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1巻
1-2
しおりを挟む「美夕は俳優で生計を立てているの?」
鷹斗の質問に正直に答えた。
「いえ、私の本業はジュエリーデザイナーです。あ、違った。えっと、本業はジュエリーデザイナー、今日はバイトで派遣されたの。……こんな感じですか?」
父の会社の信用問題にもなるので演技の経験がないことは伏せつつ、言われた通り普通の話し方を心掛ける。
すると、鷹斗はホッとしたように頷いた。
「そうそう、良いね。――そうか、僕と同じでデザイナーなんだ。素敵な仕事だね。それに本業があるなら美夕をジュエリーデザイナーだと紹介出来るから、尚更都合が良いよ。出会いは高校が一緒だったから、その時に恋人だったことにしておけば、再会してすぐにこのパーティに同伴させても不自然じゃないよね」
鷹斗は美夕の顔を見つめ、反対の色がないのを確かめると話を続ける。
「二ヶ月前まで、僕は仕事で海外だったしね。あ、これ僕の名刺だよ。僕の会社は都内にあるけど、プロジェクトの場所と期間によっては海外に出ることも多い。何だっけ、なんか諺みたいなのがあったよね。こういう再会愛みたいな状況」
「あ! もしかして、『焼け木杭に火が付く』?」
美夕が答えると、鷹斗は嬉しそうに笑い返した。
「そうそう! 美夕と僕は学年で二年違うけど在学は一年重なってるから、この期間に付き合っていたことにしよう。僕が卒業して仕方なく別れたけど、お互い嫌いで別れたわけではなくて、将来夢を叶えたら再会しようと約束していた、こんな感じでどう?」
美夕が頷くと、鷹斗は次の質問へ進む。
「美夕は、僕が卒業した後はどうしていたの?」
「実は、あの、二年の時に母が亡くなって都内の公立高校に転校したんです――じゃなかった、転校したの。それから大学に進学したんだけど、途中でどうしてもジュエリーデザイナーの仕事がしたくなって……退学したわ」
依頼人相手のタメ口は、思ったより難しい。少しスローなテンポで話をしないと、うっかりドジってしまいそうだ。
「その後は……日本とロンドンで専門学校を一年ずつ、あとイタリアで三年ほど……宝石店の販売員をしながら、工房で見習いとして働いたの。二年前に、日本に帰ってきたのよ」
美夕の説明に、満面の笑みで鷹斗は口を開いた。
「よし、それなら、今まで会わなかったのも不思議じゃないな。君も日本にいなかったんだし。僕は大学を卒業してから父の会社に二年勤めて――あ、僕の父の会社、『来生コンストラクション』っていう建設会社なんだけど、僕は二十四の時に独立して今の会社を立ち上げたんだ。今から四年ほど前だね。それで、ちょうど三年前から海外のプロジェクトに関わるようになった。だから、すれ違いというわけだ」
鷹斗は堂々とした態度で説明する。確かに彼は高校の時からこんな感じで大人びていた。
(あっ、でもすれ違いって……)
「でも……それなら、私たち……どうやって再会したの?」
「そうだな……夢を叶えた僕が君を捜して迎えに行った。君も僕を待っていた、でどうかな? これなら今、僕らは再会したばかりのお互いに夢中な恋人同士だ。どう? 何か付け足すことある?」
「わあ、ドラマチックな設定ね。よし、分かった。あ、一つ足りない情報があったわ。えっと……私は自分のブランドを本格的に立ち上げて、三年近くになるの」
鷹斗の提案が思ったよりずっとロマンチックで、その設定にぐっと惹かれた。
(なるほど、運命の再会を果たした、お互いに夢中な恋人……ね)
溜息が出るような切なくて甘い恋……、鷹斗が相手ならなりきれる気がする。
――あっ、そういえば、恋人、といえば……
「あの、恋人役だっていうから、それらしく見えるかと思って持ってきたのだけど」
パーティ用のハンドバッグから小さな箱を取り出し、鷹斗に見せた。
「このアクセサリーの中で好みのものがあれば、付けてみて欲しいんだけど……」
鷹斗との再会にあんまり驚いてしまって危うく忘れるところだった。
