配そうに眉を寄せていた。その向こうで、ダチュラもまた、驚きを露わにする。
「カーリですって……!?」
 彼女の、憤怒に満ちた表情が、一瞬にして唖然としたものに移った。しかしまた即座に、元の顔に戻る。
「そうよ……カーリ、あの女よ!!」
 強い怒りで掠れ気味の、ドスの効いた低い声。それが瞬時に怒号となって、辺りに響き渡る。広い病院の、一フロア丸ごとに伝わったのではないかと思うほどの、大音量だった。
「クソっ!舐めやがって!!殺すぞテメェ!!」
「おい!暴れるな!」
「大人しくしろ!!」
 突如暴れ出し、怒り狂い始めた彼女を、両脇を固めていたエンヴィス他数人の警察部門職員が押さえる。鋭く一喝されても、ダチュラは反省の色一つ見せなかった。むしろ尚更憤慨をして、激しく抵抗してくる。
「無視すんなよクソ女!!男に媚なんか売っちゃって!恥ずかしくないの!?ねぇ!」
「っ……うぅ」
 絶叫が耳に障ったのか、カーリが小さく呻き、身動ぎした。どうやら、まだかろうじて意識があるようだ。朦朧とした思考の中で、ダチュラの罵声が聞こえて怖いのか、体を震わせて怯えている。
 レディがムッとして反論しようとしたが、それよりわずかに早く、ストレッチャーが到着した。白衣の医師や看護師たちは、カーリを預かるとテキパキと処置を施していく。叫び散らすダチュラの方など、見ようともしない。恥ずかしそうに、申し訳なさそうに、顔を俯かせ我関せずとした態度を貫いていた。自分たちの同僚が、しかも以前から違和感を抱いていた人物が、こんな事件を起こしたことを、心底引け目に感じているようだった。
 ストレッチャーに乗って、彼らに引かれていくカーリを引き止めるように、ダチュラは未だ暴言を吐き続ける。
 それはあまりにも常軌を逸した、見苦しく恐ろしい光景だった。自分より上だと感じた女のことを、とことん憎み、妬み、嫌う。相手が辛い過去によって、傷心していようと気にしない。ただ自らの醜い感情を一方的にぶつけ続ける。そこに疑問を抱くことはない。彼女の脳内はどこまでも、自らが好き勝手に作り上げたストーリーで完結しているのだ。
「この売女!!ガキのくせに!!とんだ阿婆擦れね!!あんたのお子ちゃま体型に、女の魅力があると思ってんの!?」
「ねぇ……ちょっとアンタ」
 流石に看過出来なかったのだろう。レディが眉間に皺を寄せ、拳をきつく握ってダチュラに振り向く。
「やめたまえ」
 彼女がダチュラに詰め寄る前に、トワイライトはさっと手を出して止めた。
「でも……っ」
「君の気持ちは分かるよ。だが、殴ってはいけない。暴力は、彼女がカーリさんにしたことと、同じことだ」
 レディは悔しそうに、やきもきした様子で足踏みをする。トワイライトは彼女を見据え、優しげな声音で語りかけた。諭されたレディは、やや不満そうにしながらもこくりと頷く。しかしやはり、カーリを馬鹿にされたことを、許せないようだった。
「あなたのしたことは、到底許されることではない」
 もちろん、トワイライトだってレディと同じ気持ちだ。彼はくるりと踵を返し、ダチュラの方に向き直る。そして冷徹な言葉を投げかけた。
「まず間違いなく、起訴処分は免れないでしょう……無論、精神鑑定の結果次第ですが」
「ハァ?ちょっと馬鹿にしないでよ!あたしは異常者なんかじゃない!」
 当然のように、ダチュラが反発してくる。だがトワイライトの言う通りだと、エンヴィスは内心思った。彼女は、心を病んでいる。そうでなければ、これほどまでに理不尽な仕打ちを、平然とやってのけることなど出来ないだろう。彼女には絶対に、治療が必要だ。一流の精神科医、あるいはセラピストによる治療が。とはいえ、心の病気を理由に批判を逃れるというのは、不服だけれども。
「おかしいのはアンタたちの方でしょ!あんなゴミみたいな女を大切にして」
「それ以上の侮辱は!……罪に問われますよ」
「な……ッ!?」
