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合成スライムは自由の夢を見るか? 〜後編〜

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「どうぞ……殺すなら、殺してください」
 男をじっと見つめ、一歩前に進み出るカーリ。目の前でドラゴンのような太い腕が、ピクリと動く。それが今まさに、自分の首を掴み上げ、締め付ける姿を彼女は想像した。だが予想に反して、いつまでもそういった衝撃は襲ってこなかった。
「やはり……お前は、中々の逸材だな」
「……へ、ぇ?」
 おもむろに、男の口が開かれる。放たれた言葉に、カーリは目を見開いた。
「俺はお前を殺すつもりなどない。期待していたか?」
「え?あ……っ」
 揶揄するような声音に、またもや失敗を悟る。さっき自己申告したばかりのことを、体現して証明してしまった。誰かに何かを期待することを、止められないのだと。
 顔が勝手に、じわじわと熱を持っていく感覚がする。男はそんなカーリに構わず、語り続けた。
「俺はまさにずっと、お前のような存在を探していたんだよ。お前のような、空っぽな魂の持ち主を……!!」
 先ほどまでの無表情と無反応が嘘のように、彼は頬を紅潮させ、興奮の滲むままに声を上擦らせている。
「お前は、逸脱者だ。既存の倫理や常識では、お前を縛ることは出来ない。お前はいずれ真実に辿り着く。全く、下らない実験ばかり見せられて辟易していたが、まさか数百年の努力が、こんな形で結実するとはな……!数奇なものだ」
 カーリに指を突きつけ、まるで詩でも口ずさむように歌い上げる彼。両手を広げ、禍々しい鉤爪を輝かせる姿は、まさしく獰猛な肉食獣そのものだ。だが、その意味は全く理解出来なくて、カーリは首を傾げた。
「あ、あの……どういう……?」
 探していた、とはどういうことだろうか。
 思わず困惑のままに、おずおずと問いかける。控えめな声量だったが、聞こえていないはずはないだろう。しかし男は答えずに、カーリを見下ろすと断言してきた。
「だがお前は、少し頭が良過ぎる」
 彼女はぽかんとして、男の言葉を反芻する。ニュアンスから、それが悪口の類だと判断は出来たが、何故そんなことを言われなければならないのかは不明だった。
 彼女の混乱を、男は冷たい声で一掃する。
「諦めだとか、下手な言い訳で納得したふりをするのは止めろ。ぐちゃぐちゃと屁理屈を並べ立てることもだ。お前はただ目を逸らしているだけだ。お前の前にあるそれ……絶望からな」
 耳に飛び込んでくるのは、命令のような、強い叱責のような、容赦のない指示。男の苛烈な視線を浴びたカーリは、堪らず気圧された。男の2メートル近い巨体が、更に膨れ上がっているように見えたためだ。彼の体に圧迫され、辺りの空気が少し薄くなったような気さえしてくる。
「ぜ、絶望……っ?」
 かろうじて、掠れかけた声でそう繰り返すのがやっとだった。金色の龍の瞳に浮かぶ、黒い亀裂のような瞳孔が、スッと細まる。
「お前はまだ、甘えを捨てきれていない。他者に縋り付き、何もない自分を救済してもらおうとしている……そんなことは、何の意味も持たない」
 咄嗟に反論しようとして、踏み留まった。男の指摘は、まさに尤もだからだ。言い返そうにも、方法がない。
「いいか?救いなんてものは、自分の中にしかないんだよ。他人に楽にしてもらおうだなんて、身勝手な願望だ。押し付けがましい」
「……っ」
 カーリが黙っているからか、男は一層無慈悲な調子で、淡々と畳みかけてきた。あからさまな非難と侮蔑の混じった声色で吐き捨てられて、カーリの心がちくりと痛む。かすかに顔色を変える彼女の胸に、鉤爪の先端が鋭く向けられた。
「!!」
「もっと心の奥底まで見つめてみろ。お前の中には、何がある。そこに、何が見える」
 体を貫かれるかと思って、息を飲んだ。しかし、鋭く光るそれは、彼女の肉体に触れるわずか手前で、ピタリと静止している。新たに冷や汗が吹き出してきて、カーリの背筋を濡らした。
「で、でも!な、何にもないんでしょう……?私には何にも」
 一瞬抱いた恐怖を必死になって抑え込んだ。きっと強がりだと簡単に見抜かれてしまうだろうが、それでも何もしないではいられなかったのだ。男の告げた、矛盾だらけの言い分。その言葉を単純に、信頼出来なかった。もしや、嫌がらせなのではないかと、つい穿った見方をしてしまう。彼はあえてカーリを持ち上げ、希望を持たせたところで、嘲笑う気なのではないか。どれだけ傷付いても、絶対に学ばない愚かな女だと。
 そんな策略には乗らない。騙されはしないと、カーリは強く彼を見据える。
「そうだ。お前には何もない」
 彼は頷き、再びきっぱりとした口調で断言した。カーリは即座に、言い募ろうとする。
「だが何もないということは、反対に何にでもなり得るということ。無限の闇が、ありとあらゆる物質を吸い込むのと同じだ。無から、有が生まれる場合もある。例えば強さとかな。後は……それを導く方法さえあれば、完璧だ」
 男はカーリの機先を制し、何やら難しい哲学を語り出した。意味があるようなないような、深くないこともなさそうな話だ。カーリは訝しげに眉を寄せ、首を傾げて黙る。すると彼が唐突に、キッと鋭い眼光をぶつけてきた。反射的に、カーリの背が伸びる。
「誰のことも信用するな。他人に期待するな。お前は、”稀”なんだ。こんなところで終わるべき魂じゃない」
「で、でも……っ」
 とうとう、口を挟んでいた。本当に、全然何も分からないからだ。
 彼は、カーリに何もないと言いながら、何かを求めている。何も出来ないと言い放った相手に、何かをしろと命じている。
 言っている意味が理解出来ない。そして彼女には、理解しようとする気もなかった。
 これ以上、傷付きたくないのだ。先の見えない闇になんて、飛び込みたくない。ましてや、絶望するなんてことも。
 もう心の血を流すのは、絶対にごめんだった。
「なら自死するか?そんな勇気もないくせに」
 彼女の子供じみた駄々を、男はぴしゃりと遮る。正論にぐうの音も出ず、カーリは口をつぐんだ。
「お前は、どうしたい。どうする。今の弱さを、受け入れられるのか?」
 大人しくなった彼女を、男は更に問い詰める。冷徹な、突き放すような声だ。けれど、確かに分かる。
 彼はカーリのことを、理解してくれていると。彼女の心を見透かし、彼女の本心を把握してくれていると。
 根拠など何もない。ただの直感に過ぎない。だがその直感が、凍り付いたカーリの心を、多少なりとも溶かしていた。
(このまま……弱いままは、嫌だ)
 フルフルと、首を振って答えを示す。顔の横で、長い黒髪が揺れた。
(私は、強くなりたいんだ。変わりたいんだ!)
 たとえぶっきらぼうでも、無慈悲でも、構わない。彼はカーリにとって、必要な相手だ。そう、確信した。
「ならば見つけ出してみせろ。お前の中に眠る真実を」
 こくりと、頷いた。声を出さない返答を、男は叱責することなく受け入れる。そして、やや早口で先を続けてきた。カーリの答えを予想していたからだろうが、どこか気が急いているようでもあった。模範的な解答をする生徒に、もっと活躍を見せてほしいと祈る教師のような。
「お前が全てを知った時、その時こそが、我らの門出の日となるだろう。俺たちは再び相見え、新たな世界の一歩を踏み出す。安心しろ。お前に必要なものは全て、俺が与えてやる。だが、今はまだその時ではない……」
 しかしそれもすぐに落ち着いて、今までと同じ厳かで落ち着いた語り口に戻る。男の言説は、まるで予言だった。未来で確実に彼女は、何かに辿り着ける。ほとんど事実のように断言されたそれを、カーリは疑問に思った。何故そこまで自信を持てるのか、自分は何を知るのかと。
「ど、どうして、私なんかにそんなことを……?というか、あなたは本当に……」
 けれども、直裁に問いただす気にはなれなかった。男の姿は堂々たるもので、反論したら凄い剣幕で怒鳴られるような、そんな気がしたのだ。
 だから今度は、少々違った角度から、質問を投げかける。そうすれば、男も答えてくれるのではないかと、ある種の淡い希望を抱いたのだ。
「言っただろう。お前が、”稀”だからだ。滅多にお目にかかれない、希少な魂を、俺は見つけた。放っておくはずがないだろう」
 しかし返ってきた答えは、カーリは更に暗い戸惑いの中へと突き落とすだけだった。
「え、っと……?」
「深く考えるな。お前に必要なのは、ただ、絶望することだ」
 フリーズする彼女に、男は淡々と諭すようなことを説いてきた。再び肩に手が置かれ、鋭い爪がかすかに服を傷付ける。
「絶望しろ。他人に要求するな。自分のみを信じ、自分だけに縋れ。それが……お前の望みを叶える、唯一の手段だ」
 真っ直ぐ目を見つめられて、告げられる。
 絶望、と言う彼の声を、カーリは黙って聞いていた。深い、熟成されたウィスキーのような、声音。少し掠れた低いその声を、どこかで聞いた覚えがある気がした。そう思ったら、今までしていた複雑な話など、全て意識の内側から吹き飛んでしまった。
(……あ、れ……?)
 思い当たるのは、声だけではない。よく目を凝らし、男の顔を凝視する。茶色をした、爬虫類のような、ヒビ割れた肌。それに包まれた、整った顔立ちを。
「?どうした。何かついているか?」
 金色の瞳が、訝しげに歪められる。大きな手が、ざらりと頬を撫でた。何故かその手に、人間の男の手が重なる光景が、カーリの脳内を過ぎる。痩せているせいか皮膚が肉と骨に張り付き、血管や中指骨が浮き出ている、手。親指の爪が少し小さくて、潰れたように不恰好な形をしている、手。
「……ひ、一つだけ、聞いてもいいですか……」
「何だ?」
 必死に、絞り出すようにして声を発する。男は相変わらず猜疑に満ちた表情を浮かべて、先を促してきた。カーリは息を吸い込み、もう一度勇気を振り絞ると、尋ねかける。
「あの、気のせいだったら別にいいんですけど……その、もしかして、映画とか、ドラマとか、お好きですか?」
 男の眉が、神経質そうにピクッと反応した。強引に遮られる前に、カーリは急いで続きを口にする。
「もっと言えば、人間の国の作品とか。例えば……もが」
「その名を口にするな」
「っ!」
 言いかけた名前は、途中で断ち切られた。男が素早く手を伸ばし、大きな掌でカーリの口を塞いだのだ。鉤爪が後頭部まで届く感触に、身が竦む。
「お前は奴を知っているのか?」
 身体を硬直させるカーリに、男は冷酷な声色で問いかけた。声の出せないカーリは、コクコクと首だけを振って肯定を示す。男の眉根が、ぎゅっときつく寄った。何事かを考えているようだ。
 一体何が起こっているのだろうと、カーリは考える。まさか、こんな話題で一番の逆鱗に触れるとは思わなかった。肌に伝わる、今までのそれとは比べ物にならないほどの憤りに、骨の髄まで震え上がる気持ちだった。いや、怒りというよりもはや、殺気と呼べるものだろう。このまま喉元でもかき切られて、死ぬのかと戦慄した。
「……まぁいい」
 しばし熟考していた男が、唐突にパッと手を離す。
「っゲホ、ゴホ……ッ!」
 解放されたカーリは、思わず体を二つに折って、激しく咳き込んだ。男はおもむろに屈み込むと、やや乱暴に彼女の顎を掴み、無理矢理視線を合わせる。
「二度とその名を俺に聞かせるな。分かったか?」
「ふぁ、い……」
 強い口調で命じられて、カーリには頷く以外の選択肢がなかった。完全に、恐怖と痛みに縮み上がっていて、そこにつけ入られてしまっている。死など怖くないと強がった割に、情けない態度を取るからか、それとも咽せるあまりまともに話せていない状態が面白かったのか、男の唇が酷薄に歪んだ。
「フッ、間の抜けた返事だ」
 揶揄いと嘲笑、皮肉がふんだんに詰め込まれた笑みに、流石のカーリも言い返してやろうと意気込んだ時だ。どこかでガタンっと音がした。
「誰かいないの~?」
 呑気な調子の女の声が聞こえてきて、カーリは目を見開いた。
「れ、レディちゃん!?」
「時間切れだ」
 発言から、相手が彼女の知り合いだと察したのだろう。男は端的に話を切り上げると、さっと立ち上がってしまう。
「待って!」
 カーリが慌てて、彼にしがみつこうとした時だ。背中を向けた彼の翼がはためいたかと思うと、周囲に突風が吹き荒れる。
「うわぁっ!」
 カーリの軽い体はあっさりと吹き飛ばされ、硬い床の上に転がった。
「カーリっ!!」
 駆け寄ってきたレディが、後ろから彼女の背中を受け止める。
「大丈夫!?」
 血相を変えて心配してくれるレディだが、カーリには応える余裕などなかった。
「いたた……あ、あの人はっ!?」
「え?」
 顔を顰めながらも、さっきの男を探す。カーリの言葉の意味が分からなくて、レディは困惑した。
「あの人って?」
 カーリは答えず、レディに預けていた体を起こす。だが、自分の目で確かめるよりわずかに早く、レディの声が飛び込んできた。
「誰もいないよ?」
 カーリも理解して、驚愕する。先ほどまでそこに立っていたはずの男。彼の姿が、忽然と消えていたことに。
「何でっ!?」
 一瞬放心しかけて、即座に我に返る。急いで立ち上がり、辺りを見回した。小走りに駆けて通路の死角なども覗いてみたが、もうどこにも、彼はいなかった。
「どうして……っ!」
「カーリ、どうしたの?さっきまで、誰かと話してたの?全然、誰の気配もしなかったけど」
 これでは、もう話も出来ないではないか。どこで会えるのかも、そもそも名前も知らないのに。
 カーリは落胆して、がっくりと肩を落とす。明らかに消沈した様子の彼女を、レディは覗き込んで案じた。だがカーリは声も発せずに、項垂れているばかりだ。レディは思い切って、そんな彼女の肩を、ぐいぐいと押した。
「カーリ、行こっ。早く行かないと、こんなところにいたら誰に何されるか分かんないよ!」
「う、うん……」
 この危険な状況では、ゆっくり愚痴をこぼしてもいられない。何かを思い悩んでいる様子のカーリを、強引に引っ張って、歩かせていく。
「レディちゃん、どこ行くの……?」
「ん~?あ~、大丈夫!アタシに任せてって!」
 レディに手を引かれながら、ふとカーリは尋ねてみた。彼女が、出口や逃げ道を知っているとは、失礼だがあまり思えなかったのだ。
 だがレディは、ニコニコと笑い、自信満々に言い切るだけだ。
「安心してよ。アタシね、さっき出口を知ってるってオジサンに会ったんだから!!」
 胸を叩いて誇りかにする彼女を見て、カーリの胸中は不安で埋め尽くされた。
『誰のことも信用するな』
 男に言われた言葉がリフレインする。
「……それ、信用出来る人……?」
 気が付けば、猜疑心が、重い口を割っていた。
「え~、どうだろ?」
「レディちゃん」
 レディは変わらずに、へらへらと笑っている。別に、彼女にはよくあることだ。だが、忠告を受けたばかりのカーリには、容認出来ぬことでもあった。
 ピタリと足を止め、彼女の名を呼ぶ。ついてこなくなった彼女を訝しんで、レディは振り向いた。
「カーリ?」
「酷いじゃない、カーリちゃん……だっけぇ~?」
 彼女の疑念に、カーリが意を決して答えようとした時だ。
 どこからか突然、ふざけた調子の男の声が響く。カツン、と上等な革靴が音を立て、薄暗い道に濃い影を落とした。

  *  *  *

「ぐっ!!」
 強い力で突き飛ばされ、背中を強かにぶつけた。トワイライトは呻き、続く攻撃を避けようとするが、時既に遅し。全身にぬるぬるとした液体が絡み付いてきて、彼を壁へと押し付けた。抵抗しようにも、スライム状の粘液は重く、思うように身動きが取れない。それどころか更に力を強められ、息苦しさが増していくばかりだった。
「っ……ぅ」
 みしみしっと、体内で嫌な音が響く。胸の辺りに感じる圧迫感と、鈍い痛み。息が上手く吸えなくなり、思考に若干靄がかかり始める。
「グルルゥ……ッガァアアア!!」
 遠のきかけた意識を呼び起こしたのは、獣の唸り声だった。目の前を、鋭い歯が不規則に並んだ、異形の大口が埋め尽くす。トワイライトは咄嗟に魔法を発動し、相手を攻撃した。
「ギャァアっ!!」
 数本の剣が、細い腹を貫通する。出血はなくとも痛みはあるようで、獣は耳障りな悲鳴を上げて飛び退いた。
 本能的な恐怖が攻撃心を呼び覚ましたのか、彼は腕を横に振るい、薙ぎ払うような動作をする。彼に押さえ付けられたままだったトワイライトは、当然その動きに影響され、床に転がることとなった。
「っく……!」
 どうにか受け身を取ったものの、衝撃がじわじわと体を蝕んでいく。
