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復讐の天使 〜前編〜
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遥か地底の奥深く。人間たちの住む地上から、何千キロも下方の地殻内に広がる、巨大な洞窟。そここそが、闇の力を持つ悪魔たちの棲家<魔界>だ。
洞窟の中心部には、一際発展した、都会的な都市がある。その名はハデス。世界全体を統一し管理する巨大組織<魔界府>により定められた、世界の首都である。
通称”不眠永城”とも呼ばれるその街は、人間界のいくつかの都市を参考にして作られた。整然と区画分けされた土地には、洞窟の天井まで届くほどの高層ビルが立ち並び、間を縫うように太い幹線道路が張り巡らされている。周囲の郊外地区には住宅地が設けられ、モノレール、電車、地下鉄、バスなど多種多様な交通機関が都市部との往来を支えている。決して無駄を出さぬよう、緻密な計算の上に作り込まれた、システマチックなビジネスタウン。それが、ハデスという都市の特徴だ。
27個の区に分けられたハデスの中央部には、漆黒の闇が鎮座している。聳え立つ細い尖塔。豪奢で荘厳なデザインの建造物。巨大な宮殿のような外観は、壁も屋根も全て、真っ黒に塗り潰されている。遠目から見れば、ただ黒い塊がでんと置いてある風に映ることだろう。
しかし、この場所こそが、魔界を動かす組織の中枢<魔界府中央庁舎>。広大な魔界全体を統治する、魔界府の頭脳であり心臓だ。
建物内の空間は魔法により拡張され、見て呉れの数倍以上の広さを有している。働いている職員の数は、数万を軽く超えるだろう。トワイライトも、その一人だ。
コの字型の建物の右側。七階の隅に、彼率いる単独脱界者対策室のオフィスは存在する。角部屋のそこは日当たりが悪く、少々狭くもあるが、少人数の彼らにとっては十分、快適な居場所だ。
通い慣れたその部屋から左に進み、廊下の左端にまで到達すると、一際大きく豪華な扉に出迎えられる。チョコレートに似た色をした、分厚いドア。トワイライトはその前に立って、一つ深い溜め息を吐く。この部屋を訪れるのは初めてではない。ないのだが、一度たりとて、自ら望んできたことはなかった。どちらかと言えば、遠慮したいくらいだ。しかしてそうはいかないのが、サラリーマンの宿命。
覚悟を決めて、口を開く。
「単独脱界者対策室室長、トワイライトです」
ノックをし、やや声を張って名乗るが、返答はない。返事など聞かずに自分で確かめろということだろう。相変わらずの不親切ぶりに、溜め息が出た。
「タキトゥス課長。いらっしゃいますか?」
仕方なく、金色のドアノブを捻り、ドアを開ける。一人で使うにはいっそ不便ではないかと思うほど、広い空間が彼を待ち受けていた。
「失礼します」
返事はないだろうと思いつつも、一応の断りを入れてから、中に入る。完璧なまでに整えられた、豪華な室内は、いつ見ても壮観だ。
光を吸収する漆黒の床は磨き抜かれていて、塵一つない。入り口付近に置かれた応接椅子は、革張りでどっしりと重そうだ。右の壁には飾り棚が付けられ、洒落たデザインの壺やら置き物やらが並んでいた。左側の壁には大きな本棚が、ぎっしりと中身の詰まった状態で佇んでいる。中身はよく見えないが、専門的な学術書のようだ。最奥には巨大な窓が付けられ、理路整然とした街並みが眺められた。あらゆる幻術を無効化するというこの部屋からでは、魔法により作られた偽りの空を見ることも出来ない。美しい青空の色は消え失せ、洞窟本来の赤色が降り注いでいた。
地獄の炎、と人間が呼ぶ色に背を預けた、一人の男が声をかけてきた。
「まずは、今回及び前回の、功績を讃えよう。ご苦労だった、トワイライト」
低く静かな声が、厳かに響き渡る。ゆっくりと、一語一語噛んで含ませるような、もったいつけた口調だ。彼の方へと顔を向けるトワイライトの背後で、自然に閉まったドアがバタムと音を立てた。
「……恐縮です。脱界取締部捜査一課長タキトゥスさん」
わずかに間を作ってから、神妙な顔をして頭を下げる。漆黒のレザーチェアに座った、スーツの男が顔を上げた。
窓から入る光に照らされ、どこぞの俳優かと見紛うような、人目を惹く容貌が露わになる。通った鼻筋と、上向きにきりりと上がった眉は、意思の強さを感じさせた。理知的な瞳は、実力のある悪魔にしては珍しい、薄氷の如き淡い青色をしている。黒髪をオールバックにしているせいか、真面目で堅物といった雰囲気が、一層強まっていた。
悪魔の象徴である角は、両のこめかみから、真っ直ぐ前へと水平に伸びている。先の尖った細いそれは、ワックスでも塗られているのか、ツヤツヤと紫色に輝いていた。
何万といる中央庁舎職員の中でも、ここまでの天才的頭脳を誇る男は他にいないだろう。
魔界府警察部門脱界者取締部捜査一課長・組織的脱界者対策室室長タキトゥス。
警察部門で働く悪魔たち全ての、称賛と期待を一身に背負う男である。
彼はその明晰な頭脳と冷徹な思考、及びカリスマ的な指揮力で、数多くの脱界者や脱界提供組織を検挙してきた。一体どれほどの悪魔が、彼を崇拝し、あるいは嫌悪し、恐れてきたか知れない。だが彼は、賞賛に驕ることも、憎悪に屈することもなく、淡々と成果を上げ続けた。そして、今の地位にまで昇り詰めたのだ。
悪魔たちは彼の優秀さと、莫大な成績を畏怖し、いつからか”冷血鬼”というあだ名で彼を呼ぶようになった。正直、言い得て妙だとトワイライトは思う。
「……そうか」
その名に相応しい無機質な声音が、端的に相槌を打つ。
纏った高級スーツの袖からは、これまた高級ブランドのロゴが光る、立派な腕時計が覗いていた。片手で弄ぶ万年筆も、恐らく同じくらい値の張る代物のはずだ。
一般企業の者からしたら、一介の課長職にはあり得ない待遇だと疑われることだろう。だがこれが、魔界府という偉大で強大な統治機構の、上に立つ者の実態だ。魔界府は、魔界に住む悪魔の半数以上が所属する超巨大組織。生き残るだけで至難の世界である。ましてや星の数以上にいる彼らを率いる立場ともなれば、実力のほどは計り知れない。課長の椅子に座るということは、”インペラトル”の階段を一歩踏み出したも同じなのだ。
「今後とも、よろしく頼む」
重々しい口調を、息と共に吐き出す。いかにも権力者然とした仕草だが、決して偉そうには見えないのが不思議だ。インペラトルを目指す者には、必須の技量なのだろうか。
世界を動かすのは、いつだって超級の権力と財力、その他影響力を持つ者だ。魔界の場合は、そこに魔力も含まれるが。
彼ら支配者層を、悪魔たちは”インペラトル”と名付けた。つまるところ、魔界府の重鎮や大企業の経営者のことである。
だが、無論誰しもがその地位を獲得するチャンスに恵まれるわけではない。親から遺伝的に得た魔力量によって、一生が決まる魔界では、権力を持てる悪魔の数は限られてしまう。結局、強い悪魔だけが強い悪魔と婚姻し、強き子孫を残すことが可能となるのだ。そうして代々強者のみで構成されてきた家系だけが、富を集約し、繁栄することが出来る。世襲によって更に富や魔力を蓄えた悪魔は、インペラトルの中でも飛び抜けた実力を示し、権力者たちのリーダー的存在となる。彼らは自らをインペリアル・ロードと呼称し、統率者である己を誇っている。
しかし、大半のインペラトルたちは、皆後から力を得た成り上がりものだ。ロードと”契約”を交わし、代償として魂を渡すことで、永遠の従属を誓う。それによって、魔法でさえも起こせない奇跡を賜るのだ。
タキトゥスは、その後者を目指す者である。彼の振る舞いは堂に入っていて、いずれ権力を得る悪魔に相応しく、見栄えがする。カーリをはじめ、多くの女性悪魔が憧れるのも分かる気がした。
「もちろんですよ!タキトゥス課長直々のご命令とあらば、喜んで従事させていただきます」
だが、トワイライトはあえて、彼の作り出した雰囲気を否定するように、満面の笑みで仰々しい態度を取る。
「まぁ、尤も、それが我々の業務内容に見合ったものであれば……という制限はつきますが、ね」
コーヒー一杯分の豆からは、一杯のコーヒーしか作れない。トワイライトの込めた言外の意味は伝わったのだろうか。
一度閉じた瞳を薄く開き、じっくりと相手を観察する。貼り付けた笑顔の仮面越しに、タキトゥスが、大真面目な顔をして首肯するのが見えた。
「当然の話だな。出もしない利益を絞り尽くしても、かえって非効率なだけだ。資本をすり減らす愚は犯さぬよ」
「そう仰っていただけて、安心しましたよ」
彼は優雅な仕草で片手を広げ、さも合理的であるという風に竦める。その答えを聞いたトワイライトは、心底安堵したとばかりに、穏やかな笑みを浮かべ、ほっと胸を撫で下ろした。
「では……今後は、二度と同じ過ちをなさらぬよう、善処していただけると期待してよろしいんですね?」
打って変わった冷然とした視線を向けると、タキトゥスは不思議そうな顔で、尋ね返してきた。
「何を言っている?お前たちは、全員生きて帰ってきたじゃないか。私はミスなどしていないが」
心底、トワイライトの言い分を理解していないかのような声色だ。本当は分かっているくせに、とは彼が上司である以上、言えない。一筋縄ではいかない相手に、内心辟易する。
「私は常に、組織の利益を追い求めている。最低限の資本から最大限の利益を叩き出すこと。それが私の、ひいては組織全体の至上命題だ。今回の件も前回の件も、決してその大枠からはみ出てはいまい」
尤もらしく話を続ける彼を、トワイライトは黙って眺めていた。
「……なるほど。ためになるお話ですな。非常に価値が高い」
「意味のない言葉遊びはやめたまえ、トワイライト。本題に入るぞ」
呆れつつ、冷めた顔で聞き流せば、タキトゥスは平然とした声で遮ってきた。少しの時間も惜しいと言わんばかりの振る舞いだ。都合の悪いことを誤魔化している気配など微塵もない。流石は、冷血鬼といったところだろうか。
「次に、お前たちにやってもらいたい案件だ。詳しくは資料を見てくれ」
タキトゥスは、机の引き出しから一つのファイルを取り出し、トワイライトに差し出す。反射的に受け取って中を見てから、トワイライトはふむと頷いた。
「これはこれは……また、厄介そうな案件ですな。合同任務ですか?」
「あぁ、その通り。ターゲットは、ハデス近郊に潜伏している、とある脱界提供組織となる」
嫌味を込めて発言したにも関わらず、聡明なタキトゥス課長は分かっていてスルーして下さった。トワイライトは心の中で渋面を浮かべつつ、表向きは平静を装って、資料に目を通す。
合同任務、とはその名の通り、二つの脱界者対策室が協力して行う案件のことだ。通常は、組織的脱界犯の逮捕任務に、単独脱界者対策室が手を貸す、という形態の方が多い。トワイライトにとっては、外様として参加する面倒な仕事だ。
「非常に大規模かつ厄介な連中でな。関わる人数は多い方がいい」
「ですが、我々は大した戦力にはなりませんよ?実質、戦闘員は私ともう一人きりですし」
思い切り拒否を突きつけたい感情を抑え込みつつ、冷静に反論する。それだけの強敵を相手にする実力がないと訴えれば、タキトゥスは大丈夫だと首を振った。
「分かっている。何も、戦闘任務を任せようと言っているんじゃない。お前たちに頼みたいのは、周辺警護だ。潜伏先に突入する際、逃げた悪魔などがいないか見張る役目となる。万が一発見しても、追跡は別の者が行う手筈になっているから、お前たちが戦う場面は、決してないと保証出来るな」
「ならば、良いのですが……」
ここまではっきりと断言されれば、通常の悪魔は信じることだろう。だが、今この場で会話を繰り広げているのは、トワイライトとタキトゥス。腹黒男と、冷血鬼である。
「本当に、それだけですか?」
トワイライトには、彼の主張を鵜呑みにすることが出来なかった。今まで何度も、この男には口先だけのメリットを告げられて、仕事をさせられてきたのだ。危険がないからと簡単に飛びつけば、痛い目を見ることになる。
「どういう意味だ?」
「いえ……タキトゥスさんのことですから、てっきり何か他に隠している狙いがあるのかと」
首を傾げて訝るタキトゥスに、トワイライトは思い切った直截な意見を伝えた。上の立場の者に言うべきではない言葉だが、タキトゥスはそんなことで怒ったりはしない。むしろいい質問だとばかりに、苦笑する様子まで見せてきた。
「わざわざ部下に隠し立てして、一体何のメリットがある。私は、無駄なことはしない主義だぞ」
「ですよねぇ」
彼に調子を合わせて、トワイライトも苦笑する。いい加減、終わりの見えない腹の探り合いに疲れてきた。冷酷なまでに明晰な頭脳と性格を誇るこの男相手では、まともに会話するのも一苦労だ。尤も、タキトゥスとてトワイライトのことを少なからず怪しく思っているのだろうが。
「では、謹んで、お受けいたしましょう。我々、単独脱界者対策室がね」
「期待している」
嫌な予感を押し込めて、表向きだけの笑顔を貼り付けた。自信を持っている風に頷いて請け負えば、タキトゥスも悠々と首を振る。
「早速だが、詳細な作戦立案を手伝ってもらいたい。具体的なことは部下に聞いてくれ。予定通りに進めば、一週間後に決行となる。よろしく頼むぞ。用件は以上だ」
補足の資料をいくつか手渡しつつ、彼はすらすらと残りの必要事項を伝達していく。まるで、立板に水が流れるかのようだ。言葉での戦闘が終わったと悟るや否や、この急変ぶり。徹底した効率主義者である。本来は腹の読み合いなども、時間の無駄だと思っているのだろう。やはり、馬が合わないなとトワイライトは実感する。
「かしこまりました。失礼いたします」
だが、特にこれといって噛み付くべき点もなかったため、さっさと挨拶を済ませて切り上げることにした。軽く一礼して、部屋を退出しようと踵を返せば、それを待っていたとばかりにタキトゥスに呼び止められる。
「あぁ、一つ、伝え忘れていたが」
ゆっくりと振り向き、彼の方を向くと、ちょうどタキトゥスは上等な革張りの椅子から立ち上がるところだった。一歩一歩、足の運びすら計算し尽くしているかのようなおもむろな動作で、トワイライトに近付いてくる。
「今回のターゲットは、今の部長の代から追っている肝入りの案件だ。必ず、成功させねばならない。分かっているな?」
そして、彼の耳元で耳元でそんなことをこぼしてきた。脅しなのか圧力なのか、目的の分からない行為だ。
「部長の捕らえ損ねた連中でもって、土産の品とするわけですか。これでまた、インペラトルに近付きますな」
「他人事のように言うな。これは、お前にも関わりあることなんだぞ」
興味がないことをあからさまにアピールして答えれば、タキトゥスの冷たい声が割り入ってきた。トワイライトは大袈裟に目を見開き、意外そうな顔をして聞き返す。
「なんと!驚きですねぇ。一体、どこがでしょう」
明らかに芝居くさい語りに、タキトゥスは小さく鼻から息を漏らした。カツカツと革靴を鳴らし、トワイライトから離れていく。黒い高級スーツを纏った長身が、窓ガラスに映った。
「先程言及した二件の脱界者逮捕案件について、残存魔力や人間どもの記憶処理を担当した部署からクレームがきていてな。私の一存で抑えているが、いつ火が噴き出るか分からん。火口を塞ぐ者がいなくなったら……どうなるか、想像くらいつくだろう?」
こちらに背を向けたまま、何でもないことのように告げる口調。まさに、恐ろしい冷血鬼の手法だ。だが、その内容は到底無闇に聞き流せるものではない。
全ての責任を問われることになる、と伝えられて、トワイライトは思わず言い返した。
「お言葉ですが、我々は、ただ自らの職分に基づき、業務を全うしたまでです。責められる謂れはないと存じますが?」
「そんな都合のいい話が、俺以外に通ると思うか?」
氷のように鋭く容赦のない言葉が、トワイライトの言葉を遮ってきた。口を閉ざした彼に再び向き直ると、タキトゥスは骨張った長い指を突きつける。
「いいか、お前たちが残したのは、功績以上の損失だ。責められたくなければ俺に尽くせ。分かったか?」
俳優のように整った顔は、静かに燃える冷たい怒りの炎に熱されていた。至近距離から、きつい視線を当てられても、トワイライトは感情の読めない無表情を消さない。
「……別段、逆らうつもりはありませんよ」
わざとらしく間を置いてから、彼はゆっくりと口を開いた。自分より高い位置にある青い瞳を、真っ直ぐ見上げ、ニヤリと笑う。
「ただ、勘違いはしてほしくないですなぁ。いざという時致命傷になりますよー」
パッと視線を逸らし、虚空に語りかけるようにして言葉を続けた。耳にしたタキトゥスが、不快げに眉を顰める。
「何……?」
「我々の関係は、上司と部下、ただそれだけのものじゃありませんよね?課長は私を利用している。私も、あなたを利用させていただいている。複雑そうで、非常に単純な関係だ」
トワイライトは笑顔で、天井と壁の境目を見つめながら、あからさまな皮肉を吐いた。含みのある台詞に、タキトゥスが身を硬くする。
「ご安心を。私は、あなたを裏切るつもりはありません」
彼の警戒心を、分かっていて転がすように、もったいぶって微笑みかけた。
「あなたの方から危害を加えて来ない限り、誠心誠意尽くしますとも。タキトゥス課長」
両手を広げ、胸を押さえて保証すれば、ややしてからタキトゥスの目から険の色が抜ける。それをきっちりと確認すると、トワイライトは姿勢を正して締め括った。
「では、今後ともよろしくお願いしますよ。公平な間柄としてね」
いつもの腹の読めない笑みを貼り付けて、にっこりと口角を上げる。それから、話はこれで終いとばかりに片足を上げ、気取った態度で身を翻す。のんびりとドアを開け、壁の向こうへと消えてしまったトワイライトをしばらく目で追ってから、タキトゥスは深く息を吐いた。
(フェアだと……?全く、厄介な男だ)
トワイライトと彼の関係は、捜査一課がまだ二班に分かれていなかった頃から続いている。当時一介の捜査員だったタキトゥスが、課長に就任した際、その特権を使って捜査一課を分断した。全ては、トワイライトと彼を慕う部下たちを、出世争いの場から撤退させるためだ。
トワイライトは、恐ろしい男だ。いつもにこにことした笑顔を浮かべて、そのくせ内心では常に狡猾な計算をし続けている。だから、単独脱界者対策室という新たな班を設置し、彼をそこに押し込めたのだ。あんな男に、自分の出世を妨害されては堪らない。
今は権力になど興味がないというスタンスを取っているようだが、彼は本当は、飢えているはずだ。自らの力を絶えず拡大し、利益を貪り尽くさないと満足しない。そういうタイプだとタキトゥスは睨んでいる。己の邪魔をしたタキトゥスのことを、彼は恨んでいるはずだ。でなければ、仮にも上司である自分に面と向かって、”フェア”などとは口にしない。
ただの室長でありながら、インペラトルの端くれとも言える自分と、対等に渡り合うことの出来るあの男。今回の任務だって、わざと失敗を演じて責任をなすりつけてくるかも知れない。だが、彼は確かに、優秀な悪魔なのだ。彼の力なくしては、達成出来ない任務があったことも事実。タキトゥスの口内に、苦いものが込み上げてくる。
しかし彼は、効率と利益を何より求める男だ。縁を切ることが出来ないのならば、いっそ利用し尽くすしかない。こちらの思う方向へ巧みに誘導し、成果を叩き出させる。そのためならば、多少の犠牲は厭わないと決めていた。
(搾取出来るだけし尽くす……場合によってはそれが……)
トワイライトは、どんな状況でも臨機応変に対応出来る優れた悪魔だ。彼を上手く操って、自分は更なる高みへと上り詰める。あの厄介な笑顔と向き合うのも、もうしばらくの辛抱だ。
艶やかな黒髪をかき上げ、タキトゥスは気丈に笑みを浮かべた。
* * *
重たい音を立てて、ドアを閉めてから、トワイライトは息を吐いた。
脱界者取締部捜査一課課長タキトゥス。相変わらず、厄介極まりない男だ。血筋の呪縛と実力至上主義と、それに伴う血筋の呪縛が蔓延る魔界で、数少ない叩き上げのインペラトル候補。
トワイライトとも、境遇は似ている。しかし、彼とは一度も意見が合ったことはなかった。タキトゥスは、目的のためならどんな残忍な行為すらも厭わない。まさに”冷血鬼”と称されるに相応しい、鬼のような男だ。そして彼は己の力を使って、生まれつきの強者しか登れないはずの階段に、足をかけようとしている。
トワイライトは反対に、権力や出世には今一つ情熱が湧かなかった。彼にとって大切なのは、気楽かつ快適な今の暮らしで、何かに縛られた生活は嫌いなのだ。
しかし、タキトゥスはトワイライトの言い分を中々信じない。今でも、トワイライトのことを非常にライバル視しているほどだ。本気を出せば、自分のことなど簡単に追い抜ける相手だと、過大評価している。だから、ことあるごとに面倒な案件を押し付けたり、些細な失敗の責任を問うてきたりするのだ。非常に迷惑極まりない。だが、それならばそれで利用するのも一つの名案だと、トワイライトは判断した。
こちらが気に入らなければ、いつでも取って代われると匂わせ、要求を飲ませる。代わりに、タキトゥスには得のない案件を進んで引き受け、功績を献上する。それが、暗黙の内に彼らの間に締結された、取引だ。
ほとんど彼の奴隷のような立場だが、別段不満はない。彼に逆らう気も。彼に従ってさえいれば、居場所も部下も手に入る。上を目指すことも、下から脅かされることもない。ただ、快適に生きていける。だからトワイライトは、彼に尽くすことを選んだ。トワイライト以外の、単独脱界者対策室のメンバーは知らない事実である。
とはいえ、面倒であることは面倒であるのだけれど。
(ただ自由を求めるだけなのに……苦労するとは、辛いね。彼が裏切ってこなければいいけど)
胸中で独り言を漏らしながら、トワイライトは溜め息をついた。
「……ま、その時は、その時か」
ある程度の諦観すら、時には有用だ。
都合の良い論理を弄びながら、彼は人気のない廊下を歩く。この端にある、単独脱界者対策室のオフィスを目指して。
* * *
「合同任務………ですか?」
トワイライトから渡された、簡単な資料を読み、カーリは首を傾げる。その様子を見て、エンヴィスが思い出したように口を開いた。
「そうか。お前は参加したことなかったか。初任務ってわけだな」
「は、はい。そうなるみたいですね」
カーリは頷き、曖昧な返事をこぼす。そして、気恥ずかしそうに笑った。
「ちょっと緊張します」
「別に、そんな大したもんじゃないと思うぜ?こう言っちゃなんだけど、こっちの仕事の方が案外楽だったりするから」
エンヴィスは機嫌がいいのか、やけに優しい口調で彼女を宥めた。
「エンちゃん、何かいいことあったの?怪し~い」
普段の様子とは明らかに違う彼に、レディが不審感を露わにして見つめる。
「当てたげる。それでしょ。スマホ。新しいやつ」
「おっ、これのことか?新発売だ。pEARphone16。しかも、早期予約者限定スペシャルモデル!」
見事触れて欲しかった事項に水を向けられたエンヴィスは、待ってましたとばかりに目を輝かせて語り出す。心底嬉しそうに提示された携帯端末には、人間界の会社のそれとよく似た、欠けた梨のロゴが入っていた。
「へぇ。カッコいいですね」
「フッ、だろう?」
「いや、この前もそんなこと言って買ってたじゃん、似たよーなやつ」
青色のスタイリッシュなボディを眺めて、本心とお世辞の中間のような言葉をカーリは発する。自慢げに頷くエンヴィスに、レディがオタクに向けるような呆れた眼差しを注いだ。
「スマホなんて、一台あれば十分じゃない。エンちゃん、ほんと新しいもの好きだよね~。オタクだぁ」
「前買ったのはタブレット。スマホはバッテリーがへたってたから買い替えたの。それに、オタクを悪口みたいに言うな」
よほど納得がいかなかったのか、エンヴィスは向けられた言葉の全てを拾い上げ、的確にツッコミを入れる。コントのような掛け合いを見守るカーリの視線も、そろそろ慣れてきた者のそれだ。
「それで、合同任務って何をすればいいんです?」
上手い具合に話の軌道を元に戻すと、エンヴィスが再び口を開いた。
「あー、今回はここに書いてある通り、周辺警護だな。ターゲットの潜伏拠点にタキトゥスさんの班が突入するから、俺らは、そいつらが逃げ出さないか見張っていればいい。簡単な役目だ」
トワイライトは、先ほどタキトゥス課長から告げられた業務内容と、認識が食い違わないか確認しながら聞く。
「戦闘の可能性のない、安全な任務だな。お前でも、安心して参加出来るぞ。とはいえ、簡単だと思って気を抜き過ぎるのも良くはないが……う~ん……少し妙だな」
「え?」
資料をペラペラと捲りながら、概要を把握していたエンヴィスが、ふと疑問の声を上げた。
どうしたの?と言いたげに、レディが声を上げ、カーリが彼を見つめる。
トワイライトだけは、彼の意見を察知したかのように、意味ありげな視線を送っていた。
「いや……まず何でこいつら、急に根拠地を変えたんだ?しかも、それまでは積極的に活動していたのが、ひっそり静かに隠れてるって、何か変じゃないか?理由が分からない」
3人の視線を受けたエンヴィスは、顎に手を当ててやや考え込みながらも、自身の感じた違和感を述べる。その眉は、訝しげに寄せられていた。
「構成人数も大幅に減少……まぁ、それでも結構な数の悪魔がいるみたいだが、もっと詳しく調べてからの方がいいんじゃないのか?」
彼が示す、組織の構成人数の表を見る限りでは、確かに一年以内に、所属する悪魔の数が半分ほどに減っていると分かった。
「ライバルグループとの抗争が泥沼化し、縮小と予想って書いてありますけど」
「それはあくまで予想、だろ?」
カーリの言葉にも、彼は尤もな意見を打ち返す。そして、両手で空間を切るような仕草をしながら、整然と理論だった主張を述べた。
「ユリウスさんの時代から、生き残り続けてる組織なんだとしたら、相当優秀なブレーンを抱えてるってことになる。ちょっと敵対勢力と揉めたぐらいで、半壊するとは思えない。タキトゥスさんは、本当は何考えてるんだ?……例えば、他に何か裏の事情があるんじゃないか?その上で、あえて俺たちに協力を求めているんだとしたら?あの人が俺らにさせたい仕事って、本当は警護なんかじゃないんじゃないか?」
仮説的ではあるが、確かに納得の出来ないことはない理屈に、カーリは口を挟めなかった。適切な反論の声を探して口を無駄に開け閉めしている内に、突然レディが笑い出す。
「考え過ぎだって、エンちゃん」
彼女には、エンヴィスの言い分は怪しげな都市伝説のように思えたのだろう。確実な証拠はなく、予測の話でしかないのだから、それもまた当然だ。
「いや、そうとも言えないぞ」
だが、そこへトワイライトが割り込む。長年冷血鬼タキトゥスという男を見てきた者の直感は、無闇に打ち捨てるべきではないと判断したのだ。
「タキトゥスさんは、決して油断してはならない相手だ。もしかすると、本当のことを話せば、危険だからと見送られる案件を、無理にでも成功させようとしているのかも知れない。多少強引な手を使ってでも、彼らを検挙し、出世の手土産にするつもりかも」
相手は、あの冷血鬼タキトゥスだ。高い目標を持ち、その達成のためならば、どれほどの犠牲も厭わない男。自らの決断を実行するのに、何ら躊躇いのない人物なのである。
己の出世のために、分かっている危険に飛び込むことも、あり得ないとは言い切れない。彼は非常に頭の切れる男だ。もし万が一、窮地に陥ったとしても、自分だけは生き延びる手段を確保しているはずである。場合によっては、必要なだけ、正当な理由付きで犠牲に出来る部下たちの用意も。例えば、トワイライトたちのような。
「え……じゃあ課長は、何かを知っているのに、黙っているってことですか!?」
彼の言わんとしているところを理解したカーリが、顔面蒼白になって叫んだ。その声音はあまりの驚愕に、裏返ってしまっている。
「一つの、可能性の話だがね」
肯定なんてしてほしくない。彼女の内心の願いは、こんな言葉では叶えられないだろう。だが、そこに少しでも存在する以上、可能性が全くないとは言い切れないのだ。
「本当はどうなの?」
とはいえ、レディには若干難しい話だったらしい。タキトゥスの言葉に嘘があるのか、裏の狙いなどないのか、彼女ははっきりと知りたいようだった。
「それは誰にも分からないよ。今はまだね」
それもまた叶わない願いだと、トワイライトは曖昧に首を振る。あからさまに不満げな顔をしたレディと、分かりやすく不安げな表情のカーリを慰めるために、彼は思い切って言い切った。
「これから、少し調べてみるとするよ。あまり当てにはしないでほしいが」
「私も、それらしいことを知っていそうな知り合いが、何人かいるので当たってみます」
多少顔色を明るくする彼女たちを横目に、エンヴィスも加勢の申し出をしてくる。許可を与える必要もないことなので反対はしないでおくが、忠告だけはと念押しをしておいた。
「エンヴィスくん、それは構わないけど、決して相手の方や君自身を、危険に巻き込まないようにね」
「分かっています」
しっかりと彼が断言するのと見届けてから、トワイライトは席を立った。これから、組織的脱界者対策室で会議なのだ。ターゲット逮捕の当日の具体的な流れについて、詳細を決めていくこととなる。
タキトゥスは本当に真実を隠しているのか、だとしたらそれは何なのか。それとも、ただの疑心暗鬼なのか。少しは答えに辿り着けることを祈りながら、トワイライトは再びオフィスを後にした。
* * *
「タキトゥス課長……何考えてるのかな」
その夜のことだ。カーリはレディとエンヴィスと共に、近くの中華料理店に来ていた。
早めの夕食兼、今回の件に関する雑談、という目的なのだろうが、既に二人は完全に食べる方に思考がシフトしてしまっている。
「まだそれ言ってるの?カーリ」
いい加減同じ議論を繰り返すのに疲れてきたレディが、げんなりとした顔でテーブルに突っ伏した。カーリは、彼女の腕に潰されないようエビチリの皿を救助しながら答える。
「だって、私には、タキトゥス課長が、そんなに悪い人には見えなかったし」
「あのなぁカーリ」
春巻きの皮を巻きながら、エンヴィスが口を挟む。
「悪魔なんだから、基本的に悪いに決まってんだろ。自らの欲望のために、手段を選ばない連中なんか、腐るほどいる」
「それは……その通りなんですが」
悪魔とは、そういう生き物だ。
この世界に来てからというもの嫌というほど身に染みて分かっている事実に、カーリは歯切れの悪い曖昧な同意をした。
「それに、タキトゥスさんが何か知ってるかだって、まだ掴めてすらない不確定な事実だからなぁ」
エンヴィスは話しながら、手元に目を落とし巻き終わった春巻きをばくりと一口で平げた。
「本当は、何も裏なんかなくてただの警護任務、って可能性も、あり得る」
「そうなんですか?」
「さぁな。それすら分からねぇよ、今のところは。だから調べてるんじゃねぇか」
どう考えても大き過ぎるサイズだったのに、よく食べられたものだと内心訝りながら、カーリは尋ねる。けれど、エンヴィスは投げやりに肩を竦めるだけだった。
「何か、分かったの?」
「まーだ。今は、種蒔きの最中だからな」
ラーメンを啜りながら質問するレディに、彼は天井を仰いで答える。聞き慣れないワードに、二人は首を傾げた。
「情報は、そんな簡単に手に入らないんだよ。草花と同じでな」
「エンちゃん草とか育ててんの?」
「まぁな。ハーブを少し。妹に勧められてさ」
恐らく、情報を提供してくれるなら見返りを渡すなどと、交渉の途中なのだろう。独特の語彙で喩えるエンヴィスの意図を理解するカーリの傍で、レディがズレた話題を振っていた。
「合法のやつ?」
「当たり前だろ。俺を何だと思ってんだ、お前」
冗談めかしたやり取りを聞きながら、カーリは少し驚いていた。エンヴィスに妹がいるとは、初耳だったからだ。意外のような気もするが、どこか納得も出来る。子供や年下の扱いに慣れているから、レディの突飛な行動にも、付き合えるのだろう。
そんなことを茫漠と考えていると、レディとの会話を切り上げたエンヴィスが、こちらに体を向けてきた。
「だからお前も、そこまで真剣に考える必要はないってことだ。せいぜい、何が起きてもいいように備えとく、くらいしか出来ないんだから」
隣ではレディが、エンヴィスの皿から肉まんを強奪しようと手を伸ばしている。が、エンヴィスに手の甲をぺちんと叩かれ、撃退された。
「事実が何にせよ、俺たちサラリーマンは上の命令には逆らえないんだ。理不尽なことだがな。それが世の中の常ってもんだよ」
彼は平然とした顔で、皮肉なことだな、と笑いを漏らす。そして、レディに盗られかけた肉まんを頬張った。「あー」とかいうレディの嘆きが聞こえる。
「そう、ですよね……」
カーリは見かねて、自分用の酢豚を彼女に分けてやりながら、頷いた。
エンヴィスの言っていることは、確かに正論だ。与えられた仕事である以上、成功させるしか道はない。裏に何が隠されているにせよ、失敗のないように対処して成績にするしかないのである。自分たちに出来ることは、ただ異常に備え警戒しておくことくらいだ。カーリとて、それは分かっている。だが、理解というだけでは飲み込みきれない感情があるからこそ、黙ってはいられない。
どう言語化すべきか分からぬ意見を頭の中でこねくり回すが、いい回答は見当たらない。悩んでいる間に、エンヴィスの買い替えたばかりのスマートフォンが、通知音を鳴らした。
「お。情報源、一匹釣れた……じゃ、ちょっと行ってくるわ。あとは、お前ら二人で好きなだけ食えよ。今日は奢ってやる。気をつけて帰れよー」
内容を確認するなり、彼はさっさと会話を切り上げて席を立ってしまった。置いていかれたカーリは慌てて、彼の背中を目で追うも、既に視界は悪魔の海。この時間帯の店は混んでいて、目的の相手を見つけることは出来なかった。いや、例え目では見えていたとしても、辿り着くのに手間取って、見失ってしまうことだろう。
「あー……エンヴィスさん……」
カーリも早々に諦め、椅子に座り直すと軽く息を吐いた。
「カーリ、奢りだってよ。次何頼んじゃう?甘いのとかいっちゃおっかな~」
レディは正反対に嬉々とした顔を輝かせて、エンヴィスが置いていった数枚の紙幣を数えていた。残りの金額で何を食べられるか計算をしているようだ。スマホの電卓機能を使って助けてやりながら、カーリもメニューを一瞥した。
「アンニンドウフ……頼もうかな」
「あっ、いいねぇ~!」
呟いた言葉にレディが賛成する。注文をして、商品が届くのを待ちながら、カーリは胸の中でぼんやりと考え事をしていた。
(何があっても対処出来るように……って、きっと戦いになることもだよね……?) 脳内に、ミルやアッシュを捕らえた時の記憶が蘇る。戦えない自分がいることで、トワイライトたちには多大な迷惑をかけてしまった。いい加減、自分の身くらい自分で守れるようになりたいのだが、中々それも難しい。一体何をしたらいいのか、全く分かっていないのだ。
(でも、やっぱり……駄目だよね)
分からないを理由にして、いつまでも逃げるのはやめなければ。でなければ、大切な彼らを失うかだ。自分に居場所をくれた、貴重な理解者たちを。
(何でもいい。戦える方法を探そう。例えそれが……どれほど苦しかったとしても)
強くなれない自分が、いつまでも足手纏いでいることは出来ない。何より、自分自身が許せないだろう。だから、今回の任務に賭けるのだ。新たな、最後の努力を試みる。
「わ~っ、カーリ、美味しそうだよ~!早く食べよっ!!」
カーリが内心で決意を固めている間に、いつの間にか提供されていたアンニンドウフやごま団子を指して、レディが歓声を上げる。
「そうだねっ!」
もしも叶わなかったら。きっとこれが彼女と最後の、”同僚”としての食事だ。
思い切り楽しむと決めて、カーリは手元のスプーンを摘み上げた。
* * *
その日から、一週間が経つのはあっという間だった。
いつにも増して、飛ぶように過ぎていった日々のことはカーリもよく覚えていない。
ただ彼女のカバンには、いつもとは違う物が一つ入っていて、そのことだけが誇りだった。だからいつもの満員電車にも耐えられたし、街中を歩く時胸を張っていられた。気分的なものであるとは分かっていたが、それでも気分は大事なのだ。
「諸君、では行こうか」
オフィス最奥のデスクから立ち、トワイライトが声をかけた。そろそろ、任務に向かう時間である。
「了解しました」
「よーっし、頑張るぞー!」
「分かりました」
エンヴィス、レディがそれぞれ返答を発するのを聞きながら、カーリも席を立つ。魔法で容量を広げたポーチに、タブレットやその他忘れ物がないか確認しつつ、最後に”それ”をこっそりとポケットに忍ばせた。
「お先にどうぞ」
「ありがとー、トワさん」
「恐縮です」
一足先に入口に歩み寄ったトワイライトが、ドアを開け部下たちを先に行かせる。彼らに従ったカーリが、隣を過ぎるのを見て、トワイライトはかすかに眉を顰めた。
「……?」
(何だ……?この感じ。カーリくんから……?)
