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合成スライムは自由の夢を見るか? 〜中編〜

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「う……ッ」
 瞼を突き刺す眼光に、カーリは呻きを上げて目を覚ました。
 いつの間に意識を失っていたのだろう。ぼんやりと回らない頭で考える。
 確か、トワイライトやボール・アイたちと一緒に、ロビーにいたはずだ。それなのに突然、強烈な光が飛び込んできた。咄嗟に目を閉じたら、意識が途切れて、今こんなことになっている。
「起きたか。ST46501」
 ふと、頭上から誰かの声が降ってきた。低く、ハキハキとした喋り方は、まるで軍人のようで、友達のスワンを思い出す。だが、肝心の声音は彼女のそれとはどこか違う気がした。
「うぅ……ん」
 ゆっくりと、重い頭を起こす。負荷のかかった首がズキリと痛んだ。
「こっちを見ろ」
「っ!」
 顎を掴まれ、強制的に目を合わせられる。パチパチと瞬きをすると、ぼやけていた視界が徐々にクリアになってきた。
 目の前に、見知らぬ女性の顔がある。ぱっちりとした、濃いピンク色の瞳と視線がぶつかった。長い赤髪を高い位置で結び、前髪はピンで留めている。迷彩柄のシャツの上に白衣を合わせ、手には黒色のバインダーを持っていた。
「え……えと……?」
 彼女は誰なのか。
 ここはどこなのか。
 何が起こったのか。
 カーリは何も分からずに、困惑した。
「混乱が見られるな。落ち着け、ST46501」
 女性はカーリの様子を淡々と観察しながら、冷たく話しかける。その声も視線も、まるで感情の感じられない、無機質なものだった。
「あ……」
 カーリは何だか怖くなって、逃げようとする。座っていた椅子から立ち上がろうとして、だが、出来ないことに気が付いた。
「え!?」
 体を揺らすと、がちゃんと金属室な音が鳴る。力を入れているのに、尻が座面から離れない。腕が痛い。
 肘掛けについたベルトが彼女の腕を固定し、両足も椅子の脚についた拘束具によって、戒められていたのだった。
「何これっ!?ど、どういうこと!?」
 あまりに衝撃的な事態に、脳が麻痺をする。反射的に逃れようと身を捩るが、当然その程度の抵抗で拘束が解けるわけがなかった。いくら暴れても、ただ手や足が痛くなるだけだ。
「暴れるな。ST46501」
 女性の声も、耳に入らない。手首や足首が、段々と赤みを帯びて痛くなってくるのも構わず、カーリは力み続けた。ガタガタと揺れても椅子が倒れないのは、床に固定されているからなのだろう。
「ST46501。それ以上抵抗すると、鎮静剤を打つ。ST46501。聞いているのか?」
 カーリは何も聞いていない。身体中に力を入れ過ぎて、汗が滲んできた。それでも、彼女は諦めようとしない。
「ST46501。話を聞け」
 バチンッ!と頬に強い痛みが走った。
 叩かれた。
 驚きのあまり、カーリは思わず身を硬直させる。
 打たれた頬が、ジンジンと熱くなってきた。それと同時に、自分のことに集中していた意識が、徐々に周りを捉え始める。
「ST46501。私の声が聞こえるな?」
 高圧的な、女性の言葉にコクコクと首を振った。すると彼女は、嘲笑的な笑みを浮かべ、カーリを見下ろした。
「それでいい。貴様のような弱者は、そうやって大人しくしているのが一番だ。扱いやすいことこの上ない。助かるよ」
「あ、あなたは誰……なんですか?」
 カーリは必死に痛みを堪え、出来るだけ冷静さを保てるよう努力しながら、女性に問いかける。敬語を使うべきか迷って、やはり使うことに決めた。この場では彼女が、絶対的優位の立場にあるのだ。囚われの身のカーリが、横柄な態度を取って余計な刺激を与えることは得策ではないだろう。
「私はスカーレット。この施設の補助研究員だ」
 意外なことに、女性はすんなり自分の名前と身分とを明かしてくれた。尤も、それが嘘ではないかは分からないが。
「研究員……?じゃあ、あなたもキメラの創造に関わっていたの?」
 彼女もボール・アイを苦しめた悪魔たちの一人なのかと、カーリは警戒しながら尋ねる。しかし、スカーレットは首を横に振って答えた。
「さぁな。私はただの補助研究員だ。権限がない情報には触れられない。他の部署が何をしているかなぞ、どうでもいいことだしな」
 そう言って肩を竦める仕草からは、まるで好奇心や関心といった感情を感じられない。彼女は本当に、自分の領分以外、興味を持っていないようだった。
「あの……じゃあ、ここはどこですか?」
 これ以上の情報を引き出すことは難しいだろう。カーリは潔く思考を切り替えると、別の質問を投げかける。今度は彼女の琴線に触れたらしい。スカーレットは、いささか顔を輝かせて語った。
「ここは私の研究室だ。私はここで、日々実験と研究に明け暮れている」
 胸を張り、心底誇りかな口調で、高らかに宣言する彼女。カーリは告げられた言葉を呆然と繰り返した。
「実験……」
「そうだ。私の専門は、悪魔生態学でな。悪魔の生態に関する、あらゆる情報を集積、分析している。ちなみにだが、今は痛みに対する耐久レベルというものを調査しているぞ」
 カーリの呟きに鷹揚に頷いた彼女は、つらつらと言葉を続けていく。だがその話が、何やら不穏な方向へと流れ始めたことは分かった。
「しかし、これが中々厄介なものでな。何しろ、痛みだけを与えるというのは非常に難しい。出血や臓器不全を起こされたら、正確なデータが取れなくなってしまうからな。難儀なものだ」
「ま、待ってください。それって……!」
「だが、これもまた研究の醍醐味。挑戦と失敗を繰り返した果てに、輝かしい成功が待っていると信じて、毎日努力しているよ……」
 カーリが途中で口を挟んでも、彼女は聞いてすらいない。自分で自分の語りに酔ったかのように、尤もらしく首を振りながら、喋っている。彼女の言いたいことを何となく察して、カーリは顔面を蒼白にさせた。
「貴様には、私の研究の糧となってもらうつもりだ。ST46501」
 スカーレットが、きりりとした顔つきでカーリを見据えてくる。その瞳は、悪魔をまるで悪魔と思っていないもの。尊重すべき個人ではなく、ただの玩具のようにしか、見ていないようだった。
「ひっ……!」
「私の仮説が正しいことを、証明してみせてくれ。ST46501」
 あまりにも無機質で、無情で、冷酷な目。カーリは恐怖して、喉の奥から引き攣った声を漏らす。もっと声を大にして、悲鳴を上げたい。叫び出したい。それなのに、彼女の体は石になったように固まって、思うように動くことが出来なかった。
「……お、お願いっ、ここから解放して、ください……お願いしますっ!」
 それでも何とか、無理矢理声を絞り出して、彼女に向かって頭を下げる。胴体に、拘束ベルトが巻き付いて息苦しい。しかし、必死に体を折り曲げて、懇願した。
「それは聞けない頼みだ。ST46501。貴様は、私の実験台だ。ST46501。勝手に逃げることは許さない」
「どうして……っ、どうしてそんな酷いことをするのっ?」
 スカーレットはにべもない調子で、彼女の願いを却下する。カーリはつい感情的に、非難の言葉を浴びせかけていた。
「あなたたちに、感情はないのっ?だからボール・アイのこともっ」
「どうでもいい。私にとってお前は、ST46501。ただの実験動物だ」
「私はそんな変な名前じゃないっ!カーリ!!カーリって名前があるの!」
 話を遮られた憤りから、道具として使われる恐怖や屈辱から、声を荒げて反発する。ST何とかなどと、無機質な記号で生物を呼ぶ彼女のことが、全く理解出来なかった。したいとも思えなかった。他人のことを、実験動物として扱う彼らなど。
「お願いですから、ここから出してください!」
「許可しないと言っている。もう一度ぶたれたいか?」
「……っ」
 ごちゃごちゃと騒ぎ立てる彼女を、煩わしいと思ったのか、スカーレットは更に容赦のない声音で、きっぱりと言い切った。それと同時に片手を振り上げれば、カーリは息を飲んで唇を噛み締める。即座に口を閉ざした彼女を、スカーレットは再び嘲笑った。
「やはり、痛みというものは重要だ。最も簡単に、相手を従順にさせることが出来る。他人をコントロールする上では、必要不可欠な要素だな」
 カーリはその言葉に、言い返すことが出来ない。事実、怖いと思ってしまっていることは反論のしようがないのだ。平手打ちなら耐えられても、次は他の手段で痛め付けられるかも知れない。そう考えると、体が竦んで何も出来なかった。
「さぁ、実験を始めよう。まずは平易なものからいくぞ。これだ」
 カーリが沈黙している間に、スカーレットは勝手に話を進めていく。そばにあった銀色のワゴンに手を伸ばしたかと思うと、上に乗っていた何かを摘み取った。
 メスだ。
 外科医が使うような、小さくて細身のそれ。非常に鋭利と言われる刃が、蛍光灯の光を受けてキラリと光った。
「誰しもが皆、表の顔と裏の顔を持っているという……貴様のその、小綺麗な面の皮を剥がしたら、どんな本性が露わになるんだろうな……くくくくっ」
「い、嫌だ……っ!嫌っ、嫌……っ!!」
 スカーレットが、凶悪な笑みを浮かべながら近付いてくる。拘束された左腕めがけて、刃物を振り下ろさんとしている。カーリは戦慄し、掠れた声で悶えた。
 けれど、どうしようもない。身体を椅子に縛り付けられている以上、逃げ場などなかった。
(誰かっ、誰か助けて……っ!)
 咄嗟に目を瞑り、懸命に助けを祈る。だが、きっと誰も来ないだろうとも思っていた。そんな漫画のような展開、あるはずがない。あるとしても自分には、訪れないのだろうと。
 辛い過去の経験で歪められた心は、そう簡単には回復しない。カーリは諦めに満ちた顔色で、全てを受け入れる覚悟を固めた。
 突如、ズドン!と何かが爆発したような衝撃が起こった。伝わってきた強い振動が、カーリの尾骶骨を震わせる。同時に、大きな物体が窓ガラスを突き破って、こちらに飛び込んできた。それはカーリのすぐそばに勢いよく落下すると、爆発のエネルギーを殺しきれずに、数メートル床を滑った。
「ぅぐっ……ゴホッ!ゴホッ」
 黒煙を纏いながら、息を詰まらせ咳き込む男。流れ込んでくる煤けた空気に顔を顰めながら、カーリは男の顔を確かめる。そして思わず、声を裏返らせた。
「え、エンヴィスさん!?」
「あ゛ぁ~……いてててて」
 頓狂な叫び声に答えるようにして、エンヴィスが低く呻きながら体を起こす。彼は全身煤に塗れ、煙に咳き込んでいたけれど、命に別状があるようには見えなかった。
 一体何があったのだろうと、カーリは狼狽しながらも考える。
 そういえば、この部屋には窓が一つだけあったことを思い出した。カーテンのようなものがかけられていて、中は見えなかったが、その向こうにエンヴィスがいたとしたら。彼は助けに来てくれたのか。カーリが窮地に立たされていると知って。
「エンヴィスさん、どうして……」
 だが、その予想を確かめようとして、気が付いた。立ち上がりかけた彼の背後に、パイプ椅子を振り上げた、スカーレットがいることに。
「エンヴィスさん後ろっ!!」
「うぁあ!!」
 カーリの叫び声をかき消すように、スカーレットが咆哮する。彼女によって思い切り振り下ろされたパイプ椅子を、エンヴィスは素早く振り返って受け止めた。
「っぐ……邪魔を、すんな!!」
 掴んだパイプ椅子の座面に蹴りを入れ、スカーレットごと押しやる。反撃されるとは思っていなかったのか、彼女は呆気なく撥ね飛ばされ、後方の壁にぶつかった。
「カーリ、無事だな?待ってろ、今外してやる」
 エンヴィスはそれを見届けることなく、再びカーリに向き直る。片膝をついて、彼女を束縛する拘束具を解こうと試みた。しかし、手や足を固定する枷を一つずつ、外している時間はない。エンヴィスはさっとスマートフォンを取り出すと、何かのアプリを起動させた。カメラをカーリの座る椅子に向け、パシャリと写真を撮影する。次の瞬間、カシャンと音がして、カーリの体は自由になった。
「えっ!?何これ……凄い!」
「いいから逃げるぞ!」
 タップ一つで解放された驚きと嬉しさに、カーリは歓声を上げる。エンヴィスは彼女を助け起こし、出口へと導いた。
「うぅ……」
 未だ爆煙の立ち込める室内では、スカーレットが苦しそうな声を上げて壁にもたれかかっている。頭でも打ったのか、意識が混濁しているようだ。逃げるなら、今しかない。
 部屋の隅にあったドアを、エンヴィスが蹴り開ける。カーリは彼に追い立てられるまま、研究室を後にした。
 どこまでも長く続く廊下を、幾度も曲がりながら駆けていく。必要最低限しか付けられていない照明が、ところどころ暗い影を生み出していた。
「え、エンヴィスさん!私たち、どこに向かってるんですか!?」
「俺にも分かんねぇよ!全く、何でいつもいつもこんな目に遭うんだ!?」
「私にだって分かんないですよ!!」
 カーリは息を弾ませながら、エンヴィスに問いかける。だが彼もまた、現状を把握しきれていないようだった。走りながら憤慨を露わにしている彼に、カーリは叫び返す。
「……っ!」
 突然、足元にパシュッと何かが飛んできた。かすかな硝煙をたなびかせるそれは、間違いない、銃弾だ。咄嗟に、彼女は慄いて足を止めてしまう。保たれていた推進力が、わずかに途切れた。そしてその一瞬が、彼女のバランスを決定的に突き崩すこととなる。
「カーリっ!!」
 エンヴィスが手を伸ばすも間に合わない。カーリの体は引き寄せられるようにして、強く床に叩き付けられた。
「いった……!」
 全身を酷く打ち付け、苦痛に呻く。服越しでも膝を擦り剥いてしまったのか、ズキズキと沁みてくるような痛みが走った。
「ハァ、ハァ……っ」
 しかし、エンヴィスの足を引っ張るわけにはいかない。カーリは何とか立ち上がろうと、急いで上体を起こそうとした。早くしなければと、足に力を込めた時だ。
「逃がさないぞ……ST46501」 
「!」
 暗がりから、スカーレットの声が響いてくる。
 追いつかれた。
 カーリの顔色がさっと青褪める。エンヴィスが素早く、彼女を守るように立ちはだかった。
「お前、しつっこいんだよ!」
 彼が叫ぶと同時に、指先から放たれた炎が廊下の先に着弾する。爆音が轟き、火の粉が辺りに飛び散った。これで、スカーレットも当分は足止めを食うだろう。
「悪い。立てるか」
「はい……っ!」
 エンヴィスはすぐさまカーリの方を振り向くと、彼女に手を差し伸べ、再び走り出そうとした。
「逃がすかっ!」
「ぐっ!」
 だが、燃え盛る炎の向こう側から、またもやスカーレットが追い縋ってくる。右肩に弾を受けて、エンヴィスは苦悶の声を漏らした。
「ST46501は私の獲物だ!」
「がぁあ!!」
 もう一発、今度は脇腹に攻撃を受けて、エンヴィスは悶絶する。実弾ではないのか、体に当たっても血が流れることはない。だが代わりに、電流を流されたような衝撃と、痛みとが全身を突き抜けた。肉体が、麻痺をしたように硬直し、身動きが取れなくなる。耐え難い苦痛が精神を苛んで、エンヴィスは堪らず顔を顰めた。
「エンヴィスさんっ!!」
 カーリが慌てて駆け寄ろうとしても、彼に手で制されてしまう。
 よく見ると、エンヴィスの体からは、ピシピシとスパークが飛び散っていた。
(感電……してる!?)
 カーリは直感した。
 不用意に触ったら、自分もきっと動けなくなってしまうだろう。彼女はどうすることも出来ずに、その場に立ち尽くした。
「くそ、が……っ!イッ……ッテェエなァア!!」
 エンヴィスは、苦痛に顔を顰めながら、怒鳴り声を迸らせる。両腕に力を入れて、体を蝕む麻痺を、無理矢理引き千切るようにして打ち消した。彼ならば、この程度の魔法など、抵抗して出来ないことはないのだ。
「はぁ……はぁ……はぁ」
「ほう、耐えたか。貴様は痛みに慣れているようだな」
 炎が収まったところで、奥からスカーレットが現れた。赤い髪を揺らす彼女の手には、黒光りするショットガンが握られている。大きな銃口が真っ直ぐに、息を荒げるエンヴィスめがけて突きつけられた。
「だが、次はないぞ」
「チッ……くそっ」
 熟練の暗殺者の如き鋭い目で睨まれて、エンヴィスは小さく悪態をついた。
(戦うしかないか……だが、あまりにも不利だな……)
 辺りを見渡し、渋面を浮かべる。
 この狭い場所で戦うのは、正直、気分が乗らない。
 炎とは、酸素を消費して燃焼を起こすもの。酸素が十分にない場所では、当然炎は上手く燃えない。それは、魔法という神秘の力を利用して生まれた炎であっても、同じことだ。リソースの少ない状況では、炎はより貪欲になり、いつも以上に激しく暴れ出す。その勢いは凄まじく、優れた術者であっても、時にはその暴走をコントロールしきれず、倒れることがあるほどだ。
 かといって炎の勢いを抑えれば、このスカーレットという悪魔には勝てないだろう。彼女は決して油断出来ぬ相手だと、エンヴィスの勘が言っていた。けれども、この細くて天井の低い廊下で戦うのは、炎属性使いにとって最高に厄介なわけで。
 普段は誇り高く思う魔法でも、こういう時だけは不便で仕方がない。
(せめて、カーリだけでもどこかに逃がせればな……)
 実力を発揮出来ない場で、自身のみならず彼女まで守り切るというのは、流石に不安だ。
 どうするかと、チクチクとした焦燥に背筋を刺激されながら、思案を巡らせる。途方に暮れて視線を彷徨わせた時だ。左手の壁に、細長い羽根板の並んだ、大きな換気口らしきものが取り付けられていることに目が向いた。長方形のそれは、ちょうど悪魔一人が腕を広げたくらいのサイズをしている。小柄な人物なら、体を丸めればすっぽり入れるだろう。あれを使えば、あるいは、可能かも知れない。
「さぁ、もう逃げるのは止めろ。ST46501。実験を再開するぞ」
 エンヴィスの脳裏に一筋の閃きが走る。だが、それと同時に、スカーレットの冷徹な声が響いた。
「っ……」
 強引に連れて行かれそうになって、カーリはビクリと身を震わせる。もう、なす術はなかった。諦めて降伏をするしかないと、一瞬思いかけた時だ。
(逃げちゃ駄目。私が……戦わなきゃ!)