「ボ、ボール・アイくん、落ち着いて……っ!ゴホッ」
 それでもどうにか立ち上がり、彼に向かって呼びかけた。
「私の声が聞こえているだろうっ?」
 だが、相変わらず返答はない。聞こえてくるのはただ、グルグルという威嚇音だけだ。喉の奥から発される、獣じみたその音には、理性など欠片も感じられない。衝動と、本能しかないようだ。
「ヒャッハハハハ!!」
 トワイライトの懸命の努力を打ち消すように、ヴァレンタインの嘲るような笑いが響き渡った。
「ほらほら、俺様の方も気にしとかねぇと、死んじゃうぞー!?」
 彼がばさりと、思わせぶりに片手を広げた時だ。
 機械類が剥き出しにされた壁の中から、一個の歯車が射出される。周囲の圧力に屈し、弾かれたように飛び出してきたそれは、ガタガタと床を削りながら、まるで銃弾のような勢いで突っ込んできた。
「うぐっ……!!」
 咄嗟のことで、回避する時間的猶予はなかった。せめて身を守ろうと、トワイライトは腕をクロスして身構える。間もなく、凄まじい重みが襲いかかってきて、大きな歯が肉にぎりりと食い込んだ。だが、それも一瞬で終わる。あまりの速度と重さに押され、足が床を滑ったかと思う
「グルァアッ!」
「が……っ!」
「もう分かれよ!何をしても無駄だってさぁ!!」
 すかさずボール・アイが、その細足で蹴りを放ち、トワイライトの体を一層高くへと吹き飛ばした。ヴァレンタインの嬉々とした叫び声が、風のように右から左へと流れていく。
「何度呼びかけたって、奴がお前の言葉に応えることは決してない!そいつにはもう、考える力なんか残っちゃいないんだよっ!!」
 声と同時に、容赦のない追撃だけが、狙いを定めて放たれた。風切りの音と共に、天井から降ってきた極太のケーブルコードが、思い切り彼の背中を打ち据えた。
「うぁあっ!!」
 一気に床まで叩き落とされ、強い衝撃に息が詰まった。
「がは……っ」
「ハハハハハ!いいじゃないか、もっと盛り上がれよ!ヒュ~ゥウ!!」
 苦悶しながらも必死に体を起こすと、ヴァレンタインの甲高い歓声が飛び込んでくる。明らかに、楽しんでいることが分かるテンションだ。
「命をかけた、本気の殺し合い……配信出来ないのが悔やまれるぜ!今までは、どっちが犠牲になるかっつって話し合い始めたり、互いにビビりまくってちっとも殺し合わなかったりで、全っ然盛り上がりに欠けるコンテンツだったんだ。でも……これで、ベストなシチュエーションが見つかった」
 彼は一方的にベラベラと話しながら、ポケットに手を突っ込んで辺りを歩き回っている。随分と余裕のある態度だが、それも当然のことだろう。二人に連携した攻撃を仕掛けられれば、流石のトワイライトも対応が追いつかない。ただ翻弄されるばかりで、身勝手な話に反論する余力さえも残っていなかった。口の端からこぼれた鮮血が、ボタボタと滴る。
「ただ本能のままに破壊と殺戮を繰り返す!!これぞ最高の出し物ショーだ!!くっだらなくて、面白いバカみたいだろぉ!?」
「ハァ……ハァ……」
 意識しなくとも、勝手に息が荒くなる。どうにか立ち上がろうと力をこめるが、体力の消耗と、肋骨の辺りに走る痛みが邪魔をしていた。
「っ……」
 片膝立ちのまま、手を伸ばして痛みの発生源を押さえる。やはり、回復が十分ではなかったのだろうか。天使との戦いで負った、肋骨のヒビ。まだ完治していないそこは脆くなっていて、少しの衝撃で簡単に折れると聞いた。多分、そういうことだ。
「いかにも危険で、野蛮で、下らない。どうして金持ち連中ブルジョワジーってのは、至って大衆的で、卑俗で、下劣なエンターテインメントが大好きなんだろうなぁ!!」
「ギャォオオオンッ!!!」
 だが、だからといって敵が手加減をしてくれるわけもない。ヴァレンタインの言葉に被せるようにして、ボール・アイの咆哮が轟く。その姿からは、かつての彼の面影など微塵も感じられなかった。まるで、別の存在であるかのようだ。正気を失い、目に映るもの全てを敵と見做して攻撃する様は、到底以前の彼とは思えない様相を呈していた。
 一体本当の彼は、どこへ行ってしまったのだろう。小さな体に過酷過ぎる運命を背負い、それでも勇気ある決断をした彼は。
 彼を正気に戻す方法はないのだろうか。
 トワイライトは苦悩する。
 このままでは、ヴァレンタインの思う壺だ。感情や理性に足を引っ張られ、本能のままに生きる獣に殺されるか。あるいは、苦しみながらも生にしがみつき、相手を殺すのか。彼はその葛藤を、娯楽として捉えている。つまり、この戦いを続けることは、ただ敵を喜ばせる行為にしかならないのだ。それに、ボール・アイは貴重な証人であり、部下の友達でもある。そんな彼と本気でやり合い、万が一殺してしまったら。一体どれほどの咎を受けるのか、分かったものではない。上からは責任を問われ、部下たちからの信頼も失墜することになるだろう。今のキャリアを失うことだけは、絶対にごめんだ。
 とはいえ、無論ここから生きて帰れなければ、それも無意味な議論なのだが。
「ガゥァア!!」
 咆哮と共に、ボール・アイが駆け出してくる。動作は緩慢なものに見えるのに、足が長いからか、そのスピードは異常だった。彼はあっという間に、トワイライトの眼前まで接近してくる。
 悩んでいる暇などなかった。
 とりあえずは身を守るのが優先だ。
 トワイライトは新たに作り出した剣を、しっかりと握り締める。
 結局彼への対応策など、考えついていない。早く何とかしなければとは思うものの、焦りばかりが募って、何の解決策も浮かばなかった。正直、ここまで追い詰められるのは、久方ぶりのことだ。
「シッ!」
 細く息を吐くと同時に、剣を投擲する。顔面へと飛んできたそれを、ボール・アイはあろうことか、口から飛び出した鋭い牙で弾いた。ギャンッ!と甲高い音が鳴り、銀色がくるくると弧を描いて、天井近くまで跳ね上がった。
「ッ!?」
 まさか、そんなことをしてみせるとは。あまりにも予想外の一手に、トワイライトは一瞬目を見開き、硬直してしまう。その一瞬が、命取りだった。
「しまっ……!ぐぶっ」
 声を上げかけたところに、ボール・アイが飛びかかってくる。飛び散った体液をまともに浴びて、トワイライトはむせ返った。
「ぐ……っ、重……っ!」
 そのまま押し倒され、のしかかられる。途轍もない重量に圧迫され、思わず苦悶の声を発した。しかし、顔面に降り注ぐ粘液のせいで、まともに喋ることも出来ない。それどころか、粘液で口や鼻を覆われて、息すら上手く吸えない状態だ。
「グァア……」
 トワイライトを押さえつけるボール・アイの姿は、またもや変貌していた。先ほどまでの、細い枯れ木のような形はどこにもない。通常時と同じ、黒くて丸い、いかにもスライムらしい様相だった。だが決定的に異なるのは、そのサイズだ。元の数十倍はあるだろうか。巨大な体が、トワイライトを丸呑みにしようと襲いかかってくる。
 当然そんな目には遭いたくないので、トワイライトは必死にもがく。しかし、酸欠になった状態では、まともに頭は回らない。おまけに、全身が黒いどろどろとした粘液に塗れていて、ろくに動くことも出来なかった。これでは到底、逃げられない。
「……っ!!」
 トワイライトは逡巡した。もう、剣を使ってしまおうか。流石のボール・アイも、全身を鋭い剣で貫かれれば、飛び退くだろうと。
 しかし、そんなことをしていいのかと、頭の中でもう一人の自分が騒ぎ立てる。トワイライトは苛立った。
 戦場で迷いは命取りだ。ボール・アイに偉そうな顔で説教したのは、他の誰でもない、自分なのに。それにも関わらず自分は、未来のリスクを恐れて、現在の自らの命を危機に晒している。
(死にたくないのなら、目の前のことを見つめなければ……今、自分が最も生き残れそうな道を)
 決断の時だろうか。迷っていないで、速やかに彼を殺す。それしか、彼が生存する方法はない。
(すまない、カーリくん、ボール・アイくん……)
 決断の時だ。心の中で謝罪の言葉を紡ぎ、トワイライトは魔法を使う。ボール・アイの背後に、一本の銀の剣が生まれた。
 だが、その時だ。トワイライトの目に、何かが止まる。
 天井から垂れ下がる、赤い色。今までは無数のコードの内の一本としか見えていなかったが、その先を辿ると、なんとボール・アイに行き着いている。彼の体に、繋がっているのだ。それはもちろん、何らかの目的があってのことに違いない。
(これだ!!)
 トワイライトの脳裏に、閃きが駆け抜けた。例えるならば、天啓のようなもの。理屈ではなく、感覚で理解した。次の瞬間彼は、理屈や計算を何もかも忘れて、直感的に行動していた。
 重たい体を無理矢理持ち上げ、ボール・アイとの距離を詰める。粘液が彼を迎え入れるように広がって、トワイライトの体を包み込んだ。首元まで迫ってきたそれが、頭まで飲み込んでしまう前に、思い切り息を吸い込み、止める。そして、ボール・アイの体内へと腕を伸ばした。
 必死の思いで手を動かし、やっとのことで探し求めていたそれを探り当てる。手に触れたケーブルコードをしっかりと掴み、ぐっと一気に引っ張った。引っ張られたコードがビッと張り詰めるのが、音で分かる。彼は間髪容れずに、次の手を打った。
 風を切って振り下ろされた鋭い刃が、スッパリと太いコードを断ち切る。内部に含まれていた電線が、断末魔のようにバチバチと青白い電気を弾けさせて、その後息絶えた。同時に巨大スライムの体が蠢いて、飲み込んでいたトワイライトを、ごぼりと吐き出した。
「なっ、何っ!?」
 ヴァレンタインが動揺した声を発している。想定外の事態に驚いたのか、それとも計略を見抜かれたことに焦ったのか。
「っ……ゲホッ!!ゲホッ!ゴホ……ッ!」
 スライムの巨体から排出されたトワイライトは、床にうつ伏せに転がったまま、激しく咽せ返る。しばらくぶりに流れ込んできた、十分な量の酸素に肺腑が仰天していた。
(助かった……!!)
 深く安堵するままに、大きく息を吐き出す。彼の足元に、コロリと丸い物体が転がってきた。
「あ、あれ……?僕……」
 子供のような高い声が、何が何だか分からないという風に呟く。その声は完全に、いつも通りの彼だ。外見も、見慣れたスライムのそれに戻っている。張り詰めた緊張が少しだけ和らいだ。
「あぁ……っ、戻ったか。おかえり、ボール・アイくん……ゴホッ」
 格好つけて普段通りを装おうとしたら、無理が祟ったのか、軽く咳が出た。酷く傷付いたトワイライトの姿を見るなり、ボール・アイはハッと目を見開く。
「と、トワイライト……っ!!僕……僕、とんでもないことをっ!」
 自分が何をしてしまったのか、全てを思い出したらしい。慌てて駆け寄る彼を、トワイライトは優しく宥めた。
「大丈夫……君は操られていたんだよ。そこの、ヴァレンタイン殿にね」
「えっ?」
「……ッチ」
 予想外の言葉に驚き、ボール・アイが声を上げる。彼の視線を受けたヴァレンタインは、苦々しげな表情で舌打ちを漏らした。傀儡となって戦うはずの彼が正気に戻ってしまって、心底苛立っているのだろう。腹立たしげな顔の彼を見据えながら、トワイライトはゆっくりと立ち上がった。
「説明は後だ。とりあえず彼を……何とかしようか」

  *  *  *

「あぁくそっ、何だよ……っ!」
 ビーッとエラー音を鳴らされて、エンヴィスは苛立った声を上げる。憤りをぶつけるように、軽く握った拳を机に叩きつけると、タイミングよく音が止まった。
「はぁ……」
 再び静かになった室内で、エンヴィスは溜め息をつく。
 彼がいるのは、天井の高い、大きな部屋だった。正面の壁には大量のモニターが取り付けられ、後方には何台ものパソコンが置かれた机や、ハードディスクの詰め込まれたラックが、理路整然と並んでいる。エンヴィスが立っているのは、中央に設けられた小さな壇の上だ。目の前にでんと鎮座する、扇形のデスク。キーボードとスクリーンが天板に埋め込まれたこれが、この室内にある全ての機器を統制する司令塔である。
 黒を基調とした画面を眺めながら、キーボードを押す。表示されている蛍光グリーンの文字列は、いわゆるプログラミング言語と呼ばれるものだ。と言っても、人間たちの知るそれとは少し違う。魔法と科学を融合した新技術、魔導科学を規定し支配する、特別なソースコード。
 通常、魔法は術式によって動かされる。魔法陣とも呼ばれる、円をベースにした図形に、魔語という独自の文字列を書き込むことで、魔法は形作られるのだ。円が大きいほど、複数の円が複雑に重なり合っているほど、その術式は多くの魔力を使用する、高度な魔法となる。魔導科学におけるプログラミングとは、術式の形成、及び魔法の発動を全てキーボードの入力によって行うという行為なのだ。
 魔力も必要とされる技術となると、誰にでも使いこなせるものではない。だからなのか、魔界におけるプログラマーの数は、人間界よりも格段に少なかった。エンヴィスも大半の悪魔たちと同じで、ほとんど知識を有していない。暗号解読などの術式を流し込んで、無理矢理翻訳し、強引に操作しているのが現状だった。大した成果の得られないまま、魔力だけがガリガリと削られていく。得られるのはストレスばかりで、エンヴィスは限界だった。
(こんなもん、分かるわけないだろ!)
 出来ることなら、全てを投げ出してしまいたい。しかし、それは叶わぬ願いだった。何しろ、このシステムを解除しない限り、自分たちは仕事を終えることが出来ないのだから。
 そのことに気が付いたのは、少し前のことだった。
 スカーレットなる研究員を退けたエンヴィスは、情報を集めるために彼女の研究室に戻ってみることにした。彼女からくすねた職員証を用い、パソコンにログイン。例えば建物内の見取り図でも見つけられれば、脱出方法を考えられる。その程度の、安易な考えだった。だが、パソコンの中には、期待以上の収穫が詰まっていた。
 彼女はどうやら研究の傍らで、警備システムの構築にも手を貸していたらしい。だから、制御室へのアクセス権限が与えられていた。だからエンヴィスはここに来たのだ。警備システムの解除、あるいは操作が出来れば、脱出が可能になるかも知れない。散り散りになった仲間を、探すこともだ。
 幸い、制御室までの道順も、パソコン内に記録されていた。空間が組み替えられた後だったからか、かなり複雑な経路を辿らされたり、道中でバッタリ出くわした弱そうな研究員を拳で黙らせたりはしたものの、どうにか辿り着けたというわけだ。
 これで上手いこと術式に介入出来れば、結界の魔法も空間編成も、自在に制御出来るはずだった。その操作方法が、電子入力しか認めないという設定にされていなければ。
 ビーッという音が、再び響き渡る。エンヴィスは今度は何も言わなかった。しかし、彼のこめかみにビキリと青筋が浮かぶ。握り締めた拳がワナワナと震えた。その時だ。
「!」
 誰かの話し声。
 一瞬だったが、確かに聞こえた。
 数人の男女。ドアのすぐ近くにいる。
 さっと物陰に回り込み、気配を殺した。錫杖を構え、相手が隙を見せたら即座に、確実に仕留めようと考える。
 直後、ドアが開いた。
 モニターの光だけが満ちた、明暗に偏りのある室内に、一つの影が踏み込んでくる。大きさからして、男だ。かなり背が高く、体格もいい。拳で決着をつけろと言われたら、まず勝てないだろう。尤も、そんな非効率的なことをするつもりはないが。
 男は黙って、辺りをキョロキョロと見回している。鈍いのか、エンヴィスの気配にも気付いた様子はない。ならば、好都合だ。背後からこっそり忍び寄って、杖で殴ってしまえばいいのだから。魔法など使う必要もない。正直なところを言えば、これ以上魔力を失いたくないのだ。
 息を潜め、足音を立てずに回り込む。錫杖を握り締め、立ち並んだ巨大なラックの影から飛び出すと、男の無防備な後頭部を殴打しようとした。
「っ!?」
 途端に、まるで岩石の砲丸のような、重たく速い拳が飛んでくる。咄嗟に飛び退いたものの、体に伝わった衝撃は予想以上に大きかった。かろうじて着地には成功したが、尚消えぬ勢いに押され、足がザリザリと後方に滑る。防御に使った腕が両方とも、ビリビリと痺れていた。
「く……っ!」
 これは、予想以上の強敵だ。彼は恐らく、エンヴィスの存在にも気付いていた。それなのにあえて油断したふりをして、彼を誘き出したのだ。まんまと騙されたと、エンヴィスは悔やむ。仕方がないが、もう魔法でも何でも使って、確実に仕留めるしかないだろう。そう考えた矢先。
「エンヴィスさん?」
 聞き慣れた声に、エンヴィスの注意がわずかに逸れた。そのたった一瞬の隙を突いて、男が大振りな回し蹴りを放つ。
(しまっ……!)
