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恋の虜囚
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大蛇の名を知った翌日、イザベルたちは街に出かけた。
雲ひとつない晴れた空が広がる、休日の昼過ぎ。
王都の中心街は人通りも多く、喧騒を楽しむ人々で賑わいを見せている。女神への感謝祭で稼ぎ時だからか、噴水の広場では露店がぎゅうぎゅうと押し合い並んでいた。
華やぎに惹かれて馬車の窓から外を覗いたイザベルは、通りに面する甘味処の行列に視線がいく。その肩に頭を乗せたイグナスは並ぶ看板を眺めていたが、やがてするっと向かい席に移動した。
「この先のはずだ」
「ーー魔導具専門店は、一箇所に集中していますわ。あ、あの辺りですわ……」
「ふむ、あれだな。行くぞ」
何げに尾で示されたのは、なんと王侯貴族の御用達として名高い老舗だ。王都でも有名な宝飾魔導具の店は警備が厳しく、従魔はもとよりペット類まで入店禁止のはずである。
「あちらでは……イグナス様が入れませんわ。魔導具でしたら、こちらの店でも品物は確かです」
イザベルは実用的な魔導具の店を手で示した。呪われた魔剣などの解呪依頼で店主にも面識がある。だけど返事がないので振り返ると、目前では小さな魔法の火花が散っていた。
ばっちぃんっ!
見えない鎖が弾ける音。そして向かい席には人型イグナスの美しい姿が!
「え?」
ーーきゃああぁ、また裸なの~~! 叫んで走り出しそうになるも、狭い馬車の中では逃げ場などない。
「しばし待て」
イグナスは取り出した服を手早く着ると「行くぞ」とさっさと馬車から降りていく。イザベルが慌てて顔を覆った手を外し追いかけようとしたら、スッと優雅な手が差し出された。不意のレディ扱いに心でふえっと叫んだが、済ました顔でとっさに手を預ける。
これはきっと……どこかで見た貴族を真似ているのだろう。
昨夜も思ったけど、この魔法はそうとうな負荷がかかる。だからつい無理をしているんじゃないかと心配になる。
それに服なんて、いつの間に? 被りで顔はよく見えないが、その姿は人通りがある市街でもいやに目立つ。
さすが王蛇と言われるだけあって上背があるし、ローブを被っていても隠しきれない高貴なオーラが漂ってくる。イザベルは黙ってイグナスについて歩いた。警備に立つ店員も、うやうやしく扉を開いて丁寧な対応をしてくる。
「いらっしゃいませ。本日は、どう言ったものをお探しでしょうか?」
「うむ、身に着ける装身具の類を見せてもらおう……」
驚いたことに、イグナスのお目当ては女性用の護身魔導具らしい。一体何に使うのか見当もつかないけれど、これならと思える品をイザベルは店員と相談してカウンターに並べてみた。
「この腕輪は、風魔法で矢が放たれる魔法が付与されております……」
「却下だ」
思いがけなく即答されて目をぱちくり。中級程度の付与だから、イグナスには物足りなかっただろうか……?
「では、こちらのネックレスなどいかがでしょう? 宝飾品としても素晴らしい品です。魔力を込めると放たれる火球もそれなりの威力が……」
「悪くはないが……」
店員の示した上級魔法が付与された魔導具にも大して興味を示さない。
「……それでは、大変珍しい氷魔石の指輪など」
広範囲の対象物を凍らせる魔法は護身に便利だ。イグナスは少し考えるように顔を傾けたが、次を促した。
紹介された可憐なピアスは、身につけている者の無事を確認できる加護魔法の魔導具。旅に出たり、嫁いでいく家族などに贈られる品だ。
「その品は保留としよう。ところでベル、あちらの棚が気になるのか?」
同僚が製作した魔導具が展示されている棚で、イザベルは思いがけないモノを見つけてしまい驚いていた。顔には出ていなかったはずだけどとためらっていると、イグナスは店員に合図をしてその品を手に取った。
「首飾り……? にしては鎖がずいぶんと短い。だが腕輪にしては長すぎないか」
「おっしゃる通りでございます。こちらは女性の足首を飾るアンクレットでして」
「ほう、足枷か」
ーーいえいえ、違いますわ! ネックレスを目指したんですけど、材料の都合で…………
製作者としてイザベルは大いに心の中で主張した。だが店員の説明に異を立てる気はない。黙ってイグナスの手中にある華麗な蔓薔薇を模した魔導具を見つめた。
これは宮廷魔道士であるイザベルが試作したものだ。チェーン部分の魔鉱石の調達が間に合わず、そのまま提出したら、評価はされたが王宮では無用となった。
理由は簡単。貴族女性が身につけるドレスは丈が長い。……つまり素足を飾るアンクレットは主に懇意にしている恋人や愛人、娼館の美姫に贈る品として認識されている。
「魔導具としても、宝飾品としても、特級の品でございます。姿気配を消す特殊魔法が付与された魔導具は当店でもこの一点のみ。宮廷魔道士の手によるものでございます」
「上級魔法だな。この手の宝飾品の付与としては、いかがと思うが」
ネックレスを制作したときは、実用的な宝飾品を目指した。夜会などで面倒な相手を避けるのに有効と思えたのだ。そのため装飾デザインにもこだわって、花びら一枚一枚に魔石を使用してある。
けれどもイグナスのいう通りアンクレットを贈った女性の姿が見えなくなるのは、下心ありの贈り主にとって意味がないに違いない。
「これと、ピアスの二点をもらおう」
だから続けて聞こえたイグナスの言葉に驚いた。
このアンクレットとーーそれにピアスまで? 法外な値段の宝飾魔導具を二つも!
