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モフモフに、遭遇しました

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「どうどう、やはり、普通の馬の乗り方をだいぶ忘れているよな…」

手綱を締めたシンの手元は、少々危なげであった。
それでも大型の黒馬を停止させると、今度はあぶみから慣れた身のこなしで、ヒョイっと軽く飛び降りてくる。
この立派な黒馬は、シンが出がけにうまやで巧妙に交渉して手に入れた馬である。
市場では高値で取引されるという、貴重で珍しいゴリウザルの魔石と交換しただけあって、馬自体は丈夫で足の速い馬だった。
道中、制御が危うかったのは、決して馬のせいではない。
ハッキリ言って、乗り手の手綱捌きが多少怪しかったのだ。

「もしかして、馬に乗るの、久しぶりなの?」
「ああ、馬は子供の頃に乗ったきり、だな」

意外な答えに、驚いてしまった。

「ええっ、じゃあ移動は? ひょっとして全部歩いてなの?」
「いや、別の生き物に乗っていただけだ」
「別の生き物?」
「ああ」

荒い息の黒馬の手綱を引きながら、足元の草叢くさむらを掻き分け、シンは川岸にゆっくりと近づいていく。

「俺もちょっと用を足してくる」

馬が嬉しそうに、水だー、と川に鼻面を突っ込んだのを確かめると、律儀に断ってきた。
川縁かわべりから森の中にその姿が、スッと消えていく。
逞しい背中を何気に見送ると、慣れない遠乗りで疲れを感じたリナは、フゥと、吐息を小さくついた。
川は深そうだが水は澄んでいて、川底の石まで綺麗に透き通って見えている。

(気持ち良さそう…)

誘われるように岸辺に屈みこんで、汗でベトついた手の平を冷たい水にひたした。
すると、テンの背中で揺られて、ポワンとしていた頭が一気に、スキッとした。

(ハァ~、冷たくていい気持ち~…)

浸した手を水の中で、ヒラヒラと揺れ動かし、水をパシャッとすくっては、指の隙間から流れ落ちる冷たさを楽しむ。

水面に映る空模様は相も変わらずで、陽は傾いてはいるもののやはり、よく晴れていた。
ふと後ろを振り返ると、夕方の涼しい風が、川縁の草花をなびかせて、ざあっと音を立てて通り過ぎていく。

(そろそろ、虫の音も聞こえてくる頃合いかしら?)
 
一日の終わりを感じ取ると、なんだか小腹も空いてきた。

リナは、通常終日城外で過ごすのが日常ではあったが、行動範囲は城下町やその周辺に限られていた。
城を離れてこんなに遠くまで来たことは、今まで一度もなかったのだ。

思えば、開放感を味わう暇もなく、早急に追われるように、バタバタと城を出てきてしまった。
オレンジ色の空を見上げると、頃しも、鳥が家路を急ぐように森に向かって羽ばたいていく。
カアーと、鳴きながら巣に帰っていく鳥を黙って眺めていると、「外の世界で旅に出ている」という未知の体験への期待感と、「しばらくはあの懐かしい我が城に戻れない」と感じる寂しい寂寥感が、心の中で同時に湧いてくる。

(ええいっ、ここまで来たんだし、一度決めた事は絶対後悔しないわ!)

しんみりした気分を追い払って、気を取り直したリナは、周りを興味深く見渡してみた。

国の主要な道は、全て頭に入っている。
なので、リナたちの通ってきた旧街道は、川沿いの街道だと始めから分かっていた。
けれども、地図で覚えた森を通る街道からは、草むらで隠れてしまうこの川は直接には見えない。
テンの案内ですぐに川縁に辿り着けたのは、ほんと、ラッキーだった。

薄いオレンジ雲が空にかかり始めると、『馬に川の水を飲ませて、小休憩を取らせた方がいいのでは?』と提案したのはテンだった。

『だいぶ彼、バテているようですから……』

シンの乗っていた大型の黒馬を、ひづめで指して、鼻息の荒い馬をテンは気遣う。
神獣であるテンは、馬型のこの形態でもその気になれば信じられないほどのスピードが出せる。

たわむれるように二頭の馬は走っていたのだが、ウッカリ適度な休憩を取るのを忘れて突っ走ってしまったらしい。
テンは、今、すまなさそうに黒馬の方を見ていた……

ひとしきり、ガブガブと水辺で水を美味しそうに飲んでいた黒馬の耳が、しばらくすると前触れもなく、ピクンと立ち上がった。同時にテンが、ハッとした様子で水辺に顔を向ける。

(何かが、水中から近付いてくる?)

