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偽楽園の悪虐令嬢
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現在、魔界府警察部門脱界取締部捜査一課には、二つのチームがある。一つは、脱界を実行するための魔法を、政府に無許可で販売する、”脱界提供組織”を取り締まる<組織的脱界者対策室>。そしてもう一つが、多額の金と引き換えに、脱界を試みる悪魔たちを取り締まる、<単独脱界者対策室>だ。前者は、捜査対象が複数人であるために、捜査員の人数も多い。反対にトワイライトたち単独脱界者対策室は、さほど重視されておらずメンバーも四人という、非常に小規模な部署だ。
「もぉ~~~~、何でこんなに書くもの多いの~~~~!?疲れちゃったよーーー!!」
従って、一人あたりの業務量は自然と増加してしまう。特に、書類作成などの事務的な作業であれば尚更。
午前の業務をほぼ全てキーボード入力に費やし、体力も気力も尽き果てた少女が一人、オフィスという名の無機質な戦場に、屍を投げ出す。デスクトップコンピューター相手に格闘を繰り広げること数時間。既に精も根も枯れ果てて、金髪を狭い机の上に散らかすレディの額を、エンヴィスが軽くこつんと叩いた。
「仕方ねぇだろ。一気に12人も逮捕なんて、前代未聞だったんだから」
彼らが先日完遂した仕事。それは、単独脱界者対策室という部署の名前と真っ向から対立した、複数犯を相手取るものだった。人間界のとある倉庫街にて、一度に十二名もの脱界者を逮捕、送還するという、超大型案件。捕らえた脱界者たちを一人一人、逮捕の状況から具体的な会話のログまで、詳細に記録していかなければならない。まさに手に負えない膨大な作業だ。砂漠の砂を、手で掬って運ぶような状況に、流石のエンヴィスもうんざりしていた。プリントアウトした書類をホチキスで留め、ファイリングする動作すら、普段とは似ても似つかない、気怠げな様子だ。
「もう、ほんっとサイアク!トワさん、こんなこともうやりたくないって言ってやろうよ!誰だか知んないけど、こんな仕事寄越した偉い人にさ!ガツンと!!」
どんよりとした空気を、金切り声が切り裂く。ただでさえ苦手な書類作成を、更に嫌いなパソコンでやらされたレディは、最高に不機嫌な調子だった。普段ならここで宥めに入るはずのカーリも、経理部からの呼び出しで席を外している。きっと、魔法の痕跡を消すのにかかった追加費用について、小言を言われているのだろう。厄介な仕事を任せてしまうことに、罪悪感を抱かないでもないが、今は何よりも、自身の疲れがエンヴィスを苛んでいた。終わりの見えない事務作業地獄に気を遠くしかけていると、タイミングよくドアが開き、カーリが入ってくる。
「ただいま戻りました。進捗……どうですか?」
「お帰り~~~……カーリくん」
目の前の光景を見るなり、彼女は惨状を機敏に察知して、声を萎れさせた。最奥の大きなデスクで、頭を抱えて悶々としていたトワイライトが、呻くような返事を投げかける。
「あ~~~……そうだねぇ。これはちょっと、頭が痛くなるレベルだ」
「ですよね……」
停滞した室内の空気を入れ換えるためか、入り口のドアを開け放したまま、カーリは自身の席に腰を下ろす。そして、浮かべていた苦笑を引っ込めると、トワイライトの方を心配そうに見遣った。
「本当に頭痛そうですね。体調、大丈夫ですか?」
視線の先でトワイライトは、大きな角と額の隙間に指を差し入れ、届きそうで届かないこめかみの辺りを、どうにか揉もうと四苦八苦していた。無気力そうな表情をいつもより更に曇らせ、消耗している様子だ。見慣れない姿に、カーリは戸惑ったが、他の者は誰も振り向こうとすらしない。
「どうせ、”魔欠”でしょ?普段から魔力消費しないからですよ」
またかとでも言いたげな、半ば呆れを含んだ表情で、エンヴィスが言う。およそ上司に対する態度とは思えないが、付き合いの長い彼らだからこそ出来ることだ。元々、トワイライトはあまり上下関係を気にかけない性分だからでもあるのだろう。
「何ですか?マケツ?って?」
聞き慣れない言葉を耳にしたカーリは、わずかに小首を傾げた。魔法をあまり使わない彼女に、どう説明するべきかと、エンヴィスは一瞬視線を彷徨わせる。
「あー……まぁ、筋肉痛みたいなもんだよ」
「へ?」
精一杯、脳内で探した言葉を発するが、余計理解出来ないようだ。大きな目を見開いて、頓狂な声を上げるカーリに、エンヴィスは再び悩む。
「う~ん、そうだなぁ……人間だって、いきなり激しい運動したら翌日体が痛くなんだろ?悪魔にも、同じことが起きるんだよ。それが、魔力欠乏症だ」
「魔力欠乏症」
さっきよりは多少分かったのか、彼女はオウムのように、エンヴィスの言葉を繰り返した。好奇心をそそられたのか、黒い瞳がぱちりと瞬く。
「魔法を使えば、魔力が減る。魔力とは、魔力は悪魔にとって命の糧みたいなもんだ。いくら時間が経てば回復するとはいえ、沢山の魔法を使えば、生きる力が減るのと同じ。体調不良を起こしても不思議じゃねぇ」
人間にとっての、血液のようなものだ。不足すれば、貧血を起こして倒れかねない。だが悪魔とは、血液でなく魔力で生きる存在。魔力が充足していることが、健康の証となる。
「それが、魔欠だよん」
レディが付け加えた言葉を聞いて、エンヴィスは尤もらしく頷いた。
「だが、魔力欠乏症は、普段から鍛えておけばある程度は防げるんだよ」
「日頃からある程度の魔力を消費するようにしていれば、具合が悪くなりにくいってことですか?」
「そんなとこだな」
彼らの説明を、頭の中で噛み砕いていたカーリが発言すると、エンヴィスは鷹揚に首を振る。レディがはしゃいで手を叩き、彼女を称えた。
「さっすがカーリ!頭いいね!」
褒められ慣れていないカーリは、嬉しさと謙遜の混じった曖昧な笑みを浮かべ、はにかむ。
「だからトワイライトさんも、日常的に魔法を使うべきなんですよ。俺が使ってるジム紹介しましょうか?」
一方、再びトワイライトへと話を振ったエンヴィスが、彼の方を見てそんな提案をした。
魔力欠乏は防げると言ったが、その部分こそが筋肉痛と例えた理由だ。日常から一定の魔法行使を続けていけば、体は次第に魔力の消費に慣れていく。魔力が減った状態に免疫がつくのだ。そこは、貧血と違うところだろう。人間たちは、血液が足りていない状態には適応出来ない。悪魔だけが可能なことだ。だからこそ、常日頃の魔法行使が大切なのである。更に言えば、魔欠が起こっている悪魔とは、普段から魔法を使うことをしない悪魔ということなのだ。サボってばかりの怠け者だと、レッテルを貼られてもおかしくない。
「え、エンちゃんてジム通ってるの?」
そんな目には遭いたくないと、エンヴィスは平素からの努力を重ねている。しかし、生まれ持った才能とでも言うべき力で、超人的な身体能力を発揮しているレディには、分からないようだ。前にも、『わざわざお金なんて払わなくても、運動なんてどこでも出来るじゃん』などとぬかしていたことを思い出し、エンヴィスはやや眉を顰める。
「俺の魔法は、日常で使うのは難しいんだよ。思いっきり使うには、高度に耐性のある、専用の部屋を使うしかない。そんなもの、ジムくらいしか置いてないからな」
肉体を動かす運動であれば、道具さえ揃えれば家でだって出来る。しかし、魔法の場合はそうはいかないのが厄介なところだ。特に、エンヴィスが習得しているのは主に実戦に適した、攻撃力の高いものばかりだ。街中で安易に試そうものなら、間違いなく逮捕されてしまう。特別な許可を取得しているジムくらいしか、思い切り力を奮える機会がないのである。
「なるほどー。大変なんだね、エンちゃん。アタシだったら、そんなちみちみやらなきゃいけない魔法なんて、もううんざりしちゃう。ドカーンと使っちゃうな~」
彼の言葉を聞いたレディが、顎に手を当てて尤もらしく同情を示す。だが直後に、椅子の背もたれに頭を預けて、おどけた態度を取った。もちろん実際に実行したら刑務所行きなので、冗談だろうが、彼女が言うと本当に聞こえるから恐ろしい。
「でもトワイライトさんなら、そんな魔法だけじゃなくて、日常使いも出来そうな便利な魔法を沢山持っているでしょう?少し普段の生活で使ってみたら、楽出来るのでは?」
だが、トワイライトの使う魔法は、エンヴィスほど攻撃性に特化したものではないはずだ。もっと容易く鍛えることが出来るのではないかと、カーリは尋ねた。隣でエンヴィスも、長い足を組み替えながら頷いている。三人から見つめられたトワイライトは、さっきとは違う理由で頭痛に悩まされた顔をして、腕を組んだ。
「う~ん、まぁ、そうではあるがね……何か、嫌なんだよ」
変に意地を張った言い分を紡ぎながら唸る彼。レディが、心底理解出来ないという表情をして聞き返す。
「何で?便利じゃん」
「うん。便利だけどね。便利だから、というか……ねぇ」
日常生活まで魔法に頼っていたくはない、ということだろうか。カーリにはかすかに、分からなくもない程度の理屈だが、エンヴィスとレディには伝わらないらしい。きょとんとする彼らの後ろから、よく通る中低音が飛び込んできた。
「あなたたち、いつまで下らないお喋りくっちゃべってるの?後にしてもらいたいんだけど」
突如としてオフィスに響き渡る、棘のある口調。高くも低くもない、性別の分かりにくい声色だ。だがだからこそ、相手が誰なのか一瞬にして分かった。
「これはこれは……レンキさん」
トワイライトが、それまでの渋い顔をすっかり仕舞って、素早く立ち上がる。開け放たれた扉の影から、ぬるりと誰かが入ってきた。
現れたのは、背の高い、美形の悪魔だ。体付きや身に纏った黒いスーツから、かろうじて男だと判断出来るものの、その声や口調、仕草、表情、佇まいなどは、あらゆる点で中性的な印象を放っている。ややつり上がった大きめの瞳に、薄い唇、白い肌はまるで雪のようで、頬を撫でる指は細く長い。きっちりとセットされた柔らかそうな深い茶の髪から、艶のある太い角が、ムーアホーンのそれのようにぐるぐると渦を巻いていた。
彼の名前は、レンキ。単独脱界者対策室の、情報分析担当官である。
「わざわざ情報分析部からこちらにお越しくださって。何の用でしょう?」
「何の用、ですって?そんなもの、あなたたちに言うまでもないでしょう」
やたらと慇懃に声をかけるトワイライトを、レンキは小馬鹿にしたように見下ろす。平均的な悪魔よりやや小柄な彼をいびるように、顎を上げて高飛車な姿勢を取った。彼が手に持つ、見慣れた色の分厚いファイルを目に留めて、トワイライトはすっと大きな瞳をすがめる。しかし、すぐに視線を逸らすと、大きな声で笑い飛ばした。
「はっはっは、それはそうですな。この状況であなたがやってくるということは、答えは一つしかない……そうでしょう?」
あからさまな嫌味と共に見下ろされても、彼は微塵も表情を変化させることがない。いつものように、本心の読めない笑みを貼り付けて、表面上だけで面白そうに肩を揺らした。そして、くるりと踵を返し歩いてきた道を戻ると、自身の机に浅く尻を乗せた。
「分かってるならいいんだけど。アンタは腹黒だから、イマイチ信用ならないんだよね」
「ひっどいなぁ……心外ですよ」
レンキの毒に苦笑しつつ、後ろに手をついて彼に向き直る。彼の視線が届かないことを確かめると、密かに手を伸ばし、机の引き出しの摘みを掴んだ。
「それじゃ、時間がないからさっさと済ませてしまいたいんだけど、いいかな?」
トワイライトの返答など待たずに、彼は足を踏み出して、堂々と踏み入ってくる。まるで自分の家のような振る舞いに、カーリは心の中で、眉根を寄せた。
別段、オフィスに他の悪魔が入ることを嫌っているわけではない。ただ、何か良からぬ策略が巡っている気がするのだ。まるで、目に見えない蜘蛛の巣に絡め取られているような。
「でもね、レンキさん」
傍若無人な振る舞いをする彼を諌めるように、トワイライトはやや大きめの声を発する。
「何?」
邪魔をされて不快感が増したのか、彼の本意を見抜こうとしたのか、レンキはあからさまに迷惑そうな顔をした。トワイライトはそんな彼に構わず、おもむろな調子で語り始める。
「我々は長らく、共に仕事をしてきました。共に同じ、脱界者の撲滅を目指して。そうでしょう?」
「は?え、えぇ……そうだね」
唐突にありきたりな大義名分を持ち出され、レンキは困惑しながら頷く。表向きを取り繕うための建前論なのだから肯定するしかないというのに、トワイライトは彼の答えを読み切ったことを誇るように、悦に入った笑みを浮かべた。自然と、レンキの胡乱げな眼差しが鋭くなる。
「何が言いたいの?」
「互いの考えが分かるという話ですよ。あなたは、私たちならあなたの用件を言わなくても分かるはずだと言った。本当にその通りですよねぇ~。私にも、あなたが何をしにきたか分かるんです。あなただって、分かるはずでしょう?……我々が、あなた方に、何を求めているか」
レンキの追求から逃れるように、笑いをこぼして顔を背けたトワイライトだったが、ふと思わせぶりな発言をすると、彼に歩み寄る。その手には、先程カーリたちが必死の思いでまとめ上げた、先の案件の報告書の入ったファイルが握られていた。
「……どういう意味?」
レンキの、形のいい柳のような眉が不快げに寄せられる。あえて言葉にせず、態度と雰囲気で伝えようとするトワイライトの遠回しなやり方に、気が立ってきているのだろう。だが、トワイライトは案の定、レンキの内心を無視して、にっこりと笑った。
「あなたなら分かるはずでしょう。レンキさん」
そしておもむろにファイルを開くと、一番上にファイリングされていた紙を取り出す。今回の仕事で彼らが他部署にかけた様々な迷惑や負担について、事情の説明や謝罪、再発防止の誓約など、普段であれば必要のない文章をいくつも挟んだ分厚い報告書の、一ページ目である。レンキがその紙面にじっくりと目を通す前に、薄いそれはへたってぴらぴらと垂れ下がった。
「我々は単独脱界者対策が任務です。人間界へと脱界し、彼らの世界へ干渉している悪魔たちを捕まえるのが仕事だ。あなた方情報分析部は、彼らの情報を集め、正確なデータを我々へと引き渡す。それを元に、我々が現地に赴き、脱界者たちを捕らえる。これが、長らく続いた脱界者取締部のやり方であり、それを破る理由もない」
何故か、当たり前の常識を滔々と語るトワイライト。この言葉だけ切り取れば、何を目的としているのかよく分からないだろう。しかし、この場の空気感が、何より彼の言い分を伝えてくる。
(恐らく)
それは、まだこの仕事に就いて日の浅いカーリにも、予想の出来るもの。
恐らく、これはあれだ。
トワイライトは、己の言い分を直接口にして伝えるのではなく、声には出さない言動を通して、理解させようとしている。第三者の耳に入る可能性のある形では、通しにくい要求をぶつけるために。
「いいですか。この仕事は、現場の悪魔がいないと成り立たない。私たちが、人間界で脱界者たちの抵抗や逃走を阻み、送還しているからこそ、脱界者の取り締まりは完了するんです。お分かりでしょう?」
そして、彼は怒っている。自身と部下の業務、進退、命に関わる重大事項についての遺憾の意を、担当官であるレンキに伝えようとしているのだ。
側から見れば、激怒という言葉ですら美化しきれない狡猾なやり口で。
「そうだね。脱界者たちの実力や、素性が分かっているからそれも可能なこと。私たち情報分析部の協力があって初めて、アンタたちの任務は成功する」
レンキは彼の本心が分かっているのかいないのか、淡々と事実だけを述べるような口ぶりで応じた。トワイライトは彼の言葉を受けて、満足そうに首を振る。
「ご理解いただけているなら何よりですよ。あなた方がいなければ我々は終わりだ。何も知らず、ただ現実に翻弄されるだけになる。場合によっては、命を落とすかも知れない。つまり、あなた方に命を預けているのと同じなんです。あなた方の協力がなければ、生きられない」
「だから……謝れと?」
トワイライトが話し始めた時と同じように唐突に、すぅっと、レンキの目が細くなった。トワイライトの、目尻の垂れた大きな瞳に、それが浮かべる深い暗闇に、鋭く斬り込むように。
「今回の任務における、アンタたちの不始末は、全て我々情報分析部の責任、と。そう言いたいってことかな?」
「あはは、私は何も申し上げていませんよ」
美形が怒るというのは怖いものだ。今し方まで、綺麗だと思っていた凛々しい目つきが、もはや完全に内心の激怒を表す鏡面となってしまっている。大っぴらに叫ばれて暴れられるより、次に何をしてくるか分からない得体の知れなさが、恐怖となってカーリの心臓を脅かした。
しかし、その烈火の如き思いを、一番至近で受けているはずのトワイライトは、少しも憶した様子を見せない。むしろ平然として、邪推だと片手で払い退ける仕草をした。
「あなたにだって、組織人としてのしがらみがきつく巻きついているのは分かっていますから。責任を全てひっ被せようなんて企み、私にはない。けれどね」
突然顔を近付けたトワイライトの瞳が、奥行きのない闇のように広がる。どこまで行っても終わりのない、無限大に続いていく虚無に本心を引き摺り出されたのか、レンキの顔から表情が抜けた。
「ほんの一端は、あなたにも思い当たるところがあるんじゃないですか?それについて、レンキさんご自身はどう考えていらっしゃるのかと、ご意見をお伺いしたいんですよ。いや別に、謝罪とかそんな大層なものを要求するつもりはありませんがね。我々には、そんな権利も意思もない。しかしね、」
「相変わらずよく回る口だこと」
少しも穏やかでない目をして、口だけを完璧な三日月の形に描き、心にもない建前と本心を巧妙に喋り続けるトワイライト。レンキは、彼の厄介な性格を心底疎んじるように、顔を逸らして吐き捨てた。トワイライトが意外そうに片眉を上げたところに、彼の細長い指が突きつけられる。
「そうやってぐだぐだぐだぐだ、つまらないことばっか口にしてる暇があるのなら、自分たちの業務改善に少しはない頭使ったらどう?こ~んな報告書にいつまでも時間かけちゃってさ。もっと効率的に動けば、ここまでの失態を犯さなかったんじゃないの?」
「なるほど、話をすり替える気ですか。あくまで、自分たちは自分たちが出来得る限りの最善を尽くした。だから責任は一切ない。あなたの所存はそういうこと、と……解釈してよろしいので?」
「そうは言ってないでしょ!私たちを見くびらないでほしいね!」
分かりやす過ぎるほど明確な挑発を向けられ、レンキのプライドが耐えられるわけはない。彼の整った眉がピクピクと痙攣したかと思うと、甲高い怒鳴り声が飛んできた。
「私たちだって、やれるだけのことはやったつもりだよ!あの案件は本来であれば、もっと時間をかけるべきだった。情報を集めつつ、数人ずつ逮捕する。そういうやり方が一番望ましいと思っていた。それなのに上層部が……勝手に、時間がないからと調査不足の案件をアンタたちに回せと命じてきただけのことよ」
自分はただ上の命令に従っただけ。ただそれだけだと繰り返すレンキ。あまりに勝手な言い分に、カーリも胸に暗雲が立ち込め、エンヴィスはあからさまに顔を歪める。彼らの気持ちを代弁するように、トワイライトが小さく嘆息した。
「自分の失敗は、全て上司の責任だということですか。都合のいいことだ。それでいてよく、サラリーマンが務まる。我々にも、その器用さをご教授いただきたいところですな」
「あれは失敗じゃない!時間がなかっただけなんだから」
「それは……一般には、言い訳と呼ばれる意見ですがねぇ。私はそんな、下らないモノ、一度だって期待したことがない。もちろん、これからも」
レンキは完全に、トワイライトのペースに飲み込まれてしまっている。これは、彼が敗北を認めるときも近いなと、エンヴィスは密かに熱くなった。トワイライトの尤もらしいスピーチは続く。
「時間がなくとも、最大限の努力はすべきでしょう。情報不足を現場で補えなんて、それほど無茶なことはない。あなた方は自ら、存在意義を放棄したのと同じですよ?自分たちなど、いても意味はない。誰かに取って代わられても問題はない……そういうことですかな?」
「ふざけないで。私たちは誇り高き情報分析官。意味がない存在じゃなんかじゃ、間違ってもない」
「なるほど。あなた方には存在する価値があると仰せだ」
トワイライトの唇が、計算され尽くした軌道で、弧を描く。彼の勝ちだ。腹の探り合いなど、まるで見たことのなかったカーリでも分かる。レンキは見事、トワイライトにはめられ、都合良く誘導されてしまっている。だがそれを、彼に教えてやる気にはなれなかった。
「当たり前でしょう。私たちを何だと思っているの?」
「ということは、次は万全の状態で、仕事を回していただけると?」
トワイライトはここぞとばかりに、自身の要求を突きつけ、レンキが最も断りにくい形でもって伝達する。全て彼の策略だとも気付かずに、レンキは自慢げに顎を上げた。
「もちろん。これでも見とけば?」
かかった。
エンヴィスとカーリの胸がすっと空く。レディだけは、会話の内容をよく分かっていないようで、クエスチョンマークを浮かべていたが。
「次のお仕事。至急案件だから。速やかなご対応、よろしくってことで」
「ほぉ、これは……」
押し付けられたファイルの中身をパラパラと見て、トワイライトが軽く目を丸くする。簡単に言いくるめることの出来ないレンキへの驚きや苛立ちなどは、微塵も感じられなかった。
「中々、詳細な情報ですな。これには前回のような、不備は存在しないと信頼してよろしいんでしょうか?」
「当たり前じゃない。確約してもいいわよ。これは完璧に、信用のおけるソースから得た情報ばかり。これを使えば、簡単に証明出来る。アンタの目は腐ってるってことがね」
念を押すようなトワイライトの言葉に、レンキはここぞとばかりに胸を張って断言する。そして、好き放題言われた恨みをぶつけるように食ってかかってきた。
「私たちに価値がないなんて、よく言えたね。覚えてなさい、近い内に必ず、思い知らせてあげるから」
「非礼は謹んでお詫び申し上げます。しかし……いつもこのくらいの結果であれば、レンキさんのご機嫌を損ねることも、誠意を見せていただく必要もなかったのですがねぇ。いやはや、レンキさんも本当に、運の悪いお方だ。二度と、あんな惨事に巻き込まれぬよう、お気を付け下さいね」
人差し指をトワイライトの胸に突き付け、睨み付ける彼の、緩やかな癖毛がふるふると震えている。それほどの怒りを表す彼と、トワイライトの動じない顔とが、鮮やかなコントラストを描いた。
「ふん……嫌らしい男」
凪いだ湖のような平坦な顔を見て、冷静さを取り戻したレンキがわざとらしく鼻を鳴らす。
「追加の情報は、またすぐに持ってくるから。アンタたちは、せいぜい頑張ってみることだね」
あくまでも高飛車な捨て台詞を残すと、感情を剥き出した自身の行動を恥じるように、そそくさと早足で行ってしまった。
きっちりとアイロンのかけられた、ダークブラウンのスーツの背が見えなくなった後、エンヴィスが大袈裟に溜め息をつく。
「はぁ~~~……やっぱり、次の案件か」
「追い返すことは無理だったね。まぁ、情報の確度はここ最近で一番高いと見ていい。やっぱり気にしていたようだね。追加の情報までもらえるようだよ?」
深く背もたれに身を預け、トワイライトは思ってもいない冗談を飛ばす。エンヴィスは彼に手渡されたファイルを開きながら、呆れた眼差しを注いだ。
「あなたがそうさせたんでしょ……」
「さぁ、何のことだかさっぱりだね」
「至急案件って言ってましたよね?どんなのですか?」
滅多に使われない言葉に好奇心を刺激されたカーリが、トワイライトの言葉を遮って横から首を突っ込んだ。
「ねー、お腹すいたよ~。ランチ行こ~?」
既に昼休憩の時間になっているからか、食欲の奴隷と化したレディが、皆を急かす。早く用件を済ませろとばかりに、カーリの手元を覗き込み、指を差した。
「何て書いてあんの?」
「えーとね、これは……」
ただでさえ疲れているのに、大量の文字など読みたくないと駄々を捏ねる彼女に、カーリは掻い摘んだ説明をしようと文章に目を通し始める。やがて、同じようなタイミングで内容を確かめ終わったエンヴィスと二人、あんぐりと口を開けた。
「こ、これって……!?」
* * *
人間界の某国某所。
ピンクや黄色、パステルグリーンとカラフルな塗装の施された可愛らしい住宅街の一角に、一つだけ、悪趣味な外見をした建物があった。赤茶けたレンガの壁には若者らしいストリートアートじみた落書きが書かれ、ペンキの剥げかけた屋根からは蛍光色のイルミネーションがだらしなく垂れ下がっている。割れた窓ガラスの隙間から流れ出る大音量のヘヴィメタルは、強化された重低音のリズムに合わせて辺りの空気を揺らし、通行人の眉を顰めさせた。
周囲の様相に全く馴染んでいないここは、街でも最も人々に煙たがられる場所。近所の不良共が一様に集まって、深夜までバカ騒ぎをする溜まり場のようなところである。中では売春やら薬物の違法売買が平然と行われているらしいが、地元警察は依然として静観するまま。法の番人が動かない限りは、周辺住民も手を出せず、ただ怯えて距離を置いているだけだった。
ある、一人の少女が現れるまでは。
女の子が一人出てくるところが、民家の防犯カメラに映る。彼女の衣服には汚れも傷も見当たらず、ツインテールに縛られた金髪も全く乱れていなかった。雪のように白い肌に、暴力やバッドトリップの跡も見えない。住居の正面玄関から歩いて出てきた彼女は、真っ直ぐ庭を突っ切り、歩道に出てきた。時刻は正午過ぎ。ちょうど、ランチタイムで車通りも少ない時間帯である。真昼の道のど真ん中で、しばし立ち竦んで身動きを一切見せなかった彼女は、突然後ろの街灯に付けられたカメラを確認するように、ゆっくりと振り向いた。人形のように大きな瞳は、ピンクと緑のオッドアイ。作りものめいた端正な顔がレンズを捉えた瞬間、映像は乱れ何本も縦線が入り始める。かろうじて拾っている音声も、ノイズ混じりの汚いものになった。何事かと確かめる前に、映像はぶつりと途切れ、画面は真っ黒に塗り潰される。だが、観察眼の鍛えられた者なら、見逃さなかっただろう。カメラが故障する直前、こちらを向いた少女の左手に、鮮血の滴り落ちる美容ハサミが握られていたことを。そして、もっと細部まで見つめれば、気付いたはずだ。下品な装飾で満たされた住宅の窓に不自然な汚れが付着していたこと。ドアの下から庭の地面へ、赤い液体が流れ出て、川を作っていたこと。少女が出てきた時、静かに閉まっていくドアの隙間から、何人もの屈強な男たちが、折り重なって倒れている光景に。
彼女の名前は、ミル。魔界府警察部門刑事部では、”薄桃色の殺戮者”と呼ばれ、長年捜査の対象になっている、連続殺人犯である。
「脱界者で連続殺人犯、ですか!?」
カーリの甲高い声が、さほど広くもないオフィス全体に響き渡った。
遅めの昼休憩を終え、戻ってきた彼女たちは、レンキから持ち込まれた至急案件の対策会議中だ。
彼女が発した声は、この場にいる全員の心を、端的かつ正確に代弁している。
下ろされたスクリーンに映し出される、人間界の防犯カメラの映像には、血塗られたハサミを持つ、一人の少女の姿が捉えられていた。
彼女こそが、今回のターゲットとなる脱界者。魔界でも幾多の殺人事件を犯した、凶悪犯罪者である。
「まだ子供じゃん……ほんとにこのコなの?」
大きく映し出された彼女の姿は、まるきりそこら辺を行く小学生と変わりない。幼さの残るあどけない顔立ちに、大人の半分ほどしかない低い背丈。未発達で小さな身体を包むロリータファッションと、ツインテールに結い上げた金髪も相まって、まるで人形のような見た目だった。
こんなに幼い子供が脱界者で、しかも悪魔も人間も何人も殺している凶悪犯なのか。いつもならターゲットの外見など気にもかけないレディすら、流石に信じられないようだった。
「前代未聞だな……これは、相当骨が折れるぞ」
エンヴィスが、頭の後ろで手を組みながら、嘆くように呟いて大きく背を仰け反らせる。彼の体重を受けた椅子の背もたれが、ギギイと不満げな音を発した。
「彼女は、魔界でも既に複数の悪魔を虐殺した、凶悪な殺人犯だ。刑事課が長年追い続けた、因縁の相手でもある。通称、ピンク・ジェノサイダー」
彼の言葉を肯定するように、トワイライトが手元の資料に目を落としつつ付け加える。そこに記されたミルの悪歴は、留まるところを知らないように延々と長く続いていた。殺人の容疑だけで数ページに渡り、他にも放火や強盗などの余罪がいくつもある。しかも、一つ一つの事件に関して、付属的な情報が山ほど盛り込まれた詳細なものだ。刑事課から引き継ぐにあたって共有されたのだろうが、その情報量の多さから、彼らがこの案件にかけている熱情の度合いが透けて見えるようだった。
「こんな子供が凶悪犯だなんて……信じられません」
未だ驚愕の淵から這い上がれないでいるカーリが、愕然と呟く。その表情は強張っていて、思考もいつものような冷静さを保てていないようだった。外見と内実は人間ほどに結びつかず、むしろその逆もあるという魔界の常識を、失念しているらしい。
「カーリくんの気持ちも分かる。確かに、これは私の記憶にある限りでも、他に類を見ない珍事件だ……だが、これが事実だよ」
言葉に詰まって沈黙しているカーリに、トワイライトは一度寄り添うような姿勢を見せ、それから彼女を説得するように話を続ける。
受け入れてもらわねば、困るのだ。冷静さを失えば、常であれば生まれない隙が生じる。そこを突かれたら、最悪の場合だってあるだろう。
「いくら信じられなくとも、己の常識で計れなくとも、ただ起きたことだけが、現実だ。そこに、自らの意思を反映させてはならないよ。命取りになるかも知れないからね」
「……分かっています。いるつもりです」
そう言って気丈に頷く彼女だが、やはり顔色は冴えない。気をつけておかねばと考えつつ、トワイライトは別の資料を取り上げ、説明を続ける。
「今回のターゲット、ミルという彼女は、孤児院で生まれ育った。元々は、廃業されたデパートの廃墟内にて発見された、遺児だったらしい。生後5ヶ月程度の身体には、無数の外傷が見られたそうだ。まぁ恐らく、虐待されていたのだろうね。可哀想なことだ」
口先だけで、同情までも示しながら語る。
孤児院に預けられた彼女は、10歳までの幼少期をそこで過ごした。その頃、彼女がどのようなあくまであったか、現在の彼らに知る術はない。というのも、孤児院は、既になくなってしまっているからだ。情報も、炎の中と言うわけである。
「彼女が暮らしていた孤児院は、ある日突然業火に包まれた。頑丈な煉瓦造りの建物が、ただの瓦礫の山と化すまで、一晩中燃え続けたそうだ。出火元も、火がついた時刻も分からない。消防部門に通報が入った時には、既に建物全体が燃え盛っており、職員も子供たちも、誰一人逃げ出せていなかった。唯一、物置小屋で寝ていたという、ミルという少女を除いては」
後の捜査で、孤児院の運営状態は、相当酷いものだったという事実が明らかになった。故意に子供に怪我をさせたり病気にかからせては、給付金を手に入れて、職員が私的流用していたそうだ。気に入らない子供には平気で暴力を振るい、そのせいで命を落とした子供もいたらしい。ミルも、その一人だったのだろう。彼女の場合は特に扱いが酷く、食事や寝る場所すらまともに与えられなかった。保護された時の彼女は、深刻な栄養失調で、いくつか感染症にも罹患していたと、記録が残っている。
「孤児院に所属する身でありながら、彼女には部屋すらなかった。人一人が入るスペースもない狭い物置小屋に閉じ込められ、小さな体を押し込むようにして何とか生活していたようだ。ドアには鍵がかけられ、窓も、空気を入れるためのごく小さなものしか存在しなかった。そのため、日中でもほとんど光が入らず、小屋の中は常にカビと湿気に塗れており、ネズミや蜘蛛も大量発生していたという」
「それって、そのコが火付けたんじゃないの?自分を酷い目に遭わせた大人たちなんて、ぶっ殺してやるーって」
「焼き払いたくもなるよな。ここまでの扱い受けたんじゃあ」
「でも、鍵はかかってて窓は小さかったんですよね?子供の身体でも通れないくらい。じゃあ、外に出るのは難しいんじゃないですか?」
レディ、エンヴィスが推測を発言し、もう一度資料に目を落としたカーリが、不可能だと唱える。確かに、今の彼女の経歴を知っていれば彼らの発想も頷けるが、カーリが述べたのと同じような考えを、当時の捜査本部もしたようだ。実際、ミルは不起訴であり、まともに捜査をされた記録すら残っていない。
「まぁ詳細は不明だが、ともかく彼女は、当時の警察部門の捜査の対象になるような人物ではなかったということだ」
「子供だからですか?」
トワイライトの言葉に、カーリが首を傾げて質問する。彼女の疑問を、トワイライトは片手を振って否定した。
「いや、そうじゃないんだ。これを見てほしい」
適当にあしらいつつ、皆に配るのは、彼女の診断書だ。発行元は、魔界でも屈指の大病院、その精神科。
「彼女は、精神科が本院とは別に持つ、特別療養棟に入院していた。いわゆる、精神科閉鎖病棟、アサイラムだね」
「映画みたいな話だねー」
「レディ、黙ってろ」
レディとエンヴィスの潜めた声を聞きながら、カーリは前に見たテレビ番組を思い出していた。
その病院の持つ閉鎖病棟を、特集した番組だった。都会の本院とはかなり距離の離れた郊外の街に聳え立つ、巨大な白い塔。およそ病院とは思えない綺麗な外見で、街のシンボルのようにも扱われていた。しかし、アサイラムなのだから当然、中には深刻な精神疾患を持つ患者ばかりが入院しているに決まっている。ミルのような、大量殺人を犯すような、異常者が。
(見た目は確かに目を引くけど……中身がそれって)
仄暗い、嫌な感情が蘇ってきた。外見ばかり取り繕って、内側にどろどろとした汚くて醜いものを隠している、人間に対して抱くような嫌悪感だ。
「当時の担当医と、カウンセリングを行ったカウンセラーの診断書によると……彼女は、妄想性ユートピア症候群。強い妄想により形作られた、”理想の楽園”に住んでいると、固く信じ込んでいる」
「妄想性……?」
「ユートピア症候群……」
トワイライトが発した聞き慣れない病名に、カーリとエンヴィスが困惑した声を出す。精神的な病の一つに、妄想や幻覚があるというのは知っていたが、ユートピアなんて明るげな言葉がついているのは意外だ。
「彼女は、幼少期から虐待、ネグレクトなど過酷な生育環境で成長してきた。恐らく、命の危険を感じたこともあっただろう。そういった、劣悪な状況の中で生き延びるには、現実から目を逸らすしかなかった」
誰にも愛されず、優しくされず、傷付けられてばかりだった彼女は、やがて己の中に救いを求めるようになった。辛いことも、痛いことも、酷いことも何一つない、キラキラとして華やかな理想の世界に。
「彼女の思考や言動、趣味嗜好は、常にメルヘンで、毒されていて、歪んでいる。そう、カルテにも書かれている。彼女は己の妄想を否定しようとする存在に、強い拒否感を覚え、排除しようとすることがあるようだ。恐らく、その妄想が原因で、殺人や脱界を犯してしまったのだろうね」
彼女は、守るつもりだったのだ。己を生かし、支えた架空の世界を、誰にも奪われぬよう守った。殺戮は、半ば無意識に発動した、防衛本能のようなものだ。
「そんなの……捕まえたって心神喪失で無罪じゃねぇかっ……!そんなのってアリかよ」
「おかしいじゃん!自分が殺したんでしょ!?責任持ちなよ!」
エンヴィスが、憎たらしげに吐き捨てて、足元にあったゴミ箱を蹴る。鉄製の重たいそれが立てる硬い金属音に同調し、レディも珍しく憤慨を露わにした。
「でも、脱界の罪からは逃れ得ない」
「「!」」
唐突な声を聞いて瞠目したエンヴィスとレディに、トワイライトは目を合わせて当たり前の事実を述べる。
「脱界には、心神喪失も情状酌量もない。その点で見れば、殺人よりも重い刑罰を科されるかも知れない……他の世界に干渉することは、それほど重大な、禁忌だよ」
別の世界に関わった代償は、必ず最も酷い形で現れる。人間たちが今直面している、自然災害や疫病の流行は、過去に悪魔たちが人間を誘惑しようと、交流した際の弊害なのだ。
「我々の仕事が、この事件の多くの被害者や、刑事部の悪魔たちを救うことになる」
ミルの殺人を止めなければ、人間たちはおろか、自分たちまで滅びかねない。脱界を取り締まる仕事とは、地球の存亡にも関わる、重責を担っているのだ。
「だが、これだけは聞いてほしい。大事なのは、彼女が脱界者であるということだ。それ以外の……例えば殺人などは、考慮すべき付属事項に過ぎない」
トワイライトは指を一本立てて、大学で講義をする教師のような態度を取る。
多過ぎる情報を全て正面から受け止めていては、先に自分が潰れてしまう。自分たちの業務に直接の関係がある情報のみを適確に選び出し、自身の立場と現状を冷静に見極めなくてはならないのだ。究極的な見方をすれば、彼女が殺人犯かどうかなど、どちらでもいいことである。重要なのは、彼女が人間界にいる存在であるということのみ。脱界者であるという事実のみだ。
「いいか、君たち。我々は刑事でもなければ、悪を裁くヒーローでもないんだ。彼女に罪を認めさせ、正しく刑罰を受けさせるなんてことは、我々の業務内容に入っていない。分かるね?」
ここぞとばかりに、部下たちに叩き込んでおいてほしい注意事項を述べておく。問いかけられた者たちを代表して、エンヴィスが曖昧に首を振って同意した。それならば、とトワイライトは続ける。
「我々の仕事はただ一つ、脱界者を魔界に送還することだ。周辺の、どうでもいい事象に気を取られている場合じゃないんだよ。知っての通り、彼女は残酷な猟奇殺人犯であり、要注意の危険人物だからね。何が重要でそうでないか、冷静に見極めないと……今にその喉元を、掻き切られるかも知れない」
会議用に配置を変えられた机の天板に片手をついて、体重を預けながら、身を乗り出す。トワイライトの漆黒の瞳が、自分たちの視線と近い高さになった。真っ黒い瞳の中の、深い深い、終わりのない無限に続く闇に飲み込まれそうだ。そんな中で、足を掬われるなんて脅し文句を聞けば、どんな肝の座った悪魔でも心を動揺させるだろう。背筋を一筋、寒気が伝った気がして、カーリは小さく息を飲んだ。トワイライトは、彼女の心情が手に取るように分かっているのか、他の二人へと舐めるような冷酷な視線を移した。
「……と、まぁ、それは冗談だが置いておくとして」
突如、それまでの嵐は嘘だったかのように、彼の顔が、いつも通り温和で優しそうなものへと戻る。全員へと順番に向けていた、あの氷のような目つきは、どこへともなく綺麗さっぱり消え去っていた。今見たものは、夢もしくは幻覚だったのだろうかとカーリが戸惑っている内に、彼は笑顔で話を続けている。
「今は彼女をどう捕らえるか。それだけを考えることにしようじゃないか。至急案件なのだし、一刻も早く完璧な計画書を仕上げないといけないからねぇ」
「はい」
「わぁかったよー、トワさんっ」
淡々と返事をするエンヴィスとレディに、カーリは慌てて目を向けるが、別段何の変化も見られなかった。
「カーリくん、どうかしたかね?」
「はっ、い、いいえ何も!承知しました!」
訝しんでいる暇もなく、トワイライト自身に声をかけられ、驚いた彼女は随分威勢よく了承の意を示してしまった。
「カーリ、どしたの?」
「なっ、何でもないよ!」
「本当に~~~?」
突然奇妙な行動を見せ始めた友人を疑るように、レディが粘着質な視線を送る。カーリがそれ以上誤魔化しの方法を考えつかずまごまごしていると、何か勘違いをしたエンヴィスがレディを叱責し、終わらない書類業務に連れ戻す。膨大な報告書の山に埋もれ悲鳴を上げているレディと、隣で彼女を監督しながら自身の業務を始めるエンヴィス、彼らの横で届いた資料を簡潔にまとめるカーリ。相変わらずよく働く部下たちを眺めながら、トワイライトも自身で確認したい資料を開き、バインダーの中の報告書を捲る。そして、彼らの誰にも気取られぬよう、小さく、ほんの小さく微笑んだ。
* * *
長い廊下を、ツインテールを揺らして闊歩するのは楽しい。
誰も人のいない大きな建物の中で、ミルは一人ほくそ笑んだ。
片手は服の上からポケットに忍ばせた”愛刀”を撫で、もう片方の手でお洒落で可愛いフリルのスカートを整える。パニエを履いて膨らませたそれは、全体はピンク色で、裾からは大量のフリルがはみ出している。花とお菓子に彩られた、甘い甘い世界にぽっかり浮かぶ白い雲のようだ。フリル部分にも薔薇の模様があしらわれたデザインは、まさに生命が咲き誇る春の季節という印象で、持っている服の中でもかなり気に入っていた。
好きな服で全身を固めた彼女が心楽しく散歩をしているのは、地元でも有数の名門私立高校。二学年の学生たちが通う、授業用校舎だ。ずっと、一度はここに来たいと思っていた。場所などどこでもいい、ただ、学校という学び舎に。
(キラキラ……華やか……豪華。きっとここには、ワタクシが求める何もかもがあるわ)
ありのままを肯定してくれる、心優しき友達。夢を理解し、時に現実を教えつつも正しく導いてくれる教師。あるいは、同じ道を目指し、互いに切磋琢磨し合えるライバル。そして……同じ価値観のもと、沢山の楽しい思い出やキラキラした生活を共に形作ってくれる、恋人。
(あぁ……誰か、現れてくれないかしら。心の底からワタクシを求めてくれる、白い馬に乗った完璧な王子様……)
真実の愛を探求し、いつか運命の人に巡り合えると信じ、幾多の試練を乗り越えながら、生涯たった一人の人を愛してくれる男。ガラスの靴の持ち主を追いかけたり、毒や魔法に冒され眠りにつく姫君を、誓いのキスで目覚めさせるような男。
生まれた時から自分一人だけを、運命のように探し求めて愛してくれる男と、彼女は出会いたかった。学校というところは、男女の青春、なるものを極限まで煮詰めたような場所。ここに来れば、必ず誰か一人くらいは、自分の運命の相手と思える存在に邂逅出来ると信じていた。
(ううん、今も信じてる。ワタクシだけを見て、ワタクシだけを愛して、何もかもを受け入れて……このふわふわの甘くて苦い毒も、血塗られた殺戮衝動も)
歪んだ自分を、何よりの宝石だと褒めて、撫でてくれる人の腕の中で眠りたい。ぐっすりと寝た後は、愛しの彼との大切な時間を過ごすのだ。生まれて初めて、時が経つのが早いと思うくらいに、美しく濃密な時間を作りたい。小洒落たカフェに行って、可愛らしいケーキやアイスクリームを食べながら、幸せで一杯なこの瞬間を写真に残す。友達に見せて、羨望と称賛をもらう。デパートに買い物に行って、可愛らしい服や靴を買って、感動する恋愛ものの映画を見る。泣き腫らした目をしているからと恥ずかしがりながらも、貴重な思い出のために写真を撮る。SNSに投稿して、笑いと褒め言葉をもらう。自宅近くの公園で、花や鳥を見ながら、日が暮れるまでお喋りする。成績のことや将来のこと、子供っぽく夢の話でもいいかも知れない。そんなどうでもいいことが、この先一生の宝物になったりする。そんな経験を、一度でいいから、味わいたい。
(誰か、いないかしら。このワタクシを愛してくれる、素敵な素敵な王子様は……楽園の姫君である、ワタクシと共に、踊ってくれる王子様は)
うっとりと、恍惚とした表情すら浮かべて、物憂げな恋する乙女の顔をする。胸の前で両手を握り締めて、燃え盛る恋の炎に身悶えするように。そして、スカートの裾を摘んでくるりと一回転。まるでバレエダンサーのようにステップを踏めば、お気に入りのスカートがふわりと広がる。頭の横でゆらりと揺れる、金のツインテール。自分でも美しいと思う。偉大な芸術家の最高傑作だ。
(どう?私、綺麗でしょ?)
だが、実際には彼女に声をかけるものなどいない。授業が終わり、わらわらと廊下に溢れ出てきた学生たちは、数こそ多いものの誰一人として彼女に干渉しようとはしなかった。当たり前だ。制服の着用が義務付けられた学校で、私服、しかもロリータファッションという奇抜な格好をしているミルが、彼らの中に馴染めるわけがない。何故部外者がこんなところにいるのかと、隅で陰口を叩かれるだけだ。
(腹立たしいわね……そんな目で、私を見ないで!穢らわしいわ!!)
彼らの視線が容赦なく肌に突き刺さるのを感じて、ミルは舌打ちをすると同時に、廊下の端へとふらふら寄っていく。厚底の靴で掃除の行き届いた床を叩いて、非常階段の入り口へと近付いた彼女は、そこの壁に取り付けられていた火災報知器を、握り締めたハサミで思い切り突き刺した。
ジリリリリリ!!
