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復讐の天使 〜後編〜

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「あぁもう、どこだ……っ!?」
 荒廃した街の中を、エンヴィスは駆ける。先程から、己の上司へ向けて魔法の通信を飛ばしているのだが、全く通じない。聖なる魔力の、対抗力のせいだ。残存する天使の魔力が、悪魔たちの闇の力に干渉し、辺り一帯の魔法的通信を阻害しているのだ。そうなると、通信魔法はおろか、電子機器すらまともに機能しなくなる。悪魔たちの使う携帯電話やタブレット端末は、全て魔導科学、つまり魔界ならではの最新技術が組み込まれているからだ。天使の魔力に刺激され、あらゆる通信技術がその機能を停止している。企業の持つ巨大なコンピューターサーバーなどは、ショートを起こし火事を生み出したのか、街のあちこちから火の手が上がっていた。
 大地震にでも襲われた後のような光景を横目に見ながら、エンヴィスは舌打ちをした。一体、天使など、どうしてやってくるのだ。
 悪魔たちを簡単に殺すことの出来る恐ろしい天使。しかし、最も恐るべきは、その強さではない。彼らは、徹底した正義感と倫理観にその思考回路を染められている。つまり、悪は滅ぼすべきもの、と一般常識の如く信じ込んでしまっているのだ。そして、彼らから見ると、悪魔とは、生まれつき闇の力を持った悪の存在。そんな連中を屠ることに、躊躇や罪悪感など覚えない。悪魔とは生きているだけで罪深いもの。存在するだけで敵だと、本気で思っているのである。
 あまりにも酷い理不尽だ。こんなことがあっていいのかと、悪魔たちは幾度も反発し、天使に対抗する術を模索してきた。しかし、悪魔たちの憎しみが増せば増すほど、天使の敵意も強くなる。そうやって、両者は長い間醜い争いを続けてきたのだ。互いに、どちらも悪くないと主張して。
 愚かしいことではある。だが、悪魔だからと、正義に反する存在だからと、その理由だけで、即座に殺めていい命があるものか。それは早速、ただの迫害であり殺戮である。悪魔たちが意見を翻せないのも、当たり前のことであろう。天使たちは、正義を唱える種族でありながら、自らの罪業に気が付かず、虐殺を繰り返しているのだ。きっと、己の信じる正義について、まともに考えたこともないのだろう。これこそが正しいと、盲目的に従い、傅く。そんな生き物たちに、歩み寄ることなど、今の悪魔たちには許容出来ない。
 天使とは、戦うしかないのだ。種族の抱えた宿命に、悲嘆を抱きながらエンヴィスは走る。トワイライトの安否を、一刻も早く確認するために。
 慌ただしく数ブロック走り抜け、よろめきながら角を曲がる。崩れ落ちたビルの奥には、一際激しく損傷した地帯が広がっていた。強制的に更地にされた空間に、一人トワイライトがぽつんと佇んでいる。
「トワイライトさん!!」
 やっと合流出来たと、エンヴィスはやや安堵し、彼の名を呼ぶ。だが、その足を止める誰かがいた。
「今度は誰かと思えば……この男の知り合いか?」
「ッ!!」
 辺りを爆風が吹き抜け、粉塵と共に瓦礫が散乱する。
 凄まじい勢いと、ピリピリと肌に伝わる嫌な気配に、エンヴィスは顔を歪め立ち止まった。
「次から次へと、本当に、邪魔な連中だ」
 物陰から、一人の男が姿を現す。背の高い、細身の男だった。
 艶やかな金髪が美しく煌めき、海のように青い瞳は、清らかなその色に似合わぬ苛烈な怒りに燃えている。痩躯ながらも筋肉質の体を包むのは、白い布一枚から出来た、古代ギリシャ時代のような服装。腰には革のベルトを巻き、強い魔力を内包した大きな剣を携えている。
 布の隙間から飛び出る、白く大きな翼が、ばさりとはためき空気を揺らした。同時に吹き付ける神聖なその力は、天使でなければあり得ないもの。悪魔の闇に対抗する恐ろしい存在を目の当たりにし、エンヴィスは愕然と息を飲んだ。
「!!天使……!」
 全身が総毛立つ。今や肌を突き刺す光の刺激は、ビリビリとやや痛みまで感じさせるほどに増していた。息を吸う度、肺に流れ込んでくる穢れのない空気が、細胞の一つ一つをチクチクと傷付ける。長時間奴と向き合っていたら、内臓がやられそうだ。
「相変わらず、邪悪な蛆虫どもが多い。反吐が出るな」
「なッ!」
「エンヴィスくん」
 天使は、聖人君子として扱われる存在とは到底思えない、口汚い罵声をエンヴィスに浴びせた。開口一番に貶される理不尽に、エンヴィスは瞠目する。挑発に乗りかけた彼を、トワイライトが静かに咎めた。その声でエンヴィスは我に返り、険しくも冷静な視線を天使に向ける。
 緊迫した空気が辺りに満ちた。
「さて……まずは、一応お聞きしましょうか」
 始めに静寂を打ち破ったのは、トワイライトからだった。
「あなたは、一体何の目的があって、我ら悪魔の都市にやってきたのですかな?」
 いくら本能的に憎み、生理的に嫌悪する存在だとしても、無意味に争うつもりなどない。まずは穏便に話し合いでもしようと、両手を広げて訴えかける。こちらに攻撃の意思はないと示すための動作だったが、天使には効果がないようだった。
「聞くまでもないだろうが。お前ら悪魔はバカなのか?」
 今更何故言葉を交わす必要があるのかと、奴は容赦のない冷徹な視線を向けてくる。あからさまに毒を吐かれて、エンヴィスが苛立つのが分かった。
「もちろん、推測することは出来ますよ」
 交渉においては、感情を見せた方が負けだ。トワイライトは彼を牽制するように、やや前に身を乗り出し、両者の間の射線を遮る。
「我らとて、ただの無能ではございません。わざわざ天使様がご心配なさることではないかと。考えれば分かることですから」
 にこにこと、いつもより大袈裟に演出した笑みを貼り付け、穏やかな調子で話した。とはいっても、侮られたことへの意趣返しは込めておいたが。
「しかし、念の為、確認をしておくことは大事でしょう?一体我らが何をしたのか。何の咎で殺められるのか。それすらも周知されぬまま、ただ命を奪われるのは無体が過ぎる。ご理解いただけますかな?」
 天使は確かに、天敵であり驚異的な相手だ。だがしかし、対天使対策部の軍人でもないトワイライトたちが、今ここで命を賭けて倒すべき敵ではない。彼らが最も優先すべきは、自らの身の安全だ。そのためには、何とかして穏便に会話をし、戦いに発展することを防がねばならない。でなければ、圧倒的な強さを持つ天使に、一方的に蹂躙されることとなるだろう。インペラトルでもない限り、彼らとまともに戦って勝てる悪魔など皆無に等しい。少なくとも、正面から相対することは不可能だ。どれだけ頑張ったとしても、ただ圧倒的な暴力の前に屈服し、蹂躙され、浄化される未来からは逃れ得ないだろう。
 だがもちろん、そんな結末を無抵抗に受け入れることの出来る者など、そうはいない。トワイライトも例に漏れず、どうにかしてこの場を切り抜ける方法を見出すべく、貼り付けた笑顔の裏で優秀な頭脳をフル回転させていた。
「本気で言っているのか……?」
 だが、いくら交渉に長けたトワイライトとはいえ、相手の地雷を完璧に予測して避けて通ることなど出来はしない。不運なことに、何か踏み抜いてはならぬ場所を踏み付けてしまったようだ。天使は声を低めると、怒りに歪んだ顔つきを向けてくる。
「……よく分かった。やはり、お前たちは絶対的な悪だということがな!」
 青い瞳が、般若や鬼のような悍ましい形相が怒号を発した。そこには理性も、冷静さも全く見られない。いっそ暴力的なまでの、憎悪と激怒があるのみだ。
「お前たち悪魔ときたら、自らが犯した罪にも気付かず、ただのうのうと、己の欲望だけを満たして生きている!貴様らが身勝手に生きるただそのためだけに、どれだけの者が苦しみ、涙を流したのかも知らずに!!」
 天使が大声で喚く度、背中の翼がバサバサと風を立てては辺りの建物を揺らす。肌を炙る清らかな刺激に、トワイライトも眉を寄せた。
「私がいるのは、悪を倒すためだ!お前らのような連中に、傷付けられる者を少しでも減らすために!!私は戦っている!!お前たち悪魔を、一刻も早く、根絶やしにするために!!」
 流れが、完全に嫌な方向へ向かっている。素早く直感し、背筋を冷たいものが伝った。
 どうやら、トワイライトの言葉は、天使の逆鱗に触れてしまったらしい。そして、激しやすく感情的な彼は、今まさに激昂して癇癪を起こしている。こうなったらもはや、戦闘は避けられない。実力で相手に分がある以上、全力で戦う他に活路はないだろう。
 交渉は、決裂した。
「私の名はハミエル!復讐の天使!!この私が生きている限りは、決して悪は許さん!!邪悪な存在は滅殺し、必ず正義の鉄槌を下す!!それが、私の、信条だ!!」
 剣を勢いよく引き抜いた天使、ハミエルが、獣が咆哮するように大声で叫ぶ。ジャキン、と嫌な金属音を立てて露わになった剣は、刀身も柄も黄金色に輝いていた。天使が保有するという、聖物の中でも最も有名な、聖剣だ。天使の光の力を極限まで凝縮したアイテムで、大抵の悪魔は刃が掠っただけで重傷を負うらしい。恐ろしい武器である。
「何を言っているんだ、こいつは……」
「エンヴィスくん」
 理解出来ないものを目にし、呆然と声を上げているエンヴィスに、素早く呼びかける。彼は即座に冷静さを取り戻すと、懐から取り出した錫杖をしゃらりと鳴らした。
「仕方ない……やりますか」
「助かるよ。巻き込んでしまってすまないね」
 こんなことになるのならば、タキトゥスを上手く説き伏せて、速やかに撤退すべきだった。
 後悔と共に、己の責任だと謝罪をするが、エンヴィスは意外にも無反応だった。
「こいつに遭った時点で、覚悟は出来てますから」
 憤ることも嘆くこともせず、ただ礼儀正しく返答をして、トワイライトの隣に立つ。
「ははっ、頼もしいことだ」
 部下の気丈な声を、トワイライトはおどけた仕草で茶化した。そして、ふと顔つきを変えると、真剣な声音で、低く命じた。
「死ぬ気でやるぞ。命惜しくばな」
「はっ!」
 張りのある声音で答える彼を横目に、初手から全力で魔法を放つ。周囲の空間に、大量の魔法の剣が作り出された。
 その数は、およそ100本近く。いつも余裕ぶって本気を出さないトワイライトの、本領発揮である。
 錬金系魔法と創造系魔法を組み合わせ、生み出した銀製の剣に、時空系の初歩である物体浮遊を付属させた、オリジナル術式。差し詰め、銀の弾丸ならぬ、銀の刀剣だろうか。
 複雑かつ高度な魔法だが、使い慣れたそれを発動するのに、苦などあるわけがない。尤も、使わずに済むのならそれに越したことはないのだが。
 ともかく、この魔法であれば多少なりとも戦えるはずだ。トワイライトは冷静に、敵の動向を探る。天使ハミエルは、白く大きな翼をはためかせ、彼らめがけて突進してきた。やはりというべきか、そのスピードはえも言われぬものだ。両者の距離がみるみる縮まり、ハミエルの姿はどんどん大きくなっていく。トワイライトはパチンと指を鳴らして、直ちに剣を動かした。
「うぉおっ!」
 獣のような咆哮を上げて、ハミエルが突っ込んでくる。だが、既に彼の前にトワイライトはいない。代わりに、彼に作り出された無数の銀の剣が、隊列を組んで襲いかかった。まるで海を遊泳するイワシの群れのように、統制の取れた動作でもって、昂然と立ちはだかる。目の前を大きな壁に塞がれ、ハミエルの動きが一瞬止まった。しかし。
「邪魔だっ!!」
 彼は手にした剣を軽く振るい、進路を遮る剣を全て弾き飛ばした。天使の力に汚染された剣は、粉々に砕け散り、宙を舞いながらキラキラと破片を煌めかせる。それもすぐに、圧倒的な熱に歪みドロドロと融解すると、砂塵に覆われた大地の上に落下した。
(……効かないか)
 ハミエルの突貫を、飛び退ってかわしたトワイライトは、音もなく着地しながら軽く眉を顰める。かなりの大技を叩き込んだつもりだったが、腕一本で振り払われるとは。どうやらこの天使は、トワイライトが予想した以上に、強い力を持つ者だったらしい。
「今度こそ死ねぃっ!」
 しかし、己の早計を後悔している暇もない。ハミエルは再び地を蹴って、彼のもとへ接近してくる。力づくで強引に、トワイライトの間合いに飛び込み、大剣を振り下ろした。
 鋭い刃が強く叩き付けられ、アスファルトの地面に食い込む。すると、地に埋まった剣先から、眩い光が発射された。SF映画の如きレーザービームが一直線に放たれ、残っていた瓦礫の山を吹き飛ばす。それどころか、遥か後方のビルや建造物までもを直撃し、破壊していった。
「おい、一般市民を巻き込むなよ!」
 後ろを確認したエンヴィスが、天使に怒鳴り声を発する。トワイライトが振り返ると、そこには、天使の清い光により切り拓かれた、一本の道が出来ていた。視線を遮断する高い建物が悉く分解され、粉塵となることで、視線が遠くまで通るようになっている。一体どこまで続いているのか、予測することも出来なかった。街全体を貫いていたとしても、不思議ではないだろう。きっと、数えきれないほど大勢の悪魔が、巻き込まれたはずだ。
「言っても無駄さ。彼にとっては、それが目的なんだからね」
 いくら憤っても、連中が反省することはない。トワイライトは諦観を含む声で部下を諭す。第三者が口を出したところで、解決しない問題だからこそ、両者の軋轢はここまで続いているのだ。彼らにとっての正義が、今目の前の光景である以上、悪魔は天使と戦うしかないのである。
「怒りの声を上げるべきはお前たちではない……この私、ハミエルだ!」
 アスファルトに突き刺さった剣の柄を握り締め、ハミエルはそんなことを言った。先刻まで二人がいた場所に立つ彼は、おもむろにトワイライトたちに向き直ると、大仰な仕草で剣を引き抜く。
「さぁ、死にたい方からかかってこい!消し炭にしてやる!!」
「はっ、やってみろよ!出来るもんならなァ!」
 わざとらしい挑発に、あえてエンヴィスは引っかかったふりをして、煽り返すような言葉を叫んだ。案の定、ハミエルの険しい表情が、一段と苛烈さを増す。
「まずは……お前かァア!!」
 激情に声を荒げ、彼は走り出す。一足飛びに間合いを詰められ、滑り込むように懐に入り込まれる。尖った切っ先が、顎の下から突き上げてきた。
 エンヴィスの脳内を、一瞬恐怖が支配しかける。だが、すぐに冷静さを手繰り寄せると、じっと相手の攻撃を見据えた。
 甲高い衝突音が響き、腕に強い衝撃が伝わってくる。エンヴィスの武器は、ハミエルの攻撃を見事に受け止めていた。
「シッ!」
 ハミエルは細く息を吐きながら、剣を払い次の一撃を繰り出してくる。鋭い横薙ぎの一閃を、エンヴィスはこれまたしっかりと防いだ。次いでトワイライトが、再び作り出した剣でもって天使を強襲する。横殴りするつもりで放たれた大量の刃を、ハミエルは煩わしそうに受け止め、あるいは切り飛ばして振り払った。
「ちぃっ!」
 仕留めようとすれば防がれる。邪魔を払い除けようと思ったら、攻撃される。トワイライトとエンヴィスが、巧みに連携し互いを支え合うように戦うために、中々思うように刃が通らない。思い通りに進まぬ戦局に苛立ったのだろう。ハミエルが大きく顔を歪め、舌打ちをした。
 そして今度は、凄まじい速度で連撃を仕掛けてくる。目まぐるしく飛んでくる突きや払いを、エンヴィスは冷静に見切っては、回避に努める。避けきれない攻撃は、トワイライトの剣が受け止めるため、ハミエルの剣が獲物を捕らえることはない。
 しばしの間、激しい剣戟が展開された。金属同士がぶつかり合い、擦れ合う、耳障りな音がひっきりなしに鳴り渡る。互いの得物が交錯する度に、小さな火花が散り、どちらのものか分からない、微細な金属片が飛散した。
「”火焔弾フレイムバレット”!」
 ハミエルからの袈裟斬りを紙一重でかわしたエンヴィスが、魔法を発動させる。錫杖の大輪から、いくつもの巨大な炎の塊が射出された。弾丸のように高速で飛翔するそれらは、まるで超小型ミサイル、あるいは隕石の如き勢いで、ハミエルに向かっていく。
「下らない」
「っ!?」
 しかし、彼は軽く剣を振るうと、突風を巻き起こし炎の軌道を逸らしてしまった。周囲のビルの残骸に、魔法が命中し煤を撒き散らす。あまりにも呆気なく、エンヴィスの攻撃はあしらわれた。
「くそ!だったら……!」
 悔しげに呻き、次の手を打つ。片手で拳に傷を付けると、わずかに血が滲んできた。その手で空中に向かって印を結ぶ。ハミエルはそれを阻止しようとするものの、トワイライトに邪魔をされて、上手くいかない。そして無事エンヴィスの魔法は効果を発揮し、標的に当たらずに落下し、息絶えそうだった炎を復活させることに成功した。
「これでどうだ!?」
 再び息を吹き返した炎は、かすかな煙をたなびかせて、形を変え、シュルシュルと立ち上がっていく。まるで蛇のように、蠢き舞い上がったそれは、ハミエルの両手足を拘束するように巻き付いた。動きを封じられかけて、ハミエルが瞠目するのが見える。
 だがエンヴィスは容赦せず、追撃をかけた。ゴウと音を立てて、火柱が燃え上がる。顔面に火の粉が降り注ぎ、ハミエルは咄嗟に目を瞑り顔を伏せた。エンヴィスは、その隙を見逃さない。トワイライトが素早く剣を撤退させたことを確認すると、杖を高く掲げ呪文スペルを叫ぶ。
「”火災旋風ファイアストーム”!」
 ハミエルの周囲で燃え盛っていた火が、一際強く炎上し、動きを封じられ視界を塞がれた相手を、一気に爆炎の中に閉じ込めた。
「よしっ!」
 見事に決まった。華麗な手際を自画自賛し、エンヴィスは軽く拳を掲げる。手首辺りに一瞬緑の蔦が現れたかと思うと、付けた傷は綺麗に癒されていた。
「……他愛もないな!」
「なん……っ!?ぐっ!!」
 炎が、いきなり爆散したように飛び散る。崩壊した包囲網の向こうから、ハミエルの声が飛んでくる。同時に、鋭い光線が放たれ、エンヴィスの頬を掠める。右頬に、ピリッとした痛みが走った。
「っつー……痛ぇ」
 天使の光が体内に流し込まれる感覚。だが、恐らくこれは手加減されたものだ。もしも本気を出されていたら、きっと胴体を貫かれていた。危ないところだったと、安堵すると同時に、わざと時間をかけられ、追い詰められていく感覚に、苛立ちと焦りを感じる。
 かすり傷だと思っていた傷に触れると、肌が痺れるほどの痛みを感じた。パックリと口を開けた傷口から、鮮血が溢れ出している。生温かいぬるりとした液体が、顎を伝い落ちる感触に、エンヴィスは顔を歪め、掌で乱暴に拭った。
「この剣の名は、聖剣・グラム。人間たちの古き言葉で、怒りを意味する言葉だ」
