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手の平の逆さ十字
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「昨日はリッガー侯爵領に出向いてレイチェル博士にお会いしましたよ」
「レイチェル様に?!お元気でしたでしょうか」
「お知り合いでしたか。元気に野草を煮詰めておいででした」
この青年は何者だろう。
ギルバードはライラの袖の中からほんの少し顔を出し、舌をぴろぴろとして頭を傾げ続けていた。
どんな生き物も生きている限りなにかしらのにおいがするものなのに、ライラと話している青年からは全然なんのにおいもしない。ライラの匂いを除けば二人が食べているキャンディの甘い香りだけがするという怪。
「目的は特定の動物にのみ作用する毒について知見を得ることだったのですが、ご厚意で試作段階の『スペシャル獣除け薬』なるものを嗅がせてもらいました」
「.....どのような香りでした?」
「香水としてつければ人すら寄りつかなくなる香り、とでも言っておきましょう」
「森歩きには有用そうだわ。あとは絶対に断りたい縁談の席とか」
「はは、悪くない使い道だ」
二人は楽しそうに話しているがギルバードは背筋がゾワゾワとしてきて細い体をきゅっと小さく縮こまらせた。
青年は植物学を学んでいるらしく話す内容はどれをとってもライラの興味をひくものばかり。
でもそれはそれ、得体の知れない人間とは下手に関わらない方が良いと思った。
「ライラは気に入りの香りはありますか?」
「ありません」
「香水もつけない?」
「ええ、苦手なので。ですが獣除けの薬には興味があります」
「......歩く牛舎になってしまうな」
「......どんなにおいかわかりました」
楽し気な会話の腰を折るのは気が引けたが、ギルバードは「もう帰ろう」とライラの腕をツンツンツンとつっついた。
すると一拍置いて、
「エディ様。私そろそろ行かなくては」
「ああ、すっかり話し込んでしまった」
意図は無事に伝わったらしい。交わされる別れの挨拶にほっとしてギルバードは縮こめていた体を伸ばした。
びゅうと吹く木枯らしと鴉の鳴き声が響き渡る庭園を抜けてライラとギルバードは東の離宮へと戻る。
***********
「.........アンナ、今帰ったわ」
「ああっ!!お帰りなさいませ!」
アンナは主人の帰館に安堵して、しかしその胸中は悟らせまいとにっこり笑って出迎えた。主人を部屋に引き入れ周囲をぐるりと一周して、
「さては庭園におりましたね?」
「どうしてわかるの?」
「髪に花びらがくっついてます、ほらっ」
努めて明るく笑い、後ろ髪からひとひらの花弁をつまみとった。
主人の今朝の外出が春の乙女就任の告知であるということは察していた。その上で予定時刻を過ぎても帰らないため、アンナは日課の茶の支度すら手につかず心配して待っていた。
土壇場で春の乙女を代わらせるなんて。
性悪公爵令嬢に神罰が下りますように。
心の中では呪いの言葉を吐きつつ、鏡台から櫛を取って風で乱された主人の銀の髪を優しく直した。
その時、
『あれっ?』
素っ頓狂な声が上がり、ギルバードは舌をぴろぴろとしてボトリと袖から床に降り変化をして言った。
『アンナ、今ナイン来てる?』
「.....ふふっ、そうなんです」
アンナはライラのドレスの裾をチェックしながらいたずらな笑みを浮かべた。
「つい今しがたお越しになりまして、お待ちいただけるとのことでしたので客間にお通ししています」
ナインハルト様がいらしてるの?
手早く身なりを整えられた後ライラはそわそわする心持ちでギルバードと並んで客間に向かった。自分が寝ている間に彼が一度見張りに訪れていたという話は聞き知っていて、寝顔を見られたと思うと気まずくて恥ずかしかった。
落ち着いて対面できる気はしなかったが、
「......おはようございます、ナインハルト様」
客間にそっと滑り込んで恐る恐る声を掛ける。
するとナインハルトはソファーを離れて早足でやってきたかと思うとごく至近距離に立ち身を屈めて視線を合わせてくるのでライラは数センチ飛び跳ねて後ずさった。
「おはようございます、レディ」
動揺するライラは意に介さず様々な想いを瞳に湛えて、ナインハルトはほうと胸を撫で下ろした。
「痛むところはありませんか」
「え、ええ、どこもありません」
「よかった。ずっと心配していました」
そう言ってライラの手をとり見つめてくる彼は以前と少しも変わらない様子だった。
寝顔にドン引きされてたりとかは、多分なさそう...?
ライラはナインハルトの表情から希望的観測を試みて、そもそも人の寝顔を見て態度を変えるほど狭量な方ではないと胸の内で言い聞かせる。現に自身に向けられる眼差しは初めて会った日からなんら変わりないのだから。
穏やかで優しく、空とは違う碧の瞳。
「......海より碧いのでは」
ふと口をついて出たのは夢見がちな発言で、ナインハルトが驚いた顔をするのに気づいて慌てて取り繕う。
「すみません、まだ寝ぼけているのかも」
『平常運転でしょ』
隣でギルバードが茶々を入れ、ライラはギルバードの脇腹に手刀を入れた。
『ギャッ!』
「あら、つい手が」
姉弟よろしく戯れるふたりにナインハルトはくすりと笑い、ライラの腕を引いてソファーへと座らせた。
「元気でおてんばで安心しました」
向かい合ってソファーに座り、ギルバードもライラの横にあぐらをかいて座る。ギルバードはナインハルトと彼の隣に置かれた箱とを交互に見て、
『今日のナイン、いつもと雰囲気違う気がする』
「.....そうか?」
『うん。普通の貴族っぽく見える』
普段外ハネしている金の髪は大人しくまとまっており、いかにも貴族の令息といった雰囲気でワイルドさは鳴りを潜めていた。
ああ、とナインハルトは髪に手をやり笑って言った。
「まだ乱れてないというだけだ。今朝は稽古場に行かなかったから」
『寝坊?』
「まさか。王都にある店に出向いていた。この髪も今だけで夕方になれば癖が出る」
ライラはナインハルト様は癖っ毛なのかと思う傍ら、王都と聞いて自分にも行きたい場所があったことを思い出した。
「私も弓を取りに行かなければ。もうできているのかしら」
「できていますよ。試し射ち用に多めに矢を準備して待っているそうです。レディのご都合の良い時に同行します」
「ありがとうございます」
一日も早く受け取りたいという気持ちがぐわっと湧き上がってきたのも束の間、たちまちしぼんでいく。
都合の良い時は果たしてどれくらいあるのかしら。
「.....ナインハルト様も既にお聞き及びかと思いますが、春の乙女の準備で少々忙しくなりそうです。スケジュールがまとまりましたらご連絡します」
ライラの暗く翳る顔を前にナインハルトは無言で頷くことしかできなかった。
安易な声掛けも激励も、まして同情などきっと望まない。
言葉の代わりに隣に置いていた箱を手に取って差し出した。
「ささやかながら贈り物です」
「.....へっ」
ライラは落ち着きなく左右をきょろきょろと見渡し、その仕草がおやつを前にしたシャルロットにそっくりだったためにナインハルトは思わず笑う。
