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第五話「臼庭との出会い」
しおりを挟む小学生のころ、父さんから「音楽に触れてみないかい?」と言われて、ピアノを父から習った。
中学に上がるころには人より弾けるようになっていて、昼休みに音楽室で学校で流行っている曲を耳コピして弾いたりしていた。
俺はピアノが上手い人だと学校中で噂になり、中学三年のころ第二の性がアルファだと判明した。
アルファだとわかった俺は、ついぽろっと友人に自分がアルファであることを話してしまった。
そしたらその噂はクラス中に広まり、学校で開催する合唱コンクールの伴奏に抜擢されたのだ。
――アルファの蒼馬ならいけるよ!
――蒼馬くんが弾くピアノで歌いたいの! やっぱり、アルファだから才能があるのよ、蒼馬くんは!
――アルファの人に伴奏してもらうなんて、俺たちのクラス、誇らしいと思わない?
――アルファだから。
クラスにピアノが弾けるアルファが俺しかいなかったから、それだけの理由で俺は合唱コンクールの伴奏に選ばれた。
だけど……合唱コンクールは、呆気なく失敗した。
練習で上手くいっていたはずの俺の演奏は、本番では演奏が止まってしまったのだ。
俺は父さんからピアノを習っていたから、発表会にも出たことがない。
大勢の人前で弾くのが初めてだった。
学校の先輩や、教師、生徒の両親が俺を見つめていて。
緊張して手が震えてしまう。
失敗したらどうしようと頭を駆け巡り、舞台に立ってピアノの椅子に座っても楽譜など何も頭に入らない。
指揮者の合図も忘れ、俺はそのどうしようと予想していた通りになってしまった。
重度に緊張して、演奏よりも自分の鼓動の音や生徒の歌声が耳に響き、手が震え、何度もつっかえる。
クラスメイトがちらちらとこちらを見ているのがわかった。
指揮者も最初はどうしたものかと怪訝な表情で見つめていたが、やがてそれは咎めるような視線に変わった。
合唱コンクールの後から賞賛していたクラスメイトたちは、掌返して俺をいじめるようになった。
――アルファの伴奏者なのに、賞が取れなかったのはお前のせいだ。
――アルファのくせに、本番に怖気づく大したことないやつだったんだな。
――本当にアルファなの?
――アルファなのに。
そう責められ続け、俺の精神は擦り切れていく。
学校に行くたび、陰口が耳に入る。
クラスメイトたちはいじめの対象を俺にロックオンし、体操着をゴミ箱に捨てたり靴を隠してきた。
教科書も捨てられたりして、勉強が思うようにできずテストの点数も落ちていく。
オメガの人の中では発情期の最中にわざと俺の前にやってきて、俺がオメガを強姦させようと計画する人までいた。
教師も一度HRで注意していたが、それも返ってクラスメイトたちを苛立たせ、いじめの対象が俺から逸らされることはなかった。
死ぬことだって考えるくらい、俺は追い詰められていた。
――ピアノなんて嫌いだ。
伴奏を失敗したのは自分の責任なのに、八つ当たりするようにピアノが嫌いになった。
ピアノを弾いていなければ。
ピアノを父さんから習っていなければ。
こんな目に遭わなかったかもしれないのに。
ピアノも弾かなくなり、食欲も失せ、夕食や朝食を残していく俺に母さんは心配して尋ねてきた。
――学校で何かあったの?