肌に触れる、今まで感じたことのない魔力の気配に、疑念がさざめいた。しかし、一瞬のことだったので、よく分からない。
「トワイライトさん?」
「あぁ、いや、何でもない」
立ち止まったままの彼を訝しく思ったのか、エンヴィスに呼びかけられ、トワイライトは我に返った。振り向いて彼らのもとへ戻りつつ、胸の中に湧いた感情をメモしておく。
(大した魔力じゃなかったが……万が一の場合もある。心に留めておいた方がいいだろうな)
そんなことを考えながら、目的地を目指す。今までの案件とは違って、ターゲットは魔界にいるのだから、越境の術式は必要ない。潜伏先の都市アルテポリスまで、転移すればいいだけだ。
エレベーターは使わずに、同じ階にある組織的脱界者対策室の会議室まで向かう。オフィスと簡易な資料庫しか持たない単独脱界者対策室と違って、彼らはオフィスの他に、大きな会議室をいくつかと、別の棟に専用の資料庫を持っているのだ。
100人は入れるだろう広大な部屋を見て、レディが感心の声を上げる。大量の長机は全て壁際に寄せられ、中心に大きな魔法陣が描かれていた。成人男性が5人ほど入れそうな巨大な方眼紙に、赤いインクで術式が描かれている。ざっと見ただけではあるが、シンプルな転移陣だと分かった。これで、目的地まで転移出来るはずだ。
「お疲れ様です!」
「アルテポリスへの転移ですね!すぐに準備致します!」
「ご協力、感謝します」
「あぁ、お疲れ。そうなんだ、よろしく頼むよ。ありがとう」
トワイライトの姿を認めるなり、数人の悪魔たちが話しかけてきた。誰も皆、目を輝かせて顔を明るくしている。まるで、憧れの人物に会えたような反応だ。
「トワさん、モテるじゃん。むさい男にばっかだけど」
「おい、失礼だろ。どっちにも」
ボソリと呟いたレディに、エンヴィスが叱責を飛ばす。トワイライトは、苦笑していた。
「元々は、ここで働いていたわけだからね。タキトゥスさんが課長になって、行った改革で捜査一課が二つに分かれた。私はその地位をもらったというだけだよ」
「トワイライトさんは、凄かったんだぞ。タキトゥスさんの班に次ぐ、功績二位だ」
「そうなんですか!?」
「へ~ぇ」
あえて何でもないことのように説明したのに、エンヴィスが全て台無しにした。まるで自分のことのように、上司の功績を讃える彼に、カーリも驚いて、トワイライトを見遣る。周囲の悪魔と同じような、賞賛を含んだ視線を受け、トワイライトは内心顔を顰めた。レディだけが、全く何も理解していない表情で、ぼんやりとしていたが。
「じゃあ、トワさん、課長には負けたんだ」
「レディちゃん!」
爆弾のように落とされた、あまりに度が過ぎた失言に、カーリまでもが高い声で彼女を叱る。いくらトワイライトが温厚な悪魔とはいえ、礼節を欠いていい相手ではない。優しい相手の怒るところなど、見たくはなかった。
「ふふっ……あっはっはっは!!その通りだねぇ!」
しかしカーリの恐れに反して、トワイライトは目を丸くし、しばし固まった後、突如大きな声で笑い始めた。最高に面白いジョークでも聞いたように、口を開けて手を叩いている。予想外にも程がある反応に、エンヴィスもカーリも、不意を突かれた顔をしていた。
「まさに、その通りだ。いいことを言うね、レディくん」
「でしょ?」
レディは一人、褒められたと得意げに、胸を張っている。トワイライトはそんな彼女を見てまた少し笑うと、口を閉ざして思考に耽った。
万年二番手の自分を、タキトゥスは何故か恐れた。トワイライトならば、いつか壁を超え自分の脅威になると。だからわざわざ別の部署を作り出し、彼を閉じ込めた。
実に、愚かなことである。
誰もが、彼を見る度過剰評価して、無駄に警戒心を割く。意味のない行動に、必死になる彼らの姿は、考えてみればとても面白いものだ。優秀な悪魔たちが、こぞって自分を高く見る。実際の価値とは程遠いものを、彼らは脳裏に勝手に描いているのだ。
レディは、知らずしてその核心をついた。そのことが、トワイライトにとって耐えようのない愉悦だったのである。
未だ止まぬ笑みを堪えていると、横から一人の悪魔が声をかけてきた。
「あ、あの、準備完了しました。始めてよろしいですか?」
「あぁ、お願いします」
どうやら、無事に転移陣の発動の用意が終わったらしい。こちらを見遣る職員たちの顔は、突然笑い出したトワイライトへの恐怖で、やや強張っていた。エンヴィスだけはいつものことだと慣れているので、上司に代わって対応をする。何事もそつなく対処出来る部下の存在にトワイライトは感謝し、同時に少しでも真面目な表情を作るべく顔の筋肉を引き締めた。
「それでは、転移を開始します。お気を付けください」
確認を終えた悪魔たちは、いよいよ魔法の行使に向けて待機する。端の方で長机に機材を並べているのは、捜査一課の者ではなく、出張で来た転移管理部の悪魔たちだろう。事務的な口調を聞き流しながら、カーリは気を引き締め、任務に備えた。トワイライトも息を吸い込み、転移を待つ。しばらくじっとして立っていると、徐々に足元から淡い光が輝いてきた。描かれた術式に魔力が流れ込んでいるのだ。完全に満ちれば、転移が行われる。
「さぁ、諸君、行こうか」
吸い込んだ息を吐くようにして、トワイライトは厳かな声を出した。一応、締めるべきところは締めておきたい性分なのだ。
「仕事の時間だ」
その言葉を発するか否かというところで、光が一際強くなり、彼らの姿は見えなくなった。明滅する粒子が周囲を取り囲み、意識が一瞬遠くなったかと思うと、全身を包む光が一気に消失する。瞬き一つの時間で、転移はあっという間に完了だ。
「着いたー!」
「うるさいぞ」
後ろで、レディが嬉しそうに叫んでいる。エンヴィスが宥める声もする。総員無事に転移完了したようだ。
「ここが、アルテポリスですか………?」
目の前に広がる大通りを眺めて、カーリが呆然とした声を出していた。
「何か、思ってた感じと違いますね。お店が一杯。あれは、モールですか?」
「アルテポリスは、ハデス周辺都市の中でも有数のショッピングタウンだからな」
太い道路の先に見える、白色の大きな建物を指して問う。答えるエンヴィスの言う通り、アルテポリスは大手アパレル企業や有名グループのショッピングモールが多数展開する、大規模な商業都市なのである。比較的リーズナブルな価格帯の店が多いために、大抵の一般市民はここ一つで必要なもの全てを買うことが出来る。尤も、エンヴィスのような高級志向の悪魔には、あまり縁のない都市であったが。
「アタシ休みの時よく来るよー。電車でも一時間くらいで来れるから、便利だし楽しいよね!」
「一時間か……お休みの日だったら、映画とか見ちゃうかも」
逆に、プチプラなどを愛するレディには、過ごしやすい街のようだ。休日の楽しみに、話題が完全に逸れる前に、トワイライトは軌道修正を図る。
「我々の配置場所は、あのビルだ。屋上が、カーリくんとレディくん。建物内を巡回するのがエンヴィスくん。私は、一階のカフェで待機する。全て、事前に計画した作戦通りだ。何か質問はあるかね?」
道沿いに立ち並ぶビルの中の、一軒を指で示す。小洒落たカフェと、こじんまりしたブティックが詰まった雑居ビルだ。白い壁の綺麗なデザインが、霞むこともなく悪目立ちすることもなく、街並みに馴染んでいる。
念のため各々のポジションをもう一度繰り返してから、疑問がないか確認をする。誰も何も言わないことが分かると、総員で目的地へと向かった。
ビルに近付くにつれて、周辺の監視や警護にあたる同業者たちが目に付く。組織的脱界者対策室の、メンバーたちだ。タキトゥスの姿は見当たらない。課長であり室長も兼任している彼ならばここにいるかと思ったが、予想が外れたようだ。
「いませんね、タキトゥス課長」
隣を歩くエンヴィスが、魔法の言葉を伝達してくる。カーリやレディに口を挟まれるのを避けるためのようだ。
「そのようだな。突入班の方にでも、チェックに行っているのかな」
トワイライトも、あえて逆らいはせずに同じ方法で答える。それ以上言葉を続ける前に、カーリたちが立ち止まった。
「ここですよね。屋上は……あの階段でしたっけ」
入手した見取り図をタブレットに表示させながら、カーリが確認をする。カフェの隣に伸びる、細い通路の奥に狭い階段があった。関係者以外が迷い込まないよう、わざと地味に作っているのだろう。日の光が入らず、薄暗い廊下へ、レディが大胆に踏み出した。
「だね。早く行こ、カーリ!」
「ちょ、ちょっとレディちゃん……」
せっかちな彼女に腕を引っ張られ、カーリが慌てふためく。
「気を付けるんだぞ、二人とも」
足早に階段へと向かっていく彼女たちの背中に呼びかけるが、カーリはかろうじて振り向くだけでそのまま引き摺られていってしまう。置いて行かれたトワイライトとエンヴィスは、呆れに満ちた苦笑をこぼす。
「やれやれ……仕方ないな。レディくんは」
「人の話ぐらいちゃんと聞くべきですね」
「ま、何でもいいさ。危険な目に遭わなければ」
首を振って嘆く彼に、エンヴィスが全くもってその通りだと同意を示す。大袈裟なほどの反応にまた少し笑んだ後、トワイライトはおもむろに顔を上げた。
「さぁ、我々も持ち場に向かうとしよう」
「結局、タキトゥスさんの狙いって何だったんです?」
腰に両手を当て、張り切った演技をして発言すれば、エンヴィスから唐突に尋ねられる。ストレートな質問に、トワイライトも言葉遊び抜きで返答した。
「分からない。それなりに手は尽くしたが、情報など何一つ出てこなかったからね……」
「やはりそうですか……仕方ないですね」
「あぁ。こうなったら、本当に我々の仕事はただの警護任務で、何も起きず平穏に仕事を終えられることを、祈るのみだ」
どうしようもないことはある、と胸中で漏らすトワイライトに、エンヴィスも似たような顔をして頷く。後はただ、大人しく覚悟を決めて、あらゆる事態を想定しておくこと。それが、最後の悪あがきというものだ。
「じゃあ、私はそろそろ行くよ。何かあったら、すぐに連絡してくれたまえ。よろしく頼むよ」
「了解です」
話が途切れたタイミングを見計らって、トワイライトはカフェの方へと歩み出す。即座に応対するエンヴィスの声を聞きながら、彼はそっとショーウィンドウのガラスに映る、怪しげな人影を確認した。
* * *
「ほらこっちだよ、カーリっ!」
「いや……ちょっと待ってったら……はぁ」
レディに連れられ、屋上へと辿り着いたカーリは、息を切らせて俯いた。
運動不足の身体には、階段を上るという作業も酷なのに、彼女のペースに合わせるとなると相当の地獄を見る羽目になる。全力疾走をしたかのようにジクジクと痛む脇腹を押さえ、しばらく必死に呼吸を整える必要があった。
「もう~、カーリったら、つまんないんだから~。競争しよって言ったのに、ちっともついてきてくれないんだもん」
「当たり前だよ……レディちゃんに合わせられる人なんていないでしょ」
張り合いがない勝負だったとむくれる彼女に、カーリはげんなりとしつつ言い返す。もはや若干の苛立ちすら含まれた声だったが、レディは全く気にせずに、背中を向けた。
「ん~、でもここからじゃ、フェンスが邪魔で見えにくいね」
彼女が言う通り、ビルの屋上は薄緑色のフェンスで囲まれ、高い安全性を保っていた。
「飛び越えちゃう?」
「危ないからやめて。それに、これだけ高いと越えるのも苦労するんじゃない?」
にっと笑って、フェンスを親指で指すが、カーリの対応は冷たい。だが、まさしく正論とも言える答えに、レディはまた言葉に詰まった。
「う~~~ん……じゃあ、どうしよう?」
「普通に見ればいいんじゃないかな。だって、逃げたりする悪魔がいないか見張るってことでしょ?それらしいのがいたら、すぐ分かるよ、きっと」
問いかけられても、カーリには曖昧なことしか返せない。彼女にも、実のところはよく分かっていないのだ。トワイライトたちと仕事をする中で、怪しい悪魔はそれなりに見抜けるようになってきてはいるが、かといって確実に当たるかどうかは分からない。例えば、慌てふためいて逃げる者や、キョロキョロと周囲を警戒するように見る者がいたら、判別は出来る。しかし、あまりにも普通に自然に振る舞われた場合というのは、まだ対処法を身につけられていなかった。
「トワイライトさんたちもいるし。大丈夫だよ」
だからつまるところ、そんなことしか言えないのである。
「そっか。そうだね!」
純粋なレディは、心苦しい説明でも理解を示してくれたようだ。頑張るぞ~と呟いて階下を覗き見る彼女の横で、カーリも辺りを見回していた。
少し視線を走らせると、とあるビルが目に付く。斜向かいに立つ、小さなビルだ。この建物だけが、小綺麗に手入れされた周囲と違って、古びて薄汚れていた。あまりにも景観に馴染まない様相だが、非合法な生活をする連中には住みやすいのかも知れない。ターゲットの脱界提供組織は、数ヶ月前から、ここに潜伏している。長年改修もされていないボロい建物の地下に、ひっそりと身を寄せ合って。
地下へと続く階段への入り口が、捜査一課の悪魔によって塞がれているのを見たカーリは、その周りにも視線を巡らせた。先ほどは気が付かなかったが、何度か見たことのある悪魔が複数、広い歩道に展開している。誰も皆警戒した目つきで、かといって通行人には悟られないような顔で、辺りに気を配っていた。
「いつ突入すんのかな~?」
フェンスに片足を引っ掛けて、ぶらぶら身体を揺さぶりながら、レディが呟く。危ないよ、と彼女を窘めながら、カーリも手持ち無沙汰な時間をどう使おうかと思案した。
「そうだった」
「ん?どうしたの?カーリ」
ふと、思い出したと声に出せば、訝しんだレディがこちらを向いて尋ねかけてきた。カーリは言葉では答えずに、腰につけたポシェットを開けると、中のある物を握り締める。先ほど、オフィスを出る際に忍ばせてきた、キーアイテムだ。せめて自分の身くらいは、自分で守りたいと思って買った物である。
「一昨日ね、届いたの。ネットで買ったんだけど、結構使えそうなんだよ」
取り出した手を、ゆっくりと開いて中に包まれたそれを見せる。レディが、怪訝そうに眉を寄せて首を傾げた。
「何?これ?」
「ふふ、これはね……」
尋ねられたカーリは、少し嬉しそうに手を差し出し、握ったものを彼女に見せる。
外見上は、ただの小さな筒だ。黒いプラスチックの本体に、ボタンやらダイヤルやらがいくつかついている。底面の片側からは、カメラのレンズのようなものが覗いていた。取り付けられたストラップに手を通し、アジャスターを調節すると、小さなそれは彼女の手首にぴったりと固定された。ダイヤルの一つを捻り、ボタンを押せば、レンズから細く赤い光が漏れ出てきた。
「うわっ、何これ!?」
一直線に胸の中心へと伸びる光の軌道を見て、レディが驚きに飛び退る。
「スナイパーみたい!」
「そう。これ、こんなにちっちゃいけど、魔導銃なの」
感嘆して叫んだ彼女の言葉を、カーリはまさにその通りだと肯定し、説明を加えた。
「ボタンを押せば、周囲に漂ってる魔力を自動で吸収して、撃ち出してくれるんだって。自分の魔力を使うわけじゃないから、私みたいな悪魔でも、簡単に撃てる便利なアイテムなんだよ」
話しながら、そっと指を手首に伸ばし、つるつるした側面を撫でる。
「このダイヤルで威力を調節出来るんだ。例えば、装填出来る限界まで魔力を入れたとしたら……相当な威力になるみたいだよ」
「へぇ~。なんかすっごいね」
赤いレーザーを薄緑色のフェンスに向けながら、カーリは微笑む。曖昧な反応を見せていたレディは、ふと思い出すと、彼女の腕を掴んで疑問をぶつけた。
「でもカーリ、そんな強そうなアイテム、ちゃんと使えるの?」
「使えると思うよー。これ、使いやすいって評判なんだってさ。自分じゃ魔法使えるほどの魔力持たない悪魔たちに、大人気」
レーザーを避けながらこちらを覗き込んでくる彼女に、カーリは平然と返すと、ネットでのレビュー画面を見せる。
「うわ、ほんとだ」
「でしょ?だからこれならきっと私でも、ちょっとは使えると思うんだよね!」
レディが再び驚愕の声を上げるのを聞き、彼女はまるで自分のことのように自慢げな顔をして、胸を張った。
「これで私も、自分の身くらいは守らなくちゃ。皆に迷惑かけられないよ、いつまでも」
「カーリ……無理しないでね」
「分かってる。ありがと!」
はっきりとした強い意志を感じさせる声で呟く彼女を、レディはちらりと見遣る。いくら護身用といっても、相手を傷付ける力を持つということである。彼女にそんな手段を持たせて良いのか、トワイライトに報告するべきか、単純な心配が、彼女の瞳を満たした。
だが、カーリは心の負担が軽くなったと喜び、燦然とした笑顔を振り撒いている。彼女のその表情や、以前の罪悪感に塗れた顔を見ていたからこそ、レディにはそれ以上反対する言葉を紡ぐことは出来なかった。
「あ、あれってタキトゥスさんの部下の人?」
抜け切らない憂いを含んだ視線を放つレディには気が付かず、カーリはフェンスに近寄ると、地面の方を見つめながら声を上げた。
眼下の大通りは、それぞれの目的地あるいは駅へ向かって、歩く悪魔たちで賑やかだった。だがその中に紛れ込むようにして、周囲を観察している様子の悪魔たちが目に入る。ここから見ただけでも、五、六人はいるだろう。突入班とは別に、ターゲットたちの監視や、通行人保護のために待機している悪魔たちだと思われた。
「突入はまだかな……?あっ」
カーリが声に出すのと同時に、どこからか銀髪の女性悪魔が現れる。何もない空間から突如出現したように見えたのは、恐らく幻術で姿を隠していたからだ。
「スワンだ!」
「スワンちゃんも、突入班で参加してるんだね」
共通の友人を見つけたことで、カーリたちは若干テンションを上げる。長い銀髪を高い位置で一つにまとめ、サーコートを纏ったスワンは、いつ見ても女軍人のような格好よさを放っていた。
「冷血鬼はいないのかな?」
レディが首を巡らせて探すので、カーリも一緒になって辺りを見回す。
「どうかな~?ここにはいないんじゃ……」
指揮官である彼が、わざわざ現場に赴くとは考えにくい。どこか他の場所で、全体の状況を把握しているのではないかと、カーリは思う。
『カーリくん、レディくん。聞こえているかね?』 「トワさん!」
だらだらとした緊張感のない会話を繰り広げている彼女たちのもとに、突如トワイライトからの魔法の通信が飛んでくる。ぼんやり観察するだけの退屈な業務から、一刻も早く解放されたかったのだろう。レディが嬉々とした様子で応答した。
『たった今タキトゥス課長から連絡があった。十五分後に突入だそうだ。まぁ何事もないだろうが、君たちも気を付けて、任務を続けてくれたまえ』
「了解しました。トワイライトさんたちも、お気を付けて」
対するトワイライトが口にするのは、感情など排した、ビジネスライクな報告である。仕事中だから当然のことだが、不満そうな顔をしてみせるレディに代わって、カーリが答えた。
『あぁ、分かっているさ。しかし……何事も起こらないと良いがね』
トワイライトが紡ぐ言葉は、何故かいつもより気怠げで、厭わしそうな調子だ。声を溜め息の中に溶け込ませ、深々と吐き出している。まるで、何かが起こることを知っているような彼に、カーリはえも言われぬ不安を覚えた。だが、トワイライトに尋ねる前に、彼との通信は途切れてしまう。
「あっ、トワイライトさん!」
慌てて呼びかけるが、既に魔法の通信は切れているのか、トワイライトからの返答はなかった。
「どしたの?カーリ」
再び、先ほどのような声をレディに投げかけられるが、カーリは答えることなく、ただじっと眼下を見つめる。青々と輝く魔法の空が、燦々と眩い光を注ぎ込んでいた。
* * *
「ふぅ……」
カフェの椅子に思い切り体重を預けて、トワイライトは軽く息を吐く。砂糖を入れていないアイスコーヒーをかき混ぜて、一口飲むと、意外にも深いコクが感じられた。奥のカウンターにいる、女性マスターが淹れたものなのだろうか。
ゆっくり味わいたいと思っていたのに、並べられた観葉植物の裏側で、何かが蠢く。相変わらず、彼らはこちらを監視し続けているようだ。正体を暴き出してやりたいが、そんなことを許す悪魔たちならば、尾行などはしないだろう。先ほどまでは、どうにか撒こうと無闇に店を出入りしたり、裏路地まで逃げ込んだりしたのだが、それももうやめだ。これほど面倒かつ疲れる作業に時間を費やしていたくはない。もはや気にせずくつろいでやろうと、半ば意気込んでカフェに戻ったのが数分前。巻かれそうになって焦っていたはずの連中は、また性懲りもなく、トワイライトのそばへ戻ってきたらしい。こちらの狙いを察知出来ないのか、躊躇っているようだ。
(全く……やることと内心が釣り合っていないにも程があるだろう)
観察対象に張り付いておきながら、気付かれた時の対応も考えられないとは、随分間抜けな悪魔たちである。かつての同胞とは呼びたくないなと、胸の中で笑っていると。
(あれ?撤退していくな)
彼らのもとに別の人物がやってきたかと思うと、悪魔たちは皆連れ立ってカフェを出て行ってしまった。
(よく分からんが……これで、監視は止まるはずだな。はぁ……疲れた)
全く意味が分からない。彼らの正体も、目的も、何一つ把握出来ずに終わってしまった。てっきり、拉致まがいの接触くらいはしてくるかと判断していたが。
ともかく、赤の他人に逐一行動を見張られる息苦しさはなくなったはずだ。トワイライトは残った困惑をコーヒーと共に流し込み、背もたれに深く体重を預ける。違和感がないことはないが、せっかく自由を手に入れたのだ。早々に解放してくれたことに免じて、追求は勘弁してやろう、などと考えていると、突然。
『トワイライト』
トワイライトのもとに、魔法のメッセージが入る。声色からすぐに相手を察知したトワイライトは、コーヒーを飲みながらのんびりと答えた。
「おや。タキトゥス課長。突入はまだですかな?」
提供されてから随分時間が経ってしまっているコーヒーは、中の氷がほとんど溶け、薄くなってしまっている。グラスに付着した水滴が、ポタポタと垂れテーブルを濡らす光景に、トワイライトはわずかに眉を寄せた。
「何か……トラブルでも?」
濡れた指先を擦りながら、皮肉げな色を含んだ視線を中空へ向ける。ここにはいない彼が、目の前に立っている光景を思い描いて。
謎の尾行に意識を割かれすっかり忘れていたが、既に突入準備が整ってから、十数分が経過していた。彼らの姿は比較的高度な幻術で隠しているが、いつまでも気が付かれずに待機していることは難しい。だから、準備が完了し次第即座に突入するというのが、当初の計画であったはずだ。それが崩れているということは、何らかの重大事態が起こったと見て間違いないだろう。
「ひょっとして、我々の進捗状況について、確認でもなさるおつもりでしたか。ご心配なく。問題なく、遂行しておりますよ。タキトゥスさんが不安に思う必要は何一つないかと」
予測のついている話を、トワイライトは決してタキトゥスに告げない。むしろはぐらかすように、のらりくらりと見当違いな報告を上げる。察しのいいタキトゥスのことだ。トワイライトの行動から、その内心を読み取ることなど造作もないはず。反論の方法など数通りも思い描いているだろう。だが彼は、意外にも沈黙を保ったままだった。声が聞こえてこないのをいいことに、トワイライトは更に追撃をかける。
「追加の業務があるのでしたら、我々でなく部下に頼む方がより確実なのでは?まだ人手に余裕はあるでしょう。念の為言っておきますが……信頼をしてくれていない悪魔に協力するほど、私は出来た人物ではありませんよ?」
単刀直入に言えば、彼はタキトゥスに協力する気など、毛頭ないのだ。誰が、自分を敵視し追い落とそうとする相手に、積極的に手を貸すだろうか。加えて、今回の任務は、トワイライトたちが依頼されて協力しているもの。与えられた、周辺警護と逃走者の監視は完璧にこなしているのだから、文句をつけることは出来ない。これ以上の仕事を頼みたいのなら、それ相応の誠意を見せるべきだ。特に、当初の予定になかった危険性の高い任務であれば。
聡明なタキトゥスなら分かっているはずだと、トワイライトはほくそ笑む。先ほどおかしな男たちに付け回された鬱憤からか、ややきつい言い方が口をついたが、気にすることはなかった。
タキトゥスの溜め息が、魔法による魔力的な繋がりの向こうから聞こえてくる。言葉のない間は、もしかすると彼が葛藤している証ではないだろうか。トワイライトに対して、敗北を認めるか否かの。
インペラトル候補でもある”冷血鬼”タキトゥスを言い負かした。トワイライトの口元が、愉悦的な弧を描く。
『……戯言はそれで終わりか?』
しかし、そこに冷や水を浴びせかけるように、地を這うような声が飛んでくる。
『トワイライト。俺はお前の下らないお喋りに付き合っている暇などないんだよ。お前に提示された選択肢は二つだけ。従うか、断るかだ』
「……ほう?」
タキトゥスのその声色は、紛れもなく、腸が極限まで煮え繰り返っている証拠だ。一体何が、そこまで彼を怒り狂わせたのかは分からない。だが、トワイライトの言い分にすぐに答えなかったのも、何か思うところがあったからなのだろう。
氷水が沸騰するような激しい怒りを向けられても、トワイライトは平然としたまま、相槌を打つ。それどころか、興味深いという感情を隠しもしない声音で、瞳をぐるりと回した。
『先刻、我々の情報分析担当官から、急報が入った。ターゲットのボス、つまり脱界提供組織のリーダーが、どこかに出かけるらしい。目的地は不明だが、恐らく、他グループとの会合に出席するのではないかというのが、我々の予想だ』
激情が鎮火したのか、タキトゥスは打って変わった冷静な声で、話を続けてくる。トワイライトは肯定も否定も示していないが、そんなことは忘れたような口ぶりだった。トワイライトも、彼の態度に拘泥することなく、耳を傾ける。そして、のんびりと足を組み替えながら、口を挟んだ。
「そんな面倒なものに出向かれる前に、さっさと捕まえておきたい……そういうことですね?」
彼のもとにまで上げられる情報なら、かなり確度の高いものだ。つまり、ターゲットのボスは既に、外出の用意を整えているということだろう。もしこちらが即座に突入したとしても、危機を悟られ、間一髪のところで逃げられてしまう可能性が高い。で、あるならば、騒ぎが起こるより先に、厄介な連中だけを捕まえてしまえば良い。
タキトゥスの目的を先読みし、薄くなったコーヒーで喉を潤しつつ、脳内にメッセージを連ねる。重々しい調子で、彼は頷いた。
『あぁ……そこで、我々が先にビル内へと突入し、速やかに彼らを確保する。無事成功すれば、部下たちの仕事も楽になるはずだ』
頭のなくなった組織は、混乱を極める。統率者のいない状態で、警察部門に突入されれば、一介の構成員たちはなす術もないだろう。きっと、まともに状況も把握出来ない内に、逮捕されるに違いない。流石、類い稀なる頭脳を持つ男、といったところだろうか。妙案を思いつくものだ。
「我々?」
だが、やや引っかかることがあって、トワイライトは首を傾げる。同意してもいない仕事に駆り出されることとは別の、疑念を晴らすためだ。
『言うまでもないだろう……お前と、私だ』
タキトゥスも、この点に関しては触れられたくないと思っていたのか、若干苦々しさの滲んだ声音で答える。それを聞いて、トワイライトは思わず目を丸くした。
「……驚きました。班へではなく、私個人への依頼というわけですか……そしてそこには、タキトゥス課長自らも同行すると」
タキトゥスは、今回の任務の責任者であり、監督者であるはずだ。高い指揮能力を誇る彼には、現場のリーダーとして、常に全体を見渡せるような立場にいてもらわねばならない。彼自身そのことをよく理解しているはずだ。だが、己の役割を放棄してまで、トワイライトについていくという。明らかに、何らかの企みがある様子。
「部下一人のみを犠牲には出来ないということですかな?いやはや、感動的な話ですなぁ」
一体何を隠しているのかと、彼は不敵に微笑みつつ問いかける。わざとらしく手を胸に当てて、相手を煽るような言葉を口にすれば、タキトゥスから鋭い声が飛んできた。
『頼むから話をはぐらかすな、トワイライト!』
まるで叱責するような、怒りを含んだ、しかし悲痛な叫びすら孕んだもの。
タキトゥスほどの男が、この程度の安易な嫌味に反応するとは思っていなかった。トワイライトは一度口をつぐみ、状況に見合った適切な言葉を探してから、再び切り出す。
「……何を焦っているのですか?」
いきなり核心に触れられて、タキトゥスはハッと我に返った。小さく息を飲む気配が、魔法越しにも伝わってくる。冷血鬼と呼ばれる男が、ここまで動揺を露わにするのは、珍しい。他に類を見ない一大事と言えるレベルだ。トワイライトは、慎重に使うべき手札を選びながら、努めて冷静に語りかける。
「あなたの計画は、全て計算通り進んでいたはずだ……幻術で身を潜め、気付かれない内に包囲、その後突入する。私たちに周知された計画は、あなたが思い描いていたものの、ほんの一部分でしかなかった。脱界提供組織のリーダーは、もう何十年もの間、組織を警察部門の追手から守り、脱界ビジネスを成功させ続けている。一筋縄ではいかない相手でしょう。だから……確実に捕らえるために、もう一つ別の計画が必要だった」
つまり、タキトゥスは当初から、こうするつもりだったのだ。外出の気配云々が事実でも口実でも、彼の中では、どうにかしてトワイライトを説き伏せ、暗殺者ごっこのような仕事に付き合わせることは確定していた。
「当然、少数精鋭だけでマフィアの本拠地に乗り込むなんて、危険が高過ぎます。反発を食らい、頓挫するのは確実。だがあなたは、今しかチャンスはないと踏んだ。原因は不明ですが、何らかの理由によって、組織はかつてないほどに衰えている。多少無理をしてでも、逮捕出来れば相当の手柄だ……またしても、出世の階段を一段上れますな」
本来であれば、彼の計画は危険過ぎて見送られるだろう。だが、タキトゥスはどうしても、ここで彼らを捕まえたかったのだろう。ユリウス部長にゴマを擦るためか、それとも生真面目な彼の性格故かは分からない。ともかく、彼は全容を明かさぬことで、強引に任務を実行に移させた。
『……目的のためなら手段を選ばない、危険な連中だ。下手に刺激を与えれば、民間人にも被害が及びかねん。出来るだけ静かに、速やかにビル内へと侵入し、ボスを捕まえる必要がある。それには、一定以上の戦闘能力、及び状況を適格に判断し行動出来るだけの冷静さを兼ね備えた者のみで従事するのが、最善であり唯一の方法だ』
タキトゥスは少しの沈黙の後、口を開く。危険な橋を渡ったことを正当化するような主張だったが、トワイライトの聞きたいことは、そこではない。
「そうは言いますけどね、タキトゥスさん。何も、あなたまで加わる必要はないんじゃないですか?」
彼にとって疑問なのは、その後なのだ。タキトゥスの意見を半ば遮るようにして、質問をぶつける。
「確かに、取り逃がし続けた組織のリーダーを、あなたがその手で捕まえたとなれば、勲功は大きい。しかし、それに伴う危険も馬鹿にならないはずです。合理主義なあなたが、メリットとリスクの釣り合わない行為をするはずがない」
タキトゥスは、非常に聡明かつ利己的な男だ。いくら出世のためとはいえ、自ら最前線に立とうとは思わないだろう。そもそも、指揮官としての能力に長けた彼には、敵から身を守るための十分な手段がないのだ。戦わなければ生き延びられない状況に、進んで飛び込むはずがないのである。
では、何故彼は率先してトワイライトに同行しようとしているのか。考えられる答えは、一つだ。
「あなたはまだ……何かを隠していますね?」
トワイライトは、すっと視線を上げて、何もない空間を見据える。そこにまるでタキトゥスが立っているかのように、漆黒の瞳で、真っ直ぐ射抜いた。
「何か、あなたの予想を上回るような、重大事件が起きたんだ。だからあなたはそれを、自らの目で確かめたい、いや、絶対に確かめねばならない……違いますか?」
何もかも計算通りだったタキトゥスの計画は、ある時突然予想外の方向に転がり始めた。それが何に起因するものなのかは、現状ではまだ分からない。だが、冷血鬼タキトゥスの仮面を叩き割るには相応しい、相当の凶変であることには間違いがない。
そしてトワイライトには、ある程度の見当がついていた。
「ターゲットの脱界提供組織は、ある日突然構成員が半数以下になるほどの大ダメージを被った。一体、何が原因だったんでしょうねぇ……彼らのボスは有能なんでしょう?少なくとも、タキトゥスさん、警察部門切っての頭脳派であるあなたが、幾重にも策を張り巡らせ、警戒するほどにはね。そんな人物がトップに座っていながら、これほどまでの酷い損失を受け入れるでしょうか。被害が深刻化する前に、手を引くと思いませんか?」
ライバルグループとの抗争など、手を尽くせば避けられるような事態を、放置するとは考えられない。被害が想定を超えた時点で、和平などの可能性を模索するだろう。だが、実際はそうはならなかった。
「答えは簡単。避けたくとも、避けられない何かだったんでしょうなぁ。例えば……天変地異とか、それに匹敵するような、凶悪な兵器、敵の襲来、とか……」
指を折りながら、考えられる可能性を列挙していく。
「……それを、確かめに行くんだ」
全てを見抜く黒い瞳を間近に感じて、タキトゥスは知らずの内に背筋をやや伸ばしていた。魔法的な繋がりのみで会話している彼らには、互いの姿は見えていない。しかし彼には、トワイライトの例の腹黒い笑みが、じっとこちらを見ている気がした。
「なるほど。では、ボスを捕まえれば、その答えも分かると」
「……恐らくだが」
己の爪を眺めながら話すトワイライトに、タキトゥスの平坦な声が届く。その反応から察するに、トワイライトの予想と彼のそれは一致しているようだ。無理もない話だろう。魔法という神秘の力を持つ悪魔たちを、一斉に薙ぎ払える存在など数が限られている。中でも、タキトゥスが必死になって突き止めようとしているものなのだから、特定は容易だ。後は己の目で、確かめるだけである。
「手を貸してほしい。トワイライト」
