二人の甘い夜は終わらない

藤谷藍

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1巻

1-3

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「これで、もう……」
(あっ、ん……っ)

 奥に、温かい飛沫しぶきがドクドクと流れ込んでくる。
 花乃の膣内なかが熱いほとばしりで激しく濡らされていった。
 彼の情熱でうるおう初めての感覚に、また極まってしまい震えが止まらない。

(あぁ、もう幸せ……、夢とはいえ、一樹さんに丸ごと愛される、なんて……)

 心からのよろこびで、まなじりから幸せの涙が一粒こぼれ落ちた。
 押し寄せる快感と感動で、心が充実感で満たされていく。
 今の今まで、知らなかった。
 好きな人に抱かれることが、どういうことなのかを。
 まるで自分の魂の片割れを得たような、この至福の喜び……
 興奮した意識の中、花乃の身体がフワリと浮いた気がした。
 注がれた熱い精が、足の間からどろりとあふれている。生温かく、ぐっしょり濡れた感覚がしたが、花乃は目を閉じてグッタリとシーツの上に横たわった。
 固く抱き締められたままの身体は、弛緩しかんと気だるい感じに襲われ、今は指一本も動かせない。
 薄れゆく意識に身を任せ、最後にそっと「好きよ……」とつぶやく。
 そのまま魔法にかかったように、スーッと寝息を立てた花乃はぐっすり眠りについた。


 シーツを引っ張られた――そんな感触になんとなく寝返りを打った後、妙な胸騒ぎがして、ぱちっと目を開けた。
 すると視界に飛び込んできたのは、見覚えのある超イケメンの寝顔。
 夢の続きかと一瞬、神様に感謝しかけた花乃は、腰にかかる大きな手の熱さにハッとした。
 身体に巻きついているたくましい腕の感触――どうやらこれは現実らしい。
 まだ夜明け前なのか部屋は暗かったが、隣で穏やかに寝ている男性が幻ではないことぐらいはさすがに分かる。
 痛む身体に顔をしかめて、そうっとシーツを持ち上げれば、自分は真っ裸だ。ついでに、隣の彼も当然裸だった。
 うわぁっと叫びそうになる声を、花乃は全力で呑み込んだ。

(ど、どうなってるのこれ……?)

 ハテナマークが脳内で飛び交う。
 なぜ昨夜バーで見かけた、あの人そっくりのイケメンと同じベッドで寝ていて、その上二人とも全裸状態なのか。
 足の間は何かヌルヌルするし、その周りは何度もこすったように染みて痛い。内ももはものすごく乾いた感じがする。
 それに身体を動かそうにも、腰にうまく力が入らない……
 そっと周りを見れば、乱れまくったシーツに、絨毯じゅうたんに脱ぎ捨てられたバスローブが目に入る。
 これは、どう見ても事後――つまり朝チュン状態である。

(ああぁ! どうしよう、絶対やらかしてしまった!)

 ご丁寧にも、昨夜の記憶が断片的によみがえり、走馬灯のように浮かんでは消えていく。
 花乃の全身からサーッと血が引いた。
 まずい、まずい、まずいっ!
 夢だと信じ込んでいたとはいえ、知らない男性とこんなことになるなんて……

(あぁ、でも、こんなにも好みの人に抱いてもらえた……)

 花乃の人生における最大の非常事態なのに、現実逃避もいいところで、彼の寝顔を見つめると一瞬で喜びがあふれる。
 これはダメだ……と焦る気持ちと、こんなに素敵な人と初めてを……という能天気さが程よくミックスされ、頭は即パニックになった。
 だけど、とりあえずはベッドから退却。状況を把握しよう。
 ぎこちない身体にムチ打って、温かい腕からそろそろと抜け出す。
 腕はなんとか動くのだが、下半身と腰がガクガクして、情けないことに最後はほふく前進である。
 時間はかかったが、なんとかソファーのある部屋まで退却できた。

(と、とりあえず、水を……)

 ボトルに手を伸ばし、一口水を飲んで落ち着くと、ふとソファーテーブルに置かれている名刺が目に飛び込んできた。

『花鳥コーポレーション アジア統括シンガポール支社長 天宮一樹』

 本店と呼ばれる親会社の名前にも驚いたが、この名は確か最近目にしたばかりだ。

(あっ、今期うちに来る新社長!)