俺は言ってもまた先生に伝わってクラスメイトが腹を立たせるだけだと思い、何も言わなかった。
母さんは毎日下ばかり見て食事をし、一つも笑わなくなった俺にコンサートのチラシを見せてきた。
『ワンコインクラシック』。
飲食料は別だけど、ワンコインでクラシックの演奏が聴けるコンサートらしい。
飲み食いをし、雑談をしてもいいコンサートだ。
毎週土曜日にやっているもので、今週はヴァイオリンとピアノのデュオを聴けると母さんは言う。
ヴァイオリニストが俺と同じ年齢らしく、母さんは「どう? 興味ない?」と身を乗り出してきた。
俺はここで断ったら母さんが悲しむと思い、渋々承諾した。
そして、見に行ってきたコンサートは――。
髪を揺らしながらヴァイオリンの弦に指を走らせる少年に、俺は釘付けになっていた。
その長い睫毛は指先の方を向き、茶色い瞳が演奏に熱を注いでいる。
背は自分よりも低いのに、俺より堂々とした雰囲気を感じる。
俺と同い年で、知らない観客がたくさんいるというのに彼は緊張している素振りを見せなかった。
最後に聞いたサラサーテが編曲した『ノクターン』は、優雅な演奏に心が癒され、自分がいじめられていたことなどすっかり忘れてしまっていた。
どこか眠りを誘う夜想曲。
少年が時々ピアニストと視線を交えて微笑む。
その微笑みが俺の胸をざわつかせ、とくんとくんと高鳴った。
そして思う。
――この人と、デュオを組みたい……。
ピアノをもう一度やりたい。
この人のたために上手くなりたい。
そしていつか、この人とデュオを……。
コンサートが終わったあと、俺は急いで下の階に降りて花屋で花束を買った。
何の花束がいいかわからないし、時間もなかったしで慌てて白い薔薇を一輪購入する。
ラッピングまでしてもらうと思ったより値段が高く、たった一輪の薔薇で喜んでくれるかどうか不安に思いながらエレベーターに乗り、ホールへ向かった。
このコンサートは舞台を観客が囲むように設置されていて、終了後演奏者とも気軽に話すことができた。
どこ行ってたのと心配する母さんに笑顔を送ったあと、俺はスタッフと話している少年のもとへと向かう。
――あの……。
少年が振り向いた瞬間、頭から雷を撃たれたような衝撃を受けた。
砂糖を焦がしたような甘い香り。
それでいて、蜂蜜のような優しい匂いが鼻腔に入りこむ。
今すぐその少年を――自分のものにしたいという思考で埋まってしまう。
少年も、目を見開いていた。
必死に理性を押さえつけ、少年に一輪の白薔薇を差し出す。
――君の演奏、すごく綺麗だった。最後の『ノクターン』すごく良かったよ。素敵な時間をありがとう。
緊張してしまって、そのくらいしか言えなかった。
少年はじっと白薔薇を見つめている。
微かに手が震えていて、息が荒い気がした。
もっとカラフルな花束のほうが良かっただろうか。
不安気に彼を見ていると、ふと目が合った。
――ありがとう。
少年はふっと表情を崩し、あどけない笑みを見せた。
小さな唇が弧を描き、瞳が細められる。
まばたきをして長い睫毛が揺れた。
それは演奏している間、ピアニストに視線をよこして微笑んでいた笑みではない。
曲の途中でマイクを持って喋っていた笑みでもない。
もっと柔らかくて、幼くて、花束をもらったことを心から喜んでいるような……。
舞台に立っていた顔とは全然違う素顔の表情だった。
――だめだ、こんな感情……。
思わず俺は胸元を握りしめる。
……この笑みを、自分だけに見せて欲しい。
誰にも見せて欲しくない。
自分にだけ。
他の人には、絶対――。
このとき、俺はこの少年に恋をしてしまったんだと自覚した。
初恋なんてまだだったのに、これは恋だと確信する。
匂いでどうにかなりそうで、俺はすぐにその場を去った。
その少年も、すぐに表からいなくなっていた。
その少年は『運命の番』なのだと本能が、匂いが告げる。
後でパンフレットを見たら、彼は臼庭湊という名前だった。
そういえばプロローグの演奏を弾き終わったあとに、自己紹介の挨拶をしていた気がする。
