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第三話
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僕の通う美術大学は、そこそこに広い学生食堂を持っている。僕は適当に壁際の席を選んで、大盛りうどんを啜っていた。バイトをずる休みし続けて金欠の僕には、柔らか過ぎる太麺が救世主に見える。
「おいっす。お疲れ~」
ガタンと音を立てて、目の前の椅子が引かれた。やたらと大きなリュックを背負った男が、僕の向かいに座る。トレイに載った生姜焼き定食の、香ばしい匂いが漂ってきた。
「いやぁ、久々に来たわ。最近バイトが忙しくてさぁ」
彼は松村。下の名前は知らない。今のようにいきなり会話を始める人懐こさが好きで、親しくしている。僕にとっては、唯一友人と呼べる相手だ。とはいえ、最初の頃は彼の派手な見た目を嫌厭し、距離を置きたがっていたような気もするが。
「そうなんだ」
「おう。で?お前こそどうなんだよ、例のバイト」
彼にだけは、絵画のモデルとして働いていることを伝えていた。僕の雇用主が、文屋錨であることも。
「隠すなよ。続けてんだろ?なぁ……ぶっちゃけ給料とか、いくらもらってんの?本物の文屋錨って、どんな感じ?やっぱスゲェのか?」
松村はわざとらしく身を乗り出して、声を潜めて聞いてくる。彼の好みは中世ヨーロッパ的な古風な絵で、錨のような現代的な画家には興味を示さないだろうと思っていたが、どうやら的が外れたようだ。実際周りに知り合いがいるとなれば、話が変わるということだろうか。だが彼の熱意は、週刊誌の記者やパパラッチのような、猥雑かつ悪質な根元から生まれている印象だった。僕は何も言わずに、うどんを咀嚼して水を飲む。すると彼は何を勘違いしたのか、一人で話し続けた。
「いいなぁ、やっぱ他の連中とは違うんだろうなぁ~!こう、なんていうかさ、センスがあるっていうの?尖ってるっていうか!いいなぁ、俺も会いてぇ~!」
ここまで一気に喋って、僕の反応を見るように顔を覗き込んできた。答えたくなかったが、仕方なく相手をする。
「でも、意外と、結構大変なんだよ。じっとしてなきゃいけないし」
口から出たのは、本心だった。決して松村のやる気を削ごうという魂胆からではない。もとより、バイトに行っていないのも、実は半分以上その理由からなのだった。
「いや、そんなの大したことないって!」
ところが松村は、大袈裟に手を振って僕の懸念を一蹴した。
「だってあの文屋錨だぞ?現代美術界のスーパースター!生きる伝説じゃんか!そんな奴と会えるんだったら、安いもんだろ、それくらい」
もはや人目を憚ることもなく、大声で捲し立てる。だが彼の言葉はそれこそが、錨の最も忌み嫌うものだった。何も知らない人々によって、軽々に祭り上げられ、痛め付けられることが。
「それにさそれにさ、気に入られたら、弟子にしてもらえるかも知れないぞ?もしくは、知り合い紹介してもらって就職先見つけられるかも!くぅ~!」
騒ぐ彼を見ながら、僕は自分が分からなくなるような錯覚に陥っていた。どうして過去の僕は、彼みたいな男を友人に選んだのだろう。そもそも彼は本当に、松村なのか?いつの間にか、誰かが彼の人格を破壊して、全くの別人を挿入したのではなかろうか。いや、そんなはずはない。変わったのは、他ならぬ僕だ。
「なぁ今度俺のこともさ、紹介しといてくれよ」
「……出来たらね」
「出来たらじゃなくて、絶対な!んじゃ、悪い、これから俺バイトだから先行くわ!」
と、生姜焼きの残りを一気に頬張って、彼は席を立つ。やたら大きいと思ったリュックには、注文した食材が自転車で届けられる、例のアプリのロゴが入っていた。体力だけはあると自慢していた彼には、格好のアルバイトだろう。
「……あ、そうだそうだ」
歩き出したはずの松村が、突然引き返してきた。僕はキョトンとして彼を見上げる。だがすぐに、そんなことしなければ良かったと後悔した。
「錨ってさ、確か娘いんじゃん?可愛い?」
「……まだ高校生だよ?」
「だぁから言ってんじゃん。どうせ高校なんて、すぐ卒業するだろ。今の内に唾付けとくんだって。本格的に付き合うのはその後だとしてもさ。そしたらお前、錨の義理の息子だぜ?あっ、やべぇ遅れる!」
バタバタと走り去る彼の目立つリュックを、僕は無言で見据えていた。無論、この行為に意味がないことは知っている。これは、自分自身への怒りだ。彼の趣味がバイトと、アプリで知り合った女性と遊ぶことだというのをすっかり忘れていた。今までは気にならなかったはずなのに、今日ばかりは癪に触ってどうしようもない。愛梨に好意があるからか、それとも錨に興味があるからか。
僕は彼らによって、随分と多くの影響を受けている。彼らの持つ電波のようなものが、徐々に僕を蝕み、侵していくのだ。嫌な気はしない。だが、少しだけ恐ろしくはあった。
モデルとして座っている間中、ずっと僕の頭は活動している。僕を見る錨の眼差し、予測のつかない手の動き、鉛筆が紙を滑る音。錨の拳が音を立てて、細い絵筆をへし折る。僕に背中を向けていた錨が、ゆっくりと振り向く。薄明かりの下で、その仄かな光に似合わぬ形相が、僕を捉える。憤怒に染まった、鬼のような顔。目尻がきつく吊り上がり、眼光だけが異様に鋭くて、唇はへの字に歪んでいる。いや、これは僕の想像だ。あるいは、あの日の夜に見た夢かも知れない。瞼の裏に焼き付いた錨の姿が鮮烈で、家に帰ってからもずっと意識していた。または反対に、今この時が夢で、本物の僕はまだ布団の中に横たわっているのか。想像と現実の境目が見えなくなる。僕の脳は甘い夢に浸かって、体だけが錨の筆で、絵画となって閉じ込められる。そして僕は、永遠を生きるのだ。肉体が死しても尚、僕として残り続ける。恐ろしいことだ。
錨は何故、あんなことをしたのだろう。何を思い、何を感じていたのか。
単純に僕が憎かったのかも知れない。ただのバイトに過ぎない、凡庸な美大生の僕が、錨の大事な愛娘に手を出そうとしたのだ。普通の父親なら誰だって、憤るだろう。そこに絵の具の調合が上手くいかないのも手伝って、激情が爆発しただけ。ただそれだけのことだ。
だけど、本当にそうだろうか。所詮は押し並べて僕の想像であって、本当のところは違うのではないか?僕の脳みそは気が付くと、このことばかり考えてしまう。だから気分も優れないし、おまけに寝不足だ。
やはり僕には、モデルの仕事は向いていなかったのだろうか。でも錨は気に入ってくれた。そのことだけが僕の支えだ。僕はいつか、完全なる別人に変わるだろう。それがいつなのか、どのように起こるのかは分からない。だけど変化を受け入れたら、僕は全てに慣れることが出来るのだろうか。絵画のモデルを務めることにも、錨という人間にも。
現在の僕が言えることはただ一つ。僕は松村のようには生きられない。
* * *
「だからさー、俺言ってやったわけ。こんなの大したことないって。指先まで血だらけなのにさ。そしたら努さん慌てちゃって……本当、あんたにも見せたかったよ」
いきなりフルスロットルで機関銃のように言い尽くし、錨はけたけたと笑う。今日の彼は、一段と機嫌が良い。何かに付けては破顔し、僕の肩を親しげにバシンと叩く。手首にうっすらと白く残った、昔の傷跡を撫でる手付きには慈しむような感情があった。まだ二十代の頃に、彫刻刀でザックリ切り裂いたという事件の話だ。出血多量で危うく救急搬送されそうだったと、浮ついた声音で語っている。何故こんな話題になったのかと、僕は思案した。
久しぶりに姿を見せた僕を、錨は怒るでもなく心配するでもなく、素知らぬ顔で迎え入れた。体調不良という、僕の嘘には気が付いていたはずなのに。ともかく、いつものようにアトリエで数時間を過ごした僕は、その後外へと連れ出された。入ったのは、繁華街の裏通りにある、ありふれた居酒屋チェーンだ。それなりの稼ぎに見合った、それなりの暮らしをしている錨には、似つかわしくない店。低俗で平凡で、どこもかしこも汚い。床は謎のベタつきに塗れ、壁中に貼られたメニューの紙も、変色して黄ばんでいる。錨自身訪れるのは初めてらしく、物珍しそうに辺りを見回していた。
「あの、どうして今日、僕をここへ?」
