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一章
二十三話 夜も更けて
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「美しい!」
エルガはあてがわれた室に入るなり、そう叫んだ。大股で機敏に椅子に向かうと、勢いよく腰を下ろした。丈夫に作られた椅子は、エルガの巨躯を頼もしく受け止めた。作りに合わせ美しい装飾が施されている。
「なんと美しい! そう思うだろう、ジアン」
くるりと肩越しに、後についてきたジアンを振り返る。ジアンは輝く目に、はいと答えた。エルガの言葉の対象が何か、言葉にされなくともわかる。
「卑しき森におられたのに、全く、清らかで、光り輝くようだ。それだけではない。ジアン、今日のこと、俺は、いたく心を揺さぶられた。姫様の、なんと気丈でお優しいことか」
感嘆の息をもらす。息のわりに、うきうきとしてたいそう大きい音なので、隣の室まで聞こえそうであった。
「もっともでございます」
「愉快だ。俺は、ほっとしているぞ、ジアン」
「さようですか」
「あのような方がおられるなら、王国も安泰だ。……ああ、あのような方の夫となれたら、幸せだろうな」
エルガはまじめな調子で言い、うんうんと頷いた。言葉の後半は、半ば夢心地であったが。
この方は、すさまじく命知らずなことを、いっさいの毒気なく言ってのける。ジアンはたいそう愉快な気持ちを抑えて、ひらりと返した。
「なんと勇ましい。花街で目を回して倒れた方のお言葉とは思えませぬ」
ジアンの言葉に、エルガは、むうと大きく唸った。
「あれは、お前がいきなり女が服を脱ぎ捨てすり寄ってくるような所に、連れて行くからだろう」
「それは、卿が女人を知りたいと申されたので」
「馬鹿者! 俺はただちょっと、話ができればよかったのだ!」
顔を真っ赤にして息巻くエルガに、ジアンは恭しく頭を下げる。
「大変失礼いたしました」
「いや、俺も熱くなった」
すると、エルガは、先のことなどなかったように、けろりと言ってのけた。ジアンは、ふと微笑をこぼす。
「しかし、件の獣人を、姫の側に仕えさせるというので、よかったのか?」
「は」
「俺はたいそう感動したので、いっそ獣人に暇をやってもよいと思ったのだが」
「しかし、それでは放免された道中で、何か起こってもわかりますまい」
「ほう。して、何かとは何だ?」
「つまり、姫様も獣人の顔を見れば、より安心なさる、ということです」
「なるほど! やはりお前は気が回るな、ジアン」
いっそうご機嫌になったエルガを、ジアンは穏やかに見る。獣人を側に仕えさせるなど、気分のいいものでもないし、ゼムナは信用に足る男だ。
(それでも、わが主の誓いに水を差される方が困るからな)
口さがないことを言われぬ為には致し方なし。
この方は、昔から変わらぬ。まっすぐで裏表なく、明るくて、どこまでも人が好い。育ちのせいもあるであろうが、おそらくこれは天性のものだ。
(皆、太平楽だの、暗愚だの阿呆だの、わが主を好き勝手いってくれるが)
それは、自分の心がいかに醜いか表しているようなものだ。権力争いを繰り広げる利己的な者にはわからぬ、この方のような人間がどれほどに貴重であるか。
(先の言葉、あながち的外れではない)
フロルの神に加護を受ける、尊き王族の側に控えるべきは、決して権力欲にまみれた汚い人間ではなく、心根の好い人間だ。それでこそ、王の心をいやし、神の加護を強く出来るはずである。
――誰かを貶むる心あってはならず、とはフロルの神の教えだ。皆の心が汚れているから、加護が弱まっているのではないか。
(わが主のような人間ばかりであれば、どれほど世は安らかになり、フロルの神に愛されるであろう)
幼き頃より、傍らにおり、世話をしてきたジアンは思う。しかし、そうはならないのが現実でもあるとも、理解していた。このような方がそう生まれるはずもない。
アテルラは今、きな臭い。それはこのお役目を任されてから――いや、レヴ家が追い落とされてから、ずっとだ。ドルミール卿が、降りたのも致し方なし。アテルラから、離れるわけにもいかぬ、事情は理解している。
理解しているとはいえ、ネヴァエスタの森に隠されていた姫を、エルガに名代として迎えにいけなどと……そもそもまだ姫という確証もなかったと言うに、あの森のけがれをドルミール卿の代わりに一身に受けてこいと言われたに等しく、ジアンは腸が煮えくり返る思いであった。
「俺は、けがれなどものともしない! 父上はどうぞ体を労ってくだされ」
と、父の仮病をからきし疑いもせず、意気揚々とここドミナンへ向かうエルガを見ていれば余計である。
(しかし、此度の役目、もしかすると、わが主にとって吉兆ではなかろうか)
謁見してみれば、姫はどうやら、王家の血筋で間違いないようだ。森でのけがれは心配であるが……エルガが、王都へ連れて行く役目を担うのは大きい。浮かれてばかりではおられぬが、小気味いいのも確かだ。
「のどが渇くな。ジアン、お前も飲め。祝杯だ」
「かたじけない。早速準備いたしましょう」
用意された酒に、密やかに懐から出した糸を落とす。糸の色がただ酒の色に染まったのを確認して、エルガに差し出した。特殊な糸は、よからぬものに反応する。そういう風に出来ている。
