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三国会議 4
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ーー嘘だわっ! こんなことっ、ぜったいにーー……
真っ先に頭に浮かんだのは、否定だった。イザベルは屈んでノロノロと拾い直した紙を無意識に何度も読み直していた。
けど、いくら穴が開くほど見つめてもお知らせの内容は変わりやしない。
イグナスが邸に戻ってくる。
それがどんなにありえなくても、先祖代々から我が家に勤める家令は信頼できるから、この伝達をどう受け止めていいのかわからない。胸の内を映さない紺碧の瞳は、ただただ字を追うだけ。
戻ってくると言われて、泣きたいのか笑いたいのか……?
その場に立ち尽くし、手に持った紙がぐしゃぐしゃになるまで白い指でキツく握る。
「あのぅ、何か持ってまいりましょうか? 悪い知らせですか?」
部屋を出て行きかけていたメイドの親身な声に、イザベルは息を深く吸って平静を装った。紙を魔法で燃やす。
「……大丈夫よ。ちょっとつまずいただけだから」
ーー今夜……今夜なのよね!? だったら宿舎には行けないわ。
痛い心臓を無視して、レティシアへの言付けを頼んだ後、メイドが去るなりどっと椅子に倒れ込んだ。
ーーああぁっ、だけどこんなことをしている場合じゃあないわっ。早く戻らないと!
ガタッと音を立てて立ち上がると、素早く周りを片付け脇目も振らず城門へと足早に向かっていく。落ち着かない気持ちで馬車寄せをそのまま通り過ぎようとしたら、いきなり声をかけられた。
「お嬢様、お迎えにあがりました」
ハッと見れば見覚えのある馬車が待機している。それも御者台に座っているのは忽然と姿を消した御者のコルトではないか。
ーーいったい、どうなっているのっ?
この若者は、イグナスが去ると同時に辞職したはず。
平然と馬の手綱を握るその人の良さそうな顔は、当たり前のようにどうぞと開いた扉を示している。どうしてここにとか、このタイミングでなぜとか、しれっとした態度の御者には聞きたいことがいっぱいある。
ーーでも城門で騒ぎなど起こせないわ……と喉まで出かかった質問を呑み込んで、イザベルは口を一文字に結んだ。何食わぬ顔でスッと馬車に乗り込んだものの、王城を出てしばらくしてから、我慢ができず声をかけてみる。
「馬車を止めてちょうだい」
「できません。邸まで安全に送り届けるようにと、言いつかっておりますので」
コルトはバツが悪そうにも見えない。これは何を聞いても無駄だ。そう悟ると非常に不本意だけど窓から流れる景色を黙って見つめた。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
「ただいま、セバス。知らせをありがとう。詳しく聞きたいのだけど……あ、その前に邸に異常はないかしら?」
馬車の扉を開けて手を差し伸べてくれた執事は、至極にこやかだ。
「普段と変わりありません。それと、イグナス様が奥でお待ちです」
ーーっ⁉︎……もう? というか、どうしても信じられないーー!
「……いつお戻りになったの?」
「先刻からお嬢様をお待ちです。晩餐の用意は整えてあります」
執事の言葉を疑うわけではない。まったくもって信じられないのは、イグナスの訪れを喜んでしまっている自分だ。
まだ半信半疑で居間の扉を開けると、そこには王城にいるはずの麗しい姿が邸の主人のような顔をしてソファに腰掛けていた。顔を見るなり「やっと戻ったか」と優雅にティーカップをテーブルに戻す声は、いかにも待ちくたびれた感じがして、イザベルは慌てて礼を取る。
「お待たせして申し訳ありません」
ーーあ、あれ? どうして自分は謝って……?
