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一章

三十四話 五つの音

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 広間に入り、エルガとジアンが目にしたのは、血塗れの獣人と、それを膝に抱え抱きしめる姫の姿――そして傍らに立つ、アーグゥイッシュの姿だった。

「アイゼ……! アイゼ……!」

 ラルはアイゼの名を呼んだ。その声は涙に濡れきっていた。ラルの白のドレスはアイゼの血で赤黒く染まっていた。

「エルガ、ジアン……! アイゼを助けて」
「姫――アーグゥイッシュ、これはどういう事だ」

 ラルは、二人に気づくと、叫んだ。エルガはそれを受け、アーグゥイッシュに問うた。

「火の粉が飛んできたので、相応に払ったまでですよ」

 アーグゥイッシュは、眉一つ動かさず、答えた。その言葉に、怒る余裕は今のラルにはなかった。アーグゥイッシュの頬に傷跡があるのを見たのだろう、エルガとジアンは大方の状況を察する。

「エルガ、アイゼを助けて」

 ラルは必死に言いながらも、どこかそれがむなしさをはらんでいることをわかっていた。アイゼはまだ、かろうじて息をしていたが、体はぐちゃぐちゃに壊れており、首は、常ではあり得ぬほどにひしゃげていた。
 これでは、もう……
 エルガもそれを察しているのか、常にない渋い顔をした。

「姫、それはできませぬ。人間を害した獣人は、殺すと定められております」

 しかし、エルガが言ったのは、ラルの全く予想だにしない言葉だった。ラルは、一瞬言葉の意図をはかりかね、虚をつかれたようにエルガを見た。にんげん……? えるみーる? まただ、またこの言葉、えるみーるとは、アイゼのことだ。それはわかる。しかし、にんげんを害したら殺す……どうして?
 わかったのは、エルガはアイゼを助けないと言うことだった。そして、おそらく、それもまたアイゼへの罰なのだと。

「ラルを守るためだったの、アイゼはラルを守ろうとしてくれたの」

 ラルは必死になって言い募った。
 守る――その言葉に、ジアンはぴくりと眉を動かし、そしてアーグゥイッシュを横目で見る。

「恐れながら姫様、守るとは?」

 ジアンの早口の問いに、ラルは先にされたことが浮かび、苦痛に固く目を閉じた。しかし、自分の苦痛に振り回されている場合じゃない――絞り出すように言葉をつむいだ。

「アーグゥイッシュが、ラルに……――いやなことをした。それでけんかになったところを、アイゼが」

 ラルの言葉に、ジアンの顔色が変わる。ジアンはアーグゥイッシュを激しい目でにらんだが、ラルはそのことに注意を払ってはいなかった。アイゼを守らなければならない。――でも、どうやって?

「ラルの為に、アイゼは戦っただけなの。お願い」

 言いながら、ラルの目からは、とめどなく涙があふれていた。エルガとジアンの顔に、一定の理解が生まれたのがわかった。その事に一縷の望みをかけたくなる。でも、かけて、どうするの?

「それでも、殺さねばなりません」

 しかし、エルガの言葉は変わらなかった。エルガの顔はひどく悲しげだった。ラルの頼みを断るということへの、悲しみに満ちていた。ラルは呆然と目を見開いた。知らず、体がふるえ出していた。

「姫のお慈悲を無為にせぬよう、せめてその獣人は、このエルガが楽にいかせましょう」

 エルガは携えていた槍を持ち直した。「御免」と、エルガは姫に獣人を渡すよう求めた。ラルは首を振った。呆然としたまま、首を振っていた。

「姫」
「いや」
「姫様――苦しみがなごうなります」
「いや!」

 ジアンが急くように言葉を重ねる。ラルは叫んだ。アイゼの体におおいかぶさり、必死にその身を庇った。

「いや、いや……! 絶対にいや!」

 ラルは泣きながら、我を忘れて叫んだ。いやだ、助けて、誰か。アイゼを助けて。願わずにいられなかった。助けを求めながら、そのむなしさに、ラルは気がおかしくなりそうだった。
 その様子に、エルガは悲しげに眉を下げ寄せた。ジアンはもどかしげに拳を握った。 ラルは、叫びながら、自分が自分に問いかけるのを聞いていた。わかっていた。腕の中のアイゼから、どんどん力が失われていくのを感じる。
 どうして、どうして、こんな時にさえ、ラルは何も出来ない。頼むばかり、願うばかりで――
 アーグゥイッシュがそんなラルを嘲笑した。ラルは突き落とされたような感覚になる。自らの浅ましさを、目の前に突き出されたようだった。

「貴様!」

 エルガがアーグゥイッシュにつかみかかる。それをどこか遠くに感じながら、ラルはもはや何も感じなかった。アーグゥイッシュのあざけりは、余りに自分に相応しかった。
 ラルは無力だった。そんな、身を打ち砕くような実感も、やはり、何の役にも立たない。アイゼを助けるすべはない、いやだ、それでも、いやだ――

「――」

 その時、何か細い音が聞こえた。アイゼのか細い息の音だった。それが、何かを形つくろうとしている。

「――……ま」

 ラルはそれにいち早く気づき、アイゼの口元に、耳をよせた。

「ひめさま」
「アイゼ」

 アイゼの目がうっすらとあいた。もう焦点が合っておらず、色さえもうつろだった。アイゼが、それでも、渾身の力をふりしぼっているのがわかった。

「なかないで」

 たえだえのふるえる声で、つむがれたのはその五音だった。
 ラルは目を見開く。その拍子に、涙がアイゼの血に汚れた頬に落ちた。
 沈黙。誠に、短い――しかしとてつもなく永く静かに感じる沈黙だった――アイゼのかすかな息がはっきりと聞こえるほど。
 ラルは涙を止めた。ふるえる唇を、引き結ぶ。今このとき、涙は無意味であることをようやく悟った。――覚悟が決まった。
 ラルは息を吸った。そうして涙を、胸の内からあふれる凍てつくような悲しみを――消した。心の内の霧を、はらしていく。
 きっと、それをするのが怖かった。それをしたら、戻れないとわかっていたから。でも、もう逃げない。戻らない――そう決めた。これからラルは、自分にできる事をしなければならない。そして出来ることとは――……

「大丈夫」

 ラルは笑った。アイゼを安心させられるように、笑った。アイゼの頬の血を優しくぬぐう。

「ありがとう」

 そうして、アイゼへの感謝を一心に伝えた。
 アイゼが安堵したように笑う。実際には、頬をふるわせただけだったが、笑ったのが、わかる。アイゼの魂が笑っていた。

「よかっ」

 ――それ以降は、音にならなかった。それがアイゼの最後の音だった。
 言い終わる前にアイゼの息は霧のように消えていた。ラルは目を閉じ、その最後の余韻を全身で感じ取っていた。
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