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月夜に揺れる心

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淡い色合いの花々が咲き乱れるこの頃。
ここ、緑の王国ナデールでは明るい月夜を楽しむ季節の訪れに、あちこちで花祭りが開催されはじめた。
いよいよ、賑やかな社交シーズンの幕開けである。
舞踏会が間近に迫る王城では毎年この時期はその準備に大忙し、人々の話題ももっぱらそれにつきる。のだが。ーー今年は珍しく、さる話題も頻繁に噂されていた。
久しぶりに予定が合ったリリアと友人たちも、例外ではない。
城の中庭で相変わらず、仲良く昼食を共にしていると……

「リリア、先日の騒ぎ聞いたわよ~。港で、大活躍だったんですってね」

タスミンの言葉にリリアは思わず、食べかけだった黒パンをごくんと喉に流し込んだ。
薬草園と自宅王城を行ったり来たり、ある意味隔離された環境にいるせいかリリアはどちらかというとゴシップにうとい。だがさすがに、この話題は自分に関することなので耳に入っている。
昼食が喉に詰まりそうになったところへ、ザビアからもサクッとコメントが入った。

「僕も埠頭整備の視察でーー、港に寄ったんだよねえ、あの日は。いやあ、リリアって、見かけによらず怒らせると怖いんだねえ……」

のんびり口調でちまたのご意見と同調したザビアに、ギルも噂の真相を確かめようと弾んだ声を上げた。

「僕はーー、海軍の船で海上だったから……、人づてにしか知らないんだけど。ーー僕らが追っていた賊もそうだけど、あちこちで出没していた海賊の元締め大ボスを、半泣きにさせたって本当かい?」

興味津々の友人たちに、リリアはため息をついて答えた。

「あれはーーあの男の自業自得だと思うわ。だって、海軍の目を逃れて一人だけ逃げてきたのよ。挙句に、遭難者だと勇んで助け上げた警備を人質に取るなんて……卑劣にもほどがあるわ」

その日、海賊に襲われた人たちの治癒に当たっていたリリアは、たまたまその場に居合わせた。
そしてレディーらしくドレスの裾を持ち上げつつ、「少し離れていて下さいね」と、仲間を人質に取られ動けない警備の前に何気なく出たのだ。
ーー次の瞬間、海賊一人がその場から天高く空へと吹き飛んだ。
水魔法の噴水で突きつけていた武器も呆気なく落とされ、人々をおびやかしていた得意の火魔法もねじ伏せられ、「うわあ」と男のあげた悲鳴が辺りに響きわたった。が、それがやがて鼻水だらけの泣き声になっても、リリアは水魔法で男を吹き上げてはいきなり自由落下させる荒業を繰り返したのだ。
そうはもう、半泣きどころか男が全泣きでやめてくれと叫んでも容赦せず、今までの悪行を悔い改め洗いざらい白状するまで。……日が暮れる頃には屈強な男の頭髪は真っ白になり、抜け毛も薄~い頭となった。
こうして、捕まえても滅ぼしても湧いてでた海賊は、その大ボスがあっさりお縄になると途端に弱体化して息絶えた。神出鬼没だった各国の海賊のアジトも芋づる式に一掃され、海に平和が戻ってきたのはつい最近のことだ。

幸か不幸かこの騒ぎがあったデルタ港には、当時、外国籍の商船がたくさん停泊していた。
海賊がのさばった原因はそもそも、南大陸の貿易大国ナジールで起こった国内紛争で、ナジールの海上警備に空いた大きな穴であった。そのため、海賊の大ボス捕獲は各国にとって喜ばしい朗報となり、安全なデルタ港に逃げ込んでいた商船は嬉々として貿易を再開した。
おかげで、『ナデール王国にはスゴい宮廷魔道士がいる。その実力は半端でない』との評判が、瞬く間に諸国に広まってしまったのだ。
ーーどうスゴいのかは、図らずしも話に尾ひれはひれがついて、微妙に定かでないのだが……
この件の後、ミルバのところへ届く魔導士リリアへの招待状の数がグッと減った。いちいち断りを直筆で書く手間が大いにはぶけ、リリアは大変助かっている。

