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誓いの音節
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ギルバードが稽古場に行っているちょうどその頃。
アランは離宮のベッドに上がり、左膝と左腕でライラを横抱きに支える格好で右手に持った報告書類の束に目を通していた。
それはまるで溺愛する人形と片時も離れまいとするかのような一種異様にも見える光景。
しかし執務室ではなく離宮でこうして書類を読むということはアランの中で最早習慣化されつつあった。
【逆さ十字のプレートに関する報告(要旨)】
コルトナ男爵の屋敷で押収されたプレート(以下A)について。素材は火成岩。神力の形跡なし。王都および各領地で聞き込み調査を行った結果シュレーターに関連付ける有力な情報は得られなかった。このことからAはシュレーターの活動とは無関係の物品である可能性が浮上している。
「コルトナ男爵の個人的な持ち物だとして出どころはどこだ......まさか手作りなんてことは.........」
ぶつぶつと呟く。
「ライラ、逆さ十字を知らないか」
返事はなくとも時折話し掛ける。
これも習慣づいている。
【ブラニスの探知状況に関する報告(要旨)】
王太子妃暗殺未遂事件以降、三ヶ月の間ブラニスの気配はなくキメラの出現もなし。先の一件で敵の戦力が大幅に削られたと仮定した場合、戦力補充のためブラニス作成や死者復活の儀およびキメラ作出が活発化すると考えられる。行方不明者リストを作成の上、隔日更新し誘拐と見られる事案について調査を実施中。
「......君が寝ている間に解決したかったが、そうもいかなそうだ」
全体的に後手に回っている。
書類を閉じてベッド横の机に置く。
ライラはふわふわとした豪奢なネグリジェを着て、薄い寝化粧ですやすやと眠る。
綺麗な装いも化粧も、寝ている人間には不要だとアランは思う。しかしメイドのアンナはそうは思わないらしく、アランが来るよりも前の時間―――夜が明けてすぐの時間に起き出してきては毎日健気に主人の身なりを整えていた。
「.....他国に連れて行きたくない」
やるせないため息をつく。
神殿から春の乙女を再選するとの報せが舞い込んできた時、アランは困惑しつつも喜びを感じていた。度重なるマリアンナの執務室訪問から解放されるというのもそうだが、もしライラが選ばれれば一緒に行動する機会が増え、自然と心の距離を縮められるのではと思った。
しかしそんな浮き足立つ気持ちはすぐに消え、ライラに降りかかるかもしれない身の危険や本人が感じるであろうストレスを想像して憂鬱になった。
また、たとえ婚約者として連れていったとしても他国にはアルゴンの倫理観が通用しない者もいるかもしれない。そう思うと気が重く、今から嫌な物思いをしてしまっていた。
立てている膝をわずかにずらすとライラはアランの胸元にこてんと頭を傾げて預け、アランは物思いも忘れて思わず微笑み、あどけない寝顔を眺める。
去年の成人の儀の時点ではここまで関わりを持つことになろうとは思っていなかった。セーブルにはいろいろと文句を言われたが、あの日神殿に行った自分の行動力を褒めてやりたい。
「ライラ、いつまで寝ている」
不毛な問い。
ただ眠るだけの白い貌。
指先で白い頬をつつくと低い体温を感じてしまいすぐに離す。所在なく浮いた手で銀の髪に触れて指を絡ませ、梳くように撫でる。
「ライラ、俺は―――」
瞳を伏せて一瞬ためらってから、
「俺は、君のことが.....................うん」
言ったそばから情けなくなって額を押さえた。
「うん」はない、さすがに。
改めて。