 そんな彼を嘲笑うように、ハミエルは手にした大剣を、まるで舞を舞うように揺らめかせる。ゆったりとした動きで天へ突き付けられた剣先は、虚空へ向けて正義の光を放った。
「私は、復讐の天使。正義を反故にし、悪虐を尽くした者に、制裁を下す……お前たちのような、他人を傷付け営利を貪ってきた悪魔共には、己の罪業を認めさせ、罪を償ってもらう。そのためなら、どんなことでもする覚悟でやってきた」
 彼は歌うように口上を述べながら、剣を弄ぶ。全長1メートルを悠に超えるそれは、いわゆるバスタードソードと呼ばれる代物だろう。やや刀身の幅が広いのが特異だが、片手でも扱える設計は、雑種(バスタード)の名に相応しい。しかし、聖剣とはまた厄介な武器を持っているものだ。まさか、”聖遺物”の一つとは。
 天使たちの中でも、特に力の強い者。それも、悪魔を滅ぼす力に長けた実力のある天使に、聖遺物は受け継がれてきた。いわば、悪魔を殺すことに特化した武器だ。聖剣グラムの刀身からは、毒霧のように、眩い光が溢れ出ている。あれをビーム状にして撃つことで、街を破壊し、悪魔たちを虐殺しているらしい。
「何なんだ、あいつ……化け物め!」
 理不尽な強さだと、エンヴィスは思わず、顔を顰めて悪態をついた。
「全くだ。あの強さは、反則だよなぁ……」
 トワイライトも似たような思いを抱えていたのか、苦笑を浮かべて同意する。
 流石に、ここまでとは思っていなかった。少々、計算外の事態だ。
 エンヴィスの炎を容易く跳ね除け、トワイライトの剣すら簡単に防げる強者。剰え、天使の中でも実力者にしか渡されない、聖遺物を所持している。
 少しでも冷静さのある悪魔なら、分かるはずだ。勝ち目などないと。
 ここは、一刻も早く、逃げるべきなのだ。なのだが。
(逃げたくても、逃げられんだろうなぁ……)
 あれほどの強さを有した天使が相手だ。一体どこに逃げる場所があるというのだろう。もはやこの世界に、トワイライトが生きられる道はないのかとすら思える。あの男と遭遇した時点で、自分たちに未来はなかったのかも知れないと。
(これ以上の戦いは無意味か……いや、それどころか)
 このまま戦い続けたとしても、募ってくるのは、きっと絶望だけだ。時間が経過すればするほど、彼らは自身の死を確定した事実として確信してしまう。であるならば、さっさと諦めて、受け入れたほうが得かも知れない。戦意と、理性とを捨てて、大人しく楽になるのだ。
(フッ……下らない考えだな)
 トワイライトは胸の内で、小さく失笑する。
「タキトゥスさんには、後できっちり”お礼”をさせてもらわねばなるまいね……!」
 何故こうも、理不尽というのは、いつも突然やってくるのだろう。ある日唐突にやってきては、平穏な日常を壊していく。そこには慈悲も、容赦も、見境もない。無作為に無差別な殺戮を繰り返し、そして去っていく。全くもって理不尽だ。道理に合わないから理不尽とは、先人は上手いことを言うものである。
「え?どういう意味です?」
 トワイライトの呟きの意味が理解出来ず、エンヴィスは眉を寄せて尋ねた。だが、トワイライトは何も答えない。
「エンヴィスくん」
「はい」
 低い声で名前を呼ばれ、エンヴィスは即座に返事する。未だハリを失っていないその調子に、トワイライトは安堵した。
「まだ……諦めたわけではないだろ?」
「当たり前ですよ!」
 目だけを彼に向けて問うと、当然だと言いたげな声音で、エンヴィスは拳を握り締めた。それどころか、挑発的な笑みさえ浮かべて、逆に問いかけてくる。
「まだ、こんなところで死ぬつもりなんかありません。俺にはまだ……守るべきものがある。トワイライトさんこそ、もう諦めたんですか?」
「おいおい、私を誰だと思っているんだね」
 若干無礼なその言葉に苦笑いしながらも、トワイライトは真剣な眼差しで、天使ハミエルを見据えた。
「我々は、悪魔だ。己が欲望のために忠実に、貪欲に生きる怪物……こんなところで、楽しい人生を放り出すわけがない」
 そして、おもむろに足を踏み出し、一歩前へと歩み出る。もったいぶって行動を始めたトワイライトのことを、ハミエルは軽く睨んだ。二人の間に、緊迫した空気が漂う。
「我々のプライドを、見せてやるとしよう……さぁ、天使くん!ハミエルくんと言ったかな?君も見せてくれよ。君たち天使が誇る、”正義”とやらをね……!」
 トワイライトは、張り詰めたその緊張の糸を断ち切るが如く、ゆらりと剣を浮かばせてハミエルに呼びかける。即座に、まるで、射殺されそうな眼光が飛んできた。
「もちろんだ……とくと思い知るがいい。正義が果たされぬことへの、私の義憤を!!」
 怒りに満ちた声で、ハミエルは告げると、白い天使の翼を大きくはためかせる。そして、思い切り剣を振るって、駆け出してきた。

  *  *  *

「きゃっ!」
「うわっ!」
 突如、街が轟音を立て、強く振動する。足元に伝わる地響きに、カーリはバランスを崩しその場に尻もちをついた。
「な……何今の?もしかして、天使との戦い?」
 レディもよろめきながら、キョロキョロと辺りを見回している。カーリも彼女の隣で、周囲に気を配りながら答えた。
「でも、だって、まだ対天部の人たち到着してないでしょ?こんな短時間で……」
 対天使戦闘のプロである彼らは、”粛清”が始まった都市に即座に駆けつけ、天使を追い払ってくれる英雄だ。だが、いくら戦闘能力の高い悪魔たちといえども、何の装備もなしに天使と戦うのは危険過ぎる。対天使専門の、特殊な武器や防具を身につける必要があるのだ。しかし、それにはかなりの時間を費やしてしまう。天使の存在を確認してから、出動し現場で対処を開始するまでに、彼らが要する時間は致命的なものだ。尤も、大半の悪魔からすると、天使を追い返してくれるだけ、ありがたい存在である。ではあるのだが、実際襲撃に遭った者からすると、もっと早くしてくれと怒鳴りたくなるものなのだ。現時点では、彼らはまだ、そもそもこの地に到着しているかどうかも怪しいのだから。
「じゃあ、魔界府の誰かなのかな?」
 だが、無論彼らの到着を何もせずにただ待っていては、都市は完膚なきまでに破壊され、他の都市、ひいては魔界全体に大きなダメージを与えることになるだろう。誰かが、天使の足止めをし、市民が避難するための時間を稼がなければならない。しかし、もちろん天使というのは強力な存在。遅延戦闘など誰にでも出来ることではない。それが可能な人物を判断するために、比較的戦闘員の多い警察部門と軍政部門の職員のみに、特殊な区分が与えられている。それが、階級クラスだ。
 個々の戦闘能力に応じて、A・B・C・Dの4つの階級を与えるというシステム。その内天使との交戦が許可されているのは、Bクラス以上の悪魔たちだ。トワイライトとエンヴィスはその、Bクラスに値する。
「まさか、トワイライトさんとエンヴィスさん……じゃ、ないよね?」
 ちなみに、全く戦闘能力を持たないカーリはDクラス、戦うことは出来るものの、天使ほどの強者相手では生き残れないレディのような悪魔は、Cクラスに分類される。Cクラスの悪魔は市民の避難誘導が終了後、退避することが、Dクラスに至っては、市民同様に即刻避難することが義務付けられている。
「早く行かなきゃ!トワさんたち、困ってるかも知れない!」
 本来は、彼女たちはこんなところにいてはいけないはずなのだ。
 だが、もしも二人が天使と戦っているのなら、自分たちだけが速やかに逃げるなど許さることではない。レディは急に勇み立って、早く助けに行こうとカーリを促す。彼女の気持ちも、当然のものだろう。
「わ、分かった!」
 親しい者が危険な目に遭っているかも知れない。想像しただけで恐怖が込み上げてくる。カーリも、急いで立ち上がった。その時だ。
「カーリ危ないっ!!」
「えっ!?」
 突如、目の前を眩い閃光が走り抜ける。
 否、閃光などと生やさしいものではなかった。それは早速、SF映画に出てくるような、巨大な光線だ。
 強烈な力が辺り一帯を走り抜け、街全体を大きく揺らす。物理的な衝撃でいくつもの建物が倒壊し、魔力的なダメージで天井の幻術が乱れた。
「うぅっ……ぐ」
 カーリの隣で、レディが呻く。慌てて我に返ったカーリが身を起こすと、再び周囲の景色は一変していた。
 一度目の衝撃では、かろうじて壊れずに残っていたはずの建物が、全て綺麗に吹き飛ばされている。あちらこちらに築き上げられていた瓦礫の山も、見事に平らげられていた。光に浄化され、荒れ果てた地に、サラサラと塵芥だけが流れていた。
「いったぁ……!」
 蹲っていたレディが、上体を起こして泣き声の混じった悲鳴を上げる。背中を丸める彼女の両足を覗き込むと、そこは血で真っ赤に染まっていた。
 何かの破片が衝突し、皮膚を切り裂かれたのか、左足の脛の辺りにパックリと大きな傷が走っている。流れ出た鮮血が、足の甲までもを濡らしていた。何より、痛みに悶絶する彼女の姿は、心臓を凍らせるようだ。
「レディちゃんっ!!」
 カーリは急いで、ポシェットの中から応急道具を取り出す。しかし、これだけ深く切れていれば、ちょっとやそっとの処置では止血出来そうにない。白いガーゼはすぐに血を吸って、重くなっていく。
「カーリ……ごめんね……避けられなかった」
 脂汗をかいたレディが、申し訳なさそうに掠れた声を出した。怪我人が言うべき言葉じゃないと、カーリは声を荒げる。
「油断してたつもりはなかったんだけど」
「そんなこと言わないでよ!レディちゃんは悪くない!!」
 激しい口調で捲し立てながらも、忙しなくポシェットの中を漁る。大量に詰め込まれた、備品やアイテムの中から、一本の小瓶を取り出した。
「カーリ、何するの?」
 痛みに苦しみながらも、好奇心と興味に勝てないレディが、横から覗き込んできた。カーリは彼女には答えず、瓶の蓋を外すと、いきなり逆さまにして中身を勢いよくぶちまけた。
「わっ!」
 患部に謎の青い液体が降り掛かり、レディが驚く。傷口に液体が沁みて、チリチリとした刺激が走るが、驚くべきことに、それはたちまち消えていった。
 想像も出来なかった現象に、レディは思わず口を開けて自身の足を見つめる。
 ややとろみがかった薄青の液体が、傷口に降りかかると同時に、痛みがどんどん引いていく。それどころか、とめどなく溢れていた血も止まり、傷が塞がり始めたのだ。
「え!?す、凄い……!」
 瞬く間に治っていく足を見て、レディは素直に驚嘆の声を上げた。
 やがて、完全に瓶の中身が消費されると、彼女の傷はほとんど癒えていた。痕に残るのは、引っ掻き傷のような赤いミミズ腫れだけ。
「錬金ポーション。一番いいの使ったから、もう痛くはないと思うけど……」
 空の瓶を仕舞いながら、カーリが不安そうに呟く。
 彼女が使ったのは、備品として手に入るものの中で、最も希少な回復アイテム。錬金系魔法のみで作られたポーションだ。
 本来、ポーションとは、薬学系、錬金系、回復系の三種類の魔法を組み合わせて作られる。魔法的な治癒の力で、どんな怪我でも立ち所に癒す力。それは非常に便利ではあるが、そのために非常に複雑な過程を経なければ生み出せない代物なのだ。だが、優れた悪魔であれば、たった一つの系統の魔法から、同じ効果を持つポーションを作り出すことが出来る。それぞれ薬学ポーション、錬金ポーション、回復ポーションと呼ばれる純粋ポーションは、その他の製法のものと比べて格段に値が張る。しかし、代わりにその効果も絶大だ。
 実際、あれほど深かった切り傷を、たった一瓶のポーションで完全に治癒してしまった。傷のなくなった綺麗な皮膚をつるつると撫でたレディは、おもむろに足を伸ばし、苦痛のないことを確かめる。
「うん!もう痛くないよ!カーリ凄い!」
「いや、凄いのは私じゃなくてポーションだよ……」
 苦痛なく自由に動かせることを喜び、顔を輝かせて手を叩く。しかし、カーリの顔色は冴えない。
「ごめんね、レディちゃん……私のせいで、巻き込んで。怪我を、させてしまって……」
 がっくりと項垂れ、小さな声で謝る。カーリの胸中には、大切な友人を危険な目に遭わせたことへの罪悪感と後悔が、ひしひしと降り積もっていた。
「私が、あんなこと言わなければ、あなたを苦しめずに済んだ。何も考えず、あんな、無茶なことしなければ……」
 あの時、天使が襲ってきたと知った時に、大人しく逃げるべきだったのだ。例えトワイライトやエンヴィスが心配でも、彼女を巻き込むべきではなかった。もしも彼女を先に逃がしていたのなら、こんなことにはならなかっただろう。レディは無事で、カーリはただ天使の攻撃で命を落としただけ。身勝手な行動の罰を受けただけで済む。
 しかし、彼女はレディと共に行動する道を選んだ。手助けをしてもらえると安易に考え、二人でいられて心強いと安堵した。それが、愚かな間違いであったのだ。結果として、自分は無傷でありながら、彼女を負傷させる結果となってしまった。もはや、自分一人の責任で片付けられる問題ではない。何か一つタイミングが合っていなければ、今頃彼女は息をしていたかどうかも分からないのだ。
「私のせいで……っ!!」
 自分勝手な行動で、彼女を命の危機に晒した。カーリの心にはただその事実が、巨石のように重くのしかかっていた。
 愚かだったのだ。いつまでも守られているのが心苦しいからといって、自らの勝手な理由だけで決断して。所詮自分には何も出来やしないのに、この世界なら努力次第で望みを叶えられると履き違えた。彼らを思う気持ちさえあれば、自分にだって何か出来るのだと、思い込んだ。本当は、そんな力を持ってはいないのに。
 出来る出来ると信じ込んで、間違った方向へ努力した。そんなもの、報われるわけがない。
 こんな結果で終わるのも、当然のことだ。
 自分はただ、大人しくしているべきだった。助けたいだとか、力になりたいだとか思わずに、縮こまって隠れていればよかった。何の強さも持たない自分が、何の役に立つというのだ。己の領分を知らずに、ずかずか前に出るよりは、影に身を潜めて守られてでも、庇われてでもいるべきだった。自らの置かれた立場に、疑問を持つべきではなかった。変えようとするべきではなかった。ただ大人しく、諦めて受け入れて、従っているべきだったのだ。
 今までずっとそうしてきたのに、今更何が変えられるというのだろう。何を、期待したのだろう。
 全て、身の程を知らずに望みを抱いて、横暴な振る舞いをした自分の責任だ。
「カーリ……」
 カーリは絶望して、顔を伏せ沈黙する。黒髪が垂れ下がっているせいで、表情は見えなかったが、背中が震えているところを見ると、涙しているようだった。
「そんなことないよ。アタシは大丈夫だから!」
 これ以上彼女に、絶望させたくない。自分を卑下してほしくない。
 レディはあえて、明るい声を作って発した。いつも、トワイライトがやるように演技をして。
「だって、ほら、もう元気だし!足も痛くないし!好きに歩けるよ!」
 両腕を曲げて力瘤を作るポーズをしながら、笑って言い放つ。堂々と、自信満々の仕草をして見せたが、カーリには効果がなかった。
「そんなわけないでしょ!」
 悲鳴のような絶叫のような声にかき消されて、レディの顔から笑みが消える。まるで、蝋燭の火が強風に吹き消されたようだった。
「ポーションは、確かに体の傷は癒すけど、増血をしてくれるわけでも、体力を回復してくれるわけでもない!痛みはなくても、痛みを受けた事実は変わらないんだよ!」
 こんなことを言うのは間違っている。自分の身を犠牲にして、他人を庇った彼女を、守られた当の本人が責め立てるのは道理に合わないことだ。
 しかし、頭では分かっていても、カーリには己を止める術がなかった。彼女にとってはそれだけ、自分のためにレディが平気なふりをすることが、耐え難かったのである。
「レディちゃんの足が、傷を負った状態なのは変わらない。そんなんじゃ、歩くどころか動くことも出来ないよ……」
 私のせいで。
 カーリの言葉は、そう言外に口にしているようで、レディは聴いていられなかった。
 過去のことで心の内に深い闇を抱える彼女は、ふとしたきっかけで自己肯定感が失墜しやすい。常人であれば面倒だと思ってしまう欠陥ではあるが、一度事情を知れば、無碍には出来なくなる。レディもまた、その一人だった。
「カーリ、それは違うよ」
 自らに価値がないなどと、これ以上言わないでほしい。ただその一心で、レディは口を開く。
「アタシがカーリについてきたのは、そうしたかったから。アタシが、カーリと一緒に行きたかったの。トワさんたちを一緒に探したかった」
 感覚が鈍く、力の入らない足を引きずって、彼女に歩み寄る。長い黒髪をかき上げて、レディを見つめるカーリの瞳には、薄く涙が溜まっていた。
「カーリを助けたのも、アタシが好きでしたことだもん。カーリにただ、死んでほしくなかっただけ。アタシの勝手。でしょ?」
 レディは子供でもあやすみたいに、温かな笑顔を向ける。いつものように明るい、それでいて優しい笑みだ。
「だから、カーリだけが悪いんじゃないよ。カーリが責任とか感じる必要ないんだよ。悪いのは、アタシも一緒。二人して、逃げろって言われたのにこんなとこにいるんだから。笑っちゃうよね、ほんと」
 途中で可笑しくなって、肩を震わしながら語りかければ、カーリの口にも少しだけ笑みが含まれたのが分かった。
「だからさ、頑張ってトワさんとエンちゃん見つけようよ。二人してさ、あの人たち助けて、褒めてもらうの。そんで……二人して怒られよ。何でこんなところいるんだーって」
 レディの言葉は、静かにカーリの心に響いた。静寂に包まれた森に、水の落ちる音が反響するように。
 何より、彼女がそこまで自分を、大切な友達を思ってくれたという事実が、嬉しかった。
「……そうだね」
「そうと決まったら、早速、トワさんたち探さなくちゃ!ねっ!」
 穏やかな顔で、しっかりと頷く。レディの顔色が、あからさまに輝いた。その光に照らされるように、カーリの心の中の霧も、速やかに晴れていった。
 今までは、自分一人では何も変えられなかった。助けを求めたくとも、助けなんてこなかった。誰も彼女に手を差し伸べず、彼女はこの広い世界で一人きり。膝を抱えて絶望するしかなかった。己の弱さと、いつまで経っても身の程を学習しない自分の愚かさに涙を流した。
だが、今日はもう一人じゃない。
 彼女がいる。
 大切な友達で、命を張ってでも自らを助けてくれる友人が。
 もう少し、頑張ろう。
 ただ純粋に、そう思えた。
「まずは、タキトゥスさんの居場所を掴まなくちゃ」
「あれ?もうあのタブレット使えるんじゃない?」