ここまで、直截に頼まれるとは思っていなかった。魔法の向こうで、頭を下げている彼の姿が、瞼の裏に想像出来る。あのタキトゥスが、これほどまでに殊勝な態度を見せるとは、驚きである。正直、彼のことは未だ信用出来ていないが、トワイライトにも、真実をこの目で見たいという気持ちがあった。何より、推測が本当だとしたら、早急な対応が必要だ。それこそ、任務が失敗することも厭わないほどの。
「仕方ありませんねぇ……見返りは、きちんといただけるのですかな?」
一刻も早く確認せねばならない。タキトゥスの焦燥に共感しながらも、決して己のペースは崩さない。相手から頼み込まれて、致し方なく、という姿勢を変えるわけにはいかないのだ。面倒臭そうな声色を、意識して発する。協力してもいいが、条件付きだという言外の言い分を、タキトゥスは鋭敏に察知してくれた。
「もちろんだ。今季の査定には、かなり色をつけさせてもらう」
彼にしては、珍しい即答だ。部下を厄介事に巻き込んでいる自覚があったためか、あるいは、ただ単に先を急ぎたかっただけかも知れない。提示された報酬は、意外性のない無難なものだったが、彼にその辺りのセンスはなさそうなので、我慢しておく。
「はぁ~……分かりました。力を貸すと致しましょう」
溜め息をつきつつ、渋々といった調子で了承する。懐からコーヒー代にしてはやや多い金額を取り出し、テーブルに置くと、静かに椅子から立ち上がった。
「エンヴィスくん」
『はい』
歩きながら魔法を飛ばすと、間髪容れずに返答があった。
「急用が出来た。少し外す。私に代わって、引き続き、任務に当たってほしい」
トワイライトも彼の反応の速さに驚くことなく、淡々と用件を告げる。
『承知しました。何か問題でも起きましたか?』
こういう時、エンヴィスのような優秀な部下を持っていると仕事が楽だ。
指揮官の役目を代行しろという多少無茶な命令でも、彼は全く狼狽えることなく引き受けてくれる。剰え、状況を適格に察して質問まで投げてきた。残念ながら、彼の問いに懇切丁寧に答えている暇はないのだが。
「あぁ、まぁ、そんなところだ……今のところは現状維持で構わないが、万が一の場合は、君の判断で、カーリくんとレディくんを守ってくれ。全ての責任は、私が負う」
『それほど危険な状況だと?』
とりあえず、チームの無事を優先させるようにとだけは伝えておく。トワイライトのその言い方で何かを察したのか、エンヴィスの声色が変わった。何故任務を中止にしないのだという、非難めいた気配すら感じられる。
「どうかな。それも分からないよ……何が起こるか、まだ私にも読めないのでな」
だが、正直なところ、トワイライトにも確信はなかった。タキトゥスの様子から、己の予想が的中していることは分かったが、かといってそれがどの程度の危険を孕んでいるのかと問われると、答えに窮する。現状ではまだ何も、判明していないに等しいのだ。
『……分かりました』
確証もないことを、無闇に他人に喋れば、かえって事態を混乱させかねない。曖昧な返答を聞いたエンヴィスは、諦めたような、腹を括ったような重々しい息を吐いた。
『一先ずは、現状の維持と周囲の警戒に務めます。何があったか知りませんが、トワイライトさんも、お気を付けて』
指示がない限りは、勝手には動けない。今のところは、任務を継続させるしかないのだ。いつ緊急事態が発生しても対処出来るよう、備えながら。
「あぁ、よろしく頼む」
彼ほど信用出来る悪魔がいるならば、この先何があったとしても、部下たちの心配をすることはないだろう。エンヴィスが適切に導き、対応してくれるはずだ。トワイライトは内心で安堵の溜め息をつきながら、タキトゥスのところへと向かう。
外に出て、通りを渡っている途中、突如何者かに腕を掴まれた。感触は確かにあるのに、振り返っても誰もいない。腕を掴む力はどんどん強くなり、トワイライトをどこかへ引っ張っていこうとしている。一見するとただの恐怖体験のようだが、彼が怯えることはない。冷静に周囲を見回し、出来るだけ自然な動作で、導かれるまま、姿の見えない人物についていった。
連れて行かれたのは、大通りから一本外れた、狭い裏路地だった。ターゲットたちの拠点であるビルの、ちょうど裏側だ。半地下へと続く短い階段があって、その先に赤い扉の取り付けられた裏口が見える。
「ここから、内部に侵入するんですか?タキトゥスさん」
トワイライトは、誰もいない空間に平然と問いかける。だが、それは決して独り言ではない。きちんと、相手に向けて放ったものだ。
「いや、突入はしない。ここで、待ち伏せだ……しかし、よく驚かないな。トワイライト」
背後から答えが聞こえてきたかと思うと、何もないはずの空間が大きく揺らぎ、タキトゥスが現れた。振り返ったトワイライトの姿を繁々と眺めながら、確認するように問うてくる。
「お前には、幻術を見破ることは出来ないのだろう?」
「えぇ。今の装備では、不可能ですね」
こっくりと首を振って肯定しながら、タキトゥスに向き直る。隣に立った彼が、裏口の方を覗き込もうと若干身を屈める。こめかみから真っ直ぐ伸びた角が、頬のすぐ横を掠めた。
「ですが、大体予想はついていました。あのタキトゥスさんが、部下の目がある中で、不用意に姿を見せるわけがない。ましてや、大嫌いな私と一緒のところなんて、尚更だ」
鋭い先端で引っ掻かれでもしたら堪らないと、密かに半歩ほど下がりつつ、微笑を浮かべる。
「そこまで分かっていて、どうして黙って従った?」
タキトゥスはトワイライトの言葉を否定せず、胡乱げな目を向けてきた。彼からしてみたら、意味が分からないといったところなのだろう。
総指揮者であるタキトゥスは、突入時まで別の場所で待機する予定になっている。彼の性格上、理由もなく計画を勝手に変更することは、決してないと部下たちは知っているはずだ。つまり、予定を無視した行動を取れば、即座に異変に気付かれてしまう。そうなれば、作戦の一部を秘匿したことも、危険な任務を無理矢理実行したことも、露呈してしまう。確認すべき真実も、確かめられなくなってしまうのだ。
「あの場で、大声で私の名を呼ぶという選択肢もあったはずだ」
だが、トワイライトに彼の思惑を尊重する義務はない。不特定多数の目がある大通りで、タキトゥスの名前を叫び、部下たちの注目を集めることも出来た。彼らに全てを打ち明ければ、捜査は混乱し、大騒ぎになるだろう。異常に気付いて、ターゲットたちも、逃げようとするかも知れない。最悪の形で、任務を中止に追い込める。タキトゥスには、強引な任務に部下を駆り出したことと、そしてそれを酷い結果で終わらせた責任が降りかかるだろう。トワイライトにとって、自分の身を守りつつ邪魔者を排除する、絶好の機会であったはずだ。タキトゥスが失脚した後は、彼の地位をそっくりそのまま奪い取ることだって出来ただろう。
しかし、彼は声を上げなかった。タキトゥスの後釜に座り、彼の代わりにインペラトルへの階段を上り詰めるチャンスを、棒に振ったのだ。その選択のおかげで、タキトゥスは必死に築き上げた地位や評判を失わずに済んだ。かといって、手放しで感謝出来るほど、トワイライトという男を信頼してはいない。
一体何を考えているのかと、険しい目つきで問い詰めようとする。彼が、その黒い腹の中に何を隠しているのか、暴き出さないままで、次の仕事をするわけにいかない。
「……そんなことをして、一体私に何のメリットがあるんです?」
タキトゥスにきつく睨まれても、トワイライトは上唇を尖らせた、当惑的な表情のままだった。何を言われているのか、さっぱり理解出来ないとでも言いたげだ。
「せいぜい、タキトゥスさんへの嫌がらせ程度にしかならないでしょうが」
それどころか、腹を抱えて、からからと笑い声を上げていた。馬鹿なことを聞くものだと、純粋に面白がっているようだ。どうやら、彼にはこの場でタキトゥスを失脚させるという考えは、一切湧かなかったらしい。思い至った今でも、後悔はしていない様子である。
不可思議な態度を取るトワイライトに、タキトゥスは戸惑った。彼のことだから、常に貪欲に、自分を追い落とす隙を窺っていると思っていたのに、拍子抜けだ。
「あなたに恩を売っておく方が、よほど得策です」
黒い瞳を光らせて、トワイライトは思わせ振りな視線を投げてくる。つまり彼は今のところ、タキトゥスの後釜を狙うより、色々と彼の弱みを握って、自分の思うように操るつもり、ということなのだろうか。
「タキトゥスさんこそ、それほど私のことを警戒しておきながら、どうして直接接触してきたのです?」
破滅させられるかも、とまで予想がついていたのなら、防ぐ方法を探せばいい話だ。出来るだけ不利にならないやり方で、接触してくればいい。彼には、それを考えるための明晰な頭脳があるのだから。わざわざ刃物を持っている相手に向かって、急所を示してみせる必要は、どこにもない。
しかしながら、タキトゥスはそうしなかった。否、出来なかったのだ。タキトゥスは、指揮能力こそ高いものの、単純な戦闘能力に関しては二戦級。単身で敵の本拠地に乗り込んでリーダー格を確保するには、力不足である。この状況を打開するには、ある程度の強さを持ち、事態を正しく理解した上で、タキトゥスに協力し、臨機応変な対応の出来る悪魔が必要だった。その条件に当てはまるのは、一人だけ。トワイライトただ一人だけだ。
だが、自分のことを警戒している相手に、進んで力を貸す者はいないだろう。タキトゥスは、あえて危険な状況に自分を立たせ、生殺与奪権をトワイライトに与えた。全ての選択をトワイライトに委ねるという形で、彼への信頼をアピールしたのだ。自分の弱みを先に晒すことで、彼がこちらを信用してくれる可能性に賭けた。だが、失敗すればもちろん、待っているのは身の破滅。あまりにも危険過ぎる、大博打である。
トワイライトは彼の賭けに気付いていながら、タキトゥスに随行した。つまり、協力するという意思表示をしたわけだ。そしてそれは、タキトゥスに一つ貸しを作ったということになる。だがそのおかげで、タキトゥスは賭けに勝利した。彼はそれを、ただ黙って受け入れればいいはずだ。今更ここでトワイライトの真意を暴こうとすれば、自身も恥を晒してしまうことになる。彼は肝心なところで、詰めが甘いようだ。
トワイライトは呆れを含んだ微笑を浮かべながら、タキトゥスに問いかける。彼の言葉を耳にしたタキトゥスは、あからさまに眉を顰めた。彼が不愉快な思いを示すのも、当たり前だ。自ら進んで弱みを晒し、格下に助力を願い出たというタキトゥスの行為は、決して自分から口にしたくはないもの。上司としての面目は丸潰れ、それどころか、インペラトル候補と称えられる誉れさえ、完全に失墜してしまうそれである。地位に応じたプライドを持っている彼にとっては、あまりに屈辱的なことである。
だが、トワイライトは彼の思いを分かっていて、問いかけてきた。相変わらず、酷い男だ。目の前にいる相手が、何を最も嫌い、憎むのか、この男は全て把握した上で己の行動を選択している。そうやって、相手を嘲笑っているのだ。
「お前……嫌な奴だと言われたことはないか?」
「さぁ?全く。そのようなことを直截に言ってくる実直な悪魔には、出会ったことがありませんねぇ……今までは」
思わず口をついて出た正直な文句さえも、彼はのらりくらりとかわす。この、貼り付いたような薄ら笑いを、引っぺがしてやりたいと何度思ったことか。他に方法がないとはいえ、こんな男と力を合わせねばならない状況に追い込まれたことを、心底後悔し、憎む。
「時間を無駄にするのは、嫌いだからな、私は」
沸き立ってきた怒りを隠し、冷たい声で切り捨てた。トワイライトのように、言葉で相手を煙に巻こうとする相手には、最も痛烈な皮肉となるだろう。
「決して無駄にはしていないのですがねぇ……今後のための、布石ですよ。タキトゥスさんもよくご存知でしょう。完璧な結果を手に入れるためには、入念な準備が必要です」
しかし、トワイライトは平然と笑い、言葉を返してきた。まるで、タキトゥスも自分と同類だと言わんばかりの口振りに、ついカッと血が上る。
「そんなことを吐かす、お前のような悪魔がのさばっているせいで、本当に解決すべきことが放置されたままなんだ!」
気が付けば、彼は拳をきつく握り締めて、大きな声で叫んでいた。
「それは……どういう意味ですかな?」
トワイライトの静かな声が、タキトゥスの耳を打つ。ハッと我に返った彼は、慌てて口をつぐんだ。感情的になるあまり、つい言うべきでないことまで口走ってしまった。トワイライトはそれが、タキトゥスの本心だと気付いたのだろう。笑みを消し、真っ黒い瞳でじっと彼の瞳を覗き込んでくる。その顔からは、いっそ恐怖を感じるほど、感情が抜けていた。
「……今は、時間がない」
失態を誤魔化すように、タキトゥスは努めて落ち着いた声を出す。だが、焦っていたためか、『今』という余計なワードを付け足してしまった。これではまるで、後でなら全てを話すと告げているようではないか。
「奴らは、もうすぐ出てくるだろう。いいか、トワイライト。一人も逃すなよ」
後悔を押し殺しながらも、冷静な態度を貫く。流石のトワイライトも、空気を読んでいるのか、特に茶化してはこなかった。
「もちろんです。逃げられれば、本隊の突入にも影響を及ぼしかねませんからね」
任務を中止にするわけにはいかない。上司の意を汲んで自信ありげにアピールする姿は、普通の部下であれば頼もしく思えたことだろう。だが、トワイライトの口から聞くと、全く別の意味を持っているように聞こえる。あなたの評判を落とさないよう、協力してやったのだから、見返りには期待していいんだろうな。そんな言外の圧力をかけられている気がした。
「あぁ……アレの処理はいかがします?」
「何?」
唐突にトワイライトが、背後を指差して何かを尋ねてくる。質問の意味が分からず、振り向いたタキトゥスの視界に、黒い巨大な物体が映った。こちらに向かってかなりのスピードで向かってくるそれは、一台の黒いセダンだった。フロントガラスを含めた全ての窓は、車内が見えぬようスモークガラスが貼られている。車体のサイズに、タイヤの規格がやや合っていない。いかにも、裏の世界に生きる者の好みそうな仕様だった。そのいかつい外見に似合わず、するりと静かな動きで、タキトゥスたちの隣に滑り込んでくる。
「あん?何だお前たち。新入りか?」
運転席の窓が開いて、中からサングラスをかけたスキンヘッドの男が顔を出した。あの巧みな運転技術を見る限り、彼がボスの運転係なのだろう。トワイライトはにこにこと笑って、こちらを見ている男に歩み寄る。
「お前たち、まさか……」
「あぁ、そのまさかだよ」
彼の黒い笑顔から、男は何かを感じ取ったのだろう。顔面を蒼白にし、慌ててバックで逃げようとする。だが、トワイライトがそれを許すはずはない。後ろを振り向きかけた男の首根を素早く掴むと、力をかけて勢いよく引き倒した。ハンドルに強かに頭をぶつけ、男は鼻血を出しながら苦悶の呻きを発する。トワイライトは構わずに、彼の首筋に懐から取り出した拳銃を突きつけた。そのまま容赦なく引き金を引くと、弾が撃ち込まれ、男は沈黙する。
「お前……!」
「ご安心ください。ただの麻酔銃ですよ。眠らせただけです」
あまりに一瞬の出来事。トワイライトの素早い身のこなしに、妙な気迫を感じたタキトゥスは思わず一歩後ずさった。まさか、殺してしまったのではないだろうか。嫌な予感と恐怖が、背筋を冷たく濡らす。だがトワイライトは、にっこりと笑い、銃を手渡してきた。確かに、実弾が装填されていない、というよりも、そもそも弾を装填する機能そのものがついていない銃だ。内部に組み込まれた魔法の術式によって、催眠魔法の付与された針が自動で生み出される仕組みになっているのだろう。銃ではないから許可がなくても使用することが出来、かつ優れた効果を持つ便利なアイテムだ。
「そ、そうか……」
だが、かといって銃の形をしたものを、おいそれと使用したいとは思わない。警察部門にとって、銃とは緊急事態でもない限りは使わないもの、という認識なのだ。何の躊躇いもなく使用するトワイライトは、流石、元軍人といったところだろうか。タキトゥスは若干頬を引き攣らせた。
「さて、どうします?運転手のふりをして、搭乗者を連れ去ることも出来ますが?」
上司の戸惑いなど気にもかけず、トワイライトは車の中を覗き込みながら尋ねる。先ほどあんな早技を見せた彼が、あくまで冷静な、淡々とした声音で恐ろしい提案をする姿はあまりにも異様だ。しかし、タキトゥスの思考を現実に引き戻すには、十分に効果を発揮する。
「いや、狭い車内で戦いたくはないな。このまま、どこか影にでも隠れて待ち伏せよう」
「了解です」
明晰と称えられる頭脳を余すところなく使い、現実的な解答を告げる。トワイライトは何の反論もせずに、素直に受け入れた。そのまま彼らは、車の影に身を潜める。幸運なことに、窓にはスモークガラスが貼られているおかげで、わずかに膝をかがめるだけで隠れることが出来た。
五分ほど黙って待機していると、ガチャリとドアが開き、中から数人の男女が連れ立って出てきた。トワイライトは物陰からこっそりと顔を覗かせ、彼らの姿を観察する。現れたのは、女性二人を含めた八人の悪魔たちだ。内、角を生やしたスーツの男が二人。やや恰幅がいい髭面の方は、事前に配布された資料にあった、組織の参謀役だろう。隣にいるスリムな方が、恐らくリーダーだ。存外に若い、まだ20代そこそこに見える容姿をしている。もちろん、実幸は違うのだろうが。
そのそばに控えている、パンツスーツの女性と赤いネクタイの男は秘書だろう。女性の方は、長い髪をお団子にまとめていて、スーツの上からでも分かる筋肉質な体型をしている。何かの格闘技でも使いそうだ。反対に男の方は、痩せ型だがあまり健康的には見えない。彼ら四人を取り囲むようにして、ガタイのいい若者三人が佇んでいた。皆派手な柄のシャツを着て、髪を染めたりピアスを付けたり、中にはタトゥーを入れている者もいる。護衛役の下っ端だろう。彼らの背中に隠れるようにして、退屈そうにしているのは、ボスの愛人だろうか。ブロンドの髪は緩く波打ち、身に纏った赤いドレスは、体のラインがくっきりと浮き出る、タイトなデザインをしている。胸元と背中、足を大きく露出した格好では、到底武器を隠していそうもないが、もしもパニックになって叫ばれたら厄介だ。出来るだけ速やかに黙らせるべきだろう。
「どうだ?トワイライト。行けるか?」
「えぇ。ぱっと見ただけですが、脅威になりそうなのは、あそこのスーツの女性だけですね」
目視だけでデータを集め、戦略を立てているトワイライトに、タキトゥスがひそめた声で話しかける。ある程度推測し終わった彼は、鷹揚に頷きながら結果を述べた。
「幹部二人は武器を持っているようですが……まぁ、何とかなるかと」
「分かった。スーツの女は、お前に任せていいんだな?」
「お任せください。タキトゥスさんはその間に、残りの制圧をお願いします」
「一番面倒な仕事じゃないか……」
簡潔なやり取りを済ませ、彼にしてほしいことを告げると、タキトゥスはげんなりとした顔をした。彼の気持ちも分からないでもないが、他の相手では不安が残るため、納得していただくしかない。
「大丈夫ですよ。タキトゥスさんなら、さっくり片付けられますって」
慰めにもならない言葉をかけながら、会話を切り上げようと立ち上がる。突然姿を現した謎の男に、ターゲットたちは目を丸くして戸惑っていた。
「だ、誰だっ、うっ!」
「なっ!?こいつ、銃をっ」
連続して声を上げる、秘書の男と参謀役に向かって、容赦無く引き金を引く。射出された針が、適格に彼らの額に刺さった。魔法が発動し、すぐに深い眠りの底に沈んでいく彼ら。身内が倒されたのを見て、チンピラたちが気色ばむ。
「て、てめぇっ!」
「よくもカザスさんを!」
カザス、というのが参謀の名前なのだろうか。確かめる前に、彼らはそれぞれ拳を振り上げながら、トワイライトめがけて突っ込んできた。
「お前たちの相手は私だ。逃げるな」
猛り狂って駆け出す彼らの前に、タキトゥスが立ち塞がる。麻痺を与える魔法が込められた特殊警棒を手にし、身構える彼を、チンピラたちは目を三角にして睨み付けた。そして、邪魔された怒りをぶつけるように、雄叫びを上げて襲いかかっていく。
「おっと……これは、驚いたな。警察部門か」
背後で乱闘が始まっても、リーダーの男は、全く動じなかった。
「お前たちのような連中に目をつけられるとは、ウチもでかくなったものだ」
むしろ感心したような態度で、のんびりと呟いている。長年成果を上げられないでいた、警察部門を嘲笑うような言い方だ。だが、彼のその皮肉にも、値踏みするような視線にも、トワイライトは反応しない。
「だが、俺はそう簡単に捕まらないぞ」
男はそれを悟ったのか、途端に声色を変え、不敵な笑みで言い放ってきた。
「そのようですねぇ……」
ようやく、トワイライトは口を開く。だが、彼が言ったのは、それだけだ。ただそれだけ、独り言つように口にすると、指をパチンと鳴らした。体内の魔力が、魔法へと昇華され効果を発揮する。発現したのは、銀色の剣だ。柄に繊細な装飾が施された、一本のブロードソード。誰の手に触れることもなく、自動で浮遊するそれを目にし、男の顔色が変わる。
「ユカ……行け」
「承知しました」
真剣な声で彼が命じると、背後に控えていた秘書の女が頷き、動き出した。姿勢を低くしたかと思うと、まるでバネが弾け飛んだかのように、物凄いスピードで突っ込んでくる。
「おぉっと」
それまでの、完全に気配を消し、石像のように佇立していた様子からは、考えられない洗練された動きだ。トワイライトは若干驚きつつ、冷静に対処する。一足飛びに跳躍し、接近してきた彼女からの脚撃を、浮かべた剣でしっかりと受け止めた。だが、彼女の攻撃は重く、浮遊する剣が少しずつ後退し始めている。
「おぉ~……」
予想以上の威力に、トワイライトは思わず歓声とも呻きともつかない声を漏らした。ユカ、と呼ばれた女性は、無表情のまま、更に強く足を押し込んでくる。
「させませんよ」
だが、それを黙って受け入れるほど、トワイライトは愚かではない。素早く剣を動かし、彼女の足を振り払うと同時に、追撃まで食らわせた。
「ぐっ……!おのれ!」
柄部分が額に命中し、ユカはたたらを踏みながら呻く。打たれた箇所を手で押さえながら、トワイライトを睨むと、右の鼻の穴からつぅっと鼻血が垂れてきた。
「これは申し訳ない。女性の顔に傷を付けるなど、紳士としてあるまじき行為でしたな」
「くっ!馬鹿にするな!女だからと舐めていると、痛い目を見るぞっ!」
トワイライトは、半ば本気で謝罪を告げる。だが、彼女にとってはこれ以上ない侮辱だったらしい。ユカは感情的な調子で吠えながら、トワイライトをキッと睨んだ。だが彼は、既に彼女の方を見ていない。
「ぐはっ!?」
彼女の背後で、男が呻き声を上げ地面に崩れ落ちた。腹を抱え蹲った彼の手から、ガラリと硬い何かがこぼれ落ちる。黒色をした、金属とプラスチックで出来たそれ。銃だ。彼は懐から武器を取り出し、トワイライトを撃とうとしたのだ。しかし、引き金を引くより早く、彼に気付かれ腹に剣の柄をもらった。重い衝撃に息を詰まらせた彼は、咄嗟に銃を手放してしまったのである。
「貴様っ、よくもサム様を!」
敬愛するボスを傷付けられた怒りと、守ることが出来なかった悔しさに、ユカは顔を赤くする。
「ふっ、悪いね。お嬢さん」
「うぁああっ!」
トワイライトは余裕の表情を崩さないまま、彼女に微笑みかけていた。ユカは更に憤り、絶叫を発しながら彼に飛びかかる。
その様子を横目に、タキトゥスもまたチンピラたちと戦闘を繰り広げていた。
といっても、所持した特殊警棒のおかげで、さほど苦戦はしない。たった一回、身体のどこかを警棒が掠めるだけで、男たちは感電し崩れ落ちていく。戦闘能力の低いタキトゥスでも、あっさりと制圧を完了することが出来た。
「ひ、ひぃ……!」
バタバタと倒れていく男たち。組織の中でも比較的屈強だっただろう彼らが、瞬く間に壊滅させられる様子を見て、ドレスの女が怯え切った悲鳴を上げる。
「たっ、たす、助けて……っ、たすけ、きゃあっ!?」
声にならない声を漏らしながら、彼女はその場に立ち尽くしている。どうやら、足が竦んで逃げたくても逃げられないようだ。抵抗されないなら話は早いと、タキトゥスは大股に一歩踏み出し、彼女に近付こうとする。
「っ!!」
だが、逆にその行為によって彼女を正気に戻してしまったようだ。女性は大きく目を見開き、我に返ったように行動し始めた。
「まずいっ!」
くるりと身を翻し、ドアに向かって駆けながら、深く息を吸い込む。
ここで騒がれたら、全ての苦労が水の泡だ。タキトゥスは慌てて、彼女を黙らせようと手を伸ばす。
だが、それより先に、パシュッと音がしたかと思うと、例の麻酔針空気を切り裂いて飛んできた。
「うっ!?」
女性の首筋を、細く鋭い針が掠める。命中はしなかったが、それでも針に仕込まれた魔法が効果を発揮するには十分だ。催眠の魔法が発動し、彼女は小さく呻くと、気を失ってしまった。
「おっと」
脱力し、そのまま前のめりに倒れそうになった女性を、タキトゥスが受け止める。だが、トワイライトに確認している余裕はない。タキトゥスの助けに入ったことで、彼もまた窮地に陥っていたからだ。
「はぁあっ!!」
ユカが、地面に手をつき、側転蹴りを叩き込んでくる。トワイライトはそれを、魔法の剣で見事に防いだ。だが、ユカの勢いは止まらない。側転を終えた低い姿勢のまま、ブレイクダンスでもするかのように、足を回してトワイライトの足元を狙う。
「わっ!」
彼女のあまりにも巧みな体捌きに、流石のトワイライトもついていけない。狙い通り足を掬われ、バランスを崩しかけたところに、立ち上がった彼女からの掌底が叩き込まれた。
「うぉっ!?」
威力で言えばそれほど強くはないが、体勢の整っていない今の状態では、受け止めきれない。結局、受けた力を殺しきれずに、そのまま後方へと転倒した。
「いっ!……つつつ」
後頭部を軽くぶつけ、痛みに呻いている間にも、ユカは追撃の手を緩めない。仰向けに倒れたトワイライトの上に、馬乗りになってのしかかると、強く拳を振り下ろしてきた。
「セィヤァアアッ!」
「ぐっ!」
熟練の武闘家のような雄叫びと共に、頬を殴打され、トワイライトは思わず苦悶の声を発する。だが、その程度のダメージで彼が理性を手放すことはない。もう一撃食らわせようと、顔面に降ってきた拳を、片手でパシっと受け止めた。
「びっくりした……流石だね」
もう片方の手で、殴られた箇所をするりと撫でる。切れた口の端からかすかに血が滲んでいて、そこに指が触れると、ピリリとした痛みを彼にもたらした。
「く……っ!」
だが、それだけだ。勝利に至るまでの道を確保出来たわけではない。ユカはくしゃりと顔を歪め、逡巡の間を見せる。
「殺すなら殺せ!私は、手加減をされることが一番嫌いだ!」
そして、意を決したかのように口を開き、そんなことを言ってきた。トワイライトは眉をハの字に下げ、困惑に満ちた表情をする。
「おや。これは困ったねぇ。私には君を殺す理由も、メリットもないんだけど」
「だったら、私が作ってやる!」
ここには脱界者を逮捕しに来ただけだ。警察部門では、よほどの場合ではない限り、容疑者を殺すことは許可されない。理由やメリット云々以前に、彼女の命を奪えば、懲戒処分になる恐れすらあるのだ。
殺すことは出来ない、そうトワイライトが漂わせた空気を悟ったのか、彼女はまた顔色を変える。素早い動きで、トワイライトが浮かべている剣を強奪した。光を反射する銀色の刃が、トワイライトの喉元に突きつけられる。絶体絶命だ。この状況に持ち込めば、正当防衛が成立すると彼女は思っているようだ。
確かに、その考えもある意味では、正しい。ただ、一つだけ、致命的な欠陥がある。
「……残念だけど、それも無理かな」
「何っ?ぅぐっ!!」
彼の呟きを聞き返そうとした瞬間、ユカの頸部に重い衝撃が走る。トワイライトが作り出した二本目の剣、そのフラー部分が彼女の首の後ろを強かに打ち据えていた。
声もなく、彼女は崩れ落ち地面に転がる。だが、仕事はそれで終わりではない。
「トワイライトっ!」
タキトゥスの声を聞きつけて振り返ると、もう一人の秘書の男が、慌てふためいた様子でセダンに乗り込むところだった。恐らく、催眠に対する耐性か抵抗の効果を持つアイテムを所有していたのだろう。男は苦労しながらも、気絶した運転手を無理矢理引き摺り出し、代わりに運転席に収まる。キーを回し、ハンドルを握ると、動き始めたエンジンが低い唸りを発した。
車で逃走されたら、追いかけるのは厄介だ。だが、タキトゥスはちょうど、逃げようとしていたボスを取り押さえたところで、手が離せないらしい。トワイライトは急いで立ち上がると、対処に向かった。
男は、倒れている同僚や仲間たち、今にも逮捕されそうなボスさえ気にかけず、勢いよくアクセルを踏む。砂埃を巻き上げながら、タイヤが急速回転を始める。弾かれたように車は発進し、一目散に逃げようとした。だが、その進路の上に、一人の男が現れる。宙に浮かぶ二本の剣を携えた悪魔が、真っ直ぐこちらを見据えていた。
「どけぇ!!」
男は動転したまま、車外にも聞こえるような大声で叫ぶ。そして、意外にも大胆に、更にアクセルを強く踏み付け、一直線に突っ込んできた。防弾仕様の特殊装甲が取り付けられた、硬い鉄の塊だ。撥ねられればまず、重傷は免れないだろう。だが、彼は決して臆さない。冷静に、自分と車との距離を目測しながら、片手を振って剣を動かした。
ヒュン、と風を切って、二本の剣が飛び出す。車の右前輪を狙って、鋭く硬い刃が立て続けに命中した。ゴムが破け、パンクしたタイヤから空気が漏れ始める。激しく揺れる車体をどうにかコントロールすべく、男は必死にハンドルにかぶりついた。まだ、ブレーキを踏むつもりはないらしい。それならばと、トワイライトは強く地面を蹴り、高く跳躍する。宙に浮いた体の数センチ下を、猛スピードで車が通り過ぎていった。着地の直前に、もう一本の剣を作り出し、車体の下部めがけて投擲する。そして、自身の肩を抱き込むようにして、地面に落下しゴロゴロとアスファルトの上を転がった。
三本目の剣は、左後輪に当たったようだ。そのままタイヤの回転に巻き込まれ、サスペンション部分までを決定的に破壊したらしい。セダンは完全に制御を失い、九十度ほどスピンして、横向きになった状態で滑っていく。だがそれもすぐに、近くの電柱に衝突したことで、止まった。
「……ふぅ」
スーツの汚れを手で叩きつつ、彼はゆっくりと身を起こす。辺りには、ゴムの焼ける異様な匂いが漂っていた。
「あーぁ、やり過ぎたか?」
中の男は生きているだろうかと、割れた窓の隙間から覗き込む。上手くエアバッグが機能したようで、気を失っているが出血は見られなかった。念の為魔法で健康状態をチェックするが、今すぐ処置が必要なほどの怪我はないようだった。
「無事か、トワイライト!」
逮捕した者たちを全員拘束し終えたタキトゥスが、トワイライトのもとへ駆け寄ってくる。
「えぇ。問題ありません。気絶してはいますが、命に関わるような重傷ではないかと。尤も、脳へのダメージなどは検査してみないと分かりませんが」
トワイライトは、大丈夫だと頷きつつ、男の容態を端的に報告した。
「分かった。早急に手配しよう」
流石に、いくら魔法という便利な手段があっても、打撲の後遺症までは把握出来ない。頭を打った可能性がある以上は、病院に運ぶべきだ。タキトゥスもそれをすぐさま理解し、その場で部下に通信魔法を飛ばしてくれる。
「こちらは、お前が眠らせた者も含めて、全員逮捕した。裏口のドアも封鎖済み。応援も、もうすぐ着くだろう」
淡々と話してはいるが、実質彼が一人で、必要な業務のほぼ全てを達成したも同然だ。トワイライトが手伝ったのは、ほんの少しの面倒な部分だけ。あくまで、この仕事に関しては、本当にただの助っ人的な意味合いが強かったようだ。
「たった今、本隊にも伝えたところだ。突入を開始しろ、とな」
タキトゥスが、いつにも増して重々しい声色で告げる。その言葉をかき消すように、どこかから騒音が聞こえてきた。
かなり大勢の悪魔たちが言い争っているような音だ。同時に、サイレンが響き警察部門の存在を知らせてくる。タキトゥスの命に従い、行動を開始した者たちの音だろう。恐らく今頃表通りは、大騒ぎになっているだろう。人通りの多いエリアには、似つかわしくない様相を呈しているに違いない。暴れる男たちを警察部門の悪魔たちが押さえつけ、警察部門所有の輸送車両に乗せられていく光景が、トワイライトの目にも浮かんでくる。
何十年も追い続けてきた、脱界提供組織をようやく捕らえることが出来る。いよいよ大詰めを迎えたと、彼らはきっと喜んでいるだろう。凄まじい気迫によって、周囲の空気が白熱していくのが分かる。
大博打を打ってまで決行した、一大案件の最終局面。冷血鬼と呼ばれるタキトゥスですら、己の中の警察部門職員としての血が沸き立つのを感じる。
だがその中でただ一人、トワイライトだけは、いつもの気の抜けた表情を崩さないままだった。
「そうですか。では我々は、今の内に済ませておかないとなりませんな。例の存在の……確認せねば」
何事もなかったかのように冷静に呟いて、手錠をかけられた悪魔たちのそばへと向かっていく。壁際に並べられ座らされた悪魔たちの内、意識があるのはリーダー格の男だけだった。
「サムさん、と呼ばれていましたね?あの秘書の女性に」
「あぁ。そうだよ」
トワイライトの問いかけに、男は意外にも余裕の表情で頷いた。
「さっきは驚いたよ。ユカがあんなにあっさりやられるなんてな。おかげで、あっさり捕まっちまった。しくじったよ」
ガチャガチャと、後ろ手に拘束された腕を動かして、手錠の音をさせてみせる。しくじった、などと口にしながらも、彼の態度からは、悔しさも怒りも感じられなかった。
「少々、相性が悪かっただけですよ。私と彼女とでは」
「ふっ……お前は、嘘が下手だな」
トワイライトがあえて適当な誤魔化しを告げると、サムはニヒルな雰囲気の笑みを浮かべて鼻を鳴らす。
「俺だって、汚い世界の中でしぶとく生きてきた男だぜ?お前がどんな奴かは、すぐに分かる。お前が……まだ本気の本の字も出してなかったってことがな」
すっと目を細めて、トワイライトを見据える彼は、やはり普通の悪魔とは違っていた。出会ってすぐに、相手の本性を見抜くなど、中々出来ることではない。彼は本当に、リーダーとしては優秀な悪魔だったのだろう。