「何にしても、これでやっと舞踏会の招待客を安心して迎えられるのよ。リリアのおかげで!」

事務官であるタスミンは、同僚の外交事務官たちの悩みのタネがなくなり、とても嬉しそうだ。

「そうだよね。何と言っても今年は、近隣諸国の姫君たちも招待されてるんだよね。ジェイディーン殿下の花嫁選びも兼ねてるって、噂が飛び交ってるよ」

ザビアはどこか憧れを帯びた様子だ。

「そうよお、元老院の皆様はそれはもう張り切ってるんだから。今年こそ、あの殿下も落ち着かれるじゃないかって!」
「う~ん、殿下は軍人気質の方だし。花嫁になる姫君って、どんな方だろう? いつもお堅いオズワイルド卿とつるんでらっしゃるからなあ……。そもそも、どんな女性がお好みなのかが謎だよ」

今をときめくうるわしのジェイディーン殿下の花嫁選びとあって、皆が盛り上がる中、リリアだけはいやに物静かだった。一見ぼんやりといった感じで、目を伏せている。
ーーだが、リリアの心の中は、今知った事実でひっくり返っていたのである。

(っ嘘……! そんな事、ジェイドは一言も……)

昨夜も二人は情熱的に愛を交わした。今朝も一緒のベッドで目覚め、行ってきますのキスまでされた。
王城に越してきてからも相変わらずジェイドは、毎夜、しかも堂々と通ってくる。
「ただいま、リリア」そう言っては居間でひと時を過ごし、ベッドを共にする。モリンが給仕する前でも抱き込んでくるジェイドに、リリアも照れはするが素直にされるままだ。
おかげで、その存在にすっかり慣れたモリンはおろか、王家のメイド達までジェイドの朝食をわざわざリリアの居住で用意してくれるようになっていた。
されども、ジェイドが王家一家団欒の晩餐へは欠かさず出席するせいか、二人の親密さは驚くほど他に気づかれていなかった。これだけあからさまに入り浸っていてもジェイドの素行は口の固いメイド達によって守られ、彼女達のみが知るところであったのだ。

ーーそのジェイドが、他国から花嫁を迎えるなんてーー!

リリアの伏せた目蓋まぶたに、昨夜のやりとりが思い浮かんでくる。髪に触れたり軽いキスをしてくるジェイドは、他の女性と結婚する素振りなどまったく見せなかった。
居間のソファーでリリアの髪に指を絡め、『俺の妖精は、いつも美しいな』と低く囁いてくる声。
髪先にキスをされーー照れたピンクの頬をそっとなぞられるとリリアの背中が、ぞくっと震えた。

『ジェイド……あの、ありがとう。よかったらこれ、どうぞ。今日はベリーの実を入れてみたの』

この頃手作りに挑戦しているジェイドの好きな焼き菓子を、紅茶と共に勧めてみた。
なのに。二人でほのぼの会話を交わす毎日が、すっかり日常になってきたというのにーー……

「ねね、リリアはどう思う? ジェイディーン殿下のあの宝石のような容姿には、美人だと評判のレオニー姫じゃない?」

タスミンの呼びかけで現実に戻ったリリアは、容姿に定評のある隣国の姫の名を出され一瞬めまいと吐き気を覚えた。信じられないと、途端に気分が悪くなる。

「え~、いくら美人でもレオニー姫は、気性の激しい方だそうじゃないか。それよりも、ミランダ姫は優しい方だと聞き及んでいるよ……」

ザビアの言葉に、ギルはとんでもないと頭を振る。

「殿下は、軍の先頭で我に続けと士気を鼓舞する気性の方だよ。ミランダ姫は芸術に傾倒されておられるそうだし、きっと合わないよ。……それより、闘技観戦がお好きだというキリカ姫はどうだろう?」
「っキリカ姫は! 闘技を面白くさせるために、召喚獣をけしかけるそうじゃない! 」

思わず声を荒げたリリアは、上げた声の大きさに自分でびっくりしてしまった。

(あ……私ったら、つい……)

怪我をした人の治癒などに心を尽くすリリアは、わざわざ怪我の原因を作るような気性の姫の名を挙げられるとさすがに黙っていられなかった。ーーそれでなくとも、ジェイドが花嫁を迎えるなど……想像しただけで吐き気を催すほど受け入れがたい事実なのに。
それまで物静かだったリリアの一転した激しい反応に、友人たちは目を見開いている。
だがすぐ、タスミンが賛同の声を上げた。

「そうよね! それもハリネズミの魔獣なんでしょう? そんなことをなさる姫をこの王国に迎えるなんて、ちょっと考えちゃうわよ」
「あ~、そうだねえ、確かに平和主義のナデールには向いてないかも」
「……まあ、確かに、僕もそんな姫にお仕えしたくはないな」

