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甘い接吻(キス)
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帰国から一夜が明けた昼時のこと。
シャノワ邸の玄関扉が前触れなくノックされた。モリンが慇懃な伝令から受け取ったのは、思いがけなく城からの通達である。早速リリアが、封印の施された封筒を開封してみると……
『ーー今回の件には女王様もいたく関心を示されており、報告は直接御前となることと云々……』
昼食のテーブルで文面を読み上げたリリアは、モリンと共にその場で飛び上がった。
お城に上がるXデーは明後日。その日迎えの馬車を寄越すと書かれた通達を読み終わるなり、買い物に出掛ける支度をした。でもってドレス生地を求め王都を奔走したその翌日、モリンと丸一日をかけこれならと思えるシンプルなドレスを仕上げたのだ。
そんなわけで南大陸から帰還して三日後の朝。シャノワ侯爵家の黒光りした扉の前には、王室御用達の立派な二頭立ての馬車が止まった。予告の時刻に扉がノックされると、清楚なドレスに身を包んだリリアは少し緊張気味に扉が開かれた馬車に向かう。
「おはようございます、ミルバさん。わざわざ迎えにきてくださって、ありがとうございます」
華麗な馬車からのぞいた見覚えある顔に、ホッと肩の力が抜ける。
「リリア、もしかして緊張していますか? 大丈夫ですよ。午前中は魔導士テストのみですからね」
勇気づけるように、柔らかな笑顔で告げられた日程に、安堵の笑みが浮かんだ。
ーー死の森を一人で歩くのは平気でも……。初めて訪れる王城での王国頂点に立つ女王陛下と面会となれば、さすがに緊張する。それを少しでも遅らせるものなら、たとえ試験であろうと大歓迎、今はそんな心境だった……
リリアはシャノワ侯爵家の姫とはいえ、父を亡くしてから東の森に移り住んでしまい、貴族間の交流は途絶えている。そこへいきなり降って湧いた女王へのお目通りである。せめてもの救いは、これまでリリアとしか名乗っておらず、シャノワ家の姫だという期待をされていないことだろう。
わざと名乗らなかったわけではないが、公募の受付でも周りは誰も家名を口にしていなかったし必要ないと思ったのだ。
だが、ここナデールでは貴族の子弟が魔法を使えることはステータスだ。
ナジールで体験したように魔導士は力の象徴であり、その魔導士を何人も擁する国は強い国とも言える。
だからこそ、どの国でも引っ張りだこなのだが、その資格を得る試験は実力至上で容赦なく、求められるレベルに達するのはほんの一握り。試験に落ちるのは当たり前とされ、挑戦するだけで関心がもたれる。
そのため、貴族はこぞって家名を名乗った。魔道士を輩出することは一門にとって名誉あることなのだが、社交界から思いっきり遠ざかっていたリリアはそんな風潮を知るよしもなかった。
こうして迎えた筆記テストは、易しかったのは最初の数問だけで、一問ごとに難しさは増した。設問は第七階梯魔法の知識にまで及び、名前や効能は知っていても、お目にかかったことさえない薬草まで出題された。
記憶の引き出しを必死に引っ張り出し解答欄を埋めながら、念のため屋敷にあった魔導書を片っ端おさらいしてほんとよかったと実感だ。
ーー単調な田舎暮らしでは本を読むくらいしか楽しみがない。そのため普通の令嬢がお茶会や舞踏会に費やす時間を、リリアはすべて薬草の研究、もしくは魔法の実験などに費やしていた。何度も読み込んだ魔導書は、読めば読むほど実益になる大切な実用書である。
昼食を済ませると早速実技のテストで、第五階梯魔法の基礎実演、次は得意な水魔法をと指示されるまま実行する。雨を降らせる魔法で王都の青空が徐々に暗い雲で覆われていくとーー。
「き、今日は、ここまでで結構です……」
「わかりました」
突然降り出した雨に慌てて洗濯物を取り入れるメイド、そして城下町にまで雨がポツポツと降り出したのを見て、多少引きつった顔の試験官にテスト終了と告げられた。
こうしてリリアは今、事務長官室と書かれた部屋の前で、大人しく座って結果を待っていた。
(……出来るだけのことは、したのだから)
どんな結果でも受け入れよう。そう思うものの、つい膝の上で組んだ手に力が入る。と、突然扉が開いた。大勢の気配がする部屋からミルバが出てくる。結果はまだ少し後になると告げられ……
「会議の前に、質問をさせていただいても?」
「もちろんです。なんなりとどうぞ」
態度が改まったミルバに、リリアもキチンと座り直した。
「リリア、あなたの正式な氏名をお願いします」
「リリアンヌ・ロクサーヌ・シャノワです」
問われるまま素直にフルネームを告げた。
「なるほど……。では、リリアンヌと呼ばれる方が良いですか?」
これには首を振ってリリアで良いと答える。
「希望する勤務地は、ありますか?」
「はい。できれば、王都デルタ、もしくは王城での勤務を希望します」
「では、役職として一般の事務官と共に働く魔導士か、軍に属する魔法部隊に配属となる魔導士、もしくは、王城に常任することになる女王直属の宮廷魔導士ではどちらを?」
魔導士の特性によっては、軍と共に行動したり、地方の官庁に出向いたりもできる。だが、ナデールの王城には素晴らしい薬草園があると聞いているし、城の裏手にある王家の森は広大で研究材料には事欠かないだろう。王都デルタにはシャノワ家の屋敷もある。だから通勤に便利な王都勤務で、できれば王城に通う宮廷魔導士がいい。
「分かりました。それでは会議の間ここで待ってもらうのも何ですから、中庭にでも案内させましょう。散歩でも楽しんできて下さい」
「はい、ありがとうございます」
頷くと、「リリア!」と聞き覚えのある声に呼ばれた。見るとタスミンが笑いながら近づいてくる。
上司であるミルバに「参りました」と挨拶をしたタスミンを見て、リリアの顔が明るくなった。
「タスミン! その服ってもしかして……」
「そうなのっ、あなたの目の前にいるのは、事務官見習いのタスミンよ!」
事務官の制服がとてもよく似合うタスミンは、すっかりお城の風景に馴染んでいる。
「タスミンはあなたの友達だと聞きました。ちょうど良い機会なので、城内の案内を頼みましょう」
「ありがとうございます、ミルバさん」
こんなところで仲良しの顔に出会えるのは、とても心強い。
タスミンも友のために案内できるとあって、とても嬉しそうだ。張り切って「行きましょう」と城の案内をはじめた。
舞踏会が開かれる大広間では、その優美なドーム型の天井にリリアが見惚れると、気取った仕草でくるりと踊ってみせる。その奥は一般には立ち入り出来ない王族専用の特別棟に続くと説明されると、城内の大きさにもだが、見習いとして勤めだし数日で迷わず案内できるタスミンもすごいと心から感心した。