「それより……あなたはまだ隠しているものがありますよね?」
トワイライトは半ば感心しながら、彼に合わせたやり方で切り込む。
「私たちは、それを探しにここへ来たのです。教えてはいただけませんか。あなたの最高の秘策を」
まるで下から滑り込むような、丁寧な言い方で頼み込む。
「断る。これは、俺の最後の生命線だ。これがあれば、まだ生き延びられるかも知れない……そんな大事なもんを、お前たちなんかにみすみす渡すとでも?」
だが、サムはにべもなくそれを拒絶した。しかし、これは想定通りだ。逆に彼がこの状況で了承を示したら、それこそ予想外である。トワイライトの察知出来ない何かを隠していると、警戒したことだろう。
「そうですね。それは、あなたたちのような海千山千の裏組織でさえも、簡単に壊滅させられる大量破壊兵器ですものね」
思った通りに運ぶ話に内心満足感を覚えながらも、決して表には出さず、頷く。
「我々悪魔の、最大の弱点。上手く使えさえすれば、私たちに逆襲することすら可能でしょう。だから、いつも大切に身に付けていらっしゃる」
尤もらしく首を振ると共に、サムの方へ目を向けて、見透かすような視線を送る。丁重に箱に入れて、隠したはずの”それ”を見つけられて、彼は冷や汗をかいた。
「何っ!?ここにあるのか!?」
二人の会話を、沈黙して眺めていたタキトゥスが、唐突に口を挟む。彼はてっきり、それほど危険なアイテムなのだからどこか安全な別の場所に保管されていると思っていたのだ。思い込みが間違いだったことを知り、目を剥いて驚いている。
「当たり前ですよ。誰が、護身用のナイフを戸棚に飾りますか?常に、懐に入れて持ち歩いているはずです……命を狙われた際、反撃するためにね」
動揺する彼に向かって、トワイライトはどこまでも冷静な声をかける。それを聞いて、ハッとした。彼は初めから、何もかも分かっていたのだ。相当な危険物がここにあると悟っていたから、タキトゥスに協力したのかも知れない。
トワイライトという男は、一体どこまで、予測しているのだろう。タキトゥスの目の前に立つこの男は、まるでどこまで続くかも分からない、深淵なる闇のように見えた。誰一人として、その末端を把握することは出来ないのだ。トワイライト本人だけが、全てを知り、掌握している。
「ふふ……あっはっはっは!」
唇を引き結んで、じっと彼を見つめるタキトゥスの耳に、サムの哄笑が飛び込む。
「流石だよ。そこまで分かっていたとはな」
彼は、トワイライトを賞賛するかのように呟くと、両腕に力を入れ、左右に引いた。ガチャンッという音がして、タキトゥスがかけた手錠が外れ、地に落ちる。
「抵抗したのか……」
「俺が、この程度の拘束具で捕まるとでも?」
彼ほどの男であれば、抵抗の力やアイテムなどを持っていてもおかしくはない。当たってほしくないと思っていた予想が的中し、タキトゥスは眉を顰める。
「安心しろ。俺は逃げるつもりなどない。これを外したのは、お前らに見せるためだ。俺の唯一最大の切り札をな」
だがサムは意外にも、地面に腰を下ろしたまま、逃げようとはしなかった。そして、やや大袈裟過ぎるほどのおもむろな動作で、スーツの内ポケットに手を入れる。
「お前は気が付いていたな?気が付いていて、知らないふりをしたんだ。俺を泳がせて、決定的な瞬間を作るために!」
サムは、トワイライトを睨みながら、強く断言した。今までの彼の様子とは似つかない、感情を露わにした口調だ。だが、トワイライトは素知らぬ顔をして、口をつぐんだまま。黙って彼の行動を見つめている。タキトゥスもその隣で、彼が何をするつもりなのか、固唾を飲んで見守っていた。
「だが、いいのか?お前たちにとってこれは、何よりも恐ろしい破壊兵器だぞ?ヘタを打てば、お前らのお仲間だって死ぬかも知れない。止めなくていいのか?これは、人間たちの世界で言うところの、パンドラの箱だぞ?」
手を服の中に入れた状態で、サムは確認するような目を向ける。何度も重ねて問いかけられる内に、タキトゥスは躊躇いが蓄積していくのを感じていた。
パンドラの箱。人間界のとある国に、そんな話があったことを思い出す。ある女が、好奇心に負けて箱を開ける。中にはこの世に存在する全ての災厄、病気、犯罪、絶望が詰まっていた。それらが世界へと放たれたことに驚き、女は箱を閉めた。しかし箱の中には、まだ希望だけが残っていた。何とも皮肉な話だと、聞いた当初は笑ったものだ。
だが、実際に目の前にしてみると、こうも恐ろしく感じられるのだと知る。ましてや、現状の敵は好奇心などではない。自らの意思で、彼は箱を開けるかも知れないのだ。その中から飛び出した、あらゆる災厄がこの魔界を襲うかも知れない。タキトゥスは緊張の糸を最大限まで張り詰めさせて、彼の一挙一動を注視する。
「ほう。確か、中にはありとあらゆる災厄が詰まった、絶望の箱、とやらでしたね?流石は熟練の脱界提供組織。人間たちの文化文物にはお詳しいようだ」
平然とトワイライトは、顎に手を当てサムの話に頷いていた。わざとらしいにっこり笑顔を浮かべると、彼の博識を褒め称える。
「ですが……人間たちは、シュレディンガーの猫なる理論も提唱しています。箱を開けてみるまで、中の猫が死んでいるかどうかは分からない」
彼は微笑んだまま、挑戦的な解答を放った。
「パンドラの箱を開けてみなければ、中に絶望が入っていることは分からない……そういうことか」
トワイライトの狙いを理解したサムが、それでいいのかと問うような視線を向けてくる。
「その通りです」
「……哲学的な話だな」
「ですねぇ」
頭の後ろで手を組んで、苦笑いする彼に合わせ、トワイライトも愛想笑いの混じった苦笑を作った。
「ですがどの道、我々は調べるつもりですよ?あなたの言葉がハッタリかどうか……確かめなくてはなりませんから」
笑顔の奥の瞳が、すぅっとかすかに開き、深淵の如き底のない黒色を見せる。低く落ち着いた声音から、サムは彼の本気を悟った。この男は、やはり本当に恐ろしい。表向きは全く穏やかでありながら、その内心はまるで正反対だ。凪いだ海面のすぐ下に、凶暴で巨大なサメが揺蕩っている光景が脳裏を過ぎる。サムは、さっと顔色を青褪めさせた。
「……だったら、その目でとくと確かめるがいい!」
覚悟を決めると、ポケットの中の”それ”を掴む。手に、ビロードの柔らかい感触と、その下のプラスチックの固さが伝わってくる。
出来ることなら、こんな恐ろしいものなど使いたくはなかった。これは、敵を排除する兵器であると同時に、自分たちの組織に大ダメージを与えた、憎き災害なのだ。これがなければ、今も組織は逮捕されることなく、商売を続けていられたはずなのに。
(いや、もう仕方がない……過去は巻き戻らないんだ)
サムは、必死に己を納得させようとする。例え組織が潰れたとしても、自分さえいればまたやり直せる。核となるべき人物さえいれば、仲間はまた集まってくる。だからまずは、自分だ。自分が生き残るため。行使すべきだ。それが、どれほど危険なものだったとしても。
「受け取れっ!!」
決断と共に、サムは手を引き抜き、握り締めた物を放り投げる。彼の懐から出てきたのは、青い、細長い箱だった。高級ブランドで買った、ネックレスのケースのようだ。金色の留金は緩んでいたようで、投げられた衝撃でカパリと口を開けてしまった。中に収めていた物が吐き出され、宙を舞う。それは、白金に光る、ペンダントだった。長いチェーンの先に、ダビデの星とも呼ばれる、六芒星の飾りがトップについている。細かい装飾が施されたそれは、光を反射してキラキラと輝き、魔界の澱んだ空気を澄ませるような、美しい煌めきを放った。
否、決して気のせいや美しさからくる錯覚などではない。ペンダントが持つのは、本当に魔界を浄化することの出来る力だ。
「トワイライトっ!!」
タキトゥスが、いつにない切羽詰まった声で、鋭くトワイライトの名を呼ぶ。叫ぶと言っても過言でないその調子に、トワイライトは動じることなく応えた。片手を軽く振って剣を作り出し、放物線を描いて飛んでくるペンダントを叩き落とそうとする。
だが、彼の剣が、ペンダントトップにかすかに掠った瞬間。銀製の、強度を誇るはずの硬いブロードソードの刃が、溶けた。高い強度を誇る金属の塊が、まるで熱い鉄の棒に触れたアイスクリームのように、一瞬にして融解したのだ。どろどろとした銀色の液体が、アスファルトの上に無惨に滴り落ちる。刃物で勢いよく切り付けられ、血が周囲に飛び散った時のような様相だ。
「っ!?」
己の目で見た光景が信じられず、トワイライトは目を見開いて硬直する。彼の剣は、ペンダントを弾き返すどころか、その軌道に一切の影響を与えることが出来なかった。彼の頭上に、白く光る六芒星が、隕石のように落下しようとしている。銀を溶かすほどの力を持つそれに触れたら、ただでは済まないだろう。トワイライトは慌てて、ダイブするようにして身を伏せ、落下物をかわす。ゴロゴロと転がって距離を取ると、カラン、と硬い物が地面にぶつかる乾いた音が聞こえてきた。急いで立ち上がった彼の目に、じゅうじゅうと何かが溶ける光景が飛び込んでくる。落下した六芒星のペンダントは、その周囲のアスファルトを溶かし、地面に小さなくぼみを作り出していた。液体化したアスファルトからは、小さな泡が発生し、細くかすかな煙さえ立ち上らせている。トワイライトたちが見ている間にも、地面のクレーターはどんどん拡大し、ペンダントは徐々に沈み始めていた。
「やはりか……」
重い鉄球が、メレンゲの中に少しずつ沈んでいくかの如く、硬いアスファルトを容易く溶かすことの出来る力。そんな力の正体といえば、一つしかない。確信したトワイライトが、ぽつりと呟く。
「だが、ここまでとは……!」
タキトゥスがその隣で、驚愕に満ちた声を上げる。想像を遥かに絶する強大な力に、圧倒され瞠目していた。
彼らが目の前の光景に釘付けになっている間に、サムはひっそりと気配を消し、そそくさと立ち去ろうとする。だが、トワイライトがその背中に麻酔銃を撃った。背中に受けた麻酔針によって、眠らされた彼が音もなく崩れ落ちる。うつ伏せに倒れた彼に目を向けることもなく、トワイライトはしゃがみ込んでペンダントを凝視した。
「天使の加護印……」
”天使の加護印”とは、天界に住む天使たちが作り出したアイテムのことだ。
この地球上に存在する、三つの世界。悪を好む魔界とも、中立を貫く人間界とも異なる、天空の雲の上に、彼らの世界は広がっている。聖なる力を持つ<天使>が暮らす<天界>。魔界が地獄として人間たちに知られているならば、彼らのことは天国という名称で語られていることだろう。太古の昔に両の世界の住人が、人間たちに接触した時から伝わる伝説だ。人間たちは天使たちの考えを自らの倫理的規範とし、社会の秩序を築いた。彼らの世界に行くことこそが、正しい往生の仕方だと信じるようになった。その頃から、天使たちは人間を導く存在として、勝手に義務感を背負うようになり、同時に魔界を敵視し始めたのだ。
「奴らは、既に”粛清”されていたのか……」
タキトゥスが呟く。
清らかな心と正しき信念を理想とする彼らにとって、魔界に住む悪魔は生まれながらの”悪”だ。潜在的な敵を滅ぼすべく、彼らは”粛清”と題して、度々魔界に襲撃をかけてくる。所有者の魔力を中に込めることの出来るこのアイテムは、差し詰め天使の力の代弁者といったところだろう。本人たちには及ばぬまでも、強い者が使えばかなりの威力を与えることが出来る。それを魔界に投げ込んで、”粛清”をするのだ。サムの部下たちは、このペンダントが拠点に落下してきたことによって、半壊状態にまで追い込まれたのだろう。
天使の持つ聖なる力は、悪魔たちの持つ邪悪な闇の力を粉砕し、浄化することが出来る。トワイライトたちが、空気が澄んでいく様子を感じたのも、そのせいだ。天使の光の力によって、空気中に漂う闇のエネルギーが、跡形もなく消しとばされてしまうのである。それだけではない。魔界に存在する全ての物は、闇のエネルギーを孕んでいる。天使の力を食らえば、強固なビルも倒壊し、一瞬で粒子レベルまで分解される。悪魔たちの肉体も同様だ。天使の放つ光を浴びるだけで、皮膚が爛れ筋肉が裂ける。最悪の場合、塵や灰となって、消滅してしまう可能性さえあるのだ。もちろん、個々の能力の差によるため、トワイライトやタキトゥスがそのような目に遭う可能性は低い。それでも、無傷でいられることはないだろう。天使の力を受けた傷は、普通の回復魔法では治せない。いつもよりかなり高度な術式を使わなければ、癒えないはずである。
それほどまでに強力な存在を、誰がどうして恐れないでいられるだろう。天使たちは古くから、悪魔たちの敵であり、恐怖と憎悪の対象だった。魔界府軍政部門の中に、対天使対策部という部署が作られたのも、彼らに対する危機感からである。
「おい、トワイライト。あまり近寄るな。怪我をするぞ」
だが、トワイライトのような中級悪魔であれば、加護印くらいで死にはしない。火傷はするだろうが。初めて実物を見るのだから、じっくり細部まで観察しておこうと、繁々眺め回す。つい好奇心に駆られて身を乗り出しているトワイライトの肩を、タキトゥスが軽く叩いた。
部下に魔法の通信を飛ばして、対天使対策部に報告を上げさせたところなのだろう。基本的に、天使の加護印など、粛清の証拠や予兆を発見した場合は、速やかに対天使対策部に通報することが義務付けられている。
「ここまで強い力を持っていたとはな、流石に予想外だ」
無事大仕事を終わらせたとばかりに、タキトゥスは肩を回し、達成感に満ちた晴れやかな表情をしていた。
「……本当に、そうなのですかな?」
「何?」
だがそこへ、トワイライトは静かな調子で問いかけた。訝しげに眉を顰め、尋ね返してくるタキトゥスに、彼は立ち上がって目を向ける。
「『予想外だった』、その一言で、全て済む話だとお思いなのか、という話ですよ」
「……どういう意味だ?トワイライト」
タキトゥスの低い声が、一段と低くなった。
「お前は、この俺に楯突くというのか?一介の室長に過ぎないお前ごときが、インペラトル候補とも言われる俺に?」
演説でもするようにわざとらしく、余裕ぶって両手を広げ、彼は自らの強勢をアピールする。そこには、自身の地位への誇りと驕り、傲慢さが溢れ出すほどに満ち満ちていた。
「お前なんかに何が出来る。翼をもがれ、空を飛ぶことの出来ないお前に!」
先ほどまで、いいように利用され、追い詰められていた状況を逆転させようと、彼はここぞとばかりに反撃してくる。翼を奪ったのはタキトゥス張本人だというのに、まるで自分に咎はないという態度で、思い切り怒りをぶつけてきていた。
「一体、何が出来るというんだ!言ってみろ!!」
指を突き付け、トワイライトを糾弾するかのように、怒号を浴びせる。しかし、トワイライトはあくまで冷静だった。
「私がいつ、翼を欲したと言うんです?」
冷淡な声で、質問を投げかける。タキトゥスの薄氷の瞳が、かすかに大きくなった。
「タキトゥスさん、あなたは何か、誤解しているようだ……私には、翼など必要ない。いざとなれば、己の手だけで、必要なもの全てを勝ち取ることが出来るんですよ」
トワイライトはゆっくりとした口調で語りながら、彼の前へと一歩踏み出す。両者の距離がこれ以上ないほどに縮まる。辺りには、今にも一触即発といった空気が漂い始めた。
「さて、どうします……?私と、正面からやり合ってみますか?」
「お前……!!」
徹頭徹尾、こんなことをしたくはなかったという雰囲気で、トワイライトは提案する。渋りながらも、不敵に微笑んでみせる芸当は、彼でなければ出来ないものだ。タキトゥスはそれを見て、慄くような表情を浮かべる。まるで、今まで力で押さえつけてきた相手が、初めて言いなりにならなかった時のような、驚きだ。トワイライトは更に、挑戦的な笑みを深め、黒い瞳を輝かせる。
『トワイライトさん』 その時だった。トワイライトの脳内に、エンヴィスからの通信が飛び込んでくる。彼は即座に、通信に応じ彼に答えた。
「何だい?エンヴィスくん」
タキトゥスと対峙していることなど、すっかし念頭から消えたような仕草だ。まさに強者としてのそれに、タキトゥスは嫌な顔をする。
『いえ……ちょっと、嫌な気配がするんです。上を見てもらえますか?』
この場にいないエンヴィスは、二人の間の空気を察せるはずもなく、不穏な色の潜む声でトワイライトに進言する。
「上?」
上を見ろと言われたトワイライトは、素直に顔を上げ、洞窟の天井を仰ぐ。幻術の空が広がる上空には、別段何の異常も見えない。否、よく目を凝らすと、あった。
「……ん?」
気のせいかと、目を瞬きもう一度注視する。雲の少ない青い空に、一つだけ、星のような煌めきが光っていた。
「何だ?」
タキトゥスも好奇心に駆られ、彼と同じ方角を見つめる。かすかな、ともすると見逃してしまいそうな小さな光が、青空の中に浮かんでいた。だがそれは、気を配って見ている内に、段々と大きくなっていく。点のようだったものが、次第に球へ。そして、眩いほどの強い光となって、辺り一帯を襲った。
「天使だっ!!」
叫び声を発したのはタキトゥスだったか、トワイライトだったか、それとも別の誰かだったのかは定かでない。確かめる暇もなく、背骨が振動するほどの強烈な悪寒が、全身を駆け巡る。そして、次の瞬間。肌が焼け爛れるほどの清らかな光が、アルテポリスの街を照り付けた。
* * *
「……ぅ」
目を開けたことで、カーリは初めて、自分が気を失っていたことに気が付く。やたらと痛みに軋む身体を懸命に起こすと、一変した辺りの景色が、視界を埋めた。
「え……!?」
声を失い、あんぐりと口を開ける。一体何が起きたというのか、覚醒したばかりの頭ではさっぱり理解出来なかった。
「君は、Dクラスだね!?さぁ、早くこっちへ!」
放心している内に、砂煙の中から誰かが現れたかと思うと、強く手首を掴まれた。戸惑いを感じる間もなく、素早く助け起こされて、大きな手で背中を押された。
「あ、あの……」
「いいから、急いで!」
話しかけても、余裕なく急かされるだけだ。かろうじて声色から男だと分かるが、大きなゴーグルで目と鼻を覆っていては、誰だか全く判別出来なかった。
「ここもいつ襲われるか分からない。安全なところまで、早く逃げるんだ!」
恐ろしいことを言われて、道を促される。転びそうになって、慌てて前に数歩踏み出せば、横から誰かに飛びつかれた。
「良かった、カーリ!」
「わわっ!」
突然の刺激に、カーリは声を上げて驚くが、やってきた相手を見てすぐに安堵の息を漏らした。
「なんだ……レディちゃんか。良かった、会えて」
「うわーんカーリ~、ごめんねぇ~!」
胸を撫で下ろしつつ話しかければ、彼女は何故か泣き出しそうな顔で、謝罪の言葉をかけてくる。
「アタシ、途中でカーリのこと離しちゃって……とにかく、無事で良かったよー!」
そしてまた飛びつかれて、カーリは更に困惑を深めた。
「あー、えっと……何があったんだっけ?」
尋ねながら、ぼんやりと、意識を失う前の記憶が蘇ってきた。
確か、レディと共に屋上で現場を見張っていた時だ。突然、上空から閃光が降り注ぎ、強い衝撃が辺りを襲った。恐らくそれから逃げるために、レディはカーリを抱え、ビルを飛び降りようとしたのだろう。だが、咄嗟のことだったために、途中でカーリを離してしまい、それぞれ別の場所へ落下した。カーリの落ちた先にはゴミの詰まったゴミ箱などがあったのだろう。非常に幸運なことに、そのおかげで無事でいられたのだ。
「あの光は、何だったの?」
気を失う前のことは思い出せても、理解出来ないことはそのままだ。残る疑問を口にすると、レディは興奮した調子で捲し立てた。
「天使だって!天使!天使が現れたんだって!!」
天使。
悪魔を憎み、悪を制裁すべく、理不尽に襲いかかってきては無差別の虐殺を繰り広げる、恐ろしい存在。悪魔たちの潜在的な、そして最大の敵。
悪魔たちは皆、少々特殊な経歴を持つカーリですら、その単語を耳にしただけで、思考がフリーズし心に恐怖が湧き上がってくる。だが、それほど脅威的な存在の仕業だと言われれば、この惨状も納得出来た。
「天使がやったんだよ!このビルも、街も、全部!!」
レディは両手を広げて、自分の周囲全てを指す。彼女の意図を辿って視線を巡らせたカーリも、驚愕に息を飲み身を震わせた。
商業で発展した都市、アルテポリス。賑やかで豊かな街並みは一変し、瓦礫と残骸ばかりの、荒廃した街へと転落していた。
半分以上崩れ落ちたビル。中には完全に破壊され、原型を留めていないものもある。ドーム型をした大きなショッピングモールは、天井を打ち砕かれ陥落していた。
コンクリート片の散乱する大通りを、悲鳴を上げて無数の悪魔が行き交っている。中には頭や腕から血を流したり、意識を失って路上に倒れている者もいた。皆、突然の事態に困惑し、パニックを起こしているようだ。急遽駆け付けた警察部の悪魔たちが避難を促しているが、酷い混乱状態の中ではさほどの効果も発揮していなかった。
まるで、大災害に襲われた直後のようだ。到底、現実とは思えない光景に、カーリは圧倒される。
「カーリっ!!」
目の前のことを信じられずに、呆然と立ち尽くすカーリの腕をレディが掴む。
「早く逃げなきゃ!」
「あ、うん……あ、いや、やっぱり待って!」
彼女に強く引っ張られ、数歩前に踏み出したカーリは、突如思い出したように声を上げると、その場にピタリと立ち止まった。
「トワイライトさんたちを探さなきゃ!そんな危険な存在がいるってこと、トワイライトさんたちに知らせるべきだよ!」
「もうとっくに知ってるって!こんだけ街が壊れてるんだよ!?トワさんたちが気付かないはずないって!」
急に止まった彼女に焦燥を抱きながら、レディは適当に答える。全く根拠もない予想だったが、何でもいいからとにかく早くこの場から逃れたかった。天使のばら撒く聖なる魔力が、彼女の肌をチリチリと炙っているのだ。それはつまり、近くにいるということ。ここにいたら、いつ見つかるか分からないということである。天使の力は恐ろしいものだ。攻撃が掠めただけで光が体内に侵入し、低級悪魔であれば数秒で倒れてしまう。当たりどころが悪ければ、絶命する可能性だってあるのだ。自分の身もそうだが、カーリのことも友人として大事に思っているからこそ、一刻も早く逃げたいと思うのは、当たり前の真理である。
「それは、そうだけど……でも、無事かどうかだけでも、確かめなくちゃ。私たち二人だけがここから逃げるなんて、許されないよ」
「何言ってるのカーリ!!無茶だよ!危険だって!!」
しかしカーリは、案外強い力で抵抗してきた。レディの手を振り払って立ち止まり、背後を振り返る。黒煙が立ち込め、砂っぽい風に晒された瓦礫の街を、物憂げな視線で見つめた。
「危険なのは分かってる。でも私は……行かなきゃいけないの。逃げるのは、その後」
「ま、待ってったら!今行ったら、カーリなんかすぐに殺されちゃうよ!カーリには、戦う力なんかないんだから!!」
死にたくはないでしょ!?と残酷な事実を突き付けた直後、レディはハッとして口をつぐむ。
「ご……ごめん」
「ううん、大丈夫」
己の弱さを最も自覚しているのはカーリだ。わざわざ他人から指摘されたら、彼女はきっと傷ついてしまうだろう。心配するあまり、言ってはならないことを言ってしまった。レディは慌てて顔を俯かせ、謝る。だがカーリは、意外にも平気そうだった。
「でも、」
「大丈夫だよ。レディちゃんは先に行ってて。それでトワイライトさんたちと会えたら、それが一番だし」
彼女の性分をよく理解しているレディは、不安になっておずおずと確認の言葉を投げかける。しかし言い終わるより前に、カーリが顔を上げた。そして、とんでもない提案を告げてくる。
「私はやっぱり、もう少しこの辺を探す。もし、私に何かあっても、全部私の責任だから。トワイライトさんやレディちゃんに迷惑のかかることじゃない」
「ちょっと、カーリッ!」
さっさと背を向けて歩き出してしまう彼女を、レディは再度止めた。このまま行かせるわけには決していかない。
「本当にカーリが、トワさんたちのこと心配してるんだったら、逃げるべきだって!ここで粘ったって、何の意味もないよ!むしろ、トワさんたちの迷惑になるかも知れないじゃん!!」
もはや、カーリからの心象など気にしていられなかった。たとえ友情を失ったとしても、命を失うよりはマシだからだ。友人として、こればかりは譲れないと、カーリの腕に縋り付く。それはまるで、出かける母親を止めんと奮闘する子供のようで、無力で純粋だった。
「トワさんたちも、きっとそれを望んでるよ!!」
必死に訴えかけるが、しかし、いくら言っても頑固なカーリは靡かない。彼女は一度決めたことは決して覆さず、絶対に他者の意見に流されることのない、強い女性なのだ。だからレディも、彼女のことを評価していた。
大切な友人を守るためだ。場合によっては、多少乱暴な方法を使ってでも彼女を逃す。そんな事態すら想定していたのに、カーリは何も言わず、ただ真っ直ぐレディを見つめ返してくるだけだった。
「……ごめんね。レディちゃんの方が正しいって、私も分かってる」
ごめん、と口にする彼女の顔は、いつになく穏やかな笑みで、柔らかく綻んでいた。
「でもね、何もしないではいられないの。私は、トワイライトさんたちに、何度も助けられてきた。なのに、私だけが、全く何も返せていない……そんなのは、もう我慢出来ないんだよ」
「とっ、トワさんたちは、見返りを期待してたんじゃないよ!そんな器用な悪魔じゃないじゃん!」
期待に応えられない申し訳なさを見せつつも、奥には何があっても折れない、強い意志を宿している。覚悟を決めた表情を受け入れられなくて、レディは感情的に反発した。
「だ、大体、カーリに何が出来るの!?何も出来ないよ!強くないもの!トワさんたちを助けるどころか、自分の身を守ることすら出来ないじゃん!!」
あえて相手を傷付ける言葉ばかりを選んで、勢いよく捲し立てる。これでカーリが怒って、レディに掴みかかってくれば、気絶させて連行出来ると踏んでいた。しかし彼女は、絶対にムキになったりしない。
「そうだね……私はいくら努力しても、結局ただの足手纏い。いるだけで邪魔な、いらない存在。でもね……レディちゃん、誰がそんな運命を受け入れるの?」
強い瞳で、穏やかな顔付きで、レディの思う完璧な”大人”の姿で、カーリは問いかける。だが、”子供”のレディにはそんなもの、少しも理解出来なかった。理解したいとも、思えなかった。
「私はね、理不尽な目に遭う度、これが自分の運命なんだって、仕方ないことなんだって、言い聞かせてきた。諦めて、理不尽を受け入れるために。でもね……もう、そんなの耐えられないんだよ。許せないの」
カーリは、過去の自分を思い返しながら懸命に言葉を紡いでいた。かつての彼女はただの、現実に絶望し、あらゆる希望を諦めた女だった。理不尽に押し潰され、逃げる気力すら奪われて、日々心を閉ざして生きていた。その場から動くことも出来ず、身体を丸めて蹲ったまま、誰かが自分を助けてはくれないかと願っていた。
「運命を変えたいとか、抗いたいとか、そんなかっこいいものじゃない。でも、ここで何かしなければ、私は私でいられなくなる気がするの……そんな辛い思いは、もう沢山。もう一度あんな目に遭うくらいなら、いっそこの場で死んだ方が、マシ」
だが、トワイライトたちが現れてから、彼女の人生は一変した。カーリはまた、自分の足で前に進めるようになった。辛いことがあったなら、力を貸してくれる者たちに出会えた。
「トワイライトさんたちは、理不尽に殺されそうだった私を救ってくれた。だから、今度は、私の番」
けれど結局今も、カーリは自分を守ってくれる相手に対して、何の謝礼も渡せていない。そのことが、ずっと心の負担だった。苦しかった。今になってやっと、それから逃れられるのだ。
「行かせてよ、レディちゃん。私、ずっと願ってたの。トワイライトさんたちの役に、レディちゃんの役に、いつか立ちたいって。こんな私に何が出来るか、それは私にも分からないけど、これだけは分かる。今がそれを叶える時なんだよ。そのためなら、どんな代償を支払ったって構わない。私は、私のやりたいことを貫き通したい」
これは、チャンスだ。彼女の直感が、大きな声で告げている。今行動しなければ、彼女はこの先また、長い間己の無力感と失望感に囚われていなければならなくなる。そんな思いは、もう嫌だった。
「分かってくれなくても構わない。ただ……私の自由を、奪わないでほしい」
何が出来るかなど、分からない。何も出来ないかも知れない。だが、何かを成し遂げたいと思った自分の気持ちを、カーリは蔑ろにしたくなかった。例えそれが、如何程の危険を孕んでいたとしても。
「これは、私のための行動。私が私利私欲に駆られて、勝手にすること。他の誰も、悪くない。トワイライトさんもエンヴィスさんも、もちろんレディちゃんも……だけど、私の邪魔をするっていうのなら、私は全力で抗う。私は……自分の好きなように生きられないことが、この世で最も苦痛だから」
失敗をすれば、彼女たちを悲しませると分かっている。責任問題に発展し、トワイライトたちに迷惑をかけることだってあり得る。けれど、どうしても進みたいのだと、レディの目を見て訴えかけた。彼女であれば、友達の本気は慮るはずだ。半ば友情を利用したような形になるが、カーリは構わなかった。
「私は傲慢で、強欲で、自分勝手な女。でも、それでいいと思ってる。醜くて汚い自分自身を、肯定する術を教えてくれたのは……トワイライトさんや、レディちゃんたちだから」
彼女たちのせいだとは、決して言うつもりがない。しかし、彼女たちに肯定してもらったことも、事実だ。これでいいと、このままがいいと、認めてもらった己のままで、好きに生きたいのである。強く、自由に、自分の道を歩みたい。
力がないままでは、他人に守られるしかない。だがそれでは、助けてくれた相手に恩を売ったことになってしまう。自由を何より求める彼女にとって、借りを作ったままでいることというのは、自らの首輪にくくりつけられたリードを、他人に渡すのと同じ行為。自分の支配権は、誰にも預けたくない。トワイライトのような、尊敬し憧れる相手であれば尚更、対等な関係を築きたかった。
黒々と輝く夜空のような瞳を、断固とした決意で満たし、カーリはレディを見つめる。彼女は困り果てたように唇を引き結び、晴れた空のような青い瞳を、不安に揺らしていた。
「……分かったよ」
やがて、沈黙が破られると共に、レディが一つ首を振った。流石に、ここまでカーリの覚悟を聞かされれば、無碍にすることは出来なかったのだろう。普段は大人しくて、従順そうなカーリだが、その腹の内は実に悪魔らしい、独善的な欲望で渦巻いている。レディにはそんな彼女を、止める手段などなかった。
「だけど、アタシも一緒に行くから。カーリ一人には任せらんないし」
しかし、せめて自分が同行すれば、まだ彼女の助けになるだろう。そう期待して申し出たレディに、カーリはくすりと微笑みかけて、喜んだ。
「良かった。レディちゃんが一緒なら、心強いね」
「むぅ……エンちゃんには、カーリが怒られてね」
柔らかな笑顔を見せられたら、反発出来るものも出来なくなる。それを分かっているのだとしたら、相当たちが悪いことだ。カーリにかすかな疑いと不満を抱きつつ、レディは肩を落として渋々とついていった。
「それで?どこ行くの?トワさんたちがいそうなとこ探すとか?」
「うーん。それもいいけど、まずは……タキトゥスさんたちの動向を確かめなくちゃ」
ここまで来たら、もはや目標を達成するしかない。諦観に満ちたレディは、半ば自暴自棄になってぶっきらぼうに尋ねる。答えるカーリは意外にも冷静に、目的に辿り着くまでの道順を筋道立てて考えているようだった。ならば任せようと、レディは思考を止め、ただ隣を歩く。面倒なことに付き合う自身の優しさを後悔し始めていた。
「はぁ……カーリ、マジで帰ったらパフェ奢ってね」
「分かってるって、レディちゃん」
洞窟の中心部には、一際発展した、都会的な都市がある。その名はハデス。世界全体を統一し管理する巨大組織<魔界府>により定められた、世界の首都である。
通称”不眠永城”とも呼ばれるその街は、人間界のいくつかの都市を参考にして作られた。整然と区画分けされた土地には、洞窟の天井まで届くほどの高層ビルが立ち並び、間を縫うように太い幹線道路が張り巡らされている。周囲の郊外地区には住宅地が設けられ、モノレール、電車、地下鉄、バスなど多種多様な交通機関が都市部との往来を支えている。決して無駄を出さぬよう、緻密な計算の上に作り込まれた、システマチックなビジネスタウン。それが、ハデスという都市の特徴だ。
27個の区に分けられたハデスの中央部には、漆黒の闇が鎮座している。聳え立つ細い尖塔。豪奢で荘厳なデザインの建造物。巨大な宮殿のような外観は、壁も屋根も全て、真っ黒に塗り潰されている。遠目から見れば、ただ黒い塊がでんと置いてある風に映ることだろう。
しかし、この場所こそが、魔界を動かす組織の中枢<魔界府中央庁舎>。広大な魔界全体を統治する、魔界府の頭脳であり心臓だ。
建物内の空間は魔法により拡張され、見て呉れの数倍以上の広さを有している。働いている職員の数は、数万を軽く超えるだろう。トワイライトも、その一人だ。
コの字型の建物の右側。七階の隅に、彼率いる単独脱界者対策室のオフィスは存在する。角部屋のそこは日当たりが悪く、少々狭くもあるが、少人数の彼らにとっては十分、快適な居場所だ。
通い慣れたその部屋から左に進み、廊下の左端にまで到達すると、一際大きく豪華な扉に出迎えられる。チョコレートに似た色をした、分厚いドア。トワイライトはその前に立って、一つ深い溜め息を吐く。この部屋を訪れるのは初めてではない。ないのだが、一度たりとて、自ら望んできたことはなかった。どちらかと言えば、遠慮したいくらいだ。しかしてそうはいかないのが、サラリーマンの宿命。
覚悟を決めて、口を開く。
「単独脱界者対策室室長、トワイライトです」
ノックをし、やや声を張って名乗るが、返答はない。返事など聞かずに自分で確かめろということだろう。相変わらずの不親切ぶりに、溜め息が出た。
「タキトゥス課長。いらっしゃいますか?」