機会を窺って、尋ねてみた。すると錨は目を猫のように見開き、おもむろに瞬きをした。僕に質問されたことさえ、予想外だという風に。
「特に深い意味はないよ」
「そうですか」
「あれ?でも、今月誕生日って言ってなかった?ならそのお祝いだ」
「いや……先月です」
「え、そうだっけ」
一連のやり取りから分かったことは、結局錨はいつまで経っても錨だということだ。この店を選んだのも、彼が勝手に僕の行きつけだと思い込んでいたかららしい。相変わらずの姿に、僕は何故か嬉しくなった。
「あんたさ、大学で何やってるんだっけ」
さして興味もなさそうな口調で、錨が問う。彼の目は手元の枝豆に注がれたままで、こっちを見ようともしない。
「デザインです。平面系デザインを……」
僕は答えながら、ふと視線を感じ、首を巡らせた。近くのテーブルに座っている大学生らしきグループが、ちらちらと僕たちの様子を探っていた。
「広告とか、イラストとか?」
錨の声で、僕は体の向きを戻した。彼は何も気が付いていないようで、退屈そうにしている。僕は再び口を開いた。
「そうなりますね。僕は、出来れば雑誌の編集とかしたいんですけど……美術関連の」
「じゃあ、いつか俺のとこにも取材に来るかもってことだ。記者として」
今度は少しだけまともな反応が返ってきた。油でてかったテーブルに肘を付き、掌に頬を乗せる。その仕草は気怠そうで、決して肯定的には感じられなかった。
「嫌なんですか、取材を受けるのは」
「嫌じゃないよ。嫌じゃない……メディアに出て、名前と顔を売れば、作品だって注目される。努さんの言う通りだ」
錨はゆっくりと首を振り、深い溜め息をついた。言葉では否定しつつ、内心では心底嫌気が差しているようだった。
「そう、思ってたんだ」
話題を変えるべきかと、僕は逡巡する。その時のことだった。
「あの~……すみません」
数人の女性たちが、僕らのもとにやってきた。正確には、錨のところへ。
「文屋錨さんですよね?」
一人が言って、錨の顔を凝視する。彼は決して美形でなく、人目を引く容貌はしていなかったが、やはり分かる者には分かってしまうようだ。特徴的な彼の話し方のせいかも知れない。
「……ん、そうですけど」
突然のことにも、錨は動じずに応対した。丁寧に箸を置くと、柔和な表情を作り優しげに微笑む。求められるままにサインやら握手やらを差し出し、写真撮影にも協力した。期待を上回る好反応に、彼女たちは一斉に色めき立つ。互いの肩を小突いては囁き合い、中には照れたように頬を染める者もいた。僕のことなど、最初から認知すらしていないらしい。
「あ、あの、私先生の大ファンなんです!」
「ありがとう」
「キャー、カッコいい!」
「そんなことないよ」
矢継ぎ早に並べ立てられるのはどれも、軽薄で取ってつけたような美辞麗句ばかりだった。とても本心とは思えない、お世辞めいた言葉だ。騒々しさに引き付けられて、他の客からも好奇と苛立ちの眼差しが寄越される。店の片隅では店員たちが、注意すべきかどうかを相談していた。
「行きましょう」
これ以上留まっていては、ろくなことにならない。僕は直感し、立ち上がった。女性たちの不満げな目が頬に突き刺さる。僕は気が付いていないふりをし、錨を連れ出した。腕を引っ張られた錨は、ほぼ飲んでいないにも関わらず、酔ったふりでへらへらと笑っていた。歩き出してからも、それは収まらなかった。
「いやぁ、感心したよ。あんた、どんどん努さんに似てくるね」
飲み直そうと歩き出した直後。彼は唐突に歩みを止め、僕の方を振り返ると、真顔で言い放った。別に求めてはいなかったが、礼が告げられることもないようだ。むしろ、余計なことだとでも言いたげに、彼は苛立っていた。
「マネージャーとして働くの、向いてるんじゃない」
流石の僕でも気が付く、明白な皮肉。色々と口にしても、結局彼は、努が嫌いなのである。彼の生業も、心根も。
彼は錨とその作品に傷が付かぬよう、常に気を配っている。だが悪意のある見方をするなら、それは彼から得る利益を最大限にするためとも言えよう。二つは表裏一体で、切っては切れないものだ。清濁合わせ飲むしかない。錨とてその恩恵を受けているのだから。とはいえ、そう容易く割り切れたら、苦労はしない。
「あんなの俺の仕事じゃないでしょ。ファンって名乗る人間たちが押し付けてくる、一方的な夢や希望、期待?それに応える姿を見せなきゃならない。おかしいだろ?そんなの、アイドルにでもやらせるべきだ」
二軒目は、個室が主の中華居酒屋だった。錨はザーサイをつつき、ビールばかり飲んでいる。そしてまだ頬も赤くならない内から、管を巻いているのだった。
「読んだこともない雑誌の興味もない特集に出てさ、昨今の日本美術は~とか、したり顔で語るんだよ。みんなが思う、芸術家像を演じるわけだ。まぁ中には、ありのままの言葉を求めてる人もいるんだろうけど。でもやっぱりそこには、大体のニーズってものがある」
名が売れるということは、そういうことだ。テレビの中の芸能人と同じく、人々の憧憬と羨望とを、一身に背負う人間になる。彼らの求める言動をし、彼らの理想を叶え、時と場所を弁えず無礼な振る舞いをする者が現れても、懇切丁寧に応じなければならない。私生活に立ち入られ、個人情報をばら撒かれても、耐えるしかない。ファンを名乗る赤の他人に、我が物顔で好き放題されても、飲み込むしかないのだ。何故ならそれが、成功の秘訣だから。あるいは、現在の裕福な暮らしの根源となる。彼らにだって悪意はない。ただ純粋に、夢想しているだけなのだ。自らのつまらない人生を、北風のように颯爽と現れたカリスマが、魔法のステッキを一振りして変えてくれる瞬間を。だからその程度の代償ならば、許容すべき。それが世間の主張であり、インターネットの言い分だ。疑問を差し挟む余地は、ない。
「もちろん、画家として生きていけるのは、ありがたい。とてもね……だけど俺さ、こうも思うんだよ」
錨の独白は止まない。既にテーブルには、ビールの空き瓶が数本分転がっていた。注ぎ口から溢れた泡が、飢え死にした生物のように長々と伸びて醜態を晒している。
「画家になんて、ならなければ良かった」
その言葉は、僕にとって途轍もない衝撃だった。
「絵を描くことは喜びだ。言語化出来ない感情を、形として表せる。世界から美を切り取って、額に入れておける。それは素晴らしいことだろう?おまけに、現実であった嫌なことも、辛いことも、全部忘れられる……子供の頃から、変わらない。だけど、同時に苦痛でもあるんだよ。一つ壁を越えたと思ったら、また別の壁に出くわす。終わりに行き着くことは決してない。どこまでも続く無限の階段を、上っていくしかないんだ。永遠に」
喧騒に満ちた店内で、この個室だけが異次元であるかのように、しんと静まり返っていた。二人だけの世界に、錨の淡々とした言の葉のみが落ちていく。
「でも……それでも、俺は絵を描くしかないんだ。それでしか、生きられないんだから。どんなことをしてでも、描き続けるしか。他に道はない。だけどさ、やっぱり考えちゃうじゃない。絵を描かない人生なら、どんなに良かっただろうって」
彼の瞳はここではないどこかを捉えて、離さなかった。彼の顔も声音も、まるで洞穴のような空虚さを湛えて、暗く火照っている。酔いのためか血色は良く、目だけがギラギラと嫌な光を放っていたが、むしろそれが病的な不気味さを与えていた。僕はその圧倒的な闇に吸い込まれそうだった。
「創造なんてただの、逃避でしかない。その一瞬だけ、苦しみから目を逸らしていられるだけなんだよ。その程度さ。救われない。根本的な解決にはならないんだよ」
僕の脳裏に、奇妙な光景が浮かんできた。キャンバスと絵筆を携えた錨の前に、天まで続く巨大な階段が聳えている。そんな絵だ。
「向き合うしかない。分かってる。分かってるんだ……けど、おかしいだろう?俺はこんなことしなきゃ、生きられないのか?どうして俺は、こうなんだ?どうして世界は……こんな風なんだろう」
語り終えた錨は、コップを握ったままテーブルに突っ伏した。その後も何か夢見るような口調で呟いていたが、次第に途切れがちになり、先細っていく。彼の丸まった背が呼吸に合わせて上下するのを、僕は眺めた。
