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合成スライムは自由の夢を見るか? 〜前編〜
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翌日。カーリはいつも使っているトートバッグではなく、少し大きめのリュックを背負って家を出た。
通勤時間帯の地下鉄はかなり混んでおり、そのせいかカーブを曲がる度に車体が大きく揺れる。腹側に回したリュックの中で、もぞもぞと動くスライムを、そっと両手で押さえ付けた。
こんなところで暴れられたら、車内にパニックが訪れることは確実だ。ダイヤを乱した賠償金なんか背負わされては、今後の人生が台無しになる。しかし、声を出して注意すれば、それこそ怪しまれてしまう。カーリは結局、ただ気まずげに周囲を見渡すしか出来なかった。
やがて、何とか職場の最寄り駅まで到達。既にじわじわと精神的疲労が襲ってくるのを感じながら、どうにか駅構内を出て職場へと向かう。魔界府中央庁舎は、セントラル駅の目の前。徒歩5分の距離だ。案の定、すぐにその荘厳な外観が見えてきた。晴天下の朗らかな都市の中に、一つだけ完全なる漆黒が聳え立っている様は、いつ見ても異様に思える。しかしそれにすら、最近は慣れてきた。魔界での暮らしが板についてきたということなのだろう。カーリは気を取り直して、リュックの紐を肩にかけ直すと、正面玄関前の階段を登った。
出勤してくる職員たちの波に流されながらも、自分たちのオフィスに最も近いエレベーターに乗り込むことに成功する。これに乗れなければ、階段を使わなくてはならないところだった。あまり重さは感じないとはいえ、荷物を持った状態で7階まで階段を登るのはきつ過ぎる。カーリは内心安堵の息を吐きながら、オフィスのドアを開けた。
「おはようございまー……って、あれ?」
思わず独り言が漏れる。いつもなら、既にエンヴィスが出勤していて、資料の整理をしながらのんびりコーヒーでも飲んでいる時刻なのに。今日に限っては、カーリが一着のようだ。
(珍しい……エンヴィスさんいないなんて。道混んでるのかな?)
基本はバイク通勤の彼は、カーリのような、満員電車やダイヤの乱れに対する悩みとは無縁だ。しかし、代わりに道路の状況によって通勤時間を大きく左右されてしまう。特に大都会ハデスは、交通量も並々ではない。大通りでない場所で、たった一つ小さな事故が起きただけでも、周囲の道全体に大規模な渋滞が発生する可能性だってあるのだ。それはそれで苦労があるということを、彼女が想像出来ないはずがない。
「どしたの?カーリ」
「ううん。何でもない。ちょっとトイレ行ってくるね」
ボール・アイの明るい声が、リュックの中から響く。カーリは彼に断ると、リュックごと自身のデスクの椅子に置き、部屋を出ていった。
置いて行かれたボール・アイは、薄暗く狭いそこの中で、しばしじっと待機する。しかし、どうにも息苦しい。ファスナーは一部開いているが、やはり好き好んでいたいとは思えない場所だ。少しくらいなら大丈夫だろうと、彼は粘体の体を上手く利用して、隙間から顔を覗かせる。半身を外に出し、室内の様子を見回した。
別に、ごくごく普通のオフィスだ。けれども、外の世界をあまり知らないボール・アイにとっては、何もかも目新しく、素敵に思える。そのまま、目を輝かせて周囲を眺めていたボール・アイだったが、ふとどこかから視線を感じて、体を捻った。
「!」
出入り口の方を見遣ると、そこには、見知らぬ男が立っていた。カーリと同じ、漆黒の目と髪を持った大人の男だ。軍服を模したような奇妙な服を纏っていて、胸にはサイズの違うメダルがいくつか光っている。大きな垂れ目の上を飾るのは、光沢を放つ大きな角。力のある悪魔しか生えないそれを持っているということは、強い悪魔なのだろう。
「だっ、誰っ!?」
たちまち恐怖心が湧き上がってきて、ボール・アイは素っ頓狂な声を上げた。
「君こそ……一体、誰なんだ?」
男は、元々大きな目を更に大きく丸くして、ボール・アイを見つめている。繁々と、細部まで観察するような目つきに、ボール・アイの中で嫌な記憶が蘇った。
彼は緑色の液体の中で、のんびりと漂っている。彼を見つめる、白衣を着た数人の悪魔たちの眼差し。彼の体を透過して、モニターに表示された数字やグラフでしか、彼を見ない。突然、上から物音がした。自分が液体と共に入っていた容器の蓋が、開けられたのだ。手袋をした手が伸びてきて、彼の体を掴む。抵抗する間もなく、台の上に乗せられる。コードのくっついたクリップを身体中の至る所につけられて、眩しい照明を当てられる。そして、あの男。いつも酷薄な笑顔を浮かべたあの男が、舌舐めずりをしながら近付いてくる。冷たい手。冷たい目。ギザギザの尖った歯が、ギラリと光る。
怖い。
痛い。
気持ち悪い。
思考がそれでいっぱいになって、目の前が真っ暗になる。男の持ったナイフ。鋭い煌めきを放つ刃が、ボール・アイの頭上に掲げられる––––
風を切って振り下ろされて––––
体が––––
「おい、君」
「嫌だっ!!」
ガタン、と音がした。男が近付こうとして、それに怯えて後ずさった彼は、椅子ごと倒れたのだった。
本来スライムは、物理攻撃の効かない、痛みも覚えない種族だ。ボール・アイも同じく、ダメージは受けなかったが、しかし痛覚だけは働いていた。リュックからこぼれ落ち、床に転がり出た体に、鈍い痛みが伝わってくる。それでも無理矢理動き出して、ずるずると床を這いずった。一歩でも遠く、男から逃れたかった。もう二度と、あんな目には遭いたくない。あんな思いはしたくない。あんな痛みは……
「もう嫌だぁっ!!」
「ッ!!」
突然、スライムの体から太い紐のような物体が伸びてくる。それに思い切り腹部を殴打されて、トワイライトは息を詰まらせた。
「ごほ、ごほっ……部屋が散らかる。やめてもらえないか?」
咳き込みながらも、冗談混じりの声をかけてみるが、スライムは聞いていないようだ。トワイライトから少し離れたところで、小さな体を震わせ、異様な空気を放っている。頭頂部からどろどろと流れ続ける粘液が、勢いを激しく増し、循環しきれない体液を溢れさせていた。それはどんどんと拡大して、今やオフィスの床の半分ほどを黒く染めている。同時に、小山のような形をしていた体が、みるみる内に膨れ上がって、変形し始めた。
「何なんだ、君は……本当に、スライムなのか?」
答えが来るとも思えない独り言が、思わず口をつく。それほどに、目の前のこの魔物は異質だった。
確かに、スライム種の中には若干体を大きくしたり、形を変えたりすることが可能な個体もいる。しかしそれは、あくまでスライムとしての球体が崩れない範囲での話だ。だが今眼前にいるこの生き物からは、体表から突出した、長い触手のようなものが生えている。おまけに、スライムは基本的に言葉を話せない魔物だ。悪魔の言葉を話せはしないはずなのに。
一体彼は何者なのか。何故、カーリの私物らしきリュックに入っていたのか。トワイライトの中で様々な困惑が渦を巻く。だがその間にも、暫定スライムは変身を続け、やがては驚異的な変貌を遂げていた。
「な……っ!これは……!」
流石のトワイライトも、瞠目し息を飲む。彼の目の前にいたのは、もはや可愛らしいモンスターなどではなかった。
枯れ木のように痩せた体。先ほどと同じ黒色をした細い体躯に、小さな頭がちょこんと乗っている。身長は2メートルを優に超えているだろうか。やや膝を曲げた前傾姿勢を取っているのは、天井に頭を擦らないためだろう。不必要なほどに長い手には、同じく不必要な長さの鋭い爪が生えていた。目を表していたであろう液流の乱れは消え、代わりに口は、顔が裂けそうなほど大きく広がっている。その中には、光沢を放つギザギザとした歯が不規則に並んでいた。
普通のスライム種には、決して形作ることの出来ない、異形の姿だ。トワイライトは声をなくして、ただひたすらそれを見上げる。後退りしようと足を引けば、黒い粘液が、ねちゃりと音を立てた。いつの間にか室内の床全体に、この謎の液体が満ち満ちていたようだ。
「……っ」
靴裏が引っ張られる嫌な感触。トワイライトはゆっくりと視線を下げ、足元を確認しようとする。その時、彼の頭上に大きな影が出来た。スライム、否、かつてはスライムであったものが、細い右手を大きく振りかぶって、トワイライトを襲おうとしていた。
「グォオ!」
雄叫びを上げて叩き付けられる細腕、その先に伸びる長い爪。スライムの体ではあり得ないほどに硬質化したその部分からは、高い殺傷能力が見て取れる。先程殴られた時は、水の入った皮袋に叩かれた感触だったが、今度は違うだろう。確実に、皮膚が裂け肉が断たれるに決まっている。トワイライトは慌てて体を横に捻り、攻撃をかわした。背後で、本棚がひしゃげガラスが砕け散る音が聞こえる。バサバサと音を立てて、中に詰まっていたファイルや資料の山が、黒い水溜りの中に崩れ落ちた。しかしトワイライトは振り返らず、そのままばしゃばしゃと黒い粘液を蹴散らしながら、ドアの方へと向かう。いつの間にか閉じられていたそれの、ドアノブを捻り、引き開けようと力を込めた。だが、液体が波を打って押し寄せていて、開けられない。逃げ道を塞がれた。
「逃ゲルナァ!」
再びスライムの咆哮が轟く。振り返ると、化け物がすぐ目の前まで迫っていた。高く振り上げられた爪が、天井を引っ掻き蛍光灯を破壊する。パラパラと破片が落ちるのも構わず、それは大きく口を開けて、笑っているような表情を見せた。
「……仕方ない」
出来ればやりたくなかったが。他に方法がないようだ。
トワイライトは歯噛みして、手の中に愛用の剣を作り出す。細やかな装飾の施された、いつもの得物。が、しかしそれを、あっさりと手放す。そのまま落下するかと思われた剣は、重力に逆らって彼の頭上へと跳ね上がる。そして、化け物の長く伸びた腕を、ばっさりと切り落とした。
「悪いね、君」
「グォァアア!!」
どちゃりと音を立てて、腕だったものが粘液の中に沈む。血は出ていないが、痛みがあるのだろうそこを、怪物はもう片方の手で押さえて呻いた。トワイライトは素早く彼の前から避難し、距離を取って相手を見つめる。痛みという衝撃は与えたが、かといって油断は出来ない。仮の姿がスライムであった以上は、スライムとしての特性を有していると考えた方がいいだろう。そうだとしたら。
「オォオオッ!」
「……やはりか」
化け物が力むと、切断されたはずの右腕が、にゅるりと生えてきた。傷口から再び、樹から新芽が生えるように、新たな腕が出現する。
いくらでも再生が可能ということは、直接の攻撃はあまり意味をなさないということになる。次はどうするべきかとトワイライトが思案していると。
「っ!?うっ……!」
突如、足元から黒い紐のような何かが伸びてきた。
床に溜まった黒い液体。そこからも無数の触手が生えてきている。蛇のようなそれが、俊敏に動き回り、強い力でもってトワイライトの足首に絡みつく。そしてしなやかに蠢き、彼の体を容易く投げ飛ばした。
「ぐっ!」
部下たちの私物を薙ぎ払いながら、トワイライトは机の上を滑って床に落ちる。かろうじて受け身を取ったものの、堪らず呻き声が漏れた。すぐに体勢を立て直し、片膝をついて相手の動向を探るが、事情も知らぬ状態で戦うのは、やはり決心がつかない。しかし、相手はまるで理性の感じられない獣のような存在だ。並大抵の手段では片が付かないだろう。そして何より、動体範囲がかなり限定されるこの狭いオフィス内は、トワイライトにとって非常に不利な状況だった。
(どうする……殺すつもりで、一気に攻めるか?)
悩んでいる内に、再び怪物からの猛攻が始まる。今度は、本体と周辺の触手による一斉攻撃。迷いなどは感じられない動きだ。どうあっても、目の前の相手の命を奪うつもりらしい。決断が早くて羨ましいことだと内心で呻きつつ、トワイライトは素早く剣を構えた。
* * *
「トワイライトさん!?トワイライトさん、答えてください!!」
ドンドンと、エンヴィスが強くドアを叩いている。激しい音が響くそれは、早速ノックなどではなく、打撃だった。
「どっ、どうしたんですかエンヴィスさん!?」
手洗いから戻ってきたカーリは、彼のその剣幕を目にするなり、驚いて声を上げる。いつの間にか周囲には、悪魔たちが集まっていて、何事かと様子を窺っていた。
「分からねぇ……俺も今さっき来たばかりだからな」
エンヴィスは野次馬たちにも目を向けず、苦々しげな顔で扉の奥を睨み付けている。どうやらドアが開かなくなっているらしいということは、カーリにも理解出来た。
(まさか……!)
「中に、トワイライトさんがいるんですか?」
何だか嫌な予感がするのを必死に押し殺しながら、平静を装ってエンヴィスに問う。尋ねられた彼は、重苦しい表情で頷いた。
「あぁ……だが、多分それだけじゃない。何かもっと……嫌なもんがいる」
カーリの顔が凍り付く。一瞬、見間違いかとも思ったが、そうではない。気が付いたエンヴィスは、血相を変えて彼女の肩を掴んだ。
「おいカーリ!お前……何か知ってるのか?」
「……っ」
「中に何がいる……お前があれを入れたのか?」
「あ、あの、エンヴィスさん……それは、その」
「何をした、答えろ!」
大きな声で恫喝されて、カーリは身を竦める。どう言っていいか分からなかった。顔を青褪めさせて、立ち尽くすことしか出来ない。その内に、居ても立ってもいられなくなり、慌ててドアの方に駆け寄ろうとした時だった。
「避けろっ!」
「ひっ!?」
横からエンヴィスに強く引っ張られ、廊下の端に押し込められた。促されるまま、体を縮め、しゃがみ込んだ直後。凄まじい音を立ててドアが吹き飛んだ。
「ぐ……っ、ぅ」
ドアを破壊したのは、他ならぬトワイライトの体によってだった。彼は謎の液体に塗れた姿で、廊下に転がり苦痛に満ちた呻きを上げる。ゆっくりと上体を起こし、ビリビリと痺れの残る腕をさすった。ぶつかったせいで、受け身を取りきれなかったのだ。関節が軋むような感覚を振り払って、静かに、外れたドアの奥を見据えた。
「ト、トワイライトさ……っ!?」
彼の姿を見るなり、名を呼びかけたカーリは、次の瞬間驚愕に目を見開いて絶句する。そこにいたのは、漆黒を塗り固めたような、異形の怪物だった。胴も手も足も、インクを塗り固めたように真っ黒だ。一体何が起こったのか、彼の背後に見えるオフィスも、彼と同じ色の液体に黒く染まっている。ぶちまけられた黒色から、まるで植物が生えるように、ウネウネとした触手のようなものが無数に伸びている。堰き止めるものがなくなったことで、その液体は廊下にまで流れ出していた。ここにいれば自分も、あの怪物に襲われるのではないかと、周囲の悪魔たちの間に動揺が広がる。
「ぼ、ボール・アイ……?なの……っ?」
「いてて……あぁ、やはり、君の知り合いだったか……」
思わずカーリが呟くと、予想が的中したとばかりに、トワイライトが頷いた。自分のせいなのだと思い知らされて、カーリはハッと口をつぐむ。
「グォオオオオッ!!」
そのやり取りを理解していたわけではないだろうに、怪物は一際大きな声で吠えると、長い足をずんと一歩前に進めてきた。大きな体を折り曲げて、のっそりと姿を現す。握り締められたドア枠が、みしりと音を立てた。彼の体の真下から、黒い液体が滲み出しては、床を黒く汚した。
「ひぃいっ……!」
「ば、化け物だ……!」
「お前ら、下がってろ!巻き込まれたいのか!?」
ボール・アイの姿を見た悪魔たちが、声を裏返らせ、口々に恐怖と憎悪の混じった感情を迸らせる。それすらも相手への刺激になりかねないのに、愚かなことをするなと、エンヴィスが苛立ち紛れに叫び返していた。だが、化け物はそんなこと気にも留めない。のんびりとした動作で、廊下の真ん中に踏み出してくる。辺りに、緊迫した空気が流れた。
「ねーねー!何かあったのー!?すっごい騒ぎになってるんだけど!!」
だが、張り詰めた緊張の糸を両手で引きちぎるような女が一人。カツカツとピンヒールで床を叩いて、階段を駆け上がってくる。
傍若無人な子供の登場に、悪魔たちの群れがキッパリと二つに割れた。まるで、彼女との関わり合いと、それによって発生する面倒事を忌避するかのように。
「ねー、何なのか教えてってばー。トワさん、エンちゃ……ん……」
ご機嫌な調子で闊歩してきた彼女は、ボール・アイの姿を目にするなり声を失って黙り込む。ポカンと大きく目と口を開けて、トワイライトとエンヴィス、そしてカーリを見遣った。
「レディ……お前……止めろよ、バカなことは」
余計な刺激を与えるな。
エンヴィスの瞳が、そう切々と訴えかけている。
けれど、彼女に相手の気持ちを察する能力など、備わっているわけがない。
「……誰?こいつ。新入り?」
レディは廊下の隅に立つ異形を指差して、平然と言い放った。
恐ろしいほどに間の抜けた言葉に、誰もが呆気に取られ、硬直する。トワイライトたち三人だけが、必死の努力をぶち壊された無力感に、打ちひしがれていた。
「レディくん……」
「グワァアア!」
「えっ!?」
やるせない表情を浮かべたトワイライトが呟いた時だ。咆哮と共に、化け物が駆け出す。鋭い爪を振りかざし、レディへと襲いかかった。驚いた彼女は咄嗟に、手に持っていたスマートフォンで、怪物の顔面を殴り付ける。
「キモい!!近寄んないで!」
「グゥッ!!」
流石の怪物でも、レディの怪力には敵わなかったようだ。潰れた呻きを上げて、それはどしゃりと床に倒れ込む。だが、それだけだった。粘体に打撃は効かない。彼はすぐに体をムクムクと膨れ上がらせると、再び敵意を剥き出して飛びかかってきた。
「レディくん!」
トワイライトは素早く、彼女の腕を引き怪物の前から下がらせる。だがそのせいで、触手のように伸びてきた粘液に捕まってしまった。
足が宙に浮き、一瞬重力を感じなくなる。直後、近くの壁に背中から叩きつけられ、肺から空気が漏れた。
「がは……っ!」
遠心力の乗った強い衝撃に、全身がギシギシと軋む。反動で弾みそうになった体を、ぬるぬるとした何かが包み込むようにして押さえ付けた。
いつの間にか、枯れ枝のように細かった腕が、棍棒のように太くなっていた。流石はスライムというべきか、臨機応変に形状を変えられるようだ。粘着質な体液が、まるでガムのようにトワイライトの体に張り付き、壁へと固定する。じわじわと強まってくる圧力に、骨をへし折られそうな恐怖を感じた。
「トワイライトさんっ!!」
「下がれ!」
このままでは殺されてしまう。焦ったカーリは反射的に声を荒げて、トワイライトに近付こうとする。しかし、エンヴィスが肩を強く掴んで止めた。戦うことの出来ない彼女が、あの怪物に接近しても、ただ危険なだけだ。トワイライトよりもっと無惨な目に遭わされるのがオチだろう。
「っでも!」
「……大丈夫だ、カーリくん……大丈夫。ゴホッ」
それでも諦めきれないのか、縋るような目を向けた彼女に、トワイライトは掠れた声で応じたる。確かにやや息苦しさは感じるものの、生命の危機に関わるほどにまでは追い込まれていない。とはいえ、このままでは騒ぎも大きくなるだけ。早く対処しなければと、トワイライトは口を開いた。
「君……確か名前は、ボール・アイくんと言うのだろ?」
語りかけながら、合っているかとカーリに目で尋ねる。彼女は胸の前で両手を握り締め、必死の表情でコクコクと頷いていた。そんなに心配しなくてもいいと、トワイライトは軽く苦笑を漏らしてから、ボール・アイに向き直る。
「そこにいる、カーリくんと付き合いがあるんだよな?だったら、安心してほしい。私は彼女の味方だ……彼女が親しくしている君を、傷付けるようなことは決してしない。もし、私の行動が君に何らかの恐怖を与えてしまったのなら、謝罪しよう。だが、まずはその手を、離してはもらえないだろうか」
まるで駄々をこねる子供に言い聞かせるような、柔らかく優しい声で、しかししっかりと自身の要求を交えながら、諭す。ボール・アイは無反応だ。動きを止めて、トワイライトの言葉を噛み締めているようにも思える。その沈黙が耐えられなかったのか、カーリが堪えきれないという風に口を切り、切羽詰まった声を出した。
「そうだよ、ボール・アイ!この人は、トワイライトさんは私たちの味方!だから、傷付けないで!落ち着いて!」
焦ったような、余裕のない声色。とてもじゃないが交渉用ではないそれは、相手の決断を急かしているようで、正直効果的に働くとは思えなかった。しかし、ボール・アイは彼女の声を聞いた途端、ピクリと黒い体を波打たせ、反応を見せる。トワイライトはここぞとばかりに、言葉を加えた。
「大丈夫だ。私は君に何もしない。先ほどは、少々混乱して強引な手を使わせてもらったが、あんなことは二度としない。約束しよう。どこか、ここではない静かなところで、ゆっくりと話し合おうじゃないか。どうだい?」
いつの間にか、体を圧迫する力が随分と減っていた。二人の言葉が、適切に響いている証拠だ。あと一息。ちょっとした後押しさえあれば、彼は落ちる。
「ボール・アイ……お願い。トワイライトさんは、敵じゃないよ。むしろ、私たちを守ってくれる人。だから、警戒しないで。これ以上、酷いことをしないで」
その最後の駄目押しを、カーリが無自覚に畳み掛けた。祈るような懇願に、ボール・アイの敵意は瞬時に潰える。トワイライトを押さえつけていた腕が、あっという間に萎んだ。
「っ……」
「カーリ~……」
「ボール・アイっ!」
解放され、どっと床に倒れた彼のそばで、小さなスライムが泣き出しそうな声で呻いていた。カーリが素早く近寄ってきて、スライムの体を抱き上げる。いつもの彼と同じ姿に、ほっと安堵した。
何だかよく分からないが、無事解決したようだと認識した野次馬たちは、ポツポツと帰り始めていた。喧騒が、少しずつ小さくなっていく。騒ぎが収束するなり、あっさりと興味をなくして去っていく様子は、かなり滑稽だ。まるでスイッチを切り替えられたロボットのよう。急速に移り行く大衆心理の発露といったところだろうか。トワイライトは苦笑いしつつ、ゆっくりと体を起こす。
「トワイライトさん、大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫だ……しかし、これは大変なことになったな……」
すぐさま寄ってきたエンヴィスの手を借り、立ち上がりながら、目の前の光景に愕然とする。
彼らのオフィスは、至る所が黒い液体にまみれ、汚く染まっていた。まるで、大量のインクを撒き散らされた後のように。
「とりあえず、しようか……掃除」
一先ずは、快適な職場環境を整えねばなるまい。清掃員を呼び出しつつ、この事態をどう収めるかと、トワイライトは熟考した。
* * *
「まっっったく、どうしてそう勝手なことばっかりするんだ、お前は!!」
扉の外れた出入り口から、エンヴィスの怒った声が響く。彼の前で立ち尽くすカーリは、返す言葉もなく、ただ深々と頭を下げた。
「……申し訳、ありませんでした……」
「謝って済む問題じゃないだろ!?一歩間違えば、他の悪魔の命を奪いかねない危険な行為だったんだぞ!一体何考えてるんだ!強さも、そもそも種族すら分かってない、怪しい化け物をホイホイ職場に連れ込むなんてな!」
カーリが謝罪をしても、エンヴィスの怒りは収まらない。しかし、それも当然のこと。彼女が全て悪いのだから、いかなる叱責も甘んじて受け入れるのみである。カーリは罪悪感と後悔に唇を噛み締めながら、ひたすら聞き入れた。
その様子を、レディともう一人の男が息を殺して窺っている。
「珍しいな、カーリさんがあんなに怒られてるなんて……」
男の方が、囁くような口調で、レディにそう話しかけた。
背の高い、ややがっしりした体格の若い男だ。やや長めの金髪は、癖っ毛なのか、風に靡かれたようにふわふわと広がっている。やや目尻の吊り上がった青い瞳は、勝気な印象を与え、まさに血気盛んな若者といった雰囲気だ。
彼の名はレオナルド。総務部整備課に所属する若手職員である。先刻の騒動によって、破損した機械類を修理、清掃するために呼ばれたのだ。
「そうだねー」
意外そうな彼の言葉に、レディは適当な調子で答える。彼女の腕には、どっしりとした重そうな本棚が収まっていた。レオナルドは一瞬、手伝おうかと言いかけ、すぐに思い直す。怪力の彼女にはこの程度、重くも何ともないのだろうと。それから自分の仕事である、エアコンの整備に戻る。
ボール・アイが排出した、コールタールのような謎の液体を引っ被ったそれは、駆動させると変な音が鳴り、汚いヘドロを排出するようになってしまっていた。おまけに、トワイライトとの格闘で強い衝撃でも受けたのか、内部が大きく破損している。
「一体、何があったんだ?ここにあったデスクトップって、型落ちだけどその分頑丈性は確かだったはずだろ?……それが、こんなに綺麗にぶっ壊れるなんて」
エアコンの部品を交換し、清掃を進めながら、レオナルドは足元に置かれたデスクトップパソコンだったものを見遣った。頑丈なはずのそれは、画面が大きく割れ、外付けHDDがひしゃげている。ここからデータを取り出して復元するのも彼の仕事なのだが、成功する確率は低そうだ。
「あー……ね。ちょっと……」
質問されたレディは、気まずげに肩を竦めて、苦笑いする。レオナルドは大きな目を更に丸くして、怪訝そうに首を傾げる。そして部屋の全体を見回して、深く溜め息をついた。
「にしても、こんなに部屋中ドロドロだとなぁ~……清掃費、かさむだろうな……いくらになることやら」
やれやれと首を振り、嘆いてみせる彼だったが、ふと吸い寄せられたように視線を一箇所に向けている。
「カーリさん……」
その目つきは柄に似合わず、繊細な様子で不安に揺れている。きっと彼女が、心配で心配でならないのだろう。抱えた気持ちを隠そうともしない、あるいは隠せないのか、そんな彼にレディは内心で溜め息を吐いた。
(別に、好きなら好きって言えばいいのに……)
「あのな、俺は別に変な生き物を拾うなって話をしてるんじゃない。事前に連絡しろって話をしてるんだ。得体の知れない何かを、無断で職場に連れてっちゃまずいって、思わなかったのか?大体、自分が襲われる可能性だって、なかったわけじゃないだろうが」
エンヴィスは未だに、チクチクと彼女を責め続けている。カーリは今にも消え入りそうな顔をして、その場に立ち尽くしていた。
「ぼっ、ボール・アイはそんな子じゃないと、思ったので……大丈夫かと……」
だが何か納得出来ないところでもあったのか、彼女にしては珍しく、反論の言葉を口にしていた。といっても、非常に控えめで、小さな声によるものだったが。それでもやはり、ボール・アイを危険視されたことは看過出来なかったのだろう。
「どこが大丈夫だったんだ?結局、こんな大事に発展しただろうが。見当違いもいいとこだ」
「う……」
しかし、彼女の反論は結局のところ、ただの個人的な感情に過ぎない。カーリが思った『大丈夫』など、何の根拠もないことなのだ。結果として、ボール・アイがこの惨事を引き起こしたことは事実なのだから。完全に誤った判断であったと、エンヴィスは吐き捨てる。にべもない返答に、カーリはぐうの音も出ず、口をつぐんだ。そんな彼女に、追い討ちをかけるが如くエンヴィスは付け加える。
「その程度の真贋も見抜けねぇで、ナマ言ってんじゃねぇよ」
口調が荒っぽくなるのは、感情が昂っている時の彼の癖だ。表向きは淡々とした調子を保っているが、相当の立腹らしい。冷たい口調で突き放されて、カーリは萎縮したように体を縮めた。
「まぁまぁ、そのくらいにしてやれ。エンヴィスくん」
そこへ、トワイライトの気の抜けた調子の声が飛び込んできた。
「カーリくんも、十分責任は感じているだろう。であれば、それ以上我々が詰め寄るのは、悪手だ。パワハラだのと訴えられたくはないだろう?」
彼が冗談混じりの言葉で宥めすかすと、エンヴィスも大人しく溜飲を下げたようだった。流石の掌握術だとレオナルドは思う。相手の真意を巧みに把握し、操る。そんなことを、全く呵責なしに出来る悪魔はそうはいない。無論、褒め言葉だ。
「ミスは、自覚して反省することが大事だ。それ自体を責めていては、何の成長も進歩も生まれない。ただ苦痛を与えるだけだからね。とはいえ……君のしたことは、それなりに問題だ。きっちりと、心に留めていてくれたまえよ」
「はい……」
何かを思案している風のレオナルドの横を通り過ぎ、トワイライトはゆったりした足取りでカーリのそばに歩み寄る。穏やかな声音でフォローをされて、カーリは申し訳なさそうに頭を下げた。小さな声で告げられた返事を聞き取ると、彼は満足げに頷き、そして微笑む。
「ふむ。ならばいい。私からはもう何も言うことはないな。二度と同じ失敗を繰り返さぬよう、努めてくれればね」
「ひゅ~!トワさんさっすが!」
「凄いっすね、相変わらず!」
そう言って自身の机に戻るトワイライトに、レディが歓声を上げる。レオナルドもつられて称賛を漏らした。ふざけた調子の彼らにトワイライトは少々笑みをこぼしたものの、すぐに冷静な顔に戻ると、話を続ける。
「さて……では、今後の方針でも決めるとしようかね。あぁ、レオナルドくん、行かなくていいよ。君の仕事を止めるほどのことではないからね。気にせず、続けてくれたまえ」
「了解です!」
トワイライトの言葉を聞き、さりげなく出て行こうとした青年を、彼は呼び止める。引き留められたレオナルドは、快活な返事をすると、再び仕事に戻った。だが、ふと思い出したように手を止めると、トワイライトに振り向いて尋ねかける。
「ところで……その可愛いのは、何なんですか?」
彼の目が向く先には、黒いスライムがいた。スライムはトワイライトの腕に抱えられたまま、キョロキョロと忙しなく辺りを見回している。
「ボール・アイ……」
彼の姿を見て、カーリが名前を呼んだ。そこに含まれた感情をどう受け取ったのか、ボール・アイは小さな体を更に小さく圧縮するようにして、申し訳なさそうに謝罪する。
「ごめんね、カーリ……大丈夫だって聞いてたのに、僕、この人の顔見たら、何だか怖くなっちゃって……何も考えられなくなって、気が付いたら……」
「タキトゥスさんへは、どう報告したんですか?」
歯切れの悪い彼の言葉を遮って、エンヴィスが質問を投げかけた。問いかけられたトワイライトは、思い出したという風に、適当に返事をする。
「あぁ、大丈夫。不可抗力だったと言いくるめておいたよ。誰だって、排水溝を通ってスライムがオフィスに侵入してくるとは、想像しないだろう?」
タキトゥスはやや不審がりながらも、無事に納得してくれた。トワイライトはにこにこした顔で言うが、その実は真っ赤な嘘を上司に伝えてきたのだから、恐ろしい男である。ともかくも、これで人事異動や減給、降格などの明確な罰則は免れた。そして、ボール・アイもまた、即座の排撃、つまり保健所送りからは逃れられたと言えるだろう。
「ありがとうございます!」
せっかく拾った彼のことを、手放すというのは辛過ぎる。何とか助かったと、カーリは顔を綻ばせて頭を下げた。だが、エンヴィスはまだ不満そうに、眉を顰め鼻を鳴らしている。トワイライトはそれには構わずに続けた。
「それと、ついでのお土産が一つだ」
「だぁれがお土産ですって!?」
即座に、憤懣に満ちた声が飛んできた。きりりと眉を吊り上げた、怒った顔の男が部屋に入ってきた。ムーアホーンのようなぐるぐるとした角が当たりそうになって、レオナルドはわずかに仰け反る。
「レンキさん!」
中性的な容貌、声、話し方の彼を見るなり、レディが顔を輝かせてはしゃいでみせた。反対に、エンヴィスは、声には出さないまでも『うげ』という呆れの表情を浮かべている。
「え?誰ですか?」
唯一、レオナルドだけが不思議そうに、彼の正体を尋ねた。カーリが説明するよりも早く、レンキはツンと顎を上げて、高飛車な口調で告げる。
「情報分析部脱界者調査課単独脱界者対策室担当官のレンキです」
「は、はぁ……」
長ったらしい肩書きに気圧されたのか、レオナルドは感情のこもらない、曖昧な返事をした。魔界府職員であることの難点は、肩書きが長くなりがちで、分かりにくいということだ。
半ば聞き流しているような態度のレオナルドのことは気に留めず、レンキはトワイライトに歩み寄る。
「また何か変なものを拾ってきたんだってね、腹黒?」
粘着質な嫌味たらしい口調。相変わらず彼は、トワイライトのことを快く思っていないようで、その態度からは強い敵意のようなものが感じられた。尊敬する上司を、第三者によって貶されるというのは、あまりいい気持ちがしない。エンヴィスはむっとした調子を見せ、冷たい声音で反論しようとした。
「違います。トワイライトさんではなく」
「エンヴィスくん」
それを止めたのは、トワイライト本人だった。当人である彼から言われれば、エンヴィスも従うしかない。何故止めるのかという抗議の目線を注ぎつつも、一応は大人しくなった彼の前に立ち、トワイライトは話し始める。
「確かに、今回の件は私が対応を間違えたせいで、ここまでの大きなトラブルに発展してしまいました。それは、弁解のしようもありません。しかし、”また”とは、どういう意味ですかな?」
一先ずは自らの非を認め、頭を下げる。しかしそれだけでは終わらない。意趣返しをするようにして、視線を上げ高い位置にあるレンキの双眸を射抜いた。真っ黒な闇のような瞳を向けられ、レンキは呆れたように息を吐いた。
「全く……呆れた男。あんたの部下は、皆そうでしょ?自覚ないわけ?」
そして、トワイライトに負けず劣らずの冷たい視線で、彼を見下ろす。
「まともな部署じゃ生きていけない問題児たちを、あんたが拾い上げて育ててる……って。そう言えば聞こえはいいけど、実際は返せない恩を売りつけて、縛り付けてるだけでしょうが。鎖で繋いで、こ~んな狭い一つ所に押し込めて……本当に、腹の黒い奴だよ、あんたは」
レンキの言い分を耳にするなり、カーリは若干驚いて、彼の顔を見つめた。そんな話は初耳だ。レンキは確かに悪意に溢れる言葉を話すけれど、無闇に嘘を言う男ではない。どういうことかと、彼女はトワイライトに目を向ける。
「レンキさん、流石に言い過ぎではありませんか?」
憤懣に満ちた表情で、エンヴィスが言いがかりだと文句をつけていた。だがレンキは、その言葉に重ねるようにして、わざとらしい嘆きの声を投げかけてくる。
「あんたも可哀想な犬だよね、エンヴィス……ここで飼い殺しにされてるってことにも気が付かないで、まだ飼い主のために吠えるなんて。あの腹黒は、そんなに価値のある男?」
「おい……!アンタいい加減に」
「やめたまえ、エンヴィスくん」
整った顔立ちを皮肉げに歪め、自らの頬を撫でつけるレンキ。いかにも挑発的な態度に、エンヴィスは思わず激昂しかけた。トワイライトがすかさず止めに入り、彼の怒りの炎を吹き消す。
彼が十分に距離を取ったのを見て取ると、静かな声でレンキに話しかけた。
「レンキさん、あなたが私を憎むのは理解出来ますが、かといって、時と場所を弁えもせずする話でもないでしょう。謹んでいただけますかな?」
トワイライトの言葉に、レンキは答えようとしなかった。けれど、軽く息を吐いて、ツンとそっぽを向く仕草からは、それ以上争う意思はないということが伝わってくる。
よかったと、カーリは一安心して胸を撫で下ろした。彼らのやり取りは、今はまだ嫌味を言い合う程度で済んでいる。だが、いつか足元の火薬に火がついて、大爆発が起こるかも知れない。そう考えると、気が気でないのだ。
一体何が、彼らの仲をそれほど険悪にさせるのか。何があったのか。カーリは知りたいと思いながらも、それはまるで触れてはならない禁忌であるかのように感じていた。そしてまた、先ほどのレンキの言葉にも、同等の雰囲気を覚えていた。
「……なんか、凄い空気だな」
エアコンの修理を終えたレオナルドは、脚立から降りながら小声で囁く。話しかけられたレディは、きょとんとして彼を見返した。
「え、そう?別に、これぐらい普通だよ?レンキさんがくると、いっつもあんな感じなんだー」
彼女の答えを聞くなり、レオナルドはわざとらしい渋面を作る。
「うえぇ……凄い職場。俺、こんなところ絶対勤めたくないわ……地獄より地獄……」
和気藹々とした楽しい職場にばかりいるレオナルドには、この状況は修羅場でしかない。毎日こんな空気の中で仕事をしていたら、絶対に死んでしまう自信があった。正直今だって、さりげなくこの部屋から出て行ってしまいたいくらいだ。しかしそんな彼の腕を、レディががっしりと掴んだ。
「駄目。アタシといて。トワさんたち難しい話してて、つまんないんだもん。話し相手が欲しいよー」
「えぇー……でもなぁ」
「いいからいいから!」
「おい、静かにしてろ」
強い力で引き留められ、剰え駄々までこねられれば、レオナルドに抗う術はない。仕方なしに彼女の隣に座り込むと、エンヴィスからの鋭い視線とかち合った。話の邪魔をするなということだろう。
「すいません……」
レオナルドは大きな体を縮こめるようにして詫びる。更に咎められるかと思っていたが、意外なことに、エンヴィスはそれ以上は何も言わなかった。ちらりとこちらを一瞥しただけで、すぐにトワイライトとレンキの話に意識を戻している。恐らく、彼からしてみたら、レディの相手から逃れられてありがたいのだろう。話の流れをまるで理解していない彼女が、好奇心や興味から口を挟めば、ろくな展開にならない。彼がいることでそれを防げるのなら、多少のコソコソ話は許容範囲ということだろうか。
ならば、とレオナルドは己の役割を受け入れる。彼女と話をすることは、別段苦ではなかった。むしろ、自分の仕事を進めつつも話し相手がいるというのは、幸運な状況だ。いい加減、一人で働く退屈には、飽き飽きしていたところだったから。
「それ、今何やってんの?」
隣で作業を始めたレオナルドに、レディは興味津々といった様子で問いかける。彼は、破損したデスクトップに、何やら別の機械をつけて操作していた。太めのケーブルで繋がれた先には、小さな黒い箱がくっついていて、そこから淡い光が漏れている。それが床に注がれると、まるでプロジェクションマッピングのように、光によるキーボードが出現した。しかし、一般的なキーボードとは違い、照らし出されている文字はアルファベットや数字などではない。魔語と呼ばれる、魔法陣を作る際に使用する特別な文字列だった。