「つまり......君の気が強いところも、たまに目つきが悪くて怒るとすぐ頬をふくらますのも、弓を引く姿勢も全部、なにもかもが............」
以前はあれだけ怒ったり赤くなったりしていた顔も今は安らかなまま、固く閉ざされた双眸もぴくりとも動かない。
思い出を回想する場合、一般的な令嬢であれば笑顔が思い出されるのだろう。でもライラに関しては真顔や怒っている顔やイヤそうな顔ばかりで。
それでも思い出せばすべて可愛く、愛おしいと思ってしまう。
金の瞳を揺らして深呼吸をする。
今一度、意を決して。
「...............君が好きだ」
言えた。
やっと。
口にしてしまえばなんのことはない単純な音節。
しかしアランにとってはずっと忌避してきたフレーズだった。
暫しなにも言わずに沈黙する。
舌に残る語感を味わいながらライラを見下ろすが、やはり反応は返らない。
死んだように穏やかに眠り続ける。
「っ......ごめん」
口をついて出る謝罪に続いて後悔と愛惜の念がどっと胸に押し寄せてきた。華奢な体を強く抱きしめ、溢れる想いを言葉に変える。
「好きだ。愛してる」
我が身の不甲斐なさにうち震える。
せめてあの日に言うことができていたならば。
そうすればこんなにも後悔しなくて済んだろうに。
知れば君は怒るだろうか。
女性を愛したこともマトモに付き合ったこともないせいで、君を好きかどうかの確信を持たないまま、妃になってほしいと申し入れをしていたことを。
君に対する独占欲や情欲が純粋な愛ゆえなのか、それとも一時的な劣情なのか自分の心がわからなかった。
口先だけの愛の言葉を言いたくなくて、君に嘘をつきたくなくて、花時計広場の会話でも―――君が死んでしまうかもしれないと思った瞬間でさえも、「好きだ」と伝えることがどうしてもできなかった。
ライラはまだ知らなかったが、学生の頃より始まったアランの女性遍歴は割り切った遊び人のそれだった。
一介の貴族ではなく王族で、しかも王位継承権第二位という高い身分。
ひとたび交際をすれば相手や相手の親族に妃の座を期待させてしまう。万が一別れるともなれば、相手の女性には同情の視線や揶揄する言葉が浴びせられるかもしれない。
そう思うと気軽に誰かと付き合う気持ちには到底なれず、それでもヴァルギュンターの同級達のように遊んでみたいという欲求があった。
そこで考えた末、一切愛がなく妃にする未来もないという通告を律儀に相手―――奔放な女性に対して行なった上で、しかも付き合うという段階を一切経ず、行為だけをするようになった。
後腐れなく全員一夜限り。
互いに欲を発散するためだけに行う、完全なる遊びの情事。
いつしかナインハルトに指摘された通り、相手には一切の情を持たずある意味一途にストイックに接してきた。その結果、女性の愛し方も男女の仲の機微さえもよく知らないで来てしまったが特に気にはしてはいなかった。
自分は兄のように恋愛結婚をする必要はない。
貴族であれば数回しか顔を合わせないままの結婚もよくあること。条件が合い、互いに尊重できるならば深い感情はない方が気が楽だ。
自分は戦士で、いつどこで死ぬかもわからないのだから。
そう思っていた。
しかし今回の騒動によって、アランの信条は大きく揺らぐことになる。
彼女と自分となら先に死ぬのは自分の方。
無意識下でそう思っていたからこそ、ライラの傷を目の当たりにした時の衝撃は凄まじく、なにが起きたのかすぐには理解できなかった。
薄い腹は惨たらしく裂かれ内臓さえ視認できた。その現実を至近距離で直視しながら、頭の片隅では地方視察で観た景色について話したいしあわよくば一緒に観に行きたいなどと考えていた。
死にゆく女性を目の前にして、将来二人で交わしたい言葉や見たい風景を思い描く。
そんな日が来るなど想像だにしていなかった。