 憤慨のままに捲し立ててくる彼女を、トワイライトは一言で黙らせた。彼にしては珍しく、些か声を張っていた。無理矢理に話を遮られたダチュラは、驚愕の表情を浮かべて硬直する。自らが罰せられるということが、理解出来ていないようだった。その程度の常識も忘れてしまっているということは、やはり病んでいるに違いない。エンヴィスはもはや、関心も抱けなかった。
「法廷の判決を楽しみにしておくことですね……行こう、エンヴィスくん、レディくん」
 トワイライトは最後にそれだけ告げて、部下二人の名前を呼ぶ。
「はい」
「う、うん……」
 エンヴィスは素直に、レディは若干戸惑いつつも、従う。残されたダチュラだけが、トワイライトの捨て台詞の意味を分からずに、愕然と立ち尽くしていた。

  *  *  *

「私……これから、どうすればいいんでしょうか……」
 閑散とした病室に、か細い声がこぼれ落ちる。紛れもない、カーリの声だ。
「私にはもう……何もありません……初めから何も、なかったんです……戦う力も、何も」
 彼女はベッドの上で、背中を丸めて座っていた。その周りに、トワイライトと彼の部下二人が、取り囲むようにして立っている。
「どこへ行っても、誰かに必ず苦しめられる。傷付けられる……これから先、もっと酷い目に遭うかも知れません……今回のように」
 カーリはポツポツと、疲れた顔で、掠れた声音で、呟き続けていた。彼女の言葉を聞く三人は、皆似たような、痛ましげな表情を浮かべている。
「私は……どう生きれば、いいんでしょう……こんなに、問題まみれで、無力な、私が……生きていける場所なんて、あるんでしょうか」
 彼女の視線が、じっと一点を見つめている。そこにあるのは、深い深い絶望。彼女の心を沈ませ、暗い雰囲気を漂わせる、それだ。
 ダチュラという女看護師の襲撃に遭ってから、数日が経過していた。魔法による医療技術のおかげで、既に怪我は痕も残らずに癒えている。貧血などの症状も改善し、もはやカーリの容態は、健康そのものと言っていい状態となっていた。
 だが、心を覆う重い暗雲は晴れない。体が回復したからといって、決して全てがなかったことになるわけではないのだ。むしろ、彼女はより一層強く、不安を感じてもいる。
 その淀んだ心を、カーリは吐き出すことにした。本当だったら、他人にここまで胸の内を明かすことは絶対にしない。相手の心象を気にかけて、平気なふりをしたはずだ。けれども、それももう疲れてしまった。既にトワイライトにはある程度話しているのだし、他の二人からも、どう思われようと興味なかった。
 どうせ、きっと自分のことなど、彼らは快く思っていないだろう。あんな事件に巻き込まれる問題児で、おまけに性根も捻じ曲がっている。もう、全てがどうでもよくなってしまったのだ。
「今までずっと、私なりに頑張ってきたつもりだったんです……分からないなりに、ずっと……でも、結局、いつも同じことになる」
 何を言われてもいい。彼らが後でどんな反応を返そうが、彼女はここで、全部ぶちまけることにした。今までずっと、溜め込んできた本心を。全部。
 人間の社会に適合出来なかった苦しみ。決して努力を怠っているわけではないのに、どうしても上手くいかなかったそれに、理由が与えられた。自分は人間ではないのだと。
 ならば、同じ種族の者たちに囲まれれば、もう少しくらいは生きやすくなるのかと思っていた。けれども、結局この世界でも、彼女ははぐれ者。人間として生きていた過去のある、厄介な人物と見做される。そしてこんな風に、暴力を振るわれたり、憎まれたりする。
「戦えって、諦めるなって、エンヴィスさんは言いましたけど……私にとってはそんなこと、詭弁です。本当の弱い人たちの気持ちを分かってない。だって……!下手に反撃したら、きっともっと怒られる。もっと痛い目に遭うだけだから……」
 殴られて、殴り返せるのは、一部の強い者だけだ。殴り返して、相手を黙らせることが出来る者だけ。中途半端な反撃では、簡単に潰されてしまう。それどころか余計に、反感を買うことになる。生意気にも逆らってきた、愚かな奴だと誹られる。
 カーリには出来ないことだ。彼女は弱くて、無力な存在。戦うための力や覚悟、自信、知識、どれ一つとて有していない。