ザワリ、と身体中の体毛がうごめくような嫌な感じがする。
これは…と、かかとを浮かして警戒したその時だった。黒馬が鋭くいななき、同時にテンが「危ない!」と叫びながら体当たりで馬を、ドンと突き飛ばしたのは。

いきなり、だった。
寸秒違いで水中から、太った胴体のアナコンダのような影が飛び出してきた!
黒馬の佇んでいた場所を狙った獰猛な牙が、馬の脚をわずかに、ヒュンとかすめ過ぎる。

(何?! この魚…?)

「テン! この草ウナギ、何だか様子がおかしいわ?」
「目が真っ黒ですよ。瘴気に囚われていますね」

この魚類の本来の姿は、水草が好物なその名の通りのすらっとした姿だ。
ちょっと太り気味でも、ポチャ程度の可愛いものだった。
だが目の前のこの魚は、どういう訳か異常に体積が大きい。
膨れた胴体といい、口元から完全に肉食獣の牙が飛び出ている様子といい、草ウナギの突然変異、それも奇形版?といった感じであった。
魚類の割にはつぶらな目も、今は真っ黒だ。
装飾のデザインにもよく使われる、ラブリー題材の草ウナギである。
なのに、目の前の魚は、見た目もおよそ”可愛い”からは程遠いものがある。

浅瀬で、今にも飛びかかろうとクネクネ胴体をくねらせる姿も、尖った牙をガチガチ鳴らしながらだ。
こんな獰猛な姿を見てしまうと、魚だから水中から出ないと分かっていても、何故か、イヤーな予感しかしなかった。

そしてハズレ願望の予感が、見事に的中してしまう。
様子を伺っていたテンとリナの目の前で、クネクネした胴体からなんと、小さなヒレが変化して四肢のようなものを生やし始めたのだ!

(…こんな予感、極力当たって欲しくなかったわ…)

その微妙にグロい短い脚で勢いをつけるように、一旦低く屈んでいる。
牙が掠れて怪我を負った黒馬を再び狙って、その胴体を大きくジャンプさせてくる。

「させません!」

一角獣に姿を戻したテンの角から、まばゆい白光の輪が放たれた。

瞬く間に、聖なる光が奇形魚を包みこむ。
治癒魔法を怪我をした黒馬にかけていたリナの側に、本来の姿に戻った草ウナギが、ベチャッと落ちてきた。
陸地で水を求めて、モゾモゾくねっているウナギを、テンはそのまま後脚で、パカンと川に蹴り返す。
ウナギは、ポッチョン、と音を立てて川の中に消えていった。

普段の有り様に戻ったその様子を、テンは安堵の目で確かめている。
だのに、こちらに戻ろうとしたテンの歩みが、突如、ピタッと止まった。

(ん?)

蹄の音が唐突に止まる気配に、違和感を感じた。
治療を終えて「どうしたの?」と、テンの方を振り向いた途端、思わず喉から悲鳴が飛び出た!