「パソコンの復元。普通なら、ここまで大破してたらデータが飛んじゃってるけど……俺の専門は、機械系魔法だから。このくらい、サク~っと復活させてみせるよ」
レオナルドは、指先を器用に駆使して映し出された文字を高速でタップしていく。本来は手描きで作らねばならない魔法陣を、キーボードによる電子入力で生成し、コンピューター内に直接流し込む。これこそが、彼の習得した機械系魔法、その代表的な技術である。
「ふーん……機械系魔法って、こーゆーやつ?」
勝手に熱くなっているレオナルドの前に、レディは自身の携帯を差し出す。派手なネイルが塗られた爪が、画面をポチっと押すと、空中に魔法陣が展開した。
いくつもの術式が複雑に組み合わさったそれは、何らかの魔法を発動させるためのプログラムではない。彼女のスマートフォンのストレージ。魔界のスマホは、そうやってストレージを表示する仕様になっているのだ。
「そうっ!科学技術と、魔法の融合!魔界の最先端に君臨する、魔導科学!!」
悪魔たちの世界に、人間たちが作り出した科学技術が入り込んできたのは、まだ比較的最近のことである。
しかし、その技術は短い時間の中で凄まじい進歩を遂げた。契機となったのがつまり、魔法との邂逅である。悪魔たちは、己の築き上げてきた魔法というスキルを、人間が生み出した科学の世界に織り込んだ。それにより、機械系という新たな系統の魔法が認められ、魔導科学と呼ばれる魔界独自の分野が確立された。魔法の力で機械を操る、あるいは、機械の内部に魔法を組み込む。そうすることによって、今悪魔たちの生活を支えている電子機器や電化製品は誕生していったのだ。スマートフォンは、その代表例である。端末の中には様々な魔法の術式が組み込まれており、画面をタップするだけでそれらを行使することが出来る。またはアプリを入れることで、新たな術式が書き込まれる。便利な代物だ。
レオナルドは、子供の頃から機械系魔法の虜だった。だから専門の高校に行って、大学の専科で勉強した。いずれはIT企業を立ち上げたいと考えている。現在は、夢を実現する下積みの真っ最中というわけだ。
「俺、いつか自分の魔法で、アプリ作りたいんだ。会社を立ち上げて、大手と業務提携して!それで将来は、超ビッグなIT長者に!」
「うるさい、そこ」
コツコツとした努力を積み重ねれば、いずれきっと叶えられる。そんなことを叫ぶ彼に、レンキの冷たい視線が突き刺さった。またやってしまった、と彼は下唇を噛む。自分の目標のこととなると、周囲の状況も忘れてしまうのが、悪い癖だ。つい声量を大きくしてしまったことを恥ずかしく思いながら、レオナルドは小さく頭を下げた。しかし、幸い彼らはトワイライトが連れてきた黒色のスライムに注目しているようで、さほど小言は言われなかった。
「ふぅ~ん……」
金髪の若者から目を離し、再び正面に向き直ったレンキは、諧謔を弄ぶような顔をして、曖昧な声を上げる。さっきから、トワイライトに対して険悪な態度を見せている彼に凝視され、ボール・アイは多少気まずそうに粘体の身体をぷるぷると揺らしていた。
「なっ、何っ?僕、何かした?」
キャスター付きの椅子の上に置かれ、子犬のように震える彼を見かねて、カーリはつい口を挟む。
「あの、あんまり怖がらせないでください。刺激すると、その、またさっきみたいになるかも知れないので」
やや警戒の色を強めながら、レンキを見遣るカーリ。釘を刺されたレンキは、わざとらしく肩を竦めて、心外だというアピールをした。
「嫌だね。別に、取って食ったりするつもりもないのに。ただ興味があっただけだよ」
失礼なと言いたげな視線を受け、確かに不躾なことだったかとカーリは反省する。だが、だからといってボール・アイのことを思うと、頭を下げたり、謝罪の言葉を口にしたりはしたくなかった。レンキは頑なな態度を取るカーリのことは気にも留めず、再びボール・アイに目を向ける。そして、小脇に抱えていたタブレット端末を机に置くと、空いた手を彼の上に翳し始めた。
「あの、何を……」
「黙って見てな」
何をするつもりなんですか、と尋ねようとしたカーリの声を、レンキは淡々とした調子で遮る。彼女は言われた通りに口を閉ざしながらも、隠しきれない不安の色を顔に浮かべて、ハラハラと彼の行動を見守った。
困惑した様子のボール・アイ。その頭上に、レンキの手が掲げられる。数秒もしない内に、淡く緑色に光る魔法陣が出現した。文字の書き込まれた円がぐるぐると回転すると同時に、傍に置かれたタブレットにも変化が生じる。自動的にタブが複数開いたかと思うと、何らかの数字やグラフが次々と表示されていった。思わず、レオナルドは立ち上がってその様子を見つめてしまう。
「凄いな……!」
彼の呟きが部屋に落ちるか否かというところで、レンキはふっと息を吐き、魔法陣を仕舞った。机の上のタブレットに目を落とし、ゆっくりと首を振る。感情の読み取りにくい仕草を示す彼に、トワイライトが代表して声をかけた。
「何か、分かりましたかな?」
「……駄目」
沈黙が辺りを満たす中、レンキの口から告げられたのは、そんな言葉だった。
「……えっ?」
一瞬、間を開けてからカーリが混乱した調子の声を上げる。これだけ勿体ぶっておいて、何も分からなかったで終わらせるつもりなのか。まさかそんなことはしないだろうと、半ば憤懣の混じった無礼な疑いの眼差しを向ける。彼女の疑念に応えるように、レンキは再び口を開いた。
「私一人が使える魔法で、こいつを詳しく調べ上げるのは不可能。というか、詳細どころか、種族の特定すら出来なかった。彼……本当にスライムなの?」
お返しとばかりに睨まれて、カーリは目線を落として沈黙する。彼と一番親しいはずのカーリでさえ、正確なところは知らないからだ。暴れた時のボール・アイの姿は、確かに単なるスライムのそれとは思えぬものだった。だが、正面から彼に尋ねるのも、怖くて気が引けていた。また暴走するかも知れないし、何より友達だと思う相手に、無遠慮な態度を取りたくなかったから。
「……まぁいいけど」
項垂れるカーリから目を逸らして、レンキは飄々と先を続ける。
「とにかく、もっと専門的な機関で調べる必要があるでしょうね」
「せ、専門的な機関って……?研究所とか?」
レンキの言葉を聞くなり、ボール・アイが不安そうに口を挟んだ。彼自らが直接レンキとコンタクトを試みたことに、カーリは少なからず驚きを覚える。それと同時に、何故か強く怯えた様子の彼が気にかかった。
一方のレンキは、ボール・アイの心情になど気にしていないのか、淡々とした話し方で言葉を次ぐ。
「当たらずも遠からず、ね……魔捜研だよ。魔導捜査研究所。情報分析部が持ってる、魔導捜査の専門機関。一時間くらい待ってくれれば、すぐに結果が出ると思うけど?」
「そんなに短時間で出来るものなのですか?」
今度は、トワイライトが意外そうに片眉を上げて質問する。
「魔捜研はいつも、膨大な仕事を抱えているでしょう。無理をして、正確性に欠けるデータを提供されても、嬉しくはないのですがねぇ」
「心配ご無用。責任者の特権を使えば、最優先にしてもらえるから。舐めないでほしいね」
己の実力を侮られていると思ったのか、レンキの形のいい眉がピクピクと引き攣る。
「なるほど。そういうことでしたら、ありがたい限りですな。よろしく、お願いしたい所存です」
彼の怒りを浴びせられたトワイライトはあっさりと、しかし悪びれる様子もなく平然と言葉を返した。確認などせずとも、本当は彼には分かっているのだ。レンキという悪魔は、その高飛車な態度に見合うだけの手腕と成績を持っている。彼ならば、魔道捜査研究所に圧力をかけることくらい、造作もないこと。それを分かった上で、もったいつけた言い方をし、厚かましくもお願いをする。確かにレンキの言うような”腹黒”な行動である。
「ふん。これはでかい貸しだからね、腹黒……さて、じゃあちょっと、失礼するよ、プルプルの塊」
レンキは彼の言葉を鼻で吹き飛ばすと、ポケットから素早く何かを取り出し、ボール・アイに近寄った。
「プルプルの塊?」
独特の言い回しに、首を傾げるレディ。同じく不思議そうな顔をしていたボール・アイに、一本の細い試験管が近付けられた。ガラスの縁が、どろどろした液体の流れる体に触れる。かと思うと、試験管の中はすぐに満たされ、黒色でいっぱいになった。
「痛くなかったでしょ?スライムに物理ダメージは入らないんだから」
変な顔をしているボール・アイは、どうやら自分が今何をされたのか全く理解が追いついていないようだ。レンキはそんな彼に声をかけると、コルク栓を摘み上げて試験管を塞ぐ。彼の言葉を聞いて、カーリは目を丸くしていた。
(そ、そうなんだ……初めて知った)
「それじゃ、結果が届き次第すぐに来るから。また」
「あっ、はい!ありがとうございます。よろしくお願いします!」
レンキは黒い液体で満たされたそれを軽く振りながら、闊歩して部屋を出て行く。基礎知識すら足りていないことを思い知り、歯噛みしていたカーリは、慌てて頭を下げた。そんな彼女の隣に立って、トワイライトはおもむろに声を発する。
「では、私も少し外すよ」
「分かりました。何か用事ですか?」
「まぁ、そんなところだ」
エンヴィスの問いかけに対し、曖昧な返答をして誤魔化しながら、去っていく。ポツンと一人残された感じのするカーリは、垂れた黒髪をかき上げつつ、考えた。
(基本の情報すら分かってないんだから、私って駄目だよね……まずは、勉強しなくちゃ)
基本的事項から、少しずつ。学んでいかねばならない。彼女は決意を固めると、再びオフィスの清掃に取り組んだ。とりあえず、この部屋がまともに機能しなければ、仕事も情報収集も出来たものではない。ガタガタと机を動かし始める彼女のそばに、レディが現れた。
「レディちゃん」
「はぁーっ、緊張したよねー」
まさに天真爛漫、といった風情の笑顔を浮かべる彼女に、エンヴィスが疑うように言葉を返す。
「嘘つけよ」
「嘘じゃないもーん!」
「しっかし、凄い色のスライムですね!黒いのなんて、見たことない!しかも、喋るなんて!!」
プウ、と頬を膨らませて反論するレディ。そこへレオナルドの声が割って入った。すると、レディも顔を輝かせて彼の言葉に賛成する。
「だよねー!珍し~よね~」
「新種の個体とかだったら、大発見ですよ!きっと!」
彼女の同意が嬉しかったのか、レオナルドは更に声の調子を高くして、椅子に座るボール・アイを上から覗き込んだ。ただでさえ図体の大きな彼に、真上から見下ろすように観察されて、ボール・アイは戸惑った様子を見せる。堪らずに、エンヴィスが彼を咎めた。
「おい、止めてやれよ。怖がってるだろう」
「あっ、すみませんっす……」
「ねぇねぇ、触ってもいい!?」
諌められ、軽く頭を下げるレオナルドの向こうから、レディが大声で問いかける。
「おい、レディ……」
「うん……いいよ!あんまり痛いことしないんだったらね」
「もちのろんに決まってるじゃん!」
話を聞いていなかったのかと、エンヴィスは渋面を浮かべて苦言を呈するが、レディは気に留めなかった。心の優しいボール・アイは、しばし考え込んだ末、了承を示す。彼なりに、自分に危害を加える相手かそうでないかということを、見抜けるほどには落ち着きを取り戻してきたのだろう。安堵するカーリをよそに、レディは彼を抱き上げて、むぎゅむぎゅと抱き締めている。
「キャー、ありがとー!うっわ、つるすべっ!スライムといえばやっぱりこれだよねー!この感触、いつまでも触ってたい……」
「えっ、えぇ……っ」
「おぉ、羨ましい!俺も触っていい!?」
熱烈過ぎるハグを受けて、若干困惑しているボール・アイ。しかし、そのひんやりとしていて柔らかい感触は、確かに悪魔を魅了するものがある。我慢しきれずに、レオナルドも再び近付いてきた。
若い悪魔たちの間でたちまち人気を勝ち取ったボール・アイを、カーリは少し離れたところから眺めた。彼が暴走する危険性は少なそうだと判断すると、一人で片付けを続けているエンヴィスに話しかけた。
「あの……エンヴィスさん」
「ん?どうした?」
黒く汚れたファイルを、段ボール箱に詰めている最中だったエンヴィスは、作業の手を止めて彼女を見遣る。怒られたばかりの彼と会話するのは、若干気まずいかったが、カーリは頑張って躊躇いを振り切り、口を開いた。
「いえ、その……本当に、すみませんでした」
そう言って、もう一度また深々と頭を下げる。エンヴィスは、やや驚いた顔で彼女を見つめた。
「あのな……そんなに、引きずるもんじゃないぞ?」
「え?」
頭上から、諭すような口調が降ってきて、カーリは目を丸くする。再び顔を上げた彼女に、エンヴィスは言い含めるように告げた。そして、潔過ぎるほどに殊勝に、彼女に詫びる。
「お前のしたことは、間違ったことだ。だが、過ぎたことは、誰にもどうにも出来ない。まぁ、俺も言い過ぎたことは謝る……すまなかった」
「いえっ、そんな!」
エンヴィスに悪いところなど何もない。彼は、自分とカーリ、そしてチームのためを思って叱責をしたのだ。そんな彼に、謝るべきことがあるはずもない。それなのに、まさか彼の方から頭を下げてくるとは。思ってもみなかったカーリは、慌てふためき彼を止めようとする。エンヴィスは、焦り倒す彼女を見るとニヤリと笑った。
「ほら、これでお互い様だろ?それ以上は、言いっこなしだ」
「……!」
「だから、そんなに萎縮するな。俺はお前を叱ったが、お前の人格まで否定したわけじゃないんだからな」
腹のどこかに、収まるべきものがストンと落ちた感覚に、カーリは戸惑いつつも受け入れようとする。エンヴィスは既に、彼女から視線を外して、途中でやめていた作業を再開させていた。黙々と整理整頓に励む彼の背中を、カーリはしばし見つめていたが、やがて彼女もまた己の仕事へと戻っていった。
* * *
コツ、コツ、と規則的な靴音が響く。トワイライトは、音のした方に首を向けて、背を預けていた壁から離れた。
薄暗い廊下の奥から、誰かが近付いてくる。明かり取りの窓から差し込む光に、小山のような影が映った。
「やっほ~、久しぶりだね。トワちゃん」
男らしい低くしわがれた声が、人気のない廊下で間抜けな挨拶をかました。
「まさか、キミから連絡が来るとは思わなかったよ。何かよほどの案件を抱えているらしいねぇ?」
現れたのは、筋骨隆々とした、大柄な悪魔だった。オールバックにした銀髪の毛先を遊ばせ、黒縁のメガネの奥から覗く小さな緑色の瞳は、どこか茶目っ気を含みながらも理知的に光っている。派手な色合いのスーツの袖から覗くのは、豪奢な腕時計。赤みがかった色の革靴は、磨き抜かれツヤツヤと光沢を持っていた。まるで、公務員というよりも裏家業で稼ぐやくざ者の頭領といった風情である。額から伸びるのは、一角獣のような長く鋭い角。角輪の目立つセピア色のそれには、細かな装飾が精緻に彫り込まれている。角彫刻と呼ばれる、悪魔流のお洒落だ。だが、一度入れたら二度と消えない角彫刻は、一般的な悪魔たちには嫌厭されがちである。人間たちの世界で例えるならば、刺青を入れるような行為ということだ。角彫刻のある悪魔は、就職や出世で大きな苦労をすることになる。ましてや、魔界府というこの恐るべき組織において、角彫刻のある悪魔が生き残れる確率は、ほとんどゼロに近い。
今ここにいる、この男を除いては。
「ご無沙汰しております。その節はどうも、お世話になりました……シュハウゼン刑事部長」
男の名はシュハウゼン。魔界府警察部門刑事部が誇る、インペラトルの一角にして、強盗、詐欺、殺人など一般的な刑事事件を全て包括的に取り扱う、刑事部の部長職に就いている。更に言うのであれば、トワイライトの元上司でもある男だ。
「ちょっとちょっと。随分と冷たいなー、トワちゃん。ボクとキミの仲でしょ~?昔一緒に色々、遊んだじゃないの」
シュハウゼンの性格は、その経歴と才覚とは裏腹に、非常に問題があると言わざるを得ないものだ。時間にはルーズ。会議中には昼寝をし、報告を聞いてもすぐに忘れてしまう。唐突に捜査計画を変更したり、全く関係のない別の事件を持ち出したり。刑事部長という立場でありながら、自ら現場や取調室に突撃することもままある。一回り以上も年下の秘書官に、鬼のように怒られている姿は、もはや刑事部では日常茶飯事だ。
だがそれでも彼は、いやだからこそ、インペラトルの地位にいられるだけの成果を上げている。一見非効率的に見える捜査方法は、実は常に常に先を見据えて作り上げられたもの。また取り調べの際の交渉術は驚くほどに巧みで、頑なに口を割らなかった相手を、華麗に掌握し真実を吐き出させることが出来る。トワイライトの交渉術も、彼と働く内に学んだものが多い。
「いえ、一緒に働かせていただいたことはありますが、私にはとてもとても、あれを遊びなどとは一度も思えませんでしたよ……」
トワイライトにとっては、ある意味で信用のおける、しかしある意味で警戒すべき相手だ。軽口に乗ることなく、呆れ気味に首を振って否定する。
「あっそ?残念だなぁ……」
淡々とあしらわれたシュハウゼンは、いかにもがっかりしたという風に、肩を落とした。
「それで?今日は何の相談かな?さっきキミのとこであったっていう、”騒ぎ”に関して?」
「流石……お耳が早い。敵いませんな」
かと思えばすぐさま態度を翻し、緑の瞳を瞬かせて尋ねてくる。やはり、彼には全て見抜かれていたようだ。トワイライトは思わず、感心とも嘆きともつかぬ声色で呟いていた。
「でも、そんなにキミの手を煩わせるようなことだったのかい?ボク、よく知らないんだよねぇ~」
だが、かつての部下の反応など、シュハウゼンは気にしてもいない。角に付着した埃を摘みながら、興味なさそうに問いかけてくる。
「えぇ、そうなんですよ。これはどうにも、私の力だけでは解決出来ない、厄介な沼に足を突っ込んだようでしてね」
しかし緑の目は、トワイライトが一言発するごとに動き、彼の様子を観察している。恐らく、トワイライトの言動から、何か情報を探り出そうとしているのだ。彼が何を考えているのか、流石のトワイライトでも、その全容を把握するのは難しい。この男の前では、いくら腹の底を探られぬよう努力しても、全て見透かされているような気がするのだ。何もかもを、暴かれている感覚が。
「私の部下、カーリくんと言うのですが、彼女が、スライムを拾ってきましてね」
彼相手では隠し事も無意味。無駄な足掻きをしても、一瞬にして無に帰されて終わりだろう。だからトワイライトは、全てを包み隠さず語ることにした。もちろん、油断はせずに。
「ところが、これが普通のスライムではないようなのですよ。恐らく、未知の……新種かと」
「わぁお、それは大発見だね!カーリちゃん、だっけ?祝ってやりなよ」
シュハウゼンは相変わらず、気の抜けた態度で両手を広げて、驚いたジェスチャーを示すだけだった。
「えぇ……ですが、どうも、気にかかるのですよねぇ……」
仕方がない。トワイライトはもう少し、踏み込むことにする。しかし、正直やりにくい。気を付けなければ、かえってこちらの情報を全て引き摺り出されかねないからだ。
「と、いうと?」
少しだけ、反応の色が変わった。他人事のように聞き流すだけでなく、興味を持って、続きを促すような。
「あなたなら、何かご存知かと思いまして」
タイミングを見切ったトワイライトは、ここぞとばかりに足を踏み出す。やや早計かとも思えたが、少しの失敗を躊躇っている場合ではない。なにせ相手は、この男だ。感情を一瞬でも見せた瞬間に、素早く距離を積めるしか、方法はなかった。
「確か、私がいた頃でしたか。ちょうど、凍結された案件がありましたよね……魔物を使った、”実験施設”の疑惑」
「あぁ~、そんなこともあったような……なかったような」
トワイライトの接近に、シュハウゼンはのんびりと首を回してはぐらかしてみせる。だが、わざとらしさが滲み過ぎたその仕草は、ただ滑稽なだけだ。
「あの案件、未だ片が付いていませんよね?これは、チャンスなのではありませんか?」
交渉に長けたトワイライトに、表面上の誤魔化しは通用しない。彼は巧みに言葉を紡ぎ、畳みかける。するとシュハウゼンは、沈黙という名の返事を寄越した。
「今こそ、決着の時です。長き戦いに、終止符を打とうじゃありませんか、あなたと、私で」
ならば、とトワイライトは更に一歩進み出し、釣り針の餌を狙う巨魚のように、貪欲に食らい付く。
大袈裟な身振りで、シュハウゼンと自身の胸元を指し、試すような目を向けた。
「……どうです?我々を、利用してみては」
彼が餌に食い付くのは、釣られる者としての行為ではない。むしろ、釣り糸を引きちぎり、餌だけを奪取する、強者としてのそれ。
そしてその行動は、彼以上の強者であるシュハウゼンにとって、他に並ぶもののない、挑発となり得る。
「……甘い言葉だね」
やがて、数秒の時間が流れた後、シュハウゼンはポツリと呟きを落とした。
「随分と、甘い言葉だ。つい流されてしまいそうになるよ」
言いながら、片手を伸ばし、日焼けして色の落ちた壁紙をスルリと撫でる。さほど力は入っていないように思えたが、彼の手が触れた途端、壁はミシミシと軋んだ音を立てた。
「でも残念だけど、ボクはキミに手を貸す気なんかないよ」
その仕草、声音には先ほどまでのふざけた雰囲気など感じられない。刑事部長として、インペラトルとしての、本気の姿だ。
「キミのことを敵視する悪魔が少なくないのは、知っているよね?キミの才覚を羨む、あるいは妬む幾多の悪魔たちが、どうにかしてキミを失脚させようと蠢いている……」
シュハウゼンの腕は、まるで巨木のように、太く膨れ上がっていた。ギチリと音を立てて拳を握れば、服の上からでも分かるほどに、分厚い体が盛り上がり、全身の筋肉が隆起する。恐ろしい暴力を体の中に溜め込んだ状態で、シュハウゼンは冷徹にトワイライトを見据えた。
「キミと関われば、ボクにも火の粉が降りかかりかねない……ボクは、争いは嫌いだよ。正直、キミのことなんて、放っておきたいくらいにね」
氷のように冷酷な刃が、トワイライトの提案を切り捨てる。にべもない口調で吐き捨てたシュハウゼンは、長いコンパスでカツカツと彼の周りを歩いた。
かなり抽象的な言い方だが、何を意図しているのかは、十分に理解出来た。先日の、アルテポリスでの一件についてだ。案の定、彼は全てを知っているらしい。トワイライトとタキトゥスの間で諍いが起こったこと。そしてタキトゥスもまた、対天使対策部に欺かれていたのだということを。
上司に脅威と見做され、迫害される部下。軍政部門という、厄介な部署に目をつけられた警察部門職員。
今のトワイライトはまさに、懸念材料の倉庫のような状態だ。常識的な悪魔であれば、誰でも距離を置いた方がいいと判断することだろう。シュハウゼンの言葉も、理解出来る。
「まぁでも、それはキミが良くも悪くも優秀な悪魔だからだ。キミを部下に持ったおかげで、ボクの今があるも同然。そんなキミを無下に扱うのは、流石のボクも良心が痛む……」
だが、しかし彼という悪魔は、決して常識に縛られない男だ。トワイライトの抱えた問題にこそ、利益を見出すような男である。彼は何を狙っているのか、わざとらしい仕草で胸に手を当て、まるで歌い上げるように朗々と話し続けた。まるで、夜の森で独奏するフクロウのように。
「それは……買い被り過ぎですよ」
あまりにも芝居がかった調子に、トワイライトは思わず苦笑を漏らした。くっと喉を鳴らし、やや視線を下げる。
「本当だ」
そこへ、シュハウゼンの長く太い指が突き付けられた。大柄な体躯が作り出す、濃い影がトワイライトの顔面に落ちる。
「だが、だからこそキミは、多くの悪魔に嫌厭される……このボクも然り」
張りのある、低い声がトワイライトの鼓膜を震わした。廊下全体に重く響くその声は、先ほどの気の抜けた様子とは似ても似つかない調子だった。
「でもキミは、それじゃ困るんだろう?だからボクに助けを求めてきた……違うかい?トワちゃん」
トワイライトは何も言わなかった。シュハウゼンの目論見は、既に十分過ぎるほど理解している。けれど、それはすぐさま返答出来るほど、生優しい要求ではなかった。
「何かを成し遂げるには、それ相応の代償を支払わねばならない……って、ボク昔、教えたよね?」
追い討ちをかけるように、シュハウゼンは微笑みかける。笑顔の圧力が、ずしんとのしかかった。
仕方がない。
ここまで来たら、言ってしまう他に道はないのだろう。
トワイライトは胸の奥で溜め息を漏らす。
そしてようやく、重たい口を開いた。
「承知しました……感謝の気持ちを表し、刑事部の捜査にも、微力ながら協力させていただくことを確約いたします」
「そーゆーコト!分かってるねぇトワちゃん!!流石は、ボクの元右腕だ」
シュハウゼンの狙いはつまり、捜査協力だ。何か、トワイライトたち単独脱界者対策室の力を借りたい案件でも抱えているのだろう。恐らく、呼び出しを受けた時点で、考えていたことのはずだ。そのために、話を素直に聞いていた。
だが、当然捜査の対象は、刑事部の独力では解決し得ない、厄介な案件ということになる。大規模な戦闘すら、考慮に入れられるほどのものであってもおかしくはない。トワイライトの気が進まないのも、自然なことだ。
それを無理矢理了承させておきながら、シュハウゼンは嬉しそうにはしゃいだ様子を見せてくる。バシバシと大きな手で背中を叩かれて、トワイライトは軽く咽せた。朝、ボール・アイにもらったダメージより、よほどの衝撃が走っている気がする。
「長い間凍結されてる案件なんて、他にいくらでもあるからね。今更その中の一つを解凍して解決したところで、得られる利益なんかたかが知れてるじゃない。それ以上の、ボクを動かせるメリットを提示してもらわないと、ね?」
「なるほど……ゴホッ」
シュハウゼンは全く気にかけることなく、笑顔のまま話しかけてきた。恐らくは、彼の要求に応えることを渋ったから、嫌味を言ってきているのだろう。だが、その中にどこか、違う色を感じて、トワイライトは訝しんだ。
「フッ、意外って顔してるね。そんなに驚きだった?ボクが、あっさりキミの言い分を飲んだことが」
決して表情には出していないはずだが、シュハウゼンは彼の感情を読んだらしい。トワイライトを揶揄うように、片眉を上げて問いかけてくる。正直、彼の目的がトワイライトには分からない。
図星を突かれたからといって、彼が動揺を示す悪魔ではないことは、シュハウゼンも理解しているはずだ。彼が、トワイライト相手に反応を期待したアクションを起こすわけがない。だが、であるならば、一体何を考えているのか。トワイライトにはまるで理解出来なかった。
「本当はね、キミに戻って来いって、言っても良かったんだよね~……だってキミ、飼い殺されてるでしょ?ほら、何て言ったっけ。キミの上司に」
「タキトゥスさん、ですか」
シュハウゼンの流れるような話を遮り、続きを引き取って告げる。シュハウゼンはおもむろに頷きながら、トワイライトに尋ねかけた。
「そうそう。キミはどうして、あれから逃げ出そうとしないんだい?キミの実力があれば、タキトゥスなんか、簡単に蹴散らせるはずだよ?あんなちっぽけな鳥籠で、キミほどの男が、一生キャリアを使い潰すなんて、損だよ」
問いながら、しかし答えなどまるで求めていないように、彼は大袈裟な身振り手振りで、演説をぶつ。
「ボクには野望がある。こんなところに辿り着いたくらいじゃ、到底満足出来ないんだ……もっと、もっと、上を目指したい。この長い階段の、頂点までね」
「は……大きな野望ですな」
緑の瞳を肉食獣のようにぎらつかせながら、彼は語る。トワイライトはいかにも他人事ぶって、鼻を鳴らした。嘲笑めいた雰囲気を感じても、シュハウゼンは決して怒らない。彼の言葉など耳に入っていない調子で、一方的に訴え続けた。
「そこに行くには、並大抵の努力じゃ足りない。もっと華々しい功績が必要なんだ。ボクはそれを、どうしても手に入れたい。他にどんな犠牲を払ってでもね……」
「ならばいいではありませんか。私を部下に据えずとも、協力者という立場で、使い潰せばいい。そうでしょう?」
意味深な単語に肩を竦めつつ、トワイライトは彼を見上げた。シュハウゼンの言い分は全て察知している。けれど、それを漂わせれば、彼の思う壺だ。ここで理解を示しては、自らの自由を保てなくなる。
「それは詭弁だよ、トワイライト」
相手の意図を把握しておきながら、あくまでも素知らぬふりを貫き通す彼の態度に、流石のシュハウゼンも苛立ったようだ。
「キミには、力があるんだ。ボクと同じように、上を目指せる力が……それを使わないで過ごすなんて、許されないよ。枝に吊された鳥籠は、いつか必ず、誰かに切り落とされる」
彼に捲し立てられても、トワイライトは平然と、淡々とした口調でもって否定を返した。
「そんなことさせませんよ。第一、籠の中にいるのは、私だけではない。私が何のために、彼らをそばに置いていると?」
引き合いに出すのは、同じ単独脱界者対策室という鳥籠の中にいる、部下たちのこと。レンキも述べていたように、彼らは皆容易には言えない、特別な事情を抱えている。そんな彼らが生きていけるほど、魔界府という組織は甘くない。放置しておけば、彼らは即座に、この建物から追い出されることだろう。だが、トワイライトが彼らを助けた。
それは彼らにとってまさに、救世主が突然目の前に舞い降りたも同然の事態。他に頼れる者がいない中で現れた、唯一絶対の味方を、おいそれを裏切るはずがないだろう。信用し、あるいは信奉し、あるいは崇め奉る。少なくとも、部下として忠実に尽くすことは確実だ。
「彼らには他に、居場所がない。私を蔑ろにすれば、彼らはたちまち、暴走状態に陥るでしょう。そうなった時、誰か他に彼らの手綱を握る者は……」
そして周りの悪魔たちにとっても、それは決して不都合ではない。トワイライトであれば、彼らを完全に管理出来ると踏んだのだ。要は、嫌いな相手に面倒事を押し付けたのである。そのための場所と権限を与えるくらい、安い出費だと捉えた。
そしてトワイライトは、自身が周りに利用されることを受け入れた。何しろ、これ以上の安定した平穏はないからだ。他人の庇護下で、ぬくぬくと暮らしていられる。もちろん、捨てられる危機を回避するための用意も忘れない。大人しい飼い犬のふりをして、扶養を続けさせるための切り札を、着々と揃えていくのだ。彼ら部下たちも、その一つ。
「一筋縄じゃいかない連中ばかりを部下に据えてるのは、そういうわけか……策士だね、トワちゃん」
彼の考えを見抜いたのか、シュハウゼンが呆れたような、感心したような声を上げた。トワイライトほど、自らの思考と、感情を分離させることの出来る悪魔はそうはいない。異常とも取れる精神こそが、シュハウゼンが彼にインペラトルとしての素養があると見做す理由である。
「でもね、そんなもの、どうにでも出来るんだよ。キミが理解してないはずはないだろう?ボクならいくらでも、君を閉じ込める鳥籠なんか壊せる」
だが、だからこそ、もう一歩踏み込んでみることにした。この、腹の内の知れないトワイライトという男の深淵を、覗き込んでみたくなったのだ。
「いつまで、キミはそんな甘えた理想にしがみついているつもり?そんなんじゃいつか、絶対に敵わない強大な壁とぶつかることになる。そうなった時、キミやキミの大切なものを守るのは何だと思う?……権力だよ。インペラトルとしてのね」
脅すような低い声を発し、彼に近付く。だがその半分以上は、本心ではない。ただの形式的なものだ。
トワイライトの黒い瞳を、真っ直ぐ見下ろす。まるで、深く深く続く、井戸の底を確かめようとするかのように。
「ですが……あなたにそんなことをするつもりはない。でしょう?」
トワイライトはしばらくの間、口を半開きにしてシュハウゼンの顔を見上げていた。かと思えば、やがてその口角がニンマリと上がる。人を食ったような笑みで、彼は大胆にもそう断言した。
彼の言葉はまさしく、シュハウゼンの胸中を看破している。一体何故、そんな芸当が可能なのかは分からない。けれど彼は、かつての上司の分厚い面の皮を透視し、本心を見抜いたのだ。決して、信用の発露などではないと、シュハウゼンは確信する。もしかすると、単にハッタリをかましただけなのかも知れない。だが、それを確かめる術は、存在しないのだ。
「ま、ボクだって鬼じゃないからね」
シュハウゼンは諦めて、対応を切り替えることにした。彼にはもはや、中途半端な誤魔化しは通用しない。であるならば、ある程度は本音に近い言葉を紡いでいくことで、彼の狙いを探っていくしかないのである。
「ただ、知りたかったんだ。キミが何のために、そこにいるか……」
珍しくしおらしい態度で、声を発するシュハウゼンを、トワイライトは密かに観察する。彼の話は、恐らく誘導だ。トワイライトが何故、タキトゥスに飼い殺されている状況を容認しているのか。そこにはただ、出世争いから逃れるためだけでない、別の目的があると思い込んでいる。タキトゥスとは異なって、彼は部署の違う悪魔だ。誤解を解いておく必要性はない。それどころかむしろ、色々と勘違いをしていてもらった方が、今後動きやすくなるかも知れない。
「……流石ですね。やはり、あなたには敵う気がしない」
「……フッ」
本当に、打ち明けた以上の狙いなどないのだが。トワイライトは思わせぶりな調子で、肩を竦め苦笑する。シュハウゼンも合わせるように、得体の知れない笑顔を作った。
「分かった分かった。降参~。今日のところは、キミの言い分に乗っといてあげるよ」
唐突に話を転換され、トワイライトは思わず困惑し眉を寄せる。シュハウゼンはまるで気にせず、朗々と、まるで台詞でもそらんじるかのように語り続けた。
「ボクは、使えるものなら何だって使う主義だ。野望を叶えるため、どんなものでも利用させてもらうよ?例えそれが……かつて最大限の忠義を尽くしてくれた、部下でもね」
言いながら、間の抜けた顔を晒しているトワイライトのことを、ちらりと一瞥する。
やはり彼は、あの頃から何も変わっていない。刑事部で共に働いていた時から何も。
自分の目的のため、欲望のために、どんな手段も厭わず行動する。悪魔として、最も当たり前な姿だ。
「手を組もう、トワイライト。ボクに手柄を捧げてくれ」
きっとこれは、この男にとって、何よりの賞賛になるだろう。
シュハウゼンは内心でほくそ笑みながら、彼に向けて片手を差し出す。
すっと差し伸べられた大きな手を、トワイライトは迷わず握った。
「仰せのままに……シュハウゼン刑事部長殿」
固く握手を交わす、二人の悪魔。それぞれが己の内側で何を考えているのか、それは本人たちしか知らない。
「あぁ、そうそう、トワちゃん。一つ言い忘れていたよ」
立ち去りかけたシュハウゼンが、ふと足を止めて声をかけてくる。
「何です?」
トワイライトは訝しんで、彼の背中に問いかける。シュハウゼンは振り返らずに、不穏な言葉を投げかけた。
「永遠の安息地など存在しない。時が進む限り、万物は全てゆっくりと崩壊していく……キミはいつか、外に出なくてはならなくなるはずだよ。そして、巻き込まれることになる……いずれ生まれる、大きな乱気流にね」
「……どういう意味です?」
今一つ意図の見えない話だ。その一端でも掴もうと、トワイライトは重ねて質問する。
「さぁね。ボクはただ思ったことを言っただけ~」
しかし、シュハウゼンは答えなかった。いつものふざけた調子で、ひらひらと片手を振って、彼の姿は廊下の曲がり角の奥に消える。残された言葉を、トワイライトはいつまでも口の中で転がしていた。
* * *
レンキが再び単独脱界者対策室のオフィスを訪れたのは、きっかり1時間半後のことだった。あまり気の休まらない昼休憩を終えたカーリは、ボール・アイ、レディと共に雑談を交わしている。レオナルドの姿は既にない。緊急の呼び出しに応じて、片思いの相手との会話を泣く泣く諦めて去っていった。
「レンキさん!」
姿を現したレンキを見るなり、カーリは勢いよく立ち上がる。
「結果は、どうだったんです?」
エンヴィスも同じ気持ちだったのか、素早い歩みで彼に近付いていった。
「そんなに危機迫った顔しないでよ。怖いじゃない」
レンキはわざとらしく、呆れた声を出して溜め息をつく。しかし、気のせいだろうか。心なしか、顔色がやや悪いように思える。まるで、クタクタに疲弊しているような顔付きだ。
「……でも、本当に怖いのは、こっちの方かもね」
そんなことをぼやきながら、手にしたファイルを差し出す。気怠げで緩慢な仕草で提示されたそれを、エンヴィスが急いで掴み取り、開いた。
「なっ!?何だ、これは……!」
ぺらり、最初の1ページ目を捲るなり、彼は目を剥き出して驚愕する。カーリは居ても立ってもいられず、横から首を突っ込んで中身を覗いた。
「見せてくださ……え……っ!?」
エンヴィスは呆然とした手つきで、それを彼女に渡してくる。カーリは慌てて目を通して、そして瞠目した。エンヴィスと同じように、声もなくして驚いている様子の彼女に、レディが怪訝そうな視線を向ける。
「どしたの、カーリ?」
しかし、彼女は答えなかった。あんぐりと口を開けたまま、固まってしまっている。埒が明かないと思ったレディは、半ば強引に、彼女の手からファイルを奪い取った。
「ふむふむ。なるほどー?」
そのまま、子供のような声を上げながら、鑑定結果と書かれた一枚目の紙を見る。そして、そこに書かれた文字列を、朗読した。
「えっとねー……DNA鑑定結果。サンプル、スライムの体液と思しき粘液。三度に渡って検査、鑑定した結果、複数の魔物のDNAが検出されました。スライム33%、デュラハン25%、インプ16%、その他の魔物、種族、数不明26%……だって。ねぇ、これどういう意味?」
真面目を装った声が、スラスラと長文を読み上げていく。彼女らしくない流暢な話し方にも、自ら音読しておきながら少しも意味を理解していないことにも、今は誰も触れなかった。
「私に分かるわけないでしょ。こんなこと、とても現実とは思えないくらい……」
袖を引っ張られたレンキだけが、おもむろに額を手で押さえる。明らかに憔悴し切った顔をしているのは、それほどまでに、彼らに突き付けられた現実が、衝撃的なものだったからだ。
「レンキさん、本当にこれ、正しい結果なんですか?何かの間違いじゃ」