迷路のような渡り廊下から、名園だと聞こえも高い中庭の手入れの行き届いた潅木に沿って歩く。と、草花からポッツンと水滴が落ちてくる。先ほど降らせた雨の名残で、濡れた葉っぱや花がキラキラしている。
「リリア、テストはどうだった?」
「それが……まだ結果が出てないの」
事情があって試験が今日行われることはタスミンも聞いていたらしい。中庭を見渡せる東屋の特等席を陣取ったタスミンは、笑顔できっと大丈夫よと励ましてくれる。
「もし受かったら、一月は一緒に見習いとしてお城に通えるわね」
「そうなれたら、いいのだけれど」
事務官であるタスミンもだが、リリアも勤務先によっては地方に出向くことになる。王城に勤める宮廷魔導士を希望しているけれど、それもこれもまずはテストに受からないと何も始まらない。
そんなおしゃべりをしていると、メイドが現れ用意が整ったとそのまま案内されることとなった。
呼びにきたメイドを見て、タスミンは一瞬目を見張った。が、すぐまたねと手を振ってくれる。
わずかに面食らった友の顔にどうしたんだろうと訝しみながらも、急にどっと緊張してきた。はやる胸に落ち着いて、と心の中で言い聞かせる。
そして着いたのは、なぜだか予想もしなかった城の奥のサロンだった。
見上げるほど高い天井に大きなガラス窓。明るく華やかな部屋には、心地良さそうなソファーや素敵なテーブルセットが置いてある。海と森とを見渡せる素晴らしい景色に気を取られたリリアを、微笑んだミルバが迎えてくれた。さらにその横に立つ背の高い姿が声を発する。
「リリア、やっと来たな」
その姿をひとめ見るなり……緊張とはまったく違う意味で胸がドキドキ高鳴った。
「ジェイド! あ、申し訳ありません。ジェイド様、その節はお世話になりました」
ミルバもいるというのにうっかり呼び捨てにしてしまい、リリアは慌てて言い直した。
相変わらずなんて素敵に、その銀の髪が騎士服に映えるのだろう……
三日ぶりに見るその精悍な姿に、ぽうっと見惚れてしまいそうになるが、そんな素振りはつゆほども見せずドレスを持ち上げ丁寧に挨拶をする。
もう二人きりの異国ではない。ここは人目もある王城なのだから。
レディーらしくと、そのスラリとした姿から一定の距離を取り微笑みかけた。ーー少しばかり、心の距離までひらいたようで寂しいが。
ところが、ジェイドはあからさまに瞳を曇らせた。眉を潜めたその顔はいかにも不満げである。
「リリア、ジェイドでいい。いいか、今後そんな他人行儀な態度を取ったら、その場で仕置きだ」
「え? あの、ジェイド……」
そんな訳にはと言いかけた言葉を、急いで飲み込む。ーーこちらを見つめる紫の瞳は本気だと告げている。お仕置きの意味は不明だが、ジェイドが嫌がることはしたくない。
「それとも何か? 今すぐ仕置きか?」
「やっ、ちょっと待って。わ、わかったわ、ジェイド」
この距離が気に入らんとばかり、こちらに一歩踏み出してきた迫力ある姿を慌てて手で制した。その拍子に口調も二人だけだった時に戻っていた。
ところが、大きな手は構わず手首を掴んできて、えぇっと驚いた身体をグイッと引っ張られる。
ジェイドは自分のそばにリリアを引き寄せると、よしこれでいいと蜜柑色の髪を優しく撫でてくる。
……どうやら機嫌は直ったらしい。彼の横に並ぶのは場所が王城だからか、少しくすぐったい。けれども、和んだその瞳に心からの吐息がホッとでた。
「……ジェイド様、無理強いはいけません。リリアも、嫌ならちゃんと断るのですよ。それでなくともこの方にノーと強く言えるのは、ほんとうに限られた方々だけなのですから」
「無理強いをした覚えはない。それにだな、言っておくが、リリアが本気で嫌がれば危ないのは俺の身だ」
中立の立場をとるミルバの言葉に、ジェイドはニヤリと笑った。
「ミルバにも見せたかったぞ。リリアの必殺魔法。小山ほどの大きさの魔獣をだな、一発で輪切りだぞ。それもスライス状にだ。スパッと」
「な、何をバラすのよ!」
レディーに似つかわしくない秘密……強力な戦闘魔法を暴露されたリリアは、慌ててジェイドの口を手で塞いだ。目を細めたジェイドはその手を取って、「冗談だ」と手のひらにちゅっと音を立ててキスをしてくる。
唇が触れた肌にぽっと熱が灯った。ジェイドの唇の温かさだけでなく、手のひらの濡れた感触をやたら意識してしまい、頬がたちまちピンクに染まる。それに、だ。そんなこと今更言われても、すでに自分で肯定してしまった以上、全然フォローになってない。
「あの、ミルバさん、あの時はそうするしかなくてですね」
ジェイドに手を繋がれたままリリアは、少しでも乙女の威厳を取り戻したくて言い訳を始めてみたが、ミルバは眉をひそめるでもなくニコニコ顔だ。気にする様子はまったくない。
「仲の良い事で大変結構です。ところでジェイド様、リリアにはちゃんと自己紹介を済ませましたか?」
「……ジェイドとは名乗ったぞ」
それよりもと礼節を問われた紫の瞳は、言葉をつまらせ目を逸らした。こんなきまり悪そうな顔も、案外可愛い。背が高く騎士服もバッチリ決まった逞しい人なのに、ミルバには頭が上がらないのか、いたずらが見つかって叱られた子供のようだ。
だが、苦笑を浮かべたミルバが口を開く寸前、顔を引き締めたジェイドはリリアに自ら名乗り直した。
「ーー分かった。リリア、俺の正式の名は、ジェイディーン・ルシウス・ナデールという。だがジェイドと呼べ。いいな」
ジェイディーン・ルシウス・ナデール。家名がナデール王国と同じ……?
「俺もリリアと呼ぶのだから、お互い様だろう? シャノワ侯爵家のリリアンヌ令嬢」
言い張るジェイドに、ミルバは往生際が悪いとため息をついている。
「また、そんな中途半端な名乗り方をして。いけませんよ」
まさかーー!と目を大きく見開いたリリアに、ミルバは向き直った。
「リリア、この方は、このナデール王国王家のジェイディーン王子であらせられます」
「じぇいでぃーん・おうじ……」
間抜けにもその名を呟き返したリリアは、かっきり三秒後驚きの悲鳴を上げた。
「王子、ですって~⁉︎」
「ジェイドだ」
今度はジェイドが、まだ何か言いかけたリリアの口をその大きな手で塞いだ。
驚きのあまり礼節など頭からかき消え、何するのよとばかり、う~と小さく唸った耳にそっと囁かれる。
「ジェイドと呼ばないと、その可愛らしい唇を今すぐここで塞ぐぞ」
もうすでに塞いでいると目で抗議するも、ジェイドは口端を面白そうに上げる。
「もちろん、俺の手以外を使って……だ」
手を使わずに唇を塞ぐ……?
