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   1 ある日パーティは突然に 


 まだ、暑さが抜けきらない十月初めの正午過ぎ。
 季節は秋だというのに、コンクリートに反射する照りつけのせいか、部屋の中はやたらと暑かった。
 汗ばんだひたいに猫毛気味の細い毛先がひっつきそうで、扇風機をつけようかなと、美夕みゆは手に持った段ボール箱をいったん下ろした。
 黒っぽい茶色のセミロングの髪も、うなじにかかりベトついている。ポケットから髪留めを取り出した美夕はクルッと髪をまとめた。
 小さな窓を開き、箱を抱え直したものの、それをどこに置くべきかと周りを見渡す。
 ここは都内の三階建て商業ビルの二階にある、小さな部屋だ。
 今日からここが美夕の我が家になる。そして当分は、この畳部屋で暮らすことになるだろう――そう思うと、美夕の口から思わず長い溜息が漏れた。
 不可抗力とはいえ、一度は出て行ったこの部屋にまた舞い戻る羽目になるとは……
 ただでさえ狭い部屋には、衣類ラックがぎっしり並べてあり、そこには男女の様々な衣類がハンガーにかかっている。が、これらは美夕の持ち物ではない。父が経営する小さな会社の備品である。
 今年二十六歳になった美夕の仕事は、ジュエリーデザイナーだ。
 なぜ駆け出しのデザイナーである美夕がこんなところにいるのか。それは、シェアメイトが見つかるまで、生活を節約モードに切り替えたためだ。
 ジュエリーデザイナーという自分の夢へ向け、美夕は都内のデザイン専門学校を卒業し、さらに海外の専門学校でも学んだ。その後は、つてでイタリアに渡り、三年間工房で見習いとして働くことに。その途中でオリジナルジュエリーブランドを立ち上げたのだが、帰国後二年経って、やっと収入が安定してきた。なので今ここで、財布の紐をゆるめるわけにはいかない。
 美夕は改めて、多少の不自由は我慢する決心をした。
 二年前の帰国後当初も、父の事務所の衣装部屋――つまりここに住まわせてもらった。
 バイトをしつつ節約に努め、ネット販売でオリジナルジュエリーを売り、一年かけてようやく固定客がつくようになった。そうしてブランドが軌道に乗りだすと、折よく父の会社に登録している劇団役者の一人とルームシェアすることになり、この事務所での寝袋生活を終えたのだ。
 だが、それからまた一年後の今日、今度はシェアメイトがめでたく彼氏と同棲することとなった。
 再び引っ越しを余儀なくされた美夕は、商売上宝石を扱うので知らない人とシェアをするわけにもいかず、次に住むところが見つかるまで当分、寝袋生活に逆戻りだ。
 ふと思いついてスマホを取り出し、賃貸情報を再度チェックしてみる。しかし、美夕のつつましい予算に合う物件はやはり見つからなかった。
 ジュエリーデザイナーである美夕は在宅勤務が基本だ。それに常日頃から貴金属や宝石を扱う仕事だから、下手なところに住むわけにはいかない。
 けれども、自分の店を持つという長年の夢を叶えるために、今は余計な支出は控えたい。

(大事な時期だもの……ちょっと狭いくらいなら平気よ!)

 何しろ、ここの部屋代はタダなのだ。
 こんなありがたい環境に感謝すべきと思い直し、美夕は引っ越しの片付けを再開した。すると、にわかにバッグの中からメッセージの受信音が聞こえてくる。

(あ、おりちゃんからだ)

 荷物をまたいったん置いて、高校時代からの親友である西織夏妃にしおりなつきからのメッセージにさっと目を通した。

『引っ越し済んだ? 今回の試作ちょっといいわよ~、もう自信作! 出来たら連絡するわ!』

 夏妃の興奮した様子が、躍っている文面から分かる。美夕は自然と笑い出しそうになった。
 同じデザイナーでも、夏妃は服飾デザイナーだ。自分もそうだが、アイデアが固まりノッてくると、そればかりに夢中になり他のことはおざなりになってしまう。性格は美夕とまったく違うのだが、仕事に対する姿勢は非常に似通っていた。
 そして夏妃も、オリジナルブランドを立ち上げている。二人はビジネスパートナーとして二つのブランドをタイアップさせていた。なにせその方がお互い刺激にもなるし、時々コラボして新作発表などを共同で行うと、ブランドマーケティングとしても高い効果が見込めるからだ。