それは今日のパーティで恋人だと思われやすいよう用意した、美夕がデザインしたペアのネックレスやリング、そして男性用ジュエリーだ。演技にいまいち自信のなかった美夕が、その演出効果に期待していたことは内緒である。小さな箱にはシンプルな金と銀のネックレスや指輪、凝ったカフリンクス、色鮮やかなネクタイピンなどが詰まっている。
箱の中身を見た鷹斗は感嘆の声を上げた。
「すごいな、これ全部美夕のデザインかい? 今日のそのドレスとネックレスもすごく似合ってると思ったけど……本当にデザイナーなんだね」
鷹斗は中を覗き込み、真剣に吟味し始めた。
「美夕の今付けているネックレスは色合わせがいいから、そのままでいいと思うよ。ペアのものを付けるより、僕はこっちの男物がいいかな」
いくつかジュエリーを取り出しては、指先で触れている。
「セミフォーマルでタイはしないから、これとこれでもいけるかな。ネックレスなんてしたことないけど、恋人がジュエリーデザイナーだったら付けてもおかしくないよね」
そう言って、鷹斗は鷹の羽を模したホワイトゴールドとブラックオニキス、サファイアで作られたネックレスを手に取り、お揃いのカフリンクスに指輪も選んだ。指輪を嵌めて、その凝った一点もののデザインにやたら感心している。
「これ、いいな。ちょっと待ってて、シャツを変えてくる」
奥のベッドルームに消えた彼は、しばらくしてシンプルだが上質の無地のシャツに着替えて戻ってきた。リビングの壁にかかった大きな鏡の前で、ネックレスをよく見えるように前ボタンを外している。
カチッとカフリンクスを付け、上品なジャケットを羽織ると、初めからコーディネートされていたかのようにアクセサリーが映えた。まるで映画スターだ。
(わあ、デザインした時のイメージにピッタリ)
素直な称賛を湛えた表情をする美夕に、鷹斗は鏡越しに優しく笑いかけてくる。
「これ全部気に入ったよ。僕に誂えたような鷹のデザインだし。美夕さえよかったら、買い取ってもいいかい?」
「ええ!? ありがとう、でもそんな気を使わなくていいわよ……セミフォーマルのホテルのパーティだって聞いたから、恋人らしく見えるかなと思って持ってきただけだから。えっと、ほら、一つでも身に付けてもらったら、宣伝になるかもだし。だから買い取る必要はないのよ」
(でも確かに先輩、お似合いだ。お金に余裕があったらプレゼントしてもいいくらい……)
そんなことを考える美夕を、鷹斗は笑ったまま引き寄せた。
「僕が買い取りたいんだよ。ほら、素直に、『鷹斗、お買い上げありがとう』って言いな」
鷹斗のあえて軽い調子にした言葉に、思わず微笑が零れる。
「鷹斗、ありがとう。でもこれって、結構高いわよ? 素材のオニキスはともかく、18Kホワイトゴールドとサファイヤを使ってるし……」
鷹斗が選んだのは、一見シンプルだが、素材の色を上手く活かしたデザインで、美夕の手持ちの中でも最上級の値段のものばかりだ。
「はは、心配してくれるんだ。大丈夫、このスイート三泊分の値段ぐらいまでだったら現金で払える。足りなければ銀行から引き出すさ」
(ええ? このスイートって、すっごく高いよね? その三倍って……)
呆気に取られた美夕の腰を抱いたまま、鷹斗は耳元でささやいた。
「ちょっとだけ、美夕が慣れるように触るよ。自然にリラックスして、僕たち、恋人同士なんだから」
独特の艶のある声にささやかれて、身体に甘い痺れがぞくっと走る。それに気を取られた隙に、鷹斗は魅惑的な香水が仄かに香る胸元に、美夕をそうっと抱き込んだ。
(ああ……この懐かしい感じ、やっぱり妄想じゃなかったんだ)
思わず顔を鷹斗の広い胸元に、甘えるように擦り寄せてしまう。
十年前にも、こんなことがあった――それまで話したこともなかった鷹斗とのやりとりを、美夕は彼の腕の中で思い出した。
◆ ◇ ◆
十年前の春。
三年生の卒業を見送った後、一年生と二年生の学級委員は全員残って、講堂の後片付けをするのが慣例だ。
なのに、狭い倉庫に入って椅子を積み重ねていた美夕は、いつの間にか一人になっていた。
(ちょっと、何で誰もいないのよ!)