「他の誰でもなくレディへの贈り物です」
「えっ、なぜ?」
「回復のお祝いです」
「あ.....ありがとうございます」
受け取って膝の上に乗せて眺めていると軽快なノック音が客間に響き、アンナがティーセットを持って入ってきた。アンナはライラの膝の上にある箱を見つけて微笑み、茶を出して一礼したのちにぱたぱたと部屋を出て行った。
「今開けても構いませんか?」
「どうぞ」
『なんだろう』
ギルバードが興味津々で箱をくんくんと嗅ぎ、ライラは箱を持ち上げてギルバードの鼻先にずいと近づける。
「蛇の嗅覚と頭脳でわかる?」
『多分お菓子っぽいなにか。でも箱についたナインのにおいで詳しくはわからない』
二つのにおいを嗅ぎ分けつつやはり先程庭園にいた青年は不思議だったと改めて思う。
物ですらこうして残り香を纏うのだから。
「......私にはどっちの匂いも全然わからないわ」
「っ!レディ!普通に開けてください」
ライラまで箱をくんくんしだしたのでナインハルトは気恥ずかしさに慌てて止め、ライラははっとして小さな照れ笑いを浮かべてからリボンと包装紙を解き始めた。花柄の綺麗な包み紙を破らないよう慎重に外して箱の蓋をそっと持ち上げ、納められた品に息を飲み感嘆する。
そこには繊細な花模様の細工が施された円柱形の硝子瓶が入っており、瓶の中は赤紫色のとろみのある液体でなみなみと満たされていた。瓶を取り出して揺らすと液体に混ざる細かな粒子が照明を反射してきらきらと煌めき、硝子細工と相まって宝石の如き美しい輝きを放つ。
箱の底を見ると商品説明のカードが入っていた。
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【菫とジンジャーのシロップ】
白湯や紅茶に溶いてお楽しみ下さい。
そのままでも美味しくお召し上がり頂けます。
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シロップ瓶の他には硝子製の小皿と小さなスプーンが同梱されており、それにも花模様が彫られていた。
ライラは瓶の細工とシロップの色合いとを光に透かしてじっくり眺め、ナインハルトはギルバードと目を合わせて微笑んでから、
「喉にも良く体を温める効果もあります。乾燥が進む時期にもなりますしリフレッシュ用品としてお使いください。味も香りも気に入っていただけるかと思います」
「こんなに素敵なものをありがとうございます。開けるのがもったいないくらい綺麗だわ」
ライラは瓶を元通り納めて箱ごとぎゅっと抱きしめた。
数日の間は飾って目で楽しもう。
その後はレッスンをこなした自分へのご褒美として、毎日ちょっとずつ食べよう。
「喜んでいただけたならなによりです」
ナインハルトはまたひとつ微笑んでソファーから立ち上がった。
「では私はそろそろ。あ、そうだ。レディに一件許可いただきたいことがありまして」
「許可?なんでしょう」
座ったまま訝しんで見上げるとナインハルトはギルバードにちらと視線を流す。
「彼を戦士の稽古に参加させてもよろしいでしょうか。スキルを有効活用する術を学んでもらえればと思います」
ギルバードは大急ぎであぐらをやめて姿勢を正し、ライラは思ってもみなかった申し出を嬉しく感じた。
アルゴンの戦士に混じっての稽古、ギルバードにとって有意義な経験となるに違いなかった。
「はい!私としては是非ともお願いしたく思いますが.....ギル、あなたにやるきはあるのかしら」
尋ねるとギルバードは意気込んで、
『もちろん!.........でも』
なぜかしゅんとして顔を伏せてしまいライラは不思議に思って覗き込む。
「でも?」
『......ライラのそばにいないといざという時守れないから』
「またとない機会よ。やるきがあるならやるべきだわ」
『チャリティでは大怪我させた。俺がそばにいなかったせいだ』
語る声は悔恨に満ちており、ライラはこの時初めてギルバードが主人を守れなかったことを強く悔やみ今もなお自責の念に駆られていると知る事になる。
「.....あなたは脱皮期間で動けなかったじゃない」
『視力は戻ってたんだから一緒にチャリティに行けばよかったんだ。そしたら守れたはずなのに。使い魔失格だ』
そうは言っても長期間の絶食もあり、萎びた紐さながらにぐったりしていた姿を思うと戦えたかどうかは甚だ疑問だとライラは思う。だがそれを言うのが憚られるくらいにギルバードはしょんぼりとしょげかえっていた。
「私が怪我をしたのは私自身が戦いを望んだからであって、あなたのせいなんかじゃないわ。あなたは一緒に戦ってくれた。ギルの神力があったから私はキメラを退治できたの」
物理的に離れていても使い魔は主人と共に在る。
ギルバードが脱皮期間でふせっている間、ライラはふたりで一緒に出掛けられないことをたびたび憂い嘆いていた。しかしチャリティでの戦闘を経て、自分がどこに行こうとギルバードは常に一緒にいるのだと認識を改めていた。
たとえそばにいなくてもあなたは私の中に息づいている。
それは主人の魂に使い魔の魂が結びついているからで、だから私が死ねばあなたも死んでしまう。
そうでしょう?
俯くギルバードの頭を優しく撫でる。
「ねえ、ギル。あなたは強い使い魔だけれど戦いの経験は全然足りていないと思うの。いつもそばにいてくれるのは嬉しいし私も安心するけれど、そうしているだけではいつまで経っても経験は積めないわ」
諭す口調で語りかけるとギルバードは瞳を上げてライラを見た。
『俺が強くなったら、ライラは嬉しい?』
「ええ。あなたは私の使い魔でブラッドリー侯爵家の一員なのだから。目一杯練習して、私だけではなくてたくさんの人を守れるような強い使い魔になって頂戴」
ライラは撫でる手を降ろして微かに笑いかけ、膝に乗せていた箱をテーブルに置いて立ち上がりナインハルトと向かい合った。
「ナインハルト様、お手数をお掛けしますがギルバードをよろしくお願いします」
そうしてナインハルトが離宮を去り、ライラがシロップ瓶を部屋に飾ってアンナとうっとり眺めていた時のこと。
また別の訪問者がやってきてカツカツとドアノッカーを打ち鳴らした。
「ご意見をいただいてからスケジュールを組もうかと思いまして。すみませんが一時間から二時間程度お時間をいただいても...?」
「はい、大丈夫です」
テーブルを挟んで対面に座し、黄色いローブに身を包んだ訪問者―――大神官オルフェウスはぺこりと深く頭を下げた。ウェーブがかった長い髪は僅かな黒を残すのみでほぼ白髪。声や口調からそこまで齢は行っていないと思われたものの、眼鏡の下の黒い瞳は悟ったような温厚さと賢明さとを備えており限りなく年齢不詳の男だった。
オルフェウスは持参した書類をテーブルに広げてライラとギルバードに示す。この時ギルバードは変化を解いてテーブル上に鎮座しライラと共に紙片を覗き込んでいた。
「まずはこちらをご覧ください。明月祭までに修了が必要なレッスンと座学の一覧になりまして........ああ、ありがとう」
アンナはハーブティを二人ぶん出し、不安気な面持ちで退室する。
「レッスン一覧の各項目に記載されている数字は習得にかかる見込み回数です。座学一覧の方は見込み時間になります。各項目の内容をご確認いただいた上で数字に修正をいただけますでしょうか」
