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第一部第三章 討伐イベント
セッション28 三様
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拙者――風魔理伏は、目の前の光景を理解するのに少し時間が掛かった。
ゴブリンの長が、別の長の胸部を背後から手刀で貫いていた。貫いたのは的確に心臓がある場所だった。間違いなく即死だろう。
「な「に「を……!?」
五人の長共が、長を殺した長を目を皿にして見る。何が起きたのか理解出来ない、と表情が語っていた。
拙者も同感だ。いきなり始まった同士討ちに戸惑いを隠せない。
視線を浴びた長はゆっくりと長共に振り向き、
「――飽きたネ」
とそれまでとは全く違う口調でそう言った。
「あ「飽きた「……?」
「そうネ。これ以上付き合っても得られるモノは何もないし、この辺が潮時ネ」
裏切り者の長が手を振るう。その手には扇が握られていた。紙製の扇ではない。鉄扇だ。棍棒がメインウェポンのゴブリンが鉄扇を持っているとは。いや、それ以前に扇を隠せる場所など彼の服にはなかった筈だ。
「その七人同時に喋る奴もいい加減鬱陶しいネ。さっさと黙ると良いヨ」
「ひっ「――!」
裏切り者が扇を二度三度振るう。その都度、扇から黒い鎌の様な風が生まれた。黒鎌は長共を容赦なく切り裂き、残さず地に倒す。立っているのは裏切り者だけだ。
「……貴様は誰だ?」
イタチが問う。その双眸は警戒で鋭くなっていた。勝利の安堵も藍兎の能力を垣間見た興奮も失せていた。裏切り者を新たな敵だと認識していた。
「ワタシが誰か? そうネ……まるで注目されないのも癪だし、正体を明かしてあげるヨ」
言って、裏切り者の容姿がぐにゃりと溶けた。
溶けて輪郭を失い、幾つもの色を混ぜた絵の具の様になると、再び人の形を成した。
チャイナドレスの女性だ。赤いノースリーブ。太股には深いスリット。黒髪にはお団子。そして巨乳だ。視線は剣呑で、蠱惑的ながらも背筋が寒くなる。
「『知らない女』……!」
ゴブリン共が言っていた。拙者の両親を的当てにしろと指示した者がいると。拙者の両親を直接殺したのはゴブリン共だが、苦しめ痛め付けようと言い出した人物は別にいると。
それがこの女か……!
憎悪と殺意が膨らむ。拙者の視線の先で、女は優雅に笑った。
「ワタシは『膨れ女』、己則天。覚えとけヨ」
こいつが『膨れ女』……!
聞いた事がある。西の大国・ダーグアオン帝国の幹部『帝国四天王』に一人加わったと。彼女の加入を要因として四天王は『五渾将』を名乗るようになったと。その人物こそが己則天だと。
今は不明の大陸より訪れた魔人。妲己や武則天といった大陸有数の悪女の怨念を核に、大陸の陰の気が集まって生まれ落ちた者――己則天。
話に聞いていただけで実際の顔は知らなかったが、成程、大陸出身の顔立ちだ。大陸の人間なんて対神大戦以来この列島にはいないが、その子孫を街で見掛けた事がある。
「少し疑問には思っていた。何故安宿部がヨグ=ソトースの召喚魔術なんぞ知っていたのかを」
イタチが則天を睨みながら言う。
そうだ。ゴブリン共の長であった事も、一〇〇〇年前の人間だった事も、不死のミイラになった事も召喚魔術の知識を持っている事は何ら関係がない。であれば、安宿部はどこでその知識を得たのか。
教えた人間がいるのだ。それが、
「それが貴様か。貴様が黒幕か……!」