切っ先がプラスチック製のケースを割り、中のボタンを強く押す。途端に響き渡る騒音に、誰からともなく悲鳴が発生して、生徒たちは一目散に玄関目指して走り出し始めた。上の階からも、上級生が駆け降りてきて、辺りはさながら雪崩が発生したようだ。
「私の邪魔をしないで」
「ぐぎゃっ!」
「ぅわぁああ~!?」
自分の倍くらい背丈のある、屈強な男たちに目の前まで接近されて、ミルの脳内に生理的な嫌悪感が走る。彼女が求めているのは、こんなむさ苦しい肉塊共ではない。彼女一人を孤独の沼から引き上げてくれる、王子様だ。誰の命も救えない、無力で脆弱な餓鬼には、興味などなかった。
反射的に右手を振るえば、狙い通り見事、美容ハサミの鋭い刃が男の一人の頸動脈を切り裂く。途端に響く苦悶の声と、目の前で起きた惨劇を理解出来ずに、無意味に上がる叫び声。首を押さえ目を見開いた男の、ぱっくりと口を開けた傷から、真っ赤な鮮血が噴水のように噴き出した。壁や床、天井にまで飛び散ったそれは、更に周辺の生徒を恐慌させ、パニックが連鎖する。ミルのスカートにも、奴の血液が付着していた。頬を撫でると、ぬるついた生暖かい液体がべったりと掌を汚す。血だ。自分の邪魔をした、無力で愚鈍な人間の血。
「汚いっ!!」
今度は確実に、殺意と怒りを持ってハサミを突き出した。もう一人、そばを走り抜けようとした男が、彼女の毒牙にかかる。心臓を一突きされ、口から血を吐き出しながら転倒する彼の無様な死体を、ミルは踏みつける。一体、どうしてこの世界にはクズみたいな男しかいないのだろう。本当の愛とは何かも知らず、毎日毎日上辺だけの笑顔を貼り付けて、思ってもいない言葉を口にして、ただ人と同じでいるために、普通であると顕示するために、そのためだけに生きている。周りに流され、影響され、見つけてもいない本質を見失ったと、一丁前に悩んだりする。
(クズ。クズ。クズばかり。どうして、王子様ってこんなに、見つけられないの?難しいの?ただワタクシは……ワタクシの理想の楽園に、王子様を増やしたいだけなのに)
血に濡れて赤く染まった廊下で、一人少女は涙する。だが彼女が、その歩みを止めることは決してない。いつか、必ず巡り合えると信じている、運命の王子様を見つけるその時まで。彼女は一心に、血溜まりを踏み付け続ける。靴の裏も服の裾も、殺めた命で醜く染めて。
* * *
「本当に、こんなところにいるんですか?」
カーリの疑わしげな声が、人気のない路上に響く。綺麗に舗装されたアスファルトの道はやや砂っぽく、行き過ぎる車の轍がはっきりと残っていた。
「あぁ、恐らくきっと、そのはずだがね」
車道を挟んで反対側の道にいるトワイライトが、間髪入れずに曖昧な答えを返してくる。今し方降りたばかりのタクシーは、既に道の彼方にテールランプを灯すだけとなっていた。
「彼女の最新情報は、今日の昼間、隣街の名門高校に不法侵入し、生徒2名を殺害したところだ。そこから、バスに乗ってここへ向かったと、レンキさんから報告が上がっている」
角を隠した額に軽く手を当て、遠方に視線を飛ばしながら、トワイライトが伝える。彼の声にBGMを付けるように、すぐ近くでさざなみの音が鳴っていた。
「彼女はここにいる。確実に」
魔法による位置情報把握で、ミルと自分の位置を照らし合わせながら、彼は独り言ちる。
「今日も二人殺したわけですか……早いとこ捕まえないと、世界への干渉が更に酷いことになる」
最悪だ、と吐き捨てたエンヴィスが、険しい目つきで辺りを睨み付けた。だが、ここは海に面した静かな丘陵。しかも深夜だ。彼の視界には、黒い夜闇しか映らない。
「ここ、何なの?」
劣化した塗装が付着するのも構わず、ガードレールに両腕を載せたレディが、振り返って向こうを見上げる。彼女の視線の先にあるのは、真夜中の闇に屹立する、巨大な建造物だった。暗闇の中でぽっかりと白い壁を浮き上がらせて佇むそれは、大口を開け鋭い鉤爪を構える、恐ろしい怪物のようだ。
「元々は、かなり大きな病院だったみたいです。15年も前に廃業になったみたいですけど、その前は結構街の人たちが通っていたようですね」
聞かれるままに真面目な顔でタブレットをいじったカーリが、そんな報告を上げる。覗き込んだトワイライトにも見えるよう、画面を寄せてくる。眩いばかりに輝くディスプレイには、随分と古ぼけたデザインのホームページが表示されていた。
「へ~。なんかぁ、お化け屋敷みたいだね!テンション上がるぅ~!」
「分かったから、ちょっと静かにしとけって……」
小さくジャンプなどしてはしゃぐ彼女を宥めたエンヴィスは、仰ぎ見るように廃業した大病院を眺め入る。
漁業で栄える地元街から数キロ。海岸沿いをぐるりと取り囲む太い国有道路の先にある、ちっぽけな丘の天辺に、それは建てられていた。まるで大富豪の別宅のような、煌びやかかつ厳かな外装は、一見すると医療施設には見えない。建築時に余程お金をかけたのか、廃業して15年が経った現在でも、朽ち果てずに当時の面影を残していた。
「破産したって書いてあるんで、多分、建物を取り壊すお金もなくて、放置したみたいですね。今は……あぁ嫌だ。有名な心霊スポットみたいです。地元の人も近付かないからって、暴力団にリンチされた死体などが、遺棄される事件もあったようですね」
外見上の変化が乏しい理由を、カーリが推測する。確かに、これほど大きな建物を壊すとなれば、かなり大金が要りそうだ。そうしてかつてのままに放置された施設に、黒い噂が定着するのも当たり前かも知れない。
「なるほど?非合法な人間たちが隠れて集まるには、格好の場所のようだね」
見せられた怪しげなブログ記事を飛ばし読みしながら、トワイライトが納得したように頷いた。言いながら彼が顔を向けるのは、病院の敷地内へと入るための細い私道と、そのそばに停められた数台の大型バンだった。見るからに、車検などを通過していない改造車だ。全ての窓に目隠しのスモークガラスを貼り、輸入物と思われる大型タイヤで元々大きな車体を更に大きく見せている。黒い塗装は光をよく反射するほど磨き抜かれ、ステッカーや落書きが沢山飾り付けられていた。
「いかにもチンピラのデコ車って感じだな……」
あからさま過ぎて逆に怪しむほど、それらしい奇抜な車だ。呆れ返って物も言えないエンヴィスが、軽く溜め息をつく。
「こいつら、何のためにこんなところへ?心霊スポットで肝試しのつもりでしょうか……」
「違うと思うよー。何だか声聞こえるし」
一体どんな目的があって廃病院などに来ているのかと、不可解そうなエンヴィスの予想を、レディが否定する。
「はっ?声?声なんて……聞こえないけど」
予想外の質問に、エンヴィスは咄嗟に否定をしつつ耳を澄ます。カーリも釣られて周囲に気を配るが、何の音も聞こえなかった。
「聞こえないよ?」
「残念だが、私にもさっぱりだね」
「えー?聞こえないのー?何でよー」
首を振って、カーリはレディの方を見遣る。トワイライトも同じく、聞こえていないようだった。主張を正面から打ち消されて、レディは不満そうに口を尖らせた。
「なーんかさ、声っていうかさ、人の……人間の、呻き声みたいなの。ぐわーって」
「恐ろしいこと言うなよお前」
「きっ、気のせいじゃない?」
その後から、おどろおどろしいジェスチャーと共に付け加えてくる彼女に、エンヴィスは首を竦め、カーリは慌てて間違いだと誘導しようとする。トワイライトだけが、一人腕組みをして、神妙な顔で病院を睨み付けていた。
「ともかく、行ってみようじゃないか。ミル嬢がいるのは確かなんだ。彼女を逮捕しないことには、我々の仕事は終わらない」
ふっと表情を緩めると、出来るだけ明朗な声を出して、彼らに指示する。月の輝く天を指差して、おどけたように踵を鳴らして踏み出せば、部下たちは皆渋々と付いてきた。
緩やかな坂道になった私道を、ゆっくりと上がっていく。両脇に生えた細い葉を茂らせた植物が、時折首筋を掠めた。
「ひっ」
「草だよ。怯えんな」
「あっはっは、カーリ面白~」
萎びた雑草に肌をくすぐられ、慄くカーリをエンヴィスが後ろから急き立てる。その怯えた反応に、レディがからからと笑った。彼らがしっかり付いてきているか確認しつつ、トワイライトは一足先に坂の上まで到達する。荘厳に構える、大病院の正面玄関が彼を迎えてくれた。大手ホテルのエントランスのように、豪華で重厚感のある装飾は、きっとかつては金で彩られ、やってくる患者や見舞客を圧倒していたのだろう。駐車場へと続く道路のそばには、小規模ながらも噴水が飾られ、潮風に強い樹木が等間隔で植えられている。裏手の駐車場に続くと思われる太い道路には、歩行者用のスペースも作られていた。
「はぁ……これは凄い」
ぽかんと口を開け、首が痛くなるほど上を見上げたトワイライトが、感嘆の声を上げる。カーリが、タブレットの中の院内見取り図を呼び出して現実と照らし合わせた。
今、彼らが前にしている正面玄関は、中央棟と呼ばれる本院のようだ。相当数の診療科と、多彩な検査システム、処置室を備えた最も大きな建物。左側のやや奥まったところに見えるのが、東棟、入院病棟だ。ここからではよく分からないが、本院よりも大きいようだ。そして、右側にあるのが、立方体の形をした西棟。回復の見込みのない患者を世話する終末期医療や、特別なセラピーを必要とする精神疾患患者のために作られた、いわゆる長期入院用の施設らしい。プラネタリウムを思わせる、丸い大きなドーム天井が付いているのが特徴だ。ちなみに中央棟には、西棟に向かうための連絡通路が設けられている。しかしながら、案内図には連絡通路への行き方は記されていなかった。関係者専用の図を手に入れなければ、辿り着けないのかも知れない。
見れば見るほど、充実した設備と資本を抱える地域有数の大病院だったことが窺えた。だが、それもかつての姿なのだろう。豪奢だっただろう雰囲気はどこへともなく消え失せ、今はただの廃墟と化している。数えきれないほどの窓は全て曇り、中には割れているものもある。道にはよく分からない雑誌や花火のゴミが落ち、計算され尽くした庭園は、手入れする者がいないせいで荒れていた。
「うわぁ……」
眼鏡を指でずらし、裸眼で観察していたエンヴィスが、ふと萎えた声を出した。げんなりとした顔色を横から見たカーリは、彼の持つある種の”勘”を思い出して、恐ろしくなる。
「ねぇ、あいつらここから入っていったのかなぁ~?」
唯一、恐怖も戦慄も何一つ感じていないレディが、玄関先でしゃがみ込んでいた。トワイライトが近付き、彼女の指す先を覗き込むと、そこには細かく砕けたガラス片が散らばっていた。回転式のドアを守る、薄い強化ガラスが派手に打ち壊されている。トワイライトは一歩踏み出し、電源の通っていないドアを、手動で回した。
「あっ、と、トワイライトさん!」
カーリ、エンヴィスが慌てて追ってくる。最後にレディが続いて、四人は無事に、病院内へと進入することに成功した。
「……何だろう。誰か、花火でもやったのかな?火薬っぽい匂いが」
すんすんと鼻を鳴らして、室内の臭いを嗅いだレディが、訝しげに首を傾げる。だが、これもやはり彼女にしか分からないものだったようだ。誰一人共感出来ぬまま、彼らは揃って病院のロビーへと足を進める。
電気が通っていないので当たり前だが、防犯カメラに撮られてもいなければ、侵入者を知らせるアラームなども鳴らない。薄暗い室内を照らすように、エンヴィスが錫杖を伸ばした。
「”点灯”」
簡潔に詠唱すると、杖の先端、大輪の中に眩い明かりが灯る。魔力を源として輝く、魔法の照明だ。エンヴィスはその杖を、まるで懐中電灯を向けるように小脇に挟んだ。トワイライトも合わせて、自身の掌にピンポン玉大の明かりを、魔法で灯す。
病院の内部は、流石に時間の経過に負け、薄汚れていた。壁に掛けられた絵画や風景写真は色褪せ、観葉植物は枯れている。待合用に並べられた長椅子は、中のスポンジがはみ出していたり、足が折れて倒れていたりと、どれも酷く壊れている。肝試しに来た人間が残していったのか、スナック菓子の袋やタバコの吸い殻などがところどころに落ちていた。傷だらけになったリノリウム張りの床には、アラベスクのような模様が描かれている。今は廃墟でも、かつてはかなり繁盛していた、大病院だったようだ。
「誰もいませんね……結構、不気味です」
寒々とした空間から身を守るように、カーリが両腕を手でさする。人間は何人かいるはずなのだが、彼女の言う通り、ロビーには人影一つ見えなかった。つい最近誰かが行き来したと思われる、土の欠片が落ちていたくらいだ。
「奴らを探さないと。どうやって分かれますか?」
角にかかった蜘蛛の巣を払いながら、エンヴィスが尋ねる。彼の質問への答えを探すように、トワイライトは辺りを見回した。
ロビーの奥には、半円状のカウンターがちんまりと鎮座している。近くには、会計や受付の文字の記されたプラスチックの板が落ちていた。さっきの待合スペースとは打って変わって、開放的な印象を受けるのは、最上階までを全て貫く広大な吹き抜けが理由だろう。ガラス張りの高い天井から降り注ぐ、ほのかな月明かりの中に動きを止めたエスカレーターが佇んでいた。
「ねーぇ、こっちにエレベーターあったよ~。階段もあったし。それで上行く?」
いつの間にか、どこかへと消えていたレディが戻ってきては両手を振る。トイレなどがある、左側の通路に寄り道していたようだ。その先にエレベーターホールと非常階段があったと確認すれば、これで道は決まりだ。
「私はカーリくんとエスカレーター経由で上へ上る。エンヴィスくんは、レディくんと非常階段の方から行ってくれるか。人間たちを見つけたら」
「逃げるよう誘導、ですよね」
決定事項を言い終わる前に、エンヴィスの方から口を挟んできた。首を振って肯定し、念のため確認しておく。
「その通りだ。ミルを発見したら、直ちに連絡するように。戦闘は、慎重にな」
「分かっています」
エンヴィスは軽く頷き、レディの元へ駆け寄ると彼女と二人、左の通路へ入っていってしまった。その背中を見送り、トワイライトもカーリに声をかける。
「よし、行こう、カーリくん。気を付けてな」
「は、はい!」
まだ多少は怖がっているようだが、気丈にもハキハキと返事する彼女と、探索へと乗り出す。守るべき対象を先に行かせ、自分は背後を固める形で、エスカレーターを上っていった。
「ほらほら!ここだよー」
一方、レディに引っ張られる形で、エレベーターホールへと到着したエンヴィスは、一応上部に付けられた階数表示を見る。当然ながら、ランプは光っておらず、電源は入っていないようだった。
「当たり前か……」
階段で最上階まで行くのかと、やや憂鬱な気分になる。確か、さっきちらりと見た案内板には、七階までと書いてあったはずだ。その分の階段を上っていくのは、少々どころかかなり面倒だ。
「人間たち探すなんて、ちまちましててめんどいよねー」
レディも同じことを思ったのか、ぐちぐち愚痴を吐きながら、非常階段へと続く鉄扉を開ける。蜘蛛の巣が張り、小動物が潜んでいたらしき形跡も見られる、薄汚い階段が現れる。その時、どこか上の方から、野太い雄叫びが響いてきた。
「ラッキー!探さなくてもいたじゃん!」
人間の声だ。確信したレディが、捜索の手間が省けたと嬉しそうに言う。のんびりした調子の彼女を守るように、エンヴィスは前へ進み出た。
どかどかと、騒々しい足音を立てて数人の男たちが駆け降りてくる。隆々とした筋肉を露出させ、彫り込んだタトゥーを強調した、いかにもな連中だった。屈強さと野蛮さを誇るはずの彼らは、何故か恐怖に射竦められたような、危機迫った表情で押し寄せてくる。我先にと押し合うようにして駆けてくる男たちの様子は、側から見ているエンヴィスにも異様に映った。
「やっば、アンラッキーじゃん。キモ」
「馬鹿っ、退がれ!」
顔面を硬直させ、突進してくる彼らを見て、レディがあからさまに引いた顔をする。エンヴィスはそんな彼女の肩を押し、後ろに下げると、懐から取り出した錫杖を構える。
「どけぇえええ!!」
「ジャマすんなぁああー!!」
男たちは、目の前の脅威となり得る全てを排除しようと、拳を振り上げて襲ってくる。恐怖に錯乱している様子だった。これでは、こちらの声も耳に入らないだろう。エンヴィスは面倒くさそうに舌打ちをする。
「チッ……めんどくせぇ」
同時に、体の前に真横に構えた錫杖を、素早く振り抜いた。明かりを灯したままの大輪が、男の一人のこめかみを強く叩く。衝撃が走り、脳が揺れる。糸が切れた人形のように、男は崩れ落ちた。エンヴィスはすかさず、隣にいたもう一人を末端の方で突く。肩を押されよろめいた男は、硬い壁に側頭部をぶつけてしゃがみ込んだ。血は出ていないから、多分、大丈夫だろう。確認する暇もなく、他の男たちを睨み付けて間合いを取る。
どこからか、チン、と音がした。後ろからだ。エレベーターのドアが開き、ホールにまた数人の男が雪崩れ込んでくる。
「なっ……!?動いてたのか!」
思わぬところからの増援に、エンヴィスの頬が引き攣った。前方に目を戻すと同時に、階段を駆け降りてくる筋肉の塊のような奴らが見える。まさか、挟み撃ちされたとは。背中を冷や汗が伝う。
「任せて!」
飛び出したのはレディだった。ここは自分の出番とばかりに、嬉々としてジャンプし、自分の倍以上ある体格の男たちに飛びかかる。人間には決して出せない、恐ろしい威力で拳を振るう。まともに食らった彼らは、すぐに意識を失って床に倒れ込んだ。最後の一人を殴り倒し、壁に手をついたレディは、掌で何かを押し込んだ感触に気が付く。『上へ参ります』と機械音声が聞こえて、ゆっくりとドアが閉まり始めた。
「あ」
思わず出た間抜けな声に反応して、振り向いたエンヴィスとばっちり目が合った。どうしようか一瞬悩んだが、思い切って満面の笑みを浮かべてみる。
「ごっめーん、エンちゃん。やっちった!」
「レディ、お前!!」
男の一人と掴み合ったまま、絶叫する彼の声がドア越しに耳に入る。しかし彼女はそのまま、上へと上がっていく小さな箱の中に、留まっていた。
「くそっ!あいつ……なんてことしやがる!!」
置いていかれたエンヴィスは、怒りのままに咆哮し、悪態をついた。激怒のパワーで、近くにいた男を殴り飛ばす。ゴッ、と確かな感触がして、男は倒れた。人間相手では魔法もろくに使えず、肉弾戦のみに限定されるところが、更にエンヴィスの苛立ちを加速させる。こんなもの、思いっきりぶっ飛ばせれば最高なのに。
不満を抱きながらも、襲ってきた者は皆昏倒させながら、階段を上がって先へ進もうとする。ところが、二階に辿り着く直前で、再び数人の男たちが雪崩れ込んできた。エンヴィスはまた溜め息をつき、錫杖を構えた。
「しょうがねぇな……ちょっと痛いけど、我慢しろよな、人間っ!」
* * *
「気を付けて、カーリくん」
「ありがとうございます」
電源の入っていないエスカレーターを駆け上がると、トワイライトがカーリに忠告してくる。いつ敵に襲われてもおかしくない状況に、カーリも気を引き締めた。すると、彼女に向かって、トワイライトの手が伸ばされる。
「?何ですか?これ」
ぽとりと落とすように渡された、黒い硬そうな金属塊を、カーリはしげしげと見つめる。見たことがない形状だ。まるで、アクション系アメリカ映画で見る、ハンドガンやピストルのような形をしている。いや、まるでではない、そのものだった。
「えっ、銃ですか!?」
上司が差し出した物の正体を掴んだカーリは、一拍遅れて頓狂な声を上げる。
「麻酔銃だよ。念のため持っておきなさい」
声音の中に拒否の意を交えて発したにも関わらず、トワイライトは平然と押し付けてくる。
「いいから。一応持っておきなさい。護身用だ」
「えっ、でもでも、銃って魔界でも所持許可が必要なんじゃ……?」
「そんなの、”本物の銃”には入らない。ただのおもちゃだ」
許可証がなければ、銃火器等の所持は許されない。人間界と同じような決まりがあったはずだと、カーリは尋ねる。しかしトワイライトは、片手を振って取り合わなかった。
「剣を買うには許可がいるけど、包丁を買うのは誰でも出来るだろ。それと同じだ。これはただの麻酔銃。麻酔が塗られた針が飛び出るだけの、何の殺傷能力も持たない紛い物だからね」
引き金を引くだけで、麻酔針が生成され飛び出す便利なアイテムだ。弾数は無制限。催眠魔法の込められた針が生産され、飛び出す仕組みとなっている。使われている催眠の術式は、人間に用いても何ら問題のない、安全性の高いもの。しかも、自動的に急所を外し、麻酔の効きやすい位置に命中させる、軌道補正付きの優れ物だ。
魔界の基準では、そういったアイテムは銃には分類されない。直接的なダメージを与える機能がないのならば、それはただの、形状が似ているだけの製品だ。これならば、銃を扱ったことがないカーリでも容易く扱えるし、トワイライトも規則違反には問われない。はずである。
「もしも人間が襲いかかってくるようなら、銃口をこう、何となく彼らに向けて、引き金を引くだけだ。撃鉄も起こさなくていい。付いてないからね。そうすれば勝手に、人間たちは眠り出す。どうだ、簡単だろ?私の私物だけど、特別に貸してあげるよ」
少し早口で、端的に使い方の説明をする。カーリは未だ戸惑っていたが、きちんと話は頭に入れ、理解しようとしていた。
「万が一の時は、これで身を守れ。いいな?」
「わ、分かりました……」
カーリの悩みを見抜いていた。
「よし、じゃあ行くぞ。ミル嬢を、さっさと魔界に送り返さないとな」
トワイライトに諭すように言われ、カーリは流されて頷いてしまう。やっぱり返そうかと思い悩んでいる内に、彼は急足で、周囲の安全を確認しながら二階の探索を始めていた。カーリも彼に従って、一つ一つ病室や診察室、検査室を覗いて回る。
人間たちの姿は、どこにも見えなかった。それどころか、大抵の部屋には蜘蛛の巣がかかり、埃がセンチ単位で積もっていて、人が立ち入った気配すらない。ところどころ落書きがされていたり、窓ガラスが割れていたりするから、何年かに一度は、肝試しや何かで侵入する人間がいるのだろう。しかし、今現在この建物内にいる人間は、いないのではないかと思われた。
「ここにはいないんですかね……あの、左右にあった、別の建物にいるとか」
病室の一つの中で、カーリは呟く。隣のベッドのカーテンを捲って、手についた汚れを払っていたトワイライトが、曖昧に頷いてから否定した。
「あぁ……いや、そんなことはないはずだ。ここにくる途中、上の階の窓に人影を見た。あれは子供の背丈じゃないな。確実に、背の高い男のシルエットだ」
「ちょっと待ってくださいよ。それでもしもここ全部調べて、誰もいなかったら……それってめちゃくちゃ怖いじゃないですか!」
彼の言葉に、カーリは顔を青ざめさせて恐怖した。心霊現象など全く恐れていないトワイライトは、鼻で笑い飛ばす。
「大丈夫さ。幽霊やオバケなんて、現実の存在に比べたら可愛いもんじゃないか。適切な処置を施せば、大体は祓えるんだから」
特定の対処法のない、人間や悪魔相手の方が難しい。ズレたことを言う上司を、カーリは呆れたような視線で見つめた。
「何、これ……!」
無造作に開けたスライドドアの向こうに、何かがある気がして目を凝らした彼女が、奥の光景を認識し、引き攣ったようなか細い悲鳴を上げる。喉の奥から空気が漏れるような、可愛くもない無様な声だったが、そんなこと気にしている暇はなかった。
「どうした?」
驚愕に目を見開いたままの彼女が気になって、トワイライトも室内を覗き込んだ。照明魔法を部屋の中程まで進め、嘆きとも呻きともつかない声を上げる。
「うわ……」
そこは、病室ではなく何らかの検査室だった。大きなガラス窓が付いた手前の小部屋には、テレビ局にあるようなミキサーに似た機材が取り付けられ、奥の部屋には既視感のあるトンネル型の機械が置かれている。床に落ちたプレートには、『MRI検査室』と書かれていた。
だが特筆すべきはそこではない。その部屋は、明らかに病院のMRI検査室とはそぐわない物品にまみれていた。床や机に散らばる、赤や青のカラフルなコード、何かの粉が入った紙袋、電子機器の基盤らしき物、液晶のついた小型タイマー、そして、壁に掛けられた何かの設計図。
一つ一つの物体は使い道の分からない謎めいたものだけれど、全てが揃えば自ずと理解出来る。いや、理解せざるを得ないのだ。
「これは……」
青色の製図用紙に書かれた、手書きらしき基盤の設計図を見て、トワイライトが呟く。MRIの操作盤の上に載せられた、ホチキス留めの書類を拾い目を通す。ネットの深部から掘り当てたらしい、『爆弾作りの教科書』なる危ない説明書だった。
「爆弾を作っていたんですかね……ここで……」
未だに信じられないような顔をして、カーリが辺りに視線をやる。机の下には大量のカップ麺やスナック菓子がストックされ、MRIの検査台の上には異臭を放つ黒い袋がいくつも山積みになっていた。
「そうらしいね。爆弾制作の傍ら、ここで寝泊まりもしていたみたいだ」
「一体何のために……誰が作っていたんでしょう」
カーリは、自分で質問を口にしながら、問いかけたことを馬鹿馬鹿しく思っているようだった。当たり前だ。爆弾を作る目的など、爆弾を使いたいからに決まっている。爆弾を使いたい者、つまりは何かを破壊したい者が、作っていたに違いないのだ。
「さてねぇ。金のために違法な行為をする者は、どこにだっている。でなきゃ、脱界はもっと早くなくなっているはずさ」
トワイライトは言いながら、開けた紙袋をカーリにも見せた。袋の中身はほとんど空で、わずかな黒い粉ばかりが残っているだけである。
「爆弾は既に完成している。尤も、数は不明だが……あの車の持ち主たちが、製作者の仲間であるとしたら、彼らは爆弾を所持している可能性がある」
あれほどあからさまな不良グループが、爆弾作りのプロと仲間であるとは思えないが、油断は出来ない。真偽がどうであれ、ここに爆弾を製作するテロリストじみた人間が住み着いていたのは事実なのだ。留意はしておくべきだろう。
「やれやれ……とんだ危険人物もいたものだ。エンヴィスくんたちが、うっかり遭遇してしまわないといいが」
凝りをほぐすように肩を回しながら、トワイライトは室内をぐるぐると闊歩する。そして、ぴたりと立ち止まった。何か、違和感を感じたのだ。
「……どうかしました?」
訝しんで話しかけたカーリの言葉を、指一本で遮る。不安げな眼差しを背中に感じながら、トワイライトは辺りを見回した。
「何だ……?この違和感は」
呟いた直後、勢いよく首を動かして部屋の片隅を見る。そこには、特に何の変哲もない、薬品棚が置かれているだけだ。しかし、MRIの機械がある部屋に、そんなものを置くだろうか。MRIとは磁力を使うもの。金属を使用した物は、近くには置いておけないはずだ。つまりこの棚は、MRIが稼働しなくなってから運び込まれた。では、何故そんなことをするのか。
「これ……動かせそうですよね。ドラマとかだと、よく隠し通路とかあったりして」
棚の周囲の床には、何かをこすったような跡がついていた。それを見て、カーリが冗談めかしたことを言う。しかしトワイライトには、ピンとくるものがあった。
「いや、その通りかも知れないな」
「え?」
きょとんとした顔で聞き返してくるカーリに、トワイライトは見てろとばかりに視線を投げる。そして片手を上げて魔法を発動した。
作り慣れたいつもの剣が、手の中に出現する。柄部分の細工が繊細な、銀製のブロードソード。本来は武器として使うそれを、棚と壁の隙間に差し込みぐっと力をかける。中身のぎっしり詰まった重たい棚が、ズズっと音を立てて動いた。
「うわ」
驚いたリアクションを取るカーリの声を聞きながら、棚を完全にスライドさせ、床の跡と一致させる。トワイライトの目の前には、巨大な黒い穴が広がった。明かりを向けると、上へと続く螺旋階段が浮かび上がる。まさしく、秘密の部屋へ通じる隠し通路といった風情だ。
「大正解だよ、カーリくん。お手柄じゃないか」
「嘘……本当にあったなんて……!」
予想を的中させた彼女を、わざとらしく称賛する。誉められたカーリは、両手で口を覆って、驚愕していた。自身の空想めいた想像が、まさか当たるとは思っていなかったのだろう。
「一体何のために……?」
「さぁね。人間たちの思考回路は、複雑怪奇だ」
問いかけてきた彼女に、肩を竦めて知らないと答える。一体人間たちは、何のためにこのような設備を作ったのだろう。全くもって、不思議で仕方がなかった。
「確かめてみるとしようか。もしかしたら、ここにも人間が隠れているかも知れないしね」
この棚が、病院が閉鎖した後に置かれたものだとするならば、爆弾魔もこの隠し通路を知っていた可能性がある。もしもそこに潜んでいて、トワイライトたちとミルの正体を知ってしまったら、大問題に発展するだろう。見つけ出して避難させなければと、好奇心を義務感で覆い隠して、トワイライトは歩き出した。
* * *
「ハァ……ハァ……」
息を切らせて、エンヴィスは非常階段を駆け上がる。ここに来るまで何人の男を倒してきたか、分からなかった。皆何かに怯え、錯乱し、目に入った者全てに攻撃を仕掛けてくる。厄介極まりない連中に邪魔をされて、中々レディの元に辿り着けないでいた。
「くっそ、あいつどこにいる……!?」
悪態をつきながら、現れた鉄製のドアを肩で押すようにして開ける。リノリウム張りの廊下は、ほとんどの窓が割られて、外からの風に侵食されていた。肌寒い感覚を堪えながら、さっと辺りを見回す。エレベーターホールに目をやると、なんとエレベーターが着いていた。開きっぱなしのドアから、明るい光が漏れ出ている。中には、気を失った男が倒れていた。額に赤い痕が付いている。間違いない、レディの仕業だ。大方、ピンヒールで蹴りでも入れたのだろう。
「レディ!お前、一人でどこに行ったんだ!返事くらいしろ!!」
口元に手を当てて、怒りを声へと変換する。しかし、辺りからは彼女の返事どころか何の音も聞こえてこなかった。あれほど息急き切って押し寄せていたチンピラたちも、一人もいないようだ。もう全員逃げてしまったのかと疑いかけるが、突如視界の先で何かが動いた。
「レディ!レディか!?」
「エンちゃ~ん」
慌てて呼びかけると、どこか遠くの方から、彼女のふざけた返事が反響してきた。ぐるりと視線を巡らせると、また何かが動く。
「エンちゃ~ん、こっちこっち!」
廊下の一番奥から、レディが手を振っていた。吹き抜けを囲う柵に腕を預けて、金髪を手櫛で梳いている。雑誌のモデルのように、挑発的なポーズを取る彼女の足元には、大きな塊が蹲っていた。
「レディ!ったく、お前何してんだ!」
憤りに声を荒げつつ、エンヴィスは彼女の下へと駆け寄る。呑気に手など振っていたレディの、ほっそりした痩身が、突如揺らいだ。彼女の足を払い退けて、蹲っていた男が立ち上がったのだ。筋肉が丸々と盛り上がった屈強な体躯で、レディを軽々と投げ飛ばす。エンヴィスは素早く走り込み、彼女に向かって拳を振り下ろそうとした男の足を払った。思わぬところからの衝撃に、男はぐらりとバランスを崩すと、たたらを踏んで尻餅をつく。その男の首筋を、レディの蹴りが射抜いた。
「サンキュ~、エンちゃん」
「おっ前な、うぉっ」
気絶して倒れ伏した男を見て、レディはぐっと親指を立てる。簡単な褒め言葉だけでいいように使われたエンヴィスは、文句を言ってやろうと憤慨するが、そんな暇もなかった。通路の右手から、似たような体格の男が二人、走ってきていたからだ。手にはそれぞれ金属バットと、細めのチェーンを握っている。
「半分ずつね、エンちゃん」
昏倒した男の胸ポケットから、ガムをくすねたレディが挑戦的な顔で笑った。エンヴィスは溜め息をつき、肩を落とす。
「しょーがねぇな……全く」
さもやる気なさそうに愚痴をこぼすと次の瞬間、懐から錫杖を取り出し、飛び掛かってきた男の一撃を受け止める。いくら鍛え抜いた大柄の肉体でも、出せる力は高が知れている。理を覆す魔法の力を有した彼には、大した敵ではない。素早く錫杖を横に払ってぶつけられた力を流すと、がら空きになった男の胴に控えめの打撃を叩き込んだ。恐らく、肋骨にヒビが入ったのだろう、男は苦悶の声を上げて、膝をつく。同じタイミングで、レディが相手取っていた男も敗北し、自身の鎖でぐるぐる巻きに縛られていた。
男から奪い取ったバットを肩に担いで、エンヴィスは嫌な笑みを浮かべた。
「さぁ~て、お前らにはちょっと話がある。答えてくれるよな?」
「うわ、エンちゃん悪い奴……」
隣で、レディが呆れ返った目をしていることなど気にも留めずに、しゃがみ込むと男たちを見据えた。身動きの取れない男二人は、彼から目を逸らすことも出来ずただ怯えている。
「まず、一つ目の質問。お前らは誰だ?」
「おっ、俺たちは!」
「静かに話せよ~。ここにゃ史上最低最悪の殺人鬼が乗り込んでるんだぜ?騒いだら目を付けられるだろうが」
指を一本立て、口を開いたエンヴィスに、縛られた男の方が堰を切って話し始める。動揺のあまり咄嗟に声を荒げた男を、エンヴィスは顔を顰めて睨み付けた。殺人鬼とは、レディかエンヴィスのことかと勘違いしたのだろう。面白いくらいに萎縮した彼は、打って変わった小さな声で答えた。
「俺たちは、ただのグループだ。クラブとか行って、トランプとかして遊ぶんだ。別に悪いことなんて……いや、してはいるけど、そんな大したもんじゃ……」
「はいはい、そうですかっと……」
地元住民を困らせる不良グループであることを隠そうとして、必死になっている様はまさに滑稽だった。エンヴィスはそっぽを向いて、右耳の軟骨の裏を掻いている。退屈している時の彼の癖だ。まともに取り合ってもらえていないことが分かったのか、焦っている男は、こうして見るとただの子供のようだ。成人して間もないのではないだろうか。タトゥーを入れているのが、余計に大人ぶった格好付けに見えてくる。
「信じてくれって!」
「二つ目。ここに来た目的は?」
立ち膝になって訴えかける男を、エンヴィスは押し戻して二つ目の質問をした。男たちはそれを聞かれるなり、困ったように俯いてチラチラと互いの様子を窺っている。
「嘘を付くつもりか?」
「ち、違います!ただ、その……」
「早く言え」
痺れを切らしたエンヴィスが、脅すように低い声を発すると、男たちはもじもじしながら彼を見る。そして、意を決したのか、胸の辺りを押さえた男が重い口を開けた。
「あの、俺たち……近々、ライバルチームみたいな連中と抗争する、あ、いや喧嘩することになってて……その、それで、何か武器がいるだろうって、リーダーが」
今更気質の人間ぶって取り繕おうとする言葉を、エンヴィスは聞き流し目で続きを促す。
「だっ、だからある男に依頼して。もちろん、俺たちじゃなくてリーダーが。で、それで……」
「品物を受け取りに来たのか?」
「違う!いやっ、違くはないけど……」
歯切れの悪い男の言葉をエンヴィスが直截に確かめるが、男は慌てふためいたように首を振るばかりで、ちっとも答えを示さなかった。
「どういうことなの?」
それまで黙ってエンヴィスに任せていたレディが、唐突に口を挟んだ。男たちは再びお互いを見遣ってから、酷く言いにくそうに紡ぎ出す。
「……死んじまったんだ、その人」
「殺されたんだ」
彼らの言葉を聞いて、エンヴィスもレディも静かに息を飲んだ。死んだ、しかも殺されたとは穏やかでない。どういうことかと頭の中で整理しつつも、エンヴィスの中には事のあらましが予想出来ていた。
「そいつは、俺たちがいつも遊んでる溜まり場で、たまたま出会ったんだ。リーダーが気に入ってさ。抗争のための武器の調達に、少し協力してもらおうって……」
「あの男は何つうか、個人事業主?ってやつみたいで、依頼って形にするから依頼料を払えって。その金を払うために、待ち合わせしてたんだ……そこに、奴が」
「奴?」
確認のためにエンヴィスが問いかけても、男たちは揃って口をつぐんだまま、何も言わない。まるで、声にすることすら恐れているようだ。
「奴は、そいつと俺らの仲間、店にいた全員を殺した。そりゃあもう酷い有り様だったさ……だけど、金は証拠品としてパクられたし、抗争だってきっといつかはやる。だから商品だけでも回収しないとって」
男たちのまとまらない話は、要約すると簡単なものだった。つまり、依頼として用意させていた武器を手に入れに来たのだ。あわよくばその武器を使って、ライバルチームどころか未だ逃亡中の殺人犯をも痛めつけるつもりだったらしい。
「そんで、あの男から聞いてた奴のアジトに向かったんだ。それがここで、奴の作業部屋ってとこを探してる内に……あの女が、いて」
男の一人が声を詰まらせる。その先を語ったら死ぬ呪いにでもかかっているように、怯えた顔で震えるだけとなってしまった。男の豹変に触発されるように、もう一人の男も胸を押さえ、荒い息を吐き始めた。明らかに、様子がおかしい。
「そうだ、あの女だ……あの女が、俺たちを見るなり、殺そうとしてきたんだ。あの時、仲間たちを殺したのは自分だって、血塗れのハサミなんか見せて……あの女だ!!」
「お、おい……」
「こっ、殺されるゥ!!」
男の異変を、エンヴィスが止めようとした時にはもう遅い。封じ込めていた記憶を思い出したことで、パニックに陥った男たちは、ただただ恐ろしさに身を強張らせ暴れていた。
「嫌だぁ、死にたくない……死にたくない死にたくない死にたくない!!」
「ひぇえ、殺さないでぇーー!!!」
頭を抱え、恐怖に引き攣った声で叫んで、怪我の痛みも忘れて逃げ惑う。完全に正気を失っている。充血した瞳でエンヴィスたちを睨み付け、レディに一発拳を見舞うと、一目散に背中を向けて走り去ってしまった。
「わわっ!」
「大丈夫か、レディ」
これくらいの打撃で傷付きはしなくとも、バランスは崩す。転びそうになったレディの細身を、エンヴィスは片手で受け止める。彼の磨き抜かれた革靴の足元に、コロコロと何かが転がってきた。野球ボールくらいの小さな球だ。表面は薄い金属で覆われていて、吹き抜けの天井から降り注ぐ月明かりを反射している。
「何、これ?」
レディが呟いて、それを摘み上げた。球の下側に、何やら小さなランプが付いている。まるで刻を刻む針のように、チカチカと忙しなく点滅する赤色が目に入った瞬間、エンヴィスは全身の血がざっと下に落ちるような感覚に見舞われる。
「触るなっ!」
「えっ!?」
天を突き破るような声音で鋭く叫び、彼女の手から球体を奪い取ると、廊下の先に投げる。同時に強く突き飛ばされたレディが、床の上に尻餅をついた。尾骶骨に伝わる鈍い痛みに、彼女が抗議の声を上げるより早く、凄まじい轟音と衝撃が辺りを駆け抜ける。爆風が押し寄せ、焦熱が彼女の肌をチリチリと炙った。
だが、エンヴィスが受けた衝撃は、彼女の比ではない。あれほど小さいサイズでも、爆弾は爆弾だ。咄嗟に彼女だけは魔法で守ったものの、自身までは庇いきれない。彼の身体は簡単に吹き飛ばされた。
「っ……!!」
投げ飛ばされた先には、床がない。吹き飛ばされた勢いで、吹き抜けを囲む手すりを乗り越えてしまったのだ。ぽっかりと深く空いた穴のような、広い吹き抜けを一直線に落下していく。このままでは、数秒後には頭から地面に激突してしまうだろう。エンヴィスは急いで辺りを見回し、どこか掴まれるところを探した。ふと、下の階にある、病室のスライドドアの取手が目に入る。エンヴィスの指は半ば無意識的に動き、身に付けたスマートウォッチを起動させた。慣れた動きで画面をタップすれば、つるつるしたディスプレイの表面から何かが飛び出す。金属で出来た、細く頑丈なワイヤーだ。ヒュンと軽い音を立てて伸びたそれが、目測の通りにドアハンドルに巻き付く。途端に手首に重みがかかり、エンヴィスの身体は宙から吊られたように静止した。
だが、全ては計算通りというわけにいかない。エンヴィスの体が固定された直後、バキンと嫌な音が鳴った。ただのドアハンドルの留め金では、エンヴィスの体重を支えきれなかったのだ。一度止まった落下が再開され、エンヴィスの体は勢いよく階下に落下した。かろうじて受け身を取ったものの、落下のダメージが全てその身体に入り、彼は呻き声を上げる。
「うぐっ!」
全身を突き抜ける、強烈な痛み。背中を強かに打ち付けた衝撃で、まともに息も吸えなくなる。目の奥が明滅する感覚がして、エンヴィスの意識はしばし遠のいた。
「おーい……エンちゃーん……おーいってば!」
どこからか、レディの声がする。遠くから聞こえるそれを訝しんで、エンヴィスは目を開けた。瞼を上げるという行為によって初めて、自分が気を失っていたことに気が付く。爆音に揺さぶられた鼓膜が、キーンと耳鳴りを起こしている。ゆっくり体を起こすと、関節のあちこちがギシギシと軋んだ。
「いッッてぇ~……」
思わず顔を顰めて、痛みに呻く。ぶつけた後頭部を手で押さえながら、声のした方に顔を向けると、5階の廊下からレディが身を乗り出して覗き込んでいるのが見えた。
「だーいじょーぶ~?エンちゃぁ~ん」
呑気な声が、広い空間に反響する。それを聞く限り、彼女に怪我はなさそうだ。こちらを覗き込んでくる笑顔にも、煤の汚れ程度しかついていない。体を張った甲斐があったものだ。
「あぁ……何とかな!」
満足げな感情を押し殺しながら、立ち上がって手を振る。怪我がないことを伝えるためのものだったが、それを見たレディは、とんでもない言葉を投げかけてきた。
「じゃー、アタシ、先行ってるねーーー!!」
「はっ!?おい、レディ!!どういうことだよ!?」
突然のことに、エンヴィスの理解は全く追いつかない。驚きのままに目を剥き、彼女のいる方を見上げるが、既にレディの姿はそこになかった。指で作ったOKサインだけが、ちらりと見えて消える。謝礼にしては酷い扱いに、エンヴィスは頬をひくつかせた。
「あいつ……!」
ふつふつと込み上げてくる苛立ちで、頭が沸騰しそうだ。未だ体中に残っている、落下のダメージも気にならない。激情のままに、思い切り声を荒げた。
「ふざっけんなよレディィッ!!てめぇええーーーっ!!!」
* * *
暗い螺旋階段を、ゆっくりと上っていく。正直、生物や魔法の気配はさっぱり感じないのだが、如何せん暗過ぎて、進もうにも進めない。少しでも足を踏み外せば、一体どこまで続くのかも分からない階段を、一息に転がり落ちてしまうだろう。慎重に足を運ぶトワイライトの後ろで、カーリは怯えながらキョロキョロと辺りを見回していた。
「暗いですね……一体どこまで続くんでしょうか」
背後からあらぬものが近付いてきやしないかと、ビクビクしながら問いかける。トワイライトはそんな彼女に構わずに、のんびりとした話し方で答えた。
「どうだろうね。それよりは、何のためにこんなものを作ったのかが、気になるところだ」
「ですね……う、わ……っ!?」
恐怖心を和らげる話でもしてもらえないかと、内心期待していたカーリは、ややがっかりした気持ちを押し殺しながら相槌を打つ。そこへ、まるで何かが爆発したかのような、凄まじい振動と轟音が襲ってきた。
ズズンと揺れる床に足を取られて、ふらつくカーリを、トワイライトは転ばないように支える。が、手を取ったのはセクハラだったかと、思い直し手を離した。
「すまんすまん。大丈夫か?」
「は、はい。大丈夫です……でも、今のって……」
苦笑するトワイライトに、カーリは乱れた髪をかき上げながら尋ねる。
「……爆発、みたいな音がしましたけど……」
「あぁ。ここで製造されたものかも知れないね」
「エンヴィスさんとレディちゃん、無事でしょうか……一体誰が、」
「さっさと見つけないとな。ミル嬢も、残りの人間たちも」
爆発なんて、危険極まりない事態に巻き込まれた仲間を、カーリは案じる。もちろん、彼女の考えは尤もだ。しかし、ここで立ち止まっているわけにはいかない。トワイライトは彼女を促し、共に先に進んだ。
ようやく階段を上り切ると、そこには長い廊下が続いていた。申し訳程度につけられた窓から、仄かに月の光が入り込んでいる。淡く照らされた通路を見て、トワイライトはピンと来た。
「そうか!これが、連絡通路か」
「えっ?」
「ほら、ここに来る途中、見ただろう。病院の中央棟と、西棟を繋ぐ通路を」
それがこれだ、と手を伸ばしてカーリに示す。驚きの声を上げて彼を見上げたカーリは、ふと何かを思い出したように、唐突に抱えていたタブレットを開いた。
「あぁ~、なるほど!そう言えば、そうでした。院内の案内図には記載がなくて、不思議に思っていたんです」
見せられる画面の眩さに、若干眉を顰めつつ、確認をする。確かに、院内に設置されていた案内板には、ここの存在は記されていなかった。まるで、初めから存在などしていないかのように。
「どうして……こんな造りにしたんでしょうね?」
「さてね……人間たちの思考は、複雑怪奇だ」
連絡通路など、隠しようがないものだ。通路自体が見えてしまうのだから、隠し扉などまるで無意味だろう。何故そんな意味のないことをしたのかと、カーリは首を傾げた。
「建設当初は普通の通路だったが、その後何らかの改修工事があって、今のような形態になったのかもね」
トワイライトも分からないと言いながら、それでも一つの可能性を提示する。かなり無理矢理なこじつけだが、現段階ではそれ以上に納得のいく説明が見当たらなかった。カーリもそれ以上は言葉を見つけられずに、口を閉ざす。
「確か、私が人影を見たのは、あの検査室に近い窓だった……もしかするとその人物は、この通路を通ったのかも知れないね」
記憶の糸を手繰りつつ、考察を述べると、カーリがわずかに眉を寄せる。
「隠し通路を知っていた、ってことですか?……もしかして、爆弾魔?」
あの仕掛けを発見するのは、さほど難しいことではない。しかし、少しは考える必要があるのも確かだ。あの部屋に長くいて、作業をしていただろう爆弾魔なら、気付いていてもおかしくはない。
「かも知れないな。床の跡は、そこまで深くなかった。病院が閉鎖された後に、やってきた彼が棚を動かした可能性はある」
「じゃあやっぱり……この先には」
「あぁ……恐らくな」
カーリが、怯えの色を強くして呻く。トワイライトも、決して油断せぬよう警戒を強めながら同意した。
トワイライトにとっては、人間が製作した爆弾程度、大した脅威ではない。彼にはそこそこ強力な、魔法の力があるのだ。人間への記憶操作という後処理を考えなければ、いくらでも防ぎようはある。だが、カーリは違う。彼女の力は、ほとんどないと言ってもいいレベルだ。やや規定違反の危険をも冒して、麻酔銃を持たせてはあるが、それとて十全の信頼は置けない。彼女は引き金を引いたこともない、市民なのだ。彼女と二人だけの状況で、激しい戦闘を繰り広げることはまずもって難しいだろう。場合によっては、彼女を優先し、ミルや人間を取り逃すことも覚悟しておかねばならない。
(厄介だな……)
彼女の弱さを、責めるつもりはない。強くなってほしいとも思わない。だが、このような状況においては、若干どころではない面倒が発生することを、疎ましいとは感じる。
非常に、我が儘な考えだ。
(せめてもう一人いてくれればなぁ……分かれたのは、失策だったか?)