あまりのことに、事実を受け止められないのだろう。カーリが縋り付くような声音でレンキに問いかける。
「そう思って、私も再三調べ直させた。だから、こんなに時間がかかったんだよ」
尋ねられたレンキは、呆れたような調子で答える。覇気のないその声は、何度も同じ質問をされ、その度に同じ回答を繰り返しているかのような、疲れを含んでいた。
「でも、何度やっても確かに結果は同じ。サンプルだって、確実にこのスライムの体表から採取した。あんただって、見てたでしょ」
「それは……そうですけど……」
これ以上手を煩わせないで、と懇願する母親のような言い方。正論で諭されれば、カーリは反論する言葉を見つけられずに、口ごもる。
「どうしたの?カーリ……何か変だよ?」
「僕……どこかおかしいの?」
いつになく思い詰めた様子の彼女に、不安を煽られて、レディは思わず口を開いていた。同じくボール・アイも、おずおずとした口調で、彼女に声をかけている。
「レディちゃん……ちょっと」
心配そうな顔でこちらを覗き込む二人を、カーリはしばし見比べた。そして、レディの腕を引くと、彼女だけを部屋の隅へと引っ張っていく。こんな話、いきなりボール・アイ本人に聞かせるわけにはいかなかった。
「例えば、レディちゃん。犬と猫、二つの種族の遺伝子を持った動物がいるって言ったら、どう思う?」
オフィスの入り口付近で、ドアの影に隠れるようにして、彼女に耳打ちする。正直今すぐにでも、『そんな話あり得るわけがない』と囁いてしまいそうだった。
彼女のかすかな声を、ふんふんと興味深そうに聞いていたレディは、尋ねかけられるなり顔をパッと上げて答える。
「うん、キモいっ!!」
「そ、そうだけどそうじゃなくて……」
彼女の、理解は出来るが的を外している回答に、カーリは曖昧な返答を返す。彼女が言いたかったのは、そんなことではないのに。
「あり得ない!!こんなこと、あるはずがないっ!!」
どう話すべきかと、カーリが眉を寄せて悩んでいると、廊下にまで響き渡るようなエンヴィスの大声が轟いた。
彼はまるで、肉親の死にでも直面したかのように、激しく取り乱している。いつもの冷静な彼からは、想像もつかぬ狼狽ぶりに、カーリたちは目を奪われた。
「だけど、結果は出てるじゃない。これが事実なのは確か。あんたにだって分かるでしょ、エンヴィス」
混乱した様子のエンヴィスに、レンキが意識して作ったような落ち着いた声色で話しかける。そして、優しげながらも有無を言わせぬ調子で、彼に命じた。
「戸惑う気持ちは分かる。私だって、最初は信じられなかった。信じたくなかった。こんなこと……でも、これが現実なんだよ。いい加減、認めなさい」
寄り添うかと見せかけて、容赦のない現実をぐっと眼前に突き出すかのような行為。相手によっては心に致命的な損傷を負うかも知れないそれに、カーリは驚いて息を詰める。
残酷なレンキの行動によって、その場の雰囲気が、一段と重くなった気がした。
「……認められるかっ!こんなの、何かの間違いだ!そうに決まってる!じゃなきゃ、おかしいだろ!?」
エンヴィスは、一度だけ口の端を歪め、頬をひくつかせる。レンキの荒療治は、固く閉ざされた彼の口に、薬を無理矢理に捻じ込んだかと思ったが。エンヴィスはすぐに、体を震わせて拒絶した。そのまま、感情に任せて強い口調で反発する。
「ここは、現代だ!ファンタジーじゃないんだぞ!?それなのにどうして、キメラなんてもんが、確認されるんだ!!」
「キメラ……?」
激しい勢いで捲し立てられる言葉の奔流の中から、カーリは鋭敏に一つの単語を聞き取ると、眉根を寄せて首を傾げる。
「合成魔獣とは。異なる種族のDNAを複数体内に保有する魔物のこと。中でも、強制的に異種族間での交配を行わせ、人工的に作り出した魔物のことを指す。バ~イ、ヘルペディア」
すぐに携帯端末を操作して、検索画面を立ち上げたレディが、表示された結果を滔々と読み上げた。差し出されたスマートフォンを、カーリはじっくりと眺める。
「キメラの存在は、歴史上では確かに認められている……でも、それは、決して再現出来ないものなの」
彼女が何かを言う前に、レンキが間髪を容れず、付け加えた。
「どういうことですか?」
カーリは、純粋な興味を抱いて、率直に尋ねる。レンキも、彼女の好奇心を否定することなく、素直に答えた。彼女には、この話を知っておいてもらわねばならないからだ。
「キメラを作るための理論も、装置も、まるで体系化されていないからだよ。キメラは、インペリアル・ロードが書き残したいくつかの私的な文献にしか記載されていない。存在することは分かっていても、どこでどうやって、いつ生まれたのか、誰も解明していないの。まさに、謎めいた生物」
すらすらと、水が流れるように淀みなく話すレンキの言葉を、カーリはうんうんと時折頷きながら聞いていた。隣では、あまりよく分かっていなさそうな顔のレディが、口を開けて佇んでいる。彼女にも理解を促すために、レンキは少し具体的な話をすることにした。
「考えてもみなさいよ。種族の違う生物同士の交配なんて、まずそれ自体、とても難しいこと。魔法や薬物を使っても、確率は万に一つでしょうね。ましてや、それが妊娠、出産に行き着く可能性は?子供がきちんと、無事に生まれてくると思う?健康体に育つ確率は、どのくらいかな」
「とても……成功するとは思えません」
常識的な反応を返すカーリに、レンキは一つ首肯して続ける。
「そう。その通りだよ。いくら魔法や最先端技術を用いたって、上手くいくとは思えない。たった二つの種族を掛け合わせるだけで、これだけリスクが大きくなるのに、ましてやこのスライムは、数、種類不明の多数のDNAが混じってるんだよ?しかもこいつに含有されるDNAの内、量的二位を占めているのは、生殖活動をしない、アンデッドのデュラハン……こんなものを交配させるなんて、まず不可能だって、分かるでしょ」
彼の話を聞く内、カーリにも事の深刻さが、改めて分かってきた。肌にひしひしと押し寄せるような、切羽詰まった感覚に、彼女は耐えきれずに疑問を発する。
「じゃあ……じゃあ、どういうことなんですか……ボール・アイは、一体……」
何者なんですか、という最後の言葉は、もはや声にならなかった。顔色を青くして立ち尽くす彼女に追い打ちをかけるように、エンヴィスが口を開く。
「一つ……可能性があるとすれば」
一時は感情的になって騒ぎ立てた彼だが、キメラについての解説をレンキが始めた途端、打って変わったように黙り込んでいた。その彼が、今度は何を語るのか。カーリは緊張した面持ちで、彼を見つめた。
「もしも、こいつが本物のキメラだったと仮定するならば……そんなことがあり得るのなら……考えられることは、一つだけだ」
どうか怖いことを言わないでほしい。そう言いたげな彼女の目を、エンヴィスは見もせずにボソリボソリと呟く。
「そんなことが出来るのは……」
「「インペリアル・ロードだけ」」
溜めに溜めた彼の言葉は、レンキの声と重なって紡がれた。最後の一言を取られかけたエンヴィスは、若干気分を害したような表情を見せながらも、話を止めない。
「魔界最強の椅子に座ることを許されたあの連中なら、こんなキメラスライムの一体や二体、生み出すことは容易だろう。それどころか、今まで誰にも解明されなかった、キメラ創造の体系すら研究しているかも知れない。そしてそれには、禁術……”生命錬成”の術でも使っているんだろうがな」
禁術とは、魔界府によって、使用することが禁じられた魔法のことだ。魔界府の専門機関が、毎年それらの禁術をまとめたリストを発表している。禁術を用いれば、直ちに魔界府の魔導管理部門が検知して、取り締まるだろう。禁術は、当然禁止されるに値する、驚異的な威力を持つものがほとんどだ。場合にもよるが、大都市を1日の内に壊滅させることの出来る魔法もあるという。過去には、何万という悪魔が虐殺された例や、上級悪魔が簡単に屠られた事例も存在するそうだ。決して使わせてはならないと、魔界府が目を光らせているのも当たり前だろう。
しかし、この禁術の大半は、そもそも行使すること自体が困難なものが多い。強力な魔法を使うには、それに応じた大量の魔力を消費しなければならないからだ。ましてや、複雑過ぎる術式や、実行不可能な儀式の必要性まであったならば、現代においては行使不可能と言われても仕方がない。禁術リストの中には、そのような、存在するのかどうかすら怪しい魔法も含まれている。キメラ創造も同じく、伝説・伝承の一つだと思われていた。
だが、それももう終わりかも知れない。ボール・アイという不可思議な生命の存在が発見された以上、伝説は伝説でなくなった。ただの伝説として片付けるわけにいかなくなったのだ。
「こいつは、相当大きな闇から逃れてきた一匹ってことになるぞ……ここはまだ、深淵じゃない。その、ほんの一端みたいなものだ」
エンヴィスは低く、重々しい声で、そう言って締め括った。
「もはや陰謀論みたいな話だね……禁術の使用。キメラ創造の解明。こんなことをしているインペリアル・ロードの存在……到底、現実とは思えない」
権力者のまとめ役として君臨する、統率者。インペラトルたちを導き、ひいては世界の進路をも決定している彼らならば、行使不可能と言われる魔法を使うことも可能だろう。しかし、それはれっきとした犯罪。現代においては、脱界以上に重罪とされる行為だ。テロリズムの一種と見做されてもおかしくはない。そんなことを、世界の命運を握る存在たちが行なっているだなんて。誰だって認めたくなくて当然である。エンヴィスやレンキの心持ちが、初めてカーリには理解出来た気がした。
「でも、これが現実だと、この子は証明した。これは、確固たる証拠だよ。インペリアル・ロードが抱える、巨大な闇の証。陰謀の、生き証人なんだから」
深い深い暗黒の存在を唯一証明する、希望であり脅威の光。それが、ボール・アイの持つ真価だということなのだ。
「こんな強力な証拠を、ロードたちが放置しておくはずはない。カーリちゃん、あなた今、この子と自分がどれだけ危険な場所にいるか、分かってる?」
だがその価値は、そっくりそのまま危険にもなり得る。闇を明るみにされる前にと、魔界屈指の権力者どもが、一斉に襲いかかってくるかも知れないのだ。
「わ、私……!」
彼らはどんな手を使ってでも、自らの企みを暴かれないよう、働きかけてくるだろう。暗殺、テロリズム、諜報活動。ごく普通の低級悪魔には、想像も出来ないようなことを仕掛けてくるに違いない。一介の市民に過ぎないカーリには当然、耐えられないはずだ。彼女はあっさりと殺され、そしてその事実すら、隠蔽されるかも知れない。
「そのくらいにしてもらおうか」
顔面を蒼白にするカーリの耳に、突然聞き慣れた声が飛び込んできた。振り向くと、トワイライトが、オフィスの入り口に立ち竦んでいる。付け直したドアにもたれかかり、漆黒の角を軽く手で撫でていた。どうやら、しばらく前からそこにいたようだ。皆目の前の議論に意識を向けていて、気が付かなかったらしい。
「私の可愛い部下を、あまりいじめないでもらいたいねぇ。警告は確かに有用だが、やり過ぎるとただの脅しになりかねない……これ以上は、彼女の精神を追い詰めるだけだと思いますよ?」
彼はいつもの調子でゆったりと喋りながら、カーリに近付く。レンキもいつものように、目を細め警戒した様子を見せた。
「と、トワイライトさん、私!とんでもないことを!」
彼と対峙するように佇む上司に、カーリは慌てて話しかけた。半ばパニックになったような声色に、トワイライトは落ち着いて答える。
「気にすることはないさ。私も、薄々勘付いてはいたからね」
「え!?」
彼の言葉に、カーリは驚いて目を見張る。トワイライトはさも当然であるかのように、やや笑みをこぼしながら続けた。
「誰だって分かることさ。あの様子は、単なるスライムには思えない。何か裏があると思って然るべきだろう?」
トワイライトが最初にオフィスに入った時、ボール・アイはまだ今と同じ、スライム同様の外見をしていた。しかしそれが、背の高い人型の怪物へと姿を変えたのだ。それどころか、彼の体から分離したはずの黒い体液まで、自在に操ってみせた。あのような力は、本来のスライムには備わっていない。先刻対峙した時点で、トワイライトは彼が何か複雑な問題を抱えているを、見抜いたのだ。
尤も、それはエンヴィスやレンキとて同じこと。ボール・アイによって襲われた彼らや室内の様子を見れば、誰だって異常さに目が向くはずだ。だがその正体が、具体的に何であるかを、素直に受け入れられるとは限らない。要は、心の持ちようの違いだ。トワイライト一人だけが、怖いくらいに落ち着いて、淡々と行動していただけ。
「だから、少し調べてきたんだよ。私にだって、情報分析部に頼る以外のルートはあるからね」
話しながら彼は、冗談めかした仕草で口角を上げる。あえて得意げな様子を演じてでもいるかのようだ。そして、一体どこに隠し持っていたのか、まるで手品のような動きで、どこからか書類袋を取り出した。
「レンキさんならお聞きになったこともあるんじゃないでしょうか。長らく刑事部で、凍結になっている案件……何やら怪しげな、”遺伝子研究”施設、とやら」
トワイライトの手から、それを引き取ったレディが、中身を全て近くの机にぶちまける。綺麗に拭き上げられた天板を、何枚もの紙が勢いよく滑り落ちていく。エンヴィスが慌てて、手を伸ばして押さえた。
「さっすが腹黒男……こんな情報、どこから仕入れてきたの」
資料の間に添付された、写真やら手書きの報告書などを確認しながら、レンキが呆れた声を出す。呟くように疑問を口にしていた彼は、しかしすぐに、人の悪い笑みを浮かべると言った。
「な~んて、聞くまでもないか。こんなに情報管理の緩い悪魔は、一人しかいない。随分と気に入られているんだね……シュハウゼン部長に」
空になった書類袋を掲げる仕草は、恐らくそれを手渡した人物を指しているのだろう。トワイライトははぐらかすように、おどけた調子で肩を竦めた。
「はは、ご想像にお任せしますよ」
「……本当、腹黒な男」
肯定も否定もしない、わざとらしい誤魔化しに、レンキは苛立った顔で吐き捨てる。彼の反応には構わず、レディがエンヴィスの袖を引っ張って訪ねた。
「ねぇ、シュ何とかって、誰?」
「シュハウゼン刑事部長。トワイライトさんの、昔の上司だ」
トワイライトはかつて、刑事部の悪魔として、シュハウゼンという男の下で働いていた。その時分のエピソードは、トワイライトがあまり語りたがらないので、詳細はエンヴィスにも分からない。しかし、随分と世話になった相手であるということは確かなようで、今でも付き合いがあるらしいとは知っていた。
「え?トワイライトさんて、前は刑事さんだったんですか。軍人さんじゃなくて?」
「あの人の経歴は、ちょっと複雑だからな……」
この中で一番の新人のカーリには、聞き慣れない話だったようだ。恐らく、彼女はトワイライトについて、全く何も知らないに等しい状態なのだろう。エンヴィスはどう説明したものかと迷いながら、ふと自分でも考えた。
彼の部下として、最も長く支えているはずの自分でさえ、彼のことはほとんど分からない。トワイライトという男は、まるで全身が黒い靄に包まれてでもいるかのように、正体の掴めない悪魔なのだ。
「さて、それでその不審な施設のことだが……表向きは、とある大学の附属の研究機関として、活動しているらしい」
エンヴィスのそんな考えは、トワイライトの声によって、煙のようにかき消されてしまう。意識を現実に引き戻された彼は、並べられた資料に目を通しながら、上司からの話を聞いた。
「規模は、4000名といったところか。まぁ、そこそこだな。しかし、その実態は驚くほど不透明。何の研究をしているのか、どんな組織になっているのか、ほとんどまるで分かっていない。どれだけ探ってもそこには、恐ろしい、暗闇が広がっているだけさ」
残された資料を見れば見るほど、その研究所とやらは、本性の不明な怪しいものであることが分かる。しかし、ただそれだけだ。違法な実験をしているとして告発があったかと思えば、その後すぐに勘違いであったと、本人からの申し立てでなかったことにされてしまっている。同じことが何度も起こったために、訝しんだ刑事部が捜査に踏み切っても、これといった証拠は何一つ出てきていない。まるで、雲を掴むような捜査だったという。探った分だけ、深い闇があることは判明するが、かといってそれが具体的にどの程度の大きさなのかは、決して分からない。おまけに、研究所の所長なる男は、製薬事業で有名なグループ企業の、名誉会長だ。一族で代々その会社を守ってきたというのだから、生粋のインペラトル、いや、インペライアル・ロードだろう。
「相手が相手である以上、刑事部も気軽に手出しは出来ない。それに、彼らの仕事も膨大だ。確固たる証拠を掴めない案件に、いつまでも人手を割いているわけにはいかない」
それが、この件が凍結にされた経緯だとトワイライトは語った。皆の理解が追いつくのを待ってから、彼はまた口を開く。
「だが、その凍結が、解除されることが決定した。ボール・アイくんの存在によって、キメラの実在がはっきりと確認されたからね。捜査は再び動き出すだろう。そこで……どうだい?シュハウゼンさん率いる刑事部に、我々も協力するというのは?」
「……え?」
「えっ?」
「はっ?」
「はぁっ!?」
発言を聞いた四人の反応は、皆それぞれだった。一度、よく言葉を噛み砕いてから、カーリが発した驚きの声。概要すら把握していないだろうレディの、気の抜けた声。エンヴィスの呆気に取られた声。そしてレンキの、反発の色が含まれた、棘のある声だ。
「全ては我々から始まったんだ。危険を避けるためにも、ここは一つ、手を貸して差し上げようじゃないか」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
スラスラと話すトワイライトに、エンヴィスが最初に、慌てた様子で抗議した。そして、両手を広げて訴えかけるような姿勢を見せる。
「お話は分かりますが、やはり危険過ぎますよ!大体、捜査協力なんて、普通はもっと規模の大きな部署が引き受ける仕事だ。俺たちみたいな少人数が、一体何の役に立つって言うんです!?」
「我々はただ、少し調査をするだけだ。逮捕など、大きな任務には関わらない。それならむしろ、少ない人数の方が怪しまれないだろう。危険も、最小限で済むはずだ」
「刑事部の仕事に手を貸すんですよ?最小限と言ったって、それなりにはあるでしょう!」
強い口調で問うエンヴィスに、トワイライトは噛んで含めるような、ゆったりとした話し方を心がけて答える。しかし彼は、まるで相手の言い分など聞き入れず、感情的になって吐き捨てた。
「連中からすれば、協力者なんて使い捨ての駒みたいなものだ。何かあっても、すぐに切り捨てられて終わる!」
「私も反対だよ、トワイライト。あんたがシュハウゼン部長に恩があるのは分かるけど、だからって奴の言いなりになっていいわけないでしょ。あんたはただ利用されてるだけ。もし危機に巻き込まれたとしても、シュハウゼンはきっとあんたを助けないよ。見て見ぬふりをされて終わる」
エンヴィスの言葉を補うように、レンキも話しかけてくる。彼の言い分の方がまだ、理性的であると言えるだろう。とはいえ、それもまた彼の私見が大いに反映された意見だったが。
「ですが、後手に回る方が愚策では?」
どこに反論すべきかやや迷いながらも、トワイライトは口を開く。そして、鋭い冷静な視線で、彼らを射抜いた。
「このまま何もせずにいたら、いずれ我々の身にも危険が及ぶでしょう。これだけ有力な証拠を警察部門に握られたとあっては、彼らも黙っていますまい。何としてでも隠蔽しようと、襲いかかってくるはずです。相手はインペリアル・ロードの子飼い。どんな手段を使ってくるか、分かったものではありませんぞ?その前に、こちらから動くというのは、悪い策ではないと思いますがねぇ」
彼の話を聞きながら、カーリは己の心がきゅっと収縮するのを感じていた。自分のせいで、仕事仲間たちが危険な状況に陥ってしまったのだ。こんなことになるならば、ボール・アイを救わなければよかったのだろうか。今からでも手放すべきなのか。言い出すのを迷っている内に、トワイライトは言葉を次いでいた。
「確かに、危険がないとは言い切れません。違法な実験を平気でやり遂げるような悪魔たちに、我々は接触しなければならないわけですからな。しかし、どちらがより安全かという視点で見れば、こちらの方がまだマシと言えるでしょう」
先回り出来るという時点で、かなり有利な立場にいることは明白。正論に納得しかけているレンキに、トワイライトは最後の切り札を切る。
「何かが起こってから動くのでは、遅い。ほんの少しの遅れが、致命的な結果を招く場合だってあるのです。そうなったら、二度と取り返しはつきません。あなたならよくご存知でしょう、レンキさん」
「っ!トワイライトさん」
それは流石にまずいと、エンヴィスが顔を引き攣らせて諌めようとする。だが、既にレンキは、苦虫を大量に噛み潰したような酷い顔をしていた。一瞬だけ、暗く、苛烈な憤怒がトワイライトを睨む。まるで、最も触れられたくないところを、無遠慮に土足で踏み込まれたかのようだ。何がそこまで彼を刺激したのか、カーリは不思議に思う。しかし、その正体を考察する前に、レンキはいつもの澄ました表情に戻ってしまっていた。
「……分かった。もういい。勝手にすれば」
意識して低められたような声音は、激しく突き上げる感情を無理矢理抑え込んでいるかのようだった。ツンと顎を上げていても、頬の筋肉がひくついているのが分かる。必死になって己を取り繕っていることが、明らかな態度だ。
「忠告はした。あんたたちはそれを聞き入れなかった。あんたたちが全部悪いんだから。私は関係ない。もし何かあっても、私を巻き込まないでちょうだい」
誤魔化しきれてないことを自覚していたのか、レンキは早々と話を切り上げると、素早く踵を返してしまった。
「仕事が残ってるから、戻るわ。あんたたちに付き合ってたおかげで、通常の業務がほとんど回ってないの。じゃあね」
そのまま足早に去っていくレンキを、エンヴィスは苦々しい顔で見送る。そして深い溜め息をつきながら、トワイライトに話しかけた。
「トワイライトさん……流石にあれは」
「ははは、少しやり過ぎたかな。強引だったね」
手酷いやり口だと言外に彼を責めれば、トワイライトは冗談めかして苦笑する。彼があそこまで、レンキの地雷を踏み抜くとは珍しかった。しかしそれほど、今回の件に乗り気であるということなのだろう。エンヴィスにはそれが、理解出来ない。
「何故、そこまで捜査協力に拘るんです。刑事部に任せておけばいいでしょう。それほど、あの刑事部長に弱みを握られるのが嫌なんですか?」
トワイライトとシュハウゼンは、かなり長い付き合いのはずだ。軍人上がりのトワイライトを、何かと面倒見てくれた上司だと聞いている。であれば彼を信頼して、一任してしまえばいいはずだ。わざわざ自分たちが、現場に赴く必要はない。それとも、シュハウゼンのことを信じていないのか。あるいは借りを作ることを嫌がっているのか。
「まぁ、それもあるにはあるが……そんなんじゃないよ」
言い募るエンヴィスに、しかしトワイライトは、否定とも肯定ともつかない返答をするだけだった。
「我々がボール・アイくんと出会ったことは、隠しようのない事実だ。どんなに秘密にしても、必ずどこかから情報は漏れる。過去は、変えられないからね。しかしその過去に、現在や、未来を邪魔されることだけは、避けなくてはならない」
だが、続くトワイライトの言葉は尤もなもので、エンヴィスは自然と頷いていた。あれだけ大きな騒ぎを起こしたのだ。報告書では上手く誤魔化せても、悪魔たちの口は塞げない。キメラたるボール・アイの存在がある限り、陰謀の影からは逃れ得ないだろう。インペリアル・ロードの違法行為の証拠なのだ。追手はどこまでも付き纏ってくるに違いない。
「我々の生活は、我々自身の手で守らなくては。力を貸してくれるだろう?」
「……分かりました」
トワイライトの言葉には、他に道はない、という脅しのようなニュアンスがはっきりと含まれていた。これにはエンヴィスも、大人しく従うしかなかった。戦うしか、生き延びる策はない。トワイライトのその意見に、反論する理由はなかった。
それに、彼は決して、部下である自分たちに不利益をもたらすようなことはしない。エンヴィスはそう信じていた。ただ理由だけが気にかかるだけで。
「トワイライトさん……!」
腹を括ったエンヴィスの隣で、カーリだけは現実を受け止められずに呆然としていた。
「すっ、すみません……私のせいで」
安易な行動の結果が、皆に回避出来ない危機をもたらした。その事実だけが、ずしんと重くのしかかっている。罪悪感と後悔とで、押し潰されそうだ。
「君のせいじゃないさ。むしろ君のおかげで、刑事部は未解決の案件に片が付けられるかも知れないんだからね。感謝していると思うよ?」
「でもっ、そのために、トワイライトさんたちを巻き込んでっ!」
泣き出しそうに顔を歪める彼女に、トワイライトは優しげな声をかける。だが、カーリは納得しない。
「私の、自分勝手な行動のせいで、皆さんにご迷惑を」
「君のためじゃない。私たちのためだよ」
自分を責めることを止めようとしないカーリに、トワイライトは先ほどよりやや強い口調で宥めた。彼女の言葉を遮り、大袈裟な身振りで周囲を示す。
「君の友達を救えば、君の心も救われる。君には元気でいてもらわないと、私たちの仕事が増えるからね。つまり私は、自分のために、行動しただけなのさ」
トワイライトの弁舌は続く。わざとらしい悪ぶった笑顔で続ける彼に、カーリは我を忘れたように見入った。
「それに、これは何より、ボール・アイくんのためだ。誰だって、自分の正体が掴めないのは不安だろう。君だって、それはよく分かっているはずじゃないのか?」
胸元に向けられた指先と、放たれた言葉。それはカーリの衣服と皮膚を通過して、直接心の底に突き刺さるようだった。精神の奥深くに、あの時味わった、苦い思いが込み上げてくる。
(そうだ、ボール・アイは今、あの時の私と同じ状況にいるんだ。私を同じ、苦しみを経験している……)
過去の自分と全く同じ思いを、今まさにボール・アイは体験している。カーリにとって、地獄よりも地獄だったあの経験。二度としたくない、あの辛い思いを。
「助けてやろう、彼を。君の、友達をさ」
救いたい、と思うことは、偽善なのだろうか。ヒーローを気取って、出来もしない難題解決に乗り出していることに、なるのだろうか。
否、それでも構わなかった。何故なら、彼女は一人じゃない。理解して、認め合って、支え合っていける相手がいる。孤独以外の仲間がいるだけで、カーリは己が強くなった気ような気がしていた。揺らいでいた心が安定し、自信が湧いてくる。単純かも知れない。しかし、カーリには、大事なことなのだ。一人では、己の意志を貫こうとしても、邪魔をしてくる連中に抗えなかった。だが、理解し助けてくれる協力者がいれば、戦える。トワイライトたちは、まさにカーリにとって理想的な存在だった。
「……はいっ!」
大きく頷いて、トワイライトの目を見る。視線を返してくるトワイライトは、相変わらず奥底が知れなかったけれど、しかしどこか安心出来た。己の胸中を覗かれていると不安になる一方、他人に言えない本心まで見透かしてくれているようで、安堵する感覚。こんな感情、きっと誰に言っても分かってもらえないだろうけれど。
カーリの納得したという反応を確認すると、トワイライトはくるりと背を向け、綺麗になったばかりのデスクに戻る。
「よし、では、具体的な計画を考案するとしようか。我々で草案を作って、刑事部で詳細を詰めれば、抜かりないだろう」
「了解です」
「やったー!よぉ~っし、やるぞ~!」
覚悟を決めた様子のエンヴィスが返答するのと同時に、レディがやる気に満ちた声色で両の拳を突き上げた。
「おいおい……張り切り過ぎだろ、レディ」
「だって!エンちゃんだって、許せないでしょ!?こ~んな可愛い子に、非道な実験してたマッド共のことなんて!」
呆れ顔で宥めるエンヴィスに、彼女は柳眉を吊り上げた怒りの表情を作ってみせた。
「ま、まぁ、そうだが……」
「大丈夫、ボール・アイ!あんたを苦しめた奴らなんて、アタシが全部ぶっ飛ばしてやるからね!」
「レディちゃん……」
あまりの剣幕にたじたじとなるエンヴィス。しかし幸運なことに、レディはすぐに彼から目を離すと、ボール・アイに向かって話しかけていた。頼もしい言葉を、カーリは嬉しさと心配が混じった複雑な表情で受け止める。すると、それまで黙っていたボール・アイが、おもむろに口を開いた。
「ありがとう、皆。カーリも」
きっと彼はまだ、強い不安の中にいるだろう。ここにいる4人とは、出会ったばかりなのだ。顔と名前を知っているだけで、性格や素性などほとんど何も知らない。全くの他人で、それ以前にそもそも、他種族だ。そんな者たちと、己を苦しめた原点に戻るなんて、心細いに決まっている。しかし彼は、自分を大切にしてくれる人たちの気概に応え、共に戦おうとしているのだ。己の闇に、向き合おうとする気丈な彼を、カーリはじっと見つめた。
「頑張ろうね、ボール・アイ」
ぐにょぐにょとした軟体を抱き上げ、言い聞かせるように囁く。何より、自分の背中を押すための言葉だったが、ボール・アイは元気そうに目を輝かせて頷いた。
「うん!」
* * *
その日の夜のこと。
帰宅したカーリは、ダイニングテーブルに着くなり、深々と溜め息を漏らす。今日ほど長く残業したのは、久しぶりだ。トワイライトとエンヴィスが抜けた分の仕事を、レディとたった二人で回すのは、中々にハードだった。とはいえ、この時間で帰れただけ、まだマシなのかも知れない。トワイライトたちはきっと、今も刑事部で最終調整に追われているだろうから。
(いくら何でも、即日決行って、ちょっと強引過ぎだよね……)
シュハウゼンとかいう名の刑事部長は、かなり奇怪な人物のようだ。流石、トワイライトの上司というべきだろうか。だが、それだけこの事件に執着しているということの表れでもあるのだろう。だから、他の悪魔たちも異議を唱えなかった。刑事たちの本懐が叶うのだから、喜ぶべきことなのだ。ボール・アイの抱える問題も、すぐに解決するということなのだし。
(でも、やっぱり心配だなぁ……)
即席の計画が、どこまで通用するのだろうか。強くなっていく不安を抑え込みながら、カーリは半ば単純作業のように、買ってきた夕食を口に運ぶ。濃く重い疲労が、体の奥底にへばりついていて、自炊をする気力もなかった。健康には悪いと思いつつ、しかし今日ぐらいはいいだろうと自分に言い聞かせる。向かいの席では、ボール・アイがもそもそと枝豆サラダを咀嚼していた。
何やら、落ち込んでいる様子だ。粘液の流れが途切れて現れる表情が、あまり明るさを持っていないようなのは、スライムを見慣れていないカーリにも分かった。
「ボール・アイ、大丈夫?」
「えっ!?あっ、うん!大丈夫!大丈夫だよ!」
そっと尋ねれば、彼は驚いて、潰れかけていた球形の体をぽよんと跳ねさせた。
「僕は大丈夫!大丈夫だから……」
早口で捲し立てていたかと思えば、今度は自分自身に言い聞かせるような、静かな調子で話し始める。大丈夫ではないことが、簡単に分かる反応だった。
「ボール・アイ……」
あまりに異様な様子に、カーリは心配になって彼の名前を呼ぶ。すると再びボール・アイは、焦ったような口調で捲し立ててきた。
「あっ、あのねっ?あ、朝のことは、本当にごめん。ごめんなさい。だけど、あの時は、僕もちょっと驚いちゃってて。暴れるつもりじゃなかったんだ!でも、あのトワイライトって悪魔の人見たら、何だか、怖くなっちゃって……」
そしてまた、喋っている内に気分が沈んで、元々覇気のなかった表情を一層暗くした。
「カーリ、僕、やっぱり怖いよ。きちんと向き合わなきゃいけないって、分かるんだけど、でも……そうしなきゃって、思えば思うほど、僕、怖くて……」
ボール・アイにとって、自分の出自を調べることが出来るのは、嬉しいことだった。嬉しかったのだけれど。
脳裏に、かつて受けてきた残虐な仕打ちの数々が蘇る。思い出さなければ苦しむこともないと分かっているのに、記憶というのは厄介なもので、忘れようと努めれば努めるほど、向こうの方から襲ってくるらしかった。まるで、忘却など許さないと言わんばかりに。
頭の中にこびりついた過去が、今もボール・アイを苦しめる。現実を見なければと思うほど、過去に引きずられてしまうのだ。齢3歳のこのスライムに、それを止める方法が、分かるはずもない。
「カーリ、僕……これから、どうしたらいいと思う?」
唯一無二の友人である、カーリに助けを求めるのは、ごく自然なことであった。
「分からない……正直、私にも、何が何だかよく分かってないんだよね」
「そ、そーだよね……」
しかし、いくら信用のおける友人と言えども、所詮は他人だ。カーリはどう答えていいか分からずに、曖昧な答えを返すしか出来ない。それを聞いたボール・アイは、一層陰鬱とした表情を浮かべた。
何だか、こんな風に話をしていると、彼はまるでスライムには見えない。姿はスライムのそれをしていても、悪魔や人間と同じように、考え感じ喋ることが出来る。言葉を持たない動物相手だと思っていたけれど、その知能や感受性は悪魔、そして人間の子供に近いと言えよう。カーリは己の中での認識が変質していくのを悟った。
「……ね、ねぇ、カーリはあった?その、何て言うか……怖いこと」
しばらくして、ボール・アイが再び口を開いた。基本的に明るく、他人と話すことを厭わない彼だからこその行動だと、カーリは思う。他人にあまり興味がない自分は、特別親しい相手以外とは、積極的な会話を望まない。きっと自分がボール・アイの立場だったら、自分の欲しい返答を得られなかった時点で、話すのを止めてしまっていただろうと。
「うん。あったよ」
その違いはともかくとして、今は聞かれたことに答えておかねばならない。幸いにして、ボール・アイからの質問は、さほど難しいものではなかった。カーリはあっさりと、特に考えることもなく、頷く。
「えっ!?」
ボール・アイの思い切り驚いた声が、静かな室内に響き渡った。それほどカーリの発言が、意外だったからだ。彼女はいつも穏やかで、優しい。静かだけれど平穏な毎日を、幸せに生きていると思っていたのだ。悩みや、不安なんかとは無縁のタイプだと信じていた。それなのに。
こんなにも簡単に、まるで何でもないことであるかのように、平然と肯定するなんて。とても本当のことだとは思えなかった。思いたくなかった。
悪魔とは、心の中身と外見とを、完璧に分けられる生物だなんて。
「あったから、言ったの。トワイライトさんたちは信頼出来るって。私も、助けてもらったことがあるから」
ボール・アイの恐慌に近い感情には気付かずに、カーリは淡々と話し続ける。だが、トワイライトの名前を口にしたあたりから、変化が現れ始める。世間話をするようだった平坦な口調が、大切な思い出に浸るかのような、温かみのある音となっている。
「私もボール・アイと同じだった。怖いことに、自分の力で立ち向かえずに、絶望してた。でも、そんな私に、トワイライトさんは力を貸してくれたの」
カーリは語りながら、過去の一時に思いを馳せる。白い部屋で蹲る自分と、そこに手を差し伸べる男のシルエット。
『私の部下になってくれないか?』
あの時の言葉は、今でも忘れない。まるで、自分が物語の登場人物にでもなったかのような気分だった。生まれて初めて、求めていたものが与えられる感覚。壊れかけた心が、救われた。
「あの人に私は、救ってもらったの。それまで私の周りには、私がどれだけ苦しんでても、手を貸すどころか、財布や傘を奪っていくような連中ばかりだった。でも、トワイライトさんだけは、私に味方してくれた」
カーリはただ助けてくれる人が、相談に乗ってくれる相手が、必要だっただけなのだ。簡単に思えるがそれは、彼女の生きていた社会では、稀有なる存在。だから誰にも言えず、一人で抱えるしかなかった。言葉にすることも憚られて。
しかしトワイライトは、カーリのその気持ちを見抜き、そして叶えてくれた。彼のおかげで、今の彼女がここにいると言っても過言ではないのだ。
「か、カーリがそんなに怖かったことって、何なの……?」
何故、彼女は若干誇らしさすら感じられるような口調で話すのだろうか。理解出来ないカーリの様子に戸惑いつつ、ボール・アイは好奇心に駆られておずおずと尋ねた。
「前にね、私、自分がどっちつかずの半端な存在なんじゃないかって思うことがあるって、話したでしょ?」
ようやく、カーリの口調が深刻な過去を語るに相応しいものとなってくる。
「うん。でも、どうして?」
「私はね……昔は、人間だったの」
彼女のその言葉に、ボール・アイは咄嗟の返しが思い浮かばなかった。あまりに驚きが強いと、思考が停止するものなのだと、初めて学ぶ。
「あ、正確にはね、人間として育てられた、って言った方が正しいかな?」
ボール・アイが固まっていることをどう解釈したのか、カーリは小首を傾げながら補った。また、取り留めもない話をするような口調に戻っている。
かと思えば、彼女は再び、真剣な声音を出して語り始めた。
「私の両親はね、脱界者だった。知ってる?脱界者っていうのは、政府の許可を取らずに、勝手に人間界に行った悪魔たちのこと。つまり、犯罪者」
脱界者については、エンヴィスから事前に説明を受けていた。カーリたちが残業に追われている間、休憩を取りにきた彼が、簡単に説明してくれたのだ。尤も、彼も忙しかったようで、本当に簡潔にしか教えてもらっていないが。
そこで、脱界という行為は重罪なのだと知った。そして、カーリたちはそれらを取り締まる仕事なのだと。
つまり、カーリは犯罪者の子を自称しながら、両親と同じ罪を犯した者たちを追っているということになる。何だか、信じられなかった。
「私も、詳しいことはあまり知らないんだけどね……」
カーリはそう前置きをして、続きを話す。何もない空間に視線を向け、ボール・アイに聞かせるというよりも、独り言ちるように呟いた。
「私の父と母は、平凡な低級悪魔だった……」
* * *