仕方なく、金色のドアノブを捻り、ドアを開ける。一人で使うにはいっそ不便ではないかと思うほど、広い空間が彼を待ち受けていた。
「失礼します」
返事はないだろうと思いつつも、一応の断りを入れてから、中に入る。完璧なまでに整えられた、豪華な室内は、いつ見ても壮観だ。
光を吸収する漆黒の床は磨き抜かれていて、塵一つない。入り口付近に置かれた応接椅子は、革張りでどっしりと重そうだ。右の壁には飾り棚が付けられ、洒落たデザインの壺やら置き物やらが並んでいた。左側の壁には大きな本棚が、ぎっしりと中身の詰まった状態で佇んでいる。中身はよく見えないが、専門的な学術書のようだ。最奥には巨大な窓が付けられ、理路整然とした街並みが眺められた。あらゆる幻術を無効化するというこの部屋からでは、魔法により作られた偽りの空を見ることも出来ない。美しい青空の色は消え失せ、洞窟本来の赤色が降り注いでいた。
地獄の炎、と人間が呼ぶ色に背を預けた、一人の男が声をかけてきた。
「まずは、今回及び前回の、功績を讃えよう。ご苦労だった、トワイライト」
低く静かな声が、厳かに響き渡る。ゆっくりと、一語一語噛んで含ませるような、もったいつけた口調だ。彼の方へと顔を向けるトワイライトの背後で、自然に閉まったドアがバタムと音を立てた。
「……恐縮です。脱界取締部捜査一課長タキトゥスさん」
わずかに間を作ってから、神妙な顔をして頭を下げる。漆黒のレザーチェアに座った、スーツの男が顔を上げた。
窓から入る光に照らされ、どこぞの俳優かと見紛うような、人目を惹く容貌が露わになる。通った鼻筋と、上向きにきりりと上がった眉は、意思の強さを感じさせた。理知的な瞳は、実力のある悪魔にしては珍しい、薄氷の如き淡い青色をしている。黒髪をオールバックにしているせいか、真面目で堅物といった雰囲気が、一層強まっていた。
悪魔の象徴である角は、両のこめかみから、真っ直ぐ前へと水平に伸びている。先の尖った細いそれは、ワックスでも塗られているのか、ツヤツヤと紫色に輝いていた。
何万といる中央庁舎職員の中でも、ここまでの天才的頭脳を誇る男は他にいないだろう。
魔界府警察部門脱界者取締部捜査一課長・組織的脱界者対策室室長タキトゥス。
警察部門で働く悪魔たち全ての、称賛と期待を一身に背負う男である。
彼はその明晰な頭脳と冷徹な思考、及びカリスマ的な指揮力で、数多くの脱界者や脱界提供組織を検挙してきた。一体どれほどの悪魔が、彼を崇拝し、あるいは嫌悪し、恐れてきたか知れない。だが彼は、賞賛に驕ることも、憎悪に屈することもなく、淡々と成果を上げ続けた。そして、今の地位にまで昇り詰めたのだ。
悪魔たちは彼の優秀さと、莫大な成績を畏怖し、いつからか”冷血鬼”というあだ名で彼を呼ぶようになった。正直、言い得て妙だとトワイライトは思う。
「……そうか」
その名に相応しい無機質な声音が、端的に相槌を打つ。
纏った高級スーツの袖からは、これまた高級ブランドのロゴが光る、立派な腕時計が覗いていた。片手で弄ぶ万年筆も、恐らく同じくらい値の張る代物のはずだ。
一般企業の者からしたら、一介の課長職にはあり得ない待遇だと疑われることだろう。だがこれが、魔界府という偉大で強大な統治機構の、上に立つ者の実態だ。魔界府は、魔界に住む悪魔の半数以上が所属する超巨大組織。生き残るだけで至難の世界である。ましてや星の数以上にいる彼らを率いる立場ともなれば、実力のほどは計り知れない。課長の椅子に座るということは、”インペラトル”の階段を一歩踏み出したも同じなのだ。
「今後とも、よろしく頼む」
重々しい口調を、息と共に吐き出す。いかにも権力者然とした仕草だが、決して偉そうには見えないのが不思議だ。インペラトルを目指す者には、必須の技量なのだろうか。
世界を動かすのは、いつだって超級の権力と財力、その他影響力を持つ者だ。魔界の場合は、そこに魔力も含まれるが。
彼ら支配者層を、悪魔たちは”インペラトル”と名付けた。つまるところ、魔界府の重鎮や大企業の経営者のことである。
だが、無論誰しもがその地位を獲得するチャンスに恵まれるわけではない。親から遺伝的に得た魔力量によって、一生が決まる魔界では、権力を持てる悪魔の数は限られてしまう。結局、強い悪魔だけが強い悪魔と婚姻し、強き子孫を残すことが可能となるのだ。そうして代々強者のみで構成されてきた家系だけが、富を集約し、繁栄することが出来る。世襲によって更に富や魔力を蓄えた悪魔は、インペラトルの中でも飛び抜けた実力を示し、権力者たちのリーダー的存在となる。彼らは自らをインペリアル・ロードと呼称し、統率者である己を誇っている。
しかし、大半のインペラトルたちは、皆後から力を得た成り上がりものだ。ロードと”契約”を交わし、代償として魂を渡すことで、永遠の従属を誓う。それによって、魔法でさえも起こせない奇跡を賜るのだ。
タキトゥスは、その後者を目指す者である。彼の振る舞いは堂に入っていて、いずれ権力を得る悪魔に相応しく、見栄えがする。カーリをはじめ、多くの女性悪魔が憧れるのも分かる気がした。
「もちろんですよ!タキトゥス課長直々のご命令とあらば、喜んで従事させていただきます」
だが、トワイライトはあえて、彼の作り出した雰囲気を否定するように、満面の笑みで仰々しい態度を取る。
「まぁ、尤も、それが我々の業務内容に見合ったものであれば……という制限はつきますが、ね」
コーヒー一杯分の豆からは、一杯のコーヒーしか作れない。トワイライトの込めた言外の意味は伝わったのだろうか。
一度閉じた瞳を薄く開き、じっくりと相手を観察する。貼り付けた笑顔の仮面越しに、タキトゥスが、大真面目な顔をして首肯するのが見えた。
「当然の話だな。出もしない利益を絞り尽くしても、かえって非効率なだけだ。資本をすり減らす愚は犯さぬよ」
「そう仰っていただけて、安心しましたよ」
彼は優雅な仕草で片手を広げ、さも合理的であるという風に竦める。その答えを聞いたトワイライトは、心底安堵したとばかりに、穏やかな笑みを浮かべ、ほっと胸を撫で下ろした。
「では……今後は、二度と同じ過ちをなさらぬよう、善処していただけると期待してよろしいんですね?」
打って変わった冷然とした視線を向けると、タキトゥスは不思議そうな顔で、尋ね返してきた。
「何を言っている?お前たちは、全員生きて帰ってきたじゃないか。私はミスなどしていないが」
心底、トワイライトの言い分を理解していないかのような声色だ。本当は分かっているくせに、とは彼が上司である以上、言えない。一筋縄ではいかない相手に、内心辟易する。
「私は常に、組織の利益を追い求めている。最低限の資本から最大限の利益を叩き出すこと。それが私の、ひいては組織全体の至上命題だ。今回の件も前回の件も、決してその大枠からはみ出てはいまい」
尤もらしく話を続ける彼を、トワイライトは黙って眺めていた。
「……なるほど。ためになるお話ですな。非常に価値が高い」
「意味のない言葉遊びはやめたまえ、トワイライト。本題に入るぞ」
呆れつつ、冷めた顔で聞き流せば、タキトゥスは平然とした声で遮ってきた。少しの時間も惜しいと言わんばかりの振る舞いだ。都合の悪いことを誤魔化している気配など微塵もない。流石は、冷血鬼といったところだろうか。
「次に、お前たちにやってもらいたい案件だ。詳しくは資料を見てくれ」
タキトゥスは、机の引き出しから一つのファイルを取り出し、トワイライトに差し出す。反射的に受け取って中を見てから、トワイライトはふむと頷いた。
「これはこれは……また、厄介そうな案件ですな。合同任務ですか?」
「あぁ、その通り。ターゲットは、ハデス近郊に潜伏している、とある脱界提供組織となる」
嫌味を込めて発言したにも関わらず、聡明なタキトゥス課長は分かっていてスルーして下さった。トワイライトは心の中で渋面を浮かべつつ、表向きは平静を装って、資料に目を通す。
合同任務、とはその名の通り、二つの脱界者対策室が協力して行う案件のことだ。通常は、組織的脱界犯の逮捕任務に、単独脱界者対策室が手を貸す、という形態の方が多い。トワイライトにとっては、外様として参加する面倒な仕事だ。
「非常に大規模かつ厄介な連中でな。関わる人数は多い方がいい」
「ですが、我々は大した戦力にはなりませんよ?実質、戦闘員は私ともう一人きりですし」
思い切り拒否を突きつけたい感情を抑え込みつつ、冷静に反論する。それだけの強敵を相手にする実力がないと訴えれば、タキトゥスは大丈夫だと首を振った。
「分かっている。何も、戦闘任務を任せようと言っているんじゃない。お前たちに頼みたいのは、周辺警護だ。潜伏先に突入する際、逃げた悪魔などがいないか見張る役目となる。万が一発見しても、追跡は別の者が行う手筈になっているから、お前たちが戦う場面は、決してないと保証出来るな」
「ならば、良いのですが……」
ここまではっきりと断言されれば、通常の悪魔は信じることだろう。だが、今この場で会話を繰り広げているのは、トワイライトとタキトゥス。腹黒男と、冷血鬼である。
「本当に、それだけですか?」
トワイライトには、彼の主張を鵜呑みにすることが出来なかった。今まで何度も、この男には口先だけのメリットを告げられて、仕事をさせられてきたのだ。危険がないからと簡単に飛びつけば、痛い目を見ることになる。
「どういう意味だ?」
「いえ……タキトゥスさんのことですから、てっきり何か他に隠している狙いがあるのかと」
首を傾げて訝るタキトゥスに、トワイライトは思い切った直截な意見を伝えた。上の立場の者に言うべきではない言葉だが、タキトゥスはそんなことで怒ったりはしない。むしろいい質問だとばかりに、苦笑する様子まで見せてきた。
「わざわざ部下に隠し立てして、一体何のメリットがある。私は、無駄なことはしない主義だぞ」
「ですよねぇ」
彼に調子を合わせて、トワイライトも苦笑する。いい加減、終わりの見えない腹の探り合いに疲れてきた。冷酷なまでに明晰な頭脳と性格を誇るこの男相手では、まともに会話するのも一苦労だ。尤も、タキトゥスとてトワイライトのことを少なからず怪しく思っているのだろうが。
「では、謹んで、お受けいたしましょう。我々、単独脱界者対策室がね」
「期待している」
嫌な予感を押し込めて、表向きだけの笑顔を貼り付けた。自信を持っている風に頷いて請け負えば、タキトゥスも悠々と首を振る。
「早速だが、詳細な作戦立案を手伝ってもらいたい。具体的なことは部下に聞いてくれ。予定通りに進めば、一週間後に決行となる。よろしく頼むぞ。用件は以上だ」
補足の資料をいくつか手渡しつつ、彼はすらすらと残りの必要事項を伝達していく。まるで、立板に水が流れるかのようだ。言葉での戦闘が終わったと悟るや否や、この急変ぶり。徹底した効率主義者である。本来は腹の読み合いなども、時間の無駄だと思っているのだろう。やはり、馬が合わないなとトワイライトは実感する。
「かしこまりました。失礼いたします」
だが、特にこれといって噛み付くべき点もなかったため、さっさと挨拶を済ませて切り上げることにした。軽く一礼して、部屋を退出しようと踵を返せば、それを待っていたとばかりにタキトゥスに呼び止められる。
「あぁ、一つ、伝え忘れていたが」
ゆっくりと振り向き、彼の方を向くと、ちょうどタキトゥスは上等な革張りの椅子から立ち上がるところだった。一歩一歩、足の運びすら計算し尽くしているかのようなおもむろな動作で、トワイライトに近付いてくる。
「今回のターゲットは、今の部長の代から追っている肝入りの案件だ。必ず、成功させねばならない。分かっているな?」
そして、彼の耳元で耳元でそんなことをこぼしてきた。脅しなのか圧力なのか、目的の分からない行為だ。
「部長の捕らえ損ねた連中でもって、土産の品とするわけですか。これでまた、インペラトルに近付きますな」
「他人事のように言うな。これは、お前にも関わりあることなんだぞ」
興味がないことをあからさまにアピールして答えれば、タキトゥスの冷たい声が割り入ってきた。トワイライトは大袈裟に目を見開き、意外そうな顔をして聞き返す。
「なんと!驚きですねぇ。一体、どこがでしょう」
明らかに芝居くさい語りに、タキトゥスは小さく鼻から息を漏らした。カツカツと革靴を鳴らし、トワイライトから離れていく。黒い高級スーツを纏った長身が、窓ガラスに映った。
「先程言及した二件の脱界者逮捕案件について、残存魔力や人間どもの記憶処理を担当した部署からクレームがきていてな。私の一存で抑えているが、いつ火が噴き出るか分からん。火口を塞ぐ者がいなくなったら……どうなるか、想像くらいつくだろう?」
こちらに背を向けたまま、何でもないことのように告げる口調。まさに、恐ろしい冷血鬼の手法だ。だが、その内容は到底無闇に聞き流せるものではない。
全ての責任を問われることになる、と伝えられて、トワイライトは思わず言い返した。
「お言葉ですが、我々は、ただ自らの職分に基づき、業務を全うしたまでです。責められる謂れはないと存じますが?」
「そんな都合のいい話が、俺以外に通ると思うか?」
氷のように鋭く容赦のない言葉が、トワイライトの言葉を遮ってきた。口を閉ざした彼に再び向き直ると、タキトゥスは骨張った長い指を突きつける。
「いいか、お前たちが残したのは、功績以上の損失だ。責められたくなければ俺に尽くせ。分かったか?」
俳優のように整った顔は、静かに燃える冷たい怒りの炎に熱されていた。至近距離から、きつい視線を当てられても、トワイライトは感情の読めない無表情を消さない。
「……別段、逆らうつもりはありませんよ」
わざとらしく間を置いてから、彼はゆっくりと口を開いた。自分より高い位置にある青い瞳を、真っ直ぐ見上げ、ニヤリと笑う。
「ただ、勘違いはしてほしくないですなぁ。いざという時致命傷になりますよー」
パッと視線を逸らし、虚空に語りかけるようにして言葉を続けた。耳にしたタキトゥスが、不快げに眉を顰める。
「何……?」
「我々の関係は、上司と部下、ただそれだけのものじゃありませんよね?課長は私を利用している。私も、あなたを利用させていただいている。複雑そうで、非常に単純な関係だ」
トワイライトは笑顔で、天井と壁の境目を見つめながら、あからさまな皮肉を吐いた。含みのある台詞に、タキトゥスが身を硬くする。
「ご安心を。私は、あなたを裏切るつもりはありません」
彼の警戒心を、分かっていて転がすように、もったいぶって微笑みかけた。
「あなたの方から危害を加えて来ない限り、誠心誠意尽くしますとも。タキトゥス課長」
両手を広げ、胸を押さえて保証すれば、ややしてからタキトゥスの目から険の色が抜ける。それをきっちりと確認すると、トワイライトは姿勢を正して締め括った。
「では、今後ともよろしくお願いしますよ。公平な間柄としてね」
いつもの腹の読めない笑みを貼り付けて、にっこりと口角を上げる。それから、話はこれで終いとばかりに片足を上げ、気取った態度で身を翻す。のんびりとドアを開け、壁の向こうへと消えてしまったトワイライトをしばらく目で追ってから、タキトゥスは深く息を吐いた。
(フェアだと……?全く、厄介な男だ)
トワイライトと彼の関係は、捜査一課がまだ二班に分かれていなかった頃から続いている。当時一介の捜査員だったタキトゥスが、課長に就任した際、その特権を使って捜査一課を分断した。全ては、トワイライトと彼を慕う部下たちを、出世争いの場から撤退させるためだ。
トワイライトは、恐ろしい男だ。いつもにこにことした笑顔を浮かべて、そのくせ内心では常に狡猾な計算をし続けている。だから、単独脱界者対策室という新たな班を設置し、彼をそこに押し込めたのだ。あんな男に、自分の出世を妨害されては堪らない。
今は権力になど興味がないというスタンスを取っているようだが、彼は本当は、飢えているはずだ。自らの力を絶えず拡大し、利益を貪り尽くさないと満足しない。そういうタイプだとタキトゥスは睨んでいる。己の邪魔をしたタキトゥスのことを、彼は恨んでいるはずだ。でなければ、仮にも上司である自分に面と向かって、”フェア”などとは口にしない。
ただの室長でありながら、インペラトルの端くれとも言える自分と、対等に渡り合うことの出来るあの男。今回の任務だって、わざと失敗を演じて責任をなすりつけてくるかも知れない。だが、彼は確かに、優秀な悪魔なのだ。彼の力なくしては、達成出来ない任務があったことも事実。タキトゥスの口内に、苦いものが込み上げてくる。
しかし彼は、効率と利益を何より求める男だ。縁を切ることが出来ないのならば、いっそ利用し尽くすしかない。こちらの思う方向へ巧みに誘導し、成果を叩き出させる。そのためならば、多少の犠牲は厭わないと決めていた。
(搾取出来るだけし尽くす……場合によってはそれが……)
トワイライトは、どんな状況でも臨機応変に対応出来る優れた悪魔だ。彼を上手く操って、自分は更なる高みへと上り詰める。あの厄介な笑顔と向き合うのも、もうしばらくの辛抱だ。
艶やかな黒髪をかき上げ、タキトゥスは気丈に笑みを浮かべた。
* * *
重たい音を立てて、ドアを閉めてから、トワイライトは息を吐いた。
脱界者取締部捜査一課課長タキトゥス。相変わらず、厄介極まりない男だ。血筋の呪縛と実力至上主義と、それに伴う血筋の呪縛が蔓延る魔界で、数少ない叩き上げのインペラトル候補。
トワイライトとも、境遇は似ている。しかし、彼とは一度も意見が合ったことはなかった。タキトゥスは、目的のためならどんな残忍な行為すらも厭わない。まさに”冷血鬼”と称されるに相応しい、鬼のような男だ。そして彼は己の力を使って、生まれつきの強者しか登れないはずの階段に、足をかけようとしている。
トワイライトは反対に、権力や出世には今一つ情熱が湧かなかった。彼にとって大切なのは、気楽かつ快適な今の暮らしで、何かに縛られた生活は嫌いなのだ。
しかし、タキトゥスはトワイライトの言い分を中々信じない。今でも、トワイライトのことを非常にライバル視しているほどだ。本気を出せば、自分のことなど簡単に追い抜ける相手だと、過大評価している。だから、ことあるごとに面倒な案件を押し付けたり、些細な失敗の責任を問うてきたりするのだ。非常に迷惑極まりない。だが、それならばそれで利用するのも一つの名案だと、トワイライトは判断した。
こちらが気に入らなければ、いつでも取って代われると匂わせ、要求を飲ませる。代わりに、タキトゥスには得のない案件を進んで引き受け、功績を献上する。それが、暗黙の内に彼らの間に締結された、取引だ。
ほとんど彼の奴隷のような立場だが、別段不満はない。彼に逆らう気も。彼に従ってさえいれば、居場所も部下も手に入る。上を目指すことも、下から脅かされることもない。ただ、快適に生きていける。だからトワイライトは、彼に尽くすことを選んだ。トワイライト以外の、単独脱界者対策室のメンバーは知らない事実である。
とはいえ、面倒であることは面倒であるのだけれど。
(ただ自由を求めるだけなのに……苦労するとは、辛いね。彼が裏切ってこなければいいけど)
胸中で独り言を漏らしながら、トワイライトは溜め息をついた。
「……ま、その時は、その時か」
ある程度の諦観すら、時には有用だ。
都合の良い論理を弄びながら、彼は人気のない廊下を歩く。この端にある、単独脱界者対策室のオフィスを目指して。
* * *
「合同任務………ですか?」
トワイライトから渡された、簡単な資料を読み、カーリは首を傾げる。その様子を見て、エンヴィスが思い出したように口を開いた。
「そうか。お前は参加したことなかったか。初任務ってわけだな」
「は、はい。そうなるみたいですね」
カーリは頷き、曖昧な返事をこぼす。そして、気恥ずかしそうに笑った。
「ちょっと緊張します」
「別に、そんな大したもんじゃないと思うぜ?こう言っちゃなんだけど、こっちの仕事の方が案外楽だったりするから」
エンヴィスは機嫌がいいのか、やけに優しい口調で彼女を宥めた。
「エンちゃん、何かいいことあったの?怪し~い」
普段の様子とは明らかに違う彼に、レディが不審感を露わにして見つめる。
「当てたげる。それでしょ。スマホ。新しいやつ」
「おっ、これのことか?新発売だ。pEARphone16。しかも、早期予約者限定スペシャルモデル!」
見事触れて欲しかった事項に水を向けられたエンヴィスは、待ってましたとばかりに目を輝かせて語り出す。心底嬉しそうに提示された携帯端末には、人間界の会社のそれとよく似た、欠けた梨のロゴが入っていた。
「へぇ。カッコいいですね」
「フッ、だろう?」
「いや、この前もそんなこと言って買ってたじゃん、似たよーなやつ」
青色のスタイリッシュなボディを眺めて、本心とお世辞の中間のような言葉をカーリは発する。自慢げに頷くエンヴィスに、レディがオタクに向けるような呆れた眼差しを注いだ。
「スマホなんて、一台あれば十分じゃない。エンちゃん、ほんと新しいもの好きだよね~。オタクだぁ」
「前買ったのはタブレット。スマホはバッテリーがへたってたから買い替えたの。それに、オタクを悪口みたいに言うな」
よほど納得がいかなかったのか、エンヴィスは向けられた言葉の全てを拾い上げ、的確にツッコミを入れる。コントのような掛け合いを見守るカーリの視線も、そろそろ慣れてきた者のそれだ。
「それで、合同任務って何をすればいいんです?」
上手い具合に話の軌道を元に戻すと、エンヴィスが再び口を開いた。
「あー、今回はここに書いてある通り、周辺警護だな。ターゲットの潜伏拠点にタキトゥスさんの班が突入するから、俺らは、そいつらが逃げ出さないか見張っていればいい。簡単な役目だ」
トワイライトは、先ほどタキトゥス課長から告げられた業務内容と、認識が食い違わないか確認しながら聞く。
「戦闘の可能性のない、安全な任務だな。お前でも、安心して参加出来るぞ。とはいえ、簡単だと思って気を抜き過ぎるのも良くはないが……う~ん……少し妙だな」
「え?」
資料をペラペラと捲りながら、概要を把握していたエンヴィスが、ふと疑問の声を上げた。
どうしたの?と言いたげに、レディが声を上げ、カーリが彼を見つめる。
トワイライトだけは、彼の意見を察知したかのように、意味ありげな視線を送っていた。
「いや……まず何でこいつら、急に根拠地を変えたんだ?しかも、それまでは積極的に活動していたのが、ひっそり静かに隠れてるって、何か変じゃないか?理由が分からない」
3人の視線を受けたエンヴィスは、顎に手を当ててやや考え込みながらも、自身の感じた違和感を述べる。その眉は、訝しげに寄せられていた。
「構成人数も大幅に減少……まぁ、それでも結構な数の悪魔がいるみたいだが、もっと詳しく調べてからの方がいいんじゃないのか?」
彼が示す、組織の構成人数の表を見る限りでは、確かに一年以内に、所属する悪魔の数が半分ほどに減っていると分かった。
「ライバルグループとの抗争が泥沼化し、縮小と予想って書いてありますけど」
「それはあくまで予想、だろ?」
カーリの言葉にも、彼は尤もな意見を打ち返す。そして、両手で空間を切るような仕草をしながら、整然と理論だった主張を述べた。
「ユリウスさんの時代から、生き残り続けてる組織なんだとしたら、相当優秀なブレーンを抱えてるってことになる。ちょっと敵対勢力と揉めたぐらいで、半壊するとは思えない。タキトゥスさんは、本当は何考えてるんだ?……例えば、他に何か裏の事情があるんじゃないか?その上で、あえて俺たちに協力を求めているんだとしたら?あの人が俺らにさせたい仕事って、本当は警護なんかじゃないんじゃないか?」
仮説的ではあるが、確かに納得の出来ないことはない理屈に、カーリは口を挟めなかった。適切な反論の声を探して口を無駄に開け閉めしている内に、突然レディが笑い出す。
「考え過ぎだって、エンちゃん」
彼女には、エンヴィスの言い分は怪しげな都市伝説のように思えたのだろう。確実な証拠はなく、予測の話でしかないのだから、それもまた当然だ。
「いや、そうとも言えないぞ」
だが、そこへトワイライトが割り込む。長年冷血鬼タキトゥスという男を見てきた者の直感は、無闇に打ち捨てるべきではないと判断したのだ。
「タキトゥスさんは、決して油断してはならない相手だ。もしかすると、本当のことを話せば、危険だからと見送られる案件を、無理にでも成功させようとしているのかも知れない。多少強引な手を使ってでも、彼らを検挙し、出世の手土産にするつもりかも」
相手は、あの冷血鬼タキトゥスだ。高い目標を持ち、その達成のためならば、どれほどの犠牲も厭わない男。自らの決断を実行するのに、何ら躊躇いのない人物なのである。
己の出世のために、分かっている危険に飛び込むことも、あり得ないとは言い切れない。彼は非常に頭の切れる男だ。もし万が一、窮地に陥ったとしても、自分だけは生き延びる手段を確保しているはずである。場合によっては、必要なだけ、正当な理由付きで犠牲に出来る部下たちの用意も。例えば、トワイライトたちのような。
「え……じゃあ課長は、何かを知っているのに、黙っているってことですか!?」
彼の言わんとしているところを理解したカーリが、顔面蒼白になって叫んだ。その声音はあまりの驚愕に、裏返ってしまっている。
「一つの、可能性の話だがね」
肯定なんてしてほしくない。彼女の内心の願いは、こんな言葉では叶えられないだろう。だが、そこに少しでも存在する以上、可能性が全くないとは言い切れないのだ。
「本当はどうなの?」
とはいえ、レディには若干難しい話だったらしい。タキトゥスの言葉に嘘があるのか、裏の狙いなどないのか、彼女ははっきりと知りたいようだった。
「それは誰にも分からないよ。今はまだね」
それもまた叶わない願いだと、トワイライトは曖昧に首を振る。あからさまに不満げな顔をしたレディと、分かりやすく不安げな表情のカーリを慰めるために、彼は思い切って言い切った。
「これから、少し調べてみるとするよ。あまり当てにはしないでほしいが」
「私も、それらしいことを知っていそうな知り合いが、何人かいるので当たってみます」
多少顔色を明るくする彼女たちを横目に、エンヴィスも加勢の申し出をしてくる。許可を与える必要もないことなので反対はしないでおくが、忠告だけはと念押しをしておいた。
「エンヴィスくん、それは構わないけど、決して相手の方や君自身を、危険に巻き込まないようにね」
「分かっています」
しっかりと彼が断言するのと見届けてから、トワイライトは席を立った。これから、組織的脱界者対策室で会議なのだ。ターゲット逮捕の当日の具体的な流れについて、詳細を決めていくこととなる。
タキトゥスは本当に真実を隠しているのか、だとしたらそれは何なのか。それとも、ただの疑心暗鬼なのか。少しは答えに辿り着けることを祈りながら、トワイライトは再びオフィスを後にした。
* * *
「タキトゥス課長……何考えてるのかな」
その夜のことだ。カーリはレディとエンヴィスと共に、近くの中華料理店に来ていた。
早めの夕食兼、今回の件に関する雑談、という目的なのだろうが、既に二人は完全に食べる方に思考がシフトしてしまっている。
「まだそれ言ってるの?カーリ」
いい加減同じ議論を繰り返すのに疲れてきたレディが、げんなりとした顔でテーブルに突っ伏した。カーリは、彼女の腕に潰されないようエビチリの皿を救助しながら答える。
「だって、私には、タキトゥス課長が、そんなに悪い人には見えなかったし」
「あのなぁカーリ」
春巻きの皮を巻きながら、エンヴィスが口を挟む。
「悪魔なんだから、基本的に悪いに決まってんだろ。自らの欲望のために、手段を選ばない連中なんか、腐るほどいる」
「それは……その通りなんですが」
悪魔とは、そういう生き物だ。
この世界に来てからというもの嫌というほど身に染みて分かっている事実に、カーリは歯切れの悪い曖昧な同意をした。
「それに、タキトゥスさんが何か知ってるかだって、まだ掴めてすらない不確定な事実だからなぁ」
エンヴィスは話しながら、手元に目を落とし巻き終わった春巻きをばくりと一口で平げた。
「本当は、何も裏なんかなくてただの警護任務、って可能性も、あり得る」
「そうなんですか?」
「さぁな。それすら分からねぇよ、今のところは。だから調べてるんじゃねぇか」
どう考えても大き過ぎるサイズだったのに、よく食べられたものだと内心訝りながら、カーリは尋ねる。けれど、エンヴィスは投げやりに肩を竦めるだけだった。
「何か、分かったの?」
「まーだ。今は、種蒔きの最中だからな」
ラーメンを啜りながら質問するレディに、彼は天井を仰いで答える。聞き慣れないワードに、二人は首を傾げた。
「情報は、そんな簡単に手に入らないんだよ。草花と同じでな」
「エンちゃん草とか育ててんの?」
「まぁな。ハーブを少し。妹に勧められてさ」
恐らく、情報を提供してくれるなら見返りを渡すなどと、交渉の途中なのだろう。独特の語彙で喩えるエンヴィスの意図を理解するカーリの傍で、レディがズレた話題を振っていた。
「合法のやつ?」
「当たり前だろ。俺を何だと思ってんだ、お前」
冗談めかしたやり取りを聞きながら、カーリは少し驚いていた。エンヴィスに妹がいるとは、初耳だったからだ。意外のような気もするが、どこか納得も出来る。子供や年下の扱いに慣れているから、レディの突飛な行動にも、付き合えるのだろう。
そんなことを茫漠と考えていると、レディとの会話を切り上げたエンヴィスが、こちらに体を向けてきた。
「だからお前も、そこまで真剣に考える必要はないってことだ。せいぜい、何が起きてもいいように備えとく、くらいしか出来ないんだから」
隣ではレディが、エンヴィスの皿から肉まんを強奪しようと手を伸ばしている。が、エンヴィスに手の甲をぺちんと叩かれ、撃退された。
「事実が何にせよ、俺たちサラリーマンは上の命令には逆らえないんだ。理不尽なことだがな。それが世の中の常ってもんだよ」
彼は平然とした顔で、皮肉なことだな、と笑いを漏らす。そして、レディに盗られかけた肉まんを頬張った。「あー」とかいうレディの嘆きが聞こえる。
「そう、ですよね……」
カーリは見かねて、自分用の酢豚を彼女に分けてやりながら、頷いた。
エンヴィスの言っていることは、確かに正論だ。与えられた仕事である以上、成功させるしか道はない。裏に何が隠されているにせよ、失敗のないように対処して成績にするしかないのである。自分たちに出来ることは、ただ異常に備え警戒しておくことくらいだ。カーリとて、それは分かっている。だが、理解というだけでは飲み込みきれない感情があるからこそ、黙ってはいられない。
どう言語化すべきか分からぬ意見を頭の中でこねくり回すが、いい回答は見当たらない。悩んでいる間に、エンヴィスの買い替えたばかりのスマートフォンが、通知音を鳴らした。
「お。情報源、一匹釣れた……じゃ、ちょっと行ってくるわ。あとは、お前ら二人で好きなだけ食えよ。今日は奢ってやる。気をつけて帰れよー」
内容を確認するなり、彼はさっさと会話を切り上げて席を立ってしまった。置いていかれたカーリは慌てて、彼の背中を目で追うも、既に視界は悪魔の海。この時間帯の店は混んでいて、目的の相手を見つけることは出来なかった。いや、例え目では見えていたとしても、辿り着くのに手間取って、見失ってしまうことだろう。
「あー……エンヴィスさん……」
カーリも早々に諦め、椅子に座り直すと軽く息を吐いた。
「カーリ、奢りだってよ。次何頼んじゃう?甘いのとかいっちゃおっかな~」
レディは正反対に嬉々とした顔を輝かせて、エンヴィスが置いていった数枚の紙幣を数えていた。残りの金額で何を食べられるか計算をしているようだ。スマホの電卓機能を使って助けてやりながら、カーリもメニューを一瞥した。
「アンニンドウフ……頼もうかな」
「あっ、いいねぇ~!」
呟いた言葉にレディが賛成する。注文をして、商品が届くのを待ちながら、カーリは胸の中でぼんやりと考え事をしていた。
(何があっても対処出来るように……って、きっと戦いになることもだよね……?) 脳内に、ミルやアッシュを捕らえた時の記憶が蘇る。戦えない自分がいることで、トワイライトたちには多大な迷惑をかけてしまった。いい加減、自分の身くらい自分で守れるようになりたいのだが、中々それも難しい。一体何をしたらいいのか、全く分かっていないのだ。
(でも、やっぱり……駄目だよね)
分からないを理由にして、いつまでも逃げるのはやめなければ。でなければ、大切な彼らを失うかだ。自分に居場所をくれた、貴重な理解者たちを。
(何でもいい。戦える方法を探そう。例えそれが……どれほど苦しかったとしても)
強くなれない自分が、いつまでも足手纏いでいることは出来ない。何より、自分自身が許せないだろう。だから、今回の任務に賭けるのだ。新たな、最後の努力を試みる。
「わ~っ、カーリ、美味しそうだよ~!早く食べよっ!!」
カーリが内心で決意を固めている間に、いつの間にか提供されていたアンニンドウフやごま団子を指して、レディが歓声を上げる。
「そうだねっ!」
もしも叶わなかったら。きっとこれが彼女と最後の、”同僚”としての食事だ。
思い切り楽しむと決めて、カーリは手元のスプーンを摘み上げた。
* * *
その日から、一週間が経つのはあっという間だった。
いつにも増して、飛ぶように過ぎていった日々のことはカーリもよく覚えていない。
ただ彼女のカバンには、いつもとは違う物が一つ入っていて、そのことだけが誇りだった。だからいつもの満員電車にも耐えられたし、街中を歩く時胸を張っていられた。気分的なものであるとは分かっていたが、それでも気分は大事なのだ。
「諸君、では行こうか」
オフィス最奥のデスクから立ち、トワイライトが声をかけた。そろそろ、任務に向かう時間である。
「了解しました」
「よーっし、頑張るぞー!」
「分かりました」
エンヴィス、レディがそれぞれ返答を発するのを聞きながら、カーリも席を立つ。魔法で容量を広げたポーチに、タブレットやその他忘れ物がないか確認しつつ、最後に”それ”をこっそりとポケットに忍ばせた。
「お先にどうぞ」
「ありがとー、トワさん」
「恐縮です」
一足先に入口に歩み寄ったトワイライトが、ドアを開け部下たちを先に行かせる。彼らに従ったカーリが、隣を過ぎるのを見て、トワイライトはかすかに眉を顰めた。
「……?」
(何だ……?この感じ。カーリくんから……?)