目を閉じれば鮮明に蘇るあの日の光景。
血に染まってもなお変わらず時を刻み続ける花時計。
ひとたび夢に見れば恐れを内包するフラッシュバックに苛まれる。赤と黒の血にライラの体が侵食されて手の内から崩れ去る幻想を見る。
終わらない悪夢と幻想による追体験。
それは着実に心を蝕みながらも、しかしアランの内から本心を暴いて引きずり出し、想いを自覚させる一端を担っていた。自身が抱いていた感情は決して一時的な劣情ではない。純粋で一途な恋情だったのだと荒療治じみた方法で理解せしめていた。
眠る顔に視線を落とす。
あどけない寝顔に見えるが夢などは見ているのだろうか。見ているならばどうか楽しい夢であってくれと願い、白い手をとり優しく握った。
「君は自分のことを俺に釣り合わないと言って卑下していたが、違うんだ」
自分の方こそ、こんなにも綺麗な女性にはきっと相応しくない。
「でも諦めはしない。後ろ向きな君と違って俺は前向き思考だから」
顔を寄せる。ひんやりとした唇にほのかに体温を移してからベッドに横たわらせて薄絹をかけた。
アランはソファーに移動すると身を沈めてため息をついた。
自分の気持ちは自覚し言葉にもできた。
あとひとつ気がかりなのは彼女の目に今の自分はどう映るのかということ。和解したつもりで婚約を推し進めてしまったが、チャリティ前には喧嘩をしていた。また、離宮で立ち聞きした内容をカウントしなければ彼女側から好意を示す言葉を貰ったことは過去一度として―――。
ふと思い出す。
眠る直前に言われたあれは?
"私の王子様"
「素直に好意と捉えていいのか......でも君は変異種だからな」
臣下が主君に対して言う我が君的なノリじゃないよなと斜め上の疑念が浮かんでしまい苦笑する。
その時だった。
扉を忙しなくノックする音が響き、返事をすればギルバードがそそくさと部屋に入ってきた。
「おかえり......どうした慌てて」
『令嬢の群れがいた』
群れって。
「水牛じゃあるまいし」
ギルバードはおええと顔を顰め、アランは事態を察して頷く。
「ギャラリーかなり多かったんだな」
ナインハルトとギルバードが並ぶ様子は非常に令嬢受けがいい光景だろう。
『あのにおいやばくない?禁止とか制限とかしないの?』
「あれはあえて自由にさせてる」
『あえてって、稽古中気持ち悪くならない?』
「最初はそうだが皆慣れる。大半の令嬢は媚薬成分入りの香水をつけてくる。王宮の戦士は媚薬によるハニートラップにかからないようにあの場で体を慣れさせている」
『はにーと、らっぷ...』
「ギルは鼻が効くぶんきついかもな。慣れるまではなるべくギャラリーがいない時間帯に行くといい」
『そうする......』
ギルバードは力なく答えてその場を離れたかと思えば、水を入れたたらいとタオルを持ってきた。なにをするのかと思って見ていると蛇の姿に戻ってたらいの水に飛び込みぐるぐるばしゃばしゃとやり始め、一通り水浴びをした後にたらいから出てきてタオルにぽふんとくるまった。
『ふいー、さっぱり』
「そうやって風呂に入るのか」
『いつもはライラがいれてくれるんだけどね』
「......駄目だ。今後は一人で入れ」
『なんで?』
ギルバードは頭を傾げて平然と問うがアランの心中は穏やかではなかった。そう言えば以前、浴槽こそ分けているが二人で風呂に入っていると聞いたことを思い出していた。
「そもそも蛇に風呂なんているか?毛のないつんつるてんのくせに」
『鱗はあるもん。たとえば便秘の時とか鱗の間に汚れが挟まった時とか。ライラがお腹マッサージと鱗の掃除をやってくれるんだ』
なるほど。
納得して黙り込みそうになるが、
「でもふたり一緒に風呂に入りに行く必要はないだろ」