彼は画家だ。絵を描かなくては、生きていられない人間だ。絵を描くために、生きている人間でもある。この世界にいる限り絵筆を置くことは出来ず、従って命を捨てることも叶わない。そういう生き物なのだ。どれほど嫌悪しても、厭忌しても、それは変わらない。変えられない。彼の夢は所詮実現しない夢であり、してはならない夢だ。何故なら彼は画家だから。生を受けた時点から、そのように定められている。
すっかり泥酔した錨を、僕は無理矢理タクシーに詰め込んで、自宅まで送り届けた。時刻は既に深夜だったが、まだ愛莉は起きており、僕らを迎えてくれた。錨の介抱を手伝っている間に、いつしか泊まって行けという流れになっていた。特に錨本人からの命令では、逆らう術がない。僕は彼らの好意に甘え、一晩泊まらせてもらうことにした。
「じゃーん。どう?ここ俺のコレクションルーム」
接種したアルコールの大半をトイレに吐いてしまってから、錨は幾分か元気を取り戻していた。まだ足取りは若干危ういものの、僕を案内して家中連れ回す気力は復活している。そして、自身の書斎へと僕を導いたのだった。そこには、彼の画家としての感性と収入がふんだんに注ぎ込まれた、莫大なコレクションが置かれている。絵画や彫刻の他に、壺や皿などの陶器、掛け軸、写真も飾られていた。彼の思う、世界中の美しいものが一堂に介しているという感じだ。画廊よりも更に配置の無秩序さが突出していて、錨以外の人物にその妥当性を理解することは、至難の業に思われた。計算高く配置された照明によって、収集された物品たちは皆、個性的な輝きを燦然と放っていた。
一際目を引くのは、最奥の壁にかけられた巨大な油絵だった。あまりにも異彩の迫力を放っているがために、他の芸術品とは一線を画していることが即座に分かる。
平和な絵だった。日の当たる芝生の上で、めかし込んだ人々が談笑している。顔はなく、体型ものっぺりとした抽象的なものだが、雰囲気は華やかで、温かい。交わされる言葉や、花開く笑みが聞こえてきそうだ。どこかルノワール的な格調高い構図を巧みに活かし、明るい色調で親しみをもって描いている。少しばかりの稚拙さが滲んでいるところを見るに、もしや芸術大学時代の卒業制作だろうか。錨がまだ僕と同じ年頃だった時分に、苦心して作った牧歌的な魅力。
だが、その努力を何もかも台無しにするかのようにして、絵の中央を黒い線が横切っていた。まるで頭の足りない若者が、仲間と飲んで衝動的に施した落書きだ。作者の思いを踏み躙る、残虐極まりない行いに、僕はゾッとした。 錨の冷ややかな声が、僕の戦慄に追い打ちをかける。
「それ、俺がやったんだよ」
本当に、背中から冷水をかけられたのかと思った。心臓が凍るような瞬間だった。きっと僕は、死ぬまでこの時の感覚を忘れないだろうと信じるほどに。
「これ、卒業制作なんだけどさ。完成間近で、落書きされちゃったんだよね。こんな風に、スプレー引かれて。誰がやったんだか」
錨はズボンのポケットに手を突っ込んで、肩をそびやかして宣った。怒りを隠して強がっているのか、茶化しているのか、判別も出来ない態度だ。
大学を中退して入学してきた変わり者だと、錨(幸生)は学内でも浮いた存在として扱われいていた。また、己の才覚への自信と自負があったのか、彼の性格も人を寄せ付けないものだった。幾度も教授と衝突し、周囲との軋轢を生む日々。陰口、嫌がらせが始まったのはもはや当然の流れだった。そうして被った害の一つが、卒業制作への落書き行為だったという。
「それは……酷いですね」
卒業制作は、卒論と同じで、卒業に関わる重要な課題だ。かつての錨が、全力を注いで描き上げた作品でもある。それを一瞬で無駄にされたということがどれほどの精神的ダメージをもたらすか、僕には想像することも難しかった。
「いや、そうでもないよ。これはこれで、一種の芸術じゃん」
呻き声を発する僕に、錨は否定を告げた。衒うこともなく、平然と。
「この絵って一応、俺の自信作だったわけ。分かる?見る人の心を動かす力と気迫に、満ち満ちてると思ってた。そこに躊躇なく横線を引いたんだ。凄い気骨だろうが……それに、ここまで人を憎悪出来る感情ってものにも、興味が湧いた。これを俺の、本当の卒業制作にしようと思ったんだ。でも流石に、このまま出すと他者の手を借りた剽窃行為ってことになって、単位は認められない。だから、自分で一から作り直した。ホームセンター行って、スプレー買ってさ」
油絵は基本的に、上から絵の具を載せれば失敗も上書き出来る。しかし錨は、その選択をしなかった。彼は半年費やして作った一枚目の絵を、たったの一週間で複製したのだ。ついでとばかりに、改良まで加えて。最後に上からスプレーを吹きかけた。彼の絵は最終的に、最優秀作品として表彰されることとなった。彼はそのような偏執的な方法でもって、盛大な復讐を果たしたのである。
錨の語り口はさっぱりとしていたが、僕には全く意味が分からなかった。困惑した。芸術性を見出したなんて出まかせだ。彼の中にあったのは、絶対に相手を許さないという憎悪と、報復への猛烈な熱意。それだけに違いない。僕は錨を怖いと思った。だが同時に、強く惹かれてもいた。
その夜、僕はまた夢を見た。あの卒業制作みたいな、巨大なキャンバスを背負った錨が、同じく巨大な絵筆を杖にして立っている。彼の眼前には、ピラミッドに似た建造物が、悠々と身構えている。聖書に出てくる塔のように、天へ向かって際限なく伸びている。一段が胸の高さまであって、簡単には乗り越えられそうにない。錨は意を決して、よじ登っていく。何段も何段も、休まずひたすら登っていく。何故なら彼が踏みつけたところから、階段はどんどん脆くなり、ひび割れて砕けてしまうから。立ち止まれば、地上まで一気に転落し、そこで蠢く有象無象の生物に蹂躙されることとなるだろう。それが嫌なら、先に進むしかない。次第に段差は大きくなり、絶壁のように聳えても、それでも錨は挑み続ける。いつか終わりが来ることを、この歩みを止められることを信じて。しかし、本心では気が付いてもいる。己の旅に、終わりがないということを。
初めから階段など、上がらなければ良かったのだ。他の大抵の生命と同じように、空に目を向けずずっと地上で暮らしていれば。芸術家として、無限の苦痛に喘ぎ、著名人の振る舞いを演じる痛みを覚えずに済んだ。だが地上には地上の、熾烈な生存競争がある。もっと明確で残酷な、弱肉強食の世界が。要は、どちらがマシかという話だ。まさしく、理不尽。この世界は、生きるということは、どちらを選んでも艱難辛苦だ。それこそが現実として、誰しもが受け入れ半ば諦観をもって、生き抜いている。錨の特別繊細な心が、鋭敏な感覚が、その違和感に気付き耐え難く思っただけなのだ。そして彼は己の特性を、見て見ぬふりしている。
『どうして僕を選んだんですか?』
夢の中の僕は、いつの間にか錨の隣に佇んでいた。階段の上は静謐に包まれ、神秘的な空気に閉ざされている。だが、常に近隣の仲間の声が、喧しく聞こえても来る。奇妙な世界だ。しかし既に足場は崩れ始め、地上に棲まう怪物たちが異形の手を伸ばしてくる。早いところ、次の段階に進まねばならない。
『分からない?』
わずかに息を切らしながら、錨が答える。お気に入りの服は砂と埃に汚されて、背中はキャンバスの重みで曲がっていた。顔は皺だらけで、現実の彼より老けて見える。枯れ木のように痩せ細った身体を、絵筆の杖に縋らせてようやっと立っている格好だ。口調だけがいつもの彼で、僕を振り返って目配せする。
「あんたは……からだよ」
そこで目が覚める。カーテンの隙間から入り込んだ朝日が、僕の額を呑気に照らしていた。
あの時何を言われたのか。僕は未だに分からない。今後一生、分かる時は来ないだろう。何故ならあの日以来、錨と会える機会は、永久に失われてしまったのだから。
* * *
休講日だった。先週の授業の際、連絡を受けたような気もするが、上の空だった僕はそのことを失念し、うっかり来てしまった。別に家と大学との距離はさほどではないから、帰ろうと思えばすぐに帰ることが出来る。しかし、到着して早々に引き返すのもどうしてか味気なく思えて、僕は漫然と学内を歩き回っていた。友人が多ければ、誰かしらと談笑して時間を潰せるだろう。大して中身のない会話でも有意義なものとなって、僕に希望をもたらすはずだ。だが残念なことに、この仮説は実証不可能だった。仕方がないので、僕はぼんやり駅へと向かうことにする。どういうわけだか、錨のことは考えもしなかった。