「ひっ、うっそーっ!」
「何なんですか、この数っ!」

奇形ウナギの集団が、川岸にぎっしり、隙間なく並んでいる!
そのおぞましい固まりは、太った胴体をうねらしながら、突撃っとばかりにこちらに一斉に向かってきた。

「いっやー! 気持ち悪いっーー!」
「断固拒否ですっ」

目に映ったグロテスクで不自然な形態の魚の集団に向かって、気がつけば咄嗟に両手をかざしていた。
テンと二人で思いっきり、聖なる光を浴びさせる。

「何なの~、一体?」
「こんな近郊まで、瘴気の影響が広がっているんでしょうか?」

テンは輝く銀糸の束の尻尾で、元の姿に戻った魚の集団をたちまち、バサッと払い除けて一掃した。
小さくなった草ウナギたちは、ボチョン、ポチョンと川に放り込まれると、元気に水の中を泳ぎ去っていく。

(ふはぁ、ちょっと、というか物凄く今のは気味悪かった…)

不快な記憶を振り払うように軽く頭を振ると、黒馬の手綱を握って、今度こそ、と移動しようとしたのだが。
何やら後方から、ザッバンと大きな物体が水際にあがる音が聞こえてしまった……

ピチョンピチョン、と水のしたたる音に加えて、いや~な腐臭がかすかににおってくる……
いや、そんなまさか?と、二人で伺うように後ろを、恐る恐る振り返った。

(…見なければ、良かった……)

そうは思うものの、怖いもの見たさで、目がから外らせない。

人の半分ぐらいもある一匹の太っちょ草ウナギが、真っ黒な目に赤い瞳を、ギョロっと動かして、こちらをどういうわけか、ギンと睨んでくる。
蠢く胴体からは、だんだんと短い手足がすでに伸びてきていた。

まさかの、ラスボス登場だった。

(もうやだーっ、勘弁してください! これって、ヌメヌメして超気持ち悪いわーーっ!)

隣のテンも、ウナギを見る目が何となく心なしげっそりして見える。
それでも、凍ったように動かない身体を、意思を総動員して動かなきゃ、と思った時だった。
黒い大きな獣が二人と黒馬の前を、シュンと駿足で横切ったのだ。

「夕飯! いただきっ、ウオーン!」

一見、不敵で屈強な黒犬だが、大型魔獣であろう真っ黒な毛並みの獣は、その姿からは想像も出来ないほど陽気な声を出した。

(えっ!? 大っきい黒い犬が喋った?)

すかさずその尻尾から、黒い針のようなものを一斉に放って、ウナギ魔獣の影を縫い留める。
すると、ウナギはビクッ、と竦んで、それ以上動けなくなった。
そのまま黒い獣が飛びかかって、いただきまーすとばかりに、パックンとウナギ魔獣を一口で飲み込んでしまった!

「ん、悪くない味だ」
「は!? ええっ、その声って、まさかっーー!?」
「ああ、リナ、悪いな、飯、横取りしてしまったか?」
「「えええっっーー!!」」

(まさか、まさかーーっ…!)

「あ、あの、もしかして、あなた…シン、なの?」

気がつくと震える指で思わず、目の前の喋る黒い獣を指差してしまっていた。

「ん? ああ、この姿だと、分からないか」

美声が応えると、瞬く間に目の前が一瞬黒い霧で覆われた。

(え? 何この霧…)

突然のことに驚いていると、霧が晴れたそこには、スラッと背の高い氷の美貌の持主が、何事もなかったような顔をして立っていた……

「うっそーーっっ!」
「驚かせたか、すまない。説明している暇がなかったからな。夕飯の獲物が逃げてしまうし」

(誰か、嘘だと言って頂戴ーーっ!)

目の前の光景が信じられず、草ウナギ魔獣を見たさっきよりも、更に身体が、カッチンと固まってしまった。
テンも珍しく目が点になっている。

「シンが、大口開けて一気にパクつくから、レディ達が呆れ返ってるぞ?」
「アレは、お前が腹が減ったとうるさかったからだ!」

(あれ? なんか幻聴まで聞こえ出した)

シンが一人で、誰かと喋っている。

(そうか、私って思ったより繊細だったんだ……)

この頃ショックな事ばかりで、とうとう頭のネジが一本何処かに飛んでいったらしい……
幻聴や幻まで見えるようになっちゃった?と、己の正気をリナが疑い出した時、ようやくテンが、ハッと何かに気づいたように目を見張った。

「もしかして、あなたは狼なのですか?」
「そうさ、オイラはコクウオオカミさ」
「違う、俺は狼ではない」

テンの問いに、シンの肩の辺りを飛び回っている、透けて見える小さな手の平大の狼が頷いた。
シンは、首を横に振って否定している。
オオカミは小指ほどの大きさであるふさふさの尻尾を振って、挨拶をしてきた。

「名はフェン、宜しくな」
「よ、よろしく、リナよ」
「初めまして、テンです」

(未だに混乱してるんだけど、目の前に浮かんでいるものは幻ではないってこと、よね?)