 失態を悟る頃には、もう遅い。上等な革靴が、眼前まで迫っていた。
 かわしきれない。
 痛みを覚悟して、身体を硬直させる。ところが、驚いたことに、飛んできた攻撃は彼の顔のすぐ手前でピタリと制止した。
「ダメじゃな~い、戦闘中に敵から目を逸らしちゃ。殺されちゃうよ~?エンヴィスちゃん。だったよねぇ?」
 無駄のない身体能力とは裏腹に、だらけ切って隙だらけの声が、耳に届く。
「あれ?ほんとだ、エンちゃんじゃん」
 彼の言葉に被せるように、先ほどとは別の女性が、呑気に独り言ちていた。エンヴィスは唐突に、男の正体を理解する。オレンジとも赤ともつかない、派手な色のスーツに、同じく派手な柄のシャツと金の腕時計。緑色の瞳の間に伸びる、彫り物の入った一本角。
「シュハウゼン刑事部長……!」
 直接言葉を交わすのは、初めてだ。遠目にしか見かけたことがなかったので、気が付かなかった。
「やほー」
 彼に名前を呼ばれた男、シュハウゼンは片手を顔の横に掲げ、フランクな挨拶をかました。
「エンヴィスさん!!」
 開け放たれたドアから、カーリが飛び込んできた。髪が乱れるのも構わず、一直線にエンヴィスへと駆け寄ってくる。
「大丈夫でしたか!?」
「あぁ……別に、あのくらい何ともねぇよ……」
 彼女の心配も分かっていたが、今は真剣に取り合っていられなかった。
 腕をさすりながらシュハウゼンを見遣る。彼の攻撃を受け止めた衝撃が、未だかすかに残っていた。
「それより、お前たち何で」
「アタシが見つけたんだよー!」
 何故シュハウゼン刑事部長と彼女たち二人が一緒にいるのか。そして何故この場所に辿り着けたのか。
 全く状況を飲み込めず、困惑の声を上げるエンヴィスに、レディが元気な答えを返した。
「あのオジサンね、なんか道に迷ってるっぽかったから、アタシが声かけたの。そしたら、一緒に行くーって言うから、連れてってあげたんだー。まぁ、カーリとかエンちゃん見つけたのは、オジサンなんだけどねっ!」
「うん……うん。レディ、お前はちょっと黙ってろ」
 紡がれる言葉は、まるで子供の話のように、捉えどころがなくて理解が追いつかない。エンヴィスも途中でついていけなくなったのか、適当な相槌を止め、彼女の口に指を突きつけた。
「えー?これからがいいところなのに~」
「レディちゃん」
「シュハウゼンさん、どういうことですか?説明をお願いしたいのですが」
 不満げに唇を尖らせる彼女を、カーリが引き止める。二人が静かになったことを確かめたエンヴィスは、シュハウゼンに向き直り、問いかけた。
「何故、こんなところにいるんです?あなた方刑事部は外で待機していたはずだ。計画が変更になったという連絡は受けていませんが」
 予定が変更されたのなら、何か相応の理由があるはずだ。ましてや、刑事部長自らが出張ってくるほどの非常事態なのだから、余程の危機が迫っているに違いない。一体何があったのか。自分たちや、ここにいないトワイライトは無事に生き残れるのだろうか。
 不安と焦燥に急き立てられながら、エンヴィスは彼を見上げる。しかしシュハウゼンは背中を向けたまま、壇上に立ち、デスクに取り付けられたモニターを覗き込んでいた。
「う~ん、そうだねぇ~……ボクが勝手に飛び出しちゃっただけだから、部下たちも驚いているかもね」
「!?ど、どういう意味です!?まさか、計画を無視したというんですか!」
 心ここに在らずといった曖昧な返答に、エンヴィスは目の色を変えて噛み付く。彼の反応も当たり前のことだ。
 彼らが昨日あれほど苦労して作り上げた計画。危機を最大限回避するために、慎重に慎重を重ねて練られたそれを、このシュハウゼンという刑事部長は、簡単に覆したというのか。捜査全体の指揮統括を担う、刑事部の最高権力者が。
「それでは計画を立てた意味がないじゃないですか!!何故そんなことをなさったんです!?」
「そ~んな怒んないでよエンヴィスちゃん。ボクはただ、キミたちが心配になっただけなんだって。建物の周りに、謎の結界が展開し始めてさ。『あ~トワちゃんたち大丈夫かな~』って、居てもいられなくなっちゃったんだよ」
 信じ難いほどに無鉄砲な行動。インペラトルとは到底思えない能天気ぶりに、エンヴィスはつい声を荒げる。責め立てられたシュハウゼンは、苦笑しながら言い訳めいた言葉を並べた。
「でもそ~だよね~。ボクが咄嗟に飛び込んだところで、出る方法なんか何もないわけだもんね。結局ボクも、ここから出られなくなっちゃってさ。いやぁ~失敗だな~。ボクってほんと考えなしだよねー。ま、そこがボクのお茶目チャーミングなトコロなんだけど。ハハハ!」
「笑い事じゃないでしょう!!!」
 まるで、失敗を失敗とも認識していないような、ふざけた態度だ。腕を組んで考える素振りを見せてから、終いには誤魔化すような笑顔まで向けてくる。とうとうエンヴィスは我慢の限界を迎えた。
「一体どうするんですか!!あなたのせいで、私たちや刑事部の悪魔たちが、危険な目に遭うかも知れないんですよ!?無責任にも程があるでしょう!!」
 彼の行為は、責任者としてあるまじきものだ。絶対に受け入れてはならないと、エンヴィスは強い口調で彼を糾弾する。
「エ、エンヴィスさん……」
 全身から怒りを滲ませ、抗議の声を上げる彼を、カーリは心配そうに見つめていた。シュハウゼンの後ろ姿から、何か恐ろしい気配が漂っている気がしたのだ。少しでも刺激したら、即座に噴火を起こしてしまう、活火山のような恐ろしさを。
「トップたる立場のあなたが、部下を無闇に危険に晒すなど、言語道断です!!」
「エンヴィスちゃん……」
 彼がそう、言い切った時だ。彼の姿がふっと消えたかと思うと、カーリの目の前に出現する。そして、太い腕でエンヴィスの胸ぐらを掴み上げていた。
「ぐっ……!!」
「エンヴィスさん!!」
 ネクタイを掴まれ、引き上げられて、エンヴィスの踵が床を離れる。気道が圧迫されるせいで、息苦しさが込み上げてきた。カーリの悲鳴じみた声が、耳から耳へと通り過ぎていった。
「流石……トワちゃんのお気に入りというだけはある。キミは中々、優秀な副官みたいだね」
 シュハウゼンの低い声が、静寂に満ちた室内に響き渡る。エンヴィスは咽せそうなのを必死に抑えながら、平静を装って尋ねかけた。
「っ……無礼を、働いたことを……怒っていらっしゃるのですか……?」
 あまりの豹変ぶりに、ついていけない。それほど、違う部署の下っ端に食ってかかられることが、屈辱だったのだろうか。
「い~や?ボクはそんなちっさいコト気にしないよ」
 だが意外なことに、シュハウゼンは楽しそうなままだった。ニコニコと、まるでトワイライトのような作り笑いを貼り付けている。
「でも……キミのその、口煩さと頭でっかちは気になるなぁ」
 柔和そうに細められた目の奥から、鋭い眼光が放たれる。額に生えた一本角が、眼球に突き刺さりそうで、エンヴィスは臆した。密かに息を飲む彼に向かって、シュハウゼンは指を立て、おもむろに説教を始める。
「いいかい?エンヴィスちゃん。今のキミは、チャンスを前にして、固まっちゃってる状態だ。先のこととか、リスクとかが怖くて、何にも出来ないでいる。でも、時には思い切って飛び込んでみることも必要なのさ。いつまでも、頭の中だけでぐるぐるぐるぐる考えてるのは止めるんだ。やってみなきゃ分からないことって、あるだろう?」
 尤もらしい言い分。まさしく正論であるそれを、しかしエンヴィスは納得出来ない様子で聞いている。
「そ、それは……その、一理あるとは、理解出来ますが」
「そんなんじゃ、トワちゃんのことも越えられないよ?」
「!!」
 それとこれとは話が別だと、口を挟もうとした時だ。エンヴィスの話を遮って、シュハウゼンが挑発的な声を放つ。彼の言葉を耳にした途端、エンヴィスの顔色がサッと変わった。まるで、全身の毛の一本一本を逆立たせて威嚇する獣のようだ。見ているだけのカーリの胸にも何故か、嫌な感じのさざめきが湧き起こった。一番触れられたくない、心の奥底の部分を、ガサついた冷たい手で無造作に撫でられたような感覚だ。
(え……エンヴィスさん……?)
 やたらと不安になって、カーリは困惑の表情を浮かべた。
「ハイッ!もうこの話終わり!ささ、他のこと考えよーよ」
 いきなり、シュハウゼンがパッ!と手を離す。解放されたエンヴィスが、堪えきれない咳をこぼしていた。
「げほ、ごっほ……」
「過ぎたことを、思い悩んでても時間を無駄にするだけだ。今ボクたちが考えるべきことは、これからのこと。違う?カーリちゃん」
 だがシュハウゼンは気にせずに、淡々と続けてきた。唐突に話を振られて、カーリは慌てふためく。
「へっ?あっ、いや……違わな、いです……」
「でっしょ!」
 どぎまぎしながらも何とか言葉を返すと、シュハウゼンは嬉しそうな顔をして指をパチリと鳴らした。
「それでボクから一つ提案なんだけどー……ここ、もうぶっ潰しちゃおうよ」
 軽く両手を打ち合わせると、彼は何気ない調子で平然と言った。とてもそんな口調で提案すべきではない、話を。
「ゴホッ!?何ですって!?」
 エンヴィスはあまりの衝撃に目を剥き、シュハウゼンを凝視する。カーリも隣で、驚愕の眼差しを彼の顔に注いでいた。
「だってぇ、ボクこんなの見てもよく分からないし。エンヴィスちゃん分かるのー?」
 二人からの非難めいた視線にも動じず、彼は肩を竦め、開き直るような態度を見せる。そればかりか、反撃まで繰り出してきた。
「いえ……試してはみましたが、あいにく私は門外漢なので……」
 標的にされたエンヴィスは、気まずげな声音でボソボソと答える。カーリは、若干論点がすり替えられているような気がしたが、口を挟むことは出来なかった。
「だったらさ、いいじゃない」
 エンヴィスが口篭っているのをいいことに、シュハウゼンは明るい口調ですっぱりと言い切る。
「こんなところもういらないでしょ。パソコンもコンピューターも、この部屋にあるもの全部、ぶち壊しちゃおうよ。そうしたら、ボクたちを閉じ込めてる魔法も、消し飛ばせるはずだ」
「アハハ、それいーね~」
 このままでは、彼の意見が集団の結論として、押し通されてしまう。焦燥するエンヴィスに、更なる追い討ちをかける者がいた。レディだ。
「オジサン、ナイスアイディアじゃん!!」
「ばかっ!!」
 それまでは、難し過ぎる議論についていけず沈黙を貫いていた彼女だが、何やら話が自分の好みの方向に転がりそうだと気付いた途端、生き返って目を輝かせている。
 キラキラとした笑顔を振り撒き、親指を立ててシュハウゼンを褒め称える彼女を、エンヴィスは慌てて黙らせた。
 何せ相手はインペラトルであり、あのトワイライトの師にあたる人物なのだ。いくら表面上は気さくで友好的に見えても、腹の内では何を考えているか分かったものではない。下手に刺激をすれば、即座に掌を返される可能性だってあるだろう。そんな悪魔がいる状況で、彼女の奇行を容認しておくことなど、彼には出来なかった。
「むぐー!うーっ」
「シュハウゼンさん、考え直してください!危険過ぎますよ!!」
 物理的に口を塞がれたレディが、何やらモゴモゴと抗議しているのが分かる。だがエンヴィスは気に留めず、もう一度シュハウゼンに反駁した。
「確かに、ここの機械を壊せば、中に仕込まれた魔法も解除出来るかも知れません。ですが!」
 建物を覆う結界や、内部に展開された空間編成魔法はどれも、この部屋にある機械に術式を組み込むことによって形作られている。機械を操作すれば、電子機器を媒体として、魔法が発現するようになっているのだ。
 つまり、基盤となっている機械そのものを破壊すれば、内部に含まれた魔法も崩壊するというわけである。だが、そこにはもちろんリスクが伴う。
(機械だって、無理に壊せば発火する……魔法なら尚更だ!)
 この部屋に置かれた機械の数を見れば、中に込められた魔法の規模、複雑さは瞭然である。こんな高度な術式を動かすには、どれほどの量の魔力を必要とするのか、想像することすら能わない。もしもその膨大な魔力が、破壊された術式内を上手く流れずに、一定の場所に滞留したら。どうなるかは考えるまでもないだろう。機械がショートを起こするように、やがて大爆発を起こす。エンヴィスたちを巻き添えにして。
「こんな計画、正気の沙汰とは思えません!万一のことがあったらどうするんですか!!」
 外で待機している刑事部の悪魔たち。周辺地区で暮らしている、一般市民。何よりも。
「俺たちだって無傷じゃ済みませんよ!?何か、他に方法を」
「他なんかないよ」
 あまりにも無謀が過ぎる。危険極まりない策だと、声を荒げて言い募る。必死になって訴えかける彼を、しかしシュハウゼンは冷徹な瞳で射抜いた。
「っ!!」
 慈悲も何もないような、無感情な緑色を目にし、エンヴィスの足が凍りついたように動かなくなる。まるで、蛇に睨まれた蛙のようだった。
「言ったでしょ、エンヴィスちゃん。キミはちょっとばかし、頭が良過ぎる……いいからボクに、黙って従えよ」
 冷や汗をかき、体を硬直させるエンヴィスに、シュハウゼンはそっと歩み寄った。彼の巨体によって、比較的低身長なエンヴィスの体はすっぽりと影に包まれ、至近距離から気迫を浴びせられることとなる。
 骨の髄まで震え上がらせるような、低い声。それを聞いたカーリは、ハッと息を飲んだ。
 シュハウゼンが先程言った言葉。頭が良過ぎるというワードが、あのドラゴンのような容貌の男のものと、全く同じだったからだ。しかし、シュハウゼンがエンヴィスに向けて放ったそれと、カーリが彼からもらったものとは、意味が大分異なる気がする。
 シュハウゼンは、頭の中だけで構築したリスクに怯えていないで、少しは押し殺した本当の自分を見せてみろと、諭している気がした。咄嗟に感じた、衝動や、感情や、その他行き当たりばったりな思考についていけと。
 けれどあの男に告げられた言葉は、全く違う意味を持っているように思えた。カーリには何もないのだ。そんな彼女が、何かをしようともがいても、どうせ結局何も出来ないで終わる。だからカーリは、諦めたり、分不相応なことはするなと自分を罰したりして、心を守ってきた。それを彼は、止めろと言っているのではないだろうか。色々と屁理屈の盾で防御しないで、真正面から、何も出来ない自分の現状にぶち当たってみろと。
(だけど、そんなことしたら砕け散っちゃうよ……)
 自分に何の力もないことは、自分が一番よく知っている。知っているからこそ、傷付かないように努めてきたのに。これ以上現実と向き合ったら、今度こそ、壊れてしまう。いや、男が言っていた『絶望』とは、そういうことなのだろうか。自分の受け入れ難い自分を見つめ続けて、精神を崩壊させる。それによって彼女は、何かを手に入れることが出来るのだろうか。だが、本当に出来るのか?ボロボロのティーカップを更に痛めつけて、底の抜けたカップにしても、もうそこには何も入らないだろう。淹れた液体は全て穴を通して、滴り落ちていくだけだ。
「カーリ?」
「えっ!?」
 俯いて熟考するカーリの視界に、突如レディの顔が映り込んできた。いきなりのことに驚いて、カーリは何も言えなくなる。
「あ……っ」
「だいじょぶ?具合悪いのー?」
「だっ、大丈夫!」
 口を開けたまま固まる彼女を、レディは更に顔を近付けて、凝視する。カーリは焦って、早口で返事した。
「ホントに~?」
「本当だって!大丈夫だから!私は……大丈夫……」
 疑うような眼から逃れようと、数歩横に移動し、距離を取る。自分に言い聞かせるように呟きをこぼす彼女を、レディはじぃっと眺めていた。
「ほら、腹を括りなよ、エンヴィスちゃん」
 少し離れたところで、彼女たちがそんなやり取りを繰り広げているとはつゆ知らず。エンヴィスはシュハウゼンによって、彼の提案に乗るように圧力をかけられていた。
「ここでやらなきゃ、死ぬだけだ。それとも……今この場で、殺されたいかい?」
「く……っ」
 邪気などまるでない顔で、彼はとんでもない脅しの言葉を吐きかけてくる。透き通るような緑の瞳が、いっそ憎たらしいほどだった。
(何なんだこいつ……!何なんだよ!!)