ーー結局、皆リリアに呼応して、なるほどこれは難しい問題だと笑っている。

「リリア、どうしたの……? 何だか顔色がすぐれないけど」

だがさすがにタスミンには、いつもと違う様子に気づかれた。

「あの……このじゃがイモがーー、半煮えだったの」

とっさに手に持った器に目を落とすと、「ああ、それは不味いわ~」と同情顔だ。

「私、サラダと取り替えてもらってくるわ。遅くなるかもしれないから、気にしないで仕事に戻ってね」

リリアが気分悪そうに立ち上がったところに、事務官の一人が近づいてきた。同僚であるタスミンや友人たちにも、「失礼します、お食事中に」と軽く礼をしてくる。

「リリア殿、至急、緑の謁見の間にお越し願いたいとのことです」
「……はい、ただいま参ります」

快く手を振って見送ってくれる友人たちを後に、リリアは指定された場所へと足早に向かった。
体調不良などと言っている場合ではない。緑の謁見の間……そこは主に外国の使節などを迎える場だ。

「ナデール王国宮廷魔導士、リリア殿のお越しです」

警備のアナウンスと共に会釈をして場に足を踏み入れたリリアは、目を見張った。陛下と謁見中の男性には見覚えがある。

「占者様、お久しぶりです」
「まあ、貴方は……」

ナジールの服装を身に付け、こちらに向かってニッコリ笑った人は、レッドの忠臣の一人だ。名前は確か……

「ヨダン殿、よくご無事で」

リリアの顔がみるみるほころんだ。使節団の代表者として陛下にお目にかかっているということは、ナジールの内戦はナハル王子に有利な戦局に好転したに違いない。

「リリアンヌ、こちらナジールの使者の方がね、どうしても貴女に会ってお礼を述べたいとおっしゃって」
「それは光栄ですわ。お久しぶりですね」

かいつまんだ説明で、ナハル王子が政権を奪回したことを知ったリリアは、丁寧にお祝いの言葉を述べた。ヨダンもニコニコ機嫌よく片膝をついて敬意を払ってくれる。

「我が海軍も元通りで、巡航が再開されました。そこで海上安全の確認も兼ねまして、直行で参りました。ーーそれでもナジールを発ってから、随分と日が過ぎてしまいましたが」

ナハル王子たっての希望で、友好国ナデールに早々に使者を送ってきたのだそうだ。

「リリア様にはくれぐれも宜しくとの、伝言を預かって参りました」

ヨダンの言葉で懐かしい顔ぶれが頭に浮かんだ。その時、ドレスのポケットあたりがほんわり温かみを帯び、不思議に思ったリリアはそこから水鏡を取り出す。と、何かが鏡に写っている。覗き込もうとした途端、鏡の映像が空中に映し出された。
暗い神殿らしき場所に、崩れかけた柱。見たこともない遺跡で誰かの手に握られた小さな箱。
それが大きく映し出されると、リリアを含むその場の何人かは一斉に息を呑んだ。

(ボムだわっ!)

「誰だっ、そこにいるのは?」

音声はなくとも、知らない男性の口から吐き出された言葉は分かった。続いて、何かを追いかける影。
するといきなり場面が変わった。ナハル王子とレッド、それに後ろに控えるジャニスが何かを話し込んでいる。と、ジャニスがこちらに気づいたように、真っ直ぐリリアを見つめてきた。

「緑の方、助けてください!」

はっきりリリアを呼んだ口の動き。
プツっと消えた映像のせいで、しばらく静寂が謁見の間を支配した。

「ーー今のは、一体……⁉︎」

大きく目を見開いた女王がようやく、一言発する。

「リリアンヌの魔法ですかっ?」
「占者様、ナジールの神殿で何かあったのですかっ!」

ヨダンは血相を変えて聞いてきた。映った場所に覚えがあったらしい。
こんなことは初めてだったが、なんとなく水鏡の意味は分かった。

「ーーこれは推測ですが、何らかの異変がナジールで生じているようです。私の水鏡は実際に起こっていることを、映し出す魔導具なのです。たとえそれがどんなに、離れている場所であろうと」

こうしてはいられない。一刻も早くナジールに向かわないと。
ーーナデール王国で起きた悲劇の歴史が、また繰り返されてしまうかもしれない!