イタチの指摘に則天は口を左右に引き伸ばして嗤った。
「黒幕とまで言われるのは心外ネ。ワタシはたまたま困っているこいつを見付けたから、手を貸してやっただけヨ」
――もっとも、
「ワタシにも思惑がなかった訳じゃないけどネ」
則天が笑みを消さず肩を竦める。
「帝国は世界征服を諦めていない。――世界と言っても今やこの列島以外に世界なんて存在していないも同然だけどネ。ともかく、帝国はいずれ世界を征服する為の戦争を始める。その前に騒ぎを起こして朱無市国の国力を少しでも削ぎ落としておきたかったのヨ。だけど……」
則天が視線を下げる。釣られて見れば、ゴブリンがまだ一人だけ生きていた。
驚きだ。あんな鋭い刃を受けてまだ生きていられるなんて。
だが、死に体だ。傷を塞ぐ余裕もなく、立ち上がる余力もなく、今にも死にそうだ。死にそうなまま地面を這って逃げようとしていた。
「……まさか空に玉ころを散りばめただけで終わってしまうなんて。大山鳴動して鼠一匹とはこの事ヨ。役立たずめ」
「あ……あぅ……あ…………」
這う動きは鈍い。当然だ、致命傷を負っておいて素早く動ける筈もない。呼吸が続いているだけでも奇跡だ。だが、それもここまでだ。
「嫌だ……死にたくな…………お母さ…………」
「逝ね」
則天が扇を振るう。黒鎌が長の首を刎ねた。致命傷どころではない、即死だ。転がっていった生首には如何なる生命の残滓もなかった。
「う……ん……?」
呻き声が聞こえた。ちらりと見れば、藍兎が目を覚ましていた。
しかし、彼女に駆け寄る者はいない。ステファさえもだ。一瞬だけ藍兎に振り返ったが、すぐに視線を則天へと戻していた。今、この女から目を逸らしている余裕などないと理解しているからだ。
ひりつく緊張感の中、拙者の口端が引き攣った笑みを描く。
長共がいなくなって尻切れ蜻蛉になるかと思ったが、安心した。
まだ拙者には討つべき仇がいる。
無念を晴らすべき相手がいる。
「おお、我が神よ。北辰妙見菩薩ことハスターよ。感謝致しまする」
拙者の復讐は終わらない。
◇
ワタシ――己則天は不愉快で、少し愉快だった。
計画を失敗に追い込まれたのは不愉快だ。綿密……という程のものでもないが、ここに至るまでそれなりの手間を掛けた。それを台無しにされたのだから不快感は当然だ。
一方で、愉快な気分もあった。
ゴブリンの肉体は本当に窮屈だった。安宿部に色々教授した後、経過を見守る為に彼の一体に潜り込んでいたが、やはり下等生物の体内にいるのは気分の良いものではない。これで解放されるかと思えば、笑みも零れるというものだ。
それでも不愉快の感情が勝るが。
この礼はきちんと返す事にしよう。
「尻尾巻いて逃げるのも癪だし、『五渾将』としての実力見せてやるネ」
言いながら、藍兎と呼ばれていた鬼娘に視線を向ける。意識は戻ったばかりでまだ朦朧としている様子だ。あれでは戦えないだろう。
一人は動けない。だったら、
「四人一度に掛かって来るが良いヨ。その方がワタシの強さ分かるネ」
ピリッと彼らの空気がひりついた。
「……貴様」
「舐めているのか? って顔ネ。その通りヨ、舐めているネ。悔しかったらワタシを倒して後悔させてみせるネ」
「…………」
四人が互いに顔を見合わせ、動く。
まずはワタシを四方から囲む。ワタシの正面にミ=ゴ、右手に女騎士、背後に風魔の小娘、左手に深きものの小僧の位置だ。
良い判断だ。多面攻撃は如何なる状況でも狙うべき戦術である。挑発に鶏冠に来て、いきなりワタシに突っ掛かって来るなんて真似をするよりも勝機のある選択だ。