 揺らぎかけた決意を再び固めて、宣言する。ふと、レディが指差した先には、いつも使っている備品のタブレットが転がっていた。さっき、急いでポシェットの中身を漁った際に、邪魔だからと出しておいたものだ。画面を上向きにして地面に置かれたそれには、天使の襲撃を知らせる警報が、ひっきりなしに表示されていた。
「!本当だ……これなら!」
 カーリは慌てて飛びつき、画面を何回かタッチする。大きなディスプレイに、アルテポリスの地図が表示された。ところどころに、赤や青の印が点滅している。
 職員用の備品として配られる、タブレットや携帯端末の位置情報を示したものだ。それぞれ印の下に、アルファベットで名前が記されていた。何度か見たことのある、組織的脱界者対策室のメンバーの名もある。彼らは数人で、同じ場所に固まっているようだった。どうやらここが、集合地点のようだ。
「ここに行けば、タキトゥスさんに会えるかも……!」
 責任者であるタキトゥス課長が、一人だけ別行動をするとは考えにくい。それに、もしもいなかったとしても、彼の部下たちならば何かは知っているはずだ。
「でも、聞いたところでちゃんと答えてくれるかどうか……」
 タキトゥスは、冷徹な悪魔だ。トワイライトたちの安否が確認出来ていないことを知っても、対応が面倒だからと聞き流すかも知れない。大多数の悪魔のためなら、少しの犠牲は致し方ないと判断して。
「そしたら、力づくで言うこと聞かせればいいじゃん?」
「えっ?レディちゃん、何言ってるの?」
 さも当たり前のように言い放つ彼女を、カーリは驚いて見つめた。トワイライトのそれとよく似た、にやにやした笑顔を浮かべたレディが、含み笑いを漏らす。カーリは、何となく嫌な予感がして、頬を軽く引き攣らせた。

「”火災旋風ファイアストーム”っ!!」
 大きな声で詠唱をし、握り締めた錫杖に存分に魔力を注ぎ込む。媒体となった杖から、魔法が発現し、燃え盛る火柱が出現した。ハミエルの周りを、ぐるりと取り囲むように、巨大な炎の円柱が展開する。まるで、これこそ地獄の風景と言わんばかりの業火。堅牢な壁のような分厚い炎の檻に、トワイライトの作り出した大量の剣が突き刺さる。炎で視界を遮られたところに、周囲全てから無数の剣が襲いかかってくるという、凶悪かつ強力な攻撃。
「っ!何だこれは……!?」
 流石のハミエルも、驚愕の声を上げている。
 しかし、いくら足掻けどもう遅い。彼に、この檻から出る術は残っていないはずだ。
 轟々と、燃え上がる炎が天使を中心にして、天へと昇るように渦巻く。熱で発生した上昇気流が、酸素を貪り尽くし内側に真空が生まれたことで、外から空気が流れ込み火の勢いを強めているのだ。そして、熱さを増した炎は、再び強力な上昇気流を生む。
 火災旋風とは、自然現象としても稀に生じる災害である。
 これを、自然的でなく魔法的な力で操る。完全な制御のもとで暴れるその威力は、人間には決して計り知れるものではない。
 一度取り込まれたら最後、死ぬまで出ることは出来ない、紅蓮の竜巻。時間経過と共に、どんどんと威力を増していくそれから解放されるには、さっさと意識なり命なりを手放す他にない。酸素は焼き尽くされ、代わりに肺に入ってくるのは炎ばかり。視界も効かず、身動きも取れない。大抵の悪魔であれば、意識を飛ばすどころか、灰燼となって燃え尽きてしまうだろう。流石のハミエルといえど、余裕ぶってはいられないようで、苦痛に満ちた呻き声を発している。
 だが、攻撃はそれでは終わらない。
「箱の中に、無数の刃……確か、人間たちが開発した拷問器具の中に、こんなものがあったな」
 トワイライトが呟き、それと同時に手を振り下ろす。勢いよく放たれた夥しい数の剣が、渦を巻いて燃え盛る炎の中に飛び込んでいった。
「確か名前は……鉄の処女アイゼルネ・ユングフラウ。我らが乙女は、鉄のように冷徹で、炎のように熱いよ」
 凄まじい熱と煙に巻かれ、身動きが取れなくなったところを、大量の刃物に貫かれる。それはまさに、人間たちが考案した拷問器具にそっくりだ。より凶悪な部分は、閉じ込められるのが、鉄の箱ではなく、炎の檻の中という点。
 これで少しはあの怪物を追い詰められるだろうか。トワイライトは炎を見つめながら、ちらりと隣を見遣った。
「ハァ……ッ!ハァッ!」
 トワイライトの近くで、エンヴィスは膝に手をつき、肩を上下させて荒く息を吐いている。流石に、一気に大量の魔力を使い過ぎたようだ。ずんと体が重くなるような感覚がする。
 今の内に逃げるべきだろうか。ぐるりと視線を巡らせて、少し離れたところにいるトワイライトに目を向ける。彼もまた、やや険しい表情をして、炎を凝視していた。そこには、希望や歓喜といった明るげな感情は、一切浮かんでいないようで。
「貴様らァアアア!!!」
「ぅぐっ!?」
 突如として、天使の怒号が轟く。
 吹き抜けた突風が、巨大な炎を真っ二つに断ち切った。冷たく強い天使の力により、莫大だった熱量が一瞬にして沈められる。同時に、光線銃の如く放たれた閃光が、エンヴィスの左肩を貫いた。
「エンヴィスくん!」
「次はお前だっ!!」
 血を流すエンヴィスに振り返り、トワイライトは叫ぶ。しかし、彼を助けに行く余裕はない。炎の檻を突破して、剣を振り翳したハミエルが駆けてきていたからだ。
「さっさと吹き飛べっ!」
「ぐ……っ!」
 鋭く放たれた剣戟を、魔法の剣で受け止める。しかし、天使の圧倒的なパワーに敵うはずもない。あっさりと力負けし、足が地面を離れた。大きく吹き飛ばされ、遠く後方のビルの残骸に、勢いよく突っ込む。ガシャーンと派手な音が鳴り、彼は砕けた窓ガラスと共に、ビル内に飛び込んだ。
「トワイライトさ……っ、くそ……!」
 エンヴィスは呻きながら、立ち上がろうとする。しかし、急激に出血したせいで頭が重い。視界がぐわりと回る感覚がして、気が付けばその場に崩れ落ちていた。
「がは……っ!」
 傷口から、全身に流れ込んでくる清廉なる光の力。体内の細胞が内側から破壊されていくような、未知の痛みが身体中を駆け巡る。あまりの激痛に、思わず息を詰めて瞠目した。肩を押さえた手は、天使の光によって火傷したように爛れていく。ボタボタと、腕を伝い落ちた鮮血がアスファルトに滴った。錫杖を握る手から力が抜け、取り落とされた得物が、ガランと空虚な音を立てる。
「っゲホ、ゴホ……ッ!な、なん、で……っ」
「お前たちは実に愚かだ!この私が正義を執行しに来たと知って尚、見苦しく抗い続けるとはな!!」
 エンヴィスは咳き込みながら、酷く掠れた声を上げた。自分が今見ている光景が、信じられないのだ。天使ハミエルの、そのあり得ない強さが。
「何で、効いてねぇんだ……!おかしいだろ、かすり傷一つないなんて!!」
 驚きが恐怖となり、やがて怒りとなって、エンヴィスの口から迸る。
 紅蓮の中から現れたハミエルの外見は、全くと言っていいほど変化していなかった。あれほど激しい炎、そして大量の剣を差し向けられたにも関わらず、血の一滴も流していない。服や翼、髪などは若干灰や煤で汚れ、乱れてはいるが、白い肌は透き通ったままで、体力を消耗している様子もなかった。
 こんな強者がいるなんて、認めたくない。エンヴィスは子供じみた反抗心から、声を荒げる。しかし、それも当然だ。今目の前で起きていることを認めてしまったら、彼は必然的に己の死を受け入れなければならなくなってしまうのだから。
「考えても無駄なことだ」
 だが、ハミエルが彼の内心などを慮ってくれるはずもない。天使は冷酷な声を発しながら、ゆっくりと歩いてくる。ゆらり、と持ち上げられた聖剣が、眩い光を放った。
「愚かな悪魔どもが、いくら足掻こうとも、この私を超えることは出来ない……お前たちは、ここで滅びる運命なのだ」
 彼の背後では、燃えていたはずの炎が、シュウシュウとかすかな煙を上げて、息絶えようとしている。術者であるエンヴィスが負傷し、意識を逸らしたせいだろう。その勢力は大分衰えてしまっていて、もはや復活させることの出来ない状態だった。
 ハミエルは残り火を軽く剣を振るって始末し、転がった無数の剣を蹴り飛ばす。そして、世にも悍ましい、般若の如き形相をこちらに向けた。
「悪魔なら悪であることを自覚して、潔く己が命を諦めるべきだろう……終焉を突きつけられながら、まだ生きたいと願うとは、傲慢にも程がある」
「く……っ!」
 背筋にゾワリと、冷たい戦慄が走る。エンヴィスは思わず、後退りしようとした。だが、動けない。何か得体の知れない力に、足首を掴まれているようだった。これが、天使というものの恐ろしさなのだろうか。彼を敵にした時点で、エンヴィスたちに勝ち目はなかったのか。己が生き残る道は、既に閉ざされていたのか。
 絶望が、静かに這い上がってくる。しかし、もう逃げる術などない。エンヴィスは覚悟を決めて、固く目を瞑った。
「あー、いてててて……」
 その時だった。どこからか、風に乗って呑気な声が流れてくる。ガタンと音がして、トワイライトが姿を現した。
「全く、何て力だ……ああも簡単に吹き飛ばされるとは」
 彼は足にまとわりつく礫片や石ころを避けながら、大股に歩み出てくる。途中で何かに蹴つまづいて、立ち止まったかと思えば、足元から小さなバッグを摘み上げた。明るいピンク色の革には、誰もがよく知る有名ブランドのロゴが描かれている。トワイライトはそれを、近くの瓦礫の上に丁寧に置いた。天使の攻撃をまともに食らった直後とは思えない、間抜けな仕草だ。
「エンヴィスくん、大丈夫かい?」
「え……あ、はい……」
 ふっと顔を向けられて問われ、エンヴィスは多少戸惑った。しかし、すぐに冷静さを取り戻すと、こっくりと首を振る。トワイライトはそれを見て、かすかに微笑んだように見えた。
「驚いたな……まだ動けるか」
 ハミエルが彼に、呆れ返ったような眼差しを投げかける。聖剣を握る手に、力がこもった。彼がいつ、トワイライトめがけて剣を振るうのか分からず、エンヴィスは息の止まるような緊迫感を味わう。
「はっはっは、これでも頑丈さには少々取り柄がありましてねぇ……」
「だったら、壊れるまで叩きのめすまでだ」
 だが、トワイライトはハミエルの殺意に気がついていないかのように、のんびりと笑い、言い放つ。どこか不敵な色のあるそれに、ハミエルの眉間が一層深く皺を刻む。片足を引いて、身構える彼を、トワイライトは真っ直ぐ見据えた。深淵が宿るその瞳には、挑戦的で不気味な気配が漂っている。
「ご冗談を……もうあなたの思い通りにはさせませんぞ?」
「ふざけるな……!貴様、どこまで我々天使を愚弄する気だ!!」
 彼の宣戦布告のような言葉に苛立ったのか、ハミエルは力任せに叫び、どっと地を蹴って接近してくる。天使の翼をはためかせ、地面ギリギリを飛翔して近付いてきた彼は、そのままトワイライトの首を掴むと、近くの瓦礫の山に叩きつけた。
「ぐはっ!」
 目視することも難しいスピードに、対応など出来るわけもない。トワイライトは抵抗する間もなく、積み上がっていた瓦礫に強く押さえ付けられた。背中から激突したせいで、肺から大量の酸素が漏れる。
「トワイライトさん!」
 エンヴィスは咄嗟に、彼の名前を叫ぶが、如何せん四肢が痺れたように痛くて、動けない。悔しげに歯噛みしながら、彼らの対峙を眺めているしか出来なかった。
「やはりお前たちは唾棄すべき存在のようだな!他人を嘲り、思い上がることしか出来ない能無しめ……本当に、悪魔というものは、意地汚く醜い連中だっ!!」
「げほっ!ごほ……っ!」
 トワイライトを拘束するハミエルの手に、更に力が入る。みしっと気道が圧迫される感覚に、堪らずむせ返った。
「……う、るせぇよ……っ!」
 このままでは危ない。エンヴィスは何とかハミエルの気を引こうと、低い声をぶつけた。分かりやすい反発を聞き咎めたのか、天使がゆっくりとこちらを振り向く。
「お前みたいな、他種族を理解出来ないバカが……げほ、げほっ……善だの悪だの正義だの、いくら騒ぎ立てたって、誰も聞く耳持たねぇよ……っ!オツムに筋肉しか詰まってない天使サマに、何が言えるわけ……っ!?」
 エンヴィスは途中で咳き込みながらも、必死に反発を続けた。彼のその姿には、悪魔としての強い意志と、誇りとが感じられる。例え力で敵わなくとも、最後の最後まで絶対に抵抗する。全身で、そう訴えかけているようだった。
「……ふん、せいぜい今は吠えているがいいさ。どうせお前らには、もう何も出来やしない」
 だがハミエルは意外にも、彼の挑発を簡単に受け流した。蹲ったまま自分を睨んでいるエンヴィスを、黙ってじーっと凝視している。彼の意図が分からず、エンヴィスは再び戦慄した。しかし、ここで何もしなければ、トワイライトは彼に殺されてしまう。どうにかして、敬愛する上司を救わなければと、無理矢理口を開こうとした。
「さて、それはどうでしょうなぁ……我々はここで、死ぬつもりなど毛頭ありませんよ」
 そこに、トワイライトの声が、被さるように響く。首を絞められている最中だというのに、彼はまるで苦しがっても、怯えてもいなかった。ただ少しだけ、眉根を寄せた表情で、口元には綺麗な弧を浮かべている。
「見下げ果てたものだな……どれだけ痛め付けても、その減らず口は相変わらずか」
 余裕たっぷりな彼の顔つきに、ハミエルは嫌悪と忌避を露わにする。ゴミを見るような、冷淡な視線で射抜かれても、トワイライトは決して態度を翻さない。
「えぇ、そうですね。何しろ……あなたの手札は、全て暴かせていただきましたから」
 にっこりと、笑顔を作ったまま、片手を上げて魔法を発動した。
「ッ!?」
 鋭く風を切る音がして、ハミエルが目を見開いた。同時に、エンヴィスも息を飲み驚愕する。
 ハミエルの胴。細身ながらも、しなやかな筋肉に覆われた肉体に、何本ものブロードソードが突き刺さっていた。全て的確に、臓器を貫くように配置されている。
 だが、それだけだ。
 驚くべきことに、彼の体からは一切血が流れていなかった。皮膚を突き破って輝く銀色には、赤は一滴も付着していない。ハミエルの表情も、痛みに歪むことなく、多少驚いて瞬きをした程度だった。
「どうなってる……っ!?」
 何も異常が見られないなんて、それこそが異常だ。エンヴィスは瞠目して、無表情のまま立ち尽くしている天使を見つめる。しかし、いくら考えど、さっぱり分からない。体を串刺しにされても、無傷でいる方法など、誰が理解出来るだろう。
「これが、あなたのその強さの正体です」
 しかし、彼はその答えに、辿り着いたのだ。トワイライトはまるで、事件の謎を紐解き推理する探偵のように、平坦な声音で真実を告げていく。
「受けたエネルギーを吸収、蓄積し、光の力に変えて放出する……差し詰め、将棋の持ち駒で、勝負をする時のようにね」
 彼の主張を耳にすると、ハミエルの顔がわずかに変化する。不愉快そうに、眉の間の渓谷を悪化させる彼のことを、トワイライトは面白がるように見ていた。
「見破るのに苦労しましたよ。今の悪魔われわれの技術では、作り出せない魔法ですからなぁ……天使特有の術式ですか?大変興味深い」
「……下らない」
 ひょいと片眉を上げて、問いかけられた言葉に、ハミエルが答えることはない。彼が軽く手を払うと、彼に刺さっていた剣がバラバラと音を立てて落下した。天使の魔力によって、魔法の術式を破壊し、浮遊の効果を奪ったのだろう。騒々しい金属音を立てて、力を失った剣が散乱する。足元に降り積もったそれを、ハミエルは強く踏みつけた。その衝撃によってか、単に光に浄化されたのか、刀身がぐにゃりと飴のようにひしゃげ、あるいは欠けて破片を飛ばす。エンヴィスの足元にも、変形して歪んだ柄がくるくると回転しながら滑ってきた。
「私の力を暴いたところで、お前たちに出来ることなどないだろう!!」
 怒号と共に、剛腕を振るい、トワイライトの体を勢いよく投げ飛ばす。放られた彼は、空中でかろうじて体勢を立て直すと、片膝をつきしゃがみ込んだ状態で着地した。砂っぽい地面の上を、ザリザリと音を立てながら後退する。
「っつ~……危ない危ない」
 靴の裏で砂粒が擦れる感触を不快に思いながら、口の端を指で軽く拭った。手の甲で頬を押さえ、口腔内に溜まった血液をプッと吐き出す。味蕾に触れた鉄の不味さに、若干顔を顰める。
「苦痛の中で、せいぜい後悔しながら死ぬがいい!!!」
 この状況でも尚、自分を侮るような態度を示す彼に、ハミエルは声を荒げて指を突きつける。そして、ギラギラと眩く輝く剣を、大振りに振るった。ブワリと、勢いよく巻き起こった風が辺り一帯を吹き抜ける。凄まじいエネルギーが、周囲を駆け巡った。

  *  *  *

 轟音を立てて崩れ落ちていく街の中を、カーリは駆ける。すぐ後ろで、通り過ぎたばかりのビルや建物が壊れていくのを感じた。もしも後数秒遅ければ。最悪な結末になっていたかも知れないと、体が竦む。しかし、足を止めるわけにはいかなかった。耳につけたイヤホンから、機械音声の誘導が聞こえてくる。備品のタブレットに含まれた、GPS追跡アプリの効果だ。タキトゥスや、彼の部下たち複数の信号が固まっている地点にポイントをつけ、そこまでの道を案内するよう設定している。結果、彼女は今、崩壊しつつあるアルテポリスを、一心不乱に走り抜けているのであった。
 どこからか飛んできた天使の光が、目の前にある巨大なビルを貫いた。真ん中に大きな穴が空いた建物は、当然バランスを保ってはいられない。ぐらりと揺らぎ、大きなコンクリートや鉄筋の塊が雪崩のように落下してくる。
「あぁあっ!」
 巻き込まれては堪らないと、カーリは慌てて立ち止まった。周囲をサッと見渡すと、道路の反対側に、比較的広めの道が伸びているのを見つけた。幸い、車の運転手は皆、愛車を放棄して避難している。今なら不用意に車道に飛び出しても、危険はないだろう。彼女は急いで、大通りを横断し、右へと曲がった。すぐに、アプリがリルートを開始し、次の道順が告げられる。新たな案内に従い、彼女は走った。
「はぁっ……はぁっ……」
 息が上がる。ほとんどまともな運動をしてこなかった体に、いきなりの全力疾走はきつ過ぎたようだ。彼女の足は、とっくに悲鳴を上げ、ギシギシと軋んでいた。心臓が激しく鼓動し、肋骨を内側から叩く。体内で左右に揺れる内臓が横隔膜を引っ張り、右の脇腹に引き攣るような痛みをもたらした。
 しかし、立ち止まるわけにはいかない。足を止めたら最後、この街は滅び、自分も他の悪魔たちも、皆生き埋めになるだけだ。あるいは、天使の力に浄化され、死体も残らないかも知れない。そんなこと、許されるわけがない。だから彼女は走るのだ。最後の望みはたった一つ。細い糸のようなわずかな希望に全てを賭け、祈るしかない。そのためなら、どれほど肉体が苦痛を感じようとも、止まらない覚悟である。
(レディちゃん……!)