判断を間違えたかと訝しみながら、廊下を渡っていく。人間たちに干渉することを配慮して、使用をやめている通信魔法を、起動させてしまおうかと思案しながら。
(エンヴィスくんたち、無事だといいが……)
何か言葉には出来ない、嫌な予感が背筋を苛んでいる。
それを極力思考から追い払い、足を止めると、目の前には分厚い金属製の扉が聳えていた。カーリに軽く目配せしてから、トワイライトは手にしたままだった剣を振りかざす。先ほどのように、ドアと壁の隙間に薄い刃を差し込み、こじ開けようとした。しかし、今度はそう上手くはいかない。いくら力をかけても、扉はびくとも動かなかった。どうやら、内側から鎖か何かを巻き付けられて、硬く施錠されているらしい。
「ふぅむ……ここからは入れないな」
「えっ……じゃあ、どうするんです?」
腕を組みつつ呟くと、カーリが目を丸くして問いかけてきた。彼女の質問に、直接は答えず、彼は周囲に視線を走らせる。注ぎ込んでくる月明かりを辿ると、すぐ横にある、窓に行き着く。トワイライトのちょうど、肘から頭の辺りまである、小さな窓だ。その向こうには、西棟の外壁が聳えている。色褪せたそれには、避難用の非常階段が取り付けられている。少し距離はあるが、思い切って飛び出せば、ここからでも辿り着けそうである。そしてその先は、各階へ侵入出来る扉が並んでいる。
「こっちから行ってみるか」
「はぁっ!?」
思わず漏れた独り言に、カーリが機敏に反応した。大きな瞳をこぼれ落ちんばかりに見開いて、トワイライトを凝視してくる。
「こっちって、どっちですか!?」
「ほら、あれだよ。あの非常階段。古びてはいるが、まだ使えそうだろ?」
噛み付くような勢いで聞いてくる彼女に、非常階段を指差し淡々と答える。カーリの声音が、一段と高くなった。
「冗談ですよね!?」
「本気だとも。無理かな?」
「い、いや無理っていうか、まず、ここからどうやってあそこまで行くんですか」
当たり前だ、と頷いて、やや茶目っ気を出して微笑む。カーリはどうにか反論してくるが、動揺のあまり、しどろもどろになっていた。
「この窓を壊して、さ。そうすれば、少し飛ぶだけで行けそうだろ?」
「で、でもっ!あの階段サビッサビですよ!?仮に飛び移れたとして、壊れたら死んじゃいますって!!」
窓ガラスをコンコンと叩いて示せば、カーリはズビシ、と音が鳴るような仕草で階段を指して叫ぶ。彼女の言葉通り、建物の外壁にへばり付く階段は、薄暗い夜でもはっきり分かるほどに傷んでいる。蔦が絡み付き、赤茶けた錆が浮いたあの状態では、到底自分たち二人の体重を支え切れないだろうと彼女は訴えた。
「確かに、留め金が壊れたら、私も君も、地面まで一直線だね……でもまぁ、何とかなるだろ」
トワイライトは顎に手を当て、おもむろに考えてから、平然と答える。根拠も何もない言い分に、カーリは頬が引き攣るのが分かった。
「と、トワイライトさん……!」
あまりにも能天気な彼の態度に、何と返すべきかと思い悩む。悩んでいる内に、彼は剣を軽く振るい、窓ガラスを壊してしまった。
ガシャーン、と派手な音が鳴り、砕け散ったガラス片が、キラキラと輝きながら舞い落ちる。
「よっと」
桟に残った破片を綺麗に払い落としてから、彼は躊躇いもなく窓枠に足をかけ、階段へと飛び移った。
によくあそこまで機敏に動けるものだと、カーリは己のいる状況も忘れて感心してしまう。何か、特殊な訓練でも受けていたのだろうか。
「ほら、大丈夫だよ。カーリくんも」
そんなことを考えている彼女に、トワイライトは向き直ると、足元を数回強く踏みつけて、強度をアピールする。
「うぅ……っ」
早く来いとばかりに手を差し伸べられて、カーリは躊躇う。試しに、半分好奇心から窓に片足をかけてから、下を覗き込んで固まった。ヒュゥウ、と吹き上げてきた風が冷たく彼女の頬を撫でる。とてもではないが、自分にはこんなこと出来ない。失敗したら即死なのだ。いや、即死ではないかも知れないが、重傷を負うのは確か。無理だ。
「むっ、無理です」
「大丈夫。剣に掴まって」
助けを乞うような声を上げると、彼はこっくりと頷き、彼女の頭上を指差した。見上げると、そこには彼の使っていた剣が、ふよふよと漂っている。何度かドアをこじ開けようとしたせいで、刃が若干歪み、傷付いているが、浮遊する姿勢には変化が見られなかった。
カーリはおずおずと、腕を伸ばして銀に光るそれに触れる。両の手がしっかりと柄を握り、繊細な装飾の感覚をも感じられるようになった時だ。
「あっ!?うわっ!」
カーリの足が、床を離れた。体が宙に浮き、腕に体重がかかる。慌てて握る手に力を込め直すと、剣がわずかに動き、彼女を窓へと近付けた。
「あっ、あわ……こ、こう?」
彼女は驚き、戸惑いつつも、腹筋に力を入れて足を上げる。踵の低いパンプスを履いた足が、桟に引っかかり、窓枠を乗り越えた。
「わっ!」
半身が外に出たところで、剣は急速に動き出す。一瞬だけ降下したかと思うと、素早い動きで窓をくぐり抜け、再び空中に浮いた。そのおかげで、カーリの体は速やかに、窓だった空間をすり抜けることに成功する。剣に支えられながら、どうにか非常階段に着地することが出来た。
「は、はぁ……はぁ」
恐怖と緊張が解けて、安堵の息をつくカーリ。トワイライトは彼女から剣を回収すると、くるりと回してから得意げな目線を投げてきた。
「どうだい?無事に移動出来ただろう?」
「は、はい……凄いですね、トワイライトさんの魔法って。こんなことも出来るんですか」
「はっはっは、まぁね。実用法の一つだ」
未だドキドキする胸を抑えながらも、感心の色を隠さずにカーリが呟くと、彼はまた自慢げな顔をする。
「君が望めば、いつでも体験させてあげるよ」
「もう2度とやりたくないです……」
「ははははっ!」
冗談めかして告げられた言葉に、心の底からの遠慮を返す。トワイライトは大声で笑いながら、彼女に背を向けて階段を登り始めた。
「意外に……頑丈なんですね」
簡単には壊れそうにないと、カーリも確認して安堵する。トワイライトはその言葉を聞くと、首だけで振り向いて笑った。
「だから言ったろう?」
「お見それ致しました……!」
何故か自信満々なので、調子を合わせて褒め称えておく。再び声を上げて笑う彼の背中を追いながら、カーリも淡々と足を動かした。
蹴込みのない鉄製の階段は、一段上がる度にわずかな振動と音が発生して、カーリの神経を刺激する。やはり、まだ恐怖は完全に消えたわけではないようだ。もしもこれがいきなり崩れ落ちたら、という嫌な想像をかき消すように、そっと視線を上げてトワイライトを見遣る。こちらには構いもせぬまま、一定の速度で足を運ぶ彼は、恐怖や躊躇いからは隔絶された世界を生きているようだった。流石、と思う一方で、一体どんな人生を送っていれば、彼のようになるのかと考えてしまう。カーリが彼といた期間は、彼の生きてきた時間からすれば、まだ取るに足らない長さだ。きっとまだ、知らないことが、山ほどあるに違いない。カーリは未だ、深淵を覗き込んでもいないのだ。深淵を覗き込むことが正しいのかすら、分かっていない。
「カーリくん?」
「っ!?あっ、はい!何でしょうっ!」
唐突にトワイライトに名前を呼ばれて、カーリは焦る。どうやら、現実から意識を離して考えに耽る内に、無事屋上まで到達していたらしい。思考を切断され、驚きのままにカーリは大声を出した。その声量に、トワイライトは一瞬苦笑してから、言葉を続ける。
「ここから、屋上に入れるようだ。危険人物が待ち構えているかも知れない……銃は持っているね?」
親指で指されたのは、背の低い鉄柵だった。小さな鎖を南京錠が止めているが、こんなものトワイライトにかかれば容易に破壊出来る。ギィ、と蝶番が音を立てて、扉は開いた。
「はっ……はい」
念押しをするような彼の声に促され、カーリは急いでポシェットに仕舞ったままの麻酔銃を取り出してみせる。ちらりとグリップが覗いた時点で、トワイライトは興味をなくしたように視線を外した。
「よし。なら、行くぞ。気をつけたまえよ」
階段を登っていた時と同じように、迷いのない足取りで屋上へと踏み出していく。カーリもまた、先ほどと同じように、やや気後れしながらついていく。
西棟の屋上には、ガラス張りの、半球状のドームが設られていた。だが、やはり何年も使われていないようで、雨の跡が汚れとなって付着してしまっている。内部へと通じるドアを、トワイライトが開けると、室内に積もっていた分厚い埃がぶわりと舞い上がった。
「ごほ、ごほんっ」
カーリが顔の前で手を振って、顔を顰める。トワイライトも思わず眉根を寄せながら、やや高くなった敷居を乗り越えて、中へと入った。
外側から見た時は、プラネタリウムか何かなのかだと思っていたが、意外なことに中には何の設備もない。星座を投影する機械も、観客のための椅子も、全くなかった。
「何もありません……ただの、広い場所です」
広大な空間をじろじろと眺め回し、カーリが呟く。
「そのようだな……」
トワイライトも、興味深げに辺りを見た後、完全に同意した。やはり、人間たちというものは、悪魔には理解出来ない生物のようだ。一体何のために作られた場所なのか、皆目見当がつかない。
「人間はどこにいるんでしょう……本当に、こっちの建物に来ているんでしょうか?」
彼女の声はさほど大きくなかったが、この静かで広い空間には、十分に響く。しかして、その質問に答える者は、誰もいなかった。彼女も期待していなかったのか、勝手に話し続けようとする。
「もしかして、もう避難しましたかね?だったら、」
「シッ!カーリくん」
探さなくていいのでは、と楽観的な口調で話す彼女を、トワイライトは素早く黙らせた。
「!?」
遮られたカーリは、目を丸くして彼の背中を見つめる。こちらを片手で制したトワイライトは、しばしその姿勢で固まったまま、ある方向に視線をやっていた。
何を見ているのか気になったカーリは、首だけを伸ばしてトワイライトの目線を辿る。広大な空間のど真ん中。ちょうど月の光が届かなくなる境界の位置に、誰かがいた。
「!!」
カーリは息を飲み、驚愕する。それと同時に、暗がりに身を潜めていた人物が、ぬるりと姿を現した。
「……ご機嫌よう、素敵な殿方」
台詞じみた、可愛らしい挨拶。幼い子供の声で告げられると、尚更作り物のようだ。
「お会い出来て光栄ですわ」
可愛らしい格好をした女の子が、優雅にお辞儀をしてみせる。摘み上げられたワンピースの裾の、大量のフリルが柔らかそうに揺れる。ツインテールに結った金髪が、さらりと金細工のように流れた。
まるで、人形のように美しい少女だ。しかし、だからこそ分かる。現実味のない整った容貌、絵に描いたようなロリータファッション、そして、左右で色の違う、緑とピンクの瞳。
「ミル……!」
彼女こそが、刑事部が長年追い続けてきたという、ピンク・ジェノサイダー。妄想で出来た楽園に囚われた、悍ましい猟奇殺人犯でである。
「探し物はこちらですか?」
名前を口にしたきり、固まってしまったカーリの耳に、少女のあどけない声が届く。何やら問いかけてきたミルは、突然くるりと身を翻すと、背後にあった何かを放り投げてきた。どちゃり、と水を含んだ重たい音を響かせて、それが床に落下する。
「ひっ!!」
正体が分かった瞬間、カーリは頬を引き攣らせて悲鳴を漏らした。
長い間放置されて、埃の溜まった床に、じわじわと赤いシミが広がっていく。その中心にいるのは、恐らくかつては人間だったもの。体のあちこちを切り裂かれ、もはや人としての形を確認出来ないほどになっている。
「あ……あ……っ!」
「見るな、カーリくん」
声を失い、ただ数歩よろめくように後ずさるカーリを、トワイライトが捕まえる。ほとんど無意識に、彼の腕を掴み返したカーリは、自分でも驚くほどの強い力で彼に縋った。腹の奥から込み上げてくる、ムカムカとした気持ちを気合いだけで抑え付ける。代わりに滲んできた涙が、視界をぐにゃりと歪ませた。
「見ては駄目だ。飲まれるな。心を強く保て」
彼女を背中に庇いながら、トワイライトは冷静な言葉をかける。
「どんなに極限な状況でも、周りに飲まれたらお終いだぞ」
ミルを警戒したままの状態で、どれだけ効くか分からない。けれど、必死になって腕を掴む力が、少し和らいだ気がした。
「生き残りたくば、己を保つんだ。それが出来ないというのなら、私を信じろ。出来るね?」
一瞬、わずかにだけ振り向いて彼女の顔色を確認する。カーリは未だ、トワイライトにしがみついたまま、口元を押さえていたけれど、それでも気丈にコクコクと首を振った。
「よし。ならば、少し下がっていてくれたまえ。上司として、君のことは絶対に守り抜いてみせるからね」
何度も頷いてくれる彼女に、トワイライトも意識して作った自信のある声を聞かせる。言いながら、内心格好つけ過ぎたと苦笑してしまった。しかし今くらいは構わないだろう。少しくらい、彼女を勇気づけるためには必要だ。そう自分に言い聞かせながら、トワイライトはミルに向き直った。
「いやいや、申し訳ない。何分、彼女はこういう場が初めてでしてねぇ。少々取り乱してしまったようです。さて……何から始めましょうか」
いつもの、と言って差し支えない、使い慣れた笑顔の仮面を装着する。決して本心を見せぬための、一部の隙もない武装。両手を広げてミルに問いかけると、彼女もまた、似たような表情で小首を傾げてみせた。
「そうね……正直なところ、ワタクシも悩んでいるところよ。ワタクシの楽園は、確かに最高だけれど、他人が簡単に立ち入れる場所じゃないの。だからお客人は久しぶりよ。盛大に歓迎しなきゃね」
「ははは、その必要はありませんよ。我々はすぐに、帰るつもりですから……あなたを捕まえてね」
人差し指を頬に当て、わざとらしく考え込む彼女に、心配は無用だと微笑みかける。そして、鋭く切り込んだ。
「あら?」
ミルは若干驚いたかのように、形のいい眉を片方持ち上げる。演技とも、素の動きとも取れる、曖昧な動作だ。
「それは光栄ですわ。ワタクシと遊んでくださるというのね?」
「単刀直入に申し上げましょう」
両手を合わせて、名案を賞賛するような彼女の言葉を、トワイライトははっきりと遮った。
「我々は魔界府警察部門、単独脱界者対策室です。桃色の殺戮者こと、ミル嬢。あなたを逮捕しに参りました」
低くもなく、高くもない、ごく普通の声色で淡々と告げる。まるで、決定した事項をただ連絡するかのように。冷静極まりない態度で宣言する。
彼の言葉を聞いたミルは、その美しい顔を、一瞬にして憎悪と憤怒に塗り替えて言った。
「……無礼な方」
すっと伸びた腕が、ワンピースのポケットから何かを取り出す。細く長い刃を持った、銀色のハサミ。美容ハサミと呼ばれる、髪を切るためのそれ。鋭く研がれた刃にはべっとりと人間の体液がこびりつき、まだ固まりきっていない血液がポタポタと滴り落ちていた。
「ワタクシを誰だと思っているの?そこの人間を見なさい」
赤い血を点々と撒き散らしながら、ミルがハサミを振り回す。刃の切っ先が示したのは、ドアが開けられたままのバンだ。中にこもった死体の腐臭が、トワイライトの鼻にまで流れてくる。顔を顰めぬよう気を配りながら、再びミルを見据えた。
「この人たち、中々遊びがいのある人間だったのよ?簡単に壊れてしまわなくって、勇ましくって……理想の王子様とは程遠いけど、確かに楽しかった」
ミルはまるで歌うように、くるくるとステップを踏みながら話し続けている。金糸のような細い髪の毛が、動きに合わせてさらりと揺れた。
「でもね、結局人間なんて儚いものなの。理想は所詮、理想なのよね。胡蝶の夢に過ぎないのかしら。じっくり、たっっぷり、ゆっっっくりいたぶってる内に、皆壊れてしまう……呆気ないものよ、本当に」
天井に向かって手を差し伸べ、ミルは嘆く。『壊れた』ではなく『壊した』であるはずなのだが、彼女がそれに気がつくことは、決してないようだった。
「あなたたちはどう?そんな人間と、大して変わらないでしょう?脆弱で愚鈍で、頭の悪い生き物じゃない。それでどうやって、このワタクシを捕まえると言うの?」
くるくると、指に引っかけたハサミを弄び、ミルは肩にかかった金髪を払う。その仕草は、まるで良識ある大人のようで、カーリは困惑した。狂気とて、一周回れば正気になるのだろうか。そんなことが、有り得るのか。
「もちろんです。それが我々の仕事ですから」
だが、トワイライトはあくまで冷静なまま、彼女に微笑み淡々と答える。
「……そう。そんなにワタクシに殺されたいのね」
ミルの声が、一オクターブ低くなった。端正な白い顔が、落胆とも怒りとも知れない淀んだ感情に黒く歪む。
「……なら、お望み通り、殺してあげるわっ!!」
唐突に、彼女がこちらへ向かって駆け出してきた。美しい金髪が風に靡き、手に握られたハサミが月光を反射して輝く。老朽化してひび割れた床は、彼女が強い力で踏み込む度に、小さなタイル片を飛ばした。
「最高の死に顔を見せてっ!!」
叫びながら近付いてくる彼女は、凶悪な笑顔を浮かべながら、禍々しいオーラを放っている。
「カーリくんっ!」
「えっ!?」
名前を呼ばれたかと思うと、肩を強く突き飛ばされて、カーリは硬い床に転がった。背後から、ギャン、と金属同士がぶつかり合うような、けたたましい音が聞こえてきた。トワイライトが、魔法で作り出した剣を構え、ミルの攻撃を受け止めている。
「ぐっ……!」
だが、あろうことか、力負けしているのは彼の方だった。ミルの圧倒的な腕力に押され、足が徐々に後ろへと滑っていく。トワイライトは、食いしばった歯の間から、耐えるような呻きを漏らした。
「なっ……何で!?」
目を疑うような光景に、カーリは思わず驚愕の声を漏らす。両者の力が競り合うなど、あり得ないことのはずだ。トワイライトは大人の男、対してミルは子供であり、互いの得物も、剣とハサミである。どう足掻いても、ミルに勝ち目はない。それなのに、むしろ彼女の方が押しているのだ。もしも魔法という力の存在を知らなければ、到底受け入れられなかっただろう。知識を持っていても尚、瞠目してしまうくらいなのだから。
「ふぅん……なるほど」
ギリギリと鍔迫り合いを繰り広げながら、ミルは可笑しそうに口の端を吊り上げる。
「黒いあなたは、手間がかかりそうね。ワタクシとしては、そっちのか弱そうなお嬢さんから、切り刻みたいのだけど、駄目かしら?」
余裕の態度で、あからさまな挑発。トワイライトの激昂を誘っているのだろう。だが、交渉という名の腹の探り合いに長けた彼に、そんな手は通じない。
「あいにくですが、あなたの相手は私が務めさせていただきますよ、ミル嬢」
貼り付けた笑みと共に断られ、ミルの方が柳眉を逆立てた。
「……その呼び方、やめてくれる?不愉快だわッ!」
「っ!?」
ハサミが勢いよく振られ、トワイライトの剣は弾かれる。それどころか、あまりに強い力に、身体ごと吹き飛ばされた。
ガシャン、と派手な音を立てて、背後の壁に激突する。一応金属製の骨組みで補強されているとはいえ、ガラスのそれは呆気なく割れて、彼はドームの外へと放り出された。
「トワイライトさん!!」
ガラスを突き破るほどの力を受けたのだ。もしも人間だったら、全身の骨を折るなどの酷い怪我をしていることだろう。もしかしたら、屋上から落ちているかも知れないと、カーリは全身を総毛立たせる。彼は無事なのだろうかと、声を震わせて名前を呼べば、背後に小さな影が立った。
「まずは、あなたからね」
「えッ!?」
静かに告げられた言葉に、驚きを表している時間もない。鋭く振り下ろされた刃が、カーリの首筋を切り裂こうとした。
「!わっ、と」
突然、どこからか飛んできた金属製の塊が、カーリを狙っていた凶器を弾き飛ばす。ハサミを横から強く叩かれて、ミルが頓狂な声を上げていた。
「驚いたわ……あなた、まだ生きていたのね」
彼女の視線が向く先には、美しく輝く銀色の剣が、誰の手に触れることもなく、自動で浮遊していた。
「ダンスの相手を途中で変えるのは、失礼にあたりますよ、ミル嬢」
スーツから細かいガラス片を落としながら、トワイライトが平然と立ち上がる。先ほど不愉快とまで言われた呼び方を続けて、もったいつけた口ぶりで語る様は、間違いなくいつものトワイライトだ。
「トワイライトさん!」
彼が無事だったことと、また助けてもらったことが、二つ同時に込み上げてカーリの声を高くする。トワイライトは彼女の方を見遣ると、下がっていろと手で指示した。
「ここは楽園で、あなたは姫君なのでしょう?」
彼女の妄想など、まるで信じていないことが分かる口調で尋ねかける。ミルは挑発に気付くことなく、同じような反応で答えた。
「えぇ、そうね。でも、今宵だけは社交はなしにするわ。ワタクシたちの関係は、もっとシンプルなものがいいもの」
「かしこまりました……では、直截にいきましょうか」
伝わらなかったようだと、トワイライトは肩を竦め半ば呆れた表情をする。流石にこれにはミルも怒ったのか、端正な顔立ちを勝ち気に張り詰めさせた。
「始めるとしましょう……」
「「殺し合いを」」
二人の言葉が重なった瞬間、ミルの姿がかき消えた。カーリが目を疑う間も無く、再び甲高い金属音が辺りに響き渡る。先ほどは一回だけだったそれは、今度は何度も繰り返し、連続して鳴った。
「宙に浮く剣……厄介な魔法ね。自分の力じゃどうにもならないところまで、カバー出来てしまうなんて」
空中を飛び回る剣に、何度もハサミを打ち付けながらミルがこぼす。最初の時のように、分かりやすいダメージを与えられないことが、焦ったいのだろう。しかし彼女は言いながらも、凄まじいスピードで腕を動かし、凶器を振り回していた。
「魔法とは本来、そういうものでしょう?理を超えて、欲望を叶える力……まさに、悪魔のための力だ」
繰り出される連撃を、トワイライトは全て正確に見切り、剣を操って防いでいた。自らの腕で持たなくていい分、剣は肉体の限界を超えて、俊敏に器用に動き回る。それによって、ミルの高い身体能力にも、対応することが出来ていた。
「その通りだわ。でも、あなたがいくら頑張ったところで無駄よ。こんなちゃちな剣一本では、ワタクシを止められないっ!」
ミルが一際強い突きを放ってくる。受け止めては駄目だ。直感したトワイライトは、即座に操作を切り替え、向けられた力を受け流すようにする。ギャリギャリと金属同士が擦れる音がして、小さく火花が散った。
「っと……」
上手く流せたと言えども、流石に全てのエネルギーを無効化するには至らない。トワイライトは体がわずかに押されるような感覚を受け、咄嗟に後方に軽く跳躍してバランスを保った。
「ちぃっ!」
今の一撃で仕留めるつもりだったのだろう。思惑の外れたミルが、形相を歪めて舌打ちをしている。その様子を観察していれば、自然と見えてくるものがある。
(彼女は、戦闘慣れしていない……)
基本的に、戦いとは交渉だ。そう、トワイライトは思っている。いかに自分の実力を隠しながら、相手の強さを測るか、そこに戦闘における全てが詰まっていると。
どのような魔法を使うか、どのような武器を使うか、そしてどの程度の威力を出せるのか。その他様々な情報を、効率的に集め総合的に考えることが、勝利への秘訣だ。自分では勝てないと判断した場合は、可及的速やかに逃げなければならない。トワイライトはそういった、交渉や駆け引きに長けている自負があった。言葉による探り合いだけではなく、戦いにおける情報戦も。
しかしミルは、反対に全く駆け引きの出来ない性格であることが分かってくる。今も、トワイライトの魔法を看破したと思い込み、彼の全部を把握した気でいる。これ以上の手札はないと、信じて疑わないようだ。
(こちらの情報を探ってこないのはありがたいが……さて、どうするか)
このままでは膠着状態に陥ってしまうと、トワイライトは内心で臍を噛む。ミルがこちらを知り尽くした気でいるのは、油断を誘いやすくて好都合だ。しかし、トワイライトはまだ彼女の情報を十分に引き出せていない。彼女の真の力を暴くには、様々な角度から切り込む必要がある。だがそんなことをすれば、彼にはまだ手があったのだと、ミルに気付かせてしまうことになるだろう。どうにかして、思い込みを解かぬまま、情報を探り出さなければならない。
(警戒されると面倒だ……そのまま、何も知らないでいてくれるといいんだが……)
まず間違いなく、不可能というものだろう。全くもって、無理難題だ。トワイライトが悩んでいる間に、再びミルの怒号が響く。
「しぶといわね、さっさと死になさいよっ!!」
平行した戦局に苛立ちが増したのか、彼女の顔は鬼のような形相に変わっていた。もはや最初の、可愛らしい人形めいたかんばせはどこにもない。怒り狂った殺人者の顔で、トワイライトめがけて切り込んでくる。細い足で力強く跳躍し、一瞬にしてトワイライトの眼前に移動する。超速の接近を、回避する術などない。トワイライトはそのまま、彼女の体重が乗った重い一撃を、剣で受け止めた。
「っ……!」
両腕に伝わる、超人的な怪力。場合によっては、レディをも凌駕するだろうそれ。押し切られぬよう、防ぐので精一杯だ。だが、ミルの方は、未だ余裕綽々といった態度。
「甘いわねっ!」
「ぐっ!」
鋭い蹴りが脇腹に食い込み、たまらず片膝をついた。ズキズキと沁みてくるような痛みが、肋骨を中心に走る。こういった時に、浮遊する剣の魔法は便利だ。術者が戦えぬ状態にあっても、魔力さえ尽きていなければ、いくらでも身を守れる。とはいえ。
(まずいな……このままだと、じわじわ体力を削られる……)
魔力はまだ残っているとはいえ、肉体を痛めつけられることをよしとするはずがない。しかし、かといって今のトワイライトでは、彼女に対する有効な策が捻り出せないのも事実だ。
(どうするか……)
「トワイライトさん……」
真剣な面持ちで熟考する彼の名を、カーリは小さな声で呼ぶ。壁際に身を寄せ、ひっそりと息を殺しながら、じっと戦況を窺った。
(何とか助けたいけど……私の力じゃ)
力になりたいと、強く願い、そしてそれを否定する。
戦う力を持たない彼女だ。たとえ前に出たところで、盾としての役割も果たせぬに違いない。無論、トワイライトが許すはずもないため、ただ彼の負担になって終わるだけだろう。彼女にとっての最善は、ここで息を殺していることなのだ。
(私じゃ、足手まといになるだけ……でも、何も出来ないのは、やっぱり辛い)
この辛さは、弱者として受け入れるべきもの。分かっていても、心のどこかで認められない自分がいる。だから、先ほどからトワイライトにもらった銃で、ミルを狙っているのだが、中々引き金を引くことが出来ない。
トワイライトとミルは、剣とハサミで切り合っている。両者の距離が、自然と近くなっているのだ。そこへ、自動で軌道が修正される銃を撃った場合、弾はどちらに当たるのだろうか。引き金を引いた者が、意図した方に命中するのか?カーリには分からない。だから、何も出来ないのだ。万が一、間違ってトワイライトに当てたら、お終いだ。
ハラハラと心臓を跳ねさせるカーリのことを、トワイライトも頭の片隅で考える。彼女のためにも、ここは手札など気にせず、攻勢に打って出るべきだろうか。しかし、ミルがまだ何かを隠しているという可能性も考えられる。不用意な行動をして、カーリまで巻き込んでしまったら、取り返しがつかない。せめて、もう一人戦える者がいてくれたら。この場にいない部下のことを思いつつ、軽く後退して、体勢を整える。剣を体のすぐ横に浮かべ、ミルからどんな攻撃が来ても即座に対応出来るように身構える。その時だった。
カラン、コロンと硬い床に硬い何かがぶつかって転がる音がする。トワイライトのもとまで、コロコロと転がってきたそれは、小さな金属製の球体だった。表面についた小さなボタンは既に押されていて、赤いランプが点滅している。チカチカと、眩い光が継続して灯った瞬間、トワイライトの全身を凄まじい衝撃が襲った。
「うっ!ぐっ……!!」
足が床を離れ、体が宙を舞う。頬に熱風が吹きつけたかと思うと、背中を強く何かにぶつけた。ドームの壁に衝突したのだと気付く頃には、彼は冷たい床の上に倒れ伏していた。
「がっは……げほっ!ごほごほっ」
「トワイライトさんっ!!」
カーリの悲鳴じみた声が聞こえる。不安と恐怖で、今にも泣き出しそうな声色だ。心配しなくていいと、話しかけてやりたくなる。しかし、爆煙で満たされた彼の肺では、言葉を発することはおろか、まともに呼吸することもままならない。
「人間たちもいいものを作るわよね。これ、かなり効くでしょう?ワタクシ、感激しちゃったわ」
床に蹲ったまま、激しく咳き込むトワイライトのそばに、ミルがカツカツと歩み寄ってくる。そして、手の中に握った丸い爆弾を弄んだ。
「だから、これを作ってくれた人間のことは、ちゃんと殺してあげたわよ?今までみたいな、遊んでる内に壊しちゃうんじゃなくて、初めから絶対に、殺してあげるって、決めてたの。なんていうか、そうね……感謝の気持ち?って言うのかしら。あなたにもあるでしょ?そういうこと」
「えぇ……あるんでしょうね。分かりませんが。ゲホッ」
まるで自分に陶酔するように、両手を組んで歌い上げる彼女。そのあまりに異常な行動に、かえってトワイライトは正気を呼び起こされた。未だ鈍く軋む関節に鞭を打ち、うつ伏せに倒れた体をゆっくりと起こす。爆音で傷んだ鼓膜が、キーンと音を立てた。
「大丈夫だよ、カーリくん……私はまだ、死なないさ」
軽く頭を振ってそれを追いやりながら、背後にいるカーリに呼びかける。そして、スーツについた砂埃を払い、おもむろに呟いた。
「まだ、ね……」
自分自身に、そしてミルに、言い聞かせるように。
「あなた、本当にしぶといのね。ここまでくると、もはや感心するわ」
ミルが、猫撫で声のようなわざとらしい声音で彼を称える。明らかに挑発を意図して放たれた言葉だったが、彼はまるで本当に賞賛されたかのように、ふっと息を吐いて微笑んだ。
「見くびらないでいただきたいものですねぇ」
指ではなく、魔法の剣を動かして、ミルに切っ先を突きつける。侮るなと、不敵に嘲笑うかの如く。
「私は……いや、サラリーマンというものは、得てしてしぶとさだけで生きているようなものなんですよ。だから……油断してかかると、痛い目を見る」
「……そう言うと思ったわ」
窮地に立たされて尚、屈服することなく笑い続けるトワイライト。彼の反応を見たミルは、呆れた表情で肩を竦めた。まるで、映画の結末が、自身の予想を全く超えてこなかった時のような。最後の慈悲まで捨て去った心で、冷淡に告げる。
「……だったら、これでお終いにしてあげる」
そして、軽く指を曲げた片手を、天井に向かって高く伸ばした。
「ワタクシにだって、魔法は使えるのよ、殿方!」
高い声で宣言した直後、トワイライトの頭上に、幾つもの眩い光源が発生する。赤く明るく光り輝くそれは、炎だ。宙に浮かぶ、無数の火の玉。トワイライトの頭ほどもあるそれが、今にも彼に襲い掛からんと、燃え盛る。
「あぁっ……!」
「人間たちは、本当に素晴らしい生き物だわ!ワタクシを楽しませるだけでなく、こんな贈り物までくれる!爆炎という、美しい花をね!」
トワイライトの命が危ない。反射的に悲鳴を上げるカーリの耳に、ミルの恍惚とした叫び声が届く。
「これはプレゼントよ。謝礼のチップとも言えるかしら?あなたとのダンスは、中々楽しめたもの」
金髪を指に絡ませながら語る彼女の頬は、灼熱の炎に赤く温められている。それは、まるで小さな太陽だ。いつ落ちてくるかも知れない、災厄。
「なるほど……受け取らないのは、無礼にあたりますな」
囂々と音を立てて火の粉を爆ぜさせるそれを、トワイライトは冷静に見据える。呟くようにこぼされた声に、ミルは完璧な笑顔で頷いた。
「その通りですわ。きちんと、受け取ってくださいね。確実に……殺してあげますから」
閉じられた瞼の奥の瞳は、きっと笑っていないのだろう。炎がトワイライトの身を焼き、命を食い尽くす最後の瞬間まで、一瞬たりとも見逃さずに、目撃しようとしているに違いない。
(やはり、ダメか……)
逃げ場はない。トワイライトは悟った。生き延びるためには、決断するしかない。
「さようなら……永遠にね」
凶悪な笑みを讃えた彼女が、小さく手を振る。親しい友に別れを告げるような仕草は、しかしトワイライトに向けたものではない。トワイライトを屠るため、生み出した炎を操るための動作だ。
「!!何っ!?」
カーリは反射的に、瞼にぎゅっと力を入れて目を瞑った。その時だ。
ゴゴゴゴ……と、どこからか地鳴りのような、轟音が聞こえてくる。それと同時に、発生した強い振動に、カーリは足を取られて転倒した。
「わぁっ!!」
「カーリく、っ!?」
悲鳴を上げる彼女に、咄嗟に駆け寄ろうとして、トワイライトも立ち止まる。倒れそうなところを力づくで踏み留まり、目を下に向けて、瞠目した。
何色かの色の違うタイルの貼られた床。古びて埃の積もったそれが、ピシピシと音を立ててひび割れてきている。長い年月の間に、老朽化していた建物が、トワイライトとミルの戦いで決定的に壊れたらしい。ミシリ、と一際大きな音が響いたかと思うと、彼の体は数センチ沈んだ。
「まずい」
亀裂が周囲の床を取り囲み、半径数メートルの円を作り始めている。そこから逃れる暇もなく、深く口を開けた大穴に、トワイライトは飲み込まれた。
「うぅっ!!」
もうもうと巻き上がった砂塵に負け、カーリは両腕で顔を覆って身を縮こめる。ビキリ、と靴で踏んだ床が、亀裂を走らせるのを感じた。
「あっ、わっ、わ!」
視界の効かない中で、どうにか安全な場所を求めて手探りで進む。床の下の空間から、何かが崩れ落ちるような、轟音が響いてきた。
「げほっ、けほ、こほっ……な、何……?」
ようやく音と振動が収まった頃、カーリはおずおずと首をもたげて辺りの様子を見る。身を守るため、芋虫のようにうずくまっていた体を起こすと、服の上に山積した砂や塵が流れ落ちた。
「こほこほっ、と、トワイライトさん……?」
口に入った細かい砂を、咳として吐き出しながら、声を絞り出す。状況が、全く理解出来ない。何が起きたのかと、困惑しながらトワイライトの名を呼ぶ。かき上げた髪から、またもや砂がこぼれ落ちた。
「何……これ……!」
直後、彼女は目の前に空いた巨大な穴を見て、言葉を失う。直感的に、床が抜けて、トワイライトたちもそれに巻き込まれたのだと分かった。
「トワイライトさーんっ!!」
未だパラパラと破片をこぼす縁にしがみついて、下を覗き込む。しかし、電気が通っていない建物の中を、鮮明に見下ろすことなど出来ない。そこには真っ黒い暗闇だけが、ぽっかりと口を開けているだけだった。
「急がないと……!」
トワイライトが危ない。
かろうじて視認出来た範囲だけでも、穴はかなりの深さがあるようだった。どうやら、抜けた床は相当な重量があったようだ。六階の床も突き破り、五階の天井まで破壊して、数階分を貫いている。
それらの残骸と共に落下したとしたら、たとえトワイライトでも無事では済まない可能性があるだろう。ましてや、彼は凶悪殺人鬼とミルと一緒なのだ。助けに行かなければ、命が危ないかも知れない。
カーリは、慌てて駆け出す。だが、数歩も行かずに足が止まった。
(私が行って……何になるの?)
戦うどころか、身を守る術すら持たない彼女が、何の助けになるというのだろう。彼女にミルを制圧する力はない。トワイライトが瓦礫に挟まれていたとしても、それをどかす力もない。
(私はただの邪魔者。助けになんてならない。むしろトワイライトさんの苦労を無にしてしてしまうかも……)
彼らが無事で、まだ戦闘を続けていた場合、カーリがそこに飛び込むことは、むしろ負担にしかならない。弱者を庇うという余計な一手を、トワイライトに使わせてしまうことになる。まさに、ミルが嫌う、邪魔者そのものだ。
もちろん、彼がそのことを表立って告げることはない。彼は紳士だ。カーリを傷付けるようなことは、決して口にしないに違いない。けれども、彼女を笑顔で受け入れる、その表情の奥で、一体何を考えているのか。察することの出来ないカーリではない。本心を語らない彼相手だからこそ、こちらからの配慮が必要なのに。
(やっぱり、魔法が使えなきゃ……私じゃ何の役にも……)
膝をつき、がっくりと項垂れる。しばし沈黙した彼女のポケットから、スマートフォンが通知を鳴らした。
「ひっ!」
突然響いた音と、体に伝わる振動に、かすかな悲鳴を漏らす。慌てて取り落としかけながらも、どうにか画面を開いた。
『なんか凄い音したけど、大丈夫?カーリ今どこにいるの~?』
メッセージアプリに表示される、気の抜けたメッセージ。カーリはそれを見て、ほっと息をつく。仕事中にプライベート用の連絡先にメッセージを送ってくる、彼女の呑気さに張り詰めていた緊張がやや和らいだ。
『私は無事だよ。西棟に来てくれる?トワイライトさんが危ない』
質問に端的に答えながら、こちらも連絡事項を伝えて、送信ボタンを押す。既読マークがすぐについて、即座に返信が来た。
『了解!アタシに任せて!カーリにはエンちゃん任せた!』
「……?」
可愛らしいスタンプで伝えられた返事と共に、送られてきた言葉に首を傾げる。エンヴィスを任せる、とは一体どういうことだろうか。レディの文章は非常に稚拙過ぎて、何を言いたいのかが今一つ理解出来ない。
とりあえず、彼女がこちらに向かってくれるというのであれば、安心だ。戦えないカーリより、驚異的な身体能力を持つ彼女の方が、よほど頼りになるだろう。トワイライトの足手まといになる可能性も、低いに違いない。
(そうだ、私には、レディちゃんたちがいる……皆と一緒なら、私にも何か出来るかも知れない!)
立ち上がって、出口を目指す。
弱い彼女一人では、出来ることには限りがある。だが、だったら、力を合わせればいいのだ。彼女を支え、助けてくれる者たちと、協力すれば良い。例えば。
(誰かが注意を引いている間に……私がこれを)
ポシェットの中の、硬い金属の感触を掌で撫でる。撫でながら、ドームを出て下に降りる階段を探した。電源の止まっているエスカレーターを、足元に気を配りつつ駆け降りる。6階の、最も近い扉を勢いよく押し開けると、蝶番の壊れていたドアはそのままバタンと倒れた。埃と共に、細かい砂やコンクリート片が飛び散るのが、暗い中でも分かった。懐中電灯の光を向けると、黒く深い穴が、数メートル先にぽっかり口を空けているのが見える。やはり、更に下の階まで続いているようだ。
「トワイライトさん……!」
こんな事態に巻き込まれて、彼は本当に無事なのだろうかと、カーリは焦る。だが、タブレットのバイタル表示は健康そのものだし、生きていることは確実だ。
「早く行かなきゃ!」
不安で速まる鼓動を抑えながら、カーリはもう一階分階段を駆け降りる。次も一番近くのドアを開けて、トワイライトがいるか確かめようとしたのだが。
「っ!?」
ふと、すぐ横の窓に、黒い影が映る。ちょうど、カーリの頭を吹き飛ばせそうな位置に。何かを起点にして振った体を、勢いよくぶつけてくる。
「わぁあっ!!」
ガラスが砕け散る音。飛び散る破片と強襲から身を守ろうと、彼女は身を丸めてしゃがみ込んだ。その近くに、どっと重量のある塊が落下する。そして、呻いた。
「痛ぇ~……くっそぉ、あいつ、どこ行きやがった!?」
「え、エンヴィスさん!?」
聞き慣れた怒声が耳に届くなり、カーリは目を見開いて声を張る。飛び起きて顔を上げると、そこには予想通り、エンヴィスが転がっていた。スーツについた埃やガラス片を払いながら、溜め息をついて起き上がる。それから、彼女の姿を認め、何とも気軽な仕草で片手を上げた。
「ん?あぁ……よう、カーリ」
「いや、ようじゃないですよ、エンヴィスさん!」
レディに負けず劣らずな呑気さを見せる彼に、カーリは思わず食い気味なツッコミを入れた。
「どっ、どうやってここまで来たんです!?」
動揺のあまり、声を震わせながら叫ぶと、彼はきょとんとした表情で答える。
「え?外からよじ登ってさ」
再び、カーリの悲鳴が轟いた。
「外って……ここ、五階ですよ!?」
「大変だったぜ~。体は痛ぇし、風は強いしな。あぁ~疲れた……」
なんてことを、とまるで非難するように叫ばれても、エンヴィスは顔色一つ変えない。むしろわざとらしく肩を回して、気怠そうな仕草を見せた。
こちらの言いたいことを全く理解しない彼を、カーリは呆れの含まれた湿度の高い目で見つめる。だが、エンヴィスはそれすら気に留めることなく、首に手を当てたまま、振り向いて問うた。
「そうだ、お前、レディ知らないか?」
「レディちゃんですか?」
唐突な問いかけに、カーリも小首を傾げて応じる。先ほどのメッセージのやり取りを彼に説明しようと口を開くが、エンヴィスがそれよりに先に、勝手に話を始めてしまった。
「さっき、こっちに向かうのが見えたんだよ。だから追ってたんだが……あいつ、一体どれだけ俺のこと振り回すつもりだ?俺を犠牲にして爆発から逃げやがって……今度という今度は許さねぇぞ!」
「ば、爆発!?」
流れるように捲し立て、両の拳を打ち合わせる彼。何の話をしているのだかさっぱり分からないが、一つ聞き捨てならない単語が入っていたことを、カーリは耳聡く聞き咎める。またもや目を丸くして、噛み付くように繰り返してくる彼女を、エンヴィスはまるで面倒そうに手で振り払った。
「あぁ、まぁな……そんなことはいいんだよ。それより、レディは」
「し、下の階だと思います!」
再び話を振られて、カーリは急いで返事をする。エンヴィスの言葉を、じっくり聞いている暇はないと思い出したからだ。
「私、レディちゃんに西棟に向かってってメッセージを……トワイライトさんがピンチなんです!」
「何?トワイライトさんが?」
話す順序も組み立てぬまま、衝動に任せて話すカーリの言葉から、エンヴィスは巧みに重要情報を聞き取って眉を顰めた。
「はいっ!私たち、西棟の屋上でミルを見つけたんです。それで、戦いになって、爆発が起きて、床が抜けて、トワイライトさんが……」
言いたいことを汲み取ってもらえたがために、カーリは更に速度を上げて話す。伝えたいという気持ちだけが先走った、全く要領を得ない説明だったが、それでもエンヴィスは根気強く耳を傾けてくれた。カーリはそのおかげで、わたわたと手を蠢かし、時々声を詰まらせながら、どうにか最後まで話し切ることが出来た。
「……あの人、手札を出し渋ってんのか?何のために?」
聞き終わったエンヴィスは、片眉をヒョイと持ち上げて、頓狂な声を出す。
「えっ?手札?どういう意味ですか?」
低く呟かれた言葉を、カーリは聞き咎め質問するが、彼は答えない。
「何でもない。とにかく行くぞ。トワイライトさんは、俺たちの助けを待ってる……多分」
「は、はいっ!」
やはり、気が付いてはいたが、第三者の口から言われると余計に気が引き締まるというものだ。カーリは使命感をより一層強くして、ハキハキと返事した。そして、早足で歩いていくエンヴィスの背を、慌てて追う。
「あ、ちょっと!待ってください!」
「早くしろー。で……どっちだ?」
小走りで駆けてきたカーリが追いつくなり、エンヴィスは人差し指で何かを指してみせた。彼の先には、そのまま直進する通路と、左に曲がる通路が二本伸びている。
「えっと……多分、左です」
カーリはタブレットを確認しながら、道案内に努めた。といっても、彼女も院内の構造を完璧に把握しているわけではないのだが。
「確か、下へ続く階段があったはずです」
「階段……あれか?」
やや前に出たエンヴィスが、電源の入っていない階段の案内マークを見つけて聞く。カーリが頷くのを見た彼は、早足でその先に進み、立ち止まった。
「行き止まりじゃねぇか」
「えっ……そんなはずは」
ツッコミのように放たれた言葉に、カーリは戸惑う。慌てて彼の隣に行って視線を向けると、そこには確かに道はなかった。コンクリートや木の残骸が、一部の隙もなく積もっているだけだ。
「えっ!?」
大量の瓦礫が、一体どこからやってきたのか、カーリには分からない。そんなことより、道がないという事実だけが、彼女を追い詰め、絶句させた。脳みそに、何か硬いものでガツンと殴られたような、衝撃が走る。
(どうしよう、これじゃ進めない……!)
まさか、こんなところで足止めを食らうとは思っていなかった。あまりに想定の範疇を超えた状況。カーリは完全にパニックだった。焦りが膨れ上がるままに、ふらふらと足を踏み出し、瓦礫の山に近付こうとした。
「おい、危ないぞ」
途端に、エンヴィスに腕を強く掴まれて止められる。
「道が必要なんだろ?ちょいとどいてな」
「……?」
彼が何をするつもりなのか、カーリは即座に察知出来ず、眉を寄せ首を傾げた。彼女の代わりに前に出たエンヴィスは、スーツの内ポケットに手を伸ばし、長い錫杖を取り出す。彼より背の高い物体が、ポケットから出てくる様は、いつ見ても異様だ。魔法の力の深淵に、触れている気になる。
「こんな邪魔なもん、ぶっ壊せば早い。だろ?」
彼は平然として、杖を構えたまま、カーリに振り返って問いかけてきた。不敵な笑みを浮かべる横顔が、明るいオレンジの光で照らされたかと思うと、カーリの全身に強い風が吹き付ける。
「うっ……!?」
転んでしまいそうなほどの勢いに、思わず呻き声が出た。長い髪が吹き飛ばされ、後方でバタバタとはためいているのを感じる。
「よし……こんなもんか?」
何が起きたのかと、独り言をこぼすエンヴィスの方を見遣る。そして、カーリは瞠目した。
「えぇえっ!?炎っ!?」
彼女が目撃しているものを、それ以上に如実に表せる単語など、存在しないだろう。
カーリの目の前には、まるで灼熱の太陽の如き巨大な熱量の塊が、球体を作って浮かんでいた。これこそまさに、『炎』と形容すべき光景。先ほどミルが生み出したものとは、比べ物にならない規模だ。メラメラと燃え盛る外炎はまるで爬虫類の舌のようで、酸素という獲物を器用に絡め取っては食していく。周囲に漂う空気は、炎の熱に温められ、気流を作ってカーリの肌に吹き付けた。
「おいおい……何驚いてんだよ。今更だろ?お前だって、何回か見てるだろうが」
瞳に炎の色が映るほど、目を見開いて言葉を失う彼女を、エンヴィスは呆れたように一瞥し、話しかけてくる。その動きで、かすかな風が発生し、またもや炎が揺らいだ。しかし、それは決して弱まることも、衰えることもない。絶えず形を変えて燃え続ける力を、カーリは美しいと思った。
「何て……言うんでしたっけ、この魔法」
乾燥してきて、ひりつく喉から無理矢理声を出す。掠れたような、小さな音量で問いかけられたエンヴィスは、一瞬訝るように目を細めた。
「あ?名前?あぁ……系統のことか?」
カーリが首を振るのを見ると、彼はにんまりと笑い、錫杖をカツンと床に叩きつけてみせる。見栄っ張りなところのある彼にとって、格好をつける最高のチャンスだと思ったのかも知れない。
「属性系魔法、炎属性の魔法だよ」
しゃらん、と大輪に付けられた遊環が、涼やかな音色を奏でる。エンヴィスの心に呼応して、背後の炎がボゥッと音を立てた。
属性系魔法。比較的習得期間が短いことと、消費した魔力の割に優れた効果を発揮する、コストパフォーマンスの高さから、数十ある魔法の系統の内、最も有名な魔法と言われている。属性系魔法の習得者の中には、炎、雷、氷、草、土、水、風の七つの属性を、全てバランスよく使いこなす者もいれば、どれか一つの属性に特化して強化を重ねる者もいる。エンヴィスの場合は、その後者の内、炎属性を選択した炎使いに当てはまる。
特にエンヴィスの炎は、触れたものを瞬時に焼き尽くし、灰にするほどの高火力を誇る。とてつもなく恐ろしく、身の毛が凍るような力だ。しかし一方で、肌を撫でる風は温もりがあって、生命の息吹を感じさせる。流動的に蠢く体は、まるで生物が呼吸しているかのようだ。恐ろしくも美しい、力強い。獰猛な肉食獣のようなその力は、どこかエンヴィスを思わせる。荒っぽく、怖がられることもあるが、内面は常に燃えるように熱い、彼のことを。
「凄い……いつ見ても、凄いです」
「へへっ、だろ?ま、こんなん初歩中の初歩だけどな~」
胸を打たれた様子を隠しもせず、カーリが感動を告げると、彼はやや照れたように笑って、謙遜するようなことを言う。そして、身を翻すと再び己の炎に向き直った。
「でも、威力は中々。何より……操りやすい」
ふっと、彼が左手の小指を適当に振る。まるで、指に止まった蝶を追い払うような、気軽な仕草だった。
だが、それは己の手に宿った、凶暴な力を振るう合図。手綱から放たれた獰猛な獣が、その牙と爪を剥き出しにして、狙い定めた獲物に襲いかかる。耳がキーンと痛むような、激しい爆発音が轟き、大量の瓦礫と塵芥が飛散した。
「わっ、あ……!!」
カーリの目の前に立ち塞がっていた巨大な質量が、まるで紙かダンボールのように、容易く吹き飛ばされていく。圧倒的な強さを目撃して、カーリの胸は高揚感で満たされた。まるで、アニメか映画を見ているような気分だ。彼女の体に届く爆風や熱でさえも、エンヴィスが片手をかざすと、魔法的な力で防がれてしまう。
「あ~……やっぱちょっと火力強かったか?」
それなのに、何でもないことのように平然として、ガリガリと後頭部を掻くエンヴィスは、まさに強者そのものだ。強力で魅惑的な力を持つ炎という存在を、手に収めるに相応しい悪魔だと思える。彼もまた、自覚していたから炎という属性を選んだのだろうか。
「おい、カーリ?」
「あっ、はい!」
強大な魔法に圧倒されるあまり、思考が現実を離れていたらしい。エンヴィスに声をかけられて、カーリはハッと我を取り戻した。
「ほら、先行くんだろ?急ぐぞ」
エンヴィスは、通れるようになった通路の先で、階段に足をかけて待っている。周囲の床には、粉になるまで砕け散った礫編が、至るところに散乱していた。
「見てみろ」
カーリと共に階段を下りながら、エンヴィスは周囲を囲む壁を指差してみせる。
「建物全体がガタつき始めてる。早くしないと……倒壊するかも知れない」
「これ……!」
以前は綺麗に塗装されていただろうそれは、表面が剥がれて、中身の断熱材や柱が剥き出しになっていた。元々老朽化によって亀裂が生じていたのが、トワイライトとミルの激闘の余波によって、完全に崩壊したらしい。崩れ落ちて積み重なったこれが、道を塞いだのだ。恐らく、同じようなことが、西棟全体に広がっているとエンヴィスは推測する。限界ギリギリで保たれていたバランスが、悪魔たちの襲来によって、決壊し始めているのだ。
「俺のせいだな」
「そんなことっ!」
そしてそこには、当然エンヴィスも含まれている。自嘲気味にぼやいた彼に、咄嗟に反論しようとしたカーリは、言葉に詰まって声をなくした。感情だけでは、理屈のある文を口に出来ないのだ。
「とにかく、これ以上強い振動を与えるのは、まずい。とっととミルを捕まえて、撤退しないとな」
エンヴィスは彼女を慰めるように、淡々とした声色を意図して保つ。撤退という単語を聞いて、カーリはふと思い出したことを尋ねた。
「そう言えば……レディちゃんはどうしたんでしょう」
彼女とは、スマートフォンでメッセージのやり取りを交わしただけだ。西棟に来てほしいと、頼んだだけである。エンヴィスが彼女を追いかけてこちらに来たということは、多分近くにいるのだろうが、詳細な確認が出来たわけではない。ぜひ、会って話をしたいとカーリが口を開いた時、彼女の手首を掴む者がいた。
「ここにいるよ?カーリ」
「えっ!?うひゃあっ!!」
肌に伝わる温もりに、カーリは驚いてつい奇声を発した。
「えっへっへー、驚いたー?カーリ」
悪戯が成功したと、背後で子供のような無邪気な声が笑う。一瞬にして険しい表情を作ったエンヴィスが、彼女を怒鳴りつけた。
「何してんだ、レディ!状況分かってんのか!」
「わぁっ!エンちゃん、ここにいたんだぁ~」
「驚かさないでよ、レディちゃん……」
だが彼女が萎縮することはなく、むしろ一層笑顔を強めて、ふざけていた。カーリは胸に手を当てて、未だバクバクと跳ねる心臓を宥めながら、彼女の名前を呼ぶ。
「おっす。さっきぶり~、二人とも!」
彼女、レディは全く反省の色の見えない顔をして、おどけた仕草で手を振った。かと思えば、直後堰を切ったような長話を聞かせてくる。
「元気してた?もう~、びっくりしたよ。エンちゃんたら、ちょっと見てなかったスキに、勝手にどっかいなくなっちゃうんだもん~!アタシ一生懸命探したんだよ?でも全然見つからないからさぁ~、困ってたら、カーリから連絡が来たってわけ!だからっ、エンちゃん!謝ってよね、アタシに!」
まるでサーカスのパントマイム劇のように、派手な身振り手振りを付け、洋画のコメディスターばりの弾丸トークを披露する。口を挟む隙もない剣幕に、エンヴィスはしばらく唖然として口を開けていたが、やがてぶるぶると震え出した。
「て、てめぇ……!」
「え、エンヴィスさん」
握った拳が怒りに戦慄いている。暴力は駄目だと、カーリが半ば本気で制止して、彼はようやく肩から力を抜いた。レディが女性でなければ、間違いなく一発入れていたと思うほどの憤りである。無理矢理それを収めた彼は、自分自身を押さえ付けるように、顔を覆って長く息を吐く。
「はぁ~~~……何だって、お前……」
そこ以上は言葉にならなかった。彼の、嘆きだか呆れだかよく分からない言い分が終わらぬ内に、足元が強く揺れたからだ。
「あわわっ!何これぇっ、地震!?」
手すりに掴まりながら、レディが問う。だが、彼女の言葉は真実ではないことを、カーリは知っていた。
「エンヴィスさんっ!!」
エンヴィスの名を呼んで、何が起きているか伝えようとする。ちょうどその時、彼らのいる階段にヒビが走り、床が沈む感覚がした。
「二人とも、掴まれ!飛び降りるぞっ!」
「えっ……わぁっ!?」
瞬時に状況を察したエンヴィスが、懐から取り出した錫杖を、こちらに向けている。反射的に、後端を掴んだカーリは、足が完全に床から離れる感触に慄いた。
「きゃーっ!楽っし~い!!」
金髪を風に遊ばせ、楽しそうに歓声を上げているレディは、流石と思う。残念ながら、カーリは彼女のようには、なれそうにない。
「ぎゃああ!」
情けない悲鳴を上げた直後、靴の裏が何か硬いものを踏み締める。気が付くと、彼女は先ほどと何ら変わりない体勢で、床の上に立っていた。
「あ……あれ?」
崩れゆく階段から飛び降りたはずなのに、知らぬ間に着地している。何が起きたのか、さっぱり理解出来ずに呆然とするカーリを、堪えきれないといった表情でレディが笑った。
「ぷっ。カーリ面白過ぎ~。エンちゃんの魔法だよ?」
「あっ……あぁ、そうなんだ……?」
無垢な反応をする彼女を、レディは心底面白がり、くすくす肩を揺らしている。普通であれば、小馬鹿にされていると感じ、不快に思うかも知れないが、カーリにはその余裕もなかった。
「で、エンヴィスさんは?」
辺りを見回し、まずは仲間の安否を確認しようとする。そんな彼女の顔に、影がかかった。
「あなた……まだ生きていたのね」
「っ!?」
聞いたことのある声に、カーリは瞠目して振り返る。そこには予想した通り、ミルが立っていた。山を築いた瓦礫の上に屹立し、ハサミを片手に、こちらを見下ろしている。
どうやらカーリたちは、崩れた建物の残骸と共に、彼女のいる階まで落ちてきたようだ。やや離れたところに見えるエスカレーターには、一階という表示が書かれている。
「あ、クソやばサイコキラー女」
唐突に、レディが人差し指を突きつけて、彼女に不躾な声をかけた。
「レディちゃん!」
カーリが止めた時には、もう遅い。
「何ですって……?」
ミルの端正な顔が静かに歪み、怒りのこもった目を向けてくる。
「死にたいのなら……あなたも殺してあげましょうか?」
「ハァ?アタシがあんたみたいな奴に殺られるわけないでしょ」
しかしレディは怯むことなく、きつい言い方と共に彼女を睨み返した。一触即発の空気に、カーリはハラハラと鼓動を速くしているしか出来ない。
「おいおーい、勝手に始めんなよー。まだ話の途中だろが」
ピリピリとひり付くような険悪な空気を、半ば呆れの含まれた低い声が引き裂く。瓦礫の影に隠れるようにして身を屈めていたエンヴィスが、錫杖を杖代わりにしてゆっくりと立ち上がった。
「あぁ……助かったよ、カーリくん。エンヴィスくんたちを連れてきてくれたのか」
その隣には、トワイライトもいる。彼の服には土くれや埃の汚れが付着し、肌にも小さなかすり傷がいくつか出来ていたが、別段身体の動きに変化は見られない。どうやら、血が流れるような大怪我は負っていないようだ。
「トワイライトさん!」
「しぶといのよ、この人……まぁ、ワタクシは楽しめるからいいのだけど」
無事だったことを喜び、カーリは高い声を上げる。彼女を見下ろしながら、ミルは腕を組み、握ったハサミをちらつかせた。どうやら彼女とトワイライトとの戦いは、決定的なもののない、膠着状態に陥っていたようだ。
「でも、お仲間を連れてきてくれたことは、ワタクシからも感謝申し上げるわ。パーティーの人数が増えるのは、いいことですもの」
「ねぇ、カーリ……さっきからこいつ、何言ってるわけ?」
血と埃で汚れた金髪を払い、優雅にお辞儀をしてみせるミル。彼女の優美な動作を、カーリはぼんやりと眺めていたが、突如その肩を誰かが押した。レディだ。
「パーティーとか、楽しむとか……何言ってんのか全然さっぱり意味分かんない。アタシにも、分かるように説明してくんない?」
彼女はカーリを押し退けて前に出ると、ミルと正面から対峙する。レディの空のような澄んだ碧眼が、いつになく冷淡な光を宿した。
「そりゃ、あんたは自分の作り出した妄想に囚われてれば楽かも知れないけど……あんたに殺された人たちは、そうはいかない。命を奪われたことは、夢とか妄想なんかじゃ誤魔化せないの。あんたのやったことは、ただの殺人。いい加減、現実を見なよ」
感情の見えない平坦な声音は、いつものレディからは想像も付かない冷酷さを孕んでいる。まるで彼女が別人に見えて、カーリはどきどきした。
「うるっさいわね!あなたに何が分かるの!?そんな馬鹿みたいな格好をして、毎日遊び暮らしているだけのあなたに、ワタクシの何が分かるって言うのよ!!」
案の定、彼女の言葉で激昂したミルが、髪を振り乱し、ハサミを振り回して反発してくる。絹を裂くような甲高い声が、人気のない病院内に響き渡った。
「あなたはきっと何も考えていないんだわ!ワタクシのような悪魔が、どんな傷を受けてきたか!今までどんな苦しみを抱えて生きてきたのか!あなたは何も知りやしない!知ろうとしないのよ!!」
ミルの脳内には、幼少期に受けてきた虐待の記憶が蘇っていた。逼迫した経営体制の中で、孤児院の職員たちは、子供たちを完全に制御下に置くことで、ストレスを発散させようとしていた。子供を奴隷のように従わせ、あるいは言いなりにならない子供を、残虐な方法で懲らしめる。ミルはその、後者だった。
毎日毎日、酷い扱いを受けた。食事が出てこないことはほぼ毎日だったし、布団どころか部屋すらもらえず、真冬の寒空の下、庭で凍えるような夜を過ごしたこともある。このまま世界が滅べばいいと、漠然と願っていた。そんな時だ。懲罰室から逃亡した彼女は、職員の私室で一本のマッチを見つけた。また外に放り出された時に、暖を取るのに使える。初めはそんなことを思って、ポケットに入れただけだった。だが数日後、庭の片隅の物置小屋に閉じ込められ、彼女は気付いた。床に敷かれた、古びた藁。それにマッチの火を付けて、燃え盛る炎を眺めた。
もしも、これをあの建物の中に放り込むことが出来たら。どんな結果になるかは薄々気が付いていた。多くの人が死んだら、警察が来て調べられるだろうことも。だが、困り果てた彼女は、再びあることに気付いた。一人ぼっちの不遇な少女には、生まれた時からの友人が一人、いたことを。
彼女は扉に向かって手を組んで、お祈りをした。すると扉の施錠が開き、彼女は外に出ることが出来た。火が付いてメラメラと燃えている藁束を一つ、孤児院の窓から投げ込み、小屋に逃げ帰った。そして、また友人の力を借りて、小屋の扉に外から鍵をかけた。魔法という友人に頼ったのは、この日が初めてだった。
犯行に及んでいる間、彼女は何も考えなかった。ただ、頭の中で、理想の楽園について考えていた。そこでは何も辛いことなど起こらない。苦しい思いをしなくてもいい。毎日が楽しいと嬉しいでいっぱいで、笑ってさえいれば時が過ぎていく場所だった。そこがなくなるなんて、考えることが出来ない。死にたいと願うような苦痛に満ちた日々の中、彼女が唯一見出した、生きる術であり救いなのだから。
「そんなあなたに、何を言われてもワタクシは動じないわ!外野がどれだけうるさく騒いでも、ワタクシのことは止められないっ!ワタクシは、楽園を作るの!辛いことや苦しいことは何一つ起こらない、ワタクシにとって理想の楽園をねっ!!」
あの苦しみを味わったものにしか、きっとこの執着は理解出来ないのだろう。否、誰にも理解されなくとも、ミルは己の行動に後悔などなかった。
(ワタクシの楽園は、ワタクシだけのもの……!他の誰にも、邪魔はさせないわ!)