道中、いつもと違う脇道に進むと、古本屋が一軒あった。ほとんど無意識的に立ち入った。店内は薄暗く、古書の匂いで充満している。外から差し込む日差しによって、埃や粉塵が明瞭に映し出されていた。乱雑に並べられた本の中から、僕は一冊を引っ張り出した。子供の頃、繰り返し読んでいた児童書だ。可愛らしいクマの絵が表紙を飾っている。僕が絵画の楽しみに目覚めたのは、このクマのおかげだった。こんな可愛い絵を描きたいと思って、筆を取り始めたのだ。幼い時分の懐かしい思い出が蘇ってきて、僕はつい本を抱えたまま会計に向かおうとした。
「あれ?加賀さん?」
途端、誰かが声をかけてきた。僕は驚いて足を止め、振り返る。少女が嬉しそうに微笑んで、僕のもとに駆けてきた。
「びっくりした、愛莉さんか。どうしたの?今日、学校は?」
「サボっちゃいました。これからお昼、どうですか」
ちろりと舌を出してはにかむ愛莉の姿は、四月に見た時より随分垢抜けていた。主にスカートの丈が短くなっているからだろうか。僕は一瞬目を奪われたのを誤魔化すように、頷いた。結局、本は買わなかった。
「この店、よく来るんですか?」
「いや、初めて」
「ふふふっ、そうなんだ」
駅近くのカフェの中で、僕らは窓際のボックス席に座っていた。アイスティーをストローでかきまぜながら、愛莉がくすくすと笑う。対する僕は困り顔で、ナポリタンを口に入れた。
「今日みたいなこと、よくするの?」
「今日みたいなって?」
「サボり。学校行ってないなんて、錨先生怒らないの?」
「さぁ。知ってるとは思いますよ。でも、そのことで怒られたりとか、何か言われたりとかはありません。お父さんは多分、どうでもいいんです。普段、私が学校で何してるか、誰と仲良くしてるか、そういう話……」
愛莉はオムライスを食べながら、色々なことを話した。まるで、愚痴の吐き場所を探していたかのように。ひょっとして、彼女には友達がいないのかも知れない。父親の噂は、きっとどこにいてもついて回る。周りの人から遠ざけられて、寂しい毎日を送っているのだとしたら。そう思うと、うんざりしそうな長広舌にも、いくらだって耐えられた。僕はひたすら聞き役に徹し、一方的に囀る彼女も悪くないなとか、下世話なことを考えていた。
「……ふぅ」
喋り疲れたのか、彼女は唐突に黙ると、ほとんど氷の溶けたアイスティーを飲む。その時の顔色が、やけに冴えない様子で、僕は咄嗟に切り出していた。
「もしかして、何かあったの?誰かとトラブルになったとか」
「そんなこと、ありませんよ」
愛莉は間髪を容れずに否定したが、彼女の美しい瞳は、わずかに揺れていた。僕はじっと彼女を見つめ、その真意を暴こうとする。愛莉は僕から逃れるように、顔を下に向けて膝の上で両手を組んだ。透明なネイルの塗られた爪を反対の手で撫でて、細い指を絡み合わせる。瞼を閉じて、一つ息を吸って。何かの決意を固めるみたいに、逡巡を吐息として排出する。
「……私、レイプされて出来た子なんです」
放たれたのは、予想外に重く、聞く者の胸を貫く言葉だった。しかし、意外にも僕の心は凪いでいる。冷静な頭で彼女の告白を受け流すことが出来た。
「父は母に、異常なまでに執着していました。怖くなった母が別れを告げると、強引に抱いて引き止めようとした。結果、母は妊娠し、中絶を望んでも、部屋に閉じ込められて病院にも行けなかった……母が出て行く時、父はもう止めなかったそうです。だって、既に私が生まれていた。元々他人の母なんかより、よっぽど強い繋がりを持つ子供が。血縁からは一生逃れられないし、従って私は、父を愛するしかない。そういう人形が、父は欲しかったんだって……」
想い人から唐突にこんなことを打ち明けられたら、普通は動揺したり、悲しんだりするものだろう。けれど僕にとっては、彼女の話は全くの無味乾燥で、ありきたりなものに思われた。まるで興味もないドラマの展開を又聞きしているようだ。何の感慨が湧いてくることもない。
「その話、誰から聞いたの?」
不信が伝わってしまわぬよう、声音と口調にかなり気を付けて、口を挟んだ。
「母です。ある日手紙が送られてきました。あなたには真実を知っていて欲しいからって」
質問の答えは、やはりこれまた創作話じみていて、怪しげだった。差し出された手紙は、中高生の好みそうな、安っぽいファンシーなデザインの封筒に包まれている。便箋を開くと、丸っこくて幼い字が不恰好に連なっていた。僕の胸の中で、何かが急速に冷めていくのを感じる。
「真実、って……」
僕は思わず、呆れと嘆きの入り混じった呟きをこぼす。
「信じてくれないんですね」
「だってこれは、君の字だ。どんな理由があれ、お父さんを無闇に貶めちゃいけないよ」
「どうしてそんなこと言うんですか!そんな、大人みたいなこと……」
彼女の筆跡は、勉強を教えている間、何度も目にした。だから間違えるはずはない。そう僕が言うと、彼女は金切り声を上げて、非難がましく睨め付けてきた。僕はその時理解する。詰まるところ彼女も、普通の域を出てはいない、ただの子供であったのだ。魅力的に見えていたのは僕の欲目で、本当は周りの他の子と何ら変わりない。偽の手紙なんか拵えて、そんな幼稚でつまらない手段で僕の関心を惹こうとする。あるいは、何らかの不満を伝え、共感を求めたか。いずれにせよ、彼女の希望は決して実現することなく、過ぎた期待という足枷になって終わる。だが僕には、彼女を責める資格も、落胆や失望を抱く権利もない。僕もまた彼女に、年相応以上の分別を、無自覚に望んでいたからだ。
事実、僕らの年の差はたったの数年分に留まる。しかしそのわずか数年の差が、決定的な溝を生むのだ。
「……ごめん」
悪手だとは分かっていたけれど、謝罪しないではいられなかった。愛莉はしばらく答えないまま、唇を噛み締めて俯いている。そして唐突に顔を上げた。
「証拠を見せればいいんですか」
すぐには意味が飲み込めなくて、僕は固まった。すると彼女は立ち上がり、僕の隣に躊躇なく座った。人目を気にする素振りを見せてから、制服のスカートを摘み、さっと捲る。いきなりのことで、目を逸らす暇もなかった。かなり際どい辺りまでが晒され、僕の視線は露わになった白い肌に釘付けられる。細く美しい太ももの、内側から外へ向かって、くっきりと手形がついていた。赤黒いその色は、日焼けを知らない肌のきめ細かさと眩さのため、一層際立って見える。明らかに、他者から無理矢理に暴力を振るわれた跡だ。
「……誰が?」
返事など、聞くまでもなかった。彼女が先程の話をした訳を鑑みれば、答えは一つしかない。それでも僕は、紛れもない証拠を眼前にしても信じられない気持ちで、息を詰めて彼女の瞳を凝視していた。
「他にも、いっぱいあるんですよ。見ますか?」
彼女は表情のない顔で、僕を見つめ返す。空洞の眼だった。
店を出てからの僕らがどうなったのか。僕の記憶は朧げで茫漠としていて、肝心なことは何一つ把握していない。まるで僕自身と、僕の人生のように、曖昧模糊だ。だが、彼女の去った部屋を見渡せば、僕らが超えてはならぬ線を超えたことは明白だった。松村の最低な発言が脳内で再生される。同じことを、彼女は父親と交わしていた。僕らの間のそれとは比べものにもならない、倫理の壁を破壊した禁じられた行為を。一応、そこに自分の意志は含まれていないと、愛莉は主張していたが。
「特に最近は、個展の準備で忙しいみたいです。何日もアトリエに篭りきりで。加賀さんにも、しばらく来なくていいって伝えろって」
にも関わらず、彼女は終始沈着なまま、淡々とした態度を保っていた。事務連絡を告げながら、脱ぎ散らかした服を纏い、髪を整える。その時だけが唯一、彼女の身体から未熟さを取り払って、その種の支度に慣れきった、完熟した女性の風情を与えていた。
「加賀さんの絵も、きっと展示されると思いますよ。ぜひ、見に来てくださいね」
閉じていくドアの隙間から僕を振り返って、彼女は微笑む。午後の日差しを背に受けて、頬がオレンジ色に染まっていた。僕は彼女が去ったことを確かめると、遅れてきた羞恥に赤面した。自分と彼女の痴態が、目の前の光景のようにくっきりと想起される。そうして長いこと後悔の怒涛に襲われていたから、買ったばかりの避妊具の箱がなくなっていることに気付いたのは、数刻後だった。