 頭の中で、唯一の友人の名を呼んだ。カーリを助けて怪我を負い、現在も街のどこかで蹲っている彼女の名前を。
 彼女を傷付けたのは、自分の身勝手な行動だ。傲慢にも、自分より強い者たちを助けたいと願ってしまった。その代償。過ぎた欲望を抱いた罰である。
 彼女は、しかし、カーリの考えに賛成した。タキトゥスを説き伏せ、トワイライトとエンヴィスを救出する作戦だ。たとえ断られても、こうすればいいとアドバイスのようなものまでもらった。そこまでして託された責任を、果たさずして何が友情というものなのだろう。ましてや、彼女は自分の思い上がりの罰を受けて負傷した身。今引き返せば、自分の罪は一体どこまで重くなるのか、想像も付かない。カーリは、そんな悪魔になりたくなかった。
だから、彼女は走る。自分に与えられた運命の中で、箱庭の中で、それなりに自由に生きるために。自分にとって大切な、箱庭を飾る置き物。レディやトワイライト、エンヴィスといった人たちを守るために。
 案内に従って、十字路を右に曲がる。次は、左。また左、そして右。いくつもいくつも、街の角を走り抜け、ターゲットへと迫る。どんどんと、距離が縮んでいくのが分かる。足は止まらない。苦しくて辛くて堪らないはずなのに、ふくらはぎが熱を持って引き攣る痛みさえ、新たな一歩を踏み出す活力へと昇華していく。前へ、前へ。先へ、先へ、その先へ。一心に、その願いだけが彼女の内側を満たしていく。
 最後の角を曲がった。遠心力に振り回されるバランスを無理矢理に立て直し、坂道を一気に駆け上がる。この先に、タキトゥスがいる。タブレットに入力した位置情報と、自分自身の現在地がどんどんと接近していく。後少し、目的地は、すぐそこだ。
 試練が終わることに歓喜を感じ、そこから更なるエネルギーが生み出されてくる。だからなのか、彼女は疲れ切っていたにも関わらず、ところどころに瓦礫が散乱し、穴だって空いている不安定な道を、奇跡的に一度もつまづかず疾走した。坂道の頂まで残り数メートル。ここまで近付いても下りが見えてこないそれは、かなりの急勾配のようだ。しかし、今の彼女が躊躇うことはない。深く息を吸い込み、一際強く一歩を踏み込むと、ハードルを飛び越える勢いで、坂の頂点からジャンプした。
「タキトゥスさーーー……んッ!!?」
 同時に、大声を上げ、坂の下にいるはずの、タキトゥス課長めがけて呼びかける。だが、その声はすぐに途切れた。
 彼女が飛び出した先、坂の向こうには、なんと地面は続いていなかったのだ。彼女がいたのは、どうやら車用の高架橋だったらしい。だがその橋は、天使の光に侵され、真ん中辺りからボッキリと折れてしまっていた。綺麗に現れた断面からは、鋭い金属片やコンクリートが、剥き出しになっている。
 まさか坂道の先に、下りがなかったなんてと、驚愕する。あまりにも夢中で、気が付かなかったようだ。きちんと周囲を確認しておくべきだったと反省しようが、しかし今となっては無意味。今の彼女は、切り立った崖から飛び降りたも等しい状態なのだ。
 タキトゥスは部下を引き連れ、その崖に身を隠すようにして潜伏していた。ここならばビルの残骸の影になって、天使から見つかりにくいと考えたのだ。彼ら組織的脱界者対策室が捕まえた脱界者たちは、皆無事魔界府中央庁舎への転移が済んでいる。天使の襲撃が来る以前に、速やかに逮捕し送還を完了していたのだ。今頃彼らは、いつもの手続きに基づき、適切に処遇が決められているはずである。しかし、問題は、対策室の悪魔たちの帰還についてだった。転移陣が発動しようとした時、天使の攻撃が都市を襲い、魔法陣のみならずビル全体の倒壊が起きた。何とか全員生きて逃げてきたが、通信状況が悪く、連絡が取れないでいる内に、この災害が発生したのである。対天使対策部の悪魔の姿も見えないのに、天使の攻撃がランダムに街を襲っては、人々を混乱と恐怖に陥れている。悪を排撃するための単なる破壊ではなく、まるで誰かと戦っているような様子だ。一体何が起きているのか、彼らは把握することすら出来ず、縮こまって耐えているしかなかったのである。
 そこへ、突如瓦礫の山の影が揺らいだかと思うと、一人の女性が現れた。しかも、彼らの上司の名を叫びながら。何事なのか、彼らの誰もが顔を上げ仰天した。
「危ないぞっ!」
 誰か一人が指差し危険を告げるが、もう遅い。皆が空を見上げる頃には、カーリはしがみついていた崖端から手を離し、重力に従って自由落下を続けるだけだった。
「うわぁあっ!」
 悲鳴とも、呻きとも付かない声が彼女の喉から勝手に漏れる。頬を冷たい風が煽り、全身の血が重力によってざぁっと移動する。
 落ちる。腹の底が凍り付くような不気味な恐怖に、カーリは堪らず目を瞑った。
 しかし、彼女が自身の脳内で、自分の死を想像しかけた時。彼女を苛む落下の恐怖と感触は、パタリと消失した。
「え……?」
 驚きと戸惑いに、訳も分からず目を開ける。俳優のように整った顔が、真上から彼女を見下ろしていた。
「怪我はないか?」
 薄青の瞳をパチリと瞬かせ、男が問う。カーリの体は彼に横向きに抱えられていた。
「えっ……あっ、あ、大丈夫……です」
 背中に感じる腕の力強さに、やたらと緊張する。まだ、瞼の裏に、血肉をばら撒きながら転落死する自身の映像がこびり付いている。頑張れば、血生臭い香りすら体験出来そうなほど、リアルな妄想だった。彼女にとっては、よほど想像しやすかったのだ。少なくとも、突然現れた紳士的な男性に颯爽と窮地を救われる、そんな漫画みたいな展開よりは。
 失礼な言葉を返していないか、おかしな態度を取っていないか、忙しなく考えながら、言うべき言葉を必死に紡いだ。
「ありがとうございます……タキトゥスさん」
「無事で何よりだ。君は確か……カーリくん、と言ったな?トワイライト室長の部下の」
 名前を呼びつつ礼を言えば、彼は大したことではないと謙遜する。抱きかかえたままの彼女を足からゆっくり降ろしてやれば、カーリは不安定なバランスで立ち上がった。
「は、はい、そうです……あの、トワイライトさんたちのことなんですけど」
 乱れた髪を手で撫で付け、懸命に彼からの視線を塞ぎながら、話す。
 まだ鼓動がどきどきとうるさいままだった。落下の恐怖を味わったせいなのか、タキトゥスに救われたからなのか、よく分からない。他人に傷付けられるのが当たり前と思ってきた彼女は、見知らぬ他人から与えられる、見返りを求めない優しさに、未だ慣れないでいた。
「?彼が、どうかしたか?」
 しかしタキトゥスは、ドギマギする彼女をさほど不審がりもせずに、あくまで紳士的に接した。穏やかな声音で先を促され、カーリは苦手な、さほど親しくない相手へのコミュニケーションを試みる。
「私たち、天使が襲ってきた時に、トワイライトさんたちとはぐれちゃって。それで、タキトゥスさんなら何かご存知かお聞きしたくて来たんです」
 やや明瞭さに欠ける説明をしながら、そっと、目線を上げてタキトゥスの顔を窺い見る。
「そうか……だが残念なことに、彼の居場所は私も把握していないんだ。天使の魔力のせいで、通信が安定していなくてね」
 彼は、何か考え事をするかのように、顎を上げ視線を上空に彷徨わせながら、申し訳なさそうに謝罪した。
「そうですか……じゃあ、探すのを手伝ってもらえませんか?」
 カーリは、やはり抑えきれない落胆の気持ちを抱えながらも、きちんと思考を切り替えて、再び質問を投げかける。タキトゥスの瞳が、意外そうに見開かれた。
「私たち二人じゃ、どれだけ頑張っても無理だと思うんです。実際、ここに来るまでに一人は怪我をしてしまって……私が、探そうなんて言わなければ、良かったんですけど」
 胸元で両手を握って、切々と訴えかけるように言葉を紡ぐ。その途中で、自身の罪を思い出してしまい、憂鬱な気分になったが、頑張って平静を装った。
「でも、トワイライトさんたちを見捨てて、先に逃げるなんて出来なくて。だから、もしよろしければ手伝ってほしいんです。皆で探せば、きっと見つかるのも早いでしょう?」
 誠実そうに、心の底から彼らを案じているように、見せかける。もちろん、全て本心ではあるのだが、若干意図して作り出した、不安げな表情を浮かべておいた。これならば、上司たちを心配する従順な部下として、タキトゥスの目に映るはずである。
「ですから、」
「無理だな」
 助けてほしい、と言う前に、冷水のような容赦のない返答が浴びせられた。
「えっ?……ど、どうしてですか!」
 あまりに衝撃的なことに、一瞬思考がフリーズする。何を言われたのか、すぐには理解出来なかった。
 無理?無理とはどういうことだ。一体何故、無理だと言えるのか。これだけの人数を抱える部署だ。全員とは言わぬまでも、数人だけでも貸し出せるはずなのに。
「どうしてだと?言うまでもないだろう。天使が破壊を繰り返す街で、誰が人探しなど手間のかかることをしたいというんだ」
 慌てて我に返って尋ねると、タキトゥスは冷徹な態度で彼女の問いを一蹴した。こちらをまっすぐ見つめてくる薄青の瞳には、分かりきったことを聞く者への呆れと侮蔑が、ふんだんに込められているように感じる。
「でっ、ですが、トワイライトさんたちは?」
 背筋に氷の刃を突きつけられているような恐怖を覚えながらも、カーリは気丈に食い下がった。
「トワイライトは、それと奴の部下も、戦闘能力を持つ者だろう。今頃、無事に逃げ出しているんじゃないのか?お前たちの方が見捨てられている可能性は高いぞ」
 だが、タキトゥスは変わらずに、感情のまるで見えない声でもって、彼女の憂いを切り捨てる。
「トワイライトさんはそんな悪魔じゃありません。酷いこと言わないでください」
 流石に、カーリも気分を害してやや強めの口調で反発した。自分の尊敬する対象を貶されれば、当然の反応だろう。
「あぁ、それは悪かったな」
 分かりきっていたくせに、タキトゥスはわざとらしく失礼を詫びた。そして、一度頭を下げたことを言い訳にするかのように、身勝手な言い分をぶつけてくる。
「だが、これ以上時間を浪費出来ないもの事実なんだ。ここにもいつ、天使の攻撃が飛んでくるか分からない。更なる被害拡大を防ぐためには、一人でも多く帰還させるしかないんだよ」
 タキトゥスにとって、彼女の意見を撥ね付けることは、赤子の手を捻るより簡単なことだった。このカーリとかいう女はその上司トワイライトより、格段に御し易い。交渉に長けていないのはもちろんのこと、元来の気弱らしい性格が災いして、ほとんど全くと言っていいほど己の言い分を伝えられていなかった。頼りないことだ。しかしこの方が、余程楽で助かると、タキトゥスは嘲笑する。今の彼女には、何も論理的な主張がない。ただ激しい感情に任せて、喚いているのと同じことだ。動物のように鳴くだけのような彼女に、苦労することは何もない。
「幸い、先ほどハデスの転移管理部と連絡が取れた。あと五分もすれば、魔法陣での帰還ルートが開かれるだろう。術式が展開され次第、我々はすぐに、」
「そんなっ、じゃあ、トワイライトさんたちは見捨てるっていうんですか!?酷過ぎます!」
「仕方のないことなんだ。分かってくれないか。大いなる目的のためには、少量の犠牲はつきものなんだよ」
 転移する。つまりは、安全なところに逃げると言うタキトゥスに、カーリは驚いて反論した。けれど、いくら苛烈に抵抗しても、所詮はただの感情論。尤もらしい理論を組み立てて発言するタキトゥスには、なす術がない。
「私だって努力はした。最大限力は尽くしたが、どうしようもないんだ。他に道があるのなら、教えてほしいくらいだ……」
 あのトワイライトの部下とは思えないほど、あっさりと撃破されてしまう彼女を、内心気の毒にすら感じながら、タキトゥスは話を締め括った。
「何だ?」
 そこへ、部下の一人が近付いてくる。彼は簡単にカーリから視線を外すと、部下の方を向いてしまった。
「タキトゥスさん!!」
 懸命に呼びかけても、彼は耳を貸すこともなく、腕を組んで報告を聞いている。話が終わったと思えば、彼は安堵したように頷き、深く息を吐いた。
「あぁ、そうか……分かった。これで一安心だな」
 カーリはその横顔を、唇を噛み締めきつく睨み付けるが、その行為に意味などない。感情をぶつけるばかりで、上手く彼を説得出来ない自分自身の無力さに、苛立ちと怒りが込み上げてきた。
「さぁ、そろそろとのことだ。君はDクラスだろう。戦う力を持たぬ悪魔の避難は最優先だ。我々と共に、ハデスに戻ろう。あまり時間はないが、怪我をしたという仲間も近くにいるのなら、急いで連れてきなさい」
 そんな彼女の内心に気が付いているのかいないのか、タキトゥスは平然とした態度で、彼女に避難を促してきた。表向きは優しげな声色を装っているが、今更演じたところで、逆効果となるだけだ。
「待ってください、トワイライトさんは!?エンヴィスさんも!置いてはいけませんよ!!」
「くどいな!時間がないと言っているだろう!」
 カーリがしつこく追い縋ると、彼はすぐに本性を現して叫んだ。過敏気味の聴覚を大きな声に刺激され、カーリは小さく息を飲む。どくりと跳ねた心臓から、怯えの気持ちが血流となって全身を巡った。
 蛇に睨まれた蛙よろしく、その場に硬直して突っ立っている彼女を、タキトゥスは氷のような目で見遣る。あまりにも冷酷かつ、無機質な瞳に、カーリは愕然とした。
 これが、インペラトルとなる男の眼差しなのだろうか。インペラトルとは、これほどまでに非情にならなければ、手に入れることの出来ない地位なのだろうか。
(こ、怖い……!!)
 純粋な恐怖が、彼女の胸中を占める。だが、数秒して、別の思考が脳内をよぎった。
(でも……ここで私がやらなきゃ……)
 今、タキトゥスを動かすことが出来るのは、カーリだけなのだ。ここで行動を起こさなければ、最悪の場合、トワイライトたちは死に至る可能性だってある。せめて、安否だけでも確かめてもらわねば、安心して逃げることなど出来ない。そして、それを可能にする術を持つのは、カーリだけなのだ。
(私しかいないんだ……!!)
 自分しかいない。彼らを、命の危機から助け出すことが出来るのは。
 カーリの胸に、歓喜に満ちた義務感と使命感が膨れ上がってくる。
 こんな時を待っていた。自分が誰かにとって、唯一無二の救いとなる時を。
 傲慢な考えかも知れない。しかし、今のこの状況においては、それこそが真実だ。
 トワイライトとエンヴィスを助ける。その目的のためなら、どんな手段だって、厭わない。タキトゥスになど、負けている場合ではない。
「わっ、私にだって、時間がないんですっ!!」
 身震いと共に、自分を奮い立たせる。息を目一杯吸い込んで、大きな声を出すと、勢いよく右腕を上げた。心からの叫びが、朗々と辺りに響き渡る。
「な……っ!」
 それまでの弱々しい調子から豹変した、強気な彼女の態度に、タキトゥスは驚いて振り返る。そして、彼女が手にした物を一瞥するなり、瞠目した。慌てて自身の胸元に目を落とすと、小さな赤い光が照射されているのが視界に入った。
「今すぐトワイライトさんたちを助けないと、危ないかも知れないんですっ!お願いですから、どうか、私の言うことを聞いてください。でないと、今すぐあなたを撃ちますよ!?」
 ストラップをつけた彼女の手首には、細い筒状の何かが取り付けられている。形状的に、間違いなく銃だろう。
(上手くいって!お願い……!)
 カーリは、内心でハラハラとしながら、タキトゥスを睨む。
 これが、レディの提案した、力づく作戦だ。銃を突きつけ、協力してくれないなら撃つと脅しつける。脅迫以外の何ものでもない作戦だが、これならば、確実に彼に言うことを聞かせられると踏んだのだ。
「お前……!」
 正面切って武器を突きつけられ、タキトゥスの頬が引き攣る。まさか、彼女が銃器を所持しており、剰えそれを自分に向かって突きつけてくるとは、想定外だった。
 尤も、彼女の持つ武器の正体は、既に推測がついている。周囲の魔力を吸収し、弾状にして撃ち出すことの出来る、半ば玩具じみたいアイテムだろう。単体での魔力をほとんど有さない物だからこそ、この場にいる誰も気が付かなかったのだ。つまり、相当弱いアイテムということである。例えまともに食らったって、死にはしないだろう。しかし、そんな物でも、武器には変わりない。正々堂々と、向き合った状態で銃口を向けてくるカーリの度胸に、驚愕する。てっきり、自信など皆無の、気弱な女だと思っていたが。こうも大胆な行動を取ってくるとは、あまりにも予想外だ。
「お前、課長に何をする!」
「制圧しろ!」
 それまで、我関せずとばかりに素知らぬふりを貫き通していた部下たちが、ただならぬ空気に気が付く。流石に、あのタキトゥスが目を剥いて佇立している様子は、おかしいと判断したのだろう。気色ばむ彼らを、カーリは甲高い声で牽制した。
「動かないで!あなたたちの上司を、撃ってもいいの!?」
 彼女の言葉を聞いた途端に、部下たちは皆血相を変えて足を止める。当たり前だろう。誰だって、己の上司が人質に取られたとなれば、迂闊に近寄ることは出来ない。もしも失敗をすれば、単に罪悪感に苛まれるだけでなく、魔界府職員としてのキャリアが、永遠に失墜することとなるのだ。
 躊躇し、戸惑って視線を彷徨わせる彼らを、カーリはちらりとだけ眺めてすぐに目を逸らす。
「もう何も、怖くありませんよ。法律も、あなたの部下たちも……何も怖くない。訴えたいなら、どうぞご自由にしてください。ただし……私の命令に、従ってくれたら、ですけど」
 そして、冷ややかな表情でタキトゥスを見据え、淡々と告げた。彼女の真っ直ぐな瞳と声は、これが決してただの脅しというだけではないと、如実に伝えていた。自分の邪魔をする者は、誰であろうと直ちに排除する。そう言いたげな目だ。
「私は、ただ、大事なものを守りたいだけなんです。トワイライトさんやエンヴィスさん、レディちゃんたちに、私は何度も救ってもらいました。それなのに……私は一人だけが、何も出来ないままなんて、嫌なんです。たとえ、今後の未来全てを投げ打つ結果になったとしても、それが今あの人たちの力になるなら、私は構いません。助けない方が、きっと後で後悔することになると思うから」
 冷静に、あくまで感情を見せないように、平静を装って声を発する。本当は、怖くて怖くて、堪らなかった。今すぐ逃げ出したいくらいだ。だが、ここで怯んだら負けだと、必死に己の心を制御する。彼女の声音は、ともすれば周囲の騒音でかき消されそうな、静かなものだったが、しかししっかりとタキトゥスの耳に届いた。
「タキトゥス課長……助けてください。課長の力が、必要なんです。手伝ってくれますか?」
 タキトゥスを見上げて、切々と訴えかける彼女。まるで、相手を脅しながらの言葉とは思えない、必死な懇願だ。言動が一致していない彼女を、タキトゥスはあっさりと一蹴する。
「ふんっ、笑止千万だな」
「えっ?」
「お前は、何も分かっていない。こんなもの、脅しですらない、児戯だ。子供のワガママと変わりない。銃口を向けさえすれば、誰でも素直にお前に従うと思ったか?とんだ勘違い、ご苦労だったな」
 ぴしゃりと撥ねつけられ、カーリは咄嗟に口籠った。少し威圧すれば、簡単に萎縮する彼女を、タキトゥスは嘲笑う。
「そのオモチャは、没収させてもらう……どうせお前には、撃てやしないだろう」
「ッ!!」
 反論の言葉を探している隙をついて、銃を奪ってしまおうと手を伸ばす。カーリは大袈裟に驚いて飛び退き、彼から逃れた。
「わ、私は本気です!あなたのことだって、撃てますよ!!」
 急いで銃を構え直し、再びタキトゥスを狙う。今度はこめかみに向かって照準を合わせ、引き金代わりのボタンに親指を置く。緊張と恐怖とで、震えそうになる身体を必死に抑え、虚勢を張った。
「これがワガママだって仰るんなら、私は別に、それでも構いません!私のことどう思っていようが、私は気にしませんから!傲慢でも、強欲でも、自分勝手でも、何でも好きに思っててください!」
 明らかに不利だと分かっていても、彼女はめげない。タキトゥスをキッと睨みつけてくる顔は、どれだけ醜態を晒そうとも、決して自分の要求を捻じ曲げないという、強固な意志を感じさせた。
「でも、私は誰にどう思われようと、自分の考えを変える気はありません!憎まれても、嫌われても、自分のしたいことを好きにするだけです!!」
 これが、臆病な彼女の本性だ。普段は、圧倒的に自己への自信が欠けているせいで、他人に自分を曝け出せず、常に相手の動向を窺うために気弱に見えるが、本来の彼女は、とても芯の強い悪魔なのだ。自分のペースで話を出来さえすれば、どんな相手にも正直な気持ちをぶつけられる。
「だって、悪魔なら、それでもいいんでしょう!?身勝手でも、冷酷でも、むしろ悪魔にとっては誇りになるって!それを教えてくれたのは、トワイライトさんたちなんです!だからっ、私は、自分を肯定してくれたトワイライトさんたちを、助けたいのっ!!」
「ふざけるなっ!!こんな茶番に、付き合っていられるかっ!!」
 自分自身のために生きて、何が悪い。彼女は実に悪魔らしい思想を振り翳し、タキトゥスに迫る。流石のタキトゥスもこれは容認出来ず、憤怒に染まった声で、彼女を叱り付けた。ぐっと手を伸ばし、彼女の手首ごと、自分に向けられている銃を押さえようとする。
「や、やめてっ!」
 カーリは咄嗟に、腕を引き抵抗しようとするが、タキトゥスの力は強く、振り払えない。それでもどうにか引き剥がそうと暴れる彼女に、タキトゥスは更に怒号を浴びせた。
「お前一人の勝手な欲望のために、部署全体を危険に晒せないんだよっ!!戯言も程々にしろ!」
「離してくださいっ!離してっ!!」
 両腕を片手で掴まれ、強く引っ張られる。非力な彼女では、男性の力に勝てるはずもない。抵抗も虚しく、ずるずると足が前に滑っていく感覚に、カーリは恐怖した。このままでは、と背筋が冷たくなる。そしてついに、手首をストラップから引き抜き、タキトゥスに銃を取らせてしまった。
「あっ!!」
 タキトゥスは素早く、取り上げた銃をこちらへと向けてくる。胸元に現れた赤い点を見て、彼女は固まった。
「カーリっ!!」
 ちょうどその時、彼女の耳にレディの大きな声が飛び込んでくる。彼女のどこまでも明るい声音は、周囲の悪魔たちの視線を一瞬で引き付けた。
「れ、冷血鬼じゃん!カーリに何してるのっ!?」
 わずかに足を引きずりながら、ぴょこぴょこと近付いてきたレディは、二人の様子を見るなり立ち止まる。そして、彼女に銃口を突きつける、冷血鬼タキトゥスの顔を険しい表情で睨んだ。
「あんた、カーリのこと脅したの?酷い……アタシ、絶対許さないから!!」
「好きにすればいいさ。俺はただ、彼女から危険物を取り上げただけだからな」
 レディの苛烈な怒りを眼前にしても、タキトゥスは動じない。カーリから奪った銃を片手で弄び、危害を加えるつもりはなかったのだと、わざとらしくアピールした。
「ふざけないでっ!」
「これ以上、仕事の邪魔をするな」
 レディが食い下がっても、彼は決して取り合わない。カーリたちには目もくれず、さっさと背中を向けて歩き出してしまった。
「そんな……!」
 カーリは愕然として、言葉をなくす。脅迫など、危険な橋を渡ったところで、結局タキトゥスを説得出来ないのであれば、意味がない。どれだけ努力を積み重ねたとしても、実際に行動として結果を表せなければ、トワイライトたちは救えないのだ。
 どうすればいいのかと、カーリは俯き、必死に頭を働かせる。しかし、今更彼女一人が頑張ったところで、解決策など容易には出てこない。簡単に解決出来る問題なら、タキトゥスだって、部下を見捨てるという苦渋の決断をしなくてよかったのだ。彼とて、葛藤がなかったわけじゃないだろう。だが、上に立つべき者として、インペラトルになるべき悪魔として、常に最善の選択をしなければならない。冷酷と言われようとも、仕方のないことだったのだ。