 脳裏に、初めてトワイライトと言葉を交わした時の記憶が蘇った。あの時の彼も、今のシュハウゼンと同じ何食わぬ表情で、協力しないのなら邪魔者として切り捨てると告げてきた。あまりに落ち着いた様子に、異常性を感じ取らずにはいられなかった。服従しなければ、彼は本当に自分を殺すと、直感したのだ。まさに本能が働いた、決定的瞬間と言えるだろう。
「分かりました……!やればいいんでしょうやれば!!」
 かつて犯さなかった愚を、今ここで犯してみるメリットはない。エンヴィスは一度深く息を吸い、窄めた唇から一気に吐き切る。
 もはや、逃げ道はない。彼に与えられた選択肢は、覚悟を決めて、この男に従う。それだけだ。
「”万雷滴下コールオブゼラト”!」
 意を決して、というより半ばやけになって、錫杖を構える。呪文を詠唱すると同時に、杖の先端から眩く輝くスパークが迸り、直後けたたましい音を立てて、室内のあちこちに電撃が降り注いだ。
 広範囲を狙った、威力の高い一撃。これならば多少硬い物体でも、貫くことが出来る。かなりの量の魔力を消費するが、この男に見せつけるには、いい選択だったろう。
「ヒュー、男前だね、エンヴィスちゃん!!」
 エンヴィスの意図を察しているのか、シュハウゼンは作ったような猫撫で声で、わざとらしい賞賛を投げかけてきた。どこまでも、トワイライトの持つ成分の、悪い部分を抽出して凝縮したような振る舞いだ。エンヴィスの中に、堪えきれない憤懣がふつふつと湧き上がる。
「だったら、ボクも張り切っちゃおうかなっ♪」
 だがそんなことは意にも介さず、シュハウゼンはご機嫌な声をこぼした。エンヴィスの頭上を、何か巨大な影が高速で通り過ぎる。
「おわっ!?」
 咄嗟に身を屈めたために衝突することはなかったが、当たっていたらと想像すると肝が冷える。一体何が起きたのかは、尋ねるまでもなかった。
 シュハウゼンの、大きな手。手袋をつけたその手から、ボコボコと何かが溢れ、固まっていく。パラパラと小さく溢れるのは、土の破片だ。そして彼が持っているのは、巨大な岩石。属性系魔法土属性使いの彼は、岩石や大地を自在に操ることが出来るのである。自らの手中に、岩石塊を作り出すことくらい、文字通りお手のものというわけだ。
「さーぁ、もう一丁!」
 調子良く掛け声を発してから、生み出した巨岩を、慣れた動きで振りかぶる。そして、持ち前の剛腕と強肩を余すところなく活かした、気合の入った一投を繰り出した。
 ゴウッと音を立てて、陣風を伴った豪速球が放たれる。それはそのまま勢いを落とすことなく飛翔して、とんでもない威力を発揮した。
 室内に立ち並んでいた、ハードディスクの入った沢山の棚。それらが全て、圧倒的な質量と推進力に押し潰され、耳障りな音を立てて壊れていく。ひしゃげ、あるいは破片を飛ばし、元の形が分からないほどに破壊されていく。同時に、内蔵された魔法の術式が、バチンバチンと弾け飛んで崩壊していくのが分かった。
 彼が通った後には、何も残らない。彼の放った岩石が通った軌道上だけ、片付けられ白い床が覗いている。まるで、大砲が撃たれた直後の光景だ。大量の電子機器に埋め尽くされていた狭い部屋が、少しだけ広くなった気がした。
「はいはいっ!シュハっち、アタシもやるー!」
「いいよー!加勢大歓迎!」
 あまりにも綺麗な破壊の跡に、テンションが上がったのだろう。レディが昂った調子で、両腕を上げて立候補する。シュハウゼンはふざけたあだ名で呼ばれたことも気にせず、笑顔で彼女の申し出を受け入れた。
「やぁったーーー!」
 了承された彼女はピョンピョンと元気に飛び跳ね、嬉しさをアピールする。早速とばかりに、ヘッド部分の赤い工業用ハンマーを取り出しては、ぐるんぐるんと振り回した。一体そんな物をいつどこから持ってきたのか、問いかける者は誰もいない。
「あわっ、わ、私は……」
 皆が行動を開始する中で、一人取り残されたカーリは、焦ってキョロキョロと辺りを見回していた。何か、戦闘能力のない自分にも出来ることはないか、必死に探そうとする。そして、ふと気が付いた。壁の一面に、びっしりと取り付けられたモニター群。監視カメラの映像を映したそれらの中に、一瞬見知った顔が見えた。
「トワイライトさん!ボール・アイ!!」
 思わず名前を呼ぶと、彼女の声を聞いた周囲の悪魔たちが、一斉に振り返った。彼らに注目されていることも忘れ、カーリは手元のキーボードを弄る。指定したカメラの映像を、壁の中央部に配置された、一際大きなモニターに飛ばした。幸い、まだその機能は破壊されていなかったらしい。操作は無事に成功し、大画面にでかでかと、どこかの実験室のような光景が映し出された。無数の機械に塗れた部屋の中で、顔に傷を持つ一人の男が、悠々と立っている。そして彼と対峙しながらも、どこか疲弊した様子で写っているのは、カーリたちの上司トワイライトと、彼女の愛する友人ボール・アイの姿だった。

  *  *  *

「ごめんなさい、トワイライト……僕、僕また、おかしくなっちゃったんだ……!」
 静寂に包まれた場に、ボール・アイの声が響く。
 混乱が解け、記憶と自我を取り戻した彼は、丸い体をしょんぼりと萎れさせ、すっかり意気消沈した様子を見せていた。
 それもそうだろう。今や彼は、自らが犯した過ちの全てを、正しく理解していた。自分が再び暴走状態に陥り、大切な味方を傷付けてしまったことを。
 罪悪感を覚えるのは、ごく自然なことだ。
「何だか、いきなり体がカーッて熱くなって、忘れたかった嫌なこととか、色々思い出しちゃって……それで、それでっ!!」
 言いながら、自分でも精彩を欠いた説明だと思う。弁解じみているとも感じる。けれどもそれ以上に上手い言い方は、見つからなかった。
 唯一分かることは、自分は許されないことをしたのだという事実だけ。自分であることを失くし、理不尽な暴力を振るい、そして相手を本気で殺そうとしたという事実。
「本当に、ごめんなさい……!!」
 深々と、首を垂れ謝罪する。
 トワイライトは初め、何も言わなかった。無言ですっと手を伸ばされて、ボール・アイは萎縮する。殴られるかと思ったのだ。
 当然のことだろう。自分はそれだけの酷いことをしてしまったのだ。怒りをぶつけられても、仕方がない。罰せられるのも、当たり前だ。甘んじて、受け入れなければならない。
 ボール・アイは目をギュッと固く瞑り、衝撃に備えて体を硬直させた。だが意外にも、襲ってきたのは、殴打の痛みではなかった。ポンと軽く頭に置かれる、掌の大きさと温かさ。予想外の感触に、彼は驚いて目を開ける。
「君が気に病む必要はないさ。君は何も悪くないんだからね」
「……えっ?」
 視線がかち合った途端、トワイライトが優しげな声で口にした。その言葉の意味が分からなくて、ボール・アイは首を傾げる。
「……くそがっ」
 やや離れたところに突っ立っていた、ヴァレンタインが悪態を吐き捨てた。彼の苦々しい顔を見て、ボール・アイは尚更困惑する。一体何故、そんな反応をするのだろうかと。
「ボール・アイくん。君は操られていたんだよ。そこのヴァレンタイン殿にね……」
「えぇっ!?」
 疑問の答えは、トワイライトから告げられた。すぐには理解出来なくて、ボール・アイは頓狂な声を発する。ヴァレンタインの表情が、更に険しいものに変わった。
「君が暴れ出す少し前……ヴァレンタインは君に、何らかの薬物を注射した。覚えているかね?」
「わ、分からない……確かに、チクッとするような感じは、したかも知れないけど……」
 まるで事情聴取をするような調子で尋ねられて、ボール・アイは考え込む。
 そうなのだろうか。
 本当に、薬によって自分は、暴れさせられた?
 そんなことが、起こり得るのだろうか。
 混乱しながらも何とか、混濁した記憶を紐解こうとするが、やはり難しいことだった。
 トワイライトの説明は続く。
「恐らく彼は、君に起きる現象も、その原因も把握していたんだ。今までの、実験の成果なのかも知れないね……とにかくそれを利用して、君と私を戦わせようとした。違いますかな?」
 想像ではあるが、ボール・アイは研究所を脱出する以前から、異変を見せていた。ヴァレンタインはそのことに気が付き、実験を進めていたはずだ。だから、彼の精神を薬か何かで高揚させ、暴走させることも出来たし、自身が襲われぬよう行動することも可能だったのだ。ボール・アイの標的は、単純に彼との距離が近い者から選ばれると知っていたから。
「ほ、本当なの、それ……?」
 だが、彼の考察は、ボール・アイにはとても信じ難いことだった。
 過去のトラウマを思い起こすことで始まる、暴走状態とも言える変貌。ボール・アイ自身でも、制御の効かないそれを、本当に操ることが出来るのか。誰かを、意図的に管理するということが。
「フン……だったら何だ?その程度のカラクリを見抜いたところで、俺様には勝てやしないだろ」
 だが、ヴァレンタインの態度は、決して反省をしていない不敵なもの。ボール・アイにもこれは、実質的な肯定であることが分かる。
 つまり、自分は支配されていたのだ。憎き敵、ヴァレンタインの手によって。
「そんな……!」
「その通り。我々はまだあなたに勝利したわけではない……」
 ボール・アイは愕然とし、声をなくして立ち尽くす。しかし、トワイライトはあくまで冷静だった。ヴァレンタインの言葉に頷いた上で、話を先に進めようとする。
「ですが、形勢が逆転したということは、あなたも分かっているでしょう」
 無論、ボール・アイを正気に戻しただけでは、何も解決しない。むしろそのスタート地点にしか立てていないのだ。真の敵は依然として健在している。ヴァレンタインを倒さなければ、事態は変わらない。
 けれども、進展がなかったかと言われれば、決してそうではないのだ。相手にとって有利な状況を崩し、反対にこちら側の優勢を勝ち取った。一対二が逆の構造になったのだ。どちらがどちらであるかは、説明するまでもない。
「仕掛け(タネ)が割れた以上、もはや同じ手は使えない……そろそろ、潮時だと思いませんか?」
 後はボール・アイの手を借りて、少しずつ彼を追い詰めれば済む話だ。
 必要以上に優位を主張するトワイライトのことを、ヴァレンタインは射殺すような視線で睨め付けていた。
「ふざけるな……!フザケんなオマエらぁああ!!!」
「うわぁっ!?」
「っ!!」
 彼の怒声が響くと同時に、天井から突如何かが降りてきた。最先端の技術を駆使した、医療用ロボットのアームのような何かだ。その先には謎の、巨大な銃火器らしき物が取り付けられている。ヴァレンタインが何か魔法を放つと同時に、アームが引き金を引き、銃器から白い煙が飛び出した。
 視界の自由を奪われて、ボール・アイは驚いた声を上げる。トワイライトも、顔を腕で覆ったまま、奥歯を噛み締めた。
「俺様は……俺様は、オマエらなんかには負けない!!そんなクソスライム如き、自由にしたからってイキがってんじゃねぇよ!!」
「く……っ!?」
 白煙の向こうから、ヴァレンタインの勝ち誇ったような咆哮が聞こえてくる。次の瞬間、トワイライトの足元を、細い蛇のような物体が素早く駆け抜けた。
「ゴホッ、ゴホ……!トワイライト、大丈夫っ?」
 一方でボール・アイは、噴射された白い煙をまともに浴びて、むせ返っているところだった。数本の触手を体から生やして、煙を払うと、大分周囲の様子が見えてきた。
「ヒャハハハ!!そうさ!オマエたちが、俺様に勝てるはずがない!!何勝った気になってやがんだよ!!ヒャハハハハ!!」
「っ……!かは……ッ」
 彼の視界に映るのは、いつにも増して残酷な顔で笑うヴァレンタインと、彼の魔法によってぐるぐる巻きに拘束された、トワイライトの姿。極太の黒いケーブルコードが、彼の体を持ち上げて、足の先から首元まで、ぎっちりと隙間なく巻きついている。ヴァレンタインが叫ぶと共に、首に巻き付くコードが、ギリッと更にきつく締まった。強い圧迫感に、彼は堪らず咳き込む。
「トワイライト!!」
(た、助けなきゃ……!)
 ボール・アイは咄嗟に、彼の名前を口走り、心の中でそう考える。しかし、はたと気付いた。
(でも、どうやって……!?)
 思い出すのは、自分が今し方しでかしたこと。
 トワイライトは、ヴァレンタインが意図的にボール・アイを操ったのだと言っていたが、それが事実かどうかは分からない。仮にそうだったとしても、また同じことが起こらないとは限らないのだ。
 もう一度、薬を盛られるかも知れない。あるいは、今度は何もされていなくても、勝手に頭が嫌なことを思い出して、おかしくなるかも知れない。
 いつどこで、何があるか分からないのだ。迂闊なことをすれば、かえってトワイライトを追い詰めかねない。そう思うと、体が竦んで、何も出来なくなってしまう。
 立ち尽くすボール・アイを、トワイライトは薄目を開けて見ていた。彼の葛藤が、痛いほど伝わってくる。けれども、あいにく言葉をかけてやれる状況にいなかった。
「さァ、実験はお終いだ!ここからは、俺様自らによる、殺戮ショーを見せてやる!!ヒャーッハッハッハ!!」
 ヴァレンタインの哄笑が響き、トワイライトの体は勢いよく横へと流れた。振り回され、遠心力が圧となってのしかかる。だがそれもすぐに終わり、次の瞬間、彼は容赦なく壁に叩き付けられた。
「……!!」
 あまりの衝撃に、声も出ない。凄まじいダメージに、体が硬直し、力が抜けていくようだ。するりとコードが解かれても尚、彼は身動き出来ずに、壁に背をつけたままずるずると座り込んでしまった。
「……っごほ!げほ……」
「オイオイ、もうへばったのかよ。盛り上がらねぇなぁ」
 数秒後、ようやくまともな呼吸が再開されるが、それもすぐに途切れてしまう。咳をする度にこぼれる赤い色が、視界の端に鮮やかに映った。いつの間にかすぐ近くまで来ていたヴァレンタインが、冷笑を浮かべて、トワイライトを嘲笑する。肩を強い力で踏みつけられて、骨がぎしっと軋み音を立てた。
「っ……」
「さ~ァてどうする?そろそろ負けを認めて、潔く降伏するか?」
 思わず顔を歪めるトワイライトのことを、ヴァレンタインは真上から、鋭い歯を覗かせた凶悪な笑顔で見下ろしてくる。
「はぁ……はぁ……っそう、ですなぁ……」
 投げかけられた問いに、トワイライトは迷っているふりをして視線をかすかに彷徨わせた。ヴァレンタインの背後で、臆したように身を震わせているスライムの姿が目に入る。
「降参しても、構いませんよ……っ、あなたが、私の前に膝をついて……過去の罪を懺悔すると言うならね……げほっ」
 彼に注意を向けさせるわけにはいかない。トワイライトは珍しく、あからさまな挑発に打って出た。息を切らせながらも、いつも通りの笑みを浮かべて、余裕綽々の態度を取ってみせる。たったそれだけで、ヴァレンタインの単純な思考回路は、簡単に発火した。
「キッ、サマァアアアーーー!!!」
 彼の顔が、カッと赤くなる。頭に血が上るのに任せて、衝動的に爪を振り下ろした。悪魔の肉体など容易く貫通させられる、鋭く長い刃での一撃だ。だが、それが獲物を仕留めることはない。トワイライトはさっと手を上げ、剣を作り出すと、彼の剣戟を防いだ。
「ぐ……っ!」
 どうにか受け止めたものの、上手く力が入らず、次第に押し込まれていく。鉤爪の先端が肩に食い込んで、トワイライトは悲鳴を上げた。
「ぐぁああ!」
「ヒハハッ!さぁ、死ねぇ!!」
「駄目ーっ!!」
 苦悶する彼を庇うように、どこからか甲高い声が割り入ってくる。
「何……ッ!?ぐっ!!」
 素早く飛んできた細い鞭のようなものが、驚いて振り返ったヴァレンタインの顎を強く打ち据えた。不意を突かれたためか、彼の頭はガクッと後ろに傾き、切れた口の端から赤い飛沫が飛び散る。後ろに数歩よろめいた彼へ、トワイライトは追撃を見舞った。
「がぁっ!」
 彼の踵がヴァレンタインの鳩尾に深く食い込む。思わず息を詰まらせる彼の後ろ襟を、黒い触手ががっちりと掴んだ。彼はその触手に投げ飛ばされ、部屋の隅の壁に、轟音を立てて衝突した。駆け抜けた衝撃で天井が軋み、剥き出しになっていた機械類の部品が外れて落ちる。一度崩れ始めたそれは容易には止まらず、倒れたヴァレンタインの体の上に、怒涛の勢いで降り注いだ。舞い上がった土埃が収まる頃には、彼の姿はすっぽりと覆い隠され、爪先すら見えなくなっていた。
「う……っ」
「トワイライトっ!!大丈夫っ!?」
 傷を負った肩を押さえて、呻くトワイライトのもとに、ボール・アイが跳ねて近付いてくる。
「あぁ、問題ない……助かったよ、ボール・アイくん……っ」