「ええっと、さっきの姿は…」

ともかくこの事態を把握しよう、と早速、頭に浮かんだ質問を投げかけてみる。

「ああ、さっきはシンにオイラのスキンを貸したんだ。オイラは、シンの魂に刻まれた契約者だからな」
「お前が森で、ひとっ走りしたいと言ったから、融合したんだろう」
「おう、ありがとうよ、相棒。感謝してるぜ。この身体だと、まるで走る実感がなあ…ところで今の奴、かなり陰性魔力が溜まってたからか、美味かった~」
「もうそろそろ元に戻れるんじゃないか? この間も、でかいサル魔獣をたっぷり食っただろ?」
「そうだな、よし、試してみるかっ」

(なんか二人?で、勝手に盛り上がってるんですけど……)

置いてけぼり感一杯の会話に、「あの」と言いかけて、なんだか気張った顔をしたフェンの様子に気づいたリナは、開きかけた口を閉じてしまう。

(あ、なんか、小さなオオカミさんの体が光り始めた……)

光りはだんだんと強くなり、今にも弾けそう、と思った途端、ポシャンという感じで唐突に消えてしまった。
その様子を興味深そうに見ていたテンが、すかさず冷静にコメントしてきた。

「あともう少し、魔力の創造エネルギーが足りないようですね」
「あ、やっぱり? オイラもなんか、あと一歩、って感じなんだよなぁ」
「そうか、なら、もう少し魔獣を狩ってみるか?」
「…私から魔力を分けることも出来るのですが、先程の魔法は闇属性ですよね? 私の提供する魔力は多分ですが、相性が悪いかもしれません」
「そっか、まあありがとう。ここまで待ったんだ、ボチボチ気長に行くさ」

(魔力を分ける? …ってどういうことなのかしら、それに相性?)

頭の中で、はてな?印が飛び交っている。
テンは少し考え込んでいたが、首を傾げて提案してきた。

「リナ、もしかしたら、リナの魔力なら大丈夫かも? 私より薄味の筈だし…」
「へ? 私?」
「そうです、神族に与する私の魔力は濃厚すぎますが、リナなら丁度いいかもしれません。中性魔力豊富ですから」

(中性魔力豊富? 何だか知らないけど、へえ~、そうだったんだ)

自分はてっきり聖属性魔法が得意だから、きっとそっちだと思っていたら、自分の魔力は中性が多いらしい。

(だけど、それってどういう意味なんだろう?)

「それは珍しいな、中性魔力は万能だろう」
「ええ、リナ自身は教会で習った聖属性魔法と手習いで習った簡単な基礎魔法しか今の所使えませんが、魔力量自体はあなたといい勝負の筈ですよ」

いつまでも見えない会話に、とうとう我慢が出来なくなってきた。
「ねえねえ」と三人の会話に無理やり割り込んでみる。

「テン、私が魔力を提供できるって、そんな事、可能なの?」

一旦喋りはじめると、疑問が次々と頭に浮いてくる。

「魔力の提供って、一体どうやって? 万物に個別固有の筈の魔力を、そんな簡単にあげたり貰ったりって聞いた事もないんだけど?」 
「はい、闇属性魔法が使用できるなら可能です。ドレインの加減、出来ますよね?」
「ああ、でもいいのか?」
「リナ、ちょっとこの人に、魔力のお裾分けしてもらっても良いですか?」

「是非ともこの機会に、観察を…」とか言い出したテン。

(出たよ、テンの実験好き……)