「っ陛下、どうか私を、ナデール王国宮廷魔導士として、ナジール王国に派遣していただきとうございますっ」
「もちろんです、リリアンヌ。……こちらこそ、また貴女に苦労をかけてしまいますね」

リリアの言葉に女王は力強く頷いた。

「使者殿、友好国として我が王国からこのリリアンヌを貴国に派遣することを、承諾いただけますか? 先ほど見えたものがボムであるなら、事態は一刻の猶予もなりません」

ただちにその場で話し合いが行われるのを見て、リリアは急いで住居に戻った。モリンに留守を頼むと、採集袋にポーションを放り込み謁見の間にとって返す。

「陛下、それでは行って参ります」

女王陛下やミルバなどへの挨拶を終えると、ヨダンに魔導士ローブをしっかり握らせた。魔導具であるローブは媒介になる。度重なる港への移動で、分かったことだ。

「準備はよろしいですか? 決してローブを離さないでください。では、行きましょう」

目標地はナジール、かの地で世話になった商人の屋敷だ。久々の長距離転移に地図をしっかり頭に浮かべ、『転移』と叫んだリリアの声が謁見の間に響き渡った。
同時に、バタンと扉が開いてジェイドの姿が飛び込んでくる。
ーーその姿を見た途端、剣先で身を切られたような鋭い痛みを感じた。

だがチラッと見えたその姿は、すぐに視界から消え去る。歪んだ景色は一瞬で、見覚えのある商人の家になった。

「占者様~! どうなりましたか~っ?」

ヨダンは目をつむったままローブを離すものかと両手で握り締め、大声を出している。
我に帰ったリリアは、切ない想いを振り切った。
余計なことを考えている暇はない。今は己の使命をしっかり果たさなければ。
ブルブル震えるほど布を固く握りしめている男に、無事到着したと静かに告げる。と、目を恐る恐る開いたヨダンはその場で腰を抜かしてしまった。

「占者様っ?、それにヨダンさん! これはこれは突然のお越しでーー」
「すまんっ、説明している暇がない! ちょっと手を貸してくれ~」

驚いて走ってくる商人の手を借り、ようやく立ち上がると、よろめきながらも迷宮のような屋内を案内してくれる。通りに出ると、走り寄ってきた馬車がまさに目の前で止まるところだった。

「おう、ヨダン! 久しぶり。それに占者様も、お元気そうで何よりですな!」

タイミングよく陽気な声が二人を迎えた。

「レッドさん!」

馬車の御者はなんと、髭自慢のレッドだった。

「お~、占者様は相変わらずべっぴんさんだな。うちの若はホント、目が肥えてるよ」

「乗った乗った」と髭面のレッドに馬車に乗せられ、かつて雨を降らせた広場を堂々と横切る。以前、やりを向けてきた兵士達は、一斉に気をつけの姿勢で橋を渡る馬車を見送っていた。
なんという様変わりだろう。平和が戻ったナジッタの街は、以前にもまして活気溢れている。

「レッドさん、今日はまた催し物でもあるのですか?」

以前訪れた際は、ナハル王子の処刑を阻止する目的で、市民が計画的に祭りを装ったと聞いていた。が、今日は以前よりもっと人が溢れている。

「ああ、砂漠に避難していた遊牧民族が、続々戻ってきてるからなあ、今は特に人が多いんだよ」

ジャニスの助言で迎えにきたというレッドは、軍の最高司令官職に着いているはず。なのに、さまになるほど馬車の扱いに長けていた。

「俺も遊牧民出なんだけどよ。軍に入ってからはなんでか、あっという間に出世しちまったからなあ」
「何を言ってるんです。レッド様は遊牧民族代表の一族出身なんですから、軍をまとめるには適任ですよ」

内陸が砂漠のナジール王国は、戦闘力の高い遊牧民族をまとめあげるレッドを将軍としたのだ。今でもふらり砂漠に出かけるというレッドは、風来坊気質でナジールの海域や砂漠の利を知り尽くしている。
リリアが感心していると、宮殿の扉が中から大きく開き、少女が飛び出してきた。