でも、少しばかり声が小さくて最後まで聞こえなかった。
臼庭湊という名前を見て、俺は彼の情報を集めた。
臼庭はコンクールで数々の賞を取り、中学生のころからコンサートに参加している天才ヴァイオリニストだ。
テレビや雑誌でのインタビューも受けており、誌面に載っている臼庭はぎこちない笑みを浮かべていた。
臼庭の演奏を聴いて以来、ピアノも練習するようになり、食事もとるようになった。
学校でもやられてばかりじゃなくて、「嫌だ」と言い返せるようになった。
そして、俺のようにいじめられている人に手を伸ばすようになった。
うちの学校は特にオメガに対して当たりの強い生徒が多かった。
中学生という多感な時期でもあるからだろう。
……俺はアルファだ。
第二の性の中で一番権力を持つことができる立場にあるから、学校でいじめられている人を見てすぐに助けるようになった。
――俺も、オメガである臼庭を守れるように。
授業中もピアノを弾いているときも寝る前も、頭の中は臼庭の笑顔が浮かんで消えない。
もう一度あの喜ぶ笑顔が見たい。
もう一度、臼庭に笑って欲しい。
ずっと臼庭のことを考えていた。
あるとき、音楽雑誌を立ち読みしていたら臼庭のインタビューが載っていた。
急いでレジに持っていって自室で読むと、そこには臼庭の進路はどうするかのインタビューで、鈴響音楽大学付属高等学校に受かっているため、大学もそのまま鈴響音楽大学に通いたいと書かれていた。
俺も既に地元の高校に受かっている。
だから、大学は臼庭と同じところがいい。
臼庭と共に大学生活を送りたい。
もう一度あの『運命の番』に会いたい……。
高校に入ってからは鈴響音楽大学の受験項目である実技試験のために、父さんに教えてもらうだけでなく本格的なピアノ教室にも通い、猛練習した。
熱を出すこともあったけれど、それでも一日数時間練習して厳しい講師に教わった。
母さんは「無理だけはしないでね」と言ってはいたけれど、中学時代より覇気を取り戻した俺を見て少し嬉しそうだった。
ピアノが嫌いだったのに、臼庭と出会ってピアノをもう一度弾きたいと思った。
いじめられて死ぬことも想像していたのに、臼庭と出会ってまだ生きていたいと感じた。
『運命の番』だからじゃない。
俺の人生全てを救ってくれた臼庭が――俺は大好きなんだ。
そして晴れて鈴響音楽大学に受かり、感謝を伝えるべく手紙に綴って臼庭に差し出したのだけど……。
――別に、そういうのいらないから。
呆気なく振られてしまったのだった。
あのあどけない笑みは全くなく、臼庭は氷のように冷たい眼差しでこちらを見て、『運命の番』などどうでもいいかのようだった。
それでも、俺は諦められない。
俺は巡に臼庭と『運命の番』であることは伏せて話した。
相槌を打って真剣に聞いてくれた巡は、俺が話し終わると「ふーん、そっかそっかぁ」と頭の後ろに手を組んで天井を見上げる。
「今まで散々臼庭が好きだって奴の恋愛相談乗ってきたけど……お前の恋なら応援できそうだ」
「え、本当!?」
「だって今までの奴らなんか、顔、地位、金、番になりたいっていうのが目当ての奴ばっかりだったぞ。お前みたいな純粋に臼庭のこと好きな奴、初めてだよ」
巡がにっと歯を見せて笑う。
「俺、何があっても蒼馬の味方するからさ。頑張れよ。応援してる」
俺の肩をぽんぽんと叩いてそう言ってくれた。
俺が『臼庭にラブレターを渡した恥知らず』と噂されている手前、こうして味方がいてくれることは素直に嬉しい。
俺の肩を叩いた後、巡はビシッと人差し指を俺に突き出す。
「よし、蒼馬! とりあえず臼庭と会話しろ! たくさん絆を深めて臼庭と仲良くなるのが恋の近道だぞ!」
「そ、そっか。わかった。話しかけてみるよ」
臼庭と目が合うと睨まれるから話しかけるのを避けていたけれど……今度はめげずに話しかけてみよう。
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