相棒であるはずのもう一人の学級委員の姿が見えず、あんの野郎、またサボりか、と半分諦めた時、遅ればせながら誰もいないことに気付いたのだ。作業に熱中していて、うっかり周りが見えなくなっていた。他のクラスの委員たちは揃いも揃って、誰かが最後までやるだろう、と一人、また一人帰っていったのだろう。
(えっ、そんなのってあり? これじゃあ私、帰れないじゃん)
倉庫の外に山と積まれた椅子を見て、美夕はげんなりした。いっそ帰ろうかとも思ったが、元来物事を途中で放り出すことが出来ない性格だ。美夕は深々と溜息をつき、黙々と椅子を倉庫に運んではきちんと積んでいく。適当に積むと椅子が倉庫に入りきらなくなることを、行事のたびに後片付けに駆り出されていた美夕はよく知っていた。
(はあ~、ついてないなあ、今日は早く帰れるから買い物に行こうと思ってたのに……)
椅子を積んで、さあ次の椅子を取りに行こうと振り返り、出口に向かうべく歩き出す。すると、ちょうど誰かがドアから入ってきた。
背の高い男子生徒の顔を認めた途端、美夕は目を丸くした。
その男子生徒は、校内の超有名人だったからだ。
彼の優れた容姿と成績はもちろん、テニス部の元キャプテンという肩書き、そして落ち着いた態度は遠くからでも目立つものだった。女子生徒の間では〝王子〟と呼ばれている人だ。
フルネームは来生鷹斗。二学年上のその人は、今日、卒業したばかりのはずだった。
彼は誰もいないと思って入ってきたらしく、目を丸くして彼を見ている美夕に気が付くと、慌てて「ごめん」と出て行こうとした。が、ここで会ったのも何かの縁、逃がすものかと美夕は声を掛けた。
「あ、あの、手伝ってくれるんじゃないんですか?」
声を掛けられた鷹斗は、「え?」と言って周りを見渡した。で、一目で状況が呑み込めたらしい。面白そうにくっくっと笑いながら言った。
「君、もしかして、要領悪い?」
(わあ、すごくかっこいい声。噂は本当だったのね)
その甘く低い独特の艶のある声を初めて間近で聞いて、美夕はさらに目を大きく見開く。
だがその直後、彼の言葉の意味を理解し、反射的にちょっと怒った声で言い返していた。
「ほっといて下さい。からかいに来ただけなら、邪魔なので帰って下さい」
「そんなに怒らないでよ、子猫ちゃん。ほら、ちゃんと手伝ってあげるから」
……今、この人は、自分を何と呼んだ?
(こ、子猫ちゃんって)
そんな風に呼ばれたのも初めてだけど、こんな風に男子生徒にからかわれるのも久しぶりだ。それに、何で子猫ちゃんなのよと内心首を傾げる。
すると、何がおかしいのか、鷹斗は倉庫の外の椅子を取りに行った美夕の後を笑いながら追いかけ、椅子運びを手伝い始めた。
ちっとも悪びれた様子も見せず、椅子を要領よく積み上げていく姿に美夕は呆れながらも、ちゃんと手伝ってくれているので一応お礼を述べる。
「ありがとうございます。みんな逃げちゃって困ってたんです」
「そりゃそうだろ、こんな面倒くさいこと。よく君は逃げなかったね?」
鷹斗の言葉に、美夕は溜息をついた。
「逃げるタイミング逃しちゃって、気が付いたら一人だったんです」
「ははは、そりゃ、運が悪かったね」
美夕の表情がよっぽど面白かったのか、鷹斗は目尻に溜まった笑い涙を拭いながら椅子を取りに出て行く。すると、突然ピタッと止まり、壁のスイッチを切ってゆっくりドアを閉め始めた。
(えっ、何してるの、この人?)
美夕は話しかけようとしたところで、鷹斗の必死な様子に気付いた。彼は振り返ると口に指を当てて、「しっ、黙って」と合図をしてくる。
(何なの? どうしたの?)