 視界に入るオレンジの角を見て、そう思い直す。
 逃げてはいけない。カーリが今背を向けたら、一体誰が、エンヴィスを助けるというのだろう。
(私なんかが、おこがましいって分かってる……でも、私以外、誰がいるっていうの!)
 何が出来るかは分からない。何の役にも立たないかも知れない。カーリでは、まるで歯が立たないだろう。けれども。
 ここで抗わなければ、エンヴィスを見捨てたことになる。大切な誰かを犠牲にして自分は生き延びるなんて、カーリはそんな自分でいたくなかった。何か彼に対して出来ることがあるというのなら、自らの命を差し出すぐらい、構わない。むしろ、大事な相手のためになるのなら、喜ぶべきことだ。他の誰でもない自分のために、カーリは、戦おうと決めた。
 気付かれないように、ぐっと拳を握り締める。
(逃げちゃ駄目……私は、変わりたいんだ!)
「そこの貴様。今すぐ実験の妨害を止め、この場を立ち去るというのなら、特別に見逃してやってもいいんだぞ?」
 人知れず覚悟を決めるカーリを他所に、スカーレットは、今度はエンヴィスに呼びかける。腕を組み、上体を反らした、あくまでも自分が優位者だと言わんばかりの体勢で。
 カーリは途端に不安になり、エンヴィスを見つめた。カーリが彼を助けると決めていても、彼の方から見捨てられるかも知れない。そう思うと、怖かった。
「はっ……お前こそ、今すぐ泣いて詫びを入れるんだったら、許してやってもいいぜ?」
 だがエンヴィスは、カーリの危惧していた言葉など一つも口にしなかった。むしろ、挑発的に、嘲笑の声を投げかける。
「だが、カーリこいつに手を出すっていうんなら、俺は絶対にお前を許さねぇ。覚悟……出来てんだろうな?」
 すっと立ち上がった彼は、スカーレットを睨み付け、不敵な表情で言い放った。どこまでも自分を守ろうとしてくれる彼に、カーリは思わず胸を打たれ、涙を滲ませる。
「はぁ……貴様、いつまで邪魔をするつもりだ?」
 スカーレットが呆れた様子で、エンヴィスのことを睥睨した。ぎちりと音を立てて、彼女の手が銃のグリップ部分を強く握り締める。エンヴィスも対抗するように、拳を構えて臨戦体勢を取った。
「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」
「……分かった。ならば力ずくで排除するまでだ!!」
 銃口がこちらを捉えると即座に、トリガーが躊躇なく引かれる。
「”烈火引幕ポム・グレネイド”」
 それとほぼ同じタイミングで、エンヴィスも魔法を放った。掌からこぼれ落ちた柘榴のような炎が、床に落下し激しく燃え上がる。熱が銃弾を阻止し、黒煙がもうもうと辺りに立ち込めて、視界を奪った。
「ごほ、ごほ……っ」
 やや息苦しさを感じて、カーリは軽く咳き込む。エンヴィスは眉を寄せ、魔法での酸素の補填にも限界があることを悔やんでいた。やはり、あの名案を実行するしかないだろう。
「カーリ、悪ぃな」
「えっ?エンヴィスさ、んっ!?」
 前触れもなく告げられた謝罪を、カーリが聞き返そうとした時だ。体がひょいと浮き上がり、足が床を離れる。驚きに包まれている内に、何か金属が擦れるような音が響き、どこか狭い場所へ押し込められた。尻の下に伝わる、つるつるとした、冷たい金属の感触。それは平らではなかった。かなりの急勾配。まるで滑り台のようだ。
「へっ?」
 自然とカーリの足は、重力に従って下へ引っ張られていく。慌てて手を伸ばしたが、掴まれるところなどどこにもなかった。焦りを強める間にも、彼女の体はずるずると滑っていく。
「きゃっ、ぁああー……っ!!」
 とうとう彼女は、どこまでも続く暗い闇の中へと、落ちていってしまった。断末魔の如き長い悲鳴が、徐々に先細り余韻を響かせる。
「カーリ!?」
 これは流石に、エンヴィスも想定していなかった。
「貴様、私の実験動物だぞ!!」
 何が起きたのかと、振り返って様子を確認しようとする。だがそれより早く。
 分厚く垂れ込める煙のカーテンの向こうから、白衣の女が飛び出してくる。カーリを失った憤りをぶつけるようにして、彼女はショットガンをバットのように振りかぶり、突進してきた。スカーレットから一瞬意識を逸らしていたエンヴィスには、咄嗟に回避する余裕などない。
「がは……っ!!」
 遠心力の乗った重い一撃を叩き込まれ、思わず息を詰まらせる。片膝をついて蹲る彼の腹に、スカーレットは容赦なくショットガンを押し当てた。即座に放たれた、電撃を纏った銃弾が、至近距離から彼の肉体に命中する。
「ぐぁああっ!!」
 強烈な電流に全身を貫かれ、エンヴィスは堪らず苦悶の声を上げた。筋肉が弛緩するままに、壁に背をつけ崩れ落ちる彼を、スカーレットはせせら笑う。
「私の魔導弾の味はどうだ?」
「ハァ……ハァ……ハッ、シビれるよ……だが……俺を黙らせるには、刺激が足りないね」
 エンヴィスは、息を切らしながらも決して怯まなかった。あからさまな挑発に、スカーレットの柳眉がピクリとひくつく。
「そうか。ではもう少し痛めつけてやろう」
 しかし表向きは平静を装いながら、彼女はおもむろにブーツを履いた足を上げた。
「うっ!」
「お前ならまだ耐えられるだろう?ST46502」
「ぐっ……うぅ!」
 左肩を踏み付けられ、躪られて、エンヴィスはその度に苦痛に満ちた呻き声を発する。スカーレットはそれを、まるで美しい管弦楽でも聞くかのように、目を細めて楽しんでいた。
「しかし属性系魔法など大したこともないな。周りに左右されてばかりで、まるで実力を発揮出来ていないじゃないか。無力なものだ」
「てめぇ……っ!」
 恍惚とした感情を露わに、声高く嘲笑する。思い切り罵倒されて、エンヴィスのこめかみに血管が浮き出た。
「何だ、図星か?無様な男だ」
「……チッ」
「これだから思考の短絡的な悪魔は困る。努力を怠ったのは己の責任なのに、それを棚に上げて秀才(わたし)を妬む……貴様ら愚物のすることなど、痛くも痒くもないわ!」
 苦々しげに舌打ちをする男を、スカーレットは更に揶揄い煽っていく。彼女の脳裏には、かつて彼女を馬鹿にし、迫害した同僚たちの、憎たらしい笑顔が張り付いていた。
「はっ、言い訳も思いつかないのか?この能なしめ」
 鼻で笑われても、エンヴィスは答えることなく、顔を伏せて沈黙している。その様子はまるで勝機を失って茫然自失としているかのようで、スカーレットの内側を充足感が満たした。
「……おい、何とか言ったらどうだ?」
 エンヴィスは何も言わない。表情の見えない男を疑わしく思って、スカーレットはしつこく問いかけた。
「貴様、聞いているのか?」
 エンヴィスは俯いたまま動かない。いよいよ、無視をされている心持ちがしてきた。
「答えろッ!!!」
 大声でエンヴィスを怒鳴り付け、銃を突き付ける。再び足を振り上げて、彼の体に苛立ちをぶつけた。
「……くくくッ」
 彼を踏みつけた足の裏に、奇妙な振動が伝わってくる。何事かと訝しむスカーレットの耳に、堪えきれない笑い声のようなものが飛び込んできた。
「ふふ……っ、ははははは!アッハッハッハ!!」
 初めは小さかったそれは、すぐに大きくなって、辺り一帯に響き渡る。この狭い廊下の、隅々まで届いたのではないかと思えるほどだ。
「貴様……!」
 今までの彼とはあまりに違った態度。並々ならぬ気迫を感じるその姿に、スカーレットは思わず数歩後退る。
「ははははっ……あぁ~……いやぁ、笑った笑った!こんなに爆笑したのは、久しぶりだよ。やっぱいいなぁ~、一人は気楽で」
 ゆっくりと、間を持たせるような動き方で、彼が立ち上がった。その目元や口元には、未だ残る哄笑の残滓が張り付き、小さな皺を刻んでいる。だが眼鏡の奥の瞳だけは、鋭く獰猛な、獣のような気迫を放っていた。
「これで誰のことも気にせずに、存分に暴れられる……お前、よくもやってくれたな」
 ギロリと睨みつけられて、スカーレットの頬を冷や汗が伝った。ありきたりな台詞であるにも関わらず、本能的な恐怖を抱いてしまうのは何故だろう。
「けど、思い出すのに結構時間かかっちまったな……あんまり使わなさ過ぎるのも、問題ってことか」
 怖気付く彼女に構わず、エンヴィスは一方的に話し続ける。スカーレットは訳も分からずに、彼を詰問した。
「な、何の話だッ!」
 彼は、魔法も十分に使うことが出来ず、追い詰められていたはずだ。それなのにどうして、短時間でここまでの豹変を見せたのか。スカーレットには全く分からない。分からないということが、恐れを生み出し、彼女の言葉尻を震わせた。
「アンタをぶちのめすって話してんだよ」
 だが、エンヴィスはそんな彼女の不安を更に煽るように、ドスの効いた低い声を響かせる。
「あんっだけバンバン撃たれた後だからなぁ。今の俺は最高に不機嫌なんだ。ちょっと痺れる程度じゃ済まないかも知れないけど、付き合ってもらうぜ?……実験にな」
 皮肉げな薄ら笑いを浮かべたまま、片手で何かを弄ぶような仕草をする彼。
「貴様何を……ッ!?うっ!!」
 スカーレットが尋ねようとした直後だった。突如バチッ!という音が鳴り、全身に雷に打たれたような衝撃が走る。
「が……っ!」
 筋肉が硬直し、発生した痙攣によって、彼女は吹き飛ばされた。壁に激突し、その後床に崩れ落ちる。尻餅をついた彼女の視界には、バチバチとしたスパークを放つエンヴィスの姿が映り込んだ。
「な、何故……っ!?」
「何故、って?」
 愕然と目を見開きながら、彼女は呟く。驚きと、恐慌とが彼女の内側を満たしていた。
 スカーレットの言葉を、エンヴィスは肩を揺らして嘲笑う。
「そうやってすぐ他人に聞いちまっていいのか?アンタ研究者なんだろ?ちったぁ自分の頭で考えてみろよ」
「貴様っ、この私を馬鹿にする気か!!」
「馬鹿になんかしてないよ。バカだって言ってるだけ~」
 いきり立つ彼女に、しかしエンヴィスは取り合わない。片手の指をひらひらとさせながら、ふざけた調子で揶揄する。スカーレットの中で、何かがぶちりと切れる感覚がした。
「この……っ!」
 憤りのままに、拳を振り上げていた。落とした銃がガランと耳障りな音を立てる。だが、それすらも今のスカーレットには、囁き程度にしか聞こえない。握り締めた拳を、エンヴィスの顔面めがけて勢いよく叩きつけようとした。
 だが、パシッと音を立てて、それは受け止められる。
「あのなぁ……何で俺がお前の下手~な口上に、わざわざ耳を傾けてやったと思ってる?そんなことにも、気が付かなかったのか?」
 スカーレットの攻撃を片手で防いだ彼は、呆れたような口調で問いかけてきた。
「炎に欠点があるのなら、それを他の魔法で補うのは普通のことだろ?俺たち属性系使いが、一つの属性しか使えないなんて、誰が決めた。あ?それこそ、研究者にはご法度の、”先入観”ってやつじゃないのか?」
「な……ッ!」
 彼の言葉に、自らが抱いていた思いがガラガラと突き崩されていく。スカーレットは絶句し、その場に立ち尽くした。
 属性系魔法とは、この地球を構成する七つの属性を支配し、操作する魔法。大抵の悪魔は、選択した一つの属性に特化して、研鑽を積んでいく。しかしもちろん、中には例外もいるのだ。尤も、割合としては全体の一割にも満たない程度だが。エンヴィスのように、複数の属性を操れる者は、そうはいない。スカーレットの驚きも、自然なことだった。
「なのにお前は勘違いして、勝手に俺を追い詰めたと思い込んで調子に乗った……ま、こっちも好都合だったから、合わせてやったけどな。三文芝居だったが、中々のモンだったろ?」
 だからエンヴィスは、それを利用することにした。あえて嘘の情報を信じ込ませ、そして生まれた隙を突いたのだ。隠し持っていた雷属性という手札で。
 とはいえ、秘匿していたのは別に、欺瞞のためというわけではない。あくまで彼の専門は炎属性魔法だ。雷属性は、その弱点を補うために、少しだけ使う程度のものに過ぎない。けれどもこういう時には、かなり有効な反撃の秘策となるのだった。
 実際スカーレットは、それまでの自信を打ち砕かれ、消沈した様子を見せていた。絶対に勝てると思っていた相手から、予想外の一撃をもらった時。誰だってショックを受けるものだろう。
「く……ッ、貴様ぁああ!!」
 スカーレットの脳内に、かつての嫌な記憶がフラッシュバックする。
 拒否感を抱くままに、彼女は床に落ちた銃を拾い上げ、衝動的に引き金を引いていた。重たい反動が腕に伝わって、銃口から弾が発射される。単発用の、スラッグ弾と呼ばれる銃弾。電撃の魔法が付与されたそれを、エンヴィスは平然と防いだ。
 彼が指を鳴らすと共に、小さな雷のような電流が辺りを駆け抜け、弾丸を弾き飛ばす。発射の勢いと与えられた魔法とを相殺され、力を失った弾頭が、カラカラと床に散乱した。
「そんな玩具、もう効かねぇよ」
「うるさいぃっ!黙れぇええ!!」
 面倒臭そうな表情、頭の悪い相手を見下すような瞳に、スカーレットの心がざわつく。今までずっと、憎悪してきた。その目を向ける悪魔を、一人たりとも許したことはなかった。ずっと、戦ってきたのだ。子供の頃より、ずっと。
「貴様ごときに、この私が、負けてたまるかぁああ!!」
 こんな男に、今まで築き上げてきた全てを奪われるわけにはいかない。幼少期の暗い時代になど、絶対に戻りたくはない。
「私は、こんなところで終わる女ではないっ!かつて私を見下し、嘲った者どもを糧として、更なる成功を手にするのだ!!高みへ、上り詰めるのだ!!貴様なんぞに、邪魔されてなるものかぁあああ!!!」
 もう二度と、あんな思いはしたくない。侮辱と、嘲笑に塗れた目を向けられるのは。
 スカーレットはその一心で、ショットガンを乱射する。何度も何度も引き金を引く度に、放たれる銃弾が、エンヴィスの周りに飛び散った。けたたましい銃声が、廊下を塞ぐ。それに負けないほどの、スカーレットの大声が、辺りに反響していた。
「ハァッ!ハァッ!ハァ……っ!」
 だが、銃弾とて無限に存在するわけではない。このショットガンには、内部で弾丸を自動生成する技術など組み込まれていないのだ。つまりは、リロードをしない限り、いつか限界が訪れるということ。けれど、スカーレットは認めようとせずに、引き金を無意味に引き続ける。カチカチッという音だけが断続し、やがて彼女はガックリと膝をついた。
「本当に……何にも分かってねぇんだな、アンタ」
 万策尽きたとばかりに絶望する彼女の耳に、エンヴィスの憐れみすら抱いているような声音が飛び込んでくる。しかし、その口調とは正反対に、彼の指が容赦なくスカーレットへと向けられた。
「”天鼓雷音アマノカグツチ”」
 何か重いものが皮を叩き、空洞に反響する時のような、轟音が響く。直後、青白い雷電が発生し、空気が割れるような鋭い音と共に、辺り一帯を駆け抜けた。それはまるで、雷神が振り下ろす裁きのガベルだ。傍聴人たる壁や天井が、神々しさを反射して、白く染まる。
「ぐは……っ!!」
 鉄槌を下されたスカーレットは、全身からかすかな煙を上げながら、仰向けに倒れ込んだ。弛緩した筋肉は、もはや指一本動かす力をも与えてくれない。
「そんなことばっか考えてっから、バカだって言ってんだよ」
 流れ込んでくるエンヴィスの声には、何故だか侮蔑や嘲笑といったものは、まるで含まれていなかった。むしろどこか悲しむような、嘆くような色すら伝わってくる。
「……ぁ……」
「外野がどれだけ騒ごうと、所詮はただの雑音だ。一々気にすることじゃない。自分てめぇのためだけに胸張って、自分の声だけ聞けばいい。それがホントの……強さと賢さってもんなんじゃねぇのか?」
 それは誰かに説くためというよりも、自分自身に言い聞かせるように、呟かれた言葉に聞こえた。スカーレットはただ、唇を痙攣させて、呆然と横たわっている。彼女の答えを待たず、エンヴィスは背を向けて歩き出した。
 己の言葉が響いたかどうかは、さして重要なことではない。だが、最後に一目だけ振り返って見た彼女の顔は、ほんの少し楽になっていたような気がした。