 主任に頼まれて作ったIDのぬしと、同じ名前ではないか……?
 そういえば、昨日のバーでも確かに彼は、『天宮さん』と呼ばれていた。
 ……ということは……
 先ほど花乃を襲ったパニックは、今感じているこの大パニックに比べればカワイイものだろう。フラリと倒れてしまいそうなほどのショックが、花乃の身体を走り抜けていった。

(私ってば、自分の会社の社長と……⁉)

 しかもだ。昨夜、彼は紳士的な態度でこのソファーで寝ていた。
 それを真夜中にわざわざ起こし、しかもキスをして間違いなく自分から誘惑を仕掛けた。
 彼もバーで飲んでいたし、二人とも酔っていたとはいえ、彼には昨夜見かけた綺麗な女性もいるというのに、なんということを……!
 これはもう、やっちまったぜ、てへ程度の誤魔化しで済まされる問題ではない。

(……逃げようっ)

 今すぐ遁走とんそうだ。彼が目を覚まさないうちに、ここから逃げ出さなければ。
 自分さえここにいなければ、彼も酔っていたから夢だったと思うかもしれない。
 花乃は血走った目で、服はどこ、と周りを見渡し、すぐに昨日シャワーを浴びたことを思い出した。
 絨毯じゅうたんの上を四つん這いでバスルームへ這っていき、きちんと畳んである服を、身体の痛みに顔をしかめながらも大急ぎで身につける。

(どうしてショーツがないのっ? ブラはここにあるのに!)

 けれどどんなに周りを見渡しても、ブラとお揃いで買ったお気に入りのショーツは見つからなかった。
 幸いスーツは仕事柄動きやすいパンツスーツだったので、思い切ってショーツは諦める。
 なにせ彼が目を覚ましてしまったら、即アウトだ。
 押し迫った事態に、そのままスーツを速攻で身につけた。
 よし、とパンプスと一緒にソファーの横に置いてあったバッグをつかむ。
 後は全力でここから逃げ去るのみ。
 転げるように廊下に飛び出した花乃だったが、幸い夜明け前なので周りには人影がない。
 エレベーターに乗ってボタンを押すと、ホワンとした浮遊感がまだ辛い身体を襲ってきた。
 だが、耐えなければ……このホテルを出るまでは、安心できない。
 手に持ったパンプスを履きフロントに着いた花乃は、女優も真っ青の演技で堂々とコンシェルジュにタクシーを呼んでもらった。
 実際はノーメイクのひどい顔なのだろうが、今はそんなことに構っていられない。
 花乃はすぐに来たタクシーに乗り込み、急いで自宅の住所を告げた。
 タクシーの後部座席にぐったりともたれ、落ち着かない胸を押さえながら窓の外をぼんやり眺める。
 どこまでも続く街路樹の緑が視界に入ると、花乃の脳裏に、子供の頃にこの近くの公園によく足を運んでいた懐かしい記憶がよみがえった。



   2 初恋の人


 初恋の人、遠藤一樹に初めて出会ったのは、花乃が十一歳の時。場所は都内の図書館だ。
 当時小学六年生だった花乃は、本棚に沿って本を物色していた。その時、一人の少年が視界に入った。
 すらっとした長い手足に、本棚の上段にも届く高い上背。
 すっきり整った目鼻立ちにスッとした優美な眉、そして意志の強そうな口元。
 ひたいにかかった茶色の髪は見るからに柔らかそうで、半ば伏せられた瞳は長い睫毛まつげに縁取られている。
 本を読むその姿に気品がただよう少年は、とても印象的だった。
 着ている服は普通のパーカーとジーンズ。なのに、礼服やタキシード姿が簡単に想像できるほどだ。