オルフェウスの説明にライラはぐっと眉根を寄せる。
「つまり......回数や時間を減らせそうなものは減らし、自信がなければ増やすという認識で合っていますか」
「仰る通りです。レッスンは1回120分で途中に休憩を10分程度挟みます。場所は王城の一室です」
「わかりました」
レッスンのたびに王族の住まいに通うと思うと気が遠くなるが致し方なし。ライラは本棚についている小さな引き出しからペンを取り出し一覧に書き込みをし始め、ギルバードはその作業を暫く眺めてから丸い頭を上げてオルフェウスを見た。
『ちょっと聞きたいんだけどさ』
どこか拗ねる口調であったがオルフェウスはティーカップを置いて静かに答えた。
「はい」
『大神官ってボク達のことキライでしょ』
唐突かつストレートな質問にオルフェウスは身をぴくりとさせライラも一瞬ペンを止めたが、ギルバードが神殿から目の敵にされてきた過去を思いひとまず好きに話しをさせることにした。
ギルバードは尻尾に顎を置いてぶつくさと呟く。
『召喚されてから今日まで優しくされた記憶はないし、そのくせやたらと絡んでくるし。しつこくイジメられてる気分だ』
暫しの沈黙。
部屋にはライラがペンを走らせるカリカリとした音だけが響く。ジトっと見上げてくる黒い目にオルフェウスは瞳を悩ましく揺らし微かなため息をついて、
「他の三人は蛇を不吉と見ています。ライラ様についても危険視している節は否めません」
危険視する理由としては両親―――特に実の父親が関係しているという話は伏せておいた。
「ですが私は違います。おふたりを嫌ったり危険視したりなど神に誓っていたしません」
『ふうん?』
ほんとかなあとギルバードは怪しんで頭を傾げる。
『じゃあボクを初めて見た時どう思ったの?』
「強い力と叡智を秘める使い魔だと思いました」
『危険生物やキメラじゃなくて?』
「それはない。あり得ません」
『そうは言うけど蛇は神の庭にいないしムカデのキメラと同日に召喚されたから危険生物かキメラに違いないって神殿は見解を出してたじゃない』
「それはっ.........それはひとえにアルゴン人が蛇を不吉や悪の象徴と捉えているからであって..........私はそうじゃない」
オルフェウスはやるせない思いを含んだ吐息をこぼし、緩慢な動作で眼鏡を外した。レンズを介さずギルバードに注がれる眼差しには敬虔な光があった。
「今でこそアルゴンの民となりアルゴン神殿に勤めておりますが、私はイーリアス人です。イーリアスの民にとって蛇は神聖生物、長寿と叡智の象徴です。蛇が召喚獣として神より遣わされたとなればそれは無上の栄誉でしかなく不吉と言われる所以はない。私は私の信仰においてあなたを危険生物やキメラと同一視することはありません」
思いがけない告白にギルバードは黙り込み、ライラはこの話を聞いてふとチャリティで立ち寄った露店を思い出した。
花時計広場で失くしてしまったが、あの日はイーリアスの輸入雑貨を扱う店で蛇の機械人形を購入しトートバッグにぶら下げていた。たくさんの露店と人がひしめく通りにいながらもなぜその店に目を留めることができたのか。
それはあの蛇の人形が他の人形を差し置いて最も目立つ場所に飾られていたからだった。
まるで祀り上げるかのように。
『イーリアス人としての信仰心があるのに、どうしてアルゴンに来たの?』
言葉を取り戻したギルバードが質問を再開する。それはごくプライベートな問いであったがオルフェウスは素直に答えた。
「イーリアスは機械の国と言われるだけあって発展していますが、そのぶん空気がよくありません。私は生まれつき体が弱く年々イーリアスの空気に体が耐えられなくなってしまって。16歳の時に故郷を捨ててアルゴンに完全移住しました」
『.....一人で?』
「ええ、もとより孤児で家族はいません。成人の儀もこちらで済ませましたし、移住して15年以上経ちましたからもうすっかりアルゴンの民になった気でいました。あなたの召喚を知るまでの話ですが」
オルフェウスは自嘲気味に笑って眼鏡を掛け直し、ギルバードは透明なレンズでは隠せない憂いと郷愁を帯びる目を黙って見上げる。
「他の神官達があなたを断罪すべきだと言った時、なぜその必要があるのか理解が及びませんでした。話し合いを重ねる中で文化の違いだと気づき、住処を変えても私はイーリアスの民なのだと思い知らされました。自分のルーツや幼少期に刷り込まれた思想というものは忘れたようでいてなかなか根強く残るものらしいです」
「オルフェウス様、数字の修正が終わりました」
「あっ、ありがとうございます。そうしましたら次に、外交一覧の方を―――」
オルフェウスとライラの事務的なやりとりを聞きつつギルバードはいつの間にか緩んでいたとぐろを巻き直した。ここまでの彼の言葉に嘘はないと思えた。あえて嘘をつく必要のない話というのもあるが、他の三人の大神官達とは違って彼の態度や口調には相手を尊重する意志が見て取れた。
神官というのはいけすかないが、人柄は多少信用しても良さそうだ。
ライラが別の一覧にまた同じ作業を始める間にまた話を続けることにする。
『春の乙女の変更についてどう思ってる?』
「どう、と言いますと」
『変更するべきだったかどうか』
「いいえ。変更するべきではありませんでした」
オルフェウスは目を閉じて深く嘆息した。
「辞退を認めてはならないと意見をしましたが、三対一で通らず。神託ではなく人が多数決をもって変更するなど神への冒涜に他ならない」
『"神託"って具体的になにがあるの?』
「春の乙女が神殿で日課の祈りを行う際に異変が起こると言われています」
『.....そっか。それで祈りが役目の内に含まれてるんだ』
オルフェウスは頷き、ギルバードは一覧を凝視しているライラを見た。眉間にしわを寄せてかなり集中しており、周りの声は今や耳に入っていないようだった。
この隙にちょっと突っこんだ話をしてみよう。
思い立ち、ギルバードはテーブルに置かれた書類を眺めるふりをしてオルフェウスのそばに寄った。怪訝な面持ちをするオルフェウスに向かって鎌首を伸ばしてこそっと、
『禁書はきちんと保管されてる?』
オルフェウスは双眸を大きく見開いてギルバードを見下ろした。なぜ急にそれを聞くのかと彼の目は言っていたがギルバードは続けて、
『去年のままならいいんだけどさ』
そう小声で言って鎌首を下げ、とぐろの上に頭を置いた。意味深長な言葉にオルフェウスは暫くの間固まっていたが、
「できました」
ライラの声にびくりとして石化は解かれた。
「先程の一覧と同じでレッスン回数を減らしてそのぶん座学に費やそうと思います。他国文化や国の歴史はまったく知らないので」
「.......わかりました。では少々失礼してまとめてきます」
そう言うとオルフェウスは一覧を持って離宮を出ていき、三十分ほどして戻ってきた彼の両腕には五本の巻物と一冊の薄い冊子が抱え込まれていた。
「お待たせしました。作成したスケジュールです」
テーブルにドサリとすべて置いてから巻物を三本ライラに手渡す。
「神殿と王家への共有分として二本はこちらでいただきますが残りは差し上げます。侯爵様にもお渡しいただければと」
......もう出来たの?
