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序章 ありきたりな婚約破棄からの運命的な就職
第三話 ようこそ「薄明」へ
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次に目を覚ますと、知らない天井が私を見下ろしていた。
……夢?いや違う。髪は短いままだし、枕元には斡旋所でもらった紹介状が置かれている。
いつの間にか寝かされていたベッドから身を起こし、周りを見回す。ベッドだけ置かれた殺風景な部屋には誰もいない。机の上には私の荷物がまとめて置いてあった。
恐る恐る、左目に手を当てる。
……もう、痛くない。視力にも問題なさそう。
あの痛みはなんだったんだろう。健康だけがとりえだったのにな。よりにもよって初めての面接、なんて大事な時に。憂鬱な気持ちを散らすように大きく息を吐き出した。
ふいに、床板が軋む音がして、そちらに視線を移した。
部屋の中を、一人の男の子が覗きこんでいる。
扉の影から首だけだしているので、体は見えないけれど、歳は、……五歳くらいだろうか。
大きな黒い瞳が、瞬きもせずにこちらを見つめている。
……バルドルさんのお孫さん、とかかな。
「こんにちは」
挨拶してニッコリと微笑んでみるが、男の子は無表情のままである。まぁ、子供ってそんなもんだよね。
どうしたものかと考えていると、ふいに男の子が何かを言ったように、口が動いた。
「……え?なんて言った?」
口が動いているのに声は聞こえない。
聞き返すと、男の子はもう一度口を動かした。……けど、やっぱり聞こえない。
でもどうやら、口の動きから「遊ぼう」と言っているらしいことはなんとなくわかった。
「……ごめんね。今は、ちょっと無理かな……」
さすがに子どもと遊んでいる場合ではない。ご迷惑をかけた謝罪をしなきゃいけないし、面接も途中だ。
……いきなり倒れるなんて失態をしたから、採用は絶望的だけど。
私が誘いを断った後も、男の子はその場に留まり無表情にこちらを見つめ続けている。
……うう、罪悪感。私、子ども好きなんだよね。なので妥協案を出すことにした。
「……後でなら、遊べると思うよ」
そう言うと、男の子の顔が笑顔になった……かと思うと、急にぐにゃりと歪んだ。
あどけない顔中に大きな口が裂けるみたいに弧を描く。……これは笑顔、なんだろうか。なんだか、すごく嫌な表情だ。
そこで初めて気づく。男の子は首だけ扉から覗かせてこちらを向いているけど、顔の位置、高さに違和感がある。
……人間の首は、そんな角度では曲がらない。
なんなんだろう、この子は。怖い。……のに、目を逸らせない。
心臓がばくばくと音を立てる。
男の子の顔が、ゲラゲラと笑うように口を震わせながら、まるで風船に空気を入れたかのように大きくなってこちらに近づいてくる。なのに体は見えない。
……首が伸びて、こちらに向かってきているからだ。
不自然に細い首がすうっと伸び、不気味な顔が私に迫る。
その顔は、もはや私の上半身よりも大きく膨らんでいた。顔のパーツはぐちゃぐちゃにずれ、形も歪んで、どこをどう見ても人間には見えない。
『それ』は、今や顔の半分以上を占めた口を、私の前で大きく開いた。
黄色く汚れた乱ぐい歯が、私の目の前に迫る。
肉色をした口内がぬらぬらと光る。
悲鳴を上げる。これ以上見ていられなくて、目を閉じた。すると
「アリー!!」
部屋の外から、声がした。
……驚いて目を開く。すると、そこにいた怖いものは跡形もなく消え去っていた。
代わりに綺麗な柘榴色の瞳が、ひどく焦った様子で私のことを見つめていた。
この人は、ギルドマスターの……ルード、さん?
……助けて、くれた?