「あっそ。じゃ、あんたにもアタシは止められないね」
意気込んで、ハサミを握る手に、強く力がこもる。それと同時に、レディの冷たい返答が響いた。
「アタシは確かに、あんたを知らない。でも、それって当たり前のことじゃない?だってアタシは、あんたと違うんだから」
理解など、出来るわけがない。彼女はそう言って、ヒールを履いた足を踏み出す。カツリ、と硬い床に鋭いヒールが当たって、音を立てた。
「少なくともアタシは、あんたみたいに無責任に人を殺そうとは思わない。仮に、もしもやるんだとしたら……その時は、覚悟、決めるつもりだもん。いつ捕まったって、殺されたって構わないって。だってそれが……責任っていうものでしょ?」
罪を犯す者には、それ相応の覚悟がいる。犯した罪に応じた、罰を受ける覚悟が。それが、責任というものだと、カーリはかつてレディから聞いたことがあった。どうやら彼女は、罰を受ける覚悟を持たずに、犯罪に走る悪魔たちが、許せないようだ。悪事を働くことは、別に構わない。ただ、そのことに対する責任を持ってないのが嫌なのだと、まるで特定の誰かを思い浮かべているような口調で呟いていた。
彼女が誰を想定しているのかは知らない。だがレディは、己の主張を誰かに、面と向かって伝えたいようだった。それが出来ない自分のことを、不甲斐なく思っているような気がしたのだ。
きっとレディからしてみたら、ミルもその人物と同じに見えていることだろう。だから、まるで自分のことであるかのように、怒りを露わにするのだ。
「ふざけないでッ!!とっとと死になさいよォ!!」
だが、ミルがそのことを理解出来るはずもない。彼女はレディと会ったばかり。友人として、そこそこの時間を共に過ごしているカーリとは違うのだ。
「レディくん!!」
激昂し、感情のままに魔法を使おうとしているミルから、彼女を守るべくトワイライトが声を上げる。だが、エンヴィスが防御の魔法を展開するより早く、ミルの爆発の魔法が炸裂してしまう。発生した凄まじい衝撃に、レディの細い身体はいとも簡単に吹き飛ばされた。
「レディちゃんっ!」
「ぃった~……!!」
放り飛ばされて、後方の壁に背中から激突したレディが、痛みに顔を歪めつつ叫び声を上げる。どうやら酷い怪我は負っていないようだと、カーリは安堵して胸を撫で下ろす。だが、それはそれで問題があった。
「何すんのよ、このクソ女!」
「レディ、お前もう黙ってろ!」
痛みによって怒りが生じるまま、彼女は拳を突き上げて罵倒を浴びせる。またしてもミルの逆鱗に触れるような行為を、エンヴィスが荒々しい声色で遮った。
「トワイライトさん。後は、俺たちでやりましょう」
これ以上彼女に自由を許していたら、激情に駆られたミルが、暴走状態に陥るかも知れない。そんなリスクはごめんだ。相手の理性を打ち壊すなら、隅々まで計算出来る人物がやるべきだと、エンヴィスはトワイライトに進言する。
「あぁ、そうするしかないだろうな」
トワイライトも、頬についた煤汚れを拭って、頷いた。彼の言い分には完全同意だが、しかし、一つ注意しておくべきことがある。エンヴィスはきっと、顔を顰め嫌がることだろう。
「だが、くれぐれも油断するなよ、エンヴィスくん。彼女は君の同属だ」
「げっ!?本当ですか!?……面倒くっせ~」
トワイライトの言葉を耳にすると、彼は驚きに目を見開き、案の定厄介そうな顔をした。
「同属ほど嫌な相手はいないぜ……耐性だの対抗術式だの、色々手が割れてやがる」
同属。つまり、同じ属性の属性系魔法を使う相手のことを指す。ミルは人間たちの作り出した爆弾から、ほとんど同じ効果をもたらす魔法を生み出した。まず間違いなく、炎属性に分類される、属性系魔法だ。エンヴィスの、同属である。
属性系魔法使いたちは、同属と戦うことを最も嫌う。己の使う魔法の種類や運用法、戦いの展開などが、相手と類似しているためだ。手の内が全て読まれ、反対に相手の戦略も読みやすいからこそ、戦況が停滞しやすく、時間だけを浪費する可能性が高い。誰がそのような、面倒極まりない戦いを好むだろう。
「あなたたち、いつまで下らないお喋りをしているの?」
やりたくない、と顔中に書いてあるような表情をして、エンヴィスは立ち尽くす。その背後から、ミルの催促が届いた。彼女はいつの間にか床に降り、彼らから少し距離を置いたところで、ハサミを振り回して待機している。ツンと顎を上げた高飛車な姿勢は、どことなくレンキを思わせた。
「おっと。これは申し訳ない。つい長話をしてしまったようです」
「そんなのんびり喋って……大丈夫なんですか?トワイライトさん」
全く動揺せず、いつも通りの態度を取るトワイライトに、エンヴィスが呆れの視線を向けた。勝算はあるか、と問われた彼は、顎に手を当てておもむろに思案してみせる。
「う~む、どうだろうねぇ……エンヴィスくん、君、どのくらいある?自信」
「さぁ、どうでしょう……」
質問に質問を返されたエンヴィスも、同じような動作で、似たような反応を示してみせた。大袈裟に誇張はしていないが、どこか自信ありげな様子だ。
「ただまぁ、俺の魔法は火力命です。よっぽど頑丈なタイプじゃなければ、防御を破って貫通することが出来る」
「それ、私への嫌味かな?」
「まさか!トワイライトさんを狙うつもりはありませんから」
顎に触れた手を離して、彼は断言する。苦味の含まれた笑顔を浮かべ、トワイライトが尋ねると、彼はおどけた仕草で肩を竦めた。敵意はない、とアピールしているようだが、トワイライトは内心、ぞっとしない感覚に襲われる。エンヴィスが、トワイライトとの魔導戦において、一矢報いようとしているのは知っているからだ。今のところ、トワイライトの硬い防御魔法を、彼が破った試しはない。だが、いつ足元を掬われないとも限らないのが、上司として辛いところだ。
(ま、今は関係ないことなんだがね)
「我々は我々の仕事を、さっさと済ませようじゃないか。彼女を逮捕して、」
「このくだらないパーティーを終わらせましょう」
気を取り直し、戦意を向上させようと、おもむろに口を開く。機敏に先を読み取ったエンヴィスが、自然な調子で続きを引き取った。
「そう……ワタクシの楽園を、くだらないと仰るのね」
自分を倒そうと意気込む、二人の強者。彼らを前にして、ミルは絶望したように、ゆっくりと顔を俯かせた。トワイライトたちにはまるで、彼女が力の差に愕然とし、戦うことを諦めたように見える。だが、彼女がそんな悪魔でないことは、把握済みだ。案の定、ミルはすぐに顔を上げると、引き攣ったような甲高い声を上げて、宣戦布告に応えた。
「だったら……今すぐに殺してあげるわっ!!」
キッと二人を睨みつけて、ハサミを大きく振り上げる。それと共に、彼女の周囲にいくつもの火球が出現した。
戦いの、始まりだ。
「エンヴィスくん」
トワイライトは静かな、しかし鋭い声で部下の名前を呼ぶ。
「分かってますよ。俺があいつを引き付けて、その間にトワイライトさんが~ってやつですよね?」
それだけで、全てを察した彼は速やかに返答をくれた。
「あぁ。だが、かなり危険が高いぞ。やれるか?」
何もかも分かっているようだが、しかし確認は必要だ。本当に、リスクを背負う覚悟があるのかと、黒い瞳を真っ直ぐに向けて問う。だがエンヴィスは、どこ吹く風とばかりに、平然と答える。
「何言ってるんですか。今更でしょ」
「まぁ……そうだけどもね」
この程度のことでは怯むはずがないと、自信たっぷりに宣言する彼を見て、トワイライトはやや苦笑する。正直、彼の気持ちも分からないでもない。脱界者たちは、皆命懸けで抵抗をすることがほとんどだ。その中には、ミルより強い悪魔もいた。彼らの暴走に巻き込まれても、無事生還しているのだ。危険など、慣れきっている。
だが、だからこそ気をつけねばならないのだ。ほんの少しの油断が、致命的な結末を招くことだってあるのだから。
「俺は負けませんよ。ましてや、同属の奴なんかにね」
だが、エンヴィスは既にそれも、察していたのだろう。頼もしい部下を持って幸いだとばかりに、トワイライトは彼を見遣った。彼が危険を理解していることが分かったのなら、話は終わりだ。
「ならば、よろしく頼む」
最低限の言質は取れた。後は、重々しく頷くのみ。上司らしい仕草で依頼をすると、エンヴィスはにやりと思惑のありそうな顔で微笑んだ。
「了解です!っと」
「キャァアアアッ!!」
次の瞬間、怪鳥のようなけたたましい叫びを上げて、ミルが突っ込んできた。突進と同時に、振り下ろされる鋭い刃を、トワイライトとエンヴィスは二手に分かれることでかわす。だが、二人のその行為を予期していたように、ミルは小さな掌を突き出した。
「燃え尽きなさい!ワタクシの炎で!!」
彼女の言葉が、命令となって魔法を発動させる。燃え盛る赤い炎が、トワイライトめがけて放たれた。だが。
「させるかよっ!」
「えっ!?」
エンヴィスが錫杖を振るうと同時に、ミルの炎は制御を失う。一瞬だけ、最後の抵抗のように激しく燃えた後、まるで消化剤をかけられたかのように、かき消えてしまったのだ。衝撃的な事態に、ミルは瞠目する。
「何で!?どうしてっ!?」
「ちゃちい魔法だなぁ~。こんなもん、炎属性とは呼ばねぇよ!」
驚愕の声を上げる彼女に、エンヴィスは大胆な挑発をしかける。
「何ですって!?」
案の定、ミルは容易く逆上して、エンヴィスを強く睨め付けてきた。だが、それくらいのことで、動じる彼ではない。
「経験が違うんだよ、経験が。今日昨日魔法を習得したばかりのヒヨッコが、属性系舐めてんじゃねぇぞ」
ガツン、と杖を地面に叩きつけ、声を荒げて続ける。まるで出来の悪い生徒に難しい方程式の解説をする教師のように、尤もらしい表情を作り、格好つけて話し出した。
「炎属性ってのは、単に炎を生み出すだけじゃないんだよ。炎は熱。暗闇を照らし、物を焼いて、新しい物を作る、生命の根源なんだ」
彼の右手の人差し指、その先に灯る小さな炎を、ミルは唇の端を歪めた醜い顔つきで、じっと凝視している。
「人間たちも、悪魔たちも、文明がここまで発展したのは、炎って存在があったからに他ならない。俺たちはその、強くも複雑なエネルギーを片手で操る術を知っているんだ。お前に、その凄さが分かるか?」
エンヴィスは喋りながら、指をくるくると動かして、炎の形を変えていく。焚き火の炎のような獰猛なものから、ちろちろと蠢く蛇の舌のような、狡猾なものまで。変幻自在に姿を変えるそれを、エンヴィスは器用に弄ぶ。
「お前の炎には、誇りがないんだよ。お前は、ただ目の前の敵を排除するためだけに、魔力を使ってる……そんな奴に掌握しきれるほど、魔法ってのは甘くねーの」
終いにはもったいつけた仕草でフッと吹き消してみせる。神経を逆撫でするようなエンヴィスの態度に、ミルは強い怒りを抱き、わなわなと拳を震わせた。
「うるさい……うるさい、うるさいうるさいっ!!」
「うぉっ!?」
突然、彼女が絶叫し、同時にいくつもの炎の塊が出現する。いきなりのことに、エンヴィスも感情を声にして表していた。
「ペラペラペラペラ、グチャグチャグチャグチャと……!このワタクシを、口先だけで翻弄しようとでもしているのかしら!?無謀もいいところだわ!あなたなんかに、ワタクシのことが理解出来ると思って!?」
内心から込み上げてくる、ふつふつとした怒り、憎しみ。ミルはその全てを、金切り声にして吐き出す。それと同時に、彼女の炎も、まるで彼女の心に呼応しているかのように、一層激しく燃え上がった。
「ワタクシは、ワタクシは炎使いでも何でもない!ワタクシは殺戮者!邪魔する者は、皆全て殺してきたの!あなたみたいな三流に、ワタクシの強さが分かってたまるもんですかっ!!」
「三流って……お嬢ちゃん、言うじゃねぇか」
だが、熱風を巻き起こすほどの灼熱と対峙しても、エンヴィスは全く動じる様子を見せない。むしろ苦みを含んだ微笑みすら浮かべて、平然とした態度で言い返していた。
「だったらお前も、自分の妄想に取り憑かれた、お花畑女ってことになるが、文句はねぇよな?」
「そうだよエンちゃんもっと言ってやって!」
「レディちゃん」
「黙りなさいっ!!」
彼の言葉に、レディが拳を突き上げて同調する。ミルを不用意に刺激するなと、カーリは慌てて彼女を宥めた。しかしミルは、耳聡く聞き咎めるとカーリたちに向かってハサミを突きつけてくる。
「黙ってよ!あなたたち、目障りなのよ!!」
「おいおい、ダンスの相手を途中で変えるのは、失礼だろ?」
すかさずエンヴィスが、一歩前に出てミルと彼女たちの間を遮る。トワイライトを意識してでもいるかのように、気障ったい台詞を口にすれば、ミルの柳眉が更にきつく吊り上がった。
「いいからどきなさいよ!邪魔なのよ!どいて!どいてよ!どきなさい!!」
癇癪を起こした子供のように、喚き立てる姿は外見相応だ。だが、その手は鋭いハサミを握り締めているし、何より放たれた火球は、凄まじい威力を誇っている。上昇気流が生じるほどの、強い熱だ。少し触れただけで、肌が焼け落ち肉が灰へと変わるだろう。エンヴィスは大丈夫なのだろうかと、カーリはハラハラとしながら彼の背中を見つめた。
「どくわけないって、お前にも分かるだろ?」
再び、錫杖が振られる。しゃらん、と鈴のような音が鳴ったと同時に、彼に向かって飛来していた炎は全て、爆発した。発生した衝撃が、建物全体を内側から揺らす。
「お前はもう、どう足掻いても無駄なの。俺たちは単独脱界者対策室。見つかった時点で、逮捕からの強制送還なんだって、いい加減分かれよ。そんな子供に火遊びみたいなことしてたって、何も変わらないぞ?」
「うるさいって言ってるでしょ!!」
パラパラとコンクリート片が舞い落ちる中で、エンヴィスは打って変わった理性的な声を発した。それは、感情的に捲し立てるミルの調子と、くっきりと対比して聞こえる。
「あなたたちが誰だろうが、ワタクシには関係ない!ワタクシは、絶対に諦めないんだから!自分の楽園を、決して手放したりしない!あなたたちのことだって、皆殺しにして、生き延びてやるわっ!!」
ミルはしかし、ここまで追い詰められても、悪あがきを続けるようだった。小さな体を精一杯力ませて、腹の底から声を張り上げている。そして、何かいいことを思い付いたかのように、嬉々とした表情で顔を上げた。
「そうよ!ワタクシの邪魔をする者は、皆み~んな死ねばいいのよ!!」
びしり、と細い白い指がエンヴィス含めその場にいる悪魔たちに突きつけられる。その時だった。
巨大な火柱が、爆音を立てて噴き上がる。床を破壊して現れたそれは、一瞬にしてカーリの視界を真っ赤に染めた。
「!?熱っ!!」
熱で肌を炙られかけて、レディが慌てて飛びすさる。だが、いくら後ずさったところで、既に周囲は火の海。逃げ場などない。火柱はいくつもいくつも噴出し、彼女の命を奪おうとじわじわ接近してくる。
「そうよ、初めからこうすれば良かったんだわ!何もかも燃やし尽くして、切り刻んで、世界にはワタクシだけ!素晴らしいアイディアじゃない!!」
ミル一人だけが、狂ったように歓声を上げながら、ハサミを振り回して、踊っていた。激しい炎が、辺りを埋め尽くす。このままでは、自分も灰になってしまうだろう。本能的な危機感を抱いたレディは、ぎゅっと目を瞑って熱さに備えた。
「あ、あれ……?熱くない」
突然、肌に感じていた熱が消え去り、彼女は驚いて目を開ける。辺りに目を走らせると、自分たちの周りだけ、空間が切り離されたように、炎がないことに気が付いた。半径2メートル程度の半球。そこだけまるで見えない何かに守られてでもいるように、火の粉が侵入してこないのだ。
「エンちゃん!」
頭脳派でない彼女にも分かる。今のは彼の仕業だ。
驚きと、期待が叶った嬉しさに、喜色を浮かべるレディ。エンヴィスはちらりと彼女を一瞥して、視線をミルに戻した。
「トワイライトさん、どうします?」
目の前で燃え盛る、真っ赤な炎を見ながら問いかける。メラメラと揺らめき、酸素を蝕む様は、まるで聳え立つ赤い壁だ。エンヴィスたちがいる一点だけが、絶海に浮かぶ孤島のように、ポツンと孤立して佇んでいる。
「うーむ、どうするか……ここまで粘るとは、想定外だったな」
いつの間にか、隣に来ていたトワイライトが顎をさすりながらおもむろに思案の声を上げた。エンヴィスがミルの相手をしていた時から、気配を消していたのか、まるで何もないところから突然現れたかのようだ。
「やはり、隠さずに見せたらどうです?」
急な登場に、本当は心臓がかすかに跳ねたのだが、それを押し殺して平坦な調子で尋ねる。トワイライトはエンヴィスの本心に気付いているのかいないのか、意味ありげな目を向けてから頷いた。
「そうだな……あまり気は進まないが、そうするしかないようだ」
「どうせ、魔力欠乏で頭痛になるのが嫌なだけでしょ。とっととやってくださいよ」
何となく、心の内を見透かされたのではないかという不快感から、エンヴィスは半眼になって彼を見据える。じとっとした湿度の高い視線と、若干強めの言葉を受けて、トワイライトは思わず苦笑を漏らした。
「分かった分かった」
「何の話ですか?」
流石に口を挟みたくなって、カーリは沈黙を貫くのを止める。トワイライトは今度は子供に諭すような、優しい笑顔を作って彼女を見遣る。
「何でもないよ」
「エンちゃん、ここちょっと空気悪くない?」
明らかに何かを誤魔化している様子だが、それが何かを聞く前に、レディがエンヴィスの肩をつついて発言する。咽せそうなのを堪えているような、微妙な顔の彼女を見て、エンヴィスもやや眉を寄せた。
「あ~……まぁな」
彼女の意見も、当然のことだ。炎は酸素を糧として燃える。酸素はたちまち薄くなり、二酸化炭素が充満し始める。一応術式には空気の組成比も保つものも含まれているのだが、副次的な要素であるため効果が薄い。魔法というものは、万能ではないのだ。常識を越え、限界を突破する力といえども、やはり限界というものは付き纏うものなのだ。もちろん、術者の実力にもよるのだが。
「だが、これ以上でかいの使うと、建物自体が崩れるかも知れないぞ?」
それに、今回の状況は、かなり特殊だ。彼らが今いるのは、放置されて長年経った、廃病院。メンテナンス不足の建物は、老朽化してあちこちが傷んでいる。加えて、主にミルやエンヴィスが、爆発など周囲への影響が大きい魔法を何度も使った後だ。強い衝撃を受けて、限界が近付いている。これ以上のダメージは、倒壊を招きかねない。その危険性が、エンヴィスに全力を使うことを躊躇わせていた。
「えぇっ!?そ、そんな!」
「何とかしてよ、エンちゃん!アタシ生き埋めとか嫌なんだけど!」
それでは、このままミルの炎で焼かれ焼死するか、崩壊した建物の残骸に潰され圧死するか、の二択しかないということになる。まだ死にたくないと、彼の言葉を聞いたカーリとレディは、血相を変えて彼に詰め寄った。
「俺だって嫌だよ!けど、そんなこと言われてもなぁ~……」
二人の主張には、エンヴィスも完全同意だ。
正直なところ、策がないわけではない。しかし、成功する確率は半々だ。この状況で使用すれば、逆に自分たちの死期を早めてしまうかも知れない。
(どうする……!)
「キャハハハハ!あナタたち、まダ生きテイたノ?」
激しく葛藤するエンヴィスの耳に、ところどころ裏返った、異常な声が飛び込んだ。
「!!」
突然、周囲を取り囲む炎が開いて、奥から少女が姿を現す。細い手足を器用に使って、側転を応用した蹴りを叩き込んできた。エンヴィスはそれを、錫杖で受け止め、押し返す。
「っ……!」
「いつマで、コソコソしていルノか死ら」
たった一瞬の接触。しかし確かに感じた重さに、エンヴィスは顔を歪めた。子供のものとは思えない強さと力だ。彼女の邪魔を排除しなければ、危険な賭けにも出られない。
「トワイライトさん……!」
「気にするな、エンヴィスくん」
静かな、だが強い声で名前を呼べば、彼はごく普通の調子でエンヴィスの肩を叩いた。
「君はよく働いてくれた。ここからは、私が彼女の相手をしよう」
「本気ですか!?」
「トワさん、大丈夫なの!?」
何でもないことのように、さらさらと告げる彼。カーリは思わず驚きのままに、大きな声を上げてしまう。つられてレディも、彼の身を案じる言葉をかけていた。
「大丈夫さ。心配することはないよ」
だがトワイライトは、決して態度を変えなかった。深刻さなど欠片もない表情で、笑って平然としている。
「何も、一騎討ちをしようというんじゃない。我々がしているのは、ルール無用の殺し合いだからね」
にこやかな笑みを浮かべた彼の目が、一瞬自分に向けられた気がして、カーリは焦る。トワイライトは、細めた瞳の奥に光を宿して、何やら意味ありげな視線を送っていた。だが、カーリが気が付くとすぐに逸らされてしまった。
「……?」
「ともかく、チームリーダーとして恥のない、立派な戦いをしてみせるさ。手札はまだ取ってあるしね」
それの正体が何なのか、カーリは首を傾げて探ろうとしたが、トワイライトはさっさと話を締め括ってしまった。気のせいだったのだろうかと、カーリは訝しむ。
「大丈ブ。少シモ痛くなイワ。ゆックり切り刻ンデ、いタブって……順番ニ、殺しテアゲる。大人死苦、寝テイナさいヨ」
再び、ミルの声が聞こえてきた。彼女の話し方は、まるで子供をあやして寝かしつける時のようであったが、しかし内容は全く穏やかでない。声色も、慈悲など微塵もない、残虐な恐ろしさを孕んでいた。炎の合間を縫って、そのかんばせがちらりと覗く。完全に正気を失った彼女は、左右非対称の、冷酷な顔をしていた。
「ふざけないで、あんたなんかの言いなりになるわけないじゃん。クソ女」
汚い言葉を使って、レディが反論する。ミルの笑顔が、ピクリと引き攣った。
「アハハハ!なラ……もット酷ク、酷く痛メツケて、死ンデもラウ死カナイわね」
空気を切る音がして、鋭い突きが飛んでくる。炎の幕に隔てられて見えないはずなのに、何故かその一撃は、レディの眼球を狙って放たれていた。トワイライトが防がなければ、目ごと脳を貫かれていただろう。
「あなたには、邪魔されてばかり……あなたのことは、ただでは殺さないわ。苦痛に塗れて、死んでもらう」
唐突に、ミルの声音が元に戻った。トワイライトが受け止めている刃に、再び力がこもる。ギリギリと金属を擦りながら、彼の手首を突き刺そうとハサミが動かされた。
「そうはいきませんよ」
ミルの言葉と行動、どちらに対しての反論か、本人も指定せずに口を開く。片手で持った剣を軽く振るい、ミルのハサミを柄に引っかけて防いだ。
「あなたには証明してもらいたいの。ワタクシに逆らうとどうなるか……この世界に生まれてきたことを、後悔させてあげる」
ミルは、まるで独り言をこぼすように静かに話しながら、更に腕に力をかける。トワイライトも対抗したため、二人の力は完全に拮抗した。
「あなたの方こそ、我々に対する公務執行妨害で、刑期が長くなっても後悔なさらぬよう」
炎のカーテンを挟んで鍔迫り合いを繰り広げながら、トワイライトは不敵に微笑む。宣戦布告のような言葉をかけられて、ミルもふっと微笑を浮かべたことが、炎越しにも理解出来た。
「さようなら、美しく死んでね。私の楽園を汚さないように」
今生の別れを告げるかのように、ミルが詠う。鈴の音のような、美しい声だった。直後、トワイライトの腕に、下方からの強い力がかかる。けたたましい音と共に剣が弾かれ、自然と彼の腕も上に持ち上がった。
「っ!おぉ~」
間の抜けた声を上げて、数歩後ずさるトワイライト。若干の感動すら抱いているような反応は、危機感のない間抜けなものだったが、誰もそのことに対して文句を言う者はない。
「トワイライトさん、下がっててください!!」
それより早く、エンヴィスが口を開いて、トワイライトを促したからだ。上司の前に歩み出た彼は、錫杖を高く振り上げ、床に向かって垂直に叩き付ける。タイルがひび割れ、先の尖った杖の後端が、数センチ床に沈んだ。
「おい、ミル!こっちを見ろ!三流の炎使いのお嬢ちゃんよ!」
突き刺さった錫杖が固定されたことを確認してから、エンヴィスは大きく息を吸って声を張り上げる。わざとらしい啖呵を切られ、ミルはギギギと油の足りていないロボットのような動きで、彼に首を向けた。あっさりと罠にかかった彼女を見て、エンヴィスは小さくガッツポーズを作る。
「よし、いいぞ……そのまま見とけ!同属の先輩として、教えてやるよ!これが本物の炎属性魔法だ!!」
彼女の注意を最大限まで引きつけてから、行使するのは、炎属性の中でも人気を誇る魔法。かなり魔力を消費するが、代わりに発現するインパクトと破壊力は絶大だ。何より、外見が派手で目を奪われることから、エンヴィスもお気に入りの魔法としていた。
「属性系魔法炎属性……火炎顕現・紅蓮龍」
呪文を詠唱し、錫杖で床を三回叩く。やや気恥ずかしいが、これが魔法発動の契機となるのだから、省くことは出来ない。最後に手を強く打ち合わせると、パンと肌がぶつかった音がして、体内の魔力が消費される感覚がした。直後、錫杖の大輪から、紅蓮の炎が噴き出す。細い紐状に伸びたそれは、エンヴィスの手首にしゅるりと巻き付くと、更に激しく燃え上がっていく。触れたら肌が焼け落ちてしまいそうな熱量だが、彼がダメージを受けることはない。むしろ彼の手の動きに合わせ、指示に従って器用に形を変えていく。やがて一つのうねりとなったそれは、広く空間を駆け回り、宙へと展開した。
「何、あれ……!」
その様子を間近で眺めていたミルは、思わず目を見開き、驚愕の声を漏らした。絶えず形を流動させ、成長していく炎を操ることなど、あり得ないことだ。だが、エンヴィスが放った炎の魔法は、それだけでは終わらない。ミルが生み出した炎をも徐々に吸収し、更に勢いを増していく。そして、次第にある一つの像を形作った。
それは、巨大な体躯に太い手足、鋭い瞳と大きな口を持つ、恐ろしい魔物だ。背中からは二枚の翼がはためき、凶悪な鉤爪が床のタイルを弾き飛ばす。引き締まった胴から後方に伸びる、太い尾が空を切り、積み上がっていた瓦礫を全て吹き飛ばした。巨大な牙を剥き出した大きな口腔が、天を仰ぎ地響きのような咆哮を轟かせる。
ファンタジー映画でしか見たことのない存在。それを手が届くほどの近くで直視し、カーリは衝撃に満ちた声を上げる
「炎の……ドラゴン!?」
「凄過ぎない、エンちゃん!?」
彼女に釣られて、レディも感動を露わにしていた。自身の魔法に対する、理想的なリアクションを得られたエンヴィスは、やや得意げな顔をして隣に立つ炎を見遣る。
炎を操作し特定の具象を形成させる、顕現と呼ばれる術式。中でも、最も人気の高いものが、これだ。
ドラゴン。人間たちの世界では、完全に架空の存在とされる生き物だ。魔界には実在するものの、多くの種類が絶滅危惧種に指定されており、肉眼で見ることはほとんど叶わない。だが、その肉体能力の高さと、過酷な環境でも生きていける生命力、何より外見の力強さが、多くの悪魔たちを魅了し続けている。魔界の魔物の中でも、最も人気の高い種族と言っても過言ではない存在である。
カーリもレディも、そしてミルも、彼がこんな魔法を使えるとは予想だにしていなかった。敵味方の関係すら忘れ、ポカンと一様に口を開けて呆然とする。唯一冷静なトワイライトだけが、じっと彼女の隙を窺って目を凝らしていた。ミルは愕然とした表情のまま、身体を硬直させ佇立している。その手には力がこもっておらず、握り締めたハサミは今にも滑り落ちそうだ。
「あなたが過去に辛い体験をしたことは、我々も知っています。ミル嬢」
言葉をかけるなら、この瞬間しかない。彼は機敏にタイミングを察知して、口を開く。おもむろに語り出したトワイライトの顔を、カーリは見つめた。
「特に、昨今の各地孤児院、及び青少年養護施設の経営状況は劣悪だ。早急に改善しなければならない大問題と言えるでしょう」
カーリの胸中に、嫌な予感が走る。これまでの経験から、彼の交渉の手口を予想するならば、きっとこれはあれだ。
「けれど、それとあなたの犯した罪に、何の関係がありますか?」
彼女の予測がまとまるか否かの短い時間で、トワイライトの冷や水のような声が、ミルに向けられる。
「殺人も、脱界も、全てあなたがやったことだ。他の誰でもない、あなたが。以前ウチのレディが言いましたが、あなたには責任を負う義務がある。冷たいことだと言われるかも知れませんが……それが事実だ」
あまりにも冷酷な言い方で、彼はミルを突き放した。流石に彼女が可哀想になって、カーリは手を伸ばしかけ、止める。自分がミルの立場であれば、他者から向けられる『可哀想』もまた、否定されること同様に、辛いものだと思うから。
「尤も、送検され裁判になれば、あなたのその最悪極まりない生育環境は、多少は考慮され酌量されるでしょう。だがそれは、ここから進まなければ分からないことです」
トワイライトは、ミルに一歩近付くと、打って変わった優しげな声音を発する。膝を折って、彼女と同じ高さから、真っ直ぐな目線を投げかける。
「我々は自分の足でしっかりと立って、この目で前を見据え、進み続けなければなりません。どんな理由があったとしても、そこから逃れることは出来ない」
(……あれ……?)
ふと、カーリは違和感を感じ、目を瞬かせた。何か、言葉には出来ないが、齟齬がある気がしたのだ。今まで見てきたもの、そこにあったものが、いつの間にかなくなっているような。
(何だろう……)
「目を開けましょう、ミルさん。我々は、誇り高き悪魔です。甘過ぎる夢は、かえって毒だ。どれほど残酷な現実でも、欲深く好き勝手に生きましょうよ」
「?どったの、カーリ」
大きな瞳をすがめたり、開けたりして二人を睨むカーリを、レディは訝しく思う。しかし、カーリには彼女に答えている余裕はなかった。先ほどより強く、違和感が身体を蝕んでいたためだ。
(やっぱり……あるはずのものがない)
一つ、首を振って確信する。ミルのことだ。今までであれば、トワイライトやエンヴィスがいくら話しかけても、彼女は全く聞く耳を持たなかった。自分以外の何もかもを否定して、シャットアウトしている感じだった。だが、今の彼女にはそれがない。トワイライトの言葉に対して、拒絶も反論もせず、口をつぐんで聞いている。
(これって、結構危ないんじゃ……)
「……冗談じゃ……ないわよ……っ!」
カーリが声を上げて危険を知らせるより、コンマ数秒早く、ミルの唇がフッと歪に歪む。形のいい小さな口がわずかに開いて、奥からぎらりと光る獰猛な犬歯が覗いた。
「冗談じゃ……ないわよぉぉっ!!」
かすかな、本当にかすかな、耳を澄ませなければ聞き取れないような声。それが急激にボリュームを上げて、大音量で響く。彼女の心に応えて、炎もより一層、激しく燃え上がった。
「う……!」
暴れ出すドラゴンの、抵抗の強さにかすかな呻きを上げながら、エンヴィスはトワイライトを見遣る。彼は、片手に剣を携えて、ミルの行動をじっと凝視していた。その顔は、若干の微笑みすら浮かべている。
「トワイライトさん!!」
余裕ぶっている暇はないのでは、と警告を発する直前。再び炎が抵抗し、エンヴィスは危うく振り飛ばされそうになった。ドラゴンの形をした炎は、まるで手綱を嫌がる馬のように、頭や胴を大きく震わせている。エンヴィスは、制御するので精一杯だ。
「もうワタクシのことなんて、放っておいてよ!!」
ミルの金切り声が、辺りに響き渡る。もうなす術がないが、せめて相手の心を少しでも動かせたらと、必死に訴えかけるような説得。しかし、その懇願とは裏腹に、彼女の剣筋は鋭く容赦がない。
空気を切り裂いて放たれた一撃を、トワイライトは軽く刃を沿わせて受け流す。
「ようやく、手の内を全て見せてくれましたね……さぁ、もう逃げられませんぞ」
ミルの攻撃に冷静に対処し、抑揚のない声で、淡々と告げる。あくまで紳士的な対応を崩さない彼に、ミルは更に怒りを煽られ、激昂した。
「嫌よっ!絶対に嫌っ!!」
そのまま、力任せにハサミを払い、再び突き出す。何度も何度も、衝動的に繰り出される連撃を、トワイライトは一つ一つ丁寧にかわし、あるいは受け止め、流していった。
「もう誰かに、傷付けられるのは嫌なのよ!!苦しむのも嫌っ!!嫌なの!嫌!!」
ミルは完全に理性を失った表情で、がむしゃらにハサミを振るう。だが、今後の流れも考慮しない、でたらめな攻撃では、トワイライトを殺すことなど出来ない。ミルだけが一方的に、体力を消耗していくだけだ。
「どうして、そんなことも叶わないのよっ!ワタクシはただ、楽しく暮らしたいだけなのに!!」
何故、自分がこんな目に遭わなければいけないのか。ミルの中を、激しい憤りが満たす。
彼女はただ、平穏を望んだだけ。誰にも傷付けられず、邪魔をされることもない、穏やかな世界を求めただけである。欲望を叶えるためならば、労力は惜しまないのが悪魔の性。ミル自身、自分の欲求を満たしたい大人たちに、随分傷付けられてきた。彼女だけが、抱いた欲求を解消出来ないのは理不尽だ。
「どうしてワタクシだけが、否定されなきゃならないのよっ!!」
何故、自分ばかりが皆に嫌われ、挙句の果てに逮捕されなければならないのか。彼女には分からなかった。
悲哀と苦悶に満ちた嗚咽を漏らしながら、彼女は暴れ回る。両者の刃が何度もぶつかり、甲高い金属音がひっきりなしに鳴った。
「どうしよう……!トワイライトさん……!!」
カーリの目の前で、激しい剣戟が繰り広げられる。少しでも油断をすれば、即座に切り捨てられかねない、本物の命のやり取りだ。彼女は完全に気圧されて、両手に汗を握り締め、立ち尽くしているしか出来なかった。
「ぐぐぐ……くそっ、駄目だな」
どうにか、加勢してもらえないものか。助けを請うように目を向ければ、悔しそうに眉を寄せたエンヴィスが、諦めたような声で吐き捨てた。
「建物の中じゃ、ちょっと狭かったか……上手く、制御が出来ねぇ」
彼は己の魔法に意識を込めて、炎を統率しようとする。錫杖を介して魔力を流すと、ドラゴンの形を取った炎が、ある程度彼の意志に応えるのが分かった。しかしミルからの抵抗は存外強力で、抑え込むのにかなりの意識と力を要する。とても、トワイライトの加勢など出来そうにない状況だった。
「下手に動かしたら、最悪俺たちまで燃え尽きるぞ」
それどころか、何かの拍子に魔法が崩壊し、炎が降り注ぐ可能性もあると、彼は苦い顔をしてぼやく。当然、レディが目を丸くして不満の声を上げた。
「えぇえっ!?何とかしてよ、エンちゃん!」
エンヴィスの肩を掴み、ぐらぐらと揺さぶる。視界が左右に動いて酔いそうだが、エンヴィスには彼女の手を払い除ける余裕さえなかった。
「無茶言うなって!俺だって、精一杯やってるんだから!」
「そんなの困るって!」
だが、レディは譲らない。本当は、彼女だって自分の力でトワイライトを救いたかったのだ。しかし、武器や防具を持たない彼女が、ミルと戦うのは危険過ぎる。無理をしてみたところで、トワイライト本人がそれを許しはしないだろう。彼女を庇って、更に追い込まれでもしたら、助力どころか邪魔でしかない。そのくらいのことは、レディにも分かっていた。だからこそ、エンヴィスに頼ろうとした。拒絶されたら、本当になす術がない。
「レディちゃん……」
二人のやり取りを側から見ていたカーリは、そっと手を伸ばすと、感情的になっている彼女を宥める。
「無理言っちゃ駄目だよ。魔法が保てなくなったら、私たちだって危ないんだよ?」
「カーリ……それは、でも、そうだけど」
窘められたレディは、子供が親に叱られた時のように、視線を逸らしてモゴモゴと言い訳する。カーリは、意外にも落ち着いた態度で、彼女の瞳を真っ直ぐに見返した。
「トワイライトさんは戦ってる。エンヴィスさんは、私たちを守ってくれてる……他に、助けてくれる人なんかいない」
「カーリ……?」
「おい、何する気だ?」
カーリの目は、レディの顔に向けられながら、しかしここではないどこかへ視線を飛ばしているようだった。独り言のようにぼやく彼女を、レディは訝しんで見つめる。背後から、エンヴィスの問い質すような声が飛んできた。まるで、彼女の狙いに勘付き、それを止めようとしているような口調だ。
「私たちだけで、やるしかない」
突如、カーリは強い声音で、きっぱりと断言する。彼女がポケットから取り出した物を見て、レディとエンヴィスは瞠目した。
「カーリ!」
「カーリっ!!」
二人の、驚いた声が重なる。名前を呼ばれ咎められても、カーリは動じない。取り出したそれを、ゆっくりとした動作で構えてみせた。プラスチックを多用した、硬いグリップをきつく握り締める。ざらざらとした感触が、新鮮だ。
「……私が、あの子を撃つ」
いかにも未経験者らしい、たどたどしい動きで構えを取る彼女。だが、それまで一度も銃など持ってこなかった者がいきなり引き金を引くなど、危険過ぎる行為だ。レディは急いで彼女を止めようとする。だがそれより早く、ミルの甲高い声が響いた。
「ワタクシは、プリンセスなの!楽園の姫君なのよ!お姫様なのにっ!!」
我儘が聞き入れられないことを怒る幼児のように、ミルが声を荒げ癇癪を起こす。感情のままにハサミを振り回す彼女と、トワイライトは何度も切り結んだ。
「なのに、どうして誰も助けてくれないのっ!?」
激しい剣戟の中で、彼女は呻く。脳裏に蘇るのは、かつて受けた残虐な仕打ちの数々。まるで、目を開けながら悪夢を見ているようだった。目を覚ませば消える夢であれば、どれだけ良かったかと願った。けれど、現実はいつだって残酷だ。彼女は決して救われず、誰からも愛されてこなかった。物語の中の姫のように、白馬に乗った王子によって、苦境から助け出されることなど、起こらなかった。
「うっ……ぐぅ」
ミルは頭の中で記憶の海に浸りながら、しかし体は半分無意識に、トワイライトの命を狙って動き続けていた。強い力で何度も攻撃をぶつけられ、トワイライトは呻く。鋭い一撃を受け止める度に、彼の腕には重い衝撃が伝わり、肘の辺りまでビリビリと痺れる感覚がする。感情に任せて怪力を振るう彼女に、トワイライトは徐々に追いつけなくなっていた。
「ワタクシはっ、ワタクシはただ……助けてほしかっただけなのに!!」
本当はただ、愛してほしかっただけなのだと、ミルは嗚咽する。自分を見つけてくれて、自分だけを必要としてくれて、愛してくれる、そんな悪魔に会いたかっただけ。この苦しみから、解放してほしかっただけだ。
「ワタクシを、愛してよっ!!」
誰かにとっての唯一無二になりたかった。酷く精神を病み、犯罪行為を行なっても、見捨てずに愛してくれる悪魔に出会いたかった。ただ、それだけのこと。たったそれだけの、シンプルな、しかし強欲な願いが、腕力となってトワイライトを襲う。
「っ……!」
とうとう彼は、彼女の攻撃を受け切れず、剣を手から離してしまった。弾き飛ばされ、高く宙を舞った刃が、キラキラと光を発しながら、やや離れたところに落ちる。
己の勝利を確信して、ミルはほくそ笑んだ。獲物から、牙を引き抜き爪を引っぺがした。後は、仕留めるだけだ。
「あっ!」
「トワイライトさん!」
非常にまずい事態に、レディとカーリは揃って声を上げる。剣がなければ、トワイライトは、丸腰だ。身を守る手段を失った彼の元へ、姿勢を低くしたミルが、一気に走り込んでくる。
「まずいっ!」
エンヴィスが慌てて彼の方を見遣るが、少しでも目を逸らせば魔法が崩壊しかねない状況では、ミルの接近を防ぐ方法はなかった。
「っ!!」
カーリは慌てて銃を構え彼女を狙うが、ミルの動きが速過ぎて、照準を定めるどころか肉眼で追うことも出来ない。無闇に撃ってトワイライトに当たってしまったら、と考え躊躇っている間に、ミルは素早くトワイライトに詰め寄っていた。
「お先に、お死になさいっ!!」
彼の懐に滑り込むようにしながら、彼女は声を張り上げる。
危ない、とこの場にいる誰もが思うが、誰も彼女を止められない。邪魔が入らないことで悦に入ったミルは、慈悲のない手つきで、握りしめたハサミを振り上げた。高く掲げられた刃が、月の光を受けてきらりと輝く。彼女はその煌めきに魅せられ、まるで死期を告げる死神のように、恐ろしい台詞を口ずさむ。
彼女の手の中には、鋭利な刃物。たった一撫でされただけで、皮膚が切り裂かれ血管が断ち切られるほどの、恐ろしい切れ味を持ったそれ。毎日丹精込めて手入れされ、磨き上げられた凶器は、彼女の唯一の相棒。いついかなる時も、決して手放してこなかった大切な存在である。何人もの人間や、悪魔の命を奪ってきた、恐ろしい凶器が今また、今度はトワイライトという悪魔の首筋めがけて、その生命を貪り食らわんと、振り下ろされる。
夜の闇に、噴水の如き血飛沫が噴き上がる光景を、カーリは閉じた瞼の裏で鮮明に想像してしまった。
___キン!
静まり返った空間に、硬質な金属音が響く。
「……話は、それだけかな?」
誰も一言も発しない状況の中、トワイライトの冷徹な声が鼓膜を揺さぶった。
「な、何で……」
彼の言葉に答えるように、ミルが掠れた声で呟く。トワイライトと会話をするためのものではなく、ただ抑えきれない感情が漏れてしまったような、声色だ。憎悪や激怒に支配された、恐ろしい殺人鬼の気配など、影も形もなくなっていた。
何が起きたのかと、カーリはうっすらと瞳を開けて、彼女の様子を窺う。ミルは、呆然とした表情で、その場に佇立していた。元々白いその顔からは、更に血の気が引き、幽鬼のようになっている。一切の感情が抜け落ちたその姿は、まるで途轍もなく大きなショックに、魂ごと引き摺り出された後のように見えた。
彼女から少し離れた位置で、トワイライトは泰然と立っている。傷一つない彼の隣には、魔法で出来た銀色の剣が、ふわふわと浮遊していた。彼女の捨て身の突貫は、それにより防がれたのだろう。だが。
「何で……それ、持ってるのよ……どうして」
ミルの指が、ブルブルと驚愕に震えながら伸びて、彼の剣を指す。まるで、ありもしない存在に、必死に縋り付くような仕草だ。それほどに彼女が今目視しているものは、あり得ない現実だったのである。
トワイライトの周囲を漂う、優美で繊細な装飾が成された、銀色のブロードソード。彼の魔法により生み出されたそれは、確実にミルが、自らの手でトワイライトから奪ったものである。彼女の手には、その瞬間の感触が、まざまざと残っていた。己の手と得物に、美しい刃の表面が、若干傷付き歪むほどの、力がかかった記憶。
あれは、本当だった。トワイライトは確かに一度、己の武器を手放している。妄想に囚われたミルにも、それだけははっきりと分かった。
では、何故彼は、失ったはずの剣を、再び携えているのか?