『毎回は行かないよ。でもライラが疲れてる日は必ず着いていってる。神力の弓を使った日なんかはバスタブで寝落ちしがちだから、そういう時はボクが引き揚げてアンナに渡して.....ってどうかした?』
アランは膝に肘をつき顔を覆っていた。青年姿のギルバードが入浴中のライラを抱えているなど大問題としか思えないのだが、ブラッドリー侯爵邸では普通のこととして認知されているらしい。
ギルバードは頭をひねり、もしかしてやきもちかと考えて、
『ライラと結婚した後はアランがやればいいじゃない。ボクはライラが溺死しなければそれでいいから』
そう言ってタオルの間をくぐって隙間から顔を覗かせた。
アランは自分がそれをやることを考えて、果たして自制心を保てるのかと自問して、
「......いや、ギルが適役かもしれない」
熱い手のひら返し。
『そう?あ、脱皮期間とか食後の時はお願いするからね』
「......それは.........努力する」
努力?とギルバードはまたしても頭をひねるが、気にすまいと体拭きに没頭することにする。
タオルの隙間を出たり入ったりしていると、
「なあ、妙齢の女性から"私の王子様"と言われたとして、これは普通に好きって意味に捉えていいのだろうか」
『誰に言われたのかによると思う』
ギルバードはタオルから頭を出す。
『どんな人?』
「............気が強くて怒りっぽくて」
ギルバードはじっとアランを見る。
『好きで言ってるんじゃない?きっと普段は心の中で思ってて、酔ってたり薬キメたりして浮ついている時にぽろっと出るとか』
アランは眠る直前のライラを思い出す。酔ってはいないが夢うつつで毒を浴びていた。
「そうか」
つい微笑む。
あの瞬間心の内がまろびでていたのであれば、聞けてよかった。
『......ちなみにライラには言える?その言葉。男版に変換してさ』
問われ、アランは暫し考える。
「私の王子様」の男版?
そのまま変えると王子様は王女様になるがライラは王女ではないので。
「俺のお姫様?」
『................。』
「.....なんだよ」
『うーん.....ナインハルトが言ったらもっとこう、グッとくる台詞なんだろうなって思って』
「やめろやめろ、あいつと比べるな」
言い返しつつも痛いところを突かれた気がした。
甘い言葉を駆使した男女間の駆け引きなんてこれまでしたことがなく、経験値はゼロに等しかった。
『あ。それはいいんだけどさ、明日も同じ時間に来てもらうことってできる?』
ん?とアランはもぞもぞと動くタオルを見る。
「別にいいが、また稽古場か」
『やった!うん、稽古場に行きたいんだ。手合わせしようと思って』
なにやら楽し気な様子。
同じ時間となると相手は恐らくナインハルトだろう。
「わかった。ただ怪我はなるべくするな。リリーが怒る」
『き、気をつけるー』
この時、ベッドの上で。
ライラの瞼が微かに、本当に微かにぴくりと動いた。しかし目を覚ますことはなく、そのまますやすやと眠り続けていた。
***********
アランは書類の束を片手に離宮から王城までを戻る道中にいた。遠くに鴉の鳴き声を聞きながら人目を避けて王宮の端の木立を歩く。
ざくざくと歩を進めていると、カア、とすぐ近くで鳴き声が聞こえて思わずそちらに目をやって、
刹那。
落ち葉を散らす木枯らしを切り裂く、微かな金属音を聞く。
アランは反射で剣を二本抜き、振り向きざまに凶刃を受け止めた。書類が散らばる視界の中、一対の剣に力を込めて急襲者の身を前方に弾き返す。
「貴様なんの真似だ」
金の双眸に冷冷たる怒りを滲ませて睨み据える。
「ただの挨拶さ」
清爽な声が風に響く。
「ヴァルギュンター時代を思い出すだろう?」
「相変わらず卑怯な剣だ」
「君は変わらず甘い剣だ。勝った者こそ正義。たとえどんな手を使おうともね」