暗くなった倉庫に、一瞬不安を覚えるが、鷹斗の必死な表情を見て何か理由があるのだろうと、黙ってその場で待つ。ドアを閉め終わった鷹斗は、抜き足差し足で近づいてきて美夕の腕を取ると、椅子の間の狭い空間に一緒に入り込んだ。
すると、外から大勢の女の子が呼びかける声が聞こえてきた。
「来生くーん、どこ~」
「センパーイ、ボタンくださーい」
「帰っちゃったのかな~」
(あ~、なるほど、彼女たちから逃げてきたわけね)
事情が呑み込めると、狭い椅子の隙間に二人して隠れてやり過ごそうとしているこの状況が、だんだんおかしく思えてくる。
(ふふ、年上だけど、何だか可愛い。噂で聞くほど、遊んでるようには見えないけど……でも、場慣れしてるというか、この態度は高校生には見えないなあ。なのにとっても話しやすい……)
美夕は父がバーを経営している関係で、いろんなタイプの若い役者や大学生ぐらいの年齢のバイトを見慣れていた。その美夕から見ても、彼の態度は同級生や上級生とは比べ物にならないほど落ち着いている。腕の中の美夕がリラックスしたのに気付いたのか、鷹斗は耳元で小さくささやいた。
「みんながいなくなるまで、じっとしてて」
声優並みのイケメンボイスを耳元でささやかれ、美夕の身体にぞくっと甘い痺れが走った。
(何この声、すごく好きかも)
身体に回される力強い手や、鍛えられてがっしりした硬い胸にスッポリ包み込まれると、なんだか安心する。思わず顔を彼の胸に擦り寄せ微笑んだ美夕に、鷹斗は優しくささやいた。
「子猫ちゃん、こっちを向いて」
なあに? というように、美夕は素直に顔を上げた。お互いの細かい表情は、小さな明かり取りの窓一つではうっすらとしか見えない。そんな薄暗さの中、美夕はいつの間にか鷹斗に口づけられていた。
(えっ、何、私……キスされてる!?)
美夕は突然のことに、心からびっくりした。
少し開いた唇に鷹斗は優しく吸い付き、舌の先で甘えるように美夕のふっくらした唇をそっと舐める。
そんな鷹斗からの突然のキスにどう反応したらいいのか、美夕には本当に分からない。頭の中ではクエスチョンマークがワルツを踊り始めていた。
(ど、どうしよう? どうすればいいの? そもそもどうしてこんなことに!?)
名前しか知らない男子生徒に、今キスをされている。
こんな状況であれば、相手の身体を押し返すなり引っぱたくなり、イヤーと叫んで逃げ出してもおかしくない。そう思うのに――
信じられないことに自分は嫌がっていない。嫌悪感どころか抵抗感さえ湧いてこない。そう感じるからこそ、余計に頭の中が混乱してしまう。
(私ってばっ、どうしてこんな気持ちになるの――?)
チュッと音を立てて唇を啄まれるたびに、心が陶然として、同時に切ない想いに囚われる。
鷹斗はまったく知らない人なのに、重ねられるキスがまるで「僕を知って欲しい。君も心を開いて」と語りかけてきているようだった。
息継ぎのために彼の唇が束の間離れると、その甘い切なさに突き動かされ、再び重なった唇に美夕も応えていた。二人で唇を吸い合っては甘噛みをした後、優しく唇を舐め合う。そんな風に自然とキスが深まる。
「来生くーんいないの~?」
「来生センパーイ……?」
女の子たちの声が次第に遠ざかっていく。けれど、二人ともお互いの熱い息遣い以外は、もう何も耳に入ってこない。
「んっ、っ、んっ……」
甘いキスを長々と交わしていると、彼をよく知っているような気さえしてきた。そしていつしか、その安心感や懐かしさに心が温かく包まれる。
鷹斗の男らしい大きな手は美夕の頭の後ろを支え、美夕の細い手は彼の背中に回る。壁にもたれて安定感を得た美夕は、我知らず鷹斗を自分の方に引き寄せた。鷹斗もその身体を支えるように、美夕の背中から腰に向かって手を下げていく。
そうしてお互いの身体をぴったり合わせた二人は、何度も何度も角度を変え、さらに心が温かくなるようなキスを交わした。
美夕はもう今がどういう状況なのかさえも忘れ去っていた。それどころかもっと……という抑えがたい要求に心が囚われそうになる。けれども、鷹斗が不意に動いて身体をぐっと押し付けてくると、ようやく頭の片隅で理性の警報が鳴り出した。それと共に、コツコツ、パタパタ、と複数のハイヒールと靴の足音が外から聞こえてくる。