 彼のおかげだと礼を述べかけて、トワイライトは口を閉ざした。視界がぐわりと揺らぎ、平衡感覚が覚束なくなる。額の上から何か生暖かい液体がだらりと垂れてきて、彼は片目を瞑った。
「トワイライト……!」
 頭から血を流す彼を見て、ボール・アイは戦慄する。気が付けば、咄嗟に言葉が迸っていた。
「逃げよう!!二人で、ここから逃げようよ!!そんな体じゃ、もう戦えない!もう無理だよ!!」
 トワイライトに飛びついて、必死に懇願する。彼の瞳は、涙に濡れていた。
「キミはもうボロボロだ!これ以上戦ったら死んじゃう!だけど、今ならまだ間に合う!そうでしょ!?」
 ヴァレンタインは強い。それは、早速分かり切っていることだ。手負いのトワイライトには、厳しい相手だろう。最悪、命を奪われてしまう可能性だってあるのだ。そうなる前に、一刻も早く逃げたかった。これ以上大切な友人を失うなんて、絶対に嫌だった。想像するのも耐えられないくらいに。
「僕たちならきっと出来るよ!だから早く一緒に」
「ボール・アイくん……それは無理だよ」
 ボール・アイの訴えかけを、しかしトワイライトは首を振って拒絶した。
「どうしてっ!?」
 彼は思わず声を荒げ、トワイライトに食ってかかる。何故そんなことを言うのか、まるで理解出来なかった。どうしてそこまで頑なになるのか。逃げないで、戦う方を選ぶのか。傷付き、血を流して、死の危機に晒されてまで。
 何故、この道を進むのか。
「もう逃げられない。君だって分かっているだろう」
「でもっ!僕たちならきっとまだ何か」
「君は、一体何を怖がっているんだ」
「!!」
 淡々とした声で諭されても、受け入れられずに食い下がる。簡単じゃなくても、まだ一つくらい逃げ道が残っているはずだと、信じていた。信じたかった。
 だがそれも、トワイライトの直裁な問いかけで、木っ端微塵に吹き飛んでしまう。
「そんなの……そんなの、聞くなんて、酷いよ……トワイライト」
 ポロリと、蚊の鳴くような声で非難する。トワイライトは何も言わなかった。唇を引き結んだまま、無言を貫いている。反応がないことは決してボール・アイを口ごもらせず、むしろ更なる言葉を引き出すこととなった。
「僕は……僕は、僕が怖いんだ……!自分で自分が、コントロール出来ない。嫌なこと思い出したら、僕が僕じゃなくなっちゃう!それが……どうしようもなく、怖い……」
 やがて彼は、ぽつりぽつりと胸中を明かし始める。
 恐れているのはもちろん、自分自身に対してのことだ。
「トワイライトは、僕が薬で操られたって言うけど……だけど……でも、今度は本当に……僕が自分で、おかしくなっちゃうかも知れないよ?」
 先刻彼は、暴走状態に陥り、味方であるトワイライトを襲った。その後トワイライトの機転で理性を取り戻したものの、もう一度同じことが起こらないとも限らない。薬を使われずとも、また何かのきっかけで、過去の辛い体験を思い出してしまうかも知れない。そうなったら。
「そしたら……そしたら、僕は今度こそ……!」
 一度目は、未遂で済んだ。けれど、次は?未遂ではなく、現実になってしまうかも知れない。今度こそ彼を、この手で傷付け殺めてしまうかも。そうなったら、ボール・アイは二度も、大事な仲間の命を奪うことになってしまう。二度も。
 考えると、怖くて怖くて身が竦んだ。現実と向き合うことが怖かった。ヴァレンタインと対峙することが。
 さっきはトワイライトを助けたい一心で、咄嗟に彼を攻撃したけれど、やはりそんなことが何度も出来るはずはないのだ。彼はボール・アイにトラウマを植え付けた張本人で、諸悪の根源。彼と戦えば、また簡単に過去を想起して、暴走してしまうだろう。そう思うと、逃げたくて仕方がなかった。
「大丈夫さ。そんなことは起こらない」
 友達を傷付けたくないと、頑なになる彼を、トワイライトは落ち着いた声で宥めた。
 だが、ボール・アイは余計に戸惑ってしまう。何故そこまで、自信たっぷりに言い切れるのだろう。根拠もないのに、事実を語るみたいに断言出来るのか。
 全然理解出来なかった。
「どうしてっ?どうしてそんなこと言うのっ?」
 だから、つい責めるような口調で詰め寄ってしまう。そんなことをする理由は何もないにも関わらず。
「君は過去と向き合いたいんだろう?そう、君自身の意思で、決定した。違うかい?」
 トワイライトは決して怒らずに、どこまでも淡々とした調子で尋ねてくるばかりだった。ボール・アイはフルフルと首を振る。彼の言葉は、全く間違っていないからだ。ボール・アイは確かに、辛い過去にも、悲しい現実にも向き合うと決めた。自分の力で、自分の運命に立ち向かうと決めたのだ。それは、本当のことだ。
「ならば君は、もう迷わないよ。自分で決めたことだ。君はきっちり守れる。私はそう思っている」
「で、でも……」
 何故、こんなにも自分のことを信頼してくれるのだろう。
 ボール・アイは困惑する。
 どうしてこんな自分に、無条件かつ無償の、信用を置いてくれるのか。一度ならず二度も、彼のことを襲い傷付けた怪物相手に。
「僕は、怪物だ……」
 脳内に蘇る、ヴァレンタインの言葉。彼の声が、何度もリフレインする。
 彼の言う通りだ。自分は自分のことすらコントロール出来ない、恐ろしい怪物。自分の意思で何かを決めても、それだってすぐに忘れてしまうかも知れない。過去と向き合うだなんて、口では偉そうに言っても、実際にやってみるのはきっと難しいだろう。また窮地に陥ったら、簡単に恐怖に飲まれて、決意を破ってしまうかも知れない。それなのにどうして。
「他人なんか信じるな」
 ぐるぐると思い悩むボール・アイに、トワイライトの声がストレートに浴びせられた。ボール・アイは驚いて、体をぷるんっと震わせる。
「へっ?」
「誰を信じるか、何を信じるか……決めるのは、君だ。間違っても、他人に君を決めさせてはならない」
 彼の声音は、まるで氷のように冷ややかで、ともすれば無感情でもあった。しかし、そこには決して尽きることのない、深い思慮と相手への尊重とが、多分に含まれている。
「自分一人でも、あるいは他の大切な誰かでも。相手は誰だって構わないさ。だが、君が自分で、信頼すると決めた相手以外の言葉は、全て無視しろ。耳を傾けるだけ、時間の無駄だ」
 全くいつもの彼らしくない口調。血塗れで、疲れ切っているはずなのに、彼の瞳にはいつにない力と光とがあった。まさかあのトワイライトが、こんなことを言うなんて。少々意外だが、その言葉を聞けば、分かる。これが、彼の本心だと。
「ボール・アイくん。君は、どちらを信じる?君が、決めなさい」
 彼はどこまでも、ボール・アイの味方だ。きっと彼以上に、ボール・アイにとって強力な味方はいない、と思うくらいの。彼はボール・アイのことを信用し、一人の個人として、尊重してくれる。この腐りきった世界において彼は、途轍もなく貴重で得難い存在だ。
「僕が誰を信じるか、なんてそんなの……もう、とっくに決まってる」
 これが演技や計算なのだとしたら、彼は凄まじく狡猾で恐ろしい悪魔なのだろう。
 だがボール・アイはもう、迷わない。彼の笑顔の仮面の奥に、どんな悍ましい本性があろうとも、絶対に後悔はしない。他の味方がこの先現れたとしても、それが彼に敵対する存在ならば、靡かない。自分は、彼に、ついていく。
「僕がはじめから信じる相手は、決まってるんだ。キミだよ……トワイライト」
 覚悟と共に決断し、顔を上げる。彼の目を真っ直ぐに見つめると、トワイライトの口元がほんのわずか、少しだけ、ふっと緩んだ気がした。
「まぁ、君の決定に私が口を挟む道理はないが……一つ言わせてもらうとしたら、君が友人わたしよりも、憎い敵ヴァレンタインを信じていたら、どうしようかと思ったよ」
 かと思えば、片眉を持ち上げたわざとらしい表情で、冗談を飛ばしてくる。ボール・アイも合わせて、おもむろに触手を伸ばして腕を組むと、思ってもない軽口を叩いた。
「だってキミは、カーリが信じてる悪魔だからね」
「フッ……これは一本取られたな」
 あからさまにユーモラスな空気を作って目配せすると、トワイライトは今度こそ、吐息を漏らして笑う。その時だった。
「くっそがぁあ……ふざけやがってぇえ!!」
 ビュンと放たれたケーブルコードが、積み上がった瓦礫を内側から破壊する。細長い鞭のようなそれは勢い余って壁に衝突し、傷んで軋んでいたそこに、一本の亀裂を生じさせた。
「オマエら……!絶対に、許さないからなぁ!!俺様を抜きにして、勝手にくっちゃべりやがってぇえ……!!調子乗ってんじゃねぇぞ!!オマエらの命を握ってるのは、俺様だっ!!」
「ヴァレンタイン……!」
 崩れた瓦礫を押し除けて、現れた彼を見て、ボール・アイは誰にともなく呟く。一応トワイライトの言葉には納得したものの、まだ完全には、自信を取り戻してきれていなかった。
「大丈夫……問題ないよ」
 不安に揺れるボール・アイの頭を、トワイライトは優しく撫でて、元気付ける。だが、直後胸に走った、ズキッとした鋭い痛みに耐えかねて顔を顰めた。流石に、無茶をし過ぎたようだ。
(出来れば使いたくなかったが……とっておきの手札を、切るしかないようだな)
「おいオマエ……やってくれたな!俺様の端正な顔に、こ~んな傷付けてくれちゃってよ!!」
 痛みを堪えつつも、立ち上がるトワイライトに向かって、ヴァレンタインは鉤爪をつけたままの指を突きつけた。彼の体は砂埃や機械油で汚れ、頬には赤黒いあざが出来ている。流れた鼻血が唇まで垂れ、スーツに点々とシミを作っていた。
「いいんじゃないか?そちらの方が、よほど似合ってると思うがねぇ」
 気まぐれで皮肉を飛ばすと、彼の顔が怒りで更に紅潮した。隣では、ボール・アイがぷっと吹き出ている。いくら怯えていても、宿敵がやり込められる様には、愉快な気持ちを感じずにいられなかったのだろう。
「おいクソスライムっ!!オマエ、いつまで調子ぶっこいているつもりだァ!?どうせオマエには、何も出来やしない!!さっき俺様が教えてやっただろうが!オマエのオツムは、食欲と性欲と、何かをブッ壊したいって衝動で、完結してるんだよ!!このバカが!!」
 見下していたはずの彼にまで侮辱され、ヴァレンタインのこめかみに青筋が浮かんだ。
「うぅうるさいっ!もう僕は、お前なんかの言いなりにはならないぞっ!!」
 憤怒の声をかき消すように、ボール・アイは叫ぶ。まさか、反撃されるとは思っていなかったのだろう。ヴァレンタインは若干目を見開いた後、すぐに激昂してきた。
「黙れっ!!オマエは!怪物なんだ!!少ぉし嫌なことを思い出すだけで、体が拒否して、バカになっちまう、怪物なんだよ!!だから、前の飼い主オレサマのことを裏切って、新しい飼い主こいつの手も、平気で噛んだり出来るんだ!!なぁ!?そうだろ!?この駄犬が!!」
「ち、違うっ!僕は……僕は……!!」
 怒鳴り散らされる一方的な言い分に、ボール・アイは咄嗟に言い返せず、口篭った。相手の声量と勢いとに、気圧されてしまったかのようだ。
 何か助け舟を出そうかと、トワイライトが口を開きかけた時。
「これ以上、お前の好きにはさせないっ!」
 わずかに早く、ボール・アイの大きな声が空気を震わせた。
「僕はもう、昔の僕じゃないんだ!弱い者を支配して、強くなった気に浸ってるだけの奴には、絶対に屈しない!!」
 迸るのは、今まで恐怖に押し潰され、決して出ることのなかった言葉。心の奥底にずっと沈めていたそれを、ようやく正面切って吐き出すことが出来た。閉塞していた胸が、スッとする思いがする。
「ハァ~!?オマエ、何言ってやがる!!自分の言ってることが分かってんのか!!オイ!VL53906!!」
「お前みたいな悪魔のことは、絶対に許さないって言ってるんだ!!」
 耳を疑うように吠えてくるヴァレンタインの声も、今となってはもはや怖くない。あんなもの、ハリボテだ。ただ相手を威圧して、従わせるためだけの、威嚇のような行為。あんな取るに足らないものを怖がっていた過去の自分が、馬鹿らしく思えてくる。
 だがそれはもちろん、トワイライトという味方がそばにいてくれるからこそだ。一緒に戦ってくれる者が出来たからこそ、声を上げることが出来る。ボール・アイ一人では決して出来なかったこと。トワイライトには、感謝してもし足りないくらいである。
「僕たちを実験して、痛めつけるどころか、操って戦わせようとして!!お前みたいな外道に、誰が従うもんか!!お前のことなんか、すぐに捕まえてやる!!それでっ!それで後悔させてやるんだ!!僕らモンスターを弄んだこと!!」
「オマエ……!!冗談も大概にしろよ無能ザコのくせに!!」
 勇気を振り絞って、本音をぶちまけるボール・アイのことを、ヴァレンタインは険しい目つきで睨んだ。
「所詮オマエら下等生物モンスターは、本能と衝動のままに暴れるくらいしか出来ねぇんだよ!!そんなオマエらに、俺様は利用価値を与えてやったんだ!恨まれる筋合いなんかないね!!むしろ、感謝してほしいぐらいだよ!!こんな脳みその詰まってねぇ害虫ゴミ共には、もったいないほどの、高い評価をしてやったんだからなぁ!!」
 あまりに非道な言い分。
 外道中の外道とも表すべき、下衆。
 ヴァレンタインのその言葉に、ボール・アイは吐き気すら催す。トワイライトも、例の笑顔を仕舞って、何を考えているのか分からない無表情で、黙って彼の主張に耳を傾けていた。かと思えば。
「……随分と長い自己紹介でしたなぁ。脳みその詰まっていない害虫とは、中々言葉選びが秀逸なことで」
 痛烈な嫌味を、平気な顔で口にする。相手を小馬鹿にするような笑みが、血と砂埃で汚れた顔に載っていた。
「オマエたちこそ、ここがどこか分かって言ってるのか!?」
 だがヴァレンタインの残念な脳細胞は、その言葉の意味を正しく咀嚼出来なかったのだろう。あるいは、怒るあまり相手の言い分を聞いていないのか。彼は両手を広げ、自分の周り全てを示しながら、狂ったように吠えていた。
「ここは!ペスト!遺伝子!研究センターなんだよ!!ここには、今魔界にある限りの、最高峰の魔導科学技術が結集されてる!オマエたちがいくら足掻こうと、決してここから出ることは出来ない!!オマエたちはもう、殺されるか、野垂れ死ぬしかないんだよ!!」
 確かに、彼の意見も尤もだ。この研究所は普通の場所ではない。大量の魔力を消費する強力な術式。大勢の研究員。中にはヴァレンタイン以上の強者もいるだろう。侵入者を即刻排除するための魔法だって配備されているかも知れない。たとえヴァレンタインを倒したとしても、安全な逃げ道を見つけないことには、自分たちの無事は確保されないのだ。
「……果たして、それはどうでしょうなぁ?」
 けれど、トワイライトは冷静だった。追い詰められた表情など、微塵も見せはしない。不敵な表情を浮かべたまま、泰然自若と立っている。
「いつまでも驕り昂ったままだと、今に足元を掬われますぞ……?」
「何だとッ!?」
 何故そんなことを言えるのか、ヴァレンタインには彼の自信の根源が、まるで分からなかった。挑発的な視線が、これ以上ないほど癪に触る。楯突くように、歯を剥き出して言い返した直後、突如として足元がぐらぐらっと強く揺れた。
「なっ、何だ!?」
 唐突な異常に、ヴァレンタインの脳内が警報を鳴らす。焦りのままに辺りを見渡すと、天井や壁が、振動によって少しずつ崩壊していく様子が視界に入った。
「うぉっ!?」
 バラバラと落ちてくる瓦礫に驚き、咄嗟に腕で顔を庇う。一体何が起きているのか、急なことで全く理解が追いつかなかった。トワイライトたちも同じく困惑しているところを見るに、彼らとて事態を把握しているわけではなさそうだ。彼らの仕業ではないと分かって、ヴァレンタインは一先ず安堵する。
「これは……!」
 トワイライトもまた、ヴァレンタインの反応を窺いながら、身を守れるよう姿勢を低めていた。だが彼とは違って、トワイライトにはこの現象の正体が、何となく推測出来ていた。
 先ほどまで、常に周囲を覆っていた、強力な魔力の気配。恐らくは結界などの警備システムだろうが、何重にも自分たちを取り囲み、閉じ込めていたはずのそれが、急激に力を落としている。まるで、何者かに術式ごと破壊されたように。
「わわわなななな何にににこれぇええ」
 何かに気が付いたらしいトワイライトの顔を、ボール・アイは見上げる。しかし粘体の彼は、床を伝う振動の影響を多分に受け、ブルブルとバイブレーションしていた。トワイライトは見かねて、彼を膝の上に抱え上げる。そして、口を開こうとした刹那。
『トワイライトさん!!』
 聞き覚えのある女性の声が響き渡った。ボール・アイがハッとして顔を上げる。
「カーリっ!」