ライラは巻物の束を受け取ると一つをテーブルの上で広げてギルバードと覗き込んだ。明日から二か月先までのスケジュールが組まれており、早朝から夜までみっちりだが週に一回か二回休みが入るようになっていた。
「ありがとうございます.........早いですね」
予想外に常識的なスケジュールで良かったとほっとしつつ、この短時間でどうやって五本もの巻物を作ったのだろうとたじろいでいるとオルフェウスは笑って言った。
「図書館勤めの速記人と複写人の手を借りました。ライラ様のためと聞いて皆で一覧の奪い合いを始めたものですから、喧嘩になるのではとひやひやしました」
「そうだったのですか.....」
意外だった。図書館で仕事をしている彼らはいつも寡黙に淡々と事務作業をこなしており、奪い合いや喧嘩といった行動とは到底結びつかない人々だった。
オルフェウスは翌日の予定を指し示して、
「明日は早速テーブルマナーと神降ろしの舞のレッスンが入っています。神降ろしの舞については元ネタの神話がありまして...」
持参していた薄い冊子を差し出すのでライラは受け取りページをめくった。娘と狼が湖の畔に座っている挿絵が目に入りギルバードと一緒に眺める。
「そちらの本も差し上げます。初めて神と交流した女性の物語です。使い魔の起源の神話とも言われています」
「この神話のストーリーに沿って舞うと」
「ええ。一般的な小道具は"扇"と"林檎"です。舞姫の技能が高いと"羽衣"が追加されますが、歴代は殆ど扇と林檎です」
ライラは羽衣の説明にぴんと来ずに眉根を寄せる。羽織って踊ればいいというわけではないのだろうか。
「羽衣だけなぜ技能が必要なのでしょう」
「真上や前方に放り投げて受け止めるといった所作が入るためです。狙った場所に落ちるように投げるというテクニックがいるばかりか、当日は屋外舞台上での演技になるので風の流れに左右されます。歴代の令嬢でも挑戦した方は数える程しかいらっしゃいません」
「狙って、投げる.....」
『マリアンナも扇と林檎で練習してたの?』
ギルバードの問いにオルフェウスは頷く。
「奇をてらわず歴代通りの舞をしたいと仰せでした」
『へえー』
単純に羽衣を扱う技量がなくて避けただけだろう。
ギルバードはフンと鼻を鳴らしてから、しかめっ面で何事かを思案していたライラと顔を見合わせた。互いの考えはわかっていたがこの場では口に出さなかった。
「スケジュールについてなにかご質問はありませんか」
「いいえ。ですが.....この様子だと暫く屋敷には帰れそうもないですね」
朝は日の出の時刻に神殿で祈りを行い、夜も座学やレッスンが夕食を挟んだ後にも入っている。ライラは小さくため息をつき、オルフェウスも表情をくもらせた。
「そうですね.......申し訳ありません。座学とレッスンが一通り終わるまではこちらから通っていただくのがいいかと思います。離宮の継続使用については私から王家に報告をしておきます」
『アランは喜ぶだろうなあ...むむっ』
のんきな発言にライラはギルバードの頬を指で挟んでむにむにとやる。
「会う暇なんてないわ。二か月間勉強漬けなんだから」
『むっ...でも休みもあるしむむむ』
なんだかんだで平和に見えるのは不思議だとオルフェウスはつい笑って、
「ライラ様、すみませんがペンをお借りしてもいいですか。そちらの予定表も」
「どうぞ」
ライラの指から解放されたギルバードは顎直しをして胴に頭をちょこんと乗せ、オルフェウスは広げられた巻物の端にさらさらと書き込みをし始めた。
「レッスンや座学を進める中でこのスケジュールでは難しいと感じられた際はお早めにご相談ください。朝夕の祈りの際に神殿でお呼び出しいただければと思いますが、他の神官の目が煩わしい場合は私の屋敷をお訪ねいただくでも構いません。屋敷は中も外も草だらけなのでお呼びするには忍びないですが、一応住所を記しておきます」
「草って.....屋敷の中もですか?」
一体どんな場所に住んでいるのだろうかと気になって尋ねるとオルフェウスは眉を八の字にして頬をかいた。
「使い魔の鹿が大食漢でして。食べ物が視界からなくなると主人を後ろ脚で蹴り飛ばすものですから」
鹿。
「.......男の子ですか?」
「ええ、雄鹿です。ツノで草を引っ掛けてまき散らしながら食事をするので私も弟子も困っています」
ツノのある鹿。
ライラの表情がぱっと明るくなり、ギルバードはやれやれと頭を振る。オルフェウスはにこりと笑い、巻物二つを持って席を立った。
「早速王家にスケジュールの共有をいたします。特にアラン王子が気にしてらっしゃると思いますから..........あっ、このペンはあちらに戻しておきますね」
開けっぱなしにされている引き出しに気づいて近づき、
「......?」
筆記具に混じって置かれているあるものを見てオルフェウスは眼鏡の下の双眸を険しく細める。
なぜ、これがここに。
咄嗟の判断でペンを戻す代わりにそれを手の中に握り込め、ローブの袖に隠して持つ。
「それでは失礼いたします。お時間いただきありがとうございました」
深々と一礼したのちオルフェウスは離宮を後にした。自身の後ろ姿を捉える警戒の眼差しにはついぞ気づかず、王城を素通りして正門へと歩いていく。
***********
日が西に沈み始めた頃、アランは執務室で一日の仕事の後片付けを行っていた。
サイン済の書類と未精査分の書類とをきっちり分けて棚にしまい、机の上を整頓して乾いた布で丁寧に拭く。毎朝気分よく仕事を始められるようにと、一日の終わりに必ず掃除をする習慣がこの数年で身についていた。
「......よし」
指先についたインクのシミまで綺麗に拭き取ってから端に置かれた鏡の前で身だしなみを整える。整えると言ってもいつもの変わり映えのしない黒い装束、黒い髪。全体的に黒いのでたまには違う色の服を着てみようかと思わなくもなかったが、服選びが面倒なのと汚れが目立たないという理由に逃げて結局通年黒を着ていた。
裾などをなんとなく整えてから鏡を離れ、机に立て掛けていた剣を掴んで部屋を出ようとした時だった。
扉を控え目にノックする音が聞こえてきたので返事をするとオルフェウスが入ってきて、どこか神妙な面差しでアランに一礼をして言った。
「春の乙女のスケジュールをお持ちしました」
「.....まだ打ち合わせ中かと思っていた」
「いえ、遅くなり申し訳ありません」
アランは剣を置いて差し出された巻物を広げて眺める。
「休みはあるが明け方から夜までか」
過労死するほどではないにしても試験を控えた学生並みの忙しさ。
「はい。レッスンと座学が完了するまでの期間は離宮を継続してご利用いただくのがよろしいかと思いますが、許可いただけますでしょうか」
「ああ。生活の面倒は引き続き王家で見るということで王の許可も取っている」
「ありがとうございます」
オルフェウスは下げた頭を緩く起こしつつ、
「春の乙女とは別件でアラン様にお聞きいただきたいことがありまして」
アランは目を上げてオルフェウスを見、数瞬してスケジュールに視線を戻した。
「どっちだ。報告か独り言か」
「両方です。二件あります」
オルフェウスは懐をごそごそとやってなにかを取り出し、ためらいがちに口を開いた。
「先にご報告から。この石を勝手ながら東の離宮より拝借しました。見つけた場所が場所ですので他の神官には内密にしています」
机に置かれたそれをアランは怪訝な顔で手に取り眺める。
手に握り込めるサイズの雫形の石。
刻まれた逆さ十字。
コルトナ男爵の屋敷にあったプレートと同じ紋様だった。
「......離宮のどこに」
「客間の本棚にある引き出しの中に。筆記用品に紛れて置かれていました」
「誰の持ち物かわかるか」
「わかりません。ライラ様は特に気にされる様子も隠すそぶりもありませんでしたが」
「まあ彼女のものではないだろう。戦闘で瀕死の怪我を負っているしシュレーターとの繋がりはない」
しかしこの瞬間、彼女は無関係だと確信する心とは別に戦士としての心が「それは情に絆された決めつけでは?」と疑念を囁きかけてきた。
霞か雲のような謎カルトと二度対峙して怪我を負いながらもギリギリ生き残っている令嬢。
本当に偶然や強運というだけなのか?
瀕死の怪我も自身が死なないことを想定してわざと負ったという可能性は?
