不知

望月来夢

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第一話

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 僕が文屋父子と知り合ったのは、大学二年の春のことだった。花の香りと温かい風に包まれて、その家は他より一層大きく荘厳に佇んで見えた。だが、今僕の目の前には、何もない。ただ広大な敷地と、黒く焼け焦げた瓦礫の山があるだけだ。
 栃木の田舎から上京し、都内の美術大学に通い始めた僕は、燃え尽き症候群とでも言うべき、無気力に陥っていた。特に何をするでもない、無為な時間を過ごす日々。膨大な情報の海を、板状の携帯端末一台で渡り歩いていた。飛び込んでくる文字列のあまりの多さに、脳がパンクしそうになる。そんな中で、発見した呟きは異様な煌めきを持って見えた。 
『絵のモデルを募集しています。身長百八十センチ前後、二十歳、男性。都内在住だと尚良し』
 投稿をしたのは、画家だった。僕のような、形ばかりの美大生でもよく知っている人物だ。彼の名前を目にした途端、怠惰な僕の心にわずかに残った、ミーハー心と好奇心に火が付いた。気が付くと、指が勝手に動き、彼のアカウントにダイレクトメッセージを送っていた。数日後、届いた返信には、面接の日程と場所のみが、ぶっきらぼうに記されていた。
 大学の最寄りから、電車で揺られること十五分。辿り着いたのは、大きな一軒家が立ち並ぶ、高級住宅街だった。奨学金で大学に通う貧乏学生の僕には、一生縁のなさそうな街だ。すれ違う住人らしき人々の、不審がるような眼差しが突き刺さる。もしかして通報されやしないかと、場違いな空気に生み出された被害妄想が、僕をびくつかせた。それでも懸命に頭を振って、スマホの地図アプリを再度確かめながら、ひたすら道を歩く。左右を固める家々は、どれも美しく、冷たい色をしていた。個々の特徴と威厳を醸し出すべく、洗練されたデザインを取り入れているのだろうが、それがかえって無個性を強調している。行き届き過ぎた手入れは、本来あるべき生活感を損なわせ、作り物めいた無機質さを与えていた。きっと家主は気が付いてもいないのだろうが。
 間もなく、目的地に到着した。表札に書かれた、文屋の文字をそっとなぞる。車庫に停められた外国産の車が、番犬のようにこちらを睨んでいた。仄かな期待と、緊張とが胸を占める。
 意を決して、インターフォンを押した。
「はぁい」
 間延びした返事が来て、しばらくすると玄関の扉が開いた。現れたのは、黒髪を肩まで伸ばした少女。今年高校に上がったばかりだと言って、セーラー服のスカートをはためかせる彼女に、僕は何故だか心臓が高鳴るような感覚を覚えた。
「あんた、タッパあるねぇ」
 居間に通されるなり僕は、その場で画家と対面した。思っていたより背が低い。意識しているのかいないのか、高校生の娘がいる父親にしては、存外な若々しさを保っていた。彼は僕を一瞥し、感心した様子で唸った。
「いくつ?」
 唐突に尋ねられて僕は驚き、次に無理矢理愛想笑いを浮かべた。
「百八十二です」
「違うよ、年齢のこと」
「十九です。でも、あの、来月誕生日なんで……」
 会話の飛躍への戸惑いと、応募条件との相違とを、必死に誤魔化した。彼はつまらなさそうに「ふーん」とだけ呻いて、頭の後ろをガリガリと掻く。手には色とりどりの絵の具がべったりとこびりつき、爪の間にまで入り込んでいた。
「アトリエ、見る?」
「え?」
「地下にあるんだ。こっち」
 訳も分からぬまま、すたすたと歩いていく彼の後を、慌てて追いかける。地下階へと続く階段を降りながら、沈黙に耐えかねて質問した。
「あの……さっきの方って」
「あぁ、愛莉?娘だけど」