テンは、知識や見聞を広めることには物凄く貪欲だ。
神獣なのに、人間界に留まっているのも、元は好奇心からなのだ。
そして一旦興味を持つと、暴走気味になるのが玉にきずである。
一通り満足しないと、とってもしつこいのだ……

小さい頃からの経験で、この事実を痛いほどよくよく承知しているリナは、大きな諦めの溜息をついた。

「分かったわ。で、私は何をすれば良いの?」
「シン、許可が出ましたから、遠慮なくどうぞ」

シンはテンに大きく頷いた。こちらに近づくと、そっと身体を抱き寄せてくる。
フェンとテンは二人の近くで、期待感に溢れた顔で様子で見守っている。

(一体、何をするんだろう?)

未だに話しにはついていけないが、人様の為になるのであれば、協力するにやぶさかではない。

「そんなに見られるとやりにくいな。リナ、目をつむれ」
「ん…」

素直に目を瞑ったら、すかさず腰に大きな手が回ってきて、頭の後ろにも掌の感触を感じた。
途端、唇に柔らかいものが推し当てられた。
熱く濡れた感触が、クチュッと唇を辿ってきて口を開けと誘っている。
リナは知らず知らずに、誘われるまま唇を開いて口内への柔らかい侵入を許した。

(あ…ん…何これ?)

一瞬、甘く冷たいものが口に溢れて、思わず、ゴックン、と飲み干してしまった。
すると、身体の奥から、温かい魔力がじわじわと身体中に溢れてきて身体が熱くなってくる。
熱くなる身体を宥めるように、自然と口から流れてくる冷たい液体を、んん、と何度も舌を絡めて吸い取ってゆく。
何だか、だんだん頭までボンヤリしてきた。でも、すごく気持ちいい気分だ。

(ふわぁ、美味しい、もっと頂戴……)

深く何度も頭を傾げて、熱い自分の魔力と冷たく甘い液体を混ぜ合わせる。
夢中になって絡め合う舌と甘く流れ込む液体に、軽い酩酊感を感じて、その感覚が身体中に広がってゆく。

「シン、それぐらいにしとかないと、嬢ちゃん、バテちゃうんじゃないか?」
「そうですねえ、魔力はまだ全然大丈夫ですが、初めての体験で、違う意味でのぼせてるみたいですし」
「は? マジか、もしかして、キス初体験なのか?」
「ハイ、何せ決まった相手は居たのですが、小さい頃から手紙のやり取りのみでしたからねえ」
「うおっ、よくまあ相手が、それで我慢してたなぁ」
「いえ、我慢出来ずに思いきり余所よそで煩悩に流されました」

暴走気味なリナのそんな状態に気づいているのかいないのか、そのすぐ側で、テンとフェンがのんびりした会話を続けている。
だけど、さすがにリナも好奇心一杯の年頃の乙女である。
ぼうっとした頭でも、二人の会話から飛び込んできた単語を耳が勝手に拾いあげ、だんだん意識が覚醒してきた。

(キス、初体験?)

ぼんやりと言葉が意味をなしてくる。

(キス、キスって、あのキス? 初体験、初、体験…って…え?)

パチン、とまぶたを開けば、いきなり氷の美貌がドアップだ!

(き、き、きゃあああぁっーーっっ!)

予期せぬハプニングに、心臓が飛び出るかと思うくらい、胸がビックリドッキン状態になった。
咄嗟に、自分の腕に力を込めて身体を引き離そう、としたまでは良かったのだが……

そこで初めて、自分からシンの首をガッチリ抱き抱えていることに気づいたのだ。
おまけに、今もまだ白い手が柔らかい癖のある黒髪をまさぐっているではないかーっ!

(えーーっっ! ううう…うっそーーっ!)

フェンの忠告には反応しなかったシンも、リナの異変にはようやく気が付いたようだ。
二人の重なっていた唇から、熱い舌がゆっくり引き抜かれていく。

(ひゃんっ!)