「言い訳かも知れません。逃げてるだけなのかも知れません……でもこれが、限界なんです。精一杯なんですっ!ここが……!」
 もう少し勇気があれば、何かが変わるのかも知れない。思い切って行動してみたら、得られるものがあるのかも。
 けれども、どうすれば何が手に入るのかなんて彼女には分からないし、闇雲に動こうとする気力もなかった。そんな自分が嫌いだった。
 何も見通せず、臆病なだけで意気地がない。八方塞がりだった。
「もう……っ、無理。もう、これ以上……頑張れない」
 生きている限り彼女は、必ず誰かに付け狙われ迫害される。
 反撃の手段もない。
 黙って、向けられる怒りや殺意を、受け止めるしか出来ない。
 理不尽に襲われるというのなら、諦めて押し潰されるしかない。
「私にはもう……どうしたらいいのか分かりません!!」
 いっそのこと、死んでしまえばいいと思った。彼らがそう言うのなら、本気で従うつもりだった。
 だって、もう嫌だったのだ。
 これ以上、暗闇の中で過ごすのは。
 早く、葛藤と苦痛から解放されたい。死が唯一の手段であるのなら、それも致し方ないと思った。
 しかし。
「……君は何も悪くないよ」
 トワイライトの口から発せられた言葉は、意外なものだった。
「え……?」
「君の不安は、当たり前のものだ。全く新しい世界で一からやり直す、なんて、誰だって戸惑うに決まってる。導いてくれる相手がいなければ、困難なことだ。だから君は、悪くない」
 混乱して顔を上げるカーリに、彼は優しく語りかけた。表情も口調も柔和で穏やかなものだったけれど、その奥には強い意思が漂っている。彼は本気で、信じているようだ。カーリは何も、悪くないと。
「当然だなんて、思うな。君が君自身を責める謂れは何一つとてない」
「でも……っ、じゃあ!」
 カーリは反射的に、声を荒げていた。彼にそんなことを言われる意味が、分からなかったのだ。
 だって、カーリに非がないのであれば、だったら何故、誰も助けてくれなかったのか。
「そうだ。君は助けてもらえなかった。誰にもだ。だから受け入れるしかなかった。された仕打ちを、痛みを……本来、あってはならないことだ」
 彼女が口にしたくなかった言葉を、トワイライトはズバリと言い当てた。図星を突かれたカーリは言い淀み、それが結局肯定の証となってしまう。
 黙るカーリに向かって、トワイライトは喋り続けた。
「君は救われるべきだった。助けが与えられねばならなかったんだ。だが誰も、君に手を差し伸べなかった。教えなかった。助けられないことは、苦痛を受けることは、当たり前のことではないと」
 カーリはむすっとして、彼の言葉を聞いている。しかし次第に、凍てついた心が、溶けていく気がしていた。
 無意味なことだからと、今までずっと、押し殺してきた感情。それを、解放すべきだと彼は言っている。そしてカーリも、その意見に反対はしなかった。むしろ望んでいたのだ。自らの心を、ありのままに曝け出し、他人に受け止めてもらうことを。
 カーリの目から、涙がこぼれ落ちる。それはあまりにも自然で、違和感を覚えない動きだった。
「もっと怒っていい。恨んでいい。憎んでいいんだ。君は、悪くない。悪いのは、周りの者たちだ。君が感情を殺す必要はなかった。ないんだ。君は、悲しむべきなんだよ」
 ベッドに突っ伏し、肩を震わせて号泣する彼女を、トワイライトは静かに見下ろす。エンヴィスもレディも、黙って彼女のそばに寄り添っていた。レディが、カーリの背に手を当てて、ゆっくりとさする。その行動が、今この場にいる三人の心情を、何より顕著に表していた。
 齢20にして、己の過酷な宿命を突きつけられたカーリ。彼女が抱える心の闇は、思っていたよりも深く、暗かった。
 悪魔である彼女を、人間は認めない。人であった彼女を、悪魔たちは許さない。自分は誰にも受け入れられないという、絶望的な現実、孤独。それが彼女を苦しめ、傷付けた。だからこんなにも、自己肯定感が低く、誰に対しても遠慮がちな性格へと変わってしまった。自分を傷付ける者から、身を守るため。あるいは、他者から与えられた痛みを誤魔化すために。