『トワイライトさん、聞こえますか!?カーリです!!』
 ボール・アイの声に答えるように、彼女は自身の名を口にした。だがその声色は、まるで何かの機械を通したかのように割れ、いつもと少し違う音になっている。スピーカーでも使っているのだろうかと、ボール・アイは不思議そうに、キョロキョロと周囲を見渡した。
「あれだ」
 トワイライトが端的に言って、一方を指す。高い壁の上の方に、小さなスピーカーがちょこんとついていた。歯車やらパイプやら、謎の機械がひしめく中に、半ば埋もれかけながらも必死に自己主張している。
『トワイライトさん、聞いてください!!』
 瓦礫の落下音にかき消されないためか、彼女はかなり声を張っていた。口調も相当危機迫ったというか、切羽詰まった様子だ。カーリのこんな声音を、トワイライトは初めて耳にした気がした。
『もうすぐこの建物は倒壊します!!早くっ!早く逃げてください!!』
 しかしそれも一瞬にして、当然のことだと理解する。ボール・アイも驚いたらしく、声を失っていた。
『聞こえてますね!?いいですか!?逃げてください!!出口は』
 カーリだけが、一人で必死に訴えかけ続けている。だが、その声も唐突に途切れた。ブツンっと接続が切れるような異音がして、後はザーとかガーとか、ノイズのようなものしか流れてこなくなる。出口までの案内という重要情報は、結局分からず仕舞いだ。
「どっ、どうするのトワイライト!?僕たちこのままじゃ」
 すっかり狼狽しきったボール・アイが、慌てて詰問してきた。この大きくて頑丈そうな建物が倒壊するなんて信じられない、と言いたげだ。しかし、着実に壊れていく室内の様子を見れば、その言葉があながち嘘ではないどころか、近々起こる未来だということを、否が応でも理解してしまう。
 このまま留まっていたら、間違いなくただでは済まないだろう。瓦礫と、正体のよく分からない機械類に押し潰されて、生き埋めにされてしまうはずだ。一刻も早く脱出しなければと、ボール・アイはトワイライトの胸ぐらにしがみつくようにして迫った。
『ハロー、トワちゃん。聞いてる~?』
 しかし彼が全て言い切る前に、新たな人物の声が、乱入してきた。壁に埋め込まれた、一際大きなモニター。今までは真っ黒で、何も映していなかったそれに、いきなり男の顔が浮かび上がる。額に長い一本角を生やした彼は、にこにこと人の良さそうな笑顔を浮かべている。そしてその口調は、危機的な現状をコケにしているのかと疑いたくなるほど、呑気で他人事めいたものだった。
「シュハウゼンさん?」
 どうして彼がここにいるのか。その名前一語に込めた疑念は、決して相手に伝わることはない。
『ボクね、ちょっと大胆な手に出ることにしたから~。トワちゃん、いつものようによろしく!じゃっ!』
 彼は流れるような淀みない口調で一方的に告げた後、立てた指二本を振ってお茶目なウィンクを飛ばした。彼が何かキーを押すような動作をした後、映像は終わった。
「はははっ……」
 再び黒色に戻ったモニターを、トワイライトは呆然と眺めていた。自然と、乾いた笑いが漏れる。
 相変わらずの、横暴ぶりだ。あの頃から、一切何も変わっていない。言うだけ言って、後は周りの者に丸投げ。反論にも抗議にも、まるで耳を貸さない。
 懐かしさに、泣きたくなるくらいだ。
「流石は、シュハウゼンさんだ……甘い言葉、だな」
 悪魔らしいと言えば、確かにそうだろう。出世する人物というのも頷ける。しかしこれは、ただ自分の都合を好き勝手に押し付けているだけだ。巻き込まれる下の者の気持ちなど、微塵も考慮しちゃいない。だからこそ、インペラトルに相応しい性格だとも言えるのだが。
「一度はこちらの気持ちにもなってほしいね」
「倒壊する?ここが?まさか!!」
 本当に、昔から何も変わらないことだと、苦い思いを噛み締める。そんなトワイライトの言葉を遮るように、ヴァレンタインの動揺しきった叫びが飛び込んできた。
「あり得ない!ウチのコンピューターシステムが、破壊されるなんて!!」
 信じられない事態だと、彼は混乱した顔で、頭を抱えていた。
「どうやった!?一体、どうやったって言うんだ!!上辺だけを操作するならともかく、コアまでを完全に破壊するなんて、不可能だ!!ペスト様でも、アレを壊すのは難しいって言ったんだぞ!!?」
「案外力づくで壊したんじゃないですか?」
 その様は、まるで明日世界が滅ぶと告げられた時のような、悲愴感と絶望に満ちている。大袈裟過ぎる反応に、トワイライトが何気なくこぼしたその時だ。
「何だと?」
 目から鱗が剥がれた、とでも言いたげな顔のヴァレンタインと、目が合う。彼は愕然とした表情で、じっとトワイライトを見ていた。
「……私にも詳細は分かりかねますがね。あの方は、意外に脳筋なところがありますから。それもあり得ない話ではないかと」
 言葉もなく凝視されて、居心地の悪さを覚える。仕方なく補足したが、ヴァレンタインからの返事はなかった。
「あり得ない!!」
 直後、彼は感情を爆発させた。だが、次の瞬間には再び顔色を変えて、顎に手を当てて考え込んでいる。そして、また叫び出した。
「ァアアアアッ!!!」
 彼も気付いたのだ。彼らペスト遺伝子研究センターが誇る、最先端の魔道科学技術。それを司るコンピューターシステムは、非常に物理的ダメージに弱いということを。
「嘘だ!!俺様たちの叡智が……!ペスト様のお作りになった魔法が!!こんな簡単に壊れるなんて!!!」
 可能性は考えられた。だが、だからこそ、そこまで辿り着かれる前に確実に始末出来るよう、計算をし尽くして作り上げたシステムだったのだ。最も、主に努力したのは、施設長であるペストだが。
 その努力の結晶が、いとも簡単に破壊された。現実だとは分かっていても、心は中々受け入れられない。彼の口からは、空気をビリビリと震わすほどの雄叫びが迸り続けた。
「な、何なの……?うるさいよ」
 彼の奇行に耐えかねたのか、ボール・アイが耳を手で塞ぎながら、顔を顰める。あるのかは分からない鼓膜が破れそうだ。何事かと、筋違いな批判をトワイライトに目で送っている。
「ふっ……確かに、面白い皮肉だよね」
 しかし彼は、気分を害するどころか、むしろ状況を楽しむような笑顔を浮かべて、満足げに独り言ちていた。崩壊の一途を辿るばかりの周囲になど、まるで視界に入っていないかのような、沈着ぶりだ。
「いくら強力な術式を込めた、高性能の機械と言えど、物理的に破壊されたらお終い。ハイテク技術だからこそ、かえって前時代的なやり口に脆いとはね」
 薄くて軽くて、サクサク動く。便利な物ほど、衝撃に弱い。ありがちな話だ。しかし、頭脳明晰なエリートたちが、揃いも揃ってそのありがちな話を想定していなかったとは、もはや笑う以外に仕様のない話である。
「君は少し、胡座をかき過ぎたようだ。言ったでしょう。いつまでも驕っていては、足を救われる、と」
 トワイライトは微笑みながら、腕を組みヴァレンタインを見据える。
「どうします?大人しく投降するというのなら、捜査に協力したと見做し、特別の措置を講じますが……」
 ヴァレンタインは唇を引き結んだまま、俯いて、一言も発しない。彼の近くに、壁から外れたテレビが落ちてきた。床に落ちたテレビが、ガシャンと音を立てる。画面に無数のヒビが入り、砕け散った液晶が周囲に散乱した。頭上から降り注ぐ危険物を、しかし彼は全く意に介さない。無言を貫く彼を、ボール・アイは少々不審に思う。
 あのヴァレンタインが、ここまで馬鹿にされて、窮地に追いやられて。それでも何も言わないなんて、あり得ない。絶対にまだ何か、反撃の手段を考えているはずだと、経験と本能が直感していた。
「トワイライト」
「遅かれ早かれ、あなたは確実に逮捕される……さぁ、観念するなら今の内ですぞ?」
 ボール・アイは慌てて彼を制止しようとする。だが、わずかに遅かった。伸ばした触手が彼を捕まえるより一瞬早く、彼が踏み出した足が、一歩前の床を叩く。
 突然、ヴァレンタインが顔を上げた。バッと風を伴うほどの、もの凄い勢いで。
 それを不審に思う間もなく、トワイライトの足元で、バキリと破砕音が響く。四角い形の、床のタイル。トワイライトの足が置かれたちょうどその位置に、ギザギザとした鋭い歯のような亀裂が走った。それはまるで巨大な獣が、大口を開けて待ち構えているようだった。トワイライトはなす術なく、そこに吸い込まれてしまう。
「あっ!」
 焦燥と狼狽とが、ボール・アイの体を瞬足で駆け巡った。だが、どうすることも出来ない。顔を上げると、ヴァレンタインが口を綺麗な三日月形にして、せせら笑っているのが見えた。亀裂と同じ、ギザギザした歯を覗かせて、勝ち誇ったように笑っている。
 室内の設備全てを操ることが出来ると公言した彼。それはつまり、破壊することすらも含まれていたのだと、ボール・アイは今更ながら気が付く。そして、過去最高に、彼のことを憎らしく思った。だが、だからといって何も出来ることなどないわけで。
「トワイライト……っ!!」
 亀裂に近付き、落ちていったであろう彼の姿を、せめて確かめようとする。怒りに任せて、ヴァレンタインに襲い掛かろうかとも思った。だが、その時。
「……一つ、忠告しておきますが」
 ボール・アイの耳に、落ち着き払った冷静な声音が流れ込んできた。
「私の魔法は、見かけより複雑じゃないんだよ」
 深く暗く、ぽっかりと口を開けた穴から、トワイライトがゆっくりと這い上がってきた。しかし別に、彼は何かを足場にしているわけでも、掴まっているわけでもない。何も支えを使用することなく、独力で浮いていた。まるで彼お得意の、宙に浮いた剣のように。しかし今度は彼自身が、空中を浮遊していたのだ。
「え!?」
 ボール・アイは思わず、我が目を疑う。魔法という力が不思議なのは知ってはいたが、やはり実際に見てみると、驚きを隠しきれなくなってしまう。ヴァレンタインも、感情の抜け落ちた顔付きで、凍りついたように直立していた。
 彼らの疑問を察したのか、トワイライトはほくそ笑んだまま、自ら説明を始める。
「特別なことは何もしていない。むしろ、一つ一つは非常に単純な魔法だ。それらを組み合わせているから、小難しく見えるだけなんだよ。ほら、こんな風にね……」
 パッと彼が手を広げると、何もないところから突如、銀色の剣が現れた。だがそれはすぐに、ガランっと音を立てて床に転がる。トワイライトが指を鳴らすまで、それはごく普通に重力という、地球の決まりに従ったままだった。
「時空系最初歩の魔法。いわゆる、物体浮遊魔法テレキネシスだ。魔力消費が極端に少なく使いやすい上に、この魔法を拒絶する物体は非常に少ない……悪魔の肉体だって、この魔法にはほとんど抵抗出来ないのさ」
 戦いのために開発された魔法は、幾多もある。だが、それらには当然対策が講じられてきた。今や、アルコールやニコチンを無害化する魔法すら発達しているほどである。しかし、彼らは何故か、日常の中で広く使われる魔法に関しては、注意を払わなかった。彼らの盲点とも呼ぶべきそこに、若かりし頃のトワイライトは目をつけたのである。
 トンを超える重量すら動かし、数百メートル上空まで持ち上げることも出来る。一度術をかけられたら、何もかも術者の思い通りに操られる。それは、戦闘において、十分脅威となる魔法なのではないか。
 自分が浮けば、平面上だけでなく、空間を立体的に動き回れる。物体を浮遊させれば、遠隔攻撃で敵を無力化出来る。
「凄い!トワイライト、そんな魔法も使えたの……!?」
 分かりやすく瞳を輝かせたボール・アイが、興奮した様子で歓声を上げる。更なる強さを見せたトワイライトに、心底テンションが上がっているようだった。
「……クソがっ」
 ヴァレンタインは対照的に、不愉快そうに悪態をついている。彼はまるで、現実を受け止めきれずに、自棄を起こしているようだった。
「何も凄くないさ。無から空飛ぶ剣を生み出しているわけじゃないからね。そんなことが出来るのは、物語に登場する英雄だけだよ」
 本当はもっと単純な仕掛けのものを、大袈裟な演出で誇大させた。要はただそれだけのことだと、トワイライトはユーラモスな口調で仄めかす。
 ヴァレンタインの顔が、強烈な苛立ちに醜く歪んだ。
「許せねぇええ!!オマエみたいなクズ、必ずここでぶっ殺してやる!!」
「無駄だよ。君の魔法はもう通じない」
 放たれたコードによる一撃を、トワイライトは魔法で止める。物体浮遊魔法を解禁した今となっては、彼はほとんど無敵状態だ。あらゆる物理的な攻撃を途中で止める、あるいは支配権を奪い取って、反撃することも可能である。
「なん、だと……っ!?」
「これで私も、後には引けなくなってしまいました。マジックのトリックを知る相手を、みすみす放置しておくわけには参りませんからなぁ……」
 目を見開き、愕然とするヴァレンタインに、トワイライトは最後通牒の如く突きつけた。
 この魔法は確かに、最後にして最強の切り札であるが、裏を返せば弱点にもなる。敵に自身の強さを、これ以上ないほど正確に測られてしまうこととなるのだ。手札を全て把握され、対策を施した相手に、容易く勝利出来るはずがない。インペラトルならまだしも、トワイライト程度の中級悪魔なら尚更。努力なくしては生き残れないのも、当然だ。だからこそ彼は、情報を徹底的に秘匿し、敵を欺くことに注力してきたのである。
「ペスト遺伝子研究センター研究棟主任ヴァレンタイン殿。あなたを、モンスター保護法違反の疑いで、逮捕させていただきます……よろしいですね?」
「オマエたちこそ、覚悟しておくことだな!!俺様たちに牙を向いたこと、必ず後悔するぞ!!」
 確認をするように問えば、ヴァレンタインが苛立った様子で言い返してくる。醜く歪んだ表情で、ギリギリと歯軋りをする彼を、トワイライトはじっと見据えた。
「後悔……?させていただけるのなら、ぜひお願いしたいですなぁ」
 全てを知った相手だ。他に道はない。トワイライトの瞳に、容赦のない冷酷さが宿った。

  *  *  *

 狭い廊下を、数人の男女が駆けていく。先頭を走るレディが、金髪を振り乱して叫んだ。
「早く早く!」
「分かってるって、急かすな!」
 すぐに、エンヴィスのやや怒ったような声が返ってくる。猶予のない状況に、相当切羽詰まっているようだった。
 断続的に襲ってくる、強烈な揺れが、彼らの足を掬おうとする。床が撓んで見えるほどの強い勢いだ。天井や壁も悲鳴を上げ、ボロボロと破片をこぼしていた。歩くのもままならず、頭上から危険物が降ってくるかも知れない状況。誰もが焦り、一刻も早く安全な場所に逃げようと疾駆していた。
 とはいえ、流石にレディの速度についていける者もいないのだが。
「ハァ……ハァ、レディちゃん、足速いねー」
 あのシュハウゼンですら、息を切らせて脇腹を押さえている。彼の後ろを、若干遅れて走っていたカーリは、突如足を何かに引っ張られたような感覚がして、つんのめった。
「っ!!」
 大きく傾いた体を、立て直す力など彼女にはない。声を上げる間もなく、カーリは派手に転倒した。
「こっちだ!」
 その時、エンヴィスの大きな声が響く。彼が指差している先から、外の明るい光が漏れ注いでいた。出口を見つけたのだろう。早く逃げなければ。カーリは痛みを堪えながら、立ち上がろうとする。しかし、やはりまた足を引かれる感触がして、ふと動きを止めた。
 彼女の右足。爪先から細い帯のような形の影が、壁へと向かって伸びている。その先は、瓦礫によって出来た、濃い影と同化していて分からなかった。だが彼女の周囲には、そのような形の影を生み出せるような物など、一つも落ちていない。明らかに不自然だ。けれどカーリは直感した。この影は、何か別の物体から生み出されたものではない。自分から伸びたものなのだと。
 何故そう思ったかは分からない。しかしどういうわけか、その影の暗がりに、広がっている闇に、強く心惹かれている自分がいることは、確かだった。
「カーリちゃん」
 突然、シュハウゼンの腕が伸びてきて、カーリの両脇に手を差し込む。そのまま、猫でも抱え上げるみたいにして、強引に立たされた。
「あ……」
 プツンと、自分と何かを繋ぐ線が切れたような感じがして、カーリは声を発する。ぼぅっと立ち尽くす彼女の耳に、レディの高い声が飛び込んできた。
「カーリ急いでっ!」
「う、うんっ」
 促されるままに、小走りで彼女たちのもとへ向かう。今のは何だったのか、など、考える暇もなかった。