「緑の方! 来て下さったのですねっ、ありがとうございます!」

ジャニスは頬を高揚させ、リリアの手を握った。

「リリア殿、ようこそ再びナジールへ」

続いて出てきた男性に、リリアは目を見張った。ボムに気を取られ、水鏡に映った姿にはそれほど注意を払っていなかったのだ。
ーー水色の眸の少年はたった数ヶ月ですっかり見違え、少年というよりは青年と呼べる容貌に変わっていた。伸びた砂色の髪を後ろで一纏めに括り、上品に整った顔は男らしさが加わり信じられないくらいの成長ぶりだ。以前から大人びた目をする少年ではあったが……

「ナハル様、ジャニス、お久しぶりです」

挨拶をすると嬉しそうに水色の眸を輝かせる。ジャニスも背が少し伸びて……そんな二人の姿に、なんだか母性本能がくすぐられた。まるで我が子の成長を喜ぶ母親のように、二人の成長が心から誇らしい。
しかし再会を喜びながらも、リリアの心は本来の目的を忘れてはいなかった。
女王から言付かったお祝いの言葉や丁寧な挨拶をひとしきり交わすと顔を引き締めたリリアを見て、二人はこちらですと王宮の地下へと案内していった。

「兄の様子がおかしいことに、気づいたのは最近でした」

ナハルは、クーデターの形で政権を奪回した後、騒ぎを起こした腹違いの兄……ミハルを監禁していた。するとある日、ミハルの側近だった魔導士が、突然記憶喪失になった。ひどく衰弱して自分は旅の途中で、ナジールに来た覚えもミハルに会ったこともないなどと言いだしたそうだ。

「兄はずっと、魔導士を従者にした自分は、王だと主張していたのですが……」

監禁されてもミハルは、あれを所望するだのこれが気に入らないだのと我が儘放題だった。だが、その日からだんまりを決め込み、自分を知らない男だと主張する魔導士の様子にも無関心で、ついに見張りの隙をつき逃走したのだ。

「兄の捜索は難航しています。最後に目撃されたのが、この神殿なのです」

松明を灯し暗い階段を降りた地下は、しばらく歩くと意外にも明るい場所に出た。

「まあすごい、綺麗な水だわ……地下に、こんなところがあるのですね」

澄んだ青い泉の真ん中に祭壇があった。ドーム状の天井から陽が差し込む泉のほとりから、祭壇へと歩んだリリアは、水鏡が映し出した崩れかけの円柱を見つめる。

「……この祭壇は、いったい……?」

古代語が描かれた柱を見つめていると、既視感を覚える。

(この感覚はーー、前に見た古代遺跡と同じだわ……)

砂漠のど真ん中にあったジェイドと訪れた遺跡。結界が張られたあの場で感じた不思議な空気を、リリアは再び感じ取っていた。

「ナジッタは大きな街ですが、元は砂漠の巨大オアシスです。ナジール川と豊富な地下水とに人々の生活は支えられています。この祭壇は建国以前のもので、水の神、はたまた女神を祀ったものと色々説がありますが、一説には妖精の住む精霊国へ通じるのだとも」
「……我が王国にも、似た言い伝えの場所があります。ただそこは魔獣の縄張りなので、あくまで伝説ですが」

死の森の中心へは、リリアも訪れたことがない。魔獣の住処にわざわざ侵入するわけはなかった。

「太古の時代には、この辺りにも魔獣がうろついていたそうです。今は砂漠の辺鄙な場所に出没すると聞き及んでいますが」

それを聞いたリリアは、やはりあの古代遺跡の周りにも魔獣がうろついていたことを思い出した。だが、続くジャニスの声にすぐ我に返る。

「緑の方をお呼びしたのは、他でもありません。少し前に視えたのです。砂漠のどこかで若君が魔獣に襲われ、魔法の暴発のような事故に巻き込まれる予見が。そのことを相談していると、緑の方の気配を感じました。ですので、きっと緑の方が若君を救ってくれる、そう思ったのです」

きっと、水鏡で三人が視えた時のことだろう。

「その魔法の爆発は、ボムと呼ばれる魔導具で引き起こされるものです。呪文さえ唱えれば、誰でも操れる恐ろしい魔導具ですが……ナハル様は普段この王宮で実務を行なっていらっしゃるのですよね? だとしたら、今のお話の”砂漠”でというのが、気になるのですが」

話を聞いていたレッドが自慢の顎髭をさすりながら答えた。

「ついさっきな、砂漠の遊牧民からミハルらしき人物を砂漠で見かけた、と情報が入った。若はミハルの捜索には自分も行くと聞かなくてな」
「あんな兄でも、血を分けた兄弟なのです。このまま野放しにしておくわけには行きません。道楽に長けた兄ですが、遊牧民たちとの交流で砂漠の地理はレッドに劣りませんしね」

