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二度と戻る事はないと思っていた

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 馬車で進む七日の旅は、四日で終わりを告げた。

「もうしばらく馬車には乗りたくありません……」
「俺もだ――」
「……」

 俺たちの顔色は悪かった。馬は駿馬が選ばれていたと思う。何度か馬換えをしていたから、いつも速いスピードを維持していた六頭立ての馬車は、あっという間に長距離を走りきった。
 人間が走っていたわけではないが、宿に泊まって寝るときしか地面にいない生活が四日も続けば、具合もよろしくない。お尻は痛いし、頭もグルグル回っている。

「もう少しゆっくり戻っても良かったのではないですか?」

 恨みがましく俺が呻くと、もっと青い顔をしたダリウスが、「そうだな……」といってどこかへ消えていった。多分吐きに行ったのだろう。

 久々の王宮は相変わらず大きくて豪華で、清貧を実地してきた身としては居心地がかなり悪かった。心地の悪さをおくびにも出さず、俺は馬車から降りた。人が少なく、普通の貴族は乗降を許されない奥の馬車着きだと気がつく。

「お部屋に案内しますね」

 エルフランに案内されたのは、王宮の中でも奥にある王族の生活する場所だった。

「前に来た時はこの建物はありませんでしたよね?」

 王族の住む建物がある一郭でもその離宮は遠く離れた所にあった。周りが森のようだからか静かだ。池の奥に佇む白い瀟洒な建物は美しかった。

「はい。新しい離宮ですよ。クリス様が結婚生活を送る為に作られたものです」
「結婚ですか……」

 ローレッタとの生活のためにクリストファーが造ったのだと思うと、苦いものが口に広がる。それをみせないように俺は心のろうそくを揺らさないようにそっと微笑んだ。

「何も聞かれないのですね――」

 もどかしげなエルフランに、申し訳なく思う。クリストファーが元気かということしか俺は尋ねなかった。王妃様のお子様の名前もローレッタがどうしているのかも、自分には関係のないように振舞うしかないのだ。
 神学校を卒業して一月、その間俺はオルコットの長男だが、正式に神官として派遣されると家名は捨てなければならない。ジズ・ルーファスと低い神官職にルーファスの名前をつけて、それだけの存在となる。
 少し躊躇った後、エルフランは「オルコット伯爵は去年亡くなりました。旅先での不慮の事故です。お悔やみ申し上げます」と丁寧に述べた。

「父が? では家は?」
「はい。伯爵領はお爺様がもう一度拝命し、セドリック様が成人の暁にお譲りになることになっております。……あまり驚かれていないようですね」

 エルフランは訝しげに俺を見ていた。それはそうだろう、俺の顔にあるのは隣の家の飼い猫が亡くなったと聞いて悲しげな顔をつくる人と同じような表情だから。

「いえ、驚いています。主が父を導かれますように――」

 俺は礼句を口にして、拳を額に当てた。それが神官の作法だからだ。
 ローレッタは王太子の妃になるから、家を継がないのだろう。結果だけみれば、母の勝ちなのだろうなと、俺は両親のいがみ合っていた姿を思い出す。家をどちらに継がすかよく喧嘩をしていた。

「あなたは……本当にロッティ様なのでしょうか」

 堪らずといったようにエルフランは俺を見て、そう言った。
 思わず苦笑が漏れた。

「ルーファスです。そういえば、名乗っていませんでしたね」

 四日も同じ馬車に乗っていたのに、父の死を教えられることも名前を告げることすらしていなかったのだと、今更ながらエルフランとダリウスの不自然さに驚く。

「いえ、その名前を呼ぶことはできません」

 名前を偽っていた事をエルフランも、もしかしたらクリストファーも怒っているのだと思い当たる。
 俺が黙り込んだのを見て、エルフランは止めた足を動かし、部屋に案内してくれた。
 ふんわりといい匂いがする部屋だった。甘酸っぱい香りに、思わず詰めていた息を吐いて、吸った。見回してもイチゴがあるわけではないのに何故だろうと思ったのがわかったのかエルフランが、やっと自然に笑ってくれた。

「あなたがイチゴが好きだと聞いたので、乾かして、ポプリのようなものにしたんです」

 できれば、それを食べたいと思ったが顔には出さず、「ありがとうございます」と微笑み返した。

「夜になるまで寝台で少しお休みください。お疲れでしょう。お風呂も入れますよ」

 紅茶とイチゴのジャムの入ったマフィンを用意してくれて、エルフランはそう言って出て行った。
 俺のための部屋のようだった。寝台の上に着替えを用意してくれていたので、マフィンを食べて、風呂に入り、体をほぐして寝台に横になった。
 あっという間に疲れた体は眠りを欲して、沈み込むように俺は眠った。

 眠りの先にも父は出てこなかった。


 目が醒めたのは夕方の陽が陰ってきた頃だった。起きて居間のほうにいくと、ダリウスが珈琲を飲んでいた。俺が入ってきたのに気付いて、エルフランが「よく眠れましたか」と訊ねた。なぜか、目線を合わさなかったのが気になった。
 普段は綿の上下の夜着を着ているが、今は用意された光沢のあるシルクのそれにガウンを纏っていたが、失礼にあたるかと思って着替えに戻ろうとしたら「そのままで結構ですよ。サンドウィッチでもどうぞ。若いからいくらでも食べれるでしょう。珈琲はブラックですか?」とダリウスが入れてくれた。

