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第3章 次鋒戦
第23転 信長の変貌
しおりを挟む第六天魔王。三英傑の一人。尾張の大うつけ。右大臣。
日本で最も有名な戦国武将、織田信長。今や波旬の分霊となった彼は、転生した現代で考える。改めて過去を振り返れば、自分の人生には分岐点は二つあったと。
余人は桶狭間の戦いがそうだと言うだろう。別の者は比叡山炎上こそが分岐点だと言うかもしれない。しかし、信長自身はそうではないと考える。
一つ目の分岐点は弟を殺した時。
弟は奇矯な面のある信長とは対照的に謹直な性格だった。父の葬儀の際、きちんと次期当主を決めずに死んだ父に信長は怒り、仏前で抹香を投げ付けたが、弟は正装をして礼儀正しく振舞った。
父の死後、信長と弟は国を東西に分担・共同して運営していた。しかし、じきに弟は野心を露にし、当主は己一人であると名乗った。謀反である。弟は信長を排除しようと戦を仕掛けたが、信長の方が上手であり、返り討ちにあった。
「ああ……ははは。やっぱり兄上は凄いなあ……敵わないや」
「……当然だ、馬鹿者が。無茶をしおって」
戦国の習わしではたとえ身内であろうと――否、身内であるからこそ一度でも謀反すれば処刑する。生かしておいては危険でしかないからだ。しかし、信長は弟を見逃した。母親が弟の助命嘆願をし、信長がそれを承認したのだ。それこそ馬鹿者と呼ばれても仕方ない程の甘い対応だ。
しかし、弟は野心を消火し切れず、二度目の謀反を企てた。結局、信長は謀反を未然に防ぐ為に弟を殺す事にした。しかも、仮病を装って手元に招き寄せ、騙し討ちするという形で。
その時、何かの枷が外れたのを感じた。
「よくも……よくもあの子を殺したな! お前などもう私の子ではない! 許さぬ、許さぬぞ、信長ぁ!」
母親は破天荒な信長よりも品行方正な弟を可愛がっていた。故に弟を殺した当時、信長は彼女に酷く恨まれた。信長自身も「実弟を謀殺した以上、最早自分に後戻りできる場所などない」――そういう思いがあった。
二つ目の分岐点は比叡山延暦寺を焼き討ちしたその後だ。
一五七三年。比叡山炎上より二年後の某月某日。居城である岐阜城の山頂に信長はいた。畳が敷かれた部屋の中、机の前に座り、書状に筆を走らせていた。
「信長様~、サルめが土産を持ってきましたぞ。尾張産の味噌」
そこに一人の男が訪れた。どことなく猿に似た相貌の、愛想の良い笑顔を浮かべた男性だ。その右手には何かを包んだ風呂敷を下げていた。
「羽柴秀吉か。でかした。一番美味いって訳じゃあねえが、たまに食いたくなるんだよな、地元の味」
「ああ、分かるっス。某もお袋の農民飯が恋しい日がありましてな」
「おう、そういうのだ。……おっと、そうだ。今ちょうどこれを書き上げてな。誤字脱字がないか見てくれねえか?」
信長が書状を男――藤吉郎に手渡す。藤吉郎は笑顔をやや困り顔に変えつつも書状を受け取った。
「手紙っスか? 某、学は全然ないんスけど。こういうのは明智光秀や五郎左衛門に頼んだ方が……」
「いや、あの二人には見せたら怒られそうだから駄目だ」
「アンタ何書いたんだ」
藤吉郎が眇める。とはいえ、何を書いたかは読めば分かる話だ。自分で見た方が早いと藤吉郎は書状に目を落とす。
「ふむふむ。あー、これ、この間の信玄公への返書っスか。特段誤字もないですし、変な言葉を使っている箇所も……いや、ちょっと待って。何スか、この最後の『第六天魔王』って。何これ?」
藤吉郎が指差した先、書状の署名の部分には「第六天魔王信長」と書かれていた。
「信玄公めがこういう挑戦をしてきたんでな。乗ってやったまでよ」
信長が別の書状を取り出す。それは先日、甲斐国の大名・武田信玄から送られてきた挑戦状だ。比叡山延暦寺を焼き滅ぼした事を理由に信長と敵対するという旨の内容だ。その署名の欄に武田信玄はこう書いていた。
「『天台座主沙門信玄』……あのオッサンもなんちゅー思い切りの良い真似を……」