  *  *  *

 ゴウン、と重たい機械音が耳を打つ。
 ボール・アイは目を瞬かせて、辺りを見渡した。
 彼がいるのは、四方を壁に囲まれた、縦長の箱の中のような場所。いつの間にかカーリの腕からは降ろされていて、冷たい床に彼はいる。
 体に伝わる、何かが駆動するような振動。多分、エレベーターと呼ばれるそれだ。モーターの音に合わせて、下降していく時独特の、浮遊感のようなものも感じられる。しかし肝心のドアはなく、階数を表示するパネルも、停まる階を指定するボタンのようなものも見当たらなかった。
 つまりは、閉じ込められた状態だ。
「ふぅむ……これは困ったね」
「!!」
 隣から誰かの声が響いて、ボール・アイは文字通り飛び上がった。
 丸い体をぷるんっと震わせて跳ねる彼を、トワイライトが覗き込んでくる。
「どうかしたかい?ボール・アイくん」
「うっ、ううん!何でも!!」
 慌てて取り繕うと、彼は片眉を上げて興味深そうにしながら、しかしそれ以上は追求しないでいてくれた。
 ボール・アイはじっと、彼の顔を見上げる。真っ黒い大きな瞳は相変わらず、何を考えているのか、サッパリ読めなかった。少しだけ、記憶に浮かぶ悪魔たちと似ている気がして、ボール・アイはひそかに怖がる。彼は確かに、頼りになる人物で、カーリも信用している相手だ。けれどきっと彼の心には、奴らと同じで冷たい氷がいるのだろう。そのことだけは、絶対に忘れてはならないと直感した。
「ねぇ……カーリは?カーリはどこに行ったの?」
 けれども、今は彼を明確な敵だと定める理由もない。ボール・アイは体を捻って、唯一の味方に視線を送る。無理をして見上げる苦しさを察知したのか、彼はボール・アイを抱え上げてくれた。
「カーリだけじゃない。皆、消えちゃった。エンヴィスも、レディも。皆、どこに行ったの?」
 トワイライトの腕の中で、彼は不思議そうに問いかける。魔法という魔界の知識に疎いボール・アイには、自分の身に何が起きたのか、まるで理解出来なかった。突然噴き出てきた煙に包まれたかと思うと、この出口のない謎の部屋に閉じ込められている、その理屈が。
「トワイライト、さっき困ったって言ってたよね?どういう意味?何があったの?ここはどこ?」
 次々に浮かんでくる疑問を、立て続けにぶつける。トワイライトは、ボール・アイの言葉にどう答えるべきか、逡巡した。
「あぁ……残念ながら、君の質問の全てには答えられないね」
「えっ?」
 顎をさすりながら、のんびりと話す彼に、ボール・アイが頓狂な声を返した時だった。
 ゴウッと空気を切る音が響いて、強い浮遊感が襲ってくる。今にも、体が浮いてしまいそうだ。
「な、何っ!?」
 ぷるぷると粘液を波打たせて、ボール・アイは慄いた。彼を軽く押さえつけ、トワイライトはやや早口で告げる。
「一先ず、ここを脱出しよう。ここは、あまり良くない場所だ」
 ボール・アイとは違い、彼には、今自分たちを襲っている現象の正体が理解出来ていた。
 恐らく、エレベーターが猛スピードで落下をしているのだ。このままでは、自分たちごと、いずれ最下層に激突してしまう。そうならないためには、早急な対応が必要だった。
「ど、どういうこと?」
「雑な説明ですまないね。だが、今は大人しくしていてくれるかい?このままここで、ぺしゃんこに潰れたいのなら別だが」
 狼狽するボール・アイに、詳細を省き結論だけを告げる。脅しのような一言を付け加えると、ボール・アイは怯んで口をつぐんだ。
 それをいいことに、トワイライトは話を止め、目を瞑って意識を集中させ始める。
 姿勢を正し、感覚を研ぎ澄ませて。魔法を行使する者にしかない、力。魔力を感じ取る力を用いて、自らの周囲に漂う魔力を探っていく。やがて瞼の裏に、魔法陣が見えてきた。大きな円がいくつも重なっていて、中には無数の文字が書き込まれている。複雑な術式だ。一体何であるかは、読み解くまでもない。
 細く息を吐き、ゆっくりと目を開く。片手に、得意の魔法で剣を生み出し、握り締めた。それを、自分の真横にある壁めがけて突き立てる。ガキンッと金属製の壁がひしゃげる音と共に、何か繊細なものが砕け散るような、かすかな音色が聞こえてきた。
 ザザッと、視界にノイズが走ったような揺れが起きる。徐々に体を包む浮遊感が消え、周囲の壁や天井も、蜃気楼のように溶けていった。
「わわっ」
「やはり、幻術だったか……」
 驚いて声を上げるボール・アイの耳に、トワイライトのおもむろな呟きが飛び込んでくる。意味が分からなくて、ボール・アイは彼を見遣った。彼はその視線に応え、平易な言葉で解説をしてやった。
「現実ではなかったんだよ。私たちが見ていたものは、魔法で作られた、幻だ。かなり、高度なものだったようだがね」
 幻術は、極めれば視覚だけでなく五感全てを惑わすことの出来る、危険な魔法だ。精神系魔法と似た効果すら持っている。でなければ、あそこまで鮮烈な浮遊感を覚えさせることは不可能だっただろう。もしも脱出に失敗していれば、精神に致命的なダメージを負っていたはずだ。たとえ錯覚や思い込みに過ぎなかったとしても、自分の死のイメージは、生物の自我をボロボロになるまで蝕み、壊す力を有している。
 だが、幸いなことに無事破壊することが出来たようだ。彼らの前に、新たな光景が現れる。そこは、先ほどと同じく、全てが白く塗り潰された、細い廊下だった。真っ白な壁に規則的に、真っ白なドアが取り付けられている。カードを読み取るタイプの電子錠だけが、鈍色の彩りを添えていた。後は他に、特徴のある物は何もない。
(今度は現実か……しかし、ここはどこなんだ?)
 ボール・アイを降ろし、腕を組みながら黙考する。
 己の経験と、感覚から導ける結論が、間違っているとは思えない。現在自分たちの周囲を取り巻いているのは、紛れもない現実であろうと判断出来た。時空系の魔法によって空間を”組み換え”た後、幻術をかけて誤魔化したのだろう。だが、だとすると、一つ問題が発生する。
(非常に、まずい事態だ……想定を遥かに上回っているな)
 自分たちは、相当に、危険な状況に陥っているということだ。
 空間編成はもちろんのこと、今し方かけられた幻術も、かなりの魔力と魔導技術を要する魔法であることは間違いない。インペラトルであっても、気軽に行使することは出来ぬはずだ。それを使ってきたということは、相当の実力者が存在するか、あるいは、ここで確実に仕留める腹積りであるかのどちらかだろう。少なくとも、気を抜いていられる状況ではない。
 だが正直、ここまで敵意を剥き出しにしてくるとは、予想だにしていなかった。
 相手の底力が知れぬ以上、無闇な戦闘は避けたい。試しに、応援を要請しようとシュハウゼンに通信魔法を飛ばしてみる。だが、何らかの妨害魔法が出ているのか、応答を得ることは出来なかった。今頃刑事部の悪魔たちも、こちらの様子が分からなくなって焦っていることだろう。トワイライトは内心で臍を噛む。
 救援は見込めない。部下たちともはぐれ、キメラスライムと二人きり。そしてここは、敵の本拠地の、どことも知れぬ場所。
 これをピンチと言わずして、何と呼ぶべきなのか、トワイライトは知らなかった。一刻も早く部下を探し、撤退しなければ。脳内を焦燥が駆け巡る。
(しかし、どうやって?)
 頭の中で、己の手札を確認する。だが、この手には一枚のカードも握られていなかった。つまりは、何もないのだ。ここから出る術も、部下と合流する手段も、何も見つからない。せいぜい、分からないということが分かる、と哲学じみた結論が出せるくらいである。
 これほどまでの窮地に陥ったのは、久しぶりだ。軍政部門時代を思い出す。明日をも知れぬ日々の中、任務の遂行を目指して奮闘したあの頃。無数の同胞たちが、名前もない僻地で無惨に散っていった。英雄と称される者ほど、血に塗れ、闇に染まった暗い目をしていた。戦場での栄光など、得てしてそんなものだったのである。
「トワイライト……僕、ここ知ってる」
 あまりに危機的な状況に、思わず放心し現実逃避をしていた時だ。トワイライトの耳に、ボール・アイの小さな声が飛び込んできた。彼の視線を受けたボール・アイは、促されずとも先を続けて、語り出した。
「僕は、ここで生まれたんだ。ううん、僕だけじゃない。もっと多くのモンスターたちが、ここで生まれて……殺された」
 室内を見渡しながら、ボール・アイは言葉を紡ぐ。
 ここだった。
 ここが、自分が生まれ、育った場所。といっても、一般家庭のように、愛情をかけられたことは一度たりとてないけれど。
 自己としての意識が確立された頃から既に、ボール・アイはこの施設の実験用モンスターであった。最も原初の記憶は、小さなカプセルの中で、緑色の液体の中を揺蕩っていたこと。自らの体に、大量のコードやら何やらが繋がれていたことを、今でもはっきりと覚えている。自分の名前がVL53906ということも、その頃学んだ。
 カプセルから出され、他の”実験台”たちと出会って、彼は己の存在意義を知った。”実験”の糧となり、身体や命を差し出す。それが役目だと。自分という存在は、ここで作り出された”キメラ”なるものだと、自覚した。
「殺された?……違法な実験でかい?」
「多分。僕も、見てたわけじゃないから、ほんとのところは分かんないんだけど……でも、分かるんだ。檻から出されて、連れていかれる友達が……どんな目に遭わされるか」
 トワイライトの問いに、黒色の体をひしゃげさせて、こくりと頷く。
「ここにいると、嫌でも分かってくるんだ。色んなこと……」
 働いている職員たちは、いつも冷たい目をしていた。VL53906の、未熟で無垢な精神には、それは途轍もなく恐ろしいもののように見えた。
 彼らは、モンスターたちの命など、何とも思っていなかった。せいぜい、使い捨ての道具か、弄ぶべき玩具程度だったのだろう。だから、毎日モンスターたちに平気で、残酷な仕打ちを繰り返していた。
「あいつらは、僕らを使って手に入れられる、お金とか名誉のことしか見えてないんだ。僕の仲間たちは、いつも絶望した目をしてた。だって、何をどうしても、ここから逃げることは出来ないから。大人しくしてないと、すぐにあいつらに捕まって、”実験”っていう酷いことをされる……だから皆、あいつらを怖がって、身を寄せ合ってた」
 VL53906は彼らとの会話や、悪魔たちのやり取りを盗み聞きすることによって、この世界に関する基本的知識や、価値観を獲得していった。そうして成長しながら、常習的に行われる虐待行為に、耐え忍んでいたのだ。
 同じ苦しみを共有する、仲間たちと傷を舐め合いながら。
「君以外には、他にどんなモンスターがいたんだい?」
「一つ目のコウモリとか、オレンジ色の毛むくじゃらとか、いっぱいいたよ。でも、同じ見た目のモンスターはいなかったな……僕だって、自分と同じ種類のモンスターに会ったことなかったし。多分、皆そうだと思う」
 彼らは全て、キメラだった。全員が、それぞれ違う組み合わせで作られた、人工的生命体。
 狭い檻に一緒に閉じ込められた者たちは、誰一人として、同じ外見を持っていなかった。皆、個性や特徴が異なっていた。だが、だからこそ、協力することが出来た。誰しもが異端で、誰しもが暴虐の被害者なのだ。虐げられる者同士、支え合うようになるのは必然であった。
「……大事な仲間たちだった。でも……皆殺された。きっと今も、新しい仲間たちがあいつらに作られて、殺されてるんだ」
 けれど、所詮は弱き者のみでの団結。弱き立場から逃れられない者たちが、互いを慰め合うために集まっただけのこと。強き力の前では、なす術がない。彼らは結局何も出来ずに、実験に殺され、無惨に死んでいくばかりであった。
 それは決して途切れることなく、今も継続されているに違いない。
 と、ボール・アイは予想する。
 だが、あくまでも予想なのだ。彼は真実を知らない。何故なら、彼はこの施設から、無事に逃げ出すことが出来たからである。
「僕は、怖かった。いつ、あいつらに殺されるんだろうって……怖くて怖くて堪らなかった。あいつらは、僕を引き千切ろうとしたり、重い物を上に乗せたり、火で炙ったりするんだ。仲間の一人と無理矢理戦わされて、殺しちゃったこともある……」
 生き残るために、彼は必死だった。これ以上痛い目や辛い目を見るのは、死の危険を感じるのは、嫌だった。だから、生き延びるために、戦ってしまった。
 相手は、仲間たちの中で一番の、親友であった。実は、脱走の提案を持ちかけてきたのも、彼の方だったのだ。ここを逃げ出せたらどんなことがしたいか、語り合ったこともある。VL53906にとっては、この世界の何よりも、大切な存在だった。
 戦いが始まった時は、正直自分が彼に殺されればいいと思っていた。彼は、自分なんかよりよほど強いモンスターだった。戦闘能力という面ではない。心の話だ。いつも、どれだけ凄惨な実験の後でも、絶対に暗い表情を見せなかった。むしろ、怪我をした仲間を心配し、献身的に世話を焼いていた。自分が死ぬことで、彼にこの施設から逃げ出すチャンスを与えられるのなら、それでいいと思っていた。
 だが、気が付いてみると、VL53906のそばには、血と体液に塗れた親友の骸が転がっていた。死の危機に直面し、目覚めた本能が、生存のために彼を殺したのだ。VL53906はその日、何より大事であった友人を、殺害した恐るべき怪物となった。自分で自分を、殺したいほど憎く思った日であった。
「でもあいつらは、そんな僕のこと、じーっと眺めるんだ。まるで何の感情も持ってないみたいに……僕はあいつらの目が怖かった。だから……逃げ出した。後悔してるよ」
 仲間たちはありがたいことに、彼を非難しようとはしなかった。明日の命を、誰もが死に物狂いで掴み取ろうと足掻かなければならない世界だ。大事な友人でも、殺めねばならぬ時がある。
 だがそれすらも、悪魔たちは興味深い観察対象のように見ていた。彼らの葛藤や、苦痛さえ、あろうことか研究しようとしたのだ。
 ここにいれば、いずれもっと辛い思いをしなければならなくなる。そんなことは嫌だった。だから、逃げ出した。しかし。
「後悔だって?」
「だって、仲間たちの中で、逃げられたのは僕だけだった。僕だけが、体の形を変えられたから……いつもみたいに実験室に運ばれる途中で、檻から抜け出して、排水溝に隠れたんだ。でも仲間たちは違う……そんなこと出来ない」
 彼らはスライムの遺伝子を保有していない。粘体を持たない彼らが、VL53906と共に行動することは不可能だった。結果としてVL53906だけが、あの地獄より辛い地獄から、這い出すことが出来たのである。
「それって……僕、友達を見捨てたことにならない?」
 果たして、それは正解だったのだろうか。
 ボール・アイは苦悩する。
 自分だけが助かってしまって、良かったのだろうか。
 裏切りに、ならなかっただろうか。
 仲間を置いて一人だけで逃げたなんて。
「……僕は、臆病者だ。皆のこと、助けられなかった……!助けないで、一人で逃げた!それなのに……まだ僕は怖いんだ」
 体を捩って、周囲の光景を見渡す。
 どこまでも続く、真っ白な壁。真っ白な床。温もりというものを一切感じさせない、無機質がそこに広がっている。
 間違いなく、ここはかつてVL53906が暮らした場所だ。ここで彼は、仲間と共に、実験されていた。そしてここで仲間の一人を殺し、他の仲間も見捨てて、逃げたのだ。
 この場所で受けた、あらゆる苦痛の記憶。己がしでかしてきたことの重さが、彼の胸を締め付ける。
 罪悪感。そんな言葉すら生易しく感じるほどの感情。息が出来なくなって、体が竦みそうになる。
「僕は、ダメなモンスターだ……僕はもう、痛い思いも、苦しい思いもしてない。なのに……なのにっ、何で僕は!!」