驚きを隠して瞬いただけで表情を変えなかったイザベルだが、ピアスを手に持ったイグナスが「つけてやる」と屈んできて、さすがに唖然とした。内心でオタオタするうちに耳にピアスを嵌められ、耳たぶにフッと息をかけられる。顔が熱い。
「お戯れは程々になさってください。それに、このような高価なもの。いただけませんわ」
材料費だけでも目を見張る原価だ。
さり気なくはずそうとしたが、素早く手を遮られた。さらに腰を抱え込まれる。
「私からの贈り物を受け取らない気か? じっとしていろ」
ーー耳のそばで囁かないで。平静を保つのにも限界が……
「遠慮させていただき……」と抗議してもお構いなし。ピアスの魔法を起動する呪文を唱えるイグナスの低い声が柔らかな耳たぶに注がれる。
「……これで良い」
「ぁ、ありがとうございます。大切にしますわ」
「では、次の店に行くぞ」
「え、まだある……のですか?」
相当な額を散財したばかりで呆然とする腕を、イグナスが柔らかく掴んだ。
「なんだ? 今ここで足枷をつけて欲しいか?」
なんてことを⁉︎ それもこんな人前でーー!
ピアスのやりとりを微笑ましく見ていた人々が、ぎょっと目を見張った。
あからさまな言葉を吐いた大蛇に、さすがのイザベルも唇を噛む。
相変わらずのデリカシーのなさっ! 魔獣だから外聞など関係なくとも、イザベルはそうは行かない。
心持ちまつ毛を伏せただけで姿勢を正し店を出たものの、恥ずかしさでいっぱいだ。
もう二度とこの店には来れない……さいわい知っている顔は、店内になかったが。店員には顔を覚えられてしまっただろう。
「どの店だ?」
「え? あの……」
気がつけば、先ほど馬車から眺めていた賑やかなカフェ通りにきていた。
イザベルはイグナスの質問の意味を測りかねて、僅かに首を傾げる。
「先ほど目をつけた店があっただろう。どれだ?」
驚いた。どうしてわかったのだろう。
「……あちらの店が気になったのですけど。まさかイグナス様もご一緒に?」
視線を向けたのは大通りでも一際目立つ飲食店だ。休日の今日は、列ができるほど非常に混んでいる。
「私が同行しては、不都合だと?」
「いえ。ですが……本当によろしいんですね?」
「無論だ」
木の看板にピンクの可愛らしい文字でカフェと書かれた店はスイーツの有名どころで、店内は盛況だ。惹かれるものの、一人では気後れしてイザベルは入ったことがない。
「……ずいぶんと、大盛りだな」
思い切って名物メニューを注文したら、運ばれてきた盛り付けの大きさにイグナスは驚いたようだ。
これなら、さり気なく誘ってもいいだろうか……? さっきからイザベルの心臓はドキドキしっぱなしだ。
「……もしよければ、手伝っていただけますか? スプーンも二つありますわ」
「よかろう」
ためらいなく手にしたイグナスに、イザベルは内心で有頂天になった。
お一人様では注文できない名物のカップルメニューを味わえる日が来るなんて思いもしなかった。……それもイグナスと一緒に。
店内に入るなり、顔もよく見えないのにイグナスに視線が集まったが、食べるのに邪魔だとフードを外した途端、人々が息をのんだ。それもそのはず、明るい店内で見たイグナスの容姿は惚れ惚れするほど麗しくイザベルも一瞬見惚れた。だがすぐ我に返る。
昨夜、肌に浮かんで見えた金の斑紋模様は記憶よりずっと薄らいで見える。向かい席のイザベルが注意深く見てやっと気づく程度だ。これなら、イグナスの正体が大蛇だとバレないだろう。
ーーパク。一口食べてその甘さに頬が緩みそうになる。幸せに心が震えた。
周りはカップルだらけなのに、イグナスが堂々と振る舞ってくれるのも嬉しい。いつまでも、こうしていられたらーーーー……
「大丈夫……ですの? その、魔法はいつまで……?」
二人で器をつつきながら、聞き耳を立てている周りに気取られないよう小声だ。なんだか内緒話をしているみたいでくすぐったい。
「……まだ保つ。大丈夫だ」
返事の前に少し間があった。だから、それほど余裕があるわけではないと察した。よく見れば額に脂汗のようなものが浮かび、前髪が少し湿ってきている。
これはいけない。
いきなり、勢いよくスプーンを口に運び出したイザベルを見て、イグナスはクククと面白そうに笑った。
「そんなに焦らなくとも良い」
「ですが……」
こんなところで魔法が解けたら大騒ぎになる。反論しかけたイザベルは、突然伸びてきた手に口の端を拭われて目尻をほんのり桃色に染めた。
ーーは、恥ずかしいわ……クリームがついていたのに、まったく気づかなかった。
「先ほどのピアスとアンクレットだがな、決して外すな。これからはずっと身につけていろ」
「あ、ありがとうございます」
「いいか、己の身の安全を必ず優先しろ。囲まれる前に身を隠せ」
「……はい」
ふっと目元を緩めたイグナスは、指についたクリームをそのまま口に含んだ。
「やはり甘いな」
ドッキン。
美味だと味わう何気ない仕草に、イザベルの鼓動は乱れる。
ーーもしかして、あんなに大枚を叩いたのはーー私の体質のためーー……?