「大丈夫か!?」
「は、はい……」
私が返事をすると、彼はホッとした様子で息を吐き、肩を落とす。
ここまで走ってきたのだろうか。呼気が荒く、滲んだ汗で額に銀の房が貼り付いている。
「すまない……医者を、呼びに行っていたんだが……。今の君を一人にするべきじゃなかった……」
「ええ、と。あの、さっき、私……変なものを見て……」
必死に先程の体験を言葉にしようとする私を、指で制して、ルードさんは少し辛そうに微笑んだ。
「……後できちんと説明するよ。まずは医者に診てもらってくれ」
*****
もうすっかり体調は戻っていたけれど、念の為お医者様にも診てもらい、結果は特に問題なし。
疲れが溜まっているようなので、安静にするようにとのことだった。これには心当たりしかないので素直に頷いておく。
その後、私はルードさんの待つ応接室へと案内された。長椅子に腰掛けるとバルドルさんが温かいハーブティーを出してくれる。美味しい、ホッとする味だ。
バルドルさんが退出すると、銀髪の彼は小さく咳ばらいをして、話し始めた。
「……まず、自己紹介が遅れてすまない。俺の名前はルード。このギルド『薄明の夕暮れ』でギルドマスターを務めている。ルード、と呼んでくれ」
「あ、私はアリーと申します。求人を見てお邪魔しました」
改めて名乗ると、ルードさんは『知ってる』と言って少し微笑んだ。知ってるのか。バルドルさんが伝えてくれたのかな。
「このギルド『薄明の夕暮れ』は、冒険者ギルドではあるんだが……。少し特殊な案件を専門的に請け負っている。冒険者の登録も、その特殊性に対応できることが条件だ……俺も含めて」
ルードさんは、長い睫毛を伏せて、言葉を選ぶようにゆっくりと説明を始める。
「……特殊な案件というのは、何でしょうか?」
「さっき見たようなモノに関する依頼だよ。もう気づいてると思うけれど、アレはこの世のものではない」
先程見た、『何か』を思い出し、ぞくり、と肌が粟立った。思わず自分の肩を抱く私を濃赤の瞳が見つめる。
「……未練を残してこの世を去った、いわゆる幽霊さ。
……普通の人間には見えもしない」
ぽかんと口を開けたまま、しばらく言葉が出なかった。幽霊?死んだ……人?そんなもの、実在するの?
「で、でも、おかしいです。なんで、私に、あんなのが見えたんでしょうか?今まであんなモノ、一度も見たことなんて……!」
ここでまで言って、違和感に、口ごもる。……見たことなんて、ない。ないはずだ。
……なのに、なんで。こんなにもやもやするんだろう。
「……それなんだが、その。君が倒れた後……。俺は、見えなくなってしまって……」
「え?」
「見えないんだ。正確には……今朝までははっきり見えていたあいつらの存在が、今は黒い靄のようにしか見えなくなった。
そこから推察するに。……おそらく、俺の力が……君に移ってしまったのではないか、と……」
「…………」
嘘でしょ?
そういう能力って、そんな、流行性の風邪みたいに感染しちゃうようなものなの?
「どうしてこんなことになったのかは……、わからない。……本当に……すまない」
そう言って、心底すまなそうにルードさんは頭を下げた。
「今後もおそらく、君はああいうモノを見ることになる。こうなった以上、このまま帰るのは危険だ。あれらは、自分に気づいてもらえることに喜んで、寄ってくる。……だから」
そこで、ルードさんは気まずそうに口をつぐんだ。そこからたっぷり数十秒ほど押し黙った後、彼はぼそりと呟いた。
「……申し訳ないが、君の目を戻す方法がわかるまで、ここにいて欲しい……。もちろん衣食住は保証する」
「え、いいんですか!?」
「え?」
嬉々として言うと、ルードさんは顔を上げてぽかんとする。
「私、仕事を探してるんです!それなら、ここで働かせてもらえますか!?」
「あ、ああ……。君はいいのか?それで?」
「もちろんです!私、ここにはお仕事したくて来たんですよ?働けるのは嬉しいです。一生懸命頑張ります!」
「……俺のせいで変なものを見るようになったのに?」
「それは想定外でしたけど……まあ起こってしまったことは仕方ないですし……」