紫水晶の瞳がきらりと光り、銀の髪がわずかばかり傾く。その意図を正確に読みとったリリアの頬は、嘘っとますます赤く染まった。そして途端に大人しくなる。ーージェイドなら、躊躇なく実行しそうで。
「いいな、手を離すが、これからも俺をジェイドと呼べ。それにだ、ここにはミルバもいる。水魔法は禁止だ」
これまでの経験で、どうやら学んだらしいジェイドの忠告に、首を縦にブンブンと振った。
「水魔法とは、何のことですか?」
戯れあっているとしか見えない二人のやり取りを見ていたミルバは、不思議そうにこちらを見つめてくる。
「リリアには、出会い頭で水をぶっ掛けられてな。ーー引っ叩かれもした。この俺が、だぞ」
「あ、あれはーー、だから、忘れてと、言ったじゃない……」
あの出会いを何故そんな嬉しそうに、しかも自慢げに話しているのだろう。
自国の王子を引っ叩いた事実をどうしていいか分からず、ひたすらその場に蹲りたくなる。
「引っ叩かれたとは穏やかではありませんね、ジェイディーン・ルシウス・ナデール。ーーあなたは一体、どんな失礼をこちらの姫にしでかしたのですか?」
威厳ある女性の声がサロンに響いた。ジェイドをフルネームで呼んだその声の正体を察したリリアは、あ、と急いで深く頭を下げる。
「母上、ご機嫌よう。ご安心ください。失礼にあたることなどリリアには、決してしていない」
「そう願いますよ。あなたのためにも」
ジェイドを細めた目で見た後、女王はリリアへニッコリ笑いかけてきた。
「どうぞ顔を上げて。ようこそ我が城へ」
「お初にお目にかかります、女王陛下。リリアンヌ・ロクサーヌ・シャノワと申します」
女王との対面に、身体にサッと緊張感が走る、だが顔を上げて目に映ったその姿に、リリアは密かに息をのんだ。
結い上げた髪はジェイドと同じ青銀、そして深い碧の瞳。どこか勇ましい感じがするその雰囲気に、紺のシンプルなドレスが映える。溌剌としたその姿は凛々しく、かつまたとても若々しかった。
女王はニコニコ笑いながら「リリアンヌ。堅苦しい挨拶は抜きにしましょう」とこちらに向かってくる。たちまちリリアと真正面に向き合った。
「まあ、なんとも可愛らしい姫だこと」
「ーーもったいなき御言葉です」
女王陛下にこんな言葉をかけてもらえるなんて、嬉しいやら照れくさいやら。それでも、失礼のないよう言葉を返したが、照れは如何ともしがたく、すぐ目を伏せてしまった。
「リリアンヌ、先だってはジェイディーンが大変世話になりました。母親として心からの礼を言わせてね。息子を無事帰してくれて、本当にありがとう」
「こちらこそ、ジェイディーン王子には何度も危ないところを助けていただきました」
「まあまあ母上、そんないきなり距離を詰めては。……リリアンヌ姫も、困っていますよ」
勢い込んで両手を握り締めてくるその姿を、後ろに控えていた二人の男女のうち、若い女性が呆れたようになだめる。
「リリアンヌ姫、私はローランナ。ジェイディーンの姉です。気軽にローラと呼んでください」
「はじめまして、ローラ王女。リリアンヌと申します」
「ローラ、です。私もリリアと呼ばせてね」
ジェイドより青色が濃い髪のローラはニッコリ笑うも、ね?と押しが強い。
さすがジェイドの姉というだけはある。華麗に笑いつつのこの強引さ、なのに嬉しくなってくる。
「先日は弟が迷惑をかけたそうで、ほんとごめんなさいね」
「そんな、とんでもございません」
「姉上。俺は迷惑なぞ、断じてかけていない。なあリリア?」
顔を覗き込んでくるジェイドに、もちろん決してかけられていませんと慌てて頷いた。
そこへ最後に、女王陛下より少し年上であろう男性が挨拶をしてくる。
「リリアンヌ令嬢、私はジェラルド・ルイモンデです。この度は息子が大変世話になりましたね」
「っ初めまして、ルイモンデ公。お目にかかれて光栄に存じます」
(うわあ、どうして……王家の方全員がここに集まっているの?)
女王陛下を筆頭に、第一子であるローランナ姫は王太女、第二子のジェイディーン王子に、女王陛下の夫でありルイモンデ公爵家当主でもあるジェラルド……。まるで王室アルバムをめくったような顔ぶれに、めまいがしそうだ。
心の中でタジタジとなったリリアの手を再び取って、笑顔の女王は菓子やケーキが並ぶテーブルへと歩んだ。
「さあ、待たせましたね、お茶の時間にしましょう」
「は、はい……」
母とリリアの後ろをジェイドは黙ってついていき、テーブルで何げにリリアの隣に座った。
「まずは、おめでとうを言わせてくださいな。リリアンヌ、魔導士のテストは合格です」
「まあ、ありがとうございます!」
女王から直々告げられた朗報に、心がいっぺんに浮き立った。
テスト結果は上々で、嬉しくて目頭が熱くなる。
ほんと良かったと感激していると、いつのまにか王家御一家のお茶会はリリアの祝賀会となっていた。さっきまで上品な紅茶が給仕されていたはずが、なぜだかワインに取って変わっている。
そしてリリアは早速翌日から王城に通い、見習い魔導士としてミルバの指導を仰ぐこととなった。
そこで初めて、ミルバが文官をまとめる事務長官、ルイモンデ公が軍事を取り仕切る最高司令官であることを知った。ミルバは仕事人間で、街で初めて彼女に会った日は貴重な休みだったにもかかわらず、公募の様子をわざわざ事務官に紛れ視察していたらしい。
ローラ姫は女王の執務官として主にミルバを、ジェイドはルイモンデ公を補佐していると聞いて、なるほどと頷いた。だからジェイドが王都の警備を担当する騎士団を指揮していたのか。
ジェイドは騎士団を始めとする、海軍、陸軍などすべてのナデール軍をまとめる総大将だったのだ。
そんな人を異国の地へ、転移の事故とはいえ巻き込んでしまったなんて……
今さらだけど、呼び捨てするのもおこがましく思えてくる。だが、そんな彼の意向に反するのもどうなのか……。何より、ジェイドと呼べと何度も念を押され、気を許してもらっているようで嬉しかった。
驚きはしたが納得もした事務的な話を終えると、ワイン片手の気軽な態度で、ボム事件のことを詳しく話して欲しいと尋ねられた。
「リリアンヌ、先だっては災難だったわね」
女王から請われ事件のあらましを話し始めたリリアだったが、初めて飲んだ上等なワインのせいか、日常生活にまで話題が及んだのを不自然とも思わず、問われるままシャノワ家の内情まで語っていた。
その間もボウーとしてきた頭で、ジェイドが自然と肩を抱いてきたのに気付きはしたが、どうしようと内心で困惑する。二人だけの時ならば気にならないが、今は女王陛下の御前の席で……失礼にあたらないだろうか? けどジェイドは王子だ。さり気なくずらすべき? それとも流すべきかと迷っていると、女王がコホンと咳を小さくした。
「ところで、あなたたちは、一体どこまでいったの?」
「え? あの……」
質問の意味を測りかねているリリアに代わって、ジェイドが平然と答える。
「母上、俺たちはすでに裸の付き合いだぞ。だよな? リリア」
肩を抱く腕に力を込めるその堂々とした態度に、「きゃあ~」とローラのはしゃいだ声が上がる。
だが、もっと大きな声をあげたのは、他でもないリリア本人だった。
「ジェイドーーっ? なんてことを言うのっ」
思わず王子を呼び捨て、それも全身真っ赤だ。
リリアの叫びにあらまあと目を見開いて、次に息子をちらり見ると片眉を上げた女王は、ふうと軽い息を吐いた。
「ジェイディーン、あなたはもう少し言葉を選びなさい。リリアンヌ、こんな息子でごめんなさいね」
「陛下、あの違うんです」
必死で「その、もちろん親しくしていただいて……。ですが、着替えとか、それから水浴びがーー」と訴えかけると、分かっていますよと女王は鷹揚に頷いてくれた。
「大丈夫よ、リリアンヌ。水魔法が得意だそうですね。私の息子が失礼な真似をした時は、遠慮なく頭を冷やしてやりなさい。まったく、こんな席でレディーに恥をかかせるなんて……」
涙目で助かったとリリアは女王陛下を見つめた。それを受けた女王は、ここはいかにも母親の役目だと息子に釘を刺す。
「いいこと、ジェイディーン。女性と親しくなった時はそんな男同士の友情表現など使わず、もう少し適切な言葉を選びなさい。せめて、とても親しい仲だとか、気持ちが通じ合っただとか、合意で致したなど、婉曲な表現を使えば良いでしょうに」
(え? あれ……? 合意で……)
致したって、一体何をーー?