 やはりそうかと、一人で得心する。本当はもう少し詳しく聞きたかったけれど、やや粗雑な口調からは、あまり歓迎していない雰囲気を感じた。僕は口を噤んだ。初対面で年上の人に対して、あからさまな無礼は出来なかった。
 アトリエは、地下というより半地下にあった。やけに狭いように思えるのは、置かれた物品が多いせいだろう。様々なサイズのキャンバスや新聞記事の切り抜き、本のコピー、絵画のポスターなどが、居場所を争うようにひしめき合っている。キャンバスにはどれも絵が描かれていて、人目に触れる時を待ち望んでいた。上部に取り付けられた小窓から、外の光が差し込んでいる。換気が不十分なのか、少し空気が澱んでいるが、それすらもどこか風情を感じさせた。
 ここで、多くの絵が生み出されていったのだ。あの、文屋錨の絵画が。そう思うと、何とも言えない感銘のようなものが湧き上がってきて、僕は言葉に詰まった。
「きついよ、モデルの仕事って」
 じっと立ち尽くしている僕に、錨が話しかけてきた。
「あんた以外にも何人かと面接したけど、正直、誰も使い物にならなかった。絵にならないんだよ。深みがないっていうかさ。ここに来たのも、モデルなんかどうでもよくて、ただ俺に会いたかっただけみたいだ」
 呆れたように嘆かれて、ぎくりとする。何を隠そう僕も、彼らと同類の薄っぺらい動機しか持っていなかったからだ。絵のモデルというものに興味はあったけれど、熱望するほどではない。彼という男がどんな人なのか、一度会って見てみたかった。そのことを、今にも見抜かれてしまうのではないかと焦った。
「でも、あんたは違う。面白そうだ。ちょっと、ここに座って」
 ところが意外なことに、彼は僕を追い返さなかった。むしろ気に入ったようですらある。促されるままに、僕は椅子に座った。木製の丸椅子は酷く古びていて、少し姿勢を変えるだけでバラバラに壊れてしまいそうだ。錨は黙って、こちらを凝視している。かと思えば、部屋の隅に置かれた本棚を漁り、スケッチブックを引っ張り出してきた。汚れた指が乱雑に画用紙を捲り、鉛筆で何か書き付けていく。それが絵なのか、文字なのか、あるいは別の何かなのか、僕には見当も付かない。
「あ、あの」
「動かないで。足の位置戻して」
「はい」
「声は出していいけど、そんなに瞬きされちゃ困る」
 畳みかけるような指示に、どうにか従う。錨の顔つきは、先程までとは大きく変わっていた。真剣な、というよりも剣呑な表情だ。猫のように目尻の上がった瞳が、鋭い光を宿している。その手が洗練された動きを見せる度、シャッシャッと乾いた摩擦音が響いた。不規則だがリズミカルに、重々しくそれでいて爽快に。僕という人間を写し取っていく。
 僕はその間、硬い丸椅子の上に固まって、ただじっと待っていた。きついと言われた意味が、今更ながら脳に染み渡ってくる。静寂が耳に痛い。
「絵ってさ、鏡みたいなもんなんだよね」
 それから、どれだけ経っただろう。既に時間の感覚を失い始めた僕の意識を呼び覚ますように、錨が口を開いた。心中を見透かしたかのような、絶妙なタイミング。僕はハッとして、背筋を伸ばす。
「画家の本質を映し出す。描こうと思ったことをそのまま描くなんて不可能で、本当は描きたくなかった、隠しておきたかったことまで暴かれてしまう。その時、絵は絵ではなくなって、鏡になる。知りたくなかった、醜い自分を突き付けてくる。それは誰にも止められない。描いている本人にも、誰にも」
 彼の語りは流暢だったが、決して早口ではなく、考えながら喋っていることが明白な調子だった。同じように、僕もゆっくりと時間をかけて、その意味を汲み取ろうとする。しかし残念ながら、あまり上手くはいかなかった。
「同じことがモデルにも起こると思うんだよ。あんたの、隠しておきたかった真実。認めたくなかった本性が、全部見られてしまう。俺の筆に乗って、キャンバスに映る。それって、結構きついことだと思わない?」
「それは……」