悪気があったわけでもないし。
……それに、あだ名が『幽霊令嬢』だった私が本物の幽霊を見るようになるなんて、なんだか一周回って面白い
ルードさんは、しばらく唖然として、その後がっくりと肩を落とした。
「……良かった。……怒ってなくて」
そう言いながら、深くため息をつく。
叱られるのを怖がるなんて、まるで子供だ。なんだか、美形な見た目とのギャップが大きすぎる。
私が思わず吹き出すと、彼は困ったように微笑み、手を差し出した。
「改めて。……『薄明の夕暮れ』へようこそ。……これからよろしく」
「はい。よろしくお願いします!」
こうして『幽霊令嬢』は、なんと本物の幽霊事件専門のギルドで働くことが決まったのだった。
……夢?いや違う。髪は短いままだし、枕元には斡旋所でもらった紹介状が置かれている。
いつの間にか寝かされていたベッドから身を起こし、周りを見回す。ベッドだけ置かれた殺風景な部屋には誰もいない。机の上には私の荷物がまとめて置いてあった。
恐る恐る、左目に手を当てる。
……もう、痛くない。視力にも問題なさそう。
あの痛みはなんだったんだろう。健康だけがとりえだったのにな。よりにもよって初めての面接、なんて大事な時に。憂鬱な気持ちを散らすように大きく息を吐き出した。
ふいに、床板が軋む音がして、そちらに視線を移した。
部屋の中を、一人の男の子が覗きこんでいる。
扉の影から首だけだしているので、体は見えないけれど、歳は、……五歳くらいだろうか。
大きな黒い瞳が、瞬きもせずにこちらを見つめている。
……バルドルさんのお孫さん、とかかな。
「こんにちは」
挨拶してニッコリと微笑んでみるが、男の子は無表情のままである。まぁ、子供ってそんなもんだよね。
どうしたものかと考えていると、ふいに男の子が何かを言ったように、口が動いた。
「……え?なんて言った?」
口が動いているのに声は聞こえない。
聞き返すと、男の子はもう一度口を動かした。……けど、やっぱり聞こえない。
でもどうやら、口の動きから「遊ぼう」と言っているらしいことはなんとなくわかった。
「……ごめんね。今は、ちょっと無理かな……」
さすがに子どもと遊んでいる場合ではない。ご迷惑をかけた謝罪をしなきゃいけないし、面接も途中だ。
……いきなり倒れるなんて失態をしたから、採用は絶望的だけど。
私が誘いを断った後も、男の子はその場に留まり無表情にこちらを見つめ続けている。
……うう、罪悪感。私、子ども好きなんだよね。なので妥協案を出すことにした。
「……後でなら、遊べると思うよ」
そう言うと、男の子の顔が笑顔になった……かと思うと、急にぐにゃりと歪んだ。
あどけない顔中に大きな口が裂けるみたいに弧を描く。……これは笑顔、なんだろうか。なんだか、すごく嫌な表情だ。
そこで初めて気づく。男の子は首だけ扉から覗かせてこちらを向いているけど、顔の位置、高さに違和感がある。
……人間の首は、そんな角度では曲がらない。
なんなんだろう、この子は。怖い。……のに、目を逸らせない。
心臓がばくばくと音を立てる。
男の子の顔が、ゲラゲラと笑うように口を震わせながら、まるで風船に空気を入れたかのように大きくなってこちらに近づいてくる。なのに体は見えない。
……首が伸びて、こちらに向かってきているからだ。
不自然に細い首がすうっと伸び、不気味な顔が私に迫る。
その顔は、もはや私の上半身よりも大きく膨らんでいた。顔のパーツはぐちゃぐちゃにずれ、形も歪んで、どこをどう見ても人間には見えない。
『それ』は、今や顔の半分以上を占めた口を、私の前で大きく開いた。
黄色く汚れた乱ぐい歯が、私の目の前に迫る。
肉色をした口内がぬらぬらと光る。
悲鳴を上げる。これ以上見ていられなくて、目を閉じた。すると
「アリー!!」
部屋の外から、声がした。
……驚いて目を開く。すると、そこにいた怖いものは跡形もなく消え去っていた。
代わりに綺麗な柘榴色の瞳が、ひどく焦った様子で私のことを見つめていた。
この人は、ギルドマスターの……ルード、さん?
……助けて、くれた?