 エンヴィスが見つけた外への脱出口は、崩れた天井によってほとんど塞がれ、向こう側が見えなくなっていた。どうにか道を切り開こうと、エンヴィスとレディが二人がかりで取り組んでいる。積み上がる瓦礫を、杖を突き立てて梃子の要領でどかしたり、魔法で強化したパンチを食らわせたり。だが、中々に強固なそれは、二人の力だけでは破壊出来ない。
「どいて」
 いつの間にか追いついていたシュハウゼンが、腰を落とし正拳突きを放った。巌のような拳が、たった一撃で瓦礫の山を突き崩す。吹き飛んだ礫片が、ゴロゴロと弾みながら転がっていった。舞い上がる土埃を払いながら、まずエンヴィスが先に出た。周囲の安全を確認し、皆を呼ぶ。続いてレディが飛び出してくる。カーリもついて行こうと、わずかに残った瓦礫に足をかけた。
 そこで、一瞬だけ振り向く。何か、後ろ髪を引かれるような気がしたのだ。しかし後方を見遣った途端、シュハウゼンの訝しげな微笑みに見つかってしまう。カーリは慌てて、前に向き直り、そそくさと逃げるように脱出した。
 散乱した礫片に足を取られかけたものの、何とか上手く着地することに成功する。シュハウゼンがすぐに現れたので、今度も確認することには失敗した。
「わわっ!」
 だがそんなことも次の瞬間には忘れてしまう。一際強い揺れが、カーリたちを襲ったのだ。ぐらぐらと揺れる大地を、彼らは再び駆け出した。
 建物に沿って右側に走っていくと、やがて見たことのある場所に辿り着いた。来た時に通った、エントランスだ。その向こうには、広い駐車場も見える。あそこまで行けば、たとえ倒壊が起きたとしても、頭上からの落下物に怯えなくて済むだろう。
「立ち止まるな!急げ!!」
 エンヴィスに追い立てられるまま、ひたすら足を動かす。途中何度も転びそうになったが、その度にレディが支えてくれた。後ろから、建造物が崩れ去る音が振動となって響いてくる。それに押されるようにして、カーリたちは逃げ続けた。
 駐車場を通り抜け、正門から敷地外へと飛び出す。皆の無事を確認してから、エンヴィスはほっと一息ついた。
「はぁ……はぁ、何とか助かったな……」
 膝に手をついて肩を上下させながら、吐息混じりに独り言ちる。
「そ……う、ですね……っ」
 同じく息切れを起こしているカーリが、途切れ途切れの調子で応じた。よほど疲れているのか、長い髪が乱れていても、直そうとしない。
「シュハウゼンさん!」
「部長!!」
 彼らの息が整うより早く、どこからか大勢の悪魔たちが現れた。スーツを着込んだ彼らが、一斉にシュハウゼンを包囲し、詰め寄ってくる。
「一体何されていたんですか!!」
「何があったんです!?」
「お答えください!!」
「ちょ、ちょっと待ってよキミたち~……」
 態度からすぐに、シュハウゼンの部下たちだと分かった。彼らに次から次へと矢継ぎ早に問いかけられ、シュハウゼンはたじたじとしている。今までの泰然とした姿からは想像もつかない狼狽ぶりだ。尤も、彼らからしてみれば、こちらの方がいつものシュハウゼンらしい様子なのだが。
「……あの人……本当に何も言わなかったのか」
 ようやく落ち着いた様子のエンヴィスが、呆れ顔で溜め息を吐く。カーリもつられて、シュハウゼンの顔を見遣った。
 ハの字に下がった太い眉を見ていると、可哀想だという気持ちが湧いてこないこともない。しかしながら、彼の部下たちの気持ちを否定することも出来なかった。何の前触れもなく上司からの連絡が途絶えたら、誰だって憤り、恐れ、不安がることだろう。責められるのも、致し方のないことだと思えた。それに、カーリはまだ、庇うことの出来るほど彼との信頼関係を築いていない。
「ねぇ……でも、どうするの?まだトワさんも、ボール・アイもいないじゃんか」
 会話もなく佇んでいるだけの二人を訝しんだのか、レディがおもむろに尋ねかけてくる。彼女一人だけは、あれだけ走った後でも、汗一つかかず息も乱していなかった。
「分かってるって……そんなことは」
 元気いっぱいな彼女の体力を羨ましく、あるいは妬ましく思ったのか、エンヴィスは若干眉を寄せて、疎ましげな声を出す。
「ボール・アイ……」
 レディの言葉で状況を思い出したカーリは、憂いげな声音をこぼした。それまでは、自分が逃げ延びることばかり考えていたのに、いざ安全な場所に着くと今度は仲間のことが気にかかる。身勝手で都合のいい自分のことを、少し軽薄だとも感じた。
「助けに、行く?」
 レディは二人の顔色を窺うように、ゆっくりとした調子で問いかける。エンヴィスが、苦虫を噛み潰したような調子で唸った。
「そうしたいけどな……そうはいかないだろ」
 額の汗を拭いながら、振り返って後方を見つめる。今し方逃げてきたばかりの研究所は、崩れそうなほど、強く揺らいでいた。きっと内部は外見以上に、酷いことになっているだろう。もう一度戻れば、きっと瓦礫に押し潰され、または出口を塞がれて、二度と出ることは出来ないはずだ。
「でも」
 レディもそれは分かっているのだろう。けれど、だからと言って『ハイそうですか』と引き下がれる性格ではなかった。
「エンちゃんなら、出来るでしょ?」
「っ!」
 食い下がられて、しかも自分の名前を出されて、エンヴィスは瞠目する。カーリが慌てて、彼女の袖を引いた。
「レディちゃん。勝手なこと言わないの」
 カーリからしたら、今回の件は全部、自らの無責任に端を発していると言っても過言ではないのだ。既に十分過ぎるほど巻き込んでしまったとはいえ、これ以上彼らを、自分の都合に付き合わせたくなかった。また同じ失敗を、繰り返すわけにはいかない。自分の決定を、反故にする苦しみを味わいたくない。またレディにも、そんなことをしてほしくなかった。大切な友達が、自己嫌悪の苦痛を受ける姿など、見たくなくて当然だ。
「命がかかってることだよ。第三者である私たちが、決めていいことじゃない。お願いすることも」
 飛び込んでほしいなどと、間違っても頼んではならない。後悔するのは自分だから。カーリはその一心で、レディを制止する。だが彼女の言葉は、エンヴィスにとっては、心臓の一番中心にグサリと突き刺さるような一言だった。
 どんな結末を迎えようと、全て自分が決めたこと。自己責任だと訴えているように聞こえたのだ。
「エンヴィスさん……どうしますか?」
 そうとは知らず、カーリはエンヴィスの目を見上げる。トワイライトのいない今、彼女がリーダーとして仰ぐべきは、彼だと考えていた。彼が決めたことならば、大人しく言うことを聞こうと。このままトワイライトたちの生還を信じるにしても、何らかの策を講じるにしても、決めるのは彼なのだから、自分は黙って従おうと。
(これは……私が決めることじゃない。失敗も許されない)
 自分で決断しても、ろくなことにはならない。他の誰かが決めた方がいいのだと、彼女が考えるそれは、ただの責任転嫁だ。
「エンヴィスさん……!」
「エンちゃん!」
 もう一度彼の名を呼び、支持を求める。レディは訳も分かっていなかったが、とりあえず同調した。
「ぐ……っ」
 エンヴィスは答えに窮して、歯噛みする。彼女たち二人の目、特にレディの目が、彼にトワイライトたちの救出を求めているように見えたのだ。だが、無論それには危険が伴う。軽率に請け負うことの出来るものではない。断るべき願いだとも分かっていた。
 しかし、彼女たちにとってあの二人は、大切な仲間。エンヴィスにとっても同じだ。そんな彼らを見捨てるような決定をしたら、彼女たちは酷く悲しむことだろう。あるいは、エンヴィスを憎むかも知れない。否、後者はどうでもいいとしても、エンヴィスは彼女たちを蔑ろにしたくはなかった。本音を言えば、自分も彼らを助けたかった。
 心の中で、もう一人の己が囁く。
 行くべきだと。
 ここで自分が覚悟を決めて、行動しさえすれば。
 彼女たちは少なくとも、不安からは解放される。希望を持った状態で、待つことが出来る。
 エンヴィスが、頑張りさえすれば。
 そう。ただそれだけの話だ。
「……分かった。俺が行く」
 迸りそうな、種々の感情を飲み込んで、エンヴィスは苦悩に満ちた決断を下す。重苦しい声を聞くなり、カーリは目を見開いて、驚いた。
「え!?そんな……っ、無茶ですよ!」
「そーだよエンちゃん!」
 内心では救いを求めていたくせに、いざ貧乏くじを買って出る者が現れると、慌てふためく彼女たち。誰か一人に押し付けたいわけじゃないと、自分を庇い、責任から逃れるのに必死だ。少なくともエンヴィスにはそう見えた。
「ふぅー……っ」
 だがそれは、偏見というものだろう。
 苛立ちから生じかけた捻くれた見方を、深い息で全て吐き出す。そして、あくまで平静を装った表情で、なるべく自然に顔を上げた。
「大丈夫だ。サクッと行ってサッと助け出してくるよ。お前たちはここに残れ」
「でも!」
 出来るだけ平然とした調子で、わざと明るい声で宣言する。反論される前に牽制すると、カーリが噛み付いてきた。しかし最後まで言わせず、エンヴィスは続ける。
「俺一人で十分だ。もし何かあったら、レディを頼むぞ、カーリ」
「そんな……!」
「だったら!だったら、アタシも連れてってよエンちゃん!」
 呆然とするカーリを押しのけて、今度はレディが頼み込んでくる。
「アタシなら役に立てるって!」
 自分の胸に手を当てて、自信たっぷりに名乗り出る彼女。まるで縋り付いてくるような目を、エンヴィスは冷たく拒絶した。
「ダメだ。お前は……カーリを守れ」
 しばし考えた後、レディの納得しそうな命令を考えて告げる。案の定、彼女はハッとしたように息を飲んで、口をつぐんだ。
 沈黙した二人に背を向けて、エンヴィスは先刻出てきたばかりの方角を見遣った。きっと研究所の中は、一層混沌として危険な状態になっているだろうということが、ここからでも察せられた。
 だが、トワイライトとボール・アイを見捨てていい理由にはならない。彼らのため、そして何より彼女たちのため、エンヴィスは決意を固める。
(俺ならやれる。俺が……やるしかないんだ)
 彼の発想は、立派だがしかし危ういことこの上ない、それ。自分が犠牲になりさえすればいいという、危うい精神そのものだ。
「無駄だよ、エンヴィスちゃん」
 突如背後から、シュハウゼンの声がかかる。エンヴィスは驚いて、勢いよく振り返った。
「シュハウゼンさん……」
「キミ一人の手に負えるものじゃない……止めておいたら?」
 名前を呼ぶと、シュハウゼンはいかにも思慮に長けた人物らしい、優しく親しげな笑顔で肩を竦めた。しかしその言葉は、侮辱とも取れるもの。
「じゃあ、どうしろと言うんです!?」
 今のエンヴィスの、追い詰められた神経にとっては、十分な刺激物だった。
「トワイライトさんたちを、見捨てろと仰るんですか!?ボール・アイは、あなた方刑事部にとって、重要な証拠でもあるんでしょう!?」
 感情を露わにして、二人を失うわけにはいかないのだと、必死に訴えかける。だがシュハウゼンは、淡々とした調子で、さも当然のように答えた。
「そうだよ」
「っ!」
 その肯定が、どちらを指しているのか分からなくて、エンヴィスは言葉に詰まる。もしかするとこの男は、自分が想像しているよりも冷徹で、無慈悲な悪魔なのかと、臆しかけた。
「全く、トワちゃんもいい部下を持ったね……まぁまだ、発展途上みたいだケド」
 シュハウゼンは彼のことなど気にかけず、一人満足げに頷いている。どこか面白がるようなその口調は、トワイライトのことを揶揄っているようにも聞こえた。
「でもさぁ、キミもトワちゃんの部下なら、もう少し上司を信じなよ」
 かと思えば、エンヴィスに向き直り、真っ直ぐ彼の目を見つめてくる。高い位置から覗き込まれて、エンヴィスは答えに窮した。彼の緑の瞳には、心の奥底で抱えている葛藤や悩み事も全て、看破する力があるような気がしたのだ。あるいは、彼のその、有無を言わせぬ気迫のせいかも知れないが。
 困惑と、かすかな恐怖心を覚えるエンヴィスの目を、シュハウゼンはじっと観察していた。そしてフッと口角を持ち上げ、唐突に視線を逸らす。
「ま、トワちゃんなら大丈夫だよ。何たってこのボクの、元右腕だからね~」
 打って変わってふざけた声色で嘯く彼を、エンヴィスは訝しげに見つめていた。可笑しそうに肩を揺らす姿からは、先ほど感じた圧力のようなものは見て取れない。嘘か幻かと思うような、見事な変貌ぶりだった。コロコロと表情や気配を転じさせるシュハウゼンは、まるでカメレオンのようだ。

  *  *  *

「うわっ!?」
 床に大きな亀裂が走って、ボール・アイは慌てた。急いで近くの壁に触手を貼り付け、落下を阻止する。しかし、それは所詮一時凌ぎに過ぎない。
 トワイライトのおかげで、少しずつ勝ちに近付いている自分たちだが、状況はさほど改善してもいないようだった。むしろ、悪化の一途を辿っているとも言える。ヴァレンタインが無闇に魔法を放ち暴れるせいで、壊れかけのこの部屋が、更に破壊されつつあるためだ。今ぶら下がっているこの壁とて、いつまで保つかは分からない。
「トワイライトっ!早く!!」
 このままでは生き埋めになってしまう。急いで逃げなくてはと、焦燥に任せて声を張りあげるボール・アイの頭上に、ザラザラとネジやらナットやら、謎の部品が天井からこぼれ落ちてきた。それらに当たらないように、必死に顔を庇いながら、叫ぶ。瓦礫の雨の向こうから、トワイライトが片手を上げて、何か言う声が聞こえてきた。しかし騒音にかき消されてしまって、内容は不明瞭だ。
「おい、離せっ!苦しいんだよクソっ!!離せったら!!」
 ボール・アイには見えていなかったが、彼の前にはヴァレンタインがいた。色とりどりのカラフルなコードに全身をぐるぐる巻きに縛られて、拘束されている。体が宙に浮いているために、抵抗することも出来ない。ギチギチと音が鳴るほどきつく巻かれたコードは、少し身動ぎするだけで締まり、彼の肉体を痛め付けた。
「オマエ……覚えとけよ!!絶対に許さないからなっ!!」
 彼を苦しめているのは、痛みだけではない。かつての得物を奪われ、敵にいいようにされているという、事実だ。自分の自由に動かせたはずのコードや機械は、もうヴァレンタインの意思には応えてくれない。どうやら、術式が書き換えられてしまったようなのだ。トワイライトが彼の術式に干渉し、物体浮遊の魔法を差し込んだ。それによって、魔法の操作権を簒奪した。つまりヴァレンタインにはもう、何もすることが出来ないのである。形勢逆転をされた怒りと屈辱が、彼の腸を煮えくり返らせていた。
「許さなくて結構ですよ。私は全く、構いやしません」
 悔しそうに吠えるヴァレンタインに向かって、トワイライトはどこかおどけたような、けれども冷徹な声を浴びせかける。宙に浮いた彼の体が、音もなく彼のそばまで近付いてきた。
「くそ……っ!!」
 赤い瞳を恥辱に歪ませ、歯噛みするヴァレンタインを冷たく見下ろす。ほとんど真上から覗き込まれて、ヴァレンタインは苛立った。
「ハッ!!俺様を侮辱したら、あの方がどう思うか、分からないぞっ!!」
 所詮は負け惜しみだ。トワイライトもあまり興味はないようで、それでも腹の立つことに、聞くだけは聞こうと考えているらしかった。黙ってただ首を傾げ、ヴァレンタインに続きを促してくる。
「オマエらなんかに、ペスト様は捕まえられない!!ペスト様は、恐ろしく強いんだ!!オマエたちなんか、簡単にブッ殺せるんだぞ!?」
 ヴァレンタインは逡巡したが、結局全て言ってしまうことにした。彼は本当に信じていたし、トワイライトのことを怯えさせることが出来るのではないかと、期待してもいたから。
「随分、慕っているんだねぇ……」
 トワイライトは静かに耳を傾けながら、冷めた口調で相槌を打つ。当然だと、ヴァレンタインが深く諾った。
「当たり前だ!!だってあのお方が、俺様たちを作ったんだからなぁ!!」
「!!」
 その単語を耳にした途端、トワイライトの動きが止まる。顎に手を当て、思考の海に沈んだ。
(作った……!?)
 彼の頭の中には、ヴァレンタインが先ほど放った言葉が、繰り返し反響し続けている。
 もしも。
 もしも彼の言葉が、言葉通りの意味で真実であるならば。それは恐るべき結論を導き出すことになる。
 ヴァレンタインはどう見ても、悪魔だ。それも戦いぶりを見る限りでは、そこそこの魔力量を有した、悪魔。間違いなく中級以上だろう。
 だが、その彼が、ペストという悪魔に”作られた”存在であるとすれば。彼は、人造悪魔(ディアボクルス)、人工的に作られた悪魔ということになる。キメラ同様、否それ以上に、伝説的な存在だ。当然、現代の悪魔たちの魔導技術では、絶対に実現し得ない。
 しかしペストは、それが可能だというのか。人造悪魔を作り出すことが出来、キメラの研究も、秘密裏かつ大々的に行うことの出来る、悪魔?