あの状況で、トワイライトが剣を拾いに行く時間的猶予はなかった。たとえ魔法で呼び戻すにしても、ミルの突撃スピードには対抗出来ていなかっただろう。紙一重の差で、彼女の刃に頸動脈を断ち切られていたに違いない。彼が、あの剣を取り戻すことは不可能だった。ならば、答えは一つしかない。
「あなたは……あなたの魔法は……」
オッドアイがこぼれそうなほど、彼女は目を大きく見開いて絶句する。今にもかき消えそうなか細い声は、幼い子供の見た目に見合った弱々しさだった。
「どうやら、少々誤解を与えてしまったようですねぇ……ま、それが狙いですが」
もったいぶった調子で、紳士が口を開く。礼儀正しいというより慇懃な態度は、早速紳士のそれではない。紳士の仮面を被った、強欲で邪智深い、悪魔だ。大きくて黒い、カラスのような瞳が、ミルを真っ直ぐに射抜く。
「私の剣は、一本ではない。作ろうと思えば、いくらでも作り出せるのです。こんな風にね」
わざとらしい動作で手を顔の横にかざすと、指示に従った剣がふわりと浮かび上がる。いつも彼が作る、そして先ほどミルに弾き飛ばされたものと、全く同じデザインだ。しかし、それは以前持っていた物ではない。彼が魔法によって、新たに作り出した物である。彼は、未だ驚愕の表情を消せないでいるミルを見遣り、にやりと不敵な笑みを浮かべた。
「手持ちのカードは、極限まで隠しておくに限る……それが、一発逆転のコツさ」
彼が仕組んでいた作戦は、こうだ。彼は、ミルとの戦いの中で、どれだけ追い詰められても決して二本目の剣を生み出さなかった。そうすることにより、一度に出せる剣は一本だけだと、ミルに誤解させたのである。結果として彼女は、剣さえ奪えばトワイライトに防御の術はないと、思い込み行動した。全ては、彼の計略の内だったのだ。
「いやいや、苦労しましたよ。まさかここまで魔法の行使に慣れていたとは……久々に、ヒヤヒヤしました」
ダメージを食らい、戦闘の長期化を許してまで、作戦を続行して良かった。期待以上の綺麗な成果だ。
トワイライトは、内心で膨れ上がる感情を押し殺しきれず、誇らしげに目を閉じて、肩を竦めてみせる。
「早々に見せてもよかったんですがねぇ……人間たちの安否を確かめるまでは、派手なことは避けておこうと」
「そ、そんな……!!」
ミルは魂の抜けた表情で放心し、だらりと両腕を下げる。
わざと手加減されたことへの屈辱や憤慨などは、今の彼女には湧いてこなかった。
トワイライトは、全力を出していない状態で、暴走状態に陥ったミルと互角の勝負を繰り広げたのだ。本来の力は如何程のものか、ミルには想像もつかない。剰え、彼は戦況をひっくり返す余力を有しながら、あえて窮地を演じてみせた。並々ならぬ強靭な精神をも持っているということだ。
ミルには、初めから勝ち目などなかった。トワイライトは、この世に存在する無数の可能性の内、最も陰険かつ悪辣な方法で、彼女にそれを突き付けたのだ。
自らの未熟さを思い知り、無力感を噛み締めるミル。意気消沈し、深く俯く彼女の手から、するりとハサミが滑り落ちた。カラン、と硬質な音が、沈黙に満たされた空間に響く。
「カーリくんっ!撃て!!」
トワイライトに叫ばれ、カーリはハッと目を見開く。手にしていた麻酔銃を構え直し、躊躇いなく引き金を引いた。この位置からなら、トワイライトに当たることなく彼女の元まで針が届く。催眠の魔法が込められた針が、シュッと銃口から放たれ、彼女の左肩に命中した。
直立していたミルの身体から、ふっと力が抜ける。静かに体が傾き、彼女は昏倒した。
「はぁ……はぁ……」
知らない内に止めていた息を、深く吐き出す。今頃になってじわりと滲み出してきたのは、きっと冷や汗だろう。何だか、凄まじい疲労感だ。それほど集中していたということなのだろうが、カーリには自分が彼女を倒したという実感がなかった。
「お……終わった……?」
あまりにも呆気ない結末が、本当のことなのかと自分の目を疑う。
「あぁ、終了だ。長時間の業務お疲れ様」
誰にともなく発した問いかけに、トワイライトが答えた。彼の言葉を聞けば、流石のカーリも己のなすべきことが終了したのだと分かる。
だが、まだ現実味がなくて、呆けた表情のまま、床に倒れたミルを見つめた。
小柄な体躯が、大人しく横たわっている姿は、まさに人形そのものだ。目は閉じられているから、オッドアイを見ることは叶わないが、美しい金髪とロリータファッションは、ふわふわとしていて現実味がない。スヤスヤと深く寝入っている様を眺めていると、どこからか強い違和を感じる。まるで、パズルのピースがどこか一つはまっていないような、感覚。それは、起きていた時の彼女が、外見に見合わないほど、凶暴で恐ろしい人物だったからだろう。違和感に慣れた体が、今度は正常に戻った姿を見て、再び混乱しているのだ。
「カーリっ!!」
「えっ?」
その時だった。レディの鋭い声が飛んできたかと思うと、頭上でボコッと何かが外れるような音がする。ふと視界が暗くなって、顔を上げると、カーリの頭めがけて、巨大な瓦礫が落下してくるところだった。
「……!!」
老朽化した天井が、一部剥がれ落ちたのだろう。逃げなければ、と脳が警鐘を鳴らすが、恐怖に固まった体は、咄嗟には動けない。硬直する彼女を、レディが横から手を伸ばし、無理矢理引き倒した。
「危ないっ!」
そして、落ちてくる瓦礫を吹き飛ばそうと拳を構える。しかし、この距離で拳を振るえば、飛び散った破片がカーリを傷付けるかも知れない。それでは意味がないと、思い直した彼女は、カーリの上に乗り上げるようにして覆い被さる。自分が身代わりとなることで、彼女を守ろうとしたのだ。
痛みと衝撃を覚悟したレディの耳に、ガツン、と硬い物同士がぶつかるような音が届く。
丸めた背中に、バラバラと細かい礫辺が降り注ぐ。砂埃で煙いのを、手で払いながら顔を上げると、錫杖を構えたエンヴィスがそこに立っていた。
「エンちゃん!」
「エンヴィスさん!!」
彼が杖を振るって、瓦礫を打ち砕いてくれたのだろう。助かったと、二人は安堵の息を吐く。だが。
「早く逃げるぞ!」
エンヴィスは切羽詰まった声音で、二人に避難を促す。直後、彼らの足元を強烈な揺れが襲った。
どうやら、炎の魔法が暴走したようだ。カーリたちを救うことに意識を削がれ、魔法の統制を保っていられなかったのだろう。ドラゴンの形はさっぱり消え去り、辺りにはただゴウゴウと燃え盛る炎が広がっている。それによって壁や柱が破壊されているのか、建物全体がぐらぐらと振動していた。
「まさか……倒壊する?」
声に出してしまったのは、一体誰だったのか。突き止める暇もない内に、トワイライトが指示を出す。
「脱出しよう。早く。今すぐに!」
彼にしては珍しく、余裕のない大きな声。だが命じられるまでもなく、三人は既に出口に向かって駆け出していた。トワイライトは、未だ眠っているミルを担ぎ、その後ろを追いかける。四人は急いで、病院の出口を目指した。
エントランスへと向かう道中も、亀裂が蛇のように這い回った壁や天井から、いくつもの瓦礫や破片がこぼれ落ちてきた。廊下も階段も、まるで波打つようにうねり、通行人の足を掬う。誰もが皆、己の無事を確保するので精一杯だった。
「急げ!転ぶなよ?」
一足先に進むエンヴィスが、通路の安全を確認しつつ仲間を急かす。いよいよ出口が見えてきたところで、女性二人に先を行かせ、最後尾をトワイライトと共に追いかけた。
「あそこです!」
声を張り上げたカーリが、逸る気持ちに押し出されるように、自然と足を速める。
「走れ!崩れるぞ」
エンヴィスの声を後ろに聞きながら、彼女たちは建物の外へと走り出た。
振り返って天を仰ぐと、目の前には、今までにも増して大きく揺れる建物がある。何かが壊れ軋む音と共に、強い振動が彼女たちの下までやってきていた。立ち止まっている暇はない。
走り続けて、公道まで出ると、来た時には停まっていた、不良たちの車がなくなっていることに気付いた。失われた命は残念であるが、生き残った者は逃げたようだ。取り残された人がいないことを祈りながら、背後で大きな音を立てて崩れ落ちる建物を眺める。舞い上がる土埃と、身体を跳ね飛ばすほどの衝撃に、カーリは何度も転びそうになる。蹴躓いてはレディに助け起こされるのを何回か繰り返し、終いには手を引っ張られて支えられた。
膝に手をついて、トワイライトはハァハァと荒い息を吐く。巨大な病院の西棟は、すっかり倒壊し、瓦礫が崩れ落ちるガラガラという音だけが、断続的に響いていた。
「……危ないところだったねぇ~」
アスファルトに寝転がって、伸びをしたレディが言う。能天気に空に向かって手を伸ばしたりしている彼女の額を、エンヴィスがコツンと軽く打った。
「嬉しそうに言うな。死にかけたんだぞ」
「イッターい!でも、脱界者は逮捕したじゃん」
飛び起きた彼女が、わざとらしく手で額を押さえて、大袈裟に痛がる。実際には力がほとんど入っていなかったので、まるで痛みなどないが。
「アタシたちの仕事は終わりだよねー、トワさん?」
「あぁ……そうだな」
次の瞬間にはケロリとした顔をして、ゆらゆらと揺れながらトワイライトに質問をする。トワイライトも彼女の性格を分かっているため、心配などしない。首を縦に振って、淡々と肯定だけ示した。
「よかった……!」
彼の返答を聞いて、カーリはようやく肩の力を抜く。
「全くだよ。はぁ~ぁ、疲れた……」
安堵の息を吐くカーリの隣で、エンヴィスもぐるりと凝り固まった肩を回した。
「それで、これからどうする?ミル嬢の送還はすぐ行われるだろうが、私たちも一緒に帰還するかね?それとも……地元の街で、何か美味いものでも食べていこうか?」
トワイライトが、目の上に手で庇を作って、周囲を見ながら提案する。
夜が明けたばかりの空や海は、ピンクともオレンジともつかない暖かい色に染まって、美しく輝いていた。右手に見える港町には、ポツポツと灯りが灯っている家もある。ここからでは少々距離があるように見えるが、タクシーを呼べばすぐ行ける距離だ。決して田舎ではない町なので、早朝まで営業している店もいくつかあるだろう。たまには人間界の美食を楽しむのも悪くはない。
「いーじゃん!スシ食べたい!スシ!」
トワイライトの思考がそちら側に傾いていると、レディが高い声を上げてはしゃぎ始めた。確かに、新鮮な魚介を食べるにはうってつけの町だと、エンヴィスも同意する。
「スシか……いいかもな。あんな目に遭った後だし、たまにはパーッと」
「私も、行きたいです」
仕事が大変だった日は、美味しいものでも思い切り食べて、ストレスを解消したいものだ。総員の賛成が採れたことを確認すると、トワイライトは即座に魔法によるメッセージを魔界へ送る。数分後、ミルの送還を行うための転移陣が出現した。頑丈な金属製の手枷を嵌められた彼女が、魔法陣の上に置かれる。未だ眠ったままの彼女は、そのままあっさりと魔界へ転移していった。
「よし、なら行こうか。スシが食べられる店があるといいんだが」
これで全ての仕事は完了だと、トワイライトは腰に手を当てて断言する。
「いぇーい!アタシ、ロール食べたい!カリフォルニアロール!」
「レディちゃん……それはお寿司ではないのでは」
レディが喜んで、拳を突き上げた。隣からカーリが、的確なツッコミを入れる。
楽しそうな部下たちを従えて、トワイライトは歩き出した。彼らの後ろで、片腕を失ったかつての大病院が、空虚に佇んでいた。
「もぉ~~~~、何でこんなに書くもの多いの~~~~!?疲れちゃったよーーー!!」
従って、一人あたりの業務量は自然と増加してしまう。特に、書類作成などの事務的な作業であれば尚更。
午前の業務をほぼ全てキーボード入力に費やし、体力も気力も尽き果てた少女が一人、オフィスという名の無機質な戦場に、屍を投げ出す。デスクトップコンピューター相手に格闘を繰り広げること数時間。既に精も根も枯れ果てて、金髪を狭い机の上に散らかすレディの額を、エンヴィスが軽くこつんと叩いた。
「仕方ねぇだろ。一気に12人も逮捕なんて、前代未聞だったんだから」
彼らが先日完遂した仕事。それは、単独脱界者対策室という部署の名前と真っ向から対立した、複数犯を相手取るものだった。人間界のとある倉庫街にて、一度に十二名もの脱界者を逮捕、送還するという、超大型案件。捕らえた脱界者たちを一人一人、逮捕の状況から具体的な会話のログまで、詳細に記録していかなければならない。まさに手に負えない膨大な作業だ。砂漠の砂を、手で掬って運ぶような状況に、流石のエンヴィスもうんざりしていた。プリントアウトした書類をホチキスで留め、ファイリングする動作すら、普段とは似ても似つかない、気怠げな様子だ。
「もう、ほんっとサイアク!トワさん、こんなこともうやりたくないって言ってやろうよ!誰だか知んないけど、こんな仕事寄越した偉い人にさ!ガツンと!!」
どんよりとした空気を、金切り声が切り裂く。ただでさえ苦手な書類作成を、更に嫌いなパソコンでやらされたレディは、最高に不機嫌な調子だった。普段ならここで宥めに入るはずのカーリも、経理部からの呼び出しで席を外している。きっと、魔法の痕跡を消すのにかかった追加費用について、小言を言われているのだろう。厄介な仕事を任せてしまうことに、罪悪感を抱かないでもないが、今は何よりも、自身の疲れがエンヴィスを苛んでいた。終わりの見えない事務作業地獄に気を遠くしかけていると、タイミングよくドアが開き、カーリが入ってくる。
「ただいま戻りました。進捗……どうですか?」
「お帰り~~~……カーリくん」
目の前の光景を見るなり、彼女は惨状を機敏に察知して、声を萎れさせた。最奥の大きなデスクで、頭を抱えて悶々としていたトワイライトが、呻くような返事を投げかける。
「あ~~~……そうだねぇ。これはちょっと、頭が痛くなるレベルだ」
「ですよね……」
停滞した室内の空気を入れ換えるためか、入り口のドアを開け放したまま、カーリは自身の席に腰を下ろす。そして、浮かべていた苦笑を引っ込めると、トワイライトの方を心配そうに見遣った。
「本当に頭痛そうですね。体調、大丈夫ですか?」
視線の先でトワイライトは、大きな角と額の隙間に指を差し入れ、届きそうで届かないこめかみの辺りを、どうにか揉もうと四苦八苦していた。無気力そうな表情をいつもより更に曇らせ、消耗している様子だ。見慣れない姿に、カーリは戸惑ったが、他の者は誰も振り向こうとすらしない。
「どうせ、”魔欠”でしょ?普段から魔力消費しないからですよ」
またかとでも言いたげな、半ば呆れを含んだ表情で、エンヴィスが言う。およそ上司に対する態度とは思えないが、付き合いの長い彼らだからこそ出来ることだ。元々、トワイライトはあまり上下関係を気にかけない性分だからでもあるのだろう。
「何ですか?マケツ?って?」
聞き慣れない言葉を耳にしたカーリは、わずかに小首を傾げた。魔法をあまり使わない彼女に、どう説明するべきかと、エンヴィスは一瞬視線を彷徨わせる。
「あー……まぁ、筋肉痛みたいなもんだよ」
「へ?」
精一杯、脳内で探した言葉を発するが、余計理解出来ないようだ。大きな目を見開いて、頓狂な声を上げるカーリに、エンヴィスは再び悩む。
「う~ん、そうだなぁ……人間だって、いきなり激しい運動したら翌日体が痛くなんだろ?悪魔にも、同じことが起きるんだよ。それが、魔力欠乏症だ」
「魔力欠乏症」
さっきよりは多少分かったのか、彼女はオウムのように、エンヴィスの言葉を繰り返した。好奇心をそそられたのか、黒い瞳がぱちりと瞬く。
「魔法を使えば、魔力が減る。魔力とは、魔力は悪魔にとって命の糧みたいなもんだ。いくら時間が経てば回復するとはいえ、沢山の魔法を使えば、生きる力が減るのと同じ。体調不良を起こしても不思議じゃねぇ」
人間にとっての、血液のようなものだ。不足すれば、貧血を起こして倒れかねない。だが悪魔とは、血液でなく魔力で生きる存在。魔力が充足していることが、健康の証となる。
「それが、魔欠だよん」
レディが付け加えた言葉を聞いて、エンヴィスは尤もらしく頷いた。
「だが、魔力欠乏症は、普段から鍛えておけばある程度は防げるんだよ」
「日頃からある程度の魔力を消費するようにしていれば、具合が悪くなりにくいってことですか?」
「そんなとこだな」
彼らの説明を、頭の中で噛み砕いていたカーリが発言すると、エンヴィスは鷹揚に首を振る。レディがはしゃいで手を叩き、彼女を称えた。
「さっすがカーリ!頭いいね!」
褒められ慣れていないカーリは、嬉しさと謙遜の混じった曖昧な笑みを浮かべ、はにかむ。
「だからトワイライトさんも、日常的に魔法を使うべきなんですよ。俺が使ってるジム紹介しましょうか?」
一方、再びトワイライトへと話を振ったエンヴィスが、彼の方を見てそんな提案をした。
魔力欠乏は防げると言ったが、その部分こそが筋肉痛と例えた理由だ。日常から一定の魔法行使を続けていけば、体は次第に魔力の消費に慣れていく。魔力が減った状態に免疫がつくのだ。そこは、貧血と違うところだろう。人間たちは、血液が足りていない状態には適応出来ない。悪魔だけが可能なことだ。だからこそ、常日頃の魔法行使が大切なのである。更に言えば、魔欠が起こっている悪魔とは、普段から魔法を使うことをしない悪魔ということなのだ。サボってばかりの怠け者だと、レッテルを貼られてもおかしくない。
「え、エンちゃんてジム通ってるの?」
そんな目には遭いたくないと、エンヴィスは平素からの努力を重ねている。しかし、生まれ持った才能とでも言うべき力で、超人的な身体能力を発揮しているレディには、分からないようだ。前にも、『わざわざお金なんて払わなくても、運動なんてどこでも出来るじゃん』などとぬかしていたことを思い出し、エンヴィスはやや眉を顰める。
「俺の魔法は、日常で使うのは難しいんだよ。思いっきり使うには、高度に耐性のある、専用の部屋を使うしかない。そんなもの、ジムくらいしか置いてないからな」
肉体を動かす運動であれば、道具さえ揃えれば家でだって出来る。しかし、魔法の場合はそうはいかないのが厄介なところだ。特に、エンヴィスが習得しているのは主に実戦に適した、攻撃力の高いものばかりだ。街中で安易に試そうものなら、間違いなく逮捕されてしまう。特別な許可を取得しているジムくらいしか、思い切り力を奮える機会がないのである。
「なるほどー。大変なんだね、エンちゃん。アタシだったら、そんなちみちみやらなきゃいけない魔法なんて、もううんざりしちゃう。ドカーンと使っちゃうな~」
彼の言葉を聞いたレディが、顎に手を当てて尤もらしく同情を示す。だが直後に、椅子の背もたれに頭を預けて、おどけた態度を取った。もちろん実際に実行したら刑務所行きなので、冗談だろうが、彼女が言うと本当に聞こえるから恐ろしい。
「でもトワイライトさんなら、そんな魔法だけじゃなくて、日常使いも出来そうな便利な魔法を沢山持っているでしょう?少し普段の生活で使ってみたら、楽出来るのでは?」
だが、トワイライトの使う魔法は、エンヴィスほど攻撃性に特化したものではないはずだ。もっと容易く鍛えることが出来るのではないかと、カーリは尋ねた。隣でエンヴィスも、長い足を組み替えながら頷いている。三人から見つめられたトワイライトは、さっきとは違う理由で頭痛に悩まされた顔をして、腕を組んだ。
「う~ん、まぁ、そうではあるがね……何か、嫌なんだよ」
変に意地を張った言い分を紡ぎながら唸る彼。レディが、心底理解出来ないという表情をして聞き返す。
「何で?便利じゃん」
「うん。便利だけどね。便利だから、というか……ねぇ」
日常生活まで魔法に頼っていたくはない、ということだろうか。カーリにはかすかに、分からなくもない程度の理屈だが、エンヴィスとレディには伝わらないらしい。きょとんとする彼らの後ろから、よく通る中低音が飛び込んできた。
「あなたたち、いつまで下らないお喋りくっちゃべってるの?後にしてもらいたいんだけど」
突如としてオフィスに響き渡る、棘のある口調。高くも低くもない、性別の分かりにくい声色だ。だがだからこそ、相手が誰なのか一瞬にして分かった。
「これはこれは……レンキさん」
トワイライトが、それまでの渋い顔をすっかり仕舞って、素早く立ち上がる。開け放たれた扉の影から、ぬるりと誰かが入ってきた。
現れたのは、背の高い、美形の悪魔だ。体付きや身に纏った黒いスーツから、かろうじて男だと判断出来るものの、その声や口調、仕草、表情、佇まいなどは、あらゆる点で中性的な印象を放っている。ややつり上がった大きめの瞳に、薄い唇、白い肌はまるで雪のようで、頬を撫でる指は細く長い。きっちりとセットされた柔らかそうな深い茶の髪から、艶のある太い角が、ムーアホーンのそれのようにぐるぐると渦を巻いていた。
彼の名前は、レンキ。単独脱界者対策室の、情報分析担当官である。
「わざわざ情報分析部からこちらにお越しくださって。何の用でしょう?」
「何の用、ですって?そんなもの、あなたたちに言うまでもないでしょう」
やたらと慇懃に声をかけるトワイライトを、レンキは小馬鹿にしたように見下ろす。平均的な悪魔よりやや小柄な彼をいびるように、顎を上げて高飛車な姿勢を取った。彼が手に持つ、見慣れた色の分厚いファイルを目に留めて、トワイライトはすっと大きな瞳をすがめる。しかし、すぐに視線を逸らすと、大きな声で笑い飛ばした。
「はっはっは、それはそうですな。この状況であなたがやってくるということは、答えは一つしかない……そうでしょう?」
あからさまな嫌味と共に見下ろされても、彼は微塵も表情を変化させることがない。いつものように、本心の読めない笑みを貼り付けて、表面上だけで面白そうに肩を揺らした。そして、くるりと踵を返し歩いてきた道を戻ると、自身の机に浅く尻を乗せた。
「分かってるならいいんだけど。アンタは腹黒だから、イマイチ信用ならないんだよね」
「ひっどいなぁ……心外ですよ」
レンキの毒に苦笑しつつ、後ろに手をついて彼に向き直る。彼の視線が届かないことを確かめると、密かに手を伸ばし、机の引き出しの摘みを掴んだ。
「それじゃ、時間がないからさっさと済ませてしまいたいんだけど、いいかな?」
トワイライトの返答など待たずに、彼は足を踏み出して、堂々と踏み入ってくる。まるで自分の家のような振る舞いに、カーリは心の中で、眉根を寄せた。
別段、オフィスに他の悪魔が入ることを嫌っているわけではない。ただ、何か良からぬ策略が巡っている気がするのだ。まるで、目に見えない蜘蛛の巣に絡め取られているような。
「でもね、レンキさん」
傍若無人な振る舞いをする彼を諌めるように、トワイライトはやや大きめの声を発する。
「何?」
邪魔をされて不快感が増したのか、彼の本意を見抜こうとしたのか、レンキはあからさまに迷惑そうな顔をした。トワイライトはそんな彼に構わず、おもむろな調子で語り始める。
「我々は長らく、共に仕事をしてきました。共に同じ、脱界者の撲滅を目指して。そうでしょう?」
「は?え、えぇ……そうだね」
唐突にありきたりな大義名分を持ち出され、レンキは困惑しながら頷く。表向きを取り繕うための建前論なのだから肯定するしかないというのに、トワイライトは彼の答えを読み切ったことを誇るように、悦に入った笑みを浮かべた。自然と、レンキの胡乱げな眼差しが鋭くなる。
「何が言いたいの?」
「互いの考えが分かるという話ですよ。あなたは、私たちならあなたの用件を言わなくても分かるはずだと言った。本当にその通りですよねぇ~。私にも、あなたが何をしにきたか分かるんです。あなただって、分かるはずでしょう?……我々が、あなた方に、何を求めているか」
レンキの追求から逃れるように、笑いをこぼして顔を背けたトワイライトだったが、ふと思わせぶりな発言をすると、彼に歩み寄る。その手には、先程カーリたちが必死の思いでまとめ上げた、先の案件の報告書の入ったファイルが握られていた。
「……どういう意味?」
レンキの、形のいい柳のような眉が不快げに寄せられる。あえて言葉にせず、態度と雰囲気で伝えようとするトワイライトの遠回しなやり方に、気が立ってきているのだろう。だが、トワイライトは案の定、レンキの内心を無視して、にっこりと笑った。
「あなたなら分かるはずでしょう。レンキさん」
そしておもむろにファイルを開くと、一番上にファイリングされていた紙を取り出す。今回の仕事で彼らが他部署にかけた様々な迷惑や負担について、事情の説明や謝罪、再発防止の誓約など、普段であれば必要のない文章をいくつも挟んだ分厚い報告書の、一ページ目である。レンキがその紙面にじっくりと目を通す前に、薄いそれはへたってぴらぴらと垂れ下がった。
「我々は単独脱界者対策が任務です。人間界へと脱界し、彼らの世界へ干渉している悪魔たちを捕まえるのが仕事だ。あなた方情報分析部は、彼らの情報を集め、正確なデータを我々へと引き渡す。それを元に、我々が現地に赴き、脱界者たちを捕らえる。これが、長らく続いた脱界者取締部のやり方であり、それを破る理由もない」
何故か、当たり前の常識を滔々と語るトワイライト。この言葉だけ切り取れば、何を目的としているのかよく分からないだろう。しかし、この場の空気感が、何より彼の言い分を伝えてくる。
(恐らく)
それは、まだこの仕事に就いて日の浅いカーリにも、予想の出来るもの。
恐らく、これはあれだ。
トワイライトは、己の言い分を直接口にして伝えるのではなく、声には出さない言動を通して、理解させようとしている。第三者の耳に入る可能性のある形では、通しにくい要求をぶつけるために。
「いいですか。この仕事は、現場の悪魔がいないと成り立たない。私たちが、人間界で脱界者たちの抵抗や逃走を阻み、送還しているからこそ、脱界者の取り締まりは完了するんです。お分かりでしょう?」
そして、彼は怒っている。自身と部下の業務、進退、命に関わる重大事項についての遺憾の意を、担当官であるレンキに伝えようとしているのだ。
側から見れば、激怒という言葉ですら美化しきれない狡猾なやり口で。
「そうだね。脱界者たちの実力や、素性が分かっているからそれも可能なこと。私たち情報分析部の協力があって初めて、アンタたちの任務は成功する」
レンキは彼の本心が分かっているのかいないのか、淡々と事実だけを述べるような口ぶりで応じた。トワイライトは彼の言葉を受けて、満足そうに首を振る。
「ご理解いただけているなら何よりですよ。あなた方がいなければ我々は終わりだ。何も知らず、ただ現実に翻弄されるだけになる。場合によっては、命を落とすかも知れない。つまり、あなた方に命を預けているのと同じなんです。あなた方の協力がなければ、生きられない」
「だから……謝れと?」
トワイライトが話し始めた時と同じように唐突に、すぅっと、レンキの目が細くなった。トワイライトの、目尻の垂れた大きな瞳に、それが浮かべる深い暗闇に、鋭く斬り込むように。
「今回の任務における、アンタたちの不始末は、全て我々情報分析部の責任、と。そう言いたいってことかな?」
「あはは、私は何も申し上げていませんよ」
美形が怒るというのは怖いものだ。今し方まで、綺麗だと思っていた凛々しい目つきが、もはや完全に内心の激怒を表す鏡面となってしまっている。大っぴらに叫ばれて暴れられるより、次に何をしてくるか分からない得体の知れなさが、恐怖となってカーリの心臓を脅かした。
しかし、その烈火の如き思いを、一番至近で受けているはずのトワイライトは、少しも憶した様子を見せない。むしろ平然として、邪推だと片手で払い退ける仕草をした。
「あなたにだって、組織人としてのしがらみがきつく巻きついているのは分かっていますから。責任を全てひっ被せようなんて企み、私にはない。けれどね」
突然顔を近付けたトワイライトの瞳が、奥行きのない闇のように広がる。どこまで行っても終わりのない、無限大に続いていく虚無に本心を引き摺り出されたのか、レンキの顔から表情が抜けた。
「ほんの一端は、あなたにも思い当たるところがあるんじゃないですか?それについて、レンキさんご自身はどう考えていらっしゃるのかと、ご意見をお伺いしたいんですよ。いや別に、謝罪とかそんな大層なものを要求するつもりはありませんがね。我々には、そんな権利も意思もない。しかしね、」
「相変わらずよく回る口だこと」
少しも穏やかでない目をして、口だけを完璧な三日月の形に描き、心にもない建前と本心を巧妙に喋り続けるトワイライト。レンキは、彼の厄介な性格を心底疎んじるように、顔を逸らして吐き捨てた。トワイライトが意外そうに片眉を上げたところに、彼の細長い指が突きつけられる。
「そうやってぐだぐだぐだぐだ、つまらないことばっか口にしてる暇があるのなら、自分たちの業務改善に少しはない頭使ったらどう?こ~んな報告書にいつまでも時間かけちゃってさ。もっと効率的に動けば、ここまでの失態を犯さなかったんじゃないの?」
「なるほど、話をすり替える気ですか。あくまで、自分たちは自分たちが出来得る限りの最善を尽くした。だから責任は一切ない。あなたの所存はそういうこと、と……解釈してよろしいので?」
「そうは言ってないでしょ!私たちを見くびらないでほしいね!」
分かりやす過ぎるほど明確な挑発を向けられ、レンキのプライドが耐えられるわけはない。彼の整った眉がピクピクと痙攣したかと思うと、甲高い怒鳴り声が飛んできた。
「私たちだって、やれるだけのことはやったつもりだよ!あの案件は本来であれば、もっと時間をかけるべきだった。情報を集めつつ、数人ずつ逮捕する。そういうやり方が一番望ましいと思っていた。それなのに上層部が……勝手に、時間がないからと調査不足の案件をアンタたちに回せと命じてきただけのことよ」
自分はただ上の命令に従っただけ。ただそれだけだと繰り返すレンキ。あまりに勝手な言い分に、カーリも胸に暗雲が立ち込め、エンヴィスはあからさまに顔を歪める。彼らの気持ちを代弁するように、トワイライトが小さく嘆息した。
「自分の失敗は、全て上司の責任だということですか。都合のいいことだ。それでいてよく、サラリーマンが務まる。我々にも、その器用さをご教授いただきたいところですな」
「あれは失敗じゃない!時間がなかっただけなんだから」
「それは……一般には、言い訳と呼ばれる意見ですがねぇ。私はそんな、下らないモノ、一度だって期待したことがない。もちろん、これからも」
レンキは完全に、トワイライトのペースに飲み込まれてしまっている。これは、彼が敗北を認めるときも近いなと、エンヴィスは密かに熱くなった。トワイライトの尤もらしいスピーチは続く。
「時間がなくとも、最大限の努力はすべきでしょう。情報不足を現場で補えなんて、それほど無茶なことはない。あなた方は自ら、存在意義を放棄したのと同じですよ?自分たちなど、いても意味はない。誰かに取って代わられても問題はない……そういうことですかな?」
「ふざけないで。私たちは誇り高き情報分析官。意味がない存在じゃなんかじゃ、間違ってもない」
「なるほど。あなた方には存在する価値があると仰せだ」
トワイライトの唇が、計算され尽くした軌道で、弧を描く。彼の勝ちだ。腹の探り合いなど、まるで見たことのなかったカーリでも分かる。レンキは見事、トワイライトにはめられ、都合良く誘導されてしまっている。だがそれを、彼に教えてやる気にはなれなかった。
「当たり前でしょう。私たちを何だと思っているの?」
「ということは、次は万全の状態で、仕事を回していただけると?」
トワイライトはここぞとばかりに、自身の要求を突きつけ、レンキが最も断りにくい形でもって伝達する。全て彼の策略だとも気付かずに、レンキは自慢げに顎を上げた。
「もちろん。これでも見とけば?」
かかった。
エンヴィスとカーリの胸がすっと空く。レディだけは、会話の内容をよく分かっていないようで、クエスチョンマークを浮かべていたが。
「次のお仕事。至急案件だから。速やかなご対応、よろしくってことで」
「ほぉ、これは……」
押し付けられたファイルの中身をパラパラと見て、トワイライトが軽く目を丸くする。簡単に言いくるめることの出来ないレンキへの驚きや苛立ちなどは、微塵も感じられなかった。
「中々、詳細な情報ですな。これには前回のような、不備は存在しないと信頼してよろしいんでしょうか?」
「当たり前じゃない。確約してもいいわよ。これは完璧に、信用のおけるソースから得た情報ばかり。これを使えば、簡単に証明出来る。アンタの目は腐ってるってことがね」
念を押すようなトワイライトの言葉に、レンキはここぞとばかりに胸を張って断言する。そして、好き放題言われた恨みをぶつけるように食ってかかってきた。
「私たちに価値がないなんて、よく言えたね。覚えてなさい、近い内に必ず、思い知らせてあげるから」
「非礼は謹んでお詫び申し上げます。しかし……いつもこのくらいの結果であれば、レンキさんのご機嫌を損ねることも、誠意を見せていただく必要もなかったのですがねぇ。いやはや、レンキさんも本当に、運の悪いお方だ。二度と、あんな惨事に巻き込まれぬよう、お気を付け下さいね」
人差し指をトワイライトの胸に突き付け、睨み付ける彼の、緩やかな癖毛がふるふると震えている。それほどの怒りを表す彼と、トワイライトの動じない顔とが、鮮やかなコントラストを描いた。
「ふん……嫌らしい男」
凪いだ湖のような平坦な顔を見て、冷静さを取り戻したレンキがわざとらしく鼻を鳴らす。
「追加の情報は、またすぐに持ってくるから。アンタたちは、せいぜい頑張ってみることだね」
あくまでも高飛車な捨て台詞を残すと、感情を剥き出した自身の行動を恥じるように、そそくさと早足で行ってしまった。
きっちりとアイロンのかけられた、ダークブラウンのスーツの背が見えなくなった後、エンヴィスが大袈裟に溜め息をつく。
「はぁ~~~……やっぱり、次の案件か」
「追い返すことは無理だったね。まぁ、情報の確度はここ最近で一番高いと見ていい。やっぱり気にしていたようだね。追加の情報までもらえるようだよ?」
深く背もたれに身を預け、トワイライトは思ってもいない冗談を飛ばす。エンヴィスは彼に手渡されたファイルを開きながら、呆れた眼差しを注いだ。
「あなたがそうさせたんでしょ……」
「さぁ、何のことだかさっぱりだね」
「至急案件って言ってましたよね?どんなのですか?」
滅多に使われない言葉に好奇心を刺激されたカーリが、トワイライトの言葉を遮って横から首を突っ込んだ。
「ねー、お腹すいたよ~。ランチ行こ~?」
既に昼休憩の時間になっているからか、食欲の奴隷と化したレディが、皆を急かす。早く用件を済ませろとばかりに、カーリの手元を覗き込み、指を差した。
「何て書いてあんの?」
「えーとね、これは……」
ただでさえ疲れているのに、大量の文字など読みたくないと駄々を捏ねる彼女に、カーリは掻い摘んだ説明をしようと文章に目を通し始める。やがて、同じようなタイミングで内容を確かめ終わったエンヴィスと二人、あんぐりと口を開けた。
「こ、これって……!?」
* * *
人間界の某国某所。
ピンクや黄色、パステルグリーンとカラフルな塗装の施された可愛らしい住宅街の一角に、一つだけ、悪趣味な外見をした建物があった。赤茶けたレンガの壁には若者らしいストリートアートじみた落書きが書かれ、ペンキの剥げかけた屋根からは蛍光色のイルミネーションがだらしなく垂れ下がっている。割れた窓ガラスの隙間から流れ出る大音量のヘヴィメタルは、強化された重低音のリズムに合わせて辺りの空気を揺らし、通行人の眉を顰めさせた。
周囲の様相に全く馴染んでいないここは、街でも最も人々に煙たがられる場所。近所の不良共が一様に集まって、深夜までバカ騒ぎをする溜まり場のようなところである。中では売春やら薬物の違法売買が平然と行われているらしいが、地元警察は依然として静観するまま。法の番人が動かない限りは、周辺住民も手を出せず、ただ怯えて距離を置いているだけだった。
ある、一人の少女が現れるまでは。
女の子が一人出てくるところが、民家の防犯カメラに映る。彼女の衣服には汚れも傷も見当たらず、ツインテールに縛られた金髪も全く乱れていなかった。雪のように白い肌に、暴力やバッドトリップの跡も見えない。住居の正面玄関から歩いて出てきた彼女は、真っ直ぐ庭を突っ切り、歩道に出てきた。時刻は正午過ぎ。ちょうど、ランチタイムで車通りも少ない時間帯である。真昼の道のど真ん中で、しばし立ち竦んで身動きを一切見せなかった彼女は、突然後ろの街灯に付けられたカメラを確認するように、ゆっくりと振り向いた。人形のように大きな瞳は、ピンクと緑のオッドアイ。作りものめいた端正な顔がレンズを捉えた瞬間、映像は乱れ何本も縦線が入り始める。かろうじて拾っている音声も、ノイズ混じりの汚いものになった。何事かと確かめる前に、映像はぶつりと途切れ、画面は真っ黒に塗り潰される。だが、観察眼の鍛えられた者なら、見逃さなかっただろう。カメラが故障する直前、こちらを向いた少女の左手に、鮮血の滴り落ちる美容ハサミが握られていたことを。そして、もっと細部まで見つめれば、気付いたはずだ。下品な装飾で満たされた住宅の窓に不自然な汚れが付着していたこと。ドアの下から庭の地面へ、赤い液体が流れ出て、川を作っていたこと。少女が出てきた時、静かに閉まっていくドアの隙間から、何人もの屈強な男たちが、折り重なって倒れている光景に。
彼女の名前は、ミル。魔界府警察部門刑事部では、”薄桃色の殺戮者”と呼ばれ、長年捜査の対象になっている、連続殺人犯である。
「脱界者で連続殺人犯、ですか!?」
カーリの甲高い声が、さほど広くもないオフィス全体に響き渡った。
遅めの昼休憩を終え、戻ってきた彼女たちは、レンキから持ち込まれた至急案件の対策会議中だ。
彼女が発した声は、この場にいる全員の心を、端的かつ正確に代弁している。
下ろされたスクリーンに映し出される、人間界の防犯カメラの映像には、血塗られたハサミを持つ、一人の少女の姿が捉えられていた。
彼女こそが、今回のターゲットとなる脱界者。魔界でも幾多の殺人事件を犯した、凶悪犯罪者である。
「まだ子供じゃん……ほんとにこのコなの?」
大きく映し出された彼女の姿は、まるきりそこら辺を行く小学生と変わりない。幼さの残るあどけない顔立ちに、大人の半分ほどしかない低い背丈。未発達で小さな身体を包むロリータファッションと、ツインテールに結い上げた金髪も相まって、まるで人形のような見た目だった。
こんなに幼い子供が脱界者で、しかも悪魔も人間も何人も殺している凶悪犯なのか。いつもならターゲットの外見など気にもかけないレディすら、流石に信じられないようだった。
「前代未聞だな……これは、相当骨が折れるぞ」
エンヴィスが、頭の後ろで手を組みながら、嘆くように呟いて大きく背を仰け反らせる。彼の体重を受けた椅子の背もたれが、ギギイと不満げな音を発した。
「彼女は、魔界でも既に複数の悪魔を虐殺した、凶悪な殺人犯だ。刑事課が長年追い続けた、因縁の相手でもある。通称、ピンク・ジェノサイダー」
彼の言葉を肯定するように、トワイライトが手元の資料に目を落としつつ付け加える。そこに記されたミルの悪歴は、留まるところを知らないように延々と長く続いていた。殺人の容疑だけで数ページに渡り、他にも放火や強盗などの余罪がいくつもある。しかも、一つ一つの事件に関して、付属的な情報が山ほど盛り込まれた詳細なものだ。刑事課から引き継ぐにあたって共有されたのだろうが、その情報量の多さから、彼らがこの案件にかけている熱情の度合いが透けて見えるようだった。
「こんな子供が凶悪犯だなんて……信じられません」
未だ驚愕の淵から這い上がれないでいるカーリが、愕然と呟く。その表情は強張っていて、思考もいつものような冷静さを保てていないようだった。外見と内実は人間ほどに結びつかず、むしろその逆もあるという魔界の常識を、失念しているらしい。
「カーリくんの気持ちも分かる。確かに、これは私の記憶にある限りでも、他に類を見ない珍事件だ……だが、これが事実だよ」
言葉に詰まって沈黙しているカーリに、トワイライトは一度寄り添うような姿勢を見せ、それから彼女を説得するように話を続ける。
受け入れてもらわねば、困るのだ。冷静さを失えば、常であれば生まれない隙が生じる。そこを突かれたら、最悪の場合だってあるだろう。
「いくら信じられなくとも、己の常識で計れなくとも、ただ起きたことだけが、現実だ。そこに、自らの意思を反映させてはならないよ。命取りになるかも知れないからね」
「……分かっています。いるつもりです」
そう言って気丈に頷く彼女だが、やはり顔色は冴えない。気をつけておかねばと考えつつ、トワイライトは別の資料を取り上げ、説明を続ける。
「今回のターゲット、ミルという彼女は、孤児院で生まれ育った。元々は、廃業されたデパートの廃墟内にて発見された、遺児だったらしい。生後5ヶ月程度の身体には、無数の外傷が見られたそうだ。まぁ恐らく、虐待されていたのだろうね。可哀想なことだ」
口先だけで、同情までも示しながら語る。
孤児院に預けられた彼女は、10歳までの幼少期をそこで過ごした。その頃、彼女がどのようなあくまであったか、現在の彼らに知る術はない。というのも、孤児院は、既になくなってしまっているからだ。情報も、炎の中と言うわけである。
「彼女が暮らしていた孤児院は、ある日突然業火に包まれた。頑丈な煉瓦造りの建物が、ただの瓦礫の山と化すまで、一晩中燃え続けたそうだ。出火元も、火がついた時刻も分からない。消防部門に通報が入った時には、既に建物全体が燃え盛っており、職員も子供たちも、誰一人逃げ出せていなかった。唯一、物置小屋で寝ていたという、ミルという少女を除いては」
後の捜査で、孤児院の運営状態は、相当酷いものだったという事実が明らかになった。故意に子供に怪我をさせたり病気にかからせては、給付金を手に入れて、職員が私的流用していたそうだ。気に入らない子供には平気で暴力を振るい、そのせいで命を落とした子供もいたらしい。ミルも、その一人だったのだろう。彼女の場合は特に扱いが酷く、食事や寝る場所すらまともに与えられなかった。保護された時の彼女は、深刻な栄養失調で、いくつか感染症にも罹患していたと、記録が残っている。
「孤児院に所属する身でありながら、彼女には部屋すらなかった。人一人が入るスペースもない狭い物置小屋に閉じ込められ、小さな体を押し込むようにして何とか生活していたようだ。ドアには鍵がかけられ、窓も、空気を入れるためのごく小さなものしか存在しなかった。そのため、日中でもほとんど光が入らず、小屋の中は常にカビと湿気に塗れており、ネズミや蜘蛛も大量発生していたという」
「それって、そのコが火付けたんじゃないの?自分を酷い目に遭わせた大人たちなんて、ぶっ殺してやるーって」
「焼き払いたくもなるよな。ここまでの扱い受けたんじゃあ」
「でも、鍵はかかってて窓は小さかったんですよね?子供の身体でも通れないくらい。じゃあ、外に出るのは難しいんじゃないですか?」
レディ、エンヴィスが推測を発言し、もう一度資料に目を落としたカーリが、不可能だと唱える。確かに、今の彼女の経歴を知っていれば彼らの発想も頷けるが、カーリが述べたのと同じような考えを、当時の捜査本部もしたようだ。実際、ミルは不起訴であり、まともに捜査をされた記録すら残っていない。
「まぁ詳細は不明だが、ともかく彼女は、当時の警察部門の捜査の対象になるような人物ではなかったということだ」
「子供だからですか?」
トワイライトの言葉に、カーリが首を傾げて質問する。彼女の疑問を、トワイライトは片手を振って否定した。
「いや、そうじゃないんだ。これを見てほしい」
適当にあしらいつつ、皆に配るのは、彼女の診断書だ。発行元は、魔界でも屈指の大病院、その精神科。
「彼女は、精神科が本院とは別に持つ、特別療養棟に入院していた。いわゆる、精神科閉鎖病棟、アサイラムだね」
「映画みたいな話だねー」
「レディ、黙ってろ」
レディとエンヴィスの潜めた声を聞きながら、カーリは前に見たテレビ番組を思い出していた。
その病院の持つ閉鎖病棟を、特集した番組だった。都会の本院とはかなり距離の離れた郊外の街に聳え立つ、巨大な白い塔。およそ病院とは思えない綺麗な外見で、街のシンボルのようにも扱われていた。しかし、アサイラムなのだから当然、中には深刻な精神疾患を持つ患者ばかりが入院しているに決まっている。ミルのような、大量殺人を犯すような、異常者が。
(見た目は確かに目を引くけど……中身がそれって)
仄暗い、嫌な感情が蘇ってきた。外見ばかり取り繕って、内側にどろどろとした汚くて醜いものを隠している、人間に対して抱くような嫌悪感だ。
「当時の担当医と、カウンセリングを行ったカウンセラーの診断書によると……彼女は、妄想性ユートピア症候群。強い妄想により形作られた、”理想の楽園”に住んでいると、固く信じ込んでいる」
「妄想性……?」
「ユートピア症候群……」
トワイライトが発した聞き慣れない病名に、カーリとエンヴィスが困惑した声を出す。精神的な病の一つに、妄想や幻覚があるというのは知っていたが、ユートピアなんて明るげな言葉がついているのは意外だ。
「彼女は、幼少期から虐待、ネグレクトなど過酷な生育環境で成長してきた。恐らく、命の危険を感じたこともあっただろう。そういった、劣悪な状況の中で生き延びるには、現実から目を逸らすしかなかった」
誰にも愛されず、優しくされず、傷付けられてばかりだった彼女は、やがて己の中に救いを求めるようになった。辛いことも、痛いことも、酷いことも何一つない、キラキラとして華やかな理想の世界に。
「彼女の思考や言動、趣味嗜好は、常にメルヘンで、毒されていて、歪んでいる。そう、カルテにも書かれている。彼女は己の妄想を否定しようとする存在に、強い拒否感を覚え、排除しようとすることがあるようだ。恐らく、その妄想が原因で、殺人や脱界を犯してしまったのだろうね」
彼女は、守るつもりだったのだ。己を生かし、支えた架空の世界を、誰にも奪われぬよう守った。殺戮は、半ば無意識に発動した、防衛本能のようなものだ。
「そんなの……捕まえたって心神喪失で無罪じゃねぇかっ……!そんなのってアリかよ」
「おかしいじゃん!自分が殺したんでしょ!?責任持ちなよ!」
エンヴィスが、憎たらしげに吐き捨てて、足元にあったゴミ箱を蹴る。鉄製の重たいそれが立てる硬い金属音に同調し、レディも珍しく憤慨を露わにした。
「でも、脱界の罪からは逃れ得ない」
「「!」」
唐突な声を聞いて瞠目したエンヴィスとレディに、トワイライトは目を合わせて当たり前の事実を述べる。
「脱界には、心神喪失も情状酌量もない。その点で見れば、殺人よりも重い刑罰を科されるかも知れない……他の世界に干渉することは、それほど重大な、禁忌だよ」
別の世界に関わった代償は、必ず最も酷い形で現れる。人間たちが今直面している、自然災害や疫病の流行は、過去に悪魔たちが人間を誘惑しようと、交流した際の弊害なのだ。
「我々の仕事が、この事件の多くの被害者や、刑事部の悪魔たちを救うことになる」
ミルの殺人を止めなければ、人間たちはおろか、自分たちまで滅びかねない。脱界を取り締まる仕事とは、地球の存亡にも関わる、重責を担っているのだ。
「だが、これだけは聞いてほしい。大事なのは、彼女が脱界者であるということだ。それ以外の……例えば殺人などは、考慮すべき付属事項に過ぎない」
トワイライトは指を一本立てて、大学で講義をする教師のような態度を取る。
多過ぎる情報を全て正面から受け止めていては、先に自分が潰れてしまう。自分たちの業務に直接の関係がある情報のみを適確に選び出し、自身の立場と現状を冷静に見極めなくてはならないのだ。究極的な見方をすれば、彼女が殺人犯かどうかなど、どちらでもいいことである。重要なのは、彼女が人間界にいる存在であるということのみ。脱界者であるという事実のみだ。
「いいか、君たち。我々は刑事でもなければ、悪を裁くヒーローでもないんだ。彼女に罪を認めさせ、正しく刑罰を受けさせるなんてことは、我々の業務内容に入っていない。分かるね?」
ここぞとばかりに、部下たちに叩き込んでおいてほしい注意事項を述べておく。問いかけられた者たちを代表して、エンヴィスが曖昧に首を振って同意した。それならば、とトワイライトは続ける。
「我々の仕事はただ一つ、脱界者を魔界に送還することだ。周辺の、どうでもいい事象に気を取られている場合じゃないんだよ。知っての通り、彼女は残酷な猟奇殺人犯であり、要注意の危険人物だからね。何が重要でそうでないか、冷静に見極めないと……今にその喉元を、掻き切られるかも知れない」
会議用に配置を変えられた机の天板に片手をついて、体重を預けながら、身を乗り出す。トワイライトの漆黒の瞳が、自分たちの視線と近い高さになった。真っ黒い瞳の中の、深い深い、終わりのない無限に続く闇に飲み込まれそうだ。そんな中で、足を掬われるなんて脅し文句を聞けば、どんな肝の座った悪魔でも心を動揺させるだろう。背筋を一筋、寒気が伝った気がして、カーリは小さく息を飲んだ。トワイライトは、彼女の心情が手に取るように分かっているのか、他の二人へと舐めるような冷酷な視線を移した。
「……と、まぁ、それは冗談だが置いておくとして」
突如、それまでの嵐は嘘だったかのように、彼の顔が、いつも通り温和で優しそうなものへと戻る。全員へと順番に向けていた、あの氷のような目つきは、どこへともなく綺麗さっぱり消え去っていた。今見たものは、夢もしくは幻覚だったのだろうかとカーリが戸惑っている内に、彼は笑顔で話を続けている。
「今は彼女をどう捕らえるか。それだけを考えることにしようじゃないか。至急案件なのだし、一刻も早く完璧な計画書を仕上げないといけないからねぇ」
「はい」
「わぁかったよー、トワさんっ」
淡々と返事をするエンヴィスとレディに、カーリは慌てて目を向けるが、別段何の変化も見られなかった。
「カーリくん、どうかしたかね?」
「はっ、い、いいえ何も!承知しました!」
訝しんでいる暇もなく、トワイライト自身に声をかけられ、驚いた彼女は随分威勢よく了承の意を示してしまった。
「カーリ、どしたの?」
「なっ、何でもないよ!」
「本当に~~~?」
突然奇妙な行動を見せ始めた友人を疑るように、レディが粘着質な視線を送る。カーリがそれ以上誤魔化しの方法を考えつかずまごまごしていると、何か勘違いをしたエンヴィスがレディを叱責し、終わらない書類業務に連れ戻す。膨大な報告書の山に埋もれ悲鳴を上げているレディと、隣で彼女を監督しながら自身の業務を始めるエンヴィス、彼らの横で届いた資料を簡潔にまとめるカーリ。相変わらずよく働く部下たちを眺めながら、トワイライトも自身で確認したい資料を開き、バインダーの中の報告書を捲る。そして、彼らの誰にも気取られぬよう、小さく、ほんの小さく微笑んだ。
* * *
長い廊下を、ツインテールを揺らして闊歩するのは楽しい。
誰も人のいない大きな建物の中で、ミルは一人ほくそ笑んだ。
片手は服の上からポケットに忍ばせた”愛刀”を撫で、もう片方の手でお洒落で可愛いフリルのスカートを整える。パニエを履いて膨らませたそれは、全体はピンク色で、裾からは大量のフリルがはみ出している。花とお菓子に彩られた、甘い甘い世界にぽっかり浮かぶ白い雲のようだ。フリル部分にも薔薇の模様があしらわれたデザインは、まさに生命が咲き誇る春の季節という印象で、持っている服の中でもかなり気に入っていた。
好きな服で全身を固めた彼女が心楽しく散歩をしているのは、地元でも有数の名門私立高校。二学年の学生たちが通う、授業用校舎だ。ずっと、一度はここに来たいと思っていた。場所などどこでもいい、ただ、学校という学び舎に。
(キラキラ……華やか……豪華。きっとここには、ワタクシが求める何もかもがあるわ)
ありのままを肯定してくれる、心優しき友達。夢を理解し、時に現実を教えつつも正しく導いてくれる教師。あるいは、同じ道を目指し、互いに切磋琢磨し合えるライバル。そして……同じ価値観のもと、沢山の楽しい思い出やキラキラした生活を共に形作ってくれる、恋人。
(あぁ……誰か、現れてくれないかしら。心の底からワタクシを求めてくれる、白い馬に乗った完璧な王子様……)
真実の愛を探求し、いつか運命の人に巡り合えると信じ、幾多の試練を乗り越えながら、生涯たった一人の人を愛してくれる男。ガラスの靴の持ち主を追いかけたり、毒や魔法に冒され眠りにつく姫君を、誓いのキスで目覚めさせるような男。
生まれた時から自分一人だけを、運命のように探し求めて愛してくれる男と、彼女は出会いたかった。学校というところは、男女の青春、なるものを極限まで煮詰めたような場所。ここに来れば、必ず誰か一人くらいは、自分の運命の相手と思える存在に邂逅出来ると信じていた。
(ううん、今も信じてる。ワタクシだけを見て、ワタクシだけを愛して、何もかもを受け入れて……このふわふわの甘くて苦い毒も、血塗られた殺戮衝動も)
歪んだ自分を、何よりの宝石だと褒めて、撫でてくれる人の腕の中で眠りたい。ぐっすりと寝た後は、愛しの彼との大切な時間を過ごすのだ。生まれて初めて、時が経つのが早いと思うくらいに、美しく濃密な時間を作りたい。小洒落たカフェに行って、可愛らしいケーキやアイスクリームを食べながら、幸せで一杯なこの瞬間を写真に残す。友達に見せて、羨望と称賛をもらう。デパートに買い物に行って、可愛らしい服や靴を買って、感動する恋愛ものの映画を見る。泣き腫らした目をしているからと恥ずかしがりながらも、貴重な思い出のために写真を撮る。SNSに投稿して、笑いと褒め言葉をもらう。自宅近くの公園で、花や鳥を見ながら、日が暮れるまでお喋りする。成績のことや将来のこと、子供っぽく夢の話でもいいかも知れない。そんなどうでもいいことが、この先一生の宝物になったりする。そんな経験を、一度でいいから、味わいたい。
(誰か、いないかしら。このワタクシを愛してくれる、素敵な素敵な王子様は……楽園の姫君である、ワタクシと共に、踊ってくれる王子様は)
うっとりと、恍惚とした表情すら浮かべて、物憂げな恋する乙女の顔をする。胸の前で両手を握り締めて、燃え盛る恋の炎に身悶えするように。そして、スカートの裾を摘んでくるりと一回転。まるでバレエダンサーのようにステップを踏めば、お気に入りのスカートがふわりと広がる。頭の横でゆらりと揺れる、金のツインテール。自分でも美しいと思う。偉大な芸術家の最高傑作だ。
(どう?私、綺麗でしょ?)
だが、実際には彼女に声をかけるものなどいない。授業が終わり、わらわらと廊下に溢れ出てきた学生たちは、数こそ多いものの誰一人として彼女に干渉しようとはしなかった。当たり前だ。制服の着用が義務付けられた学校で、私服、しかもロリータファッションという奇抜な格好をしているミルが、彼らの中に馴染めるわけがない。何故部外者がこんなところにいるのかと、隅で陰口を叩かれるだけだ。
(腹立たしいわね……そんな目で、私を見ないで!穢らわしいわ!!)
彼らの視線が容赦なく肌に突き刺さるのを感じて、ミルは舌打ちをすると同時に、廊下の端へとふらふら寄っていく。厚底の靴で掃除の行き届いた床を叩いて、非常階段の入り口へと近付いた彼女は、そこの壁に取り付けられていた火災報知器を、握り締めたハサミで思い切り突き刺した。
ジリリリリリ!!