天台宗は仏教の宗派の一つである。比叡山延暦寺は天台宗の総本山。天台座主は延暦寺の長である事を示す称号で、沙門は仏教徒である事を意味する言葉だ。つまり武田信玄は「自分は天台宗を統べる者だ」と言ってきているのだ。
しかし、実際には武田信玄は天台座主ではない。比叡山焼き討ちにより甲斐国に亡命してきた天台座主・覚恕法親王を保護こそしているものの、天台座主そのものではないのだ。
「これはつまりアレっスか。信玄公は挙兵の大義名分に仏教を利用しようとしていると」
「だろうな。あいつは前々から仏教の支援者を自任して、それを宣伝文句に仏教勢力を味方に付けてきたからな。今も比叡山の僧共があいつの庇護下に集まっていると聞く。延暦寺復興を餌に俺を討ち果たそうっていう魂胆なんだろうよ」
「で、天台座主を僭称して、より一層の喧伝しようと。それに対して信長様は『魔王』を名乗って返した訳っスか」
「そういう事だ」
「はー……こりゃ確かにあの二人には見せられねえっスわ」
あの二人は頭堅いからなあ、と藤吉郎がぼやく。
「しかし、信玄公と明確に敵対となると、どう攻略したもんスかね。何しろあの徳川家康がボロ負けした相手っスからねー……」
「おう。それについては今、『鉄砲三段撃ち』というのを考えていてな。火縄銃を持たせた三人を縦一列に並ばせて、一番前の奴が撃っている間に後ろの二人が準備。順繰りに前に出る事で連続射撃させるって戦術なんだが」
「ほほう、そりゃ面白いっスね。しかし、そうなると大量の火縄銃が必要になるっスね」
「であるな。特殊な戦術だから兵の訓練も必要になるし。まあ、現実に採用するかどうかはまだ検討中だ」
笑う信長に藤吉郎もほくそ笑む。これは次の戦が楽しみだ――戦国武将特有の高揚が二人の心中に火を灯していた。
「まあ某はいいと思いますよ。あ、手紙は特におかしな所はなかったス」
「であるか。じゃあ、こいつを届ける手続きをしといてくれ」
「うっス」
藤吉郎が部屋から退出する。彼がいなくなった後、「さて、鉄砲三段撃ちの構想をどうするか」と信長が机の前に戻った、その時だった。
『――興味深い人間だな。我が名を名乗るか』
虚空から声が聞こえた。
「……誰だ、てめぇ?」
信長が鋭い目で声の主を探す。だが、幾ら目を凝らしても部屋には自分以外誰もいない。ただ部屋の中に何かがいる気配は感じる。重厚なる存在が空気を圧迫している。
『だが、警戒が足りぬ。我が名はみだりに唱えるものではない。覚悟なく呼べば禍を招く』
「誰だって訊いてんだ。答えろ」
『我は「魔縁」――第六天魔王波旬なり』
何かが名乗った直後、部屋が闇に包まれた。煙ではない、霧でもない、得体の知れない漆黒が部屋を埋め尽くしていた。
『心せよ。魔王を装いて戯れなば、汝、魔王となるべし』
一面の黒が信長に全て押し寄せる。突然の怪異に信長は碌に悲鳴を上げる事もできず、黒に飲み込まれた。
◇
しばらくして、一人の男が部屋を訪れた。生真面目で神経質そうな男だ。障子の前に膝を突きながら恭しく頭を下げている。
「信長様。秀吉殿から味噌を受け取ったそうですね。食べるなとまでは言いませんが、あまり食べ過ぎると塩分過多で脳の血管が切れると、何度も注意し――……」
顔を上げた男は絶句した。絶句した理由は自分でも分からない。だが、部屋の中に座る自分の主――織田信長にどうしようもない違和感と恐怖を覚えたのだ。人外の物の怪と遭遇してしまったかのような心境に陥ったのだ。
「おう、どうした? 明智光秀」
「い、いえ……」
しかし、それを指摘する訳にはいかない。主の見た目はいつもと変わりない。ただ自分が恐怖に襲われたからといって、明確な理由もなく口に出す訳にはいかないのだ。
しかし今、一瞬ではあるが主を取り巻く形で、巨大な黒い蛇のようなものが彼には見えたような気がしてならなかった。
『魔縁』第六天魔王信長波旬、融誕――――。
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