『ほぼ終了よ。織ちゃんの新作ドレス、楽しみにしてるね』

 返信を打ち終わると、今自分がいる部屋をぐるっと見渡す。ふうと溜息をついた後、段ボール箱を衣装部屋の片隅に運び込んでいると、「美夕ちゃ~ん」と野太い声で自分の名を呼ばれた。
 何事? と思い振り向くと、見た目は美丈夫びじょうふな男がこちらに駆け寄ってくる。そしていかにも芝居掛かった仕草で、すがるように泣きついてきた。

「美夕ちゃ~ん、ちょうどよかったわ! 今日あなた暇よね? ちょっとお父さんの会社でバイトしてちょうだい!」

 そう、この野太い声でオネエ言葉をしゃべっているのは、美夕の父親である。

「は!? バイト? って、まさか父さんの会社の……?」 

 父親はバーを経営しながら、役者を派遣する会社も経営している。社業は依頼者が希望する役柄を演じる役者を派遣するビジネスだ。ストーカーに困った男性の恋人役から、客寄せさくらの役であったり、今回のようにパートナー同伴のパーティに出席するための相手役も依頼されたりする。
 どんな役を演じて欲しいかを依頼者に細かく注文されるので、役者の卵たちにとっては演技の勉強をしながらお金が稼げるという、ありがたいものらしい。
 だが演技などしたこともない美夕は、父の言葉を聞いた途端、いやそれは絶対無理だからと心の中で全力で拒否した。
 それに、だ。突然の窮地とはいえ、「もうパーティまで時間がない」とすがる父の嘘泣きは、ありえないほどわざとらしすぎる。かくして、愛情あふれる親子の小さな攻防戦がここに始まった。
 後ろでまとめたセミロングの髪が乱れるのも構わず、美夕は父親に食ってかかる。

「だ・か・ら、何で私がそのパーティに行かなきゃいけないのよ。他に適役な女性役者さん、いっぱいいるじゃない!」

 演技なんてとんでもない。ましてやパーティなど……

(絶対いや、知らない人に囲まれて、愛想笑いの連続なんて……)

 そんな疲れることを、何でこの引っ越しですでに疲れ気味の日にわざわざやらなくてはいけないのか。

「だって美夕ちゃん、クライアントに出された条件に合うが、急に病気になっちゃってね、手の空いてる適当な役者が見つからないのよ。美夕ちゃんなら条件にぴったりだし……ね、お父さんを助けると思って、引き受けてちょうだい」

 父は哀れな声を出して頼み込んでくる。

「信用第一なのよ、この商売。お客様の信用は裏切れないわ。もちろん美夕ちゃんも分かってくれるわよね? それにもう依頼料いただいちゃってるんですもの。向こうも、急な依頼で無理言って申し訳ないとおっしゃって」
(うっ、痛いところを……信用と言われると、強く出られないの知ってるくせに)

 結婚指輪のまった骨ばった手で美夕の腕にしがみつき、こちらをウルウル目で見てくる全然可愛くない父親へ言い返す言葉に詰まった。
 ジュエリーデザイナーとして、ようやく一人前の稼ぎを手に入れつつある美夕には、父の言葉は痛いほどよく分かる。
 美夕のビジネスも信用第一だ。
 一瞬ひるんだ美夕の隙を狙い、父の甘い言葉は続いた。

「ね、ほら、今日からここで自炊しなきゃならないんだし、パーティに出席すれば、ご飯代浮くわよ~」
(ううっ! 確かに、ご飯代は浮くかも。でも、正直めんどくさい……)