肌に触れる、今まで感じたことのない魔力の気配に、疑念がさざめいた。しかし、一瞬のことだったので、よく分からない。
「トワイライトさん?」
「あぁ、いや、何でもない」
立ち止まったままの彼を訝しく思ったのか、エンヴィスに呼びかけられ、トワイライトは我に返った。振り向いて彼らのもとへ戻りつつ、胸の中に湧いた感情をメモしておく。
(大した魔力じゃなかったが……万が一の場合もある。心に留めておいた方がいいだろうな)
そんなことを考えながら、目的地を目指す。今までの案件とは違って、ターゲットは魔界にいるのだから、越境の術式は必要ない。潜伏先の都市アルテポリスまで、転移すればいいだけだ。
エレベーターは使わずに、同じ階にある組織的脱界者対策室の会議室まで向かう。オフィスと簡易な資料庫しか持たない単独脱界者対策室と違って、彼らはオフィスの他に、大きな会議室をいくつかと、別の棟に専用の資料庫を持っているのだ。
100人は入れるだろう広大な部屋を見て、レディが感心の声を上げる。大量の長机は全て壁際に寄せられ、中心に大きな魔法陣が描かれていた。成人男性が5人ほど入れそうな巨大な方眼紙に、赤いインクで術式が描かれている。ざっと見ただけではあるが、シンプルな転移陣だと分かった。これで、目的地まで転移出来るはずだ。
「お疲れ様です!」
「アルテポリスへの転移ですね!すぐに準備致します!」
「ご協力、感謝します」
「あぁ、お疲れ。そうなんだ、よろしく頼むよ。ありがとう」
トワイライトの姿を認めるなり、数人の悪魔たちが話しかけてきた。誰も皆、目を輝かせて顔を明るくしている。まるで、憧れの人物に会えたような反応だ。
「トワさん、モテるじゃん。むさい男にばっかだけど」
「おい、失礼だろ。どっちにも」
ボソリと呟いたレディに、エンヴィスが叱責を飛ばす。トワイライトは、苦笑していた。
「元々は、ここで働いていたわけだからね。タキトゥスさんが課長になって、行った改革で捜査一課が二つに分かれた。私はその地位をもらったというだけだよ」
「トワイライトさんは、凄かったんだぞ。タキトゥスさんの班に次ぐ、功績二位だ」
「そうなんですか!?」
「へ~ぇ」
あえて何でもないことのように説明したのに、エンヴィスが全て台無しにした。まるで自分のことのように、上司の功績を讃える彼に、カーリも驚いて、トワイライトを見遣る。周囲の悪魔と同じような、賞賛を含んだ視線を受け、トワイライトは内心顔を顰めた。レディだけが、全く何も理解していない表情で、ぼんやりとしていたが。
「じゃあ、トワさん、課長には負けたんだ」
「レディちゃん!」
爆弾のように落とされた、あまりに度が過ぎた失言に、カーリまでもが高い声で彼女を叱る。いくらトワイライトが温厚な悪魔とはいえ、礼節を欠いていい相手ではない。優しい相手の怒るところなど、見たくはなかった。
「ふふっ……あっはっはっは!!その通りだねぇ!」
しかしカーリの恐れに反して、トワイライトは目を丸くし、しばし固まった後、突如大きな声で笑い始めた。最高に面白いジョークでも聞いたように、口を開けて手を叩いている。予想外にも程がある反応に、エンヴィスもカーリも、不意を突かれた顔をしていた。
「まさに、その通りだ。いいことを言うね、レディくん」
「でしょ?」
レディは一人、褒められたと得意げに、胸を張っている。トワイライトはそんな彼女を見てまた少し笑うと、口を閉ざして思考に耽った。
万年二番手の自分を、タキトゥスは何故か恐れた。トワイライトならば、いつか壁を超え自分の脅威になると。だからわざわざ別の部署を作り出し、彼を閉じ込めた。
実に、愚かなことである。
誰もが、彼を見る度過剰評価して、無駄に警戒心を割く。意味のない行動に、必死になる彼らの姿は、考えてみればとても面白いものだ。優秀な悪魔たちが、こぞって自分を高く見る。実際の価値とは程遠いものを、彼らは脳裏に勝手に描いているのだ。
レディは、知らずしてその核心をついた。そのことが、トワイライトにとって耐えようのない愉悦だったのである。
未だ止まぬ笑みを堪えていると、横から一人の悪魔が声をかけてきた。
「あ、あの、準備完了しました。始めてよろしいですか?」
「あぁ、お願いします」
どうやら、無事に転移陣の発動の用意が終わったらしい。こちらを見遣る職員たちの顔は、突然笑い出したトワイライトへの恐怖で、やや強張っていた。エンヴィスだけはいつものことだと慣れているので、上司に代わって対応をする。何事もそつなく対処出来る部下の存在にトワイライトは感謝し、同時に少しでも真面目な表情を作るべく顔の筋肉を引き締めた。
「それでは、転移を開始します。お気を付けください」
確認を終えた悪魔たちは、いよいよ魔法の行使に向けて待機する。端の方で長机に機材を並べているのは、捜査一課の者ではなく、出張で来た転移管理部の悪魔たちだろう。事務的な口調を聞き流しながら、カーリは気を引き締め、任務に備えた。トワイライトも息を吸い込み、転移を待つ。しばらくじっとして立っていると、徐々に足元から淡い光が輝いてきた。描かれた術式に魔力が流れ込んでいるのだ。完全に満ちれば、転移が行われる。
「さぁ、諸君、行こうか」
吸い込んだ息を吐くようにして、トワイライトは厳かな声を出した。一応、締めるべきところは締めておきたい性分なのだ。
「仕事の時間だ」
その言葉を発するか否かというところで、光が一際強くなり、彼らの姿は見えなくなった。明滅する粒子が周囲を取り囲み、意識が一瞬遠くなったかと思うと、全身を包む光が一気に消失する。瞬き一つの時間で、転移はあっという間に完了だ。
「着いたー!」
「うるさいぞ」
後ろで、レディが嬉しそうに叫んでいる。エンヴィスが宥める声もする。総員無事に転移完了したようだ。
「ここが、アルテポリスですか………?」
目の前に広がる大通りを眺めて、カーリが呆然とした声を出していた。
「何か、思ってた感じと違いますね。お店が一杯。あれは、モールですか?」
「アルテポリスは、ハデス周辺都市の中でも有数のショッピングタウンだからな」
太い道路の先に見える、白色の大きな建物を指して問う。答えるエンヴィスの言う通り、アルテポリスは大手アパレル企業や有名グループのショッピングモールが多数展開する、大規模な商業都市なのである。比較的リーズナブルな価格帯の店が多いために、大抵の一般市民はここ一つで必要なもの全てを買うことが出来る。尤も、エンヴィスのような高級志向の悪魔には、あまり縁のない都市であったが。
「アタシ休みの時よく来るよー。電車でも一時間くらいで来れるから、便利だし楽しいよね!」
「一時間か……お休みの日だったら、映画とか見ちゃうかも」
逆に、プチプラなどを愛するレディには、過ごしやすい街のようだ。休日の楽しみに、話題が完全に逸れる前に、トワイライトは軌道修正を図る。
「我々の配置場所は、あのビルだ。屋上が、カーリくんとレディくん。建物内を巡回するのがエンヴィスくん。私は、一階のカフェで待機する。全て、事前に計画した作戦通りだ。何か質問はあるかね?」
道沿いに立ち並ぶビルの中の、一軒を指で示す。小洒落たカフェと、こじんまりしたブティックが詰まった雑居ビルだ。白い壁の綺麗なデザインが、霞むこともなく悪目立ちすることもなく、街並みに馴染んでいる。
念のため各々のポジションをもう一度繰り返してから、疑問がないか確認をする。誰も何も言わないことが分かると、総員で目的地へと向かった。
ビルに近付くにつれて、周辺の監視や警護にあたる同業者たちが目に付く。組織的脱界者対策室の、メンバーたちだ。タキトゥスの姿は見当たらない。課長であり室長も兼任している彼ならばここにいるかと思ったが、予想が外れたようだ。
「いませんね、タキトゥス課長」
隣を歩くエンヴィスが、魔法の言葉を伝達してくる。カーリやレディに口を挟まれるのを避けるためのようだ。
「そのようだな。突入班の方にでも、チェックに行っているのかな」
トワイライトも、あえて逆らいはせずに同じ方法で答える。それ以上言葉を続ける前に、カーリたちが立ち止まった。
「ここですよね。屋上は……あの階段でしたっけ」
入手した見取り図をタブレットに表示させながら、カーリが確認をする。カフェの隣に伸びる、細い通路の奥に狭い階段があった。関係者以外が迷い込まないよう、わざと地味に作っているのだろう。日の光が入らず、薄暗い廊下へ、レディが大胆に踏み出した。
「だね。早く行こ、カーリ!」
「ちょ、ちょっとレディちゃん……」
せっかちな彼女に腕を引っ張られ、カーリが慌てふためく。
「気を付けるんだぞ、二人とも」
足早に階段へと向かっていく彼女たちの背中に呼びかけるが、カーリはかろうじて振り向くだけでそのまま引き摺られていってしまう。置いて行かれたトワイライトとエンヴィスは、呆れに満ちた苦笑をこぼす。
「やれやれ……仕方ないな。レディくんは」
「人の話ぐらいちゃんと聞くべきですね」
「ま、何でもいいさ。危険な目に遭わなければ」
首を振って嘆く彼に、エンヴィスが全くもってその通りだと同意を示す。大袈裟なほどの反応にまた少し笑んだ後、トワイライトはおもむろに顔を上げた。
「さぁ、我々も持ち場に向かうとしよう」
「結局、タキトゥスさんの狙いって何だったんです?」
腰に両手を当て、張り切った演技をして発言すれば、エンヴィスから唐突に尋ねられる。ストレートな質問に、トワイライトも言葉遊び抜きで返答した。
「分からない。それなりに手は尽くしたが、情報など何一つ出てこなかったからね……」
「やはりそうですか……仕方ないですね」
「あぁ。こうなったら、本当に我々の仕事はただの警護任務で、何も起きず平穏に仕事を終えられることを、祈るのみだ」
どうしようもないことはある、と胸中で漏らすトワイライトに、エンヴィスも似たような顔をして頷く。後はただ、大人しく覚悟を決めて、あらゆる事態を想定しておくこと。それが、最後の悪あがきというものだ。
「じゃあ、私はそろそろ行くよ。何かあったら、すぐに連絡してくれたまえ。よろしく頼むよ」
「了解です」
話が途切れたタイミングを見計らって、トワイライトはカフェの方へと歩み出す。即座に応対するエンヴィスの声を聞きながら、彼はそっとショーウィンドウのガラスに映る、怪しげな人影を確認した。
* * *
「ほらこっちだよ、カーリっ!」
「いや……ちょっと待ってったら……はぁ」
レディに連れられ、屋上へと辿り着いたカーリは、息を切らせて俯いた。
運動不足の身体には、階段を上るという作業も酷なのに、彼女のペースに合わせるとなると相当の地獄を見る羽目になる。全力疾走をしたかのようにジクジクと痛む脇腹を押さえ、しばらく必死に呼吸を整える必要があった。
「もう~、カーリったら、つまんないんだから~。競争しよって言ったのに、ちっともついてきてくれないんだもん」
「当たり前だよ……レディちゃんに合わせられる人なんていないでしょ」
張り合いがない勝負だったとむくれる彼女に、カーリはげんなりとしつつ言い返す。もはや若干の苛立ちすら含まれた声だったが、レディは全く気にせずに、背中を向けた。
「ん~、でもここからじゃ、フェンスが邪魔で見えにくいね」
彼女が言う通り、ビルの屋上は薄緑色のフェンスで囲まれ、高い安全性を保っていた。
「飛び越えちゃう?」
「危ないからやめて。それに、これだけ高いと越えるのも苦労するんじゃない?」
にっと笑って、フェンスを親指で指すが、カーリの対応は冷たい。だが、まさしく正論とも言える答えに、レディはまた言葉に詰まった。
「う~~~ん……じゃあ、どうしよう?」
「普通に見ればいいんじゃないかな。だって、逃げたりする悪魔がいないか見張るってことでしょ?それらしいのがいたら、すぐ分かるよ、きっと」
問いかけられても、カーリには曖昧なことしか返せない。彼女にも、実のところはよく分かっていないのだ。トワイライトたちと仕事をする中で、怪しい悪魔はそれなりに見抜けるようになってきてはいるが、かといって確実に当たるかどうかは分からない。例えば、慌てふためいて逃げる者や、キョロキョロと周囲を警戒するように見る者がいたら、判別は出来る。しかし、あまりにも普通に自然に振る舞われた場合というのは、まだ対処法を身につけられていなかった。
「トワイライトさんたちもいるし。大丈夫だよ」
だからつまるところ、そんなことしか言えないのである。
「そっか。そうだね!」
純粋なレディは、心苦しい説明でも理解を示してくれたようだ。頑張るぞ~と呟いて階下を覗き見る彼女の横で、カーリも辺りを見回していた。
少し視線を走らせると、とあるビルが目に付く。斜向かいに立つ、小さなビルだ。この建物だけが、小綺麗に手入れされた周囲と違って、古びて薄汚れていた。あまりにも景観に馴染まない様相だが、非合法な生活をする連中には住みやすいのかも知れない。ターゲットの脱界提供組織は、数ヶ月前から、ここに潜伏している。長年改修もされていないボロい建物の地下に、ひっそりと身を寄せ合って。
地下へと続く階段への入り口が、捜査一課の悪魔によって塞がれているのを見たカーリは、その周りにも視線を巡らせた。先ほどは気が付かなかったが、何度か見たことのある悪魔が複数、広い歩道に展開している。誰も皆警戒した目つきで、かといって通行人には悟られないような顔で、辺りに気を配っていた。
「いつ突入すんのかな~?」
フェンスに片足を引っ掛けて、ぶらぶら身体を揺さぶりながら、レディが呟く。危ないよ、と彼女を窘めながら、カーリも手持ち無沙汰な時間をどう使おうかと思案した。
「そうだった」
「ん?どうしたの?カーリ」
ふと、思い出したと声に出せば、訝しんだレディがこちらを向いて尋ねかけてきた。カーリは言葉では答えずに、腰につけたポシェットを開けると、中のある物を握り締める。先ほど、オフィスを出る際に忍ばせてきた、キーアイテムだ。せめて自分の身くらいは、自分で守りたいと思って買った物である。
「一昨日ね、届いたの。ネットで買ったんだけど、結構使えそうなんだよ」
取り出した手を、ゆっくりと開いて中に包まれたそれを見せる。レディが、怪訝そうに眉を寄せて首を傾げた。
「何?これ?」
「ふふ、これはね……」
尋ねられたカーリは、少し嬉しそうに手を差し出し、握ったものを彼女に見せる。
外見上は、ただの小さな筒だ。黒いプラスチックの本体に、ボタンやらダイヤルやらがいくつかついている。底面の片側からは、カメラのレンズのようなものが覗いていた。取り付けられたストラップに手を通し、アジャスターを調節すると、小さなそれは彼女の手首にぴったりと固定された。ダイヤルの一つを捻り、ボタンを押せば、レンズから細く赤い光が漏れ出てきた。
「うわっ、何これ!?」
一直線に胸の中心へと伸びる光の軌道を見て、レディが驚きに飛び退る。
「スナイパーみたい!」
「そう。これ、こんなにちっちゃいけど、魔導銃なの」
感嘆して叫んだ彼女の言葉を、カーリはまさにその通りだと肯定し、説明を加えた。
「ボタンを押せば、周囲に漂ってる魔力を自動で吸収して、撃ち出してくれるんだって。自分の魔力を使うわけじゃないから、私みたいな悪魔でも、簡単に撃てる便利なアイテムなんだよ」
話しながら、そっと指を手首に伸ばし、つるつるした側面を撫でる。
「このダイヤルで威力を調節出来るんだ。例えば、装填出来る限界まで魔力を入れたとしたら……相当な威力になるみたいだよ」
「へぇ~。なんかすっごいね」
赤いレーザーを薄緑色のフェンスに向けながら、カーリは微笑む。曖昧な反応を見せていたレディは、ふと思い出すと、彼女の腕を掴んで疑問をぶつけた。
「でもカーリ、そんな強そうなアイテム、ちゃんと使えるの?」
「使えると思うよー。これ、使いやすいって評判なんだってさ。自分じゃ魔法使えるほどの魔力持たない悪魔たちに、大人気」
レーザーを避けながらこちらを覗き込んでくる彼女に、カーリは平然と返すと、ネットでのレビュー画面を見せる。
「うわ、ほんとだ」
「でしょ?だからこれならきっと私でも、ちょっとは使えると思うんだよね!」
レディが再び驚愕の声を上げるのを聞き、彼女はまるで自分のことのように自慢げな顔をして、胸を張った。
「これで私も、自分の身くらいは守らなくちゃ。皆に迷惑かけられないよ、いつまでも」
「カーリ……無理しないでね」
「分かってる。ありがと!」
はっきりとした強い意志を感じさせる声で呟く彼女を、レディはちらりと見遣る。いくら護身用といっても、相手を傷付ける力を持つということである。彼女にそんな手段を持たせて良いのか、トワイライトに報告するべきか、単純な心配が、彼女の瞳を満たした。
だが、カーリは心の負担が軽くなったと喜び、燦然とした笑顔を振り撒いている。彼女のその表情や、以前の罪悪感に塗れた顔を見ていたからこそ、レディにはそれ以上反対する言葉を紡ぐことは出来なかった。
「あ、あれってタキトゥスさんの部下の人?」
抜け切らない憂いを含んだ視線を放つレディには気が付かず、カーリはフェンスに近寄ると、地面の方を見つめながら声を上げた。
眼下の大通りは、それぞれの目的地あるいは駅へ向かって、歩く悪魔たちで賑やかだった。だがその中に紛れ込むようにして、周囲を観察している様子の悪魔たちが目に入る。ここから見ただけでも、五、六人はいるだろう。突入班とは別に、ターゲットたちの監視や、通行人保護のために待機している悪魔たちだと思われた。
「突入はまだかな……?あっ」
カーリが声に出すのと同時に、どこからか銀髪の女性悪魔が現れる。何もない空間から突如出現したように見えたのは、恐らく幻術で姿を隠していたからだ。
「スワンだ!」
「スワンちゃんも、突入班で参加してるんだね」
共通の友人を見つけたことで、カーリたちは若干テンションを上げる。長い銀髪を高い位置で一つにまとめ、サーコートを纏ったスワンは、いつ見ても女軍人のような格好よさを放っていた。
「冷血鬼はいないのかな?」
レディが首を巡らせて探すので、カーリも一緒になって辺りを見回す。
「どうかな~?ここにはいないんじゃ……」
指揮官である彼が、わざわざ現場に赴くとは考えにくい。どこか他の場所で、全体の状況を把握しているのではないかと、カーリは思う。
『カーリくん、レディくん。聞こえているかね?』 「トワさん!」
だらだらとした緊張感のない会話を繰り広げている彼女たちのもとに、突如トワイライトからの魔法の通信が飛んでくる。ぼんやり観察するだけの退屈な業務から、一刻も早く解放されたかったのだろう。レディが嬉々とした様子で応答した。
『たった今タキトゥス課長から連絡があった。十五分後に突入だそうだ。まぁ何事もないだろうが、君たちも気を付けて、任務を続けてくれたまえ』
「了解しました。トワイライトさんたちも、お気を付けて」
対するトワイライトが口にするのは、感情など排した、ビジネスライクな報告である。仕事中だから当然のことだが、不満そうな顔をしてみせるレディに代わって、カーリが答えた。
『あぁ、分かっているさ。しかし……何事も起こらないと良いがね』
トワイライトが紡ぐ言葉は、何故かいつもより気怠げで、厭わしそうな調子だ。声を溜め息の中に溶け込ませ、深々と吐き出している。まるで、何かが起こることを知っているような彼に、カーリはえも言われぬ不安を覚えた。だが、トワイライトに尋ねる前に、彼との通信は途切れてしまう。
「あっ、トワイライトさん!」
慌てて呼びかけるが、既に魔法の通信は切れているのか、トワイライトからの返答はなかった。
「どしたの?カーリ」
再び、先ほどのような声をレディに投げかけられるが、カーリは答えることなく、ただじっと眼下を見つめる。青々と輝く魔法の空が、燦々と眩い光を注ぎ込んでいた。
* * *
「ふぅ……」
カフェの椅子に思い切り体重を預けて、トワイライトは軽く息を吐く。砂糖を入れていないアイスコーヒーをかき混ぜて、一口飲むと、意外にも深いコクが感じられた。奥のカウンターにいる、女性マスターが淹れたものなのだろうか。
ゆっくり味わいたいと思っていたのに、並べられた観葉植物の裏側で、何かが蠢く。相変わらず、彼らはこちらを監視し続けているようだ。正体を暴き出してやりたいが、そんなことを許す悪魔たちならば、尾行などはしないだろう。先ほどまでは、どうにか撒こうと無闇に店を出入りしたり、裏路地まで逃げ込んだりしたのだが、それももうやめだ。これほど面倒かつ疲れる作業に時間を費やしていたくはない。もはや気にせずくつろいでやろうと、半ば意気込んでカフェに戻ったのが数分前。巻かれそうになって焦っていたはずの連中は、また性懲りもなく、トワイライトのそばへ戻ってきたらしい。こちらの狙いを察知出来ないのか、躊躇っているようだ。
(全く……やることと内心が釣り合っていないにも程があるだろう)
観察対象に張り付いておきながら、気付かれた時の対応も考えられないとは、随分間抜けな悪魔たちである。かつての同胞とは呼びたくないなと、胸の中で笑っていると。
(あれ?撤退していくな)
彼らのもとに別の人物がやってきたかと思うと、悪魔たちは皆連れ立ってカフェを出て行ってしまった。
(よく分からんが……これで、監視は止まるはずだな。はぁ……疲れた)
全く意味が分からない。彼らの正体も、目的も、何一つ把握出来ずに終わってしまった。てっきり、拉致まがいの接触くらいはしてくるかと判断していたが。
ともかく、赤の他人に逐一行動を見張られる息苦しさはなくなったはずだ。トワイライトは残った困惑をコーヒーと共に流し込み、背もたれに深く体重を預ける。違和感がないことはないが、せっかく自由を手に入れたのだ。早々に解放してくれたことに免じて、追求は勘弁してやろう、などと考えていると、突然。
『トワイライト』
トワイライトのもとに、魔法のメッセージが入る。声色からすぐに相手を察知したトワイライトは、コーヒーを飲みながらのんびりと答えた。
「おや。タキトゥス課長。突入はまだですかな?」
提供されてから随分時間が経ってしまっているコーヒーは、中の氷がほとんど溶け、薄くなってしまっている。グラスに付着した水滴が、ポタポタと垂れテーブルを濡らす光景に、トワイライトはわずかに眉を寄せた。
「何か……トラブルでも?」
濡れた指先を擦りながら、皮肉げな色を含んだ視線を中空へ向ける。ここにはいない彼が、目の前に立っている光景を思い描いて。
謎の尾行に意識を割かれすっかり忘れていたが、既に突入準備が整ってから、十数分が経過していた。彼らの姿は比較的高度な幻術で隠しているが、いつまでも気が付かれずに待機していることは難しい。だから、準備が完了し次第即座に突入するというのが、当初の計画であったはずだ。それが崩れているということは、何らかの重大事態が起こったと見て間違いないだろう。
「ひょっとして、我々の進捗状況について、確認でもなさるおつもりでしたか。ご心配なく。問題なく、遂行しておりますよ。タキトゥスさんが不安に思う必要は何一つないかと」
予測のついている話を、トワイライトは決してタキトゥスに告げない。むしろはぐらかすように、のらりくらりと見当違いな報告を上げる。察しのいいタキトゥスのことだ。トワイライトの行動から、その内心を読み取ることなど造作もないはず。反論の方法など数通りも思い描いているだろう。だが彼は、意外にも沈黙を保ったままだった。声が聞こえてこないのをいいことに、トワイライトは更に追撃をかける。
「追加の業務があるのでしたら、我々でなく部下に頼む方がより確実なのでは?まだ人手に余裕はあるでしょう。念の為言っておきますが……信頼をしてくれていない悪魔に協力するほど、私は出来た人物ではありませんよ?」
単刀直入に言えば、彼はタキトゥスに協力する気など、毛頭ないのだ。誰が、自分を敵視し追い落とそうとする相手に、積極的に手を貸すだろうか。加えて、今回の任務は、トワイライトたちが依頼されて協力しているもの。与えられた、周辺警護と逃走者の監視は完璧にこなしているのだから、文句をつけることは出来ない。これ以上の仕事を頼みたいのなら、それ相応の誠意を見せるべきだ。特に、当初の予定になかった危険性の高い任務であれば。
聡明なタキトゥスなら分かっているはずだと、トワイライトはほくそ笑む。先ほどおかしな男たちに付け回された鬱憤からか、ややきつい言い方が口をついたが、気にすることはなかった。
タキトゥスの溜め息が、魔法による魔力的な繋がりの向こうから聞こえてくる。言葉のない間は、もしかすると彼が葛藤している証ではないだろうか。トワイライトに対して、敗北を認めるか否かの。
インペラトル候補でもある”冷血鬼”タキトゥスを言い負かした。トワイライトの口元が、愉悦的な弧を描く。
『……戯言はそれで終わりか?』
しかし、そこに冷や水を浴びせかけるように、地を這うような声が飛んでくる。
『トワイライト。俺はお前の下らないお喋りに付き合っている暇などないんだよ。お前に提示された選択肢は二つだけ。従うか、断るかだ』
「……ほう?」
タキトゥスのその声色は、紛れもなく、腸が極限まで煮え繰り返っている証拠だ。一体何が、そこまで彼を怒り狂わせたのかは分からない。だが、トワイライトの言い分にすぐに答えなかったのも、何か思うところがあったからなのだろう。
氷水が沸騰するような激しい怒りを向けられても、トワイライトは平然としたまま、相槌を打つ。それどころか、興味深いという感情を隠しもしない声音で、瞳をぐるりと回した。
『先刻、我々の情報分析担当官から、急報が入った。ターゲットのボス、つまり脱界提供組織のリーダーが、どこかに出かけるらしい。目的地は不明だが、恐らく、他グループとの会合に出席するのではないかというのが、我々の予想だ』
激情が鎮火したのか、タキトゥスは打って変わった冷静な声で、話を続けてくる。トワイライトは肯定も否定も示していないが、そんなことは忘れたような口ぶりだった。トワイライトも、彼の態度に拘泥することなく、耳を傾ける。そして、のんびりと足を組み替えながら、口を挟んだ。
「そんな面倒なものに出向かれる前に、さっさと捕まえておきたい……そういうことですね?」
彼のもとにまで上げられる情報なら、かなり確度の高いものだ。つまり、ターゲットのボスは既に、外出の用意を整えているということだろう。もしこちらが即座に突入したとしても、危機を悟られ、間一髪のところで逃げられてしまう可能性が高い。で、あるならば、騒ぎが起こるより先に、厄介な連中だけを捕まえてしまえば良い。
タキトゥスの目的を先読みし、薄くなったコーヒーで喉を潤しつつ、脳内にメッセージを連ねる。重々しい調子で、彼は頷いた。
『あぁ……そこで、我々が先にビル内へと突入し、速やかに彼らを確保する。無事成功すれば、部下たちの仕事も楽になるはずだ』
頭のなくなった組織は、混乱を極める。統率者のいない状態で、警察部門に突入されれば、一介の構成員たちはなす術もないだろう。きっと、まともに状況も把握出来ない内に、逮捕されるに違いない。流石、類い稀なる頭脳を持つ男、といったところだろうか。妙案を思いつくものだ。
「我々?」
だが、やや引っかかることがあって、トワイライトは首を傾げる。同意してもいない仕事に駆り出されることとは別の、疑念を晴らすためだ。
『言うまでもないだろう……お前と、私だ』
タキトゥスも、この点に関しては触れられたくないと思っていたのか、若干苦々しさの滲んだ声音で答える。それを聞いて、トワイライトは思わず目を丸くした。
「……驚きました。班へではなく、私個人への依頼というわけですか……そしてそこには、タキトゥス課長自らも同行すると」
タキトゥスは、今回の任務の責任者であり、監督者であるはずだ。高い指揮能力を誇る彼には、現場のリーダーとして、常に全体を見渡せるような立場にいてもらわねばならない。彼自身そのことをよく理解しているはずだ。だが、己の役割を放棄してまで、トワイライトについていくという。明らかに、何らかの企みがある様子。
「部下一人のみを犠牲には出来ないということですかな?いやはや、感動的な話ですなぁ」
一体何を隠しているのかと、彼は不敵に微笑みつつ問いかける。わざとらしく手を胸に当てて、相手を煽るような言葉を口にすれば、タキトゥスから鋭い声が飛んできた。
『頼むから話をはぐらかすな、トワイライト!』
まるで叱責するような、怒りを含んだ、しかし悲痛な叫びすら孕んだもの。
タキトゥスほどの男が、この程度の安易な嫌味に反応するとは思っていなかった。トワイライトは一度口をつぐみ、状況に見合った適切な言葉を探してから、再び切り出す。
「……何を焦っているのですか?」
いきなり核心に触れられて、タキトゥスはハッと我に返った。小さく息を飲む気配が、魔法越しにも伝わってくる。冷血鬼と呼ばれる男が、ここまで動揺を露わにするのは、珍しい。他に類を見ない一大事と言えるレベルだ。トワイライトは、慎重に使うべき手札を選びながら、努めて冷静に語りかける。
「あなたの計画は、全て計算通り進んでいたはずだ……幻術で身を潜め、気付かれない内に包囲、その後突入する。私たちに周知された計画は、あなたが思い描いていたものの、ほんの一部分でしかなかった。脱界提供組織のリーダーは、もう何十年もの間、組織を警察部門の追手から守り、脱界ビジネスを成功させ続けている。一筋縄ではいかない相手でしょう。だから……確実に捕らえるために、もう一つ別の計画が必要だった」
つまり、タキトゥスは当初から、こうするつもりだったのだ。外出の気配云々が事実でも口実でも、彼の中では、どうにかしてトワイライトを説き伏せ、暗殺者ごっこのような仕事に付き合わせることは確定していた。
「当然、少数精鋭だけでマフィアの本拠地に乗り込むなんて、危険が高過ぎます。反発を食らい、頓挫するのは確実。だがあなたは、今しかチャンスはないと踏んだ。原因は不明ですが、何らかの理由によって、組織はかつてないほどに衰えている。多少無理をしてでも、逮捕出来れば相当の手柄だ……またしても、出世の階段を一段上れますな」
本来であれば、彼の計画は危険過ぎて見送られるだろう。だが、タキトゥスはどうしても、ここで彼らを捕まえたかったのだろう。ユリウス部長にゴマを擦るためか、それとも生真面目な彼の性格故かは分からない。ともかく、彼は全容を明かさぬことで、強引に任務を実行に移させた。
『……目的のためなら手段を選ばない、危険な連中だ。下手に刺激を与えれば、民間人にも被害が及びかねん。出来るだけ静かに、速やかにビル内へと侵入し、ボスを捕まえる必要がある。それには、一定以上の戦闘能力、及び状況を適格に判断し行動出来るだけの冷静さを兼ね備えた者のみで従事するのが、最善であり唯一の方法だ』
タキトゥスは少しの沈黙の後、口を開く。危険な橋を渡ったことを正当化するような主張だったが、トワイライトの聞きたいことは、そこではない。
「そうは言いますけどね、タキトゥスさん。何も、あなたまで加わる必要はないんじゃないですか?」
彼にとって疑問なのは、その後なのだ。タキトゥスの意見を半ば遮るようにして、質問をぶつける。
「確かに、取り逃がし続けた組織のリーダーを、あなたがその手で捕まえたとなれば、勲功は大きい。しかし、それに伴う危険も馬鹿にならないはずです。合理主義なあなたが、メリットとリスクの釣り合わない行為をするはずがない」
タキトゥスは、非常に聡明かつ利己的な男だ。いくら出世のためとはいえ、自ら最前線に立とうとは思わないだろう。そもそも、指揮官としての能力に長けた彼には、敵から身を守るための十分な手段がないのだ。戦わなければ生き延びられない状況に、進んで飛び込むはずがないのである。
では、何故彼は率先してトワイライトに同行しようとしているのか。考えられる答えは、一つだ。
「あなたはまだ……何かを隠していますね?」
トワイライトは、すっと視線を上げて、何もない空間を見据える。そこにまるでタキトゥスが立っているかのように、漆黒の瞳で、真っ直ぐ射抜いた。
「何か、あなたの予想を上回るような、重大事件が起きたんだ。だからあなたはそれを、自らの目で確かめたい、いや、絶対に確かめねばならない……違いますか?」
何もかも計算通りだったタキトゥスの計画は、ある時突然予想外の方向に転がり始めた。それが何に起因するものなのかは、現状ではまだ分からない。だが、冷血鬼タキトゥスの仮面を叩き割るには相応しい、相当の凶変であることには間違いがない。
そしてトワイライトには、ある程度の見当がついていた。
「ターゲットの脱界提供組織は、ある日突然構成員が半数以下になるほどの大ダメージを被った。一体、何が原因だったんでしょうねぇ……彼らのボスは有能なんでしょう?少なくとも、タキトゥスさん、警察部門切っての頭脳派であるあなたが、幾重にも策を張り巡らせ、警戒するほどにはね。そんな人物がトップに座っていながら、これほどまでの酷い損失を受け入れるでしょうか。被害が深刻化する前に、手を引くと思いませんか?」
ライバルグループとの抗争など、手を尽くせば避けられるような事態を、放置するとは考えられない。被害が想定を超えた時点で、和平などの可能性を模索するだろう。だが、実際はそうはならなかった。
「答えは簡単。避けたくとも、避けられない何かだったんでしょうなぁ。例えば……天変地異とか、それに匹敵するような、凶悪な兵器、敵の襲来、とか……」
指を折りながら、考えられる可能性を列挙していく。
「……それを、確かめに行くんだ」
全てを見抜く黒い瞳を間近に感じて、タキトゥスは知らずの内に背筋をやや伸ばしていた。魔法的な繋がりのみで会話している彼らには、互いの姿は見えていない。しかし彼には、トワイライトの例の腹黒い笑みが、じっとこちらを見ている気がした。