最初に挙げた例はかろうじて了承できるけど、後の二つはどうなのとワインで酔ったリリアの頭は一瞬困惑した。だが、途端にめまいを覚え思わず両手をテーブルにつく。
そこへ身ごなしが怪しくなったリリアを助けるように、「陛下、それに皆様も、そろそろ公務に戻りませんと」とミルバの声がした。
ーー水を飲むようにワインを空けていた王家のメンバーは、いかにも残念そうにグラスから手を離す。
最後に落ち着いたルイモンデ公の声が気遣うように、リリアに語りかけてきた。
「リリアンヌ姫は、少し休憩された方がよかろう。陛下に付き合って飲んでいたら、キリがありませんからな」
みると、公とミルバだけは紅茶のカップを手にしている。
つまり酒豪はどうやら、王家の血筋らしい。その証拠に他の三人はまったく顔色一つ変わっていない。
勧められるままグラスを空け、ほろ酔い気分だったリリアの記憶は、そこから徐々に怪しくなった。
挨拶をして、差し出されたジェイドの手を握ったことまでは覚えている。だが、フワッと身体が浮いて暖かい胸に包まれると、リリアの目蓋は自然と閉じていた。
意識が戻ると、見慣れない華やかなシルクが垂れ下がったキャノピーが見えてくる。
ーーいつのまにか、天蓋付の大きなベッドに寝かされていた。
ここは一体……、と窓を見ると、森の向こうに海が広がっている。
すごい。なんと素晴らしい景色なのだろうーー……。空の上にいるような迫りくる雲と、入江まで続く深い緑の森、そして海の絶景だ。こんな風景が見える部屋は、城のどこかに違いない。
空はピンクがかりもう陽が暮れはじめている。
上体を起こし雅びな調度品や可憐な壁紙に目を向けた後も、外の景色をぼんやり見ていると、トントンと柔らかなノック音がして、開いた扉から優しそうな女性が顔を覗かせた。
「あ、お目覚めですか」
「あの、私……」
モリンと同じ年代のベテラン女中と言った感じの女性は、どこか見覚えがある。耳の先が少しとんがっているところを見るとエルフの血が混じっているのだろう。こちらに向かってくるその姿勢の良い姿を見て、ようやく中庭まで呼びにきたメイドだと気づいた。
「お加減はいかがですか、リリアンヌ様?」
頭に手をやりながらも大丈夫だと答えると、メイドは掲げていた小さな桶に魔法で水を満たし、濡れたタオルを絞ってくれる。顔や手を拭って少しスッキリすると、「ジェイド様を呼んでまいります」と丁寧に礼をして廊下に消えていった。
しばらくしてゆっくり身体を動かしベッドから立ち上がりかけていたところへ、ノックの音がしてジェイドが入室してきた。
「リリア、身体の具合はどうだ?」
「ジェイド、ーー私、酔ってしまったのね」
どうやら王家に招かれた大事なお茶会の席を退出した後、張りつめていたものが切れたように酔いが回ってしまったらしい。
「まだ少しふらついているな。しばらく座っておけ。俺が、もう少し気をつけてやるべきだった。母上のペースに合わせると、大抵の者は酔い潰れてしまうからな」
「私も少しはしゃぎ過ぎたの。ごめんなさい」
お酒は嗜む程度、あまり強くないことはわかっていたはずなのに。うっかり浮かれてしまった。
恥ずかしそうに俯いたリリアを、気遣うようにその隣にジェイドは腰掛ける。その重みでベッドがわずかに軋んだ。
拍子に、指先と指先がわずかに触れ合う。ただそれだけで、喉の奥から、あ、とかすれた声が漏れた。
どきん、と高鳴った心臓が早鐘を打ち出す。と、ジェイドの手がそっと重ねられた。輪郭を確かめるように親指で優しく素肌をなぞってくる。
「リリア、もう帰ってしまうのか?」
「あ、……は、い……」
もう夕方だ。そろそろ帰らなければモリンが心配するだろう。
ーーだけど何だろう、この水の中をゆらゆら漂うような感覚は……?
ワインの酔いが抜けきれてない、そんなどこか甘酸っぱいゆるりとした時刻が流れ、二人はお互いを見つめたまま動かない。
けど、そうした方がいいように思えて、ジェイドが重ねてきた手を指先でおずおず握り返した。
するとそれが合図だったように、紫水晶の瞳が近づいてくる。目を閉じろと言われた気がした。
「ん……ーー」
二人の吐息が重なる。
触れてきた唇の柔らかさと、思いがけないその熱さに一瞬びくと身体が震えた。だがジェイドは、片腕を回し逃さないと抱きしめてくる。
何だか夢を見ているみたい。頭がフワフワしている。
(私、今、ジェイドにキスされてるーー……)
周りからすべてが消えた。かわりに、ドキンドキンと大きく高鳴る心音だけが聞こえてくる。
これはーー心臓の音……? のぼせた頭では、はっきりしない……
「……逃げるな。逃げたら邸に帰さない」
唇を触れ合わせたまま、静かにあやすようなジェイドの囁きーー。
鼓膜を震わせる低い声に、身体中の力がフッと抜けた。ジェイドは重ねた手の指をきゅと絡めてくる。固く抱きしめられ夢見心地でいると、さっきまで寝ていたベッドにゆっくり押し倒されていた。
「あ……」
「俺とキスをするのは、嫌ではないな? なら、逃げるな」
逃げるとか、そんな考えは頭に浮かばなかった。嫌だとも、その腕から逃れようとも思わない。
初めて、キスをして欲しいと思えたからジェイドに唇を許した。
その不思議な感触に陶然としてしまう。ジェイドはこぼれた吐息をあやすように柔らかなふくらみを啄ばんでは、味見だと言わんばかりに軽く舐め甘噛みしてくる。その腕にためらいがちに触れると、今度は先ほどより強く唇を吸われた。
「んっ……ん……ふっ……っんん」
うっとりするキスをゆっくり何度も繰り返され、息継ぎをするたび思いがけなく唇の隙間から甘い吐息が漏れる。重なった身体に互いの腕が巻きつき、吐息を交換をしあった。
なんて、心も身体も暖まってくるのだろう。唇を重ねるたび、ジェイドを身近に感じる。
だんだん熱くなる身体を撫で回していたジェイドの腕が、やがてリリアをきつく抱きしめた。
深い呼吸音が聞こえる。
「リリア、送っていこう」
紫の瞳が、ぼんやり焦点の合わない瞳を見つめた。上気したリリアの頬をひと撫ですると、ベッドから優しく抱き起こす。ふらつく身体を支えるように手を貸し、腰に手を回した。
「あ、ありがとう、ジェイド……。大丈夫。もう歩けるから」
(しゃんとしなくては……ここはまだ、王城なのよ)
うっかり忘れていたこの事実に思い当たると、背中は自然と真っ直ぐ伸びた。まだ火照る頬に両手を当て、軽く気合を入れるとジェイドが髪に唇を当ててくる。
「さあ、こっちだ」
その言葉で身体にも力を入れ、しっかりした足取りでリリアは歩きだした。
「リリア。明日も、会えるな?」
ジェイドに送ってもらったその直後。
馬車が邸前で止まっても、どうやってここまで来たのかさえ思い出せない。