 節約にせっせと努める美夕を、巧妙に説得してくる。そしてそれでもなかなか首を縦に振らないと分かると、父は泣き落としをやめ、今度は良心に訴えてきた。

「ねえ、美夕、あなたがわざわざデザインの勉強をしたいって言うから、その費用をやり繰りしてあげた父さんの頼みなのよ。まさか断ったりしないわよね」
(あっ、これは詰んだわ……)

 デザイン専門学校に通わせてもらった学費は、まだ返しきれていない。結局美夕はしぶしぶ頷いた。

「分かった。でも、私、お芝居は勉強したことないから、上手く出来なくても知らないわよ」

 負けず嫌いなところがある美夕の珍しく不安そうな言葉に、父はニッコリと安心させるように笑った。

「大丈夫よ。美夕は父さんと母さんの愛の結晶なんだから、自然に役に溶け込めるわ」

 美夕の両親は若い頃、共に劇団役者だった。
 父は突然のやまいで亡くなった母にいまだみさおを立て、結婚指輪を片時も外さない。両親の夢であったこの会社を始めてからは、「この役は奥が深い」と言ってオネエ社長を演じていた。

(はあ~、逆らえません、借金には……しょうがないな)

 盛大に溜息をつき、いさぎよく頭を切り替えた美夕は、父に依頼内容を聞いた。

「で、今回はどんな女性をご希望なの? いつどこに行けばいいわけ?」

 やっとやる気になった美夕に、父は喜んでいそいそと答える。

「今回は美夕ちゃん、役得よ。依頼人は、それはそれはかっこいい二十八歳の男性だから。それに彼ったら、プロの声優も真っ青のイケメンボイスの持ち主なのよ」

 可愛くないウインクを娘にサービスする父だったが、ジト目でにらんだ美夕の気が変わらないうちにと思ったのか、慌てて言葉を続ける。

「希望は二十五から二十八歳の女性で、外国人の交じっているビジネスパーティでも物怖ものおじせずしゃべれること。英語がしゃべれればなおよし。もちろん、依頼人の恋人役よ。ホテルで開かれる正式なパーティだから、かかる衣装代も向こう持ち! 服装はセミフォーマル、ちょっと華やかなお出掛け用のドレスって感じかしら? 着物でもOKだけど、着崩れしたら自分で直さなきゃいけないから、美夕ちゃんはやめた方がいいわね」

 着物なんてとんでもない。ブンブンと美夕は首を振る。

「パーティは、今日の夜六時半から九時まで。国内外から建築関係の業界人が集まるものだそうよ。始まる三十分前に、直接会って打ち合わせをしたいそうなの。依頼人は深田ふかださんをデータベースから指名したんだけど、最終候補には、前川まえかわさんと西村にしむらさんも残っていたわ。どんな感じの人が希望か、これで大体分かるでしょ」

 分かる分かる。父が名前を挙げた三人は、りんとした有能そうな女性で、それでいて親しみやすい雰囲気を持つタイプだ。指名された深田さんはハーフで英語が堪能。他の二人も物腰は柔らかだが、社交的ではきはきとしたしゃべり方をするので、業界のパーティでも臆することなく役をこなせるだろう。

(だけど、この恋愛音痴の私に恋人役って――無理がありすぎ……)

 自慢じゃないが、これまでお付き合いで長続きしたためしがない。美夕は、自他共に認める筋金入りの恋愛音痴だった。なにせ、交際相手とはキスより先に進めないのだから。実はキスでさえも好きじゃなく、どんな相手でもそれ以上のことをしたいと思ったことがない。
 そこまで考えてから、ふと過去のことが頭に浮かんだ。

(いやいや、あれは高校の時だし……)

 十年も前のことなのに、なぜか今でも時々思い出してしまう懐かしい顔を無理やり意識の外へ押し出す。
 生ぬるい感傷にひたっている場合じゃない。今は目の前の問題について考えるべきだ。

「今更だけど、何で前川さんか西村さんに持っていかないの? この話」
「二人とも、もう予定が入ってて、今日はダメなのよ。他の人たちでは依頼人の希望条件を満たせないわ。美夕ちゃんが一番理想に近いのよ。なにより可愛いし!」

