星空に叫ぶ

範子水口

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春風の吹く

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五月二日
 
 この世の不幸や苦しみや不条理の類は、全て人間の作り出した虚構なのではないか。空を彩っている夕焼けを見ながら、功治は思った。
 
 丘からの坂を下り始めた功治の自転車は、夕方の潮の匂いのした空気を功治の体にまとわせることを許したが、坂の半ばに来たころには、その空気すらも引き裂くようにスピードを増す。彼は自分の自転車の勢いを、自らの勢いに変えたいと願う。坂を下りきる時には、滑走路を飛び立つ飛行機に自転車を重ねながら、限界までスピードを上げていく。そのスピードに耐えられず、今にもバラバラに壊れてしまいそうな古い自転車がカラカラと乾いた音を立てた。そんな自転車に容赦せず、ペダルを踏む自分の足にさらに力を込める。

 そしてハンドルを握った両手を、それっ、とばかりに力いっぱい引き上げた。

このまま空へ―。

「いっけっー」

体を目いっぱい反らした功治の目に、暮れかけの空が飛び込んできた。それは思ったよりも多くを闇に侵されていて、少しの間功治は言葉を失くした。今日というもう二度と来ない一日が終わる。その郷愁に似た想いは、彼の胸を優しく絞めつけたが、闇が連れてくる安らかな夜への愛おしさが、その締めつけを解いた。気の早い星のいくつかは、夜を待てずにきらきらとまだ薄明るい空に瞬いている。その出始めの星たちの光の儚さと、その輝かんとする一途な懸命さに、功治は自分が広い宇宙に抱かれていると悟った。

 功治は、自分の体が自転車とともにふわっと浮き上がり、ゆっくりと空へ浮かんでいける気がした。
ほんの数センチだけ浮いた前輪が再び地面に着地した途端、彼は我に返って前を向き、落胆の息とともに

「ダメかー」

とチーム一大きな声を空に吐き出した。その途端、功治の自転車はアスファルトの段差に乗り上げて、  、さらに畑の○をいくつも越えてようやくとまった。

「なんだ?」

という前を走る誰かの声には応えずに、功治はもう一度さらに大きな声で、

「ダッメかー」

畑の中から暮れていく空に投げつけた。
功治には、自分の声がやがて天空まで届き、大気の天井に跳ね返り、その声は下降気流となって地上に吹き降ろし、今度は上昇気流となって自分の体を自転車もろとも天高く吹き上げてくれるのではないかという途方もない考えが浮かんできた。

そうさ、俺は空まで飛んでやる―

功治は自分でもおかしくて堪らなくなり、大声で笑った。

「功治、どうした?」

功治を畑で立ち往生している功治を自転車を停めて見守っている毅には上を向いて笑う功治が見えているだけだった。

街へ向かう自転車の一団にすぐに二人は追いついた。15台の自転車が列になって夕闇の中を進む。急いで列の後ろにつけた毅の鼻孔を、道沿いの家からの夕餉の匂いが通りぬける。

「うおー」

「カレーさまー」

「かあちゃーん腹減ったー」

空腹を叫ぶ雄たけびが一列に伸びた自転車の列の前から順々に上がる。それはこれから戦に向かう武者たちの時の声のようであり、赤ん坊が腹を空かせて乳をねだる泣き声の様でもあった。

「腹減ったー」

功治の大きな声が毅の後頭部をまたゴツンと小突いた。

 街を抜けるとまた道は畑の真ん中を少し蛇行しながら次の街へと伸びていく。長い間街から高岡高へ生徒を送り込んできたその道は、使い込まれてたアンティークのようだと功治には思えた。中央に引かれた白線は所どころ薄く消えかけていて、アスファルトには老人の目尻に刻まれた皴の様なひびがたくさんあった。
 
 毎朝通う高岡高の生徒は温かく母親のようなこの道に向かい入れられ、そして、来たときと同じように送り帰された。功治が初めてそこを通った時でさえ、いつか記憶のない幼い頃に通ったことがあるのではないかと思わせる何かが、そこにはあった。その道は雨の日に小さな水溜りを無数に作り、雨上がりにはその水溜りが真っ青な空をしっかりと拾った。映し出された青空が濡れた黒いアスファルトに煌めく様は、彼に夏の天の川を思い出させた。

 長く伸びた自転車の一団がその畑の真ん中に敷かれた一本道を町へ進んで行く。後ろから車のライトが近づくと、アスファルトを外れ、土の上を走る。高岡高の野球部員達は、暖気と寒気とが混じりきっていない春の夕闇の中を走っていった。
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