「なるほど。では、ボスを捕まえれば、その答えも分かると」
「……恐らくだが」
己の爪を眺めながら話すトワイライトに、タキトゥスの平坦な声が届く。その反応から察するに、トワイライトの予想と彼のそれは一致しているようだ。無理もない話だろう。魔法という神秘の力を持つ悪魔たちを、一斉に薙ぎ払える存在など数が限られている。中でも、タキトゥスが必死になって突き止めようとしているものなのだから、特定は容易だ。後は己の目で、確かめるだけである。
「手を貸してほしい。トワイライト」
ここまで、直截に頼まれるとは思っていなかった。魔法の向こうで、頭を下げている彼の姿が、瞼の裏に想像出来る。あのタキトゥスが、これほどまでに殊勝な態度を見せるとは、驚きである。正直、彼のことは未だ信用出来ていないが、トワイライトにも、真実をこの目で見たいという気持ちがあった。何より、推測が本当だとしたら、早急な対応が必要だ。それこそ、任務が失敗することも厭わないほどの。
「仕方ありませんねぇ……見返りは、きちんといただけるのですかな?」
一刻も早く確認せねばならない。タキトゥスの焦燥に共感しながらも、決して己のペースは崩さない。相手から頼み込まれて、致し方なく、という姿勢を変えるわけにはいかないのだ。面倒臭そうな声色を、意識して発する。協力してもいいが、条件付きだという言外の言い分を、タキトゥスは鋭敏に察知してくれた。
「もちろんだ。今季の査定には、かなり色をつけさせてもらう」
彼にしては、珍しい即答だ。部下を厄介事に巻き込んでいる自覚があったためか、あるいは、ただ単に先を急ぎたかっただけかも知れない。提示された報酬は、意外性のない無難なものだったが、彼にその辺りのセンスはなさそうなので、我慢しておく。
「はぁ~……分かりました。力を貸すと致しましょう」
溜め息をつきつつ、渋々といった調子で了承する。懐からコーヒー代にしてはやや多い金額を取り出し、テーブルに置くと、静かに椅子から立ち上がった。
「エンヴィスくん」
『はい』
歩きながら魔法を飛ばすと、間髪容れずに返答があった。
「急用が出来た。少し外す。私に代わって、引き続き、任務に当たってほしい」
トワイライトも彼の反応の速さに驚くことなく、淡々と用件を告げる。
『承知しました。何か問題でも起きましたか?』
こういう時、エンヴィスのような優秀な部下を持っていると仕事が楽だ。
指揮官の役目を代行しろという多少無茶な命令でも、彼は全く狼狽えることなく引き受けてくれる。剰え、状況を適格に察して質問まで投げてきた。残念ながら、彼の問いに懇切丁寧に答えている暇はないのだが。
「あぁ、まぁ、そんなところだ……今のところは現状維持で構わないが、万が一の場合は、君の判断で、カーリくんとレディくんを守ってくれ。全ての責任は、私が負う」
『それほど危険な状況だと?』
とりあえず、チームの無事を優先させるようにとだけは伝えておく。トワイライトのその言い方で何かを察したのか、エンヴィスの声色が変わった。何故任務を中止にしないのだという、非難めいた気配すら感じられる。
「どうかな。それも分からないよ……何が起こるか、まだ私にも読めないのでな」
だが、正直なところ、トワイライトにも確信はなかった。タキトゥスの様子から、己の予想が的中していることは分かったが、かといってそれがどの程度の危険を孕んでいるのかと問われると、答えに窮する。現状ではまだ何も、判明していないに等しいのだ。
『……分かりました』
確証もないことを、無闇に他人に喋れば、かえって事態を混乱させかねない。曖昧な返答を聞いたエンヴィスは、諦めたような、腹を括ったような重々しい息を吐いた。
『一先ずは、現状の維持と周囲の警戒に務めます。何があったか知りませんが、トワイライトさんも、お気を付けて』
指示がない限りは、勝手には動けない。今のところは、任務を継続させるしかないのだ。いつ緊急事態が発生しても対処出来るよう、備えながら。
「あぁ、よろしく頼む」
彼ほど信用出来る悪魔がいるならば、この先何があったとしても、部下たちの心配をすることはないだろう。エンヴィスが適切に導き、対応してくれるはずだ。トワイライトは内心で安堵の溜め息をつきながら、タキトゥスのところへと向かう。
外に出て、通りを渡っている途中、突如何者かに腕を掴まれた。感触は確かにあるのに、振り返っても誰もいない。腕を掴む力はどんどん強くなり、トワイライトをどこかへ引っ張っていこうとしている。一見するとただの恐怖体験のようだが、彼が怯えることはない。冷静に周囲を見回し、出来るだけ自然な動作で、導かれるまま、姿の見えない人物についていった。
連れて行かれたのは、大通りから一本外れた、狭い裏路地だった。ターゲットたちの拠点であるビルの、ちょうど裏側だ。半地下へと続く短い階段があって、その先に赤い扉の取り付けられた裏口が見える。
「ここから、内部に侵入するんですか?タキトゥスさん」
トワイライトは、誰もいない空間に平然と問いかける。だが、それは決して独り言ではない。きちんと、相手に向けて放ったものだ。
「いや、突入はしない。ここで、待ち伏せだ……しかし、よく驚かないな。トワイライト」
背後から答えが聞こえてきたかと思うと、何もないはずの空間が大きく揺らぎ、タキトゥスが現れた。振り返ったトワイライトの姿を繁々と眺めながら、確認するように問うてくる。
「お前には、幻術を見破ることは出来ないのだろう?」
「えぇ。今の装備では、不可能ですね」
こっくりと首を振って肯定しながら、タキトゥスに向き直る。隣に立った彼が、裏口の方を覗き込もうと若干身を屈める。こめかみから真っ直ぐ伸びた角が、頬のすぐ横を掠めた。
「ですが、大体予想はついていました。あのタキトゥスさんが、部下の目がある中で、不用意に姿を見せるわけがない。ましてや、大嫌いな私と一緒のところなんて、尚更だ」
鋭い先端で引っ掻かれでもしたら堪らないと、密かに半歩ほど下がりつつ、微笑を浮かべる。
「そこまで分かっていて、どうして黙って従った?」
タキトゥスはトワイライトの言葉を否定せず、胡乱げな目を向けてきた。彼からしてみたら、意味が分からないといったところなのだろう。
総指揮者であるタキトゥスは、突入時まで別の場所で待機する予定になっている。彼の性格上、理由もなく計画を勝手に変更することは、決してないと部下たちは知っているはずだ。つまり、予定を無視した行動を取れば、即座に異変に気付かれてしまう。そうなれば、作戦の一部を秘匿したことも、危険な任務を無理矢理実行したことも、露呈してしまう。確認すべき真実も、確かめられなくなってしまうのだ。
「あの場で、大声で私の名を呼ぶという選択肢もあったはずだ」
だが、トワイライトに彼の思惑を尊重する義務はない。不特定多数の目がある大通りで、タキトゥスの名前を叫び、部下たちの注目を集めることも出来た。彼らに全てを打ち明ければ、捜査は混乱し、大騒ぎになるだろう。異常に気付いて、ターゲットたちも、逃げようとするかも知れない。最悪の形で、任務を中止に追い込める。タキトゥスには、強引な任務に部下を駆り出したことと、そしてそれを酷い結果で終わらせた責任が降りかかるだろう。トワイライトにとって、自分の身を守りつつ邪魔者を排除する、絶好の機会であったはずだ。タキトゥスが失脚した後は、彼の地位をそっくりそのまま奪い取ることだって出来ただろう。
しかし、彼は声を上げなかった。タキトゥスの後釜に座り、彼の代わりにインペラトルへの階段を上り詰めるチャンスを、棒に振ったのだ。その選択のおかげで、タキトゥスは必死に築き上げた地位や評判を失わずに済んだ。かといって、手放しで感謝出来るほど、トワイライトという男を信頼してはいない。
一体何を考えているのかと、険しい目つきで問い詰めようとする。彼が、その黒い腹の中に何を隠しているのか、暴き出さないままで、次の仕事をするわけにいかない。
「……そんなことをして、一体私に何のメリットがあるんです?」
タキトゥスにきつく睨まれても、トワイライトは上唇を尖らせた、当惑的な表情のままだった。何を言われているのか、さっぱり理解出来ないとでも言いたげだ。
「せいぜい、タキトゥスさんへの嫌がらせ程度にしかならないでしょうが」
それどころか、腹を抱えて、からからと笑い声を上げていた。馬鹿なことを聞くものだと、純粋に面白がっているようだ。どうやら、彼にはこの場でタキトゥスを失脚させるという考えは、一切湧かなかったらしい。思い至った今でも、後悔はしていない様子である。
不可思議な態度を取るトワイライトに、タキトゥスは戸惑った。彼のことだから、常に貪欲に、自分を追い落とす隙を窺っていると思っていたのに、拍子抜けだ。
「あなたに恩を売っておく方が、よほど得策です」
黒い瞳を光らせて、トワイライトは思わせ振りな視線を投げてくる。つまり彼は今のところ、タキトゥスの後釜を狙うより、色々と彼の弱みを握って、自分の思うように操るつもり、ということなのだろうか。
「タキトゥスさんこそ、それほど私のことを警戒しておきながら、どうして直接接触してきたのです?」
破滅させられるかも、とまで予想がついていたのなら、防ぐ方法を探せばいい話だ。出来るだけ不利にならないやり方で、接触してくればいい。彼には、それを考えるための明晰な頭脳があるのだから。わざわざ刃物を持っている相手に向かって、急所を示してみせる必要は、どこにもない。
しかしながら、タキトゥスはそうしなかった。否、出来なかったのだ。タキトゥスは、指揮能力こそ高いものの、単純な戦闘能力に関しては二戦級。単身で敵の本拠地に乗り込んでリーダー格を確保するには、力不足である。この状況を打開するには、ある程度の強さを持ち、事態を正しく理解した上で、タキトゥスに協力し、臨機応変な対応の出来る悪魔が必要だった。その条件に当てはまるのは、一人だけ。トワイライトただ一人だけだ。
だが、自分のことを警戒している相手に、進んで力を貸す者はいないだろう。タキトゥスは、あえて危険な状況に自分を立たせ、生殺与奪権をトワイライトに与えた。全ての選択をトワイライトに委ねるという形で、彼への信頼をアピールしたのだ。自分の弱みを先に晒すことで、彼がこちらを信用してくれる可能性に賭けた。だが、失敗すればもちろん、待っているのは身の破滅。あまりにも危険過ぎる、大博打である。
トワイライトは彼の賭けに気付いていながら、タキトゥスに随行した。つまり、協力するという意思表示をしたわけだ。そしてそれは、タキトゥスに一つ貸しを作ったということになる。だがそのおかげで、タキトゥスは賭けに勝利した。彼はそれを、ただ黙って受け入れればいいはずだ。今更ここでトワイライトの真意を暴こうとすれば、自身も恥を晒してしまうことになる。彼は肝心なところで、詰めが甘いようだ。
トワイライトは呆れを含んだ微笑を浮かべながら、タキトゥスに問いかける。彼の言葉を耳にしたタキトゥスは、あからさまに眉を顰めた。彼が不愉快な思いを示すのも、当たり前だ。自ら進んで弱みを晒し、格下に助力を願い出たというタキトゥスの行為は、決して自分から口にしたくはないもの。上司としての面目は丸潰れ、それどころか、インペラトル候補と称えられる誉れさえ、完全に失墜してしまうそれである。地位に応じたプライドを持っている彼にとっては、あまりに屈辱的なことである。
だが、トワイライトは彼の思いを分かっていて、問いかけてきた。相変わらず、酷い男だ。目の前にいる相手が、何を最も嫌い、憎むのか、この男は全て把握した上で己の行動を選択している。そうやって、相手を嘲笑っているのだ。
「お前……嫌な奴だと言われたことはないか?」
「さぁ?全く。そのようなことを直截に言ってくる実直な悪魔には、出会ったことがありませんねぇ……今までは」
思わず口をついて出た正直な文句さえも、彼はのらりくらりとかわす。この、貼り付いたような薄ら笑いを、引っぺがしてやりたいと何度思ったことか。他に方法がないとはいえ、こんな男と力を合わせねばならない状況に追い込まれたことを、心底後悔し、憎む。
「時間を無駄にするのは、嫌いだからな、私は」
沸き立ってきた怒りを隠し、冷たい声で切り捨てた。トワイライトのように、言葉で相手を煙に巻こうとする相手には、最も痛烈な皮肉となるだろう。
「決して無駄にはしていないのですがねぇ……今後のための、布石ですよ。タキトゥスさんもよくご存知でしょう。完璧な結果を手に入れるためには、入念な準備が必要です」
しかし、トワイライトは平然と笑い、言葉を返してきた。まるで、タキトゥスも自分と同類だと言わんばかりの口振りに、ついカッと血が上る。
「そんなことを吐かす、お前のような悪魔がのさばっているせいで、本当に解決すべきことが放置されたままなんだ!」
気が付けば、彼は拳をきつく握り締めて、大きな声で叫んでいた。
「それは……どういう意味ですかな?」
トワイライトの静かな声が、タキトゥスの耳を打つ。ハッと我に返った彼は、慌てて口をつぐんだ。感情的になるあまり、つい言うべきでないことまで口走ってしまった。トワイライトはそれが、タキトゥスの本心だと気付いたのだろう。笑みを消し、真っ黒い瞳でじっと彼の瞳を覗き込んでくる。その顔からは、いっそ恐怖を感じるほど、感情が抜けていた。
「……今は、時間がない」
失態を誤魔化すように、タキトゥスは努めて落ち着いた声を出す。だが、焦っていたためか、『今』という余計なワードを付け足してしまった。これではまるで、後でなら全てを話すと告げているようではないか。
「奴らは、もうすぐ出てくるだろう。いいか、トワイライト。一人も逃すなよ」
後悔を押し殺しながらも、冷静な態度を貫く。流石のトワイライトも、空気を読んでいるのか、特に茶化してはこなかった。
「もちろんです。逃げられれば、本隊の突入にも影響を及ぼしかねませんからね」
任務を中止にするわけにはいかない。上司の意を汲んで自信ありげにアピールする姿は、普通の部下であれば頼もしく思えたことだろう。だが、トワイライトの口から聞くと、全く別の意味を持っているように聞こえる。あなたの評判を落とさないよう、協力してやったのだから、見返りには期待していいんだろうな。そんな言外の圧力をかけられている気がした。
「あぁ……アレの処理はいかがします?」
「何?」
唐突にトワイライトが、背後を指差して何かを尋ねてくる。質問の意味が分からず、振り向いたタキトゥスの視界に、黒い巨大な物体が映った。こちらに向かってかなりのスピードで向かってくるそれは、一台の黒いセダンだった。フロントガラスを含めた全ての窓は、車内が見えぬようスモークガラスが貼られている。車体のサイズに、タイヤの規格がやや合っていない。いかにも、裏の世界に生きる者の好みそうな仕様だった。そのいかつい外見に似合わず、するりと静かな動きで、タキトゥスたちの隣に滑り込んでくる。
「あん?何だお前たち。新入りか?」
運転席の窓が開いて、中からサングラスをかけたスキンヘッドの男が顔を出した。あの巧みな運転技術を見る限り、彼がボスの運転係なのだろう。トワイライトはにこにこと笑って、こちらを見ている男に歩み寄る。
「お前たち、まさか……」
「あぁ、そのまさかだよ」
彼の黒い笑顔から、男は何かを感じ取ったのだろう。顔面を蒼白にし、慌ててバックで逃げようとする。だが、トワイライトがそれを許すはずはない。後ろを振り向きかけた男の首根を素早く掴むと、力をかけて勢いよく引き倒した。ハンドルに強かに頭をぶつけ、男は鼻血を出しながら苦悶の呻きを発する。トワイライトは構わずに、彼の首筋に懐から取り出した拳銃を突きつけた。そのまま容赦なく引き金を引くと、弾が撃ち込まれ、男は沈黙する。
「お前……!」
「ご安心ください。ただの麻酔銃ですよ。眠らせただけです」
あまりに一瞬の出来事。トワイライトの素早い身のこなしに、妙な気迫を感じたタキトゥスは思わず一歩後ずさった。まさか、殺してしまったのではないだろうか。嫌な予感と恐怖が、背筋を冷たく濡らす。だがトワイライトは、にっこりと笑い、銃を手渡してきた。確かに、実弾が装填されていない、というよりも、そもそも弾を装填する機能そのものがついていない銃だ。内部に組み込まれた魔法の術式によって、催眠魔法の付与された針が自動で生み出される仕組みになっているのだろう。銃ではないから許可がなくても使用することが出来、かつ優れた効果を持つ便利なアイテムだ。
「そ、そうか……」
だが、かといって銃の形をしたものを、おいそれと使用したいとは思わない。警察部門にとって、銃とは緊急事態でもない限りは使わないもの、という認識なのだ。何の躊躇いもなく使用するトワイライトは、流石、元軍人といったところだろうか。タキトゥスは若干頬を引き攣らせた。
「さて、どうします?運転手のふりをして、搭乗者を連れ去ることも出来ますが?」
上司の戸惑いなど気にもかけず、トワイライトは車の中を覗き込みながら尋ねる。先ほどあんな早技を見せた彼が、あくまで冷静な、淡々とした声音で恐ろしい提案をする姿はあまりにも異様だ。しかし、タキトゥスの思考を現実に引き戻すには、十分に効果を発揮する。
「いや、狭い車内で戦いたくはないな。このまま、どこか影にでも隠れて待ち伏せよう」
「了解です」
明晰と称えられる頭脳を余すところなく使い、現実的な解答を告げる。トワイライトは何の反論もせずに、素直に受け入れた。そのまま彼らは、車の影に身を潜める。幸運なことに、窓にはスモークガラスが貼られているおかげで、わずかに膝をかがめるだけで隠れることが出来た。
五分ほど黙って待機していると、ガチャリとドアが開き、中から数人の男女が連れ立って出てきた。トワイライトは物陰からこっそりと顔を覗かせ、彼らの姿を観察する。現れたのは、女性二人を含めた八人の悪魔たちだ。内、角を生やしたスーツの男が二人。やや恰幅がいい髭面の方は、事前に配布された資料にあった、組織の参謀役だろう。隣にいるスリムな方が、恐らくリーダーだ。存外に若い、まだ20代そこそこに見える容姿をしている。もちろん、実幸は違うのだろうが。
そのそばに控えている、パンツスーツの女性と赤いネクタイの男は秘書だろう。女性の方は、長い髪をお団子にまとめていて、スーツの上からでも分かる筋肉質な体型をしている。何かの格闘技でも使いそうだ。反対に男の方は、痩せ型だがあまり健康的には見えない。彼ら四人を取り囲むようにして、ガタイのいい若者三人が佇んでいた。皆派手な柄のシャツを着て、髪を染めたりピアスを付けたり、中にはタトゥーを入れている者もいる。護衛役の下っ端だろう。彼らの背中に隠れるようにして、退屈そうにしているのは、ボスの愛人だろうか。ブロンドの髪は緩く波打ち、身に纏った赤いドレスは、体のラインがくっきりと浮き出る、タイトなデザインをしている。胸元と背中、足を大きく露出した格好では、到底武器を隠していそうもないが、もしもパニックになって叫ばれたら厄介だ。出来るだけ速やかに黙らせるべきだろう。
「どうだ?トワイライト。行けるか?」
「えぇ。ぱっと見ただけですが、脅威になりそうなのは、あそこのスーツの女性だけですね」
目視だけでデータを集め、戦略を立てているトワイライトに、タキトゥスがひそめた声で話しかける。ある程度推測し終わった彼は、鷹揚に頷きながら結果を述べた。
「幹部二人は武器を持っているようですが……まぁ、何とかなるかと」
「分かった。スーツの女は、お前に任せていいんだな?」
「お任せください。タキトゥスさんはその間に、残りの制圧をお願いします」
「一番面倒な仕事じゃないか……」
簡潔なやり取りを済ませ、彼にしてほしいことを告げると、タキトゥスはげんなりとした顔をした。彼の気持ちも分からないでもないが、他の相手では不安が残るため、納得していただくしかない。
「大丈夫ですよ。タキトゥスさんなら、さっくり片付けられますって」
慰めにもならない言葉をかけながら、会話を切り上げようと立ち上がる。突然姿を現した謎の男に、ターゲットたちは目を丸くして戸惑っていた。
「だ、誰だっ、うっ!」
「なっ!?こいつ、銃をっ」
連続して声を上げる、秘書の男と参謀役に向かって、容赦無く引き金を引く。射出された針が、適格に彼らの額に刺さった。魔法が発動し、すぐに深い眠りの底に沈んでいく彼ら。身内が倒されたのを見て、チンピラたちが気色ばむ。
「て、てめぇっ!」
「よくもカザスさんを!」
カザス、というのが参謀の名前なのだろうか。確かめる前に、彼らはそれぞれ拳を振り上げながら、トワイライトめがけて突っ込んできた。
「お前たちの相手は私だ。逃げるな」
猛り狂って駆け出す彼らの前に、タキトゥスが立ち塞がる。麻痺を与える魔法が込められた特殊警棒を手にし、身構える彼を、チンピラたちは目を三角にして睨み付けた。そして、邪魔された怒りをぶつけるように、雄叫びを上げて襲いかかっていく。
「おっと……これは、驚いたな。警察部門か」
背後で乱闘が始まっても、リーダーの男は、全く動じなかった。
「お前たちのような連中に目をつけられるとは、ウチもでかくなったものだ」
むしろ感心したような態度で、のんびりと呟いている。長年成果を上げられないでいた、警察部門を嘲笑うような言い方だ。だが、彼のその皮肉にも、値踏みするような視線にも、トワイライトは反応しない。
「だが、俺はそう簡単に捕まらないぞ」
男はそれを悟ったのか、途端に声色を変え、不敵な笑みで言い放ってきた。
「そのようですねぇ……」
ようやく、トワイライトは口を開く。だが、彼が言ったのは、それだけだ。ただそれだけ、独り言つように口にすると、指をパチンと鳴らした。体内の魔力が、魔法へと昇華され効果を発揮する。発現したのは、銀色の剣だ。柄に繊細な装飾が施された、一本のブロードソード。誰の手に触れることもなく、自動で浮遊するそれを目にし、男の顔色が変わる。
「ユカ……行け」
「承知しました」
真剣な声で彼が命じると、背後に控えていた秘書の女が頷き、動き出した。姿勢を低くしたかと思うと、まるでバネが弾け飛んだかのように、物凄いスピードで突っ込んでくる。
「おぉっと」
それまでの、完全に気配を消し、石像のように佇立していた様子からは、考えられない洗練された動きだ。トワイライトは若干驚きつつ、冷静に対処する。一足飛びに跳躍し、接近してきた彼女からの脚撃を、浮かべた剣でしっかりと受け止めた。だが、彼女の攻撃は重く、浮遊する剣が少しずつ後退し始めている。
「おぉ~……」
予想以上の威力に、トワイライトは思わず歓声とも呻きともつかない声を漏らした。ユカ、と呼ばれた女性は、無表情のまま、更に強く足を押し込んでくる。
「させませんよ」
だが、それを黙って受け入れるほど、トワイライトは愚かではない。素早く剣を動かし、彼女の足を振り払うと同時に、追撃まで食らわせた。
「ぐっ……!おのれ!」
柄部分が額に命中し、ユカはたたらを踏みながら呻く。打たれた箇所を手で押さえながら、トワイライトを睨むと、右の鼻の穴からつぅっと鼻血が垂れてきた。
「これは申し訳ない。女性の顔に傷を付けるなど、紳士としてあるまじき行為でしたな」
「くっ!馬鹿にするな!女だからと舐めていると、痛い目を見るぞっ!」
トワイライトは、半ば本気で謝罪を告げる。だが、彼女にとってはこれ以上ない侮辱だったらしい。ユカは感情的な調子で吠えながら、トワイライトをキッと睨んだ。だが彼は、既に彼女の方を見ていない。
「ぐはっ!?」
彼女の背後で、男が呻き声を上げ地面に崩れ落ちた。腹を抱え蹲った彼の手から、ガラリと硬い何かがこぼれ落ちる。黒色をした、金属とプラスチックで出来たそれ。銃だ。彼は懐から武器を取り出し、トワイライトを撃とうとしたのだ。しかし、引き金を引くより早く、彼に気付かれ腹に剣の柄をもらった。重い衝撃に息を詰まらせた彼は、咄嗟に銃を手放してしまったのである。
「貴様っ、よくもサム様を!」
敬愛するボスを傷付けられた怒りと、守ることが出来なかった悔しさに、ユカは顔を赤くする。
「ふっ、悪いね。お嬢さん」
「うぁああっ!」
トワイライトは余裕の表情を崩さないまま、彼女に微笑みかけていた。ユカは更に憤り、絶叫を発しながら彼に飛びかかる。
その様子を横目に、タキトゥスもまたチンピラたちと戦闘を繰り広げていた。
といっても、所持した特殊警棒のおかげで、さほど苦戦はしない。たった一回、身体のどこかを警棒が掠めるだけで、男たちは感電し崩れ落ちていく。戦闘能力の低いタキトゥスでも、あっさりと制圧を完了することが出来た。
「ひ、ひぃ……!」
バタバタと倒れていく男たち。組織の中でも比較的屈強だっただろう彼らが、瞬く間に壊滅させられる様子を見て、ドレスの女が怯え切った悲鳴を上げる。
「たっ、たす、助けて……っ、たすけ、きゃあっ!?」
声にならない声を漏らしながら、彼女はその場に立ち尽くしている。どうやら、足が竦んで逃げたくても逃げられないようだ。抵抗されないなら話は早いと、タキトゥスは大股に一歩踏み出し、彼女に近付こうとする。
「っ!!」
だが、逆にその行為によって彼女を正気に戻してしまったようだ。女性は大きく目を見開き、我に返ったように行動し始めた。
「まずいっ!」
くるりと身を翻し、ドアに向かって駆けながら、深く息を吸い込む。
ここで騒がれたら、全ての苦労が水の泡だ。タキトゥスは慌てて、彼女を黙らせようと手を伸ばす。
だが、それより先に、パシュッと音がしたかと思うと、例の麻酔針空気を切り裂いて飛んできた。
「うっ!?」
女性の首筋を、細く鋭い針が掠める。命中はしなかったが、それでも針に仕込まれた魔法が効果を発揮するには十分だ。催眠の魔法が発動し、彼女は小さく呻くと、気を失ってしまった。
「おっと」
脱力し、そのまま前のめりに倒れそうになった女性を、タキトゥスが受け止める。だが、トワイライトに確認している余裕はない。タキトゥスの助けに入ったことで、彼もまた窮地に陥っていたからだ。
「はぁあっ!!」
ユカが、地面に手をつき、側転蹴りを叩き込んでくる。トワイライトはそれを、魔法の剣で見事に防いだ。だが、ユカの勢いは止まらない。側転を終えた低い姿勢のまま、ブレイクダンスでもするかのように、足を回してトワイライトの足元を狙う。
「わっ!」
彼女のあまりにも巧みな体捌きに、流石のトワイライトもついていけない。狙い通り足を掬われ、バランスを崩しかけたところに、立ち上がった彼女からの掌底が叩き込まれた。
「うぉっ!?」
威力で言えばそれほど強くはないが、体勢の整っていない今の状態では、受け止めきれない。結局、受けた力を殺しきれずに、そのまま後方へと転倒した。
「いっ!……つつつ」
後頭部を軽くぶつけ、痛みに呻いている間にも、ユカは追撃の手を緩めない。仰向けに倒れたトワイライトの上に、馬乗りになってのしかかると、強く拳を振り下ろしてきた。
「セィヤァアアッ!」
「ぐっ!」
熟練の武闘家のような雄叫びと共に、頬を殴打され、トワイライトは思わず苦悶の声を発する。だが、その程度のダメージで彼が理性を手放すことはない。もう一撃食らわせようと、顔面に降ってきた拳を、片手でパシっと受け止めた。
「びっくりした……流石だね」
もう片方の手で、殴られた箇所をするりと撫でる。切れた口の端からかすかに血が滲んでいて、そこに指が触れると、ピリリとした痛みを彼にもたらした。
「く……っ!」
だが、それだけだ。勝利に至るまでの道を確保出来たわけではない。ユカはくしゃりと顔を歪め、逡巡の間を見せる。
「殺すなら殺せ!私は、手加減をされることが一番嫌いだ!」
そして、意を決したかのように口を開き、そんなことを言ってきた。トワイライトは眉をハの字に下げ、困惑に満ちた表情をする。
「おや。これは困ったねぇ。私には君を殺す理由も、メリットもないんだけど」
「だったら、私が作ってやる!」
ここには脱界者を逮捕しに来ただけだ。警察部門では、よほどの場合ではない限り、容疑者を殺すことは許可されない。理由やメリット云々以前に、彼女の命を奪えば、懲戒処分になる恐れすらあるのだ。
殺すことは出来ない、そうトワイライトが漂わせた空気を悟ったのか、彼女はまた顔色を変える。素早い動きで、トワイライトが浮かべている剣を強奪した。光を反射する銀色の刃が、トワイライトの喉元に突きつけられる。絶体絶命だ。この状況に持ち込めば、正当防衛が成立すると彼女は思っているようだ。
確かに、その考えもある意味では、正しい。ただ、一つだけ、致命的な欠陥がある。
「……残念だけど、それも無理かな」
「何っ?ぅぐっ!!」
彼の呟きを聞き返そうとした瞬間、ユカの頸部に重い衝撃が走る。トワイライトが作り出した二本目の剣、そのフラー部分が彼女の首の後ろを強かに打ち据えていた。
声もなく、彼女は崩れ落ち地面に転がる。だが、仕事はそれで終わりではない。
「トワイライトっ!」
タキトゥスの声を聞きつけて振り返ると、もう一人の秘書の男が、慌てふためいた様子でセダンに乗り込むところだった。恐らく、催眠に対する耐性か抵抗の効果を持つアイテムを所有していたのだろう。男は苦労しながらも、気絶した運転手を無理矢理引き摺り出し、代わりに運転席に収まる。キーを回し、ハンドルを握ると、動き始めたエンジンが低い唸りを発した。
車で逃走されたら、追いかけるのは厄介だ。だが、タキトゥスはちょうど、逃げようとしていたボスを取り押さえたところで、手が離せないらしい。トワイライトは急いで立ち上がると、対処に向かった。
男は、倒れている同僚や仲間たち、今にも逮捕されそうなボスさえ気にかけず、勢いよくアクセルを踏む。砂埃を巻き上げながら、タイヤが急速回転を始める。弾かれたように車は発進し、一目散に逃げようとした。だが、その進路の上に、一人の男が現れる。宙に浮かぶ二本の剣を携えた悪魔が、真っ直ぐこちらを見据えていた。
「どけぇ!!」
男は動転したまま、車外にも聞こえるような大声で叫ぶ。そして、意外にも大胆に、更にアクセルを強く踏み付け、一直線に突っ込んできた。防弾仕様の特殊装甲が取り付けられた、硬い鉄の塊だ。撥ねられればまず、重傷は免れないだろう。だが、彼は決して臆さない。冷静に、自分と車との距離を目測しながら、片手を振って剣を動かした。
ヒュン、と風を切って、二本の剣が飛び出す。車の右前輪を狙って、鋭く硬い刃が立て続けに命中した。ゴムが破け、パンクしたタイヤから空気が漏れ始める。激しく揺れる車体をどうにかコントロールすべく、男は必死にハンドルにかぶりついた。まだ、ブレーキを踏むつもりはないらしい。それならばと、トワイライトは強く地面を蹴り、高く跳躍する。宙に浮いた体の数センチ下を、猛スピードで車が通り過ぎていった。着地の直前に、もう一本の剣を作り出し、車体の下部めがけて投擲する。そして、自身の肩を抱き込むようにして、地面に落下しゴロゴロとアスファルトの上を転がった。
三本目の剣は、左後輪に当たったようだ。そのままタイヤの回転に巻き込まれ、サスペンション部分までを決定的に破壊したらしい。セダンは完全に制御を失い、九十度ほどスピンして、横向きになった状態で滑っていく。だがそれもすぐに、近くの電柱に衝突したことで、止まった。
「……ふぅ」
スーツの汚れを手で叩きつつ、彼はゆっくりと身を起こす。辺りには、ゴムの焼ける異様な匂いが漂っていた。
「あーぁ、やり過ぎたか?」
中の男は生きているだろうかと、割れた窓の隙間から覗き込む。上手くエアバッグが機能したようで、気を失っているが出血は見られなかった。念の為魔法で健康状態をチェックするが、今すぐ処置が必要なほどの怪我はないようだった。
「無事か、トワイライト!」
逮捕した者たちを全員拘束し終えたタキトゥスが、トワイライトのもとへ駆け寄ってくる。
「えぇ。問題ありません。気絶してはいますが、命に関わるような重傷ではないかと。尤も、脳へのダメージなどは検査してみないと分かりませんが」
トワイライトは、大丈夫だと頷きつつ、男の容態を端的に報告した。
「分かった。早急に手配しよう」
流石に、いくら魔法という便利な手段があっても、打撲の後遺症までは把握出来ない。頭を打った可能性がある以上は、病院に運ぶべきだ。タキトゥスもそれをすぐさま理解し、その場で部下に通信魔法を飛ばしてくれる。
「こちらは、お前が眠らせた者も含めて、全員逮捕した。裏口のドアも封鎖済み。応援も、もうすぐ着くだろう」
淡々と話してはいるが、実質彼が一人で、必要な業務のほぼ全てを達成したも同然だ。トワイライトが手伝ったのは、ほんの少しの面倒な部分だけ。あくまで、この仕事に関しては、本当にただの助っ人的な意味合いが強かったようだ。
「たった今、本隊にも伝えたところだ。突入を開始しろ、とな」
タキトゥスが、いつにも増して重々しい声色で告げる。その言葉をかき消すように、どこかから騒音が聞こえてきた。
かなり大勢の悪魔たちが言い争っているような音だ。同時に、サイレンが響き警察部門の存在を知らせてくる。タキトゥスの命に従い、行動を開始した者たちの音だろう。恐らく今頃表通りは、大騒ぎになっているだろう。人通りの多いエリアには、似つかわしくない様相を呈しているに違いない。暴れる男たちを警察部門の悪魔たちが押さえつけ、警察部門所有の輸送車両に乗せられていく光景が、トワイライトの目にも浮かんでくる。
何十年も追い続けてきた、脱界提供組織をようやく捕らえることが出来る。いよいよ大詰めを迎えたと、彼らはきっと喜んでいるだろう。凄まじい気迫によって、周囲の空気が白熱していくのが分かる。
大博打を打ってまで決行した、一大案件の最終局面。冷血鬼と呼ばれるタキトゥスですら、己の中の警察部門職員としての血が沸き立つのを感じる。