「自分の痛みと、他人の痛みは違う。君が恐怖を感じることを、誰にも責めることは出来ないよ」
「でも!仲間たちは、今も苦しんでるんだよ!?」
 トワイライトの正論を、ボール・アイは感情で否定した。
「僕だけが、辛いことから逃げて、楽して生きてる……仲間を見捨てた、僕だけが生きてるんだ!」
 彼の言い分も理解出来ないことはない。ボール・アイの思いは、所詮想像だ。実際は違うかも知れない。仲間は誰も、彼のことを恨んでも憎んでもいなくて、とっくに忘れているかも知れない。考えるだけ、無駄なことかも知れない。事実を確かめる術はないのだから。
 けれども。
「きっと皆、怒ってるよね?恨んでるよね……?」
 そんな話で済む問題ではないのだ。感情とは、理屈で解決出来るものではない。ボール・アイはすっかり消沈した様子で、小さな声を吐き出した。
「僕は、生きたかった。あの部屋で、実験に使われて殺されるなんて、嫌だったんだ。だから逃げたのに……でも、どうして?今の方が、あの頃よりずっと辛いよ」
 泣き出しそうな、彼の声音。まだ生を受けて数年の、幼稚な精神から放たれるとは思えぬ音吐に、トワイライトは閉口する。
「ねぇトワイライト……どうして生きるって苦しいの?何で僕、こんな思いをしなくちゃいけないの?僕はどうして、生きようと思ったの?仲間たちを助けられなかったこと、こんなに苦しく感じるのに!」
 ボール・アイの大きな瞳から、ついに涙が溢れ出した。黒く染まった柔らかい体を、透明な雫がいくつもいくつも流れていく。それはすぐに川となり、床に水溜まりを作った。
「こんな思いをしてまで、何で僕って生きてるの!?こんなことなら、死んじゃってた方が楽だったよ!あの時仲間に、殺されておけばよかった!そしたら、こんな風に辛い思いをしなくて済んだのに……カーリのことも、苦しませなくてよかったのに!!」
 辺りに涙滴を振り撒きながら、ボール・アイは高い声で叫び続ける。丸い体は、彼が一言発する度に震えて、彼の中の感情の大きさと強さを如実に伝えていた。
「僕はどうして……っ」
 やがて心の波の方が高くなり、ボール・アイの言葉を飲み込む。彼は何も言えなくなって、ただ俯いた。
「……話は、それだけかい?ボール・アイくん」
 静寂を破るように、トワイライトの低い声が、耳に飛び込んできた。
「え……っ?」
 何だか意外な反応に、ボール・アイは驚いて、反射的に視線を上げる。
「気は済んだかと聞いているんだ。弱音を吐くのは、もう終いかとね」
 トワイライトの目は、冷たい、氷のような色をしていた。まるで、生産性のない愚痴ばかりこぼす部下を、にべもなくあしらうような感じだ。予想だにしていなかった態度に、ボール・アイは思いきり面食らってしまう。
「どっ、どうしたの……トワイライト」
 別に、同情や憐憫をもらうために、話したのではない。けれどもこんな風に冷徹な言葉を返されるとは、思ってもみなかった。もう少しくらい、優しく接してもらえるのではないかと考えていたのだ。それなのにまさか。
 目の前に立つトワイライトを、じっと見つめる。彼の姿からは、珍しく感情の片鱗が透けているように見えた。何とは言えないけれど、何か激しい感情が迸っているのが。
 何故、そんな顔をしているのか、ボール・アイには理解出来ない。彼は呆然として、トワイライトを見上げているしかなかった。
「私は、基本的に他人の価値観や考えを否定する気はない。別に、心の中で何を思っていようが、個人の自由だからね。だが、今回だけははっきり言わせてもらおう……ボール・アイくん、君は間違っている」
 ぽかんとするボール・アイに、トワイライトはしゃがみ込んで目線を合わせる。そして、先ほどよりは若干和らげた声色で、告げた。
「えっ!?ど、どうして!?」
 ボール・アイは目を丸くし、トワイライトに尋ねる。彼はそれを待っていたかのように、息を吸い込み語り出した。
「生きることは、決して辛いことではない。むしろ、喜んで謳歌すべきものだ。命とは、生きとし生けるもの全てが、自ら進んで享受しなければならない。誰もが己の生に得心して、苦痛なく、快適に味わうべきものだ……世界は、社会は、そうあるべきだというのが、私の考えでね」
 悪魔は欲深く、狡猾な存在だ。快楽と愉悦を何より重んじ、辛苦は極力取り除こうとする。トワイライトとても、決して例外ではなかった。
 楽しいこと、好きなことで人生を満たすべく、彼は奔走してきた。生きるということそれ自体も、同じことだ。この魔界に生を受けたのならば、全力で楽しむべき。命を喜べぬ者が、悪魔の社会にいてはならないと思ってきた。
 たとえ悪魔でない種族の生物でも、同様だ。生命たるもの、己の生を言祝ぎ、闊歩せねばならない。余人がそれを妨げることは、絶対にあってはならない。
 だから、ボール・アイの抱える苦痛が、許容出来なかったのである。
「もちろん、君を責める気などない。君が生きることを楽しく感じられないのも、全て身勝手な行為を働いた悪魔たちのせいなのだからね。君が責任や、罪悪感を感じる必要は、何一つないんだよ」
 当然のことだが、ボール・アイに非は全くない。愉楽を感じられない咎を、彼自身に求めるのは、大きな間違いだ。彼を苦しませ、生き辛く思わせたのは、全て悪魔たちが原因である。この施設を作り出し、運営している悪魔たちの。
「で、でもっ!僕は仲間たちを見捨てた……皆を犠牲にしたのに、僕だけが楽しむなんて!」
 トワイライトの言葉に、ボール・アイは声を荒げて反発する。彼の心は、重い重い罪悪感と自己批判に、押し潰されそうになっていた。誰もが楽しく生きるべきならば、ボール・アイの行為は、妨害そのものだ。多くのモンスターたちの命を、奪ったということに他ならない。
「では、こう考えたらどうかね?君が逆の立場だったとして、の話だ。仲間たちの中から一人だけ、君たちを置いて逃げた者がいたら、君はそれを恨むのか?」
「そ……そんなこと、出来るわけないよ……」
 静かに問いかけられて、つい想像してしまった。もしも、あの親友が、自分を置いて逃げていったら。
 そんな未来があったとしたら。
 ボール・アイは、絶対に彼を責めはしないだろう。
「あそこは……地獄よりも地獄だった。誰か一人だけでも、あの苦しみから逃げられるなら……それが一番だ」
 仲間たちは、運命共同体のような存在だった。彼らの中から一人でも、苦痛から逃れられる者がいるのなら、それは間違いなく喜ばしいことである。たとえ自分は救われなかったとしても、誰かが生き延びれば、十分だ。
「僕は絶対、怒ったりしない。良かったって思うよ。もう、あんな思いをしなくて済むんだねって……」
「君の仲間たちも、きっとそう思ったはずだ……違うかい?」
 掠れた声音で、ポツポツと話すボール・アイを、トワイライトは優しい手つきで撫でる。一瞬納得しかけたボール・アイだったが、ふと思い出したように体を奮い、トワイライトの手と、自らの迷いを振り払った。
「で、でもっ!僕はそうでも、他の仲間たちは何て思うか……分からないよ。僕と仲間たちとは、違う生き物だもん」
 自分と他人は別だと言ったのは、トワイライトだ。ボール・アイならば恨みを抱かなくても、他のモンスターたちは違うかも知れない。
 それに、仲間たちを助けられなかったという事実は、変わらない。
「本当にそうかね?」
「ど、どういうこと?」
「だって君は、逃げ出して、カーリくんと出会っただろう?」
 首を傾げるトワイライトに、質問で答えを返す。彼は至極尤もな顔をして、正論を説くように述べ立てた。
「彼女を通して、我々とも知り合った。それによって、長年凍結されていた捜査が、再び動き出したんだ。君がいてくれなければ、決して出来なかったことだよ」
 彼の存在は間違いなく、キメラ創造の研究が為されていることの、証拠だ。彼がいたことで、シュハウゼンは動き出し、捜査も再開された。
 ボール・アイの命は、本人が思っているより、格段に重要ということである。
「捜査が上手くいけば、ここで行われていたことを、全て白日の元に晒せる。そうなれば、彼らはもう実験を続けることは出来ない。苦しめられていた君の仲間たちは、もう二度と、痛い思いをしなくて生きられる……つまり君は、君のお友達たちに、何よりの救いを与えたんだ」
「!!そうなの……!?」
「あぁ、そうだ」
 ボール・アイは目を見開いて、トワイライトに確認をする。彼はさも当たり前のように、平然と首肯した。ボール・アイの視界が、先刻とは違う涙に濡れ、滲み出す。
「確かに、君の行為は、客観視すればただの逃亡かも知れない。だが、それは誰よりも勇気のある選択だったのだよ。君がずっと虐待に耐え抜く道を選んでいたら、彼らはこれから先もずっと、囚われたままだっただろうからね……」
 彼という証拠がなければ、事実は未だ解明されぬまま。悪事を暴くことは不可能だっただろう。ボール・アイと似た苦悩を抱えるモンスターも、もっと大量に生まれていたはずだ。彼はそれを、自らの命によって、制止したのである。
「君は臆病者なんかじゃない。むしろ、誇り高き勇者だ。君がいたからこそ、私たちは今ここにいる。そして、君の仲間たちも救われる。だから君が、生きていることを辛く思う必要なんか、これっぽっちもないんだよ」
 痛みを受けることに慣れ、耐える術を学習した者たちが、どうなるのは筆舌に尽くし難い。皆己の不遇を嘆き、呪いながら、ただひたすら現実に虐殺されていくのを受け入れるだけなのだ。ボール・アイのように、状況を改善しようと行動出来る者は、非常に稀である。そしてそれが、自分と同じ境遇に置かれた、他者をも救い出すことに繋がるのならば、尚更。
「……納得出来ないかい?」
 彼は間違いなく、称賛されるべきモンスターだ。少なくとも確実に、自らの生存を悔やむ必要はない。
「だ、だって僕は、まだ何もしてない……仲間たちを、助けてなんかない」
 トワイライトの言葉を、ボール・アイは躊躇いながら否定する。もしも、仮に彼の言葉が真実だったとしても、それはまだ証明されていないからだ。現実では未だ、モンスターたちはこの施設のどこかに囚われたままである。本当に自分が彼らを助けることが出来るのか、ボール・アイには分からなかった。
「だったら、私と共に行こうじゃないか。自分を臆病だと思うのなら、君自身の手で捜査を進めてみたらいい。そうすれば、彼らを解放することも出来るよ。過去の自分からキッパリと、決別することもな」
 ボール・アイの葛藤を吹き消すように、トワイライトはあえて明るい声を出す。彼が放った言葉を、ボール・アイはゆっくりと、時間をかけて噛み砕いた。しばらくそうして沈黙していた彼だったが、やがて意を決したように顔を上げ、トワイライトをきっと見据える。
「……分かった。僕、やる!!僕の力で、仲間たちを助けてみせる!!」
「ふっ……それでこそ、だよ」
 大きな声で、自分自身に言い聞かせるように、宣言する。彼の返答を聞いたトワイライトは、おもむろに立ち上がり、ボール・アイに手を差し伸べた。
「ならば行くとしよう。この施設内で何が行われているのか、我らの手で、全てを暴くんだ」
「うんっ!」
 朗らかな笑顔につられ、ボール・アイも笑みを浮かべる。そして、彼の手を取った。
 彼と共に、変わり映えのしない廊下を延々と探索していく。
 途中、何度か並んでいるドアを開けようとしたが、どれも固く施錠されていた。魔法を使えば、鍵を開けることくらい容易なのだが、トワイライトは躊躇する。こんなところで、無為に魔力を消費したくはなかった。だから仕方なく諦めて、先へ進む。彼の隣でボール・アイは、何となくただでは帰れないような感覚を抱いていた。戦いのことはよく分からなかったが、そんな気がしたのだ。
 脳の奥にべっとりとへばりつく、この場所での記憶。中でも一際嫌な、思い出したくないものが、ボール・アイにはあった。
「トワイライト……あのね?」
「ん?」
 いずれ遭遇した時のために、話しておいた方がいいだろう。でなければトワイライトも、”あの男”の持つ冷たさに、飲まれてしまうかも知れない。その前にと、彼は決断し口を開いた。
「どうしたんだい?」
 言い淀みながら、何かを伝えようとするボール・アイを、トワイライトは怪訝そうな目で見つめる。柔和な瞳に促されて、ボール・アイは勇気を振り絞ろうとした。
 直後、突然目の前の空間に、亀裂が走る。
「!!」
 驚くボール・アイを、トワイライトは再び抱えた。亀裂に巻き込まれぬよう距離を取って、安全な位置から観察する。何が起きているのか、把握するのに時間はかからなかった。だがその間にも、亀裂は徐々に拡大し、”空間”を”断裂”させていく。
「これが……空間編成……」
 トワイライトたちの周囲の空間が、立方型にスッパリと切り離された。そして他の空間と並び替えられて、再結合する。まさしく空間編成魔法の成せる技だ。
 こんなもの、滅多に見られるものではない。初めての経験に、トワイライトもつい好奇心と興味とに駆られていた。
 固唾を飲んで見つめていると、しばらくして、魔法の効果が切れる。組み替えが終了したようだ。
 空間ごと切り取られて移動させられたトワイライトたちは、またもや新たな場所に足を踏み入れていた。
 そこは、巨大な部屋だった。
 否、部屋というより、ホールといった方が適切だろうか。広大なスペースを埋め尽くす勢いで、長机がびっしりと並んでいる。その上には、何やら目的のよく分からない機械が、所狭しと置かれていた。ゴボゴボと音を立てて、謎の色をした液体が、透明なチューブの中を循環していく。壁は全てコンクリートが打ちっぱなしにされていて、一方にはモニターがびっしりと埋め込まれていた。それらには監視カメラの映像や、一般に放送されているテレビ番組、あるいはSNSに流れる短い動画などが映し出されている。あるいは電源がついておらず真っ暗なものや、赤や青の線で描かれた謎の波形、心電図のようなものも。それ以外にも、何を表しているのか、全く分からない映像が多数映っていた。
 タイル状の床を、様々な色の太いケーブルコードが隙間なく這い回っている。いかにも研究室らしい様子だが、やはりどこか異常だ。サイズ的にも一般の研究室とは違う上に、生命の気配をまるで感じさせない異質さがある。設備が動いているのだから、間違いなく誰かはここで働いていたはずなのに、その存在は驚くほど感じ取れなかった。室内が広過ぎるからか、空調の効きも悪く、やや肌寒く不気味な空気が漂っている。
「あーっはっはっは!!ようこそ俺様の研究室へ!!歓迎するよ……クズ共」
 耳を劈く拍手の音が高々と響いた。朗々とした笑い声を、男が発する。
「!」
 トワイライトが音のした方に目を向けると、そこには、一人の悪魔が立っていた。
 青い瞳の、顔に傷を持つ悪魔だ。細く引き締まった肉体を、太いストライプの入ったグレーのスーツに包み、胸元を血のように真っ赤な蝶ネクタイで彩っている。少し長めのグレーの髪は、同じく赤色のリボンで縛られ、肩に垂らされていた。そして印象的な、異常に白い肌を引き裂くように走る、大きな傷。左目を跨ぐように伸びるそれのせいか、瞳のサイズは左右で異なっていた。すっと細まった瞳孔と、ギザギザとした鋭い歯を見せつけながら笑う様子は、獰猛な肉食獣の如き、貪欲さが滲み出ているようだった。
「ヴァレンタイン……!」
「知っているのかい?」
 ボール・アイが愕然とした顔をして、男の名を呼ぶ。トワイライトはすぐさま、確認するような調子で問うた。ボール・アイはコクコクと全身を震わせ、肯定を繰り返す。そして、丸い体から細い触手を腕のように生やし、男の顔面を指差した。
「あいつだ……あいつなんだ!僕に……僕らに、酷い実験をしていたのは!!」
 非難の色濃い叫び声をぶつけられても、しかしヴァレンタインは動じない。ニヤリとした笑みを浮かべたまま、棒立ちしている。その態度はまるで、何らの罪悪感も感じていないようで、ボール・アイの中の怒りが更に大きくなった。