カーリの両親は、平凡な低級悪魔だった。魔界のごく一部に存在する、スラムと呼ばれる街の住人たちだ。
人間界に、差別や貧困、環境汚染などの諸問題があるように、魔界もいくつかの厄介な課題を抱えている。それは、インペラトルやインペリアル・ロードを始めとする権力者たちにも、簡単に解決することの出来ない難題だ。
その内の一つが、暗黒街と呼ばれる不法居住地の存在であった。何もなかった場所に、何らかの理由で普通の社会では暮らせなくなってしまった悪魔たちが、勝手に住み着き街を作った。当然、そこには魔界府による福祉やサービスの手は入らない。だからいつまで経っても治安は最低で、どれだけ頑張っても貧困から脱出することは出来なかった。しかし他に行き場のない住人たちにとっては、決して離れられない地でもあった。
カーリの両親も、そんな地獄の中の地獄で、少しでも楽な生活を求めてもがく悪魔の一人だったと思われる。
当時、彼らの中の流行は、脱界による一攫千金を夢見ることだった。魔界を離れ、人間界にて、新たな人生を歩み出す。人間たちで言うところの、アメリカン・ドリームのようなものだろう。別の場所で成功を収められれば、以前の凄惨な暮らしなど忘れて、自由に生きることが出来る。貧しい悪魔たちは皆その夢に、憧れた。
しかし、世界と世界の境界線を越えるという行為は、非常に繊細で、複雑なもの。厳正な審査を通過した悪魔にしか、許可は降りない。不法居住者であり、明日の食事にも困窮するような生活を送る彼らには、到底叶わぬことだった。あくまでも、夢のままということだ。だから誰もが、脱界という違法手段に飛びついた。マフィアなどの裏組織が提供しているその方法でなら、許可がなくとも、職がなくとも、人間界へと行くことが可能だから。
カーリの両親は、必死で金を溜めた。魔界では上手く行かない人生を、人間界という別の世界で、やり直そうとしたのだ。成功し、大金持ちになって、一生涯何不自由ない生活をする。そんな夢を見て、人間界へと脱界した。
けれどそう簡単に、人生というものは、変えられない。
カーリを妊娠していることが発覚したのは、脱界が無事成功した、直後のことだったと予想される。
脱界者の暮らしというのは、スラムの住民たちが思っているほど、気楽ではなかった。常に警察部門の追手に怯えながら、己の正体を隠し、人間と偽って、生きていかねばならないのだ。たとえ生活が安定したとしても、身分を偽る生活は、決して心の休まらぬもの。生まれたばかりの赤子を連れた、学も金もない男女が、歩むことの出来る道ではなかった。
脱界という祝福されぬ手段でも、希望であることは確か。そう自身を納得させながら、苦痛から逃れようとした両親は、幸か不幸か、実の子供の存在によって、再び絶望の底に突き落とされたのである。考え方次第では、カーリは、己の父と母を苦しめたことにもなる。生きているという、ただそれだけの理由で。何とも酷い話だ。
ようやく地獄から解放されたと安堵していた母は、妊娠によってすっかり精神的な安定を失ってしまった。当たり前だろう。彼らは二人共、低級悪魔の中でも特に力の弱い個体。魔法は一切行使出来なかった。角も生えていなかったため、見た目は人間と全く変わりなかったが、しかし子供も同じとは限らない。どれだけ外見は人間に近くとも、種族は完全に別なのだ。人間と深く関わることは危険。つまり、医療機関における妊娠、出産、育児のサポートが受けられないとだけでなく、中絶という選択肢すら、選ぶことが出来なかったのだ。
カーリの母は、誰にも苦しみを相談出来ない中で、それでもどうにかカーリを産み落とした。
産んでしまったのだ。
脱界者が子供を育てるなど無謀。そう思ったカーリの両親は、カーリを捨てることを決断した。かといって、殺すことも気持ち的に難しかったのだろう。幸い、彼女の姿は両親同様、人間のそれと相違ないものだった。否、それこそがあらゆる不幸の始まりだったのかも知れない。
カーリの身柄は、人間の手へと渡された。正確には、すり替えられたのだ。病院にいた、人間の子供と。
深夜、小児病棟に侵入した彼らは、病室で眠る乳幼児たちの中から、最もカーリに見た目の近い子供を選んだ。その子供を取り上げ、自分たちの子供とすり替えたのである。そして人間の子供を、殺した。
他の世界への干渉は禁忌。人間たちに悪魔が関わり過ぎることは、この星そのものの滅亡を招きかねない、危険な行為だ。だからこそ、越境は厳しく管理され、脱界は重罪とされている。その過干渉の最たる例が、殺しである。ましてや、生まれて間もない赤子を殺害したとなれば、決して見逃すことなど出来ない。
近くの河川敷で、人間の赤子の遺体が発見された瞬間に、警察部門における彼らの優先度は最高まで跳ね上がった。損傷が激しかったために、人間たちの捜査はすぐに行き詰まったが、悪魔たちは違った。彼らの所在は即座に明らかになり、速やかに逮捕が行われた。けれども彼らは、どうしてそんなことをしたのか、絶対に口を割らなかったそうだ。自分たちにも子がいて、その子を守るためにしたことだとは、二人とも何があっても言わなかったのである。
結果として、カーリの存在は長い間、誰にも知られることがなかった。人間の子供の両親も、まさか自分たちの実子が既に息絶えているとは、育てているのが他種族の子供だとは、夢にも思わなかっただろう。悪魔の子供には山崎海理という名前が与えられ、人間として生きることを余儀なくされた。
トワイライトという名前の男が現れたのは、彼女が大学生になって数年経ったある日のことであった。
当然、初めは彼の話など信じなかった。信じられるはずもなかった。自分は悪魔。人間ではない種族で、地底の遥か奥深くにある、魔界と呼ばれる世界の住人であることなど。誰が即座に理解出来ようか。
彼女は、人間なのだ。人間として、育てられたのだ。人間たちが持っているのと同等の知識と、常識としか、有していない。ファンタジー作品の一部にしか過ぎないそんな存在のことは、簡単には認められないものだった。
トワイライトに連れられて、魔界に足を踏み入れた時も、同じ感情だった。夢でも見ている気がした。何かとてつもなく高度な技術を用いた、リアルに限りなく近い夢を。だが、実際に体に伝わる感覚は、とても夢とは思えなかった。これは、現実だった。これこそが、彼女が真に、生きるべきだった世界だ。
魔界という、全く新しい別の世界。魔法という、物理法則を捻じ曲げる神秘的な力。悪を美とし、欲望のままに生きるを理想とする、邪悪な悪魔。人間たちは、これを全て知らずに生きている。何とも愚かなことだ。
突きつけられた現実を、拒む術はなかった。受け入れざるを得なかった。そして彼女は、人ではなく、悪魔として生きることを決めた。
もちろん、楽なことではなかった。人間としての価値観や、常識はもはや何も通じない。彼女が今まで必死になって築き上げてきた、アイデンティティーや知的武装といったものは、完全に無意味なものとなってしまったのだ。彼女は心の調子を崩し、しばしの間、魔界府警察部門が監督する病院に入院することとなった。
彼女の処遇についても、様々な議論が交わされた。他世界への干渉は、重大な禁忌だ。海理は生まれてから今までずっと、それを犯していたことになる。果たして、彼女は大罪人なのだろうか。自らの意思で脱界したのではなく、両親に置き去りにされたことが原因だというのに。
詳しい過程はよく分からない。けれど結論として、彼女はあらゆる咎や責任を免れることに成功した。海理の存在は公には発表されず、内々で処理された。人間界にいる育ての親に関しては、記憶操作処理が無事に行われた。彼女の両親は、娘は今もどこかで元気に、人間として生きていると思い込んでいるはずだ。可哀想なことかも知れないが、それが一番、角の立たぬ方法だった。
だが、大変だったのはそれだけではない。彼女の情報は、最小限度の人数によって処理された。といっても当然、警察部門の関係者たちの間では、隠しきれない噂が広がってしまう。彼らの中には、推測や偏見、身勝手な私情に基づいた憎悪を抱く者もいた。罵倒され、暴力を振るわれたこともあったくらいだ。
本来いるべきだったこの魔界でも上手くはやっていけないのかと、絶望した。入退院を繰り返し、しばらくは不安定な時期が続いた。それでもトワイライトとエンヴィス、レディの三人は、彼女から離れていかなかった。室長たるトワイライトが便宜を図ってくれたおかげで、海理は魔界府警察部門の、単独脱界者対策室の協力者という職を手に入れた。いわゆる、非正規雇用の職員だ。そして、海理からカーリと名を改め、新しい人生の第一歩を踏み出したのだった。
* * *
静かな室内に、カーリの訥々とした語り声が響く。
長い長い話を黙って聞いていたボール・アイは、やがておずおずと口を開いた。
「……怖く、なかったの?カーリ……」
小さな粘体の体を震わせながら、そっとカーリを見上げる。
話し疲れた様子の彼女は、乾いた口内を紅茶で潤しつつ、彼に向かって微笑みかけた。
「もちろん、怖かったよ、それは……悪魔たちから嫌がらせされた時は、流石に死にたくなった。今でもね、少し怖い。だって、またあんな目に遭うのは嫌だもの。だから嫌われないように、毎日愛想笑いしてる」
苦笑をこぼしながら、カップをソーサーに戻す。小さくかちゃっという音がして、琥珀色の温かい液体が揺れた。
「私には特別な才能も、魔法の腕もないんだから、せめて愛想良くしなくちゃって……でも、そんなことも上手く出来なくて、無理ばっかりして、ヘラヘラして。ちょっとしたことでトラウマを思い出しちゃうし、何かミスするとすぐ落ち込んじゃう。そんな自分が、嫌いになることもあるよ」
彼女の横顔を、ボール・アイは見つめる。彼女と出会ってから、まだたったの一日とわずかしか経っていない。それなのに、今自分の視界に映る彼女の姿は、昨日とはまるで違っている。こんなにも短い時間の中で、相手への印象がこうも激変するとは、思ってもみなかった。
「……もっと私に、力があったらな……」
そうしたら、自分を傷付ける誰かとも、戦うことが出来るのに。
独り言ちる彼女の声を、ボール・アイは何も言えずに聞いているしか出来ない。
まさか、彼女の中にこれほどまでの、強大かつ暗澹たる闇が広がっているなんて、予想だにしなかった。
だが、それも当然のことだろう。彼女が受けてきた仕打ちは、あまりにも凄惨なものだ。悪魔社会に疎いボール・アイですら、戦慄を禁じ得ない。
しかし彼女は、己の本性を巧みに隠してきた。誰しもが、言われなければ、決して気が付かなかっただろう。果たしてそれが、いいことなのかは分からない。
カーリの内面は、およそ世間一般の悪魔たちとは、似ても似つかぬ状態であろう。歪んでいると、非難されるかも知れない。
けれどそれでも、構わないような気がした。どんなに辛い過去でも、綺麗さっぱり水に流せて、何事もなかったかのように、明るく振る舞える性格の持ち主なんて、数限られている。大事なのはそこではない。
自分なりのやり方で、たとえ正しくなくとも自分自身で選んだ方法を使って、自分に向き合うことだ。そして、そこから新たな自分を作り出すこと。
カーリはそれを達成した。
彼女の抱える闇は、ボール・アイのそれとは、違う。でも、本質的には一緒のはずだ。
彼女なら、自分のことをきっと理解してくれる。理解して、そして尊重してくれる。
ボール・アイはそう、直感した。
「でも、私はそれでも、頑張ってついていこうと思ってるんだ。あの人たち以外、私がついていくべき人はいないよ。だって……前は私の周りには、人間しかいなかった。皆心が貧しくて、卑しくて、卑怯で。何かあればすぐに他人に悪意をぶつけたがる、ゴミクズみたいな人間しか……だけどトワイライトさんたちは違う」
カーリにとってはそれが、トワイライトたちだったということなのだろう。
ボール・アイの脳裏に、嫌な記憶が過ぎる。白い壁と白い天井に包まれた、残酷な思い出が。「私がどんなに馬鹿なことをしても、言っても、あの人たちはいつも笑って、受け止めてくれる。むしろ、悪魔らしくなったなって、褒めてくれるかも知れない。私の心の闇に、寄り添おうとしてくれる。それがねっ、私は凄く、嬉しいの。今までこんなに私のこと、分かってくれて、否定しないでいてくれる人たちに、出会ったことなかったから……」
今までずっと、一人で戦ってきた。暴力に耐え、生にしがみついて、必死の思いで逃げてきた。
でも、もう一人じゃない。
彼女がいる。
彼女を助けてくれた、仲間たちがいる。
「だから、ボール・アイも信じてみてくれないかな?もしも、あの人たちがあなたを傷付けるなら、私が全力であなたを守る。絶対に、あなたを助けるから……だから、もう一度だけ。信じてみよう?きっと誰かが、必ず、手を差し伸べてくれる」
カーリはそう言って、スライムの体を撫でる。ぷるぷると黒い粘液が、手の動きに合わせて揺れた。
波紋のようなそれを見ながら、カーリは思う。
信頼という行為を、かつての自分も恐れた。誰かに何かを求めることほど、苦しいことはないからだ。期待して、もしもそれが裏切られたら。途轍もない精神的ダメージを受けることとなる。何故助けてくれないのかと恨み、出口のない迷路に迷い込んでしまう。信用した自分が悪いのだと、卑下してしまう。
今でさえ、その恐れは抜けていない。自分の力だけで、生きていけたらと願ってしまう。けれど、力のない自分に、出来ることはほとんどない。何かを成し遂げるには、周囲を信じる他に、道はないのだ。
「一緒に、頑張って前に進んでみよう?もし失敗しても、きっと大丈夫。絶対に誰かが、あなたを支えてくれる。あと一回だけ、勇気を出そうよ」
今はこの試練に、飛び込むしかない。
カーリは勇気を振り絞り、そう決意する。たとえ裏切られたとしても、決して後悔はしない。心に新たな傷を負うことも覚悟しながら、信用を決断する。
そうしようと思えたのだ。トワイライトによって、救われたから。あと一回のダメージくらいなら、耐え切れる精神を手に入れた。そして、かつての自分と同じように、現実に絶望し苦痛に塗れているボール・アイのことを、助けてあげたいと感じた。
誰かに力を貸す、余裕を得たのだ。
それは、間違いなくトワイライトのおかげ。
だから昔の彼のように、手を差し伸べることが出来ている。
あの時の彼も、こんな感情を抱えていたのだろうかと、考えながら。
「うん……大丈夫。僕は、カーリを信じるって決めてるから」
彼女の手の温もりを感じながら、ボール・アイはゆっくりと、しかし力強く頷いた。彼女の言葉が、響いたのだ。
「カーリの信じる人を、僕も信じるよ。トワイライトたちのこと、僕も信じる!信じたいんだ!」
「……そっか。ありがとう」
彼にとって、カーリは、雨の中から救い出してくれた、救世主なのだ。その彼女が言うことを、決して疑ったりはしない。彼女が信じてと懇願する相手のことは、ボール・アイも信じたかった。
張りのある元気な声で、宣言する彼のことを、カーリは笑顔で見つめる。細めた目に映る彼の姿は、若干滲んでいた。
* * *
翌る日の朝。カーリとボール・アイは、トワイライトたちと共に、ハデス郊外の住宅地に降り立っていた。
「さて……ここだね」
隣に現れたトワイライトが、眼前に聳える建造物を仰ぎ見る。つられてカーリも、彼の視線を辿るように目を動かした。
それは、例えるならば、いくつかの直方体を組み合わせたような形状。周囲をぐるりとフェンスに取り囲まれた敷地の中に、知育ブロックを乱雑に積み上げたような、不思議な形の建物が、でんと鎮座している。外壁は真っ白に塗り潰され、ところどころに植えられた植物だけが、緑の彩りを放っていた。アスファルトの敷かれた広い道路のそばには、刈り込まれた芝生や、小さな池などが設られていた。
「何か、実験施設とかには見えませんね……美術館みたい」
あまりにも洒落た、人工的なデザイン。
カーリの表現にも納得がいく。
しかし異質なのは、その人気のなさであった。
正門は開かれ、自由な出入りが可能になっているのに、敷地内には誰もいない。駐車場に停まる車の数も、規模に対してあまりにも少なかった。
「生命の気配をまるで感じないな……」
ただならぬ気配を感じて、トワイライトはそう独り言つ。すると横から、エンヴィスが眠そうな声で同意した。
「ですね……ふわぁ~あ……」
「あー、エンちゃん、欠伸してるー!」
「うるさいな。仕方ないだろ。昨日深夜までこの計画詰めてたんだから……」
思わず欠伸を漏らす彼を、ここぞとばかりにレディが指摘する。寝不足で怠い頭に、キンキンと甲高い声をぶつけられて、エンヴィスは嫌そうに眉を顰めた。
「お、お疲れ様です……」
機嫌の悪い彼を刺激しないよう、カーリは声量を控えめにしながら頭を下げる。大変な思いをさせてしまった申し訳なさが、胸にひしひしと押し寄せていた。だが同時に、驚愕の念をも抱く。
今朝渡された捜査計画書は、到底一日で出来上がったとは思えぬ代物だった。刑事部の内情には詳しくないが、かけられている人員も費用も、並大抵のものではないことぐらいは分かる。刑事部長シュハウゼンという男はこれを、昨日だけで計画し、そして実現させた。もちろん、無茶なことはしている。けれども、無茶をしさえすれば、可能なことであったということだ。一体どれほどの権力と実力を持っていれば、そんなことが出来るのだろうと、圧倒的な力に恐怖すら覚えかけた。
「トワイライトさんは、元気そうですね。平気なんですか?」
「あぁ、大丈夫さ。軍政部門にいた頃は、徹夜なんてザラだったからね。別に、これぐらいは全く問題ないよ」
「うへぇ……ブラック」
肩を回しながらエンヴィスが問いかけるが、トワイライトは平然とした態度で笑っている。さらりと昔の過酷な話を引き合いに出されて、エンヴィスは小さく呻いた。そこへ、レディが近寄ってきて話しかける。
「ねぇねぇ、この子潰れちゃったんだけど」
「ん?」
エンヴィスが振り返ると、彼女の腕の中には、抱き締められ振り回されて、目を回したボール・アイが収まっていた。
「きゅう~……」
「あーあー、お前何やってんだ。可哀想だろ」
「え~?だって、気持ちいいんだもーん。むにゅむにゅしてて。エンちゃんも触る?ホラホラ」
「いらなっ、いらないって!おい」
ぐでっと伸びたスライムの体を見て、エンヴィスは呆れた声を出す。しかし、レディは注意されても、反省の色などまるで見せない。それどころか逆に、エンヴィスに彼を無理矢理押し付けてきた。焦りつつも抱えると、レディがはしゃいだ声を上げて、指を差してきた。
「キャー、エンちゃん似合ってるよ!プププ」
「お前……!本当にマジで覚えとけよ……」
にゅるにゅると滑る粘体を苦労して支えている姿が、よほど面白かったようだ。あるいは、単にエンヴィスが魔物と戯れる様子がツボだったのか。スマホのカメラまで向けて揶揄ってくる。わざとらしく笑顔を見せる彼女を、エンヴィスは軽く睨み付けた。
「だ、大丈夫?ボール・アイ……」
「うぅ~ん……大丈夫~」
「諸君、行くぞ。あまり長く立ち止まっていては怪しまれる」
心配したカーリが尋ねかけると、ボール・アイはぼーっとしながらも、体から触手状に粘液を伸ばし、グッジョブサインを見せてきた。どうやら、無事なようだ。
ほっと胸を撫で下ろすカーリの耳に、トワイライトの声が飛び込んでくる。エンヴィスは即座に、真面目な顔を作ると彼に応じた。
「承知しました」
エンヴィスとしては真剣そのものの調子なのだろうが、スライムを抱いていると何だか締まらない。吹き出しかけているレディを、カーリは慌てて押さえた。これ以上は流石に、エンヴィスも黙ってはいないだろうと思ったのだ。
「もう、止めてよカーリ」
「レディちゃんこそ、危険な遊びはしないで……」
コソコソと話し合いながら、トワイライトたちの後をついていく。正門を通り、敷地内に足を踏み入れると、何だか周囲の空気が変わった気がした。
「……?」
「あんまりキョロキョロすんな」
首を回らせて辺りを見回す彼女に、エンヴィスが低く囁きかける。けれどもカーリは、違和感を拭いきれずに問いかけた。
「でも、何ていうか、変な感じしませんか?上手く言えませんけど、その……空気が違うっていうか」
「よく分かるな。結界だよ。監視カメラや赤外線レーザーなんかより、格段に強固な警備システムだ」
「結界……」
確か、防御系魔法の一種だとカーリは思い出す。主に敷地内の監視や警備に使われている、比較的強力な魔法。
「想像してたより、これはちょっとやばいかもな」
「え?」
エンヴィスは思い詰めた顔で、独り言ちた。カーリの困惑した声すら、耳に入っていない。ヒシヒシと伝わってくる、結界の持つ魔力の多さに、肌が鳥肌を立てる。かなり、危険な術式だ。恐らく、防御や監視だけでなく、場合によっては内部の者を攻撃することも可能な仕様になっている。きっと建物内には、これ以上に厳重な警備が敷かれていることだろう。
やはり、この中に潜入など危険過ぎる。何故自分たちが、こんな危険な役目を果たさねばならないのかと、もう何度目かも分からない愚痴が浮かんだ。
可哀想なスライムを助けたいという気持ちがないわけではない。しかしかといって、そのために自ら敵地に飛び込むような真似も、したくはなかった。都合がいい考えだろうか。けれども、考えてみればそうなのである。
別段、自分たちがこの役を引き受けなくても良かったはずだ。刑事部の悪魔たちの中から、精鋭を選出すれば良かった。それなのに現実では、彼らは安全な場所で、ぬくぬくと過ごしているだけ。魔法により姿を隠して、あるいは遠方から監視の目を飛ばして、ただエンヴィスたちのことを見張っているだけだ。一応、万が一の際はすぐに駆けつけると保証はしているが、それだって必ず守られるのかどうかは分からない。我が身可愛さに、見捨てられる可能性だってあるのだ。第一、これほど強固な結界が張られているのでは、監視すらまともに出来ていないかも知れない。もしも魔法が阻害されて、何も見えなくなっているのだとしたら、エンヴィスたちは既に孤立無援の状態となる。そしてそれを、確認する術もない。不用意に通信魔法などを飛ばせば、こちらの正体を勘付かれかねないからだ。命の危機にでも瀕しない限りは、無駄に魔法の行使はしない。それが、今回エンヴィスたちに与えられた命令であった。
で、あるからこそ。この仕事には普段以上の危険性が伴う。絶対に、望んで務めたくはない役割のはずだ。しかし何故、トワイライトは引き受けたのか。いくらシュハウゼンが怜悧狡猾な男だからといって、トワイライトほどの悪魔が、断りきれないということはまずないだろう。こんな、使い捨ての駒のような役目など、拒否することも出来たはずだ。
しかし彼はそれをしなかった。一体どんな理由があってのことなのか、エンヴィスにはまるで分からない。彼のことを信頼している以上、無理に聞き出そうというつもりもなかったが、かといって完全に気にしないでいることも、また出来なかった。それが、性というものだ。
おまけにこちらには、いつ暴走するかも分からない、怪しい生物がいるのだし。
「わぁ……!」
だが当の本人は、エンヴィスの胸中などまるで察していないのだろう。彼の腕の中で、目を輝かせている。ボール・アイのやや意外な反応に訝しみながらも、エンヴィスも同じように辺りを見回す。
彼らが足を踏み入れた、研究所のエントランス。そこは、まさに荘厳で煌びやかといった雰囲気の場所だった。
天井が吹き抜けになったロビーには、観葉植物や椅子が並べられ、目立つ位置に巨大な地球儀の置物が佇んでいる。ぐるぐると回転しているそれの隣には、大きな受付カウンターが据えてあった。やや右に行ったところに、二階へと続く階段が見える。上り口には駅の改札によく似た形のセキュリティシステムが設けられ、その向こうで、白衣を着た悪魔たちが大勢働いていた。まるで、大規模な創薬会社か研究施設のような光景だ。
「なんか、全然怪しくないじゃん?フツーの研究所って感じ」
「シッ!静かにしてろ」
頭の後ろで両腕を組んだレディが、そうぼやく。高い天井に彼女の声が響いて、エンヴィスは慌てた。
「ボール・アイくん、この光景に見覚えは?」
トワイライトが近寄って、ボール・アイに問いかける。唇はさほど動いていないように見えるのに、その声はピンポイントにスライムへと届く。質問されたボール・アイは、粘体を震わせて答えた。
「ん~……僕がいたところは、こんなに綺麗じゃなかったよ?もっと冷たい感じで……こんな場所があったなんて、知らなかった。本当にここに、僕たちはいたのかなぁ?」
「ふむ……」
彼の記憶にある実験施設は、もっと無機質で恐ろしい場所だった。それなのに今目の前に広がる光景は、明るく、活気があって、熱意に溢れているように見える。まるで同じ場所とは思えない。心から、そう思った。
ボール・アイの言葉を、トワイライトは顎に手を当てて反芻する。流石にスライムの表情や本心を読み取る能力に自信はないが、それでも嘘をつかれているのではないことぐらいは、分かった。
ならばこの施設は、彼の出身地ではないというのか。恐らくは、否だ。キメラ創造に取り組めるほど、潤沢な設備と資金を持つ機関。そんなものがそういくつもあるはずはない。中でも、カーリの自宅周辺を起点とした、彼の移動能力の範囲内に収まっている場所となれば、つまりここ以外にはあり得ないだろう。彼はこの場所から、彼女のところまで逃げてきたのだ。
推測ではあるが、ここの職員はほぼ全員、己の職場の本性を知らないのだろう。医療や福祉のための、実験用の魔物を研究する施設として、活動している。その表向きの顔に騙されているのだ。背後にある、非合法かつ残虐な、交配実験のことなど知りもしないに違いない。
ならば、無闇に探りを入れることは無意味だ。真実を把握していそうな、裏の人物に接触しないと。
「とりあえず、行ってみようか」
「えっ?トワイライトさん!?」
しばしの間考え込んだ後、彼は唐突に足を踏み出した。カーリが咄嗟に呼び止めたが、もう遅い。彼は迷いのない足取りで、スタスタと受付の方に向かって行ってしまった。
「ちょっと失礼」
「はい。何でしょう?」
近付くと同時に、声をかける。受付嬢の一人が、立ち上がって応対してきた。黒髪を団子状にまとめた、スレンダーな女性だ。切れ長の瞳は穏やかに細められ、柔和な雰囲気を醸し出している。
「突然で申し訳ない。少々、お願いしたいことがありましてね。こちらで、魔物のDNA鑑定をしていただきたいのですが」
「申し訳ございません。当施設ではそういったサービスは提供しておりません」
トワイライトが話しかけると、女性は滑らかな口調で詫びを入れた。礼儀正しい対応を貫いているが、内心では一刻も早く部外者を追い返したい気持ちで一杯なのだろう。隣の女性などは、警備員を呼ぼうと内線電話に手を伸ばしている。残念だが、ここで追い払われるわけにはいかない。
くるりと後ろを振り返ったトワイライトは、エンヴィスに目配せする。何かを察した彼が、カーリにスライムを渡し、トワイライトのところへ行くよう促した。背中を押された彼女が、不思議そうな顔をしながらもやってくる。トワイライトはカーリを隣に立たせ、彼女が抱えたボール・アイを、受付に見えるように持ち上げさせた。
「お手数ですが」
「この子なんですけど」
何かを口にしかけた彼女の言葉を遮り、スライムを見せつける。ボール・アイの黒い体が、ぷるんぷるんと波打った。
「!!」
彼の姿を一目見た瞬間、女性は声をなくして、その場に棒立ちになる。他の受付嬢たちも、目の色を変えて、ヒソヒソと何事かを囁き合っていた。周囲を行き交う悪魔たちからも、奇異の眼差しが寄越される。カーリは何だか気まずくて、ボール・アイをぎゅっと強く抱いた。
しかしトワイライトは、それらを一瞥だけすると無視を決め込んで、平然と話を続ける。
「いや~、先日、娘が拾ってきましてねぇ。見ての通り、黒いでしょう?黒いスライムなんて、初めて見たものですからビックリしちゃって!魔物病院の先生も、詳しく調べた方がいいって仰るもんですから、たまたま近所にあったこちらに、お願いしてみようかなと」
流暢に喋りながら、カーリの存在をアピールし、またエンヴィスたちの方へ振り返って嘘を補強した。医師と紹介されたエンヴィスが、メガネの縁を押し上げながら、きりりとした顔つきをしてみせる。隣ではレディが、助手だと意気込んでふんぞり返っていた。エンヴィスは思わず呆れて溜め息をついた。
「それでこちらに」
「失礼ですが、どこでこの魔物を?お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
再び女性に向き直ったトワイライトの声を、今度は女性が遮る。先ほどとは逆の構図だ。
彼女はかなり動転しているのか、全く繋がらない二つの質問を、上擦った声音で投げかけてきた。尋ねられたトワイライトは、黒い気配が滲み出るような笑顔を一瞬だけ浮かべた後、すぐにいつもの仮面を取り戻す。愛想の良い紳士が、優雅に微笑んだ。
「これは申し遅れました。トワイライトと申します」
「か、かしこまりました。今、担当者を呼びますので、少々お待ちください」
受付嬢はやや焦りながらも必死に取り繕って、早口に告げてくる。その言葉を聞くなり、トワイライトは伏せていた目をすっと上げて、彼女の顔を見返した。
「おや?よろしいんですかな……?」
低い声でわざとらしく、脅すように問いかける。何かただならぬものを感じたのか、女性の頬に冷や汗が伝った。
「ははは、これは失礼を致しましたな。そちらが鑑定をしてくださるというのなら、必要以上の確認はすべきでない……」
彼女の心境を読み取ったのか、トワイライトは打って変わった様子で、朗らかに笑う。だがそこにも、どこか冷徹な調子が感じられて、カーリは少し恐ろしくなった。
「では、こちらで待たせていただきます」
トワイライトが素早く話を切り上げて、カーリたちのもとに戻ってくる。彼のことをじぃっと見つめるボール・アイの視線に気付くと、宥めるように頭を撫でた。
「……やはり、君はここで生まれ育ったようだね。あの反応からするに、まず間違いはないだろう」
先ほど同様、声を潜めながら、話しかける。その様子はいつものトワイライトだ。カーリはほっと安堵の息をついて、彼に問いかけた。
「それで、どうするんですか?これから。担当者が来るって言ってましたけど」
「そうだねぇ……とりあえず、話を聞く他にないと思うけど」
鼻から軽く息を吐き、彼はのんびりと呟く。呑気なことを言っていていいのかと、エンヴィスは口を挟もうとした。その時だ。
「!」
何か違和感を感じて、背後を振り返る。気が付くと、ロビーにいた悪魔たちが、誰一人としていなくなっていた。さっきまで言葉を交わしていた、受付嬢たちもだ。
この位置から、彼らの移動を見逃すはずはないのに。少し意識が逸れただけで、全員いなくなっている。常識的にあり得ない現象。つまりは、何らかの異常が起きているということだ。
「トワイライトさん」
警戒心のままに、トワイライトの名を小声で呼ぶ。彼はまるで、全て分かりきっているような口調で、冷静に頷いた。
「あぁ……来たか」
彼の声が、誰もいなくなったロビーにこぼれ落ちた直後である。
プシューと音を立てて、どこから煙が噴き出してきた。コメディショーで使われるような、人工的な白い煙だ。それはあっという間に辺り一帯を覆い尽くし、トワイライトたちを包み込んでしまう。視界が乳白色に染められ、カーリとレディは困惑の声を発した。
「うわっ!」
「何っ!?」
「おい、大丈夫か!?」
よたよたとよろけた彼女たちのどちらかが、エンヴィスの肩に衝突する。咄嗟に手を伸ばすが、何も掴むことが出来なかった。何故かと訝しんでいる内に、立ち込めていた煙が、徐々に晴れてきた。少しずつ、視界が開けて周囲の様子が見えてくる。突然、白一色だったエンヴィスの目の前に巨大な脳みそのようなものが現れた。
「うぉお!!びっっっくりしたーーー!!!」
思わず大声を上げて、驚愕を露わにする。心臓が、一瞬胸郭から飛び出したのではないかと思うほどだった。幸い肋骨の中に収まったままのそれは、バクバクと凄まじい速さで暴れ、血液を打ち出している。
「えっ?え?……は?」
ぶわりと汗を吹き出させながら、エンヴィスは当惑に満ちた呟きを発した。
彼の眼前には、薄緑色の液体に漬けられた脳みそが、でんと佇んでいる。それは彼の身長と同じほどの高さの棚に納められており、他の段には目玉や謎の骨などの入ったビンが並べられていた。
「何だよこれ……趣味悪ぃな」
ビビり散らかした自分を誤魔化すように、悪態を声に出す。彼が立っているのは、病院のCT操作室に似た作りの、狭い部屋だった。壁際に備え付けられたテーブルの上に、モニターやらキーボードやら、使い方の分からない謎の機械がひしめいている。反対側の壁には例の趣味の悪い棚が置かれ、左手にあるドアには鍵がかかっていた。エンヴィスはドアノブをがちゃがちゃと捻り、小さく舌打ちをする。
「ったく、何だってんだ……」
ぶちぶちと誰に聞こえることもない文句を垂れながら、ぐるりと室内を見渡した。
当然ながら、移動をした記憶はない。ロビーで、来ると言われた担当者とやらを待っていたら、いきなり煙に巻かれた。そして気が付いたらここにいたのだ。間違いなく、魔法的な力によるものであろう。
しかしあれは、転移魔法ではなかった。脱界者取締部として、断言出来る。転移魔法で転移をする際には、独特の視界の乱れと、強い魔力反応が生じるのだ。だが今回は、それがなかった。感覚的な話にしか過ぎないが、人間界に行く度に、何度も繰り返し経験してきたことだ。もはや体に染み付いてさえいる。決して、侮ることは出来ない。
つまり、先ほどエンヴィスたちが受けたのは、転移魔法ではないということ。では、何なのか。考えるまでもなかった。
(……空間編成)
時空系魔法の一つ、空間編成魔法と呼ばれる魔法に違いない。
時空系魔法とは、その名の通り、時間や空間を改変する魔法のことである。転移魔法も然り、トワイライトが使う、物体浮遊の魔法も然りだ。だが当然、時の流れや空間の広がりに干渉することは、途方もない危険を孕む行為。失敗をすれば、魔界だけでなく地球全体に、取り返しのつかない大ダメージを与える可能性がある。
だから魔界府は、時空系魔法の中のいくつかの魔法を、特別な許可がなければ使用出来ない”制限付き魔法”と定めた。その代表例が、空間編成だ。指定された空間内を、パズルのように並び替え、あるいは組み替えて、自在に変化させる魔法。
エンヴィスたちはそれによって、強制的に移動させられたというわけなのだ。
だがこの施設について調べ上げた時には、制限付き魔法の使用許可などは降りていなかった。つまり、これはれっきとした違法行為。研究施設の疑惑は、証明されたことになる。
だが、問題はそこではない。
そもそも空間編成魔法とは、時空系魔法の中でもかなり高度なものである。三次元的空間を、立体的に把握し巧妙に操作しなければならないのだから、当たり前のことだ。要するに、非常に洗練された技術と、膨大な魔力が不可欠なのである。よって現在の魔界において、空間編成魔法はほとんど行使されることがない。許可云々の前に、魔法を使える者が限られてくるためだ。だが、ここにはその魔法を行使出来る悪魔がいる。それだけの力と知識を持った、超級の危険人物が。
「……クソッ。だから言ったじゃねぇか……!!」
エンヴィスは頭を抱え、悶絶した。
やはり、トワイライトの提案に乗るべきではなかった。彼に賛成していなければ、こんな目には遭わないで済んだのに。いい加減、彼を信頼するのを止めたくなる。尤も、今はそんなことを考えている場合ではないが。
何しろ相手は、戦意を誇示してきている。空間編成という高度な魔法を、実際に体験させて知らしめることで、挑発しているのだ。あるいは、脅しかも知れない。お前たちのことなんて、簡単に潰せるのだぞ、と。
「くそ……っ!」
(あいつらが危ない……何とかしないと)
自分は、多少の圧力や暴力には屈しない自信がある。けれども、彼女たちは違う。己の身を守ることも覚束ない彼女たちは。
焦燥に駆られるまま、忙しなく辺りを見回す。ふと、目の前にかけられた、ブラインドに気がついた。モニターやらが並べられているテーブルの上に、黒色のそれが垂れ下がっている。スラットが完全に閉じていて、向こう側を見ることは出来ないが、しかし壁ということはないだろう。必ず、窓があるはずだと信じて、エンヴィスは操作ポールを回した。
「な……ッ!?」
直後、奥に広がる光景を見て、瞠目する。意識するまでもなく、勝手に声が出ていた。
「カーリッ!!」
通勤時間帯の地下鉄はかなり混んでおり、そのせいかカーブを曲がる度に車体が大きく揺れる。腹側に回したリュックの中で、もぞもぞと動くスライムを、そっと両手で押さえ付けた。
こんなところで暴れられたら、車内にパニックが訪れることは確実だ。ダイヤを乱した賠償金なんか背負わされては、今後の人生が台無しになる。しかし、声を出して注意すれば、それこそ怪しまれてしまう。カーリは結局、ただ気まずげに周囲を見渡すしか出来なかった。
やがて、何とか職場の最寄り駅まで到達。既にじわじわと精神的疲労が襲ってくるのを感じながら、どうにか駅構内を出て職場へと向かう。魔界府中央庁舎は、セントラル駅の目の前。徒歩5分の距離だ。案の定、すぐにその荘厳な外観が見えてきた。晴天下の朗らかな都市の中に、一つだけ完全なる漆黒が聳え立っている様は、いつ見ても異様に思える。しかしそれにすら、最近は慣れてきた。魔界での暮らしが板についてきたということなのだろう。カーリは気を取り直して、リュックの紐を肩にかけ直すと、正面玄関前の階段を登った。
出勤してくる職員たちの波に流されながらも、自分たちのオフィスに最も近いエレベーターに乗り込むことに成功する。これに乗れなければ、階段を使わなくてはならないところだった。あまり重さは感じないとはいえ、荷物を持った状態で7階まで階段を登るのはきつ過ぎる。カーリは内心安堵の息を吐きながら、オフィスのドアを開けた。
「おはようございまー……って、あれ?」
思わず独り言が漏れる。いつもなら、既にエンヴィスが出勤していて、資料の整理をしながらのんびりコーヒーでも飲んでいる時刻なのに。今日に限っては、カーリが一着のようだ。
(珍しい……エンヴィスさんいないなんて。道混んでるのかな?)