近づいてくるその音にやっと我に返った二人は、ハッとお互いを見つめながら離れた。その拍子に美夕は足を思い切り椅子にぶつけてしまい、慌てて屈み込む。
「いっ、痛……」
(イッター、どうしよ、動けない……)
鷹斗は素早くドアを開けると、「大丈夫かい?」と美夕の側にひざまずいた。
同時に、講堂に数人の教師が入ってきた。
「おう、来生じゃないか。お前こんなところで、何してるんだ?」
「村田先生。ちょうどよかった、椅子を片付けてた下級生を手伝ってたんだけど、椅子に足をぶつけたみたいで。今、保健室開いてる?」
堂々と答える鷹斗に、生徒が怪我をした、と聞いた教師たちが急いで向かってくる。
頬を染めて涙目でうずくまっている美夕を見て、大丈夫か? と声を掛けてきた。すると、騒ぎを聞きつけた何人かの女生徒が講堂を覗き込み、鷹斗を見て声を上げた。
「先輩! こんなところにいたんですか!」
「――先生方、すみません、ちょっと急いでるんで、あとお願いします。失礼します」
しまった、という顔をした鷹斗は、教師たちに礼をし、ドアから急いで出て行った。
彼を追いかけていく女生徒たちに教師たちも苦笑いで、「あいつも大変だな」と同情するように呟いていた。
結局、足の先をぶつけた美夕はしばらく痛くて歩けず、保健室まで教師に付き添ってもらった。そして家に帰る途中も帰ってからも、鷹斗と交わしたキスが忘れられなくなっていた。ふとした拍子に思い出すたびに顔が火照ってくる。
交際経験のなかった美夕にとって、それはまさに衝撃の初キスで。
――同じ高校の先輩とはいえ、恋人でもない人と初めて会話を交わしてから、十分も経たないうちにキスって――
美夕は自分のしたことが信じられなかった。
確かに彼独特の雰囲気や容姿には惹かれるものがあり、かっこいいと見惚れたことはあった。それにしゃべってみて案外可愛い、とも思ったけど……
十六歳だった美夕は、初キスは好きな人とロマンチックなシチュエーションでと夢見ていたのだ。キスとは相手をよく知って好きになってからするもので、付き合ってもいない人となんて考えられない。そんなコト気持ち悪くて論外、だったはず――。なのに、一体どうして……あの状況で嫌がるどころか、鷹斗のキスに反応した自分がまったく理解出来ない。
だけど、こうして思い出しても、やはりあのキスはお互いを信頼して会話を交わしているような心が温まるものだった。
(私、全然嫌じゃなかった、よね……?)
何しろ、二人の気持ちが溶け合ったように気持ち良くて、途中で止めたいとも思わなかったのだ。
もしあそこで教師が来なければ、自分たちはどうなっていただろう。
その先なんて想像出来ないけれど、なんだか胸がドキドキしてずっと止まらない。
そして、それが二人の最後となったのだ。それからしばらくして、美夕の母が入院することになり、美夕は高校を転校した。
その後気付いたのだが、二人の分かち合った時間を証明するように、美夕の制服のポケットにはなぜかブレザーのボタンと思われる小さなボタンが残されていた。
◆ ◇ ◆
その日から、美夕は鷹斗とのキスを夢でよく見るようになった。
その夢は、美夕がジュエリーデザインを勉強している間もずっと続いた。初めて恋人と呼べる人が出来て、その人とキスを交わしてからも続いた。
しかも最悪なことに、恋人とのキスに美夕はそれなりの反応しかせず、鷹斗と交わしたような情熱を煽ってくるキスは誰とも再現出来なかったのだ。
もちろんだが、美夕も相手を好きになってお付き合いを始める。けれども、好意を抱く相手に対しあまりにも反応の薄い自分に、いつしか、あの時感じた感覚はきっと夢見て作り上げたものに違いない、現実ではなかったのだと思うようになっていた。さらに、もしかして自分は不感症なのかも……とも。
(十六の時に初めて交わしたキスの方が、大人になって恋人と交わすキスより感じた、なんてありえないよね……?)
好きな人とキスするのは、嫌じゃない。嫌じゃないけど……あんまり好きでもない。
軽いキスならともかく、大人のキスなんてヌルッとして、まったく気持ち良さを感じないのだ。
(……こんなんで私、まともな恋愛出来るの……?)