「あいつが、ここの悪魔たちの親玉だ!!!」
 彼は大声で叫喚し、トワイライトに告げ口をするように、彼を謗った。
「なるほどな……」
 その訴えを耳にしたトワイライトは、納得した表情で首を縦に振る。
 彼らの物言いたげな視線を、ヴァレンタインはまるで無視して、胸に手を当てた優雅に一礼してみせた。気品ある貴族というよりは、サーカスで活躍するピエロのような動作だ。
「VL53906号……オマエには、ほとほと愛想が尽きたぜ」
 そして上体を起こすと、呆れ果てた声で、ボール・アイを咎めた。
「まさか、実験棟を飛び出して、外の世界に逃げ出すとはな……きつい仕置きが必要みたいだ」
「ひっ」
 睨まれたボール・アイは、たちまち体を縮ませて恐怖する。その様子はまさに、調教されきった獣そのものだ。痛みの記憶が体に刻み込まれたせいで、鞭の音を聞くだけで反射的に服従してしまうような。
「失礼ですが、あなたは?」
 完全に萎縮して、ガタガタと震える彼を、トワイライトは背中に庇った。男の注意を自分に向けさせ、おもむろに問いかける。
「おっとぉ。俺様としたことが、名乗り忘れていたか……俺様、こういう者さ」
 ヴァレンタインはわざとらしく自分の額を叩き、おどけた仕草を見せた。パチンと指を鳴らしたかと思うと、彼の指の間に一枚のカードが出現する。そしてそれを、無造作に床に放った。
「拾えよ、お客人」
 彼が何をしたいのかは、明白だ。屈辱的な仕打ちに、トワイライトが怒るのを待っている。
 だがあいにくトワイライトは、分かりやすい挑発に乗せられるほど、愚かな悪魔ではない。
「ペスト遺伝子研究センターモンスター品種改良用遺伝子組み換え技術研究部門第三実験棟主任……ははは、なるほど」
 隙を見せぬようゆっくりとした動作で、床に落ちたそれを摘み上げる。裏を向いていたそれを返して、記された文字列を繁々と眺め回した。
 投げられたのはどうやら名刺だったようだ。何だか長々とした肩書きが羅列されている。要は中間管理職的な立場ということだろう。自分と似たようなものだ。ここに書かれた文字が本当のことならば、ボール・アイの言葉は真実であることになる。彼はモンスターの虐待を含む、残酷な実験の主犯格。恐らくは、キメラ創造の技術開発にも関わっているはずだ。
 曖昧な半笑いを浮かべるトワイライトを見て、ヴァレンタインは不快げに眉を引くつかせた。だが、無理をして取り繕うと、可笑げな調子で肩を揺らす。
「オマエには感謝しないといけないな~、お客人」
「ほう。感謝、ですか?」
 かけられた言葉を、トワイライトはそっくりそのまま繰り返した。興味で覆い隠した、鋭い警戒の視線を相手に飛ばす。
「そうだ。オマエのおかげで、手間が省けたよ。そいつは俺様が紛失した物さ。返してくれるよな?……魔界府の犬さんよぉ」
 ヴァレンタインはゆっくりと足を踏み出し、トワイライトたちに数歩近付いた。そして、挑むような眼差しを投げかけてくる。ボール・アイがびくりと震えた。
 どうやらこの男は、トワイライトたちの正体に気付いているようだ。気付いていながら、こんなところまで誘い出し、自らの犯行を自白した。
 何の策略もなしに、そんなことをする者はいない。つまり、嵌められたということだ。
「気が付いていたのですか……それなのに、我々をあえてここまで引き込んだ。罠、でしょうなぁ」
 だが、トワイライトはあくまで平然とした態度で、首を振り、いっぱい食わされたことを認めた。
「その通りですよ。私、警察部門職員、トワイライトと申します」
 まさか正直に打ち明けられるとは思っていなかったのだろう。ヴァレンタインが困惑の表情を浮かべる。トワイライトは彼に構わず、胸元から何かを取り出した。
 示してみせたのは、紐付きのケースに入ったプラスチックカード。一見すると、一般企業の社員証とよく似たデザインのそれ。だがこれこそが、正真正銘、魔界府職員の職員証だ。右上で光る天秤と剣を象ったエンブレムは、警察部門であることを証明する、特別な証である。
「この度、あなた方がこの施設内にて行っているという、”違法行為”の検挙に参りました。モンスターを利用した、非道な実験のね」
 まるで宣戦布告でもするかのように、トワイライトは堂々と告げ、大胆に笑う。ヴァレンタインが何か反論を紡ぐ前に、再び口を開き機先を制した。
「よもや、証拠がないなどとは、仰いますまいな?」
 彼の視線は、当然ボール・アイを捉えている。確固たる証拠にして生き証人であるこのスライムは、多少自信を取り戻したと見えて、自信ありげに背筋を伸ばしていた。
「へっ、そんなもの証拠にならないね!だからオマエたち、こうしてコソコソと、ネズミのような真似をしているんだろう!?」
 だがヴァレンタインは、決して臆することなく、果敢に言い返してきた。なるほど、とトワイライトはまた思う。要するにこの男は、警察部門側の抱える証拠は、ボール・アイただ一人だと考えているわけだ。たった一つの手がかりにしがみつき、更なる情報を得るために、潜入という危ない橋を渡っていると。
 もちろんそれは真実であり、一方で嘘でもあることなのだが。
「そうですねぇ……ですので、ここで確実に逮捕させていただきたく思います。公務執行妨害罪、でね」
 ならばこの場で全てを明かす必要などない。思い込みを抱いているのなら、そのままにしておいた方がいいだろう。
 トワイライトは素早く会話を切り上げ、戦いに備えて魔法を準備し始めた。
「トワイライト、ダメ!あいつと戦うなんて無茶だよ!!」
 彼の意図を察知したボール・アイは、慌てて彼の足にしがみつき、止める。
「あいつは、すっごく強いんだ!僕たちモンスターは、あいつの使う見えない鞭みたいなものに、いっつも痛めつけられてた……あいつと戦ったら、トワイライトだって!!」
 ボール・アイたちモンスターを管理する際、悪魔たちが最も効果的に用いていたのが、痛みだ。暴力によって痛みを与え、恐怖を植え付けて、服従させる。人間たちも、しばしば動物の調教で使用する方法だろう。
 ヴァレンタインは特に、この痛みによる統率を重んじていた。だから毎日のようにモンスターを暴行し、虐げていた。早速、躾や教育のレベルを超えるほどに。
 モンスターたちが毎日、恐怖に耐え忍びながら生きねばならなかったのは、ほとんど彼のせいと言っても過言ではないだろう。施設に生きるモンスターで、彼を恐れない個体はいなかった。ヴァレンタインはその肉体能力と、それから魔法によって、ボール・アイたちを苦しめた。苦しめ抜いた。あまりに残虐なやり方に、同僚である悪魔たちでさえ、彼を恐れ、距離を置きたがっていたほどだ。だが彼が、この中で屈指の強さを誇る悪魔だということと、”ある人物”のお気に入りだからということで、逆らえないようであった。
 後半はよく分からないが、とにかく彼は強いということは、事実なのだ。きっとトワイライトだって、戦えば無事では済まない。痛めつけられ、傷付けられてしまうだろう。せっかく出来な大事な味方がそんな目に遭わされるのは、嫌だった。いくら、ヴァレンタインのことが嫌いで、出来ることなら殴り飛ばしたいと思っていたとしても。それは叶わぬ願いなのだ。
「だからダメだよトワイライト!逃げよう!!」
 ボール・アイはトワイライトのズボンの裾に縋りつき、必死に懇願する。トワイライトはそれを、感情の読めない瞳で見下ろしているだけだった。
「死人に口なし!俺様流のもてなし、とくと受け取りなっ!!」
 動揺を示すボール・アイを見て、ヴァレンタインが更に調子付く。その様子はまさしく、天性のサディストだ。ボール・アイは、一層怖くなり、体を震わせた。
「やれやれ……客人を死体にして帰すとは、独特なマナーですな」
 だがトワイライトは、腹の底の読めない嫌な笑みを絶やさぬまま、平然と答えた。
「一々言葉を返すな!!鬱陶しい野郎だなァアッ!!」
 緊張している様子など微塵もない呑気な言葉に、ヴァレンタインが激昂する。彼は怒りのままに、ガサついた大きな声で咆哮した。
「とっとと死ねぇええ!!」
 彼が指を突きつけると同時に、何か大きな物体がトワイライトに襲いくる。それは、唸りを上げて空気を切り裂きながら、真っ直ぐ彼の頭上めがけて降ってきた。トワイライトは怯えるボール・アイを素早く抱き上げ、飛び退いて回避する。標的を見失ったそれが、何もない床を強かに叩き、タイルにヒビを走らせた。巻き起こった強い風が、彼の柔らかな黒髪を揺らした。
「これは……機械系魔法ですかな?」
「ひゃははは!その通りさ!!」
 軽快に着地したトワイライトは、感心したように呟く。ヴァレンタインはそんな彼を、わざとらしい拍手で褒め称えた。ボール・アイも呆然と周囲の光景を見渡し、そして瞠目する。
「何……これ……!!」
 ヴァレンタインの周りには、無数の細い触手のようなものが生え、天井に向かってウネウネと蠢いていた。否、触手ではない。室内を縦横無尽に這い回っていた、大量のケーブルコード。意思も肉体も持たぬはずのそれが、誰の手に触れられることもなく、自動的に立ち上がり揺れていたのだ。まるで、屋内に出現した、巨大なイソギンチャクのように。
 物体を浮遊させるという点では、トワイライトの得意技と似たところがある。しかしそれは機械系魔法と呼ばれる、別の系統の魔法の効果だった。つまりヴァレンタインはこの魔法を駆使して、床を伸びるコードを操り、ボール・アイたちを痛めつけていたのだ。
「俺様は、あらゆる機械を自在に、自由に操ることが出来るんだよ!!”あの方”のおかげでなぁ!!」
「”あの方”?」
 高い天井を擦るほどに長く伸びたそれらを、ヴァレンタインは愛でるように撫でさする。哄笑と共に放たれた言葉を、トワイライトは首を傾げて尋ね返した。
「ペスト様だよ!!あの方が、この研究所を作ったんだ!!俺様のために!!」
(ペスト様……?)
 彼が口走った人名を、頭の中で反芻する。
 もしや、研究所の名称の由来とは、元来がペストを研究するためだったからというのではなく、単にリーダーの名前を冠しているだけなのだろうか。
 そしてそのトップたる人物が、諸悪の根源。倒すべき黒幕であるというのだろうか。
 辿り着くべきゴールが、見えたような気がした。同時に、何か途轍もなく深い闇に片足を突っ込んでいるような印象も。
「もはやこの建物全体が、俺様の遊び場だ……そしてオマエたちの存在は、チャンスなんだ!俺様が、あの方に恩返しをするための!!」
 ヴァレンタインが両手を広げて叫んだ途端、何かが移動するような音と、強い振動が発生した。辺りを見回すと、周囲にあるあらゆる機械が、異常な変化を遂げているところだった。
 壁一面に取り付けられたモニターがギシギシと軋みながら外れ、机の上に置かれた巨大な蒸留用の機械の中を、毒々しい色の液体がぐるぐる循環し始める。天井にも穴が開き、上から巨大な歯車やタービンのような物が顔を覗かせていた。
 これも、ヴァレンタインの魔法なのだろう。彼は言葉通り、建物の内部にある全ての機械に、魔力を流し込むことが出来るようだった。ペスト様とやらがそのように、設備を整えさせたということだろう。彼を使って、邪魔者を排除するために。
 舞台は整ったということだ。
「さぁ、俺様の実験台になってもらうぞ!ひゃっはははは!!」
 ヴァレンタインは再び哄笑し、魔法を発動する。二人めがけて、無数のコードやケーブルが振り下ろされた。
 次から次へと放たれる攻撃を、トワイライトは全て身軽な動作でかわしていく。自身の肉体能力を用いて跳躍し、あるいは魔法で浮かべた剣を足場にすれば、それほど難しいことではなかった。だが、所詮はただの悪あがき。この施設内全域が、ヴァレンタインの勢力圏内なのだとしたら、トワイライトたちに逃げ場などないということになる。
 きっとこの男も、すぐに自分の死を確信し絶望するだろうと、ヴァレンタインは愉悦に浸った。
「トワイライト、どうするのっ!?このままじゃ、僕たち二人とも死んじゃうよ!!あいつに殺されちゃう!!僕そんなの嫌だ!!」
 ボール・アイはトワイライトの腕の中で、焦った声を出す。服をぐいぐいと引っ張られて、トワイライトは呻いた。
「うーむ……どうしようかねぇ……」
「そんなのんびりしてる場合!?」
 猛攻を受けている最中とは思えぬ悠長さに、ボール・アイは我が目を疑う。トワイライトのどこまでも他人事な態度が、まるで理解出来なかった。
「戦わなきゃ!もうそれしか、僕たちが生き残る方法はないよ!!」
 このままでは、ただ圧倒的な質量と物量の前に、押し潰されていくだけだ。何か抵抗をしなくてはと、非難するような強い口調で迫る。するとトワイライトは、意外だというような調子で彼を見た。
「おや、意外だねぇ。ボール・アイくん、君は……本当に、戦う覚悟があるのかい?」
「えっ?」
 彼の言葉に、ボール・アイは一瞬竦んだ。粘液だけで出来た、臓器などない体だが、まるで心臓を素手で撫でられたかのような、冷たさと焦りが心の内に生じる。
「恐らく、ここから先は死地だ。本当に戦い抜く覚悟のある者だけが、生存を許される……中途半端な気持ちは捨てねば、あっという間に命を落とすぞ?」
 いきなり核心を突かれて、ボール・アイは息を詰まらせる。トワイライトの声音は静かだったが、何だか恫喝されているような気分がしていた。
 全て、見抜かれているのだ。咄嗟に言った言葉だが、内心そこまで本気というわけではないと。
 その通り。本当は、怯えているのだ。未だ消えることなく残っている恐怖が、彼をチクチクと刺激してきている。ここから生きて帰れるのだろうかと。
 だがそんなものに囚われているようでは、生存は出来ない。戦場は、恐ろしい世界だ。日常の道徳や常識は、全て通じない異質な空間。たった一秒迷っただけで、致命的な隙になることもある。死にたくないのなら、生きることだけを本気で求めなければならない。ましてやこのヴァレンタインという男は、確実に手強い相手だ。魔力量だけで言えば、恐らくトワイライトより上だろう。おまけに、彼はあらゆる機械を自在に操る、いわば範囲型の攻撃に特化したタイプである。その力がいかほどのものであれど、決して油断など出来るはずもない。ボール・アイを庇いながら戦うことは、不可能だ。自分の身を自分で守る覚悟が出来ぬなら、どこかに逃すか、あるいは隠れさせる方がマシである。
「君はさっき、逃げようと言ったよね?彼は、自分たちの勝てる相手じゃないから、と……今もそう思うなら、早く逃げた方がいい。私にだって、君一人を逃がすことくらいなら、どうにかならないこともなさそうだからねぇ……」
 だからトワイライトは、どうしても確かめておかねばならなかった。ボール・アイの意思を。
 あえて寄り添うような優しい口調で語り、敵を見遣って問いかける。打って変わった態度を示す彼を、ボール・アイは凝視していた。流石の彼も、トワイライトがわざと相手を揺さぶろうとしているということには気が付いている。それなのに、心は彼の思い通りに揺れ動いてしまっていた。
 もちろん、戦わなくていいのなら、それに越したことはないと思う。自分なんかが役に立てるとも考えない。むしろ大人しくしていた方が、トワイライトの負担にならずに済むだろうか。けれど、自分一人だけ、何もしないでいいのだろうか。でも。
 脳裏に、ぐちゃぐちゃと複雑に絡まり合った糸のイメージが浮かび上がってくる。それは、今のボール・アイの心理そのものだ。様々な感情が千々に入り乱れて、魑魅魍魎と化している。
「だが、君がここで逃げ出せば、自らの手で仲間を助け出すことは、不可能になってしまうよ?」君はそれで、本当にいいのかい?」
 自分を見失い、思い惑うボール・アイ。しかしそこに、トワイライトの声が、矢のように突き刺さった。
 胸の中で絡まり合った糸屑が、断ち切られ解かれて、一筋の光を見出す。
(そうだ……!僕は仲間を助け出すんだ。他の誰でもない、僕の力で!!)