あえて被害者になり国の中枢に近づいて敵側に情報をもたらすことも彼女になら―――
馬鹿馬鹿しい。
アランは巻物をくしゃりとやって机に置き、疑念を追い払う深い息をついた。自分が直接見て知っている彼女の人柄を思えばそんな可能性万に一つもあるわけなかった。職務柄とはいえ好きな女性まで疑う根性に嫌気が差す。
「神力の残滓を確認してもらえるか」
「屋敷で確認しましたがありません。プレートと同様なんの変哲もないただの石です」
「わかった。預かってこちらで調べを進めておく」
明日ナインハルトに情報を共有して調査に入ろう。
「報告の方は終わりか」
「はい」
となると次は独り言―――大抵は人間関係の愚痴だが、今日はなにを語るのか。
日が沈む空を窓越しに眺めて待っているとオルフェウスはぽつぽつと独白を始め、聞き終えた後アランは独り言だということを忘れて話し掛けた。
「禁忌というのはこの際置いておいて一人では無理だろう」
「代償はあるでしょうが身命身使を賭せば叶いましょう。私と違って先の長い弟子達を巻き込むわけには参りませんから」
オルフェウスは自身を叱りつけるカーウェインを思い出し、双眸を細めて笑う。
「私にはあの瞬間が神の啓示に思えたのです。私は人間が定めた規律ではなく私の信心に従って事を成そうと思います」
確固たる意志を宿す瞳を前にアランは止めても無駄だと察して口を閉ざす。赤い夕焼け空を背景に黒いポチ目の蛇を思い浮かべて小さく呟く。
信仰するのは自由だが、アイツは対象外でもいいんじゃないか。
「レイチェル様に?!お元気でしたでしょうか」
「お知り合いでしたか。元気に野草を煮詰めておいででした」
この青年は何者だろう。
ギルバードはライラの袖の中からほんの少し顔を出し、舌をぴろぴろとして頭を傾げ続けていた。
どんな生き物も生きている限りなにかしらのにおいがするものなのに、ライラと話している青年からは全然なんのにおいもしない。ライラの匂いを除けば二人が食べているキャンディの甘い香りだけがするという怪。
「目的は特定の動物にのみ作用する毒について知見を得ることだったのですが、ご厚意で試作段階の『スペシャル獣除け薬』なるものを嗅がせてもらいました」
「.....どのような香りでした?」
「香水としてつければ人すら寄りつかなくなる香り、とでも言っておきましょう」
「森歩きには有用そうだわ。あとは絶対に断りたい縁談の席とか」
「はは、悪くない使い道だ」
二人は楽しそうに話しているがギルバードは背筋がゾワゾワとしてきて細い体をきゅっと小さく縮こまらせた。
青年は植物学を学んでいるらしく話す内容はどれをとってもライラの興味をひくものばかり。
でもそれはそれ、得体の知れない人間とは下手に関わらない方が良いと思った。
「ライラは気に入りの香りはありますか?」
「ありません」
「香水もつけない?」
「ええ、苦手なので。ですが獣除けの薬には興味があります」
「......歩く牛舎になってしまうな」
「......どんなにおいかわかりました」
楽し気な会話の腰を折るのは気が引けたが、ギルバードは「もう帰ろう」とライラの腕をツンツンツンとつっついた。
すると一拍置いて、
「エディ様。私そろそろ行かなくては」
「ああ、すっかり話し込んでしまった」
意図は無事に伝わったらしい。交わされる別れの挨拶にほっとしてギルバードは縮こめていた体を伸ばした。
びゅうと吹く木枯らしと鴉の鳴き声が響き渡る庭園を抜けてライラとギルバードは東の離宮へと戻る。
***********
「.........アンナ、今帰ったわ」
「ああっ!!お帰りなさいませ!」
アンナは主人の帰館に安堵して、しかしその胸中は悟らせまいとにっこり笑って出迎えた。主人を部屋に引き入れ周囲をぐるりと一周して、
「さては庭園におりましたね?」
「どうしてわかるの?」
「髪に花びらがくっついてます、ほらっ」
努めて明るく笑い、後ろ髪からひとひらの花弁をつまみとった。
主人の今朝の外出が春の乙女就任の告知であるということは察していた。その上で予定時刻を過ぎても帰らないため、アンナは日課の茶の支度すら手につかず心配して待っていた。
土壇場で春の乙女を代わらせるなんて。
性悪公爵令嬢に神罰が下りますように。
心の中では呪いの言葉を吐きつつ、鏡台から櫛を取って風で乱された主人の銀の髪を優しく直した。
その時、
『あれっ?』
素っ頓狂な声が上がり、ギルバードは舌をぴろぴろとしてボトリと袖から床に降り変化をして言った。
『アンナ、今ナイン来てる?』
「.....ふふっ、そうなんです」
アンナはライラのドレスの裾をチェックしながらいたずらな笑みを浮かべた。
「つい今しがたお越しになりまして、お待ちいただけるとのことでしたので客間にお通ししています」
ナインハルト様がいらしてるの?
手早く身なりを整えられた後ライラはそわそわする心持ちでギルバードと並んで客間に向かった。自分が寝ている間に彼が一度見張りに訪れていたという話は聞き知っていて、寝顔を見られたと思うと気まずくて恥ずかしかった。
落ち着いて対面できる気はしなかったが、
「......おはようございます、ナインハルト様」
客間にそっと滑り込んで恐る恐る声を掛ける。
するとナインハルトはソファーを離れて早足でやってきたかと思うとごく至近距離に立ち身を屈めて視線を合わせてくるのでライラは数センチ飛び跳ねて後ずさった。
「おはようございます、レディ」
動揺するライラは意に介さず様々な想いを瞳に湛えて、ナインハルトはほうと胸を撫で下ろした。
「痛むところはありませんか」
「え、ええ、どこもありません」
「よかった。ずっと心配していました」
そう言ってライラの手をとり見つめてくる彼は以前と少しも変わらない様子だった。
寝顔にドン引きされてたりとかは、多分なさそう...?
ライラはナインハルトの表情から希望的観測を試みて、そもそも人の寝顔を見て態度を変えるほど狭量な方ではないと胸の内で言い聞かせる。現に自身に向けられる眼差しは初めて会った日からなんら変わりないのだから。
穏やかで優しく、空とは違う碧の瞳。
「......海より碧いのでは」
ふと口をついて出たのは夢見がちな発言で、ナインハルトが驚いた顔をするのに気づいて慌てて取り繕う。
「すみません、まだ寝ぼけているのかも」
『平常運転でしょ』
隣でギルバードが茶々を入れ、ライラはギルバードの脇腹に手刀を入れた。
『ギャッ!』
「あら、つい手が」
姉弟よろしく戯れるふたりにナインハルトはくすりと笑い、ライラの腕を引いてソファーへと座らせた。
「元気でおてんばで安心しました」
向かい合ってソファーに座り、ギルバードもライラの横にあぐらをかいて座る。ギルバードはナインハルトと彼の隣に置かれた箱とを交互に見て、
『今日のナイン、いつもと雰囲気違う気がする』
「.....そうか?」
『うん。普通の貴族っぽく見える』
普段外ハネしている金の髪は大人しくまとまっており、いかにも貴族の令息といった雰囲気でワイルドさは鳴りを潜めていた。
ああ、とナインハルトは髪に手をやり笑って言った。
「まだ乱れてないというだけだ。今朝は稽古場に行かなかったから」
『寝坊?』
「まさか。王都にある店に出向いていた。この髪も今だけで夕方になれば癖が出る」
ライラはナインハルト様は癖っ毛なのかと思う傍ら、王都と聞いて自分にも行きたい場所があったことを思い出した。
「私も弓を取りに行かなければ。もうできているのかしら」
「できていますよ。試し射ち用に多めに矢を準備して待っているそうです。レディのご都合の良い時に同行します」