基本はバイク通勤の彼は、カーリのような、満員電車やダイヤの乱れに対する悩みとは無縁だ。しかし、代わりに道路の状況によって通勤時間を大きく左右されてしまう。特に大都会ハデスは、交通量も並々ではない。大通りでない場所で、たった一つ小さな事故が起きただけでも、周囲の道全体に大規模な渋滞が発生する可能性だってあるのだ。それはそれで苦労があるということを、彼女が想像出来ないはずがない。
「どしたの?カーリ」
「ううん。何でもない。ちょっとトイレ行ってくるね」
ボール・アイの明るい声が、リュックの中から響く。カーリは彼に断ると、リュックごと自身のデスクの椅子に置き、部屋を出ていった。
置いて行かれたボール・アイは、薄暗く狭いそこの中で、しばしじっと待機する。しかし、どうにも息苦しい。ファスナーは一部開いているが、やはり好き好んでいたいとは思えない場所だ。少しくらいなら大丈夫だろうと、彼は粘体の体を上手く利用して、隙間から顔を覗かせる。半身を外に出し、室内の様子を見回した。
別に、ごくごく普通のオフィスだ。けれども、外の世界をあまり知らないボール・アイにとっては、何もかも目新しく、素敵に思える。そのまま、目を輝かせて周囲を眺めていたボール・アイだったが、ふとどこかから視線を感じて、体を捻った。
「!」
出入り口の方を見遣ると、そこには、見知らぬ男が立っていた。カーリと同じ、漆黒の目と髪を持った大人の男だ。軍服を模したような奇妙な服を纏っていて、胸にはサイズの違うメダルがいくつか光っている。大きな垂れ目の上を飾るのは、光沢を放つ大きな角。力のある悪魔しか生えないそれを持っているということは、強い悪魔なのだろう。
「だっ、誰っ!?」
たちまち恐怖心が湧き上がってきて、ボール・アイは素っ頓狂な声を上げた。
「君こそ……一体、誰なんだ?」
男は、元々大きな目を更に大きく丸くして、ボール・アイを見つめている。繁々と、細部まで観察するような目つきに、ボール・アイの中で嫌な記憶が蘇った。
彼は緑色の液体の中で、のんびりと漂っている。彼を見つめる、白衣を着た数人の悪魔たちの眼差し。彼の体を透過して、モニターに表示された数字やグラフでしか、彼を見ない。突然、上から物音がした。自分が液体と共に入っていた容器の蓋が、開けられたのだ。手袋をした手が伸びてきて、彼の体を掴む。抵抗する間もなく、台の上に乗せられる。コードのくっついたクリップを身体中の至る所につけられて、眩しい照明を当てられる。そして、あの男。いつも酷薄な笑顔を浮かべたあの男が、舌舐めずりをしながら近付いてくる。冷たい手。冷たい目。ギザギザの尖った歯が、ギラリと光る。
怖い。
痛い。
気持ち悪い。
思考がそれでいっぱいになって、目の前が真っ暗になる。男の持ったナイフ。鋭い煌めきを放つ刃が、ボール・アイの頭上に掲げられる––––
風を切って振り下ろされて––––
体が––––
「おい、君」
「嫌だっ!!」
ガタン、と音がした。男が近付こうとして、それに怯えて後ずさった彼は、椅子ごと倒れたのだった。
本来スライムは、物理攻撃の効かない、痛みも覚えない種族だ。ボール・アイも同じく、ダメージは受けなかったが、しかし痛覚だけは働いていた。リュックからこぼれ落ち、床に転がり出た体に、鈍い痛みが伝わってくる。それでも無理矢理動き出して、ずるずると床を這いずった。一歩でも遠く、男から逃れたかった。もう二度と、あんな目には遭いたくない。あんな思いはしたくない。あんな痛みは……
「もう嫌だぁっ!!」
「ッ!!」
突然、スライムの体から太い紐のような物体が伸びてくる。それに思い切り腹部を殴打されて、トワイライトは息を詰まらせた。
「ごほ、ごほっ……部屋が散らかる。やめてもらえないか?」
咳き込みながらも、冗談混じりの声をかけてみるが、スライムは聞いていないようだ。トワイライトから少し離れたところで、小さな体を震わせ、異様な空気を放っている。頭頂部からどろどろと流れ続ける粘液が、勢いを激しく増し、循環しきれない体液を溢れさせていた。それはどんどんと拡大して、今やオフィスの床の半分ほどを黒く染めている。同時に、小山のような形をしていた体が、みるみる内に膨れ上がって、変形し始めた。
「何なんだ、君は……本当に、スライムなのか?」
答えが来るとも思えない独り言が、思わず口をつく。それほどに、目の前のこの魔物は異質だった。
確かに、スライム種の中には若干体を大きくしたり、形を変えたりすることが可能な個体もいる。しかしそれは、あくまでスライムとしての球体が崩れない範囲での話だ。だが今眼前にいるこの生き物からは、体表から突出した、長い触手のようなものが生えている。おまけに、スライムは基本的に言葉を話せない魔物だ。悪魔の言葉を話せはしないはずなのに。
一体彼は何者なのか。何故、カーリの私物らしきリュックに入っていたのか。トワイライトの中で様々な困惑が渦を巻く。だがその間にも、暫定スライムは変身を続け、やがては驚異的な変貌を遂げていた。
「な……っ!これは……!」
流石のトワイライトも、瞠目し息を飲む。彼の目の前にいたのは、もはや可愛らしいモンスターなどではなかった。
枯れ木のように痩せた体。先ほどと同じ黒色をした細い体躯に、小さな頭がちょこんと乗っている。身長は2メートルを優に超えているだろうか。やや膝を曲げた前傾姿勢を取っているのは、天井に頭を擦らないためだろう。不必要なほどに長い手には、同じく不必要な長さの鋭い爪が生えていた。目を表していたであろう液流の乱れは消え、代わりに口は、顔が裂けそうなほど大きく広がっている。その中には、光沢を放つギザギザとした歯が不規則に並んでいた。
普通のスライム種には、決して形作ることの出来ない、異形の姿だ。トワイライトは声をなくして、ただひたすらそれを見上げる。後退りしようと足を引けば、黒い粘液が、ねちゃりと音を立てた。いつの間にか室内の床全体に、この謎の液体が満ち満ちていたようだ。
「……っ」
靴裏が引っ張られる嫌な感触。トワイライトはゆっくりと視線を下げ、足元を確認しようとする。その時、彼の頭上に大きな影が出来た。スライム、否、かつてはスライムであったものが、細い右手を大きく振りかぶって、トワイライトを襲おうとしていた。
「グォオ!」
雄叫びを上げて叩き付けられる細腕、その先に伸びる長い爪。スライムの体ではあり得ないほどに硬質化したその部分からは、高い殺傷能力が見て取れる。先程殴られた時は、水の入った皮袋に叩かれた感触だったが、今度は違うだろう。確実に、皮膚が裂け肉が断たれるに決まっている。トワイライトは慌てて体を横に捻り、攻撃をかわした。背後で、本棚がひしゃげガラスが砕け散る音が聞こえる。バサバサと音を立てて、中に詰まっていたファイルや資料の山が、黒い水溜りの中に崩れ落ちた。しかしトワイライトは振り返らず、そのままばしゃばしゃと黒い粘液を蹴散らしながら、ドアの方へと向かう。いつの間にか閉じられていたそれの、ドアノブを捻り、引き開けようと力を込めた。だが、液体が波を打って押し寄せていて、開けられない。逃げ道を塞がれた。
「逃ゲルナァ!」
再びスライムの咆哮が轟く。振り返ると、化け物がすぐ目の前まで迫っていた。高く振り上げられた爪が、天井を引っ掻き蛍光灯を破壊する。パラパラと破片が落ちるのも構わず、それは大きく口を開けて、笑っているような表情を見せた。
「……仕方ない」
出来ればやりたくなかったが。他に方法がないようだ。
トワイライトは歯噛みして、手の中に愛用の剣を作り出す。細やかな装飾の施された、いつもの得物。が、しかしそれを、あっさりと手放す。そのまま落下するかと思われた剣は、重力に逆らって彼の頭上へと跳ね上がる。そして、化け物の長く伸びた腕を、ばっさりと切り落とした。
「悪いね、君」
「グォァアア!!」
どちゃりと音を立てて、腕だったものが粘液の中に沈む。血は出ていないが、痛みがあるのだろうそこを、怪物はもう片方の手で押さえて呻いた。トワイライトは素早く彼の前から避難し、距離を取って相手を見つめる。痛みという衝撃は与えたが、かといって油断は出来ない。仮の姿がスライムであった以上は、スライムとしての特性を有していると考えた方がいいだろう。そうだとしたら。
「オォオオッ!」
「……やはりか」
化け物が力むと、切断されたはずの右腕が、にゅるりと生えてきた。傷口から再び、樹から新芽が生えるように、新たな腕が出現する。
いくらでも再生が可能ということは、直接の攻撃はあまり意味をなさないということになる。次はどうするべきかとトワイライトが思案していると。
「っ!?うっ……!」
突如、足元から黒い紐のような何かが伸びてきた。
床に溜まった黒い液体。そこからも無数の触手が生えてきている。蛇のようなそれが、俊敏に動き回り、強い力でもってトワイライトの足首に絡みつく。そしてしなやかに蠢き、彼の体を容易く投げ飛ばした。
「ぐっ!」
部下たちの私物を薙ぎ払いながら、トワイライトは机の上を滑って床に落ちる。かろうじて受け身を取ったものの、堪らず呻き声が漏れた。すぐに体勢を立て直し、片膝をついて相手の動向を探るが、事情も知らぬ状態で戦うのは、やはり決心がつかない。しかし、相手はまるで理性の感じられない獣のような存在だ。並大抵の手段では片が付かないだろう。そして何より、動体範囲がかなり限定されるこの狭いオフィス内は、トワイライトにとって非常に不利な状況だった。
(どうする……殺すつもりで、一気に攻めるか?)
悩んでいる内に、再び怪物からの猛攻が始まる。今度は、本体と周辺の触手による一斉攻撃。迷いなどは感じられない動きだ。どうあっても、目の前の相手の命を奪うつもりらしい。決断が早くて羨ましいことだと内心で呻きつつ、トワイライトは素早く剣を構えた。
* * *
「トワイライトさん!?トワイライトさん、答えてください!!」
ドンドンと、エンヴィスが強くドアを叩いている。激しい音が響くそれは、早速ノックなどではなく、打撃だった。
「どっ、どうしたんですかエンヴィスさん!?」
手洗いから戻ってきたカーリは、彼のその剣幕を目にするなり、驚いて声を上げる。いつの間にか周囲には、悪魔たちが集まっていて、何事かと様子を窺っていた。
「分からねぇ……俺も今さっき来たばかりだからな」
エンヴィスは野次馬たちにも目を向けず、苦々しげな顔で扉の奥を睨み付けている。どうやらドアが開かなくなっているらしいということは、カーリにも理解出来た。
(まさか……!)
「中に、トワイライトさんがいるんですか?」
何だか嫌な予感がするのを必死に押し殺しながら、平静を装ってエンヴィスに問う。尋ねられた彼は、重苦しい表情で頷いた。
「あぁ……だが、多分それだけじゃない。何かもっと……嫌なもんがいる」
カーリの顔が凍り付く。一瞬、見間違いかとも思ったが、そうではない。気が付いたエンヴィスは、血相を変えて彼女の肩を掴んだ。
「おいカーリ!お前……何か知ってるのか?」
「……っ」
「中に何がいる……お前があれを入れたのか?」
「あ、あの、エンヴィスさん……それは、その」
「何をした、答えろ!」
大きな声で恫喝されて、カーリは身を竦める。どう言っていいか分からなかった。顔を青褪めさせて、立ち尽くすことしか出来ない。その内に、居ても立ってもいられなくなり、慌ててドアの方に駆け寄ろうとした時だった。
「避けろっ!」
「ひっ!?」
横からエンヴィスに強く引っ張られ、廊下の端に押し込められた。促されるまま、体を縮め、しゃがみ込んだ直後。凄まじい音を立ててドアが吹き飛んだ。
「ぐ……っ、ぅ」
ドアを破壊したのは、他ならぬトワイライトの体によってだった。彼は謎の液体に塗れた姿で、廊下に転がり苦痛に満ちた呻きを上げる。ゆっくりと上体を起こし、ビリビリと痺れの残る腕をさすった。ぶつかったせいで、受け身を取りきれなかったのだ。関節が軋むような感覚を振り払って、静かに、外れたドアの奥を見据えた。
「ト、トワイライトさ……っ!?」
彼の姿を見るなり、名を呼びかけたカーリは、次の瞬間驚愕に目を見開いて絶句する。そこにいたのは、漆黒を塗り固めたような、異形の怪物だった。胴も手も足も、インクを塗り固めたように真っ黒だ。一体何が起こったのか、彼の背後に見えるオフィスも、彼と同じ色の液体に黒く染まっている。ぶちまけられた黒色から、まるで植物が生えるように、ウネウネとした触手のようなものが無数に伸びている。堰き止めるものがなくなったことで、その液体は廊下にまで流れ出していた。ここにいれば自分も、あの怪物に襲われるのではないかと、周囲の悪魔たちの間に動揺が広がる。
「ぼ、ボール・アイ……?なの……っ?」
「いてて……あぁ、やはり、君の知り合いだったか……」
思わずカーリが呟くと、予想が的中したとばかりに、トワイライトが頷いた。自分のせいなのだと思い知らされて、カーリはハッと口をつぐむ。
「グォオオオオッ!!」
そのやり取りを理解していたわけではないだろうに、怪物は一際大きな声で吠えると、長い足をずんと一歩前に進めてきた。大きな体を折り曲げて、のっそりと姿を現す。握り締められたドア枠が、みしりと音を立てた。彼の体の真下から、黒い液体が滲み出しては、床を黒く汚した。
「ひぃいっ……!」
「ば、化け物だ……!」
「お前ら、下がってろ!巻き込まれたいのか!?」
ボール・アイの姿を見た悪魔たちが、声を裏返らせ、口々に恐怖と憎悪の混じった感情を迸らせる。それすらも相手への刺激になりかねないのに、愚かなことをするなと、エンヴィスが苛立ち紛れに叫び返していた。だが、化け物はそんなこと気にも留めない。のんびりとした動作で、廊下の真ん中に踏み出してくる。辺りに、緊迫した空気が流れた。
「ねーねー!何かあったのー!?すっごい騒ぎになってるんだけど!!」
だが、張り詰めた緊張の糸を両手で引きちぎるような女が一人。カツカツとピンヒールで床を叩いて、階段を駆け上がってくる。
傍若無人な子供の登場に、悪魔たちの群れがキッパリと二つに割れた。まるで、彼女との関わり合いと、それによって発生する面倒事を忌避するかのように。
「ねー、何なのか教えてってばー。トワさん、エンちゃ……ん……」
ご機嫌な調子で闊歩してきた彼女は、ボール・アイの姿を目にするなり声を失って黙り込む。ポカンと大きく目と口を開けて、トワイライトとエンヴィス、そしてカーリを見遣った。
「レディ……お前……止めろよ、バカなことは」
余計な刺激を与えるな。
エンヴィスの瞳が、そう切々と訴えかけている。
けれど、彼女に相手の気持ちを察する能力など、備わっているわけがない。
「……誰?こいつ。新入り?」
レディは廊下の隅に立つ異形を指差して、平然と言い放った。
恐ろしいほどに間の抜けた言葉に、誰もが呆気に取られ、硬直する。トワイライトたち三人だけが、必死の努力をぶち壊された無力感に、打ちひしがれていた。
「レディくん……」
「グワァアア!」
「えっ!?」
やるせない表情を浮かべたトワイライトが呟いた時だ。咆哮と共に、化け物が駆け出す。鋭い爪を振りかざし、レディへと襲いかかった。驚いた彼女は咄嗟に、手に持っていたスマートフォンで、怪物の顔面を殴り付ける。
「キモい!!近寄んないで!」
「グゥッ!!」
流石の怪物でも、レディの怪力には敵わなかったようだ。潰れた呻きを上げて、それはどしゃりと床に倒れ込む。だが、それだけだった。粘体に打撃は効かない。彼はすぐに体をムクムクと膨れ上がらせると、再び敵意を剥き出して飛びかかってきた。
「レディくん!」
トワイライトは素早く、彼女の腕を引き怪物の前から下がらせる。だがそのせいで、触手のように伸びてきた粘液に捕まってしまった。
足が宙に浮き、一瞬重力を感じなくなる。直後、近くの壁に背中から叩きつけられ、肺から空気が漏れた。
「がは……っ!」
遠心力の乗った強い衝撃に、全身がギシギシと軋む。反動で弾みそうになった体を、ぬるぬるとした何かが包み込むようにして押さえ付けた。
いつの間にか、枯れ枝のように細かった腕が、棍棒のように太くなっていた。流石はスライムというべきか、臨機応変に形状を変えられるようだ。粘着質な体液が、まるでガムのようにトワイライトの体に張り付き、壁へと固定する。じわじわと強まってくる圧力に、骨をへし折られそうな恐怖を感じた。
「トワイライトさんっ!!」
「下がれ!」
このままでは殺されてしまう。焦ったカーリは反射的に声を荒げて、トワイライトに近付こうとする。しかし、エンヴィスが肩を強く掴んで止めた。戦うことの出来ない彼女が、あの怪物に接近しても、ただ危険なだけだ。トワイライトよりもっと無惨な目に遭わされるのがオチだろう。
「っでも!」
「……大丈夫だ、カーリくん……大丈夫。ゴホッ」
それでも諦めきれないのか、縋るような目を向けた彼女に、トワイライトは掠れた声で応じたる。確かにやや息苦しさは感じるものの、生命の危機に関わるほどにまでは追い込まれていない。とはいえ、このままでは騒ぎも大きくなるだけ。早く対処しなければと、トワイライトは口を開いた。
「君……確か名前は、ボール・アイくんと言うのだろ?」
語りかけながら、合っているかとカーリに目で尋ねる。彼女は胸の前で両手を握り締め、必死の表情でコクコクと頷いていた。そんなに心配しなくてもいいと、トワイライトは軽く苦笑を漏らしてから、ボール・アイに向き直る。
「そこにいる、カーリくんと付き合いがあるんだよな?だったら、安心してほしい。私は彼女の味方だ……彼女が親しくしている君を、傷付けるようなことは決してしない。もし、私の行動が君に何らかの恐怖を与えてしまったのなら、謝罪しよう。だが、まずはその手を、離してはもらえないだろうか」
まるで駄々をこねる子供に言い聞かせるような、柔らかく優しい声で、しかししっかりと自身の要求を交えながら、諭す。ボール・アイは無反応だ。動きを止めて、トワイライトの言葉を噛み締めているようにも思える。その沈黙が耐えられなかったのか、カーリが堪えきれないという風に口を切り、切羽詰まった声を出した。
「そうだよ、ボール・アイ!この人は、トワイライトさんは私たちの味方!だから、傷付けないで!落ち着いて!」
焦ったような、余裕のない声色。とてもじゃないが交渉用ではないそれは、相手の決断を急かしているようで、正直効果的に働くとは思えなかった。しかし、ボール・アイは彼女の声を聞いた途端、ピクリと黒い体を波打たせ、反応を見せる。トワイライトはここぞとばかりに、言葉を加えた。
「大丈夫だ。私は君に何もしない。先ほどは、少々混乱して強引な手を使わせてもらったが、あんなことは二度としない。約束しよう。どこか、ここではない静かなところで、ゆっくりと話し合おうじゃないか。どうだい?」
いつの間にか、体を圧迫する力が随分と減っていた。二人の言葉が、適切に響いている証拠だ。あと一息。ちょっとした後押しさえあれば、彼は落ちる。
「ボール・アイ……お願い。トワイライトさんは、敵じゃないよ。むしろ、私たちを守ってくれる人。だから、警戒しないで。これ以上、酷いことをしないで」
その最後の駄目押しを、カーリが無自覚に畳み掛けた。祈るような懇願に、ボール・アイの敵意は瞬時に潰える。トワイライトを押さえつけていた腕が、あっという間に萎んだ。
「っ……」
「カーリ~……」
「ボール・アイっ!」
解放され、どっと床に倒れた彼のそばで、小さなスライムが泣き出しそうな声で呻いていた。カーリが素早く近寄ってきて、スライムの体を抱き上げる。いつもの彼と同じ姿に、ほっと安堵した。
何だかよく分からないが、無事解決したようだと認識した野次馬たちは、ポツポツと帰り始めていた。喧騒が、少しずつ小さくなっていく。騒ぎが収束するなり、あっさりと興味をなくして去っていく様子は、かなり滑稽だ。まるでスイッチを切り替えられたロボットのよう。急速に移り行く大衆心理の発露といったところだろうか。トワイライトは苦笑いしつつ、ゆっくりと体を起こす。
「トワイライトさん、大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫だ……しかし、これは大変なことになったな……」
すぐさま寄ってきたエンヴィスの手を借り、立ち上がりながら、目の前の光景に愕然とする。
彼らのオフィスは、至る所が黒い液体にまみれ、汚く染まっていた。まるで、大量のインクを撒き散らされた後のように。
「とりあえず、しようか……掃除」
一先ずは、快適な職場環境を整えねばなるまい。清掃員を呼び出しつつ、この事態をどう収めるかと、トワイライトは熟考した。
* * *
「まっっったく、どうしてそう勝手なことばっかりするんだ、お前は!!」
扉の外れた出入り口から、エンヴィスの怒った声が響く。彼の前で立ち尽くすカーリは、返す言葉もなく、ただ深々と頭を下げた。
「……申し訳、ありませんでした……」
「謝って済む問題じゃないだろ!?一歩間違えば、他の悪魔の命を奪いかねない危険な行為だったんだぞ!一体何考えてるんだ!強さも、そもそも種族すら分かってない、怪しい化け物をホイホイ職場に連れ込むなんてな!」
カーリが謝罪をしても、エンヴィスの怒りは収まらない。しかし、それも当然のこと。彼女が全て悪いのだから、いかなる叱責も甘んじて受け入れるのみである。カーリは罪悪感と後悔に唇を噛み締めながら、ひたすら聞き入れた。
その様子を、レディともう一人の男が息を殺して窺っている。
「珍しいな、カーリさんがあんなに怒られてるなんて……」
男の方が、囁くような口調で、レディにそう話しかけた。
背の高い、ややがっしりした体格の若い男だ。やや長めの金髪は、癖っ毛なのか、風に靡かれたようにふわふわと広がっている。やや目尻の吊り上がった青い瞳は、勝気な印象を与え、まさに血気盛んな若者といった雰囲気だ。
彼の名はレオナルド。総務部整備課に所属する若手職員である。先刻の騒動によって、破損した機械類を修理、清掃するために呼ばれたのだ。
「そうだねー」
意外そうな彼の言葉に、レディは適当な調子で答える。彼女の腕には、どっしりとした重そうな本棚が収まっていた。レオナルドは一瞬、手伝おうかと言いかけ、すぐに思い直す。怪力の彼女にはこの程度、重くも何ともないのだろうと。それから自分の仕事である、エアコンの整備に戻る。
ボール・アイが排出した、コールタールのような謎の液体を引っ被ったそれは、駆動させると変な音が鳴り、汚いヘドロを排出するようになってしまっていた。おまけに、トワイライトとの格闘で強い衝撃でも受けたのか、内部が大きく破損している。
「一体、何があったんだ?ここにあったデスクトップって、型落ちだけどその分頑丈性は確かだったはずだろ?……それが、こんなに綺麗にぶっ壊れるなんて」
エアコンの部品を交換し、清掃を進めながら、レオナルドは足元に置かれたデスクトップパソコンだったものを見遣った。頑丈なはずのそれは、画面が大きく割れ、外付けHDDがひしゃげている。ここからデータを取り出して復元するのも彼の仕事なのだが、成功する確率は低そうだ。
「あー……ね。ちょっと……」
質問されたレディは、気まずげに肩を竦めて、苦笑いする。レオナルドは大きな目を更に丸くして、怪訝そうに首を傾げる。そして部屋の全体を見回して、深く溜め息をついた。
「にしても、こんなに部屋中ドロドロだとなぁ~……清掃費、かさむだろうな……いくらになることやら」
やれやれと首を振り、嘆いてみせる彼だったが、ふと吸い寄せられたように視線を一箇所に向けている。
「カーリさん……」
その目つきは柄に似合わず、繊細な様子で不安に揺れている。きっと彼女が、心配で心配でならないのだろう。抱えた気持ちを隠そうともしない、あるいは隠せないのか、そんな彼にレディは内心で溜め息を吐いた。
(別に、好きなら好きって言えばいいのに……)
「あのな、俺は別に変な生き物を拾うなって話をしてるんじゃない。事前に連絡しろって話をしてるんだ。得体の知れない何かを、無断で職場に連れてっちゃまずいって、思わなかったのか?大体、自分が襲われる可能性だって、なかったわけじゃないだろうが」
エンヴィスは未だに、チクチクと彼女を責め続けている。カーリは今にも消え入りそうな顔をして、その場に立ち尽くしていた。
「ぼっ、ボール・アイはそんな子じゃないと、思ったので……大丈夫かと……」
だが何か納得出来ないところでもあったのか、彼女にしては珍しく、反論の言葉を口にしていた。といっても、非常に控えめで、小さな声によるものだったが。それでもやはり、ボール・アイを危険視されたことは看過出来なかったのだろう。
「どこが大丈夫だったんだ?結局、こんな大事に発展しただろうが。見当違いもいいとこだ」
「う……」
しかし、彼女の反論は結局のところ、ただの個人的な感情に過ぎない。カーリが思った『大丈夫』など、何の根拠もないことなのだ。結果として、ボール・アイがこの惨事を引き起こしたことは事実なのだから。完全に誤った判断であったと、エンヴィスは吐き捨てる。にべもない返答に、カーリはぐうの音も出ず、口をつぐんだ。そんな彼女に、追い討ちをかけるが如くエンヴィスは付け加える。
「その程度の真贋も見抜けねぇで、ナマ言ってんじゃねぇよ」
口調が荒っぽくなるのは、感情が昂っている時の彼の癖だ。表向きは淡々とした調子を保っているが、相当の立腹らしい。冷たい口調で突き放されて、カーリは萎縮したように体を縮めた。
「まぁまぁ、そのくらいにしてやれ。エンヴィスくん」
そこへ、トワイライトの気の抜けた調子の声が飛び込んできた。
「カーリくんも、十分責任は感じているだろう。であれば、それ以上我々が詰め寄るのは、悪手だ。パワハラだのと訴えられたくはないだろう?」
彼が冗談混じりの言葉で宥めすかすと、エンヴィスも大人しく溜飲を下げたようだった。流石の掌握術だとレオナルドは思う。相手の真意を巧みに把握し、操る。そんなことを、全く呵責なしに出来る悪魔はそうはいない。無論、褒め言葉だ。
「ミスは、自覚して反省することが大事だ。それ自体を責めていては、何の成長も進歩も生まれない。ただ苦痛を与えるだけだからね。とはいえ……君のしたことは、それなりに問題だ。きっちりと、心に留めていてくれたまえよ」
「はい……」
何かを思案している風のレオナルドの横を通り過ぎ、トワイライトはゆったりした足取りでカーリのそばに歩み寄る。穏やかな声音でフォローをされて、カーリは申し訳なさそうに頭を下げた。小さな声で告げられた返事を聞き取ると、彼は満足げに頷き、そして微笑む。
「ふむ。ならばいい。私からはもう何も言うことはないな。二度と同じ失敗を繰り返さぬよう、努めてくれればね」
「ひゅ~!トワさんさっすが!」
「凄いっすね、相変わらず!」
そう言って自身の机に戻るトワイライトに、レディが歓声を上げる。レオナルドもつられて称賛を漏らした。ふざけた調子の彼らにトワイライトは少々笑みをこぼしたものの、すぐに冷静な顔に戻ると、話を続ける。
「さて……では、今後の方針でも決めるとしようかね。あぁ、レオナルドくん、行かなくていいよ。君の仕事を止めるほどのことではないからね。気にせず、続けてくれたまえ」
「了解です!」
トワイライトの言葉を聞き、さりげなく出て行こうとした青年を、彼は呼び止める。引き留められたレオナルドは、快活な返事をすると、再び仕事に戻った。だが、ふと思い出したように手を止めると、トワイライトに振り向いて尋ねかける。
「ところで……その可愛いのは、何なんですか?」
彼の目が向く先には、黒いスライムがいた。スライムはトワイライトの腕に抱えられたまま、キョロキョロと忙しなく辺りを見回している。
「ボール・アイ……」
彼の姿を見て、カーリが名前を呼んだ。そこに含まれた感情をどう受け取ったのか、ボール・アイは小さな体を更に小さく圧縮するようにして、申し訳なさそうに謝罪する。
「ごめんね、カーリ……大丈夫だって聞いてたのに、僕、この人の顔見たら、何だか怖くなっちゃって……何も考えられなくなって、気が付いたら……」
「タキトゥスさんへは、どう報告したんですか?」
歯切れの悪い彼の言葉を遮って、エンヴィスが質問を投げかけた。問いかけられたトワイライトは、思い出したという風に、適当に返事をする。
「あぁ、大丈夫。不可抗力だったと言いくるめておいたよ。誰だって、排水溝を通ってスライムがオフィスに侵入してくるとは、想像しないだろう?」
タキトゥスはやや不審がりながらも、無事に納得してくれた。トワイライトはにこにこした顔で言うが、その実は真っ赤な嘘を上司に伝えてきたのだから、恐ろしい男である。ともかくも、これで人事異動や減給、降格などの明確な罰則は免れた。そして、ボール・アイもまた、即座の排撃、つまり保健所送りからは逃れられたと言えるだろう。
「ありがとうございます!」
せっかく拾った彼のことを、手放すというのは辛過ぎる。何とか助かったと、カーリは顔を綻ばせて頭を下げた。だが、エンヴィスはまだ不満そうに、眉を顰め鼻を鳴らしている。トワイライトはそれには構わずに続けた。
「それと、ついでのお土産が一つだ」
「だぁれがお土産ですって!?」
即座に、憤懣に満ちた声が飛んできた。きりりと眉を吊り上げた、怒った顔の男が部屋に入ってきた。ムーアホーンのようなぐるぐるとした角が当たりそうになって、レオナルドはわずかに仰け反る。
「レンキさん!」
中性的な容貌、声、話し方の彼を見るなり、レディが顔を輝かせてはしゃいでみせた。反対に、エンヴィスは、声には出さないまでも『うげ』という呆れの表情を浮かべている。
「え?誰ですか?」
唯一、レオナルドだけが不思議そうに、彼の正体を尋ねた。カーリが説明するよりも早く、レンキはツンと顎を上げて、高飛車な口調で告げる。
「情報分析部脱界者調査課単独脱界者対策室担当官のレンキです」
「は、はぁ……」
長ったらしい肩書きに気圧されたのか、レオナルドは感情のこもらない、曖昧な返事をした。魔界府職員であることの難点は、肩書きが長くなりがちで、分かりにくいということだ。
半ば聞き流しているような態度のレオナルドのことは気に留めず、レンキはトワイライトに歩み寄る。
「また何か変なものを拾ってきたんだってね、腹黒?」
粘着質な嫌味たらしい口調。相変わらず彼は、トワイライトのことを快く思っていないようで、その態度からは強い敵意のようなものが感じられた。尊敬する上司を、第三者によって貶されるというのは、あまりいい気持ちがしない。エンヴィスはむっとした調子を見せ、冷たい声音で反論しようとした。
「違います。トワイライトさんではなく」
「エンヴィスくん」
それを止めたのは、トワイライト本人だった。当人である彼から言われれば、エンヴィスも従うしかない。何故止めるのかという抗議の目線を注ぎつつも、一応は大人しくなった彼の前に立ち、トワイライトは話し始める。
「確かに、今回の件は私が対応を間違えたせいで、ここまでの大きなトラブルに発展してしまいました。それは、弁解のしようもありません。しかし、”また”とは、どういう意味ですかな?」
一先ずは自らの非を認め、頭を下げる。しかしそれだけでは終わらない。意趣返しをするようにして、視線を上げ高い位置にあるレンキの双眸を射抜いた。真っ黒な闇のような瞳を向けられ、レンキは呆れたように息を吐いた。
「全く……呆れた男。あんたの部下は、皆そうでしょ?自覚ないわけ?」
そして、トワイライトに負けず劣らずの冷たい視線で、彼を見下ろす。
「まともな部署じゃ生きていけない問題児たちを、あんたが拾い上げて育ててる……って。そう言えば聞こえはいいけど、実際は返せない恩を売りつけて、縛り付けてるだけでしょうが。鎖で繋いで、こ~んな狭い一つ所に押し込めて……本当に、腹の黒い奴だよ、あんたは」
レンキの言い分を耳にするなり、カーリは若干驚いて、彼の顔を見つめた。そんな話は初耳だ。レンキは確かに悪意に溢れる言葉を話すけれど、無闇に嘘を言う男ではない。どういうことかと、彼女はトワイライトに目を向ける。
「レンキさん、流石に言い過ぎではありませんか?」
憤懣に満ちた表情で、エンヴィスが言いがかりだと文句をつけていた。だがレンキは、その言葉に重ねるようにして、わざとらしい嘆きの声を投げかけてくる。
「あんたも可哀想な犬だよね、エンヴィス……ここで飼い殺しにされてるってことにも気が付かないで、まだ飼い主のために吠えるなんて。あの腹黒は、そんなに価値のある男?」
「おい……!アンタいい加減に」
「やめたまえ、エンヴィスくん」
整った顔立ちを皮肉げに歪め、自らの頬を撫でつけるレンキ。いかにも挑発的な態度に、エンヴィスは思わず激昂しかけた。トワイライトがすかさず止めに入り、彼の怒りの炎を吹き消す。
彼が十分に距離を取ったのを見て取ると、静かな声でレンキに話しかけた。
「レンキさん、あなたが私を憎むのは理解出来ますが、かといって、時と場所を弁えもせずする話でもないでしょう。謹んでいただけますかな?」
トワイライトの言葉に、レンキは答えようとしなかった。けれど、軽く息を吐いて、ツンとそっぽを向く仕草からは、それ以上争う意思はないということが伝わってくる。
よかったと、カーリは一安心して胸を撫で下ろした。彼らのやり取りは、今はまだ嫌味を言い合う程度で済んでいる。だが、いつか足元の火薬に火がついて、大爆発が起こるかも知れない。そう考えると、気が気でないのだ。
一体何が、彼らの仲をそれほど険悪にさせるのか。何があったのか。カーリは知りたいと思いながらも、それはまるで触れてはならない禁忌であるかのように感じていた。そしてまた、先ほどのレンキの言葉にも、同等の雰囲気を覚えていた。
「……なんか、凄い空気だな」
エアコンの修理を終えたレオナルドは、脚立から降りながら小声で囁く。話しかけられたレディは、きょとんとして彼を見返した。
「え、そう?別に、これぐらい普通だよ?レンキさんがくると、いっつもあんな感じなんだー」
彼女の答えを聞くなり、レオナルドはわざとらしい渋面を作る。
「うえぇ……凄い職場。俺、こんなところ絶対勤めたくないわ……地獄より地獄……」
和気藹々とした楽しい職場にばかりいるレオナルドには、この状況は修羅場でしかない。毎日こんな空気の中で仕事をしていたら、絶対に死んでしまう自信があった。正直今だって、さりげなくこの部屋から出て行ってしまいたいくらいだ。しかしそんな彼の腕を、レディががっしりと掴んだ。
「駄目。アタシといて。トワさんたち難しい話してて、つまんないんだもん。話し相手が欲しいよー」
「えぇー……でもなぁ」
「いいからいいから!」
「おい、静かにしてろ」
強い力で引き留められ、剰え駄々までこねられれば、レオナルドに抗う術はない。仕方なしに彼女の隣に座り込むと、エンヴィスからの鋭い視線とかち合った。話の邪魔をするなということだろう。
「すいません……」
レオナルドは大きな体を縮こめるようにして詫びる。更に咎められるかと思っていたが、意外なことに、エンヴィスはそれ以上は何も言わなかった。ちらりとこちらを一瞥しただけで、すぐにトワイライトとレンキの話に意識を戻している。恐らく、彼からしてみたら、レディの相手から逃れられてありがたいのだろう。話の流れをまるで理解していない彼女が、好奇心や興味から口を挟めば、ろくな展開にならない。彼がいることでそれを防げるのなら、多少のコソコソ話は許容範囲ということだろうか。
ならば、とレオナルドは己の役割を受け入れる。彼女と話をすることは、別段苦ではなかった。むしろ、自分の仕事を進めつつも話し相手がいるというのは、幸運な状況だ。いい加減、一人で働く退屈には、飽き飽きしていたところだったから。
「それ、今何やってんの?」
隣で作業を始めたレオナルドに、レディは興味津々といった様子で問いかける。彼は、破損したデスクトップに、何やら別の機械をつけて操作していた。太めのケーブルで繋がれた先には、小さな黒い箱がくっついていて、そこから淡い光が漏れている。それが床に注がれると、まるでプロジェクションマッピングのように、光によるキーボードが出現した。しかし、一般的なキーボードとは違い、照らし出されている文字はアルファベットや数字などではない。魔語と呼ばれる、魔法陣を作る際に使用する特別な文字列だった。
「パソコンの復元。普通なら、ここまで大破してたらデータが飛んじゃってるけど……俺の専門は、機械系魔法だから。このくらい、サク~っと復活させてみせるよ」
レオナルドは、指先を器用に駆使して映し出された文字を高速でタップしていく。本来は手描きで作らねばならない魔法陣を、キーボードによる電子入力で生成し、コンピューター内に直接流し込む。これこそが、彼の習得した機械系魔法、その代表的な技術である。
「ふーん……機械系魔法って、こーゆーやつ?」
勝手に熱くなっているレオナルドの前に、レディは自身の携帯を差し出す。派手なネイルが塗られた爪が、画面をポチっと押すと、空中に魔法陣が展開した。
いくつもの術式が複雑に組み合わさったそれは、何らかの魔法を発動させるためのプログラムではない。彼女のスマートフォンのストレージ。魔界のスマホは、そうやってストレージを表示する仕様になっているのだ。
「そうっ!科学技術と、魔法の融合!魔界の最先端に君臨する、魔導科学!!」
悪魔たちの世界に、人間たちが作り出した科学技術が入り込んできたのは、まだ比較的最近のことである。
