こぼれる、

小槻みしろ

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後編

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 昨日、母が私を訪ねてきた。
 母は青の服を着た私に、顔をしかめた。
 
「また、そんなださい色の服を着て」
 
 似合わないわと言った。けれど私は本当は、ずっと青色が好きだった。
 
「女の子なんだもの、愛されるようにかわいくなくちゃ」
 
 母は、私に女の子らしく、かわいくあることを求めた。

「いやらしい。ひなにはママがいるから、男の子なんていらないでしょう」
 
 一方で母は、男に愛されることを否定した。私が男と話すのさえ、嫌っていた。
 でも、私はずっと男に抱きしめられたかった。「安心してここにいていいよ」と言われたかった。
 
 結婚を考えている人がいる。
 私は母に言った。
「聞いてないわ」
 と叫ぶ母に、私は続けた。
 仕事が一段落したら彼の元へ行って結婚しようと思ってるの。
 
 彼の新しい勤め先は実家からほど遠い北の地だった。
 母はひたすらに反対した。
 長い長い押し問答の末、母は「それなら」と言った。

「ママも連れてって。どこだってひなとママは一緒でしょう」

 ねえ、きまり――何とか妥協した母に、私は首を振り、彼と二人でやってみたいと言った。
 母は悲鳴をあげ、空になったマグカップを振り上げた――
 
 蛇口を閉めた。
 ぼんやりすると、私は水をずっと流している。古びた蛇口はしまりがわるい。しずくがぽつぽつとマグとシンクに落ちる。しめった音が、何度もする。
 何時間にも渡る恐慌だった。
 結局、母は出ていった。
 
「ひなはこれがいちばんよね」
 
 母のいれたココアは久しぶりで甘くて、舌に残った。
 日は落ちる。夕日が射し込んで、薄暗い部屋を赤く染めた。
 
「がんばってきたのに……」
 
 また声が聞こえた。去り際の母の声だ。
 産むんじゃなかった、かなしい小さな声で呟いた。
 
 久しぶりの母の背は薄く小さかった。いつものまとめ髪は、乱れていた。よろよろと出ていく背を、私はじっと見送った。
 
 夕日の射し込むキッチンで、母がシンクに立ち尽くしている。幼い私が駆け寄る。
 母は水を流しっぱなしで、声をかけても聞こえていないみたいだった。
 
「お母さん、見てみて!」
 
 その日はテストで百点を取った。でも母は返事をしなかった。暗くなってもずっと。

「ねえ、愛してるのよ」
 
 母は何度も私に言った。

「ひなもママを愛してるわね。ひなはずっと一緒にいたいわよね」

 母は、私のことを何でも知ろうとして、そして何でも知っていた。
 でも私が本当にほしいものは、ずっと知らない。
 
 派手な巻き毛の女が、玄関から出ていこうとする。青い服の女の子がそれを追った。
 女はついてこないで、とすら言わなかった。
 ドアの向こうに立つ男に、極上の笑みを見せつけた。何か聞く男に、気にしないで、と言った。
――ママ! 
 幼い顔は涙にまみれていた。細面の、薄い顔――
 蛇口から、しずくはまだこぼれていた。辺りはとうに暗くなっている。
 
「ちゃんと私を見て」
 
 私の声に、幼い悲鳴が重なった。
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