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二章

四十五話 魔生

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 空間が歪む。
 重く、苦しい――悲鳴のような気配。
 兵士たちは槍をかまえ、気配を取り囲んだ。皆、一様に息を殺しその時を待つ。
 ジェイミたちは、その円陣を遠巻きに見つめた。異様な気配だ。耳の奥がつるような、嫌な――
 
(何だ?)
 
 ジェイミは身構える。知らずその体には神経が張り巡らされ、重心は下に置かれた。
 
(姫様!)
 
 アイゼは気配が起こると同時、車の方へ走り出した。キーズが慌ててついてくるのにも気づかず、一目散に駆けた。
 獣人たちの、不敬な振る舞いに眉をひそめる者はいなかった。
 それらは、一様に些末ごとであった。
 空気は、緊迫していた。
 
 気配は大きかった。
 空間の歪は唸りをあげ、やがてひとところに集約しだす。
 それに乗じて、兵士の一人がじりりと前へ歩み出た。細身の兵士だが、体に鋼の芯が通ったように、動きはしんとしていた。
 取り出した小剣を逆手にかまえ、間合いをはかる。
 ――まだだ。
 まだ、はやるな――細身の兵士は、息を詰め、歪を睨んでいた。
 姿にならずんば、捕捉しそこなう――
 耳の奥が破れるような、うなりが辺りを支配する。
 そうして、歪の中心に――くらい淀みが生まれた。
 そこから、鋭い爪が這いいでたのと、細身の兵士が走り出したは、同時であった。
 空気が鳴る。
 次の瞬間には、兵士は宙を舞い、爪をかわしていた。爪は不規則な流線の軌道を描いて、兵士の体を追いかける。
 爪から連なる、細い影が――歪からのびたのを空をひるがえり、体をひねり確認した兵士は逆しまのまま叫んだ。
 
われに許しをディル・ウラーレ
 
 周囲の兵士たちが、一斉に槍の石突を、地面に叩きつけた。
 
歌をラーレ!」
 
 その言葉を境に――兵士たちは歌い出した。
 独特の歌だ。低く唱えながら、節は上がっていく。大地、上空に叩きつけるような、激しい響き。
 兵士たちが、音の高まりと共に、地を踏み鳴らす。
 ジェイミは、自身の肌がしびれるのを感じた。
 いっさいの疑問を差し挟む暇もなく、ただ一個の生命として、下から叩きつけられるように気が逆だった。
 これは、鼓舞だ。ジェイミは感じる。
 兵士たちは、さらに調子をあげる。
 細身の兵士は、襲いくる爪を飛びかわす。
 その動きは、避けるというより爪を己に誘導しているようであった。
 兵士たちの周囲から、光りだす。それは光の粒であった。
 兵士たちが唱え歌い、足を一定の間隔で地に叩きつける。その度に、光は上がり、増え、繋がり――線となる。
 やがて光の線は大きな輪となり――細身の兵士と歪の頭上を囲んだ。
 歌がまた高まる。
 歌は波となり、風となり、光をゆらし、大気をふるわせる。
 
「――」
 
 ジェイミは聞いた。
 何かが鳴っている。ひしひしと音が鳴る。
 
(……空気が割れてる?)
 
 にわかに信じがたいことだった。しかし――降りそそいだ光が、歪の中心に食い込んでいる。
 音の出処はそこだ。
 飛んできた爪を、細身の兵士が、その小剣をもって弾いた。
 
「捉えた!」
 
 彼が言うのと、大きな叫びが上がるのは同時だった。ホロスの嘶きに似た――それよりはるかにおぞましい声。
 そのくらき歪から――
 空気が割れる、激しい音がした。痛いほどの耳鳴りとなり、辺りに反響する。
 
魔生シャイダール……」
 
 ジェイミは、その言葉を知らず口中にて繰り返した。
 歪から現れたそれは、影の色の歪な球体だった。びっしりと小さな赤の目がついている。
 その目と目のすきまから、細い枝のように腕を伸ばし、その先端の爪を蠢かしている。
 魔生は大きな口を開ける――口の中にも目がある。
 そうして劇しく咆哮する。
 黒いつばきが、あたりに四散した。
 兵士たちは唱え――歌い続ける。辺りは異様な熱気に包まれていた。
 光の輪はいまや壁となり、細身の兵士と魔生、そしてこちらを隔てていた。
 彼は、光の壁を蹴り飛び込むと、爪を剣で弾く。ついで、二撃目で腕を落とした。
 周囲の兵士たちは石突で地を叩く。光が強くなる。朗々と歌う――地を踏みしめる――
 中心では、細身の兵士が、魔生と踊るように戦う――
 ジェイミは、その光景に目を奪われていた。
 細身の兵士は、光をまとう。逆手に持った彼の小剣が、稲妻のように光る――
 聞くに堪えない咆哮を上げ、魔生は体を痙攣させた。細い光の糸が、その体を縛り上げている。
 