シンは最後に、可憐な唇を名残惜しそうに、ぺろ、と舐めるとようやく顔をリナから離した。

一方のリナは、ショックと上気のぼせたのとで、頭が、ぼーとしていた。
離れてゆく二人の唇から透明な唾液が糸を引いているのを、や、こんなはしたない…と手の平で拭う動作もノロノロだ。
二人を最後まで繋げていた糸が、フッと切れ、シンの満足そうな顔が目を細めて自分の顔を見つめている。

知らず知らず頬がピンクに染まり、何だか自分がとても卑猥な事をしまったような気分になった。
おまけに、気のせいかシンの紺碧の瞳が、キラキラと輝いて見えてしまっている?

(いやいや、そんな事より、今、何が起こったかがちょっと、信じられないんですけど…)

だんだんと覚醒してきた意識は、シンの紺碧に瞳に見つめられると、あ、でもこんな状況なのになんて綺麗な色なの…とついまた見とれてしまった……

少しかすれた低い美声が、たっぷり堪能した満足感を含み、さらに誘惑するようにささやいてきた。

「こんな美味な魔力は初めてだ。うっかり夢中になってしまったな。もうちょっと、いいか?」

(なっーーっっ!?)

「ダッ、駄目に、決まってるでしょーーっっ!」

真っ赤になって抗議するリナに、紺碧の瞳を曇らせを明らかに落胆した様子で、「そうか、残念」とつぶやくシン。

(いやそんなっ、イケメン顔で明らかにガッカリ落胆されてもっ、困るーーっ!)

この男は、残念そうな顔を、隠そうともしない。

(ってか、私の、初キスがーーっ!)

「いきなり何するのよーーっ」
「許可をもらったから、奪ったまでだが?」
「許可って…、キスを許した覚えはないわよーーっ!」
「ドレインはこの方法で行うのが、一番手っ取り早い」
「て、手っ取り早いって…」

真面目な顔で説明してくるシンに、テンも、ウンウンと頷いて賛同してきた。

「そうですよねえ、他の方法は、処女のリナにはあまりお勧めできません」

(へ?! そんなっ…一体他の方法って…)

二人の説明に、肝心な事からうっかり話を逸らされそうになったのに気づく。

(違うっっ! そうじゃなくてっ、つまりは、今のキスは、キスではなくって、魔法を実行する上で必要な形式って事?)

脳内で結論付けたリナは、真っ赤になって即座に声を張り上げた。

「そんな話、聞いてなーいっ!」
「まあ、そうだろうな、闇魔法の使い手はそれ程多くない、知らなくても不思議じゃない。さすがは一角獣、博識だな」
「いやいや、私も文献でのみ、知った知識なので…」

なんか二人の会話は呑気に続いてるが、当人のリナはまた置いてけぼりだ。

(うううっ なんか、絶対騙されたっっ!!)

シンとテンは、お互いを讃え合っていて、赤くなったり青くなったりそんなリナの様子を、それとなく見守っている。

(魔力のお裾分けって言うから、許可したのにーーっ!)

コロコロと表情が変わるリナを見て、テンがまあまあ、と優しく慰めにかかった。

「リナも、もう立派な大人の女性なんですし、キスの一つや二つで狼狽うろたえては見っともないですよ」
「うっ…」

(大人の女性…ううーっ、私がこの言葉に弱いの知ってて、テンってば…)

「女は諦めが肝心です。良かったじゃないですか、ドレインは仕掛ける相手の力量で物凄く快感を得られる魔法だとも聞き及んでいます。シンは見た所、一流の使い手のようですね」

(…それって、全然慰めになってないわよ…テン…)

チラリ、と自分の初キスを奪った男を盗み見してみれば、シンはすでにフェンの実体化再挑戦を熱心に見守っていた。

(何と切り替えの早い、ってか、こんなに拘ってるのって、もしかして私だけなの?)

それはまあ、確かに、キスを夢見るお年頃はとっくの昔に通り越して、遥か彼方に過ぎ去ってはいるのだが……

(…ええい、ここはオオカミにでも噛まれたと思って、諦め…られるかーーっ!)