「ここまで来て、何も出来ないなんて………!」
 やはり、自分なんかではどうとも出来ぬ事態だったのだろうか。何とか出来ると考えたのは、傲慢なことだったのだろうか。身の程を知らない願いだったのか。決意だけでは、何も成せやしない。実力がなければ、現実を変えることは出来ないのだ。
 彼女は顔面を蒼白にして、ひび割れたアスファルトを凝視する。絶望感と無力感が、ひしひしと彼女の胸に打ち寄せてきた。握り締めた両の拳が、震える。
「ん?何だ?あれ………」
 呆然とするカーリの耳を、誰かの訝しげな声が打った。幾人かの悪魔たちが、空を見上げ、何かを目で追っている。その視線を辿って、カーリも同じ方角を眺めた。
「何?どしたの?」
 レディが首を傾げて、カーリに尋ねてくる。その質問に、答えようと口を開きかけた時だった。
 空の中で一瞬、眩い光がキラリと煌めく。まるで、夜空で星が輝いている時のような、短く、明るい瞬き。だが、今は日中。星などあるはずもない。見間違いか幻、あるいは、破損した幻術が起こす、不具合だったのだろうか。一体何なのだろうと、その場にいた全員が、頭に疑問符を浮かべた。その直後だ。
「ッ!?ぅぐぁっ!」
 突如、何か大きな物体が、凄まじいスピードで飛来した。まるで隕石が地上に落下する時のように、質量のある硬い物が、高速で地面に落ち穴を開ける。誰かが驚いて呻く声が、風に乗って聞こえてきた。
「なっ!?何だ!?」
「何か飛んできたぞー!」
「うわぁああーっ!」
 巨大なエネルギーが勢いよく弾け、強風となって辺りを吹き荒らした。巻き上げられた砂塵がもくもくと立ち込め、視界を失った悪魔たちが、混乱したように逃げ惑う。
「っ!……何だ、何が起きた!?」
 腕で顔を庇っていたタキトゥスが、困惑と苛立ちの混ざる声を発した。
「落ち着け!現状を報告しろ!」
 しかし、どれだけ声を張り上げても、彼の部下たちは誰一人として答えようとしない。皆、本当は怯えていたのだ。天使の粛清によって、街が破壊され、悪魔たちがバタバタと倒れていく光景に。
「し、死にたくないよぉお~っ!」
「助けてぇえっ!」
「こんなことなら、子供たちの授業参観に」
 これまでは、タキトゥスという表面張力で、ギリギリ耐えることの出来ていた感情の制御が、途端に上手くいかなくなる。恐怖と不安が一気に膨れ上がり、彼らは完全にパニックに陥っていた。
「タキトゥスさん……っ!」
 走り回る悪魔たちを何とか避けながら、カーリは彼の背中に呼びかける。早く指揮系統を回復しなければ。制御を失った集団など、ただ数が多いだけの的だ。危険なだけである。
「分かっているっ!」
 もちろんそんなこと、優秀な指揮官であるタキトゥスは理解していた。一刻も早く事態を収めようと努力するが、だからといって、すぐに対処出来るわけではない。彼の部下たちは、口々に苦悶に満ちた悲鳴や文句、絶叫を上げるばかりで、上司の言葉にちっとも耳を貸さない。阿鼻叫喚の間を縫って、一本の矢のような何かが、鋭く飛んできた。
「ッ!!!」
「ひっ!」
 ビュン、と風を切った硬い何かが、タキトゥスの顔のすぐ横を通り過ぎる。突然のことに、カーリは小さく悲鳴を上げて身を竦めた。彼らを襲った謎の物体は、そのまま真っ直ぐ飛んでいくと、近くに落ちたコンクリートブロックに勢いよく突き刺さる。強固なコンクリート塊に、大きな亀裂が走り、パラパラと細かな破片がこぼれ落ちた。
「さぁて……どういうことか、説明してもらいましょうか、タキトゥス課長。あなたの責任は、重いですよ?」
「え、トワさん!?」
 聞き覚えのある声音に、レディが頓狂な声を発する。未だ視界の効かない中で、トワイライトのわざとらしい苦笑が聞こえた。
「いや~、流石は天使サマですよねぇ~。少し交戦しただけで、こうも手酷くやられましたよ。まさか、ここまでとは……思っていませんでした」
 砂埃の向こうから、低い声が風に乗って流れてくる。それはまるで笑っているようで、しかし限りなく恐ろしい音をしていた。
 やがて、舞い上がった埃や砂塵が沈み、視界が晴れた頃。ようやく彼は、彼女たちの前に姿を現す。
「だ、大丈夫なんですか!?」
 その惨たらしい様子に、カーリは思わず瞠目する。
 黒色のスーツは擦り切れ、そこから覗く肌にも、無数の小さな擦り傷や切り傷が出来ている。頬に付着した泥汚れを手の甲で拭うと、皮膚にこびりつき固まった、赤黒い血液の欠片がこぼれ落ちた。
 まさに、ボロボロと言って差し支えない姿。命に別状はないのかと、カーリはすぐにでも駆け寄って確かめたくなる。
「あぁ、カーリくん。無事で何よりだ。今は、少し離れていてくれるかい?」
 しかし、トワイライトは平気な顔をして、指先で彼女の背中を押す。上手くは言えないが、何となく、有無を言わせぬ気迫を感じて、レディはぞっとした。
「カーリ、行こ」
「え、で、でも……」
「あぁ~っ、クッソ!!最近こんな目に遭ってばっかりだ!!」
 レディに促されるも、カーリは決断しきれずに躊躇う。葛藤しながらトワイライトを見上げると、ふと耳に大音量の怒号が飛び込んできた。
 ひび割れ、若干円形にへこんだ大地の上で、吠えている男がいる。その表情は、憤懣と恥辱とにまみれ、悔しげに歪んでいた。
「エンヴィスさん!?」
「血まみれじゃん!!」
 だが、彼もまた、決して健康的な状態ではなかった。むしろ、トワイライトよりも重傷だ。カーリとレディは、揃って裏返った声を上げる。エンヴィスは、青色のスーツが大きく変色するほど出血していた。
「な、何があったの!?それ、天使にやられた傷!?」
 レディがぴょこぴょこと不恰好な動作で駆け寄る。ゆっくり上体を起こしたエンヴィスは、それを見て、怪訝そうに眉を顰めた。
「何だ?お前、怪我してるのか?」
「う~……その話は、後で!今はエンちゃんが先でしょ!」
 一瞬、しまったという顔をして呻いたレディだったが、すぐに気を取り直すと、エンヴィスの意識を逸らそうとする。分かりやすい誤魔化しに、エンヴィスは何か言いたそうにしていたが、やはり体力的にきついのか、大人しく口をつぐむ。カーリはそんな彼の前にしゃがみ込み、彼の姿を目にすると、驚いた様子で息を飲んだ。
 エンヴィスの身体には、トワイライトと同じく、至る所に細かな傷がついていた。しかし、中には流血するほどのものもある。特に目を引くのは、左肩に出来た銃創のような傷だ。弾丸は貫通したのか、体内に破片が残っていることもなさそうだが、その出血量はかなり多い。頬にも、口まで到達しているのではないかと思うほどの、深い裂傷が出来ていた。
「ぅ……」
 直視するのも恐ろしい、酷い状態に、カーリの形のいい眉が寄る。
「うへぇ……痛そ~」
「痛ぇよ。ハミエルとかいうあいつ、思いっ切りやりやがって……死ぬかと思ったよ」
 思わずレディも、同情的な視線を向けていた。彼女の呟きに、エンヴィスは憤りを含んだ憮然とした調子で答える。彼の話から、トワイライトと二人、天使の魔法によってここまで吹き飛ばされてきたのだということが分かった。
 エンヴィスはポツポツと、復讐の天使ハミエルという人物との戦況を説明しようとしていたが、その声は掠れており、顔色も悪い。出来るだけ平静を装っているようだが、無理をしていることは明らかだった。失血と痛みで意識が朦朧としているのか、明るい色の瞳は完全に据わっている。傷口からは、未だに血が流れ続けていた。
 早く手当てしないと、危ない。カーリは慌てて、ポシェットを漁ると、応急止血用のガーゼを取り出した。
「トワイライト、お前は」
 一方のタキトゥスは、自分に向かって剣を投げつけてきたトワイライトと、真っ直ぐ対峙していた。
「話すのはあなたではない。私です。タキトゥス課長」
 魂胆は何だと、半ば返答の予想出来る問いを投げかける。すると彼は、素早く剣を作り出し、再びタキトゥスに突きつけてきた。
「トワイライトさん!?」
「タキトゥス課長に、何をするつもりです!」
 周囲の悪魔たちがざわめき、彼を止めようと口々に叫ぶ。
「トワイライトさんっ!」
「エンヴィスさん、動かないで!」
 エンヴィスもまた、トワイライトの奇行を理解出来ずに、制止の声を上げていた。深手を負ってふらふらなのにも関わらず、立ち上がろうとする彼を、カーリはレディと二人がかりで取り押さえる。
「タキトゥスさん。あなたは初めから、このつもりだったのではないですか?」
 トワイライトは彼らのやり取りを横目に見ながら、決して動じない冷静な声で尋ねかけた。タキトゥスの顔色には、未だ変化がない。しかし、周りの彼の部下たちからは、徐々に訝るような視線が生まれ始めている。
「街を襲う天使に、私を殺させるつもりだった。加護印を確認しに行ったのは、内部に組み込まれていた、位置情報発信装置を機能させるためでは?」
「何?」
「どういうことだ?」
 思わせぶりなことを口にすると、誰もが皆予想通りに反応した。
「タキトゥス課長は、既にご存じだったんだ。今回の一件に、天使が関わっていることをね」
 思い通りに返ってくる感情を楽しみさえしながら、トワイライトは静かに話し続ける。その姿に、何か嫌な気配を覚えたのだろう。数人の悪魔が、ゴクリと生唾を飲んだ。
「ターゲットたちは以前に、天使の加護印を受け取っていたんだ。つまり、一度粛清が入った後だったんだよ……我々に伝えられた、抗争によって勢力が半減したという情報は、虚偽だ。タキトゥスさんは、それを知っていて、隠したのだよ」
 彼らの注意が一斉に自分を捉えたことを理解すると、わざとらしく間を開けてから、もったいぶって告げる。驚きと困惑が、波紋となって辺りを広がった。
「まさか……!」
「嘘だ!」
「私も彼と一緒に、確認しに行ったからねぇ。この目で見たのさ。光の力に眩く輝く、天使の加護印をね」
 幾人かの悪魔たちが、声を荒げて否定を口にする。トワイライトはそれを、おもむろに首肯して打ち砕いた。彼が、タキトゥスと共に組織のリーダー格を捕らえたことは、彼らも知っているはずだ。実はそれは表向きの理由で、本命の仕事が別にあったのだという理屈を、優秀な彼らなら容易く理解出来る。
「トワイライトさん、いくら何でもそれは暴論だ!」
「タキトゥス課長が、そんなことをするはずがない!」
「そうだそうだ!大体、メリットがないだろう!」
 しかし、かといってそれを鵜呑みにするほど、彼らは冷血でも、トワイライトを信用してもいなかった。激しい口調で猛抗議する彼らからは、タキトゥスに対する絶対的な信頼が見て取れる。
 確かに彼は冷徹で、恐ろしい悪魔だ。だが、だからこそ、明らかに危険があると分かっている状況に、彼が進んで飛び込むだろうか。天使など、並大抵の悪魔では対抗など決して能わない、災害のような存在だ。巻き込まれたら最後、自分も同僚たちも一概に死亡する可能性だってある。そんなところに首を突っ込みたがる悪魔が、どこにいるだろう。ましてや、冷血鬼とも評される聡明な男が、何のために死地に赴くのか。
 彼らは悪い予感を押し殺し、トワイライトに詰め寄った。心のどこかで、彼が疑惑を払拭してくれることを祈り、またそれは不可能なことだと悟りながら。
「メリットならあるじゃないか。優秀な君たちなら、見当はついているだろう?」
 しかしトワイライトは、彼らの期待を粉砕するような態度で、嘲笑を浮かべて一蹴した。
「今回の任務は、ユリウス部長肝入りの案件だ。多少のリスクがあったとしても、成功を収めれば莫大な成果となる。インペラトルの階段を、また一歩上れるほどの、大きな手柄にね……剰え、邪魔な私を排除出来るとなれば、一石二鳥だろう。タキトゥスさんは、懸念材料は完膚なきまでに叩き潰さないと眠れぬお方だからね」
 ペラペラと、立板に水の如く紡がれる、悪意のある言葉。どこか自虐的な笑みを浮かべて、語るトワイライトを、タキトゥスは鋭く睨んでいるしか出来なかった。ここで何か口を挟んで反論をしたとしても、揚げ足を取られて逆効果になりかねないと分かっているからだ。
「あり得ない!」
 部下の内の誰かが感情的に反発した。けれども、大半の者たちは、皆口をつぐんで黙りこくっている。優秀な警察部門職員たちだからこそ、気が付いてしまったのだ。トワイライトの言い分に、納得出来る自分もいることに。
「……君たちの方が、よく分かっているんじゃないのかね?君らの上司は、冷血鬼と悪名高い、脱界者対策部の捜査一課長様だ……目的のためなら、どんな卑劣な手段も選ぶ、効率的な男だろう?」
 追い打ちをかけるように、トワイライトの呑気な声が問いかける。確かに、と彼らは胸の内で頷く。
 タキトゥスは、目的のためなら手段を厭わない冷酷な男。自らの出世のために、部下の命を犠牲にすることくらい、何の躊躇いもなくやってのけるかも知れない。自分たちの死体を踏み台に、より大きな高みを目指すことも。完全にないとは言い切れないのだ。
 筆舌し難い疑念が、辺りを満たした。
「あなたにとって、この任務は、利益しかない得な案件だった。多少部下は犠牲になろうとも、彼らなど所詮ただの駒。湯水のように使うことの出来る、使い捨ての便利グッズ程度の認識だ。ターゲットたちを全て逮捕した功績さえあれば、責任を問われるようなこともない。むしろ、奇跡の生還だと、褒め称えられるかも知れない……躊躇う理由は、微塵もない」
「違う!!!」
 誰も何も言わないのをいいことに、トワイライトは更に調子付いて喋り立てる。ほとんど言いがかりに近いその言い分に、とうとうタキトゥスの堪忍袋の尾が切れた。
 つかつかとトワイライトに歩み寄り、ぐいと胸ぐらを掴み上げる。背丈の小さい彼の靴の踵が、地面を離れ宙に浮いた。
「いい加減にしろよ……!トワイライト、これ以上俺を侮辱するなら」
「するなら、何です?」
 至近距離から睨み付けられても、トワイライトは平然としたままだった。タキトゥスの射殺すような視線をかわし、淡々と問いかけてくる。あまりにも変化のない彼の態度に、流石のタキトゥスも戸惑った。トワイライトはその隙をついて、再び疑問を口に出してくる。
「では、どういう了見か、教えていただけますかな?真実を隠蔽し、強引に捜査を進めたのは……一体何のためだったのでしょう。当然、お答えいただけるのですよね?」
「貴様……!」
「ほーぅ。しらばっくれる気ですか。それがあなたの抗弁というわけですかな?で、あるならば残念ですが……そんな幼稚な悪あがきが、今更通じると、本気でお思いですか?」
 怒りに煮え立つタキトゥスの思考回路に、トワイライトの声が、強制的に割り込んできた。背中に突き刺さる、無数の悪魔たちからの視線。聡明な彼は、それが何を意味しているのか、即座に理解してしまう。
「……っ!」
 これが、トワイライトの力か。
 もはや、本能的といってもいい直感が、タキトゥスの脳内に染み渡る。
 ふっと力の抜けた手から、トワイライトが素早く逃げ出した。
「さぁ……どうします?タキトゥス課長。返答如何では、あなたが今まで必死の思いで築き上げてきた地位から、転げ落ちる羽目になるかも知れませんよ……?」
 とん、と地に足をつき、乱れたスーツを整えながら、彼は尋ねてくる。相手の反応を観察するような目つきに、彼の作意が全て映っているようだった。
 タキトゥスはぐるりと周囲を見渡し、部下たち一人一人の顔を確認する。彼らの瞳は、どれも疑心と暗鬼に包まれ、濁っているようだった。
 嵌められた。タキトゥスは愕然とする。
 彼の部下たちは皆、トワイライトによって誘導され、猜疑を深く植え付けられてしまった。彼らの前で、根も葉もない決めつけに、熱り立って反駁した自分の態度は、図星を指され、怒っている様にしか見えなかったことだろう。
 タキトゥスへの信用は、完全に失墜した。尊敬すべき上司としての、立場はもうない。全て、奪われてしまった。この、恐るべき男の手によって。
 圧倒的な、驚愕と畏怖とが膨れ上がってきては、タキトゥスの胸中を圧迫する。これが、これこそが彼の本気なのかと、息を飲んだ。
 言葉巧みに周囲を煽動し、支配する、トワイライトという悪魔は、まるで”民衆の指導者(デマゴーゴス)”だ。
「お、俺は……っ」
 タキトゥスは、呆然と掠れた調子の声を発する。しかし、その後に付けるべき言葉が、全く思い浮かばない。明晰で、常に高速で回転をしているはずの頭がさっぱり働かなかった。こういう時は何を言うべきか、いつもの自分なら作るべき表情や仕草まで、精緻に理解しているはずなのに。
「何です?……タキトゥスさん」
 思い惑うタキトゥスに、トワイライトが片眉を上げて問いかける。彼が次にどう出るか、期待しながら待ち構えている感じがした。
 敵わない。
 怜悧なタキトゥスには、分かってしまう。これ以上、彼と戦う術はないと。彼が今取れる最善の策は、全てを話してしまうことだ。でなければトワイライトは、その巧妙な話ぶりを用いて、あることないこと根拠のない噂やデマを部下たちに流し込んでしまう。そうなれば、本当に終わりだ。部下からの人望を失えば、タキトゥスの道は絶たれる。野心を潰えさせないためにも、ここは潔く屈服するべきだと、冷徹な思考が弾き出していた。
「待て……待ってくれ……話を聞いてくれ」
 ぼそぼそと、語尾の震えた声を出す。それまでのタキトゥスの態度からはかけ離れた、何とも頼りない声音だった。部下の何人かが驚いたように目を見開いて、彼の顔を凝視する。トワイライトはそれを、腕を組んで黙って見ていた。
「そんなつもりはなかったんだ……加護印を落とした天使が、ここまでの強者だとは、思わなかった」
 話し始めてしまったら、もう後戻りは出来ない。タキトゥスは覚悟を決めると、先ほどよりやや張りの戻った音吐で続ける。
「ですから、今更そんな弁明が、あなたの部下たちに通用すると?あなたも、ただ巻き込まれただけの被害者に過ぎないと、そんな身勝手な主張がありますかねぇ……」
 しかし、トワイライトは非情だった。彼のせいで、命の危機に瀕する羽目となったのだから当たり前だが、慈悲など何もない、冷淡な調子だ。だが、彼がそれ以上話す前に、どこか遠くから、男の咆哮が轟いた。
「トワイライトォオオーーーッ!!どこだぁぁぁ……っ!!!」
 誰の声であるか、考える必要もない。復讐の天使、ハミエルだ。
「厄介な……もう気取られたか。欺瞞の術式はばら撒いてきただろうに」
 宿怨を有り余るほどに含んだ、恐ろしい咆哮が轟く。空気をビリビリと震わすそれは、耳にした者たちの肌を無条件で粟立たせ、胸の奥底に本能的な恐怖を生じさせた。
「トワイライトさん、どうするつもりです?」
 逼迫した状況に居ても立ってもいられなくなったのか、エンヴィスが問いかける。錫杖を杖代わりにして立ち上がる彼だったが、支えがあっても尚、彼の足元はふらついていて、顔色は悪かった。
「エンヴィスさん!」
 動いては駄目だと、押し留めるカーリの腕を払い除け、彼はトワイライトに歩み寄る。
「勝ち目なんて、あるんですか。あいつには、俺たちの攻撃は通用しないんですよ?こんなになるまで戦っても、血の一滴も流さない……そんな相手に、どうやって勝つっていうんです?」
 エンヴィスは低く、切羽詰まった声音でトワイライトを詰問する。彼の言葉を聞いて、周囲の悪魔たちはどよめいていた。もちろん、カーリはレディも一緒だ。
 トワイライトとエンヴィス。悪魔の中でもかなり戦闘に長けた二人が相手でも、天使は追い詰められるどころか、傷さえ負わなかった?そんなことが、あり得るのだろうか。エンヴィスの話が信じられなくて、カーリとレディは目を丸くする。
 だが、現実を受け入れられないのは、強い疑念に苛まれているのは、エンヴィスも同じだった。
 戦闘員として、それなりの経験を積んだ彼だから分かる。肌に伝わってくる、天使の光の力。その程度を考えると、あの天使は、同族の中でも比較的中位に位置する個体である可能性が高い。無論、これは経験に補強された直感程度の情報でしかない。魔力量を誤魔化す魔法はあるし、魔力量と戦闘能力が比例しない者など、悪魔の中にも多くいるからだ。だが、全く参考にならないかと言われれば、そうではないということを、彼はよく理解している。
 つまり、あの天使は、二人の攻撃に耐えることの出来る個体ではなかった。そのはずなのだ。彼は、そのパワーとスピードこそ脅威的だが、防御力、及びに冷静さは著しく低い。悪魔の弱点である天使の魔力を、ただ力任せに振り回しているだけに過ぎないのだ。従って、強い攻撃を受ければ大きなダメージを負うはずである。それが、エンヴィスの分析だった。恐らく、トワイライトも同じような結論に達したからこそ、連携技を繰り出すことにも協力的だった。ハミエルには、あの猛攻を耐え切ることは不可能だったはず。それなのに。
 彼は完全無傷の状態で、エンヴィスの前に現れ、剰え攻撃を浴びせかけてきた。全くもって、あり得ない事態だ。事前の分析では、彼にあそこまで強力な一撃が放てるとは、到底思えなかったのに。彼は、追い詰められた途端に急に、強くなったかのようだった。それも、爆発的に一気に。
「今すぐ、逃げるべきなんじゃないですか?」
 窮地に瀕して、能力が超常的に向上するなど、漫画やゲームの中でだけの話だ。火事場の馬鹿力とはよく言うが、そう都合よく発揮出来る力ではない。可能性が全くないわけではないが、それよりは別の可能性を考えた方が得策だ。
 彼は、何か得体の知れない手段で身を守っている。そして、自らの戦闘能力を劇的に強化している。トワイライトは手札を暴いたと口にしていたが、流石のエンヴィスにも、彼を信じることが出来ないでいた。もしも、彼が間違えていたら。犠牲になるのは、彼の命だけではない。もっと多くの悪魔が、代償として支払われることになる。可能であるならば、直ちに撤退した方が、よほど安全だろう。少なくとも、成功率も分からない賭けに乗るよりは、マシだ。
「……そんなことが出来るならね」
 だがトワイライトは、彼の意見を苦笑いで吹き飛ばした。ハミエルがみすみす自分たちを逃がしてくれるとは、とても思えないからだ。
 天使の気配が、段々と近付いてきている。トワイライトの撒いた欺瞞を突破し、少しずつ居場所を嗅ぎつけ始めているのだ。今はかろうじて、タキトゥスの部下たちが展開した魔法で、存在を隠蔽出来ているが、それもいつまで続くか分からない。転移陣など、膨大な魔力を孕む魔法を使えば、即座に発見されてしまうだろう。走って逃げるにしても、上空からの死角のみを辿って避難することなど困難。反対に、発見されるリスクを跳ね上げてしまう。簡単に言えば、逃げ道などないのだ。アルテポリスに天使が現れた時点で、撤退の選択肢は失われた。
 どれもこれも全て、タキトゥスとかいう悪魔が、眼前の利益に飛び付かなければ起こらなかった悲劇だ。野心を燃やすのもいいが、そのせいで誤った方に向かったり、頭のネジを緩められたりしたら、困る。
「悠長にしている場合ですか!早く何とかしないと、俺たち皆、殺されるかも知れないんですよ!?」
 じろりとタキトゥスを睨み付けるトワイライトだったが、直後エンヴィスに反駁されて視線を逸らす。
「大丈夫さ」
 大人しく諦めることも、時には重要だ。勝利を狙うためだった努力は、他の道に向ければいい。今ならまだ逃げ延びる方法があるかも知れないのだから。拳を握り締め、エンヴィスはそう必死になって訴えかける。ところがトワイライトは、いつも通りの完璧な微笑を崩さないままだった。
「君たちが逃げる時間くらいは、稼いでみせるよ。あまり私を舐めないでほしいねぇ……」
 何故かその笑顔に、黒いものを感じて、エンヴィスはかすかに顔を強張らせる。
「……し、失礼致しました……失言でした」