切っ先がプラスチック製のケースを割り、中のボタンを強く押す。途端に響き渡る騒音に、誰からともなく悲鳴が発生して、生徒たちは一目散に玄関目指して走り出し始めた。上の階からも、上級生が駆け降りてきて、辺りはさながら雪崩が発生したようだ。
「私の邪魔をしないで」
「ぐぎゃっ!」
「ぅわぁああ~!?」
自分の倍くらい背丈のある、屈強な男たちに目の前まで接近されて、ミルの脳内に生理的な嫌悪感が走る。彼女が求めているのは、こんなむさ苦しい肉塊共ではない。彼女一人を孤独の沼から引き上げてくれる、王子様だ。誰の命も救えない、無力で脆弱な餓鬼には、興味などなかった。
反射的に右手を振るえば、狙い通り見事、美容ハサミの鋭い刃が男の一人の頸動脈を切り裂く。途端に響く苦悶の声と、目の前で起きた惨劇を理解出来ずに、無意味に上がる叫び声。首を押さえ目を見開いた男の、ぱっくりと口を開けた傷から、真っ赤な鮮血が噴水のように噴き出した。壁や床、天井にまで飛び散ったそれは、更に周辺の生徒を恐慌させ、パニックが連鎖する。ミルのスカートにも、奴の血液が付着していた。頬を撫でると、ぬるついた生暖かい液体がべったりと掌を汚す。血だ。自分の邪魔をした、無力で愚鈍な人間の血。
「汚いっ!!」
今度は確実に、殺意と怒りを持ってハサミを突き出した。もう一人、そばを走り抜けようとした男が、彼女の毒牙にかかる。心臓を一突きされ、口から血を吐き出しながら転倒する彼の無様な死体を、ミルは踏みつける。一体、どうしてこの世界にはクズみたいな男しかいないのだろう。本当の愛とは何かも知らず、毎日毎日上辺だけの笑顔を貼り付けて、思ってもいない言葉を口にして、ただ人と同じでいるために、普通であると顕示するために、そのためだけに生きている。周りに流され、影響され、見つけてもいない本質を見失ったと、一丁前に悩んだりする。
(クズ。クズ。クズばかり。どうして、王子様ってこんなに、見つけられないの?難しいの?ただワタクシは……ワタクシの理想の楽園に、王子様を増やしたいだけなのに)
血に濡れて赤く染まった廊下で、一人少女は涙する。だが彼女が、その歩みを止めることは決してない。いつか、必ず巡り合えると信じている、運命の王子様を見つけるその時まで。彼女は一心に、血溜まりを踏み付け続ける。靴の裏も服の裾も、殺めた命で醜く染めて。
* * *
「本当に、こんなところにいるんですか?」
カーリの疑わしげな声が、人気のない路上に響く。綺麗に舗装されたアスファルトの道はやや砂っぽく、行き過ぎる車の轍がはっきりと残っていた。
「あぁ、恐らくきっと、そのはずだがね」
車道を挟んで反対側の道にいるトワイライトが、間髪入れずに曖昧な答えを返してくる。今し方降りたばかりのタクシーは、既に道の彼方にテールランプを灯すだけとなっていた。
「彼女の最新情報は、今日の昼間、隣街の名門高校に不法侵入し、生徒2名を殺害したところだ。そこから、バスに乗ってここへ向かったと、レンキさんから報告が上がっている」
角を隠した額に軽く手を当て、遠方に視線を飛ばしながら、トワイライトが伝える。彼の声にBGMを付けるように、すぐ近くでさざなみの音が鳴っていた。
「彼女はここにいる。確実に」
魔法による位置情報把握で、ミルと自分の位置を照らし合わせながら、彼は独り言ちる。
「今日も二人殺したわけですか……早いとこ捕まえないと、世界への干渉が更に酷いことになる」
最悪だ、と吐き捨てたエンヴィスが、険しい目つきで辺りを睨み付けた。だが、ここは海に面した静かな丘陵。しかも深夜だ。彼の視界には、黒い夜闇しか映らない。
「ここ、何なの?」
劣化した塗装が付着するのも構わず、ガードレールに両腕を載せたレディが、振り返って向こうを見上げる。彼女の視線の先にあるのは、真夜中の闇に屹立する、巨大な建造物だった。暗闇の中でぽっかりと白い壁を浮き上がらせて佇むそれは、大口を開け鋭い鉤爪を構える、恐ろしい怪物のようだ。
「元々は、かなり大きな病院だったみたいです。15年も前に廃業になったみたいですけど、その前は結構街の人たちが通っていたようですね」
聞かれるままに真面目な顔でタブレットをいじったカーリが、そんな報告を上げる。覗き込んだトワイライトにも見えるよう、画面を寄せてくる。眩いばかりに輝くディスプレイには、随分と古ぼけたデザインのホームページが表示されていた。
「へ~。なんかぁ、お化け屋敷みたいだね!テンション上がるぅ~!」
「分かったから、ちょっと静かにしとけって……」
小さくジャンプなどしてはしゃぐ彼女を宥めたエンヴィスは、仰ぎ見るように廃業した大病院を眺め入る。
漁業で栄える地元街から数キロ。海岸沿いをぐるりと取り囲む太い国有道路の先にある、ちっぽけな丘の天辺に、それは建てられていた。まるで大富豪の別宅のような、煌びやかかつ厳かな外装は、一見すると医療施設には見えない。建築時に余程お金をかけたのか、廃業して15年が経った現在でも、朽ち果てずに当時の面影を残していた。
「破産したって書いてあるんで、多分、建物を取り壊すお金もなくて、放置したみたいですね。今は……あぁ嫌だ。有名な心霊スポットみたいです。地元の人も近付かないからって、暴力団にリンチされた死体などが、遺棄される事件もあったようですね」
外見上の変化が乏しい理由を、カーリが推測する。確かに、これほど大きな建物を壊すとなれば、かなり大金が要りそうだ。そうしてかつてのままに放置された施設に、黒い噂が定着するのも当たり前かも知れない。
「なるほど?非合法な人間たちが隠れて集まるには、格好の場所のようだね」
見せられた怪しげなブログ記事を飛ばし読みしながら、トワイライトが納得したように頷いた。言いながら彼が顔を向けるのは、病院の敷地内へと入るための細い私道と、そのそばに停められた数台の大型バンだった。見るからに、車検などを通過していない改造車だ。全ての窓に目隠しのスモークガラスを貼り、輸入物と思われる大型タイヤで元々大きな車体を更に大きく見せている。黒い塗装は光をよく反射するほど磨き抜かれ、ステッカーや落書きが沢山飾り付けられていた。
「いかにもチンピラのデコ車って感じだな……」
あからさま過ぎて逆に怪しむほど、それらしい奇抜な車だ。呆れ返って物も言えないエンヴィスが、軽く溜め息をつく。
「こいつら、何のためにこんなところへ?心霊スポットで肝試しのつもりでしょうか……」
「違うと思うよー。何だか声聞こえるし」
一体どんな目的があって廃病院などに来ているのかと、不可解そうなエンヴィスの予想を、レディが否定する。
「はっ?声?声なんて……聞こえないけど」
予想外の質問に、エンヴィスは咄嗟に否定をしつつ耳を澄ます。カーリも釣られて周囲に気を配るが、何の音も聞こえなかった。
「聞こえないよ?」
「残念だが、私にもさっぱりだね」
「えー?聞こえないのー?何でよー」
首を振って、カーリはレディの方を見遣る。トワイライトも同じく、聞こえていないようだった。主張を正面から打ち消されて、レディは不満そうに口を尖らせた。
「なーんかさ、声っていうかさ、人の……人間の、呻き声みたいなの。ぐわーって」
「恐ろしいこと言うなよお前」
「きっ、気のせいじゃない?」
その後から、おどろおどろしいジェスチャーと共に付け加えてくる彼女に、エンヴィスは首を竦め、カーリは慌てて間違いだと誘導しようとする。トワイライトだけが、一人腕組みをして、神妙な顔で病院を睨み付けていた。
「ともかく、行ってみようじゃないか。ミル嬢がいるのは確かなんだ。彼女を逮捕しないことには、我々の仕事は終わらない」
ふっと表情を緩めると、出来るだけ明朗な声を出して、彼らに指示する。月の輝く天を指差して、おどけたように踵を鳴らして踏み出せば、部下たちは皆渋々と付いてきた。
緩やかな坂道になった私道を、ゆっくりと上がっていく。両脇に生えた細い葉を茂らせた植物が、時折首筋を掠めた。
「ひっ」
「草だよ。怯えんな」
「あっはっは、カーリ面白~」
萎びた雑草に肌をくすぐられ、慄くカーリをエンヴィスが後ろから急き立てる。その怯えた反応に、レディがからからと笑った。彼らがしっかり付いてきているか確認しつつ、トワイライトは一足先に坂の上まで到達する。荘厳に構える、大病院の正面玄関が彼を迎えてくれた。大手ホテルのエントランスのように、豪華で重厚感のある装飾は、きっとかつては金で彩られ、やってくる患者や見舞客を圧倒していたのだろう。駐車場へと続く道路のそばには、小規模ながらも噴水が飾られ、潮風に強い樹木が等間隔で植えられている。裏手の駐車場に続くと思われる太い道路には、歩行者用のスペースも作られていた。
「はぁ……これは凄い」
ぽかんと口を開け、首が痛くなるほど上を見上げたトワイライトが、感嘆の声を上げる。カーリが、タブレットの中の院内見取り図を呼び出して現実と照らし合わせた。
今、彼らが前にしている正面玄関は、中央棟と呼ばれる本院のようだ。相当数の診療科と、多彩な検査システム、処置室を備えた最も大きな建物。左側のやや奥まったところに見えるのが、東棟、入院病棟だ。ここからではよく分からないが、本院よりも大きいようだ。そして、右側にあるのが、立方体の形をした西棟。回復の見込みのない患者を世話する終末期医療や、特別なセラピーを必要とする精神疾患患者のために作られた、いわゆる長期入院用の施設らしい。プラネタリウムを思わせる、丸い大きなドーム天井が付いているのが特徴だ。ちなみに中央棟には、西棟に向かうための連絡通路が設けられている。しかしながら、案内図には連絡通路への行き方は記されていなかった。関係者専用の図を手に入れなければ、辿り着けないのかも知れない。
見れば見るほど、充実した設備と資本を抱える地域有数の大病院だったことが窺えた。だが、それもかつての姿なのだろう。豪奢だっただろう雰囲気はどこへともなく消え失せ、今はただの廃墟と化している。数えきれないほどの窓は全て曇り、中には割れているものもある。道にはよく分からない雑誌や花火のゴミが落ち、計算され尽くした庭園は、手入れする者がいないせいで荒れていた。
「うわぁ……」
眼鏡を指でずらし、裸眼で観察していたエンヴィスが、ふと萎えた声を出した。げんなりとした顔色を横から見たカーリは、彼の持つある種の”勘”を思い出して、恐ろしくなる。
「ねぇ、あいつらここから入っていったのかなぁ~?」
唯一、恐怖も戦慄も何一つ感じていないレディが、玄関先でしゃがみ込んでいた。トワイライトが近付き、彼女の指す先を覗き込むと、そこには細かく砕けたガラス片が散らばっていた。回転式のドアを守る、薄い強化ガラスが派手に打ち壊されている。トワイライトは一歩踏み出し、電源の通っていないドアを、手動で回した。
「あっ、と、トワイライトさん!」
カーリ、エンヴィスが慌てて追ってくる。最後にレディが続いて、四人は無事に、病院内へと進入することに成功した。
「……何だろう。誰か、花火でもやったのかな?火薬っぽい匂いが」
すんすんと鼻を鳴らして、室内の臭いを嗅いだレディが、訝しげに首を傾げる。だが、これもやはり彼女にしか分からないものだったようだ。誰一人共感出来ぬまま、彼らは揃って病院のロビーへと足を進める。
電気が通っていないので当たり前だが、防犯カメラに撮られてもいなければ、侵入者を知らせるアラームなども鳴らない。薄暗い室内を照らすように、エンヴィスが錫杖を伸ばした。
「”点灯”」
簡潔に詠唱すると、杖の先端、大輪の中に眩い明かりが灯る。魔力を源として輝く、魔法の照明だ。エンヴィスはその杖を、まるで懐中電灯を向けるように小脇に挟んだ。トワイライトも合わせて、自身の掌にピンポン玉大の明かりを、魔法で灯す。
病院の内部は、流石に時間の経過に負け、薄汚れていた。壁に掛けられた絵画や風景写真は色褪せ、観葉植物は枯れている。待合用に並べられた長椅子は、中のスポンジがはみ出していたり、足が折れて倒れていたりと、どれも酷く壊れている。肝試しに来た人間が残していったのか、スナック菓子の袋やタバコの吸い殻などがところどころに落ちていた。傷だらけになったリノリウム張りの床には、アラベスクのような模様が描かれている。今は廃墟でも、かつてはかなり繁盛していた、大病院だったようだ。
「誰もいませんね……結構、不気味です」
寒々とした空間から身を守るように、カーリが両腕を手でさする。人間は何人かいるはずなのだが、彼女の言う通り、ロビーには人影一つ見えなかった。つい最近誰かが行き来したと思われる、土の欠片が落ちていたくらいだ。
「奴らを探さないと。どうやって分かれますか?」
角にかかった蜘蛛の巣を払いながら、エンヴィスが尋ねる。彼の質問への答えを探すように、トワイライトは辺りを見回した。
ロビーの奥には、半円状のカウンターがちんまりと鎮座している。近くには、会計や受付の文字の記されたプラスチックの板が落ちていた。さっきの待合スペースとは打って変わって、開放的な印象を受けるのは、最上階までを全て貫く広大な吹き抜けが理由だろう。ガラス張りの高い天井から降り注ぐ、ほのかな月明かりの中に動きを止めたエスカレーターが佇んでいた。
「ねーぇ、こっちにエレベーターあったよ~。階段もあったし。それで上行く?」
いつの間にか、どこかへと消えていたレディが戻ってきては両手を振る。トイレなどがある、左側の通路に寄り道していたようだ。その先にエレベーターホールと非常階段があったと確認すれば、これで道は決まりだ。
「私はカーリくんとエスカレーター経由で上へ上る。エンヴィスくんは、レディくんと非常階段の方から行ってくれるか。人間たちを見つけたら」
「逃げるよう誘導、ですよね」
決定事項を言い終わる前に、エンヴィスの方から口を挟んできた。首を振って肯定し、念のため確認しておく。
「その通りだ。ミルを発見したら、直ちに連絡するように。戦闘は、慎重にな」
「分かっています」
エンヴィスは軽く頷き、レディの元へ駆け寄ると彼女と二人、左の通路へ入っていってしまった。その背中を見送り、トワイライトもカーリに声をかける。
「よし、行こう、カーリくん。気を付けてな」
「は、はい!」
まだ多少は怖がっているようだが、気丈にもハキハキと返事する彼女と、探索へと乗り出す。守るべき対象を先に行かせ、自分は背後を固める形で、エスカレーターを上っていった。
「ほらほら!ここだよー」
一方、レディに引っ張られる形で、エレベーターホールへと到着したエンヴィスは、一応上部に付けられた階数表示を見る。当然ながら、ランプは光っておらず、電源は入っていないようだった。
「当たり前か……」
階段で最上階まで行くのかと、やや憂鬱な気分になる。確か、さっきちらりと見た案内板には、七階までと書いてあったはずだ。その分の階段を上っていくのは、少々どころかかなり面倒だ。
「人間たち探すなんて、ちまちましててめんどいよねー」
レディも同じことを思ったのか、ぐちぐち愚痴を吐きながら、非常階段へと続く鉄扉を開ける。蜘蛛の巣が張り、小動物が潜んでいたらしき形跡も見られる、薄汚い階段が現れる。その時、どこか上の方から、野太い雄叫びが響いてきた。
「ラッキー!探さなくてもいたじゃん!」
人間の声だ。確信したレディが、捜索の手間が省けたと嬉しそうに言う。のんびりした調子の彼女を守るように、エンヴィスは前へ進み出た。
どかどかと、騒々しい足音を立てて数人の男たちが駆け降りてくる。隆々とした筋肉を露出させ、彫り込んだタトゥーを強調した、いかにもな連中だった。屈強さと野蛮さを誇るはずの彼らは、何故か恐怖に射竦められたような、危機迫った表情で押し寄せてくる。我先にと押し合うようにして駆けてくる男たちの様子は、側から見ているエンヴィスにも異様に映った。
「やっば、アンラッキーじゃん。キモ」
「馬鹿っ、退がれ!」
顔面を硬直させ、突進してくる彼らを見て、レディがあからさまに引いた顔をする。エンヴィスはそんな彼女の肩を押し、後ろに下げると、懐から取り出した錫杖を構える。
「どけぇえええ!!」
「ジャマすんなぁああー!!」
男たちは、目の前の脅威となり得る全てを排除しようと、拳を振り上げて襲ってくる。恐怖に錯乱している様子だった。これでは、こちらの声も耳に入らないだろう。エンヴィスは面倒くさそうに舌打ちをする。
「チッ……めんどくせぇ」
同時に、体の前に真横に構えた錫杖を、素早く振り抜いた。明かりを灯したままの大輪が、男の一人のこめかみを強く叩く。衝撃が走り、脳が揺れる。糸が切れた人形のように、男は崩れ落ちた。エンヴィスはすかさず、隣にいたもう一人を末端の方で突く。肩を押されよろめいた男は、硬い壁に側頭部をぶつけてしゃがみ込んだ。血は出ていないから、多分、大丈夫だろう。確認する暇もなく、他の男たちを睨み付けて間合いを取る。
どこからか、チン、と音がした。後ろからだ。エレベーターのドアが開き、ホールにまた数人の男が雪崩れ込んでくる。
「なっ……!?動いてたのか!」
思わぬところからの増援に、エンヴィスの頬が引き攣った。前方に目を戻すと同時に、階段を駆け降りてくる筋肉の塊のような奴らが見える。まさか、挟み撃ちされたとは。背中を冷や汗が伝う。
「任せて!」
飛び出したのはレディだった。ここは自分の出番とばかりに、嬉々としてジャンプし、自分の倍以上ある体格の男たちに飛びかかる。人間には決して出せない、恐ろしい威力で拳を振るう。まともに食らった彼らは、すぐに意識を失って床に倒れ込んだ。最後の一人を殴り倒し、壁に手をついたレディは、掌で何かを押し込んだ感触に気が付く。『上へ参ります』と機械音声が聞こえて、ゆっくりとドアが閉まり始めた。
「あ」
思わず出た間抜けな声に反応して、振り向いたエンヴィスとばっちり目が合った。どうしようか一瞬悩んだが、思い切って満面の笑みを浮かべてみる。
「ごっめーん、エンちゃん。やっちった!」
「レディ、お前!!」
男の一人と掴み合ったまま、絶叫する彼の声がドア越しに耳に入る。しかし彼女はそのまま、上へと上がっていく小さな箱の中に、留まっていた。
「くそっ!あいつ……なんてことしやがる!!」
置いていかれたエンヴィスは、怒りのままに咆哮し、悪態をついた。激怒のパワーで、近くにいた男を殴り飛ばす。ゴッ、と確かな感触がして、男は倒れた。人間相手では魔法もろくに使えず、肉弾戦のみに限定されるところが、更にエンヴィスの苛立ちを加速させる。こんなもの、思いっきりぶっ飛ばせれば最高なのに。
不満を抱きながらも、襲ってきた者は皆昏倒させながら、階段を上がって先へ進もうとする。ところが、二階に辿り着く直前で、再び数人の男たちが雪崩れ込んできた。エンヴィスはまた溜め息をつき、錫杖を構えた。
「しょうがねぇな……ちょっと痛いけど、我慢しろよな、人間っ!」
* * *
「気を付けて、カーリくん」
「ありがとうございます」
電源の入っていないエスカレーターを駆け上がると、トワイライトがカーリに忠告してくる。いつ敵に襲われてもおかしくない状況に、カーリも気を引き締めた。すると、彼女に向かって、トワイライトの手が伸ばされる。
「?何ですか?これ」
ぽとりと落とすように渡された、黒い硬そうな金属塊を、カーリはしげしげと見つめる。見たことがない形状だ。まるで、アクション系アメリカ映画で見る、ハンドガンやピストルのような形をしている。いや、まるでではない、そのものだった。
「えっ、銃ですか!?」
上司が差し出した物の正体を掴んだカーリは、一拍遅れて頓狂な声を上げる。
「麻酔銃だよ。念のため持っておきなさい」
声音の中に拒否の意を交えて発したにも関わらず、トワイライトは平然と押し付けてくる。
「いいから。一応持っておきなさい。護身用だ」
「えっ、でもでも、銃って魔界でも所持許可が必要なんじゃ……?」
「そんなの、”本物の銃”には入らない。ただのおもちゃだ」
許可証がなければ、銃火器等の所持は許されない。人間界と同じような決まりがあったはずだと、カーリは尋ねる。しかしトワイライトは、片手を振って取り合わなかった。
「剣を買うには許可がいるけど、包丁を買うのは誰でも出来るだろ。それと同じだ。これはただの麻酔銃。麻酔が塗られた針が飛び出るだけの、何の殺傷能力も持たない紛い物だからね」
引き金を引くだけで、麻酔針が生成され飛び出す便利なアイテムだ。弾数は無制限。催眠魔法の込められた針が生産され、飛び出す仕組みとなっている。使われている催眠の術式は、人間に用いても何ら問題のない、安全性の高いもの。しかも、自動的に急所を外し、麻酔の効きやすい位置に命中させる、軌道補正付きの優れ物だ。
魔界の基準では、そういったアイテムは銃には分類されない。直接的なダメージを与える機能がないのならば、それはただの、形状が似ているだけの製品だ。これならば、銃を扱ったことがないカーリでも容易く扱えるし、トワイライトも規則違反には問われない。はずである。
「もしも人間が襲いかかってくるようなら、銃口をこう、何となく彼らに向けて、引き金を引くだけだ。撃鉄も起こさなくていい。付いてないからね。そうすれば勝手に、人間たちは眠り出す。どうだ、簡単だろ?私の私物だけど、特別に貸してあげるよ」
少し早口で、端的に使い方の説明をする。カーリは未だ戸惑っていたが、きちんと話は頭に入れ、理解しようとしていた。
「万が一の時は、これで身を守れ。いいな?」
「わ、分かりました……」
カーリの悩みを見抜いていた。
「よし、じゃあ行くぞ。ミル嬢を、さっさと魔界に送り返さないとな」
トワイライトに諭すように言われ、カーリは流されて頷いてしまう。やっぱり返そうかと思い悩んでいる内に、彼は急足で、周囲の安全を確認しながら二階の探索を始めていた。カーリも彼に従って、一つ一つ病室や診察室、検査室を覗いて回る。
人間たちの姿は、どこにも見えなかった。それどころか、大抵の部屋には蜘蛛の巣がかかり、埃がセンチ単位で積もっていて、人が立ち入った気配すらない。ところどころ落書きがされていたり、窓ガラスが割れていたりするから、何年かに一度は、肝試しや何かで侵入する人間がいるのだろう。しかし、今現在この建物内にいる人間は、いないのではないかと思われた。
「ここにはいないんですかね……あの、左右にあった、別の建物にいるとか」
病室の一つの中で、カーリは呟く。隣のベッドのカーテンを捲って、手についた汚れを払っていたトワイライトが、曖昧に頷いてから否定した。
「あぁ……いや、そんなことはないはずだ。ここにくる途中、上の階の窓に人影を見た。あれは子供の背丈じゃないな。確実に、背の高い男のシルエットだ」
「ちょっと待ってくださいよ。それでもしもここ全部調べて、誰もいなかったら……それってめちゃくちゃ怖いじゃないですか!」
彼の言葉に、カーリは顔を青ざめさせて恐怖した。心霊現象など全く恐れていないトワイライトは、鼻で笑い飛ばす。
「大丈夫さ。幽霊やオバケなんて、現実の存在に比べたら可愛いもんじゃないか。適切な処置を施せば、大体は祓えるんだから」
特定の対処法のない、人間や悪魔相手の方が難しい。ズレたことを言う上司を、カーリは呆れたような視線で見つめた。
「何、これ……!」
無造作に開けたスライドドアの向こうに、何かがある気がして目を凝らした彼女が、奥の光景を認識し、引き攣ったようなか細い悲鳴を上げる。喉の奥から空気が漏れるような、可愛くもない無様な声だったが、そんなこと気にしている暇はなかった。
「どうした?」
驚愕に目を見開いたままの彼女が気になって、トワイライトも室内を覗き込んだ。照明魔法を部屋の中程まで進め、嘆きとも呻きともつかない声を上げる。
「うわ……」
そこは、病室ではなく何らかの検査室だった。大きなガラス窓が付いた手前の小部屋には、テレビ局にあるようなミキサーに似た機材が取り付けられ、奥の部屋には既視感のあるトンネル型の機械が置かれている。床に落ちたプレートには、『MRI検査室』と書かれていた。
だが特筆すべきはそこではない。その部屋は、明らかに病院のMRI検査室とはそぐわない物品にまみれていた。床や机に散らばる、赤や青のカラフルなコード、何かの粉が入った紙袋、電子機器の基盤らしき物、液晶のついた小型タイマー、そして、壁に掛けられた何かの設計図。
一つ一つの物体は使い道の分からない謎めいたものだけれど、全てが揃えば自ずと理解出来る。いや、理解せざるを得ないのだ。
「これは……」
青色の製図用紙に書かれた、手書きらしき基盤の設計図を見て、トワイライトが呟く。MRIの操作盤の上に載せられた、ホチキス留めの書類を拾い目を通す。ネットの深部から掘り当てたらしい、『爆弾作りの教科書』なる危ない説明書だった。
「爆弾を作っていたんですかね……ここで……」
未だに信じられないような顔をして、カーリが辺りに視線をやる。机の下には大量のカップ麺やスナック菓子がストックされ、MRIの検査台の上には異臭を放つ黒い袋がいくつも山積みになっていた。
「そうらしいね。爆弾制作の傍ら、ここで寝泊まりもしていたみたいだ」
「一体何のために……誰が作っていたんでしょう」
カーリは、自分で質問を口にしながら、問いかけたことを馬鹿馬鹿しく思っているようだった。当たり前だ。爆弾を作る目的など、爆弾を使いたいからに決まっている。爆弾を使いたい者、つまりは何かを破壊したい者が、作っていたに違いないのだ。
「さてねぇ。金のために違法な行為をする者は、どこにだっている。でなきゃ、脱界はもっと早くなくなっているはずさ」
トワイライトは言いながら、開けた紙袋をカーリにも見せた。袋の中身はほとんど空で、わずかな黒い粉ばかりが残っているだけである。
「爆弾は既に完成している。尤も、数は不明だが……あの車の持ち主たちが、製作者の仲間であるとしたら、彼らは爆弾を所持している可能性がある」
あれほどあからさまな不良グループが、爆弾作りのプロと仲間であるとは思えないが、油断は出来ない。真偽がどうであれ、ここに爆弾を製作するテロリストじみた人間が住み着いていたのは事実なのだ。留意はしておくべきだろう。
「やれやれ……とんだ危険人物もいたものだ。エンヴィスくんたちが、うっかり遭遇してしまわないといいが」
凝りをほぐすように肩を回しながら、トワイライトは室内をぐるぐると闊歩する。そして、ぴたりと立ち止まった。何か、違和感を感じたのだ。
「……どうかしました?」
訝しんで話しかけたカーリの言葉を、指一本で遮る。不安げな眼差しを背中に感じながら、トワイライトは辺りを見回した。
「何だ……?この違和感は」
呟いた直後、勢いよく首を動かして部屋の片隅を見る。そこには、特に何の変哲もない、薬品棚が置かれているだけだ。しかし、MRIの機械がある部屋に、そんなものを置くだろうか。MRIとは磁力を使うもの。金属を使用した物は、近くには置いておけないはずだ。つまりこの棚は、MRIが稼働しなくなってから運び込まれた。では、何故そんなことをするのか。
「これ……動かせそうですよね。ドラマとかだと、よく隠し通路とかあったりして」
棚の周囲の床には、何かをこすったような跡がついていた。それを見て、カーリが冗談めかしたことを言う。しかしトワイライトには、ピンとくるものがあった。
「いや、その通りかも知れないな」
「え?」
きょとんとした顔で聞き返してくるカーリに、トワイライトは見てろとばかりに視線を投げる。そして片手を上げて魔法を発動した。
作り慣れたいつもの剣が、手の中に出現する。柄部分の細工が繊細な、銀製のブロードソード。本来は武器として使うそれを、棚と壁の隙間に差し込みぐっと力をかける。中身のぎっしり詰まった重たい棚が、ズズっと音を立てて動いた。
「うわ」
驚いたリアクションを取るカーリの声を聞きながら、棚を完全にスライドさせ、床の跡と一致させる。トワイライトの目の前には、巨大な黒い穴が広がった。明かりを向けると、上へと続く螺旋階段が浮かび上がる。まさしく、秘密の部屋へ通じる隠し通路といった風情だ。
「大正解だよ、カーリくん。お手柄じゃないか」
「嘘……本当にあったなんて……!」
予想を的中させた彼女を、わざとらしく称賛する。誉められたカーリは、両手で口を覆って、驚愕していた。自身の空想めいた想像が、まさか当たるとは思っていなかったのだろう。
「一体何のために……?」
「さぁね。人間たちの思考回路は、複雑怪奇だ」
問いかけてきた彼女に、肩を竦めて知らないと答える。一体人間たちは、何のためにこのような設備を作ったのだろう。全くもって、不思議で仕方がなかった。
「確かめてみるとしようか。もしかしたら、ここにも人間が隠れているかも知れないしね」
この棚が、病院が閉鎖した後に置かれたものだとするならば、爆弾魔もこの隠し通路を知っていた可能性がある。もしもそこに潜んでいて、トワイライトたちとミルの正体を知ってしまったら、大問題に発展するだろう。見つけ出して避難させなければと、好奇心を義務感で覆い隠して、トワイライトは歩き出した。
* * *
「ハァ……ハァ……」
息を切らせて、エンヴィスは非常階段を駆け上がる。ここに来るまで何人の男を倒してきたか、分からなかった。皆何かに怯え、錯乱し、目に入った者全てに攻撃を仕掛けてくる。厄介極まりない連中に邪魔をされて、中々レディの元に辿り着けないでいた。
「くっそ、あいつどこにいる……!?」
悪態をつきながら、現れた鉄製のドアを肩で押すようにして開ける。リノリウム張りの廊下は、ほとんどの窓が割られて、外からの風に侵食されていた。肌寒い感覚を堪えながら、さっと辺りを見回す。エレベーターホールに目をやると、なんとエレベーターが着いていた。開きっぱなしのドアから、明るい光が漏れ出ている。中には、気を失った男が倒れていた。額に赤い痕が付いている。間違いない、レディの仕業だ。大方、ピンヒールで蹴りでも入れたのだろう。
「レディ!お前、一人でどこに行ったんだ!返事くらいしろ!!」
口元に手を当てて、怒りを声へと変換する。しかし、辺りからは彼女の返事どころか何の音も聞こえてこなかった。あれほど息急き切って押し寄せていたチンピラたちも、一人もいないようだ。もう全員逃げてしまったのかと疑いかけるが、突如視界の先で何かが動いた。
「レディ!レディか!?」
「エンちゃ~ん」
慌てて呼びかけると、どこか遠くの方から、彼女のふざけた返事が反響してきた。ぐるりと視線を巡らせると、また何かが動く。
「エンちゃ~ん、こっちこっち!」
廊下の一番奥から、レディが手を振っていた。吹き抜けを囲う柵に腕を預けて、金髪を手櫛で梳いている。雑誌のモデルのように、挑発的なポーズを取る彼女の足元には、大きな塊が蹲っていた。
「レディ!ったく、お前何してんだ!」
憤りに声を荒げつつ、エンヴィスは彼女の下へと駆け寄る。呑気に手など振っていたレディの、ほっそりした痩身が、突如揺らいだ。彼女の足を払い退けて、蹲っていた男が立ち上がったのだ。筋肉が丸々と盛り上がった屈強な体躯で、レディを軽々と投げ飛ばす。エンヴィスは素早く走り込み、彼女に向かって拳を振り下ろそうとした男の足を払った。思わぬところからの衝撃に、男はぐらりとバランスを崩すと、たたらを踏んで尻餅をつく。その男の首筋を、レディの蹴りが射抜いた。
「サンキュ~、エンちゃん」
「おっ前な、うぉっ」
気絶して倒れ伏した男を見て、レディはぐっと親指を立てる。簡単な褒め言葉だけでいいように使われたエンヴィスは、文句を言ってやろうと憤慨するが、そんな暇もなかった。通路の右手から、似たような体格の男が二人、走ってきていたからだ。手にはそれぞれ金属バットと、細めのチェーンを握っている。
「半分ずつね、エンちゃん」
昏倒した男の胸ポケットから、ガムをくすねたレディが挑戦的な顔で笑った。エンヴィスは溜め息をつき、肩を落とす。
「しょーがねぇな……全く」
さもやる気なさそうに愚痴をこぼすと次の瞬間、懐から錫杖を取り出し、飛び掛かってきた男の一撃を受け止める。いくら鍛え抜いた大柄の肉体でも、出せる力は高が知れている。理を覆す魔法の力を有した彼には、大した敵ではない。素早く錫杖を横に払ってぶつけられた力を流すと、がら空きになった男の胴に控えめの打撃を叩き込んだ。恐らく、肋骨にヒビが入ったのだろう、男は苦悶の声を上げて、膝をつく。同じタイミングで、レディが相手取っていた男も敗北し、自身の鎖でぐるぐる巻きに縛られていた。
男から奪い取ったバットを肩に担いで、エンヴィスは嫌な笑みを浮かべた。
「さぁ~て、お前らにはちょっと話がある。答えてくれるよな?」
「うわ、エンちゃん悪い奴……」
隣で、レディが呆れ返った目をしていることなど気にも留めずに、しゃがみ込むと男たちを見据えた。身動きの取れない男二人は、彼から目を逸らすことも出来ずただ怯えている。
「まず、一つ目の質問。お前らは誰だ?」
「おっ、俺たちは!」
「静かに話せよ~。ここにゃ史上最低最悪の殺人鬼が乗り込んでるんだぜ?騒いだら目を付けられるだろうが」
指を一本立て、口を開いたエンヴィスに、縛られた男の方が堰を切って話し始める。動揺のあまり咄嗟に声を荒げた男を、エンヴィスは顔を顰めて睨み付けた。殺人鬼とは、レディかエンヴィスのことかと勘違いしたのだろう。面白いくらいに萎縮した彼は、打って変わった小さな声で答えた。
「俺たちは、ただのグループだ。クラブとか行って、トランプとかして遊ぶんだ。別に悪いことなんて……いや、してはいるけど、そんな大したもんじゃ……」
「はいはい、そうですかっと……」
地元住民を困らせる不良グループであることを隠そうとして、必死になっている様はまさに滑稽だった。エンヴィスはそっぽを向いて、右耳の軟骨の裏を掻いている。退屈している時の彼の癖だ。まともに取り合ってもらえていないことが分かったのか、焦っている男は、こうして見るとただの子供のようだ。成人して間もないのではないだろうか。タトゥーを入れているのが、余計に大人ぶった格好付けに見えてくる。
「信じてくれって!」
「二つ目。ここに来た目的は?」
立ち膝になって訴えかける男を、エンヴィスは押し戻して二つ目の質問をした。男たちはそれを聞かれるなり、困ったように俯いてチラチラと互いの様子を窺っている。
「嘘を付くつもりか?」
「ち、違います!ただ、その……」
「早く言え」
痺れを切らしたエンヴィスが、脅すように低い声を発すると、男たちはもじもじしながら彼を見る。そして、意を決したのか、胸の辺りを押さえた男が重い口を開けた。
「あの、俺たち……近々、ライバルチームみたいな連中と抗争する、あ、いや喧嘩することになってて……その、それで、何か武器がいるだろうって、リーダーが」
今更気質の人間ぶって取り繕おうとする言葉を、エンヴィスは聞き流し目で続きを促す。
「だっ、だからある男に依頼して。もちろん、俺たちじゃなくてリーダーが。で、それで……」
「品物を受け取りに来たのか?」
「違う!いやっ、違くはないけど……」
歯切れの悪い男の言葉をエンヴィスが直截に確かめるが、男は慌てふためいたように首を振るばかりで、ちっとも答えを示さなかった。
「どういうことなの?」
それまで黙ってエンヴィスに任せていたレディが、唐突に口を挟んだ。男たちは再びお互いを見遣ってから、酷く言いにくそうに紡ぎ出す。
「……死んじまったんだ、その人」
「殺されたんだ」
彼らの言葉を聞いて、エンヴィスもレディも静かに息を飲んだ。死んだ、しかも殺されたとは穏やかでない。どういうことかと頭の中で整理しつつも、エンヴィスの中には事のあらましが予想出来ていた。
「そいつは、俺たちがいつも遊んでる溜まり場で、たまたま出会ったんだ。リーダーが気に入ってさ。抗争のための武器の調達に、少し協力してもらおうって……」
「あの男は何つうか、個人事業主?ってやつみたいで、依頼って形にするから依頼料を払えって。その金を払うために、待ち合わせしてたんだ……そこに、奴が」
「奴?」
確認のためにエンヴィスが問いかけても、男たちは揃って口をつぐんだまま、何も言わない。まるで、声にすることすら恐れているようだ。
「奴は、そいつと俺らの仲間、店にいた全員を殺した。そりゃあもう酷い有り様だったさ……だけど、金は証拠品としてパクられたし、抗争だってきっといつかはやる。だから商品だけでも回収しないとって」
男たちのまとまらない話は、要約すると簡単なものだった。つまり、依頼として用意させていた武器を手に入れに来たのだ。あわよくばその武器を使って、ライバルチームどころか未だ逃亡中の殺人犯をも痛めつけるつもりだったらしい。
「そんで、あの男から聞いてた奴のアジトに向かったんだ。それがここで、奴の作業部屋ってとこを探してる内に……あの女が、いて」
男の一人が声を詰まらせる。その先を語ったら死ぬ呪いにでもかかっているように、怯えた顔で震えるだけとなってしまった。男の豹変に触発されるように、もう一人の男も胸を押さえ、荒い息を吐き始めた。明らかに、様子がおかしい。
「そうだ、あの女だ……あの女が、俺たちを見るなり、殺そうとしてきたんだ。あの時、仲間たちを殺したのは自分だって、血塗れのハサミなんか見せて……あの女だ!!」
「お、おい……」
「こっ、殺されるゥ!!」
男の異変を、エンヴィスが止めようとした時にはもう遅い。封じ込めていた記憶を思い出したことで、パニックに陥った男たちは、ただただ恐ろしさに身を強張らせ暴れていた。
「嫌だぁ、死にたくない……死にたくない死にたくない死にたくない!!」
「ひぇえ、殺さないでぇーー!!!」
頭を抱え、恐怖に引き攣った声で叫んで、怪我の痛みも忘れて逃げ惑う。完全に正気を失っている。充血した瞳でエンヴィスたちを睨み付け、レディに一発拳を見舞うと、一目散に背中を向けて走り去ってしまった。
「わわっ!」
「大丈夫か、レディ」
これくらいの打撃で傷付きはしなくとも、バランスは崩す。転びそうになったレディの細身を、エンヴィスは片手で受け止める。彼の磨き抜かれた革靴の足元に、コロコロと何かが転がってきた。野球ボールくらいの小さな球だ。表面は薄い金属で覆われていて、吹き抜けの天井から降り注ぐ月明かりを反射している。
「何、これ?」
レディが呟いて、それを摘み上げた。球の下側に、何やら小さなランプが付いている。まるで刻を刻む針のように、チカチカと忙しなく点滅する赤色が目に入った瞬間、エンヴィスは全身の血がざっと下に落ちるような感覚に見舞われる。
「触るなっ!」
「えっ!?」
天を突き破るような声音で鋭く叫び、彼女の手から球体を奪い取ると、廊下の先に投げる。同時に強く突き飛ばされたレディが、床の上に尻餅をついた。尾骶骨に伝わる鈍い痛みに、彼女が抗議の声を上げるより早く、凄まじい轟音と衝撃が辺りを駆け抜ける。爆風が押し寄せ、焦熱が彼女の肌をチリチリと炙った。
だが、エンヴィスが受けた衝撃は、彼女の比ではない。あれほど小さいサイズでも、爆弾は爆弾だ。咄嗟に彼女だけは魔法で守ったものの、自身までは庇いきれない。彼の身体は簡単に吹き飛ばされた。
「っ……!!」
投げ飛ばされた先には、床がない。吹き飛ばされた勢いで、吹き抜けを囲む手すりを乗り越えてしまったのだ。ぽっかりと深く空いた穴のような、広い吹き抜けを一直線に落下していく。このままでは、数秒後には頭から地面に激突してしまうだろう。エンヴィスは急いで辺りを見回し、どこか掴まれるところを探した。ふと、下の階にある、病室のスライドドアの取手が目に入る。エンヴィスの指は半ば無意識的に動き、身に付けたスマートウォッチを起動させた。慣れた動きで画面をタップすれば、つるつるしたディスプレイの表面から何かが飛び出す。金属で出来た、細く頑丈なワイヤーだ。ヒュンと軽い音を立てて伸びたそれが、目測の通りにドアハンドルに巻き付く。途端に手首に重みがかかり、エンヴィスの身体は宙から吊られたように静止した。
だが、全ては計算通りというわけにいかない。エンヴィスの体が固定された直後、バキンと嫌な音が鳴った。ただのドアハンドルの留め金では、エンヴィスの体重を支えきれなかったのだ。一度止まった落下が再開され、エンヴィスの体は勢いよく階下に落下した。かろうじて受け身を取ったものの、落下のダメージが全てその身体に入り、彼は呻き声を上げる。
「うぐっ!」
全身を突き抜ける、強烈な痛み。背中を強かに打ち付けた衝撃で、まともに息も吸えなくなる。目の奥が明滅する感覚がして、エンヴィスの意識はしばし遠のいた。
「おーい……エンちゃーん……おーいってば!」
どこからか、レディの声がする。遠くから聞こえるそれを訝しんで、エンヴィスは目を開けた。瞼を上げるという行為によって初めて、自分が気を失っていたことに気が付く。爆音に揺さぶられた鼓膜が、キーンと耳鳴りを起こしている。ゆっくり体を起こすと、関節のあちこちがギシギシと軋んだ。
「いッッてぇ~……」
思わず顔を顰めて、痛みに呻く。ぶつけた後頭部を手で押さえながら、声のした方に顔を向けると、5階の廊下からレディが身を乗り出して覗き込んでいるのが見えた。
「だーいじょーぶ~?エンちゃぁ~ん」
呑気な声が、広い空間に反響する。それを聞く限り、彼女に怪我はなさそうだ。こちらを覗き込んでくる笑顔にも、煤の汚れ程度しかついていない。体を張った甲斐があったものだ。
「あぁ……何とかな!」
満足げな感情を押し殺しながら、立ち上がって手を振る。怪我がないことを伝えるためのものだったが、それを見たレディは、とんでもない言葉を投げかけてきた。
「じゃー、アタシ、先行ってるねーーー!!」
「はっ!?おい、レディ!!どういうことだよ!?」
突然のことに、エンヴィスの理解は全く追いつかない。驚きのままに目を剥き、彼女のいる方を見上げるが、既にレディの姿はそこになかった。指で作ったOKサインだけが、ちらりと見えて消える。謝礼にしては酷い扱いに、エンヴィスは頬をひくつかせた。
「あいつ……!」
ふつふつと込み上げてくる苛立ちで、頭が沸騰しそうだ。未だ体中に残っている、落下のダメージも気にならない。激情のままに、思い切り声を荒げた。
「ふざっけんなよレディィッ!!てめぇええーーーっ!!!」
* * *
暗い螺旋階段を、ゆっくりと上っていく。正直、生物や魔法の気配はさっぱり感じないのだが、如何せん暗過ぎて、進もうにも進めない。少しでも足を踏み外せば、一体どこまで続くのかも分からない階段を、一息に転がり落ちてしまうだろう。慎重に足を運ぶトワイライトの後ろで、カーリは怯えながらキョロキョロと辺りを見回していた。
「暗いですね……一体どこまで続くんでしょうか」
背後からあらぬものが近付いてきやしないかと、ビクビクしながら問いかける。トワイライトはそんな彼女に構わずに、のんびりとした話し方で答えた。
「どうだろうね。それよりは、何のためにこんなものを作ったのかが、気になるところだ」
「ですね……う、わ……っ!?」
恐怖心を和らげる話でもしてもらえないかと、内心期待していたカーリは、ややがっかりした気持ちを押し殺しながら相槌を打つ。そこへ、まるで何かが爆発したかのような、凄まじい振動と轟音が襲ってきた。
ズズンと揺れる床に足を取られて、ふらつくカーリを、トワイライトは転ばないように支える。が、手を取ったのはセクハラだったかと、思い直し手を離した。
「すまんすまん。大丈夫か?」
「は、はい。大丈夫です……でも、今のって……」
苦笑するトワイライトに、カーリは乱れた髪をかき上げながら尋ねる。
「……爆発、みたいな音がしましたけど……」
「あぁ。ここで製造されたものかも知れないね」
「エンヴィスさんとレディちゃん、無事でしょうか……一体誰が、」
「さっさと見つけないとな。ミル嬢も、残りの人間たちも」
爆発なんて、危険極まりない事態に巻き込まれた仲間を、カーリは案じる。もちろん、彼女の考えは尤もだ。しかし、ここで立ち止まっているわけにはいかない。トワイライトは彼女を促し、共に先に進んだ。
ようやく階段を上り切ると、そこには長い廊下が続いていた。申し訳程度につけられた窓から、仄かに月の光が入り込んでいる。淡く照らされた通路を見て、トワイライトはピンと来た。
「そうか!これが、連絡通路か」
「えっ?」
「ほら、ここに来る途中、見ただろう。病院の中央棟と、西棟を繋ぐ通路を」
それがこれだ、と手を伸ばしてカーリに示す。驚きの声を上げて彼を見上げたカーリは、ふと何かを思い出したように、唐突に抱えていたタブレットを開いた。
「あぁ~、なるほど!そう言えば、そうでした。院内の案内図には記載がなくて、不思議に思っていたんです」
見せられる画面の眩さに、若干眉を顰めつつ、確認をする。確かに、院内に設置されていた案内板には、ここの存在は記されていなかった。まるで、初めから存在などしていないかのように。
「どうして……こんな造りにしたんでしょうね?」
「さてね……人間たちの思考は、複雑怪奇だ」
連絡通路など、隠しようがないものだ。通路自体が見えてしまうのだから、隠し扉などまるで無意味だろう。何故そんな意味のないことをしたのかと、カーリは首を傾げた。
「建設当初は普通の通路だったが、その後何らかの改修工事があって、今のような形態になったのかもね」
トワイライトも分からないと言いながら、それでも一つの可能性を提示する。かなり無理矢理なこじつけだが、現段階ではそれ以上に納得のいく説明が見当たらなかった。カーリもそれ以上は言葉を見つけられずに、口を閉ざす。
「確か、私が人影を見たのは、あの検査室に近い窓だった……もしかするとその人物は、この通路を通ったのかも知れないね」
記憶の糸を手繰りつつ、考察を述べると、カーリがわずかに眉を寄せる。
「隠し通路を知っていた、ってことですか?……もしかして、爆弾魔?」
あの仕掛けを発見するのは、さほど難しいことではない。しかし、少しは考える必要があるのも確かだ。あの部屋に長くいて、作業をしていただろう爆弾魔なら、気付いていてもおかしくはない。
「かも知れないな。床の跡は、そこまで深くなかった。病院が閉鎖された後に、やってきた彼が棚を動かした可能性はある」
「じゃあやっぱり……この先には」
「あぁ……恐らくな」
カーリが、怯えの色を強くして呻く。トワイライトも、決して油断せぬよう警戒を強めながら同意した。
トワイライトにとっては、人間が製作した爆弾程度、大した脅威ではない。彼にはそこそこ強力な、魔法の力があるのだ。人間への記憶操作という後処理を考えなければ、いくらでも防ぎようはある。だが、カーリは違う。彼女の力は、ほとんどないと言ってもいいレベルだ。やや規定違反の危険をも冒して、麻酔銃を持たせてはあるが、それとて十全の信頼は置けない。彼女は引き金を引いたこともない、市民なのだ。彼女と二人だけの状況で、激しい戦闘を繰り広げることはまずもって難しいだろう。場合によっては、彼女を優先し、ミルや人間を取り逃すことも覚悟しておかねばならない。
(厄介だな……)
彼女の弱さを、責めるつもりはない。強くなってほしいとも思わない。だが、このような状況においては、若干どころではない面倒が発生することを、疎ましいとは感じる。
非常に、我が儘な考えだ。
(せめてもう一人いてくれればなぁ……分かれたのは、失策だったか?)