先触れなしの訪問なのだ。その理不尽さに疑問を持つ前に、イグナスはマリンブルーの瞳を眇めた。
「ずいぶん遅かったな。今夜の観劇は不参加だと聞いた。他に予定もないだろう。それとも私に知らされていなかっただけか?」
「ーーいえ。予定などございませんわ」
「ならば、どうして。さっさと帰って来ない」
こんな風に責められる謂われはない。そもそもこちらこそ、言ってやりたいことがいっぱいあってーー
「……明日の……段取り確認に……手間取りまして……」
ああぁ、なのに。どうしてこうもこのマリンブルーの瞳に弱いの……
「そうか、ご苦労だった。腹も減ったし、晩餐にするか」
すっと立ち上がったイグナスは、押されっぱなしのイザベルに当然とばかり腕を伸ばす。長い腕に引き寄せられ、あっという間に腰を抱かれたイザベルは、ダイニングへ案内してくれる執事の後について行きながら、混乱のあまりうまく会話ができない。
「どうし……いえ、あの……今日は……」
「ふむ。今宵は大木ーー銀穂とか言ったか。枝先から見事な繊月が見えるな」
「……ソウ……デスワネ……」
白枠の窓からうっそうとした庭を覗き見るイグナスは、いかにも嬉しそうだ。腰を抱く腕にグッと力がこもり、さらに身体を密着させられた。
イザベルの顔には自然と熱が集まってくる。久しぶりすぎる距離で、イグナスの体温を痛いほど意識してしまって落ち着きたくてもますますパニックになる。
大蛇のひんやりした蛇皮でさえ、触れられると胸は高鳴った。ましてやこんな男性美を極めた身体にピッタリひっつかれては心臓がもたない。
意識を逸らそうと、なけなしの理性をどうにかかき集め、さり気なく控えているメイドたちへと視線を向ける。
それにしても突然帰ってきたイグナスに誰も驚いた様子はない。セバスだって、顔色ひとつ変えず受け答えをしている。
「今日は珍しいワインが手に入りまして、程よく冷やして用意してございます」
「これはまた……偶然にしても数少ない銘柄だ。それに、この芸術的な盛り付けも見事だな。シェフは腕を上げたのではないか?」
「イグナス様のお帰りとあって、張り切ったようです。お口に合ったのであれば喜ぶでしょう」
「うむ。そうか。宮廷で出される料理より美味いぞ。労ってやれ」
「はい。寛大なお言葉、ありがとうございます」
テーブルについてグラスに注がれたワインを片手に満足そうなイグナスを、イザベルは信じられない思いで見つめる。夢でも見ているのではないか?
ほっぺをつねりたい衝動を抑えるので精一杯だ。
「ベル? どうした、ずいぶんと食が細いな。果物でも持って来させるか?」
「……イエ。お構いなく」
自分の邸なのに、口から出てしまうのはこんなセリフ。一方で、イグナスは以前となんら変わらない。その尊大な態度も、美味しそうに食する姿も。まるで王のように不遜で誰もが自然と従っている。
マリンブルーの双眸を細めたその満足顔をボーと見ているうちに、イザベルのフォークを握り締める手に力がこもった。驚きを通り越して、だんだんと腹が立ってくる。
ーーあっけなく捨てられて散々苦しんだ日々は……いったい何だったの⁉︎
それにそれに、急にシルタニア貴族として目の前に現れて以来、プライベートでの会話はないどころかっ。ずっと他人のフリ状態じゃないのーーーーっ!
「ところでベル。このところ邸に戻ってないそうだな?」
誰のせいだと思っているのだ、この唐変木! 一緒に過ごした日々とかに浸りたくないから、帰れなかったというのにっ!