(ぅわあ、なんて綺麗な男の人なの……)

 当時の一樹はまだ成長期半ばの高校生で、男の人というよりは大人になりかけの少年だったのだが、小学生の花乃からすれば立派な男の人。
 思わず見惚れた花乃は、心が奪われるというのはこういうことなのかと初めて理解した。
 本棚にもたれて本を読んでいた一樹は、花乃の視線に気づいたのか、顔を上げた。驚いたように目を見張った後、「ああ、悪い」とばつが悪そうに笑い、すっと横に移動する。どうやら本棚の奥へ行きたがっていると思われたようだ。
 彼が笑った瞬間、花乃の胸にそのさわやかな笑顔が永久に焼きついた。
 花乃は「いえ、違う棚でした。ごめんなさい」と慌てて頭を下げ、そこから去った。
 その日から、彼は図書館に来ているだろうかと、無意識にその姿を探すようになったのだ。
 毎週姿を見せる彼は、花乃の顔を覚えてくれたようで、目が合うと目礼までしてくれるようになった。次に会えるかもしれない土曜が、ますます楽しみになる。
 そうして半年近くが経ち、花乃は中学生になった。
 あこがれの一樹とはまだ言葉さえ交わせていなかったけれど、目礼を返す仲にはなっている。
 彼は、女の子も交ざっている友達グループとよく一緒にいた。
 多分、何かの勉強会なのだろう。しゃべっている内容をさり気なく聞いた花乃は、一樹の名前と学年を知った。
 身長がすでに同年代の女子より高かった花乃は、見かけだけは彼らとそれほど変わらなかったが、彼は高二で自分は中一。この学年の差はやはり大きい。
 花乃は黙ってノートパソコンを抱え直し、おもむろにそこから移動した。
 そんな梅雨つゆも明けたある日。
 花乃が図書館の側にある公園のベンチに座り、持参したお弁当を食べていると、「隣、いいかい?」と後ろから優しく声をかけられた。聞き覚えのある声に、まさかという思いでドキドキしながら振り返る。すると、一樹が本を片手に立っていた。

「あっ……」

 昼前に彼を見かけたことはなかったので驚いてしまい、手に持った箸からタコさんウインナーが滑り落ち、コロンと彼の足元に転がった。

「ごめん、驚かせて」

 こうして、二人は初めて会話を交わした。そしてまるで昔からの知り合いのようにすぐ打ち解け、彼の友達が来るまで一緒に過ごした。

美味おいしそうだね」

 自作弁当を褒められた花乃は、思い切って「あの、よかったら」と勧めてみる。遠慮した彼は、「今日はおやつも持ってきてるので」とさつまいもマフィンも取り出した花乃を、目を丸くして見た。

「もしかして、これ、全部君の手作り?」
「はい」

 花乃は笑顔で答えて、たくさんあるからとマフィンとおかずを弁当箱のふたに置いて、彼に渡す。

「それじゃあ遠慮なく」

 彼は嬉しそうに笑い、完食した。弁当の感想を聞きながらしばらく過ごしていると、彼の携帯が鳴り出し、彼は「じゃあ、また」と手を振って、友達と合流するために立ち去った。
 翌週からは、持参するお弁当のおかずとおやつを念のため少し増やすことにした。
 自分で料理するのは慣れているし、食費は親から十分にもらっている。
 花乃の両親は、週末でも家にいることは滅多になかった。父は研究者、母は実家のスポーツ用品店の店員として働いていることもあるが、二人の夫婦仲はすでに冷え切っていて離婚まっしぐら。
 母とは実は血がつながっていない。花乃は父が浮気相手との間にもうけた子供で、四歳の時に引き取られたのだ。江戸っ子気質のさっぱりした母は、女の子も欲しかったと言って、ずっと面倒を見てくれた。ちなみに、浮気性の父は家にほとんど帰ってこない。
 花乃には半分血がつながった兄、総士そうしもいるのだが、こちらも母と同じような性格で、花乃を普通の妹として扱ってくれる。だが、当時は母も兄も仕事や部活で忙しく、週末家にいることは滅多になかった。
 だから花乃は、土曜日は朝起きると身支度をして洗濯機を回し、朝食とお弁当を作る。母の手をわずらわせるのは申し訳なかったし、家の仕事は嫌いではなかった。食べ終わると掃除をして乾燥機を回し、お弁当と勉強道具を持って出かける。一人で家にいるのは気が乗らず、かと言って友達と遊ぶ気にもなれなかった花乃は、心安らぐ図書館で過ごしていたのだ。
 そんな時に出会った一樹は、花乃の土曜日を特別な日に変えた。
 週末が待ち遠しくなり、初めてお弁当を分け合った日以降は、彼と毎週お昼を一緒に過ごすようになった。