 答えなければと、反射的に声を上げたものの、何を言えばいいのか全く思い浮かばない。もう一度「それは」と口にしてみるが、結局続きは出てこなかった。
 絵画のモデルという仕事が、決して楽なものでないことは、この短時間でも十分に理解出来た。動くことも、話すことも許されず、長時間同じ姿勢を保たなくてはならない。単なる身体的疲労以上に、精神のすり減る行為だ。肉体が静止しているからこそむしろ、かえって活発になる心の動き。それと完全なる一対一で向き合わねばならないのだから。加えて錨のあの、鋭く冷徹な眼差し。あれは人間を相手にしている目ではない。鬼みたいだ。まるで自分が人間以下の存在に成り果てたような、惨たらしい錯覚を抱かせる。あんな思いを何度もしなければならないなんて。僕に、耐えられるだろうか。
「嫌になったら、いいよ。どこへでも、好きに行けばいい。あんたにはその力があるんだから」
 僕の不安を察したのか、錨は苦笑したように口元に皺を寄せて、嘯いた。平然とした様子を繕っているけれど、その横顔はどこか寂しそうで、何かを諦めた時特有の悲愴が漂っている。一体何が、彼にそんな顔をさせるのか。僕は興味を覚えた。
「硬いね、まだまだ」
 描き上げた絵を破り取り、小窓から差し込む明かりに透かして、錨は笑った。今度こそ、間違いなく苦笑だ。彼の言う通り、白黒の僕は、引き攣ったような非対称な表情をしている。僕が頷くと、錨はまた笑って、手にしたスケッチブックを押し付けてきた。

  *  *  *

 それから僕は、週に三日の頻度で文屋家に通った。時間は大抵午後。給与は週末に現金で渡される。勤務の日は、大学で講義を受けた後にそのまま直行した。時には、急な空き時間を潰すためだけに赴きもした。あまりにも不規則な形だが、これは錨の要望でもあった。絵の製作を全ての中心に置いている彼は、生活のリズムなどあってないような暮らしをしているらしい。
「だから、ルーティンなんて作んない方が、上手くいくと思うんだよ」
 あの鉛筆画を描き終えた後、彼は僕に採用を告げ、言った。
「適当に動いてた方が、案外良かったりするよ、何事も」
 それは実際真実で、僕らのタイミングは驚くほどに合致していた。雑誌の取材やら個展の企画やらで、忙しない日々を送っている錨でも、僕が顔を出した時には、いつも何故だか暇をしている。僕が来たのを見ると、ニヤッと口の端を片方だけ持ち上げるのだ。まるでそこに、僕ら二人だけにしか通じない意図を見出しているかのように。
「錨先生は、どうして画家になったんですか?」
 相変わらず、モデルになっている間は身動きが許されない。だが会話だけはその限りでなかった。僕は頭の位置をずらさないよう留意しつつ、錨に問いかける。好奇心が半分、沈黙への居た堪れなさが半分の問いを。
「うーん……それ、記者とかにもよく聞かれるけどさ、未だに上手く答えられないんだよね」
 錨は、スケッチブックに鉛筆を走らせながら、顔だけで笑った。
「別に俺、画家にならなくても良かったんだ。でも、他にどうしようもなかったからさ。なるようにしていったら、こうなったって言うか。見つけちゃったからね。絵を描くことの喜びを」
 一度手を止めて、遠くを見るような眼差しを投げる。無意識に僕も追っていた。そうすれば、過ぎ去った時を遡って、幼い彼の姿を見ることが出来る気がした。
「目の前にあるもの全てを、自分の手で描き、紙の中に閉じ込める。その享楽を知ったら、もう戻れないよ。もちろん、辛い時もある。けど、それだけじゃない。っていうより、それ以上かな。どうだっていいんだよ、俺の気持ちなんか。一度筆を取ったら、描きたいって思い、描かなきゃいけないって観念が莫大に膨れ上がってきて、俺を飲み込む……後はずっと下敷きさ」