これまで以上に、エルガの身辺に気を配らねばなるまい。ジアンは糸をしまい、杯を受けながら思った。
エルガはあてがわれた室に入るなり、そう叫んだ。大股で機敏に椅子に向かうと、勢いよく腰を下ろした。丈夫に作られた椅子は、エルガの巨躯を頼もしく受け止めた。作りに合わせ美しい装飾が施されている。
「なんと美しい! そう思うだろう、ジアン」
くるりと肩越しに、後についてきたジアンを振り返る。ジアンは輝く目に、はいと答えた。エルガの言葉の対象が何か、言葉にされなくともわかる。
「卑しき森におられたのに、全く、清らかで、光り輝くようだ。それだけではない。ジアン、今日のこと、俺は、いたく心を揺さぶられた。姫様の、なんと気丈でお優しいことか」
感嘆の息をもらす。息のわりに、うきうきとしてたいそう大きい音なので、隣の室まで聞こえそうであった。
「もっともでございます」
「愉快だ。俺は、ほっとしているぞ、ジアン」
「さようですか」
「あのような方がおられるなら、王国も安泰だ。……ああ、あのような方の夫となれたら、幸せだろうな」
エルガはまじめな調子で言い、うんうんと頷いた。言葉の後半は、半ば夢心地であったが。
この方は、すさまじく命知らずなことを、いっさいの毒気なく言ってのける。ジアンはたいそう愉快な気持ちを抑えて、ひらりと返した。
「なんと勇ましい。花街で目を回して倒れた方のお言葉とは思えませぬ」
ジアンの言葉に、エルガは、むうと大きく唸った。
「あれは、お前がいきなり女が服を脱ぎ捨てすり寄ってくるような所に、連れて行くからだろう」
「それは、卿が女人を知りたいと申されたので」
「馬鹿者! 俺はただちょっと、話ができればよかったのだ!」
顔を真っ赤にして息巻くエルガに、ジアンは恭しく頭を下げる。
「大変失礼いたしました」
「いや、俺も熱くなった」
すると、エルガは、先のことなどなかったように、けろりと言ってのけた。ジアンは、ふと微笑をこぼす。
「しかし、件の獣人を、姫の側に仕えさせるというので、よかったのか?」
「は」
「俺はたいそう感動したので、いっそ獣人に暇をやってもよいと思ったのだが」
「しかし、それでは放免された道中で、何か起こってもわかりますまい」
「ほう。して、何かとは何だ?」
「つまり、姫様も獣人の顔を見れば、より安心なさる、ということです」
「なるほど! やはりお前は気が回るな、ジアン」
いっそうご機嫌になったエルガを、ジアンは穏やかに見る。獣人を側に仕えさせるなど、気分のいいものでもないし、ゼムナは信用に足る男だ。
(それでも、わが主の誓いに水を差される方が困るからな)
口さがないことを言われぬ為には致し方なし。
この方は、昔から変わらぬ。まっすぐで裏表なく、明るくて、どこまでも人が好い。育ちのせいもあるであろうが、おそらくこれは天性のものだ。
(皆、太平楽だの、暗愚だの阿呆だの、わが主を好き勝手いってくれるが)
それは、自分の心がいかに醜いか表しているようなものだ。権力争いを繰り広げる利己的な者にはわからぬ、この方のような人間がどれほどに貴重であるか。
(先の言葉、あながち的外れではない)
フロルの神に加護を受ける、尊き王族の側に控えるべきは、決して権力欲にまみれた汚い人間ではなく、心根の好い人間だ。それでこそ、王の心をいやし、神の加護を強く出来るはずである。
――誰かを貶むる心あってはならず、とはフロルの神の教えだ。皆の心が汚れているから、加護が弱まっているのではないか。
(わが主のような人間ばかりであれば、どれほど世は安らかになり、フロルの神に愛されるであろう)
幼き頃より、傍らにおり、世話をしてきたジアンは思う。しかし、そうはならないのが現実でもあるとも、理解していた。このような方がそう生まれるはずもない。
アテルラは今、きな臭い。それはこのお役目を任されてから――いや、レヴ家が追い落とされてから、ずっとだ。ドルミール卿が、降りたのも致し方なし。アテルラから、離れるわけにもいかぬ、事情は理解している。
理解しているとはいえ、ネヴァエスタの森に隠されていた姫を、エルガに名代として迎えにいけなどと……そもそもまだ姫という確証もなかったと言うに、あの森のけがれをドルミール卿の代わりに一身に受けてこいと言われたに等しく、ジアンは腸が煮えくり返る思いであった。
「俺は、けがれなどものともしない! 父上はどうぞ体を労ってくだされ」
と、父の仮病をからきし疑いもせず、意気揚々とここドミナンへ向かうエルガを見ていれば余計である。
(しかし、此度の役目、もしかすると、わが主にとって吉兆ではなかろうか)
謁見してみれば、姫はどうやら、王家の血筋で間違いないようだ。森でのけがれは心配であるが……エルガが、王都へ連れて行く役目を担うのは大きい。浮かれてばかりではおられぬが、小気味いいのも確かだ。
「のどが渇くな。ジアン、お前も飲め。祝杯だ」
「かたじけない。早速準備いたしましょう」
用意された酒に、密やかに懐から出した糸を落とす。糸の色がただ酒の色に染まったのを確認して、エルガに差し出した。特殊な糸は、よからぬものに反応する。そういう風に出来ている。
これまで以上に、エルガの身辺に気を配らねばなるまい。ジアンは糸をしまい、杯を受けながら思った。
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