 そうして夏が過ぎ、秋になり、落ち葉が降ってくる頃には、一樹と花乃は互いを名前で呼び合うようになっていた。
 最初は「遠藤さん」と呼びかけた花乃に、彼は「一樹でいい」と譲らず、「一樹さん」呼びに落ち着いたのだ。
 見た目はさわやかな貴公子で、物腰も態度も柔らかい一樹だったが、案外押しが強かった。
 うながされて真っ赤になりながら初めてその名で呼びかけると、彼は嬉しそうに笑った。

「何だい、花乃?」

 堂々と呼び返された時の照れくささと言ったら……今でもハッキリ覚えているくらいだ。

「花乃の料理は、ホント美味うまいな」

 一樹はそう言って、花乃のお弁当を残さず完食した。嬉しくて笑いかけると、照れたように笑い返してくれる。初めは目が合うだけで心が浮かれたが、一緒に過ごすうちに気持ちはワインのようにじっくり熟成され、もっと確かなものに変わった。
 だが、年が明けバレンタインも間近に迫ったある日。
 このささやかな幸せは突然終わりを迎えた。きっかけは小さな出来事だった。
 その日花乃は、せっかく作ったお弁当を家に忘れてしまい、兄の総士が部活に行くついでにお弁当を届けてくれることになった。図書館の前で兄を待っていると、一樹がちょうどこちらに向かって歩いてくる。花乃を見ると、ご機嫌な様子で挨拶あいさつをしてきた。

「花乃、おはよう、どうしたんだ、こんなところで?」
「あ、今日はお弁当を家に忘れてしまって」

 そろそろかな? と、携帯を取り出すと、一樹に「もしよかったら、番号教えてくれないか?」と聞かれた。
 そういえばまだ連絡先を知らなかったと、お互い番号を交換した直後に、総士が向こうから歩いてきた。

「お前、せっかく作った弁当を家に忘れてどうすんだ? まったくドジだな」

 いかにもしょうがないなぁといった様子で注意された後、総士は隣にいる一樹を見て、不思議そうな顔で話しかけてきた。

「なんで遠藤がこんなところにいるんだ?」
「……化学部の部活さ。成瀬こそ、部活じゃないのか?」
「俺はこいつの忘れ物を届けにな。これ俺の妹、花乃。花乃、お前、遠藤と知り合いなのか?」

 花乃が頷くと、総士は「さすが俺の妹、目が高いな。遠藤は俺と一緒の学校なんだぜ」と弁当の入ったカバンを掲げながら、からかうように肘で小突いてくる。
 一樹と総士は一緒の学校だったのか。意外なつながりに驚いてしまって、兄のからかうような調子にもうまく言い返せない。
 そんな花乃から目を移し、戸惑った顔をしている一樹を見て、総士は楽しそうに笑った。

「ああ、こいつ、背が高いから同い年ぐらいに見えるけど、これでも中一だぜ、ピッカピカの一年生だ」
「中学生?」
「見えないだろう、二人で歩くとカップルに間違えられて、いい迷惑なんだぜ」