終生ニエンテ!」
 
 細身の兵士は、叫ぶやいなや――宙より落ちるその勢いのままに――魔生を真二つに切り裂いた。
 
 突風が起こる。ジェイミがそれを魔生の断末魔だと気づいたのは、歌が高揚に満ちたからだ。
 魔生はくらい液体となり、弾け――霧散した。
 光がやむ。
 周囲の兵士たちは、目を伏して、何ごとかささやくように音を続けた。
 それは段々と細く静かになり――歌が止まった。
 細身の兵士は、小剣を振り、手首を返すと納めた。
 それを皮切りに、周囲に気配が戻る。常の生物らしい気配だ。
 
「倒したか」
 
 その隊の長であろう兵士があゆみでる。
 兵士たちは、右肩に手をあて目を閉じていたが――彼にあらためて礼を取り直す。
 彼は、魔生のいたところを検分した。
 
「たしかに、断ち切れている」
 
 ――彼方と此方を繋ぐものが、かき消えている。確認を終え、彼は細身の兵士に向き直る。
 
「ご苦労、スティレット」
「はっ」
 
 細身の兵士――スティレットが、頭を下げる。スティレットは、確かに魔生の液を浴びたはずなのに、全く汚れていない。
 見れば地面もそうだった。かき消えている。初めから何もなかったかのように。
 隊長は、皆を見渡す。それは労いを意味していた。
 
「列を組み直せ!」
 
 そう叫ぶと、他の隊へ伝令を飛ばした。
 魔生、討伐確認――
 怒号に近い声に、隊列は常の緊張を取り戻す。兵士が前へ前へと進み出す――
 
 ジェイミは、しばしそのさまを呆けて見ていた。そして己の失態に気づく。
 急ぎ、仕事へ戻る――その前に、姫のもとへ。
 しかし、先の光景が、じっと頭から離れないのだった。
 ――何だ、あれは?
 
 その問いに答えがきたのは、思ったよりもすぐだった。
 あれから急ぎ、隊は進み――ひらけた道に来て止まった。
 日は沈みだしていた。
 今夜はここで野営をするようだ。
 
(ここに留まるも、やむを得ずといったところか)
 
 皆、ぴりぴりと落ち着かない。先のことについて、互いに話したいことも話せぬほどの緊張だった。
 しかし、人間の差配は自分たちに関与することではない。ジェイミたちは、あれこれと忙しく用事を済ませていた。
 
 水を汲み、また――姫への食事を用意し終え、三人は、姫のもとへ向かった。
 三人が呼びだたされたのだと知ったのは、火のもとにいる、姫と――ジアンの様子からだ。
 ジアンは、静かにこちらを待っていたようだ。
 
「姫様」
 
 アイゼは安堵の声をもらした。思わず、といった様子で――ジアンがこめかみを動かすのと、アイゼが蹲うのは同時であった。
 
「控えよ」
「ジアン」
 
 低い声の余韻に、高い麗らかな声が重なった。
 姫が、す、と目隠しを外した。
 緩慢に頭をふると目を開く。稀有な目が、闇夜にきらめいた。
 
「アイゼは、そばにいてくれた」
 
 アイゼを見つめた。アイゼは、隣目に見てわかるほど、顔を真っ赤に染めた。
 
「皆もありがとう」
 
 そう言ってほほ笑む。キーズが「ははあ」とさらに頭を下げた。
 ジェイミとしては不服半分、きまりの悪さ半分だが、ひとまず頭をさげた。
 ジアンは、釈然としないところもあるようで、しかし言葉は重ねなかった。
 先に、用意した言葉の為に。
 
「今は、話してもいいのね?」
 
 姫もそれを理解しているのか、ジアンに尋ねた。ジアンは「はい」と頷いた。
 ジアンはジェイミたちの方を向くと、「そこに控えておれ」と言った。
 そのことに、ジェイミたちは少なからず驚く。
 
「姫様、このものらも傍に控えること、どうかお許しください」
 
 ジアンは姫に頭を下げる。姫は、首を傾げたが――にべもなく頷いた。
 そうして、身を僅かに乗り出し、ジアンに尋ねる。
 
 
「ジアン、さっきのは何?」
 
 改めて、といった問いかけであった。
 
魔生シャイダールにございます」
「しゃいだーる?」
「彼方より来る実体のなきものです」
 
「かなた……」
 
 姫が、口の中でくり返す。
 しんとあたりが静まる。
 
「危ないものなの?」
「神の御手の中ですが……おおよそは、われらの敵に値します」
 
 姫の言葉は、先の光景をおいてはいささか間が抜けていたが……本人は「ふうん」と頷いていた。
 
「すごい音がしてた。あれは?」
 
 得心はいったかわからないが……姫は次の疑問へ移すことにしたらしい。
 そしてそれは、ジェイミの疑問でもあった。
 
武奏曲ディオ・フーガにございます」
 
 ジアンは淀みなく答えた。
 
「われらはしばしば、戦闘に歌を使います。そして武奏曲は、魔生との戦闘には、欠かせぬものなのです」
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