話の流れからすると、ジャニスの予言通りのことが近い将来に起こるだろう。ならば……

「わかりました。では私もその捜索に加わりましょう。私はボムへの対抗魔法が使えます。何より強力なシールドが張れますから、ナハル様をお守りするにはうってつけです」

リリアの申し出に一同は大変喜んだ。さっそく、ナハルの執務室へと移動し、地図で目撃情報の位置確認をする。

「あの、リリア殿。此度こたびは護衛のジェイド殿はご一緒ではないのですか?」

どことなく挑戦的な声音でナハルは聞いてきた。

「……緊急事態だったために、今回は案内役であるナジールの使者殿とご一緒させていただきました」
「そうだったんですかーー。では、一度お戻りになって、ジェイド殿をお連れしますか?」

その問いにリリアの胸が束の間苦しくなる。

「いえ、ことは急を要します。すでに捜索隊の出発用意も出来ているのですから、このまま行きましょう」

ジェイドの正体がナデール王国の王子である以上、呼びつけて護衛を頼むことなどできない。

「これでも自分の身ぐらいは守れますので、ご心配なく」
「……では、出発いたしましょう。あ、その前にジャニス、あれを……」

ナハルの言葉で、ジャニスは心得たとリリアを案内した。女官と共にナジールの民族衣装を取り出す。

「緑の方、ドレスでは非常に動きにくいと思われます。特に砂漠に入ると体調を崩しやすくなりますから、もしよかったらこちらの服にお着替えください」
「まあ、ありがとう!」

薄手の生地は肌にさらっとして心地よい。身軽に動ける衣装を身に付け、鏡の前でくるりと回ってみる。

「まあ、本当にお似合いですわ」

女官たちも感心したように頷いていたが、リリアが部屋を出て待ち合わせの王宮の広間に出向くと、そこで待っていたナハルは、ポウッと顔を赤らめた。

「……まさに、女神だ。リリア殿、まことよくお似合いです」
「いやあ、ホント占者殿は、我が国の民族衣装がしっくりきますなあ~」

目の保養だと、露骨に目尻が下がったレッドは、その場でわざわざ飛び上がったジャニスに頭をはたかれた。

「お父様! その情けない顔をどうにかして下さい。そんなだから母上に見捨てられるのよ!」

頭を抑えるレッド見て、手に持った魔導士のマントをリリアは颯爽と羽織った。
ナジール伝統の透けた服は涼しくて良いのだが、確かに露出度が高い。

「さあ、お待たせしました。出発しましょう」

こうして、砂漠の馬だという不思議な背中をした生き物に乗ったリリアは、一同と砂漠へと再び足を踏み入れることになった。




その日の夜。見慣れない生成り布の天幕を見つめていたリリアは、はあ~と何度目かのため息をついていた。
砂漠は陽が沈むと途端に肌寒くなる。けれども、魔道服を纏ったリリアは、夜がふけてもそれほど気温差を感じなかった。簡易ベッドに横たわったものの、気がつけば手はマントの内ポケットへと忍ばせた水鏡へ勝手に伸びている。

やっぱり、ジェイドの様子が知りたい……

気まぐれな水鏡が何を写すやらは、神のみぞ知るなのだが。まだ覗いてもいない鏡を、なぜか見ない方がいいと本能が囁いてきて、リリアはさっきから落ち着かない。だけどどうしても、気になるーー。
ついに、鏡を手に取った。
黒い鏡は昼間のような温かみはなく、すぐほのかに光を発する。一瞬後、そこには大勢の人が長い食卓を囲んだ風景が映った。
女王陛下の横にルイモンデ公が座っている。
これは……どうやら王城での晩餐会の様子らしい。見知った顔ぶれの中にジェイドを見つけたリリアの鼓動が、鈍い嫌な音を立てた。

キリッと胸に痛みを感じる。
ジェイドは、若い女性に周りを囲まれていた。
姫君らしい隣の席の女性が、にこやかにジェイドに笑いかけている。慇懃な様子で言葉をかえすジェイドを見て、リリアは鏡を取り落としそうになった。
目尻に涙が溜まってくる。ほんともう泣いてしまいそう。