だがその中でただ一人、トワイライトだけは、いつもの気の抜けた表情を崩さないままだった。
「そうですか。では我々は、今の内に済ませておかないとなりませんな。例の存在の……確認せねば」
何事もなかったかのように冷静に呟いて、手錠をかけられた悪魔たちのそばへと向かっていく。壁際に並べられ座らされた悪魔たちの内、意識があるのはリーダー格の男だけだった。
「サムさん、と呼ばれていましたね?あの秘書の女性に」
「あぁ。そうだよ」
トワイライトの問いかけに、男は意外にも余裕の表情で頷いた。
「さっきは驚いたよ。ユカがあんなにあっさりやられるなんてな。おかげで、あっさり捕まっちまった。しくじったよ」
ガチャガチャと、後ろ手に拘束された腕を動かして、手錠の音をさせてみせる。しくじった、などと口にしながらも、彼の態度からは、悔しさも怒りも感じられなかった。
「少々、相性が悪かっただけですよ。私と彼女とでは」
「ふっ……お前は、嘘が下手だな」
トワイライトがあえて適当な誤魔化しを告げると、サムはニヒルな雰囲気の笑みを浮かべて鼻を鳴らす。
「俺だって、汚い世界の中でしぶとく生きてきた男だぜ?お前がどんな奴かは、すぐに分かる。お前が……まだ本気の本の字も出してなかったってことがな」
すっと目を細めて、トワイライトを見据える彼は、やはり普通の悪魔とは違っていた。出会ってすぐに、相手の本性を見抜くなど、中々出来ることではない。彼は本当に、リーダーとしては優秀な悪魔だったのだろう。
「それより……あなたはまだ隠しているものがありますよね?」
トワイライトは半ば感心しながら、彼に合わせたやり方で切り込む。
「私たちは、それを探しにここへ来たのです。教えてはいただけませんか。あなたの最高の秘策を」
まるで下から滑り込むような、丁寧な言い方で頼み込む。
「断る。これは、俺の最後の生命線だ。これがあれば、まだ生き延びられるかも知れない……そんな大事なもんを、お前たちなんかにみすみす渡すとでも?」
だが、サムはにべもなくそれを拒絶した。しかし、これは想定通りだ。逆に彼がこの状況で了承を示したら、それこそ予想外である。トワイライトの察知出来ない何かを隠していると、警戒したことだろう。
「そうですね。それは、あなたたちのような海千山千の裏組織でさえも、簡単に壊滅させられる大量破壊兵器ですものね」
思った通りに運ぶ話に内心満足感を覚えながらも、決して表には出さず、頷く。
「我々悪魔の、最大の弱点。上手く使えさえすれば、私たちに逆襲することすら可能でしょう。だから、いつも大切に身に付けていらっしゃる」
尤もらしく首を振ると共に、サムの方へ目を向けて、見透かすような視線を送る。丁重に箱に入れて、隠したはずの”それ”を見つけられて、彼は冷や汗をかいた。
「何っ!?ここにあるのか!?」
二人の会話を、沈黙して眺めていたタキトゥスが、唐突に口を挟む。彼はてっきり、それほど危険なアイテムなのだからどこか安全な別の場所に保管されていると思っていたのだ。思い込みが間違いだったことを知り、目を剥いて驚いている。
「当たり前ですよ。誰が、護身用のナイフを戸棚に飾りますか?常に、懐に入れて持ち歩いているはずです……命を狙われた際、反撃するためにね」
動揺する彼に向かって、トワイライトはどこまでも冷静な声をかける。それを聞いて、ハッとした。彼は初めから、何もかも分かっていたのだ。相当な危険物がここにあると悟っていたから、タキトゥスに協力したのかも知れない。
トワイライトという男は、一体どこまで、予測しているのだろう。タキトゥスの目の前に立つこの男は、まるでどこまで続くかも分からない、深淵なる闇のように見えた。誰一人として、その末端を把握することは出来ないのだ。トワイライト本人だけが、全てを知り、掌握している。
「ふふ……あっはっはっは!」
唇を引き結んで、じっと彼を見つめるタキトゥスの耳に、サムの哄笑が飛び込む。
「流石だよ。そこまで分かっていたとはな」
彼は、トワイライトを賞賛するかのように呟くと、両腕に力を入れ、左右に引いた。ガチャンッという音がして、タキトゥスがかけた手錠が外れ、地に落ちる。
「抵抗したのか……」
「俺が、この程度の拘束具で捕まるとでも?」
彼ほどの男であれば、抵抗の力やアイテムなどを持っていてもおかしくはない。当たってほしくないと思っていた予想が的中し、タキトゥスは眉を顰める。
「安心しろ。俺は逃げるつもりなどない。これを外したのは、お前らに見せるためだ。俺の唯一最大の切り札をな」
だがサムは意外にも、地面に腰を下ろしたまま、逃げようとはしなかった。そして、やや大袈裟過ぎるほどのおもむろな動作で、スーツの内ポケットに手を入れる。
「お前は気が付いていたな?気が付いていて、知らないふりをしたんだ。俺を泳がせて、決定的な瞬間を作るために!」
サムは、トワイライトを睨みながら、強く断言した。今までの彼の様子とは似つかない、感情を露わにした口調だ。だが、トワイライトは素知らぬ顔をして、口をつぐんだまま。黙って彼の行動を見つめている。タキトゥスもその隣で、彼が何をするつもりなのか、固唾を飲んで見守っていた。
「だが、いいのか?お前たちにとってこれは、何よりも恐ろしい破壊兵器だぞ?ヘタを打てば、お前らのお仲間だって死ぬかも知れない。止めなくていいのか?これは、人間たちの世界で言うところの、パンドラの箱だぞ?」
手を服の中に入れた状態で、サムは確認するような目を向ける。何度も重ねて問いかけられる内に、タキトゥスは躊躇いが蓄積していくのを感じていた。
パンドラの箱。人間界のとある国に、そんな話があったことを思い出す。ある女が、好奇心に負けて箱を開ける。中にはこの世に存在する全ての災厄、病気、犯罪、絶望が詰まっていた。それらが世界へと放たれたことに驚き、女は箱を閉めた。しかし箱の中には、まだ希望だけが残っていた。何とも皮肉な話だと、聞いた当初は笑ったものだ。
だが、実際に目の前にしてみると、こうも恐ろしく感じられるのだと知る。ましてや、現状の敵は好奇心などではない。自らの意思で、彼は箱を開けるかも知れないのだ。その中から飛び出した、あらゆる災厄がこの魔界を襲うかも知れない。タキトゥスは緊張の糸を最大限まで張り詰めさせて、彼の一挙一動を注視する。
「ほう。確か、中にはありとあらゆる災厄が詰まった、絶望の箱、とやらでしたね?流石は熟練の脱界提供組織。人間たちの文化文物にはお詳しいようだ」
平然とトワイライトは、顎に手を当てサムの話に頷いていた。わざとらしいにっこり笑顔を浮かべると、彼の博識を褒め称える。
「ですが……人間たちは、シュレディンガーの猫なる理論も提唱しています。箱を開けてみるまで、中の猫が死んでいるかどうかは分からない」
彼は微笑んだまま、挑戦的な解答を放った。
「パンドラの箱を開けてみなければ、中に絶望が入っていることは分からない……そういうことか」
トワイライトの狙いを理解したサムが、それでいいのかと問うような視線を向けてくる。
「その通りです」
「……哲学的な話だな」
「ですねぇ」
頭の後ろで手を組んで、苦笑いする彼に合わせ、トワイライトも愛想笑いの混じった苦笑を作った。
「ですがどの道、我々は調べるつもりですよ?あなたの言葉がハッタリかどうか……確かめなくてはなりませんから」
笑顔の奥の瞳が、すぅっとかすかに開き、深淵の如き底のない黒色を見せる。低く落ち着いた声音から、サムは彼の本気を悟った。この男は、やはり本当に恐ろしい。表向きは全く穏やかでありながら、その内心はまるで正反対だ。凪いだ海面のすぐ下に、凶暴で巨大なサメが揺蕩っている光景が脳裏を過ぎる。サムは、さっと顔色を青褪めさせた。
「……だったら、その目でとくと確かめるがいい!」
覚悟を決めると、ポケットの中の”それ”を掴む。手に、ビロードの柔らかい感触と、その下のプラスチックの固さが伝わってくる。
出来ることなら、こんな恐ろしいものなど使いたくはなかった。これは、敵を排除する兵器であると同時に、自分たちの組織に大ダメージを与えた、憎き災害なのだ。これがなければ、今も組織は逮捕されることなく、商売を続けていられたはずなのに。
(いや、もう仕方がない……過去は巻き戻らないんだ)
サムは、必死に己を納得させようとする。例え組織が潰れたとしても、自分さえいればまたやり直せる。核となるべき人物さえいれば、仲間はまた集まってくる。だからまずは、自分だ。自分が生き残るため。行使すべきだ。それが、どれほど危険なものだったとしても。
「受け取れっ!!」
決断と共に、サムは手を引き抜き、握り締めた物を放り投げる。彼の懐から出てきたのは、青い、細長い箱だった。高級ブランドで買った、ネックレスのケースのようだ。金色の留金は緩んでいたようで、投げられた衝撃でカパリと口を開けてしまった。中に収めていた物が吐き出され、宙を舞う。それは、白金に光る、ペンダントだった。長いチェーンの先に、ダビデの星とも呼ばれる、六芒星の飾りがトップについている。細かい装飾が施されたそれは、光を反射してキラキラと輝き、魔界の澱んだ空気を澄ませるような、美しい煌めきを放った。
否、決して気のせいや美しさからくる錯覚などではない。ペンダントが持つのは、本当に魔界を浄化することの出来る力だ。
「トワイライトっ!!」
タキトゥスが、いつにない切羽詰まった声で、鋭くトワイライトの名を呼ぶ。叫ぶと言っても過言でないその調子に、トワイライトは動じることなく応えた。片手を軽く振って剣を作り出し、放物線を描いて飛んでくるペンダントを叩き落とそうとする。
だが、彼の剣が、ペンダントトップにかすかに掠った瞬間。銀製の、強度を誇るはずの硬いブロードソードの刃が、溶けた。高い強度を誇る金属の塊が、まるで熱い鉄の棒に触れたアイスクリームのように、一瞬にして融解したのだ。どろどろとした銀色の液体が、アスファルトの上に無惨に滴り落ちる。刃物で勢いよく切り付けられ、血が周囲に飛び散った時のような様相だ。
「っ!?」
己の目で見た光景が信じられず、トワイライトは目を見開いて硬直する。彼の剣は、ペンダントを弾き返すどころか、その軌道に一切の影響を与えることが出来なかった。彼の頭上に、白く光る六芒星が、隕石のように落下しようとしている。銀を溶かすほどの力を持つそれに触れたら、ただでは済まないだろう。トワイライトは慌てて、ダイブするようにして身を伏せ、落下物をかわす。ゴロゴロと転がって距離を取ると、カラン、と硬い物が地面にぶつかる乾いた音が聞こえてきた。急いで立ち上がった彼の目に、じゅうじゅうと何かが溶ける光景が飛び込んでくる。落下した六芒星のペンダントは、その周囲のアスファルトを溶かし、地面に小さなくぼみを作り出していた。液体化したアスファルトからは、小さな泡が発生し、細くかすかな煙さえ立ち上らせている。トワイライトたちが見ている間にも、地面のクレーターはどんどん拡大し、ペンダントは徐々に沈み始めていた。
「やはりか……」
重い鉄球が、メレンゲの中に少しずつ沈んでいくかの如く、硬いアスファルトを容易く溶かすことの出来る力。そんな力の正体といえば、一つしかない。確信したトワイライトが、ぽつりと呟く。
「だが、ここまでとは……!」
タキトゥスがその隣で、驚愕に満ちた声を上げる。想像を遥かに絶する強大な力に、圧倒され瞠目していた。
彼らが目の前の光景に釘付けになっている間に、サムはひっそりと気配を消し、そそくさと立ち去ろうとする。だが、トワイライトがその背中に麻酔銃を撃った。背中に受けた麻酔針によって、眠らされた彼が音もなく崩れ落ちる。うつ伏せに倒れた彼に目を向けることもなく、トワイライトはしゃがみ込んでペンダントを凝視した。
「天使の加護印……」
”天使の加護印”とは、天界に住む天使たちが作り出したアイテムのことだ。
この地球上に存在する、三つの世界。悪を好む魔界とも、中立を貫く人間界とも異なる、天空の雲の上に、彼らの世界は広がっている。聖なる力を持つ<天使>が暮らす<天界>。魔界が地獄として人間たちに知られているならば、彼らのことは天国という名称で語られていることだろう。太古の昔に両の世界の住人が、人間たちに接触した時から伝わる伝説だ。人間たちは天使たちの考えを自らの倫理的規範とし、社会の秩序を築いた。彼らの世界に行くことこそが、正しい往生の仕方だと信じるようになった。その頃から、天使たちは人間を導く存在として、勝手に義務感を背負うようになり、同時に魔界を敵視し始めたのだ。
「奴らは、既に”粛清”されていたのか……」
タキトゥスが呟く。
清らかな心と正しき信念を理想とする彼らにとって、魔界に住む悪魔は生まれながらの”悪”だ。潜在的な敵を滅ぼすべく、彼らは”粛清”と題して、度々魔界に襲撃をかけてくる。所有者の魔力を中に込めることの出来るこのアイテムは、差し詰め天使の力の代弁者といったところだろう。本人たちには及ばぬまでも、強い者が使えばかなりの威力を与えることが出来る。それを魔界に投げ込んで、”粛清”をするのだ。サムの部下たちは、このペンダントが拠点に落下してきたことによって、半壊状態にまで追い込まれたのだろう。
天使の持つ聖なる力は、悪魔たちの持つ邪悪な闇の力を粉砕し、浄化することが出来る。トワイライトたちが、空気が澄んでいく様子を感じたのも、そのせいだ。天使の光の力によって、空気中に漂う闇のエネルギーが、跡形もなく消しとばされてしまうのである。それだけではない。魔界に存在する全ての物は、闇のエネルギーを孕んでいる。天使の力を食らえば、強固なビルも倒壊し、一瞬で粒子レベルまで分解される。悪魔たちの肉体も同様だ。天使の放つ光を浴びるだけで、皮膚が爛れ筋肉が裂ける。最悪の場合、塵や灰となって、消滅してしまう可能性さえあるのだ。もちろん、個々の能力の差によるため、トワイライトやタキトゥスがそのような目に遭う可能性は低い。それでも、無傷でいられることはないだろう。天使の力を受けた傷は、普通の回復魔法では治せない。いつもよりかなり高度な術式を使わなければ、癒えないはずである。
それほどまでに強力な存在を、誰がどうして恐れないでいられるだろう。天使たちは古くから、悪魔たちの敵であり、恐怖と憎悪の対象だった。魔界府軍政部門の中に、対天使対策部という部署が作られたのも、彼らに対する危機感からである。
「おい、トワイライト。あまり近寄るな。怪我をするぞ」
だが、トワイライトのような中級悪魔であれば、加護印くらいで死にはしない。火傷はするだろうが。初めて実物を見るのだから、じっくり細部まで観察しておこうと、繁々眺め回す。つい好奇心に駆られて身を乗り出しているトワイライトの肩を、タキトゥスが軽く叩いた。
部下に魔法の通信を飛ばして、対天使対策部に報告を上げさせたところなのだろう。基本的に、天使の加護印など、粛清の証拠や予兆を発見した場合は、速やかに対天使対策部に通報することが義務付けられている。
「ここまで強い力を持っていたとはな、流石に予想外だ」
無事大仕事を終わらせたとばかりに、タキトゥスは肩を回し、達成感に満ちた晴れやかな表情をしていた。
「……本当に、そうなのですかな?」
「何?」
だがそこへ、トワイライトは静かな調子で問いかけた。訝しげに眉を顰め、尋ね返してくるタキトゥスに、彼は立ち上がって目を向ける。
「『予想外だった』、その一言で、全て済む話だとお思いなのか、という話ですよ」
「……どういう意味だ?トワイライト」
タキトゥスの低い声が、一段と低くなった。
「お前は、この俺に楯突くというのか?一介の室長に過ぎないお前ごときが、インペラトル候補とも言われる俺に?」
演説でもするようにわざとらしく、余裕ぶって両手を広げ、彼は自らの強勢をアピールする。そこには、自身の地位への誇りと驕り、傲慢さが溢れ出すほどに満ち満ちていた。
「お前なんかに何が出来る。翼をもがれ、空を飛ぶことの出来ないお前に!」
先ほどまで、いいように利用され、追い詰められていた状況を逆転させようと、彼はここぞとばかりに反撃してくる。翼を奪ったのはタキトゥス張本人だというのに、まるで自分に咎はないという態度で、思い切り怒りをぶつけてきていた。
「一体、何が出来るというんだ!言ってみろ!!」
指を突き付け、トワイライトを糾弾するかのように、怒号を浴びせる。しかし、トワイライトはあくまで冷静だった。
「私がいつ、翼を欲したと言うんです?」
冷淡な声で、質問を投げかける。タキトゥスの薄氷の瞳が、かすかに大きくなった。
「タキトゥスさん、あなたは何か、誤解しているようだ……私には、翼など必要ない。いざとなれば、己の手だけで、必要なもの全てを勝ち取ることが出来るんですよ」
トワイライトはゆっくりとした口調で語りながら、彼の前へと一歩踏み出す。両者の距離がこれ以上ないほどに縮まる。辺りには、今にも一触即発といった空気が漂い始めた。
「さて、どうします……?私と、正面からやり合ってみますか?」
「お前……!!」
徹頭徹尾、こんなことをしたくはなかったという雰囲気で、トワイライトは提案する。渋りながらも、不敵に微笑んでみせる芸当は、彼でなければ出来ないものだ。タキトゥスはそれを見て、慄くような表情を浮かべる。まるで、今まで力で押さえつけてきた相手が、初めて言いなりにならなかった時のような、驚きだ。トワイライトは更に、挑戦的な笑みを深め、黒い瞳を輝かせる。
『トワイライトさん』 その時だった。トワイライトの脳内に、エンヴィスからの通信が飛び込んでくる。彼は即座に、通信に応じ彼に答えた。
「何だい?エンヴィスくん」
タキトゥスと対峙していることなど、すっかし念頭から消えたような仕草だ。まさに強者としてのそれに、タキトゥスは嫌な顔をする。
『いえ……ちょっと、嫌な気配がするんです。上を見てもらえますか?』
この場にいないエンヴィスは、二人の間の空気を察せるはずもなく、不穏な色の潜む声でトワイライトに進言する。
「上?」
上を見ろと言われたトワイライトは、素直に顔を上げ、洞窟の天井を仰ぐ。幻術の空が広がる上空には、別段何の異常も見えない。否、よく目を凝らすと、あった。
「……ん?」
気のせいかと、目を瞬きもう一度注視する。雲の少ない青い空に、一つだけ、星のような煌めきが光っていた。
「何だ?」
タキトゥスも好奇心に駆られ、彼と同じ方角を見つめる。かすかな、ともすると見逃してしまいそうな小さな光が、青空の中に浮かんでいた。だがそれは、気を配って見ている内に、段々と大きくなっていく。点のようだったものが、次第に球へ。そして、眩いほどの強い光となって、辺り一帯を襲った。
「天使だっ!!」
叫び声を発したのはタキトゥスだったか、トワイライトだったか、それとも別の誰かだったのかは定かでない。確かめる暇もなく、背骨が振動するほどの強烈な悪寒が、全身を駆け巡る。そして、次の瞬間。肌が焼け爛れるほどの清らかな光が、アルテポリスの街を照り付けた。
* * *
「……ぅ」
目を開けたことで、カーリは初めて、自分が気を失っていたことに気が付く。やたらと痛みに軋む身体を懸命に起こすと、一変した辺りの景色が、視界を埋めた。
「え……!?」
声を失い、あんぐりと口を開ける。一体何が起きたというのか、覚醒したばかりの頭ではさっぱり理解出来なかった。
「君は、Dクラスだね!?さぁ、早くこっちへ!」
放心している内に、砂煙の中から誰かが現れたかと思うと、強く手首を掴まれた。戸惑いを感じる間もなく、素早く助け起こされて、大きな手で背中を押された。
「あ、あの……」
「いいから、急いで!」
話しかけても、余裕なく急かされるだけだ。かろうじて声色から男だと分かるが、大きなゴーグルで目と鼻を覆っていては、誰だか全く判別出来なかった。
「ここもいつ襲われるか分からない。安全なところまで、早く逃げるんだ!」
恐ろしいことを言われて、道を促される。転びそうになって、慌てて前に数歩踏み出せば、横から誰かに飛びつかれた。
「良かった、カーリ!」
「わわっ!」
突然の刺激に、カーリは声を上げて驚くが、やってきた相手を見てすぐに安堵の息を漏らした。
「なんだ……レディちゃんか。良かった、会えて」
「うわーんカーリ~、ごめんねぇ~!」
胸を撫で下ろしつつ話しかければ、彼女は何故か泣き出しそうな顔で、謝罪の言葉をかけてくる。
「アタシ、途中でカーリのこと離しちゃって……とにかく、無事で良かったよー!」
そしてまた飛びつかれて、カーリは更に困惑を深めた。
「あー、えっと……何があったんだっけ?」
尋ねながら、ぼんやりと、意識を失う前の記憶が蘇ってきた。
確か、レディと共に屋上で現場を見張っていた時だ。突然、上空から閃光が降り注ぎ、強い衝撃が辺りを襲った。恐らくそれから逃げるために、レディはカーリを抱え、ビルを飛び降りようとしたのだろう。だが、咄嗟のことだったために、途中でカーリを離してしまい、それぞれ別の場所へ落下した。カーリの落ちた先にはゴミの詰まったゴミ箱などがあったのだろう。非常に幸運なことに、そのおかげで無事でいられたのだ。
「あの光は、何だったの?」
気を失う前のことは思い出せても、理解出来ないことはそのままだ。残る疑問を口にすると、レディは興奮した調子で捲し立てた。
「天使だって!天使!天使が現れたんだって!!」
天使。
悪魔を憎み、悪を制裁すべく、理不尽に襲いかかってきては無差別の虐殺を繰り広げる、恐ろしい存在。悪魔たちの潜在的な、そして最大の敵。
悪魔たちは皆、少々特殊な経歴を持つカーリですら、その単語を耳にしただけで、思考がフリーズし心に恐怖が湧き上がってくる。だが、それほど脅威的な存在の仕業だと言われれば、この惨状も納得出来た。
「天使がやったんだよ!このビルも、街も、全部!!」
レディは両手を広げて、自分の周囲全てを指す。彼女の意図を辿って視線を巡らせたカーリも、驚愕に息を飲み身を震わせた。
商業で発展した都市、アルテポリス。賑やかで豊かな街並みは一変し、瓦礫と残骸ばかりの、荒廃した街へと転落していた。
半分以上崩れ落ちたビル。中には完全に破壊され、原型を留めていないものもある。ドーム型をした大きなショッピングモールは、天井を打ち砕かれ陥落していた。
コンクリート片の散乱する大通りを、悲鳴を上げて無数の悪魔が行き交っている。中には頭や腕から血を流したり、意識を失って路上に倒れている者もいた。皆、突然の事態に困惑し、パニックを起こしているようだ。急遽駆け付けた警察部の悪魔たちが避難を促しているが、酷い混乱状態の中ではさほどの効果も発揮していなかった。
まるで、大災害に襲われた直後のようだ。到底、現実とは思えない光景に、カーリは圧倒される。
「カーリっ!!」
目の前のことを信じられずに、呆然と立ち尽くすカーリの腕をレディが掴む。
「早く逃げなきゃ!」
「あ、うん……あ、いや、やっぱり待って!」
彼女に強く引っ張られ、数歩前に踏み出したカーリは、突如思い出したように声を上げると、その場にピタリと立ち止まった。
「トワイライトさんたちを探さなきゃ!そんな危険な存在がいるってこと、トワイライトさんたちに知らせるべきだよ!」
「もうとっくに知ってるって!こんだけ街が壊れてるんだよ!?トワさんたちが気付かないはずないって!」
急に止まった彼女に焦燥を抱きながら、レディは適当に答える。全く根拠もない予想だったが、何でもいいからとにかく早くこの場から逃れたかった。天使のばら撒く聖なる魔力が、彼女の肌をチリチリと炙っているのだ。それはつまり、近くにいるということ。ここにいたら、いつ見つかるか分からないということである。天使の力は恐ろしいものだ。攻撃が掠めただけで光が体内に侵入し、低級悪魔であれば数秒で倒れてしまう。当たりどころが悪ければ、絶命する可能性だってあるのだ。自分の身もそうだが、カーリのことも友人として大事に思っているからこそ、一刻も早く逃げたいと思うのは、当たり前の真理である。
「それは、そうだけど……でも、無事かどうかだけでも、確かめなくちゃ。私たち二人だけがここから逃げるなんて、許されないよ」
「何言ってるのカーリ!!無茶だよ!危険だって!!」
しかしカーリは、案外強い力で抵抗してきた。レディの手を振り払って立ち止まり、背後を振り返る。黒煙が立ち込め、砂っぽい風に晒された瓦礫の街を、物憂げな視線で見つめた。
「危険なのは分かってる。でも私は……行かなきゃいけないの。逃げるのは、その後」
「ま、待ってったら!今行ったら、カーリなんかすぐに殺されちゃうよ!カーリには、戦う力なんかないんだから!!」
死にたくはないでしょ!?と残酷な事実を突き付けた直後、レディはハッとして口をつぐむ。
「ご……ごめん」
「ううん、大丈夫」
己の弱さを最も自覚しているのはカーリだ。わざわざ他人から指摘されたら、彼女はきっと傷ついてしまうだろう。心配するあまり、言ってはならないことを言ってしまった。レディは慌てて顔を俯かせ、謝る。だがカーリは、意外にも平気そうだった。
「でも、」
「大丈夫だよ。レディちゃんは先に行ってて。それでトワイライトさんたちと会えたら、それが一番だし」
彼女の性分をよく理解しているレディは、不安になっておずおずと確認の言葉を投げかける。しかし言い終わるより前に、カーリが顔を上げた。そして、とんでもない提案を告げてくる。
「私はやっぱり、もう少しこの辺を探す。もし、私に何かあっても、全部私の責任だから。トワイライトさんやレディちゃんに迷惑のかかることじゃない」
「ちょっと、カーリッ!」
さっさと背を向けて歩き出してしまう彼女を、レディは再度止めた。このまま行かせるわけには決していかない。
「本当にカーリが、トワさんたちのこと心配してるんだったら、逃げるべきだって!ここで粘ったって、何の意味もないよ!むしろ、トワさんたちの迷惑になるかも知れないじゃん!!」
もはや、カーリからの心象など気にしていられなかった。たとえ友情を失ったとしても、命を失うよりはマシだからだ。友人として、こればかりは譲れないと、カーリの腕に縋り付く。それはまるで、出かける母親を止めんと奮闘する子供のようで、無力で純粋だった。
「トワさんたちも、きっとそれを望んでるよ!!」
必死に訴えかけるが、しかし、いくら言っても頑固なカーリは靡かない。彼女は一度決めたことは決して覆さず、絶対に他者の意見に流されることのない、強い女性なのだ。だからレディも、彼女のことを評価していた。
大切な友人を守るためだ。場合によっては、多少乱暴な方法を使ってでも彼女を逃す。そんな事態すら想定していたのに、カーリは何も言わず、ただ真っ直ぐレディを見つめ返してくるだけだった。
「……ごめんね。レディちゃんの方が正しいって、私も分かってる」
ごめん、と口にする彼女の顔は、いつになく穏やかな笑みで、柔らかく綻んでいた。
「でもね、何もしないではいられないの。私は、トワイライトさんたちに、何度も助けられてきた。なのに、私だけが、全く何も返せていない……そんなのは、もう我慢出来ないんだよ」
「とっ、トワさんたちは、見返りを期待してたんじゃないよ!そんな器用な悪魔じゃないじゃん!」
期待に応えられない申し訳なさを見せつつも、奥には何があっても折れない、強い意志を宿している。覚悟を決めた表情を受け入れられなくて、レディは感情的に反発した。
「だ、大体、カーリに何が出来るの!?何も出来ないよ!強くないもの!トワさんたちを助けるどころか、自分の身を守ることすら出来ないじゃん!!」
あえて相手を傷付ける言葉ばかりを選んで、勢いよく捲し立てる。これでカーリが怒って、レディに掴みかかってくれば、気絶させて連行出来ると踏んでいた。しかし彼女は、絶対にムキになったりしない。
「そうだね……私はいくら努力しても、結局ただの足手纏い。いるだけで邪魔な、いらない存在。でもね……レディちゃん、誰がそんな運命を受け入れるの?」
強い瞳で、穏やかな顔付きで、レディの思う完璧な”大人”の姿で、カーリは問いかける。だが、”子供”のレディにはそんなもの、少しも理解出来なかった。理解したいとも、思えなかった。
「私はね、理不尽な目に遭う度、これが自分の運命なんだって、仕方ないことなんだって、言い聞かせてきた。諦めて、理不尽を受け入れるために。でもね……もう、そんなの耐えられないんだよ。許せないの」
カーリは、過去の自分を思い返しながら懸命に言葉を紡いでいた。かつての彼女はただの、現実に絶望し、あらゆる希望を諦めた女だった。理不尽に押し潰され、逃げる気力すら奪われて、日々心を閉ざして生きていた。その場から動くことも出来ず、身体を丸めて蹲ったまま、誰かが自分を助けてはくれないかと願っていた。
「運命を変えたいとか、抗いたいとか、そんなかっこいいものじゃない。でも、ここで何かしなければ、私は私でいられなくなる気がするの……そんな辛い思いは、もう沢山。もう一度あんな目に遭うくらいなら、いっそこの場で死んだ方が、マシ」
だが、トワイライトたちが現れてから、彼女の人生は一変した。カーリはまた、自分の足で前に進めるようになった。辛いことがあったなら、力を貸してくれる者たちに出会えた。
「トワイライトさんたちは、理不尽に殺されそうだった私を救ってくれた。だから、今度は、私の番」
けれど結局今も、カーリは自分を守ってくれる相手に対して、何の謝礼も渡せていない。そのことが、ずっと心の負担だった。苦しかった。今になってやっと、それから逃れられるのだ。
「行かせてよ、レディちゃん。私、ずっと願ってたの。トワイライトさんたちの役に、レディちゃんの役に、いつか立ちたいって。こんな私に何が出来るか、それは私にも分からないけど、これだけは分かる。今がそれを叶える時なんだよ。そのためなら、どんな代償を支払ったって構わない。私は、私のやりたいことを貫き通したい」
これは、チャンスだ。彼女の直感が、大きな声で告げている。今行動しなければ、彼女はこの先また、長い間己の無力感と失望感に囚われていなければならなくなる。そんな思いは、もう嫌だった。
「分かってくれなくても構わない。ただ……私の自由を、奪わないでほしい」
何が出来るかなど、分からない。何も出来ないかも知れない。だが、何かを成し遂げたいと思った自分の気持ちを、カーリは蔑ろにしたくなかった。例えそれが、如何程の危険を孕んでいたとしても。
「これは、私のための行動。私が私利私欲に駆られて、勝手にすること。他の誰も、悪くない。トワイライトさんもエンヴィスさんも、もちろんレディちゃんも……だけど、私の邪魔をするっていうのなら、私は全力で抗う。私は……自分の好きなように生きられないことが、この世で最も苦痛だから」
失敗をすれば、彼女たちを悲しませると分かっている。責任問題に発展し、トワイライトたちに迷惑をかけることだってあり得る。けれど、どうしても進みたいのだと、レディの目を見て訴えかけた。彼女であれば、友達の本気は慮るはずだ。半ば友情を利用したような形になるが、カーリは構わなかった。
「私は傲慢で、強欲で、自分勝手な女。でも、それでいいと思ってる。醜くて汚い自分自身を、肯定する術を教えてくれたのは……トワイライトさんや、レディちゃんたちだから」
彼女たちのせいだとは、決して言うつもりがない。しかし、彼女たちに肯定してもらったことも、事実だ。これでいいと、このままがいいと、認めてもらった己のままで、好きに生きたいのである。強く、自由に、自分の道を歩みたい。
力がないままでは、他人に守られるしかない。だがそれでは、助けてくれた相手に恩を売ったことになってしまう。自由を何より求める彼女にとって、借りを作ったままでいることというのは、自らの首輪にくくりつけられたリードを、他人に渡すのと同じ行為。自分の支配権は、誰にも預けたくない。トワイライトのような、尊敬し憧れる相手であれば尚更、対等な関係を築きたかった。
黒々と輝く夜空のような瞳を、断固とした決意で満たし、カーリはレディを見つめる。彼女は困り果てたように唇を引き結び、晴れた空のような青い瞳を、不安に揺らしていた。
「……分かったよ」
やがて、沈黙が破られると共に、レディが一つ首を振った。流石に、ここまでカーリの覚悟を聞かされれば、無碍にすることは出来なかったのだろう。普段は大人しくて、従順そうなカーリだが、その腹の内は実に悪魔らしい、独善的な欲望で渦巻いている。レディにはそんな彼女を、止める手段などなかった。
「だけど、アタシも一緒に行くから。カーリ一人には任せらんないし」
しかし、せめて自分が同行すれば、まだ彼女の助けになるだろう。そう期待して申し出たレディに、カーリはくすりと微笑みかけて、喜んだ。
「良かった。レディちゃんが一緒なら、心強いね」
「むぅ……エンちゃんには、カーリが怒られてね」
柔らかな笑顔を見せられたら、反発出来るものも出来なくなる。それを分かっているのだとしたら、相当たちが悪いことだ。カーリにかすかな疑いと不満を抱きつつ、レディは肩を落として渋々とついていった。
「それで?どこ行くの?トワさんたちがいそうなとこ探すとか?」
「うーん。それもいいけど、まずは……タキトゥスさんたちの動向を確かめなくちゃ」
ここまで来たら、もはや目標を達成するしかない。諦観に満ちたレディは、半ば自暴自棄になってぶっきらぼうに尋ねる。答えるカーリは意外にも冷静に、目的に辿り着くまでの道順を筋道立てて考えているようだった。ならば任せようと、レディは思考を止め、ただ隣を歩く。面倒なことに付き合う自身の優しさを後悔し始めていた。
「はぁ……カーリ、マジで帰ったらパフェ奢ってね」
「分かってるって、レディちゃん」
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