 自らが全て悪い、何もかも自分のせいだと、強引に己に思い込ませ、逃避する。それは、いわば心の自傷行為。たった20歳の彼女がするには、残酷過ぎる行動だ。トワイライトの目には、彼女の腕に、無数のリストカット痕が見えるようだった。彼女の、心の傷が。
 何故こんな子供が、こんなことをしなければならないのか。自分自身を傷付けねば、生きていけぬほどの苦痛を、受けねばならないのか。何故、彼女が。
 端的に言って、衝撃的だった。今まで警察部門職員として、数奇な運命を辿った悪魔のことは、それなりに見てきたつもりだった。しかし、カーリほど辛い人生は、他にないと思えた。そのことが率直に言うと、心苦しかったのだ。どうにかして、助けてやりたかった。当たり前の感情だろう。誰だって、幼児がカッターナイフで自らの腕を切り裂こうとしていたら、何が何でも止めるはずだ。幼な子がそんな行動に出なければならない原因があるのだとしたら、全力でそれを排除しようと思うはずだ。子供が、自傷をしなければならない理由など、何一つとてないのだから。
「……もっと早く、伝えるべきだったな。そうすれば、君をここまで苦しませずに済んだだろう……すまなかった」
 罪悪感に苛まれて、トワイライトは呟く。脳裏に、ある男に記憶がちらついていた。
 志願してもいないのに戦場送りにされ、日夜問わず激戦の中を駆け抜けねばならなかった男。周囲には誰もおらず、どこへ行っても敵ばかりで、それでも戦うしかなかった。たった一人でも、戦わなければ生き残れなかった。
 カーリは似ているのだ。
 あの男に、とてもよく似ている。
 男は自力で脱出することが出来たが、彼女は違う。いつ崩れるとも分からない塹壕の中で、身を丸めて怯えている。もしも敵に見つかったら、大人しく殺されるしかないと覚悟を決めて。しかし殺しきれない恐怖を、手首を切り裂く痛みで忘れようとしている。
「本当に、すまなかった」
 深く深く頭を下げるトワイライト。彼の行為を見て、エンヴィスはわずかに目を見開く。彼の気持ちには非常に強く共感していたし、カーリを救いたいという思いも同じだと認識していたけれども。まさかここまでするとは。意外だった。エンヴィスの知る彼はもっと、冷徹で感情になど振り回されない悪魔。絆されて頭を下げるなんてことは絶対にしない。何か別の狙いがあると考えた方が自然だ。尤も、ここでカーリを助けることが、一体どんなメリットを生むのかについては、全く見当もつかないが。
「いっ、いいんです……!や、止めて下さい。こんな私に、頭を下げるなんて……ずびっ」
 驚いていたのは、もちろんエンヴィスだけではなかった。当事者の、カーリも同様だ。彼女は鼻を啜りながら、慌てて両手を振り、トワイライトを宥めている。
「言ってもらえただけで、十分ですよ。嬉しかったです!私は、悪くないって。だから……!」
 謝罪なんか受け取れないと訴える彼女の言葉は、しかし真実というより、自分自身に言い聞かせるためのもののように聞こえた。これ以上、彼らに何かを期待するわけにはいかないと己を律しているように。
 これもまた彼女なりの生存政略なのだろう。
 何かを望めば、それを得た時の想像をし、あたかも既にそれが叶っているような気分に陥る。だが、欲したものが手に入れられないと分かれば、抱いていた想像も、全て幻想となる。カーリはそれを怖がっているのだろう。求めたものが与えられない、その落胆と失望を。だから初めから、何事も要求しないように努めている。自己を意図的に改造しているのだ。それは、戦場で産まれた子供が、生き延びるため戦う術を身につけるのと、同じこと。
「しかし、何もしないではいられないよ。せめて……手伝わせてくれないか?君がこの魔界で生きることを」
 カーリはまだ、20歳だ。悪魔の社会においては、まだ初等学校にいてもおかしくはない年齢。そんな彼女が、あえて死地で暮らさねばならない理由は、何もない。抜け出して、平和な世界で生きることが出来るのなら、その方が断然いいに決まっているはずだ。反対する者はいないだろう。