 確かに、自分は美しかった母のおかげで、化粧の仕方と髪形次第では可愛い系美人に化けられる。父に似た少しふっくらした唇や、顔が小さいことでやや大きめに見える耳は愛嬌で誤魔化すにしても……
 猫毛気味のセミロングの髪にくっきりした目尻、ぱっちりした目元にちょんとした鼻。
 何となくロシアンブルー猫を連想させる美夕の容貌は、大人の女性なのに可愛らしい華やかさがあった。見かけはまあ、化粧で何とか出来ると前向きに考える。
 ここでうだうだ考えても仕方ない。こうなったらすっぱり頭を切り替えてさっさと済まそう。
 夜六時半開始のパーティ、さらにその三十分前に打ち合わせとなると……美夕は素早く計算し始めた。が、そこであることに思い当たる。自分はセミフォーマルのドレスなど持っていない。

「今すぐ買い物行かなきゃ、間に合わないじゃない!」

 時間を逆算した美夕は悲鳴を上げた。

(もう一時近くなのに、間に合うの? これ……)

 すると、父はさっとスマホを取り出し、タクシーを呼ぶ。
「さあ、行くわよ」と外に出てタクシーに一緒に乗り込むと、一番近いデパートに二人で駆け込んだ。
 デパートで親子は、これでもないアレでもないと、客の要望を叶え、なおかつ美夕に似合う〝綺麗で可愛い大人のドレス〟を探したが、これといったものが見つからず、次のデパートへ行く相談を始める。
 刻々と迫る時間に、「あ~、もう適当なドレス買ってアクセサリーで誤魔化す?」と悩んでいると、美夕のスマホがかろやかに鳴り出した。呼び出し名を見た直後、天の助け、とばかりに応答する。

「織ちゃん! ちょうどよかった、ちょっと相談なんだけど……」

 事情を話すと頼もしい友人は、問題ないと笑い飛ばした。

『ちょうどいいものがあるわ! 出来たてのドレス、今回の自信作よ。美夕に試着してもらおうと思って電話したんだから』

 持つべきものはデザイナーの友達!
 電話越しに「もう織ちゃんってば、ほんと天才っ!」とそのタイミングの良さを褒めちぎると、『ほほほ、当たり前よ』と高笑いが返ってきた。こうして美夕は夏妃に指示された靴だけをデパートで購入すると、父と一緒にタクシーで友人宅へと向かった。
 その日の夕方遅く、支度を整えてすっかり見違えた美夕に、父は指定のホテルへ行くように指示した。
 少し緊張気味にタクシーに乗り込むと、父は手を振り、投げキッスまで寄越して力づけてくれる。

「依頼者はホテルのロビーで待ってるわ。楽しんでらっしゃい、シンデレラ。十二時までに戻らなくてもいいからね」
(人の気も知らないで! ――ほんと父さん、恨むからね、失敗しても知らないから)

 呑気のんきにニコニコ笑い手を振って見送る父に、緊張をまぎらわすことも兼ねて心の中で文句を言う。
 そして、初めてのお使いのようにドキドキしつつ、美丈夫びじょうふな男性から漏れたオネエ言葉に呆気にとられていた運転手にホテル名を告げた。


 外の景色が次々と流れていく車窓に、天高くそびえるビル街が現れる。華やかなシティライトがきらめき、どこまでも続く高層ビル群を美しくライトアップしていた。
 一流ホテルをタクシーの中から見上げた美夕は、握っていた手をゆっくり開くと、ホテルの入り口でタクシーを降りた。
 さあロビーに、と緊張気味にヒールを鳴らし、ゆっくり歩いて中に入る。
 パーティ会場のこのホテルは、名前だけは知っていたが初めて訪れる場所だ。
 凝ったデザインの開放感ある入り口に、高い天井。高級そうな最新のインテリア。一泊の値段が美夕の家賃一ヶ月分は軽く飛んで行くだろうことは、一目で推測出来た。