「大丈夫!僕、戦える!」
 トワイライトを見上げ、そう断言する。輝きを取り戻したボール・アイの目を見て、彼はかすかに口元を緩めた。
「いやぁ、別に遠慮をする必要はないぞ?君を、望まぬ行為に無理矢理付き合わせるわけにはいかんからなぁ。変に気を遣わず、逃げたいのなら逃げていいんだぞ?誰も君を咎めたりはしない。それでも……やるのか?」
「やる!!」
 揶揄うような、試すような調子で嘯く彼を、ボール・アイは真っ直ぐ見据えた。その様子は、完全に覚悟の決まった者のそれだ。トワイライトは表情を真剣なものに変え、落ち着いた声を発する。
「ならば、少し手を貸してくれたまえ……君の協力が必要だ」
「分かった。僕は何をすればいい?」
 手の中に作り出した剣を握り締め、淡々と伝える。ボール・アイは気丈にも、冷静沈着な声色でトワイライトに問うた。
「そうだな……っと!」
 トワイライトは呟きかけて、慌てて身を屈める。頭を狙って飛び出してきたコードが、空を切って壁にぶつかった。部屋全体が揺れるほどの凄まじい衝撃に、トワイライトは顔を歪ませる。あれほど強力な一撃を受けたら、どうなってしまうことだろう。ヴァレンタインは彼の焦燥を察知したのか、ニヤリと笑みを深めて、追撃を繰り出してきた。
 真っ直ぐ放たれた攻撃を、体を捻って回避する。急過ぎる動作に若干バランスが崩れた。片手を床について支えながら、こっそりと歯噛みする。
(しかし、これは中々厄介だな……)
 一つ一つの攻撃は簡単に見切れるものだが、こうも勢いが激しいと、話は別だ。身を守るのに精一杯で、攻勢に転じる暇がない。以前は広く感じていたはずの部屋でも、戦闘の場としては酷く狭くて、動きにくく思えた。もう少しスペースがあれば、もっと規模の大きい魔法を使えるのだが。これでは彼を倒すどころか、接近することもままならない。
(せめて近付けさえすれば、あるいは……)
 トワイライトはゆっくりと周囲を見まわし、己が取るべき行動をシミュレートする。
 目の前に待ち構える、イソギンチャク。伸ばした触手を貪欲に蠢かせるそれは、まるで檻だ。少しでも獲物の匂いを嗅ぎつければ、即座に襲いかかってくるだろう。だが、これと正面から戦うことに意味はない。コードはあくまで、ヴァレンタインの魔法の産物だからだ。術者である彼本人を叩かねば、何のダメージも与えられない。つまりは、どうにかしてこの檻を突破し、彼に肉薄しなければならないのだ。
「ボール・アイくん。ちょっといいかね?」
 そっとボール・アイを招き寄せ、耳元に囁く。尤も、耳はないので耳らしき位置に、だが。
「うん……うん。分かった。大丈夫」
 彼の提案を聞いたボール・アイは、しっかりと首を振り、任せろと胸を張った。この反応ならば、信頼しても問題はないだろうと判断し、トワイライトは彼を腕から降ろす。そして剣を構え、敵と対峙した。
 しばしの間、空気が停滞する。ヴァレンタインもトワイライトの意図を読み取ったらしく、動きを止めていた。互いの隙を狙って、両者は共に、息を潜める。
「こっちだよー!」
 突然、静寂を破って、ボール・アイの明るい声音が響いた。張り詰めた糸を断ち切られ、ヴァレンタインの注意が彼を捉える。その隙を突いて、トワイライトは一気に駆け出した。同時に、ヴァレンタインも魔法を放つ。
 赤色のビニールに覆われた、一際太いケーブルコードが、獲物を狩らんと一直線に伸びてきた。攻撃がボール・アイの身体にぶつかる寸前、どこからか銀の剣が飛来し、彼を守る。二つのエネルギーが真っ向から衝突し、互いに反動を受けて弾かれた。被膜の破壊されたコードから、細い電線が露出し、かすかに火花を散らせる。同時に、砕かれた剣の破片が、鋭く壁に突き刺さった。間一髪のところで助かったボール・アイは、ぷるぷると震えながらも顔を上げ、トワイライトの様子を窺う。
 手にしていた剣を投擲して、ボール・アイを庇ったトワイライトは、彼の安否を確認することもなく走り続けた。目の前に迫ってきた攻撃を、かろうじて身体を右に捻ってかわす。次の一撃も、その次の一撃も。軽快に避け続ける。続けて放たれたのは、足元を狙った巧みな一手。疾走の勢いを殺さぬためには、跳ぶしかない。足の筋肉に力を込めて、高く跳躍する。だが、それだけでは終わらない。踵が地を離れるタイミングで、魔法を発動させる。新たな剣を作り出し、宙に浮いた自分の、ちょうど足の裏がある位置にそれを浮かべた。体が重力に従う前に、刀身の腹を踏みつけ、強く蹴りつける。バキンと足場が破壊されるのと同時に、体が浮き上がり、更なる高みへと到達した。真下を猛スピードで通過するコードを目で辿ると、そこには案の定ヴァレンタインがいる。コードリールから伸ばした黒いケーブルを、カウボーイのようにグルグルと振り回していた。先端についたジャックは、体に当たったらさも痛そうだ。しかし、トワイライトにとっては、大した脅威にもならない。
 再び、魔法を発動。生み出した剣を浮遊させ、柄を握り締めてぶら下がる体勢を取った。そうして落下のダメージを消しながら、標的に接近する。投げられるコードもぶつりと断ち切って、体重を乗せた一閃を振り下ろした。だが、ヴァレンタインは決して動じない。むしろそれを待ち望んでいたかのように、コードリールを手放し、落ち着いた態度でトワイライトを迎え撃った。
 けたたましい金属音が、室内に響き渡る。
「ぷっくくく!オマエ、中々やるな……気に入ったぜ!」
 ヴァレンタインは愉快そうに喉を震わせて、トワイライトを睨んだ。彼の手には、いつの間にか重そうな手甲が装着されている。指の先端からは、20センチもありそうな、長い爪が伸びていた。内側の部分は、丁寧に磨き抜かれて、鋭く研がれている。恐らく相当の切れ味と見て間違いないだろう。トワイライトの剣戟は、彼の鉤爪によってきっちりと受け止められていたのだった。
「恐縮です。ですがあなたこそ……本当の実力を隠していますよね?」
 ギリギリと拮抗した鍔迫り合いが繰り広げられる。それなのにトワイライトは、淡々とした声色を崩さなかった。交錯する刃越しに、ヴァレンタインが唇を凶悪に歪めて笑う。
「あぁ。希少な実験台を、簡単に殺しちゃつまらねぇからなぁ?」
 嫌な予感を背に感じるままに、トワイライトは素早く剣を払った。距離を取ろうと後退する体のすぐ前を、硬い金属製のコードリールが薙ぎ払う。風圧がかすかに肌を撫でて、危機一髪であったということを如実に伝えてきた。着地をすると、勢いのままに靴裏が床を滑る。バランスを保つため、身を屈めて片手をついた。
「だがオマエほどの人材、こんなところで潰しちまうにはもったいないな……どうだ?俺様の元に来ないか?」
 起き上がりかけに、ヴァレンタインの愉悦混じりの声が飛んでくる。トワイライトはゆっくりと立ち上がりながら、尋ね返した。
「それは、あなたの部下になれということですか?」
 ヴァレンタインは肩を竦め、はぐらかす。
「どうとでも好きに取ればいい。ただし、一つ条件があるぞ?そいつを殺すことだ」
「っ!!」
 彼の青い瞳が、冷酷にボール・アイを射抜いた。睨まれた彼は息を飲んで、トワイライトに助けを求める。トワイライトは懇願の視線を背中に受けながら、ふーっと溜め息を吐いた。
「……生き残りたければ味方になれ。ただし敵ではないことの証明をしなければならない……そういうことですね?」
「その通りだ。話が早くて助かるよ。やっぱり何事にも、誠意が大事ってことだなァ」
 確認するように問うと、ヴァレンタインは尤もらしく首を振って肯定する。どうやら彼は本当に、トワイライトの有能さを評価しているようだった。
「なるほど。でしたら……」
 トワイライトも調子を合わせて、優秀な悪魔の顔で頷く。彼が続けて何を言うのか、ボール・アイは恐々と見つめていた。
 たった数瞬の間が、永遠にも思えるほど長く感じられる。まるで生きた心地がせず、ハラハラとないはずの汗腺から汗が滲み出る気がした。
「……謹んで、お断りいたします」
 もはやこれまでかと、覚悟を決めて目を瞑りかけた時。確かな言葉が耳を打つ。ボール・アイは驚いて、はっと目を開けた。
「え!?」
 思わず、困惑の声が喉から漏れ出る。
 きっと、裏切られるかと思っていた。悪魔なんて、欲望に目の眩んだ残酷な生き物だから、自分のことなど簡単に切り捨てると思っていた。
 それなのに。
 断った。
 彼は、断った。
 断ってくれた。
 迷いなど微塵も見せることなく、キッパリと拒絶してくれた。
 自分のことを、大切にしてくれたのだ。
 他の悪魔とは、ヴァレンタインとは、違う。
 驚愕と感動とに、体が震える。半ば茫然自失としているボール・アイに、トワイライトは小さく目配せした。彼の黒い瞳に自分が写っているのを見て、ボール・アイは胸が熱くなる。
「ひゃはははははは!!オっマエ、正気か!?」
 それをかき消すようにして、ヴァレンタインの狂ったような爆笑が響き渡った。
「馬鹿かよっ!!この状況で俺様に従わないなんて、自殺志願者かっつーの!!」
 彼は大仰な動作で手を打ち合わせ、腹を抱えて笑っている。だがそれは、純粋なる面白みから生まれたものではない。相手を嘲り罵る、冷たい感情の発露だった。パンパンと破裂音を立てる拍手も、まるで相手を恐怖させ、制圧するためにあるかのようだ。
「あいにくですが、私はここで死ぬつもりなどありません。まだ、やるべきことが残っていますからなぁ」
 けれどもトワイライトは決して、圧倒されることなく、冷静に言葉を返す。ヴァレンタインの顔から、笑いが消えた。
「何だと……?」
 一向に服従しようとしない彼に苛立ち、疎ましさのままに軽く睨め付ける。だがトワイライトは臆すことなく、ヴァレンタインの碧眼を正面から見つめた。
「あなた方にはきっちりと、償ってもらわねばなりません……私の貴重な友人を、苦しめた罪をね」
「何ということだ……」
 トワイライトの言葉に、彼はまるで打ちひしがれた様子で俯く。掠れきった声音でぼそぼそと呟いていたかと思うと、突然バッと顔を上げた。
「オマエたち……狂ってる!!狂ってやがるっ!!」
「ほお……狂っている、ですと?」
 激情を捲し立てるヴァレンタインを、トワイライトは興味深そうに睥睨する。ヴァレンタインはあっさりと彼の計略に乗って、頷いた。
「あぁそうさ!とんだイカれ野郎もいたもんだ!!モンスターが友達だなんてなぁ!!」
 トワイライトに指を突きつけ、騒がしい声で吠えている。明らかに侮蔑され、ボール・アイはむっとした。
「こいつらにはなぁ、理性も、感情もないんだよ!毎日、本能のままに食うことと寝ることとヤることしか考えてない、大バカなんだ!!そんな下等生物と、悪魔が対等なわけないだろうが!!」
 彼の怒りに油を注ぐように、ヴァレンタインは何度も首を振りながら、荒々しく叫び続ける。口調や表情から、それが挑発のためではなく、本心から放たれたものだと理解出来た。彼は心の底から、モンスターを軽蔑し、傷付けてもいい存在だと認識しているようだ。彼にとって己の行為は、責められる謂れのない当然のもの。罪の意識を抱くことも、当たり前ながらない。それなのに何故非難されねばならないのかと、憤りを感じているらしかった。
 激昂と共に衝動的に爪を払われ、トワイライトは逃げるように飛び退った。
「逃げんなっ!!」
「トワイライトっ!!」
 ヴァレンタインは追い打ちをかけようと、大股に一歩を踏み出す。同時に、ボール・アイの声が上の方から降ってきた。彼の黒い触手が伸びてきたかと思うと、背中を強く引っ張られて、足が宙に浮く。彼を追いかけるように、細いコードが飛んできた。
「ぐっ……」
 避けきれずに、腹部を軽く叩かれる。一瞬息が詰まったが、後退しつつある状況では、さほどのダメージにはならなかった。直後、背中が硬い何かにぶつかる感触がして、体が止まる。
「ぐぎぎぎ……大丈夫?トワイライト」
 後ろから、若干苦しそうな声がかけられた。振り返ると、壁の高い位置にボール・アイが鳥餅のように張り付いて、彼を支えている。先程弾け飛んだ剣の破片に巻き付き、壁を上ってきたらしい。とはいえ、流石に成人男性一人分の体重を抱えるのは辛いようだが。
「あぁ……大丈夫だ。ごほっ」
 彼に負担をかけまいと、トワイライトは気丈に振る舞ってみせる。無事だと宣言され、ボール・アイはかすかに安堵した。
「テメェ……邪魔をするな!下等生物風情が!!」
 彼に指を突きつけて、ヴァレンタインは怒号する。トワイライトを仕留め損ねた苛立ちが、全身から滲み出ているようだった。
「違うっ!僕たちは誇り高きモンスターだ!!下等生物なんかじゃない!!」
 だがボール・アイは、恫喝に屈せず、強い口調で叫び返した。まさか彼に言い返されるとは思っていなかったのか、ヴァレンタインの眉間の皺が更に深くなる。
「お前こそっ、酷いこと散々したくせに、僕らを批判するなっ!!」
 睨めつけられ、ボール・アイは一瞬臆しそうになるも、必死に自分を奮い立たせて反論した。彼の中には、ヴァレンタインに対する怒りと、対抗心とがメラメラと燃え上がっている。
 絶対に負けたくない。絶対に、この男の思い通りになどならない。強い意志と決意とが、彼を勇気づけていた。
 しかし、それこそがヴァレンタインの逆鱗だったらしい。
「黙れぇええっ!下等生物オマエ如きが、俺様に逆らえると思うなよッ!!」
 勢いよく鉤爪が振り回され、近くにあった長机を薙ぎ払う。がしゃんと音を立てて、巨大なデスクトップパソコンが床に落ちた。鋭い刃が、頑丈そうな外付けハードディスクを貫通する。断ち切られた電子回路が、バチバチとショートした。
「オマエはただ、俺様の言う通りにしていればいいんだ!!クズのくせに、生意気なこと言いやがってぇええ!!!」
「ぎゃんっ!」
 彼は瞳を血走らせ、激情に息を荒げながら、咆哮する。同時に飛んできたコードに、容赦なく打ち据えられ、ボール・アイは悲鳴を上げた。
「ボール・アイっ」
 強い力に弾き飛ばされ、思わずトワイライトから手を離してしまう。トワイライトは咄嗟に彼を助けようとしたが、自分自身も落下の危機に瀕していて、それどころではなかった。
 どうにか体勢を立て直し、片膝を立てた姿勢で着地する。極限まで衝撃を殺したはずなのに、肋骨にズキリとかすかな痛みが走り抜けた。
「っ……」
 痛みを覚えた箇所に手を当てて、小さく眉を寄せる。チクチクと内側から刺すような痛みが、トワイライトを苛んでいた。だが、だからといって、敵が休みを与えてくれるはずもないわけで。
「ハッハハハハハーッ!!」
 ヴァレンタインが狂ったように高笑いしながら、凄いスピードで駆けてくる。振り翳された鋭利な刃は、青白い光に包まれ、スパークを散らしていた。それが、魔法の効果であることは明白だ。恐らく、破壊した機械から電力を吸収し、得物に付与したのだろう。先ほどの行為は、単なる破壊衝動の発露でなく、きちんと意味を持ったものだったということだろう。ヴァレンタインは意外に、頭の切れる男なのかも知れない。あるいは、天性の戦闘狂なのか。そんなことはどうでもいいが。
 彼はあっという間にトワイライトとの距離を詰め、間合いに飛び込んできた。あまりにも素早い動きに、流石のトワイライトも平常心が揺らぎかける。即座に剣を構えるが、懐に入り込まれた状態では、大した防御など出来なかった。
「オラァ!」
 ヴァレンタインが、雄叫びと共に爪を振り下ろす。電撃を纏った鋭い刃が、トワイライトの肩口をスパッと切り裂いた。
 鮮血が飛び散り、新たな痛みが突き抜ける。傷口を介して流れ込んできた電流が、トワイライトの肉体を麻痺させた。ヴァレンタインは笑いながらも、追撃の手を緩めない。
「ヒャハハ!次だ次ぃ!!」
「くっ……」
 彼が繰り出したのは、ただのシンプルな横払い。だが、身体の痺れた今のトワイライトには、十分過ぎるほど強烈な一撃だ。いとも容易く剣は弾かれ、カランッと甲高い音を立てて床に転がった。筋肉が弛緩するのを止められず、トワイライトはその場にがっくりと崩れ落ちた。
「さァ、気分はどうだ?」
 無防備な状態で膝をつくトワイライトに、ヴァレンタインの鉤爪が突きつけられた。少しでも前へ出れば、すぐに眼球を貫かれてしまいそうだ。
 トワイライトは動きを止め、ヴァレンタインの顔をじっと見つめる。腕を伝い落ちてきた血が、ポタポタと滴った。
「これで分かっただろ?オマエたちじゃ、俺様には勝てない。何せ俺様は、あの方に”作られた”存在なんだからな」
「作られた……?」
 ヴァレンタインは、床に出来たその赤色を眺めながら、淡々と言葉を紡ぐ。告げられた意味深な単語に、トワイライトは瞬いた。刃物を向けられ、危機的な状況にいるとは思えない、挑戦的な態度だ。
「フッ……オマエが知る必要はない」
 ヴァレンタインは感心したように笑い、楽しそうに肩を揺らした。それから、手首を回し、鉤爪の位置を調整する。相手の眼窩から、そのまま脳みそまで貫かんと、狙いを定めた。殺戮の前の高揚感が、じわじわと己を内側から高めていく。腹を抱えて笑い出したくなるその感覚を、じっくりと楽しもうとした時だ。
「させないっ!」
「グッ!!」
 どこからか飛んできた、柔らかい水袋のようなものが、彼を襲った。硬くはないが勢いのあるそれに、頬を強かに叩かれ、思わず歯を噛み合わせてしまう。ガチ、と挟まれた肉が切れ、わずかな鉄の味が口内に広がった。
「トワイライトは、僕が助けるっ!!」
 彼を殴ったのは、ボール・アイだった。先端を太くした触手を、長く伸ばして攻撃したのだ。
(仲間を助けるって、決めたんだ。だから、トワイライトのことも……!!)