 認めるべきだとは分かっている。あり得ないことを排除していって、最後に残った可能性が、いつも必ず真実を指すのだ。たとえ、どれほど衝撃的なそれだったとしても、受け入れる他に方法はない。
 しかして、もしもこれが全部事実なのだとしたら。明らかになる現実は、とんでもないものとなる。つまり自分たちは、予想よりも遥かずっと深い、暗い暗い闇の沼へと首を突っ込んでしまったことになるのだ。襲いくる巨大な奔流から、逃げ出す術はない。打ち勝つことも、抗うことも到底不可能だ。残された道はただ一つ、諦めて、飲み込まれること。この深い闇の底へ、落ちていくしかない。自ら進んで。
「ヒャハハハッ!もう遅いんだよ!何もかもがもう!な!!」
「黙れ」
 ヴァレンタインの哄笑が、ガンガンと頭を揺らす。まるで、脳内で鐘が鳴っているみたいだ。突きつけられた現状を受け止めきれなくて、トワイライトはいつになく冷酷な対応をしてしまった。感情など何もかも打ち消した口調で、ぴしゃりと言いつける。しまったと思ったが、ヴァレンタインは聞いてもいなかった。
「オマエは、ペスト様の創造物たる俺様を痛め付けた!そんな奴を、ペスト様が許すわけ」
 ペラペラと喋り続けていた彼の、流れるような演説がいきなり止まる。
 直後、トワイライトの体が、ガクッと安定をなくした。魔法を解除されたのだ。
 これでは、重力に逆らっていられない。トワイライトはすぐさま、数メートル下の床にどっと落ちた。
「ぐっ!!」
「トワイライト!!」
 即座に、ボール・アイが心配して飛んでくる。しかしトワイライトに、彼のことを案じている余裕はなかった。痛みと衝撃に耐えながら、必死に事態を把握しようと頭を働かせる。
「く……っ」
 やっとの思いで顔を上げ、周囲を見渡すと、目を疑うような衝撃的な光景が飛び込んできた。
「喋り過ぎだ」
 白く長いマントを纏い、フードですっぽりと顔を覆った悪魔。声の高さからかろうじて男と分かるが、それ以外はまるで分からない謎の悪魔が、空中の何もない空間に佇み、ヴァレンタインの背後にぴったり寄り添うようにして浮いている。その手に握られた剣が、ヴァレンタインの胸を、深々と貫いていた。グレーのスーツに包まれた胸部から、細く鋭いレイピアのような刃が、棘のように飛び出している。鈍く輝くその表面は、赤い血で濡れていた。
「ぐふ……っ!?がはっ!!」
 むせ返ったヴァレンタインの口から、大量の鮮血がこぼれる。残酷な光景を目の当たりにして、ボール・アイはびくりと体を震わせた。
「ボール・アイくん……落ち着け……」
 また暴走されたら敵わないと、トワイライトは手を伸ばし、彼を宥める。体に触れられたことで、トワイライトの存在を思い出し、ボール・アイは安心感を得る。それと同時に、ざわざわと揺らいでいた精神が鎮静していく感覚もした。
「うが……っ、ペスト様、何を……!?」
 ヴァレンタインは状況をまるで理解出来ていないようで、困惑の表情を浮かべながら首だけで後ろを振り向いている。彼の言葉を聞いて、トワイライトは確信した。やはりあのペストマスクの男が、ペストだ。この研究所の所長にして、キメラ創造など違法行為の首謀者である悪魔。
「一体何度言わせる気だ……お前は少々、頭の働きが悪くて困る」
 ペストは彼の質問に答える気など、さらさらないらしい。冷淡な口調で吐き捨てると、あっさりと彼の体から剣を引き抜いた。同時に、彼の体を拘束していたケーブルコードも、するりと解けて散らばる。どうやらあの男は、トワイライトの魔法を、完全に掌握しているようだ。
「ぐはっ!!」
 傷口を塞ぐ物体がなくなったことで、ヴァレンタインが更なる苦痛に悶える。だがペストは顔色一つ変えずに、彼の背を足蹴にして、床に落とした。邪魔な荷物をどかす時とまるで違わない、無感情で冷酷な動作だ。彼のことなど、命だとも思っていないのだろうか。そのままヴァレンタインは、無数のケーブルコードが積み重なった上に、どさりと落下する。自分の血で塗れた赤い背中は、もはやピクリとも動かなかった。
「全く……使えない人形だ」
 ペストはそれを見て、呆れた様子で呻いている。剣に付着した血液を、マントの端で煩わしそうに拭った。
「あ……あなたは……!」
 トワイライトは彼に話しかけようとして、しかし言い淀む。今この状況に対して何を言うべきか、流石の彼でも即座に答えが出せなかった。
 それに、そろそろ本当に、体力の限界だ。ペストによって、魔法を全て強制的に解除された彼は、襲いくる痛みから逃れられなくなってしまっていた。痛み止めの術式が破壊され、アドレナリンを増加させることが出来なくなったおかげで、身体中が軋み、思い通りに動かせなくなっている。
 だが、だからといって、この怪しい男に対して警戒しないわけにはいかない。トワイライトは、何とか体勢を整えようともがいていた。
「トワイライトと言ったか。先の勝負、中々見事であった」
 敵視されていることが明白なのに、ペストは全く動揺した様子を見せない。むしろ、一層淡々とした調子で、声をかけてきた。その声音は、厳かで、明らかに一般市民とは違うものだ。タキトゥスとも似ていて、しかし決定的に異なっている。前者がいかにも権力者然とした声音なら、この男の声は君主としての気迫と自負とを持っているようだった。
「お前の活躍に免じて、命だけは取らないでやろう。しかし今度会ったら……その時は、分かるな?」
「私を……殺す、ということ……ですか」
 トワイライトの苦しげな声が、曖昧な言い回しを剥ぎ取り、隠された本音を露わにしても、彼は冷静さを保ったままだ。
「我々の世界は、一般庶民の知るそれとは違う」
 重々しい調子で、言い聞かせるように語りかけてくる。声が流れるのに合わせて、ペストマスクのくちばし部分がひょこひょこと動いていた。何だかパペットのようだ。コミカルな動作だが、威圧感のせいで口を挟めない。
「法則も、規範も、何もかもが本質的に異なるのだ。お互い、自らの領分を弁えた行動を取るのが、適切であろう」
 一見的を射ていないように聞こえるが、しかしそれは紛れもなく、警告だった。脅迫と言い換えてもいい。先のトワイライトの言葉を否定しなかったことからも、彼の真の意図がどこにあるのかは明白だった。これ以上この件について調べるな、自分たちに近付くな、と。もしもう一歩でも深入りしようものなら、即座に命を奪う、と。そう言うことだ。
 表向きは分別を持てと諭しながら、その実は恐ろしい声音で脅しつけている。
「我らはそうやって繁栄を築いた。決められた掟に逆らわず、強者は弱者を護り導く……そうやってこの世界を、ひいてはこの星そのものを、上手く回してきたのだ」
 ペストは自らの論を補強するように、どこか遠くを見ながら続ける。時折、自分自身の意見に納得して、深く首を振っていた。
「仰っている意味が……分かりません」
「それでいい。知ってはならぬ、知らぬ方が良い真実とて在ることを、お前は知っていると思うが?」
 トワイライトが発した困惑を、ペストは肯定する。もうここまで聞けば、狙いは明らかだった。
 彼が求めているのは、無知だ。自らの君主を疑わず、何も考えずに、ただ導かれるままに歩む、全盲の羊。彼は君主たる立場として、民に羊であることを要求しているのだった。
「私には、全容を知る権限がないと……?」
 問いかけの裏には、同意をしろという無言の圧力が感じられた。もちろんトワイライトが、そんな命令を承服するはずがない。反発心をかすかに発露させる言葉の中に、”権限”という語を入れたのは、軍政部門にいた頃の記憶が蘇ったからだ。階級に応じて、アクセス可能な機密情報の範囲が事細かに決められている、あの特殊な世界のことを。
「左様。お前のような聡明な悪魔の命は、この世界にとって重要なのだ。散らすにはまだ惜しい。くれぐれも、余計なことをせぬよう、留意することだな」
 ペストはこくりと頷く。内容の重さと釣り合っていない、平坦な声色だった。
「だが勘違いするなよ。いくら価値があるといえど、代替の効かぬものは何一つとてない。所詮は、歯車だ。私も、お前も……この世界を存続させる、道具にしか過ぎぬのだよ」
 かと思えば、唐突に冷たい声で言いつける。お前などその気になればいつでも殺せると、言外に告げているのだろう。難しい話には入っていけなかったボール・アイだが、これくらいは分かった。それと同時に、不安にも思う。ヴァレンタインをあっさり退け、トワイライトをも圧倒する強大な敵。そんな人物に命を狙われて、自分たちは耐えられるのだろうか。
「物言うスライムよ」
「!」
 憂いていたところをいきなり呼びつけられて、ボール・アイは背筋を震わせた。ぴしりと姿勢を正してペストを見遣る。彼はちょうど、剣を鞘のようなものに戻しているところだった。手元に意識を集中させたまま、ペストは茫漠とした声を出す。
「特別にお前のことも、見逃してやる。お前に関する全ての記録を、私のデータの中から消しておこう。お前は二度と、追手に怯えることなく、安眠出来る。良いな?」
「あ……ありがとう……ございます」
 適当な言い方だったが、その中身は到底聞き捨てならないものだった。ボール・アイは目を見開き、すぐに冷静さを取り戻すと、軽く頭を下げる。本当はもっと飛び上がって喜びたかったが、謎の相手への緊張が衝動を妨げていた。
「いい……んですか?そんなことをして……」
「ふん。どの道、この施設にもはや収容能力はない。ここで使われていた悪魔も魔物も、全て解放されることだろう」
 トワイライトが確かめるような、試すような声音で問う。ペストは幾分か憮然とした調子で、鼻を鳴らした。
「手痛い損害だが、致し方ないことだ。今からでは、隠蔽をしようにも猶予がないしな」
 不服そうに呟いて、ぐるりと辺りを見回す仕草をする。彼のすぐ近くを、天井や壁からこぼれ落ちた、大きめの瓦礫が掠めていった。絶え間なく鳴り響く落下と崩壊の音が、限界を訴えている。屋根が崩壊するのも、時間の問題だと思われた。
「では、そろそろ行くとしよう。私まで巻き込まれるわけにはいかないのでな」
 マントの裾をふわっと翻しながら、ペストは中空から下降する。うつ伏せで倒れたままのヴァレンタインに近付くと、彼の体をいとも容易く担ぎ上げた。そのまま立ち去ろうとする彼を、トワイライトは呼び止める。
「彼は……っ、彼はあなたに作られたと……」
 掠れた声を、どうにか絞り出す。ヴァレンタインが先ほど言っていた、『自分はペストに作られた』という言葉。それが真実なのかどうか、どうしても確認したかったのだ。
 もしそうであるならば。恐々とするトワイライトの心情に、ペストは全く気が付いていないらしかった。
「コレか?コレはただの操り人形パペットだ。生き血を持つだけの。我が意志に応え、生物らしく振る舞っているだけの、無機物よ。少し……躾は甘かったようだがな。後でしっかり、再教育せねば」
 何でもないことのように語られる内容を、トワイライトはぐるぐると考える。
 彼と対峙していた時のヴァレンタインは、まさに悪魔そのもの。自らの頭で考え、行動し、話していた。誰かの手によって操作されていたなんて、全く理解出来ない。しかし、反論する手段も他の可能性もない以上、今は何も言えなかった。ペストの言葉が本当のことなのか、判断するための知識すら持ち合わせていないのだ。
 材料がなければ喋れない。仕方なく沈黙するトワイライトに、ペストは見切りをつけたようだった。
「話は終いか?ならば、また何かの機会に見えることを……いや、そんなことが起こらないよう、願っているよ」
 皮肉めいた物言いを弄びながら、再び背を向ける。そして、壁際に近付くと、鞘に収まった剣を持ち上げて、壁を二回ノックした。すると、今まで何もなかったはずの壁に、アーチ状の黒い線がゆっくりと浮き上がってくる。扉だ、と二人は直感した。ペストが指で印を切ると、アーチの真ん中に縦線が生じる。そこを基準にして、左右の壁が横にスライドした。奥に見えるのは、闇だ。道や部屋などではない。塗り潰したような漆黒の闇が、ポッカリと口を開けていた。
「待ってください!……ぐっ」
「トワイライトっ!」
 行かせてはならない。トワイライトの胸に、何故か使命感じみた決意が渦巻く。だが追いかけようにも、体が痛くて動けなかった。眉をきつく寄せ、苦しそうに呻くトワイライトを、ボール・アイが慌てて支える。
 突然、ペストが振り返った。
「……せいぜい、与えられた流れに抗わぬことだ……」
 首だけをこちらに向けて告げられた言葉は、随分と思わせぶりだ。どういう意味なのか問いただす間もなく、彼はスタスタと歩き出していた。奥行きを感じさせない闇が、彼の姿を飲み込み、完全に見えなくしてしまう。壁がスライドして元に戻り、現れていた黒い線も、ゆっくりと薄れていく。やがて、それは完全に消滅してしまった。
「くっ……!」
 重要な情報を握っていた人物を取り逃してしまった。忸怩たる思いが迫り上がってきて、トワイライトは歯噛みする。しかし、いつまでも過ぎたことに拘泥してはいられなかった。
「トワイライト!どうするの!?」
 ボール・アイが飛び付いてくる。急かされるまでもなく、トワイライトも分かっていた。ここにいては、いずれ瓦礫に押し潰されて死ぬだけだ。どこか逃げ道を探さなくては。
 思案する彼のすぐ隣に、大きなモニターが落ちてきた。
「うわっ!?ねぇ、もう時間がないよ!!」
 ボーr・アイが焦った様子で飛び退き、またしがみついてくる。しかし彼の言葉に、トワイライトは応えることが出来なかった。
「すまない……ボール・アイくん」
「え……?」
 低い声で、静かに謝罪する。ボール・アイは何を言われているか分からないようで、呆気に取られた顔をしていた。
「君だけでも逃げるんだ。私は……もう、動けそうにない」
「な、何言ってるのトワイライト!?キミのこと、置いてけって言うの!?」
 溜めた息を大きく吐き出しながら、静かに告げると、ボール・アイは途端に感情的になって、反発してきた。
「そうだ。君は小さい。瓦礫と瓦礫の隙間を通り抜けて、外に出られるはずだ。かつて、そうしたようにね」
「嫌だ!!そんなこと、出来るわけないじゃないか!僕はもう二度と、仲間を見捨てたくないんだ!後悔したくないんだよ!!」
 食い気味に、トワイライトの言葉を拒絶する彼。まるで相手を非難するかのような口ぶりだった。そのあまりに壮絶な拒否反応に、トワイライトは思わず気圧されてしまう。
「し、しかし……」
「誰が何て言ったって、僕はここから動かない!トワイライトと一緒じゃなきゃ、カーリのところにだって帰れないよ!」
 どもりながら食い下がろうとするものの、やはりキッパリと拒絶されてしまう。それだけでなく、丸い体を少し潰した、でんと居座る仕草まで見せられてしまった。頬の辺りが膨らんでいて、まるで拗ねているかのようだ。
「ボール・アイくん」
「あーあー!聞ーこーえーなーいーっ!!」
 トワイライトの声を、触手で耳を塞ぎ遮断する姿は、まさに癇癪を起こしている最中の子供といった様子。トワイライトは思わず、緊迫した状況も忘れて苦笑してしまった。
「分かった。分かったよ……なら、手を貸してくれたまえ」
 先ほどよりかはいくらか優しさを取り戻した声音。ボール・アイはピクッと体を震わせる。今の彼の言葉なら、聞き入れてもいいかと思ったのだ。
「どーぞ?触手でいいなら」
「ハハッ、もちろんだ」
 まだ少しだけ警戒を示しながら、一応は従っておく。冗談めかして触手を差し出すと、今度は彼は声を上げて笑っていた。ボール・アイは得意げになって、胸を逸らす。
 そんな彼らを包み込むように、頭上に大きな影が生じた。剥がれた天井の一部が、二人のめがけて落下してきたのだ。風を切って降ってきたそれは、瞬く間に床に激突し、轟音を響かせる。舞い上がった砂埃と共に、発生した振動が、部屋の隅々まで伝播していった。

  *  *  *

「あぁっ!屋根が……!」
 研究所の屋根部分が、メキメキと音を立てて陥没する様を見て、カーリは思わず悲鳴じみた声を上げる。
 辺りは最早、瓦礫の山と化していた。
 かつては美術館のようで美しいと思った、立方体を組み合わせた形のお洒落で幾何学的な外観。それが今や、跡形もなく崩れ落ち無惨な姿を晒している。敷地内には無数の山が出来、地面にも大量のコンクリートブロックやら折れた鉄筋やらが散乱していた。
「トワイライトさん……!ボール・アイ……!」
 未だ安否確認の出来ていない彼らのことを、カーリは案じる。彼らは、無事だろうか。逃げ出せているだろうか。まさかこれに、巻き込まれてはいないだろうか。
「これは……酷いなぁ」
 目の上に手で庇を作って、辺りを眺めながらシュハウゼンも呻いた。幸い、近隣の住宅街への被害はさほどないようだが、これは後処理にかなりの金が飛んでいくことだろうと分かる。そして、上層部から相当問い詰められるだろうことも。
「トワさんたち……どこだろ」
 レディがキョロキョロと、忙しなく周りを見回していた。腕を組んでいるエンヴィスが、非常に悩ましげな表情で唸る。その時だった。
 ガラガラっと、どこかで何かが崩れるような音が響く。かすかだったが、はっきりと届いた。見ると、一際大きな瓦礫の山が、半壊している。
「トワイライトさんっ!!」
「行くぞ!」
 反射的に、カーリは彼の名を口走った。エンヴィスが端的に号令をかけて、駆け出す。彼女たちもすぐに跡を追った。
「トワイライトさん……っ、トワイライトさん!!」
 混濁した意識の中で、誰かが自分を呼んでいる。果たして、誰だろう。エンヴィスか、カーリか、レディか。ボール・アイかも知れない。
「う……っ、ゲホッ、ゲホ!」
 そんなことを考えていたら、咳が出た。全身が、酷い倦怠感と鈍痛に苛まれている。ゆっくりと意識が覚醒してきて、彼は寝ぼけ眼を瞬いた。伸ばした腕が、硬い何かに当たり、それを突き崩す。ガラガラガラッと、耳障りな音が響いた。
「トワイライトさん!!」
 どこからか、エンヴィスの声が聞こえてきた。重たい物をずらすような摩擦音がした直後、眩い陽光が頭上から降ってくる。
「トワイライトさん、ご無事ですかっ!?」
「トワイライトさんっ!!」
「トワさんっ!!」
 若干息を切らしたエンヴィスと、カーリとレディとが顔を覗かせた。彼らによってすぐに、トワイライトたちの周囲を固める瓦礫がどかされていく。
 だがこの瓦礫とて、決して適当に積み上げたわけではない。これは、苦肉の策で作った、即席のシェルターなのだ。案外上手く機能したようだと、トワイライトはほくそ笑む。物体浮遊魔法で、比較的頑丈そうな瓦礫を浮かべ、四方を囲っただけだが、身を守るには十分だった。尤も、ボール・アイの助けなくしては、それすらもままならなかったことだろう。彼がトワイライトを包み込み守ってくれたおかげで、振動や衝撃にも耐えられたのだ。
「トワイライト、大丈夫?」
 腕の中で抱えていたボール・アイが、心配そうな目をして覗き込んできた。彼がその問いを発した瞬間、頭上を塞いでいた最も大きな瓦礫も取り除かれ、二人は外に出ることが出来た。
「ボール・アイ!」
「カーリっ!!」
 歓喜するカーリの声と、彼女に会えて嬉しがるボール・アイの声が、ほぼ同時に響いた。トワイライトの腕から飛び出してきた彼を、カーリはキャッチして抱き締める。
「良かった、無事だったんだね!」
「カーリもだよ!!」
 再会を喜び合う彼らを傍目に見ながら、トワイライトも頬を緩める。だがレディは、彼の様子を見るなり、眉を顰めて、ぎょっと引き気味の表情を浮かべた。
「うぇ……っ!トワさん、何それ生きてる?血まみれなんだけど」
「だ、大丈夫なんですか!?」
 怯えたような彼女の横で、エンヴィスも目を見開いている。
 二人の反応も無理はなかった。今のトワイライトの姿は、到底直視に耐えない様相を呈していたからだ。先日天使と戦った際より、酷いだろう。打撲に、擦過傷に、切創。全身無事なところなどないといった感じである。おまけに額の傷口は中々塞がらず、かなりの量の血が流れ出していた。
「あぁ……っ、何とかね」
 何とか返事をしてみたはいいものの、声に覇気がないことは自分でも自覚している。急に、肺に何か鋭いものが刺さるような痛みが走った。
「ゴホッ、ゴホ……っ」
 胸を押さえて、酷く咳き込んでしまう。口元から流れた血が、ボタボタと顎から滴り落ちたが、拭っている余裕もなかった。視界がぐるぐると、渦を巻くように回り出し、全身の血液がサッと下に落ちていくような感覚がする。脱力するままに、ガクリと頭を落とす彼を、エンヴィスが慌てて支えた。
「早く救護班呼べ!」
「は、はいっ」
 忙しなく会話する彼らの声が、ぐわんぐわんと響く。
 今回も、助かった。
 自分と彼らが無事でいられたことを確かめた途端、強い安堵が押し寄せて、意識をさらっていってしまう。張り詰めていた緊張の糸が切れ、段々と思考が汚泥に引きずり込まれていく。喪神する寸前、何かを思い出したような気がしたが、忘れてしまった。
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