 「下書きって言った方がいいかな」と、最後には冗談めかして肩を竦める。僕を描く画用紙は、最初の時を含める と、これで三枚目になっていた。構図を決めるための下書きとのことだが、中々決まらない様子である。名の売れた芸術家が、平凡な僕を描画するのに手間取るとは、何だか滑稽だった。
「あの頃は楽しかったなー。時間なんか飛ぶように過ぎてってさ。小遣いは全部画材に消えた。同級生たちは、皆ゲームだとかマンガだとかに夢中になってたけど、俺は要らなかった。他には何も。両親が喧嘩してても、教師に拳骨食らっても。絵さえあれば良かった」
 錨は鉛筆を置き、椅子に座って腕を組んでいた。昔を懐かしむ思いに、頬が緩んでいる。
「幸せだった。自分は幸せ者だって、心底思えた。そしてその内に……絵のない生活じゃなきゃ駄目になった」
 その声が、突如暗さを含んで重くなった。
 僕の脳に、瞬間的に想像が流れ込んでくる。錨の肉体の、左胸。心臓のある位置に、イーゼルとキャンバスと絵の具とがある。イーゼルには半透明のチューブが巻き付いていて、絵筆の先から流れた赤が、そこを通って錨の体内へ送られていく。白い布地に奇妙な波形が記されて、心電図の機能を果たしている。これで、絵を描かなければ死んでしまう人間の完成だ。その行為は彼にとって心臓であり、肺であり、他の欠けることの出来ない臓器。呼吸でもあり、消化でもある。詰まるところ、生きるということだ。
「それは凄く辛いことだ。普通に進学して、就職して。そういう、誰もが通る道を歩けなくなった。大学なんて一年で懲りたよ。ましてやサラリーマンなんて、到底無理だと思った。考えてみれば分かることだったんだけどさ」
 当然だろう。絵を描かなければ死んでしまう人間が、平凡な生活に溶け込めるわけがない。ましてや、錨の好みは油絵だ。絵の具が乾くのに最低でも数日は要する上に、費用と製作スペースの確保も簡単なことではない。学生をしながら、あるいは働きながら、趣味として両立させるなど至難の業だ。結局彼は、現役で合格した大学も、一年で中退してしまったという。そのことで父からは勘当され、神奈川に住む父方の叔父を頼った。美術ディーラーをしている叔父は、確かな審美眼で、錨の才能を早くから見抜いていた。だからこそ、彼を温かく迎え入れ、芸術大学の学費まで工面してくれたのだ。錨は現在も、彼に作品の管理販売を一任することで、当時の恩に報いている。
「だからもう、後は必死だった。他に何もないからさ。生きてくためには、必死こいて絵を描くしかなかった」
 平穏への逃避が失敗に終わった錨は、もはや行き場をなくしていた。たとえ確率が低くとも、どれだけの時間がかかろうとも、絶対に画家としての成功を手に入れなければならなかった。たとえ彼の心臓が絵画で出来ているとしても、肉体というのはそれだけで持続するものでもないのだ。何らかの方法で生計を立てなければ、絵を描くことも叶わない。本当の意味で人生を、絵画に託し統べさせるしかないのだ。だから錨は絵を描いた。立ち止まっている暇はなかった。怖かろうとも、傷付こうとも、受け入れて前に進むしかなかった。叔父からの援助を受けたことも、返さねばならぬ借りとなって、背中に重くのしかかった。
 そのおかげで彼は、現在の地位を築いた。今でこそ、現代美術界の有名人として名を馳せる彼だが、意外にもその栄光は遅咲きだったという。厳密に言うならば、彼の前衛的かつ独創的な画風に、当時の者は誰も理解を示せなかったのだ。著名な批評家や同じ世界の重鎮、形ばかりの絵画マニア、誰もがこぞって批判をした。錨にとっての二十代は、まさに暗黒時代と言えるだろう。だがそんな長く苦しい時期でさえ、飛躍に繋げてしまえるのが、彼の才覚だった。または運によるものだろうか。どちらにせよ、三十歳を過ぎた辺りから、彼の人気は急騰した。新時代の文化人、若き巨匠、日本美術の開拓者。ネットニュースや専門の雑誌でセンセーショナルに取り上げられ、カメラに向かって微笑むことを求められた。僕の知る、文屋錨の姿を。