「え……?」
 何を言われているか理解出来ないというような顔で、カーリは相手を見上げる。トワイライトは彼女の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。そして、告げる。
「カーリさん。本日付で、君の身柄は、我々<単独脱界者対策室>が預かる。業務をサポートする非正規雇用職員として、雇わせてもらいたい」
 落ち着き払った、穏やかな声が淡々と響く。耳に入るその音を、カーリはしばらく訳も分からない思いで聞いていた。
「住環境など、必要なものは全てこちらで手配する。無論、断るのも君の自由だが……どうかな?私の部下に、なってくれないか?」
 トワイライトから発せられる言葉が、ぐるぐると頭の中を駆け巡って、積み上がっていく。受け取った事実が衝撃的過ぎて、心は全然追いついていないのに、こういう時だけ冷静で欲の深い頭脳が、勝手にキーワードをピックアップしていた。
 就職。住居。同僚も、彼らのような人物であれば、完全なる赤の他人よりは多少はマシだ。事情を何もかも知っていて、理解してくれている。その上で、一緒にいようと言ってくれる。むしろ彼ら以上に、適任はいないのではないかと思われた。
「それは……願っても、ない……です」
 そして、気付いたら、答えが口から滑り落ちていた。
「むしろ……よろしく、お願いします」
「うむ。分かった。手配しよう」
 まだ半ば呆然としたまま、カーリは頭を下げる。額に布団の柔らかい生地が触れて、立ち上がるべきだったかと反省した。
 トワイライトはそんなこと全く気に留めず、取り出した携帯端末片手に、一つ頷いている。そして画面をタップすると、何事か話しながら、出て行ってしまった。
「はぁ……っ」
 カーリは無意識の内に、深く息を吐き出す。
「やったね!カーリっ!!」
「わっ」
 横から、レディが飛びついてきた。ぐらりと傾くカーリを抱き締めて、ぎゅーっと密着する。
「一緒に働けるよ!!嬉しいよね!?」
「えっ、あっ……う、うん……」
 今にも飛び跳ねそうな勢いで喜ばれて、カーリは戸惑う。一体何がそんなに、嬉しかったのだろうと。
 困惑が伝わってしまったらしく、レディはわずかに頬を膨らませて、彼女に詰め寄った。
「ねー、なぁんか冷たくなーい?」
「そ、そんなことないよ……私の代わりに、怒ってくれたし……」
 カーリはぎこちない笑みを浮かべながら、ゆっくりと首を振る。そして、思い返していた。
 あの時。
 倒れたところをトワイライトに助け出され、ストレッチャーか何かに乗せられている時。尚も罵倒してきたダチュラに向かって、レディは果敢にも言い返していた。反撃されることへの恐れなど、決して見せず。
 それだけじゃない。彼女は最初から、あの看護師に対して憤りを表していた。カーリでは怖くて言えない本心を、彼女は代弁してくれていたのだ。もはや、ギャルのような言動や、子供の心のままに生きることへの嫉妬や嫌厭は覚えない。むしろ、感謝しかなかった。きっと彼女という悪魔は、幼い時から大人びた振る舞いを強制されていたカーリにとって、唯一無二の救いになるだろう。
「レディちゃんのこと、ちゃんと友達だと思ってるよ」
 だから彼女の気持ちには、出来るだけ応えたかった。彼女が自分なぞを友達だと言ってくれて、カーリからも友達だと言われることを望んでいるのなら、伝えてあげたかった。そしてそれを、本心からの言葉だと断言したかった。
「?何のこと?」
「えっ」
 自分にこんな感情が抱けるのかと感心しながら、カーリは穏やかな顔でレディを見る。ところが彼女はキョトンとした表情で、小首を傾げていた。何のことだと言わんばかりに見つめられて、カーリは焦る。
 まさか、彼女はやはり自分のことなど、友達だなんて思っていなかったのだろうか。
「アタシとカーリは、とっくに友達でしょ?出会った時から」
「!」
 しかし直後、彼女はあっさりした声音で、堂々と言い放つ。それを聞いたカーリは、全身から力を抜いて、安堵した。