「おいっす。お疲れ~」
ガタンと音を立てて、目の前の椅子が引かれた。やたらと大きなリュックを背負った男が、僕の向かいに座る。トレイに載った生姜焼き定食の、香ばしい匂いが漂ってきた。
「いやぁ、久々に来たわ。最近バイトが忙しくてさぁ」
彼は松村。下の名前は知らない。今のようにいきなり会話を始める人懐こさが好きで、親しくしている。僕にとっては、唯一友人と呼べる相手だ。とはいえ、最初の頃は彼の派手な見た目を嫌厭し、距離を置きたがっていたような気もするが。
「そうなんだ」
「おう。で?お前こそどうなんだよ、例のバイト」
彼にだけは、絵画のモデルとして働いていることを伝えていた。僕の雇用主が、文屋錨であることも。
「隠すなよ。続けてんだろ?なぁ……ぶっちゃけ給料とか、いくらもらってんの?本物の文屋錨って、どんな感じ?やっぱスゲェのか?」
松村はわざとらしく身を乗り出して、声を潜めて聞いてくる。彼の好みは中世ヨーロッパ的な古風な絵で、錨のような現代的な画家には興味を示さないだろうと思っていたが、どうやら的が外れたようだ。実際周りに知り合いがいるとなれば、話が変わるということだろうか。だが彼の熱意は、週刊誌の記者やパパラッチのような、猥雑かつ悪質な根元から生まれている印象だった。僕は何も言わずに、うどんを咀嚼して水を飲む。すると彼は何を勘違いしたのか、一人で話し続けた。
「いいなぁ、やっぱ他の連中とは違うんだろうなぁ~!こう、なんていうかさ、センスがあるっていうの?尖ってるっていうか!いいなぁ、俺も会いてぇ~!」
ここまで一気に喋って、僕の反応を見るように顔を覗き込んできた。答えたくなかったが、仕方なく相手をする。
「でも、意外と、結構大変なんだよ。じっとしてなきゃいけないし」
口から出たのは、本心だった。決して松村のやる気を削ごうという魂胆からではない。もとより、バイトに行っていないのも、実は半分以上その理由からなのだった。
「いや、そんなの大したことないって!」
ところが松村は、大袈裟に手を振って僕の懸念を一蹴した。
「だってあの文屋錨だぞ?現代美術界のスーパースター!生きる伝説じゃんか!そんな奴と会えるんだったら、安いもんだろ、それくらい」
もはや人目を憚ることもなく、大声で捲し立てる。だが彼の言葉はそれこそが、錨の最も忌み嫌うものだった。何も知らない人々によって、軽々に祭り上げられ、痛め付けられることが。
「それにさそれにさ、気に入られたら、弟子にしてもらえるかも知れないぞ?もしくは、知り合い紹介してもらって就職先見つけられるかも!くぅ~!」
騒ぐ彼を見ながら、僕は自分が分からなくなるような錯覚に陥っていた。どうして過去の僕は、彼みたいな男を友人に選んだのだろう。そもそも彼は本当に、松村なのか?いつの間にか、誰かが彼の人格を破壊して、全くの別人を挿入したのではなかろうか。いや、そんなはずはない。変わったのは、他ならぬ僕だ。
「なぁ今度俺のこともさ、紹介しといてくれよ」
「……出来たらね」
「出来たらじゃなくて、絶対な!んじゃ、悪い、これから俺バイトだから先行くわ!」
と、生姜焼きの残りを一気に頬張って、彼は席を立つ。やたら大きいと思ったリュックには、注文した食材が自転車で届けられる、例のアプリのロゴが入っていた。体力だけはあると自慢していた彼には、格好のアルバイトだろう。
「……あ、そうだそうだ」
歩き出したはずの松村が、突然引き返してきた。僕はキョトンとして彼を見上げる。だがすぐに、そんなことしなければ良かったと後悔した。
「錨ってさ、確か娘いんじゃん?可愛い?」
「……まだ高校生だよ?」
「だぁから言ってんじゃん。どうせ高校なんて、すぐ卒業するだろ。今の内に唾付けとくんだって。本格的に付き合うのはその後だとしてもさ。そしたらお前、錨の義理の息子だぜ?あっ、やべぇ遅れる!」
バタバタと走り去る彼の目立つリュックを、僕は無言で見据えていた。無論、この行為に意味がないことは知っている。これは、自分自身への怒りだ。彼の趣味がバイトと、アプリで知り合った女性と遊ぶことだというのをすっかり忘れていた。今までは気にならなかったはずなのに、今日ばかりは癪に触ってどうしようもない。愛梨に好意があるからか、それとも錨に興味があるからか。
僕は彼らによって、随分と多くの影響を受けている。彼らの持つ電波のようなものが、徐々に僕を蝕み、侵していくのだ。嫌な気はしない。だが、少しだけ恐ろしくはあった。
モデルとして座っている間中、ずっと僕の頭は活動している。僕を見る錨の眼差し、予測のつかない手の動き、鉛筆が紙を滑る音。錨の拳が音を立てて、細い絵筆をへし折る。僕に背中を向けていた錨が、ゆっくりと振り向く。薄明かりの下で、その仄かな光に似合わぬ形相が、僕を捉える。憤怒に染まった、鬼のような顔。目尻がきつく吊り上がり、眼光だけが異様に鋭くて、唇はへの字に歪んでいる。いや、これは僕の想像だ。あるいは、あの日の夜に見た夢かも知れない。瞼の裏に焼き付いた錨の姿が鮮烈で、家に帰ってからもずっと意識していた。または反対に、今この時が夢で、本物の僕はまだ布団の中に横たわっているのか。想像と現実の境目が見えなくなる。僕の脳は甘い夢に浸かって、体だけが錨の筆で、絵画となって閉じ込められる。そして僕は、永遠を生きるのだ。肉体が死しても尚、僕として残り続ける。恐ろしいことだ。
錨は何故、あんなことをしたのだろう。何を思い、何を感じていたのか。
単純に僕が憎かったのかも知れない。ただのバイトに過ぎない、凡庸な美大生の僕が、錨の大事な愛娘に手を出そうとしたのだ。普通の父親なら誰だって、憤るだろう。そこに絵の具の調合が上手くいかないのも手伝って、激情が爆発しただけ。ただそれだけのことだ。
だけど、本当にそうだろうか。所詮は押し並べて僕の想像であって、本当のところは違うのではないか?僕の脳みそは気が付くと、このことばかり考えてしまう。だから気分も優れないし、おまけに寝不足だ。
やはり僕には、モデルの仕事は向いていなかったのだろうか。でも錨は気に入ってくれた。そのことだけが僕の支えだ。僕はいつか、完全なる別人に変わるだろう。それがいつなのか、どのように起こるのかは分からない。だけど変化を受け入れたら、僕は全てに慣れることが出来るのだろうか。絵画のモデルを務めることにも、錨という人間にも。
現在の僕が言えることはただ一つ。僕は松村のようには生きられない。
* * *
「だからさー、俺言ってやったわけ。こんなの大したことないって。指先まで血だらけなのにさ。そしたら努さん慌てちゃって……本当、あんたにも見せたかったよ」
いきなりフルスロットルで機関銃のように言い尽くし、錨はけたけたと笑う。今日の彼は、一段と機嫌が良い。何かに付けては破顔し、僕の肩を親しげにバシンと叩く。手首にうっすらと白く残った、昔の傷跡を撫でる手付きには慈しむような感情があった。まだ二十代の頃に、彫刻刀でザックリ切り裂いたという事件の話だ。出血多量で危うく救急搬送されそうだったと、浮ついた声音で語っている。何故こんな話題になったのかと、僕は思案した。
久しぶりに姿を見せた僕を、錨は怒るでもなく心配するでもなく、素知らぬ顔で迎え入れた。体調不良という、僕の嘘には気が付いていたはずなのに。ともかく、いつものようにアトリエで数時間を過ごした僕は、その後外へと連れ出された。入ったのは、繁華街の裏通りにある、ありふれた居酒屋チェーンだ。それなりの稼ぎに見合った、それなりの暮らしをしている錨には、似つかわしくない店。低俗で平凡で、どこもかしこも汚い。床は謎のベタつきに塗れ、壁中に貼られたメニューの紙も、変色して黄ばんでいる。錨自身訪れるのは初めてらしく、物珍しそうに辺りを見回していた。
「あの、どうして今日、僕をここへ?」
機会を窺って、尋ねてみた。すると錨は目を猫のように見開き、おもむろに瞬きをした。僕に質問されたことさえ、予想外だという風に。
「特に深い意味はないよ」
「そうですか」
「あれ?でも、今月誕生日って言ってなかった?ならそのお祝いだ」
「いや……先月です」
