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第四十一話「留学」
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それから二日後の朝、練習室の廊下で俺は講師に呼びとめられた。あの鬼講師の、三城先生だ。
また何か怒られるのだろうかと身構えていたが、全くそういう話ではなかった。
「オーストリアに交換留学しないか?」
交換留学とは、この鈴響音楽大学が定めているもので、国外の大学と交換留学協定を結び、人材交流を図るために設けられた制度だ。
こちらの大学生が国外の音楽大学で一年間学び、国外の大学生が鈴響音楽大学で一年間学ぶ。
鈴響音楽大学も日本で有数の音楽大学だから、学びたい外国人も少なくはない。
「私に師事したいと言っている大学生がオーストリアにいるんだ。逆に、オーストリアの大学の講師も鈴響大学の学生を欲しがっている。臼庭くんはソリストが夢なのだろう? その講師に教わればソリストも夢じゃない。どうだろう、大学三年生から一年間、留学してみないか?」
そうだ、受験のときの面接で、俺はソリストになるのが夢だと言ってしまっていた。
その情報が三城先生にも伝わっているのだろう。
三城先生も元ソリストで、海外でも公演していた有名なヴァイオリニストだ。
その人からの招待となると……断れそうにも断れない。
「私が前に君に言った実技試験の評価を、気にしているのか?」
「あ、いえ……」
気にしてないと言えば嘘になる。
気まずくなって目を逸らしたら、三城先生は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「君が気にしているのなら、申し訳ないことをした。ソリストになりたいのなら、もっと音楽に色をつけていかないといけないと思ったんだ。君はもっと成長できる。だから、あんなに厳しい言葉をかけてしまった」
「……俺は別に、ソリストになりたいわけじゃありません」
「そうなのか?」
「オーケストラ奏者になりたいんです」
初めてハッキリと恋人以外の他人に自分の夢を告げてしまった。
こんなにはきはきしながら言ってしまうなんて、俺はよっぽどオーケストラ奏者に憧れているのだと自覚する。
東京ハーモニー交響楽団に入りたいとは言えない。
恥ずかしいし、そんな大それた夢が叶うはずもないからだ。笑われてしまったら傷つくし。
目を見てそう告げたら、三城先生は目を瞠っていたが、やがてふっと微笑んだ。
「君のように天才ヴァイオリニストとも言える人が、ソリストにならないのは勿体ないが……。そうだな、君の演奏は協調性がある。オーケストラ奏者には向いているだろう」
「そう、ですか」
「ただ、演奏していくうちにソリストの仕事も増えていく可能性はあるだろう。そのときになったら、今の演奏じゃ通用しない。立派なヴァイオリニストになれるように、頑張りなさい」
「……はい」
俺が頷くと、先程の話の続きをされる。
「どうだ? 留学する気はないか? オーストリアにある大学の講師も、君に興味があると言っている。もちろん、鈴響音楽大学に在籍したままでの留学だ。単位も、留学先の大学での評価で振り替えることができる。ソリストになる気がなくとも、留学して学べることはたくさんあるだろう」
「……」
留学したい気持ちはある。
ヴァイオリンの勉強になるだろうし、外国のヴァイオリニストの卵と切磋琢磨することができるだろう。
オーストリアは音楽の国とも呼ばれる場所だ。
あの有名なウィーン国立歌劇場だってあるし、音楽祭もある。
良い経験になるのは間違いなかった。
でも……留学したら一年間、蒼馬と会えなくなる。
どんなに辛いことか。
それに、俺には発情期がある。
抑制剤も効かないし、約三か月に一度一週間休まなくてはならない。
それをどう留学先で伝えるか……。
「少し、家族に相談してみます」
「ああ、わかった。まだ夏休みだし、無理に今決めなくていい。決まったら、教えてくれ。すぐに主任教授に話しておくから」
「わかりました」
厳しいと有名な三城先生は、意外と優しく俺の夢を応援してくれ、そのまま去っていった。
家族に相談するというのは嘘で、本当は理事長に相談する。
三城先生一人で決めていいわけじゃないから理事長にも伝わっているだろうが、発情期関連のことで相談しておかなければならない。
今すぐにでも相談したいところだが……とりあえず今の俺は、蒼馬に会いたかった。
「蒼馬は、進路とかどうするの?」
「俺? 俺はー……」
朝食を食べ練習室で練習した帰り、ちょうど蒼馬と練習室の廊下で会ってそのまま俺の部屋で過ごすことになった。
ずっと気になっていた蒼馬の進路を聞いてみる。
蒼馬はコンビニで買ってきたらしいポテチをもぐもぐ頬張っていた。
「うーん、多分、父さんのピアノ教室を継ぐと思う」
「え、蒼馬の父さん、ピアノ教室なんか開いてるの?」
「うん。百人以上生徒を見てるから、講師を雇うか迷ってるって言ってたんだ。だから、将来俺が継ぐためにも講師になろうかなって」
確か個人のピアノ教室で一番多い生徒数って、二十人~三十人くらいじゃなかったか?
それの三倍以上って、相当儲かっているんじゃないだろうか。いやらしい話だけど。
「蒼馬ん家って、どこなの?」
「名古屋だね」
「名古屋でピアノ教室開いてるのか。百人も見てるって、すごいよな」
「父さんの教え方が上手いだけだよ。湊はどのあたりに実家あるの?」
「俺は京都」
「ええっ! 一番速い新幹線なら一駅じゃないか! 来年、湊と一緒に京都旅行とか行きたいなぁ。夏って京都は暑いかなぁ。あ、もちろん名古屋でも大歓迎だよ」
えへへと笑う蒼馬を見て、途端に気まずくなる。
来年俺が留学していたら、その旅行は行けない。
俺だって蒼馬と旅行に行きたいし、こんなに楽しそうな表情をしてくれているのに、「留学するから旅行は行けない」とは言おうにも言えなかった。
「……湊、どうしたの?」
「あ、いや、別に。なんでもない」
俺の表情に翳りがさしたことに気づいたのか、蒼馬が覗きこんでくる。
蒼馬は納得いかないというように頬を膨らませたけど、それ以上なにも踏みこんでこなかった。
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