(……これってもしかして、想像してたよりずっと大きなパーティなんじゃあ……)

 その格式の高さに緊張が高まるが、いかにもこんなところは慣れているという顔をして、堂々とロビーに足を踏み入れた。
 ――が、ヒールの音も高く歩き出した途端、はたと足を止め、青くなる。

(しまった! 依頼人の名前聞くのを忘れてたわ! えっと、確か父さんが、年齢は二十八歳でかっこいい男性と言っていたから、きっとものすごく男前よね)

 役者を見慣れている父がかっこいいと言ったのだから、依頼人はかなりのイケメンだろう。
 だが、ロビーには着飾った人たちが大勢いて、依頼人の風体に当てはまる二十代後半のイケメンを探し出すのは容易ではない。

(……これは、どこか目立たないところで、ちょっと様子を見た方が良さそうね……)

 この人だかりをさり気なくチェック出来る場所に移動しよう。
 美夕はそっとその場から離れると、ロビーの端まで歩いていき、そこから淡い照明に照らされたロビーをゆっくり見渡した。
 すると、一人の背の高い男性が長い足をゆったり動かしながら、まっすぐ美夕に近づいてくる。
 その男性の自信あふれる優雅な動きに自然と目線が引き寄せられ、そして顔を確かめた途端、心臓が一瞬止まりそうになった。

(えっ!? まさか……この人――)

 思わず触れたくなる、さらっとして柔らかそうな濃い茶色の前髪。
 長い睫毛まつげに囲まれた漆黒の瞳に、涼しげな目元。その瞳はどこか甘さをたたえ、高い鼻梁びりょうや男らしい口元には精悍せいかんさがあふれている。
 だけど決して、優男という感じはしない。自分をまっすぐ見つめるその双眸は理知的な光を宿し、意志の強さをうかがわせ、彼を落ち着いた大人の男性に見せている。
 柔らかい光のライトに照らされた端整なその容貌は、イケメンという単純な言葉では表せない存在感を放っていた。
 上背があり鍛えられて無駄なくすらっとしているが、どこか芸術家を思わせるストイックな雰囲気もかもし出している。年齢を超越した独特の雰囲気のせいか、彼はずっと年上にも年下にも見える。
 見れば見るほど、美夕は心の奥の魂を強く揺さぶられる。
 大人の男性の色香をまとった彼は、目の前で止まり、こちらをじっと見つめてきた。こんな近くに来られると、背の高い彼の目線に合わせて自然とその顔を見上げる格好になる。いろんな感情が混じったようなその瞳から、どうして目を逸らせないのだろう。

来生きすぎ先輩……」

 美夕は、十六歳の春以来長い間夢で悩まされた、その懐かしい姿に向かって、小さくつぶやいた。

(変わってない……それどころか、もっとカッコよくなってる)

 最後の記憶に残る高校時代より、さらに男としての自信にあふれたそのたたずまいに、十六歳の時と同じように――いや、あの時以上に胸のときめきを覚える。
 それは美夕にとって懐かしくもあり、また新鮮でもあり、まるで身体中の細胞が彼の存在に反応しているようだった。
 美夕が立ち尽くしていると、その男性はニッコリ美夕に笑いかけてきた。

「やあ、君が雪柳ゆきやなぎ美夕さんだね。――子猫ちゃん。僕を覚えていてくれて、嬉しいよ」

 あまりの驚きに、口をOの形にして固まっている美夕を上から下までじっくり眺め、その人は微笑んだ。

「君はあんまり変わってないね。高校の時以来だからさすがに記憶と違うかと思ったけど、あの時の印象そのままだよ」

 ああ、懐かしい――この低く甘い独特のつやのある声。間違いなく、あの来生先輩だ。
 果たして褒められているのか、それともけなされているのか……どちらにも取れる彼の言葉だったが、美夕はいまだに目の前の現実に頭がついていけず身体が固まったままだった。
 見た目の反応がとぼしい美夕に、その人は次第に眉を寄せて瞳を曇らせた。

「子猫ちゃん、僕を覚えていないのかい? さっき名前を呼んでくれたと思ったんだけどな。来生だよ。君より二学年上だった、来生鷹斗たかとだ。久しぶりだね、今日はよろしく」
(今日はよろしくって――嘘っ! そんなどうしよう!? まさか、先輩が依頼人なの?)