二人だけの馬車の中でも、お互い見つめ合うだけでほぼ黙ったままだった。
だから、その紫の瞳を見つめ返すのはまだ恥ずかしかったけれど、大きく頷く。
「ジェイド、あの、ありがとう。送ってくれて。じゃあまた明日」
こうして初めてキスを交わした日、リリアは甘酸っぱい気持ちを抱えたまま邸に帰っていった。
シャノワ邸の玄関扉が前触れなくノックされた。モリンが慇懃な伝令から受け取ったのは、思いがけなく城からの通達である。早速リリアが、封印の施された封筒を開封してみると……
『ーー今回の件には女王様もいたく関心を示されており、報告は直接御前となることと云々……』
昼食のテーブルで文面を読み上げたリリアは、モリンと共にその場で飛び上がった。
お城に上がるXデーは明後日。その日迎えの馬車を寄越すと書かれた通達を読み終わるなり、買い物に出掛ける支度をした。でもってドレス生地を求め王都を奔走したその翌日、モリンと丸一日をかけこれならと思えるシンプルなドレスを仕上げたのだ。
そんなわけで南大陸から帰還して三日後の朝。シャノワ侯爵家の黒光りした扉の前には、王室御用達の立派な二頭立ての馬車が止まった。予告の時刻に扉がノックされると、清楚なドレスに身を包んだリリアは少し緊張気味に扉が開かれた馬車に向かう。
「おはようございます、ミルバさん。わざわざ迎えにきてくださって、ありがとうございます」
華麗な馬車からのぞいた見覚えある顔に、ホッと肩の力が抜ける。
「リリア、もしかして緊張していますか? 大丈夫ですよ。午前中は魔導士テストのみですからね」
勇気づけるように、柔らかな笑顔で告げられた日程に、安堵の笑みが浮かんだ。
ーー死の森を一人で歩くのは平気でも……。初めて訪れる王城での王国頂点に立つ女王陛下と面会となれば、さすがに緊張する。それを少しでも遅らせるものなら、たとえ試験であろうと大歓迎、今はそんな心境だった……
リリアはシャノワ侯爵家の姫とはいえ、父を亡くしてから東の森に移り住んでしまい、貴族間の交流は途絶えている。そこへいきなり降って湧いた女王へのお目通りである。せめてもの救いは、これまでリリアとしか名乗っておらず、シャノワ家の姫だという期待をされていないことだろう。
わざと名乗らなかったわけではないが、公募の受付でも周りは誰も家名を口にしていなかったし必要ないと思ったのだ。
だが、ここナデールでは貴族の子弟が魔法を使えることはステータスだ。
ナジールで体験したように魔導士は力の象徴であり、その魔導士を何人も擁する国は強い国とも言える。
だからこそ、どの国でも引っ張りだこなのだが、その資格を得る試験は実力至上で容赦なく、求められるレベルに達するのはほんの一握り。試験に落ちるのは当たり前とされ、挑戦するだけで関心がもたれる。
そのため、貴族はこぞって家名を名乗った。魔道士を輩出することは一門にとって名誉あることなのだが、社交界から思いっきり遠ざかっていたリリアはそんな風潮を知るよしもなかった。
こうして迎えた筆記テストは、易しかったのは最初の数問だけで、一問ごとに難しさは増した。設問は第七階梯魔法の知識にまで及び、名前や効能は知っていても、お目にかかったことさえない薬草まで出題された。
記憶の引き出しを必死に引っ張り出し解答欄を埋めながら、念のため屋敷にあった魔導書を片っ端おさらいしてほんとよかったと実感だ。
ーー単調な田舎暮らしでは本を読むくらいしか楽しみがない。そのため普通の令嬢がお茶会や舞踏会に費やす時間を、リリアはすべて薬草の研究、もしくは魔法の実験などに費やしていた。何度も読み込んだ魔導書は、読めば読むほど実益になる大切な実用書である。
昼食を済ませると早速実技のテストで、第五階梯魔法の基礎実演、次は得意な水魔法をと指示されるまま実行する。雨を降らせる魔法で王都の青空が徐々に暗い雲で覆われていくとーー。
「き、今日は、ここまでで結構です……」
「わかりました」
突然降り出した雨に慌てて洗濯物を取り入れるメイド、そして城下町にまで雨がポツポツと降り出したのを見て、多少引きつった顔の試験官にテスト終了と告げられた。
こうしてリリアは今、事務長官室と書かれた部屋の前で、大人しく座って結果を待っていた。
(……出来るだけのことは、したのだから)
どんな結果でも受け入れよう。そう思うものの、つい膝の上で組んだ手に力が入る。と、突然扉が開いた。大勢の気配がする部屋からミルバが出てくる。結果はまだ少し後になると告げられ……
「会議の前に、質問をさせていただいても?」
「もちろんです。なんなりとどうぞ」
態度が改まったミルバに、リリアもキチンと座り直した。
「リリア、あなたの正式な氏名をお願いします」
「リリアンヌ・ロクサーヌ・シャノワです」
問われるまま素直にフルネームを告げた。
「なるほど……。では、リリアンヌと呼ばれる方が良いですか?」
これには首を振ってリリアで良いと答える。
「希望する勤務地は、ありますか?」
「はい。できれば、王都デルタ、もしくは王城での勤務を希望します」
「では、役職として一般の事務官と共に働く魔導士か、軍に属する魔法部隊に配属となる魔導士、もしくは、王城に常任することになる女王直属の宮廷魔導士ではどちらを?」
魔導士の特性によっては、軍と共に行動したり、地方の官庁に出向いたりもできる。だが、ナデールの王城には素晴らしい薬草園があると聞いているし、城の裏手にある王家の森は広大で研究材料には事欠かないだろう。王都デルタにはシャノワ家の屋敷もある。だから通勤に便利な王都勤務で、できれば王城に通う宮廷魔導士がいい。
「分かりました。それでは会議の間ここで待ってもらうのも何ですから、中庭にでも案内させましょう。散歩でも楽しんできて下さい」
「はい、ありがとうございます」
頷くと、「リリア!」と聞き覚えのある声に呼ばれた。見るとタスミンが笑いながら近づいてくる。
上司であるミルバに「参りました」と挨拶をしたタスミンを見て、リリアの顔が明るくなった。
「タスミン! その服ってもしかして……」
「そうなのっ、あなたの目の前にいるのは、事務官見習いのタスミンよ!」
事務官の制服がとてもよく似合うタスミンは、すっかりお城の風景に馴染んでいる。
「タスミンはあなたの友達だと聞きました。ちょうど良い機会なので、城内の案内を頼みましょう」
「ありがとうございます、ミルバさん」
こんなところで仲良しの顔に出会えるのは、とても心強い。
タスミンも友のために案内できるとあって、とても嬉しそうだ。張り切って「行きましょう」と城の案内をはじめた。