 軽く頭を下げて謝罪すると、トワイライトは何ら気にしていないような調子で、にこにこと笑う。
「はっはっは、まぁ分かってくれれば、いいさ。至急、転移陣を用意してくれたまえ」
「かしこまりました」
 顔をタキトゥスの部下たちに向けてそう告げると、幾人かの悪魔たちが慌ただしく準備を始めた。動き出した状況に、カーリは咄嗟に流されそうになって、我に返る。
「ま、待ってください!トワイライトさんは!?どうするんですか!?」
「アタシたち、トワさんを助けるためにここまで来たんだよ!?」
 彼だけを置いて逃げるなど、出来ない。カーリの言葉に、レディも同調して強く懇願する。どうか手伝わせてほしいと叫ぶ彼女たちを、トワイライトはやや険の抜けた、温もりのある瞳で見つめた。穏やかな、しかし真剣なその目は、まるで父親のようなそれだった。優しくも厳しい、毅然とした父親のような。
「君たちの協力には、非常に感謝しているよ。だが、君たちがここで出来ることは、もうない。転移が始まり次第、即刻退避しなさい。エンヴィスくんを頼んだよ」
 彼は早口に告げると、くるりと踵を返し、そばで佇んでいたタキトゥスを振り返った。
「さて、タキトゥス課長。手を貸していただけますね?」
 有無を言わせぬ口調で、尋ねる。トワイライトに追い詰められた彼には、こくりと首を振るしか出来なかった。もしも断ったら、今度は何をされるか、全く分からないからだ。
「……分かった」
 戦々恐々としながらも、静かに返答する。トワイライトはそれを聞くと、獲物が罠にかかったと悦ぶような、嫌味たらしい笑顔を作って頷いた。
「では、行くとしましょう。これ以上、無駄なお喋りに費やしている時間はありませんからな」
 話を切り出したのは自分だというのに、何ともわざとらしい言い方だ。
「あっ、トワさん!!」
 そのまま立ち去ってしまう彼らを、レディは慌てて呼び止めた。しかし、彼らが応えることはない。徐々に小さくなっていく彼らの背中を、彼女は寂しそうに眺めていた。

  *  *  *

「いッ!!ッッッてぇえ~っ!!!」
 瓦礫に埋め尽くされた空間に、エンヴィスの絶叫が響き渡る。
「ちょっとエンちゃん、静かにしてよ」
「動かないでください」
 足をバタつかせて悶える彼を、レディとカーリは二人がかりで取り押さえた。
 トワイライトと別れた後、結局彼を止められなかった彼女たちは、そこかしこに築かれた瓦礫の山の一つに身を隠した。転移陣が形成されるまでには、少しの時間を要する。それまで、天使に見つからず、生き残るためには、こうする他になかったのだ。そして、息を潜めながら重傷を負ったエンヴィスの手当てに当たっていた。のだが。
「ぐ……っ!分かってる、よ……!いてて!」
 傷口に触れられる度に、エンヴィスが眉間に深い皺を寄せ、痛い痛いと騒ぐものだから、中々処置は難航していた。
「駄目だってば、動かないでよ!我慢してっ!」
「う、うるさいな……我慢、出来るなら、そうしてるっての……」
 無意識に逃げようとする彼の体を、レディは持ち前の怪力を使って阻止する。エンヴィスは、彼女の文句に反論しながらも、これでもかと顔を歪め、辛そうに息を吐いていた。
「ふぅ……っ、ふぅ……」
 あまりの激痛に、瞳がじわりと涙の膜を形成している。カーリもそれを見るとつい、同情的な気持ちになりかけるが、感情に流されてはいけないと、心を鬼にして手を動かし続ける。エンヴィスはギュッと目を固く閉じ、全身を突き抜ける鋭い痛みに耐えた。
「出血、止まってきましたね」
「あぁ……やっと、動けるのかもな」
「え?何がです?」
「何でもねぇ、ぐぅっ!い……っ!!」
「ねぇカーリ~、トワさん、本当に大丈夫なのかな?」
 何事かを話していたエンヴィスが、言葉を切って悶絶する。それに被せるように、レディが口を開いた。
「え?あぁ……そうだね……」
 唐突に話を振られたカーリは、やや困惑しながらも答える。トワイライトを心配する、レディの気持ちは、理解出来るからだ。実際にはレディは、ただ沈黙に飽きただけだったのだが。
「何だか信じられないけどね。トワイライトさんとエンヴィスさん、二人がかりでも倒せない相手なんて」
 訥々と、自分なりの感想を紡ぎ出しては伝える。レディは、尤もらしく腕を組んで同意した。
「だよねぇ~。どうなの?エンちゃん」
「だっ、駄目だよ!」
 そして彼女は、あろうことかエンヴィスに水を向ける。流石に、流血して弱っている相手に会話をさせるわけにはいかない。カーリが慌てて止めるのと同時に、エンヴィスも呆れたような顔をしていた。
「お前な……普通、今それ聞くか?」
 呻きを堪えた掠れ声で問う。若干責め立てるような色が含まれていたにも関わらず、レディは全く気が付かないで、コクリと首を振った。
「だって、暇なんだもん」
「俺は暇じゃねーんだよ。痛いの。見て分かんない?」
「うん、分かんない!で、どーなの?天使って、ホントにそんな強いの?」
「あのなぁ……!」
「れ、レディちゃん……」
 あっけらかんと答える彼女に、エンヴィスは苛立ちを露わにする。びきっとこめかみに血管を浮き立たせる彼を、どう宥めようかとカーリは焦った。しかし、当の本人は相変わらず、輝くような笑顔を見せて、エンヴィスの回答を待っている。その様子に、とうとう彼も折れたようだった。
「……はぁ、もういいや……その通りだよ。俺たちじゃあ、あいつを倒すのは、不可能だ」
 がっくりと項垂れてから、声色を変えて彼女の質問を肯定する。そして、苦虫を噛み潰したような表情で、話を続けた。
「奴には、どんな強力な攻撃も通じねぇ……俺の炎をまともに食らっても、あいつはその場に平然と立ってるんだぞ。そんな話、信じられるか?」
 あまりにも非現実的な話に、カーリは口を開けて聞き入る。エンヴィスの魔法の凄さは、常日頃身に染みて分かっている。あんな熱を、思い切りぶつけられて無傷でいられる者など、存在しないだろうと思っていた。だが、天使にはそれが可能ということか。
「ど、どうしてなんですか?何か、仕掛け(トリック)があるんでしょう?天使にしか使えない魔法とか……」
「トワイライトさんは、自分に向けられたエネルギーを吸収しているって言ってた。それを自分の体に蓄えて、放出してるってな」
 きっと何か、カーリには思いも及ばぬ、しかし暴くことの出来る力を使っているはずだ。期待して問いかけると、エンヴィスはまた苦々しい声で答える。
「じゃあ、そうなんじゃん?トワさんがそう言うってことはさ」
 正体が分かっているのなら問題ないと、レディがやたらと楽観的な声を上げた。
「だとしたら、だ。どうやって、あいつを倒す?攻撃が一切通らないんだぞ。むしろこっちが仕掛ければ仕掛ける分だけ、相手の強化に繋がる……そんな化け物、どうしようも出来ねぇだろ」
 ハミエルは基本的にコミュニケーションの通じない相手だが、一つだけ正論を言っていた。仮に、トワイライトが彼の強さの理由を把握していたとしても、それに対抗することが出来るのかどうかは、完全に別の話ということだ。相手の手札を暴いても、対策が講じられないのであれば、意味がない。もしも、相手の手に勝つことが出来ないのであれば、勝負を降りた方が被害は少ない。頭で理解しているだけでは何も意味がないのだと、エンヴィスは吐き捨てる。まださほど時間が経過していないためか、瞼の裏には、激闘の様子が未だ生々しく鮮烈にこびり付いていた。
 悪魔を激しく憎み、理不尽な言いがかりをつけてくる、天使。生理的な嫌悪を抱かせる光の力。どうにかして、抗いたかった。一方的に奴に嬲られるなど、悪魔としての名折れだ。しかし、どれだけ必死になって魔力を注いでも、彼には傷一つつけることが出来なかった。悔しさが湧き上がってきて、エンヴィスは、傷が痛むのも構わず拳をきつく握る。
「少なくとも……俺ではな」
「そんな……!じゃあトワイライトさんは!?」
 カーリはそれを聞くと、顔を青褪めさせて、エンヴィスに詰め寄った。彼ですらまともなダメージを与えられない相手に、トワイライトは勝利出来るのだろうか。まさか、死にに行くつもりではないだろうかと、悲鳴まじりの声で問いかける。
「何か作戦があるって言ってましたよね!?」
 エンヴィスの心情など気にかけず、肯定を求めて言い募る。必ず、彼は生きて帰ってくるはずだと、誰かに断言してほしかった。有効な対抗手段を持っているはずだから大丈夫だと。
「……さぁな。俺にはさっぱり、検討がつかねぇ」
 しかしエンヴィスは、気のない声を出して、はぐらかすだけだった。
「っ!!エンヴィスさん!!」
 カーリは焦って、彼の名を叫ぶ。だがエンヴィスは、態度を変えなかった。
「……信じるしか、ないだろ」
 静かな、落ち着いた調子でそれだけ口にする。
「「え」」
 彼の言葉を耳にした女性陣は、揃ってぽかんとした。エンヴィスだけが、彼女たちの反応を理解出来ずに、怪訝そうな顔をする。
「他に、どうしろってんだよ」
「そ、それは……そうですけど」
「でも……何て言うか」
 選択肢などないだろうと、さも当たり前のように告げられて、二人は戸惑った。もごもごと、似たような様子で異議にならない異議を唱える。
 何の根拠もないのに、ただひたすら相手を信じるなんて、不安でしかない。だが彼の言う通り、これ以外に出来ることも、ないのだ。そう考えつけば、何故だか納得も出来た。もはや自分達に出来ることは、信頼のみだと。心から思うことが出来た。
「エンちゃんって、たまにヘンなとこで男らしいってか、大胆だよね」
 腑に落ちたという表情で、レディが笑う。彼女の隣でカーリも、うんうんと首を縦に振っていた。エンヴィスは心外だという風に、眉を吊り上げ、彼女たちに言い返した。
「何言ってんだ。俺はいつも男らしいだろうが」
「あはは」
「あはは」
「笑うところじゃねんだよなぁ……」
 それぞれに曖昧な笑みを漏らす二人に、呆れた声を発しながらエンヴィスは空を見上げる。天使の襲撃で損傷した幻の空は、今にも涙を流しそうな、曇天を映し出していた。

  *  *  *

「準備はいかがですかな?タキトゥス課長」
 眉間に軽く指を当てて、タキトゥスに魔法の通信を飛ばす。ビルの残骸に背を付けて周囲を窺うと、殺気だった様子で天使ハミエルが飛んでいるのが見えた。ひっきりなしに翼をはためかせて、辺りをウロウロと歩き回っている。
 トワイライトのことを探しているようだが、未だ見つけられずにいるらしい。殺すべき相手を殺められずに、苛立っているのが一目で分かった。
『あぁ……あと一つで完了だ。トワイライト』
「それは良かった。私も、そろそろ終わるところですよ」
 タキトゥスの、端的かつ明確な答えに思わずほくそ笑む。ちらりと彼のいる方角へ視線を遣ると、向かいのビルの陰に身を隠し、こちらを窺っている彼とはっきり目が合った。
「しかし、いつ見ても、格好のいい乗り物ですなぁ……羨ましい限りだ」
 砂塵が吹き付ける合間から、彼が跨っている奇妙な物体の姿が見えてくる。トワイライトはそれを見て、感心するような声を漏らした。
 外見は、金属で作られた馬の上半身のようなもの。例えるならば、チェスのナイトの駒のような形をしている。それが、地上数メートルの高さに浮遊していた。ツヤツヤと妖しく黒光りする体には、薄く紫色に輝く魔導文字がびっしりと刻み込まれている。額に生える、長い二本の角は、前方へ向かって鋭く突き出していた。タキトゥスの角とよく似たデザインをしているのは、これが彼の特注の品だからだ。
 バーディング、と呼ばれる珍しい魔法のアイテム。使用者はこれに乗ることで、空を飛び移動することが出来る。あるいは、組み込まれた魔法の術式を起動することで、攻撃や防御も可能だ。まさに中世騎士の軍馬を改良したような騎乗物というわけである。
『残念だが、私以外の人物がこれに乗ることは許可されていない……呪われてもいいのなら、話は別だが』
 力強く、幻想的な美しさを放つそれを、トワイライトは羨望の眼差しで眺める。そこに何を感じ取ったのか、タキトゥスは警戒するような口調で、彼を牽制した。
「それもまた、惹かれる所以でしょうなぁ。無機物といえど、そこには霊魂が宿っている……使役者として相応しいと認められなければ、乗ることも叶わないだなんて」
 バーディングが、悪魔たちの間で憧れられている最大の理由は、これが呪術系に分類される魔法により作られているという点だ。呪術系魔法というのは、怨念や霊魂と関わり、呪詛や召喚を行う魔法。その特性から、数ある魔法の系統の中でも、最も危険だと言われている。限られた悪魔にしか制御は難しく、場合によっては呪詛返しによって非業の死を遂げる可能性もある。魔法を行使する内に、自分自身も深く澱んだ憎悪や悔恨に引きずり込まれてしまうというケースも後を絶たない。大抵の悪魔たちは、怖がって手を出さない魔法というわけである。タキトゥスのバーディングもまた然りだ。馬の形をした金属塊は、実は憑依のための依代。内部に宿った霊魂が認めた相手だけが、このアイテムを行使することが出来る。勝手に騎乗すれば、呪術の暴走を招きかねない。非常に危険な物なのである。
『……奪う気か?』
 だが、トワイライトであれば、もしかしたら。タキトゥスは、胸中に湧いた一抹の不安を、留めて置けずに問いかける。
「まさか!私には乗馬経験などありません故。あなたの愛馬殿に、嫌悪されて振り落とされるのがオチです」
 流石に無理だと、トワイライトは両手を広げて苦笑した。それもそうだと、タキトゥスは安堵の息をつく。バイコーンのように、二本の角を生やしたバーディングの頭部を、ポンポンと軽く叩いた。
『さて……頃合いですかな。念の為、確認でもしておきますか?』
「今更、必要なことでもないだろう……計画などあってないようなものじゃないか」
 天使の様子を窺いながら、トワイライトが尋ねかけてくる。わざとらしい言い方に、思わず毒舌が口をついて出た。
『これは手厳しい。随分と侮られていますなぁ』
 通信の向こうから、大袈裟な嘆きが飛んでくる。タキトゥスの悪態に傷付いている様子を演じながら、その実馬鹿にするなと睨みつけてきているようで、ぞっとした。
 彼という男を知ってから何度も思ったことだが、彼は、一体どれだけ他人の感情というものを理解しているのだろう。自分がどう動けば相手にどう見えるか、彼ほどに熟知した悪魔はいない。彼にかかれば、自分以外の全ての悪魔を支配することなど、容易な気がしてくる。タキトゥスにとって、トワイライトほど不気味な男はいなかった。
 そんな彼と、共に死地に赴かなければならない現状が、非常に嫌で堪らない。しかし、手を貸さねばより最悪な目に遭わされるだけだ。
「別に侮っているわけではない。油断するなと、忠告をしているんだ」
『それならば、まぁ……ありがたく、受け取っておくとしましょうか。さぁ、こちらは整いましたぞ?いつでも好きなタイミングで、始めてください』
 トワイライトは彼の心情を察知しているのかいないのか、全く気に掛ける素振りを見せずに言葉を返してきた。むしろ、楽しんですらいるような声音だ。
「……了解だ。幸運を祈る」
 魔法の通信を介しているから、そう聞こえるのだろうか。タキトゥスは己を必死に誤魔化し、躊躇なく通信を切る。そして、バーディングを動かし、ビルの奥へと姿を消した。
 一方的に会話を終了され、トワイライトはやや苦々しく思いながら、独り言ちる。
「やれやれ、幸運ねぇ……一体何に祈るというのやら」
 タキトゥスの残した台詞を嘲笑い、誰もいない虚空に向かって肩を竦める。だがすぐに意識を切り替えると、比較的真面目な顔を作って、潜伏していた建物から走り出た。
「くそっ!どこだっ!?どこに隠れたっ!トワイライト!!」
「探し物はこちらかな?復讐の天使、ハミエルくん」
 怒りと憎しみに満ちた調子で、声を荒げ暴れている天使の背中に、のんびりと呼びかける。
「……トワイライト……!!」
 地を這うような声色で、こちらを振り返った天使の瞳は、激しい感情にメラメラと燃え盛っていた。本来は美しいのであろう空色が、殺意という名の炎に染められ、塗り潰されている。彼の端正な顔立ちは、悪への憎悪と正義を追求する心によって、険悪に歪んでいた。
「わざわざ殺されに戻ってきたのか?殊勝な態度だな……ようやく、己が罪を自覚したのか」
「ははははっ!ご冗談も大概にしていただきたい……そんなわけがないじゃないですか」
 挑発じみた嘲笑を、トワイライトは朗らかに笑い飛ばした。ぐっと顎を引き、下から睨め上げるようにして、不敵な表情を作ってみせる。そして、口元に綺麗な三日月を浮かべた。
「私は、あなたを引きずり下ろしに来たのです。あなたが驕り、胡坐をかく、”正義”の椅子からね」
「貴様……!よくも、のうのうとそんなことが言えるな!」
 案の定、ハミエルは弾けるようにしてはらわたを煮えくり返らせる。天使の白い翼がバサリとはためき、彼の体がふわりと上昇した。
「……何だ、その顔は。今すぐに、へらへらとしたその笑顔を止めろっ!!」
 高く滞空しながら、天使はトワイライトを見下ろす。悪魔は、含意のありそうな憎たらしい笑みを浮かべて、ふてぶてしくハミエルを見上げていた。
「酷いなぁ。随分な言いようじゃないか……」
 牽制を込めて放たれた剣戟が、周囲の空気を断ち切る。光の力はなく、ただ幅の広い刀身に引き起こされた風圧だけが、かすかに彼の衣服を揺らした。黒いスーツに白っぽい汚れをつける砂埃を手で叩き、乱れた髪を手で整えてから、トワイライトは笑みを深めた。
「ご希望に添えず残念だが、あいにくこの顔は最大のアイデンティティーでね。外すわけにはいかないよ。それに……私はただ、疑問に思っているだけさ」
 フッと口角を上げ、皮肉めいた視線を向ける。流石の彼も、トワイライトの言葉を訝ったのか、感情的に突貫してくることはなかった。
「君たちが言う、その”正義”とやらは、一体どんなものなのだろう、とね……」
「何……?」
 警戒を露わに、ギョロリと眼球だけを動かしてこちらを一瞥してくる。抑えきれない激情が筋肉を震わせ、手の中の聖剣グラムがカタッと音を立てた。
「私にはどうも、あなたたちの考えが分からないんですよ。それはもちろん、種族が違うから、という理由があるんでしょうが……それ以前に、何かこう、決定的な?違いがあるように思うんですよねぇ。そしてそれが、我らの間の相互理解を妨げているのだと」
 いつ、彼の攻撃が飛んでくるか分からない。トワイライトはまさに、絶体絶命の状況にいた。それなのに、彼は決して弁舌を止めない。むしろ更にスピードが乗った様子で、滑らかに言葉を紡いでいった。
「どういう意味だ?」
 明らかに、何かを企んでいる様子のトワイライトを、ハミエルは眉を寄せて睨む。分かりやす過ぎる罠に、怪しげな視線を送った。
 それでこそ、だ。
 トワイライトは期待していた怪訝が返ってきたことを喜び、笑みを深める。
「どうもこうもないよ。私はただ、聞いているだけさ。純粋な疑問なんだよ。君たちは本当に、己の口にする正義とやらに関して、まともに考えたことがあるのかい?」
 彼の疑念すら弄ぶように、腕を組み指を立てて質問する。間髪を容れず、激しい視線がトワイライトを貫いた。
「君たちはただ、他人から言われた通りに、これは合っているこれは間違っていると、自らの頭で考えることもなく、唯々諾々と従っているだけじゃないのか?まるで、ベルトコンベアーに乗って流れてくる、刺し身や寿司に、タンポポを添えるだけの作業のように」
 トワイライトはまるで水を得た魚のように、ペラペラと舌を動かしていく。内心で興奮が湧き上がり、ともすれば瞳が煌めいてしまいそうになるのを苦心して抑え込みながら、なるべく平静を装った形で話し続けた。
 トワイライトにとって、むしろ感情的な相手は格好の獲物だ。挑発に乗りやすい人物ほど、操りやすいものはない。つまるところ、逆上させて隙を作るのだ。強い怒りに自我を乗っ取られ、衝動的に行動するようになれば、必ずボロが出る。そこが、狙い目だ。
「君は一体、どのような理屈で、我ら悪魔を敵とする?憎むべき悪と認定するんだ。ただ生まれが悪だから、種族として間違っているからと、根拠もなしに決めつけるのはおかしくないか?我々が一体何をした。何が悪いというんだ。さぁ、その理由を教えてほしいんだよ。私たちが納得出来るようにね」
 もちろん、天使ほどの強者相手では、危険も大きい。しかし、この策に賭けてみる価値は、彼の手札を暴き出した今、十分過ぎるほどにあった。このまま何の対策もせず、ジワジワと体力ばかり削り取られていくよりは、よほどマシだ。ただ黙って死を待つよりは。
「あぁ、もしかして怒っているのかい?それはどうして?私の言ったことが、事実だからかな?図星を突かれたから、だから君は、そんなに怒り狂っているのか?」
「……うるさいっ!!黙れぇっ!!」
 口の端を持ち上げ、芝居がかった仕草で嘲笑する。
 即座に、巨大な火山が噴火するかのように、ハミエルの怒りが烈火の如く燃え上がった。
「貴様は昔からそうだ!!口先だけで周りを翻弄して、自分の都合の良いように操ることしか考えていない!実に愚か!だから!お前たちは駆逐すべき悪なんだ!!」
 彼は大声で叫びながら、長大かつ重そうな剣を片手で振り回し、トワイライトに向かって突きつける。純粋な光がギラリと輝き、辺りの空気を熱で歪めた。
「ほぅ。不思議だねぇ……まるで、どこかで会ったことがあるかのような口ぶりだ」
 恐ろしい凶器を向けられたトワイライトは、大したもので、さほど動揺している様子も見られない。顎に手を当てて訝しむ動作は、彼にしか作れない計算し尽くされた演技だった。
「!お前……まさか、覚えてないのか?」
 天使は、彼の余裕綽々たる態度を目にするなり、心底驚愕したように息を飲む。信じられないと言いたげな瞳が、大きく見開かれていた。
「はてさて、一体何のことですかな?」
 落ち着き払って肩を竦め、トワイライトは問い返す。ハミエルの瞳が、強い動揺に大きく揺れた。
「……私に、私たちに、あれだけのことをしておきながら、忘れただと!?あり得ない!!言わせないぞ!!」
 彼の脳裏に蘇るのは、子供の頃の記憶。まだ幼い自分の頭を、優しく撫でる父の手。それを温かく見守る母の目。かつての記憶は、もう二度と現実には起こらない。この男が、全てを壊したのだ。
「お前は私から……私たちから、全て奪った……!お前さえいなければ、何もかも違ったんだ!!」
 この男のにやついた笑顔が、ハミエルの人生を大きく変えた。否、決定的にと言っても過言ではない。彼によってハミエルは、ただの下位天使から、復讐の天使へと変貌させられたのだ。
「は……?仰っている意味が、よく理解出来ないのですが」
 だがトワイライトは、キョトンとして小首を傾げる。眠たげに半分閉じられた、大きな瞳には心底からの疑問が浮かんでいた。反省の色どころか、認めようともしない彼の態度に、ハミエルは当然逆上する。
「ふざけるなっ!!お前のせいで、父は死んだんだ!母も、父の死をきっかけに、心を病み自殺した!それなのにっ、お前は何も覚えていないというのか!?」
「いやいやいや……全くもって、心当たりがないのですが」
 怒りは更に油を注がれたように高まり、彼の剣は今にもトワイライトの首を跳ね飛ばしそうに、構えられている。しかし、トワイライトは相変わらず、白を切ったままだ。緊迫した状況などまるで理解していないというような、間抜けな顔をしている。
「私が、あなたのお父上にどんな影響を与えたというんです?私は、天使と交戦することはもちろん、相見えることも初めてなんですがねぇ」
 気の抜けた適当な声音で、彼は淡々と語る。ハミエルの心に、新たな憤怒と憎悪が湧き上がってきた。
(許せない……!絶対に許さない……!絶対、殺してやる……!!)