「え、そうだっけ」
一連のやり取りから分かったことは、結局錨はいつまで経っても錨だということだ。この店を選んだのも、彼が勝手に僕の行きつけだと思い込んでいたかららしい。相変わらずの姿に、僕は何故か嬉しくなった。
「あんたさ、大学で何やってるんだっけ」
さして興味もなさそうな口調で、錨が問う。彼の目は手元の枝豆に注がれたままで、こっちを見ようともしない。
「デザインです。平面系デザインを……」
僕は答えながら、ふと視線を感じ、首を巡らせた。近くのテーブルに座っている大学生らしきグループが、ちらちらと僕たちの様子を探っていた。
「広告とか、イラストとか?」
錨の声で、僕は体の向きを戻した。彼は何も気が付いていないようで、退屈そうにしている。僕は再び口を開いた。
「そうなりますね。僕は、出来れば雑誌の編集とかしたいんですけど……美術関連の」
「じゃあ、いつか俺のとこにも取材に来るかもってことだ。記者として」
今度は少しだけまともな反応が返ってきた。油でてかったテーブルに肘を付き、掌に頬を乗せる。その仕草は気怠そうで、決して肯定的には感じられなかった。
「嫌なんですか、取材を受けるのは」
「嫌じゃないよ。嫌じゃない……メディアに出て、名前と顔を売れば、作品だって注目される。努さんの言う通りだ」
錨はゆっくりと首を振り、深い溜め息をついた。言葉では否定しつつ、内心では心底嫌気が差しているようだった。
「そう、思ってたんだ」
話題を変えるべきかと、僕は逡巡する。その時のことだった。
「あの~……すみません」
数人の女性たちが、僕らのもとにやってきた。正確には、錨のところへ。
「文屋錨さんですよね?」
一人が言って、錨の顔を凝視する。彼は決して美形でなく、人目を引く容貌はしていなかったが、やはり分かる者には分かってしまうようだ。特徴的な彼の話し方のせいかも知れない。
「……ん、そうですけど」
突然のことにも、錨は動じずに応対した。丁寧に箸を置くと、柔和な表情を作り優しげに微笑む。求められるままにサインやら握手やらを差し出し、写真撮影にも協力した。期待を上回る好反応に、彼女たちは一斉に色めき立つ。互いの肩を小突いては囁き合い、中には照れたように頬を染める者もいた。僕のことなど、最初から認知すらしていないらしい。
「あ、あの、私先生の大ファンなんです!」
「ありがとう」
「キャー、カッコいい!」
「そんなことないよ」
矢継ぎ早に並べ立てられるのはどれも、軽薄で取ってつけたような美辞麗句ばかりだった。とても本心とは思えない、お世辞めいた言葉だ。騒々しさに引き付けられて、他の客からも好奇と苛立ちの眼差しが寄越される。店の片隅では店員たちが、注意すべきかどうかを相談していた。
「行きましょう」
これ以上留まっていては、ろくなことにならない。僕は直感し、立ち上がった。女性たちの不満げな目が頬に突き刺さる。僕は気が付いていないふりをし、錨を連れ出した。腕を引っ張られた錨は、ほぼ飲んでいないにも関わらず、酔ったふりでへらへらと笑っていた。歩き出してからも、それは収まらなかった。
「いやぁ、感心したよ。あんた、どんどん努さんに似てくるね」
飲み直そうと歩き出した直後。彼は唐突に歩みを止め、僕の方を振り返ると、真顔で言い放った。別に求めてはいなかったが、礼が告げられることもないようだ。むしろ、余計なことだとでも言いたげに、彼は苛立っていた。
「マネージャーとして働くの、向いてるんじゃない」
流石の僕でも気が付く、明白な皮肉。色々と口にしても、結局彼は、努が嫌いなのである。彼の生業も、心根も。
彼は錨とその作品に傷が付かぬよう、常に気を配っている。だが悪意のある見方をするなら、それは彼から得る利益を最大限にするためとも言えよう。二つは表裏一体で、切っては切れないものだ。清濁合わせ飲むしかない。錨とてその恩恵を受けているのだから。とはいえ、そう容易く割り切れたら、苦労はしない。
「あんなの俺の仕事じゃないでしょ。ファンって名乗る人間たちが押し付けてくる、一方的な夢や希望、期待?それに応える姿を見せなきゃならない。おかしいだろ?そんなの、アイドルにでもやらせるべきだ」
二軒目は、個室が主の中華居酒屋だった。錨はザーサイをつつき、ビールばかり飲んでいる。そしてまだ頬も赤くならない内から、管を巻いているのだった。
「読んだこともない雑誌の興味もない特集に出てさ、昨今の日本美術は~とか、したり顔で語るんだよ。みんなが思う、芸術家像を演じるわけだ。まぁ中には、ありのままの言葉を求めてる人もいるんだろうけど。でもやっぱりそこには、大体のニーズってものがある」
名が売れるということは、そういうことだ。テレビの中の芸能人と同じく、人々の憧憬と羨望とを、一身に背負う人間になる。彼らの求める言動をし、彼らの理想を叶え、時と場所を弁えず無礼な振る舞いをする者が現れても、懇切丁寧に応じなければならない。私生活に立ち入られ、個人情報をばら撒かれても、耐えるしかない。ファンを名乗る赤の他人に、我が物顔で好き放題されても、飲み込むしかないのだ。何故ならそれが、成功の秘訣だから。あるいは、現在の裕福な暮らしの根源となる。彼らにだって悪意はない。ただ純粋に、夢想しているだけなのだ。自らのつまらない人生を、北風のように颯爽と現れたカリスマが、魔法のステッキを一振りして変えてくれる瞬間を。だからその程度の代償ならば、許容すべき。それが世間の主張であり、インターネットの言い分だ。疑問を差し挟む余地は、ない。
「もちろん、画家として生きていけるのは、ありがたい。とてもね……だけど俺さ、こうも思うんだよ」
錨の独白は止まない。既にテーブルには、ビールの空き瓶が数本分転がっていた。注ぎ口から溢れた泡が、飢え死にした生物のように長々と伸びて醜態を晒している。
「画家になんて、ならなければ良かった」
その言葉は、僕にとって途轍もない衝撃だった。
「絵を描くことは喜びだ。言語化出来ない感情を、形として表せる。世界から美を切り取って、額に入れておける。それは素晴らしいことだろう?おまけに、現実であった嫌なことも、辛いことも、全部忘れられる……子供の頃から、変わらない。だけど、同時に苦痛でもあるんだよ。一つ壁を越えたと思ったら、また別の壁に出くわす。終わりに行き着くことは決してない。どこまでも続く無限の階段を、上っていくしかないんだ。永遠に」
喧騒に満ちた店内で、この個室だけが異次元であるかのように、しんと静まり返っていた。二人だけの世界に、錨の淡々とした言の葉のみが落ちていく。
「でも……それでも、俺は絵を描くしかないんだ。それでしか、生きられないんだから。どんなことをしてでも、描き続けるしか。他に道はない。だけどさ、やっぱり考えちゃうじゃない。絵を描かない人生なら、どんなに良かっただろうって」
彼の瞳はここではないどこかを捉えて、離さなかった。彼の顔も声音も、まるで洞穴のような空虚さを湛えて、暗く火照っている。酔いのためか血色は良く、目だけがギラギラと嫌な光を放っていたが、むしろそれが病的な不気味さを与えていた。僕はその圧倒的な闇に吸い込まれそうだった。
「創造なんてただの、逃避でしかない。その一瞬だけ、苦しみから目を逸らしていられるだけなんだよ。その程度さ。救われない。根本的な解決にはならないんだよ」
僕の脳裏に、奇妙な光景が浮かんできた。キャンバスと絵筆を携えた錨の前に、天まで続く巨大な階段が聳えている。そんな絵だ。
「向き合うしかない。分かってる。分かってるんだ……けど、おかしいだろう?俺はこんなことしなきゃ、生きられないのか?どうして俺は、こうなんだ?どうして世界は……こんな風なんだろう」
語り終えた錨は、コップを握ったままテーブルに突っ伏した。その後も何か夢見るような口調で呟いていたが、次第に途切れがちになり、先細っていく。彼の丸まった背が呼吸に合わせて上下するのを、僕は眺めた。
彼は画家だ。絵を描かなくては、生きていられない人間だ。絵を描くために、生きている人間でもある。この世界にいる限り絵筆を置くことは出来ず、従って命を捨てることも叶わない。そういう生き物なのだ。どれほど嫌悪しても、厭忌しても、それは変わらない。変えられない。彼の夢は所詮実現しない夢であり、してはならない夢だ。何故なら彼は画家だから。生を受けた時点から、そのように定められている。