「そう言えば俺って、夢を叶えた人ってことになるのかな?幸せに見えるって。なんか、この前そんな感じのインタビュー受けたんだけど」
 一階の居間に飾られた、数々のトロフィーや勲章。多少埃を被っていても、輝きの尽きないそれは、誰もが憧れる成功の象徴だ。大きな家と可愛い娘もある。他者が幸福と見做すのも、不思議ではない生活だった。
「どう思う?」
 だけど僕は躊躇った。仮にお世辞でも、はいと答えるべきところだ。けれど錨の鋭い目に射竦められた僕は、石になって動けなかった。彼の言葉は、僕自身にも問うているように聞こえたのだ。お前は今幸せなのか、と。
 僕は今、幸せなのだろうか。固まったまま、ぼんやりと考える。絵の上手さだけはそれなりに認められて、褒められて生きてきた。けれど他に取り柄もない、つまらない男だ。何となく生きているだけの、何てことのない人生。未使用のキャンバスの如く、真っ白な人間だ。
 錨は何故、僕を雇ったのだろう。ありふれた大学生の一人に過ぎない、特別なところのない僕を、どうして彼は選んだのか。
 考えるばかりでちっとも質問に答えない僕を、しかし錨は気にしてもいなかった。あるいは、絵に熱中するあまり、会話をしていたことまで忘れたのかも知れない。この男にはよくあることで、既に僕も慣れつつあった。
「まぁでも、勘当って言っても完全に縁が切れたわけじゃなくて、その後もずるずる馴れ合い続けてたけどね」
 かと思えば唐突に、以前の会話を持ち出してきたりもする。何の話題なのか、すぐには理解が追いつかなかった。大学を中退した錨が、父親に激怒されたという話だ。
 以来、父とは何年も無沙汰が続いたが、叔父経由で近況報告くらいは為されていた。彼の粘り強い説得が効いたのか、あるいは寄る年波が意地を氷解させたのか。次第に父親は態度を軟化させ、やがてはまた会話をするようになった。そして六年前に、彼は脳溢血で倒れ、帰らぬ人となった。遺言により、錨が文屋家の土地と邸宅とを相続した。父は会社を営んでいたが、そちらは母に委託された。
「じゃあ、この家はご実家ってことですか?」
「いやいや、こんな家にあの人たちが住むわけないでしょ」
 僕が尋ねると、錨は大袈裟に手を振って否定した。一見にこやかなその笑顔の裏には、どこか冷たい棘がある。ひやりとした。
「前はもっと、純和風の木造平屋だったよ。えーと、どこだったかな……ほら」
 錨は僕から目を逸らすと、例の本棚を漁り、またスケッチブックを取ってきた。僕がもらったものより、色褪せて随分と膨らんでいる。一枚引き出された画用紙には、茶色を基調とした、家の絵が描かれていた。子供の頃の錨が描いたものなのだろう。構図も色彩も、光の加減も全く考えられていない。いかにも幼稚で、子供らしい絵。しかし鮮やかに、彼の才能の片鱗が滲み出してもいる。これこそが彼の原点であり、本質なのだ。そう思わせる、何かがそこにあった。にも関わらず錨は、僕の手から紙を引ったくると、つまらなさそうに床に放った。
「でも、あの家隙間風寒くってさぁ。絵を描くのにも向かないし。思い切って建て替えちゃった。母親は近所に引っ越させて」
 悪びれもしない淡々とした語り口は、薄寒い感覚を僕に植え付けた。実家という、子供の頃から慣れ親しんだはずの場所を、コンクリートと鉄筋で塗り潰す。剰え、母親を意のままに動かして。自分を受け入れなかった父親への、当てつけが込められているようだった。そしてそんなことを誇りかに喋るのが、彼の人間としての本質なのだろうか。
 床に落ちた画用紙の、隅に書かれた名前を見つめる。彼が絵画のために、捨てた名前を。
「俺はあの時、幸せだったのかな」
 一心に鉛筆を動かしながら呟く彼を、僕は初めて、少しだけ怖いと思った。
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