舞踏会が開かれる大広間では、その優美なドーム型の天井にリリアが見惚れると、気取った仕草でくるりと踊ってみせる。その奥は一般には立ち入り出来ない王族専用の特別棟に続くと説明されると、城内の大きさにもだが、見習いとして勤めだし数日で迷わず案内できるタスミンもすごいと心から感心した。
迷路のような渡り廊下から、名園だと聞こえも高い中庭の手入れの行き届いた潅木に沿って歩く。と、草花からポッツンと水滴が落ちてくる。先ほど降らせた雨の名残で、濡れた葉っぱや花がキラキラしている。
「リリア、テストはどうだった?」
「それが……まだ結果が出てないの」
事情があって試験が今日行われることはタスミンも聞いていたらしい。中庭を見渡せる東屋の特等席を陣取ったタスミンは、笑顔できっと大丈夫よと励ましてくれる。
「もし受かったら、一月は一緒に見習いとしてお城に通えるわね」
「そうなれたら、いいのだけれど」
事務官であるタスミンもだが、リリアも勤務先によっては地方に出向くことになる。王城に勤める宮廷魔導士を希望しているけれど、それもこれもまずはテストに受からないと何も始まらない。
そんなおしゃべりをしていると、メイドが現れ用意が整ったとそのまま案内されることとなった。
呼びにきたメイドを見て、タスミンは一瞬目を見張った。が、すぐまたねと手を振ってくれる。
わずかに面食らった友の顔にどうしたんだろうと訝しみながらも、急にどっと緊張してきた。はやる胸に落ち着いて、と心の中で言い聞かせる。
そして着いたのは、なぜだか予想もしなかった城の奥のサロンだった。
見上げるほど高い天井に大きなガラス窓。明るく華やかな部屋には、心地良さそうなソファーや素敵なテーブルセットが置いてある。海と森とを見渡せる素晴らしい景色に気を取られたリリアを、微笑んだミルバが迎えてくれた。さらにその横に立つ背の高い姿が声を発する。
「リリア、やっと来たな」
その姿をひとめ見るなり……緊張とはまったく違う意味で胸がドキドキ高鳴った。
「ジェイド! あ、申し訳ありません。ジェイド様、その節はお世話になりました」
ミルバもいるというのにうっかり呼び捨てにしてしまい、リリアは慌てて言い直した。
相変わらずなんて素敵に、その銀の髪が騎士服に映えるのだろう……
三日ぶりに見るその精悍な姿に、ぽうっと見惚れてしまいそうになるが、そんな素振りはつゆほども見せずドレスを持ち上げ丁寧に挨拶をする。
もう二人きりの異国ではない。ここは人目もある王城なのだから。
レディーらしくと、そのスラリとした姿から一定の距離を取り微笑みかけた。ーー少しばかり、心の距離までひらいたようで寂しいが。
ところが、ジェイドはあからさまに瞳を曇らせた。眉を潜めたその顔はいかにも不満げである。
「リリア、ジェイドでいい。いいか、今後そんな他人行儀な態度を取ったら、その場で仕置きだ」
「え? あの、ジェイド……」
そんな訳にはと言いかけた言葉を、急いで飲み込む。ーーこちらを見つめる紫の瞳は本気だと告げている。お仕置きの意味は不明だが、ジェイドが嫌がることはしたくない。
「それとも何か? 今すぐ仕置きか?」
「やっ、ちょっと待って。わ、わかったわ、ジェイド」
この距離が気に入らんとばかり、こちらに一歩踏み出してきた迫力ある姿を慌てて手で制した。その拍子に口調も二人だけだった時に戻っていた。
ところが、大きな手は構わず手首を掴んできて、えぇっと驚いた身体をグイッと引っ張られる。
ジェイドは自分のそばにリリアを引き寄せると、よしこれでいいと蜜柑色の髪を優しく撫でてくる。
……どうやら機嫌は直ったらしい。彼の横に並ぶのは場所が王城だからか、少しくすぐったい。けれども、和んだその瞳に心からの吐息がホッとでた。
「……ジェイド様、無理強いはいけません。リリアも、嫌ならちゃんと断るのですよ。それでなくともこの方にノーと強く言えるのは、ほんとうに限られた方々だけなのですから」
「無理強いをした覚えはない。それにだな、言っておくが、リリアが本気で嫌がれば危ないのは俺の身だ」
中立の立場をとるミルバの言葉に、ジェイドはニヤリと笑った。
「ミルバにも見せたかったぞ。リリアの必殺魔法。小山ほどの大きさの魔獣をだな、一発で輪切りだぞ。それもスライス状にだ。スパッと」
「な、何をバラすのよ!」
レディーに似つかわしくない秘密……強力な戦闘魔法を暴露されたリリアは、慌ててジェイドの口を手で塞いだ。目を細めたジェイドはその手を取って、「冗談だ」と手のひらにちゅっと音を立ててキスをしてくる。
唇が触れた肌にぽっと熱が灯った。ジェイドの唇の温かさだけでなく、手のひらの濡れた感触をやたら意識してしまい、頬がたちまちピンクに染まる。それに、だ。そんなこと今更言われても、すでに自分で肯定してしまった以上、全然フォローになってない。
「あの、ミルバさん、あの時はそうするしかなくてですね」
ジェイドに手を繋がれたままリリアは、少しでも乙女の威厳を取り戻したくて言い訳を始めてみたが、ミルバは眉をひそめるでもなくニコニコ顔だ。気にする様子はまったくない。
「仲の良い事で大変結構です。ところでジェイド様、リリアにはちゃんと自己紹介を済ませましたか?」
「……ジェイドとは名乗ったぞ」
それよりもと礼節を問われた紫の瞳は、言葉をつまらせ目を逸らした。こんなきまり悪そうな顔も、案外可愛い。背が高く騎士服もバッチリ決まった逞しい人なのに、ミルバには頭が上がらないのか、いたずらが見つかって叱られた子供のようだ。
だが、苦笑を浮かべたミルバが口を開く寸前、顔を引き締めたジェイドはリリアに自ら名乗り直した。
「ーー分かった。リリア、俺の正式の名は、ジェイディーン・ルシウス・ナデールという。だがジェイドと呼べ。いいな」
ジェイディーン・ルシウス・ナデール。家名がナデール王国と同じ……?
「俺もリリアと呼ぶのだから、お互い様だろう? シャノワ侯爵家のリリアンヌ令嬢」
言い張るジェイドに、ミルバは往生際が悪いとため息をついている。
「また、そんな中途半端な名乗り方をして。いけませんよ」
まさかーー!と目を大きく見開いたリリアに、ミルバは向き直った。
「リリア、この方は、このナデール王国王家のジェイディーン王子であらせられます」
「じぇいでぃーん・おうじ……」
間抜けにもその名を呟き返したリリアは、かっきり三秒後驚きの悲鳴を上げた。
「王子、ですって~⁉︎」
「ジェイドだ」
今度はジェイドが、まだ何か言いかけたリリアの口をその大きな手で塞いだ。
驚きのあまり礼節など頭からかき消え、何するのよとばかり、う~と小さく唸った耳にそっと囁かれる。
「ジェイドと呼ばないと、その可愛らしい唇を今すぐここで塞ぐぞ」
もうすでに塞いでいると目で抗議するも、ジェイドは口端を面白そうに上げる。
「もちろん、俺の手以外を使って……だ」
手を使わずに唇を塞ぐ……?