「生ける炎。漆黒の炎。其は天道に坐するもの。其は炎天を墜とすもの。燃やし、焦がし、焼き、熱す。我が怒りは乾きすら許さず。一切の有象無象を灰燼と化す――」
ミ=ゴが詠唱を始める。彼の詠唱をカウントダウンに残り三人が一斉に技を繰り出した。
「『喰鮫』!」
「『島風』!」
「『剣閃一斬』!」
「――『上級火炎魔術』!」
矢が風魔が斬撃が劫火がワタシを襲う。
四方からの逃げ場のない攻撃。それを、
「――『上級流水魔術』、『上級大地魔術』、『上級疾風魔術』、『上級氷結魔術』!」
全て叩き落した。
渦巻く水流を矢に、重力の奔流を風魔に、無数の風刃を斬撃に、局地的な吹雪を劫火にぶつける。全く同時に繰り出された四つの魔術は四人の攻撃を完膚なきまで打ち消した。
四人の顔が強張る。それよりもなお速く四人に向けて、
「――『上級迅雷魔術』!」
雷雲を轟かせた。
◇
僕――古堅藍兎はそれを見た。
一瞬だった。同時だった。
知らない女が放った五つの魔術が皆を蹂躙した。受け身も取れないまま皆が地を転がる。誰一人として起き上がれない。電流と痛みで五体が麻痺しているのだ。麻痺がなかったとしても立ち上がる体力も気力もないだろう。今ので全部吹き飛ばされてしまった。
「上級魔術を五つ同時に……しかも、詠唱を破棄してだと……!?」
今、女が放ったのは五つ全てが上級魔術だった。
上級魔術に十節の詠唱が必要なのは先に説明した通り。詠唱を破棄したら威力が下がるのも既に述べた。つまり、彼女は威力が最低にまで下がった上級魔術で四人の攻撃を退けたのだ。
魔術の威力は注ぎ込める魔力量によって変動する。つまりは彼女の魔力は段違いだという事だ。
上級魔術を五連続で放つという真似も常軌を逸している。談雨村での戦いで三護も五連続で魔術を使ったが、それは全部初級だから出来た事だ。中級を連続で放つ事など三護には出来ない。ましてや上級を連続で放つなど。
「いや、違う。違う!」
この女は五連続で放ったのではない。五つ同時に放ったのだ。それは三護どころか、どんな魔法使いでも不可能な出鱈目だ。
例えば、シロワニの『海王の砲撃戦』は『中級流水魔術』十連で放つ技だが、あれは同属性のものを一纏めにした単体の魔術だ。異なる属性五つを同時に放つのとは違う。
人間には口が一つしかないのだから、一つの詠唱しか出来ない。生物としての限界だ。
「一体どんな絡繰りが――」
そう疑問を口に出そうとした所で気付いた。
女の腕に四つの口があった。上腕と前腕に一つずつ、左右で合計四つ。元から顔にあったものを含めて五つ。
五つの口。まさか、よもや、あの口で――
「そう、その通りヨ。ワタシの最大の強みは五種の魔術と一斉に詠唱出来る事。帝国最強の魔法使いとはワタシの事ネ」
女が自慢げに笑う。
帝国最強の魔法使いと言ったな。であれば、こいつはダーグアオン帝国の人間か。帝国民が何故ここにいるんだ?
「…………!」
改めて周囲を見る。意識がはっきりしているのは僕だけの様だ。ステファもイタチも呻き声を上がる事しか出来ない。到底戦える状態ではない。
いや、僕だって戦えるかどうか。確かに今、僕は死んだ筈だ。手の届く範囲に生物がいなかった故に蘇生能力は発動しない筈だ。それが何故生きているのか。分からない。僕に一体何が起きたのか?
そういえば安宿部は? ゴブリン共の長はどうした? そこで死んでいるのがそうか? 何故死んでいるのだ? 僕が意識を失っている間に何が起きたのだ?