 総士は一樹の明らかに驚いた様子に、はははと面白そうに笑っている。そこにガヤガヤと男女のグループが近づいて来た。

「なんで、成瀬がこんなとこにいるんだ?」
「成瀬先輩、彼女いたのー! 図書館デートですかぁ?」

 お弁当の入ったカバンを花乃に渡した総士を見て、同じ学校の友達らしき面々が興味きょうみ津々しんしんでからかってくる。総士は「ほらな」と一樹の方を向いてうんざり顔をした。

「これ俺の妹、中一。俺の彼女は募集中だ」

 そう言って笑うと、じゃあな、と駅の方に歩いて行った。

「成瀬の妹? 全っ然似てね~」
「中一? うっそ~、見えな~い」

 それぞれ珍しそうに花乃を見てくる集団が、図書館の入り口で騒いでいることに気づいた一樹は、「ほら行くぞ。花乃もまたな」と友達をうながした。
 翌週、一樹が公園のベンチに訪れた時には、数人の友人を伴っていた。そして彼は「今日も美味おいしそうな昼だな」と言って、じゃあと離れていく。
 ――それからは、常に誰かと一緒に挨拶あいさつだけをしに訪れるので、花乃が用意したお弁当を分け合うことはなくなった。しかも、花乃が彼に笑いかけると、笑顔は返されるもののすぐ目を逸らされてしまう。それ以降は二人きりで会う機会がなくなり、避けられていると悟った花乃は、チョコを渡すのを楽しみにしていたバレンタインも諦めた。
 せっかく番号を交換した携帯にも、電話がかかってくることはなかった。
 十二歳の花乃には、自分から好きな男の子に電話をかける勇気もなかったのだ。
 それに……こんな風に会えるのも、あともう少しだけ。両親の離婚のため、とうとう花乃は父と一緒に都内を離れることが決まった。それが分かっていたので、一樹を待ち続けるこの習慣を変えることはなかった。
 引っ越しの前週、花乃は勇気を出して、自分の誕生日でもある土曜に告白することを決めた。
 そして、図書館に向かう途中の駅で、偶然彼が友達と話している会話を聞いてしまったのだ。

「成瀬の妹か? ……冗談だろ。まだ中学生じゃないか。それに、ハッキリ言ってタイプじゃない」

 心にナイフがぐさりと刺さるが、人通りも多い駅の構内では涙をこらえるしかなかった。
 だが、幸か不幸か、こんな風に別れを経験することには慣れていた。生まれた時は父に、その後は実母に、そして育ててくれた義母と兄とも別離が決まっている。
 花乃が大切に思う人は皆、なぜか自分から離れていくのだ。
 花乃は心に刺さったナイフを全力でソロソロと引き抜き、大人しく駅から家へと引き返した。
 春の陽射しの中、そのまま家に帰り荷造りの続きをして、夜中に布団の中で散々泣いた。
 受け入れてもらえない理由が年の差であれば、何年後にはなんとかなるかもしれない……そんな風に思っていただけに、タイプでないと言われたダメージはとてつもなく大きかった。
 そして数日後、花乃は父の実家近くの千葉に引っ越した。その後は、一樹と会うことは二度となかった。
 いくつもの季節が過ぎ、花乃が高校生になると、父が再婚した。居場所がなくなった花乃は、一人暮らしを始めた。生活費は年齢を誤魔化しバイトでまかなうことができたし、幸い花乃の年齢詐称を疑う人もいなかった。都内の大学に通うことになっても、東京は家賃が高いので結局そのまま千葉で一人暮らしを続けた。
 大学生になり社会人になり、幾人いくにんかに言い寄られデートはしてみたものの、どうしてもその気になれず今日に至る。
 いつまでも恋人ができない妹を不憫ふびんに思ったのか、兄には大学に入ったぐらいの頃から、いい奴を紹介してやると言われ続けている。だが、兄の知り合いだと色々と面倒なことになりそうなので、毎回好きな人がいるからと誤魔化した。
 そして最近では育ててくれた母にまで心配をされ、結婚する気は今のところないと言うと、ハア~と重いため息をつかれている。父はもともと干渉してこないし、再婚相手と暮らしているので疎遠である。
 そんなカサカサに干からびた生活を送っていた花乃は、二十八歳の誕生日当日まで誰とも深い関係になることはなかった。