「ありがとうございます」
一日も早く受け取りたいという気持ちがぐわっと湧き上がってきたのも束の間、たちまちしぼんでいく。
都合の良い時は果たしてどれくらいあるのかしら。
「.....ナインハルト様も既にお聞き及びかと思いますが、春の乙女の準備で少々忙しくなりそうです。スケジュールがまとまりましたらご連絡します」
ライラの暗く翳る顔を前にナインハルトは無言で頷くことしかできなかった。
安易な声掛けも激励も、まして同情などきっと望まない。
言葉の代わりに隣に置いていた箱を手に取って差し出した。
「ささやかながら贈り物です」
「.....へっ」
ライラは落ち着きなく左右をきょろきょろと見渡し、その仕草がおやつを前にしたシャルロットにそっくりだったためにナインハルトは思わず笑う。
「他の誰でもなくレディへの贈り物です」
「えっ、なぜ?」
「回復のお祝いです」
「あ.....ありがとうございます」
受け取って膝の上に乗せて眺めていると軽快なノック音が客間に響き、アンナがティーセットを持って入ってきた。アンナはライラの膝の上にある箱を見つけて微笑み、茶を出して一礼したのちにぱたぱたと部屋を出て行った。
「今開けても構いませんか?」
「どうぞ」
『なんだろう』
ギルバードが興味津々で箱をくんくんと嗅ぎ、ライラは箱を持ち上げてギルバードの鼻先にずいと近づける。
「蛇の嗅覚と頭脳でわかる?」
『多分お菓子っぽいなにか。でも箱についたナインのにおいで詳しくはわからない』
二つのにおいを嗅ぎ分けつつやはり先程庭園にいた青年は不思議だったと改めて思う。
物ですらこうして残り香を纏うのだから。
「......私にはどっちの匂いも全然わからないわ」
「っ!レディ!普通に開けてください」
ライラまで箱をくんくんしだしたのでナインハルトは気恥ずかしさに慌てて止め、ライラははっとして小さな照れ笑いを浮かべてからリボンと包装紙を解き始めた。花柄の綺麗な包み紙を破らないよう慎重に外して箱の蓋をそっと持ち上げ、納められた品に息を飲み感嘆する。
そこには繊細な花模様の細工が施された円柱形の硝子瓶が入っており、瓶の中は赤紫色のとろみのある液体でなみなみと満たされていた。瓶を取り出して揺らすと液体に混ざる細かな粒子が照明を反射してきらきらと煌めき、硝子細工と相まって宝石の如き美しい輝きを放つ。
箱の底を見ると商品説明のカードが入っていた。
***********************************
【菫とジンジャーのシロップ】
白湯や紅茶に溶いてお楽しみ下さい。
そのままでも美味しくお召し上がり頂けます。
***********************************
シロップ瓶の他には硝子製の小皿と小さなスプーンが同梱されており、それにも花模様が彫られていた。
ライラは瓶の細工とシロップの色合いとを光に透かしてじっくり眺め、ナインハルトはギルバードと目を合わせて微笑んでから、
「喉にも良く体を温める効果もあります。乾燥が進む時期にもなりますしリフレッシュ用品としてお使いください。味も香りも気に入っていただけるかと思います」
「こんなに素敵なものをありがとうございます。開けるのがもったいないくらい綺麗だわ」
ライラは瓶を元通り納めて箱ごとぎゅっと抱きしめた。
数日の間は飾って目で楽しもう。
その後はレッスンをこなした自分へのご褒美として、毎日ちょっとずつ食べよう。
「喜んでいただけたならなによりです」
ナインハルトはまたひとつ微笑んでソファーから立ち上がった。
「では私はそろそろ。あ、そうだ。レディに一件許可いただきたいことがありまして」
「許可?なんでしょう」
座ったまま訝しんで見上げるとナインハルトはギルバードにちらと視線を流す。
「彼を戦士の稽古に参加させてもよろしいでしょうか。スキルを有効活用する術を学んでもらえればと思います」
ギルバードは大急ぎであぐらをやめて姿勢を正し、ライラは思ってもみなかった申し出を嬉しく感じた。
アルゴンの戦士に混じっての稽古、ギルバードにとって有意義な経験となるに違いなかった。
「はい!私としては是非ともお願いしたく思いますが.....ギル、あなたにやるきはあるのかしら」
尋ねるとギルバードは意気込んで、
『もちろん!.........でも』
なぜかしゅんとして顔を伏せてしまいライラは不思議に思って覗き込む。
「でも?」
『......ライラのそばにいないといざという時守れないから』
「またとない機会よ。やるきがあるならやるべきだわ」
『チャリティでは大怪我させた。俺がそばにいなかったせいだ』
語る声は悔恨に満ちており、ライラはこの時初めてギルバードが主人を守れなかったことを強く悔やみ今もなお自責の念に駆られていると知る事になる。
「.....あなたは脱皮期間で動けなかったじゃない」
『視力は戻ってたんだから一緒にチャリティに行けばよかったんだ。そしたら守れたはずなのに。使い魔失格だ』
そうは言っても長期間の絶食もあり、萎びた紐さながらにぐったりしていた姿を思うと戦えたかどうかは甚だ疑問だとライラは思う。だがそれを言うのが憚られるくらいにギルバードはしょんぼりとしょげかえっていた。
「私が怪我をしたのは私自身が戦いを望んだからであって、あなたのせいなんかじゃないわ。あなたは一緒に戦ってくれた。ギルの神力があったから私はキメラを退治できたの」
物理的に離れていても使い魔は主人と共に在る。
ギルバードが脱皮期間でふせっている間、ライラはふたりで一緒に出掛けられないことをたびたび憂い嘆いていた。しかしチャリティでの戦闘を経て、自分がどこに行こうとギルバードは常に一緒にいるのだと認識を改めていた。
たとえそばにいなくてもあなたは私の中に息づいている。
それは主人の魂に使い魔の魂が結びついているからで、だから私が死ねばあなたも死んでしまう。
そうでしょう?
俯くギルバードの頭を優しく撫でる。
「ねえ、ギル。あなたは強い使い魔だけれど戦いの経験は全然足りていないと思うの。いつもそばにいてくれるのは嬉しいし私も安心するけれど、そうしているだけではいつまで経っても経験は積めないわ」
諭す口調で語りかけるとギルバードは瞳を上げてライラを見た。
『俺が強くなったら、ライラは嬉しい?』
「ええ。あなたは私の使い魔でブラッドリー侯爵家の一員なのだから。目一杯練習して、私だけではなくてたくさんの人を守れるような強い使い魔になって頂戴」
ライラは撫でる手を降ろして微かに笑いかけ、膝に乗せていた箱をテーブルに置いて立ち上がりナインハルトと向かい合った。
「ナインハルト様、お手数をお掛けしますがギルバードをよろしくお願いします」
そうしてナインハルトが離宮を去り、ライラがシロップ瓶を部屋に飾ってアンナとうっとり眺めていた時のこと。
また別の訪問者がやってきてカツカツとドアノッカーを打ち鳴らした。
「ご意見をいただいてからスケジュールを組もうかと思いまして。すみませんが一時間から二時間程度お時間をいただいても...?」
「はい、大丈夫です」
テーブルを挟んで対面に座し、黄色いローブに身を包んだ訪問者―――大神官オルフェウスはぺこりと深く頭を下げた。ウェーブがかった長い髪は僅かな黒を残すのみでほぼ白髪。声や口調からそこまで齢は行っていないと思われたものの、眼鏡の下の黒い瞳は悟ったような温厚さと賢明さとを備えており限りなく年齢不詳の男だった。
オルフェウスは持参した書類をテーブルに広げてライラとギルバードに示す。この時ギルバードは変化を解いてテーブル上に鎮座しライラと共に紙片を覗き込んでいた。