「さて、とどめを刺してやってもいいけど――」
「くっ……!」
喜色の殺意が大気を圧す。
まずい。状況はまだ何が何だか分からないが、まずいというのは肌で分かる。このままでいたら殺される。
だが、どうする? 皆は満身創痍、僕は蘇生したばかり。こちらの戦力は最低で、あちらの戦力は最強だ。どうあっても勝ち目はな――
「それとも、オマエもワタシに挑んでみるカ? ワタシを満足させられたら他の四人は生かして帰してやっても良いネ」
――んだと?
「満足だと……?」
「そうネ。ワタシは人を甚振るのが大好きでネ。今まで何人もの男を壊してきたものヨ」
「……嗜虐症者かよ」
「フフ。……反抗的な目が恐怖に折れる様を見るのは最高ネ。『助けて』という懇願が『殺して』に変わった時、ワタシの興奮は絶頂を迎えるのヨ」
『膨れ女』が舌なめずりをする。
「ワタシに手傷の一つでも付けてみるヨロシ。そうすれば見逃してやっても良いヨ」
彼女の意図は分かる。僕を嬲り殺しにしたいのだ。もしかしたら彼女を退けられるかもしれないと僕に希望をチラつかせて、逃げられないようにしてから痛め付けて殺すつもりなのだ。
見え見えの魂胆だ。だが、
「…………」
ステファを見る。イタチを、三護を理伏を見る。皆、未だに起き上がれない。僕が彼女達を見捨てて逃げれば、『膨れ女』に皆殺しにされるだろう事は予測出来る。
逆に僕が戦えば、その間に彼女達は復活出来るだろうか。そして、僕が『膨れ女』を引き付けている間に逃げてくれれば――
『――しかし、貴方は賢明ですね』
『私に挑まない事ですよ。実力差を認め、自棄にならない。なかなか出来ない事です』
『勝てない戦いに挑むのは無謀ですらねー。ただの命の無駄遣いだ。戦略的撤退も選択肢の一つだぜ――』
「――は。うるせーよ」
あの時と今とでは状況が違う。従っていれば生き延びられたあの時とは違う。戦わなければ生き残れない。皆が生きて帰れない。今はそういう時間だ。
「名前を聞いても良いか?」
「『膨れ女』己則天ヨ」
「そうか、お前が『五渾将』の……。僕は古堅藍兎だ」
刀を握り、則天を見据える。
「テメーに吠え面をかかせる奴の名前だ! 覚えとけ!」
ゴブリンの長が、別の長の胸部を背後から手刀で貫いていた。貫いたのは的確に心臓がある場所だった。間違いなく即死だろう。
「な「に「を……!?」
五人の長共が、長を殺した長を目を皿にして見る。何が起きたのか理解出来ない、と表情が語っていた。
拙者も同感だ。いきなり始まった同士討ちに戸惑いを隠せない。
視線を浴びた長はゆっくりと長共に振り向き、
「――飽きたネ」
とそれまでとは全く違う口調でそう言った。
「あ「飽きた「……?」
「そうネ。これ以上付き合っても得られるモノは何もないし、この辺が潮時ネ」
裏切り者の長が手を振るう。その手には扇が握られていた。紙製の扇ではない。鉄扇だ。棍棒がメインウェポンのゴブリンが鉄扇を持っているとは。いや、それ以前に扇を隠せる場所など彼の服にはなかった筈だ。
「その七人同時に喋る奴もいい加減鬱陶しいネ。さっさと黙ると良いヨ」
「ひっ「――!」
裏切り者が扇を二度三度振るう。その都度、扇から黒い鎌の様な風が生まれた。黒鎌は長共を容赦なく切り裂き、残さず地に倒す。立っているのは裏切り者だけだ。
「……貴様は誰だ?」
イタチが問う。その双眸は警戒で鋭くなっていた。勝利の安堵も藍兎の能力を垣間見た興奮も失せていた。裏切り者を新たな敵だと認識していた。
「ワタシが誰か? そうネ……まるで注目されないのも癪だし、正体を明かしてあげるヨ」
言って、裏切り者の容姿がぐにゃりと溶けた。
溶けて輪郭を失い、幾つもの色を混ぜた絵の具の様になると、再び人の形を成した。
チャイナドレスの女性だ。赤いノースリーブ。太股には深いスリット。黒髪にはお団子。そして巨乳だ。視線は剣呑で、蠱惑的ながらも背筋が寒くなる。
「『知らない女』……!」
ゴブリン共が言っていた。拙者の両親を的当てにしろと指示した者がいると。拙者の両親を直接殺したのはゴブリン共だが、苦しめ痛め付けようと言い出した人物は別にいると。
それがこの女か……!