「大丈夫か!?」
「は、はい……」
私が返事をすると、彼はホッとした様子で息を吐き、肩を落とす。
ここまで走ってきたのだろうか。呼気が荒く、滲んだ汗で額に銀の房が貼り付いている。
「すまない……医者を、呼びに行っていたんだが……。今の君を一人にするべきじゃなかった……」
「ええ、と。あの、さっき、私……変なものを見て……」
必死に先程の体験を言葉にしようとする私を、指で制して、ルードさんは少し辛そうに微笑んだ。
「……後できちんと説明するよ。まずは医者に診てもらってくれ」
*****
もうすっかり体調は戻っていたけれど、念の為お医者様にも診てもらい、結果は特に問題なし。
疲れが溜まっているようなので、安静にするようにとのことだった。これには心当たりしかないので素直に頷いておく。
その後、私はルードさんの待つ応接室へと案内された。長椅子に腰掛けるとバルドルさんが温かいハーブティーを出してくれる。美味しい、ホッとする味だ。
バルドルさんが退出すると、銀髪の彼は小さく咳ばらいをして、話し始めた。
「……まず、自己紹介が遅れてすまない。俺の名前はルード。このギルド『薄明の夕暮れ』でギルドマスターを務めている。ルード、と呼んでくれ」
「あ、私はアリーと申します。求人を見てお邪魔しました」
改めて名乗ると、ルードさんは『知ってる』と言って少し微笑んだ。知ってるのか。バルドルさんが伝えてくれたのかな。
「このギルド『薄明の夕暮れ』は、冒険者ギルドではあるんだが……。少し特殊な案件を専門的に請け負っている。冒険者の登録も、その特殊性に対応できることが条件だ……俺も含めて」
ルードさんは、長い睫毛を伏せて、言葉を選ぶようにゆっくりと説明を始める。
「……特殊な案件というのは、何でしょうか?」
「さっき見たようなモノに関する依頼だよ。もう気づいてると思うけれど、アレはこの世のものではない」
先程見た、『何か』を思い出し、ぞくり、と肌が粟立った。思わず自分の肩を抱く私を濃赤の瞳が見つめる。
「……未練を残してこの世を去った、いわゆる幽霊さ。
……普通の人間には見えもしない」
ぽかんと口を開けたまま、しばらく言葉が出なかった。幽霊?死んだ……人?そんなもの、実在するの?
「で、でも、おかしいです。なんで、私に、あんなのが見えたんでしょうか?今まであんなモノ、一度も見たことなんて……!」
ここでまで言って、違和感に、口ごもる。……見たことなんて、ない。ないはずだ。
……なのに、なんで。こんなにもやもやするんだろう。
「……それなんだが、その。君が倒れた後……。俺は、見えなくなってしまって……」
「え?」
「見えないんだ。正確には……今朝までははっきり見えていたあいつらの存在が、今は黒い靄のようにしか見えなくなった。
そこから推察するに。……おそらく、俺の力が……君に移ってしまったのではないか、と……」
「…………」
嘘でしょ?
そういう能力って、そんな、流行性の風邪みたいに感染しちゃうようなものなの?
「どうしてこんなことになったのかは……、わからない。……本当に……すまない」
そう言って、心底すまなそうにルードさんは頭を下げた。
「今後もおそらく、君はああいうモノを見ることになる。こうなった以上、このまま帰るのは危険だ。あれらは、自分に気づいてもらえることに喜んで、寄ってくる。……だから」
そこで、ルードさんは気まずそうに口をつぐんだ。そこからたっぷり数十秒ほど押し黙った後、彼はぼそりと呟いた。
「……申し訳ないが、君の目を戻す方法がわかるまで、ここにいて欲しい……。もちろん衣食住は保証する」
「え、いいんですか!?」
「え?」
嬉々として言うと、ルードさんは顔を上げてぽかんとする。
「私、仕事を探してるんです!それなら、ここで働かせてもらえますか!?」
「あ、ああ……。君はいいのか?それで?」
「もちろんです!私、ここにはお仕事したくて来たんですよ?働けるのは嬉しいです。一生懸命頑張ります!」
「……俺のせいで変なものを見るようになったのに?」
「それは想定外でしたけど……まあ起こってしまったことは仕方ないですし……」
悪気があったわけでもないし。
……それに、あだ名が『幽霊令嬢』だった私が本物の幽霊を見るようになるなんて、なんだか一周回って面白い
ルードさんは、しばらく唖然として、その後がっくりと肩を落とした。
「……良かった。……怒ってなくて」
そう言いながら、深くため息をつく。
叱られるのを怖がるなんて、まるで子供だ。なんだか、美形な見た目とのギャップが大きすぎる。
私が思わず吹き出すと、彼は困ったように微笑み、手を差し出した。
「改めて。……『薄明の夕暮れ』へようこそ。……これからよろしく」
「はい。よろしくお願いします!」
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