 戦う目的を見出した彼に、もはや迷いはなかった。どれだけ痛めつけられようとも、決して己の意志を諦めるつもりなどない。トワイライトを助けようと、果敢に立ち向かっていた。
「こンの……っ!クッソがぁああ!!!」
 軽蔑していたはずのモンスターに不覚を取り、ヴァレンタインの憤慨は最高潮にまで達する。今や痛みなどどうでもよかった。それよりも、こいつを許してはおけない。こんな醜い生き物に、自分の娯楽を妨げられただなんて。ただそのことが、腹立たしくてならなかった。声を荒げ口元を拭うと、手の甲に赤が付着する。血の鮮やかな色すら、彼の苛立ちを加速させる刺激物だった。
「VL53906!!まずはオマエから始末してやるっ!!このクソスライムが!!」
 怒声を発すると同時に、魔法を発動し、彼を罵倒する。天井から降りてきた謎のアームが、ボール・アイの粘体をがっしりと掴んだ。
「何っ!?」
 正体不明の機械にいきなり体を拘束され、ボール・アイは慄く。トワイライトはまずい状況を直感するが、未だに麻痺が残っていて、思うように動けない。
「オマエたちモンスターなんざ、ただの能無しのゴミだってこと、思い知らせてやるよ!!」
 どうにか立ち上がろうともがいている内に、ヴァレンタインは次の一手を打ち出していた。アームを伝って、黒いコードに繋がれた一本の細い注射器のようなものが降りてくる。中には半透明の紫色の液体が入っていた。見るからに、怪しげな薬品だ。一体どのような効果を持つものなのか、想像すらしたくない。
「ぃぎっ!?」
 無慈悲に針を突き立てられ、ボール・アイは顔を歪める。どういう仕組みかは不明だが、ピストンが自動的に下がり、中の液体を押し出していった。細い穴を通って、体内に謎の液体が流れ込んでくる。背中側から侵入してきたそれは、瞬く間に全身に広がり、粘体の隅々まで浸透していく。
「うぎっ……ぐぅう……!」
 即座に、全身がカッとなるような感覚がボール・アイを襲った。体が熱くなり、ドクンッと音を立てて、一回り膨張するような錯覚を抱く。体表を流れる粘液が、ボコボコと沸騰した湯のように不規則に盛り上がった。
 だが、最も彼に苦痛を与えるのは、身体的なダメージではない。脳裏に蘇る、過去の記憶だ。まるで昨日のことのように、まざまざと思い出される、それ。
 受けてきた痛みと苦しみとが、実感を伴ってボール・アイを傷付ける。目は閉じているはずなのに、瞼の裏に、親友の姿がくっきりと浮かび上がってきた。
『どうして、俺を殺したの?』
 大きな瞳が、VL53906を見つめる。その言葉は、恨みをぶつけるというよりも、純粋な疑問のために、放たれたようだった。
『俺たち、友達だったじゃないか』
 緑色の小さな体。握り締められた拳は、かつて共に手を取り合った時と、何ら変わっていない。
『やめてよ。痛いよ。苦しいよ』
 変わったのは、自分だ。
 彼を変えさせたのも、自分だ。
『許さない……絶対に、許さない』
 彼を殺し、自分だけが逃げ延びた。
 自分一人のみが助かるために、彼に苦痛を押し付け、命を奪った。
 純真無垢だった彼を、変えてしまったのだ。
『殺してやる』
 鋭い歯が、カチカチと威嚇音を立てる。
 彼は嫌いな相手にしか、その音を聞かせなかった。心の底から、恨み、憎む者にしか。
 自分はもう、彼の友達ではない。ボール・アイは理解する。
 彼はもう、自分のことを許してはくれないだろう。心を開いてくれないに違いない。
 結局、自分のしたことは、ただの裏切り行為。助けになんかならないのだ。ただ大切な友人や仲間たちを、傷付け失っただけ。どうすることも出来ない、償いきれない、罪。
『お前も、俺と同じ目に遭わせてやる』
 彼のその言葉が、ボール・アイの最後に残った心をも、粉々に打ち砕いた。一度は親友と呼んだ相手に、そんなことを言われれば、取り乱して当然だ。
「グワァアアア!!!」
 とうとう彼の思考から、理性は完全に排除された。彼の体がムクムクと膨らみ、今までの球形とは違う、全く新しい形を形成していく。それは、先日トワイライトが魔界府で見たものと同じだった。背の高い、痩身の人型だ。黒い細い腕には長い爪が、大きく開いた口からは、鋭い歯が不規則に生えている。
 彼の思考に残存しているのは、凶暴な破壊衝動のみ。目に映る全てを打ち壊し、完膚なきまでに叩きのめすことしか考えていない。それはまるで、飢餓に似た渇望だ。欲望を満たすしか、彼が彼でいる方法はない。でなければ、自身の存在を認められず、自分で自分を滅ぼしてしまう。
「ボール・アイくん……」
 天井を仰ぎ、掠れた咆哮を轟かせるボール・アイを、トワイライトは呼ぶともなしに呼んでいた。だが、彼の声がボール・アイに届くことはない。今の彼は、完全に自我が崩壊し、暴走状態に陥っているのだ。いくら言葉をかけたところで、通じはしない。
「ヒャヒャヒャヒャ!だから言っただろう!モンスターなんか、ただのバカだ!ちょっと薬で刺激してやれば、簡単に理性を失う!こいつらには大した脳みそなんか、詰まってないのさ!!」
 ヴァレンタインの笑い声が、ボール・アイにも負けぬボリュームで、室内に響き渡った。トワイライトは彼を一瞥し、平静を装った声音で問う。
「一体、何を盛ったのですか?」
「どうだっていいだろそんなこと」
 しかしヴァレンタインは取り合わない。ふざけた調子ではぐらかし、ニィッと口角を吊り上げてみせた。
「あいつのことより、自分の心配をした方がいいと思うぜ?もうあのクソには、考える能力なんてない。オマエのことだってきっと、味方だと判別出来ずに襲いかかってくるだろうなァ……くくく、楽しみだ!かつては親しかったゴミ同士が、互いに醜く争って、生き絶えていく様を見るのは!!」
 彼が両手を広げて仰々しく示すのを見ると、ボール・アイが細長い体を前屈みにしながら、じっとこちらを凝視していることに気付いた。正確には、彼の顔に目はないのだが、確かに視線を感じたのだ。
「”いつの時代にも、最高の娯楽を”。例えば、殺戮。例えば、騙し合い。例えば、賭博」
 完璧に作り上げた余所余所しい声音で、ヴァレンタインが嘯く。その言葉にどこか聞き覚えがあるような気がして、トワイライトは眉根を寄せた。
「さぁ、今度こそ、今宵のショーのスタートだ!!」
「グルァアア!!」
 だが、そんなことを考えている場合ではなかった。彼が声高らかに宣言した直後、唸り声を発したボール・アイが、勢いよく飛び出した。まるで、赤色を目撃した凶暴な雄牛のようだ。決して重量のある肉体には見えないのに、彼が一歩を踏み込む度に、強い振動が床を通して伝わってくる。
「……!」
 彼と戦うことなど出来ない。かといって、何もしないわけにもいかない。今のボール・アイは、トワイライトのことも認識出来ていない状態だ。抵抗しないでいれば、殺されてしまうだろう。しかし、どうやって彼を止めるというのか。どうやって、彼を元の彼に戻すというのだろうか。
 思案するトワイライトの頬に、彼の体から飛び散った黒い粘液が、ポタリと付着した。

  *  *  *

「ぁぁあああーー……っ!!!」
 暗い細い通路の中を、カーリはなす術もなく滑っていく。かなり傾斜のきついそれは、まるで巨大なウォータースライダーか滑り台のようだ。尤も、四方ががっちりと囲まれていて、全く爽快感も開放感も抱けないが。
 無機質で冷たい金属の壁は、つるつるとしていて掴まれるようなところが何もない。おまけに狭くて、カーブが訪れる度に必ず体のどこかをぶつけてしまう。つまり彼女は、何の抵抗もせずに、ただ膝を抱えて体を丸め、耐えることしか出来ないのであった。
「痛っ!いたたっ!ひっ……ぎゃぁあ!」
 だがやがて、彼女の長い旅も終わりを迎えた。何か格子状の硬い物体に衝突したかと思うと、勢いのままにそれを破壊して前へと飛び出す。その先に床はない。体がわずかに浮遊感に包まれ、そして落下した。
「いっ!たぁ……っ!!」
 頑強そうな格子を下にして、彼女は落ちる。衝撃が、ビリビリと骨の髄まで伝わってきた。
「イタタタタ……うぐっ、はぁあ……」
 かすかに息を荒げ、呻く。だが懸命に痛みを堪えて立ち上がり、今し方自分が排出されたばかりの穴を覗き込んだ。
「エンヴィスさん!!」
 片足をかけて、来た道を戻れないかと試みようとしたが、無理だと悟った。これだけの傾斜に、魔法も特殊な身体能力も持たない彼女が、逆らえるわけがない。必死に足掻いても、掴みどころのない金属は冷たく、彼女の手を拒絶した。結局カーリは、すぐに力尽きてしまい、滑り落ちてしまう。
「……っ!!」
 焦っても焦っても、空回りして上手くいかない。一瞬、拳を握り締め、怒りのままに壁を殴りつけようかとも思ったが、止めた。そんなことをしても、何も得られないからだ。無意味と分かっている行為に、労力を費やせる熱さは、カーリにはなかった。代わりにあるのは、危機に陥っているはずの仲間への心配。ただそれだけだ。
(早くしないと……エンヴィスさんが……!!)
 彼は身を挺して、カーリを庇い、逃がした。その時生まれた隙が、致命傷になっていないとも限らない。今頃はもしかしたら、あの赤い髪の女に手酷く痛めつけられているのかも。
 カーリは不安げな顔を浮かべながら、彼の名を心の中で呼んだ。必死に頭を働かせ、何か方策を考えようとする。そして、辺りを見回して、気が付いた。
「どこ、ここ……!?」
 呆然と、独り言が漏れる。カーリはようやく、自分自身の置かれた状況を把握し始めていた。
「えぇ……?」
 困惑の声を上げながら、長い髪をかき上げる。狭い穴の中を転がり、床に落ちたせいで、彼女の髪はぐしゃぐしゃに乱れ、顔にかかっていた。
 手で適当に直しながら、もう一度周りを眺める。彼女の視界に映るのは、黒とも銀ともつかない、無機質な金属の色に埋め尽くされていた。至る所が謎めいた機械で埋め尽くされ、内臓が揺さぶられるような駆動音を響かせている。その間を縫って、金網で作られた細い通路が、縦横無尽に駆け巡っていた。おまけに壁や天井からは、スチームが不規則に噴き出し、通行と視界を妨げている。
 まるで、ドラマや映画に出てくる、機関室のようだ。構造が複雑で、少し歩き回ったくらいでは、到底全容の分からなさそうな場所。
 試しに、ウロウロと彷徨ってみたが、出口らしき場所は発見出来なかった。当然、ここがどこなのかも、理解出来ない。謎の空間に、彼女は一人佇んでいた。
「何なの……これ……!!」
 あまりに衝撃的過ぎて、思わずパニックに陥りかける。
 どこかで、カタンッと音がした。まるで誰かが、何かにぶつかったような音が。
「ひっ!」
 背後に気配を感じて、カーリは小さく悲鳴を発した。飛び上がる勢いで体を硬直させ、息を飲む。肋骨の奥で心臓が、バックンバックンと激しく脈動しているのが分かった。
「だ……誰かいるの……?」
 自分自身を落ち着かせようと、あえて声を出す。もしも生命だったら、反応を返してくれるかも知れないと思ったのだ。しかし、予想に反して、誰からの返答も得られなかった。音はすっかり静まって、今はまた沈黙が周囲を支配している。
(気のせいだったのかな……確かに、誰かがいると思ったんだけど……気のせいだと思おう。うん、そうしよう)
 わざとらしく頷いて、胸中を苛む恐怖を抑え込む。相手が誰であれ、敵かも知れないことを考えると、冷や汗が止まらなかった。
 執拗に後ろを気にしながら、そそくさとその場から逃げ出す。早足で移動し、適当な曲がり角を見つけると、一気に駆け込んだ。彼女の背丈より大きな、銀色のタンクにもたれかかる。そのまましばらく様子を窺ったが、もう物音はしなかった。
「はぁ~~~……」
 安堵の息を吐いて、ずるずるとしゃがみ込む。膝を抱え、頭を埋めた。
 恐怖がなくなると今度は、再び焦燥がやってくる。
「あぁ、どうしよう……!」
 カーリはまた、独り言を漏らした。
(私のせいだ……っ!!!)
 頭の中で、自分を責め立てる声が、鳴り響く。
(私が、エンヴィスさんたちを危険に巻き込んだ。私が、あの人たちを苦しめたんだ……もしも何かあったらどうしよう……私が、あんなことしなければ!!)
 どうしようもない後悔が、彼女の胸を満たす。そんなことをしても、現実が変わるわけでもない。何の生産性もない、無意味な行為だ。けれど、しないではいられなかった。矛盾している。さっきは無駄だと思って、壁を殴るのを止めたのに。
(もしも……私がボール・アイを助けなければ……もしも、あの子と二人で姿を消していたら……こんなことには、ならなかったのかな)
 そんなこと、出来はしなかっただろうに。馬鹿な己に腹が立つ。そんなことの出来る悪魔なら、こんな目には遭っていない。きっともっと別の人生を歩んでいただろう。
 だが、考えるのを止めることもまた、至難の業だった。
 無限の『もしも』が彼女を縛り上げる。もしも、他の方法を取っていたら。もしも、職場に彼を連れて行かなければ。もしも、トワイライトの提案を、断固拒否していたら。もしも、自分が、いなければ。
 何かが違っていたのだろうか。
 こんな苦しみを抱かなくて済んだだろうか。
 自分を受け入れ、大切にしてくれた仲間たちを、自らの手で貶めてしまったという、苦痛を。
 もはや彼女には何も出来ない。否、初めから、何も出来てはいなかった。
 冷たくなった、掌を見つめる。
 この手には、何も握られていない。
 カーリには、何の能力もありはしないのだ。
 トワイライトのように、現状を即座に理解し、冷静に判断を下す力も。エンヴィスのように、敵を撃破する腕っぷしも。レディのように、何があっても明るく笑っていることだって出来ない。何もないのだ。こんな風に、敵地のど真ん中でただ一人、力なく蹲り絶望していることしか。することがない。
(それなのに私は……どれだけ馬鹿なんだ!!!どれだけ愚かなことをすれば、学習するの!!!)
 批判の刃で、心を切り裂く。こんなものでは、全く足りるはずがない。この程度の痛みでは、不十分だ。調子に乗って思い上がった、身の程を知らない愚かな馬鹿女を、教育し直すには。もっともっと自分を否定して、心に痛みを与えて、躾をしなければ。
(私には、何の力もない!!何の強さも、ないんだよ!!なのになんて……馬鹿なことをしたのっ!!!)
 自分の愚鈍さに、反吐が出る。
 何が、仲間だ。
 何が、信頼だ。
 結局自分は、ただ甘えていただけだ。彼らの優しさにつけ込んで、いいように利用していただけではないか。
 一度失敗をし、その後もまた厄介事を持ち込んで。自分の身を守ることさえ出来ていないのに、魔物を助けようなどと考えた。そして当然のことのように、彼らを巻き添えにした。
 何と生意気で、傲慢で、図に乗った行為だったことだろう。ただのお荷物から脱却出来ていないくせに、身勝手にも他人を引きずって、無茶に付き合わせた。一人ぼっちでは何も出来ないくせに、助けてくれる相手が現れた途端、まるで自分が無敵になったかのような錯覚に酔った。根拠のない全能感に溺れ、自らの抱いた全てを押し付けた。理想も、期待も、欲望も、何もかも。仲間という都合のいい言葉に甘え、現実を見ずに夢を見た。彼らと共に、危険を乗り越え、先へ進めると信じた。まるで物語の主人公のように。本当はそんなこと、あり得るはずはないのに。何も出来ないのならば、何もしなければいいのに。何もない自分に優しくしてくれる者たちがいたことに舞い上がって、自分も彼らと同じだけの力があるのだと思い込んだ。本当の己を見ずに。
 もしも、彼らがこの任務で、全員命を落としたら。一体どうしたら責任を取れるのだろう。いや、彼女なんかの首では贖いきれないはずだ。もう既に事態は、彼女の手に負えないところまで転がってしまっている。全ては、力のない者が、自分勝手な行動を取ったせいだ。自分のせいだ。一人で隠れていることしか出来ない、自分のせい。
 カーリは途方に暮れて、その場に縮こまっているしかなかった。
(もっと、私が強かったらなぁ……)
 頭の中を堂々巡りするのは、考えてもなす術のない、それ。決して意味のある答えを導き出しはしないのに、いつまでも未練がましく縋り付いてしまう。
 もしも、もっと自分に力があれば。
 身に降りかかる災いを、全部自らの力だけで跳ね除けることが出来る。
 自分を傷付ける者のことは、自分の手で撃退出来る。
 誰の手も借りず、誰のことも頼らないでいられる。
 自分の望みは、何もかも自分自身の手で、実現することが出来る。
 そんな悪魔だったら、どんなに良かっただろう。大切な相手に迷惑をかける罪悪感、誰かにとっての重荷になっているという呵責に苛まれることもない。むしろ今度は自分が、相手の助けにだってなれるだろう。どちらかに負担が傾くことなく、完全なる対等として、肩を並べて胸を張れる。互いに支え合い、手を差し伸べ合って、歩いていける。
 そんな空想、さっさと捨てるべきなのに。まだ、諦められなかった。
 自分で肯定出来る自分。自分が好きな自分になって、自分の好きな者たちの隣にいたい。それこそが完璧に自分の好きな、理想の自分だと言えるのに。
「全く……お前は、まだ希望を捨てていないのか」
 突然、どこからともなく厳かな調子の声が響いた。
「!?」
 カーリは驚いて、声のした方を見る。彼女のすぐ近くに、見たことのない、異形の悪魔が立っていた。
 例えるならば、人型のドラゴン。漫画やアニメに登場する、竜人と呼ばれる生き物によく似ていた。そんなものが現実にいるかは知らないが。
 背中に生える、濃茶色の巨大な翼。コウモリのようなそれには、白く光る鋭い爪がついている。股の間から覗く太い尻尾は、白銀色の外皮に包まれ、金属の鎧より頑丈そうだ。先端にはモーニングスターのような、棘の生えた球体がくっついていた。
 体格は、これまた常人離れしたもの。目測だが、大体二メートル以上はあるだろう。細く引き締まった肉体を、翼と同じ濃茶をした、レトロなデザインのスーツに包んでいる。服の袖から覗く手は、やはりドラゴンを彷彿とさせる凶暴な作りをしていた。悪魔の肉体など容易く断ち切れそうな、鋭い鉤爪が光っている。肌は全て爬虫類めいた、カサついて硬そうな茶色の鱗で覆われていた。それらの外見のせいで即座には分からなかったが、顔立ちはかなり整っているように思える。意志の強そうな、凛々しい眉と薄い唇、黄金色をした瞳は猛禽類のようで、鼻筋もすっと綺麗に通っている。やや長めの髪は黒に近い茶色で、ゆるりとウェーブがかっていた。セットではなく癖っ毛なのだろう。両の側頭部からは、反転したS字の形をした長い角が飛び出していた。がっしりとした荘厳なデザインで、RPGやファンタジー作品に登場する、悪の魔王を彷彿とさせる。
 力強さと獰猛さ、それらを存分に漂わせる姿は、恐ろしくもあり美しくもあった。カーリは自然と、瞳が吸い寄せられるのを感じる。
「努力を怠ったのはお前の責任。それなのに……自身の怠慢を棚に上げて、何を嘆く?」
 ドラゴン男はわずかに小首を傾げ、自分を凝視する小娘を、まるで試すように見下ろす。だがすぐに表情を変え、口元に皮肉げな笑みを浮かべた。
「まぁ、お前如きが、いくら努力しても、決して結果なんぞ出ないだろうがな。ハハハッ、素晴らしい悲劇(ものがたり)じゃないか」
 酷薄な笑顔は、誰かを挑発して怒らせるためのものではない。心底から、本気で、他人を軽蔑し嘲笑っている者のそれだった。
 だが、カーリが憤ることはない。その程度の感情を向けられたくらいで、今更一々取り乱せるほど、彼女の心は健康ではなかった。
「報われない悲しみよろこびよ、甘美な絶望きぼうよ……お前は何故、我らを惑わすのか」
「!!」
 カーリの反応など気にかけず、男は何かの詩の一編のようなものを口ずさむ。男の声にはまるで熟成されたウィスキーに似た深みがあり、スチームの音がひっきりなしに鳴るこの空間でも、よく通った。カーリはようやく我に返り、パチパチと瞬きをする。男の外見のあまりの強烈さに呆気に取られ、どこかへ飛んでいっていた心が、身体に戻ってきた。
「……あなたは、誰……?」
 おずおずと問いかけながら、ゆっくりと立ち上がる。座ったまま話すのは失礼かと思ったのだ。しかし彼女の背は未だタンクに付けられたまま、その警戒心の強さを表してもいた。
「誰でもない。あるいは、誰だっていいだろう。俺はお前に、ただ忠告アドバイスをしてやりに来ただけだからな」
 男は肩を竦め、またもや意味深な回答をした。
「アドバイス……?」
 続けて放たれた単語が引っかかって、カーリは鸚鵡返しにする。男はほんのかすかに首を揺らして肯定した。
「そうだ」
 獣じみた大きな手を上げたかと思うと、長く伸びた爪を一本、カーリへと差し向ける。上司が部下に指を突きつけて、叱責する際のジェスチャーに見えた。
 カーリは少しだけ、体をずらして男から距離を取ろうとする。無論、彼が本気を出せば、目の前にいるカーリのことなど即座に捕えられるだろう。だが、心を許していないとアピールすることは、間違いではない気がした。誰だって、相手に自分が許容されたと思ったら、図々しくなるものだ。それを防ぐためには、相手を信頼していないと示すことが、一番である。
「いいか?よく聞け。無駄な足掻きは止めることだ。その方が楽に生きられるぞ?」
 しかし男は、彼女の行動などまるで気にかける様子がなかった。一方的に、言いたい言葉を率直に放ち続ける。それを聞いて、カーリは思わず目を丸くした。男の、礼を欠いた態度に憤慨したのではない。ただ単純に、驚いたのだ。
 男の言葉は、彼女の先ほどまでの思考に返事をしているようなものだった。けれども。
(私、さっき声になんか出していなかったよね……?)