憎悪と殺意が膨らむ。拙者の視線の先で、女は優雅に笑った。
「ワタシは『膨れ女』、己則天。覚えとけヨ」
こいつが『膨れ女』……!
聞いた事がある。西の大国・ダーグアオン帝国の幹部『帝国四天王』に一人加わったと。彼女の加入を要因として四天王は『五渾将』を名乗るようになったと。その人物こそが己則天だと。
今は不明の大陸より訪れた魔人。妲己や武則天といった大陸有数の悪女の怨念を核に、大陸の陰の気が集まって生まれ落ちた者――己則天。
話に聞いていただけで実際の顔は知らなかったが、成程、大陸出身の顔立ちだ。大陸の人間なんて対神大戦以来この列島にはいないが、その子孫を街で見掛けた事がある。
「少し疑問には思っていた。何故安宿部がヨグ=ソトースの召喚魔術なんぞ知っていたのかを」
イタチが則天を睨みながら言う。
そうだ。ゴブリン共の長であった事も、一〇〇〇年前の人間だった事も、不死のミイラになった事も召喚魔術の知識を持っている事は何ら関係がない。であれば、安宿部はどこでその知識を得たのか。
教えた人間がいるのだ。それが、
「それが貴様か。貴様が黒幕か……!」
イタチの指摘に則天は口を左右に引き伸ばして嗤った。
「黒幕とまで言われるのは心外ネ。ワタシはたまたま困っているこいつを見付けたから、手を貸してやっただけヨ」
――もっとも、
「ワタシにも思惑がなかった訳じゃないけどネ」
則天が笑みを消さず肩を竦める。
「帝国は世界征服を諦めていない。――世界と言っても今やこの列島以外に世界なんて存在していないも同然だけどネ。ともかく、帝国はいずれ世界を征服する為の戦争を始める。その前に騒ぎを起こして朱無市国の国力を少しでも削ぎ落としておきたかったのヨ。だけど……」
則天が視線を下げる。釣られて見れば、ゴブリンがまだ一人だけ生きていた。
驚きだ。あんな鋭い刃を受けてまだ生きていられるなんて。
だが、死に体だ。傷を塞ぐ余裕もなく、立ち上がる余力もなく、今にも死にそうだ。死にそうなまま地面を這って逃げようとしていた。
「……まさか空に玉ころを散りばめただけで終わってしまうなんて。大山鳴動して鼠一匹とはこの事ヨ。役立たずめ」
「あ……あぅ……あ…………」
這う動きは鈍い。当然だ、致命傷を負っておいて素早く動ける筈もない。呼吸が続いているだけでも奇跡だ。だが、それもここまでだ。
「嫌だ……死にたくな…………お母さ…………」
「逝ね」
則天が扇を振るう。黒鎌が長の首を刎ねた。致命傷どころではない、即死だ。転がっていった生首には如何なる生命の残滓もなかった。
「う……ん……?」
呻き声が聞こえた。ちらりと見れば、藍兎が目を覚ましていた。
しかし、彼女に駆け寄る者はいない。ステファさえもだ。一瞬だけ藍兎に振り返ったが、すぐに視線を則天へと戻していた。今、この女から目を逸らしている余裕などないと理解しているからだ。
ひりつく緊張感の中、拙者の口端が引き攣った笑みを描く。
長共がいなくなって尻切れ蜻蛉になるかと思ったが、安心した。
まだ拙者には討つべき仇がいる。
無念を晴らすべき相手がいる。
「おお、我が神よ。北辰妙見菩薩ことハスターよ。感謝致しまする」
拙者の復讐は終わらない。
◇
ワタシ――己則天は不愉快で、少し愉快だった。
計画を失敗に追い込まれたのは不愉快だ。綿密……という程のものでもないが、ここに至るまでそれなりの手間を掛けた。それを台無しにされたのだから不快感は当然だ。
一方で、愉快な気分もあった。