揺れる白金の髪をかき上げ、エルカディアは爽やかな笑顔を浮かべる。
アランは離宮のベッドに上がり、左膝と左腕でライラを横抱きに支える格好で右手に持った報告書類の束に目を通していた。
それはまるで溺愛する人形と片時も離れまいとするかのような一種異様にも見える光景。
しかし執務室ではなく離宮でこうして書類を読むということはアランの中で最早習慣化されつつあった。
【逆さ十字のプレートに関する報告(要旨)】
コルトナ男爵の屋敷で押収されたプレート(以下A)について。素材は火成岩。神力の形跡なし。王都および各領地で聞き込み調査を行った結果シュレーターに関連付ける有力な情報は得られなかった。このことからAはシュレーターの活動とは無関係の物品である可能性が浮上している。
「コルトナ男爵の個人的な持ち物だとして出どころはどこだ......まさか手作りなんてことは.........」
ぶつぶつと呟く。
「ライラ、逆さ十字を知らないか」
返事はなくとも時折話し掛ける。
これも習慣づいている。
【ブラニスの探知状況に関する報告(要旨)】
王太子妃暗殺未遂事件以降、三ヶ月の間ブラニスの気配はなくキメラの出現もなし。先の一件で敵の戦力が大幅に削られたと仮定した場合、戦力補充のためブラニス作成や死者復活の儀およびキメラ作出が活発化すると考えられる。行方不明者リストを作成の上、隔日更新し誘拐と見られる事案について調査を実施中。
「......君が寝ている間に解決したかったが、そうもいかなそうだ」
全体的に後手に回っている。
書類を閉じてベッド横の机に置く。
ライラはふわふわとした豪奢なネグリジェを着て、薄い寝化粧ですやすやと眠る。
綺麗な装いも化粧も、寝ている人間には不要だとアランは思う。しかしメイドのアンナはそうは思わないらしく、アランが来るよりも前の時間―――夜が明けてすぐの時間に起き出してきては毎日健気に主人の身なりを整えていた。
「.....他国に連れて行きたくない」
やるせないため息をつく。
神殿から春の乙女を再選するとの報せが舞い込んできた時、アランは困惑しつつも喜びを感じていた。度重なるマリアンナの執務室訪問から解放されるというのもそうだが、もしライラが選ばれれば一緒に行動する機会が増え、自然と心の距離を縮められるのではと思った。
しかしそんな浮き足立つ気持ちはすぐに消え、ライラに降りかかるかもしれない身の危険や本人が感じるであろうストレスを想像して憂鬱になった。
また、たとえ婚約者として連れていったとしても他国にはアルゴンの倫理観が通用しない者もいるかもしれない。そう思うと気が重く、今から嫌な物思いをしてしまっていた。
立てている膝をわずかにずらすとライラはアランの胸元にこてんと頭を傾げて預け、アランは物思いも忘れて思わず微笑み、あどけない寝顔を眺める。
去年の成人の儀の時点ではここまで関わりを持つことになろうとは思っていなかった。セーブルにはいろいろと文句を言われたが、あの日神殿に行った自分の行動力を褒めてやりたい。
「ライラ、いつまで寝ている」
不毛な問い。
ただ眠るだけの白い貌。
指先で白い頬をつつくと低い体温を感じてしまいすぐに離す。所在なく浮いた手で銀の髪に触れて指を絡ませ、梳くように撫でる。
「ライラ、俺は―――」
瞳を伏せて一瞬ためらってから、
「俺は、君のことが.....................うん」
言ったそばから情けなくなって額を押さえた。
「うん」はない、さすがに。
改めて。
「つまり......君の気が強いところも、たまに目つきが悪くて怒るとすぐ頬をふくらますのも、弓を引く姿勢も全部、なにもかもが............」
以前はあれだけ怒ったり赤くなったりしていた顔も今は安らかなまま、固く閉ざされた双眸もぴくりとも動かない。