「……はい、そうですわ」
腹立たしさいっぱいのイザベルはそれだけ答えると、思わずつんと横を向いた。
「ーーこら、こちらを向け。何を拗ねている?」
しまったと後悔しても、顔を背けてしまった手前おいそれとは向き直れない。聞こえないふりをすると、ため息をついたイグナスがすっと片手を上げた。
「二人きりにしてくれ、今宵はもう下がってよい」
真っ先に頭に浮かんだのは、否定だった。イザベルは屈んでノロノロと拾い直した紙を無意識に何度も読み直していた。
けど、いくら穴が開くほど見つめてもお知らせの内容は変わりやしない。
イグナスが邸に戻ってくる。
それがどんなにありえなくても、先祖代々から我が家に勤める家令は信頼できるから、この伝達をどう受け止めていいのかわからない。胸の内を映さない紺碧の瞳は、ただただ字を追うだけ。
戻ってくると言われて、泣きたいのか笑いたいのか……?
その場に立ち尽くし、手に持った紙がぐしゃぐしゃになるまで白い指でキツく握る。
「あのぅ、何か持ってまいりましょうか? 悪い知らせですか?」
部屋を出て行きかけていたメイドの親身な声に、イザベルは息を深く吸って平静を装った。紙を魔法で燃やす。
「……大丈夫よ。ちょっとつまずいただけだから」
ーー今夜……今夜なのよね!? だったら宿舎には行けないわ。
痛い心臓を無視して、レティシアへの言付けを頼んだ後、メイドが去るなりどっと椅子に倒れ込んだ。
ーーああぁっ、だけどこんなことをしている場合じゃあないわっ。早く戻らないと!
ガタッと音を立てて立ち上がると、素早く周りを片付け脇目も振らず城門へと足早に向かっていく。落ち着かない気持ちで馬車寄せをそのまま通り過ぎようとしたら、いきなり声をかけられた。
「お嬢様、お迎えにあがりました」
ハッと見れば見覚えのある馬車が待機している。それも御者台に座っているのは忽然と姿を消した御者のコルトではないか。
ーーいったい、どうなっているのっ?
この若者は、イグナスが去ると同時に辞職したはず。
平然と馬の手綱を握るその人の良さそうな顔は、当たり前のようにどうぞと開いた扉を示している。どうしてここにとか、このタイミングでなぜとか、しれっとした態度の御者には聞きたいことがいっぱいある。
ーーでも城門で騒ぎなど起こせないわ……と喉まで出かかった質問を呑み込んで、イザベルは口を一文字に結んだ。何食わぬ顔でスッと馬車に乗り込んだものの、王城を出てしばらくしてから、我慢ができず声をかけてみる。
「馬車を止めてちょうだい」
「できません。邸まで安全に送り届けるようにと、言いつかっておりますので」
コルトはバツが悪そうにも見えない。これは何を聞いても無駄だ。そう悟ると非常に不本意だけど窓から流れる景色を黙って見つめた。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
「ただいま、セバス。知らせをありがとう。詳しく聞きたいのだけど……あ、その前に邸に異常はないかしら?」
馬車の扉を開けて手を差し伸べてくれた執事は、至極にこやかだ。
「普段と変わりありません。それと、イグナス様が奥でお待ちです」
ーーっ⁉︎……もう? というか、どうしても信じられないーー!
「……いつお戻りになったの?」
「先刻からお嬢様をお待ちです。晩餐の用意は整えてあります」
執事の言葉を疑うわけではない。まったくもって信じられないのは、イグナスの訪れを喜んでしまっている自分だ。
まだ半信半疑で居間の扉を開けると、そこには王城にいるはずの麗しい姿が邸の主人のような顔をしてソファに腰掛けていた。顔を見るなり「やっと戻ったか」と優雅にティーカップをテーブルに戻す声は、いかにも待ちくたびれた感じがして、イザベルは慌てて礼を取る。
「お待たせして申し訳ありません」
ーーあ、あれ? どうして自分は謝って……?