「ありがとうございます。砂糖とあればミルクも入れてください」

 珈琲は嗜好品だから神学校では供給されなかったので、昔の好みのままだった。

「どうぞ」

 ミルクが入って温めの珈琲にサンドウィッチを食べていると、ダリウスが面白そうに俺の顔を見てきた。

「父上が亡くなったと聞いた割には普通の顔だ」
「ダリウス!」

 咎めるようなエルフランの声を聞きながら、ここの人は、皆意地が悪いのだろうかと溜息を吐きそうになる。
 島で食べていたパンとは違うキメの細やかなやわらかいパンを咀嚼しながらダリウスを見ると四日間見てきた顔とは違う真面目な顔をしていた。

「普通ですか……」
「ええ。随分昔とは変わったよね。もっと感情豊かな人だと思っていた」

 エルフランと同じような事をいう。

「わかりません……。父のことは、特にいい思い出もないので――」

 悪い思い出ならいくつもあるが、それを思い出したら悲しむことなど余計出来ないのではないかと思われた。

「セドリック君にもお会いしたよ。彼の十五歳の誕生日の日にね、王宮にまねかれて、クリス様が君にしたことと同じことを彼にした」

 サンドウィッチを食べ終わったのを見計らうようにダリウスが話を変えた。エルフランが息を飲むのが気配でわかった。
 俺は言葉の意味をもう一度頭の中で反芻して、「まさか……」とだけ声に出した。

「ローレッタ嬢はね、毎日君の代わりにクリス様の寝室に鎖で繋がれたまま抱かれてもうあの方なしにはいられない身体になってしまった――。君が逃げてしまって、クリス様は激怒されたのだよ。可哀想な君の家族……」

 拳を握る。ユラリと揺れるろうそくの火が風に吹かれる前に、俺は自分を取り戻した。

「クリス様はお優しい方です。そんなことはされません」
「ふふっ動揺もしないのか……。クリス様は信用されているのか、侮られているのか」

 動揺ならしてしまった。顔には出なかったかもしれないが、カッとなった証拠にじんわりと手に汗を掻いている。
 セドリックを可哀想だと思うのではなく、ローレッタを哀れむでもなく、俺の心は抱かれたという彼らに嫉妬したのだ……。そんな自分が酷く汚い人間になったように思えて、俺はダリウスを睨んだ。

「怖いな――。自分の行いがどういう結果をまねいたか、君は知ったほうがいい。君がいうことを聞いて、クリス様の怒りがとければ、ローレッタ嬢も解放されるんじゃな……」
「ダリウス!」

 悲鳴のような声がダリウスの言葉を遮った。
 エルフランが俺を見ない。それが真実なのだと、俺は突きつけられたような気がした。

「俺は逃げたりしていません」

 そう言うしかなかった。

「クリス様が君の事を想っていた事を知らなかった?」

 想っていてくれていたのだろうか――。
 好きだと、愛してると言ってくれたのは事実だ。それだけを糧に俺は生きてきた。
 けれど……。

「俺は、ロッティと比べられながら生きていたくありません」

 それも好きな人に――。
 外が暗闇に閉ざされていくのを窓越しに眺めて、あの頃の俺の気持ちのようだと思った。

「何故比べると……?」

 エルフランは僅かに俺を窺うように目線を合わせた。

「ローレッタと婚約されていたのだと聞きました。帰りに二人が口付けをしているのを見て……」
「それは違うっ! 婚約はロッティ様と……君との婚約を望んでいたんだよ? 口付けは、君だと思って間違えたんだ――。すまない――。私達がもっとちゃんとしていたら、今頃君は――」

 俺がどうだというのだろう。婚約? 意味がわからない。
 結局のところ王太子の妻に男の俺はなることも出来ないのだ。愛人として、ローレッタか違う女性の存在を憎みながら生きていくのか……。

「今さらだな、エルフラン。クリス様がお待ちだ――。ロッティ、君に言っておく。これから起こることは君を傷つけるだろう。けれど、君は我慢しなくてはならない。君が逃げれば、君の家族がどうなるのか……。もう成人(おとな)なんだから、わかるだろう?」

 ダリウスが俺の手首を掴んでそう告げた。
 振り払う事は、今の俺なら出来る。逃げる事ももしかしたらできるかもしれない……。
 俺の家族、例え、両親が俺を愛さなくても、ローレッタは妹でセドリックは弟だ。その彼らを犠牲にしたまま、神官として生きていくことは俺には出来ない。
 ジクジクと心の傷が痛む。心の中のろうそくをどんなに揺らさないようにしても、きっとクリストファーの一吹きで消えてしまうだろう。
 クリストファーに会えるという湧き上がるような喜びと、傷つけられるというその意味を考えて俺はどうしようもなく揺れる火を必死に守ろうと息を吐いた。吐く息を意識しながら、緊張を解くために俺は微笑んだ。
 まだ笑える――。
 口の端が上がる事に安堵しながら、俺は立ち上がった。

「わかりました――」

 まるで他人の口からでたような言葉だった。
 何もわからない、何も感じたくない――。それでも俺は必死に笑むのだった。
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