 こちらの反応をジッと待つような瞳を受けて、ようやく頭が現実に引き戻される。
 しまった! 今はバイト中だった。

(先輩は大事な依頼人だ。ちゃんと挨拶あいさつしなきゃ)
「もちろん、覚えていますよ、来生先輩。本日は弊社のサービスをご利用いただき、ありがとうございます」

 軽く頭を下げた美夕に、来生は笑いを漏らした。

「よかった、覚えていてくれたんだね。まあ、ちゃんとしゃべったのは卒業式の時だけだけど」

 その屈託のない笑いは、まるで懐かしい同級生に再会したような温かさが感じられるもので、つい嬉しくなる。優しい態度で接してくれる彼が自分を覚えてくれていたことに、だんだん気分が高揚してきた。

「部活も違いましたし、接点はありませんでしたけど、先輩は一年生の間でも有名でしたから」

 やっと反応し始めた美夕に、来生は目を細めて片手を差し出した。

「思い出してくれて光栄だよ。どんな風に有名だったのかが気になるけど、今は昔話をしている時間がないから、またゆっくり時間のある時に教えて。今日のことはどんな風に社長に聞いてる?」

 美夕は差し出された片手を、ごく自然に握り返しつつ答える。

「すみません。時間がなくて詳しい内容は聞いてないんです。私が受けた内容は、今日の六時半から九時まで、建築関係の業界パーティに依頼人の恋人として同伴し、出来れば依頼人の挨拶あいさつ回りのフォローをして欲しい、ということです。何か間違っていますか?」
「うん、それで合ってる。代理の人が君でよかったよ」

 来生は頷くと、そのまま美夕の手を自分の片腕にかけ、エスコートをしながらエレベーターの方へと歩き出した。

「君の会社の社長からね、指名した女性が来られなくなったから代理人を寄越すと言われた時は、正直なところ、大丈夫なのかと思ったよ。けど、君なら知らない人じゃないし、やりやすそうだ」

 エレベーターのボタンを押して待つ間、来生は自分たちの後ろに年配の夫婦や着飾った人たちが待っていることに気付き、小さな声で言った。

「続きは部屋に行ってから話すよ」

 彼の美声が耳元をくすぐるように聞こえてくる。

(ふわぁ、十年ぶりの懐かしい感覚……ドキドキしちゃう)

 心地のいい声が頭の中で反響して、鼓動が速くなる。
 そうなのだ。美夕は、来生のこの低くて甘い、つやのある声にすこぶる弱かった。
 こんな声でささやかれたら抵抗出来ない……そんな理想の声の持ち主は、その美声に負けず劣らずいい男で、美夕の通っていた高校で来生の名前を知らぬ者はいなかった。
 当時は学校の中はおろか、他校にまでファンクラブがあり、バレンタインの日に群がった女生徒の数に唖然としながら校門を通り過ぎたことを覚えている。
 だが本人は、美夕の動揺になどまるで気付かぬ様子で、混んだエレベーターの中で恋人同士らしく腰に手を回し、自分の方へと引き寄せた。
 エレベーターの浮遊感と共にチーンと音を立てて到着したその階は、パーティ会場のある大広間ではなく、客室のあるホテル上階だった。いつの間にか二人きりになっていたエレベーターから降りると、美夕の腰を抱いたまま来生は客室へと歩いていく。
 ふかふかな絨毯じゅうたんの上を歩いていると、来生の美声が静かな廊下に吸い込まれるように響いた。