どういう顔をしたらいいのか分からなくて、俯いた顎をイグナスがクイっと持ち上げた。
「コツを掴んだせいか、もう少し長くこの姿でいられる。だがそんな顔をされると……」
頬をなぞった手が、意味ありげに鎖骨を撫で上げた。「ここを出るぞ」の短い一言に、イザベルは黙って頷いた。
「あっ、んあっ」
うなじにチリっとした痛みが走る。甘噛みされて小さく震える身体をイグナスは膝上で抱え直した。馬車の狭い空間に、二人の吐く熱い吐息がこもる。
膝立ちのイザベルの白い下着をずらしたイグナスは、濡れた指先を舐めている。
「もうトロトロだな。……昨日の今日でまだ痛むだろうが、許せ。挿入れるぞ」
噛まれた肌はズキズキするし、早急なキスも愛撫も強引すぎる。そう思うのに、低い美声で「可愛いベル、おいで」」と囁かれるとイザベルは無意識にその首に手を回した。
ーー陽だまりの匂いがするーーイグナスの香りだ。
馬車に乗り込むなり、強引に足枷を嵌められそのまま足の間を弄られても、嫌いになれない。イザベルは太ももを開いてさらに身体を密着させた。
向かい合って腰を支える大きな手にいったん身体を持ち上げられ、次の瞬間グッと押さえつけられる。にちゅと濡れた音がして、雄々しくいきり勃つイグナスがイザベルの中に侵入してきた。
「はぅっ、ぁああーーっ」
ゆっくり突き進んでくるーーイグナスが身体の中まで……
苦しいほどの圧迫感と鈍い痛み。身を包む温かさに心は満たされるが、同時に繋がった箇所から魔力が奪われていく。クラっとする酩酊感にイザベルは夢中でイグナスにしがみついた。深く考える余裕などない。身体が勝手に動いた。
イグナスはまだ狭い膣中に己を馴染ませるように逞しい腰を回しつつ、徐々に納め切った。
「熱いな……腰が溶ける……堪らん……」
ああーーそう、この感じ……イグナスと溶け合うこの瞬間は、たまらなく幸せだ。好きな相手と繋がる一体感で心が震える。
痛みがないわけじゃない。けど、荒い息を吐くイグナスの飢えを感じるだけで身体は滴るほど濡れてくる。まだ少し残る疼痛も圧倒的な充実感ですぐに上書きされた。
「ふぅん、あっ、っんん~~」
「蕩けそうな顔をして……私とするのはそんなに気持ちイイか?」
こくりと頷くと「私もだ」と抱きしめられ、キュウんと胸が締め付けられるような切なさで目尻までもが濡れてくる。
イザベルの身体を堪能するように数回ゆっくり突き上げた後、イグナスは急にペースを上げて激しく攻め立ててきた。
「っっあ、ぁっ、あっ、んっ、ああっ」
「くぅ、そんなに咥え込むな。こうされるのが好きだな……」
子宮口に突き刺さる刺激に脳天まで快感が突き抜けてビクビクと痙攣する。
「んぅ~~あぁ……深ぃ…………」
腰の奥が熱くて……甘い痺れが止まらなくて……
持ち上げられて熱く滾った屹立の上に落とされると、自然と蜜に塗れた花芽を擦られる。いっきに穿たれる刺激に甘い電流が走った。快感を覚え始めたばかりの身体は、ゾクゾクと打ち震える。
……いつのまにか……出発したはずの馬車は、静かな木立の影に停まっていた。
ーーどうしてこんなところで? 馬のいななきや車輪の音でギリギリ細いよがり声を誤魔化せていたのに。
イグナスの膝上に跨がる格好で硬い屹立に身体を刺し貫かれたまま、イザベルは手で口を押さえた。御者に聞こえないはずがない。
これ以上声を出したら、絶対に聞かれてしまう……けど、指の間からは抑えきれない嗚咽がどうしても漏れる。
「……ん、ふ……んぅ……っ」
「……声を聴かせろ。思う存分啼くがよい……」
かすれた声ですごく不埒なことを囁かれたのに、喜んでしまう自分がいる。誰にいつ見咎められるかもしれない馬車の中で強引にされて、あまりにもはしたないのに逆らう気もない。
イザベルは目を閉じた。
「こんな……ところで………見られた、ら……っぁあんっ、ああっ」
「嫌ではないと、ベルの身体は言っている……」