ジェイドのことは信じている。
ーーだけど、彼は王国の王子で、責務を負っていることも分かっているのだ。
横になってじっとしていることに耐えられず、リリアはそっと寝床を抜け出した。
すやすや寝ているジャニスを起こさないよう、抜き足差し足で天幕の外へと向かう。

(ーーぁ、大きな半月だわ……)

濃紺の夜空に下弦の月が見事に浮かんでいる。銀色に輝く月明かりの下、天幕の群れを見下ろす少し離れた砂丘にリリアはちょこんと座った。

ナデールの王城舞踏会は三日後である。
今のところミハルの捜索は順調で、リリア達はその足跡を辿って一つのオアシスへと向かっていた。レッドの一族が住むというその街には明日には到着する。ボムのことも気になるが、ジャニスによると視えた未来は砂漠であったというから、オアシスで何か起こる心配はそれほどしていない。

月をぼんやり眺めていると、静かな声で名前を呼ばれていることにやっと気づいた。

「リリア殿……どうしたのです? こんな夜中に……?」

水色の眸がこちらに向かってきて、心配そうに見てくる。

「……どうして、泣いておられるのです……?」
「ぁ……私、泣いていたのですね。ちっとも気づきませんでした……」

ぼんやりしたリリアは、ナハルの言葉でようやく、たまった涙のしずくが頬から流れ落ちる感覚に気づいた。

「ご自分で、気付かれてなかった……のですか」

囚われた心のせいで自分自身どころか、周りにもいっさい注意を払っていなかったらしい。

「ふふ、お恥ずかしいところをお見せしてしまいました。あまりにも月が綺麗で、つい見とれてしまって……」

情けなく笑ったリリアに近づくのを躊躇ためらうように、ナハルは少し距離を置いて砂の上に座った。水色の眸が問いかけてくる。

「ジェイド殿と……何かあったのですか?」
「……いえ、あの、あったのですけど。ーーそれより、何もないことに気づいてしまって、落ち込んだと言いますか……」

複雑な乙女心を言葉にするのは難しかった。

「……リリア殿は、ジェイド殿がお好きなのですね」
「……はい、大好きです」

ーー心を寄せてくれる少年に、嘘などつきたくない。

「いいのです、お気遣い無用です。私はリリア殿が好きですが、その、なんと言いますか、お二人はお似合いだと思いますし」

視線を一旦落としたナハルは、もう一度こちらを真剣に見つめてくる。

「変に思われるかも知れませんが、ジェイド殿を想うリリア殿も好きです。男として、まだまだ追いつけないというのは悔しいですが、諦めようとは思いません」
「え? あの、ですが……私は、ジェイドのことが大好きなので、ナハル様のお気持ちに応えることはできません。ーーこの先もずっと」

自分の想いが誰に向かっているかは、リリアもハッキリさせておきたかった。ナハルは気持ちを告げてくれたのだから、期待を持たせるようなことはしたくない。

「それでいいです。リリア殿はお好きなだけジェイド殿を想えばいい。そんな貴女も素敵です」
「……私は、思ったより欲張りな自分に気づいてしまいましたわ。とてもナハル様のようには、振る舞えません。これでいいと思っていたはずなのに、私だけのものにしたくなったのです。私だけを見て欲しい、だからもっと確かな絆で結ばれたい……とさえ」

ため息をついたリリアに、ナハルは少し笑った。

「私はさらに上の欲張りですよ。リリア殿が隙を見せたら、他の男を好きでもさらってしまおうと、虎視淡々と狙っているのですから。ですので、ジェイド殿とダメになったら、ぜひご一報ください。お待ちしております」

首を傾げて真面目な顔で告げてくるので、リリアはつい笑ってしまった。

「お笑いなるのですね。私は真剣に申し上げているのですよ。リリア殿がジェイド殿の心を射止めようと奮戦なさっている間に、どんどん男をあげるつもりです。ですので、思いっきりあがいてくださると、私にはとても都合が良いのですが」

なんとなくだが、この少年はジェイドの正体に気づいているのではないだろうか、そう思えた。

「……そうですね、分かりましたわ。私、存分にあがいてみようと思います」
「それでこそ、リリア殿です。ひいては、その結果が芳しくないようでしたら、優しく慰めた私のことを思い出してくださいね。準備万端で待機しております」
「ふふ、その準備が無駄になるように、私も努力してみますわ」

リリアは嬉しくなって、優しいナハルと握手を交わした。砂色の髪の青年はいつか、この美しい砂漠の立派な王となるだろう。
そして月が優しく見守る中、明日のために天幕に戻る姿は、落ち着きを取り戻したのだった。