思い出を回想する場合、一般的な令嬢であれば笑顔が思い出されるのだろう。でもライラに関しては真顔や怒っている顔やイヤそうな顔ばかりで。
それでも思い出せばすべて可愛く、愛おしいと思ってしまう。
金の瞳を揺らして深呼吸をする。
今一度、意を決して。
「...............君が好きだ」
言えた。
やっと。
口にしてしまえばなんのことはない単純な音節。
しかしアランにとってはずっと忌避してきたフレーズだった。
暫しなにも言わずに沈黙する。
舌に残る語感を味わいながらライラを見下ろすが、やはり反応は返らない。
死んだように穏やかに眠り続ける。
「っ......ごめん」
口をついて出る謝罪に続いて後悔と愛惜の念がどっと胸に押し寄せてきた。華奢な体を強く抱きしめ、溢れる想いを言葉に変える。
「好きだ。愛してる」
我が身の不甲斐なさにうち震える。
せめてあの日に言うことができていたならば。
そうすればこんなにも後悔しなくて済んだろうに。
知れば君は怒るだろうか。
女性を愛したこともマトモに付き合ったこともないせいで、君を好きかどうかの確信を持たないまま、妃になってほしいと申し入れをしていたことを。
君に対する独占欲や情欲が純粋な愛ゆえなのか、それとも一時的な劣情なのか自分の心がわからなかった。
口先だけの愛の言葉を言いたくなくて、君に嘘をつきたくなくて、花時計広場の会話でも―――君が死んでしまうかもしれないと思った瞬間でさえも、「好きだ」と伝えることがどうしてもできなかった。
ライラはまだ知らなかったが、学生の頃より始まったアランの女性遍歴は割り切った遊び人のそれだった。
一介の貴族ではなく王族で、しかも王位継承権第二位という高い身分。
ひとたび交際をすれば相手や相手の親族に妃の座を期待させてしまう。万が一別れるともなれば、相手の女性には同情の視線や揶揄する言葉が浴びせられるかもしれない。
そう思うと気軽に誰かと付き合う気持ちには到底なれず、それでもヴァルギュンターの同級達のように遊んでみたいという欲求があった。
そこで考えた末、一切愛がなく妃にする未来もないという通告を律儀に相手―――奔放な女性に対して行なった上で、しかも付き合うという段階を一切経ず、行為だけをするようになった。
後腐れなく全員一夜限り。
互いに欲を発散するためだけに行う、完全なる遊びの情事。
いつしかナインハルトに指摘された通り、相手には一切の情を持たずある意味一途にストイックに接してきた。その結果、女性の愛し方も男女の仲の機微さえもよく知らないで来てしまったが特に気にはしてはいなかった。
自分は兄のように恋愛結婚をする必要はない。
貴族であれば数回しか顔を合わせないままの結婚もよくあること。条件が合い、互いに尊重できるならば深い感情はない方が気が楽だ。
自分は戦士で、いつどこで死ぬかもわからないのだから。
そう思っていた。
しかし今回の騒動によって、アランの信条は大きく揺らぐことになる。
彼女と自分となら先に死ぬのは自分の方。
無意識下でそう思っていたからこそ、ライラの傷を目の当たりにした時の衝撃は凄まじく、なにが起きたのかすぐには理解できなかった。
薄い腹は惨たらしく裂かれ内臓さえ視認できた。その現実を至近距離で直視しながら、頭の片隅では地方視察で観た景色について話したいしあわよくば一緒に観に行きたいなどと考えていた。
死にゆく女性を目の前にして、将来二人で交わしたい言葉や見たい風景を思い描く。
そんな日が来るなど想像だにしていなかった。
目を閉じれば鮮明に蘇るあの日の光景。
血に染まってもなお変わらず時を刻み続ける花時計。
ひとたび夢に見れば恐れを内包するフラッシュバックに苛まれる。赤と黒の血にライラの体が侵食されて手の内から崩れ去る幻想を見る。