ぐちゅっと淫らに腰を回され、「そうだろう?」と顔を引き寄せられた。
有無を言わさず唇が塞がれる。
「……ん、んぅっ……う……っ……」
どうしてこんなにーー心まで震えるの……
”好き”が溢れるイザベルの艶めかしい喘ぎを、蠢く舌が奪っていく。
愛おしさも、乱れる呼吸も垂れる唾液も、吐息さえ切ない。
唇を離さず「ベル」とイグナスはさらに激しく穿ってきた。二人が繋がる水音がよりじゅぶじゅぶと大きく響き、さらに体積を増した屹立に攻め立てられ世界が揺れる。
擦れ合う肌や柔らかく溶けた身体、強烈な突き上げも何もかもが熱い。
ずっとこうして私を離さないでーーーーーー……
トロける愉悦やら、背徳感やら劣情やらごっちゃ混ぜで朦朧としつつも、この温もりを失くしたくない。
イザベルの中で切なさと愛しさが溢れ落ちた瞬間、力強い突き上げで脳天まで痺れて大きく仰け反った。
「あぁぁっーー……!」
きゅうぅと膣中が収縮してイグナスを締め付ける。熱い屹立が脈動した。
「っ……」
お願い! 中にーーーー……
きつく目を閉じた途端、勢いよく腰が引かれた。ドレスに烈しい奔流が放たれると、鋭いトゲが胸に刺さったがそれを全身で抑え込む。動揺しているなんて、絶対に知られたくない。
激しい息遣いのイグナスは自身と熱く濡れる生地を握り込んでいる。
……気を失いそうな息苦しさも、溢れそうになる涙も気のせいだから。
大蛇の姿に戻っていくイグナスにもたれかかったまま、イザベルは気づかれぬようそっと目尻を拭った。
今回も繋がってから、多量の魔力を奪われた。イグナスの冷たい蛇皮にぐったり寄りかかったまま、馬車が動き出すとイザベルはついウトウトしはじめた。
その夜。
イグナスは夕食の後に書斎に閉じこもってしまい、イザベルは寝室で魔導書を読んでいた。
一人は慣れているのに、なんだか落ち着かない。昨夜も昼もイグナスと身体を重ねたから、ゆっくりできる今夜はホッとしていいはずなのに。
ーーどうして胸が……ざわつくのかしら?
こんな夜は月明かりに煌々と照らされた暗い庭をぶらつくのもいいかもしれない。
知り尽くした庭園は、夜でも十分魅力的だ。
イザベルが暗闇にも迷わずくねくねと続く小道を歩いていくと、やがて根が張った大木にたどり着く。誘うように大きく枝を広げた大木は、いつ見ても奇妙な形をしている。別名悪魔の木とも呼ばれるだけあって夜はさらに不気味さが増す大木の根元に座り込んだイザベルは、月夜に浮かび上がったねじれた幹のシルエットを見上げた。
ーーイグナスは今、何をしているの?
街から帰っても、ずっと忙しそう。珍しく食事もそこそこに執事の耳打ちで書斎に下がってしまったので、ロクに会話もできなかった。買ってもらった贈り物にどれだけ感謝しているかも、きちんと伝えきれていない気がする。
気落ちしたイザベルが足首の可憐なつるバラの魔道具をいじっていると、パタンとどこかで窓が開く音がした。びくっと肩を震わせた拍子に、思わずアンクレットを発動させてしまい、奇妙に周りが静まった。イザベルの気配がたちまち消える。
すると、風に乗って微かに声が聞こえてきた。
「……風の精霊よ……」
いけないことだと知りながらも好奇心でつい呪文を唱えると、よりはっきり話し声が聞こえる。大した思惑があったわけではないけど……風魔法が前より上手く使えている気がする。
「閣下、それはまことですか……」
「ああ、だが心配には及ばない。……の計画は頓挫したと……」
「……この拠点は今の所、安全と見て……」
会話は途切れ途切れで、すべては聞き取れない。でも声の主の一人は間違いなくイグナス。それにもう一人も、ごく最近聞いた声だ。
ーーあ、今朝紹介された御者な気がするわ…………
そう思いついた時には、パタンと窓が閉められた。パタパタと飛び去る鳥の気配が遠ざかっていく。
なんだったのだろう、今の会話は……?