しかし、その技術は短い時間の中で凄まじい進歩を遂げた。契機となったのがつまり、魔法との邂逅である。悪魔たちは、己の築き上げてきた魔法というスキルを、人間が生み出した科学の世界に織り込んだ。それにより、機械系という新たな系統の魔法が認められ、魔導科学と呼ばれる魔界独自の分野が確立された。魔法の力で機械を操る、あるいは、機械の内部に魔法を組み込む。そうすることによって、今悪魔たちの生活を支えている電子機器や電化製品は誕生していったのだ。スマートフォンは、その代表例である。端末の中には様々な魔法の術式が組み込まれており、画面をタップするだけでそれらを行使することが出来る。またはアプリを入れることで、新たな術式が書き込まれる。便利な代物だ。
レオナルドは、子供の頃から機械系魔法の虜だった。だから専門の高校に行って、大学の専科で勉強した。いずれはIT企業を立ち上げたいと考えている。現在は、夢を実現する下積みの真っ最中というわけだ。
「俺、いつか自分の魔法で、アプリ作りたいんだ。会社を立ち上げて、大手と業務提携して!それで将来は、超ビッグなIT長者に!」
「うるさい、そこ」
コツコツとした努力を積み重ねれば、いずれきっと叶えられる。そんなことを叫ぶ彼に、レンキの冷たい視線が突き刺さった。またやってしまった、と彼は下唇を噛む。自分の目標のこととなると、周囲の状況も忘れてしまうのが、悪い癖だ。つい声量を大きくしてしまったことを恥ずかしく思いながら、レオナルドは小さく頭を下げた。しかし、幸い彼らはトワイライトが連れてきた黒色のスライムに注目しているようで、さほど小言は言われなかった。
「ふぅ~ん……」
金髪の若者から目を離し、再び正面に向き直ったレンキは、諧謔を弄ぶような顔をして、曖昧な声を上げる。さっきから、トワイライトに対して険悪な態度を見せている彼に凝視され、ボール・アイは多少気まずそうに粘体の身体をぷるぷると揺らしていた。
「なっ、何っ?僕、何かした?」
キャスター付きの椅子の上に置かれ、子犬のように震える彼を見かねて、カーリはつい口を挟む。
「あの、あんまり怖がらせないでください。刺激すると、その、またさっきみたいになるかも知れないので」
やや警戒の色を強めながら、レンキを見遣るカーリ。釘を刺されたレンキは、わざとらしく肩を竦めて、心外だというアピールをした。
「嫌だね。別に、取って食ったりするつもりもないのに。ただ興味があっただけだよ」
失礼なと言いたげな視線を受け、確かに不躾なことだったかとカーリは反省する。だが、だからといってボール・アイのことを思うと、頭を下げたり、謝罪の言葉を口にしたりはしたくなかった。レンキは頑なな態度を取るカーリのことは気にも留めず、再びボール・アイに目を向ける。そして、小脇に抱えていたタブレット端末を机に置くと、空いた手を彼の上に翳し始めた。
「あの、何を……」
「黙って見てな」
何をするつもりなんですか、と尋ねようとしたカーリの声を、レンキは淡々とした調子で遮る。彼女は言われた通りに口を閉ざしながらも、隠しきれない不安の色を顔に浮かべて、ハラハラと彼の行動を見守った。
困惑した様子のボール・アイ。その頭上に、レンキの手が掲げられる。数秒もしない内に、淡く緑色に光る魔法陣が出現した。文字の書き込まれた円がぐるぐると回転すると同時に、傍に置かれたタブレットにも変化が生じる。自動的にタブが複数開いたかと思うと、何らかの数字やグラフが次々と表示されていった。思わず、レオナルドは立ち上がってその様子を見つめてしまう。
「凄いな……!」
彼の呟きが部屋に落ちるか否かというところで、レンキはふっと息を吐き、魔法陣を仕舞った。机の上のタブレットに目を落とし、ゆっくりと首を振る。感情の読み取りにくい仕草を示す彼に、トワイライトが代表して声をかけた。
「何か、分かりましたかな?」
「……駄目」
沈黙が辺りを満たす中、レンキの口から告げられたのは、そんな言葉だった。
「……えっ?」
一瞬、間を開けてからカーリが混乱した調子の声を上げる。これだけ勿体ぶっておいて、何も分からなかったで終わらせるつもりなのか。まさかそんなことはしないだろうと、半ば憤懣の混じった無礼な疑いの眼差しを向ける。彼女の疑念に応えるように、レンキは再び口を開いた。
「私一人が使える魔法で、こいつを詳しく調べ上げるのは不可能。というか、詳細どころか、種族の特定すら出来なかった。彼……本当にスライムなの?」
お返しとばかりに睨まれて、カーリは目線を落として沈黙する。彼と一番親しいはずのカーリでさえ、正確なところは知らないからだ。暴れた時のボール・アイの姿は、確かに単なるスライムのそれとは思えぬものだった。だが、正面から彼に尋ねるのも、怖くて気が引けていた。また暴走するかも知れないし、何より友達だと思う相手に、無遠慮な態度を取りたくなかったから。
「……まぁいいけど」
項垂れるカーリから目を逸らして、レンキは飄々と先を続ける。
「とにかく、もっと専門的な機関で調べる必要があるでしょうね」
「せ、専門的な機関って……?研究所とか?」
レンキの言葉を聞くなり、ボール・アイが不安そうに口を挟んだ。彼自らが直接レンキとコンタクトを試みたことに、カーリは少なからず驚きを覚える。それと同時に、何故か強く怯えた様子の彼が気にかかった。
一方のレンキは、ボール・アイの心情になど気にしていないのか、淡々とした話し方で言葉を次ぐ。
「当たらずも遠からず、ね……魔捜研だよ。魔導捜査研究所。情報分析部が持ってる、魔導捜査の専門機関。一時間くらい待ってくれれば、すぐに結果が出ると思うけど?」
「そんなに短時間で出来るものなのですか?」
今度は、トワイライトが意外そうに片眉を上げて質問する。
「魔捜研はいつも、膨大な仕事を抱えているでしょう。無理をして、正確性に欠けるデータを提供されても、嬉しくはないのですがねぇ」
「心配ご無用。責任者の特権を使えば、最優先にしてもらえるから。舐めないでほしいね」
己の実力を侮られていると思ったのか、レンキの形のいい眉がピクピクと引き攣る。
「なるほど。そういうことでしたら、ありがたい限りですな。よろしく、お願いしたい所存です」
彼の怒りを浴びせられたトワイライトはあっさりと、しかし悪びれる様子もなく平然と言葉を返した。確認などせずとも、本当は彼には分かっているのだ。レンキという悪魔は、その高飛車な態度に見合うだけの手腕と成績を持っている。彼ならば、魔道捜査研究所に圧力をかけることくらい、造作もないこと。それを分かった上で、もったいつけた言い方をし、厚かましくもお願いをする。確かにレンキの言うような”腹黒”な行動である。
「ふん。これはでかい貸しだからね、腹黒……さて、じゃあちょっと、失礼するよ、プルプルの塊」
レンキは彼の言葉を鼻で吹き飛ばすと、ポケットから素早く何かを取り出し、ボール・アイに近寄った。
「プルプルの塊?」
独特の言い回しに、首を傾げるレディ。同じく不思議そうな顔をしていたボール・アイに、一本の細い試験管が近付けられた。ガラスの縁が、どろどろした液体の流れる体に触れる。かと思うと、試験管の中はすぐに満たされ、黒色でいっぱいになった。
「痛くなかったでしょ?スライムに物理ダメージは入らないんだから」
変な顔をしているボール・アイは、どうやら自分が今何をされたのか全く理解が追いついていないようだ。レンキはそんな彼に声をかけると、コルク栓を摘み上げて試験管を塞ぐ。彼の言葉を聞いて、カーリは目を丸くしていた。
(そ、そうなんだ……初めて知った)
「それじゃ、結果が届き次第すぐに来るから。また」
「あっ、はい!ありがとうございます。よろしくお願いします!」
レンキは黒い液体で満たされたそれを軽く振りながら、闊歩して部屋を出て行く。基礎知識すら足りていないことを思い知り、歯噛みしていたカーリは、慌てて頭を下げた。そんな彼女の隣に立って、トワイライトはおもむろに声を発する。
「では、私も少し外すよ」
「分かりました。何か用事ですか?」
「まぁ、そんなところだ」
エンヴィスの問いかけに対し、曖昧な返答をして誤魔化しながら、去っていく。ポツンと一人残された感じのするカーリは、垂れた黒髪をかき上げつつ、考えた。
(基本の情報すら分かってないんだから、私って駄目だよね……まずは、勉強しなくちゃ)
基本的事項から、少しずつ。学んでいかねばならない。彼女は決意を固めると、再びオフィスの清掃に取り組んだ。とりあえず、この部屋がまともに機能しなければ、仕事も情報収集も出来たものではない。ガタガタと机を動かし始める彼女のそばに、レディが現れた。
「レディちゃん」
「はぁーっ、緊張したよねー」
まさに天真爛漫、といった風情の笑顔を浮かべる彼女に、エンヴィスが疑うように言葉を返す。
「嘘つけよ」
「嘘じゃないもーん!」
「しっかし、凄い色のスライムですね!黒いのなんて、見たことない!しかも、喋るなんて!!」
プウ、と頬を膨らませて反論するレディ。そこへレオナルドの声が割って入った。すると、レディも顔を輝かせて彼の言葉に賛成する。
「だよねー!珍し~よね~」
「新種の個体とかだったら、大発見ですよ!きっと!」
彼女の同意が嬉しかったのか、レオナルドは更に声の調子を高くして、椅子に座るボール・アイを上から覗き込んだ。ただでさえ図体の大きな彼に、真上から見下ろすように観察されて、ボール・アイは戸惑った様子を見せる。堪らずに、エンヴィスが彼を咎めた。
「おい、止めてやれよ。怖がってるだろう」
「あっ、すみませんっす……」
「ねぇねぇ、触ってもいい!?」
諌められ、軽く頭を下げるレオナルドの向こうから、レディが大声で問いかける。
「おい、レディ……」
「うん……いいよ!あんまり痛いことしないんだったらね」
「もちのろんに決まってるじゃん!」
話を聞いていなかったのかと、エンヴィスは渋面を浮かべて苦言を呈するが、レディは気に留めなかった。心の優しいボール・アイは、しばし考え込んだ末、了承を示す。彼なりに、自分に危害を加える相手かそうでないかということを、見抜けるほどには落ち着きを取り戻してきたのだろう。安堵するカーリをよそに、レディは彼を抱き上げて、むぎゅむぎゅと抱き締めている。
「キャー、ありがとー!うっわ、つるすべっ!スライムといえばやっぱりこれだよねー!この感触、いつまでも触ってたい……」
「えっ、えぇ……っ」
「おぉ、羨ましい!俺も触っていい!?」
熱烈過ぎるハグを受けて、若干困惑しているボール・アイ。しかし、そのひんやりとしていて柔らかい感触は、確かに悪魔を魅了するものがある。我慢しきれずに、レオナルドも再び近付いてきた。
若い悪魔たちの間でたちまち人気を勝ち取ったボール・アイを、カーリは少し離れたところから眺めた。彼が暴走する危険性は少なそうだと判断すると、一人で片付けを続けているエンヴィスに話しかけた。
「あの……エンヴィスさん」
「ん?どうした?」
黒く汚れたファイルを、段ボール箱に詰めている最中だったエンヴィスは、作業の手を止めて彼女を見遣る。怒られたばかりの彼と会話するのは、若干気まずいかったが、カーリは頑張って躊躇いを振り切り、口を開いた。
「いえ、その……本当に、すみませんでした」
そう言って、もう一度また深々と頭を下げる。エンヴィスは、やや驚いた顔で彼女を見つめた。
「あのな……そんなに、引きずるもんじゃないぞ?」
「え?」
頭上から、諭すような口調が降ってきて、カーリは目を丸くする。再び顔を上げた彼女に、エンヴィスは言い含めるように告げた。そして、潔過ぎるほどに殊勝に、彼女に詫びる。
「お前のしたことは、間違ったことだ。だが、過ぎたことは、誰にもどうにも出来ない。まぁ、俺も言い過ぎたことは謝る……すまなかった」
「いえっ、そんな!」
エンヴィスに悪いところなど何もない。彼は、自分とカーリ、そしてチームのためを思って叱責をしたのだ。そんな彼に、謝るべきことがあるはずもない。それなのに、まさか彼の方から頭を下げてくるとは。思ってもみなかったカーリは、慌てふためき彼を止めようとする。エンヴィスは、焦り倒す彼女を見るとニヤリと笑った。
「ほら、これでお互い様だろ?それ以上は、言いっこなしだ」
「……!」
「だから、そんなに萎縮するな。俺はお前を叱ったが、お前の人格まで否定したわけじゃないんだからな」
腹のどこかに、収まるべきものがストンと落ちた感覚に、カーリは戸惑いつつも受け入れようとする。エンヴィスは既に、彼女から視線を外して、途中でやめていた作業を再開させていた。黙々と整理整頓に励む彼の背中を、カーリはしばし見つめていたが、やがて彼女もまた己の仕事へと戻っていった。
* * *
コツ、コツ、と規則的な靴音が響く。トワイライトは、音のした方に首を向けて、背を預けていた壁から離れた。
薄暗い廊下の奥から、誰かが近付いてくる。明かり取りの窓から差し込む光に、小山のような影が映った。
「やっほ~、久しぶりだね。トワちゃん」
男らしい低くしわがれた声が、人気のない廊下で間抜けな挨拶をかました。
「まさか、キミから連絡が来るとは思わなかったよ。何かよほどの案件を抱えているらしいねぇ?」
現れたのは、筋骨隆々とした、大柄な悪魔だった。オールバックにした銀髪の毛先を遊ばせ、黒縁のメガネの奥から覗く小さな緑色の瞳は、どこか茶目っ気を含みながらも理知的に光っている。派手な色合いのスーツの袖から覗くのは、豪奢な腕時計。赤みがかった色の革靴は、磨き抜かれツヤツヤと光沢を持っていた。まるで、公務員というよりも裏家業で稼ぐやくざ者の頭領といった風情である。額から伸びるのは、一角獣のような長く鋭い角。角輪の目立つセピア色のそれには、細かな装飾が精緻に彫り込まれている。角彫刻と呼ばれる、悪魔流のお洒落だ。だが、一度入れたら二度と消えない角彫刻は、一般的な悪魔たちには嫌厭されがちである。人間たちの世界で例えるならば、刺青を入れるような行為ということだ。角彫刻のある悪魔は、就職や出世で大きな苦労をすることになる。ましてや、魔界府というこの恐るべき組織において、角彫刻のある悪魔が生き残れる確率は、ほとんどゼロに近い。
今ここにいる、この男を除いては。
「ご無沙汰しております。その節はどうも、お世話になりました……シュハウゼン刑事部長」
男の名はシュハウゼン。魔界府警察部門刑事部が誇る、インペラトルの一角にして、強盗、詐欺、殺人など一般的な刑事事件を全て包括的に取り扱う、刑事部の部長職に就いている。更に言うのであれば、トワイライトの元上司でもある男だ。
「ちょっとちょっと。随分と冷たいなー、トワちゃん。ボクとキミの仲でしょ~?昔一緒に色々、遊んだじゃないの」
シュハウゼンの性格は、その経歴と才覚とは裏腹に、非常に問題があると言わざるを得ないものだ。時間にはルーズ。会議中には昼寝をし、報告を聞いてもすぐに忘れてしまう。唐突に捜査計画を変更したり、全く関係のない別の事件を持ち出したり。刑事部長という立場でありながら、自ら現場や取調室に突撃することもままある。一回り以上も年下の秘書官に、鬼のように怒られている姿は、もはや刑事部では日常茶飯事だ。
だがそれでも彼は、いやだからこそ、インペラトルの地位にいられるだけの成果を上げている。一見非効率的に見える捜査方法は、実は常に常に先を見据えて作り上げられたもの。また取り調べの際の交渉術は驚くほどに巧みで、頑なに口を割らなかった相手を、華麗に掌握し真実を吐き出させることが出来る。トワイライトの交渉術も、彼と働く内に学んだものが多い。
「いえ、一緒に働かせていただいたことはありますが、私にはとてもとても、あれを遊びなどとは一度も思えませんでしたよ……」
トワイライトにとっては、ある意味で信用のおける、しかしある意味で警戒すべき相手だ。軽口に乗ることなく、呆れ気味に首を振って否定する。
「あっそ?残念だなぁ……」
淡々とあしらわれたシュハウゼンは、いかにもがっかりしたという風に、肩を落とした。
「それで?今日は何の相談かな?さっきキミのとこであったっていう、”騒ぎ”に関して?」
「流石……お耳が早い。敵いませんな」
かと思えばすぐさま態度を翻し、緑の瞳を瞬かせて尋ねてくる。やはり、彼には全て見抜かれていたようだ。トワイライトは思わず、感心とも嘆きともつかぬ声色で呟いていた。
「でも、そんなにキミの手を煩わせるようなことだったのかい?ボク、よく知らないんだよねぇ~」
だが、かつての部下の反応など、シュハウゼンは気にしてもいない。角に付着した埃を摘みながら、興味なさそうに問いかけてくる。
「えぇ、そうなんですよ。これはどうにも、私の力だけでは解決出来ない、厄介な沼に足を突っ込んだようでしてね」
しかし緑の目は、トワイライトが一言発するごとに動き、彼の様子を観察している。恐らく、トワイライトの言動から、何か情報を探り出そうとしているのだ。彼が何を考えているのか、流石のトワイライトでも、その全容を把握するのは難しい。この男の前では、いくら腹の底を探られぬよう努力しても、全て見透かされているような気がするのだ。何もかもを、暴かれている感覚が。
「私の部下、カーリくんと言うのですが、彼女が、スライムを拾ってきましてね」
彼相手では隠し事も無意味。無駄な足掻きをしても、一瞬にして無に帰されて終わりだろう。だからトワイライトは、全てを包み隠さず語ることにした。もちろん、油断はせずに。
「ところが、これが普通のスライムではないようなのですよ。恐らく、未知の……新種かと」
「わぁお、それは大発見だね!カーリちゃん、だっけ?祝ってやりなよ」
シュハウゼンは相変わらず、気の抜けた態度で両手を広げて、驚いたジェスチャーを示すだけだった。
「えぇ……ですが、どうも、気にかかるのですよねぇ……」
仕方がない。トワイライトはもう少し、踏み込むことにする。しかし、正直やりにくい。気を付けなければ、かえってこちらの情報を全て引き摺り出されかねないからだ。
「と、いうと?」
少しだけ、反応の色が変わった。他人事のように聞き流すだけでなく、興味を持って、続きを促すような。
「あなたなら、何かご存知かと思いまして」
タイミングを見切ったトワイライトは、ここぞとばかりに足を踏み出す。やや早計かとも思えたが、少しの失敗を躊躇っている場合ではない。なにせ相手は、この男だ。感情を一瞬でも見せた瞬間に、素早く距離を積めるしか、方法はなかった。
「確か、私がいた頃でしたか。ちょうど、凍結された案件がありましたよね……魔物を使った、”実験施設”の疑惑」
「あぁ~、そんなこともあったような……なかったような」
トワイライトの接近に、シュハウゼンはのんびりと首を回してはぐらかしてみせる。だが、わざとらしさが滲み過ぎたその仕草は、ただ滑稽なだけだ。
「あの案件、未だ片が付いていませんよね?これは、チャンスなのではありませんか?」
交渉に長けたトワイライトに、表面上の誤魔化しは通用しない。彼は巧みに言葉を紡ぎ、畳みかける。するとシュハウゼンは、沈黙という名の返事を寄越した。
「今こそ、決着の時です。長き戦いに、終止符を打とうじゃありませんか、あなたと、私で」
ならば、とトワイライトは更に一歩進み出し、釣り針の餌を狙う巨魚のように、貪欲に食らい付く。
大袈裟な身振りで、シュハウゼンと自身の胸元を指し、試すような目を向けた。
「……どうです?我々を、利用してみては」
彼が餌に食い付くのは、釣られる者としての行為ではない。むしろ、釣り糸を引きちぎり、餌だけを奪取する、強者としてのそれ。
そしてその行動は、彼以上の強者であるシュハウゼンにとって、他に並ぶもののない、挑発となり得る。
「……甘い言葉だね」
やがて、数秒の時間が流れた後、シュハウゼンはポツリと呟きを落とした。
「随分と、甘い言葉だ。つい流されてしまいそうになるよ」
言いながら、片手を伸ばし、日焼けして色の落ちた壁紙をスルリと撫でる。さほど力は入っていないように思えたが、彼の手が触れた途端、壁はミシミシと軋んだ音を立てた。
「でも残念だけど、ボクはキミに手を貸す気なんかないよ」
その仕草、声音には先ほどまでのふざけた雰囲気など感じられない。刑事部長として、インペラトルとしての、本気の姿だ。
「キミのことを敵視する悪魔が少なくないのは、知っているよね?キミの才覚を羨む、あるいは妬む幾多の悪魔たちが、どうにかしてキミを失脚させようと蠢いている……」
シュハウゼンの腕は、まるで巨木のように、太く膨れ上がっていた。ギチリと音を立てて拳を握れば、服の上からでも分かるほどに、分厚い体が盛り上がり、全身の筋肉が隆起する。恐ろしい暴力を体の中に溜め込んだ状態で、シュハウゼンは冷徹にトワイライトを見据えた。
「キミと関われば、ボクにも火の粉が降りかかりかねない……ボクは、争いは嫌いだよ。正直、キミのことなんて、放っておきたいくらいにね」
氷のように冷酷な刃が、トワイライトの提案を切り捨てる。にべもない口調で吐き捨てたシュハウゼンは、長いコンパスでカツカツと彼の周りを歩いた。
かなり抽象的な言い方だが、何を意図しているのかは、十分に理解出来た。先日の、アルテポリスでの一件についてだ。案の定、彼は全てを知っているらしい。トワイライトとタキトゥスの間で諍いが起こったこと。そしてタキトゥスもまた、対天使対策部に欺かれていたのだということを。
上司に脅威と見做され、迫害される部下。軍政部門という、厄介な部署に目をつけられた警察部門職員。
今のトワイライトはまさに、懸念材料の倉庫のような状態だ。常識的な悪魔であれば、誰でも距離を置いた方がいいと判断することだろう。シュハウゼンの言葉も、理解出来る。
「まぁでも、それはキミが良くも悪くも優秀な悪魔だからだ。キミを部下に持ったおかげで、ボクの今があるも同然。そんなキミを無下に扱うのは、流石のボクも良心が痛む……」
だが、しかし彼という悪魔は、決して常識に縛られない男だ。トワイライトの抱えた問題にこそ、利益を見出すような男である。彼は何を狙っているのか、わざとらしい仕草で胸に手を当て、まるで歌い上げるように朗々と話し続けた。まるで、夜の森で独奏するフクロウのように。
「それは……買い被り過ぎですよ」
あまりにも芝居がかった調子に、トワイライトは思わず苦笑を漏らした。くっと喉を鳴らし、やや視線を下げる。
「本当だ」
そこへ、シュハウゼンの長く太い指が突き付けられた。大柄な体躯が作り出す、濃い影がトワイライトの顔面に落ちる。
「だが、だからこそキミは、多くの悪魔に嫌厭される……このボクも然り」
張りのある、低い声がトワイライトの鼓膜を震わした。廊下全体に重く響くその声は、先ほどの気の抜けた様子とは似ても似つかない調子だった。
「でもキミは、それじゃ困るんだろう?だからボクに助けを求めてきた……違うかい?トワちゃん」
トワイライトは何も言わなかった。シュハウゼンの目論見は、既に十分過ぎるほど理解している。けれど、それはすぐさま返答出来るほど、生優しい要求ではなかった。
「何かを成し遂げるには、それ相応の代償を支払わねばならない……って、ボク昔、教えたよね?」
追い討ちをかけるように、シュハウゼンは微笑みかける。笑顔の圧力が、ずしんとのしかかった。
仕方がない。
ここまで来たら、言ってしまう他に道はないのだろう。
トワイライトは胸の奥で溜め息を漏らす。
そしてようやく、重たい口を開いた。
「承知しました……感謝の気持ちを表し、刑事部の捜査にも、微力ながら協力させていただくことを確約いたします」
「そーゆーコト!分かってるねぇトワちゃん!!流石は、ボクの元右腕だ」
シュハウゼンの狙いはつまり、捜査協力だ。何か、トワイライトたち単独脱界者対策室の力を借りたい案件でも抱えているのだろう。恐らく、呼び出しを受けた時点で、考えていたことのはずだ。そのために、話を素直に聞いていた。
だが、当然捜査の対象は、刑事部の独力では解決し得ない、厄介な案件ということになる。大規模な戦闘すら、考慮に入れられるほどのものであってもおかしくはない。トワイライトの気が進まないのも、自然なことだ。
それを無理矢理了承させておきながら、シュハウゼンは嬉しそうにはしゃいだ様子を見せてくる。バシバシと大きな手で背中を叩かれて、トワイライトは軽く咽せた。朝、ボール・アイにもらったダメージより、よほどの衝撃が走っている気がする。
「長い間凍結されてる案件なんて、他にいくらでもあるからね。今更その中の一つを解凍して解決したところで、得られる利益なんかたかが知れてるじゃない。それ以上の、ボクを動かせるメリットを提示してもらわないと、ね?」
「なるほど……ゴホッ」
シュハウゼンは全く気にかけることなく、笑顔のまま話しかけてきた。恐らくは、彼の要求に応えることを渋ったから、嫌味を言ってきているのだろう。だが、その中にどこか、違う色を感じて、トワイライトは訝しんだ。
「フッ、意外って顔してるね。そんなに驚きだった?ボクが、あっさりキミの言い分を飲んだことが」
決して表情には出していないはずだが、シュハウゼンは彼の感情を読んだらしい。トワイライトを揶揄うように、片眉を上げて問いかけてくる。正直、彼の目的がトワイライトには分からない。
図星を突かれたからといって、彼が動揺を示す悪魔ではないことは、シュハウゼンも理解しているはずだ。彼が、トワイライト相手に反応を期待したアクションを起こすわけがない。だが、であるならば、一体何を考えているのか。トワイライトにはまるで理解出来なかった。
「本当はね、キミに戻って来いって、言っても良かったんだよね~……だってキミ、飼い殺されてるでしょ?ほら、何て言ったっけ。キミの上司に」
「タキトゥスさん、ですか」
シュハウゼンの流れるような話を遮り、続きを引き取って告げる。シュハウゼンはおもむろに頷きながら、トワイライトに尋ねかけた。
「そうそう。キミはどうして、あれから逃げ出そうとしないんだい?キミの実力があれば、タキトゥスなんか、簡単に蹴散らせるはずだよ?あんなちっぽけな鳥籠で、キミほどの男が、一生キャリアを使い潰すなんて、損だよ」
問いながら、しかし答えなどまるで求めていないように、彼は大袈裟な身振り手振りで、演説をぶつ。
「ボクには野望がある。こんなところに辿り着いたくらいじゃ、到底満足出来ないんだ……もっと、もっと、上を目指したい。この長い階段の、頂点までね」
「は……大きな野望ですな」
緑の瞳を肉食獣のようにぎらつかせながら、彼は語る。トワイライトはいかにも他人事ぶって、鼻を鳴らした。嘲笑めいた雰囲気を感じても、シュハウゼンは決して怒らない。彼の言葉など耳に入っていない調子で、一方的に訴え続けた。
「そこに行くには、並大抵の努力じゃ足りない。もっと華々しい功績が必要なんだ。ボクはそれを、どうしても手に入れたい。他にどんな犠牲を払ってでもね……」
「ならばいいではありませんか。私を部下に据えずとも、協力者という立場で、使い潰せばいい。そうでしょう?」
意味深な単語に肩を竦めつつ、トワイライトは彼を見上げた。シュハウゼンの言い分は全て察知している。けれど、それを漂わせれば、彼の思う壺だ。ここで理解を示しては、自らの自由を保てなくなる。
「それは詭弁だよ、トワイライト」
相手の意図を把握しておきながら、あくまでも素知らぬふりを貫き通す彼の態度に、流石のシュハウゼンも苛立ったようだ。
「キミには、力があるんだ。ボクと同じように、上を目指せる力が……それを使わないで過ごすなんて、許されないよ。枝に吊された鳥籠は、いつか必ず、誰かに切り落とされる」
彼に捲し立てられても、トワイライトは平然と、淡々とした口調でもって否定を返した。
「そんなことさせませんよ。第一、籠の中にいるのは、私だけではない。私が何のために、彼らをそばに置いていると?」
引き合いに出すのは、同じ単独脱界者対策室という鳥籠の中にいる、部下たちのこと。レンキも述べていたように、彼らは皆容易には言えない、特別な事情を抱えている。そんな彼らが生きていけるほど、魔界府という組織は甘くない。放置しておけば、彼らは即座に、この建物から追い出されることだろう。だが、トワイライトが彼らを助けた。
それは彼らにとってまさに、救世主が突然目の前に舞い降りたも同然の事態。他に頼れる者がいない中で現れた、唯一絶対の味方を、おいそれを裏切るはずがないだろう。信用し、あるいは信奉し、あるいは崇め奉る。少なくとも、部下として忠実に尽くすことは確実だ。
「彼らには他に、居場所がない。私を蔑ろにすれば、彼らはたちまち、暴走状態に陥るでしょう。そうなった時、誰か他に彼らの手綱を握る者は……」
そして周りの悪魔たちにとっても、それは決して不都合ではない。トワイライトであれば、彼らを完全に管理出来ると踏んだのだ。要は、嫌いな相手に面倒事を押し付けたのである。そのための場所と権限を与えるくらい、安い出費だと捉えた。
そしてトワイライトは、自身が周りに利用されることを受け入れた。何しろ、これ以上の安定した平穏はないからだ。他人の庇護下で、ぬくぬくと暮らしていられる。もちろん、捨てられる危機を回避するための用意も忘れない。大人しい飼い犬のふりをして、扶養を続けさせるための切り札を、着々と揃えていくのだ。彼ら部下たちも、その一つ。
「一筋縄じゃいかない連中ばかりを部下に据えてるのは、そういうわけか……策士だね、トワちゃん」
彼の考えを見抜いたのか、シュハウゼンが呆れたような、感心したような声を上げた。トワイライトほど、自らの思考と、感情を分離させることの出来る悪魔はそうはいない。異常とも取れる精神こそが、シュハウゼンが彼にインペラトルとしての素養があると見做す理由である。
「でもね、そんなもの、どうにでも出来るんだよ。キミが理解してないはずはないだろう?ボクならいくらでも、君を閉じ込める鳥籠なんか壊せる」
だが、だからこそ、もう一歩踏み込んでみることにした。この、腹の内の知れないトワイライトという男の深淵を、覗き込んでみたくなったのだ。
「いつまで、キミはそんな甘えた理想にしがみついているつもり?そんなんじゃいつか、絶対に敵わない強大な壁とぶつかることになる。そうなった時、キミやキミの大切なものを守るのは何だと思う?……権力だよ。インペラトルとしてのね」
脅すような低い声を発し、彼に近付く。だがその半分以上は、本心ではない。ただの形式的なものだ。
トワイライトの黒い瞳を、真っ直ぐ見下ろす。まるで、深く深く続く、井戸の底を確かめようとするかのように。
「ですが……あなたにそんなことをするつもりはない。でしょう?」
トワイライトはしばらくの間、口を半開きにしてシュハウゼンの顔を見上げていた。かと思えば、やがてその口角がニンマリと上がる。人を食ったような笑みで、彼は大胆にもそう断言した。
彼の言葉はまさしく、シュハウゼンの胸中を看破している。一体何故、そんな芸当が可能なのかは分からない。けれど彼は、かつての上司の分厚い面の皮を透視し、本心を見抜いたのだ。決して、信用の発露などではないと、シュハウゼンは確信する。もしかすると、単にハッタリをかましただけなのかも知れない。だが、それを確かめる術は、存在しないのだ。
「ま、ボクだって鬼じゃないからね」
シュハウゼンは諦めて、対応を切り替えることにした。彼にはもはや、中途半端な誤魔化しは通用しない。であるならば、ある程度は本音に近い言葉を紡いでいくことで、彼の狙いを探っていくしかないのである。
「ただ、知りたかったんだ。キミが何のために、そこにいるか……」
珍しくしおらしい態度で、声を発するシュハウゼンを、トワイライトは密かに観察する。彼の話は、恐らく誘導だ。トワイライトが何故、タキトゥスに飼い殺されている状況を容認しているのか。そこにはただ、出世争いから逃れるためだけでない、別の目的があると思い込んでいる。タキトゥスとは異なって、彼は部署の違う悪魔だ。誤解を解いておく必要性はない。それどころかむしろ、色々と勘違いをしていてもらった方が、今後動きやすくなるかも知れない。
「……流石ですね。やはり、あなたには敵う気がしない」
「……フッ」
本当に、打ち明けた以上の狙いなどないのだが。トワイライトは思わせぶりな調子で、肩を竦め苦笑する。シュハウゼンも合わせるように、得体の知れない笑顔を作った。
「分かった分かった。降参~。今日のところは、キミの言い分に乗っといてあげるよ」
唐突に話を転換され、トワイライトは思わず困惑し眉を寄せる。シュハウゼンはまるで気にせず、朗々と、まるで台詞でもそらんじるかのように語り続けた。
「ボクは、使えるものなら何だって使う主義だ。野望を叶えるため、どんなものでも利用させてもらうよ?例えそれが……かつて最大限の忠義を尽くしてくれた、部下でもね」
言いながら、間の抜けた顔を晒しているトワイライトのことを、ちらりと一瞥する。
やはり彼は、あの頃から何も変わっていない。刑事部で共に働いていた時から何も。
自分の目的のため、欲望のために、どんな手段も厭わず行動する。悪魔として、最も当たり前な姿だ。
「手を組もう、トワイライト。ボクに手柄を捧げてくれ」
きっとこれは、この男にとって、何よりの賞賛になるだろう。
シュハウゼンは内心でほくそ笑みながら、彼に向けて片手を差し出す。
すっと差し伸べられた大きな手を、トワイライトは迷わず握った。
「仰せのままに……シュハウゼン刑事部長殿」
固く握手を交わす、二人の悪魔。それぞれが己の内側で何を考えているのか、それは本人たちしか知らない。
「あぁ、そうそう、トワちゃん。一つ言い忘れていたよ」
立ち去りかけたシュハウゼンが、ふと足を止めて声をかけてくる。
「何です?」
トワイライトは訝しんで、彼の背中に問いかける。シュハウゼンは振り返らずに、不穏な言葉を投げかけた。
「永遠の安息地など存在しない。時が進む限り、万物は全てゆっくりと崩壊していく……キミはいつか、外に出なくてはならなくなるはずだよ。そして、巻き込まれることになる……いずれ生まれる、大きな乱気流にね」
「……どういう意味です?」
今一つ意図の見えない話だ。その一端でも掴もうと、トワイライトは重ねて質問する。
「さぁね。ボクはただ思ったことを言っただけ~」
しかし、シュハウゼンは答えなかった。いつものふざけた調子で、ひらひらと片手を振って、彼の姿は廊下の曲がり角の奥に消える。残された言葉を、トワイライトはいつまでも口の中で転がしていた。
* * *
レンキが再び単独脱界者対策室のオフィスを訪れたのは、きっかり1時間半後のことだった。あまり気の休まらない昼休憩を終えたカーリは、ボール・アイ、レディと共に雑談を交わしている。レオナルドの姿は既にない。緊急の呼び出しに応じて、片思いの相手との会話を泣く泣く諦めて去っていった。
「レンキさん!」
姿を現したレンキを見るなり、カーリは勢いよく立ち上がる。
「結果は、どうだったんです?」
エンヴィスも同じ気持ちだったのか、素早い歩みで彼に近付いていった。
「そんなに危機迫った顔しないでよ。怖いじゃない」
レンキはわざとらしく、呆れた声を出して溜め息をつく。しかし、気のせいだろうか。心なしか、顔色がやや悪いように思える。まるで、クタクタに疲弊しているような顔付きだ。
「……でも、本当に怖いのは、こっちの方かもね」
そんなことをぼやきながら、手にしたファイルを差し出す。気怠げで緩慢な仕草で提示されたそれを、エンヴィスが急いで掴み取り、開いた。
「なっ!?何だ、これは……!」
ぺらり、最初の1ページ目を捲るなり、彼は目を剥き出して驚愕する。カーリは居ても立ってもいられず、横から首を突っ込んで中身を覗いた。
「見せてくださ……え……っ!?」
エンヴィスは呆然とした手つきで、それを彼女に渡してくる。カーリは慌てて目を通して、そして瞠目した。エンヴィスと同じように、声もなくして驚いている様子の彼女に、レディが怪訝そうな視線を向ける。
「どしたの、カーリ?」
しかし、彼女は答えなかった。あんぐりと口を開けたまま、固まってしまっている。埒が明かないと思ったレディは、半ば強引に、彼女の手からファイルを奪い取った。
「ふむふむ。なるほどー?」
そのまま、子供のような声を上げながら、鑑定結果と書かれた一枚目の紙を見る。そして、そこに書かれた文字列を、朗読した。
「えっとねー……DNA鑑定結果。サンプル、スライムの体液と思しき粘液。三度に渡って検査、鑑定した結果、複数の魔物のDNAが検出されました。スライム33%、デュラハン25%、インプ16%、その他の魔物、種族、数不明26%……だって。ねぇ、これどういう意味?」
真面目を装った声が、スラスラと長文を読み上げていく。彼女らしくない流暢な話し方にも、自ら音読しておきながら少しも意味を理解していないことにも、今は誰も触れなかった。
「私に分かるわけないでしょ。こんなこと、とても現実とは思えないくらい……」
袖を引っ張られたレンキだけが、おもむろに額を手で押さえる。明らかに憔悴し切った顔をしているのは、それほどまでに、彼らに突き付けられた現実が、衝撃的なものだったからだ。
「レンキさん、本当にこれ、正しい結果なんですか?何かの間違いじゃ」
あまりのことに、事実を受け止められないのだろう。カーリが縋り付くような声音でレンキに問いかける。
「そう思って、私も再三調べ直させた。だから、こんなに時間がかかったんだよ」
尋ねられたレンキは、呆れたような調子で答える。覇気のないその声は、何度も同じ質問をされ、その度に同じ回答を繰り返しているかのような、疲れを含んでいた。