 殺す。ハミエルの脳内が、その単語で染まる。それはまるで、啓示を受けたような感覚だ。自分には知覚出来ない上位存在が、本能に直接告げてきているような。
(殺す……そして、あの頃の幸せを、もう一度手に入れる)
 この男の血と魂さえあれば、きっと過去を再生することも叶うだろう。父もいて、母もいて、家族皆が幸せなあの時。かつての幸福が、またやってくるに違いない。そのために今は、笑顔を消し、欲求を否定して、復讐だけに心血を注がねばならないのだ。
(復讐の天使の名にかけて、悪は必ず滅ぼす!!)
 決意を新たにし、ハミエルは天に向けて剣を突きつける。トワイライトは、何が何だか分からないという様子で、それを眺めていた。
「全く……何なんだ一体。言いがかりにも程がある」
 ハミエルに放つ言葉は、実は惚けているのではなく、真実だ。本当に彼は、ハミエルの父だという天使などに、思い当たる節がない。確かに、長い寿命を全うしている内、記憶力が鈍るのは悪魔によくあることだ。しかして、天使という恐ろしい災害に巻き込まれた記憶ならば、そう簡単に忘却はしないだろう。つまりは、ハミエルの勘違いという可能性が高いのである。尤も、間接的に関わっているという線もなくはないが。かといって、いの一番にトワイライトを恨むというのは、誤りだと言えるだろう。
 だが彼は、自らの過ちにも気付かず、トワイライトだけを憎んでいる。この分では、何を告げたとしても聞く耳を持ってはもらえないだろう。命を犠牲にしてまで、彼との間の誤解を解きたいとも思えない。であれば、取れる選択肢は一つしかないだろう。
「仕方ないね……大人しく、殺されるのを待つ理由はない。全力で、抗わせていただくとしよう」
 トワイライトは、いつもの笑みを貼り付け、平然と言ってのけた。
「この……っ!調子に、乗るなぁあ!!」
 煽りに煽られたハミエルは、とうとう激昂して、光り輝く聖剣を大きく振りかぶった。そして、翼をはためかせ、強く地を蹴る。あまりのパワーに大地が振動したかと思うと、彼の立っていた地点を起点に、深い亀裂が発生した。弾け飛んだアスファルトの破片が、散弾のように飛散する。
 レディすら遥かに凌駕する身体能力で、彼は一気にトワイライトとの距離を縮める。風を切って突進してくる天使の姿を、トワイライトは冷静に見据えていた。片手を顔の高さに翳すと、魔力が消費され、大量の銀の剣が生み出される。しかし、ハミエルにはそれは、意味のない愚かな行為にしか思えない。
「そんなガラクタで何が出来るっ!!お前の攻撃では、私にかすり傷一つ付けられないだろうが!自分の子分が痛い目に遭ったのを、忘れたのか!?」
 苛立ちのままに、獲物を脅すような低い咆哮を轟かせる。
 ハミエルの言う通りだ。トワイライトがいくら剣を操っても、彼にはわずかの痛痒も与えることが出来ない。それは全て、彼が行使している、特殊な魔法の効果によるものだ。自分に向けられた、あらゆる攻撃エネルギーを、吸収・蓄積する魔法。そして、体内に溜め込んだ力を、天使の持つ光の力へと変換し、放つことが出来る。まるで、カウンターだ。悪魔たちがどれほど必死になろうとも、彼はその体に一切の傷を負わない。それどころかむしろ、逆に彼に武器を提供していることになるのである。
 悪魔には決して再現不可能な、天使の技術。エンヴィスが危惧していたのは、このことだ。たとえ天使の手の内を暴いたとしても、それに対する有効な策があるとは限らない。自分たちには抗いようのない、未知の力だと理解して、ただ絶望する以外に道はないと、思い知るだけかも知れない。
 だが、トワイライトは決して動じなかった。むしろ、体を揺すって面白がるような姿勢を見せる。
「はっはっは、その通りですなぁ……全く、あなたのその強さには感服致しましたよ。それこそ、痛いほどにね」
 そこには、圧倒的強者への恐れや、なす術のない事態への焦燥などは、全く込められていなかった。むしろ、真っ向から素直に、ハミエルの実力を褒め称える様など、いっそ見事なほどだ。憎い仇でなければ、彼とて畏怖していただろう。しかし、トワイライトはその例外に当てはまる。ハミエルの中に発生するのは、激烈なまでの憤怒。その一択に尽きるばかりだ。
「ふざけるな……!貴様、いつまで遊んでいるつもりだっ!!」
 激情に任せて、彼は勢いよく剣を振るった。ブォンと風が音を立てるほど、速い動きで得物を動かし、自分を囲む凶器の群れを一掃する。そのままトワイライトに切り込もうと刀を返したが、直後キンッ!と鋭い音が響き、ハミエルの攻撃は見事に弾かれた。
「困りましたなぁ。特にふざけているつもりも、遊んでいるつもりもなかったのですが……あなたにはそうは見えなかったみたいだ」
「お前……っ!」
 トワイライトは、宙に浮かべた剣の一本を素早く掴み取ると、ハミエルの突きを払ったのだ。そして、何事もなかったかのように困り顔を作っている。あからさまな演技に、ハミエルは更に憤慨した。
「まさか……私が、勝ち筋の見えない戦いに、わざわざ舞い戻ってきたとお思いではないでしょう?」
 ボタボタと、液体化した銀がアスファルトの地面に落ちて染みを作る。ハミエルの光の力に破壊され、彼の武器は次々とその形を崩れさせていった。しかし、トワイライトは何ら感情を抱いていないような顔で、それを眺めている。まるで、結果を想定していたかのようだ。
(……いや。初めからこれを狙っていた……?まさか!)
 慌ててハミエルが我に返り、理性を取り戻した時には、もう遅い。
「タキトゥスさん」
 トワイライトが、誰かの名前を口にした。呼ばれた者が何者なのか、ハミエルにはすぐに分かる。
 立ち込める砂埃の中から、新たな悪魔が姿を現した。位置は、ちょうどハミエルの頭上。馬の形をした乗り物に跨って、浮遊している。魔力の量は、恐らくトワイライトより上だろう。その彼が、馬の頭部をポンポンと軽く叩く。彼が指示を出すと同時に、馬の額に生えた角の先端から、淡く紫色に輝く光の球が出現した。それはまるでレーザー銃のように、射出される。弾丸と同じ、いやそれ以上の速度を持った銃撃を、咄嗟にかわすなど不可能だった。ハミエルは振り返ることも出来ぬまま、背中に数発、その弾を食らう。パスっと乾いた音がして、彼の肉体に命中したはずの弾丸は、跡形もなく消滅した。
「何っ!?」
 ハミエルはわずかに目を見開き、体を硬直させた。当然ながら、彼の体には一切の痛痒はない。しかし、代わりにエネルギーを吸収した感覚もしなかったのだ。つまりは、彼の背中に当たったのは、攻撃の魔法ではなかったということ。
「貴様ら……一体、何をした!」
「まぁまぁ……そう焦らず。メインディッシュはこれからです」
 殺意の高い声で噛み付くが、トワイライトはわざとらしく顔を竦め、はぐらかすだけだった。
「ほざけ……っ!」
 自信たっぷりに腕を組み、踏ん反り返る男を、ハミエルは心底からの苛立ちと侮蔑の混じった目で見据える。だが、彼がそれ以上言葉をつぐ前に、トワイライトはおもむろに片手を挙げ、パチンと指を鳴らした。
「な、何だこれはっ!?」
 その途端に、どこからか、金属で出来た極太の鎖が現れる。それはまるで蜘蛛のように、足を伸ばしハミエルの体に巻き付いた。
「ぐ……っ!離せっ!!」
 身体を拘束される不快に、ハミエルは眉を寄せ声を荒げる。しかし、いくら力を入れても、鎖は全く振り解けない。もがいている内に、鎖は更に量を増し、ハミエルを縛っていく。建物の影からも、シュルシュルと蛇のように蠢きながら這いずってくる。優雅に体をしならせながら、ハミエルの手足を捕らえる。
「トワイライトっ!貴様何をしたっ!?」
 戒められた腕や足を力任せに引っ張るが、鎖はびくともしない。むしろ抵抗すればするほど、きつく巻き付いて、彼を苦しめた。
 天使ともあろう自分が、こんな目に遭っていいものか。
 怒りに体を震わせながら、トワイライトを睨みつける。しかし彼は、例によって余裕綽々の態度を貫いていた。
「ほぉ~。最初から私の仕業だと決めつけるのですか?一体何の根拠があって?」
「うっ!!」
 彼の言葉と共に、鎖が静かに動きを変えた。引きずられるようにして、ハミエルの体勢も変化する。膝を突かされ、上体を傾けた状態で、両腕を斜め上に引っ張られ固定される。悪魔の目の前で跪かされているような状況に、ハミエルの顔を羞恥と屈辱とが包んだ。
「トワイライトっ!こんなことをして、ただで済むと思っているのか!?さっさとこの鎖を解けぇっ!!」
 こちらが相手を見上げる体勢になっていることさえも、腹立たしい。ハミエルは限界まで憤った、鋭い眼光でトワイライトを射抜く。
「解くわけがないじゃないですか。ねぇ……タキトゥスさん?」
「まぁ……そうだな」
 トワイライトは当たり前のように、拒否を示した。無論、彼の言い分は尤もなのだが、ハミエルは悔しげに唇を噛み締める。一方で、話を振られたタキトゥスという男は、迷惑そうな顔をして、曖昧に同意していた。
「お前ら……!!」
 ハミエルは懲りもせず、体を揺すって逃れようとする。だが、全身に巧みに絡みついた鎖は、決して緩まない。どこか一部が引っ張られると、別の箇所が収縮して、ハミエルの体を締め付ける。それにも構わず手足を振るおうとすると、撓みの伸びた鎖がビンと音を立ててのたうつ。反動が関節を軋ませて、更に拘束がきつくなる。既にハミエルの体は、がんじがらめに縛り付けられ、完全に身動きを封じられていた。肌が見えている部分の方が、少ないくらいだ。
「これが……お前の狙いか。私を……捕まえることが」
 憎悪に満ちた、苛烈な視線が飛んでくる。天使から放たれる、凄まじい殺意に、流石のタキトゥスも肌がゾクリと粟立った。
「その通~り!いやぁ~、ご明察ですなぁ。感服いたします」
 だがトワイライトは、笑みを貼り付けたまま、全く臆すことなくハミエルの顔を覗き込む。その瞳には、どこか得意げな愉悦があった。
「しかし、あなたも愚かな方だ……散々、我々のことを狡猾だの凶悪だのと罵っておきながら、未だ我らの邪心を侮るとはね」
 流暢に紡がれる言葉は、天使への皮肉のようでいて、己の計略が成功したことを誇るような、癪に障るもの。
「お前……一体どこまで卑劣なんだ!騙し討ちのようなことをして!戦うなら、正々堂々と剣を交えるべきだろうが!」
 ハミエルはついカッとなって、激情に荒んだ声を放った。
「はぁ……あなたは何か誤解しているようだ……」
 激昂する彼を見て、トワイライトは呆れたように溜め息をつく。そして気怠げに目を瞬かせながら、腕を組んで告げた。
「私たちは初めから、あなたと戦う気など、毛頭なかったのだよ」
「何だと……ッ?」
「当たり前じゃないか。誰が、君のような厄介極まりない相手と、正面切って殺し合いをしようなどと思うんだい?」
 問い返すハミエルに、トワイライトの小馬鹿にするような、侮るような視線が降り注ぐ。だが、彼は意外にも、唇を真一文字に引き結び、沈黙を貫いていた。流石に、自分の圧倒的不利な状況を認識しているようだ。ただ黙って、トワイライトのあからさまな挑発にも、耐えている。それはまるで、ドライアイスを詰めたペットボトルだ。いつ蓋が吹き飛び、爆発するのか、まるで見当がつかない。無帳面の下で、どれほど激しい憎悪が湧き立っているのかと、タキトゥスは空恐ろしくなった。
「我々は、悪魔だよ。非常に冷酷かつ、残忍な種族……君がそう言ったんだろう。違いますかな?」
「……何が言いたい」
 だがトワイライトは、ハミエルの内心など気が付かないで饒舌に話し続けている。否、違う。彼は気付いているはずだ。自分を睨む天使の内部が、じわじわとボルテージを上げていることを。分かっていて、刺激しようとしている。導火線に、少しずつマッチを近付けていくように。
「狡猾で懸命な我らが、勝ち目のない戦いに、無策のまま参加するわけがない。少し考えれば分かることでしょう」
 そんなもの、命を捨てにきているようなものだと、トワイライトは吐き捨てる。そして、指を一本立てると告げた。
「今回の勝利条件は、我々の都市を脅かす天使、つまり君をを、無害化すること。それさえ出来れば、何も戦う必要なんてないんだよ。ましてや君は、我々の攻撃が一切通らない、規格外の魔法をお持ちだからね。まともに戦うなんて、愚か者のすることさ」
 つまり、彼にとっては、戦闘などどうでもよかったのだ。何しろ、ハミエルには一切の攻撃が通じない。むしろ攻撃をすれば、彼自身の戦力を増してしまうこととなるのだ。ダメージを与えて戦闘不能にすることは、ほとんど不可能である。少なくとも、トワイライトたちには無理なことだ。
 で、あるならば。別の手を考えればいい。
 ダメージを与えるのではなく、他の手段で、相手を戦闘不能にする方法を用いれば良いのだ。
 例えば、身体の自由を奪うこと。拘束し、動きを封じてしまえば、それ以上街を破壊することも出来なくなる。
「幸い私は、錬金系魔法の習得者だ。金属を生み出し、自在に操ることが出来るんだよ。例えば、こんな風に……」
 手を翳し、落ちていた剣を浮かべると柄を握る。実のところは、浮遊の効果はまた別の系統の魔法によるものなのだが、ここでは省いてもいいだろう。天使が、悪魔たちの使う魔法に明るいとは限らない。それに、あまり手の内を晒し過ぎるのも危険だ。
「作り出す金属の形を変えれば、剣以外のものも作れる。そうやって、鎖を生み出し、君の身体を拘束したんだ。尤も……天使の光への対抗術式を組むのは、中々困難だったがね」
 彼の魔法はつまり、金属を生み出し、それを好きな形に整えているだけである。少しアレンジを加えさえすれば、いくらでも違う形状のアイテムを作成することが可能なのだ。
 もちろん、簡単なことではない。ハミエルの怪力と、天使の持つ光の力を用いれば、トワイライト程度の悪魔の魔法は、簡単に破壊されてしまう。彼が容易に壊せない強度の術式を考案することは、中々に至難の業だ。だからトワイライトは、冷血鬼の力を借りることにしたのだ。
 幸か不幸か彼は、トワイライトに弱みを握られた身。その明晰な頭脳を貸し出し、トワイライトに協力することは、吝かでない状況だった。そこで、彼の知力と魔力とを借りて、魔法を作り上げ、適切な位置に配置したのだ。
 効果を正しく、十全に発揮させるためには、ハミエルを誘導し、特定の地点に立たせなければならない。そのために、トワイライトが前に出る羽目になった。彼を出来るだけ引き付け、一定の範囲内に連れ込んだところで、タキトゥスが最後の下準備を終えた。後は言うまでもない。トワイライトが術式に魔力を流し込み、魔法を起動させたのだ。そして、出現した鎖がハミエルを縛り上げた。
「だから、さっさと退散するよ。君がいつ、鎖を引き千切って飛び立つか、分からないからね」
 かといって、ハミエルを完全に制圧したかと問われれば、否と答えざるを得ない。彼らの作戦は、完璧と言っていいほどに功を奏したが、しかし即席のものであることに代わりはないのだ。少しでも何かのバランスが崩れたら、一気に魔法が崩壊するかも知れない。そうなったら、どうなるかは目に見えている。
 もはやここで、彼と対峙する理由はない。再び彼に捕まり、報復されるなど、絶対にごめんだ。そもそも、この戦いは、仕方なく飛び込んだもの。逃げ道が開けたのなら、立ち止まっている暇はない。Bクラス職員としての義務も、十分果たしたことになるだろう。部下たちのもとへ帰る頃合いだ。
「ではな、ハミエルくん。二度と君に遭わないことを、心底から願っているよ」
「おい、待てッ!!」
 くるりと踵を返すトワイライトの背中に、ハミエルの鋭い声が投げかけられる。
「ご心配なく。もうそろそろ、彼らが到着すると思いますよ?私たちなんぞより、よっぽどあなたの遊び相手に相応しい……悪魔がね。それまで、しばらくここで休んでいるといい」
 彼を見返す漆黒の瞳は、相変わらず本心の読めない闇を抱えていた。しかしそれが、ふと何かを思い出したかのように歪むと、憎たらしい下卑た笑顔を形作る。
「あぁ、一つ言い忘れていた」
 表向きはにこやかに細められた目の奥で、何か嫌な気配がうぞうぞと蠢いている。その瞳が、唐突に開けられたかと思うと、彼は勝ち誇った表情でこう言い捨てた。
「天界の皆様方にお伝えください。我々悪魔というものは、あなた方が思っているよりも、遥かに強かで、懸命だ。少なくとも、あやふやな”正義”なんてものにしがみ付く、あなた方天使よりはね」
「ふっ……ふざけるなァアアーーー!!!」
 彼の口から放たれたのは、ハミエルの逆鱗に触れる言葉。正義と道徳を何より重んじる天使にとって、最も屈辱的な捨て台詞である。
「貴様!!絶対に許さないぞトワイライト!!私は、絶対にお前を許さない!!覚悟していろ、トワイライト!!!」
 活火山が噴火したような、激し過ぎる憤怒が叫びとなって辺りに響き渡る。まるで、彼の内側から噴き出す怒りが、燃え盛る炎となって目に見えるかのようだ。
 だが、トワイライトはそれに対して、何か反応を示すことはない。スタスタと歩きながら、後ろ手に右手を振って挨拶を済ませる。こちらを振り返りもしない、憎い悪魔のことを、ハミエルは顔を真っ赤に上気させていつまでも睨んでいた。
「許さない………っ!!」
 ギリギリと歯を軋ませ、血が出るほどにきつく唇を噛む。流石は悪魔というべきか、彼らの対応は、これ以上ないほどにハミエルの自尊心を傷付け、激情を煽るものだった。
「……さて、帰りましょうか。我らの職場に」
 トワイライトはのんびりと話しながら、タキトゥスを見上げる。背後からしつこく追い縋ってくる、視線と怒号のことは決して気に留めない。無視を決め込みながら、軽く腕を伸ばし肩の凝りをほぐそうとすると、その途端にズキンと痛みが走り抜けた。