終わらない悪夢と幻想による追体験。
それは着実に心を蝕みながらも、しかしアランの内から本心を暴いて引きずり出し、想いを自覚させる一端を担っていた。自身が抱いていた感情は決して一時的な劣情ではない。純粋で一途な恋情だったのだと荒療治じみた方法で理解せしめていた。
眠る顔に視線を落とす。
あどけない寝顔に見えるが夢などは見ているのだろうか。見ているならばどうか楽しい夢であってくれと願い、白い手をとり優しく握った。
「君は自分のことを俺に釣り合わないと言って卑下していたが、違うんだ」
自分の方こそ、こんなにも綺麗な女性にはきっと相応しくない。
「でも諦めはしない。後ろ向きな君と違って俺は前向き思考だから」
顔を寄せる。ひんやりとした唇にほのかに体温を移してからベッドに横たわらせて薄絹をかけた。
アランはソファーに移動すると身を沈めてため息をついた。
自分の気持ちは自覚し言葉にもできた。
あとひとつ気がかりなのは彼女の目に今の自分はどう映るのかということ。和解したつもりで婚約を推し進めてしまったが、チャリティ前には喧嘩をしていた。また、離宮で立ち聞きした内容をカウントしなければ彼女側から好意を示す言葉を貰ったことは過去一度として―――。
ふと思い出す。
眠る直前に言われたあれは?
"私の王子様"
「素直に好意と捉えていいのか......でも君は変異種だからな」
臣下が主君に対して言う我が君的なノリじゃないよなと斜め上の疑念が浮かんでしまい苦笑する。
その時だった。
扉を忙しなくノックする音が響き、返事をすればギルバードがそそくさと部屋に入ってきた。
「おかえり......どうした慌てて」
『令嬢の群れがいた』
群れって。
「水牛じゃあるまいし」
ギルバードはおええと顔を顰め、アランは事態を察して頷く。
「ギャラリーかなり多かったんだな」
ナインハルトとギルバードが並ぶ様子は非常に令嬢受けがいい光景だろう。
『あのにおいやばくない?禁止とか制限とかしないの?』
「あれはあえて自由にさせてる」
『あえてって、稽古中気持ち悪くならない?』
「最初はそうだが皆慣れる。大半の令嬢は媚薬成分入りの香水をつけてくる。王宮の戦士は媚薬によるハニートラップにかからないようにあの場で体を慣れさせている」
『はにーと、らっぷ...』
「ギルは鼻が効くぶんきついかもな。慣れるまではなるべくギャラリーがいない時間帯に行くといい」
『そうする......』
ギルバードは力なく答えてその場を離れたかと思えば、水を入れたたらいとタオルを持ってきた。なにをするのかと思って見ていると蛇の姿に戻ってたらいの水に飛び込みぐるぐるばしゃばしゃとやり始め、一通り水浴びをした後にたらいから出てきてタオルにぽふんとくるまった。
『ふいー、さっぱり』
「そうやって風呂に入るのか」
『いつもはライラがいれてくれるんだけどね』
「......駄目だ。今後は一人で入れ」
『なんで?』
ギルバードは頭を傾げて平然と問うがアランの心中は穏やかではなかった。そう言えば以前、浴槽こそ分けているが二人で風呂に入っていると聞いたことを思い出していた。
「そもそも蛇に風呂なんているか?毛のないつんつるてんのくせに」
『鱗はあるもん。たとえば便秘の時とか鱗の間に汚れが挟まった時とか。ライラがお腹マッサージと鱗の掃除をやってくれるんだ』
なるほど。
納得して黙り込みそうになるが、
「でもふたり一緒に風呂に入りに行く必要はないだろ」
『毎回は行かないよ。でもライラが疲れてる日は必ず着いていってる。神力の弓を使った日なんかはバスタブで寝落ちしがちだから、そういう時はボクが引き揚げてアンナに渡して.....ってどうかした?』