紫水晶の瞳がきらりと光り、銀の髪がわずかばかり傾く。その意図を正確に読みとったリリアの頬は、嘘っとますます赤く染まった。そして途端に大人しくなる。ーージェイドなら、躊躇なく実行しそうで。
「いいな、手を離すが、これからも俺をジェイドと呼べ。それにだ、ここにはミルバもいる。水魔法は禁止だ」
これまでの経験で、どうやら学んだらしいジェイドの忠告に、首を縦にブンブンと振った。
「水魔法とは、何のことですか?」
戯れあっているとしか見えない二人のやり取りを見ていたミルバは、不思議そうにこちらを見つめてくる。
「リリアには、出会い頭で水をぶっ掛けられてな。ーー引っ叩かれもした。この俺が、だぞ」
「あ、あれはーー、だから、忘れてと、言ったじゃない……」
あの出会いを何故そんな嬉しそうに、しかも自慢げに話しているのだろう。
自国の王子を引っ叩いた事実をどうしていいか分からず、ひたすらその場に蹲りたくなる。
「引っ叩かれたとは穏やかではありませんね、ジェイディーン・ルシウス・ナデール。ーーあなたは一体、どんな失礼をこちらの姫にしでかしたのですか?」
威厳ある女性の声がサロンに響いた。ジェイドをフルネームで呼んだその声の正体を察したリリアは、あ、と急いで深く頭を下げる。
「母上、ご機嫌よう。ご安心ください。失礼にあたることなどリリアには、決してしていない」
「そう願いますよ。あなたのためにも」
ジェイドを細めた目で見た後、女王はリリアへニッコリ笑いかけてきた。
「どうぞ顔を上げて。ようこそ我が城へ」
「お初にお目にかかります、女王陛下。リリアンヌ・ロクサーヌ・シャノワと申します」
女王との対面に、身体にサッと緊張感が走る、だが顔を上げて目に映ったその姿に、リリアは密かに息をのんだ。
結い上げた髪はジェイドと同じ青銀、そして深い碧の瞳。どこか勇ましい感じがするその雰囲気に、紺のシンプルなドレスが映える。溌剌としたその姿は凛々しく、かつまたとても若々しかった。
女王はニコニコ笑いながら「リリアンヌ。堅苦しい挨拶は抜きにしましょう」とこちらに向かってくる。たちまちリリアと真正面に向き合った。
「まあ、なんとも可愛らしい姫だこと」
「ーーもったいなき御言葉です」
女王陛下にこんな言葉をかけてもらえるなんて、嬉しいやら照れくさいやら。それでも、失礼のないよう言葉を返したが、照れは如何ともしがたく、すぐ目を伏せてしまった。
「リリアンヌ、先だってはジェイディーンが大変世話になりました。母親として心からの礼を言わせてね。息子を無事帰してくれて、本当にありがとう」
「こちらこそ、ジェイディーン王子には何度も危ないところを助けていただきました」
「まあまあ母上、そんないきなり距離を詰めては。……リリアンヌ姫も、困っていますよ」
勢い込んで両手を握り締めてくるその姿を、後ろに控えていた二人の男女のうち、若い女性が呆れたようになだめる。
「リリアンヌ姫、私はローランナ。ジェイディーンの姉です。気軽にローラと呼んでください」
「はじめまして、ローラ王女。リリアンヌと申します」
「ローラ、です。私もリリアと呼ばせてね」
ジェイドより青色が濃い髪のローラはニッコリ笑うも、ね?と押しが強い。
さすがジェイドの姉というだけはある。華麗に笑いつつのこの強引さ、なのに嬉しくなってくる。
「先日は弟が迷惑をかけたそうで、ほんとごめんなさいね」
「そんな、とんでもございません」
「姉上。俺は迷惑なぞ、断じてかけていない。なあリリア?」
顔を覗き込んでくるジェイドに、もちろん決してかけられていませんと慌てて頷いた。
そこへ最後に、女王陛下より少し年上であろう男性が挨拶をしてくる。
「リリアンヌ令嬢、私はジェラルド・ルイモンデです。この度は息子が大変世話になりましたね」
「っ初めまして、ルイモンデ公。お目にかかれて光栄に存じます」
(うわあ、どうして……王家の方全員がここに集まっているの?)
女王陛下を筆頭に、第一子であるローランナ姫は王太女、第二子のジェイディーン王子に、女王陛下の夫でありルイモンデ公爵家当主でもあるジェラルド……。まるで王室アルバムをめくったような顔ぶれに、めまいがしそうだ。
心の中でタジタジとなったリリアの手を再び取って、笑顔の女王は菓子やケーキが並ぶテーブルへと歩んだ。
「さあ、待たせましたね、お茶の時間にしましょう」
「は、はい……」
母とリリアの後ろをジェイドは黙ってついていき、テーブルで何げにリリアの隣に座った。
「まずは、おめでとうを言わせてくださいな。リリアンヌ、魔導士のテストは合格です」
「まあ、ありがとうございます!」
女王から直々告げられた朗報に、心がいっぺんに浮き立った。
テスト結果は上々で、嬉しくて目頭が熱くなる。
ほんと良かったと感激していると、いつのまにか王家御一家のお茶会はリリアの祝賀会となっていた。さっきまで上品な紅茶が給仕されていたはずが、なぜだかワインに取って変わっている。
そしてリリアは早速翌日から王城に通い、見習い魔導士としてミルバの指導を仰ぐこととなった。
そこで初めて、ミルバが文官をまとめる事務長官、ルイモンデ公が軍事を取り仕切る最高司令官であることを知った。ミルバは仕事人間で、街で初めて彼女に会った日は貴重な休みだったにもかかわらず、公募の様子をわざわざ事務官に紛れ視察していたらしい。
ローラ姫は女王の執務官として主にミルバを、ジェイドはルイモンデ公を補佐していると聞いて、なるほどと頷いた。だからジェイドが王都の警備を担当する騎士団を指揮していたのか。
ジェイドは騎士団を始めとする、海軍、陸軍などすべてのナデール軍をまとめる総大将だったのだ。
そんな人を異国の地へ、転移の事故とはいえ巻き込んでしまったなんて……
今さらだけど、呼び捨てするのもおこがましく思えてくる。だが、そんな彼の意向に反するのもどうなのか……。何より、ジェイドと呼べと何度も念を押され、気を許してもらっているようで嬉しかった。
驚きはしたが納得もした事務的な話を終えると、ワイン片手の気軽な態度で、ボム事件のことを詳しく話して欲しいと尋ねられた。
「リリアンヌ、先だっては災難だったわね」
女王から請われ事件のあらましを話し始めたリリアだったが、初めて飲んだ上等なワインのせいか、日常生活にまで話題が及んだのを不自然とも思わず、問われるままシャノワ家の内情まで語っていた。
その間もボウーとしてきた頭で、ジェイドが自然と肩を抱いてきたのに気付きはしたが、どうしようと内心で困惑する。二人だけの時ならば気にならないが、今は女王陛下の御前の席で……失礼にあたらないだろうか? けどジェイドは王子だ。さり気なくずらすべき? それとも流すべきかと迷っていると、女王がコホンと咳を小さくした。
「ところで、あなたたちは、一体どこまでいったの?」
「え? あの……」
質問の意味を測りかねているリリアに代わって、ジェイドが平然と答える。
「母上、俺たちはすでに裸の付き合いだぞ。だよな? リリア」
肩を抱く腕に力を込めるその堂々とした態度に、「きゃあ~」とローラのはしゃいだ声が上がる。
だが、もっと大きな声をあげたのは、他でもないリリア本人だった。
「ジェイドーーっ? なんてことを言うのっ」
思わず王子を呼び捨て、それも全身真っ赤だ。
リリアの叫びにあらまあと目を見開いて、次に息子をちらり見ると片眉を上げた女王は、ふうと軽い息を吐いた。
「ジェイディーン、あなたはもう少し言葉を選びなさい。リリアンヌ、こんな息子でごめんなさいね」
「陛下、あの違うんです」
必死で「その、もちろん親しくしていただいて……。ですが、着替えとか、それから水浴びがーー」と訴えかけると、分かっていますよと女王は鷹揚に頷いてくれた。
「大丈夫よ、リリアンヌ。水魔法が得意だそうですね。私の息子が失礼な真似をした時は、遠慮なく頭を冷やしてやりなさい。まったく、こんな席でレディーに恥をかかせるなんて……」
涙目で助かったとリリアは女王陛下を見つめた。それを受けた女王は、ここはいかにも母親の役目だと息子に釘を刺す。
「いいこと、ジェイディーン。女性と親しくなった時はそんな男同士の友情表現など使わず、もう少し適切な言葉を選びなさい。せめて、とても親しい仲だとか、気持ちが通じ合っただとか、合意で致したなど、婉曲な表現を使えば良いでしょうに」
(え? あれ……? 合意で……)
致したって、一体何をーー?