「まずはこちらをご覧ください。明月祭までに修了が必要なレッスンと座学の一覧になりまして........ああ、ありがとう」
アンナはハーブティを二人ぶん出し、不安気な面持ちで退室する。
「レッスン一覧の各項目に記載されている数字は習得にかかる見込み回数です。座学一覧の方は見込み時間になります。各項目の内容をご確認いただいた上で数字に修正をいただけますでしょうか」
オルフェウスの説明にライラはぐっと眉根を寄せる。
「つまり......回数や時間を減らせそうなものは減らし、自信がなければ増やすという認識で合っていますか」
「仰る通りです。レッスンは1回120分で途中に休憩を10分程度挟みます。場所は王城の一室です」
「わかりました」
レッスンのたびに王族の住まいに通うと思うと気が遠くなるが致し方なし。ライラは本棚についている小さな引き出しからペンを取り出し一覧に書き込みをし始め、ギルバードはその作業を暫く眺めてから丸い頭を上げてオルフェウスを見た。
『ちょっと聞きたいんだけどさ』
どこか拗ねる口調であったがオルフェウスはティーカップを置いて静かに答えた。
「はい」
『大神官ってボク達のことキライでしょ』
唐突かつストレートな質問にオルフェウスは身をぴくりとさせライラも一瞬ペンを止めたが、ギルバードが神殿から目の敵にされてきた過去を思いひとまず好きに話しをさせることにした。
ギルバードは尻尾に顎を置いてぶつくさと呟く。
『召喚されてから今日まで優しくされた記憶はないし、そのくせやたらと絡んでくるし。しつこくイジメられてる気分だ』
暫しの沈黙。
部屋にはライラがペンを走らせるカリカリとした音だけが響く。ジトっと見上げてくる黒い目にオルフェウスは瞳を悩ましく揺らし微かなため息をついて、
「他の三人は蛇を不吉と見ています。ライラ様についても危険視している節は否めません」
危険視する理由としては両親―――特に実の父親が関係しているという話は伏せておいた。
「ですが私は違います。おふたりを嫌ったり危険視したりなど神に誓っていたしません」
『ふうん?』
ほんとかなあとギルバードは怪しんで頭を傾げる。
『じゃあボクを初めて見た時どう思ったの?』
「強い力と叡智を秘める使い魔だと思いました」
『危険生物やキメラじゃなくて?』
「それはない。あり得ません」
『そうは言うけど蛇は神の庭にいないしムカデのキメラと同日に召喚されたから危険生物かキメラに違いないって神殿は見解を出してたじゃない』
「それはっ.........それはひとえにアルゴン人が蛇を不吉や悪の象徴と捉えているからであって..........私はそうじゃない」
オルフェウスはやるせない思いを含んだ吐息をこぼし、緩慢な動作で眼鏡を外した。レンズを介さずギルバードに注がれる眼差しには敬虔な光があった。
「今でこそアルゴンの民となりアルゴン神殿に勤めておりますが、私はイーリアス人です。イーリアスの民にとって蛇は神聖生物、長寿と叡智の象徴です。蛇が召喚獣として神より遣わされたとなればそれは無上の栄誉でしかなく不吉と言われる所以はない。私は私の信仰においてあなたを危険生物やキメラと同一視することはありません」
思いがけない告白にギルバードは黙り込み、ライラはこの話を聞いてふとチャリティで立ち寄った露店を思い出した。
花時計広場で失くしてしまったが、あの日はイーリアスの輸入雑貨を扱う店で蛇の機械人形を購入しトートバッグにぶら下げていた。たくさんの露店と人がひしめく通りにいながらもなぜその店に目を留めることができたのか。
それはあの蛇の人形が他の人形を差し置いて最も目立つ場所に飾られていたからだった。
まるで祀り上げるかのように。
『イーリアス人としての信仰心があるのに、どうしてアルゴンに来たの?』
言葉を取り戻したギルバードが質問を再開する。それはごくプライベートな問いであったがオルフェウスは素直に答えた。
「イーリアスは機械の国と言われるだけあって発展していますが、そのぶん空気がよくありません。私は生まれつき体が弱く年々イーリアスの空気に体が耐えられなくなってしまって。16歳の時に故郷を捨ててアルゴンに完全移住しました」
『.....一人で?』
「ええ、もとより孤児で家族はいません。成人の儀もこちらで済ませましたし、移住して15年以上経ちましたからもうすっかりアルゴンの民になった気でいました。あなたの召喚を知るまでの話ですが」
オルフェウスは自嘲気味に笑って眼鏡を掛け直し、ギルバードは透明なレンズでは隠せない憂いと郷愁を帯びる目を黙って見上げる。
「他の神官達があなたを断罪すべきだと言った時、なぜその必要があるのか理解が及びませんでした。話し合いを重ねる中で文化の違いだと気づき、住処を変えても私はイーリアスの民なのだと思い知らされました。自分のルーツや幼少期に刷り込まれた思想というものは忘れたようでいてなかなか根強く残るものらしいです」
「オルフェウス様、数字の修正が終わりました」
「あっ、ありがとうございます。そうしましたら次に、外交一覧の方を―――」
オルフェウスとライラの事務的なやりとりを聞きつつギルバードはいつの間にか緩んでいたとぐろを巻き直した。ここまでの彼の言葉に嘘はないと思えた。あえて嘘をつく必要のない話というのもあるが、他の三人の大神官達とは違って彼の態度や口調には相手を尊重する意志が見て取れた。
神官というのはいけすかないが、人柄は多少信用しても良さそうだ。
ライラが別の一覧にまた同じ作業を始める間にまた話を続けることにする。
『春の乙女の変更についてどう思ってる?』
「どう、と言いますと」
『変更するべきだったかどうか』
「いいえ。変更するべきではありませんでした」
オルフェウスは目を閉じて深く嘆息した。
「辞退を認めてはならないと意見をしましたが、三対一で通らず。神託ではなく人が多数決をもって変更するなど神への冒涜に他ならない」
『"神託"って具体的になにがあるの?』
「春の乙女が神殿で日課の祈りを行う際に異変が起こると言われています」
『.....そっか。それで祈りが役目の内に含まれてるんだ』
オルフェウスは頷き、ギルバードは一覧を凝視しているライラを見た。眉間にしわを寄せてかなり集中しており、周りの声は今や耳に入っていないようだった。
この隙にちょっと突っこんだ話をしてみよう。
思い立ち、ギルバードはテーブルに置かれた書類を眺めるふりをしてオルフェウスのそばに寄った。怪訝な面持ちをするオルフェウスに向かって鎌首を伸ばしてこそっと、
『禁書はきちんと保管されてる?』
オルフェウスは双眸を大きく見開いてギルバードを見下ろした。なぜ急にそれを聞くのかと彼の目は言っていたがギルバードは続けて、
『去年のままならいいんだけどさ』
そう小声で言って鎌首を下げ、とぐろの上に頭を置いた。意味深長な言葉にオルフェウスは暫くの間固まっていたが、
「できました」
ライラの声にびくりとして石化は解かれた。
「先程の一覧と同じでレッスン回数を減らしてそのぶん座学に費やそうと思います。他国文化や国の歴史はまったく知らないので」
「.......わかりました。では少々失礼してまとめてきます」
そう言うとオルフェウスは一覧を持って離宮を出ていき、三十分ほどして戻ってきた彼の両腕には五本の巻物と一冊の薄い冊子が抱え込まれていた。
「お待たせしました。作成したスケジュールです」
テーブルにドサリとすべて置いてから巻物を三本ライラに手渡す。
「神殿と王家への共有分として二本はこちらでいただきますが残りは差し上げます。侯爵様にもお渡しいただければと」
......もう出来たの?