「よかった……ビックリした」
「??何が??」
 胸に手を当てて、ほっと一息つくカーリを、レディは怪訝な顔で見ている。
「お前……紛らわしい言い方すんなよ」
「だから何が???」
 呆れた調子で呟くエンヴィスのことも、じっと凝視して尋ねていた。
「いいから。ちょっと黙ってろ」
 エンヴィスはそんな彼女を軽く押しやると、スツールに腰かける。
「カーリさん……俺からも、謝らなくちゃならないことがある」
「は……はいっ」
 何を言われるのかと、カーリは訝りながら彼に向き直る。同じくらいの目線の高さから、こちらを躊躇わずに見据えてくる彼に、少しだけ臆した。彼の、ちょっとぶっきらぼうで無遠慮な言葉遣いと、誰に対しても物怖じしない豪胆な態度には、今も若干の苦手意識を抱いているのだ。
「……悪かった!言葉が足りなかった」
 しかしその意識は、次の瞬間にはもうなかった。風圧すら伴うような勢いで、エンヴィスが頭を下げてきたからだ。
「俺はお前を助けたかった。困ったことがあるなら、相談してほしかったんだ」
 彼の言葉を聞き、カーリも何の話であるかを理解する。この前、彼に少し厳しめに意見をされた時のことだと。
「全部一人で抱えるなんてこと、してほしくなかった。だけど……説明不足だったな。本当に申し訳なかったと思ってる」
 あれは、戦えという圧力ではなかったのだ。反撃しろだなんて、強い者だから言える詭弁では。彼はただ、助けを求めろと助言してくれていただけ。少々誤解していただけなのだ。彼もまた味方だった。その驚きと、喜びとがカーリの胸の内を満たす。同時に、これほど真摯な態度で謝ってもらったことも、嬉しかった。彼に対する認識が、徐々に変容していくのを感じる。
「エンヴィスさん……」
 彼の名前を一言呼ぶと、それだけで彼はカーリの気持ちを汲み取り、体を起こした。
「自分だけで出来ることなんて、たかが知れてる。独力じゃ倒せない敵もいるさ……けどな、だからって、諦めてほしくなかったんだ。一人で無理なら、誰かに協力を求めればいい。俺は、その誰かになりたかったんだよ。お前を助けて、守ってやりたかった」
 静かな淡々とした声が、耳に心地いい。カーリはすっかり彼を信用し、眼鏡の奥のオレンジの瞳を見つめると、深々と首を垂れた。
「……ありがとうございます。レディちゃんも」
「別に感謝されるほどのことじゃねぇよ。強い奴が弱い奴を守るのは、当然の義務だからな」
 エンヴィスとレディ、二人ともを見遣りながら口にする。エンヴィスが照れた様子で首の後ろをかいた。そして視線を逸らして、窓の外を眺めながら考える。
 今の行動は、別段トワイライトに倣ったわけではない。むしろ彼がしなくても、自分は確実に謝辞をするつもりだった。その意思が強まっただけで。
 しかし彼があんなことをするとは、本当に意外だった。絶対に、何か考えがあってのことなのだろうと、彼は思う。だが、それが何であるかを探る気にはなれなかった。彼は確かに深謀遠慮に長けた悪魔だが、無闇に部下を切り捨てるようなことはしない。自分たちに不利益をもたらす行為はしないだろう。長い付き合いのエンヴィスには、分かる。
「お前に危害を加える奴がいるなら、俺たちが排除してやるよ。だから……安心しろ」
 だから、彼が助けるべきと判断した相手ならば、身を挺して守るのみだ。そこにどんな理由があれど。どんな相手だろうと。それが”強者”の果たすべき役目であり、”トワイライトの部下”の仕事だと。
「もう『仕方ない』だなんて、二度と言わねぇことだ。分かったか?カーリ」
 エンヴィスの脳裏には、幼い頃の妹の姿が浮かんでいた。自分の背丈ほどもある大きなぬいぐるみを抱えて、エンヴィスの部屋にやってくる妹。『怖い夢を見た』と言う彼女を、何があっても守ると誓った。今でもそうだ。そんな妹と、カーリのことが重なって見えたのだ。
 だからつい、彼女の小さな頭にポンと、手を置いてしまった。妹によくやるように、長い髪をかき混ぜるようにわしゃわしゃと撫で回す。
「エンヴィスさん……」
「エンちゃん……」