判断を間違えたかと訝しみながら、廊下を渡っていく。人間たちに干渉することを配慮して、使用をやめている通信魔法を、起動させてしまおうかと思案しながら。
(エンヴィスくんたち、無事だといいが……)
何か言葉には出来ない、嫌な予感が背筋を苛んでいる。
それを極力思考から追い払い、足を止めると、目の前には分厚い金属製の扉が聳えていた。カーリに軽く目配せしてから、トワイライトは手にしたままだった剣を振りかざす。先ほどのように、ドアと壁の隙間に薄い刃を差し込み、こじ開けようとした。しかし、今度はそう上手くはいかない。いくら力をかけても、扉はびくとも動かなかった。どうやら、内側から鎖か何かを巻き付けられて、硬く施錠されているらしい。
「ふぅむ……ここからは入れないな」
「えっ……じゃあ、どうするんです?」
腕を組みつつ呟くと、カーリが目を丸くして問いかけてきた。彼女の質問に、直接は答えず、彼は周囲に視線を走らせる。注ぎ込んでくる月明かりを辿ると、すぐ横にある、窓に行き着く。トワイライトのちょうど、肘から頭の辺りまである、小さな窓だ。その向こうには、西棟の外壁が聳えている。色褪せたそれには、避難用の非常階段が取り付けられている。少し距離はあるが、思い切って飛び出せば、ここからでも辿り着けそうである。そしてその先は、各階へ侵入出来る扉が並んでいる。
「こっちから行ってみるか」
「はぁっ!?」
思わず漏れた独り言に、カーリが機敏に反応した。大きな瞳をこぼれ落ちんばかりに見開いて、トワイライトを凝視してくる。
「こっちって、どっちですか!?」
「ほら、あれだよ。あの非常階段。古びてはいるが、まだ使えそうだろ?」
噛み付くような勢いで聞いてくる彼女に、非常階段を指差し淡々と答える。カーリの声音が、一段と高くなった。
「冗談ですよね!?」
「本気だとも。無理かな?」
「い、いや無理っていうか、まず、ここからどうやってあそこまで行くんですか」
当たり前だ、と頷いて、やや茶目っ気を出して微笑む。カーリはどうにか反論してくるが、動揺のあまり、しどろもどろになっていた。
「この窓を壊して、さ。そうすれば、少し飛ぶだけで行けそうだろ?」
「で、でもっ!あの階段サビッサビですよ!?仮に飛び移れたとして、壊れたら死んじゃいますって!!」
窓ガラスをコンコンと叩いて示せば、カーリはズビシ、と音が鳴るような仕草で階段を指して叫ぶ。彼女の言葉通り、建物の外壁にへばり付く階段は、薄暗い夜でもはっきり分かるほどに傷んでいる。蔦が絡み付き、赤茶けた錆が浮いたあの状態では、到底自分たち二人の体重を支え切れないだろうと彼女は訴えた。
「確かに、留め金が壊れたら、私も君も、地面まで一直線だね……でもまぁ、何とかなるだろ」
トワイライトは顎に手を当て、おもむろに考えてから、平然と答える。根拠も何もない言い分に、カーリは頬が引き攣るのが分かった。
「と、トワイライトさん……!」
あまりにも能天気な彼の態度に、何と返すべきかと思い悩む。悩んでいる内に、彼は剣を軽く振るい、窓ガラスを壊してしまった。
ガシャーン、と派手な音が鳴り、砕け散ったガラス片が、キラキラと輝きながら舞い落ちる。
「よっと」
桟に残った破片を綺麗に払い落としてから、彼は躊躇いもなく窓枠に足をかけ、階段へと飛び移った。
によくあそこまで機敏に動けるものだと、カーリは己のいる状況も忘れて感心してしまう。何か、特殊な訓練でも受けていたのだろうか。
「ほら、大丈夫だよ。カーリくんも」
そんなことを考えている彼女に、トワイライトは向き直ると、足元を数回強く踏みつけて、強度をアピールする。
「うぅ……っ」
早く来いとばかりに手を差し伸べられて、カーリは躊躇う。試しに、半分好奇心から窓に片足をかけてから、下を覗き込んで固まった。ヒュゥウ、と吹き上げてきた風が冷たく彼女の頬を撫でる。とてもではないが、自分にはこんなこと出来ない。失敗したら即死なのだ。いや、即死ではないかも知れないが、重傷を負うのは確か。無理だ。
「むっ、無理です」
「大丈夫。剣に掴まって」
助けを乞うような声を上げると、彼はこっくりと頷き、彼女の頭上を指差した。見上げると、そこには彼の使っていた剣が、ふよふよと漂っている。何度かドアをこじ開けようとしたせいで、刃が若干歪み、傷付いているが、浮遊する姿勢には変化が見られなかった。
カーリはおずおずと、腕を伸ばして銀に光るそれに触れる。両の手がしっかりと柄を握り、繊細な装飾の感覚をも感じられるようになった時だ。
「あっ!?うわっ!」
カーリの足が、床を離れた。体が宙に浮き、腕に体重がかかる。慌てて握る手に力を込め直すと、剣がわずかに動き、彼女を窓へと近付けた。
「あっ、あわ……こ、こう?」
彼女は驚き、戸惑いつつも、腹筋に力を入れて足を上げる。踵の低いパンプスを履いた足が、桟に引っかかり、窓枠を乗り越えた。
「わっ!」
半身が外に出たところで、剣は急速に動き出す。一瞬だけ降下したかと思うと、素早い動きで窓をくぐり抜け、再び空中に浮いた。そのおかげで、カーリの体は速やかに、窓だった空間をすり抜けることに成功する。剣に支えられながら、どうにか非常階段に着地することが出来た。
「は、はぁ……はぁ」
恐怖と緊張が解けて、安堵の息をつくカーリ。トワイライトは彼女から剣を回収すると、くるりと回してから得意げな目線を投げてきた。
「どうだい?無事に移動出来ただろう?」
「は、はい……凄いですね、トワイライトさんの魔法って。こんなことも出来るんですか」
「はっはっは、まぁね。実用法の一つだ」
未だドキドキする胸を抑えながらも、感心の色を隠さずにカーリが呟くと、彼はまた自慢げな顔をする。
「君が望めば、いつでも体験させてあげるよ」
「もう2度とやりたくないです……」
「ははははっ!」
冗談めかして告げられた言葉に、心の底からの遠慮を返す。トワイライトは大声で笑いながら、彼女に背を向けて階段を登り始めた。
「意外に……頑丈なんですね」
簡単には壊れそうにないと、カーリも確認して安堵する。トワイライトはその言葉を聞くと、首だけで振り向いて笑った。
「だから言ったろう?」
「お見それ致しました……!」
何故か自信満々なので、調子を合わせて褒め称えておく。再び声を上げて笑う彼の背中を追いながら、カーリも淡々と足を動かした。
蹴込みのない鉄製の階段は、一段上がる度にわずかな振動と音が発生して、カーリの神経を刺激する。やはり、まだ恐怖は完全に消えたわけではないようだ。もしもこれがいきなり崩れ落ちたら、という嫌な想像をかき消すように、そっと視線を上げてトワイライトを見遣る。こちらには構いもせぬまま、一定の速度で足を運ぶ彼は、恐怖や躊躇いからは隔絶された世界を生きているようだった。流石、と思う一方で、一体どんな人生を送っていれば、彼のようになるのかと考えてしまう。カーリが彼といた期間は、彼の生きてきた時間からすれば、まだ取るに足らない長さだ。きっとまだ、知らないことが、山ほどあるに違いない。カーリは未だ、深淵を覗き込んでもいないのだ。深淵を覗き込むことが正しいのかすら、分かっていない。
「カーリくん?」
「っ!?あっ、はい!何でしょうっ!」
唐突にトワイライトに名前を呼ばれて、カーリは焦る。どうやら、現実から意識を離して考えに耽る内に、無事屋上まで到達していたらしい。思考を切断され、驚きのままにカーリは大声を出した。その声量に、トワイライトは一瞬苦笑してから、言葉を続ける。
「ここから、屋上に入れるようだ。危険人物が待ち構えているかも知れない……銃は持っているね?」
親指で指されたのは、背の低い鉄柵だった。小さな鎖を南京錠が止めているが、こんなものトワイライトにかかれば容易に破壊出来る。ギィ、と蝶番が音を立てて、扉は開いた。
「はっ……はい」
念押しをするような彼の声に促され、カーリは急いでポシェットに仕舞ったままの麻酔銃を取り出してみせる。ちらりとグリップが覗いた時点で、トワイライトは興味をなくしたように視線を外した。
「よし。なら、行くぞ。気をつけたまえよ」
階段を登っていた時と同じように、迷いのない足取りで屋上へと踏み出していく。カーリもまた、先ほどと同じように、やや気後れしながらついていく。
西棟の屋上には、ガラス張りの、半球状のドームが設られていた。だが、やはり何年も使われていないようで、雨の跡が汚れとなって付着してしまっている。内部へと通じるドアを、トワイライトが開けると、室内に積もっていた分厚い埃がぶわりと舞い上がった。
「ごほ、ごほんっ」
カーリが顔の前で手を振って、顔を顰める。トワイライトも思わず眉根を寄せながら、やや高くなった敷居を乗り越えて、中へと入った。
外側から見た時は、プラネタリウムか何かなのかだと思っていたが、意外なことに中には何の設備もない。星座を投影する機械も、観客のための椅子も、全くなかった。
「何もありません……ただの、広い場所です」
広大な空間をじろじろと眺め回し、カーリが呟く。
「そのようだな……」
トワイライトも、興味深げに辺りを見た後、完全に同意した。やはり、人間たちというものは、悪魔には理解出来ない生物のようだ。一体何のために作られた場所なのか、皆目見当がつかない。
「人間はどこにいるんでしょう……本当に、こっちの建物に来ているんでしょうか?」
彼女の声はさほど大きくなかったが、この静かで広い空間には、十分に響く。しかして、その質問に答える者は、誰もいなかった。彼女も期待していなかったのか、勝手に話し続けようとする。
「もしかして、もう避難しましたかね?だったら、」
「シッ!カーリくん」
探さなくていいのでは、と楽観的な口調で話す彼女を、トワイライトは素早く黙らせた。
「!?」
遮られたカーリは、目を丸くして彼の背中を見つめる。こちらを片手で制したトワイライトは、しばしその姿勢で固まったまま、ある方向に視線をやっていた。
何を見ているのか気になったカーリは、首だけを伸ばしてトワイライトの目線を辿る。広大な空間のど真ん中。ちょうど月の光が届かなくなる境界の位置に、誰かがいた。
「!!」
カーリは息を飲み、驚愕する。それと同時に、暗がりに身を潜めていた人物が、ぬるりと姿を現した。
「……ご機嫌よう、素敵な殿方」
台詞じみた、可愛らしい挨拶。幼い子供の声で告げられると、尚更作り物のようだ。
「お会い出来て光栄ですわ」
可愛らしい格好をした女の子が、優雅にお辞儀をしてみせる。摘み上げられたワンピースの裾の、大量のフリルが柔らかそうに揺れる。ツインテールに結った金髪が、さらりと金細工のように流れた。
まるで、人形のように美しい少女だ。しかし、だからこそ分かる。現実味のない整った容貌、絵に描いたようなロリータファッション、そして、左右で色の違う、緑とピンクの瞳。
「ミル……!」
彼女こそが、刑事部が長年追い続けてきたという、ピンク・ジェノサイダー。妄想で出来た楽園に囚われた、悍ましい猟奇殺人犯でである。
「探し物はこちらですか?」
名前を口にしたきり、固まってしまったカーリの耳に、少女のあどけない声が届く。何やら問いかけてきたミルは、突然くるりと身を翻すと、背後にあった何かを放り投げてきた。どちゃり、と水を含んだ重たい音を響かせて、それが床に落下する。
「ひっ!!」
正体が分かった瞬間、カーリは頬を引き攣らせて悲鳴を漏らした。
長い間放置されて、埃の溜まった床に、じわじわと赤いシミが広がっていく。その中心にいるのは、恐らくかつては人間だったもの。体のあちこちを切り裂かれ、もはや人としての形を確認出来ないほどになっている。
「あ……あ……っ!」
「見るな、カーリくん」
声を失い、ただ数歩よろめくように後ずさるカーリを、トワイライトが捕まえる。ほとんど無意識に、彼の腕を掴み返したカーリは、自分でも驚くほどの強い力で彼に縋った。腹の奥から込み上げてくる、ムカムカとした気持ちを気合いだけで抑え付ける。代わりに滲んできた涙が、視界をぐにゃりと歪ませた。
「見ては駄目だ。飲まれるな。心を強く保て」
彼女を背中に庇いながら、トワイライトは冷静な言葉をかける。
「どんなに極限な状況でも、周りに飲まれたらお終いだぞ」
ミルを警戒したままの状態で、どれだけ効くか分からない。けれど、必死になって腕を掴む力が、少し和らいだ気がした。
「生き残りたくば、己を保つんだ。それが出来ないというのなら、私を信じろ。出来るね?」
一瞬、わずかにだけ振り向いて彼女の顔色を確認する。カーリは未だ、トワイライトにしがみついたまま、口元を押さえていたけれど、それでも気丈にコクコクと首を振った。
「よし。ならば、少し下がっていてくれたまえ。上司として、君のことは絶対に守り抜いてみせるからね」
何度も頷いてくれる彼女に、トワイライトも意識して作った自信のある声を聞かせる。言いながら、内心格好つけ過ぎたと苦笑してしまった。しかし今くらいは構わないだろう。少しくらい、彼女を勇気づけるためには必要だ。そう自分に言い聞かせながら、トワイライトはミルに向き直った。
「いやいや、申し訳ない。何分、彼女はこういう場が初めてでしてねぇ。少々取り乱してしまったようです。さて……何から始めましょうか」
いつもの、と言って差し支えない、使い慣れた笑顔の仮面を装着する。決して本心を見せぬための、一部の隙もない武装。両手を広げてミルに問いかけると、彼女もまた、似たような表情で小首を傾げてみせた。
「そうね……正直なところ、ワタクシも悩んでいるところよ。ワタクシの楽園は、確かに最高だけれど、他人が簡単に立ち入れる場所じゃないの。だからお客人は久しぶりよ。盛大に歓迎しなきゃね」
「ははは、その必要はありませんよ。我々はすぐに、帰るつもりですから……あなたを捕まえてね」
人差し指を頬に当て、わざとらしく考え込む彼女に、心配は無用だと微笑みかける。そして、鋭く切り込んだ。
「あら?」
ミルは若干驚いたかのように、形のいい眉を片方持ち上げる。演技とも、素の動きとも取れる、曖昧な動作だ。
「それは光栄ですわ。ワタクシと遊んでくださるというのね?」
「単刀直入に申し上げましょう」
両手を合わせて、名案を賞賛するような彼女の言葉を、トワイライトははっきりと遮った。
「我々は魔界府警察部門、単独脱界者対策室です。桃色の殺戮者こと、ミル嬢。あなたを逮捕しに参りました」
低くもなく、高くもない、ごく普通の声色で淡々と告げる。まるで、決定した事項をただ連絡するかのように。冷静極まりない態度で宣言する。
彼の言葉を聞いたミルは、その美しい顔を、一瞬にして憎悪と憤怒に塗り替えて言った。
「……無礼な方」
すっと伸びた腕が、ワンピースのポケットから何かを取り出す。細く長い刃を持った、銀色のハサミ。美容ハサミと呼ばれる、髪を切るためのそれ。鋭く研がれた刃にはべっとりと人間の体液がこびりつき、まだ固まりきっていない血液がポタポタと滴り落ちていた。
「ワタクシを誰だと思っているの?そこの人間を見なさい」
赤い血を点々と撒き散らしながら、ミルがハサミを振り回す。刃の切っ先が示したのは、ドアが開けられたままのバンだ。中にこもった死体の腐臭が、トワイライトの鼻にまで流れてくる。顔を顰めぬよう気を配りながら、再びミルを見据えた。
「この人たち、中々遊びがいのある人間だったのよ?簡単に壊れてしまわなくって、勇ましくって……理想の王子様とは程遠いけど、確かに楽しかった」
ミルはまるで歌うように、くるくるとステップを踏みながら話し続けている。金糸のような細い髪の毛が、動きに合わせてさらりと揺れた。
「でもね、結局人間なんて儚いものなの。理想は所詮、理想なのよね。胡蝶の夢に過ぎないのかしら。じっくり、たっっぷり、ゆっっっくりいたぶってる内に、皆壊れてしまう……呆気ないものよ、本当に」
天井に向かって手を差し伸べ、ミルは嘆く。『壊れた』ではなく『壊した』であるはずなのだが、彼女がそれに気がつくことは、決してないようだった。
「あなたたちはどう?そんな人間と、大して変わらないでしょう?脆弱で愚鈍で、頭の悪い生き物じゃない。それでどうやって、このワタクシを捕まえると言うの?」
くるくると、指に引っかけたハサミを弄び、ミルは肩にかかった金髪を払う。その仕草は、まるで良識ある大人のようで、カーリは困惑した。狂気とて、一周回れば正気になるのだろうか。そんなことが、有り得るのか。
「もちろんです。それが我々の仕事ですから」
だが、トワイライトはあくまで冷静なまま、彼女に微笑み淡々と答える。
「……そう。そんなにワタクシに殺されたいのね」
ミルの声が、一オクターブ低くなった。端正な白い顔が、落胆とも怒りとも知れない淀んだ感情に黒く歪む。
「……なら、お望み通り、殺してあげるわっ!!」
唐突に、彼女がこちらへ向かって駆け出してきた。美しい金髪が風に靡き、手に握られたハサミが月光を反射して輝く。老朽化してひび割れた床は、彼女が強い力で踏み込む度に、小さなタイル片を飛ばした。
「最高の死に顔を見せてっ!!」
叫びながら近付いてくる彼女は、凶悪な笑顔を浮かべながら、禍々しいオーラを放っている。
「カーリくんっ!」
「えっ!?」
名前を呼ばれたかと思うと、肩を強く突き飛ばされて、カーリは硬い床に転がった。背後から、ギャン、と金属同士がぶつかり合うような、けたたましい音が聞こえてきた。トワイライトが、魔法で作り出した剣を構え、ミルの攻撃を受け止めている。
「ぐっ……!」
だが、あろうことか、力負けしているのは彼の方だった。ミルの圧倒的な腕力に押され、足が徐々に後ろへと滑っていく。トワイライトは、食いしばった歯の間から、耐えるような呻きを漏らした。
「なっ……何で!?」
目を疑うような光景に、カーリは思わず驚愕の声を漏らす。両者の力が競り合うなど、あり得ないことのはずだ。トワイライトは大人の男、対してミルは子供であり、互いの得物も、剣とハサミである。どう足掻いても、ミルに勝ち目はない。それなのに、むしろ彼女の方が押しているのだ。もしも魔法という力の存在を知らなければ、到底受け入れられなかっただろう。知識を持っていても尚、瞠目してしまうくらいなのだから。
「ふぅん……なるほど」
ギリギリと鍔迫り合いを繰り広げながら、ミルは可笑しそうに口の端を吊り上げる。
「黒いあなたは、手間がかかりそうね。ワタクシとしては、そっちのか弱そうなお嬢さんから、切り刻みたいのだけど、駄目かしら?」
余裕の態度で、あからさまな挑発。トワイライトの激昂を誘っているのだろう。だが、交渉という名の腹の探り合いに長けた彼に、そんな手は通じない。
「あいにくですが、あなたの相手は私が務めさせていただきますよ、ミル嬢」
貼り付けた笑みと共に断られ、ミルの方が柳眉を逆立てた。
「……その呼び方、やめてくれる?不愉快だわッ!」
「っ!?」
ハサミが勢いよく振られ、トワイライトの剣は弾かれる。それどころか、あまりに強い力に、身体ごと吹き飛ばされた。
ガシャン、と派手な音を立てて、背後の壁に激突する。一応金属製の骨組みで補強されているとはいえ、ガラスのそれは呆気なく割れて、彼はドームの外へと放り出された。
「トワイライトさん!!」
ガラスを突き破るほどの力を受けたのだ。もしも人間だったら、全身の骨を折るなどの酷い怪我をしていることだろう。もしかしたら、屋上から落ちているかも知れないと、カーリは全身を総毛立たせる。彼は無事なのだろうかと、声を震わせて名前を呼べば、背後に小さな影が立った。
「まずは、あなたからね」
「えッ!?」
静かに告げられた言葉に、驚きを表している時間もない。鋭く振り下ろされた刃が、カーリの首筋を切り裂こうとした。
「!わっ、と」
突然、どこからか飛んできた金属製の塊が、カーリを狙っていた凶器を弾き飛ばす。ハサミを横から強く叩かれて、ミルが頓狂な声を上げていた。
「驚いたわ……あなた、まだ生きていたのね」
彼女の視線が向く先には、美しく輝く銀色の剣が、誰の手に触れることもなく、自動で浮遊していた。
「ダンスの相手を途中で変えるのは、失礼にあたりますよ、ミル嬢」
スーツから細かいガラス片を落としながら、トワイライトが平然と立ち上がる。先ほど不愉快とまで言われた呼び方を続けて、もったいつけた口ぶりで語る様は、間違いなくいつものトワイライトだ。
「トワイライトさん!」
彼が無事だったことと、また助けてもらったことが、二つ同時に込み上げてカーリの声を高くする。トワイライトは彼女の方を見遣ると、下がっていろと手で指示した。
「ここは楽園で、あなたは姫君なのでしょう?」
彼女の妄想など、まるで信じていないことが分かる口調で尋ねかける。ミルは挑発に気付くことなく、同じような反応で答えた。
「えぇ、そうね。でも、今宵だけは社交はなしにするわ。ワタクシたちの関係は、もっとシンプルなものがいいもの」
「かしこまりました……では、直截にいきましょうか」
伝わらなかったようだと、トワイライトは肩を竦め半ば呆れた表情をする。流石にこれにはミルも怒ったのか、端正な顔立ちを勝ち気に張り詰めさせた。
「始めるとしましょう……」
「「殺し合いを」」
二人の言葉が重なった瞬間、ミルの姿がかき消えた。カーリが目を疑う間も無く、再び甲高い金属音が辺りに響き渡る。先ほどは一回だけだったそれは、今度は何度も繰り返し、連続して鳴った。
「宙に浮く剣……厄介な魔法ね。自分の力じゃどうにもならないところまで、カバー出来てしまうなんて」
空中を飛び回る剣に、何度もハサミを打ち付けながらミルがこぼす。最初の時のように、分かりやすいダメージを与えられないことが、焦ったいのだろう。しかし彼女は言いながらも、凄まじいスピードで腕を動かし、凶器を振り回していた。
「魔法とは本来、そういうものでしょう?理を超えて、欲望を叶える力……まさに、悪魔のための力だ」
繰り出される連撃を、トワイライトは全て正確に見切り、剣を操って防いでいた。自らの腕で持たなくていい分、剣は肉体の限界を超えて、俊敏に器用に動き回る。それによって、ミルの高い身体能力にも、対応することが出来ていた。
「その通りだわ。でも、あなたがいくら頑張ったところで無駄よ。こんなちゃちな剣一本では、ワタクシを止められないっ!」
ミルが一際強い突きを放ってくる。受け止めては駄目だ。直感したトワイライトは、即座に操作を切り替え、向けられた力を受け流すようにする。ギャリギャリと金属同士が擦れる音がして、小さく火花が散った。
「っと……」
上手く流せたと言えども、流石に全てのエネルギーを無効化するには至らない。トワイライトは体がわずかに押されるような感覚を受け、咄嗟に後方に軽く跳躍してバランスを保った。
「ちぃっ!」
今の一撃で仕留めるつもりだったのだろう。思惑の外れたミルが、形相を歪めて舌打ちをしている。その様子を観察していれば、自然と見えてくるものがある。
(彼女は、戦闘慣れしていない……)
基本的に、戦いとは交渉だ。そう、トワイライトは思っている。いかに自分の実力を隠しながら、相手の強さを測るか、そこに戦闘における全てが詰まっていると。
どのような魔法を使うか、どのような武器を使うか、そしてどの程度の威力を出せるのか。その他様々な情報を、効率的に集め総合的に考えることが、勝利への秘訣だ。自分では勝てないと判断した場合は、可及的速やかに逃げなければならない。トワイライトはそういった、交渉や駆け引きに長けている自負があった。言葉による探り合いだけではなく、戦いにおける情報戦も。
しかしミルは、反対に全く駆け引きの出来ない性格であることが分かってくる。今も、トワイライトの魔法を看破したと思い込み、彼の全部を把握した気でいる。これ以上の手札はないと、信じて疑わないようだ。
(こちらの情報を探ってこないのはありがたいが……さて、どうするか)
このままでは膠着状態に陥ってしまうと、トワイライトは内心で臍を噛む。ミルがこちらを知り尽くした気でいるのは、油断を誘いやすくて好都合だ。しかし、トワイライトはまだ彼女の情報を十分に引き出せていない。彼女の真の力を暴くには、様々な角度から切り込む必要がある。だがそんなことをすれば、彼にはまだ手があったのだと、ミルに気付かせてしまうことになるだろう。どうにかして、思い込みを解かぬまま、情報を探り出さなければならない。
(警戒されると面倒だ……そのまま、何も知らないでいてくれるといいんだが……)
まず間違いなく、不可能というものだろう。全くもって、無理難題だ。トワイライトが悩んでいる間に、再びミルの怒号が響く。
「しぶといわね、さっさと死になさいよっ!!」
平行した戦局に苛立ちが増したのか、彼女の顔は鬼のような形相に変わっていた。もはや最初の、可愛らしい人形めいたかんばせはどこにもない。怒り狂った殺人者の顔で、トワイライトめがけて切り込んでくる。細い足で力強く跳躍し、一瞬にしてトワイライトの眼前に移動する。超速の接近を、回避する術などない。トワイライトはそのまま、彼女の体重が乗った重い一撃を、剣で受け止めた。
「っ……!」
両腕に伝わる、超人的な怪力。場合によっては、レディをも凌駕するだろうそれ。押し切られぬよう、防ぐので精一杯だ。だが、ミルの方は、未だ余裕綽々といった態度。
「甘いわねっ!」
「ぐっ!」
鋭い蹴りが脇腹に食い込み、たまらず片膝をついた。ズキズキと沁みてくるような痛みが、肋骨を中心に走る。こういった時に、浮遊する剣の魔法は便利だ。術者が戦えぬ状態にあっても、魔力さえ尽きていなければ、いくらでも身を守れる。とはいえ。
(まずいな……このままだと、じわじわ体力を削られる……)
魔力はまだ残っているとはいえ、肉体を痛めつけられることをよしとするはずがない。しかし、かといって今のトワイライトでは、彼女に対する有効な策が捻り出せないのも事実だ。
(どうするか……)
「トワイライトさん……」
真剣な面持ちで熟考する彼の名を、カーリは小さな声で呼ぶ。壁際に身を寄せ、ひっそりと息を殺しながら、じっと戦況を窺った。
(何とか助けたいけど……私の力じゃ)
力になりたいと、強く願い、そしてそれを否定する。
戦う力を持たない彼女だ。たとえ前に出たところで、盾としての役割も果たせぬに違いない。無論、トワイライトが許すはずもないため、ただ彼の負担になって終わるだけだろう。彼女にとっての最善は、ここで息を殺していることなのだ。
(私じゃ、足手まといになるだけ……でも、何も出来ないのは、やっぱり辛い)
この辛さは、弱者として受け入れるべきもの。分かっていても、心のどこかで認められない自分がいる。だから、先ほどからトワイライトにもらった銃で、ミルを狙っているのだが、中々引き金を引くことが出来ない。
トワイライトとミルは、剣とハサミで切り合っている。両者の距離が、自然と近くなっているのだ。そこへ、自動で軌道が修正される銃を撃った場合、弾はどちらに当たるのだろうか。引き金を引いた者が、意図した方に命中するのか?カーリには分からない。だから、何も出来ないのだ。万が一、間違ってトワイライトに当てたら、お終いだ。
ハラハラと心臓を跳ねさせるカーリのことを、トワイライトも頭の片隅で考える。彼女のためにも、ここは手札など気にせず、攻勢に打って出るべきだろうか。しかし、ミルがまだ何かを隠しているという可能性も考えられる。不用意な行動をして、カーリまで巻き込んでしまったら、取り返しがつかない。せめて、もう一人戦える者がいてくれたら。この場にいない部下のことを思いつつ、軽く後退して、体勢を整える。剣を体のすぐ横に浮かべ、ミルからどんな攻撃が来ても即座に対応出来るように身構える。その時だった。
カラン、コロンと硬い床に硬い何かがぶつかって転がる音がする。トワイライトのもとまで、コロコロと転がってきたそれは、小さな金属製の球体だった。表面についた小さなボタンは既に押されていて、赤いランプが点滅している。チカチカと、眩い光が継続して灯った瞬間、トワイライトの全身を凄まじい衝撃が襲った。
「うっ!ぐっ……!!」
足が床を離れ、体が宙を舞う。頬に熱風が吹きつけたかと思うと、背中を強く何かにぶつけた。ドームの壁に衝突したのだと気付く頃には、彼は冷たい床の上に倒れ伏していた。
「がっは……げほっ!ごほごほっ」
「トワイライトさんっ!!」
カーリの悲鳴じみた声が聞こえる。不安と恐怖で、今にも泣き出しそうな声色だ。心配しなくていいと、話しかけてやりたくなる。しかし、爆煙で満たされた彼の肺では、言葉を発することはおろか、まともに呼吸することもままならない。
「人間たちもいいものを作るわよね。これ、かなり効くでしょう?ワタクシ、感激しちゃったわ」
床に蹲ったまま、激しく咳き込むトワイライトのそばに、ミルがカツカツと歩み寄ってくる。そして、手の中に握った丸い爆弾を弄んだ。
「だから、これを作ってくれた人間のことは、ちゃんと殺してあげたわよ?今までみたいな、遊んでる内に壊しちゃうんじゃなくて、初めから絶対に、殺してあげるって、決めてたの。なんていうか、そうね……感謝の気持ち?って言うのかしら。あなたにもあるでしょ?そういうこと」
「えぇ……あるんでしょうね。分かりませんが。ゲホッ」
まるで自分に陶酔するように、両手を組んで歌い上げる彼女。そのあまりに異常な行動に、かえってトワイライトは正気を呼び起こされた。未だ鈍く軋む関節に鞭を打ち、うつ伏せに倒れた体をゆっくりと起こす。爆音で傷んだ鼓膜が、キーンと音を立てた。
「大丈夫だよ、カーリくん……私はまだ、死なないさ」
軽く頭を振ってそれを追いやりながら、背後にいるカーリに呼びかける。そして、スーツについた砂埃を払い、おもむろに呟いた。
「まだ、ね……」
自分自身に、そしてミルに、言い聞かせるように。
「あなた、本当にしぶといのね。ここまでくると、もはや感心するわ」
ミルが、猫撫で声のようなわざとらしい声音で彼を称える。明らかに挑発を意図して放たれた言葉だったが、彼はまるで本当に賞賛されたかのように、ふっと息を吐いて微笑んだ。
「見くびらないでいただきたいものですねぇ」
指ではなく、魔法の剣を動かして、ミルに切っ先を突きつける。侮るなと、不敵に嘲笑うかの如く。
「私は……いや、サラリーマンというものは、得てしてしぶとさだけで生きているようなものなんですよ。だから……油断してかかると、痛い目を見る」
「……そう言うと思ったわ」
窮地に立たされて尚、屈服することなく笑い続けるトワイライト。彼の反応を見たミルは、呆れた表情で肩を竦めた。まるで、映画の結末が、自身の予想を全く超えてこなかった時のような。最後の慈悲まで捨て去った心で、冷淡に告げる。
「……だったら、これでお終いにしてあげる」
そして、軽く指を曲げた片手を、天井に向かって高く伸ばした。
「ワタクシにだって、魔法は使えるのよ、殿方!」
高い声で宣言した直後、トワイライトの頭上に、幾つもの眩い光源が発生する。赤く明るく光り輝くそれは、炎だ。宙に浮かぶ、無数の火の玉。トワイライトの頭ほどもあるそれが、今にも彼に襲い掛からんと、燃え盛る。
「あぁっ……!」
「人間たちは、本当に素晴らしい生き物だわ!ワタクシを楽しませるだけでなく、こんな贈り物までくれる!爆炎という、美しい花をね!」
トワイライトの命が危ない。反射的に悲鳴を上げるカーリの耳に、ミルの恍惚とした叫び声が届く。
「これはプレゼントよ。謝礼のチップとも言えるかしら?あなたとのダンスは、中々楽しめたもの」
金髪を指に絡ませながら語る彼女の頬は、灼熱の炎に赤く温められている。それは、まるで小さな太陽だ。いつ落ちてくるかも知れない、災厄。
「なるほど……受け取らないのは、無礼にあたりますな」
囂々と音を立てて火の粉を爆ぜさせるそれを、トワイライトは冷静に見据える。呟くようにこぼされた声に、ミルは完璧な笑顔で頷いた。
「その通りですわ。きちんと、受け取ってくださいね。確実に……殺してあげますから」
閉じられた瞼の奥の瞳は、きっと笑っていないのだろう。炎がトワイライトの身を焼き、命を食い尽くす最後の瞬間まで、一瞬たりとも見逃さずに、目撃しようとしているに違いない。
(やはり、ダメか……)
逃げ場はない。トワイライトは悟った。生き延びるためには、決断するしかない。
「さようなら……永遠にね」
凶悪な笑みを讃えた彼女が、小さく手を振る。親しい友に別れを告げるような仕草は、しかしトワイライトに向けたものではない。トワイライトを屠るため、生み出した炎を操るための動作だ。
「!!何っ!?」
カーリは反射的に、瞼にぎゅっと力を入れて目を瞑った。その時だ。
ゴゴゴゴ……と、どこからか地鳴りのような、轟音が聞こえてくる。それと同時に、発生した強い振動に、カーリは足を取られて転倒した。
「わぁっ!!」
「カーリく、っ!?」
悲鳴を上げる彼女に、咄嗟に駆け寄ろうとして、トワイライトも立ち止まる。倒れそうなところを力づくで踏み留まり、目を下に向けて、瞠目した。
何色かの色の違うタイルの貼られた床。古びて埃の積もったそれが、ピシピシと音を立ててひび割れてきている。長い年月の間に、老朽化していた建物が、トワイライトとミルの戦いで決定的に壊れたらしい。ミシリ、と一際大きな音が響いたかと思うと、彼の体は数センチ沈んだ。
「まずい」
亀裂が周囲の床を取り囲み、半径数メートルの円を作り始めている。そこから逃れる暇もなく、深く口を開けた大穴に、トワイライトは飲み込まれた。
「うぅっ!!」
もうもうと巻き上がった砂塵に負け、カーリは両腕で顔を覆って身を縮こめる。ビキリ、と靴で踏んだ床が、亀裂を走らせるのを感じた。
「あっ、わっ、わ!」
視界の効かない中で、どうにか安全な場所を求めて手探りで進む。床の下の空間から、何かが崩れ落ちるような、轟音が響いてきた。
「げほっ、けほ、こほっ……な、何……?」
ようやく音と振動が収まった頃、カーリはおずおずと首をもたげて辺りの様子を見る。身を守るため、芋虫のようにうずくまっていた体を起こすと、服の上に山積した砂や塵が流れ落ちた。
「こほこほっ、と、トワイライトさん……?」
口に入った細かい砂を、咳として吐き出しながら、声を絞り出す。状況が、全く理解出来ない。何が起きたのかと、困惑しながらトワイライトの名を呼ぶ。かき上げた髪から、またもや砂がこぼれ落ちた。
「何……これ……!」
直後、彼女は目の前に空いた巨大な穴を見て、言葉を失う。直感的に、床が抜けて、トワイライトたちもそれに巻き込まれたのだと分かった。
「トワイライトさーんっ!!」
未だパラパラと破片をこぼす縁にしがみついて、下を覗き込む。しかし、電気が通っていない建物の中を、鮮明に見下ろすことなど出来ない。そこには真っ黒い暗闇だけが、ぽっかりと口を開けているだけだった。
「急がないと……!」
トワイライトが危ない。
かろうじて視認出来た範囲だけでも、穴はかなりの深さがあるようだった。どうやら、抜けた床は相当な重量があったようだ。六階の床も突き破り、五階の天井まで破壊して、数階分を貫いている。
それらの残骸と共に落下したとしたら、たとえトワイライトでも無事では済まない可能性があるだろう。ましてや、彼は凶悪殺人鬼とミルと一緒なのだ。助けに行かなければ、命が危ないかも知れない。
カーリは、慌てて駆け出す。だが、数歩も行かずに足が止まった。
(私が行って……何になるの?)
戦うどころか、身を守る術すら持たない彼女が、何の助けになるというのだろう。彼女にミルを制圧する力はない。トワイライトが瓦礫に挟まれていたとしても、それをどかす力もない。
(私はただの邪魔者。助けになんてならない。むしろトワイライトさんの苦労を無にしてしてしまうかも……)
彼らが無事で、まだ戦闘を続けていた場合、カーリがそこに飛び込むことは、むしろ負担にしかならない。弱者を庇うという余計な一手を、トワイライトに使わせてしまうことになる。まさに、ミルが嫌う、邪魔者そのものだ。
もちろん、彼がそのことを表立って告げることはない。彼は紳士だ。カーリを傷付けるようなことは、決して口にしないに違いない。けれども、彼女を笑顔で受け入れる、その表情の奥で、一体何を考えているのか。察することの出来ないカーリではない。本心を語らない彼相手だからこそ、こちらからの配慮が必要なのに。
(やっぱり、魔法が使えなきゃ……私じゃ何の役にも……)
膝をつき、がっくりと項垂れる。しばし沈黙した彼女のポケットから、スマートフォンが通知を鳴らした。
「ひっ!」
突然響いた音と、体に伝わる振動に、かすかな悲鳴を漏らす。慌てて取り落としかけながらも、どうにか画面を開いた。
『なんか凄い音したけど、大丈夫?カーリ今どこにいるの~?』
メッセージアプリに表示される、気の抜けたメッセージ。カーリはそれを見て、ほっと息をつく。仕事中にプライベート用の連絡先にメッセージを送ってくる、彼女の呑気さに張り詰めていた緊張がやや和らいだ。
『私は無事だよ。西棟に来てくれる?トワイライトさんが危ない』
質問に端的に答えながら、こちらも連絡事項を伝えて、送信ボタンを押す。既読マークがすぐについて、即座に返信が来た。
『了解!アタシに任せて!カーリにはエンちゃん任せた!』
「……?」
可愛らしいスタンプで伝えられた返事と共に、送られてきた言葉に首を傾げる。エンヴィスを任せる、とは一体どういうことだろうか。レディの文章は非常に稚拙過ぎて、何を言いたいのかが今一つ理解出来ない。
とりあえず、彼女がこちらに向かってくれるというのであれば、安心だ。戦えないカーリより、驚異的な身体能力を持つ彼女の方が、よほど頼りになるだろう。トワイライトの足手まといになる可能性も、低いに違いない。
(そうだ、私には、レディちゃんたちがいる……皆と一緒なら、私にも何か出来るかも知れない!)
立ち上がって、出口を目指す。
弱い彼女一人では、出来ることには限りがある。だが、だったら、力を合わせればいいのだ。彼女を支え、助けてくれる者たちと、協力すれば良い。例えば。
(誰かが注意を引いている間に……私がこれを)
ポシェットの中の、硬い金属の感触を掌で撫でる。撫でながら、ドームを出て下に降りる階段を探した。電源の止まっているエスカレーターを、足元に気を配りつつ駆け降りる。6階の、最も近い扉を勢いよく押し開けると、蝶番の壊れていたドアはそのままバタンと倒れた。埃と共に、細かい砂やコンクリート片が飛び散るのが、暗い中でも分かった。懐中電灯の光を向けると、黒く深い穴が、数メートル先にぽっかり口を空けているのが見える。やはり、更に下の階まで続いているようだ。
「トワイライトさん……!」
こんな事態に巻き込まれて、彼は本当に無事なのだろうかと、カーリは焦る。だが、タブレットのバイタル表示は健康そのものだし、生きていることは確実だ。
「早く行かなきゃ!」
不安で速まる鼓動を抑えながら、カーリはもう一階分階段を駆け降りる。次も一番近くのドアを開けて、トワイライトがいるか確かめようとしたのだが。
「っ!?」
ふと、すぐ横の窓に、黒い影が映る。ちょうど、カーリの頭を吹き飛ばせそうな位置に。何かを起点にして振った体を、勢いよくぶつけてくる。
「わぁあっ!!」
ガラスが砕け散る音。飛び散る破片と強襲から身を守ろうと、彼女は身を丸めてしゃがみ込んだ。その近くに、どっと重量のある塊が落下する。そして、呻いた。
「痛ぇ~……くっそぉ、あいつ、どこ行きやがった!?」
「え、エンヴィスさん!?」
聞き慣れた怒声が耳に届くなり、カーリは目を見開いて声を張る。飛び起きて顔を上げると、そこには予想通り、エンヴィスが転がっていた。スーツについた埃やガラス片を払いながら、溜め息をついて起き上がる。それから、彼女の姿を認め、何とも気軽な仕草で片手を上げた。
「ん?あぁ……よう、カーリ」
「いや、ようじゃないですよ、エンヴィスさん!」
レディに負けず劣らずな呑気さを見せる彼に、カーリは思わず食い気味なツッコミを入れた。
「どっ、どうやってここまで来たんです!?」
動揺のあまり、声を震わせながら叫ぶと、彼はきょとんとした表情で答える。
「え?外からよじ登ってさ」
再び、カーリの悲鳴が轟いた。
「外って……ここ、五階ですよ!?」
「大変だったぜ~。体は痛ぇし、風は強いしな。あぁ~疲れた……」
なんてことを、とまるで非難するように叫ばれても、エンヴィスは顔色一つ変えない。むしろわざとらしく肩を回して、気怠そうな仕草を見せた。
こちらの言いたいことを全く理解しない彼を、カーリは呆れの含まれた湿度の高い目で見つめる。だが、エンヴィスはそれすら気に留めることなく、首に手を当てたまま、振り向いて問うた。
「そうだ、お前、レディ知らないか?」
「レディちゃんですか?」
唐突な問いかけに、カーリも小首を傾げて応じる。先ほどのメッセージのやり取りを彼に説明しようと口を開くが、エンヴィスがそれよりに先に、勝手に話を始めてしまった。
「さっき、こっちに向かうのが見えたんだよ。だから追ってたんだが……あいつ、一体どれだけ俺のこと振り回すつもりだ?俺を犠牲にして爆発から逃げやがって……今度という今度は許さねぇぞ!」
「ば、爆発!?」
流れるように捲し立て、両の拳を打ち合わせる彼。何の話をしているのだかさっぱり分からないが、一つ聞き捨てならない単語が入っていたことを、カーリは耳聡く聞き咎める。またもや目を丸くして、噛み付くように繰り返してくる彼女を、エンヴィスはまるで面倒そうに手で振り払った。
「あぁ、まぁな……そんなことはいいんだよ。それより、レディは」
「し、下の階だと思います!」
再び話を振られて、カーリは急いで返事をする。エンヴィスの言葉を、じっくり聞いている暇はないと思い出したからだ。
「私、レディちゃんに西棟に向かってってメッセージを……トワイライトさんがピンチなんです!」
「何?トワイライトさんが?」
話す順序も組み立てぬまま、衝動に任せて話すカーリの言葉から、エンヴィスは巧みに重要情報を聞き取って眉を顰めた。
「はいっ!私たち、西棟の屋上でミルを見つけたんです。それで、戦いになって、爆発が起きて、床が抜けて、トワイライトさんが……」
言いたいことを汲み取ってもらえたがために、カーリは更に速度を上げて話す。伝えたいという気持ちだけが先走った、全く要領を得ない説明だったが、それでもエンヴィスは根気強く耳を傾けてくれた。カーリはそのおかげで、わたわたと手を蠢かし、時々声を詰まらせながら、どうにか最後まで話し切ることが出来た。
「……あの人、手札を出し渋ってんのか?何のために?」
聞き終わったエンヴィスは、片眉をヒョイと持ち上げて、頓狂な声を出す。
「えっ?手札?どういう意味ですか?」
低く呟かれた言葉を、カーリは聞き咎め質問するが、彼は答えない。
「何でもない。とにかく行くぞ。トワイライトさんは、俺たちの助けを待ってる……多分」
「は、はいっ!」
やはり、気が付いてはいたが、第三者の口から言われると余計に気が引き締まるというものだ。カーリは使命感をより一層強くして、ハキハキと返事した。そして、早足で歩いていくエンヴィスの背を、慌てて追う。
「あ、ちょっと!待ってください!」
「早くしろー。で……どっちだ?」
小走りで駆けてきたカーリが追いつくなり、エンヴィスは人差し指で何かを指してみせた。彼の先には、そのまま直進する通路と、左に曲がる通路が二本伸びている。
「えっと……多分、左です」
カーリはタブレットを確認しながら、道案内に努めた。といっても、彼女も院内の構造を完璧に把握しているわけではないのだが。
「確か、下へ続く階段があったはずです」
「階段……あれか?」
やや前に出たエンヴィスが、電源の入っていない階段の案内マークを見つけて聞く。カーリが頷くのを見た彼は、早足でその先に進み、立ち止まった。
「行き止まりじゃねぇか」
「えっ……そんなはずは」
ツッコミのように放たれた言葉に、カーリは戸惑う。慌てて彼の隣に行って視線を向けると、そこには確かに道はなかった。コンクリートや木の残骸が、一部の隙もなく積もっているだけだ。
「えっ!?」
大量の瓦礫が、一体どこからやってきたのか、カーリには分からない。そんなことより、道がないという事実だけが、彼女を追い詰め、絶句させた。脳みそに、何か硬いものでガツンと殴られたような、衝撃が走る。
(どうしよう、これじゃ進めない……!)
まさか、こんなところで足止めを食らうとは思っていなかった。あまりに想定の範疇を超えた状況。カーリは完全にパニックだった。焦りが膨れ上がるままに、ふらふらと足を踏み出し、瓦礫の山に近付こうとした。
「おい、危ないぞ」
途端に、エンヴィスに腕を強く掴まれて止められる。
「道が必要なんだろ?ちょいとどいてな」
「……?」
彼が何をするつもりなのか、カーリは即座に察知出来ず、眉を寄せ首を傾げた。彼女の代わりに前に出たエンヴィスは、スーツの内ポケットに手を伸ばし、長い錫杖を取り出す。彼より背の高い物体が、ポケットから出てくる様は、いつ見ても異様だ。魔法の力の深淵に、触れている気になる。
「こんな邪魔なもん、ぶっ壊せば早い。だろ?」
彼は平然として、杖を構えたまま、カーリに振り返って問いかけてきた。不敵な笑みを浮かべる横顔が、明るいオレンジの光で照らされたかと思うと、カーリの全身に強い風が吹き付ける。
「うっ……!?」
転んでしまいそうなほどの勢いに、思わず呻き声が出た。長い髪が吹き飛ばされ、後方でバタバタとはためいているのを感じる。
「よし……こんなもんか?」
何が起きたのかと、独り言をこぼすエンヴィスの方を見遣る。そして、カーリは瞠目した。
「えぇえっ!?炎っ!?」
彼女が目撃しているものを、それ以上に如実に表せる単語など、存在しないだろう。
カーリの目の前には、まるで灼熱の太陽の如き巨大な熱量の塊が、球体を作って浮かんでいた。これこそまさに、『炎』と形容すべき光景。先ほどミルが生み出したものとは、比べ物にならない規模だ。メラメラと燃え盛る外炎はまるで爬虫類の舌のようで、酸素という獲物を器用に絡め取っては食していく。周囲に漂う空気は、炎の熱に温められ、気流を作ってカーリの肌に吹き付けた。
「おいおい……何驚いてんだよ。今更だろ?お前だって、何回か見てるだろうが」
瞳に炎の色が映るほど、目を見開いて言葉を失う彼女を、エンヴィスは呆れたように一瞥し、話しかけてくる。その動きで、かすかな風が発生し、またもや炎が揺らいだ。しかし、それは決して弱まることも、衰えることもない。絶えず形を変えて燃え続ける力を、カーリは美しいと思った。
「何て……言うんでしたっけ、この魔法」
乾燥してきて、ひりつく喉から無理矢理声を出す。掠れたような、小さな音量で問いかけられたエンヴィスは、一瞬訝るように目を細めた。
「あ?名前?あぁ……系統のことか?」
カーリが首を振るのを見ると、彼はにんまりと笑い、錫杖をカツンと床に叩きつけてみせる。見栄っ張りなところのある彼にとって、格好をつける最高のチャンスだと思ったのかも知れない。
「属性系魔法、炎属性の魔法だよ」
しゃらん、と大輪に付けられた遊環が、涼やかな音色を奏でる。エンヴィスの心に呼応して、背後の炎がボゥッと音を立てた。
属性系魔法。比較的習得期間が短いことと、消費した魔力の割に優れた効果を発揮する、コストパフォーマンスの高さから、数十ある魔法の系統の内、最も有名な魔法と言われている。属性系魔法の習得者の中には、炎、雷、氷、草、土、水、風の七つの属性を、全てバランスよく使いこなす者もいれば、どれか一つの属性に特化して強化を重ねる者もいる。エンヴィスの場合は、その後者の内、炎属性を選択した炎使いに当てはまる。
特にエンヴィスの炎は、触れたものを瞬時に焼き尽くし、灰にするほどの高火力を誇る。とてつもなく恐ろしく、身の毛が凍るような力だ。しかし一方で、肌を撫でる風は温もりがあって、生命の息吹を感じさせる。流動的に蠢く体は、まるで生物が呼吸しているかのようだ。恐ろしくも美しい、力強い。獰猛な肉食獣のようなその力は、どこかエンヴィスを思わせる。荒っぽく、怖がられることもあるが、内面は常に燃えるように熱い、彼のことを。
「凄い……いつ見ても、凄いです」
「へへっ、だろ?ま、こんなん初歩中の初歩だけどな~」
胸を打たれた様子を隠しもせず、カーリが感動を告げると、彼はやや照れたように笑って、謙遜するようなことを言う。そして、身を翻すと再び己の炎に向き直った。
「でも、威力は中々。何より……操りやすい」
ふっと、彼が左手の小指を適当に振る。まるで、指に止まった蝶を追い払うような、気軽な仕草だった。
だが、それは己の手に宿った、凶暴な力を振るう合図。手綱から放たれた獰猛な獣が、その牙と爪を剥き出しにして、狙い定めた獲物に襲いかかる。耳がキーンと痛むような、激しい爆発音が轟き、大量の瓦礫と塵芥が飛散した。
「わっ、あ……!!」
カーリの目の前に立ち塞がっていた巨大な質量が、まるで紙かダンボールのように、容易く吹き飛ばされていく。圧倒的な強さを目撃して、カーリの胸は高揚感で満たされた。まるで、アニメか映画を見ているような気分だ。彼女の体に届く爆風や熱でさえも、エンヴィスが片手をかざすと、魔法的な力で防がれてしまう。
「あ~……やっぱちょっと火力強かったか?」
それなのに、何でもないことのように平然として、ガリガリと後頭部を掻くエンヴィスは、まさに強者そのものだ。強力で魅惑的な力を持つ炎という存在を、手に収めるに相応しい悪魔だと思える。彼もまた、自覚していたから炎という属性を選んだのだろうか。
「おい、カーリ?」
「あっ、はい!」
強大な魔法に圧倒されるあまり、思考が現実を離れていたらしい。エンヴィスに声をかけられて、カーリはハッと我を取り戻した。
「ほら、先行くんだろ?急ぐぞ」
エンヴィスは、通れるようになった通路の先で、階段に足をかけて待っている。周囲の床には、粉になるまで砕け散った礫編が、至るところに散乱していた。
「見てみろ」
カーリと共に階段を下りながら、エンヴィスは周囲を囲む壁を指差してみせる。
「建物全体がガタつき始めてる。早くしないと……倒壊するかも知れない」
「これ……!」
以前は綺麗に塗装されていただろうそれは、表面が剥がれて、中身の断熱材や柱が剥き出しになっていた。元々老朽化によって亀裂が生じていたのが、トワイライトとミルの激闘の余波によって、完全に崩壊したらしい。崩れ落ちて積み重なったこれが、道を塞いだのだ。恐らく、同じようなことが、西棟全体に広がっているとエンヴィスは推測する。限界ギリギリで保たれていたバランスが、悪魔たちの襲来によって、決壊し始めているのだ。
「俺のせいだな」
「そんなことっ!」
そしてそこには、当然エンヴィスも含まれている。自嘲気味にぼやいた彼に、咄嗟に反論しようとしたカーリは、言葉に詰まって声をなくした。感情だけでは、理屈のある文を口に出来ないのだ。
「とにかく、これ以上強い振動を与えるのは、まずい。とっととミルを捕まえて、撤退しないとな」
エンヴィスは彼女を慰めるように、淡々とした声色を意図して保つ。撤退という単語を聞いて、カーリはふと思い出したことを尋ねた。
「そう言えば……レディちゃんはどうしたんでしょう」
彼女とは、スマートフォンでメッセージのやり取りを交わしただけだ。西棟に来てほしいと、頼んだだけである。エンヴィスが彼女を追いかけてこちらに来たということは、多分近くにいるのだろうが、詳細な確認が出来たわけではない。ぜひ、会って話をしたいとカーリが口を開いた時、彼女の手首を掴む者がいた。
「ここにいるよ?カーリ」
「えっ!?うひゃあっ!!」
肌に伝わる温もりに、カーリは驚いてつい奇声を発した。
「えっへっへー、驚いたー?カーリ」
悪戯が成功したと、背後で子供のような無邪気な声が笑う。一瞬にして険しい表情を作ったエンヴィスが、彼女を怒鳴りつけた。
「何してんだ、レディ!状況分かってんのか!」
「わぁっ!エンちゃん、ここにいたんだぁ~」
「驚かさないでよ、レディちゃん……」
だが彼女が萎縮することはなく、むしろ一層笑顔を強めて、ふざけていた。カーリは胸に手を当てて、未だバクバクと跳ねる心臓を宥めながら、彼女の名前を呼ぶ。
「おっす。さっきぶり~、二人とも!」
彼女、レディは全く反省の色の見えない顔をして、おどけた仕草で手を振った。かと思えば、直後堰を切ったような長話を聞かせてくる。
「元気してた?もう~、びっくりしたよ。エンちゃんたら、ちょっと見てなかったスキに、勝手にどっかいなくなっちゃうんだもん~!アタシ一生懸命探したんだよ?でも全然見つからないからさぁ~、困ってたら、カーリから連絡が来たってわけ!だからっ、エンちゃん!謝ってよね、アタシに!」
まるでサーカスのパントマイム劇のように、派手な身振り手振りを付け、洋画のコメディスターばりの弾丸トークを披露する。口を挟む隙もない剣幕に、エンヴィスはしばらく唖然として口を開けていたが、やがてぶるぶると震え出した。
「て、てめぇ……!」
「え、エンヴィスさん」
握った拳が怒りに戦慄いている。暴力は駄目だと、カーリが半ば本気で制止して、彼はようやく肩から力を抜いた。レディが女性でなければ、間違いなく一発入れていたと思うほどの憤りである。無理矢理それを収めた彼は、自分自身を押さえ付けるように、顔を覆って長く息を吐く。
「はぁ~~~……何だって、お前……」
そこ以上は言葉にならなかった。彼の、嘆きだか呆れだかよく分からない言い分が終わらぬ内に、足元が強く揺れたからだ。
「あわわっ!何これぇっ、地震!?」
手すりに掴まりながら、レディが問う。だが、彼女の言葉は真実ではないことを、カーリは知っていた。
「エンヴィスさんっ!!」
エンヴィスの名を呼んで、何が起きているか伝えようとする。ちょうどその時、彼らのいる階段にヒビが走り、床が沈む感覚がした。
「二人とも、掴まれ!飛び降りるぞっ!」
「えっ……わぁっ!?」
瞬時に状況を察したエンヴィスが、懐から取り出した錫杖を、こちらに向けている。反射的に、後端を掴んだカーリは、足が完全に床から離れる感触に慄いた。
「きゃーっ!楽っし~い!!」
金髪を風に遊ばせ、楽しそうに歓声を上げているレディは、流石と思う。残念ながら、カーリは彼女のようには、なれそうにない。
「ぎゃああ!」
情けない悲鳴を上げた直後、靴の裏が何か硬いものを踏み締める。気が付くと、彼女は先ほどと何ら変わりない体勢で、床の上に立っていた。
「あ……あれ?」
崩れゆく階段から飛び降りたはずなのに、知らぬ間に着地している。何が起きたのか、さっぱり理解出来ずに呆然とするカーリを、堪えきれないといった表情でレディが笑った。
「ぷっ。カーリ面白過ぎ~。エンちゃんの魔法だよ?」
「あっ……あぁ、そうなんだ……?」
無垢な反応をする彼女を、レディは心底面白がり、くすくす肩を揺らしている。普通であれば、小馬鹿にされていると感じ、不快に思うかも知れないが、カーリにはその余裕もなかった。
「で、エンヴィスさんは?」
辺りを見回し、まずは仲間の安否を確認しようとする。そんな彼女の顔に、影がかかった。
「あなた……まだ生きていたのね」
「っ!?」
聞いたことのある声に、カーリは瞠目して振り返る。そこには予想した通り、ミルが立っていた。山を築いた瓦礫の上に屹立し、ハサミを片手に、こちらを見下ろしている。
どうやらカーリたちは、崩れた建物の残骸と共に、彼女のいる階まで落ちてきたようだ。やや離れたところに見えるエスカレーターには、一階という表示が書かれている。
「あ、クソやばサイコキラー女」
唐突に、レディが人差し指を突きつけて、彼女に不躾な声をかけた。
「レディちゃん!」
カーリが止めた時には、もう遅い。
「何ですって……?」
ミルの端正な顔が静かに歪み、怒りのこもった目を向けてくる。
「死にたいのなら……あなたも殺してあげましょうか?」
「ハァ?アタシがあんたみたいな奴に殺られるわけないでしょ」
しかしレディは怯むことなく、きつい言い方と共に彼女を睨み返した。一触即発の空気に、カーリはハラハラと鼓動を速くしているしか出来ない。
「おいおーい、勝手に始めんなよー。まだ話の途中だろが」
ピリピリとひり付くような険悪な空気を、半ば呆れの含まれた低い声が引き裂く。瓦礫の影に隠れるようにして身を屈めていたエンヴィスが、錫杖を杖代わりにしてゆっくりと立ち上がった。
「あぁ……助かったよ、カーリくん。エンヴィスくんたちを連れてきてくれたのか」
その隣には、トワイライトもいる。彼の服には土くれや埃の汚れが付着し、肌にも小さなかすり傷がいくつか出来ていたが、別段身体の動きに変化は見られない。どうやら、血が流れるような大怪我は負っていないようだ。
「トワイライトさん!」
「しぶといのよ、この人……まぁ、ワタクシは楽しめるからいいのだけど」
無事だったことを喜び、カーリは高い声を上げる。彼女を見下ろしながら、ミルは腕を組み、握ったハサミをちらつかせた。どうやら彼女とトワイライトとの戦いは、決定的なもののない、膠着状態に陥っていたようだ。
「でも、お仲間を連れてきてくれたことは、ワタクシからも感謝申し上げるわ。パーティーの人数が増えるのは、いいことですもの」
「ねぇ、カーリ……さっきからこいつ、何言ってるわけ?」
血と埃で汚れた金髪を払い、優雅にお辞儀をしてみせるミル。彼女の優美な動作を、カーリはぼんやりと眺めていたが、突如その肩を誰かが押した。レディだ。
「パーティーとか、楽しむとか……何言ってんのか全然さっぱり意味分かんない。アタシにも、分かるように説明してくんない?」
彼女はカーリを押し退けて前に出ると、ミルと正面から対峙する。レディの空のような澄んだ碧眼が、いつになく冷淡な光を宿した。
「そりゃ、あんたは自分の作り出した妄想に囚われてれば楽かも知れないけど……あんたに殺された人たちは、そうはいかない。命を奪われたことは、夢とか妄想なんかじゃ誤魔化せないの。あんたのやったことは、ただの殺人。いい加減、現実を見なよ」
感情の見えない平坦な声音は、いつものレディからは想像も付かない冷酷さを孕んでいる。まるで彼女が別人に見えて、カーリはどきどきした。
「うるっさいわね!あなたに何が分かるの!?そんな馬鹿みたいな格好をして、毎日遊び暮らしているだけのあなたに、ワタクシの何が分かるって言うのよ!!」
案の定、彼女の言葉で激昂したミルが、髪を振り乱し、ハサミを振り回して反発してくる。絹を裂くような甲高い声が、人気のない病院内に響き渡った。
「あなたはきっと何も考えていないんだわ!ワタクシのような悪魔が、どんな傷を受けてきたか!今までどんな苦しみを抱えて生きてきたのか!あなたは何も知りやしない!知ろうとしないのよ!!」
ミルの脳内には、幼少期に受けてきた虐待の記憶が蘇っていた。逼迫した経営体制の中で、孤児院の職員たちは、子供たちを完全に制御下に置くことで、ストレスを発散させようとしていた。子供を奴隷のように従わせ、あるいは言いなりにならない子供を、残虐な方法で懲らしめる。ミルはその、後者だった。
毎日毎日、酷い扱いを受けた。食事が出てこないことはほぼ毎日だったし、布団どころか部屋すらもらえず、真冬の寒空の下、庭で凍えるような夜を過ごしたこともある。このまま世界が滅べばいいと、漠然と願っていた。そんな時だ。懲罰室から逃亡した彼女は、職員の私室で一本のマッチを見つけた。また外に放り出された時に、暖を取るのに使える。初めはそんなことを思って、ポケットに入れただけだった。だが数日後、庭の片隅の物置小屋に閉じ込められ、彼女は気付いた。床に敷かれた、古びた藁。それにマッチの火を付けて、燃え盛る炎を眺めた。
もしも、これをあの建物の中に放り込むことが出来たら。どんな結果になるかは薄々気が付いていた。多くの人が死んだら、警察が来て調べられるだろうことも。だが、困り果てた彼女は、再びあることに気付いた。一人ぼっちの不遇な少女には、生まれた時からの友人が一人、いたことを。
彼女は扉に向かって手を組んで、お祈りをした。すると扉の施錠が開き、彼女は外に出ることが出来た。火が付いてメラメラと燃えている藁束を一つ、孤児院の窓から投げ込み、小屋に逃げ帰った。そして、また友人の力を借りて、小屋の扉に外から鍵をかけた。魔法という友人に頼ったのは、この日が初めてだった。
犯行に及んでいる間、彼女は何も考えなかった。ただ、頭の中で、理想の楽園について考えていた。そこでは何も辛いことなど起こらない。苦しい思いをしなくてもいい。毎日が楽しいと嬉しいでいっぱいで、笑ってさえいれば時が過ぎていく場所だった。そこがなくなるなんて、考えることが出来ない。死にたいと願うような苦痛に満ちた日々の中、彼女が唯一見出した、生きる術であり救いなのだから。
「そんなあなたに、何を言われてもワタクシは動じないわ!外野がどれだけうるさく騒いでも、ワタクシのことは止められないっ!ワタクシは、楽園を作るの!辛いことや苦しいことは何一つ起こらない、ワタクシにとって理想の楽園をねっ!!」
あの苦しみを味わったものにしか、きっとこの執着は理解出来ないのだろう。否、誰にも理解されなくとも、ミルは己の行動に後悔などなかった。
(ワタクシの楽園は、ワタクシだけのもの……!他の誰にも、邪魔はさせないわ!)