今朝になって馬車と御者を雇ったとイグナスから聞かされて、イザベルはただ頷いた。
けど。今は胸が苦しいほどざわめいている。
ーーまさか……そんなはず…………
いくら否定しても、一度浮かんだ考えはイザベルの頭に頑固にこびり付いて容易に消えない。ますます目が冴えてしまって、これでは眠れそうにない。
気を紛らわせるために庭に出てきたはずなのに、先ほどよりさらに重いため息をついたイザベルは、長い間大木の根元で頭を膝につけたままじっと動かなかった。
雲ひとつない晴れた空が広がる、休日の昼過ぎ。
王都の中心街は人通りも多く、喧騒を楽しむ人々で賑わいを見せている。女神への感謝祭で稼ぎ時だからか、噴水の広場では露店がぎゅうぎゅうと押し合い並んでいた。
華やぎに惹かれて馬車の窓から外を覗いたイザベルは、通りに面する甘味処の行列に視線がいく。その肩に頭を乗せたイグナスは並ぶ看板を眺めていたが、やがてするっと向かい席に移動した。
「この先のはずだ」
「ーー魔導具専門店は、一箇所に集中していますわ。あ、あの辺りですわ……」
「ふむ、あれだな。行くぞ」
何げに尾で示されたのは、なんと王侯貴族の御用達として名高い老舗だ。王都でも有名な宝飾魔導具の店は警備が厳しく、従魔はもとよりペット類まで入店禁止のはずである。
「あちらでは……イグナス様が入れませんわ。魔導具でしたら、こちらの店でも品物は確かです」
イザベルは実用的な魔導具の店を手で示した。呪われた魔剣などの解呪依頼で店主にも面識がある。だけど返事がないので振り返ると、目前では小さな魔法の火花が散っていた。
ばっちぃんっ!
見えない鎖が弾ける音。そして向かい席には人型イグナスの美しい姿が!
「え?」
ーーきゃああぁ、また裸なの~~! 叫んで走り出しそうになるも、狭い馬車の中では逃げ場などない。
「しばし待て」
イグナスは取り出した服を手早く着ると「行くぞ」とさっさと馬車から降りていく。イザベルが慌てて顔を覆った手を外し追いかけようとしたら、スッと優雅な手が差し出された。不意のレディ扱いに心でふえっと叫んだが、済ました顔でとっさに手を預ける。
これはきっと……どこかで見た貴族を真似ているのだろう。
昨夜も思ったけど、この魔法はそうとうな負荷がかかる。だからつい無理をしているんじゃないかと心配になる。
それに服なんて、いつの間に? 被りで顔はよく見えないが、その姿は人通りがある市街でもいやに目立つ。
さすが王蛇と言われるだけあって上背があるし、ローブを被っていても隠しきれない高貴なオーラが漂ってくる。イザベルは黙ってイグナスについて歩いた。警備に立つ店員も、うやうやしく扉を開いて丁寧な対応をしてくる。
「いらっしゃいませ。本日は、どう言ったものをお探しでしょうか?」
「うむ、身に着ける装身具の類を見せてもらおう……」
驚いたことに、イグナスのお目当ては女性用の護身魔導具らしい。一体何に使うのか見当もつかないけれど、これならと思える品をイザベルは店員と相談してカウンターに並べてみた。
「この腕輪は、風魔法で矢が放たれる魔法が付与されております……」
「却下だ」
思いがけなく即答されて目をぱちくり。中級程度の付与だから、イグナスには物足りなかっただろうか……?
「では、こちらのネックレスなどいかがでしょう? 宝飾品としても素晴らしい品です。魔力を込めると放たれる火球もそれなりの威力が……」
「悪くはないが……」
店員の示した上級魔法が付与された魔導具にも大して興味を示さない。
「……それでは、大変珍しい氷魔石の指輪など」
広範囲の対象物を凍らせる魔法は護身に便利だ。イグナスは少し考えるように顔を傾けたが、次を促した。
紹介された可憐なピアスは、身につけている者の無事を確認できる加護魔法の魔導具。旅に出たり、嫁いでいく家族などに贈られる品だ。
「その品は保留としよう。ところでベル、あちらの棚が気になるのか?」
同僚が製作した魔導具が展示されている棚で、イザベルは思いがけないモノを見つけてしまい驚いていた。顔には出ていなかったはずだけどとためらっていると、イグナスは店員に合図をしてその品を手に取った。
「首飾り……? にしては鎖がずいぶんと短い。だが腕輪にしては長すぎないか」
「おっしゃる通りでございます。こちらは女性の足首を飾るアンクレットでして」
「ほう、足枷か」
ーーいえいえ、違いますわ! ネックレスを目指したんですけど、材料の都合で…………
製作者としてイザベルは大いに心の中で主張した。だが店員の説明に異を立てる気はない。黙ってイグナスの手中にある華麗な蔓薔薇を模した魔導具を見つめた。
これは宮廷魔道士であるイザベルが試作したものだ。チェーン部分の魔鉱石の調達が間に合わず、そのまま提出したら、評価はされたが王宮では無用となった。
理由は簡単。貴族女性が身につけるドレスは丈が長い。……つまり素足を飾るアンクレットは主に懇意にしている恋人や愛人、娼館の美姫に贈る品として認識されている。
「魔導具としても、宝飾品としても、特級の品でございます。姿気配を消す特殊魔法が付与された魔導具は当店でもこの一点のみ。宮廷魔道士の手によるものでございます」
「上級魔法だな。この手の宝飾品の付与としては、いかがと思うが」
ネックレスを制作したときは、実用的な宝飾品を目指した。夜会などで面倒な相手を避けるのに有効と思えたのだ。そのため装飾デザインにもこだわって、花びら一枚一枚に魔石を使用してある。
けれどもイグナスのいう通りアンクレットを贈った女性の姿が見えなくなるのは、下心ありの贈り主にとって意味がないに違いない。
「これと、ピアスの二点をもらおう」
だから続けて聞こえたイグナスの言葉に驚いた。
このアンクレットとーーそれにピアスまで? 法外な値段の宝飾魔導具を二つも!