 カーリとレディの声が耳に入ったのは、その時だ。
「それ、セクハラだよ」
 ドン引きした調子のレディが、冷え切った声音で言う。そして、気が付いた。
「……あ」
 やってしまった。
 慌てて、カーリの頭に触れていた手を外す。彼女は目を大きく見開き、硬直していた。きっと、さして親しくもない男に撫でられた恐怖と、憤りでフリーズしているのだろう。
 これはもはや、言い訳の余地もない。
 完全なる、セクシャルハラスメントだ。
「セークーハーラー!!セクハラでぇーす!!エンちゃんセクハラー!」
「ちっ、違うんだよレディ!」
 レディが、大きな声で騒ぎ出す。セクハラと連呼され、エンヴィスは焦りのままに弁解しようとした。
「俺は別に、そんなつもりじゃ」
 だが、はたと言葉を止める。何が、『そんなつもりじゃなかった』だ。あれだけハッキリと触っておいて。カーリを、怖がらせておいて。でも、本当にそんなつもりではなかったのだ。ただ無意識に、気が付いたら手が伸びてしまっていただけで。
「犯罪者の常套句だよーそういうの!!皆そう言うんだから!!この変態!セクハラ男!デコ助!!」
「だから違うんだ!で、デコ助!?」
 呆然とするエンヴィスを、レディが更に糾弾する。このままではまずいと察して、カーリは慌てて口を挟んだ。
「あ、あの!私は全然気にしてないですから!!ほんと!全然っ!」
「カーリ、カーリ、いいんだよ?無理してあんなヤツ庇わなくて。ほんとは嫌だったでしょ?気持ち悪かったでしょっ?ねっ、ねっ?」
「え、いや、あの、私は本当に……」
 しかしレディは、聞く耳を持たない。完璧にセクハラだと思い込んでしまっているようだ。被害者を労るような態度でカーリを抱き締めてくる。どうすればいいのかと、カーリは戸惑った。
「君たち……いい加減に」
「あっ、と、トワイライトさん!」
 ちょうど、電話を終えたトワイライトが、ドアを開けて戻ってくる。彼の顔を見るなり、カーリは珍しく大きな声を上げた。訝るトワイライトに、レディが駆け寄ろうとする。エンヴィスの頬が引き攣った。
「ばっかレディ止めろ!」
「聞ーてよトワさん!!エンちゃんが!!」
「?どうした?レディく」
「エンちゃんがセクハラしたの!!カーリに!!!」
 彼からの言葉を遮って、レディが思いっきり告げ口する。
「ほぅ……」
 スゥッと、トワイライトの瞳が細くなった。今までに見たことのない、冷たい目だ。これはまさか、外道を見る時だとでもいうのだろうか。
「ち!ちちち違うんです!いやっ、違くはないんですけどっ!こ、これには深い訳がっ」
「犯罪者の常套句だよね……その台詞」
「違うんですってば!!」
 エンヴィスは顔を真っ青にして、冷や汗をダラダラと流しながら、必死に言い訳する。トワイライトに軽蔑の眼差しを向けられることに、よほど耐えられないようだった。
 彼らを止めなければならない。エンヴィスは自分を心配してくれただけで、セクハラなどしていないのだと言わねば。頭ではそう思うのに、カーリは湧き上がる感情を抑えきれなかった。
「ふふっ……くすくすくす」
 込み上げてくるのは、笑い。愉快。楽しさ。そんな気持ちだ。
 彼らの騒がしさが、カーリにはとても目新しかった。そんな風に騒々しく言い合える、仲の良さが。そういうものはいつも、遠くから離れて見るもので、決して自分が輪の中にいることはなかったから。
 でも、これからは違うのだ。彼らと共に、働くことが出来る。あの微笑ましい関係性の中に、自分も含まれることになる。その事実が、ようやく実感を伴って頭に入ってきた。
 密かに抱いていた念願が、ついに叶ったのだ。カーリは嬉しくて、ついつい口元が緩んでしまう。
 くすくすと肩を揺らして笑う彼女を、トワイライトたち三人は、驚愕して見つめていた。彼女が笑うところを見るのは、初めてだったのだ。けれども、彼らの驚きは、少しして安堵の表情に変わる。彼女もやっと、笑うことが出来るようになったのだと理解して。
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