ライラは巻物の束を受け取ると一つをテーブルの上で広げてギルバードと覗き込んだ。明日から二か月先までのスケジュールが組まれており、早朝から夜までみっちりだが週に一回か二回休みが入るようになっていた。
「ありがとうございます.........早いですね」
予想外に常識的なスケジュールで良かったとほっとしつつ、この短時間でどうやって五本もの巻物を作ったのだろうとたじろいでいるとオルフェウスは笑って言った。
「図書館勤めの速記人と複写人の手を借りました。ライラ様のためと聞いて皆で一覧の奪い合いを始めたものですから、喧嘩になるのではとひやひやしました」
「そうだったのですか.....」
意外だった。図書館で仕事をしている彼らはいつも寡黙に淡々と事務作業をこなしており、奪い合いや喧嘩といった行動とは到底結びつかない人々だった。
オルフェウスは翌日の予定を指し示して、
「明日は早速テーブルマナーと神降ろしの舞のレッスンが入っています。神降ろしの舞については元ネタの神話がありまして...」
持参していた薄い冊子を差し出すのでライラは受け取りページをめくった。娘と狼が湖の畔に座っている挿絵が目に入りギルバードと一緒に眺める。
「そちらの本も差し上げます。初めて神と交流した女性の物語です。使い魔の起源の神話とも言われています」
「この神話のストーリーに沿って舞うと」
「ええ。一般的な小道具は"扇"と"林檎"です。舞姫の技能が高いと"羽衣"が追加されますが、歴代は殆ど扇と林檎です」
ライラは羽衣の説明にぴんと来ずに眉根を寄せる。羽織って踊ればいいというわけではないのだろうか。
「羽衣だけなぜ技能が必要なのでしょう」
「真上や前方に放り投げて受け止めるといった所作が入るためです。狙った場所に落ちるように投げるというテクニックがいるばかりか、当日は屋外舞台上での演技になるので風の流れに左右されます。歴代の令嬢でも挑戦した方は数える程しかいらっしゃいません」
「狙って、投げる.....」
『マリアンナも扇と林檎で練習してたの?』
ギルバードの問いにオルフェウスは頷く。
「奇をてらわず歴代通りの舞をしたいと仰せでした」
『へえー』
単純に羽衣を扱う技量がなくて避けただけだろう。
ギルバードはフンと鼻を鳴らしてから、しかめっ面で何事かを思案していたライラと顔を見合わせた。互いの考えはわかっていたがこの場では口に出さなかった。
「スケジュールについてなにかご質問はありませんか」
「いいえ。ですが.....この様子だと暫く屋敷には帰れそうもないですね」
朝は日の出の時刻に神殿で祈りを行い、夜も座学やレッスンが夕食を挟んだ後にも入っている。ライラは小さくため息をつき、オルフェウスも表情をくもらせた。
「そうですね.......申し訳ありません。座学とレッスンが一通り終わるまではこちらから通っていただくのがいいかと思います。離宮の継続使用については私から王家に報告をしておきます」
『アランは喜ぶだろうなあ...むむっ』
のんきな発言にライラはギルバードの頬を指で挟んでむにむにとやる。
「会う暇なんてないわ。二か月間勉強漬けなんだから」
『むっ...でも休みもあるしむむむ』
なんだかんだで平和に見えるのは不思議だとオルフェウスはつい笑って、
「ライラ様、すみませんがペンをお借りしてもいいですか。そちらの予定表も」
「どうぞ」
ライラの指から解放されたギルバードは顎直しをして胴に頭をちょこんと乗せ、オルフェウスは広げられた巻物の端にさらさらと書き込みをし始めた。
「レッスンや座学を進める中でこのスケジュールでは難しいと感じられた際はお早めにご相談ください。朝夕の祈りの際に神殿でお呼び出しいただければと思いますが、他の神官の目が煩わしい場合は私の屋敷をお訪ねいただくでも構いません。屋敷は中も外も草だらけなのでお呼びするには忍びないですが、一応住所を記しておきます」
「草って.....屋敷の中もですか?」
一体どんな場所に住んでいるのだろうかと気になって尋ねるとオルフェウスは眉を八の字にして頬をかいた。
「使い魔の鹿が大食漢でして。食べ物が視界からなくなると主人を後ろ脚で蹴り飛ばすものですから」
鹿。
「.......男の子ですか?」
「ええ、雄鹿です。ツノで草を引っ掛けてまき散らしながら食事をするので私も弟子も困っています」
ツノのある鹿。
ライラの表情がぱっと明るくなり、ギルバードはやれやれと頭を振る。オルフェウスはにこりと笑い、巻物二つを持って席を立った。
「早速王家にスケジュールの共有をいたします。特にアラン王子が気にしてらっしゃると思いますから..........あっ、このペンはあちらに戻しておきますね」
開けっぱなしにされている引き出しに気づいて近づき、
「......?」
筆記具に混じって置かれているあるものを見てオルフェウスは眼鏡の下の双眸を険しく細める。
なぜ、これがここに。
咄嗟の判断でペンを戻す代わりにそれを手の中に握り込め、ローブの袖に隠して持つ。
「それでは失礼いたします。お時間いただきありがとうございました」
深々と一礼したのちオルフェウスは離宮を後にした。自身の後ろ姿を捉える警戒の眼差しにはついぞ気づかず、王城を素通りして正門へと歩いていく。
***********
日が西に沈み始めた頃、アランは執務室で一日の仕事の後片付けを行っていた。
サイン済の書類と未精査分の書類とをきっちり分けて棚にしまい、机の上を整頓して乾いた布で丁寧に拭く。毎朝気分よく仕事を始められるようにと、一日の終わりに必ず掃除をする習慣がこの数年で身についていた。
「......よし」
指先についたインクのシミまで綺麗に拭き取ってから端に置かれた鏡の前で身だしなみを整える。整えると言ってもいつもの変わり映えのしない黒い装束、黒い髪。全体的に黒いのでたまには違う色の服を着てみようかと思わなくもなかったが、服選びが面倒なのと汚れが目立たないという理由に逃げて結局通年黒を着ていた。
裾などをなんとなく整えてから鏡を離れ、机に立て掛けていた剣を掴んで部屋を出ようとした時だった。
扉を控え目にノックする音が聞こえてきたので返事をするとオルフェウスが入ってきて、どこか神妙な面差しでアランに一礼をして言った。
「春の乙女のスケジュールをお持ちしました」
「.....まだ打ち合わせ中かと思っていた」
「いえ、遅くなり申し訳ありません」
アランは剣を置いて差し出された巻物を広げて眺める。
「休みはあるが明け方から夜までか」
過労死するほどではないにしても試験を控えた学生並みの忙しさ。
「はい。レッスンと座学が完了するまでの期間は離宮を継続してご利用いただくのがよろしいかと思いますが、許可いただけますでしょうか」
「ああ。生活の面倒は引き続き王家で見るということで王の許可も取っている」
「ありがとうございます」
オルフェウスは下げた頭を緩く起こしつつ、
「春の乙女とは別件でアラン様にお聞きいただきたいことがありまして」
アランは目を上げてオルフェウスを見、数瞬してスケジュールに視線を戻した。
「どっちだ。報告か独り言か」
「両方です。二件あります」
オルフェウスは懐をごそごそとやってなにかを取り出し、ためらいがちに口を開いた。
「先にご報告から。この石を勝手ながら東の離宮より拝借しました。見つけた場所が場所ですので他の神官には内密にしています」
机に置かれたそれをアランは怪訝な顔で手に取り眺める。
手に握り込めるサイズの雫形の石。
刻まれた逆さ十字。
コルトナ男爵の屋敷にあったプレートと同じ紋様だった。
「......離宮のどこに」
「客間の本棚にある引き出しの中に。筆記用品に紛れて置かれていました」
「誰の持ち物かわかるか」
「わかりません。ライラ様は特に気にされる様子も隠すそぶりもありませんでしたが」
「まあ彼女のものではないだろう。戦闘で瀕死の怪我を負っているしシュレーターとの繋がりはない」
しかしこの瞬間、彼女は無関係だと確信する心とは別に戦士としての心が「それは情に絆された決めつけでは?」と疑念を囁きかけてきた。
霞か雲のような謎カルトと二度対峙して怪我を負いながらもギリギリ生き残っている令嬢。
本当に偶然や強運というだけなのか?
瀕死の怪我も自身が死なないことを想定してわざと負ったという可能性は?
あえて被害者になり国の中枢に近づいて敵側に情報をもたらすことも彼女になら―――
馬鹿馬鹿しい。
アランは巻物をくしゃりとやって机に置き、疑念を追い払う深い息をついた。自分が直接見て知っている彼女の人柄を思えばそんな可能性万に一つもあるわけなかった。職務柄とはいえ好きな女性まで疑う根性に嫌気が差す。
「神力の残滓を確認してもらえるか」
「屋敷で確認しましたがありません。プレートと同様なんの変哲もないただの石です」
「わかった。預かってこちらで調べを進めておく」
明日ナインハルトに情報を共有して調査に入ろう。
「報告の方は終わりか」
「はい」
となると次は独り言―――大抵は人間関係の愚痴だが、今日はなにを語るのか。
日が沈む空を窓越しに眺めて待っているとオルフェウスはぽつぽつと独白を始め、聞き終えた後アランは独り言だということを忘れて話し掛けた。
「禁忌というのはこの際置いておいて一人では無理だろう」
「代償はあるでしょうが身命身使を賭せば叶いましょう。私と違って先の長い弟子達を巻き込むわけには参りませんから」
オルフェウスは自身を叱りつけるカーウェインを思い出し、双眸を細めて笑う。
「私にはあの瞬間が神の啓示に思えたのです。私は人間が定めた規律ではなく私の信心に従って事を成そうと思います」
確固たる意志を宿す瞳を前にアランは止めても無駄だと察して口を閉ざす。赤い夕焼け空を背景に黒いポチ目の蛇を思い浮かべて小さく呟く。
信仰するのは自由だが、アイツは対象外でもいいんじゃないか。
応援ありがとうございます!
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