次の日。リリア達一行は、砂に浮かぶ不思議な舟の上にいた.
今朝早く砂漠の馬に乗ってオアシスに着いたが、照りつける太陽と熱された砂で歩くのは容易ではなかった。だが、この舟はその太陽と月の力が原動力になるのだという。

「動いたわ! ……砂の上なのに。一体どうなっているのかしら……?」
「この舟に関しては、いまだ謎だらけだからなあ、何で作られているのかもまるで分からんし。まあ古代には、物凄く発達した文明があったってこった」

世にも珍しい魔導具なのに、見慣れているせいか、レッドは制御が大変なんだと手振りで示す。ナハルとジャニスはそれよりもと目を輝かせていた。

「舟よりすごいのは、リリア殿ですよ! 所有しているレッドの一族の者でさえ、ここまで速く駆けさせることはできないのですよ」
「そうですよ、緑の方。動かす範囲も、街周辺がせいぜいだったんですよ……?」 

このオアシスにずっと保管されているというこの舟型の魔導具は、砂漠をまるで大海のようにスイスイと航走する。舟を動かすのは太陽と月の力らしいが、魔力がないとそもそも制御できないというシロモノだった。

「こんな魔導具を盗むなど、兄は一体何をするつもりなのでしょうか? まさか本気で、砂漠越えを……?」

遊牧民族の代表一族である、レッドの祖先が砂漠で見つけたこの舟は全部で三台ある。その魔導具の一台を、ミハルは盗んでいったらしい。大陸の中心に向かった方角にその跡を見つけた一族は、大騒ぎだった。

「だいたい兄の魔力など、ホンの微々たるものなのに。やはり正気とは思えない」

南大陸は内陸が砂漠であるから、都市は海岸線とオアシスで発達している。わざわざ内陸の奥を目指す意味が分からない。大陸の中心あたりは魔獣がウロウロしている地帯だし、さらに食糧や水が手に入らないので、内陸横断は無駄というか不可能なのだ。

「ではとにかく、この舟の跡を追ってみましょう」

時間が経ってしまうと、風で跡が消えてしまう。リリアの魔力は舟を動かすのに充分だと感じられたので、食糧や水を確保すると早速出発した。舟は風を得たように、すごい速さで砂の海を滑り帆走する。砂漠の馬とは、比べ物にならない速度と乗り心地の良さに、リリアはただただ感心した。備え付けのベンチに座っていると、ふとジェイドと以前訪れた古代遺跡の壁画を思い出す。
……もしかしたら、この舟はあの壁画の時代の魔導具なのかも知れない。それに、だ。このまま真っ直ぐ行けば、あの遺跡に向かっているのではないだろうか……?
大陸の地図とコンパスを確認して、リリアは眉を寄せる。そしてナハルとレッドが指差すおおよその航路先をみて、確信した。

「ナハル様、ミハル殿は古代遺跡に興味がおありですか?」
「は⁉︎ とんでもない! あ、でも以前、宝探しだと言って遺跡を掘ろうとしたことがあります。父上からこっぴどく叱られて、すぐ諦めましたが。その時は何やら、古代文明のお宝とかいう怪しい本を手に入れていましたよ」

(あ! 遺跡のあの結界はもしかしたら……)

何かこの舟のような、宝と呼べるものが封印してあるのかも知れない。逃亡中にそんな事にかまける心理は理解不能だが、だとしたらミハルが向かっているのは、多分あの遺跡だ。
魔獣がうろつく危険地帯だったし、ジャニスの言葉とも一致する。

「……ミハル殿の目指す地に、心当たりがあります。このまま、真っ直ぐ向かった大陸の中心には、結界が施してある古代遺跡があります。何が保存してあるのかは存じませんが、私が以前そこを訪れた時は、ナジッタの地下神殿と同じような力の波動のようなものを感じました」

リリアの説明に一同は最初は驚いた。が、こんな時でも宝探しに夢中になるのも、ミハルの性格なら十分あり得ると妙に納得もしていた。
リリアは舟の舵を遺跡の方向に向かって定めると、迷わず直航させる。
ミハルに追い付くか、もしくは先回りができれば……。きっと事態を、好転させてみせる。

そうすればジェイドへの道も、切り開けそうな気がする。
こうしてリリアは、全速力で舟を進めた。
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