アランは膝に肘をつき顔を覆っていた。青年姿のギルバードが入浴中のライラを抱えているなど大問題としか思えないのだが、ブラッドリー侯爵邸では普通のこととして認知されているらしい。
ギルバードは頭をひねり、もしかしてやきもちかと考えて、
『ライラと結婚した後はアランがやればいいじゃない。ボクはライラが溺死しなければそれでいいから』
そう言ってタオルの間をくぐって隙間から顔を覗かせた。
アランは自分がそれをやることを考えて、果たして自制心を保てるのかと自問して、
「......いや、ギルが適役かもしれない」
熱い手のひら返し。
『そう?あ、脱皮期間とか食後の時はお願いするからね』
「......それは.........努力する」
努力?とギルバードはまたしても頭をひねるが、気にすまいと体拭きに没頭することにする。
タオルの隙間を出たり入ったりしていると、
「なあ、妙齢の女性から"私の王子様"と言われたとして、これは普通に好きって意味に捉えていいのだろうか」
『誰に言われたのかによると思う』
ギルバードはタオルから頭を出す。
『どんな人?』
「............気が強くて怒りっぽくて」
ギルバードはじっとアランを見る。
『好きで言ってるんじゃない?きっと普段は心の中で思ってて、酔ってたり薬キメたりして浮ついている時にぽろっと出るとか』
アランは眠る直前のライラを思い出す。酔ってはいないが夢うつつで毒を浴びていた。
「そうか」
つい微笑む。
あの瞬間心の内がまろびでていたのであれば、聞けてよかった。
『......ちなみにライラには言える?その言葉。男版に変換してさ』
問われ、アランは暫し考える。
「私の王子様」の男版?
そのまま変えると王子様は王女様になるがライラは王女ではないので。
「俺のお姫様?」
『................。』
「.....なんだよ」
『うーん.....ナインハルトが言ったらもっとこう、グッとくる台詞なんだろうなって思って』
「やめろやめろ、あいつと比べるな」
言い返しつつも痛いところを突かれた気がした。
甘い言葉を駆使した男女間の駆け引きなんてこれまでしたことがなく、経験値はゼロに等しかった。
『あ。それはいいんだけどさ、明日も同じ時間に来てもらうことってできる?』
ん?とアランはもぞもぞと動くタオルを見る。
「別にいいが、また稽古場か」
『やった!うん、稽古場に行きたいんだ。手合わせしようと思って』
なにやら楽し気な様子。
同じ時間となると相手は恐らくナインハルトだろう。
「わかった。ただ怪我はなるべくするな。リリーが怒る」
『き、気をつけるー』
この時、ベッドの上で。
ライラの瞼が微かに、本当に微かにぴくりと動いた。しかし目を覚ますことはなく、そのまますやすやと眠り続けていた。
***********
アランは書類の束を片手に離宮から王城までを戻る道中にいた。遠くに鴉の鳴き声を聞きながら人目を避けて王宮の端の木立を歩く。
ざくざくと歩を進めていると、カア、とすぐ近くで鳴き声が聞こえて思わずそちらに目をやって、
刹那。
落ち葉を散らす木枯らしを切り裂く、微かな金属音を聞く。
アランは反射で剣を二本抜き、振り向きざまに凶刃を受け止めた。書類が散らばる視界の中、一対の剣に力を込めて急襲者の身を前方に弾き返す。
「貴様なんの真似だ」
金の双眸に冷冷たる怒りを滲ませて睨み据える。
「ただの挨拶さ」
清爽な声が風に響く。
「ヴァルギュンター時代を思い出すだろう?」
「相変わらず卑怯な剣だ」
「君は変わらず甘い剣だ。勝った者こそ正義。たとえどんな手を使おうともね」
揺れる白金の髪をかき上げ、エルカディアは爽やかな笑顔を浮かべる。
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