「あっそ。じゃ、あんたにもアタシは止められないね」
意気込んで、ハサミを握る手に、強く力がこもる。それと同時に、レディの冷たい返答が響いた。
「アタシは確かに、あんたを知らない。でも、それって当たり前のことじゃない?だってアタシは、あんたと違うんだから」
理解など、出来るわけがない。彼女はそう言って、ヒールを履いた足を踏み出す。カツリ、と硬い床に鋭いヒールが当たって、音を立てた。
「少なくともアタシは、あんたみたいに無責任に人を殺そうとは思わない。仮に、もしもやるんだとしたら……その時は、覚悟、決めるつもりだもん。いつ捕まったって、殺されたって構わないって。だってそれが……責任っていうものでしょ?」
罪を犯す者には、それ相応の覚悟がいる。犯した罪に応じた、罰を受ける覚悟が。それが、責任というものだと、カーリはかつてレディから聞いたことがあった。どうやら彼女は、罰を受ける覚悟を持たずに、犯罪に走る悪魔たちが、許せないようだ。悪事を働くことは、別に構わない。ただ、そのことに対する責任を持ってないのが嫌なのだと、まるで特定の誰かを思い浮かべているような口調で呟いていた。
彼女が誰を想定しているのかは知らない。だがレディは、己の主張を誰かに、面と向かって伝えたいようだった。それが出来ない自分のことを、不甲斐なく思っているような気がしたのだ。
きっとレディからしてみたら、ミルもその人物と同じに見えていることだろう。だから、まるで自分のことであるかのように、怒りを露わにするのだ。
「ふざけないでッ!!とっとと死になさいよォ!!」
だが、ミルがそのことを理解出来るはずもない。彼女はレディと会ったばかり。友人として、そこそこの時間を共に過ごしているカーリとは違うのだ。
「レディくん!!」
激昂し、感情のままに魔法を使おうとしているミルから、彼女を守るべくトワイライトが声を上げる。だが、エンヴィスが防御の魔法を展開するより早く、ミルの爆発の魔法が炸裂してしまう。発生した凄まじい衝撃に、レディの細い身体はいとも簡単に吹き飛ばされた。
「レディちゃんっ!」
「ぃった~……!!」
放り飛ばされて、後方の壁に背中から激突したレディが、痛みに顔を歪めつつ叫び声を上げる。どうやら酷い怪我は負っていないようだと、カーリは安堵して胸を撫で下ろす。だが、それはそれで問題があった。
「何すんのよ、このクソ女!」
「レディ、お前もう黙ってろ!」
痛みによって怒りが生じるまま、彼女は拳を突き上げて罵倒を浴びせる。またしてもミルの逆鱗に触れるような行為を、エンヴィスが荒々しい声色で遮った。
「トワイライトさん。後は、俺たちでやりましょう」
これ以上彼女に自由を許していたら、激情に駆られたミルが、暴走状態に陥るかも知れない。そんなリスクはごめんだ。相手の理性を打ち壊すなら、隅々まで計算出来る人物がやるべきだと、エンヴィスはトワイライトに進言する。
「あぁ、そうするしかないだろうな」
トワイライトも、頬についた煤汚れを拭って、頷いた。彼の言い分には完全同意だが、しかし、一つ注意しておくべきことがある。エンヴィスはきっと、顔を顰め嫌がることだろう。
「だが、くれぐれも油断するなよ、エンヴィスくん。彼女は君の同属だ」
「げっ!?本当ですか!?……面倒くっせ~」
トワイライトの言葉を耳にすると、彼は驚きに目を見開き、案の定厄介そうな顔をした。
「同属ほど嫌な相手はいないぜ……耐性だの対抗術式だの、色々手が割れてやがる」
同属。つまり、同じ属性の属性系魔法を使う相手のことを指す。ミルは人間たちの作り出した爆弾から、ほとんど同じ効果をもたらす魔法を生み出した。まず間違いなく、炎属性に分類される、属性系魔法だ。エンヴィスの、同属である。
属性系魔法使いたちは、同属と戦うことを最も嫌う。己の使う魔法の種類や運用法、戦いの展開などが、相手と類似しているためだ。手の内が全て読まれ、反対に相手の戦略も読みやすいからこそ、戦況が停滞しやすく、時間だけを浪費する可能性が高い。誰がそのような、面倒極まりない戦いを好むだろう。
「あなたたち、いつまで下らないお喋りをしているの?」
やりたくない、と顔中に書いてあるような表情をして、エンヴィスは立ち尽くす。その背後から、ミルの催促が届いた。彼女はいつの間にか床に降り、彼らから少し距離を置いたところで、ハサミを振り回して待機している。ツンと顎を上げた高飛車な姿勢は、どことなくレンキを思わせた。
「おっと。これは申し訳ない。つい長話をしてしまったようです」
「そんなのんびり喋って……大丈夫なんですか?トワイライトさん」
全く動揺せず、いつも通りの態度を取るトワイライトに、エンヴィスが呆れの視線を向けた。勝算はあるか、と問われた彼は、顎に手を当てておもむろに思案してみせる。
「う~む、どうだろうねぇ……エンヴィスくん、君、どのくらいある?自信」
「さぁ、どうでしょう……」
質問に質問を返されたエンヴィスも、同じような動作で、似たような反応を示してみせた。大袈裟に誇張はしていないが、どこか自信ありげな様子だ。
「ただまぁ、俺の魔法は火力命です。よっぽど頑丈なタイプじゃなければ、防御を破って貫通することが出来る」
「それ、私への嫌味かな?」
「まさか!トワイライトさんを狙うつもりはありませんから」
顎に触れた手を離して、彼は断言する。苦味の含まれた笑顔を浮かべ、トワイライトが尋ねると、彼はおどけた仕草で肩を竦めた。敵意はない、とアピールしているようだが、トワイライトは内心、ぞっとしない感覚に襲われる。エンヴィスが、トワイライトとの魔導戦において、一矢報いようとしているのは知っているからだ。今のところ、トワイライトの硬い防御魔法を、彼が破った試しはない。だが、いつ足元を掬われないとも限らないのが、上司として辛いところだ。
(ま、今は関係ないことなんだがね)
「我々は我々の仕事を、さっさと済ませようじゃないか。彼女を逮捕して、」
「このくだらないパーティーを終わらせましょう」
気を取り直し、戦意を向上させようと、おもむろに口を開く。機敏に先を読み取ったエンヴィスが、自然な調子で続きを引き取った。
「そう……ワタクシの楽園を、くだらないと仰るのね」
自分を倒そうと意気込む、二人の強者。彼らを前にして、ミルは絶望したように、ゆっくりと顔を俯かせた。トワイライトたちにはまるで、彼女が力の差に愕然とし、戦うことを諦めたように見える。だが、彼女がそんな悪魔でないことは、把握済みだ。案の定、ミルはすぐに顔を上げると、引き攣ったような甲高い声を上げて、宣戦布告に応えた。
「だったら……今すぐに殺してあげるわっ!!」
キッと二人を睨みつけて、ハサミを大きく振り上げる。それと共に、彼女の周囲にいくつもの火球が出現した。
戦いの、始まりだ。
「エンヴィスくん」
トワイライトは静かな、しかし鋭い声で部下の名前を呼ぶ。
「分かってますよ。俺があいつを引き付けて、その間にトワイライトさんが~ってやつですよね?」
それだけで、全てを察した彼は速やかに返答をくれた。
「あぁ。だが、かなり危険が高いぞ。やれるか?」
何もかも分かっているようだが、しかし確認は必要だ。本当に、リスクを背負う覚悟があるのかと、黒い瞳を真っ直ぐに向けて問う。だがエンヴィスは、どこ吹く風とばかりに、平然と答える。
「何言ってるんですか。今更でしょ」
「まぁ……そうだけどもね」
この程度のことでは怯むはずがないと、自信たっぷりに宣言する彼を見て、トワイライトはやや苦笑する。正直、彼の気持ちも分からないでもない。脱界者たちは、皆命懸けで抵抗をすることがほとんどだ。その中には、ミルより強い悪魔もいた。彼らの暴走に巻き込まれても、無事生還しているのだ。危険など、慣れきっている。
だが、だからこそ気をつけねばならないのだ。ほんの少しの油断が、致命的な結末を招くことだってあるのだから。
「俺は負けませんよ。ましてや、同属の奴なんかにね」
だが、エンヴィスは既にそれも、察していたのだろう。頼もしい部下を持って幸いだとばかりに、トワイライトは彼を見遣った。彼が危険を理解していることが分かったのなら、話は終わりだ。
「ならば、よろしく頼む」
最低限の言質は取れた。後は、重々しく頷くのみ。上司らしい仕草で依頼をすると、エンヴィスはにやりと思惑のありそうな顔で微笑んだ。
「了解です!っと」
「キャァアアアッ!!」
次の瞬間、怪鳥のようなけたたましい叫びを上げて、ミルが突っ込んできた。突進と同時に、振り下ろされる鋭い刃を、トワイライトとエンヴィスは二手に分かれることでかわす。だが、二人のその行為を予期していたように、ミルは小さな掌を突き出した。
「燃え尽きなさい!ワタクシの炎で!!」
彼女の言葉が、命令となって魔法を発動させる。燃え盛る赤い炎が、トワイライトめがけて放たれた。だが。
「させるかよっ!」
「えっ!?」
エンヴィスが錫杖を振るうと同時に、ミルの炎は制御を失う。一瞬だけ、最後の抵抗のように激しく燃えた後、まるで消化剤をかけられたかのように、かき消えてしまったのだ。衝撃的な事態に、ミルは瞠目する。
「何で!?どうしてっ!?」
「ちゃちい魔法だなぁ~。こんなもん、炎属性とは呼ばねぇよ!」
驚愕の声を上げる彼女に、エンヴィスは大胆な挑発をしかける。
「何ですって!?」
案の定、ミルは容易く逆上して、エンヴィスを強く睨め付けてきた。だが、それくらいのことで、動じる彼ではない。
「経験が違うんだよ、経験が。今日昨日魔法を習得したばかりのヒヨッコが、属性系舐めてんじゃねぇぞ」
ガツン、と杖を地面に叩きつけ、声を荒げて続ける。まるで出来の悪い生徒に難しい方程式の解説をする教師のように、尤もらしい表情を作り、格好つけて話し出した。
「炎属性ってのは、単に炎を生み出すだけじゃないんだよ。炎は熱。暗闇を照らし、物を焼いて、新しい物を作る、生命の根源なんだ」
彼の右手の人差し指、その先に灯る小さな炎を、ミルは唇の端を歪めた醜い顔つきで、じっと凝視している。
「人間たちも、悪魔たちも、文明がここまで発展したのは、炎って存在があったからに他ならない。俺たちはその、強くも複雑なエネルギーを片手で操る術を知っているんだ。お前に、その凄さが分かるか?」
エンヴィスは喋りながら、指をくるくると動かして、炎の形を変えていく。焚き火の炎のような獰猛なものから、ちろちろと蠢く蛇の舌のような、狡猾なものまで。変幻自在に姿を変えるそれを、エンヴィスは器用に弄ぶ。
「お前の炎には、誇りがないんだよ。お前は、ただ目の前の敵を排除するためだけに、魔力を使ってる……そんな奴に掌握しきれるほど、魔法ってのは甘くねーの」
終いにはもったいつけた仕草でフッと吹き消してみせる。神経を逆撫でするようなエンヴィスの態度に、ミルは強い怒りを抱き、わなわなと拳を震わせた。
「うるさい……うるさい、うるさいうるさいっ!!」
「うぉっ!?」
突然、彼女が絶叫し、同時にいくつもの炎の塊が出現する。いきなりのことに、エンヴィスも感情を声にして表していた。
「ペラペラペラペラ、グチャグチャグチャグチャと……!このワタクシを、口先だけで翻弄しようとでもしているのかしら!?無謀もいいところだわ!あなたなんかに、ワタクシのことが理解出来ると思って!?」
内心から込み上げてくる、ふつふつとした怒り、憎しみ。ミルはその全てを、金切り声にして吐き出す。それと同時に、彼女の炎も、まるで彼女の心に呼応しているかのように、一層激しく燃え上がった。
「ワタクシは、ワタクシは炎使いでも何でもない!ワタクシは殺戮者!邪魔する者は、皆全て殺してきたの!あなたみたいな三流に、ワタクシの強さが分かってたまるもんですかっ!!」
「三流って……お嬢ちゃん、言うじゃねぇか」
だが、熱風を巻き起こすほどの灼熱と対峙しても、エンヴィスは全く動じる様子を見せない。むしろ苦みを含んだ微笑みすら浮かべて、平然とした態度で言い返していた。
「だったらお前も、自分の妄想に取り憑かれた、お花畑女ってことになるが、文句はねぇよな?」
「そうだよエンちゃんもっと言ってやって!」
「レディちゃん」
「黙りなさいっ!!」
彼の言葉に、レディが拳を突き上げて同調する。ミルを不用意に刺激するなと、カーリは慌てて彼女を宥めた。しかしミルは、耳聡く聞き咎めるとカーリたちに向かってハサミを突きつけてくる。
「黙ってよ!あなたたち、目障りなのよ!!」
「おいおい、ダンスの相手を途中で変えるのは、失礼だろ?」
すかさずエンヴィスが、一歩前に出てミルと彼女たちの間を遮る。トワイライトを意識してでもいるかのように、気障ったい台詞を口にすれば、ミルの柳眉が更にきつく吊り上がった。
「いいからどきなさいよ!邪魔なのよ!どいて!どいてよ!どきなさい!!」
癇癪を起こした子供のように、喚き立てる姿は外見相応だ。だが、その手は鋭いハサミを握り締めているし、何より放たれた火球は、凄まじい威力を誇っている。上昇気流が生じるほどの、強い熱だ。少し触れただけで、肌が焼け落ち肉が灰へと変わるだろう。エンヴィスは大丈夫なのだろうかと、カーリはハラハラとしながら彼の背中を見つめた。
「どくわけないって、お前にも分かるだろ?」
再び、錫杖が振られる。しゃらん、と鈴のような音が鳴ったと同時に、彼に向かって飛来していた炎は全て、爆発した。発生した衝撃が、建物全体を内側から揺らす。
「お前はもう、どう足掻いても無駄なの。俺たちは単独脱界者対策室。見つかった時点で、逮捕からの強制送還なんだって、いい加減分かれよ。そんな子供に火遊びみたいなことしてたって、何も変わらないぞ?」
「うるさいって言ってるでしょ!!」
パラパラとコンクリート片が舞い落ちる中で、エンヴィスは打って変わった理性的な声を発した。それは、感情的に捲し立てるミルの調子と、くっきりと対比して聞こえる。
「あなたたちが誰だろうが、ワタクシには関係ない!ワタクシは、絶対に諦めないんだから!自分の楽園を、決して手放したりしない!あなたたちのことだって、皆殺しにして、生き延びてやるわっ!!」
ミルはしかし、ここまで追い詰められても、悪あがきを続けるようだった。小さな体を精一杯力ませて、腹の底から声を張り上げている。そして、何かいいことを思い付いたかのように、嬉々とした表情で顔を上げた。
「そうよ!ワタクシの邪魔をする者は、皆み~んな死ねばいいのよ!!」
びしり、と細い白い指がエンヴィス含めその場にいる悪魔たちに突きつけられる。その時だった。
巨大な火柱が、爆音を立てて噴き上がる。床を破壊して現れたそれは、一瞬にしてカーリの視界を真っ赤に染めた。
「!?熱っ!!」
熱で肌を炙られかけて、レディが慌てて飛びすさる。だが、いくら後ずさったところで、既に周囲は火の海。逃げ場などない。火柱はいくつもいくつも噴出し、彼女の命を奪おうとじわじわ接近してくる。
「そうよ、初めからこうすれば良かったんだわ!何もかも燃やし尽くして、切り刻んで、世界にはワタクシだけ!素晴らしいアイディアじゃない!!」
ミル一人だけが、狂ったように歓声を上げながら、ハサミを振り回して、踊っていた。激しい炎が、辺りを埋め尽くす。このままでは、自分も灰になってしまうだろう。本能的な危機感を抱いたレディは、ぎゅっと目を瞑って熱さに備えた。
「あ、あれ……?熱くない」
突然、肌に感じていた熱が消え去り、彼女は驚いて目を開ける。辺りに目を走らせると、自分たちの周りだけ、空間が切り離されたように、炎がないことに気が付いた。半径2メートル程度の半球。そこだけまるで見えない何かに守られてでもいるように、火の粉が侵入してこないのだ。
「エンちゃん!」
頭脳派でない彼女にも分かる。今のは彼の仕業だ。
驚きと、期待が叶った嬉しさに、喜色を浮かべるレディ。エンヴィスはちらりと彼女を一瞥して、視線をミルに戻した。
「トワイライトさん、どうします?」
目の前で燃え盛る、真っ赤な炎を見ながら問いかける。メラメラと揺らめき、酸素を蝕む様は、まるで聳え立つ赤い壁だ。エンヴィスたちがいる一点だけが、絶海に浮かぶ孤島のように、ポツンと孤立して佇んでいる。
「うーむ、どうするか……ここまで粘るとは、想定外だったな」
いつの間にか、隣に来ていたトワイライトが顎をさすりながらおもむろに思案の声を上げた。エンヴィスがミルの相手をしていた時から、気配を消していたのか、まるで何もないところから突然現れたかのようだ。
「やはり、隠さずに見せたらどうです?」
急な登場に、本当は心臓がかすかに跳ねたのだが、それを押し殺して平坦な調子で尋ねる。トワイライトはエンヴィスの本心に気付いているのかいないのか、意味ありげな目を向けてから頷いた。
「そうだな……あまり気は進まないが、そうするしかないようだ」
「どうせ、魔力欠乏で頭痛になるのが嫌なだけでしょ。とっととやってくださいよ」
何となく、心の内を見透かされたのではないかという不快感から、エンヴィスは半眼になって彼を見据える。じとっとした湿度の高い視線と、若干強めの言葉を受けて、トワイライトは思わず苦笑を漏らした。
「分かった分かった」
「何の話ですか?」
流石に口を挟みたくなって、カーリは沈黙を貫くのを止める。トワイライトは今度は子供に諭すような、優しい笑顔を作って彼女を見遣る。
「何でもないよ」
「エンちゃん、ここちょっと空気悪くない?」
明らかに何かを誤魔化している様子だが、それが何かを聞く前に、レディがエンヴィスの肩をつついて発言する。咽せそうなのを堪えているような、微妙な顔の彼女を見て、エンヴィスもやや眉を寄せた。
「あ~……まぁな」
彼女の意見も、当然のことだ。炎は酸素を糧として燃える。酸素はたちまち薄くなり、二酸化炭素が充満し始める。一応術式には空気の組成比も保つものも含まれているのだが、副次的な要素であるため効果が薄い。魔法というものは、万能ではないのだ。常識を越え、限界を突破する力といえども、やはり限界というものは付き纏うものなのだ。もちろん、術者の実力にもよるのだが。
「だが、これ以上でかいの使うと、建物自体が崩れるかも知れないぞ?」
それに、今回の状況は、かなり特殊だ。彼らが今いるのは、放置されて長年経った、廃病院。メンテナンス不足の建物は、老朽化してあちこちが傷んでいる。加えて、主にミルやエンヴィスが、爆発など周囲への影響が大きい魔法を何度も使った後だ。強い衝撃を受けて、限界が近付いている。これ以上のダメージは、倒壊を招きかねない。その危険性が、エンヴィスに全力を使うことを躊躇わせていた。
「えぇっ!?そ、そんな!」
「何とかしてよ、エンちゃん!アタシ生き埋めとか嫌なんだけど!」
それでは、このままミルの炎で焼かれ焼死するか、崩壊した建物の残骸に潰され圧死するか、の二択しかないということになる。まだ死にたくないと、彼の言葉を聞いたカーリとレディは、血相を変えて彼に詰め寄った。
「俺だって嫌だよ!けど、そんなこと言われてもなぁ~……」
二人の主張には、エンヴィスも完全同意だ。
正直なところ、策がないわけではない。しかし、成功する確率は半々だ。この状況で使用すれば、逆に自分たちの死期を早めてしまうかも知れない。
(どうする……!)
「キャハハハハ!あナタたち、まダ生きテイたノ?」
激しく葛藤するエンヴィスの耳に、ところどころ裏返った、異常な声が飛び込んだ。
「!!」
突然、周囲を取り囲む炎が開いて、奥から少女が姿を現す。細い手足を器用に使って、側転を応用した蹴りを叩き込んできた。エンヴィスはそれを、錫杖で受け止め、押し返す。
「っ……!」
「いつマで、コソコソしていルノか死ら」
たった一瞬の接触。しかし確かに感じた重さに、エンヴィスは顔を歪めた。子供のものとは思えない強さと力だ。彼女の邪魔を排除しなければ、危険な賭けにも出られない。
「トワイライトさん……!」
「気にするな、エンヴィスくん」
静かな、だが強い声で名前を呼べば、彼はごく普通の調子でエンヴィスの肩を叩いた。
「君はよく働いてくれた。ここからは、私が彼女の相手をしよう」
「本気ですか!?」
「トワさん、大丈夫なの!?」
何でもないことのように、さらさらと告げる彼。カーリは思わず驚きのままに、大きな声を上げてしまう。つられてレディも、彼の身を案じる言葉をかけていた。
「大丈夫さ。心配することはないよ」
だがトワイライトは、決して態度を変えなかった。深刻さなど欠片もない表情で、笑って平然としている。
「何も、一騎討ちをしようというんじゃない。我々がしているのは、ルール無用の殺し合いだからね」
にこやかな笑みを浮かべた彼の目が、一瞬自分に向けられた気がして、カーリは焦る。トワイライトは、細めた瞳の奥に光を宿して、何やら意味ありげな視線を送っていた。だが、カーリが気が付くとすぐに逸らされてしまった。
「……?」
「ともかく、チームリーダーとして恥のない、立派な戦いをしてみせるさ。手札はまだ取ってあるしね」
それの正体が何なのか、カーリは首を傾げて探ろうとしたが、トワイライトはさっさと話を締め括ってしまった。気のせいだったのだろうかと、カーリは訝しむ。
「大丈ブ。少シモ痛くなイワ。ゆックり切り刻ンデ、いタブって……順番ニ、殺しテアゲる。大人死苦、寝テイナさいヨ」
再び、ミルの声が聞こえてきた。彼女の話し方は、まるで子供をあやして寝かしつける時のようであったが、しかし内容は全く穏やかでない。声色も、慈悲など微塵もない、残虐な恐ろしさを孕んでいた。炎の合間を縫って、そのかんばせがちらりと覗く。完全に正気を失った彼女は、左右非対称の、冷酷な顔をしていた。
「ふざけないで、あんたなんかの言いなりになるわけないじゃん。クソ女」
汚い言葉を使って、レディが反論する。ミルの笑顔が、ピクリと引き攣った。
「アハハハ!なラ……もット酷ク、酷く痛メツケて、死ンデもラウ死カナイわね」
空気を切る音がして、鋭い突きが飛んでくる。炎の幕に隔てられて見えないはずなのに、何故かその一撃は、レディの眼球を狙って放たれていた。トワイライトが防がなければ、目ごと脳を貫かれていただろう。
「あなたには、邪魔されてばかり……あなたのことは、ただでは殺さないわ。苦痛に塗れて、死んでもらう」
唐突に、ミルの声音が元に戻った。トワイライトが受け止めている刃に、再び力がこもる。ギリギリと金属を擦りながら、彼の手首を突き刺そうとハサミが動かされた。
「そうはいきませんよ」
ミルの言葉と行動、どちらに対しての反論か、本人も指定せずに口を開く。片手で持った剣を軽く振るい、ミルのハサミを柄に引っかけて防いだ。
「あなたには証明してもらいたいの。ワタクシに逆らうとどうなるか……この世界に生まれてきたことを、後悔させてあげる」
ミルは、まるで独り言をこぼすように静かに話しながら、更に腕に力をかける。トワイライトも対抗したため、二人の力は完全に拮抗した。
「あなたの方こそ、我々に対する公務執行妨害で、刑期が長くなっても後悔なさらぬよう」
炎のカーテンを挟んで鍔迫り合いを繰り広げながら、トワイライトは不敵に微笑む。宣戦布告のような言葉をかけられて、ミルもふっと微笑を浮かべたことが、炎越しにも理解出来た。
「さようなら、美しく死んでね。私の楽園を汚さないように」
今生の別れを告げるかのように、ミルが詠う。鈴の音のような、美しい声だった。直後、トワイライトの腕に、下方からの強い力がかかる。けたたましい音と共に剣が弾かれ、自然と彼の腕も上に持ち上がった。
「っ!おぉ~」
間の抜けた声を上げて、数歩後ずさるトワイライト。若干の感動すら抱いているような反応は、危機感のない間抜けなものだったが、誰もそのことに対して文句を言う者はない。
「トワイライトさん、下がっててください!!」
それより早く、エンヴィスが口を開いて、トワイライトを促したからだ。上司の前に歩み出た彼は、錫杖を高く振り上げ、床に向かって垂直に叩き付ける。タイルがひび割れ、先の尖った杖の後端が、数センチ床に沈んだ。
「おい、ミル!こっちを見ろ!三流の炎使いのお嬢ちゃんよ!」
突き刺さった錫杖が固定されたことを確認してから、エンヴィスは大きく息を吸って声を張り上げる。わざとらしい啖呵を切られ、ミルはギギギと油の足りていないロボットのような動きで、彼に首を向けた。あっさりと罠にかかった彼女を見て、エンヴィスは小さくガッツポーズを作る。
「よし、いいぞ……そのまま見とけ!同属の先輩として、教えてやるよ!これが本物の炎属性魔法だ!!」
彼女の注意を最大限まで引きつけてから、行使するのは、炎属性の中でも人気を誇る魔法。かなり魔力を消費するが、代わりに発現するインパクトと破壊力は絶大だ。何より、外見が派手で目を奪われることから、エンヴィスもお気に入りの魔法としていた。
「属性系魔法炎属性……火炎顕現・紅蓮龍」
呪文を詠唱し、錫杖で床を三回叩く。やや気恥ずかしいが、これが魔法発動の契機となるのだから、省くことは出来ない。最後に手を強く打ち合わせると、パンと肌がぶつかった音がして、体内の魔力が消費される感覚がした。直後、錫杖の大輪から、紅蓮の炎が噴き出す。細い紐状に伸びたそれは、エンヴィスの手首にしゅるりと巻き付くと、更に激しく燃え上がっていく。触れたら肌が焼け落ちてしまいそうな熱量だが、彼がダメージを受けることはない。むしろ彼の手の動きに合わせ、指示に従って器用に形を変えていく。やがて一つのうねりとなったそれは、広く空間を駆け回り、宙へと展開した。
「何、あれ……!」
その様子を間近で眺めていたミルは、思わず目を見開き、驚愕の声を漏らした。絶えず形を流動させ、成長していく炎を操ることなど、あり得ないことだ。だが、エンヴィスが放った炎の魔法は、それだけでは終わらない。ミルが生み出した炎をも徐々に吸収し、更に勢いを増していく。そして、次第にある一つの像を形作った。
それは、巨大な体躯に太い手足、鋭い瞳と大きな口を持つ、恐ろしい魔物だ。背中からは二枚の翼がはためき、凶悪な鉤爪が床のタイルを弾き飛ばす。引き締まった胴から後方に伸びる、太い尾が空を切り、積み上がっていた瓦礫を全て吹き飛ばした。巨大な牙を剥き出した大きな口腔が、天を仰ぎ地響きのような咆哮を轟かせる。
ファンタジー映画でしか見たことのない存在。それを手が届くほどの近くで直視し、カーリは衝撃に満ちた声を上げる
「炎の……ドラゴン!?」
「凄過ぎない、エンちゃん!?」
彼女に釣られて、レディも感動を露わにしていた。自身の魔法に対する、理想的なリアクションを得られたエンヴィスは、やや得意げな顔をして隣に立つ炎を見遣る。
炎を操作し特定の具象を形成させる、顕現と呼ばれる術式。中でも、最も人気の高いものが、これだ。
ドラゴン。人間たちの世界では、完全に架空の存在とされる生き物だ。魔界には実在するものの、多くの種類が絶滅危惧種に指定されており、肉眼で見ることはほとんど叶わない。だが、その肉体能力の高さと、過酷な環境でも生きていける生命力、何より外見の力強さが、多くの悪魔たちを魅了し続けている。魔界の魔物の中でも、最も人気の高い種族と言っても過言ではない存在である。
カーリもレディも、そしてミルも、彼がこんな魔法を使えるとは予想だにしていなかった。敵味方の関係すら忘れ、ポカンと一様に口を開けて呆然とする。唯一冷静なトワイライトだけが、じっと彼女の隙を窺って目を凝らしていた。ミルは愕然とした表情のまま、身体を硬直させ佇立している。その手には力がこもっておらず、握り締めたハサミは今にも滑り落ちそうだ。
「あなたが過去に辛い体験をしたことは、我々も知っています。ミル嬢」
言葉をかけるなら、この瞬間しかない。彼は機敏にタイミングを察知して、口を開く。おもむろに語り出したトワイライトの顔を、カーリは見つめた。
「特に、昨今の各地孤児院、及び青少年養護施設の経営状況は劣悪だ。早急に改善しなければならない大問題と言えるでしょう」
カーリの胸中に、嫌な予感が走る。これまでの経験から、彼の交渉の手口を予想するならば、きっとこれはあれだ。
「けれど、それとあなたの犯した罪に、何の関係がありますか?」
彼女の予測がまとまるか否かの短い時間で、トワイライトの冷や水のような声が、ミルに向けられる。
「殺人も、脱界も、全てあなたがやったことだ。他の誰でもない、あなたが。以前ウチのレディが言いましたが、あなたには責任を負う義務がある。冷たいことだと言われるかも知れませんが……それが事実だ」
あまりにも冷酷な言い方で、彼はミルを突き放した。流石に彼女が可哀想になって、カーリは手を伸ばしかけ、止める。自分がミルの立場であれば、他者から向けられる『可哀想』もまた、否定されること同様に、辛いものだと思うから。
「尤も、送検され裁判になれば、あなたのその最悪極まりない生育環境は、多少は考慮され酌量されるでしょう。だがそれは、ここから進まなければ分からないことです」
トワイライトは、ミルに一歩近付くと、打って変わった優しげな声音を発する。膝を折って、彼女と同じ高さから、真っ直ぐな目線を投げかける。
「我々は自分の足でしっかりと立って、この目で前を見据え、進み続けなければなりません。どんな理由があったとしても、そこから逃れることは出来ない」
(……あれ……?)
ふと、カーリは違和感を感じ、目を瞬かせた。何か、言葉には出来ないが、齟齬がある気がしたのだ。今まで見てきたもの、そこにあったものが、いつの間にかなくなっているような。
(何だろう……)
「目を開けましょう、ミルさん。我々は、誇り高き悪魔です。甘過ぎる夢は、かえって毒だ。どれほど残酷な現実でも、欲深く好き勝手に生きましょうよ」
「?どったの、カーリ」
大きな瞳をすがめたり、開けたりして二人を睨むカーリを、レディは訝しく思う。しかし、カーリには彼女に答えている余裕はなかった。先ほどより強く、違和感が身体を蝕んでいたためだ。
(やっぱり……あるはずのものがない)
一つ、首を振って確信する。ミルのことだ。今までであれば、トワイライトやエンヴィスがいくら話しかけても、彼女は全く聞く耳を持たなかった。自分以外の何もかもを否定して、シャットアウトしている感じだった。だが、今の彼女にはそれがない。トワイライトの言葉に対して、拒絶も反論もせず、口をつぐんで聞いている。
(これって、結構危ないんじゃ……)
「……冗談じゃ……ないわよ……っ!」
カーリが声を上げて危険を知らせるより、コンマ数秒早く、ミルの唇がフッと歪に歪む。形のいい小さな口がわずかに開いて、奥からぎらりと光る獰猛な犬歯が覗いた。
「冗談じゃ……ないわよぉぉっ!!」
かすかな、本当にかすかな、耳を澄ませなければ聞き取れないような声。それが急激にボリュームを上げて、大音量で響く。彼女の心に応えて、炎もより一層、激しく燃え上がった。
「う……!」
暴れ出すドラゴンの、抵抗の強さにかすかな呻きを上げながら、エンヴィスはトワイライトを見遣る。彼は、片手に剣を携えて、ミルの行動をじっと凝視していた。その顔は、若干の微笑みすら浮かべている。
「トワイライトさん!!」
余裕ぶっている暇はないのでは、と警告を発する直前。再び炎が抵抗し、エンヴィスは危うく振り飛ばされそうになった。ドラゴンの形をした炎は、まるで手綱を嫌がる馬のように、頭や胴を大きく震わせている。エンヴィスは、制御するので精一杯だ。
「もうワタクシのことなんて、放っておいてよ!!」
ミルの金切り声が、辺りに響き渡る。もうなす術がないが、せめて相手の心を少しでも動かせたらと、必死に訴えかけるような説得。しかし、その懇願とは裏腹に、彼女の剣筋は鋭く容赦がない。
空気を切り裂いて放たれた一撃を、トワイライトは軽く刃を沿わせて受け流す。
「ようやく、手の内を全て見せてくれましたね……さぁ、もう逃げられませんぞ」
ミルの攻撃に冷静に対処し、抑揚のない声で、淡々と告げる。あくまで紳士的な対応を崩さない彼に、ミルは更に怒りを煽られ、激昂した。
「嫌よっ!絶対に嫌っ!!」
そのまま、力任せにハサミを払い、再び突き出す。何度も何度も、衝動的に繰り出される連撃を、トワイライトは一つ一つ丁寧にかわし、あるいは受け止め、流していった。
「もう誰かに、傷付けられるのは嫌なのよ!!苦しむのも嫌っ!!嫌なの!嫌!!」
ミルは完全に理性を失った表情で、がむしゃらにハサミを振るう。だが、今後の流れも考慮しない、でたらめな攻撃では、トワイライトを殺すことなど出来ない。ミルだけが一方的に、体力を消耗していくだけだ。
「どうして、そんなことも叶わないのよっ!ワタクシはただ、楽しく暮らしたいだけなのに!!」
何故、自分がこんな目に遭わなければいけないのか。ミルの中を、激しい憤りが満たす。
彼女はただ、平穏を望んだだけ。誰にも傷付けられず、邪魔をされることもない、穏やかな世界を求めただけである。欲望を叶えるためならば、労力は惜しまないのが悪魔の性。ミル自身、自分の欲求を満たしたい大人たちに、随分傷付けられてきた。彼女だけが、抱いた欲求を解消出来ないのは理不尽だ。
「どうしてワタクシだけが、否定されなきゃならないのよっ!!」
何故、自分ばかりが皆に嫌われ、挙句の果てに逮捕されなければならないのか。彼女には分からなかった。
悲哀と苦悶に満ちた嗚咽を漏らしながら、彼女は暴れ回る。両者の刃が何度もぶつかり、甲高い金属音がひっきりなしに鳴った。
「どうしよう……!トワイライトさん……!!」
カーリの目の前で、激しい剣戟が繰り広げられる。少しでも油断をすれば、即座に切り捨てられかねない、本物の命のやり取りだ。彼女は完全に気圧されて、両手に汗を握り締め、立ち尽くしているしか出来なかった。
「ぐぐぐ……くそっ、駄目だな」
どうにか、加勢してもらえないものか。助けを請うように目を向ければ、悔しそうに眉を寄せたエンヴィスが、諦めたような声で吐き捨てた。
「建物の中じゃ、ちょっと狭かったか……上手く、制御が出来ねぇ」
彼は己の魔法に意識を込めて、炎を統率しようとする。錫杖を介して魔力を流すと、ドラゴンの形を取った炎が、ある程度彼の意志に応えるのが分かった。しかしミルからの抵抗は存外強力で、抑え込むのにかなりの意識と力を要する。とても、トワイライトの加勢など出来そうにない状況だった。
「下手に動かしたら、最悪俺たちまで燃え尽きるぞ」
それどころか、何かの拍子に魔法が崩壊し、炎が降り注ぐ可能性もあると、彼は苦い顔をしてぼやく。当然、レディが目を丸くして不満の声を上げた。
「えぇえっ!?何とかしてよ、エンちゃん!」
エンヴィスの肩を掴み、ぐらぐらと揺さぶる。視界が左右に動いて酔いそうだが、エンヴィスには彼女の手を払い除ける余裕さえなかった。
「無茶言うなって!俺だって、精一杯やってるんだから!」
「そんなの困るって!」
だが、レディは譲らない。本当は、彼女だって自分の力でトワイライトを救いたかったのだ。しかし、武器や防具を持たない彼女が、ミルと戦うのは危険過ぎる。無理をしてみたところで、トワイライト本人がそれを許しはしないだろう。彼女を庇って、更に追い込まれでもしたら、助力どころか邪魔でしかない。そのくらいのことは、レディにも分かっていた。だからこそ、エンヴィスに頼ろうとした。拒絶されたら、本当になす術がない。
「レディちゃん……」
二人のやり取りを側から見ていたカーリは、そっと手を伸ばすと、感情的になっている彼女を宥める。
「無理言っちゃ駄目だよ。魔法が保てなくなったら、私たちだって危ないんだよ?」
「カーリ……それは、でも、そうだけど」
窘められたレディは、子供が親に叱られた時のように、視線を逸らしてモゴモゴと言い訳する。カーリは、意外にも落ち着いた態度で、彼女の瞳を真っ直ぐに見返した。
「トワイライトさんは戦ってる。エンヴィスさんは、私たちを守ってくれてる……他に、助けてくれる人なんかいない」
「カーリ……?」
「おい、何する気だ?」
カーリの目は、レディの顔に向けられながら、しかしここではないどこかへ視線を飛ばしているようだった。独り言のようにぼやく彼女を、レディは訝しんで見つめる。背後から、エンヴィスの問い質すような声が飛んできた。まるで、彼女の狙いに勘付き、それを止めようとしているような口調だ。
「私たちだけで、やるしかない」
突如、カーリは強い声音で、きっぱりと断言する。彼女がポケットから取り出した物を見て、レディとエンヴィスは瞠目した。
「カーリ!」
「カーリっ!!」
二人の、驚いた声が重なる。名前を呼ばれ咎められても、カーリは動じない。取り出したそれを、ゆっくりとした動作で構えてみせた。プラスチックを多用した、硬いグリップをきつく握り締める。ざらざらとした感触が、新鮮だ。
「……私が、あの子を撃つ」
いかにも未経験者らしい、たどたどしい動きで構えを取る彼女。だが、それまで一度も銃など持ってこなかった者がいきなり引き金を引くなど、危険過ぎる行為だ。レディは急いで彼女を止めようとする。だがそれより早く、ミルの甲高い声が響いた。
「ワタクシは、プリンセスなの!楽園の姫君なのよ!お姫様なのにっ!!」
我儘が聞き入れられないことを怒る幼児のように、ミルが声を荒げ癇癪を起こす。感情のままにハサミを振り回す彼女と、トワイライトは何度も切り結んだ。
「なのに、どうして誰も助けてくれないのっ!?」
激しい剣戟の中で、彼女は呻く。脳裏に蘇るのは、かつて受けた残虐な仕打ちの数々。まるで、目を開けながら悪夢を見ているようだった。目を覚ませば消える夢であれば、どれだけ良かったかと願った。けれど、現実はいつだって残酷だ。彼女は決して救われず、誰からも愛されてこなかった。物語の中の姫のように、白馬に乗った王子によって、苦境から助け出されることなど、起こらなかった。
「うっ……ぐぅ」
ミルは頭の中で記憶の海に浸りながら、しかし体は半分無意識に、トワイライトの命を狙って動き続けていた。強い力で何度も攻撃をぶつけられ、トワイライトは呻く。鋭い一撃を受け止める度に、彼の腕には重い衝撃が伝わり、肘の辺りまでビリビリと痺れる感覚がする。感情に任せて怪力を振るう彼女に、トワイライトは徐々に追いつけなくなっていた。
「ワタクシはっ、ワタクシはただ……助けてほしかっただけなのに!!」
本当はただ、愛してほしかっただけなのだと、ミルは嗚咽する。自分を見つけてくれて、自分だけを必要としてくれて、愛してくれる、そんな悪魔に会いたかっただけ。この苦しみから、解放してほしかっただけだ。
「ワタクシを、愛してよっ!!」
誰かにとっての唯一無二になりたかった。酷く精神を病み、犯罪行為を行なっても、見捨てずに愛してくれる悪魔に出会いたかった。ただ、それだけのこと。たったそれだけの、シンプルな、しかし強欲な願いが、腕力となってトワイライトを襲う。
「っ……!」
とうとう彼は、彼女の攻撃を受け切れず、剣を手から離してしまった。弾き飛ばされ、高く宙を舞った刃が、キラキラと光を発しながら、やや離れたところに落ちる。
己の勝利を確信して、ミルはほくそ笑んだ。獲物から、牙を引き抜き爪を引っぺがした。後は、仕留めるだけだ。
「あっ!」
「トワイライトさん!」
非常にまずい事態に、レディとカーリは揃って声を上げる。剣がなければ、トワイライトは、丸腰だ。身を守る手段を失った彼の元へ、姿勢を低くしたミルが、一気に走り込んでくる。
「まずいっ!」
エンヴィスが慌てて彼の方を見遣るが、少しでも目を逸らせば魔法が崩壊しかねない状況では、ミルの接近を防ぐ方法はなかった。
「っ!!」
カーリは慌てて銃を構え彼女を狙うが、ミルの動きが速過ぎて、照準を定めるどころか肉眼で追うことも出来ない。無闇に撃ってトワイライトに当たってしまったら、と考え躊躇っている間に、ミルは素早くトワイライトに詰め寄っていた。
「お先に、お死になさいっ!!」
彼の懐に滑り込むようにしながら、彼女は声を張り上げる。
危ない、とこの場にいる誰もが思うが、誰も彼女を止められない。邪魔が入らないことで悦に入ったミルは、慈悲のない手つきで、握りしめたハサミを振り上げた。高く掲げられた刃が、月の光を受けてきらりと輝く。彼女はその煌めきに魅せられ、まるで死期を告げる死神のように、恐ろしい台詞を口ずさむ。
彼女の手の中には、鋭利な刃物。たった一撫でされただけで、皮膚が切り裂かれ血管が断ち切られるほどの、恐ろしい切れ味を持ったそれ。毎日丹精込めて手入れされ、磨き上げられた凶器は、彼女の唯一の相棒。いついかなる時も、決して手放してこなかった大切な存在である。何人もの人間や、悪魔の命を奪ってきた、恐ろしい凶器が今また、今度はトワイライトという悪魔の首筋めがけて、その生命を貪り食らわんと、振り下ろされる。
夜の闇に、噴水の如き血飛沫が噴き上がる光景を、カーリは閉じた瞼の裏で鮮明に想像してしまった。
___キン!
静まり返った空間に、硬質な金属音が響く。
「……話は、それだけかな?」
誰も一言も発しない状況の中、トワイライトの冷徹な声が鼓膜を揺さぶった。
「な、何で……」
彼の言葉に答えるように、ミルが掠れた声で呟く。トワイライトと会話をするためのものではなく、ただ抑えきれない感情が漏れてしまったような、声色だ。憎悪や激怒に支配された、恐ろしい殺人鬼の気配など、影も形もなくなっていた。
何が起きたのかと、カーリはうっすらと瞳を開けて、彼女の様子を窺う。ミルは、呆然とした表情で、その場に佇立していた。元々白いその顔からは、更に血の気が引き、幽鬼のようになっている。一切の感情が抜け落ちたその姿は、まるで途轍もなく大きなショックに、魂ごと引き摺り出された後のように見えた。
彼女から少し離れた位置で、トワイライトは泰然と立っている。傷一つない彼の隣には、魔法で出来た銀色の剣が、ふわふわと浮遊していた。彼女の捨て身の突貫は、それにより防がれたのだろう。だが。
「何で……それ、持ってるのよ……どうして」
ミルの指が、ブルブルと驚愕に震えながら伸びて、彼の剣を指す。まるで、ありもしない存在に、必死に縋り付くような仕草だ。それほどに彼女が今目視しているものは、あり得ない現実だったのである。
トワイライトの周囲を漂う、優美で繊細な装飾が成された、銀色のブロードソード。彼の魔法により生み出されたそれは、確実にミルが、自らの手でトワイライトから奪ったものである。彼女の手には、その瞬間の感触が、まざまざと残っていた。己の手と得物に、美しい刃の表面が、若干傷付き歪むほどの、力がかかった記憶。
あれは、本当だった。トワイライトは確かに一度、己の武器を手放している。妄想に囚われたミルにも、それだけははっきりと分かった。
では、何故彼は、失ったはずの剣を、再び携えているのか?
あの状況で、トワイライトが剣を拾いに行く時間的猶予はなかった。たとえ魔法で呼び戻すにしても、ミルの突撃スピードには対抗出来ていなかっただろう。紙一重の差で、彼女の刃に頸動脈を断ち切られていたに違いない。彼が、あの剣を取り戻すことは不可能だった。ならば、答えは一つしかない。
「あなたは……あなたの魔法は……」
オッドアイがこぼれそうなほど、彼女は目を大きく見開いて絶句する。今にもかき消えそうなか細い声は、幼い子供の見た目に見合った弱々しさだった。
「どうやら、少々誤解を与えてしまったようですねぇ……ま、それが狙いですが」
もったいぶった調子で、紳士が口を開く。礼儀正しいというより慇懃な態度は、早速紳士のそれではない。紳士の仮面を被った、強欲で邪智深い、悪魔だ。大きくて黒い、カラスのような瞳が、ミルを真っ直ぐに射抜く。
「私の剣は、一本ではない。作ろうと思えば、いくらでも作り出せるのです。こんな風にね」
わざとらしい動作で手を顔の横にかざすと、指示に従った剣がふわりと浮かび上がる。いつも彼が作る、そして先ほどミルに弾き飛ばされたものと、全く同じデザインだ。しかし、それは以前持っていた物ではない。彼が魔法によって、新たに作り出した物である。彼は、未だ驚愕の表情を消せないでいるミルを見遣り、にやりと不敵な笑みを浮かべた。
「手持ちのカードは、極限まで隠しておくに限る……それが、一発逆転のコツさ」
彼が仕組んでいた作戦は、こうだ。彼は、ミルとの戦いの中で、どれだけ追い詰められても決して二本目の剣を生み出さなかった。そうすることにより、一度に出せる剣は一本だけだと、ミルに誤解させたのである。結果として彼女は、剣さえ奪えばトワイライトに防御の術はないと、思い込み行動した。全ては、彼の計略の内だったのだ。
「いやいや、苦労しましたよ。まさかここまで魔法の行使に慣れていたとは……久々に、ヒヤヒヤしました」
ダメージを食らい、戦闘の長期化を許してまで、作戦を続行して良かった。期待以上の綺麗な成果だ。
トワイライトは、内心で膨れ上がる感情を押し殺しきれず、誇らしげに目を閉じて、肩を竦めてみせる。
「早々に見せてもよかったんですがねぇ……人間たちの安否を確かめるまでは、派手なことは避けておこうと」
「そ、そんな……!!」
ミルは魂の抜けた表情で放心し、だらりと両腕を下げる。
わざと手加減されたことへの屈辱や憤慨などは、今の彼女には湧いてこなかった。
トワイライトは、全力を出していない状態で、暴走状態に陥ったミルと互角の勝負を繰り広げたのだ。本来の力は如何程のものか、ミルには想像もつかない。剰え、彼は戦況をひっくり返す余力を有しながら、あえて窮地を演じてみせた。並々ならぬ強靭な精神をも持っているということだ。
ミルには、初めから勝ち目などなかった。トワイライトは、この世に存在する無数の可能性の内、最も陰険かつ悪辣な方法で、彼女にそれを突き付けたのだ。
自らの未熟さを思い知り、無力感を噛み締めるミル。意気消沈し、深く俯く彼女の手から、するりとハサミが滑り落ちた。カラン、と硬質な音が、沈黙に満たされた空間に響く。
「カーリくんっ!撃て!!」
トワイライトに叫ばれ、カーリはハッと目を見開く。手にしていた麻酔銃を構え直し、躊躇いなく引き金を引いた。この位置からなら、トワイライトに当たることなく彼女の元まで針が届く。催眠の魔法が込められた針が、シュッと銃口から放たれ、彼女の左肩に命中した。
直立していたミルの身体から、ふっと力が抜ける。静かに体が傾き、彼女は昏倒した。
「はぁ……はぁ……」
知らない内に止めていた息を、深く吐き出す。今頃になってじわりと滲み出してきたのは、きっと冷や汗だろう。何だか、凄まじい疲労感だ。それほど集中していたということなのだろうが、カーリには自分が彼女を倒したという実感がなかった。
「お……終わった……?」
あまりにも呆気ない結末が、本当のことなのかと自分の目を疑う。
「あぁ、終了だ。長時間の業務お疲れ様」
誰にともなく発した問いかけに、トワイライトが答えた。彼の言葉を聞けば、流石のカーリも己のなすべきことが終了したのだと分かる。
だが、まだ現実味がなくて、呆けた表情のまま、床に倒れたミルを見つめた。
小柄な体躯が、大人しく横たわっている姿は、まさに人形そのものだ。目は閉じられているから、オッドアイを見ることは叶わないが、美しい金髪とロリータファッションは、ふわふわとしていて現実味がない。スヤスヤと深く寝入っている様を眺めていると、どこからか強い違和を感じる。まるで、パズルのピースがどこか一つはまっていないような、感覚。それは、起きていた時の彼女が、外見に見合わないほど、凶暴で恐ろしい人物だったからだろう。違和感に慣れた体が、今度は正常に戻った姿を見て、再び混乱しているのだ。
「カーリっ!!」
「えっ?」
その時だった。レディの鋭い声が飛んできたかと思うと、頭上でボコッと何かが外れるような音がする。ふと視界が暗くなって、顔を上げると、カーリの頭めがけて、巨大な瓦礫が落下してくるところだった。
「……!!」
老朽化した天井が、一部剥がれ落ちたのだろう。逃げなければ、と脳が警鐘を鳴らすが、恐怖に固まった体は、咄嗟には動けない。硬直する彼女を、レディが横から手を伸ばし、無理矢理引き倒した。
「危ないっ!」
そして、落ちてくる瓦礫を吹き飛ばそうと拳を構える。しかし、この距離で拳を振るえば、飛び散った破片がカーリを傷付けるかも知れない。それでは意味がないと、思い直した彼女は、カーリの上に乗り上げるようにして覆い被さる。自分が身代わりとなることで、彼女を守ろうとしたのだ。
痛みと衝撃を覚悟したレディの耳に、ガツン、と硬い物同士がぶつかるような音が届く。
丸めた背中に、バラバラと細かい礫辺が降り注ぐ。砂埃で煙いのを、手で払いながら顔を上げると、錫杖を構えたエンヴィスがそこに立っていた。
「エンちゃん!」
「エンヴィスさん!!」
彼が杖を振るって、瓦礫を打ち砕いてくれたのだろう。助かったと、二人は安堵の息を吐く。だが。
「早く逃げるぞ!」
エンヴィスは切羽詰まった声音で、二人に避難を促す。直後、彼らの足元を強烈な揺れが襲った。
どうやら、炎の魔法が暴走したようだ。カーリたちを救うことに意識を削がれ、魔法の統制を保っていられなかったのだろう。ドラゴンの形はさっぱり消え去り、辺りにはただゴウゴウと燃え盛る炎が広がっている。それによって壁や柱が破壊されているのか、建物全体がぐらぐらと振動していた。
「まさか……倒壊する?」
声に出してしまったのは、一体誰だったのか。突き止める暇もない内に、トワイライトが指示を出す。
「脱出しよう。早く。今すぐに!」
彼にしては珍しく、余裕のない大きな声。だが命じられるまでもなく、三人は既に出口に向かって駆け出していた。トワイライトは、未だ眠っているミルを担ぎ、その後ろを追いかける。四人は急いで、病院の出口を目指した。
エントランスへと向かう道中も、亀裂が蛇のように這い回った壁や天井から、いくつもの瓦礫や破片がこぼれ落ちてきた。廊下も階段も、まるで波打つようにうねり、通行人の足を掬う。誰もが皆、己の無事を確保するので精一杯だった。
「急げ!転ぶなよ?」
一足先に進むエンヴィスが、通路の安全を確認しつつ仲間を急かす。いよいよ出口が見えてきたところで、女性二人に先を行かせ、最後尾をトワイライトと共に追いかけた。
「あそこです!」
声を張り上げたカーリが、逸る気持ちに押し出されるように、自然と足を速める。
「走れ!崩れるぞ」
エンヴィスの声を後ろに聞きながら、彼女たちは建物の外へと走り出た。
振り返って天を仰ぐと、目の前には、今までにも増して大きく揺れる建物がある。何かが壊れ軋む音と共に、強い振動が彼女たちの下までやってきていた。立ち止まっている暇はない。
走り続けて、公道まで出ると、来た時には停まっていた、不良たちの車がなくなっていることに気付いた。失われた命は残念であるが、生き残った者は逃げたようだ。取り残された人がいないことを祈りながら、背後で大きな音を立てて崩れ落ちる建物を眺める。舞い上がる土埃と、身体を跳ね飛ばすほどの衝撃に、カーリは何度も転びそうになる。蹴躓いてはレディに助け起こされるのを何回か繰り返し、終いには手を引っ張られて支えられた。
膝に手をついて、トワイライトはハァハァと荒い息を吐く。巨大な病院の西棟は、すっかり倒壊し、瓦礫が崩れ落ちるガラガラという音だけが、断続的に響いていた。
「……危ないところだったねぇ~」
アスファルトに寝転がって、伸びをしたレディが言う。能天気に空に向かって手を伸ばしたりしている彼女の額を、エンヴィスがコツンと軽く打った。
「嬉しそうに言うな。死にかけたんだぞ」
「イッターい!でも、脱界者は逮捕したじゃん」
飛び起きた彼女が、わざとらしく手で額を押さえて、大袈裟に痛がる。実際には力がほとんど入っていなかったので、まるで痛みなどないが。
「アタシたちの仕事は終わりだよねー、トワさん?」
「あぁ……そうだな」
次の瞬間にはケロリとした顔をして、ゆらゆらと揺れながらトワイライトに質問をする。トワイライトも彼女の性格を分かっているため、心配などしない。首を縦に振って、淡々と肯定だけ示した。
「よかった……!」
彼の返答を聞いて、カーリはようやく肩の力を抜く。
「全くだよ。はぁ~ぁ、疲れた……」
安堵の息を吐くカーリの隣で、エンヴィスもぐるりと凝り固まった肩を回した。
「それで、これからどうする?ミル嬢の送還はすぐ行われるだろうが、私たちも一緒に帰還するかね?それとも……地元の街で、何か美味いものでも食べていこうか?」
トワイライトが、目の上に手で庇を作って、周囲を見ながら提案する。
夜が明けたばかりの空や海は、ピンクともオレンジともつかない暖かい色に染まって、美しく輝いていた。右手に見える港町には、ポツポツと灯りが灯っている家もある。ここからでは少々距離があるように見えるが、タクシーを呼べばすぐ行ける距離だ。決して田舎ではない町なので、早朝まで営業している店もいくつかあるだろう。たまには人間界の美食を楽しむのも悪くはない。
「いーじゃん!スシ食べたい!スシ!」
トワイライトの思考がそちら側に傾いていると、レディが高い声を上げてはしゃぎ始めた。確かに、新鮮な魚介を食べるにはうってつけの町だと、エンヴィスも同意する。
「スシか……いいかもな。あんな目に遭った後だし、たまにはパーッと」
「私も、行きたいです」
仕事が大変だった日は、美味しいものでも思い切り食べて、ストレスを解消したいものだ。総員の賛成が採れたことを確認すると、トワイライトは即座に魔法によるメッセージを魔界へ送る。数分後、ミルの送還を行うための転移陣が出現した。頑丈な金属製の手枷を嵌められた彼女が、魔法陣の上に置かれる。未だ眠ったままの彼女は、そのままあっさりと魔界へ転移していった。
「よし、なら行こうか。スシが食べられる店があるといいんだが」
これで全ての仕事は完了だと、トワイライトは腰に手を当てて断言する。
「いぇーい!アタシ、ロール食べたい!カリフォルニアロール!」
「レディちゃん……それはお寿司ではないのでは」
レディが喜んで、拳を突き上げた。隣からカーリが、的確なツッコミを入れる。
楽しそうな部下たちを従えて、トワイライトは歩き出した。彼らの後ろで、片腕を失ったかつての大病院が、空虚に佇んでいた。
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