「でも、何度やっても確かに結果は同じ。サンプルだって、確実にこのスライムの体表から採取した。あんただって、見てたでしょ」
「それは……そうですけど……」
これ以上手を煩わせないで、と懇願する母親のような言い方。正論で諭されれば、カーリは反論する言葉を見つけられずに、口ごもる。
「どうしたの?カーリ……何か変だよ?」
「僕……どこかおかしいの?」
いつになく思い詰めた様子の彼女に、不安を煽られて、レディは思わず口を開いていた。同じくボール・アイも、おずおずとした口調で、彼女に声をかけている。
「レディちゃん……ちょっと」
心配そうな顔でこちらを覗き込む二人を、カーリはしばし見比べた。そして、レディの腕を引くと、彼女だけを部屋の隅へと引っ張っていく。こんな話、いきなりボール・アイ本人に聞かせるわけにはいかなかった。
「例えば、レディちゃん。犬と猫、二つの種族の遺伝子を持った動物がいるって言ったら、どう思う?」
オフィスの入り口付近で、ドアの影に隠れるようにして、彼女に耳打ちする。正直今すぐにでも、『そんな話あり得るわけがない』と囁いてしまいそうだった。
彼女のかすかな声を、ふんふんと興味深そうに聞いていたレディは、尋ねかけられるなり顔をパッと上げて答える。
「うん、キモいっ!!」
「そ、そうだけどそうじゃなくて……」
彼女の、理解は出来るが的を外している回答に、カーリは曖昧な返答を返す。彼女が言いたかったのは、そんなことではないのに。
「あり得ない!!こんなこと、あるはずがないっ!!」
どう話すべきかと、カーリが眉を寄せて悩んでいると、廊下にまで響き渡るようなエンヴィスの大声が轟いた。
彼はまるで、肉親の死にでも直面したかのように、激しく取り乱している。いつもの冷静な彼からは、想像もつかぬ狼狽ぶりに、カーリたちは目を奪われた。
「だけど、結果は出てるじゃない。これが事実なのは確か。あんたにだって分かるでしょ、エンヴィス」
混乱した様子のエンヴィスに、レンキが意識して作ったような落ち着いた声色で話しかける。そして、優しげながらも有無を言わせぬ調子で、彼に命じた。
「戸惑う気持ちは分かる。私だって、最初は信じられなかった。信じたくなかった。こんなこと……でも、これが現実なんだよ。いい加減、認めなさい」
寄り添うかと見せかけて、容赦のない現実をぐっと眼前に突き出すかのような行為。相手によっては心に致命的な損傷を負うかも知れないそれに、カーリは驚いて息を詰める。
残酷なレンキの行動によって、その場の雰囲気が、一段と重くなった気がした。
「……認められるかっ!こんなの、何かの間違いだ!そうに決まってる!じゃなきゃ、おかしいだろ!?」
エンヴィスは、一度だけ口の端を歪め、頬をひくつかせる。レンキの荒療治は、固く閉ざされた彼の口に、薬を無理矢理に捻じ込んだかと思ったが。エンヴィスはすぐに、体を震わせて拒絶した。そのまま、感情に任せて強い口調で反発する。
「ここは、現代だ!ファンタジーじゃないんだぞ!?それなのにどうして、キメラなんてもんが、確認されるんだ!!」
「キメラ……?」
激しい勢いで捲し立てられる言葉の奔流の中から、カーリは鋭敏に一つの単語を聞き取ると、眉根を寄せて首を傾げる。
「合成魔獣とは。異なる種族のDNAを複数体内に保有する魔物のこと。中でも、強制的に異種族間での交配を行わせ、人工的に作り出した魔物のことを指す。バ~イ、ヘルペディア」
すぐに携帯端末を操作して、検索画面を立ち上げたレディが、表示された結果を滔々と読み上げた。差し出されたスマートフォンを、カーリはじっくりと眺める。
「キメラの存在は、歴史上では確かに認められている……でも、それは、決して再現出来ないものなの」
彼女が何かを言う前に、レンキが間髪を容れず、付け加えた。
「どういうことですか?」
カーリは、純粋な興味を抱いて、率直に尋ねる。レンキも、彼女の好奇心を否定することなく、素直に答えた。彼女には、この話を知っておいてもらわねばならないからだ。
「キメラを作るための理論も、装置も、まるで体系化されていないからだよ。キメラは、インペリアル・ロードが書き残したいくつかの私的な文献にしか記載されていない。存在することは分かっていても、どこでどうやって、いつ生まれたのか、誰も解明していないの。まさに、謎めいた生物」
すらすらと、水が流れるように淀みなく話すレンキの言葉を、カーリはうんうんと時折頷きながら聞いていた。隣では、あまりよく分かっていなさそうな顔のレディが、口を開けて佇んでいる。彼女にも理解を促すために、レンキは少し具体的な話をすることにした。
「考えてもみなさいよ。種族の違う生物同士の交配なんて、まずそれ自体、とても難しいこと。魔法や薬物を使っても、確率は万に一つでしょうね。ましてや、それが妊娠、出産に行き着く可能性は?子供がきちんと、無事に生まれてくると思う?健康体に育つ確率は、どのくらいかな」
「とても……成功するとは思えません」
常識的な反応を返すカーリに、レンキは一つ首肯して続ける。
「そう。その通りだよ。いくら魔法や最先端技術を用いたって、上手くいくとは思えない。たった二つの種族を掛け合わせるだけで、これだけリスクが大きくなるのに、ましてやこのスライムは、数、種類不明の多数のDNAが混じってるんだよ?しかもこいつに含有されるDNAの内、量的二位を占めているのは、生殖活動をしない、アンデッドのデュラハン……こんなものを交配させるなんて、まず不可能だって、分かるでしょ」
彼の話を聞く内、カーリにも事の深刻さが、改めて分かってきた。肌にひしひしと押し寄せるような、切羽詰まった感覚に、彼女は耐えきれずに疑問を発する。
「じゃあ……じゃあ、どういうことなんですか……ボール・アイは、一体……」
何者なんですか、という最後の言葉は、もはや声にならなかった。顔色を青くして立ち尽くす彼女に追い打ちをかけるように、エンヴィスが口を開く。
「一つ……可能性があるとすれば」
一時は感情的になって騒ぎ立てた彼だが、キメラについての解説をレンキが始めた途端、打って変わったように黙り込んでいた。その彼が、今度は何を語るのか。カーリは緊張した面持ちで、彼を見つめた。
「もしも、こいつが本物のキメラだったと仮定するならば……そんなことがあり得るのなら……考えられることは、一つだけだ」
どうか怖いことを言わないでほしい。そう言いたげな彼女の目を、エンヴィスは見もせずにボソリボソリと呟く。
「そんなことが出来るのは……」
「「インペリアル・ロードだけ」」
溜めに溜めた彼の言葉は、レンキの声と重なって紡がれた。最後の一言を取られかけたエンヴィスは、若干気分を害したような表情を見せながらも、話を止めない。
「魔界最強の椅子に座ることを許されたあの連中なら、こんなキメラスライムの一体や二体、生み出すことは容易だろう。それどころか、今まで誰にも解明されなかった、キメラ創造の体系すら研究しているかも知れない。そしてそれには、禁術……”生命錬成”の術でも使っているんだろうがな」
禁術とは、魔界府によって、使用することが禁じられた魔法のことだ。魔界府の専門機関が、毎年それらの禁術をまとめたリストを発表している。禁術を用いれば、直ちに魔界府の魔導管理部門が検知して、取り締まるだろう。禁術は、当然禁止されるに値する、驚異的な威力を持つものがほとんどだ。場合にもよるが、大都市を1日の内に壊滅させることの出来る魔法もあるという。過去には、何万という悪魔が虐殺された例や、上級悪魔が簡単に屠られた事例も存在するそうだ。決して使わせてはならないと、魔界府が目を光らせているのも当たり前だろう。
しかし、この禁術の大半は、そもそも行使すること自体が困難なものが多い。強力な魔法を使うには、それに応じた大量の魔力を消費しなければならないからだ。ましてや、複雑過ぎる術式や、実行不可能な儀式の必要性まであったならば、現代においては行使不可能と言われても仕方がない。禁術リストの中には、そのような、存在するのかどうかすら怪しい魔法も含まれている。キメラ創造も同じく、伝説・伝承の一つだと思われていた。
だが、それももう終わりかも知れない。ボール・アイという不可思議な生命の存在が発見された以上、伝説は伝説でなくなった。ただの伝説として片付けるわけにいかなくなったのだ。
「こいつは、相当大きな闇から逃れてきた一匹ってことになるぞ……ここはまだ、深淵じゃない。その、ほんの一端みたいなものだ」
エンヴィスは低く、重々しい声で、そう言って締め括った。
「もはや陰謀論みたいな話だね……禁術の使用。キメラ創造の解明。こんなことをしているインペリアル・ロードの存在……到底、現実とは思えない」
権力者のまとめ役として君臨する、統率者。インペラトルたちを導き、ひいては世界の進路をも決定している彼らならば、行使不可能と言われる魔法を使うことも可能だろう。しかし、それはれっきとした犯罪。現代においては、脱界以上に重罪とされる行為だ。テロリズムの一種と見做されてもおかしくはない。そんなことを、世界の命運を握る存在たちが行なっているだなんて。誰だって認めたくなくて当然である。エンヴィスやレンキの心持ちが、初めてカーリには理解出来た気がした。
「でも、これが現実だと、この子は証明した。これは、確固たる証拠だよ。インペリアル・ロードが抱える、巨大な闇の証。陰謀の、生き証人なんだから」
深い深い暗黒の存在を唯一証明する、希望であり脅威の光。それが、ボール・アイの持つ真価だということなのだ。
「こんな強力な証拠を、ロードたちが放置しておくはずはない。カーリちゃん、あなた今、この子と自分がどれだけ危険な場所にいるか、分かってる?」
だがその価値は、そっくりそのまま危険にもなり得る。闇を明るみにされる前にと、魔界屈指の権力者どもが、一斉に襲いかかってくるかも知れないのだ。
「わ、私……!」
彼らはどんな手を使ってでも、自らの企みを暴かれないよう、働きかけてくるだろう。暗殺、テロリズム、諜報活動。ごく普通の低級悪魔には、想像も出来ないようなことを仕掛けてくるに違いない。一介の市民に過ぎないカーリには当然、耐えられないはずだ。彼女はあっさりと殺され、そしてその事実すら、隠蔽されるかも知れない。
「そのくらいにしてもらおうか」
顔面を蒼白にするカーリの耳に、突然聞き慣れた声が飛び込んできた。振り向くと、トワイライトが、オフィスの入り口に立ち竦んでいる。付け直したドアにもたれかかり、漆黒の角を軽く手で撫でていた。どうやら、しばらく前からそこにいたようだ。皆目の前の議論に意識を向けていて、気が付かなかったらしい。
「私の可愛い部下を、あまりいじめないでもらいたいねぇ。警告は確かに有用だが、やり過ぎるとただの脅しになりかねない……これ以上は、彼女の精神を追い詰めるだけだと思いますよ?」
彼はいつもの調子でゆったりと喋りながら、カーリに近付く。レンキもいつものように、目を細め警戒した様子を見せた。
「と、トワイライトさん、私!とんでもないことを!」
彼と対峙するように佇む上司に、カーリは慌てて話しかけた。半ばパニックになったような声色に、トワイライトは落ち着いて答える。
「気にすることはないさ。私も、薄々勘付いてはいたからね」
「え!?」
彼の言葉に、カーリは驚いて目を見張る。トワイライトはさも当然であるかのように、やや笑みをこぼしながら続けた。
「誰だって分かることさ。あの様子は、単なるスライムには思えない。何か裏があると思って然るべきだろう?」
トワイライトが最初にオフィスに入った時、ボール・アイはまだ今と同じ、スライム同様の外見をしていた。しかしそれが、背の高い人型の怪物へと姿を変えたのだ。それどころか、彼の体から分離したはずの黒い体液まで、自在に操ってみせた。あのような力は、本来のスライムには備わっていない。先刻対峙した時点で、トワイライトは彼が何か複雑な問題を抱えているを、見抜いたのだ。
尤も、それはエンヴィスやレンキとて同じこと。ボール・アイによって襲われた彼らや室内の様子を見れば、誰だって異常さに目が向くはずだ。だがその正体が、具体的に何であるかを、素直に受け入れられるとは限らない。要は、心の持ちようの違いだ。トワイライト一人だけが、怖いくらいに落ち着いて、淡々と行動していただけ。
「だから、少し調べてきたんだよ。私にだって、情報分析部に頼る以外のルートはあるからね」
話しながら彼は、冗談めかした仕草で口角を上げる。あえて得意げな様子を演じてでもいるかのようだ。そして、一体どこに隠し持っていたのか、まるで手品のような動きで、どこからか書類袋を取り出した。
「レンキさんならお聞きになったこともあるんじゃないでしょうか。長らく刑事部で、凍結になっている案件……何やら怪しげな、”遺伝子研究”施設、とやら」
トワイライトの手から、それを引き取ったレディが、中身を全て近くの机にぶちまける。綺麗に拭き上げられた天板を、何枚もの紙が勢いよく滑り落ちていく。エンヴィスが慌てて、手を伸ばして押さえた。
「さっすが腹黒男……こんな情報、どこから仕入れてきたの」
資料の間に添付された、写真やら手書きの報告書などを確認しながら、レンキが呆れた声を出す。呟くように疑問を口にしていた彼は、しかしすぐに、人の悪い笑みを浮かべると言った。
「な~んて、聞くまでもないか。こんなに情報管理の緩い悪魔は、一人しかいない。随分と気に入られているんだね……シュハウゼン部長に」
空になった書類袋を掲げる仕草は、恐らくそれを手渡した人物を指しているのだろう。トワイライトははぐらかすように、おどけた調子で肩を竦めた。
「はは、ご想像にお任せしますよ」
「……本当、腹黒な男」
肯定も否定もしない、わざとらしい誤魔化しに、レンキは苛立った顔で吐き捨てる。彼の反応には構わず、レディがエンヴィスの袖を引っ張って訪ねた。
「ねぇ、シュ何とかって、誰?」
「シュハウゼン刑事部長。トワイライトさんの、昔の上司だ」
トワイライトはかつて、刑事部の悪魔として、シュハウゼンという男の下で働いていた。その時分のエピソードは、トワイライトがあまり語りたがらないので、詳細はエンヴィスにも分からない。しかし、随分と世話になった相手であるということは確かなようで、今でも付き合いがあるらしいとは知っていた。
「え?トワイライトさんて、前は刑事さんだったんですか。軍人さんじゃなくて?」
「あの人の経歴は、ちょっと複雑だからな……」
この中で一番の新人のカーリには、聞き慣れない話だったようだ。恐らく、彼女はトワイライトについて、全く何も知らないに等しい状態なのだろう。エンヴィスはどう説明したものかと迷いながら、ふと自分でも考えた。
彼の部下として、最も長く支えているはずの自分でさえ、彼のことはほとんど分からない。トワイライトという男は、まるで全身が黒い靄に包まれてでもいるかのように、正体の掴めない悪魔なのだ。
「さて、それでその不審な施設のことだが……表向きは、とある大学の附属の研究機関として、活動しているらしい」
エンヴィスのそんな考えは、トワイライトの声によって、煙のようにかき消されてしまう。意識を現実に引き戻された彼は、並べられた資料に目を通しながら、上司からの話を聞いた。
「規模は、4000名といったところか。まぁ、そこそこだな。しかし、その実態は驚くほど不透明。何の研究をしているのか、どんな組織になっているのか、ほとんどまるで分かっていない。どれだけ探ってもそこには、恐ろしい、暗闇が広がっているだけさ」
残された資料を見れば見るほど、その研究所とやらは、本性の不明な怪しいものであることが分かる。しかし、ただそれだけだ。違法な実験をしているとして告発があったかと思えば、その後すぐに勘違いであったと、本人からの申し立てでなかったことにされてしまっている。同じことが何度も起こったために、訝しんだ刑事部が捜査に踏み切っても、これといった証拠は何一つ出てきていない。まるで、雲を掴むような捜査だったという。探った分だけ、深い闇があることは判明するが、かといってそれが具体的にどの程度の大きさなのかは、決して分からない。おまけに、研究所の所長なる男は、製薬事業で有名なグループ企業の、名誉会長だ。一族で代々その会社を守ってきたというのだから、生粋のインペラトル、いや、インペライアル・ロードだろう。
「相手が相手である以上、刑事部も気軽に手出しは出来ない。それに、彼らの仕事も膨大だ。確固たる証拠を掴めない案件に、いつまでも人手を割いているわけにはいかない」
それが、この件が凍結にされた経緯だとトワイライトは語った。皆の理解が追いつくのを待ってから、彼はまた口を開く。
「だが、その凍結が、解除されることが決定した。ボール・アイくんの存在によって、キメラの実在がはっきりと確認されたからね。捜査は再び動き出すだろう。そこで……どうだい?シュハウゼンさん率いる刑事部に、我々も協力するというのは?」
「……え?」
「えっ?」
「はっ?」
「はぁっ!?」
発言を聞いた四人の反応は、皆それぞれだった。一度、よく言葉を噛み砕いてから、カーリが発した驚きの声。概要すら把握していないだろうレディの、気の抜けた声。エンヴィスの呆気に取られた声。そしてレンキの、反発の色が含まれた、棘のある声だ。
「全ては我々から始まったんだ。危険を避けるためにも、ここは一つ、手を貸して差し上げようじゃないか」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
スラスラと話すトワイライトに、エンヴィスが最初に、慌てた様子で抗議した。そして、両手を広げて訴えかけるような姿勢を見せる。
「お話は分かりますが、やはり危険過ぎますよ!大体、捜査協力なんて、普通はもっと規模の大きな部署が引き受ける仕事だ。俺たちみたいな少人数が、一体何の役に立つって言うんです!?」
「我々はただ、少し調査をするだけだ。逮捕など、大きな任務には関わらない。それならむしろ、少ない人数の方が怪しまれないだろう。危険も、最小限で済むはずだ」
「刑事部の仕事に手を貸すんですよ?最小限と言ったって、それなりにはあるでしょう!」
強い口調で問うエンヴィスに、トワイライトは噛んで含めるような、ゆったりとした話し方を心がけて答える。しかし彼は、まるで相手の言い分など聞き入れず、感情的になって吐き捨てた。
「連中からすれば、協力者なんて使い捨ての駒みたいなものだ。何かあっても、すぐに切り捨てられて終わる!」
「私も反対だよ、トワイライト。あんたがシュハウゼン部長に恩があるのは分かるけど、だからって奴の言いなりになっていいわけないでしょ。あんたはただ利用されてるだけ。もし危機に巻き込まれたとしても、シュハウゼンはきっとあんたを助けないよ。見て見ぬふりをされて終わる」
エンヴィスの言葉を補うように、レンキも話しかけてくる。彼の言い分の方がまだ、理性的であると言えるだろう。とはいえ、それもまた彼の私見が大いに反映された意見だったが。
「ですが、後手に回る方が愚策では?」
どこに反論すべきかやや迷いながらも、トワイライトは口を開く。そして、鋭い冷静な視線で、彼らを射抜いた。
「このまま何もせずにいたら、いずれ我々の身にも危険が及ぶでしょう。これだけ有力な証拠を警察部門に握られたとあっては、彼らも黙っていますまい。何としてでも隠蔽しようと、襲いかかってくるはずです。相手はインペリアル・ロードの子飼い。どんな手段を使ってくるか、分かったものではありませんぞ?その前に、こちらから動くというのは、悪い策ではないと思いますがねぇ」
彼の話を聞きながら、カーリは己の心がきゅっと収縮するのを感じていた。自分のせいで、仕事仲間たちが危険な状況に陥ってしまったのだ。こんなことになるならば、ボール・アイを救わなければよかったのだろうか。今からでも手放すべきなのか。言い出すのを迷っている内に、トワイライトは言葉を次いでいた。
「確かに、危険がないとは言い切れません。違法な実験を平気でやり遂げるような悪魔たちに、我々は接触しなければならないわけですからな。しかし、どちらがより安全かという視点で見れば、こちらの方がまだマシと言えるでしょう」
先回り出来るという時点で、かなり有利な立場にいることは明白。正論に納得しかけているレンキに、トワイライトは最後の切り札を切る。
「何かが起こってから動くのでは、遅い。ほんの少しの遅れが、致命的な結果を招く場合だってあるのです。そうなったら、二度と取り返しはつきません。あなたならよくご存知でしょう、レンキさん」
「っ!トワイライトさん」
それは流石にまずいと、エンヴィスが顔を引き攣らせて諌めようとする。だが、既にレンキは、苦虫を大量に噛み潰したような酷い顔をしていた。一瞬だけ、暗く、苛烈な憤怒がトワイライトを睨む。まるで、最も触れられたくないところを、無遠慮に土足で踏み込まれたかのようだ。何がそこまで彼を刺激したのか、カーリは不思議に思う。しかし、その正体を考察する前に、レンキはいつもの澄ました表情に戻ってしまっていた。
「……分かった。もういい。勝手にすれば」
意識して低められたような声音は、激しく突き上げる感情を無理矢理抑え込んでいるかのようだった。ツンと顎を上げていても、頬の筋肉がひくついているのが分かる。必死になって己を取り繕っていることが、明らかな態度だ。
「忠告はした。あんたたちはそれを聞き入れなかった。あんたたちが全部悪いんだから。私は関係ない。もし何かあっても、私を巻き込まないでちょうだい」
誤魔化しきれてないことを自覚していたのか、レンキは早々と話を切り上げると、素早く踵を返してしまった。
「仕事が残ってるから、戻るわ。あんたたちに付き合ってたおかげで、通常の業務がほとんど回ってないの。じゃあね」
そのまま足早に去っていくレンキを、エンヴィスは苦々しい顔で見送る。そして深い溜め息をつきながら、トワイライトに話しかけた。
「トワイライトさん……流石にあれは」
「ははは、少しやり過ぎたかな。強引だったね」
手酷いやり口だと言外に彼を責めれば、トワイライトは冗談めかして苦笑する。彼があそこまで、レンキの地雷を踏み抜くとは珍しかった。しかしそれほど、今回の件に乗り気であるということなのだろう。エンヴィスにはそれが、理解出来ない。
「何故、そこまで捜査協力に拘るんです。刑事部に任せておけばいいでしょう。それほど、あの刑事部長に弱みを握られるのが嫌なんですか?」
トワイライトとシュハウゼンは、かなり長い付き合いのはずだ。軍人上がりのトワイライトを、何かと面倒見てくれた上司だと聞いている。であれば彼を信頼して、一任してしまえばいいはずだ。わざわざ自分たちが、現場に赴く必要はない。それとも、シュハウゼンのことを信じていないのか。あるいは借りを作ることを嫌がっているのか。
「まぁ、それもあるにはあるが……そんなんじゃないよ」
言い募るエンヴィスに、しかしトワイライトは、否定とも肯定ともつかない返答をするだけだった。
「我々がボール・アイくんと出会ったことは、隠しようのない事実だ。どんなに秘密にしても、必ずどこかから情報は漏れる。過去は、変えられないからね。しかしその過去に、現在や、未来を邪魔されることだけは、避けなくてはならない」
だが、続くトワイライトの言葉は尤もなもので、エンヴィスは自然と頷いていた。あれだけ大きな騒ぎを起こしたのだ。報告書では上手く誤魔化せても、悪魔たちの口は塞げない。キメラたるボール・アイの存在がある限り、陰謀の影からは逃れ得ないだろう。インペリアル・ロードの違法行為の証拠なのだ。追手はどこまでも付き纏ってくるに違いない。
「我々の生活は、我々自身の手で守らなくては。力を貸してくれるだろう?」
「……分かりました」
トワイライトの言葉には、他に道はない、という脅しのようなニュアンスがはっきりと含まれていた。これにはエンヴィスも、大人しく従うしかなかった。戦うしか、生き延びる策はない。トワイライトのその意見に、反論する理由はなかった。
それに、彼は決して、部下である自分たちに不利益をもたらすようなことはしない。エンヴィスはそう信じていた。ただ理由だけが気にかかるだけで。
「トワイライトさん……!」
腹を括ったエンヴィスの隣で、カーリだけは現実を受け止められずに呆然としていた。
「すっ、すみません……私のせいで」
安易な行動の結果が、皆に回避出来ない危機をもたらした。その事実だけが、ずしんと重くのしかかっている。罪悪感と後悔とで、押し潰されそうだ。
「君のせいじゃないさ。むしろ君のおかげで、刑事部は未解決の案件に片が付けられるかも知れないんだからね。感謝していると思うよ?」
「でもっ、そのために、トワイライトさんたちを巻き込んでっ!」
泣き出しそうに顔を歪める彼女に、トワイライトは優しげな声をかける。だが、カーリは納得しない。
「私の、自分勝手な行動のせいで、皆さんにご迷惑を」
「君のためじゃない。私たちのためだよ」
自分を責めることを止めようとしないカーリに、トワイライトは先ほどよりやや強い口調で宥めた。彼女の言葉を遮り、大袈裟な身振りで周囲を示す。
「君の友達を救えば、君の心も救われる。君には元気でいてもらわないと、私たちの仕事が増えるからね。つまり私は、自分のために、行動しただけなのさ」
トワイライトの弁舌は続く。わざとらしい悪ぶった笑顔で続ける彼に、カーリは我を忘れたように見入った。
「それに、これは何より、ボール・アイくんのためだ。誰だって、自分の正体が掴めないのは不安だろう。君だって、それはよく分かっているはずじゃないのか?」
胸元に向けられた指先と、放たれた言葉。それはカーリの衣服と皮膚を通過して、直接心の底に突き刺さるようだった。精神の奥深くに、あの時味わった、苦い思いが込み上げてくる。
(そうだ、ボール・アイは今、あの時の私と同じ状況にいるんだ。私を同じ、苦しみを経験している……)
過去の自分と全く同じ思いを、今まさにボール・アイは体験している。カーリにとって、地獄よりも地獄だったあの経験。二度としたくない、あの辛い思いを。
「助けてやろう、彼を。君の、友達をさ」
救いたい、と思うことは、偽善なのだろうか。ヒーローを気取って、出来もしない難題解決に乗り出していることに、なるのだろうか。
否、それでも構わなかった。何故なら、彼女は一人じゃない。理解して、認め合って、支え合っていける相手がいる。孤独以外の仲間がいるだけで、カーリは己が強くなった気ような気がしていた。揺らいでいた心が安定し、自信が湧いてくる。単純かも知れない。しかし、カーリには、大事なことなのだ。一人では、己の意志を貫こうとしても、邪魔をしてくる連中に抗えなかった。だが、理解し助けてくれる協力者がいれば、戦える。トワイライトたちは、まさにカーリにとって理想的な存在だった。
「……はいっ!」
大きく頷いて、トワイライトの目を見る。視線を返してくるトワイライトは、相変わらず奥底が知れなかったけれど、しかしどこか安心出来た。己の胸中を覗かれていると不安になる一方、他人に言えない本心まで見透かしてくれているようで、安堵する感覚。こんな感情、きっと誰に言っても分かってもらえないだろうけれど。
カーリの納得したという反応を確認すると、トワイライトはくるりと背を向け、綺麗になったばかりのデスクに戻る。
「よし、では、具体的な計画を考案するとしようか。我々で草案を作って、刑事部で詳細を詰めれば、抜かりないだろう」
「了解です」
「やったー!よぉ~っし、やるぞ~!」
覚悟を決めた様子のエンヴィスが返答するのと同時に、レディがやる気に満ちた声色で両の拳を突き上げた。
「おいおい……張り切り過ぎだろ、レディ」
「だって!エンちゃんだって、許せないでしょ!?こ~んな可愛い子に、非道な実験してたマッド共のことなんて!」
呆れ顔で宥めるエンヴィスに、彼女は柳眉を吊り上げた怒りの表情を作ってみせた。
「ま、まぁ、そうだが……」
「大丈夫、ボール・アイ!あんたを苦しめた奴らなんて、アタシが全部ぶっ飛ばしてやるからね!」
「レディちゃん……」
あまりの剣幕にたじたじとなるエンヴィス。しかし幸運なことに、レディはすぐに彼から目を離すと、ボール・アイに向かって話しかけていた。頼もしい言葉を、カーリは嬉しさと心配が混じった複雑な表情で受け止める。すると、それまで黙っていたボール・アイが、おもむろに口を開いた。
「ありがとう、皆。カーリも」
きっと彼はまだ、強い不安の中にいるだろう。ここにいる4人とは、出会ったばかりなのだ。顔と名前を知っているだけで、性格や素性などほとんど何も知らない。全くの他人で、それ以前にそもそも、他種族だ。そんな者たちと、己を苦しめた原点に戻るなんて、心細いに決まっている。しかし彼は、自分を大切にしてくれる人たちの気概に応え、共に戦おうとしているのだ。己の闇に、向き合おうとする気丈な彼を、カーリはじっと見つめた。
「頑張ろうね、ボール・アイ」
ぐにょぐにょとした軟体を抱き上げ、言い聞かせるように囁く。何より、自分の背中を押すための言葉だったが、ボール・アイは元気そうに目を輝かせて頷いた。
「うん!」
* * *
その日の夜のこと。
帰宅したカーリは、ダイニングテーブルに着くなり、深々と溜め息を漏らす。今日ほど長く残業したのは、久しぶりだ。トワイライトとエンヴィスが抜けた分の仕事を、レディとたった二人で回すのは、中々にハードだった。とはいえ、この時間で帰れただけ、まだマシなのかも知れない。トワイライトたちはきっと、今も刑事部で最終調整に追われているだろうから。
(いくら何でも、即日決行って、ちょっと強引過ぎだよね……)
シュハウゼンとかいう名の刑事部長は、かなり奇怪な人物のようだ。流石、トワイライトの上司というべきだろうか。だが、それだけこの事件に執着しているということの表れでもあるのだろう。だから、他の悪魔たちも異議を唱えなかった。刑事たちの本懐が叶うのだから、喜ぶべきことなのだ。ボール・アイの抱える問題も、すぐに解決するということなのだし。
(でも、やっぱり心配だなぁ……)
即席の計画が、どこまで通用するのだろうか。強くなっていく不安を抑え込みながら、カーリは半ば単純作業のように、買ってきた夕食を口に運ぶ。濃く重い疲労が、体の奥底にへばりついていて、自炊をする気力もなかった。健康には悪いと思いつつ、しかし今日ぐらいはいいだろうと自分に言い聞かせる。向かいの席では、ボール・アイがもそもそと枝豆サラダを咀嚼していた。
何やら、落ち込んでいる様子だ。粘液の流れが途切れて現れる表情が、あまり明るさを持っていないようなのは、スライムを見慣れていないカーリにも分かった。
「ボール・アイ、大丈夫?」
「えっ!?あっ、うん!大丈夫!大丈夫だよ!」
そっと尋ねれば、彼は驚いて、潰れかけていた球形の体をぽよんと跳ねさせた。
「僕は大丈夫!大丈夫だから……」
早口で捲し立てていたかと思えば、今度は自分自身に言い聞かせるような、静かな調子で話し始める。大丈夫ではないことが、簡単に分かる反応だった。
「ボール・アイ……」
あまりに異様な様子に、カーリは心配になって彼の名前を呼ぶ。すると再びボール・アイは、焦ったような口調で捲し立ててきた。
「あっ、あのねっ?あ、朝のことは、本当にごめん。ごめんなさい。だけど、あの時は、僕もちょっと驚いちゃってて。暴れるつもりじゃなかったんだ!でも、あのトワイライトって悪魔の人見たら、何だか、怖くなっちゃって……」
そしてまた、喋っている内に気分が沈んで、元々覇気のなかった表情を一層暗くした。
「カーリ、僕、やっぱり怖いよ。きちんと向き合わなきゃいけないって、分かるんだけど、でも……そうしなきゃって、思えば思うほど、僕、怖くて……」
ボール・アイにとって、自分の出自を調べることが出来るのは、嬉しいことだった。嬉しかったのだけれど。
脳裏に、かつて受けてきた残虐な仕打ちの数々が蘇る。思い出さなければ苦しむこともないと分かっているのに、記憶というのは厄介なもので、忘れようと努めれば努めるほど、向こうの方から襲ってくるらしかった。まるで、忘却など許さないと言わんばかりに。
頭の中にこびりついた過去が、今もボール・アイを苦しめる。現実を見なければと思うほど、過去に引きずられてしまうのだ。齢3歳のこのスライムに、それを止める方法が、分かるはずもない。
「カーリ、僕……これから、どうしたらいいと思う?」
唯一無二の友人である、カーリに助けを求めるのは、ごく自然なことであった。
「分からない……正直、私にも、何が何だかよく分かってないんだよね」
「そ、そーだよね……」
しかし、いくら信用のおける友人と言えども、所詮は他人だ。カーリはどう答えていいか分からずに、曖昧な答えを返すしか出来ない。それを聞いたボール・アイは、一層陰鬱とした表情を浮かべた。
何だか、こんな風に話をしていると、彼はまるでスライムには見えない。姿はスライムのそれをしていても、悪魔や人間と同じように、考え感じ喋ることが出来る。言葉を持たない動物相手だと思っていたけれど、その知能や感受性は悪魔、そして人間の子供に近いと言えよう。カーリは己の中での認識が変質していくのを悟った。
「……ね、ねぇ、カーリはあった?その、何て言うか……怖いこと」
しばらくして、ボール・アイが再び口を開いた。基本的に明るく、他人と話すことを厭わない彼だからこその行動だと、カーリは思う。他人にあまり興味がない自分は、特別親しい相手以外とは、積極的な会話を望まない。きっと自分がボール・アイの立場だったら、自分の欲しい返答を得られなかった時点で、話すのを止めてしまっていただろうと。
「うん。あったよ」
その違いはともかくとして、今は聞かれたことに答えておかねばならない。幸いにして、ボール・アイからの質問は、さほど難しいものではなかった。カーリはあっさりと、特に考えることもなく、頷く。
「えっ!?」
ボール・アイの思い切り驚いた声が、静かな室内に響き渡った。それほどカーリの発言が、意外だったからだ。彼女はいつも穏やかで、優しい。静かだけれど平穏な毎日を、幸せに生きていると思っていたのだ。悩みや、不安なんかとは無縁のタイプだと信じていた。それなのに。
こんなにも簡単に、まるで何でもないことであるかのように、平然と肯定するなんて。とても本当のことだとは思えなかった。思いたくなかった。
悪魔とは、心の中身と外見とを、完璧に分けられる生物だなんて。
「あったから、言ったの。トワイライトさんたちは信頼出来るって。私も、助けてもらったことがあるから」
ボール・アイの恐慌に近い感情には気付かずに、カーリは淡々と話し続ける。だが、トワイライトの名前を口にしたあたりから、変化が現れ始める。世間話をするようだった平坦な口調が、大切な思い出に浸るかのような、温かみのある音となっている。
「私もボール・アイと同じだった。怖いことに、自分の力で立ち向かえずに、絶望してた。でも、そんな私に、トワイライトさんは力を貸してくれたの」
カーリは語りながら、過去の一時に思いを馳せる。白い部屋で蹲る自分と、そこに手を差し伸べる男のシルエット。
『私の部下になってくれないか?』
あの時の言葉は、今でも忘れない。まるで、自分が物語の登場人物にでもなったかのような気分だった。生まれて初めて、求めていたものが与えられる感覚。壊れかけた心が、救われた。
「あの人に私は、救ってもらったの。それまで私の周りには、私がどれだけ苦しんでても、手を貸すどころか、財布や傘を奪っていくような連中ばかりだった。でも、トワイライトさんだけは、私に味方してくれた」
カーリはただ助けてくれる人が、相談に乗ってくれる相手が、必要だっただけなのだ。簡単に思えるがそれは、彼女の生きていた社会では、稀有なる存在。だから誰にも言えず、一人で抱えるしかなかった。言葉にすることも憚られて。
しかしトワイライトは、カーリのその気持ちを見抜き、そして叶えてくれた。彼のおかげで、今の彼女がここにいると言っても過言ではないのだ。
「か、カーリがそんなに怖かったことって、何なの……?」
何故、彼女は若干誇らしさすら感じられるような口調で話すのだろうか。理解出来ないカーリの様子に戸惑いつつ、ボール・アイは好奇心に駆られておずおずと尋ねた。
「前にね、私、自分がどっちつかずの半端な存在なんじゃないかって思うことがあるって、話したでしょ?」
ようやく、カーリの口調が深刻な過去を語るに相応しいものとなってくる。
「うん。でも、どうして?」
「私はね……昔は、人間だったの」
彼女のその言葉に、ボール・アイは咄嗟の返しが思い浮かばなかった。あまりに驚きが強いと、思考が停止するものなのだと、初めて学ぶ。
「あ、正確にはね、人間として育てられた、って言った方が正しいかな?」
ボール・アイが固まっていることをどう解釈したのか、カーリは小首を傾げながら補った。また、取り留めもない話をするような口調に戻っている。
かと思えば、彼女は再び、真剣な声音を出して語り始めた。
「私の両親はね、脱界者だった。知ってる?脱界者っていうのは、政府の許可を取らずに、勝手に人間界に行った悪魔たちのこと。つまり、犯罪者」
脱界者については、エンヴィスから事前に説明を受けていた。カーリたちが残業に追われている間、休憩を取りにきた彼が、簡単に説明してくれたのだ。尤も、彼も忙しかったようで、本当に簡潔にしか教えてもらっていないが。