最初に挙げた例はかろうじて了承できるけど、後の二つはどうなのとワインで酔ったリリアの頭は一瞬困惑した。だが、途端にめまいを覚え思わず両手をテーブルにつく。
そこへ身ごなしが怪しくなったリリアを助けるように、「陛下、それに皆様も、そろそろ公務に戻りませんと」とミルバの声がした。
ーー水を飲むようにワインを空けていた王家のメンバーは、いかにも残念そうにグラスから手を離す。
最後に落ち着いたルイモンデ公の声が気遣うように、リリアに語りかけてきた。
「リリアンヌ姫は、少し休憩された方がよかろう。陛下に付き合って飲んでいたら、キリがありませんからな」
みると、公とミルバだけは紅茶のカップを手にしている。
つまり酒豪はどうやら、王家の血筋らしい。その証拠に他の三人はまったく顔色一つ変わっていない。
勧められるままグラスを空け、ほろ酔い気分だったリリアの記憶は、そこから徐々に怪しくなった。
挨拶をして、差し出されたジェイドの手を握ったことまでは覚えている。だが、フワッと身体が浮いて暖かい胸に包まれると、リリアの目蓋は自然と閉じていた。
意識が戻ると、見慣れない華やかなシルクが垂れ下がったキャノピーが見えてくる。
ーーいつのまにか、天蓋付の大きなベッドに寝かされていた。
ここは一体……、と窓を見ると、森の向こうに海が広がっている。
すごい。なんと素晴らしい景色なのだろうーー……。空の上にいるような迫りくる雲と、入江まで続く深い緑の森、そして海の絶景だ。こんな風景が見える部屋は、城のどこかに違いない。
空はピンクがかりもう陽が暮れはじめている。
上体を起こし雅びな調度品や可憐な壁紙に目を向けた後も、外の景色をぼんやり見ていると、トントンと柔らかなノック音がして、開いた扉から優しそうな女性が顔を覗かせた。
「あ、お目覚めですか」
「あの、私……」
モリンと同じ年代のベテラン女中と言った感じの女性は、どこか見覚えがある。耳の先が少しとんがっているところを見るとエルフの血が混じっているのだろう。こちらに向かってくるその姿勢の良い姿を見て、ようやく中庭まで呼びにきたメイドだと気づいた。
「お加減はいかがですか、リリアンヌ様?」
頭に手をやりながらも大丈夫だと答えると、メイドは掲げていた小さな桶に魔法で水を満たし、濡れたタオルを絞ってくれる。顔や手を拭って少しスッキリすると、「ジェイド様を呼んでまいります」と丁寧に礼をして廊下に消えていった。
しばらくしてゆっくり身体を動かしベッドから立ち上がりかけていたところへ、ノックの音がしてジェイドが入室してきた。
「リリア、身体の具合はどうだ?」
「ジェイド、ーー私、酔ってしまったのね」
どうやら王家に招かれた大事なお茶会の席を退出した後、張りつめていたものが切れたように酔いが回ってしまったらしい。
「まだ少しふらついているな。しばらく座っておけ。俺が、もう少し気をつけてやるべきだった。母上のペースに合わせると、大抵の者は酔い潰れてしまうからな」
「私も少しはしゃぎ過ぎたの。ごめんなさい」
お酒は嗜む程度、あまり強くないことはわかっていたはずなのに。うっかり浮かれてしまった。
恥ずかしそうに俯いたリリアを、気遣うようにその隣にジェイドは腰掛ける。その重みでベッドがわずかに軋んだ。
拍子に、指先と指先がわずかに触れ合う。ただそれだけで、喉の奥から、あ、とかすれた声が漏れた。
どきん、と高鳴った心臓が早鐘を打ち出す。と、ジェイドの手がそっと重ねられた。輪郭を確かめるように親指で優しく素肌をなぞってくる。
「リリア、もう帰ってしまうのか?」
「あ、……は、い……」
もう夕方だ。そろそろ帰らなければモリンが心配するだろう。
ーーだけど何だろう、この水の中をゆらゆら漂うような感覚は……?
ワインの酔いが抜けきれてない、そんなどこか甘酸っぱいゆるりとした時刻が流れ、二人はお互いを見つめたまま動かない。
けど、そうした方がいいように思えて、ジェイドが重ねてきた手を指先でおずおず握り返した。
するとそれが合図だったように、紫水晶の瞳が近づいてくる。目を閉じろと言われた気がした。
「ん……ーー」
二人の吐息が重なる。
触れてきた唇の柔らかさと、思いがけないその熱さに一瞬びくと身体が震えた。だがジェイドは、片腕を回し逃さないと抱きしめてくる。
何だか夢を見ているみたい。頭がフワフワしている。
(私、今、ジェイドにキスされてるーー……)
周りからすべてが消えた。かわりに、ドキンドキンと大きく高鳴る心音だけが聞こえてくる。
これはーー心臓の音……? のぼせた頭では、はっきりしない……
「……逃げるな。逃げたら邸に帰さない」
唇を触れ合わせたまま、静かにあやすようなジェイドの囁きーー。
鼓膜を震わせる低い声に、身体中の力がフッと抜けた。ジェイドは重ねた手の指をきゅと絡めてくる。固く抱きしめられ夢見心地でいると、さっきまで寝ていたベッドにゆっくり押し倒されていた。
「あ……」
「俺とキスをするのは、嫌ではないな? なら、逃げるな」
逃げるとか、そんな考えは頭に浮かばなかった。嫌だとも、その腕から逃れようとも思わない。
初めて、キスをして欲しいと思えたからジェイドに唇を許した。
その不思議な感触に陶然としてしまう。ジェイドはこぼれた吐息をあやすように柔らかなふくらみを啄ばんでは、味見だと言わんばかりに軽く舐め甘噛みしてくる。その腕にためらいがちに触れると、今度は先ほどより強く唇を吸われた。
「んっ……ん……ふっ……っんん」
うっとりするキスをゆっくり何度も繰り返され、息継ぎをするたび思いがけなく唇の隙間から甘い吐息が漏れる。重なった身体に互いの腕が巻きつき、吐息を交換をしあった。
なんて、心も身体も暖まってくるのだろう。唇を重ねるたび、ジェイドを身近に感じる。
だんだん熱くなる身体を撫で回していたジェイドの腕が、やがてリリアをきつく抱きしめた。
深い呼吸音が聞こえる。
「リリア、送っていこう」
紫の瞳が、ぼんやり焦点の合わない瞳を見つめた。上気したリリアの頬をひと撫ですると、ベッドから優しく抱き起こす。ふらつく身体を支えるように手を貸し、腰に手を回した。
「あ、ありがとう、ジェイド……。大丈夫。もう歩けるから」
(しゃんとしなくては……ここはまだ、王城なのよ)
うっかり忘れていたこの事実に思い当たると、背中は自然と真っ直ぐ伸びた。まだ火照る頬に両手を当て、軽く気合を入れるとジェイドが髪に唇を当ててくる。
「さあ、こっちだ」
その言葉で身体にも力を入れ、しっかりした足取りでリリアは歩きだした。
「リリア。明日も、会えるな?」
ジェイドに送ってもらったその直後。
馬車が邸前で止まっても、どうやってここまで来たのかさえ思い出せない。
二人だけの馬車の中でも、お互い見つめ合うだけでほぼ黙ったままだった。
だから、その紫の瞳を見つめ返すのはまだ恥ずかしかったけれど、大きく頷く。
「ジェイド、あの、ありがとう。送ってくれて。じゃあまた明日」
こうして初めてキスを交わした日、リリアは甘酸っぱい気持ちを抱えたまま邸に帰っていった。
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