「っ、いてて……」
「どうした?肋骨でも折ったか」
 大袈裟に顔を歪め、呻く彼に、タキトゥスが動じずに問いかける。いつの間にか、地上付近に降りてきていたようで、トワイライトをバーディングに乗せてくれた。
「呪い殺されないのですか?」
「言ったろ、私が許可しさえすれば、大丈夫だ」
「そうですか……」
「しかしお前、いくら何でも少しやり過ぎじゃないのか?」
 他愛もない会話をしながら、疲れたように項垂れるトワイライトに、タキトゥスがおもむろに尋ねる。
「何も、あそこまで挑発する必要は、なかっただろう」
「あれは~……単なる、私の個人的感情ですよ。悪魔の端くれとして、私も天使が嫌いなものでね」
 問いかけられたトワイライトは、若干声を震わせて、苦笑した。今更気にする必要はない瑣末なことを、タキトゥスが案じていたことが、可笑しかったのだ。
「それに、あなたの”情報源”とやらには、少し意見がありますしねぇ……」
 だが次の瞬間には、唇から笑みを消し、黒い瞳を大きく見開く。顎をさすりながら、思わせぶりなことを口にする部下を、タキトゥスは横目で見遣った。
「ふん……なるほどな。そういうことか」
 彼の魂胆は、言わなくても分かる。相変わらず油断ならない男だ。呆れ気味に視線を送るタキトゥスに、トワイライトは気が付かないふりをして、言葉を続ける。
「後は、任せるとしましょう。対天使対策のプロである、彼らにね」
 含みのある調子でそう言うと、ぐるりと首を動かして、辺りを見回す仕草をしてみせた。
 トワイライトと同様に、いやそれより遥かに、策謀に長けた彼らのことだ。きっととっくに、この事態は把握しているだろう。全て承知した上で、どこか離れた地点から、魔法で監視でもしているのだ。助けもせず、自分たちにとって最も得なタイミングを、測っているに違いない。
 かつては同胞と呼んでいた悪魔たちだ。彼らのやり方は熟知している。その上で、不都合がないよう、場を膳立ててやったのだ。彼らが自分たちに何をしたのかさえも、理解しておきながら。
 ただならぬ雰囲気を漂わせる彼を、タキトゥスは若干警戒する。彼の内心の変化を機敏に察知したトワイライトは、いつもの世情に疎そうな顔に戻る。
「そんなことよりタキトゥス課長。我々の本日の任務は、平素の業務内容からは随分逸脱したものでした。よって、特別手当を申請させていただきます。構いませんよね?」
 感情などまるでなさそうな平坦な声で、確認の問いを投げかけてくる。あまりにも切り替えが早い様子は、強かなのか他の狙いがあるのか、さっぱり分からない。
「あぁ……まぁ、上と応相談だな」
「よろしくお願いします」
 苦々しい顔でタキトゥスが頷くと、トワイライトは更に念を押すように、強く言い募ってくる。そこには、従わなければどうなっても知らないぞという、脅しめいた気色があるように感じられた。

  *  *  *

「……来ませんね、トワイライトさん……」
 荒れ果てた街のど真ん中に佇んで、カーリはどことない遠方に視線を飛ばしていた。
「音は止んだんだがな……そろそろ来るんじゃないのか?」
 エンヴィスが、錫杖をついて隣に立つ。積み上がった瓦礫の山の上に座っていたレディが、唐突に指を差した。
「ねぇ、あれじゃない?トワさんたち!」
 嬉しそうに声を弾ませながら、無造作に瓦礫の山から飛び降りる。彼女に蹴られたコンクリートブロックが、ガラガラと崩れ落ちた。
「止めろレディ。危ないだろ」
「あっ、あれだ!見えましたよ!」
 腕を組んだエンヴィスが注意するのを遮って、カーリも明るげな叫びを発する。
「お~いっ!」
 レディが、両手を大振りに振って、こちらの存在をアピールした。まだ、小さくしか見えていない人影が、ゆっくりと片手を上げる。その隣に浮遊する、不思議な形の物体からも、手が挙がった。
「どっちがトワさん?」
「あっちでしょ。あの、乗り物に乗ってる方」
 首を傾げて尋ねるレディに、カーリが平然と答える。
「あぁ、タキトゥスさんのバーディングだな」
「ん、何?その、バーなんとかって」
「バーディング。タキトゥスさんの愛馬だな」
「へー、あれって馬なんだ!可愛いといいな~」
 自分から尋ねておきながら、あまりよく聞かずに、レディはニコニコと頬を緩める。
「お前、何か勘違いしてるぞ……はぁ……」
 エンヴィスが指摘しようとしても、彼女は耳を傾ける様子もない。軽く溜め息をついていると、トワイライトとタキトゥスたちがやってきた。
「お疲れ様です、タキトゥスさん、トワイライトさん」
「あぁ……君も、ご苦労だった、エンヴィス」
 真っ先に声をかけると、タキトゥスが鷹揚に頷く。その隣で、トワイライトが疲れた顔をして息を吐いていた。
「ふぅ、お疲れ、エンヴィスくん。傷は大丈夫かい?」
「トワイライトさんこそ、脇腹押さえてますけど、どうかなさったんですか?」
 エンヴィスの質問に、トワイライトは答えかねて言い淀む。この場でありのままに告げることが、彼らにとって良い行為だとは限らない。だが、彼が何か誤魔化しを発する前に、タキトゥスが口を開いてしまった。
「救急隊を呼べ。こいつは肋をやられてる」
「えぇっ!?す、すぐに呼びます!」
 タキトゥスの言葉を聞いた瞬間、カーリは動揺に声を裏返す。素早くタブレットを取り出すと、復活した魔導通信を使って、救援を求める連絡を飛ばす。彼女の背中を眺めながら、レディも心配そうな顔をした。
「大丈夫なの?トワさん」
「あー……まぁ、何とかね」
 痛みに若干眉を寄せたトワイライトは、それでも平気だと請け合ってみせた。別に、強がっているわけではなく、本当に自身の身体の状態を理解しての返答だ。
「痛いけど、それだけだ。耐えられないほどじゃない。骨折なんて、魔法的治療なら、数日で治るしね」
「ふ~ん。ならいいんだけど」
「救急隊、すぐそこまで来てるみたいです。行きましょう!」
 レディがあまり感情のこもっていない声を発すると同時に、カーリが呼びかけてきた。戦闘後の、停滞していた空気が一気に動き出す。トワイライトを乗せたバーディングも、タキトゥスの意思に合わせて滑らかに浮かび上がった。
「トワイライトさん、これを」
 バーディングに乗ったまま浮遊するトワイライトに、エンヴィスが一本のポーションを差し出してくる。薄紫色の小瓶に入ったそれは、天使の魔力に対抗するためだけに作られたポーションだ。
「飲むだけで、大分楽になりますよ。俺も、喉をやられましたから」
 天使の光によって、傷付けられた呼吸器系や喉のケアを、とエンヴィスは勧める。わずかな息苦しさと痛みを感じていたトワイライトは、それを受け取るとすぐに飲み干した。
「ありがとう。病院には、君も搬送してもらいなさい、エンヴィスくん。それと……レディくんも」
「えっ!?」
 突然名前を呼ばれたことに驚き、レディが頓狂な声を上げた。
「君も、足を怪我しているだろう?気にかけるのが遅くなってすまない」
 やはり、トワイライトの慧眼には敵わなかったようだ。足をやや引きずって歩いていることに、気が付かれたらしい。自分なりに必死に隠していたはずのことを見抜かれて、ばつの悪そうな顔をする。
「な、何でよトワさん!アタシは、大丈夫だって!」
「大丈夫じゃないだろ。お前、天使の魔法食らったんだよな?」
「う……」
 だが彼女は頑なに認めず、反対にトワイライトの命令は不当だと、高い声音で訴え始めた。子供のように駄々をこねる彼女を、エンヴィスが強い口調で窘める。
「そっ、それは確かにそう、だけど。でも、もう治ったもん!超いいポーション使ったしさ!」
「油断するな、レディくん。天使の魔法は強力だ。いくら傷が治っていても、肉体の損傷は癒えない。きちんと、専門機関で診てもらいなさい」
 両腕を振り回して抗議する彼女に、トワイライトも優しげな、しかし有無を言わせぬ調子で命じた。
「で、でも……っ」
 嘘は通用しないと分かっても、それでもレディは諦めきれなくて、視線を彷徨わせる。理由は単純なもので、カーリが心配だからだ。
 ここで自分が病院に行けば、負傷していることを認めれば、どうして怪我をしたのかが問題になってしまう。つまり、カーリのしたことも、露呈してしまうのだ。避難の義務を無視して、勝手に行動したことが。違反行為をした挙句に、仲間を危険に巻き込んだとなれば、彼女は絶対に責任を問われる。そのくらいの予想は、レディにもついた。だからこそ、強がっているのだ。カーリを守るために。
「心配するな。君たちが、我々のために行動してくれたことは分かっている。感謝もしているよ」
 そんな彼女の心情を、トワイライトは全て察しているようだった。だが、彼は決して、大目に見るなどの言葉を口にしない。つまり、容認は出来ないということだろう。カーリが、何らかの咎を受けることは確定なのだ。それくらいは、レディにも理解出来る。トワイライトという人物を知悉している者なら、誰だって気が付くだろう。共感し寄り添うような態度は、表向きのものだと。
(カーリの暗い顔、アタシはもう見たくないのに……)
 悲しい想像に、唇を尖らせる。カーリは、レディにとって初めての、大切な友達だ。彼女が傷付くと分かっていて、放っておくなんて出来ない。
「むぅ……」
「ほら、行こう?レディちゃん」
 当のカーリ本人が、平然とした表情で、笑いかけてくるのも不満だった。彼女にだってきっとこれからのことは予想がついているはずなのに。全てを当たり前のものとして受け入れるだなんて、レディには何だか納得出来なかった。
 頬を膨らませ、むすっとするレディの背中を、カーリが軽く押す。友達に促されては逆らうことも出来ず、彼女はひょこひょこと危なっかしい足取りで歩いて行った。
 タイヤが巻き上げる砂埃の向こうから、赤と青のランプが回りながら近付いてくる。現れた白い四角い巨体に、トワイライトたちは吸い込まれていった。

  *  *  *

 荒廃した街の一角に、一人の男が佇んでいる。手にしていたステッキが、カツンと乾いた地面を叩いた。
「さて、さ、て……現状を報告してくれ。オールド・スポートきみ
 白手袋をつけた手が、シルクハットのつばを摘んだ。後頭部から下方へと長く伸びた角が、肩甲骨の辺りで緩くカーブし、斜め上へと軌道を変えている。紫がかった黒色をした平たい表面は、丁寧に磨かれ真珠のような光沢を放っていた。
「くそっ!トワイライトっ、決して許さない!必ず、復讐してやるっ!」
 男の目の前には、魔法の鎖で囚われた、天使が一羽。全身をがんじがらめに拘束され、なす術もなく地に膝をつけている。翼を羽ばたかせて抵抗する度に、鎖がギシギシと軋んで、鍛え上げられた肉体をきつく戒めていた。だが、どれだけ痛め付けられても、その白い肌にはかすり傷一つついていない。
「ホゥ!これは中々、厄介そうな相手だねぇ……セリム?」
 彼は手袋をした手を顎に当てて呟いた。白い布地の隙間から、立派に蓄えられたカイゼル髭が姿を見せる。
 男の興味深そうな視線が、ハミエルを一通り撫で回すと、今度は後方へ向く。それを待っていたかのように、待機していた数人の悪魔の内の一人が口を開いた。セリム、と呼ばれたその男が、戦場慣れして少し掠れた調子の声で告げる。
「自称・復讐の天使ハミエル。交戦の”記録”によりますと、非常に強力かつ面倒な魔法を持っているとか。性格は、短絡的で愚直。少し煽っただけで、簡単に激昂し衝動的に行動する、大変な男だそうです」
 淡々と、タブレットに表示された情報を素早くまとめ、簡潔に伝える。淀みない報告を一言一句を噛み締め、あるいは含意を無視しながら、男は数度頷く。
「ですので、感情的になりやすいその性質を利用して、特定の地点までおびき出し、事前に構築しておいた錬金系の術式を発動。直接的なダメージを与えることは不可能と判断したために、拘束することで、戦闘不能としたようです」
「なるほど……錬金系……十中八九、”彼”の仕業だな。これほど見事な策謀の使い手は、今日び中々類を見ない」
 細身の人間の腕ほどもある鎖を指で撫でながら、男は感心したように判断する。本心の分からぬその背中を、探るように見ながら、セリムが再び口を開いた。
「……いかがしますか?」
「そうだねぇ……術式は完璧。シンプルかつ強度の高い鎖を、巧妙に編み出している。そうだろう?オールド・スポート」
 振り返った男に問いかけられて、居並んだ部下たちは、たじたじと尻込みした。男が追加で言葉を付ける前に、再度、セリムが声を発する。
「そうですね……私は門外漢ですが、あの男の器量が透けて見えるかと」
その通りザッツライト!流石だな、セリム」
 部下の意見を聞いた男は、満面の笑みで肯定をすると、生徒を褒め称える教師のように振る舞う。背後で彼が頭を下げるのを見ることもなく、また天使の方に向き直ると、感情を見せない無機質な声でこぼした。
「相変わらず、邪魔な男だ……トワイライトは」
「トワイライトだとっ!?」
 憎悪と、そして感心が複雑に入り乱れた声音。その音を聞きつけたハミエルが、血相を変えて男の言葉に食いついた。
「お前、あの男を知っているのか?」
「あぁ、知っているとも。彼は私の……先輩だ」
 報告の通り、この天使は、本当に感情に駆られやすいらしい。あっという間に釣れたハミエルの様子を観察しながら、男は薄く笑みを浮かべた。
「君、彼に何やら恨みがあるらしいが、それは一体、どんなものなんだ?話してくれ。オールド・スポート」
「……話す義理はない」
 次なる情報を引き出そうと、両手を広げて問いかけるが、そうは易々と進まない。流石の天使も、己の目標のためとはいえ、悪魔を手を組むつもりはないようだ。決して気を許さぬと、如実に伝えてくる表情で、男を睨み付ける。そんなハミエルを懐柔するように、男はにこやかな笑みを宿すと、懇切丁寧な調子で語りかけた。
「まぁまぁそう言わず。私も彼には困り果てていてね……どうにかしたいと切望しているところなんだ。是非とも、君と協力したい。互いに、自分が持っている奴の情報を交換しようじゃないか。私は、彼の弱みを握っているのさ」
「トワイライトの弱みだと!?それは本当か!?どんなものだ!?奴の弱点というのは!」
 案の定ハミエルは、射殺さんばかりの冷徹な視線を仕舞い、青い瞳を燃え上がらせると、飛びついてきた。そこで男はもったいぶるように、上等な革靴を一歩引き、ザリ、と砂っぽい地面を擦る。
「おっと。流石に、ただというわけにはいかないなぁ」
「……何をすればいい」
素晴らしいグレイト!話が早い」
 ハミエルが、腹を括った態度で問いかけてくる。男はそれを、心底嬉しそうに受け止めた。黒色をした腹の底では、残酷な計略が蠢いているのを隠しながら。
「君は、あのタキトゥスなんかより、よほど聡明のようだ……オールド・スポート」
 男の脳裏に浮かぶのは、冷血鬼と称されるあの捜査一課長の顔。彼は、その明晰な頭脳とは裏腹に、精神面には非常に厄介な欠点を持つ。他人の感情というものに疎く、また自らのそれも御しきれていない。よって交渉が下手で、口の上手い相手にはすぐに丸め込まれ、騙されてしまう。なまじ頭が回るばかりに、己の利益ばかりを計算してしまうのだ。
 だから彼らは今回、その弱点をついて、タキトゥスを計画に加えた。決して本筋には辿り着かせぬよう、巧妙に情報を開示し、あるいははぐらかした。でなければ、全てが露呈してしまう危険性があったのだ。何しろ、あちら側には相当に面倒な悪魔がいる。
 彼はその内に、到達するかも知れない。男と、男の部署が掲げる、目標に。
 タキトゥスが口を割るのも時間の問題だろう。彼は確かに、優秀な警察部門の牽引者だが、恐らく芽が出ることはないだろう。逃れられない、何らかの渦に巻き込まれるはずだ。彼がそこから、逃れる術はない。
(運の悪い男だ……いや、自業自得と言うべきか)
 彼はもっと、冷徹になるべきだ。ぬるま湯に使ったような生活を止めて、今すぐに、こちら側へ堕ちてきた方がいい。
(生き残りたいなら、相応の覚悟を決めないと……履き違えてはいけない。最も重んじるべきは、何かとね……)
 心の中で、もったいつけてそう呟く。
 ステッキを軽く真上に放り投げると、それはたちまち金色の粉を撒いて、姿を変えた。
 現れる、長杖ロッド。曲がりくねった木製のそれの先端には、大きな紫水晶が載っている。金の爪で支えられる宝石の内部は、煙が立ち込めているように曇り、絶えず変動していた。
 男の名前は、リングォーラ。軍政部門対天使対策部都市防衛課長。
 軍政部門を動かすインペラトルの一員にして、現代占星術界の貴公子モダン・アストロロジカル・プリンスと呼ばれる悪魔である。
「おい……私は、何をすればいいんだ?」
「あぁ、なに、心配することはない。ちょっとした、実験に付き合ってもらいたいだけだよ。オールド・スポート」
 磨き抜かれた革靴が、地面に落ちた純白の天使の羽を踏みつける。その行為に、ハミエルは嫌な顔をするが、リングォーラはまるで気にしない。にっこりと微笑むその顔を、段々とどす黒い闇に染めて、長い長い指を蠢かした。関節の四つある、爪の生えていない異形の指。掌と、爪のあるべき部分には、真っ黒な穴が空いている指を。
(これほど貴重なデータソースを引き渡してくれるなんてねぇ……トワイライト。やはり油断ならない男だ)
 覗き込んでも、反対側が見えることは決してない。それはまるで、持ち主の内面そのものを、的確かつ巧妙に表しているようでもあった。
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