恋人とのキスに軽い嫌悪感を覚えて、落ち込んでしまうこともしばしばあり、結局破局を迎える。
そんな恋愛と言えるかも疑わしい交際の繰り返しで、美夕はすっかり自分を恋愛音痴だと思うようになった。周りも、長続きしない美夕をそう認識している。それにここ数年は、お付き合いすることさえ遠ざかってしまっていた。
だがここに来て、初キス相手であり、高校の先輩である鷹斗の恋人役を務める、なんてことになったわけだが……
演技のためとはいえ、鷹斗にホテルでそっと抱き込まれる美夕の鼓動は、自身でもびっくりするほど高鳴っていた。長らく感じていなかった予感めいたときめきが、胸をかき乱す。
(……やっぱり、この感じ――あの時と、まったく同じ……)
今、鷹斗に優しく抱き込まれただけで、心が心地よさに包み込まれる……
美夕は今度こそ、はっきり悟った。その昔、一度だけ鷹斗とキスをした時に抱いた安心感や懐かしさは、妄想ではなかったのだと。
鷹斗の匂いや、背中に回った男らしい大きな手に、硬く頼もしい胸。それらすべてが美夕の感覚を呼び覚まし、幸福感がさざ波のように胸の奥まで浸透していく。
(ああ、なんて懐かしい――)
美夕は顔を鷹斗の胸に擦り寄せ、無意識に甘えていた。
鷹斗も美夕の柔らかく艶のある髪を優しく撫でながら、物足りなさを感じたのかゆっくり言葉を紡ぎ出す。
「長い間、会えなくて本当に寂しかったよ。もっと早くに会いに行けなくてごめんね。だけどこれからは違う。会社は軌道に乗ったし、一緒に過ごす時間を増やそう。今日はパーティに出席してくれてありがとう」
聴き心地最高の美声が、心のこもったセレナーデのように甘く語りかけてくる。美夕の意識はたちまち目の前の鷹斗に惹き込まれた。それと同時に、依頼のことを思い出す。
そうだ、懐かしさでぼやっとしている場合じゃない。恋人役なのだから、彼が提案してくれた通りにちゃんと答えなくては。
「……私も、鷹斗に会えなくて寂しかった、今日は一緒に過ごせて本当に嬉しい」
鷹斗の低く甘い声で告げられる言葉に、自然と答えている自分がいる。
(出来るじゃない、私。お芝居はもう始まってる。私は鷹斗の恋人、この人に長い間会えなくて寂しかった)
美夕も力を込めて鷹斗の大きな身体を抱き返した。再び頬を擦り寄せ甘える美夕の仕草に、鷹斗は髪を撫でていた手を下ろし、その頬の感触を確かめるように長い指で優しく辿る。最後に顎の下をくすぐるように撫でると、優しく持ち上げて、チュッと素早くキスをした。
(えっ……きゃー、慣れすぎでしょ、この人!)
流れるような動作で自然と唇にキスをされてしまい、ドキンと心臓が跳ねた。速まる鼓動と共に頬がみるみるピンク色に染まる。
それでも、ここで狼狽えるわけにはいかない。恥ずかしさを押し込めつつ精一杯平気な顔をし、優しく腕を取ってドアへエスコートする鷹斗を見上げた。
(でも私、演技とはいえ、やっぱり嫌じゃない。むしろ……)
口に出来ない想いは心に秘め、平静を装い鷹斗に合わせて歩いていく。――のだが、美夕の態度は傍目にはいかにも恥ずかしい、けど、〝恋人の突然の愛情表現に頑張って応えています〟感がいっぱいで、実に初々しかった。見ている鷹斗の顔に思わず微笑みが浮かんでくるほどに。
鷹斗の上機嫌な様子に、上手く出来たみたいと美夕はホッとした。そしてそのままエレベーターのボタンを押す彼の横で大人しくその腕に身体を預けた。
二人は自然とじゃれ合いながら、腕を組んで会場の受付へ向かっていく。
「美夕の髪って、手触りいいな」
「鷹斗、そんなにしたら、ほつれちゃう」
いかにも恋人らしく彼に微笑みかけ歩いていると、かすかに流れてくる優雅な音楽と楽しそうな人々の談笑が会場の外まで聞こえてきた。開いた扉からは、大きなパーティ会場が見える。きらびやかに着飾った人々ですでに埋めつくされているそこは、一人だと物怖じしてしまいそうなほど広い。
けれども、隣には頼もしい鷹斗がいる。そして今夜の美夕は、鷹斗が夢中になっている運命の恋人なのだ。美夕は、大丈夫よ、上手く演ってみせると心の中で自分を励ました。
そうして、シャンデリアのまばゆい明かりの下でシャンパングラスがキラキラ光る会場に、二人は開場時刻より遅れて入った。だが、その豪華さに気をとられる暇もなく、扉をくぐった途端にさっそく声が掛かる。
「来生さん。お久しぶりです。どうです、その後は……?」
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