驚きを隠して瞬いただけで表情を変えなかったイザベルだが、ピアスを手に持ったイグナスが「つけてやる」と屈んできて、さすがに唖然とした。内心でオタオタするうちに耳にピアスを嵌められ、耳たぶにフッと息をかけられる。顔が熱い。
「お戯れは程々になさってください。それに、このような高価なもの。いただけませんわ」
材料費だけでも目を見張る原価だ。
さり気なくはずそうとしたが、素早く手を遮られた。さらに腰を抱え込まれる。
「私からの贈り物を受け取らない気か? じっとしていろ」
ーー耳のそばで囁かないで。平静を保つのにも限界が……
「遠慮させていただき……」と抗議してもお構いなし。ピアスの魔法を起動する呪文を唱えるイグナスの低い声が柔らかな耳たぶに注がれる。
「……これで良い」
「ぁ、ありがとうございます。大切にしますわ」
「では、次の店に行くぞ」
「え、まだある……のですか?」
相当な額を散財したばかりで呆然とする腕を、イグナスが柔らかく掴んだ。
「なんだ? 今ここで足枷をつけて欲しいか?」
なんてことを⁉︎ それもこんな人前でーー!
ピアスのやりとりを微笑ましく見ていた人々が、ぎょっと目を見張った。
あからさまな言葉を吐いた大蛇に、さすがのイザベルも唇を噛む。
相変わらずのデリカシーのなさっ! 魔獣だから外聞など関係なくとも、イザベルはそうは行かない。
心持ちまつ毛を伏せただけで姿勢を正し店を出たものの、恥ずかしさでいっぱいだ。
もう二度とこの店には来れない……さいわい知っている顔は、店内になかったが。店員には顔を覚えられてしまっただろう。
「どの店だ?」
「え? あの……」
気がつけば、先ほど馬車から眺めていた賑やかなカフェ通りにきていた。
イザベルはイグナスの質問の意味を測りかねて、僅かに首を傾げる。
「先ほど目をつけた店があっただろう。どれだ?」
驚いた。どうしてわかったのだろう。
「……あちらの店が気になったのですけど。まさかイグナス様もご一緒に?」
視線を向けたのは大通りでも一際目立つ飲食店だ。休日の今日は、列ができるほど非常に混んでいる。
「私が同行しては、不都合だと?」
「いえ。ですが……本当によろしいんですね?」
「無論だ」
木の看板にピンクの可愛らしい文字でカフェと書かれた店はスイーツの有名どころで、店内は盛況だ。惹かれるものの、一人では気後れしてイザベルは入ったことがない。
「……ずいぶんと、大盛りだな」
思い切って名物メニューを注文したら、運ばれてきた盛り付けの大きさにイグナスは驚いたようだ。
これなら、さり気なく誘ってもいいだろうか……? さっきからイザベルの心臓はドキドキしっぱなしだ。
「……もしよければ、手伝っていただけますか? スプーンも二つありますわ」
「よかろう」
ためらいなく手にしたイグナスに、イザベルは内心で有頂天になった。
お一人様では注文できない名物のカップルメニューを味わえる日が来るなんて思いもしなかった。……それもイグナスと一緒に。
店内に入るなり、顔もよく見えないのにイグナスに視線が集まったが、食べるのに邪魔だとフードを外した途端、人々が息をのんだ。それもそのはず、明るい店内で見たイグナスの容姿は惚れ惚れするほど麗しくイザベルも一瞬見惚れた。だがすぐ我に返る。
昨夜、肌に浮かんで見えた金の斑紋模様は記憶よりずっと薄らいで見える。向かい席のイザベルが注意深く見てやっと気づく程度だ。これなら、イグナスの正体が大蛇だとバレないだろう。
ーーパク。一口食べてその甘さに頬が緩みそうになる。幸せに心が震えた。
周りはカップルだらけなのに、イグナスが堂々と振る舞ってくれるのも嬉しい。いつまでも、こうしていられたらーーーー……
「大丈夫……ですの? その、魔法はいつまで……?」
二人で器をつつきながら、聞き耳を立てている周りに気取られないよう小声だ。なんだか内緒話をしているみたいでくすぐったい。
「……まだ保つ。大丈夫だ」
返事の前に少し間があった。だから、それほど余裕があるわけではないと察した。よく見れば額に脂汗のようなものが浮かび、前髪が少し湿ってきている。
これはいけない。
いきなり、勢いよくスプーンを口に運び出したイザベルを見て、イグナスはクククと面白そうに笑った。
「そんなに焦らなくとも良い」
「ですが……」
こんなところで魔法が解けたら大騒ぎになる。反論しかけたイザベルは、突然伸びてきた手に口の端を拭われて目尻をほんのり桃色に染めた。
ーーは、恥ずかしいわ……クリームがついていたのに、まったく気づかなかった。
「先ほどのピアスとアンクレットだがな、決して外すな。これからはずっと身につけていろ」
「あ、ありがとうございます」
「いいか、己の身の安全を必ず優先しろ。囲まれる前に身を隠せ」
「……はい」
ふっと目元を緩めたイグナスは、指についたクリームをそのまま口に含んだ。
「やはり甘いな」
ドッキン。
美味だと味わう何気ない仕草に、イザベルの鼓動は乱れる。
ーーもしかして、あんなに大枚を叩いたのはーー私の体質のためーー……?