それはやはり無理だった。長年、この瞬間を夢見てきたのだ。

(さっきのはノーカウント。事故よ、事故)

諦めが悪いと言われようとも、先ほどのキスは『キス』と認めないことにした、リナだった。

(やっぱり初キスは、大切な人と…よね?)

ここは、程よくご都合主義に徹する。
テンもシンも、魔法だと言っていたのだから、理屈でも合っているはずだ。

(ええと、魔法の属性を口にしていたっけ、確か…)

「闇魔法、ドレイン…って、何?」
「リナが普段使用している魔法、聖属性光魔法と対照の魔法です。闇属性魔法は陰性魔力を使用するのですが、これは一般に人が保持している陽性魔力より、ずっと強力な魔力です。人は誰でも持っているのですが、量は魔法を行使できるほど多くはありません」
「そうなの?」
「実は、かくいう私も、闇魔法の使い手にあったことは過去に一度しかありません。ドレインは闇魔法の中でも黒魔法と呼ばれる類のもので、対象相手の魔力を奪って、自分の中に取り込む事が出来るのですよ」

(あ~、さっきの熱い感じは私の魔力だったのね……)

「ただ、魔力を奪い過ぎると最終的には対象相手が魔力枯渇に陥って死に至る事になります。とても加減が難しい魔法だと聞き及んでいますよ。普通は、一度行使すれば魔力制御によっぽど自信がない限り、枯渇するまで止められないそうです」
「ええっ!? テン! そんなヤバイ魔法、私に使わせないでよっ!」
「いや~、私もどうかな~、とは思ったんですが、シンが加減出来るって言うから、つい好奇心で」
「……」

やはり好奇心に動かされたらしい! テンの暴走は今に始まった事ではないのだが……

「いやそれはもう、いざとなったら、止めに入ろうとは思っていましたよ、もちろん」と、目を逸らして言い訳しているテンを、キッと睨んだ。

その時、フェンの喜びの叫び声が辺りに響いた。

「やったぜ! 成功っ、どうだ? オイラ元通りだろう?」
「ああ、久し振りだな、その勇姿は」

周辺の木に止まっていた鳥が、バサバサっと一斉に飛び立っていった。
叫び声の主はと見ると、シンの横に、先程見かけた黒い狼が大きくなって尻尾をふりふりお坐りしている。
シンはそのフサフサした姿を、懐かしそうに目を細めて眺めていた。

「ほう、見事なものですね」
「ありがとうよ。お嬢ちゃんも、協力ありがとうな」
「…どういたしまして」
「元気出せ、なあにキスの一つぐらい、減りやしないって」

陽気なフェンの言葉を聞くと、初キスが本当にあれで良かったのか?という気がなんだか余計にしてきた。

(確実に何かが減って…違うっ、アレは魔法の一環! 断じてキスではないわっ!)

ぶんぶんと頭を振るリナの横で、飛んだり跳ねたりしていた陽気な黒い大型狼は、その内嬉しそうにその辺りを走り出した。

「オイラ、ちょっと森に散歩に行ってくる。呼べば戻ってくるからよ」
「ああ、構わないぞ。どうせ今日はこれ以上は進めまい。ここは水もあって野宿に丁度いい」

(えっ、嘘っ? もうそんな時刻?)

ハッと周りを見渡すと、丁度お日様が森の木々の向こうに沈んでゆくところだ。
辺りはいつの間にか、薄暗い日暮れ時になっていた。

「大変! テン! 今日の宿は?」
「…リナ、ここは丁度宿場町と宿場町の間で、宿は近くにありません。今日は野宿ですね」

(うわあ)

今の初キス騒ぎで、すっかり今日の宿の事を、忘れていた。

(いつも城に帰るから、野宿って初体験なのよね、私…)

取り敢えずは、火を起こしてご飯の支度をしなければ。

(真っ暗になれば、何に襲われるか分からないし…)

「ねえ、ちょっと川から離れていい? さっきの魔獣も川から襲ってきたし」

テンとシンを窺うように見ると、どちらも構わない、と頷いたので、そこから見えている森の入り口付近まで移動する事にした。
早速魔法で火を起こして、城のキッチンからもらってきた昼のローストの残りと、パンやらフルーツやらを空間収納から取り出した。
皆で分け合って、美味しく夕食をいただく。