そこで、脱界という行為は重罪なのだと知った。そして、カーリたちはそれらを取り締まる仕事なのだと。
つまり、カーリは犯罪者の子を自称しながら、両親と同じ罪を犯した者たちを追っているということになる。何だか、信じられなかった。
「私も、詳しいことはあまり知らないんだけどね……」
カーリはそう前置きをして、続きを話す。何もない空間に視線を向け、ボール・アイに聞かせるというよりも、独り言ちるように呟いた。
「私の父と母は、平凡な低級悪魔だった……」
* * *
カーリの両親は、平凡な低級悪魔だった。魔界のごく一部に存在する、スラムと呼ばれる街の住人たちだ。
人間界に、差別や貧困、環境汚染などの諸問題があるように、魔界もいくつかの厄介な課題を抱えている。それは、インペラトルやインペリアル・ロードを始めとする権力者たちにも、簡単に解決することの出来ない難題だ。
その内の一つが、暗黒街と呼ばれる不法居住地の存在であった。何もなかった場所に、何らかの理由で普通の社会では暮らせなくなってしまった悪魔たちが、勝手に住み着き街を作った。当然、そこには魔界府による福祉やサービスの手は入らない。だからいつまで経っても治安は最低で、どれだけ頑張っても貧困から脱出することは出来なかった。しかし他に行き場のない住人たちにとっては、決して離れられない地でもあった。
カーリの両親も、そんな地獄の中の地獄で、少しでも楽な生活を求めてもがく悪魔の一人だったと思われる。
当時、彼らの中の流行は、脱界による一攫千金を夢見ることだった。魔界を離れ、人間界にて、新たな人生を歩み出す。人間たちで言うところの、アメリカン・ドリームのようなものだろう。別の場所で成功を収められれば、以前の凄惨な暮らしなど忘れて、自由に生きることが出来る。貧しい悪魔たちは皆その夢に、憧れた。
しかし、世界と世界の境界線を越えるという行為は、非常に繊細で、複雑なもの。厳正な審査を通過した悪魔にしか、許可は降りない。不法居住者であり、明日の食事にも困窮するような生活を送る彼らには、到底叶わぬことだった。あくまでも、夢のままということだ。だから誰もが、脱界という違法手段に飛びついた。マフィアなどの裏組織が提供しているその方法でなら、許可がなくとも、職がなくとも、人間界へと行くことが可能だから。
カーリの両親は、必死で金を溜めた。魔界では上手く行かない人生を、人間界という別の世界で、やり直そうとしたのだ。成功し、大金持ちになって、一生涯何不自由ない生活をする。そんな夢を見て、人間界へと脱界した。
けれどそう簡単に、人生というものは、変えられない。
カーリを妊娠していることが発覚したのは、脱界が無事成功した、直後のことだったと予想される。
脱界者の暮らしというのは、スラムの住民たちが思っているほど、気楽ではなかった。常に警察部門の追手に怯えながら、己の正体を隠し、人間と偽って、生きていかねばならないのだ。たとえ生活が安定したとしても、身分を偽る生活は、決して心の休まらぬもの。生まれたばかりの赤子を連れた、学も金もない男女が、歩むことの出来る道ではなかった。
脱界という祝福されぬ手段でも、希望であることは確か。そう自身を納得させながら、苦痛から逃れようとした両親は、幸か不幸か、実の子供の存在によって、再び絶望の底に突き落とされたのである。考え方次第では、カーリは、己の父と母を苦しめたことにもなる。生きているという、ただそれだけの理由で。何とも酷い話だ。
ようやく地獄から解放されたと安堵していた母は、妊娠によってすっかり精神的な安定を失ってしまった。当たり前だろう。彼らは二人共、低級悪魔の中でも特に力の弱い個体。魔法は一切行使出来なかった。角も生えていなかったため、見た目は人間と全く変わりなかったが、しかし子供も同じとは限らない。どれだけ外見は人間に近くとも、種族は完全に別なのだ。人間と深く関わることは危険。つまり、医療機関における妊娠、出産、育児のサポートが受けられないとだけでなく、中絶という選択肢すら、選ぶことが出来なかったのだ。
カーリの母は、誰にも苦しみを相談出来ない中で、それでもどうにかカーリを産み落とした。
産んでしまったのだ。
脱界者が子供を育てるなど無謀。そう思ったカーリの両親は、カーリを捨てることを決断した。かといって、殺すことも気持ち的に難しかったのだろう。幸い、彼女の姿は両親同様、人間のそれと相違ないものだった。否、それこそがあらゆる不幸の始まりだったのかも知れない。
カーリの身柄は、人間の手へと渡された。正確には、すり替えられたのだ。病院にいた、人間の子供と。
深夜、小児病棟に侵入した彼らは、病室で眠る乳幼児たちの中から、最もカーリに見た目の近い子供を選んだ。その子供を取り上げ、自分たちの子供とすり替えたのである。そして人間の子供を、殺した。
他の世界への干渉は禁忌。人間たちに悪魔が関わり過ぎることは、この星そのものの滅亡を招きかねない、危険な行為だ。だからこそ、越境は厳しく管理され、脱界は重罪とされている。その過干渉の最たる例が、殺しである。ましてや、生まれて間もない赤子を殺害したとなれば、決して見逃すことなど出来ない。
近くの河川敷で、人間の赤子の遺体が発見された瞬間に、警察部門における彼らの優先度は最高まで跳ね上がった。損傷が激しかったために、人間たちの捜査はすぐに行き詰まったが、悪魔たちは違った。彼らの所在は即座に明らかになり、速やかに逮捕が行われた。けれども彼らは、どうしてそんなことをしたのか、絶対に口を割らなかったそうだ。自分たちにも子がいて、その子を守るためにしたことだとは、二人とも何があっても言わなかったのである。
結果として、カーリの存在は長い間、誰にも知られることがなかった。人間の子供の両親も、まさか自分たちの実子が既に息絶えているとは、育てているのが他種族の子供だとは、夢にも思わなかっただろう。悪魔の子供には山崎海理という名前が与えられ、人間として生きることを余儀なくされた。
トワイライトという名前の男が現れたのは、彼女が大学生になって数年経ったある日のことであった。
当然、初めは彼の話など信じなかった。信じられるはずもなかった。自分は悪魔。人間ではない種族で、地底の遥か奥深くにある、魔界と呼ばれる世界の住人であることなど。誰が即座に理解出来ようか。
彼女は、人間なのだ。人間として、育てられたのだ。人間たちが持っているのと同等の知識と、常識としか、有していない。ファンタジー作品の一部にしか過ぎないそんな存在のことは、簡単には認められないものだった。
トワイライトに連れられて、魔界に足を踏み入れた時も、同じ感情だった。夢でも見ている気がした。何かとてつもなく高度な技術を用いた、リアルに限りなく近い夢を。だが、実際に体に伝わる感覚は、とても夢とは思えなかった。これは、現実だった。これこそが、彼女が真に、生きるべきだった世界だ。
魔界という、全く新しい別の世界。魔法という、物理法則を捻じ曲げる神秘的な力。悪を美とし、欲望のままに生きるを理想とする、邪悪な悪魔。人間たちは、これを全て知らずに生きている。何とも愚かなことだ。
突きつけられた現実を、拒む術はなかった。受け入れざるを得なかった。そして彼女は、人ではなく、悪魔として生きることを決めた。
もちろん、楽なことではなかった。人間としての価値観や、常識はもはや何も通じない。彼女が今まで必死になって築き上げてきた、アイデンティティーや知的武装といったものは、完全に無意味なものとなってしまったのだ。彼女は心の調子を崩し、しばしの間、魔界府警察部門が監督する病院に入院することとなった。
彼女の処遇についても、様々な議論が交わされた。他世界への干渉は、重大な禁忌だ。海理は生まれてから今までずっと、それを犯していたことになる。果たして、彼女は大罪人なのだろうか。自らの意思で脱界したのではなく、両親に置き去りにされたことが原因だというのに。
詳しい過程はよく分からない。けれど結論として、彼女はあらゆる咎や責任を免れることに成功した。海理の存在は公には発表されず、内々で処理された。人間界にいる育ての親に関しては、記憶操作処理が無事に行われた。彼女の両親は、娘は今もどこかで元気に、人間として生きていると思い込んでいるはずだ。可哀想なことかも知れないが、それが一番、角の立たぬ方法だった。
だが、大変だったのはそれだけではない。彼女の情報は、最小限度の人数によって処理された。といっても当然、警察部門の関係者たちの間では、隠しきれない噂が広がってしまう。彼らの中には、推測や偏見、身勝手な私情に基づいた憎悪を抱く者もいた。罵倒され、暴力を振るわれたこともあったくらいだ。
本来いるべきだったこの魔界でも上手くはやっていけないのかと、絶望した。入退院を繰り返し、しばらくは不安定な時期が続いた。それでもトワイライトとエンヴィス、レディの三人は、彼女から離れていかなかった。室長たるトワイライトが便宜を図ってくれたおかげで、海理は魔界府警察部門の、単独脱界者対策室の協力者という職を手に入れた。いわゆる、非正規雇用の職員だ。そして、海理からカーリと名を改め、新しい人生の第一歩を踏み出したのだった。
* * *
静かな室内に、カーリの訥々とした語り声が響く。
長い長い話を黙って聞いていたボール・アイは、やがておずおずと口を開いた。
「……怖く、なかったの?カーリ……」
小さな粘体の体を震わせながら、そっとカーリを見上げる。
話し疲れた様子の彼女は、乾いた口内を紅茶で潤しつつ、彼に向かって微笑みかけた。
「もちろん、怖かったよ、それは……悪魔たちから嫌がらせされた時は、流石に死にたくなった。今でもね、少し怖い。だって、またあんな目に遭うのは嫌だもの。だから嫌われないように、毎日愛想笑いしてる」
苦笑をこぼしながら、カップをソーサーに戻す。小さくかちゃっという音がして、琥珀色の温かい液体が揺れた。
「私には特別な才能も、魔法の腕もないんだから、せめて愛想良くしなくちゃって……でも、そんなことも上手く出来なくて、無理ばっかりして、ヘラヘラして。ちょっとしたことでトラウマを思い出しちゃうし、何かミスするとすぐ落ち込んじゃう。そんな自分が、嫌いになることもあるよ」
彼女の横顔を、ボール・アイは見つめる。彼女と出会ってから、まだたったの一日とわずかしか経っていない。それなのに、今自分の視界に映る彼女の姿は、昨日とはまるで違っている。こんなにも短い時間の中で、相手への印象がこうも激変するとは、思ってもみなかった。
「……もっと私に、力があったらな……」
そうしたら、自分を傷付ける誰かとも、戦うことが出来るのに。
独り言ちる彼女の声を、ボール・アイは何も言えずに聞いているしか出来ない。
まさか、彼女の中にこれほどまでの、強大かつ暗澹たる闇が広がっているなんて、予想だにしなかった。
だが、それも当然のことだろう。彼女が受けてきた仕打ちは、あまりにも凄惨なものだ。悪魔社会に疎いボール・アイですら、戦慄を禁じ得ない。
しかし彼女は、己の本性を巧みに隠してきた。誰しもが、言われなければ、決して気が付かなかっただろう。果たしてそれが、いいことなのかは分からない。
カーリの内面は、およそ世間一般の悪魔たちとは、似ても似つかぬ状態であろう。歪んでいると、非難されるかも知れない。
けれどそれでも、構わないような気がした。どんなに辛い過去でも、綺麗さっぱり水に流せて、何事もなかったかのように、明るく振る舞える性格の持ち主なんて、数限られている。大事なのはそこではない。
自分なりのやり方で、たとえ正しくなくとも自分自身で選んだ方法を使って、自分に向き合うことだ。そして、そこから新たな自分を作り出すこと。
カーリはそれを達成した。
彼女の抱える闇は、ボール・アイのそれとは、違う。でも、本質的には一緒のはずだ。
彼女なら、自分のことをきっと理解してくれる。理解して、そして尊重してくれる。
ボール・アイはそう、直感した。
「でも、私はそれでも、頑張ってついていこうと思ってるんだ。あの人たち以外、私がついていくべき人はいないよ。だって……前は私の周りには、人間しかいなかった。皆心が貧しくて、卑しくて、卑怯で。何かあればすぐに他人に悪意をぶつけたがる、ゴミクズみたいな人間しか……だけどトワイライトさんたちは違う」
カーリにとってはそれが、トワイライトたちだったということなのだろう。
ボール・アイの脳裏に、嫌な記憶が過ぎる。白い壁と白い天井に包まれた、残酷な思い出が。「私がどんなに馬鹿なことをしても、言っても、あの人たちはいつも笑って、受け止めてくれる。むしろ、悪魔らしくなったなって、褒めてくれるかも知れない。私の心の闇に、寄り添おうとしてくれる。それがねっ、私は凄く、嬉しいの。今までこんなに私のこと、分かってくれて、否定しないでいてくれる人たちに、出会ったことなかったから……」
今までずっと、一人で戦ってきた。暴力に耐え、生にしがみついて、必死の思いで逃げてきた。
でも、もう一人じゃない。
彼女がいる。
彼女を助けてくれた、仲間たちがいる。
「だから、ボール・アイも信じてみてくれないかな?もしも、あの人たちがあなたを傷付けるなら、私が全力であなたを守る。絶対に、あなたを助けるから……だから、もう一度だけ。信じてみよう?きっと誰かが、必ず、手を差し伸べてくれる」
カーリはそう言って、スライムの体を撫でる。ぷるぷると黒い粘液が、手の動きに合わせて揺れた。
波紋のようなそれを見ながら、カーリは思う。
信頼という行為を、かつての自分も恐れた。誰かに何かを求めることほど、苦しいことはないからだ。期待して、もしもそれが裏切られたら。途轍もない精神的ダメージを受けることとなる。何故助けてくれないのかと恨み、出口のない迷路に迷い込んでしまう。信用した自分が悪いのだと、卑下してしまう。
今でさえ、その恐れは抜けていない。自分の力だけで、生きていけたらと願ってしまう。けれど、力のない自分に、出来ることはほとんどない。何かを成し遂げるには、周囲を信じる他に、道はないのだ。
「一緒に、頑張って前に進んでみよう?もし失敗しても、きっと大丈夫。絶対に誰かが、あなたを支えてくれる。あと一回だけ、勇気を出そうよ」
今はこの試練に、飛び込むしかない。
カーリは勇気を振り絞り、そう決意する。たとえ裏切られたとしても、決して後悔はしない。心に新たな傷を負うことも覚悟しながら、信用を決断する。
そうしようと思えたのだ。トワイライトによって、救われたから。あと一回のダメージくらいなら、耐え切れる精神を手に入れた。そして、かつての自分と同じように、現実に絶望し苦痛に塗れているボール・アイのことを、助けてあげたいと感じた。
誰かに力を貸す、余裕を得たのだ。
それは、間違いなくトワイライトのおかげ。
だから昔の彼のように、手を差し伸べることが出来ている。
あの時の彼も、こんな感情を抱えていたのだろうかと、考えながら。
「うん……大丈夫。僕は、カーリを信じるって決めてるから」
彼女の手の温もりを感じながら、ボール・アイはゆっくりと、しかし力強く頷いた。彼女の言葉が、響いたのだ。
「カーリの信じる人を、僕も信じるよ。トワイライトたちのこと、僕も信じる!信じたいんだ!」
「……そっか。ありがとう」
彼にとって、カーリは、雨の中から救い出してくれた、救世主なのだ。その彼女が言うことを、決して疑ったりはしない。彼女が信じてと懇願する相手のことは、ボール・アイも信じたかった。
張りのある元気な声で、宣言する彼のことを、カーリは笑顔で見つめる。細めた目に映る彼の姿は、若干滲んでいた。
* * *
翌る日の朝。カーリとボール・アイは、トワイライトたちと共に、ハデス郊外の住宅地に降り立っていた。
「さて……ここだね」
隣に現れたトワイライトが、眼前に聳える建造物を仰ぎ見る。つられてカーリも、彼の視線を辿るように目を動かした。
それは、例えるならば、いくつかの直方体を組み合わせたような形状。周囲をぐるりとフェンスに取り囲まれた敷地の中に、知育ブロックを乱雑に積み上げたような、不思議な形の建物が、でんと鎮座している。外壁は真っ白に塗り潰され、ところどころに植えられた植物だけが、緑の彩りを放っていた。アスファルトの敷かれた広い道路のそばには、刈り込まれた芝生や、小さな池などが設られていた。
「何か、実験施設とかには見えませんね……美術館みたい」
あまりにも洒落た、人工的なデザイン。
カーリの表現にも納得がいく。
しかし異質なのは、その人気のなさであった。
正門は開かれ、自由な出入りが可能になっているのに、敷地内には誰もいない。駐車場に停まる車の数も、規模に対してあまりにも少なかった。
「生命の気配をまるで感じないな……」
ただならぬ気配を感じて、トワイライトはそう独り言つ。すると横から、エンヴィスが眠そうな声で同意した。
「ですね……ふわぁ~あ……」
「あー、エンちゃん、欠伸してるー!」
「うるさいな。仕方ないだろ。昨日深夜までこの計画詰めてたんだから……」
思わず欠伸を漏らす彼を、ここぞとばかりにレディが指摘する。寝不足で怠い頭に、キンキンと甲高い声をぶつけられて、エンヴィスは嫌そうに眉を顰めた。
「お、お疲れ様です……」
機嫌の悪い彼を刺激しないよう、カーリは声量を控えめにしながら頭を下げる。大変な思いをさせてしまった申し訳なさが、胸にひしひしと押し寄せていた。だが同時に、驚愕の念をも抱く。
今朝渡された捜査計画書は、到底一日で出来上がったとは思えぬ代物だった。刑事部の内情には詳しくないが、かけられている人員も費用も、並大抵のものではないことぐらいは分かる。刑事部長シュハウゼンという男はこれを、昨日だけで計画し、そして実現させた。もちろん、無茶なことはしている。けれども、無茶をしさえすれば、可能なことであったということだ。一体どれほどの権力と実力を持っていれば、そんなことが出来るのだろうと、圧倒的な力に恐怖すら覚えかけた。
「トワイライトさんは、元気そうですね。平気なんですか?」
「あぁ、大丈夫さ。軍政部門にいた頃は、徹夜なんてザラだったからね。別に、これぐらいは全く問題ないよ」
「うへぇ……ブラック」
肩を回しながらエンヴィスが問いかけるが、トワイライトは平然とした態度で笑っている。さらりと昔の過酷な話を引き合いに出されて、エンヴィスは小さく呻いた。そこへ、レディが近寄ってきて話しかける。
「ねぇねぇ、この子潰れちゃったんだけど」
「ん?」
エンヴィスが振り返ると、彼女の腕の中には、抱き締められ振り回されて、目を回したボール・アイが収まっていた。
「きゅう~……」
「あーあー、お前何やってんだ。可哀想だろ」
「え~?だって、気持ちいいんだもーん。むにゅむにゅしてて。エンちゃんも触る?ホラホラ」
「いらなっ、いらないって!おい」
ぐでっと伸びたスライムの体を見て、エンヴィスは呆れた声を出す。しかし、レディは注意されても、反省の色などまるで見せない。それどころか逆に、エンヴィスに彼を無理矢理押し付けてきた。焦りつつも抱えると、レディがはしゃいだ声を上げて、指を差してきた。
「キャー、エンちゃん似合ってるよ!プププ」
「お前……!本当にマジで覚えとけよ……」
にゅるにゅると滑る粘体を苦労して支えている姿が、よほど面白かったようだ。あるいは、単にエンヴィスが魔物と戯れる様子がツボだったのか。スマホのカメラまで向けて揶揄ってくる。わざとらしく笑顔を見せる彼女を、エンヴィスは軽く睨み付けた。
「だ、大丈夫?ボール・アイ……」
「うぅ~ん……大丈夫~」
「諸君、行くぞ。あまり長く立ち止まっていては怪しまれる」
心配したカーリが尋ねかけると、ボール・アイはぼーっとしながらも、体から触手状に粘液を伸ばし、グッジョブサインを見せてきた。どうやら、無事なようだ。
ほっと胸を撫で下ろすカーリの耳に、トワイライトの声が飛び込んでくる。エンヴィスは即座に、真面目な顔を作ると彼に応じた。
「承知しました」
エンヴィスとしては真剣そのものの調子なのだろうが、スライムを抱いていると何だか締まらない。吹き出しかけているレディを、カーリは慌てて押さえた。これ以上は流石に、エンヴィスも黙ってはいないだろうと思ったのだ。
「もう、止めてよカーリ」
「レディちゃんこそ、危険な遊びはしないで……」
コソコソと話し合いながら、トワイライトたちの後をついていく。正門を通り、敷地内に足を踏み入れると、何だか周囲の空気が変わった気がした。
「……?」
「あんまりキョロキョロすんな」
首を回らせて辺りを見回す彼女に、エンヴィスが低く囁きかける。けれどもカーリは、違和感を拭いきれずに問いかけた。
「でも、何ていうか、変な感じしませんか?上手く言えませんけど、その……空気が違うっていうか」
「よく分かるな。結界だよ。監視カメラや赤外線レーザーなんかより、格段に強固な警備システムだ」
「結界……」
確か、防御系魔法の一種だとカーリは思い出す。主に敷地内の監視や警備に使われている、比較的強力な魔法。
「想像してたより、これはちょっとやばいかもな」
「え?」
エンヴィスは思い詰めた顔で、独り言ちた。カーリの困惑した声すら、耳に入っていない。ヒシヒシと伝わってくる、結界の持つ魔力の多さに、肌が鳥肌を立てる。かなり、危険な術式だ。恐らく、防御や監視だけでなく、場合によっては内部の者を攻撃することも可能な仕様になっている。きっと建物内には、これ以上に厳重な警備が敷かれていることだろう。
やはり、この中に潜入など危険過ぎる。何故自分たちが、こんな危険な役目を果たさねばならないのかと、もう何度目かも分からない愚痴が浮かんだ。
可哀想なスライムを助けたいという気持ちがないわけではない。しかしかといって、そのために自ら敵地に飛び込むような真似も、したくはなかった。都合がいい考えだろうか。けれども、考えてみればそうなのである。
別段、自分たちがこの役を引き受けなくても良かったはずだ。刑事部の悪魔たちの中から、精鋭を選出すれば良かった。それなのに現実では、彼らは安全な場所で、ぬくぬくと過ごしているだけ。魔法により姿を隠して、あるいは遠方から監視の目を飛ばして、ただエンヴィスたちのことを見張っているだけだ。一応、万が一の際はすぐに駆けつけると保証はしているが、それだって必ず守られるのかどうかは分からない。我が身可愛さに、見捨てられる可能性だってあるのだ。第一、これほど強固な結界が張られているのでは、監視すらまともに出来ていないかも知れない。もしも魔法が阻害されて、何も見えなくなっているのだとしたら、エンヴィスたちは既に孤立無援の状態となる。そしてそれを、確認する術もない。不用意に通信魔法などを飛ばせば、こちらの正体を勘付かれかねないからだ。命の危機にでも瀕しない限りは、無駄に魔法の行使はしない。それが、今回エンヴィスたちに与えられた命令であった。
で、あるからこそ。この仕事には普段以上の危険性が伴う。絶対に、望んで務めたくはない役割のはずだ。しかし何故、トワイライトは引き受けたのか。いくらシュハウゼンが怜悧狡猾な男だからといって、トワイライトほどの悪魔が、断りきれないということはまずないだろう。こんな、使い捨ての駒のような役目など、拒否することも出来たはずだ。
しかし彼はそれをしなかった。一体どんな理由があってのことなのか、エンヴィスにはまるで分からない。彼のことを信頼している以上、無理に聞き出そうというつもりもなかったが、かといって完全に気にしないでいることも、また出来なかった。それが、性というものだ。
おまけにこちらには、いつ暴走するかも分からない、怪しい生物がいるのだし。
「わぁ……!」
だが当の本人は、エンヴィスの胸中などまるで察していないのだろう。彼の腕の中で、目を輝かせている。ボール・アイのやや意外な反応に訝しみながらも、エンヴィスも同じように辺りを見回す。
彼らが足を踏み入れた、研究所のエントランス。そこは、まさに荘厳で煌びやかといった雰囲気の場所だった。
天井が吹き抜けになったロビーには、観葉植物や椅子が並べられ、目立つ位置に巨大な地球儀の置物が佇んでいる。ぐるぐると回転しているそれの隣には、大きな受付カウンターが据えてあった。やや右に行ったところに、二階へと続く階段が見える。上り口には駅の改札によく似た形のセキュリティシステムが設けられ、その向こうで、白衣を着た悪魔たちが大勢働いていた。まるで、大規模な創薬会社か研究施設のような光景だ。
「なんか、全然怪しくないじゃん?フツーの研究所って感じ」
「シッ!静かにしてろ」
頭の後ろで両腕を組んだレディが、そうぼやく。高い天井に彼女の声が響いて、エンヴィスは慌てた。
「ボール・アイくん、この光景に見覚えは?」
トワイライトが近寄って、ボール・アイに問いかける。唇はさほど動いていないように見えるのに、その声はピンポイントにスライムへと届く。質問されたボール・アイは、粘体を震わせて答えた。
「ん~……僕がいたところは、こんなに綺麗じゃなかったよ?もっと冷たい感じで……こんな場所があったなんて、知らなかった。本当にここに、僕たちはいたのかなぁ?」
「ふむ……」
彼の記憶にある実験施設は、もっと無機質で恐ろしい場所だった。それなのに今目の前に広がる光景は、明るく、活気があって、熱意に溢れているように見える。まるで同じ場所とは思えない。心から、そう思った。
ボール・アイの言葉を、トワイライトは顎に手を当てて反芻する。流石にスライムの表情や本心を読み取る能力に自信はないが、それでも嘘をつかれているのではないことぐらいは、分かった。
ならばこの施設は、彼の出身地ではないというのか。恐らくは、否だ。キメラ創造に取り組めるほど、潤沢な設備と資金を持つ機関。そんなものがそういくつもあるはずはない。中でも、カーリの自宅周辺を起点とした、彼の移動能力の範囲内に収まっている場所となれば、つまりここ以外にはあり得ないだろう。彼はこの場所から、彼女のところまで逃げてきたのだ。
推測ではあるが、ここの職員はほぼ全員、己の職場の本性を知らないのだろう。医療や福祉のための、実験用の魔物を研究する施設として、活動している。その表向きの顔に騙されているのだ。背後にある、非合法かつ残虐な、交配実験のことなど知りもしないに違いない。
ならば、無闇に探りを入れることは無意味だ。真実を把握していそうな、裏の人物に接触しないと。
「とりあえず、行ってみようか」
「えっ?トワイライトさん!?」
しばしの間考え込んだ後、彼は唐突に足を踏み出した。カーリが咄嗟に呼び止めたが、もう遅い。彼は迷いのない足取りで、スタスタと受付の方に向かって行ってしまった。
「ちょっと失礼」
「はい。何でしょう?」
近付くと同時に、声をかける。受付嬢の一人が、立ち上がって応対してきた。黒髪を団子状にまとめた、スレンダーな女性だ。切れ長の瞳は穏やかに細められ、柔和な雰囲気を醸し出している。
「突然で申し訳ない。少々、お願いしたいことがありましてね。こちらで、魔物のDNA鑑定をしていただきたいのですが」
「申し訳ございません。当施設ではそういったサービスは提供しておりません」
トワイライトが話しかけると、女性は滑らかな口調で詫びを入れた。礼儀正しい対応を貫いているが、内心では一刻も早く部外者を追い返したい気持ちで一杯なのだろう。隣の女性などは、警備員を呼ぼうと内線電話に手を伸ばしている。残念だが、ここで追い払われるわけにはいかない。
くるりと後ろを振り返ったトワイライトは、エンヴィスに目配せする。何かを察した彼が、カーリにスライムを渡し、トワイライトのところへ行くよう促した。背中を押された彼女が、不思議そうな顔をしながらもやってくる。トワイライトはカーリを隣に立たせ、彼女が抱えたボール・アイを、受付に見えるように持ち上げさせた。
「お手数ですが」
「この子なんですけど」
何かを口にしかけた彼女の言葉を遮り、スライムを見せつける。ボール・アイの黒い体が、ぷるんぷるんと波打った。
「!!」
彼の姿を一目見た瞬間、女性は声をなくして、その場に棒立ちになる。他の受付嬢たちも、目の色を変えて、ヒソヒソと何事かを囁き合っていた。周囲を行き交う悪魔たちからも、奇異の眼差しが寄越される。カーリは何だか気まずくて、ボール・アイをぎゅっと強く抱いた。
しかしトワイライトは、それらを一瞥だけすると無視を決め込んで、平然と話を続ける。
「いや~、先日、娘が拾ってきましてねぇ。見ての通り、黒いでしょう?黒いスライムなんて、初めて見たものですからビックリしちゃって!魔物病院の先生も、詳しく調べた方がいいって仰るもんですから、たまたま近所にあったこちらに、お願いしてみようかなと」
流暢に喋りながら、カーリの存在をアピールし、またエンヴィスたちの方へ振り返って嘘を補強した。医師と紹介されたエンヴィスが、メガネの縁を押し上げながら、きりりとした顔つきをしてみせる。隣ではレディが、助手だと意気込んでふんぞり返っていた。エンヴィスは思わず呆れて溜め息をついた。
「それでこちらに」
「失礼ですが、どこでこの魔物を?お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
再び女性に向き直ったトワイライトの声を、今度は女性が遮る。先ほどとは逆の構図だ。
彼女はかなり動転しているのか、全く繋がらない二つの質問を、上擦った声音で投げかけてきた。尋ねられたトワイライトは、黒い気配が滲み出るような笑顔を一瞬だけ浮かべた後、すぐにいつもの仮面を取り戻す。愛想の良い紳士が、優雅に微笑んだ。
「これは申し遅れました。トワイライトと申します」
「か、かしこまりました。今、担当者を呼びますので、少々お待ちください」
受付嬢はやや焦りながらも必死に取り繕って、早口に告げてくる。その言葉を聞くなり、トワイライトは伏せていた目をすっと上げて、彼女の顔を見返した。
「おや?よろしいんですかな……?」
低い声でわざとらしく、脅すように問いかける。何かただならぬものを感じたのか、女性の頬に冷や汗が伝った。
「ははは、これは失礼を致しましたな。そちらが鑑定をしてくださるというのなら、必要以上の確認はすべきでない……」
彼女の心境を読み取ったのか、トワイライトは打って変わった様子で、朗らかに笑う。だがそこにも、どこか冷徹な調子が感じられて、カーリは少し恐ろしくなった。
「では、こちらで待たせていただきます」
トワイライトが素早く話を切り上げて、カーリたちのもとに戻ってくる。彼のことをじぃっと見つめるボール・アイの視線に気付くと、宥めるように頭を撫でた。
「……やはり、君はここで生まれ育ったようだね。あの反応からするに、まず間違いはないだろう」
先ほど同様、声を潜めながら、話しかける。その様子はいつものトワイライトだ。カーリはほっと安堵の息をついて、彼に問いかけた。
「それで、どうするんですか?これから。担当者が来るって言ってましたけど」
「そうだねぇ……とりあえず、話を聞く他にないと思うけど」
鼻から軽く息を吐き、彼はのんびりと呟く。呑気なことを言っていていいのかと、エンヴィスは口を挟もうとした。その時だ。
「!」
何か違和感を感じて、背後を振り返る。気が付くと、ロビーにいた悪魔たちが、誰一人としていなくなっていた。さっきまで言葉を交わしていた、受付嬢たちもだ。
この位置から、彼らの移動を見逃すはずはないのに。少し意識が逸れただけで、全員いなくなっている。常識的にあり得ない現象。つまりは、何らかの異常が起きているということだ。
「トワイライトさん」
警戒心のままに、トワイライトの名を小声で呼ぶ。彼はまるで、全て分かりきっているような口調で、冷静に頷いた。
「あぁ……来たか」
彼の声が、誰もいなくなったロビーにこぼれ落ちた直後である。
プシューと音を立てて、どこから煙が噴き出してきた。コメディショーで使われるような、人工的な白い煙だ。それはあっという間に辺り一帯を覆い尽くし、トワイライトたちを包み込んでしまう。視界が乳白色に染められ、カーリとレディは困惑の声を発した。
「うわっ!」
「何っ!?」
「おい、大丈夫か!?」
よたよたとよろけた彼女たちのどちらかが、エンヴィスの肩に衝突する。咄嗟に手を伸ばすが、何も掴むことが出来なかった。何故かと訝しんでいる内に、立ち込めていた煙が、徐々に晴れてきた。少しずつ、視界が開けて周囲の様子が見えてくる。突然、白一色だったエンヴィスの目の前に巨大な脳みそのようなものが現れた。
「うぉお!!びっっっくりしたーーー!!!」
思わず大声を上げて、驚愕を露わにする。心臓が、一瞬胸郭から飛び出したのではないかと思うほどだった。幸い肋骨の中に収まったままのそれは、バクバクと凄まじい速さで暴れ、血液を打ち出している。
「えっ?え?……は?」
ぶわりと汗を吹き出させながら、エンヴィスは当惑に満ちた呟きを発した。
彼の眼前には、薄緑色の液体に漬けられた脳みそが、でんと佇んでいる。それは彼の身長と同じほどの高さの棚に納められており、他の段には目玉や謎の骨などの入ったビンが並べられていた。
「何だよこれ……趣味悪ぃな」
ビビり散らかした自分を誤魔化すように、悪態を声に出す。彼が立っているのは、病院のCT操作室に似た作りの、狭い部屋だった。壁際に備え付けられたテーブルの上に、モニターやらキーボードやら、使い方の分からない謎の機械がひしめいている。反対側の壁には例の趣味の悪い棚が置かれ、左手にあるドアには鍵がかかっていた。エンヴィスはドアノブをがちゃがちゃと捻り、小さく舌打ちをする。
「ったく、何だってんだ……」
ぶちぶちと誰に聞こえることもない文句を垂れながら、ぐるりと室内を見渡した。
当然ながら、移動をした記憶はない。ロビーで、来ると言われた担当者とやらを待っていたら、いきなり煙に巻かれた。そして気が付いたらここにいたのだ。間違いなく、魔法的な力によるものであろう。
しかしあれは、転移魔法ではなかった。脱界者取締部として、断言出来る。転移魔法で転移をする際には、独特の視界の乱れと、強い魔力反応が生じるのだ。だが今回は、それがなかった。感覚的な話にしか過ぎないが、人間界に行く度に、何度も繰り返し経験してきたことだ。もはや体に染み付いてさえいる。決して、侮ることは出来ない。
つまり、先ほどエンヴィスたちが受けたのは、転移魔法ではないということ。では、何なのか。考えるまでもなかった。
(……空間編成)
時空系魔法の一つ、空間編成魔法と呼ばれる魔法に違いない。
時空系魔法とは、その名の通り、時間や空間を改変する魔法のことである。転移魔法も然り、トワイライトが使う、物体浮遊の魔法も然りだ。だが当然、時の流れや空間の広がりに干渉することは、途方もない危険を孕む行為。失敗をすれば、魔界だけでなく地球全体に、取り返しのつかない大ダメージを与える可能性がある。
だから魔界府は、時空系魔法の中のいくつかの魔法を、特別な許可がなければ使用出来ない”制限付き魔法”と定めた。その代表例が、空間編成だ。指定された空間内を、パズルのように並び替え、あるいは組み替えて、自在に変化させる魔法。
エンヴィスたちはそれによって、強制的に移動させられたというわけなのだ。
だがこの施設について調べ上げた時には、制限付き魔法の使用許可などは降りていなかった。つまり、これはれっきとした違法行為。研究施設の疑惑は、証明されたことになる。
だが、問題はそこではない。
そもそも空間編成魔法とは、時空系魔法の中でもかなり高度なものである。三次元的空間を、立体的に把握し巧妙に操作しなければならないのだから、当たり前のことだ。要するに、非常に洗練された技術と、膨大な魔力が不可欠なのである。よって現在の魔界において、空間編成魔法はほとんど行使されることがない。許可云々の前に、魔法を使える者が限られてくるためだ。だが、ここにはその魔法を行使出来る悪魔がいる。それだけの力と知識を持った、超級の危険人物が。
「……クソッ。だから言ったじゃねぇか……!!」
エンヴィスは頭を抱え、悶絶した。
やはり、トワイライトの提案に乗るべきではなかった。彼に賛成していなければ、こんな目には遭わないで済んだのに。いい加減、彼を信頼するのを止めたくなる。尤も、今はそんなことを考えている場合ではないが。
何しろ相手は、戦意を誇示してきている。空間編成という高度な魔法を、実際に体験させて知らしめることで、挑発しているのだ。あるいは、脅しかも知れない。お前たちのことなんて、簡単に潰せるのだぞ、と。
「くそ……っ!」
(あいつらが危ない……何とかしないと)
自分は、多少の圧力や暴力には屈しない自信がある。けれども、彼女たちは違う。己の身を守ることも覚束ない彼女たちは。
焦燥に駆られるまま、忙しなく辺りを見回す。ふと、目の前にかけられた、ブラインドに気がついた。モニターやらが並べられているテーブルの上に、黒色のそれが垂れ下がっている。スラットが完全に閉じていて、向こう側を見ることは出来ないが、しかし壁ということはないだろう。必ず、窓があるはずだと信じて、エンヴィスは操作ポールを回した。
「な……ッ!?」
直後、奥に広がる光景を見て、瞠目する。意識するまでもなく、勝手に声が出ていた。
「カーリッ!!」
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