すっかり泥酔した錨を、僕は無理矢理タクシーに詰め込んで、自宅まで送り届けた。時刻は既に深夜だったが、まだ愛莉は起きており、僕らを迎えてくれた。錨の介抱を手伝っている間に、いつしか泊まって行けという流れになっていた。特に錨本人からの命令では、逆らう術がない。僕は彼らの好意に甘え、一晩泊まらせてもらうことにした。
「じゃーん。どう?ここ俺のコレクションルーム」
接種したアルコールの大半をトイレに吐いてしまってから、錨は幾分か元気を取り戻していた。まだ足取りは若干危ういものの、僕を案内して家中連れ回す気力は復活している。そして、自身の書斎へと僕を導いたのだった。そこには、彼の画家としての感性と収入がふんだんに注ぎ込まれた、莫大なコレクションが置かれている。絵画や彫刻の他に、壺や皿などの陶器、掛け軸、写真も飾られていた。彼の思う、世界中の美しいものが一堂に介しているという感じだ。画廊よりも更に配置の無秩序さが突出していて、錨以外の人物にその妥当性を理解することは、至難の業に思われた。計算高く配置された照明によって、収集された物品たちは皆、個性的な輝きを燦然と放っていた。
一際目を引くのは、最奥の壁にかけられた巨大な油絵だった。あまりにも異彩の迫力を放っているがために、他の芸術品とは一線を画していることが即座に分かる。
平和な絵だった。日の当たる芝生の上で、めかし込んだ人々が談笑している。顔はなく、体型ものっぺりとした抽象的なものだが、雰囲気は華やかで、温かい。交わされる言葉や、花開く笑みが聞こえてきそうだ。どこかルノワール的な格調高い構図を巧みに活かし、明るい色調で親しみをもって描いている。少しばかりの稚拙さが滲んでいるところを見るに、もしや芸術大学時代の卒業制作だろうか。錨がまだ僕と同じ年頃だった時分に、苦心して作った牧歌的な魅力。
だが、その努力を何もかも台無しにするかのようにして、絵の中央を黒い線が横切っていた。まるで頭の足りない若者が、仲間と飲んで衝動的に施した落書きだ。作者の思いを踏み躙る、残虐極まりない行いに、僕はゾッとした。 錨の冷ややかな声が、僕の戦慄に追い打ちをかける。
「それ、俺がやったんだよ」
本当に、背中から冷水をかけられたのかと思った。心臓が凍るような瞬間だった。きっと僕は、死ぬまでこの時の感覚を忘れないだろうと信じるほどに。
「これ、卒業制作なんだけどさ。完成間近で、落書きされちゃったんだよね。こんな風に、スプレー引かれて。誰がやったんだか」
錨はズボンのポケットに手を突っ込んで、肩をそびやかして宣った。怒りを隠して強がっているのか、茶化しているのか、判別も出来ない態度だ。
大学を中退して入学してきた変わり者だと、錨(幸生)は学内でも浮いた存在として扱われいていた。また、己の才覚への自信と自負があったのか、彼の性格も人を寄せ付けないものだった。幾度も教授と衝突し、周囲との軋轢を生む日々。陰口、嫌がらせが始まったのはもはや当然の流れだった。そうして被った害の一つが、卒業制作への落書き行為だったという。
「それは……酷いですね」
卒業制作は、卒論と同じで、卒業に関わる重要な課題だ。かつての錨が、全力を注いで描き上げた作品でもある。それを一瞬で無駄にされたということがどれほどの精神的ダメージをもたらすか、僕には想像することも難しかった。
「いや、そうでもないよ。これはこれで、一種の芸術じゃん」
呻き声を発する僕に、錨は否定を告げた。衒うこともなく、平然と。
「この絵って一応、俺の自信作だったわけ。分かる?見る人の心を動かす力と気迫に、満ち満ちてると思ってた。そこに躊躇なく横線を引いたんだ。凄い気骨だろうが……それに、ここまで人を憎悪出来る感情ってものにも、興味が湧いた。これを俺の、本当の卒業制作にしようと思ったんだ。でも流石に、このまま出すと他者の手を借りた剽窃行為ってことになって、単位は認められない。だから、自分で一から作り直した。ホームセンター行って、スプレー買ってさ」
油絵は基本的に、上から絵の具を載せれば失敗も上書き出来る。しかし錨は、その選択をしなかった。彼は半年費やして作った一枚目の絵を、たったの一週間で複製したのだ。ついでとばかりに、改良まで加えて。最後に上からスプレーを吹きかけた。彼の絵は最終的に、最優秀作品として表彰されることとなった。彼はそのような偏執的な方法でもって、盛大な復讐を果たしたのである。
錨の語り口はさっぱりとしていたが、僕には全く意味が分からなかった。困惑した。芸術性を見出したなんて出まかせだ。彼の中にあったのは、絶対に相手を許さないという憎悪と、報復への猛烈な熱意。それだけに違いない。僕は錨を怖いと思った。だが同時に、強く惹かれてもいた。
その夜、僕はまた夢を見た。あの卒業制作みたいな、巨大なキャンバスを背負った錨が、同じく巨大な絵筆を杖にして立っている。彼の眼前には、ピラミッドに似た建造物が、悠々と身構えている。聖書に出てくる塔のように、天へ向かって際限なく伸びている。一段が胸の高さまであって、簡単には乗り越えられそうにない。錨は意を決して、よじ登っていく。何段も何段も、休まずひたすら登っていく。何故なら彼が踏みつけたところから、階段はどんどん脆くなり、ひび割れて砕けてしまうから。立ち止まれば、地上まで一気に転落し、そこで蠢く有象無象の生物に蹂躙されることとなるだろう。それが嫌なら、先に進むしかない。次第に段差は大きくなり、絶壁のように聳えても、それでも錨は挑み続ける。いつか終わりが来ることを、この歩みを止められることを信じて。しかし、本心では気が付いてもいる。己の旅に、終わりがないということを。
初めから階段など、上がらなければ良かったのだ。他の大抵の生命と同じように、空に目を向けずずっと地上で暮らしていれば。芸術家として、無限の苦痛に喘ぎ、著名人の振る舞いを演じる痛みを覚えずに済んだ。だが地上には地上の、熾烈な生存競争がある。もっと明確で残酷な、弱肉強食の世界が。要は、どちらがマシかという話だ。まさしく、理不尽。この世界は、生きるということは、どちらを選んでも艱難辛苦だ。それこそが現実として、誰しもが受け入れ半ば諦観をもって、生き抜いている。錨の特別繊細な心が、鋭敏な感覚が、その違和感に気付き耐え難く思っただけなのだ。そして彼は己の特性を、見て見ぬふりしている。
『どうして僕を選んだんですか?』
夢の中の僕は、いつの間にか錨の隣に佇んでいた。階段の上は静謐に包まれ、神秘的な空気に閉ざされている。だが、常に近隣の仲間の声が、喧しく聞こえても来る。奇妙な世界だ。しかし既に足場は崩れ始め、地上に棲まう怪物たちが異形の手を伸ばしてくる。早いところ、次の段階に進まねばならない。
『分からない?』
わずかに息を切らしながら、錨が答える。お気に入りの服は砂と埃に汚されて、背中はキャンバスの重みで曲がっていた。顔は皺だらけで、現実の彼より老けて見える。枯れ木のように痩せ細った身体を、絵筆の杖に縋らせてようやっと立っている格好だ。口調だけがいつもの彼で、僕を振り返って目配せする。
「あんたは……からだよ」
そこで目が覚める。カーテンの隙間から入り込んだ朝日が、僕の額を呑気に照らしていた。
あの時何を言われたのか。僕は未だに分からない。今後一生、分かる時は来ないだろう。何故ならあの日以来、錨と会える機会は、永久に失われてしまったのだから。
* * *
休講日だった。先週の授業の際、連絡を受けたような気もするが、上の空だった僕はそのことを失念し、うっかり来てしまった。別に家と大学との距離はさほどではないから、帰ろうと思えばすぐに帰ることが出来る。しかし、到着して早々に引き返すのもどうしてか味気なく思えて、僕は漫然と学内を歩き回っていた。友人が多ければ、誰かしらと談笑して時間を潰せるだろう。大して中身のない会話でも有意義なものとなって、僕に希望をもたらすはずだ。だが残念なことに、この仮説は実証不可能だった。仕方がないので、僕はぼんやり駅へと向かうことにする。どういうわけだか、錨のことは考えもしなかった。