「受付は六時半からだ。まだ少し時間があるから、部屋で打ち合わせをしよう。こっちだよ」

 そうして、いかにも高価そうなドアをセキュリティキーで開け、美夕を中に案内した。
 スイートだと思われるそこは、落ち着いた雰囲気の部屋だった。入ってすぐにリビング、大きいソファーの向こうはダイニング。机の上に書類やノートパソコン、そして側に設計図らしきものが載っている。奥は広い寝室に続いていた。
 来生はソファーに美夕を座らせ、自分もその隣に座る。
 ロマンチックな柔らかい照明に照らされたソファーに、隣同士座る二人の距離が、なんだかやたらと近い。お互いの体温が感じられるほどだ。

(近い、近いよ、先輩。あ、でも今は恋人役だったわ)

 美夕は多少戸惑いながらも、割り切ることにした。

「あまり時間がないから、手短に話すよ。今日のパーティは聞いての通り、主に建築業界の会社や建築デザイナーの集まりだ。今、世界的に動いているプロジェクト案件が何件かあってね、僕も建築デザイナーとして参加している」
(先輩、建築デザイナーだったんだ……すごいなぁ)

 感心したような美夕の態度に、説明を続ける来生の目がやわらいだ。

「こういう集まりは大切な情報収集の場だから、業界の人たちがたくさん集まるんだ。今日は社交がメインのパーティなんだけど、パートナーがいた方が社会的信用が増すんだよ。馬鹿らしいと思うかもしれないが、そういう保守的な風潮はいまだ残っているんだ」

 なるほど、と美夕は彼の言葉に相槌あいづちを打つ。

「で、ここで君の出番となる。僕のパートナーとして僕が挨拶あいさつ回りをしている間、相手に友好的に振る舞って欲しい。同伴者の印象も僕への評価になるからね。ゆくゆくは僕の会社の評判にもつながる」

 来生は美夕が了解したと頷いたのを確認すると、先を続けた。

「プレッシャーをかけたいわけではないが、大事なことだということは分かって欲しいんだ。ついでに僕の恋人として仲良くしているところを見せつけてくれれば大いに助かる。家族で出席している人たちの中には、年頃の娘さんもいる。僕は非常にデリケートな状況にはおちいりたくなくてね」

 来生の表現は抽象的だったが、何となく事情が見えてきた。
 昔から異性に関心を持たれることが常だった彼は、十年経った今も似たような状況なのだろう。
 つまりは美夕は、来生に迫ってくる女性たちからの盾役も兼ねているのだ。

(なるほどね。だから、プロの俳優を雇ったのか。この役を普通の女性に頼んだら、きっとその女性は勘違いするわ~)

 彼の期待にこたえるように、美夕は大きく頷いた。

「分かりました。ご期待に沿えるよう、精一杯努力させていただきます」

 美夕の真剣な言葉に、来生は嬉しそうに礼を述べる。

「ありがとう、呑み込みが早くて助かるよ。じゃあ、僕は君を『美夕』と呼ぶことにするよ。君も『先輩』ではなく『鷹斗』と呼んで欲しい。依頼中は恋人らしく振る舞うから、君もそれに合わせてくれ」
(そうよね、恋人らしくといえば……)

 来生の言葉に少し考えてから、美夕は口を開く。

「それでは、挨拶あいさつ回りの時は先輩を『鷹斗さん』とお呼びします。会場で二人だけの時は、周囲に聞かれる可能性を考えて『鷹斗』と呼び捨てにさせていただきます。それでよろしいですか?」
「なら、もう呼び捨てにして欲しい。どこに関係者がいるか分からないし、なり切るなら今から慣らした方が良いだろう? 他の人の前では『鷹斗』でも『鷹斗さん』でも構わないよ。その堅苦しい話し方も変えて、砕けた感じで接してくれると嬉しいな。それから――」

 そこまで言うと、来生――鷹斗は、膝に手を置いて真剣な顔をした。

「先に忠告しておくが、会場で一番手強いのは僕の親族なんだ。根掘り葉掘り聞いてくるから、下手な嘘はつけない。だから君のことをいろいろ教えて欲しい。いいかい?」

 親族も出席していると聞いて、それは確かに手強そうだと思った。美夕は「もちろんどうぞ」と言葉を返す。


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