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「『喰鮫』!」
「『島風』!」
「『剣閃一斬』!」
「――『上級火炎魔術』!」
矢が風魔が斬撃が劫火がワタシを襲う。
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「――『上級流水魔術』、『上級大地魔術』、『上級疾風魔術』、『上級氷結魔術』!」
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「いや、違う。違う!」
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「そう、その通りヨ。ワタシの最大の強みは五種の魔術と一斉に詠唱出来る事。帝国最強の魔法使いとはワタシの事ネ」
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いや、僕だって戦えるかどうか。確かに今、僕は死んだ筈だ。手の届く範囲に生物がいなかった故に蘇生能力は発動しない筈だ。それが何故生きているのか。分からない。僕に一体何が起きたのか?
そういえば安宿部は? ゴブリン共の長はどうした? そこで死んでいるのがそうか? 何故死んでいるのだ? 僕が意識を失っている間に何が起きたのだ?
「さて、とどめを刺してやってもいいけど――」
「くっ……!」
喜色の殺意が大気を圧す。
まずい。状況はまだ何が何だか分からないが、まずいというのは肌で分かる。このままでいたら殺される。
だが、どうする? 皆は満身創痍、僕は蘇生したばかり。こちらの戦力は最低で、あちらの戦力は最強だ。どうあっても勝ち目はな――
「それとも、オマエもワタシに挑んでみるカ? ワタシを満足させられたら他の四人は生かして帰してやっても良いネ」
――んだと?
「満足だと……?」
「そうネ。ワタシは人を甚振るのが大好きでネ。今まで何人もの男を壊してきたものヨ」
「……嗜虐症者かよ」
「フフ。……反抗的な目が恐怖に折れる様を見るのは最高ネ。『助けて』という懇願が『殺して』に変わった時、ワタシの興奮は絶頂を迎えるのヨ」
『膨れ女』が舌なめずりをする。
「ワタシに手傷の一つでも付けてみるヨロシ。そうすれば見逃してやっても良いヨ」
彼女の意図は分かる。僕を嬲り殺しにしたいのだ。もしかしたら彼女を退けられるかもしれないと僕に希望をチラつかせて、逃げられないようにしてから痛め付けて殺すつもりなのだ。
見え見えの魂胆だ。だが、
「…………」
ステファを見る。イタチを、三護を理伏を見る。皆、未だに起き上がれない。僕が彼女達を見捨てて逃げれば、『膨れ女』に皆殺しにされるだろう事は予測出来る。
逆に僕が戦えば、その間に彼女達は復活出来るだろうか。そして、僕が『膨れ女』を引き付けている間に逃げてくれれば――
『――しかし、貴方は賢明ですね』
『私に挑まない事ですよ。実力差を認め、自棄にならない。なかなか出来ない事です』
『勝てない戦いに挑むのは無謀ですらねー。ただの命の無駄遣いだ。戦略的撤退も選択肢の一つだぜ――』
「――は。うるせーよ」
あの時と今とでは状況が違う。従っていれば生き延びられたあの時とは違う。戦わなければ生き残れない。皆が生きて帰れない。今はそういう時間だ。
「名前を聞いても良いか?」
「『膨れ女』己則天ヨ」
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