道中、いつもと違う脇道に進むと、古本屋が一軒あった。ほとんど無意識的に立ち入った。店内は薄暗く、古書の匂いで充満している。外から差し込む日差しによって、埃や粉塵が明瞭に映し出されていた。乱雑に並べられた本の中から、僕は一冊を引っ張り出した。子供の頃、繰り返し読んでいた児童書だ。可愛らしいクマの絵が表紙を飾っている。僕が絵画の楽しみに目覚めたのは、このクマのおかげだった。こんな可愛い絵を描きたいと思って、筆を取り始めたのだ。幼い時分の懐かしい思い出が蘇ってきて、僕はつい本を抱えたまま会計に向かおうとした。
「あれ?加賀さん?」
途端、誰かが声をかけてきた。僕は驚いて足を止め、振り返る。少女が嬉しそうに微笑んで、僕のもとに駆けてきた。
「びっくりした、愛莉さんか。どうしたの?今日、学校は?」
「サボっちゃいました。これからお昼、どうですか」
ちろりと舌を出してはにかむ愛莉の姿は、四月に見た時より随分垢抜けていた。主にスカートの丈が短くなっているからだろうか。僕は一瞬目を奪われたのを誤魔化すように、頷いた。結局、本は買わなかった。
「この店、よく来るんですか?」
「いや、初めて」
「ふふふっ、そうなんだ」
駅近くのカフェの中で、僕らは窓際のボックス席に座っていた。アイスティーをストローでかきまぜながら、愛莉がくすくすと笑う。対する僕は困り顔で、ナポリタンを口に入れた。
「今日みたいなこと、よくするの?」
「今日みたいなって?」
「サボり。学校行ってないなんて、錨先生怒らないの?」
「さぁ。知ってるとは思いますよ。でも、そのことで怒られたりとか、何か言われたりとかはありません。お父さんは多分、どうでもいいんです。普段、私が学校で何してるか、誰と仲良くしてるか、そういう話……」
愛莉はオムライスを食べながら、色々なことを話した。まるで、愚痴の吐き場所を探していたかのように。ひょっとして、彼女には友達がいないのかも知れない。父親の噂は、きっとどこにいてもついて回る。周りの人から遠ざけられて、寂しい毎日を送っているのだとしたら。そう思うと、うんざりしそうな長広舌にも、いくらだって耐えられた。僕はひたすら聞き役に徹し、一方的に囀る彼女も悪くないなとか、下世話なことを考えていた。
「……ふぅ」
喋り疲れたのか、彼女は唐突に黙ると、ほとんど氷の溶けたアイスティーを飲む。その時の顔色が、やけに冴えない様子で、僕は咄嗟に切り出していた。
「もしかして、何かあったの?誰かとトラブルになったとか」
「そんなこと、ありませんよ」
愛莉は間髪を容れずに否定したが、彼女の美しい瞳は、わずかに揺れていた。僕はじっと彼女を見つめ、その真意を暴こうとする。愛莉は僕から逃れるように、顔を下に向けて膝の上で両手を組んだ。透明なネイルの塗られた爪を反対の手で撫でて、細い指を絡み合わせる。瞼を閉じて、一つ息を吸って。何かの決意を固めるみたいに、逡巡を吐息として排出する。
「……私、レイプされて出来た子なんです」
放たれたのは、予想外に重く、聞く者の胸を貫く言葉だった。しかし、意外にも僕の心は凪いでいる。冷静な頭で彼女の告白を受け流すことが出来た。
「父は母に、異常なまでに執着していました。怖くなった母が別れを告げると、強引に抱いて引き止めようとした。結果、母は妊娠し、中絶を望んでも、部屋に閉じ込められて病院にも行けなかった……母が出て行く時、父はもう止めなかったそうです。だって、既に私が生まれていた。元々他人の母なんかより、よっぽど強い繋がりを持つ子供が。血縁からは一生逃れられないし、従って私は、父を愛するしかない。そういう人形が、父は欲しかったんだって……」
想い人から唐突にこんなことを打ち明けられたら、普通は動揺したり、悲しんだりするものだろう。けれど僕にとっては、彼女の話は全くの無味乾燥で、ありきたりなものに思われた。まるで興味もないドラマの展開を又聞きしているようだ。何の感慨が湧いてくることもない。
「その話、誰から聞いたの?」
不信が伝わってしまわぬよう、声音と口調にかなり気を付けて、口を挟んだ。
「母です。ある日手紙が送られてきました。あなたには真実を知っていて欲しいからって」
質問の答えは、やはりこれまた創作話じみていて、怪しげだった。差し出された手紙は、中高生の好みそうな、安っぽいファンシーなデザインの封筒に包まれている。便箋を開くと、丸っこくて幼い字が不恰好に連なっていた。僕の胸の中で、何かが急速に冷めていくのを感じる。
「真実、って……」
僕は思わず、呆れと嘆きの入り混じった呟きをこぼす。
「信じてくれないんですね」
「だってこれは、君の字だ。どんな理由があれ、お父さんを無闇に貶めちゃいけないよ」
「どうしてそんなこと言うんですか!そんな、大人みたいなこと……」
彼女の筆跡は、勉強を教えている間、何度も目にした。だから間違えるはずはない。そう僕が言うと、彼女は金切り声を上げて、非難がましく睨め付けてきた。僕はその時理解する。詰まるところ彼女も、普通の域を出てはいない、ただの子供であったのだ。魅力的に見えていたのは僕の欲目で、本当は周りの他の子と何ら変わりない。偽の手紙なんか拵えて、そんな幼稚でつまらない手段で僕の関心を惹こうとする。あるいは、何らかの不満を伝え、共感を求めたか。いずれにせよ、彼女の希望は決して実現することなく、過ぎた期待という足枷になって終わる。だが僕には、彼女を責める資格も、落胆や失望を抱く権利もない。僕もまた彼女に、年相応以上の分別を、無自覚に望んでいたからだ。
事実、僕らの年の差はたったの数年分に留まる。しかしそのわずか数年の差が、決定的な溝を生むのだ。
「……ごめん」
悪手だとは分かっていたけれど、謝罪しないではいられなかった。愛莉はしばらく答えないまま、唇を噛み締めて俯いている。そして唐突に顔を上げた。
「証拠を見せればいいんですか」
すぐには意味が飲み込めなくて、僕は固まった。すると彼女は立ち上がり、僕の隣に躊躇なく座った。人目を気にする素振りを見せてから、制服のスカートを摘み、さっと捲る。いきなりのことで、目を逸らす暇もなかった。かなり際どい辺りまでが晒され、僕の視線は露わになった白い肌に釘付けられる。細く美しい太ももの、内側から外へ向かって、くっきりと手形がついていた。赤黒いその色は、日焼けを知らない肌のきめ細かさと眩さのため、一層際立って見える。明らかに、他者から無理矢理に暴力を振るわれた跡だ。
「……誰が?」
返事など、聞くまでもなかった。彼女が先程の話をした訳を鑑みれば、答えは一つしかない。それでも僕は、紛れもない証拠を眼前にしても信じられない気持ちで、息を詰めて彼女の瞳を凝視していた。
「他にも、いっぱいあるんですよ。見ますか?」
彼女は表情のない顔で、僕を見つめ返す。空洞の眼だった。
店を出てからの僕らがどうなったのか。僕の記憶は朧げで茫漠としていて、肝心なことは何一つ把握していない。まるで僕自身と、僕の人生のように、曖昧模糊だ。だが、彼女の去った部屋を見渡せば、僕らが超えてはならぬ線を超えたことは明白だった。松村の最低な発言が脳内で再生される。同じことを、彼女は父親と交わしていた。僕らの間のそれとは比べものにもならない、倫理の壁を破壊した禁じられた行為を。一応、そこに自分の意志は含まれていないと、愛莉は主張していたが。
「特に最近は、個展の準備で忙しいみたいです。何日もアトリエに篭りきりで。加賀さんにも、しばらく来なくていいって伝えろって」
にも関わらず、彼女は終始沈着なまま、淡々とした態度を保っていた。事務連絡を告げながら、脱ぎ散らかした服を纏い、髪を整える。その時だけが唯一、彼女の身体から未熟さを取り払って、その種の支度に慣れきった、完熟した女性の風情を与えていた。
「加賀さんの絵も、きっと展示されると思いますよ。ぜひ、見に来てくださいね」
閉じていくドアの隙間から僕を振り返って、彼女は微笑む。午後の日差しを背に受けて、頬がオレンジ色に染まっていた。僕は彼女が去ったことを確かめると、遅れてきた羞恥に赤面した。自分と彼女の痴態が、目の前の光景のようにくっきりと想起される。そうして長いこと後悔の怒涛に襲われていたから、買ったばかりの避妊具の箱がなくなっていることに気付いたのは、数刻後だった。
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