先触れなしの訪問なのだ。その理不尽さに疑問を持つ前に、イグナスはマリンブルーの瞳を眇めた。
「ずいぶん遅かったな。今夜の観劇は不参加だと聞いた。他に予定もないだろう。それとも私に知らされていなかっただけか?」
「ーーいえ。予定などございませんわ」
「ならば、どうして。さっさと帰って来ない」
こんな風に責められる謂われはない。そもそもこちらこそ、言ってやりたいことがいっぱいあってーー
「……明日の……段取り確認に……手間取りまして……」
ああぁ、なのに。どうしてこうもこのマリンブルーの瞳に弱いの……
「そうか、ご苦労だった。腹も減ったし、晩餐にするか」
すっと立ち上がったイグナスは、押されっぱなしのイザベルに当然とばかり腕を伸ばす。長い腕に引き寄せられ、あっという間に腰を抱かれたイザベルは、ダイニングへ案内してくれる執事の後について行きながら、混乱のあまりうまく会話ができない。
「どうし……いえ、あの……今日は……」
「ふむ。今宵は大木ーー銀穂とか言ったか。枝先から見事な繊月が見えるな」
「……ソウ……デスワネ……」
白枠の窓からうっそうとした庭を覗き見るイグナスは、いかにも嬉しそうだ。腰を抱く腕にグッと力がこもり、さらに身体を密着させられた。
イザベルの顔には自然と熱が集まってくる。久しぶりすぎる距離で、イグナスの体温を痛いほど意識してしまって落ち着きたくてもますますパニックになる。
大蛇のひんやりした蛇皮でさえ、触れられると胸は高鳴った。ましてやこんな男性美を極めた身体にピッタリひっつかれては心臓がもたない。
意識を逸らそうと、なけなしの理性をどうにかかき集め、さり気なく控えているメイドたちへと視線を向ける。
それにしても突然帰ってきたイグナスに誰も驚いた様子はない。セバスだって、顔色ひとつ変えず受け答えをしている。
「今日は珍しいワインが手に入りまして、程よく冷やして用意してございます」
「これはまた……偶然にしても数少ない銘柄だ。それに、この芸術的な盛り付けも見事だな。シェフは腕を上げたのではないか?」
「イグナス様のお帰りとあって、張り切ったようです。お口に合ったのであれば喜ぶでしょう」
「うむ。そうか。宮廷で出される料理より美味いぞ。労ってやれ」
「はい。寛大なお言葉、ありがとうございます」
テーブルについてグラスに注がれたワインを片手に満足そうなイグナスを、イザベルは信じられない思いで見つめる。夢でも見ているのではないか?
ほっぺをつねりたい衝動を抑えるので精一杯だ。
「ベル? どうした、ずいぶんと食が細いな。果物でも持って来させるか?」
「……イエ。お構いなく」
自分の邸なのに、口から出てしまうのはこんなセリフ。一方で、イグナスは以前となんら変わらない。その尊大な態度も、美味しそうに食する姿も。まるで王のように不遜で誰もが自然と従っている。
マリンブルーの双眸を細めたその満足顔をボーと見ているうちに、イザベルのフォークを握り締める手に力がこもった。驚きを通り越して、だんだんと腹が立ってくる。
ーーあっけなく捨てられて散々苦しんだ日々は……いったい何だったの⁉︎
それにそれに、急にシルタニア貴族として目の前に現れて以来、プライベートでの会話はないどころかっ。ずっと他人のフリ状態じゃないのーーーーっ!
「ところでベル。このところ邸に戻ってないそうだな?」
誰のせいだと思っているのだ、この唐変木! 一緒に過ごした日々とかに浸りたくないから、帰れなかったというのにっ!
「……はい、そうですわ」
腹立たしさいっぱいのイザベルはそれだけ答えると、思わずつんと横を向いた。
「ーーこら、こちらを向け。何を拗ねている?」
しまったと後悔しても、顔を背けてしまった手前おいそれとは向き直れない。聞こえないふりをすると、ため息をついたイグナスがすっと片手を上げた。
「二人きりにしてくれ、今宵はもう下がってよい」
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