どういう顔をしたらいいのか分からなくて、俯いた顎をイグナスがクイっと持ち上げた。
「コツを掴んだせいか、もう少し長くこの姿でいられる。だがそんな顔をされると……」
頬をなぞった手が、意味ありげに鎖骨を撫で上げた。「ここを出るぞ」の短い一言に、イザベルは黙って頷いた。
「あっ、んあっ」
うなじにチリっとした痛みが走る。甘噛みされて小さく震える身体をイグナスは膝上で抱え直した。馬車の狭い空間に、二人の吐く熱い吐息がこもる。
膝立ちのイザベルの白い下着をずらしたイグナスは、濡れた指先を舐めている。
「もうトロトロだな。……昨日の今日でまだ痛むだろうが、許せ。挿入れるぞ」
噛まれた肌はズキズキするし、早急なキスも愛撫も強引すぎる。そう思うのに、低い美声で「可愛いベル、おいで」」と囁かれるとイザベルは無意識にその首に手を回した。
ーー陽だまりの匂いがするーーイグナスの香りだ。
馬車に乗り込むなり、強引に足枷を嵌められそのまま足の間を弄られても、嫌いになれない。イザベルは太ももを開いてさらに身体を密着させた。
向かい合って腰を支える大きな手にいったん身体を持ち上げられ、次の瞬間グッと押さえつけられる。にちゅと濡れた音がして、雄々しくいきり勃つイグナスがイザベルの中に侵入してきた。
「はぅっ、ぁああーーっ」
ゆっくり突き進んでくるーーイグナスが身体の中まで……
苦しいほどの圧迫感と鈍い痛み。身を包む温かさに心は満たされるが、同時に繋がった箇所から魔力が奪われていく。クラっとする酩酊感にイザベルは夢中でイグナスにしがみついた。深く考える余裕などない。身体が勝手に動いた。
イグナスはまだ狭い膣中に己を馴染ませるように逞しい腰を回しつつ、徐々に納め切った。
「熱いな……腰が溶ける……堪らん……」
ああーーそう、この感じ……イグナスと溶け合うこの瞬間は、たまらなく幸せだ。好きな相手と繋がる一体感で心が震える。
痛みがないわけじゃない。けど、荒い息を吐くイグナスの飢えを感じるだけで身体は滴るほど濡れてくる。まだ少し残る疼痛も圧倒的な充実感ですぐに上書きされた。
「ふぅん、あっ、っんん~~」
「蕩けそうな顔をして……私とするのはそんなに気持ちイイか?」
こくりと頷くと「私もだ」と抱きしめられ、キュウんと胸が締め付けられるような切なさで目尻までもが濡れてくる。
イザベルの身体を堪能するように数回ゆっくり突き上げた後、イグナスは急にペースを上げて激しく攻め立ててきた。
「っっあ、ぁっ、あっ、んっ、ああっ」
「くぅ、そんなに咥え込むな。こうされるのが好きだな……」
子宮口に突き刺さる刺激に脳天まで快感が突き抜けてビクビクと痙攣する。
「んぅ~~あぁ……深ぃ…………」
腰の奥が熱くて……甘い痺れが止まらなくて……
持ち上げられて熱く滾った屹立の上に落とされると、自然と蜜に塗れた花芽を擦られる。いっきに穿たれる刺激に甘い電流が走った。快感を覚え始めたばかりの身体は、ゾクゾクと打ち震える。
……いつのまにか……出発したはずの馬車は、静かな木立の影に停まっていた。
ーーどうしてこんなところで? 馬のいななきや車輪の音でギリギリ細いよがり声を誤魔化せていたのに。
イグナスの膝上に跨がる格好で硬い屹立に身体を刺し貫かれたまま、イザベルは手で口を押さえた。御者に聞こえないはずがない。
これ以上声を出したら、絶対に聞かれてしまう……けど、指の間からは抑えきれない嗚咽がどうしても漏れる。
「……ん、ふ……んぅ……っ」
「……声を聴かせろ。思う存分啼くがよい……」
かすれた声ですごく不埒なことを囁かれたのに、喜んでしまう自分がいる。誰にいつ見咎められるかもしれない馬車の中で強引にされて、あまりにもはしたないのに逆らう気もない。
イザベルは目を閉じた。
「こんな……ところで………見られた、ら……っぁあんっ、ああっ」
「嫌ではないと、ベルの身体は言っている……」
ぐちゅっと淫らに腰を回され、「そうだろう?」と顔を引き寄せられた。
有無を言わさず唇が塞がれる。
「……ん、んぅっ……う……っ……」
どうしてこんなにーー心まで震えるの……
”好き”が溢れるイザベルの艶めかしい喘ぎを、蠢く舌が奪っていく。