    ◆ ◇ ◆


 久しぶりに我が身に降りかかった予想外の出来事に、花乃はふう、とタクシーの後部座席のシートにもたれ掛かる。
 身じろぎをすると、クチュと足の間から昨夜の痕跡があふれ出そうになり、慌ててお腹と太ももに、ぎゅうっと力を入れた。
 安堵で胸を撫で下ろすものの、やっと正常に動き出した理性が安心してる場合ではないでしょ、と冷静に指摘してくる。

(そうだった、こんな状態ってことはもしかして……っ)

 昨夜自分たちは抱き合った際に、避妊をしなかったのだ。
 いくら一目惚れした人とはいえ、酔っ払って醜態をさらし、彼を誘惑したあげく、処女を捧げて最後は中出し……
 花乃は思わずうめき、その場に突っ伏してしまった。

「お客さん、大丈夫ですか?」

 運転手に心配されて、顔を手で覆ったまま「大丈夫です、ちょっと自己嫌悪中なので……」と答える。
 信じられない失態だ。これが二十八にもなった大人のすることだろうか……?
 断片的にだが、はっきり覚えている。確か指先に当たったプラスチックの小さな袋を、ええい、邪魔よとばかりに、ベッドからポイと放り投げた昨夜の自分を……

(だって、夢だって信じてたから、そんなもの要ると思わなかったんだもの……)

 彼に抱かれたことは一ミリも後悔していない。嬉しくて顔がにやけるくらいなのだが、避妊をしなかったのは、痛恨のミスだ。
 だけども、昨夜バーで天宮一樹を一目見て、ああ、この人が好きと思った。
 初めて会った瞬間に恋してしまった。
 こんな気持ちは、遠藤一樹と出会って以来だ。
 情けないような、嬉しいような複雑な気分にどっぷりとひたっていると、「お客さん、着きましたよ」とタクシーが大きな門のある家の前で停まった。
 そこは文京区にある大きな家で、花乃の仮の住まいでもあった。花乃はここで留守番のような住み込みバイトを、もう五年以上続けている。
 キッカケは、就職も決まったある日、当時住んでいたアパートの大家に引っ越しの相談をしたことだった。大家の知り合いがちょうど管理人を探していると紹介され、引き受けてくれるならペットも可、バイト代まで出すと言われたので、こころよく引き受けた。大家の親戚である家主は、家が空き巣に狙われたり、不法占拠されることを恐れたらしい。たらい回しで転々と引っ越しを繰り返してきた花乃にとって、こんなありがたい話を断る理由はなかった。
 その上、家は都内の高級住宅街の一軒家で、荒れているどころか新築状態だったのだ。
 花乃はそれ以来ずっと、この家の管理をしている。今年も契約更新を済ませたばかりだ。
 タクシーから降りるとホッと一息、門前まではなんとか気力のみで歩いた。が、門をくぐった途端、倒れ込みそうになるのを門柱につかまって踏みとどまる。ふと玄関口を見ると、ドア前に一匹のふわふわした灰色のかたまりがちょこんと座っている。ミャオと挨拶あいさつの声を上げた。

「……モップ、こんな朝早くから……はいはい、ご飯ね、ちょっと待ってて」

 どこ行ってたんだよ~とばかりに、足元に擦り寄ってくる猫の背を、かがんで撫でる。
 モップという名のこの猫は、花乃の飼い猫ではない。ある日、会社帰りに道を歩いていたら勝手についてきてしまったのだ。
 最初にモップを雨の日の道路で見かけた時は、掃除の時に使う水拭きモップの先っぽが道路に落ちているのだと思った。灰色の少し長めの毛はベッショリと濡れてひとかたまりになっていたし、モップそのものにしか見えなかったのだ。
 モップにご飯をあげようと立ち上がった拍子に、腰が嫌な音を立てた。「痛っーいっ」と思わず小さな悲鳴が漏れる。

(これはダメだわ、まともに歩けないわ……)


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