「はあ~、ご馳走様」
「そろそろ、明日に備えて休みましょう、起床は日が昇ると共に、ですからね」
「そうね、じゃあ、私はこの辺に」

見ると黒馬はすでに立ったままで寝ている。さすがは動物、平和なものだ。
屋外だからなのか、楽だからなのか、テンもゆったりと馬の姿になって、柔らかい葉っぱをかき集めた寝床に横になり、前肢に頭を乗せて目を瞑った。

(さあてと、私は…暖かい火の側がいいな)

焚火を振り返ると、ちょうど反対側に大きな狼が身体を横たえ静かに目を閉じていた。

「え? あなた、シン、よね?」
「ああ、野宿の時はこの姿が暖かくて、寝心地が良い」

どうやら、融合、とやらをしなくても姿を変えられるらしい。
魔法の知識としては頭に入っていたものの、実際に人が姿を変えたのを見るのは初めてだった。

(さすがは、A級依頼をこなす冒険者ね……)

感心しながら、さあ、私も、と地面に毛布を敷いて、リナは横になってみる。

(…寝心地、超悪いんですけど……)

塔の中とはいえ、生まれてこの方、ベッドでしか寝たことがなく、どうしても地面の固い感触が気になってなかなかどうにも心地よく寝つくことができない。
色々身体の位置を変えてみるのだが、どうやっても固すぎる感触に馴染めないのだ。

「…どうした? 寝れないのか?」
「ちょっと寝心地に慣れなくて……」

とうとう上半身を起こして途方に暮れていたリナに、黒い狼が聞いてきた。
薄っすら開いたまぶたから、紺碧の瞳が面白そうにこちらを眺めている。

「何なら俺に寄りかかって一緒に寝るか? 多分俺の身体は、硬い地面よりマシだろう。柔らかくて暖かいぞ」
「え……」

片目を開いて、大きな真っ黒狼が、揶揄からかうように誘ってくる。
だが確かに、フサフサの毛皮は毛先も柔らかく暖かそうだし、寝心地もよさそうだー……

(ちょっと、試しにだけ……)

あまりにも寝心地の悪い地面に閉口していたリナは、頷いた。

(毛皮の方が幾分マシかもしれないわ…?)

城にあった毛皮でできた敷物の感触を思い出し、ついに、ふらりと大型狼の方へと歩いていった。

(う、わあぁ! フッワフワ~)

狼の毛皮はモフモフ、毛先はフワフワで、柔らかくてすっごく触り心地がいい。
試しに手を伸ばしてその前脚に触れると、いっぺんでその素晴らしい感触の虜になってしまった……

狼のシンは、リナが撫でるに任せ、気持ち良さそうに黙って見ている。
大きな尻尾が、ゆっくりと揺れていた。

目の前には、極上の毛皮布団が広がっているのだ。

(ええい、もう、気にしない!)

ここは思い切って開き直るしか、ない。
「お邪魔しま~す」と言ってから、その丸まった身体の柔らかそうな毛皮にもたれ掛かって、試しに横に寝てみる。

(ふわぁ、これは最上級の高級ベッドだわ!)

その、寝心地の良さ! 暖かいし、背中も痛くないし、いい匂いはするしで、一度寝転がってしまうと、もうそこから絶対動けない。

「ん~、シン、ありがとう、おやすみなさい」
「ああ、お休み」

今日は朝から、憂鬱な結婚式に出席するための支度で忙しかった。
午後は午後で、城から追い出されるようにプチ家出をし、精神的にもクタクタだった。
極上の毛皮に包まれると、リナはすぐに心地よい眠りに落ちてゆく。
シンは、ゆらりゆらりと揺らしていた大きな尻尾で、リナの疲れた身体を柔らかく包み込んだ。
そして微かな虫の音を聞きながら、こちらも満足げに目を瞑り静かな眠りについたのだった。

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