愛おしさも、乱れる呼吸も垂れる唾液も、吐息さえ切ない。
唇を離さず「ベル」とイグナスはさらに激しく穿ってきた。二人が繋がる水音がよりじゅぶじゅぶと大きく響き、さらに体積を増した屹立に攻め立てられ世界が揺れる。
擦れ合う肌や柔らかく溶けた身体、強烈な突き上げも何もかもが熱い。
ずっとこうして私を離さないでーーーーーー……
トロける愉悦やら、背徳感やら劣情やらごっちゃ混ぜで朦朧としつつも、この温もりを失くしたくない。
イザベルの中で切なさと愛しさが溢れ落ちた瞬間、力強い突き上げで脳天まで痺れて大きく仰け反った。
「あぁぁっーー……!」
きゅうぅと膣中が収縮してイグナスを締め付ける。熱い屹立が脈動した。
「っ……」
お願い! 中にーーーー……
きつく目を閉じた途端、勢いよく腰が引かれた。ドレスに烈しい奔流が放たれると、鋭いトゲが胸に刺さったがそれを全身で抑え込む。動揺しているなんて、絶対に知られたくない。
激しい息遣いのイグナスは自身と熱く濡れる生地を握り込んでいる。
……気を失いそうな息苦しさも、溢れそうになる涙も気のせいだから。
大蛇の姿に戻っていくイグナスにもたれかかったまま、イザベルは気づかれぬようそっと目尻を拭った。
今回も繋がってから、多量の魔力を奪われた。イグナスの冷たい蛇皮にぐったり寄りかかったまま、馬車が動き出すとイザベルはついウトウトしはじめた。
その夜。
イグナスは夕食の後に書斎に閉じこもってしまい、イザベルは寝室で魔導書を読んでいた。
一人は慣れているのに、なんだか落ち着かない。昨夜も昼もイグナスと身体を重ねたから、ゆっくりできる今夜はホッとしていいはずなのに。
ーーどうして胸が……ざわつくのかしら?
こんな夜は月明かりに煌々と照らされた暗い庭をぶらつくのもいいかもしれない。
知り尽くした庭園は、夜でも十分魅力的だ。
イザベルが暗闇にも迷わずくねくねと続く小道を歩いていくと、やがて根が張った大木にたどり着く。誘うように大きく枝を広げた大木は、いつ見ても奇妙な形をしている。別名悪魔の木とも呼ばれるだけあって夜はさらに不気味さが増す大木の根元に座り込んだイザベルは、月夜に浮かび上がったねじれた幹のシルエットを見上げた。
ーーイグナスは今、何をしているの?
街から帰っても、ずっと忙しそう。珍しく食事もそこそこに執事の耳打ちで書斎に下がってしまったので、ロクに会話もできなかった。買ってもらった贈り物にどれだけ感謝しているかも、きちんと伝えきれていない気がする。
気落ちしたイザベルが足首の可憐なつるバラの魔道具をいじっていると、パタンとどこかで窓が開く音がした。びくっと肩を震わせた拍子に、思わずアンクレットを発動させてしまい、奇妙に周りが静まった。イザベルの気配がたちまち消える。
すると、風に乗って微かに声が聞こえてきた。
「……風の精霊よ……」
いけないことだと知りながらも好奇心でつい呪文を唱えると、よりはっきり話し声が聞こえる。大した思惑があったわけではないけど……風魔法が前より上手く使えている気がする。
「閣下、それはまことですか……」
「ああ、だが心配には及ばない。……の計画は頓挫したと……」
「……この拠点は今の所、安全と見て……」
会話は途切れ途切れで、すべては聞き取れない。でも声の主の一人は間違いなくイグナス。それにもう一人も、ごく最近聞いた声だ。
ーーあ、今朝紹介された御者な気がするわ…………
そう思いついた時には、パタンと窓が閉められた。パタパタと飛び去る鳥の気配が遠ざかっていく。
なんだったのだろう、今の会話は……?
今朝になって馬車と御者を雇ったとイグナスから聞かされて、イザベルはただ頷いた。
けど。今は胸が苦しいほどざわめいている。
ーーまさか……そんなはず…………
いくら否定しても、一度浮かんだ考えはイザベルの頭に頑固にこびり付いて容易に消えない。ますます目が冴えてしまって、これでは眠れそうにない。
気を紛らわせるために庭に出てきたはずなのに、先ほどよりさらに重いため息をついたイザベルは、長い間大木の根元で頭を膝につけたままじっと動かなかった。
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