 彼女はそれを口にしてはいなかった。必死になって思い返すまでもなく、分かることだ。いくら考えに没頭していたとしても、自身の直近の行動を、この短時間で忘れるはずがない。彼女は、間違いなく、発声などしていない。万が一呟いていたとしても、自らの思いが丸ごと漏れ出すなんてことは、あり得ないことだ。思考回路とは、そう簡単に言語化出来るほど、安直なものではない。
 けれどこの男は、答えた。まるでカーリの脳内をそっくりそのまま覗いていたかのように。もちろん、ただの偶然なのかも知れないが。彼女は何故か、そう思った。
「ど、どういうことですか……」
 恐る恐る、硬い声で問い返す。用心するのを止める気はなかったが、しかし、逃げ出そうという考えもなかった。何故だかこの男に、得体の知れない謎めいた存在に、惹かれていたのだ。理由は分からない。だが、自らの全てを把握されているということに対して、恐怖よりも興味が勝っているのは事実であった。
「私は、絶対に、強くはなれないってことですか。どれだけ頑張っても、絶対に」
「大体合っている。強さとは何か、にもよるがな……」
 カーリの言葉を遮って、男は頷く。手で頬を撫でさすっているが、爪で皮膚が切れないのだろうかと、ぼんやり思った。
「そう……ですか……」
 カーリは諦めの色を瞳に宿し、分かりやすく声のトーンを落とす。落胆の様子を見せる彼女を、男は片眉を上げて見遣った。
「反発しないのか?反抗でも構わないぞ?」
(どう違うんだろう……)
 面白いと感じていることが明らかな、浮ついた声音で畳み掛けてくる。カーリは困惑しながら、頭の中の辞書をひっくり返していた。だが、適切な表現に辿り着く前に、再び男が口を開く。
「大抵の連中は、自分を否定されたら、怒るものだ。赤の他人に、勝手に限界を作られたら、躍起になって抗おうとする。違うか?」
 男はやはり、カーリを試そうとしているらしかった。彼女を揶揄うことで、自分に楯突かせようとしているようだ。
 確かに、彼の言葉にはカーリも同意出来る。何も知らない他人に、自分のことをあれやこれやと決めつけられたら、誰だって不快に思うだろう。だが、だからといってその普通に、彼女も当てはまるとは、限らない。
 もはや彼女の心は、その程度の刺激では、動きはしないのだ。彼女の心は凍てついていて、強い感情を湧き立たせる力など残っていない。そうなるように、自分で自分を調教してきた。貶されても、見下されても、何の感情も抱かぬように。でなければ、自分を守れなかった。彼女の心は傷付きやすく、壊れやすいものだから。
「あなたは……そうやって私を成長させようとしているんですか?」
「いいや全く」
 冷静に尋ねる彼女の言葉を、男はつまらなさそうな顔をして、両断する。あまりにも予想通りの返答で、カーリは若干苦笑いを漏らした。
「ですよねー……」
 この男に、見ず知らずの彼女を強くさせる理由など、あるはずがない。逆に、あると言われた方が、驚きだっただろう。恐怖を抱いたかも知れない。
 カーリは男から目を逸らしていたので分からなかったが、彼の方はカーリのことを、じぃっと黙って眺めていた。そしてフッと、唇の端を歪に持ち上げる。
「フン、意外に肝が据わっているんだな。俺のことも怖がっていない」
「え?」
 カーリは驚いて、外していた視線を男へと戻す。心臓が小さく跳ねた。怖がられることを期待していたのなら、それが外れて不快に思われているのかと。
「あ……す、すみません……何て言うかその、色々と、諦めちゃって……」
「?何故謝る?」
 気まずく思いながら謝罪する。何か理由を添えた方がいいだろうと考えて、だが途中で言葉を切った。かえって言い訳めいていると思ったのだ。しかし、こんな中途半端なところで切ったら、わざとらしく興味を引きつけているようで、嫌らしいかも知れない。ぐるぐると堂々巡りする思考を、男がきょとんと首を傾げて、遮ってきた。そのことによって、カーリは己の失敗を悟る。
「えっ?あっ、いや、あの……怖がって欲しかった、のかなって……」
「何故俺がお前にそんなことを求めなくちゃならないんだ?恐怖は真っ当な会話を妨げるだけだ。不毛でしかないだろう」
 ワタワタと両手を振り回しながら弁明すると、男は更に怪訝そうに問いかけてきた。正論にぐうの音も出ない。間違った方向に深読みを進め過ぎた自分が、恥ずかしくなる。一刻も早くこの話題を切り上げようと、慌てふためきながら同意と謝罪とを紡いだ。
「そ、そうですよね……すみません」
「だから!何故謝る!?」
 けれど、それこそが逆鱗であったらしい。男の眉間に刻まれた渓谷が、一層深くなる。直後、怒声と共に勢いよく肩を掴まれ、カーリは怯んだ。
「っ!?」
 獰猛な肉食獣のような目が、至近距離から覗き込んでくる。金色の瞳に浮かぶ縦長の瞳孔は、まるで際限のない宇宙へと続く門のようだ。ずっと見ていると吸い込まれてしまいそうで、カーリは咄嗟に目を逸らした。
 触れられている箇所から、圧倒的な強さが、重みとなって伝わってくる。いつもだったら、他人との接触など嫌悪でしかないのに、今だけは違った。
 薄い肩を、すっぽりと包み込む大きな手。ワニのようなザラザラとした皮膚に覆われた、太い腕。その内側には、一体どれほどの筋肉と力が蓄えられているのだろう。きっと彼女のことだって、気分次第で容易く屠れるはずだ。そう考えると、カーリは棒立ちして、出来るだけ彼を刺激しないように努めているしか出来なかった。
「はぁー……っ」
 突然、男が盛大に溜め息をつく。ゆっくりと、肩に乗っていた重みが降ろされた。カーリはハッとして、彼の顔を見上げる。
「もういい。続けろ」
「……え?」
 男はぶっきらぼうに、それだけ告げた。いきなりのことで、カーリは一瞬何を言われているのか分からなかった。察しの悪さを怒鳴られはしないかと、ヒヤリとする。
「諦めると言ったな。何のことだ」
 だが幸運なことに、彼はカーリに対して、何らの感情も抱いていないようだった。淡々と問いかけられ、意味を理解する。けれど、全てをありのままに話すべきか、カーリは迷った。
「えっと、それは……」
「それは?」
 まさに、気にしていた言葉の続きを促されて、焦燥が襲ってくる。しかし、突然それが馬鹿らしく思えた。もはやこの場で、この男からの心象を気にかけていても、仕方がないと感じたのだ。彼にどう思われていようと、自分には利益も不利益もない。仮に彼がカーリを殺すつもりなのだとしたら、それはもう阻止出来ないことだろう。彼は、多少媚を売られたぐらいで、態度を変えるような人物ではない。何故だかそう、直感した。
 余人が彼女の意見を聞いたら、きっと馬鹿にすることだろう。たったこれだけの短時間で、相手のことを理解出来るはずないと。長年連れ添った夫婦ですら、価値観の違いで別れたりするのだ。ましてや、他人の感情に疎いカーリが、正しい判断を下せるわけがない。
 けれど彼女は”分かって”いた。信じるでもなく、”理解”していたのだ。単に、彼の保有する、強さと美しさとに、惹かれていただけなのかも知れない。それはまさに、カーリが欲しかったものだ。まさに、理想だった。だから、憧れているのかも。到底届かないと分かりながら。
 彼はきっと本物のドラゴンなのだと、カーリは半ば本気で信じ始めていた。人間や、悪魔とは違う、もっと高尚で崇高な、気高き存在。こんな神秘的な生物が、わざわざ悪魔のことなど気にかけるはずがない。時が来れば、何の憐憫もなく、彼女の体を引き裂くことだろう。逃走も、抵抗も無意味だ。距離を取りたいという気持ちすら、カーリの中からはなくなっていた。
「それは?何だ」
 再び問いかけられて、カーリは意を決する。全部、打ち明けてしまおうと決断した。彼にならば、言える気がしたのだ。今まで誰にも、トワイライトにさえ、打ち明けたことのなかった本心を。
 それは、彼という存在が、名も知らない赤の他人だからだろう。この場を過ぎれば関係が一切途切れてしまう、仮初の相手だからこそ、語れることがあるのだ。
 男の顔を真っ直ぐ見据えて、ポツポツと小さな声をこぼす。男は口を閉ざして、カーリの言葉を聞いていた。
「私、何の力もなくて、知識もなくて。勇気も、度胸も足りない割に、理想ばっかり高くって、欲の深~い悪魔なんです。だから、子供の頃から、理想とか、夢とか。今まで一度も、叶えられたことがない……その内、諦めるようになっちゃったんです。叶えられなくて苦しむくらいなら、初めから、夢も希望も、持たなければいいって」
 何かをしたいと願えば、それを達成した時の想像が湧き、あるいは自分なら叶えられると信じ込むようになる。だが、現実は想像とは違う。抱いた夢が、叶ったことなどなかった。ただ、傷が付いただけだ。心という、肉体の中で最も、治療の難しい場所に。臆病で脆弱な彼女は、その痛みに耐えきれなかった。
 だからカーリは、何かを望むことを止めた。期待さえしなければ、失望も、落胆も、味わうことはないからだ。痛みを感じることも決してない。それは彼女が独自に考案した、防衛策だと言えよう。今まで幾度も、自分を守る方法を、開発しては実践してきた。おかげで、以前よりは随分、心を痛めることがなくなった。だが代償として、途轍もない対価を支払う羽目になった。
「そうやって、色々諦めている内に、生きてくのに必要な、目標とか夢とか、生きる意味とかそういうの、全部全部、どっかに捨ててきちゃったんですよ」
 期待も、希望も、理想も、夢も、目標も、欲望も、欲求も、要求も。ありとあらゆる感情をかなぐり捨てて、身一つで生きてきた。
「だから私、何にもないんです。生きてることへの執着も、心残りとか未練も、これ以上、生きる意味も……死にたくないって思う理由も、もう、ないんです」
 どうせ何も得られないからと、何も求めないで生きてきた。そうしたら、とうとう自分と現実とを繋ぎ止める糸すら、プッツリと途切れてしまった。
 彼女はもはや、己の存在に意味を見出せないのだ。生きたいと強く願う気持ちすら、消えてしまっている。だからこんなにも彼女は、死を恐れていない。
「死への恐怖に、理由がある奴の方が、稀有だろう」
「そうなんですか?」
 男が、さも当然のように放った一言に、カーリは驚く。パッと顔を上げ、呆然と問い返した。彼女の瞳に浮かんでいるのは、ただひたすらに純真で無垢な、穢れのない疑念。
「じゃあ何で皆、生きてるんですか?この世界は、全く自分の思い通りにならなくて、苦しいことばっかりだっていうのに。何か理由がなくちゃ、耐えられませんよね?」
 何故ハンバーグは美味いのかと、母親に問う幼児のような瞳で、質問を発する。長い黒髪がさらりと揺れ、頬を掠めた。
「……なるほどな。思い通りにならないことが、辛い、か……」
 彼は口の端を皮肉げに歪めて、低く呟く。
「?だって、当たり前のことですよね?」
 カーリは再び目を瞬かせて、彼を見上げた。
「わざわざ苦しみたいだなんて、誰も思いません。出来ることなら、ありとあらゆる苦痛を排除して、好きなことと楽しいことで、人生を満たしたいって思うはずですから」
 彼女が語るのは、当然の理論。誰もが憧れ、夢を見て、そして欲するもの。
「でも、そんなこと誰にも出来っこない。だから色々、考えるんです。生きる方策……」
「その通りだ」
 しかしながらそれは、所詮ただの憧れだ。何故なのかは分からない。カーリの身には分不相応だからというだけではない。この世界の誰一人として、絶対に実現することの出来ない、理想ユメ。望んでも、決して詮のないこと。だから皆、その欲望の代替となる何かを探し求める。権力や金、地位、名声、友達、家族、愛、神。拭い去れない辛さを埋める救いを、希求し続けるのだ。
「……私はちょっと、失敗しちゃっただけですよ。取り返しのつかない失敗を……」
 カーリにとってのそれは、欲求を殺し、感情を見ないふりして、心の殻の内側に閉じこもうろうとすることだった。
「理不尽な目に遭っても、私が悪い、自業自得だ、天罰だって。無理矢理自分を納得させて……どうせ叶わない願いなら、初めから抱かなければいいって諦めて……そうやって、上手く賢く、自分をコントロール出来たらよかったのに。私って、どうしてこんなにバカなんですかね」
 自力で開発した救いに、自分の全てを委ねることが出来たら。どれほど良かっただろう。だが彼女は、出来なかった。
「散々、痛い目を見てきたはずなのに、まだ、捨てきれてないんです。強くなりたいとか、役に立ちたいとか、自分の満足出来る自分になりたいとか、そういうこと。そのせいで、大切な人たちのこと、こんな私なんかにも、親切に、対等に接してくれた悪魔たちのことを……殺しちゃったかも知れなくて。最低ですよね」
 叶わぬ望みを抱き続けて、どうにかしてそれを達成しようともがき続けた。そして、周りの者をも巻き込んだのだ。命を奪われるかも知れないという、最大の危機に。
「多分私は、それでも学習しないでしょう。あなたの言葉が嘘だなんて思いません。私は、どんなに頑張って努力しても、強くなれない。成長もしない……だけど、希望を捨てることも出来ないと思うんです」
 自分の現状を受け入れることさえ出来れば、彼女はこれからも何不自由なく、生きていけるだろう。幸い、トワイライトたちは優しい。彼女が求めるのであれば、この先もずっと、庇護を約束してくれるはずだ。
「でも、私は、周りの人たちに頼って暮らすなんて、嫌なんです。私のことを助けてくれる人がいるなら、その人のことを助けたい。守られてばかりじゃ、嫌なんです。自分で自分を、許せなくて……」
 けれども彼女は、現実を受け止めることなど到底出来そうになかった。
 彼女が望むのは、自分の力で自分の人生を歩いていける、自分。自分一人だけで、自分の選んだ道を自分の好きなように進むことの出来る、自分なのだ。誰かに傷付けられることもなく、自分で自分の身を守ることが出来る。適切な目標を掲げて、それを達成することが出来る。自分の大事に思う人たちを、自分の手で助けることが出来る。そんな自分になりたいと、心の底から願ってきた。強さを求めるのは、そのためだ。
「笑っちゃいますよね。何にもないくせに、口では一端なことばっかり言って」
 夢は所詮、夢。絶対に叶うことのない理想だと分かっていても、彼女はそれを許容出来なかった。
 わざとらしく自嘲し、男の顔をチラリと見遣る。このまま笑い話に出来たらと、少し期待しかけていた。だが、男は相変わらずの無表情。当然の反応に、浮き足だった心が沈む。
 この愚かさはもはや、彼女の本質なのだろう。傲慢と、強欲とが織りなす、身の程知らずな完璧主義。それがカーリという悪魔の性だ。彼女には、今の弱い自己を認めることなど不可能だった。かといって自分で自分を肯定出来ない苦しみを、一生背負って生きられるほど、胆力があるわけでもなかった。
 彼女は長い間、他人から与えられる苦痛や、降りかかる理不尽に、声を上げることもなく耐え忍んでいた。そのせいで、彼女の心は必要以上に卑屈に、臆病になってしまったのだ。高望みばかりするくせに、傷を負うことを過剰なまでに恐れる者に。
「だったらもういっそのこと、殺された方が楽だと思うんです。そうしたら、もう二度と、辛い思いをすることもないでしょう?周りの人に、迷惑をかけることも」
 心臓が鼓動する限り、永遠に苦しみ抜くしか道がないのなら。その鼓動を止めればいい。簡単な話だ。
 カーリは男をじっと見つめ、小さく息を吸い込んだ。
「だから……どうぞ、殺すなら、殺してください」
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